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2007年11月23日 (12:48)

差異とMedia Point:超越性と同一性

以下の話はおもしろい。ドゥルーズは、超越性を否定して、すべて内在性(連続性)で説明したいのである。
 また、esseとessentiaの事柄であるが、これは、ハイデガーの存在論とも関係するが、PS理論からいうと、esse以前、Media Pointがあるのである。esseとは、Media Pointが同一性の志向性を開始した始点ではないだろうか。そうならば、内在性の哲学となり、超越性は否定されるのである。後で再考したい。

*******************************

上巻の最初のほうで、「存在の一義性」をめぐってスコトゥスの話が出てくる。トマス派の「存在の類比」(神と人間の存在の間に絶対的な溝があるというもの)は表象=再現前化の側にあるとされ、それに対してスコトゥスのいう「一義性」こそが、逆説的ながらヒエラルキーの一種「無効」を宣言している点で、一種アナーキーだというわけだ。山内志朗氏がこの点に異を唱えていたわけだけれど、それによると、その下敷きになっているスコトゥス像は、エティエンヌ・ジルソンにあるらしい。実際、『存在と本質』(Gilson, "L'être et l'essence", Vrin, 1948-2000 )などでは、スコトゥスはesseとessentiaの区別をそもそも認めず、essentiaはesseの様態の一つにすぎないとして、まさにesseの汎用論のようなことを提唱したのだ、と主張するスコトゥスへの注釈者の言が紹介されている。esseは、アヴィセンナをベースにトマスが論じるような、後からessentiaに加わるもの(そうして個別が存在するようになる)ではなく、むしろessentiaに先行し、その個別のessentiaを esseの現実態が規定する、というような話になっている。これはまた、個別化(個体化)が、種差などよりもはるかに一義的であるという話にもなるわけだ。このあたりを敷衍(というか換骨奪胎というか)すると、ドゥルーズのいう個体化の先行性・根源性という話につながっていく。で、『差異と反復』では、後半(第5章:文庫版では下巻 )にいたって、シモンドンの個体化論を引き受けてさらに一般化されていく。
http://www.medieviste.org/mediolog/archives/2007_11.html#001029
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2007年03月22日 (13:48)

ドゥルーズによるフッサール哲学批判の問題点:実数軸空間のメディア・ポイントと疑似特異性

『意味の論理学』(上巻)の「第14セリー 二重の原因性」の「フッサールの理論」の節を全文引用したいが、余裕がないので、ドゥルーズのフッサール哲学批判の要諦の箇所を、とりあえず、引用しておきたい。

《フッサールは発生のことを考えてはいるが、必然的に「パラドックス的」で厳密に言えば「同定可能ではない」(自己同一性も自己自身の起源もない)審級から出発するのではなく、反対に、任意のすべての対象の同一性を説明する任務を負わされた常識[=共通感覚器官]なる根源的能力と、任意の対象の限りない同定の過程を説明する任務を負わされた良識[=良き方向]の能力から出発するのは明らかである。このことは、フッサールのドクサ(doxa)の理論からわかる。そこでは、信憑のさまざまな様式が、ウアドクサ(Urdoxa)[=根元ドクサ]に応じて産出される。ウアドクサは、特殊な能力に対して共通感覚の能力として作用するわけである。 
     ・・・・・
・・・少なくとも暫定的にドクサの特殊な内容や様態と絶縁しなければ哲学たりえないだろうと感じておきながら、ドクサの本質的なものを、言いかえるなら、ドクサの形態を保存して、「根源的」と称される思考のイマージュの中での経験的でしかない行使を、超越論的なものにまで迫り上げて自己満足するような哲学が哲学であろうか。 
     ・・・・・
超越論的主観の位置の中に、表出の次元すべても持ち込まれるのである。この超越論的主観は、人格の形態、人格的意識の形態、主観の同一性の形態を守り、超越論的なものを経験的なものの特徴から転写して自己満足する。カントが心理的総合から直接的に三つの超越論的総合へと推論するときに歴然としていたことは、フッサールが知覚的「視」から出発して根源的で超越論的な「見る」を推論するときにも依然として歴然となる。》pp. 178~179 (尚、本書の傍点を下線に変えてある。)

この箇所に、ドゥルーズによるフッサール哲学批判の根本があると言える。

先にも触れたように、PS理論では、超越性⇒現象性の志向性を説くのである。これは、超越性⇒メディア・ポイント⇒現象性(T⇒MP⇒P)と言い換えることもできるだろう。

フッサール現象学は、ノエシス⇒ノエマ→対象と書くことができるだろう。⇒は志向性である。→はメディア・ポイントから現象性への転化である。

PS理論に当てはめれば、ノエシス⇒ノエマの⇒がメディア・ポイントになっていると言えよう。だから、正しく書き換えると、

(ノエシス*ノエマ)⇒対象  (*は、メディア・ポイント)

