--年--月--日 (--:--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2008年05月29日 (11:44)

胎生・へその緒とMedia Point:太母と超越神:トランス資本主義と差異的共進化

胎生とは、哺乳類を想起させる。直感では、ここには、生命の本質の「秘密」がある。そう、へその緒がポイントである。英語では、
臍の緒 a navel string; an umbilical cord
である。辞書では、

um・bil・i・cus
1 【解剖】 臍(へそ) (navel).
2 (問題などの)中心点, 核心 (core, heart).
3 【動物】 (巻貝の)へそ穴.
4 【植物】 臍(さい) 《種子の胎座に付着する部分; hilum ともいう》.
5 【数学】 臍点(せいてん) (umbilic, umbilical point).
6 【考古】 (巻物の)軸玉《軸の両端につけられた飾り》.
#《1615》 L umbilicus ← UMBO: cf. Gk omphalos
[株式会社研究社 新英和大辞典第6版]

である。ギリシア語だと、オンファロス(臍)である。
直感では、臍とは、Media Pointである。ならば、へその緒とは何だろうか。神話で言えば、イシス・オシリス神話に関係するし、キリスト教では、聖母子に関係する。
 へその緒とは、臍と同様に、Media Pointの物質・身体的「表現」ではないだろうか。イデアから現象へと展開する際の、要(かなめ)、蝶番であろう。【p.s. へその緒は、Media Resonanceメディア共鳴の物質的表現というべきだろう。】
 ここで、考察を進展させるならば、「母」の本体とはイデア・エネルギー(超越エネルギー)である。イデアと言ってもいい。そして、Media Pointを介して、「子」とつながる。これが、アニミズム、シャーマニズム、母権多神教の様相であろう。
 それに対して、父権一神教(超越神宗教:この方が適切ではないだろうか)は、これを、一端、切断するようであり、切断する主体が、超越神である。Media PointにおけるMedia Resonance(メディア共鳴)を排除的に否定するのである。
 以前述べたが、超越神とは、太母の変形ではないだろうか。太母の変形として、有り体に言えば、太母の1/4回転として、超越神が存するのではないだろうか。つまり、原宗教(母権宗教)は、本来、ゼロ回転ではないだろうか。それが、1/4回転して、父権宗教が生まれたのではないだろうか。この問題はおいておく。
 この1/4回転の力学が、Media Pointの切断を意味するのではないだろうか。そして、それが、また、生物的には、出生ではないのか。
 そう、キリスト教的には、楽園追放である。エデンの園からの人間の追放である。これは、精神・生物的事実ではないだろうか。1/4回転で、Media Pointが閉ざされるのである。⇒+1の結果の+1である。(だから、これまで、-1として見たものは、+1で表現できていると言えよう。後で、整合化したい。)
 結局、言い換えると、太母が原型であり、超越神は一つの様相ということである。そして、後者の場合、Media Pointは隠蔽されて、壁になるのである。構造主義やポスト・モダンは、ここを問題にしたのである。【そう、また、小説家ハーマン・メルヴィルもここを問題にし、ほとんど、トランス・モダンに近い発想に到達しているだろう(『白鯨』)。】
 超越神では、Media Pointが壁となり、二元論が発生する。超越性と現象性である。お馴染の、西洋の絶対的二元論である。そして、西欧近代は、超越性を否定して、内在的知性を形成してきた。【ほとんど、唯一の例外がフッサールである。カントは先駆的な役割をしたとは言える。】
 結局、東洋文化では、基盤であるMedia Pointに、西洋は接近していたとは言える。西洋哲学が東洋文化に近づいたのである。そして、東洋文化、日本文化は、逆に西洋哲学に接近して、 Media Pointを哲学化する努力がなされたのである。鈴木大拙の即非の論理、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、等は、その成果である。
 問題は、超越神文化において生じた絶対的二元論を新たに乗り越えることなのである。これが、ポスト近代の思潮・趨向である。
 そう、イデア・エネルギーの発現方法が問題なのである。以前の私の作業仮説に戻るが、イデアの回転が本来的にあると