となるだろう。そして、対象は+1の同一性である。

だから、さらに書き換えると、

(ノエシス*ノエマ)⇒同一性(=+1)・・・(1)

である。

【問題点として、*と⇒の関係があるだろう。端的に、*がメディア・ポイントであり、⇒は、メディア・ポイントから現象化へのエネルゲイアであると言えよう。メディア・ポイントには、デュナミスがあるのだろう。そして、現象性はエンテレケイアである。

余談ながら、アリストテレス哲学の地上性を批判するのではあるが、いわば、トランス・モダン・プラトン哲学(PS理論)において、アリストテレス哲学の主要な概念が使用できるというのは、アリストテレスが、無意識的に、プラトン哲学を補足していたと言えるのではないだろうか。即ち、プラトン哲学が本来もっているエネルギー論をアリストテレスが展開したと言えるのではないだろうか。さらに、因みに言えば、ニーチェはプラトン哲学を批判したが、しかし、ニーチェの動的な理論は、やはり、イデア論的動態性を引き継いでいると言えよう。また、さらに言えば、東方キリスト教神学の「神のエネルゲイア」論も、プラトン/アリストテレス哲学をキリスト教に適用したものと言えよう。そう、ここには、キリスト教の問題がはしなくも現れている。いったいキリスト教とは、イデア論の信仰化ではないのか。】

以上の(1)の図式から、ドゥルーズによるフッサール哲学批判を見ると、ドゥルーズは、フッサールが現象の同一性を超越論性に持ち込んだとして、糾弾しているのである。

しかし、(1)の図式から、そうではないのは、一目瞭然である。即ち、フッサールは決して、同一性を超越論性(超越性)に持ち込んではいないのである。

⇒には、不連続的な切断があるのである。メディア・ポイントにおける超越性と現象性(同一性)との切断があるのである。これを、ドゥルーズは完全に看過・無視して、⇒の左辺と右辺と等価に見て、フッサール現象学を独断・専断的に裁断しているのである。

これは、先にも述べたが、ドゥルーズの根本的な勘違い・錯誤・誤謬である。

問題は、何故、ドゥルーズが両辺を等価にしてしまったのかである。

それは、端的に、ドゥルーズがフッサール現象学のエポケー理論、現象学的還元理論の不連続的切断性を理解できなかったからではないだろうか。現象性からの切断としての超越論性(超越性)をフッサールは説いたのであるが、その切断をドゥルーズは理解できなかったと考えられるのである。

その不連続的な切断が理解できなかったので、ドゥルーズは、両辺を等価にしてしまったと考えられよう。

そして、フッサール哲学の歪曲・捩じ曲げ・誤解による、錯誤的批判が生じたと言えよう。

そう、不連続的切断が理解できなかったというのが、致命的である。(実は、ハイデガーもこれを理解できなく、やはり捩じ曲げてしまったのだ。)

この無理解の根因は、ドゥルーズが同一性や形而上学性を否定したかったからではないだろうか。

確かに、同一性は近代において、連続的同一性となり、近代科学・技術と資本主義と結合して、たいへんな暴力となっていた。ドゥルーズは(、おそらく、デリダもそうであろうが、)、連続的同一性の否定を目指していたと言えよう。そのため、差異を提起したのである。そして、それが、ドゥルーズの超越論的差異=超越論的特異性である。しかし、それは、非人称且つ前-個体的な特異性である。

しかしながら、不連続性を理解できないということは、当然、連続性の思考空間にあることである。だから、連続性空間内において、ドゥルーズは差異=超越論性=非人称且つ前-個体的な特異性を提出したと考えられるだろう。

これが、端的に、差異=微分=特異性というドゥルーズ哲学の核心の一つになったと考えられる。

連続空間内で、同一性を否定して、差異を提起するなら、確かに、同一性に結びつく人称性や個体性を否定せざるを得ないだろう。

しかしながら、ここで、自己矛盾が生じているのである。即ち、とっくに既述済みだが、連続的差異=特異性という矛盾が発生することである。

連続空間内だから、差異は連続的なのであり、それは、当然、ドゥルーズが否定するのを目指した連続的同一性となるのである。しかしながら、他方、連続的同一性を否定すべく特異性を提起しているのである。完全な自己撞着に陥っているのである。

これは何を意味するのだろうか。思うに、ドゥルーズが捉えていた「差異」とは、PS理論から見ると、実数軸上のメディア・ポイントに過ぎず、不連続性を意味する虚数軸の次元、超越性を否定したものである。

問題は、同一性の否定の意味である。ここに、最高度に問題の核心があると思う。

デリダの脱構築哲学も、徹底した同一性批判の哲学である。

ここでは何が問題なのか。

上述したが、同一性が近代科学・技術と資本主義の哲学的基礎となっている。この近代主義を否定したい欲求があるのである。

しかしながら、この近代主義の否定の欲求であるが、同一性への反動性があると言えよう。即ち、連続的同一性への反動としての「差異」への志向なのである。

この点が重要点である。即ち、i*-(-i)⇒-1という連続的同一性となった近代合理主義、近代的自我への反動という点である。-iを差異と見るならば、-iのiに対する反動がここにはあると思うのである。即ち、-(i)*(-i)⇒-1である。

*の前の-(i)、これが、ドゥルーズのいう非人称且つ前-個体的な特異性ということではないか。

確かに、iをノエシス、原主体、原知性とするなら、その否定とは、非人称的であり、また、-(i)*(-i)全体では、前-個体的となるだろう。

この反動は何を意味しているのだろうか。

これは、連続空間内部でのメディア・ポイントを介しての、連続的同一性の弁証法ではないだろうか。近代主義は、iによる連続化で、⇒-1となり、ポスト・モダン(ポスト構造主義)は、反動として、-iによる連続化で⇒-1となったのである。

これは、大澤真幸氏のアイロニカルな没入と同義であると言えよう。

(+1)^2と(-i)^2は両者-1であるが、意味合いが異なるだろう。

前者は、近代的合理主義であるが、後者は、反動的身体主義である。

ドゥルーズは、前者をイデアと見て、後者をシミュラクルと見て肯定している。非合理的な身体性による反動である。

これが、ドゥルーズの説く非人称的且つ前-個体的な超越論性=特異性であろう。

確かに、連続空間上であれ、メディア・ポイントを介しているので、超越論性とは言えるだろう。しかし、正確に言えば、連続的超越論性であり、フッサールの不連続的超越論性ではない。(思うに、明快に区別する為に、前者を超越論性、後者を超越性と呼んでもいいかもしれない。)

しかしながら、連続的超越論性を特異性ないし特異点と呼ぶのは、全くの非合理・不合理である。

なぜなら、特異性や特異点は、本来、連続性を破るものであるからである。ここにドゥルーズの致命的誤謬・錯誤があると言えよう。

そう、この連続的超越論性であるが、これは、ハイデガーにも、デリダにも適用できるだろう。また、ベルクソンやホワイトヘッドやパースにも適用できると考えられる。

では、問題は、何故、超越論性がここで問題になるのだろうか。あるいは、何故、現象学ないし超越論的現象学が問題になるのだろうか。

これは、近代主義の終末の事態と関係するだろう。即ち、PS理論から見ると、メディア・ポイントにおけるエネルゲイアの様相が根因としてあると思うのである。

近代主義は、主体による連続的同一性化によって、メディア・ポイントを閉塞させるようにして、近代的自我を形成した。

当然、塞き止められた、メディア・ポイントのエネルゲイアが発動する事象が生起するのである。これが、超越論性の発現と関係すると言えよう。

このメディア・ポイントにおけるエネルゲイアの新たな発動であるが、これは、虚数軸次元=超越次元と実数軸次元=現象次元の両相に関わるのであるが、近代主義においては、前者の様相を否定しているので、近代主義の枠内では、新たなエネルゲイアの発動は、連続空間内の事象として捉えられることになるのである。

真相としては、虚数軸次元=超越次元のエネルゲイアが発動しているのであるが、それを、近代主義の連続空間においては、エネルギーを連続化してしまうと言えよう。

そう、超越的エネルギーを連続空間に閉じ込めたものが、言い換えれば、ドゥルーズの「差異」=特異性と言えよう。

メディア・ポイントにおける新たに発動したエネルゲイアが、連続的に反動化したものが、ドゥルーズの連続的差異=特異性という異様な、自己撞着した概念なのである。

だから、ドゥルーズのいう「特異性」とは連続空間内のメディア・ポイントの「差異」と言っていいだろう。

思うに、連続空間内のメディア・ポイントとは、半特異性とでも言うべきで、真に特異性とは呼べない。

あるいは、隠蔽された特異点である。デリダの言葉で言えば、特異性の痕跡である。

そう、正しく命名すれば、疑似特異性である。つまり、ドゥルーズの差異の哲学とは、疑似特異性の似非超越論的哲学である。

ポスト・モダン、ポスト構造主義は、疑似特異性を中心にした、近代的同一性への反動としての連続的差異論であったと言えよう。

思えば、ドゥルーズの思想は、神秘主義やオカルティズムと同質である。それは、また、グノーシス主義的な二元論である。ルサンチマンの観念なのである。不幸な哲学である。

長くなったが、最後にひとこと言うと、真の超越論的哲学、超越的哲学は、メディア・ポイントの即非化、不連続化を意味するのである。それは、超越的エネルギー、超越的差異即非共振的エネルギーの十全な解放であり、近代主義の真の乗り越えを意味する。トランス・モダン・コスモスの到来を意味するのである。

2007年03月21日 (22:21)

検討課題:ノエマと対象について:ドゥルーズ哲学は、憎悪の哲学である。危険である。

PS理論から見て、単純化すると、ノエシスとは、i*(-i)の内の、iであろう。iが-iを志向するということになるだろう。だから、ノエマとは、-iでいいのではないか。

そして、ノエマの対象であるが、それは、少し複雑になるだろう。

先に、差異-同一性-差異という関係を見たが、これは、言い換えると、

{i*(-i)}/(+1)/{i*(-i)}

となるのではないだろうか。

又は、メディア・ポイントMPを考えて、

MP/(+1)/MP

ではないだろうか。

あるいは、

-1/(+1)/-1

ではないだろうか。

+1としての対象は、差異を超越的に内包しているが、-1としての対象は、連続的同一性であり、差異が欠落しているということではないのか。

しかしながら、本来的には、+1の対象のはずである。これは、差異的同一性である。これがノエマ本来の対象のように思える。

ドゥルーズは、フッサールが対象を同一性に基づいているというようなことで批判しているが、この批判は、正当な批判ではない、錯誤だと思う。

なぜなら、対象は、同一性になるからである。例えば、原リンゴの差異(超越的差異共振性)があるとしよう。それは、ノエシスi*ノエマ-iである。つまり、原リンゴ・ノエシスi*原リンゴ・ノエマ-iである。

この原リンゴという差異は現象化して、リンゴという同一性になるのである。もし、対象に同一性を認めなければ、狂気である。

ただ、連続的同一性か差異的同一性かの違いはあるが、どちらにしろ、対象は同一性である。

例えば、眼前にある携帯を、タンス(他者)と言ったら、生活は成り立たないだろう。携帯は携帯なのである。

この携帯という同一性は否定できないのである。私は、これを仮象ということも問題だと思っている。

眼前の対象を仮象とするのは、なにか、直感に反している。

現象と呼ぶのは、適切だと思うが。

とまれ、ドゥルーズのフッサール批判は、錯誤であると考えられるのである。

i*(-i)⇒+1は、

超越論的志向性⇒同一性

と言い換えることができるだろう。

これは、超越性⇒現象性とも言い換えることができるのである。

あるいは、超越性MP現象性である。

しかし、ドゥルーズは、フッサールが、言わば、右辺の同一性を左辺に持ち込んでいるとして、最大限にこきおろしているのである。(参照:『意味の論理学』上、p.179)

これは、ドゥルーズの誤りである。超越論的主観性は、超越論性だり、現象性から超越した次元にあるのであり、現象性を超越論性にフッサールは持ち込んではいないのである。

ドゥルーズの勘違いである。

では、ドゥルーズは何を考えているのだろうか。

そう、ドゥルーズはフッサールの超越論性を認めたくないということだと思う。

ドゥルーズは超越論空間に、非人称的、前-個体的な特異性を持ち込みたいのである。ドゥルーズの意図は、自我や理性を持ち込みたくないということだと思う。連続的同一性を超越論的空間に持ち込まないということは正しい。しかしながら、超越論的空間にある差異が、非人称且つ前-個体的な特異性なのかは問題である。

問題は、先にも触れたが、非人称的、前-個体的という形容詞である。

前-個体は、原-個体と先に言ったが、思うに、個体に超越的に内在する特異性のことと考えればいいだろう。そして、この特異性とは、i*(-i)のことである。超越論的ないし超越的差異即非性である。

これを非人称的と言っていいのか。

また、前-個体的と言っていいのか。

ドゥルーズの意図は、自我、即ち、連続的同一性を否定することである。

超越的差異即非性は、自我を否定するという点では、非人称的と言えるが、自己・個を肯定する点では、人称的である。また、連続的同一性としての個体を否定する点では、前-個体とは言えるが、同一性は肯定するので、個体的である。

すると、ドゥルーズの意図する超越論的哲学とは、非同一性哲学であり、現象性を否定するものである。これは、明らかに反動である。一種、グノーシス主義的な反動である。

逆二元論である。

現象に対する憎悪があるのである。

ドゥルーズは自身は、ニーチェに学んだと考えているが、ドゥルーズは、ニーチェが攻撃するルサンチマンの人ではないのか。

ニーチェが否定する背後世界の人だと思う。

現象に正対できていないのである。

どうも、ドゥルーズ哲学は悪である。世俗社会を憎んでいる哲学である。

ハイデガー哲学は、虚栄心・名誉心に突き動かされている、ペテン師的であるが、ドゥルーズ哲学は、ルサンチマンに突き動かされた憎悪の哲学である。

悪魔の哲学である。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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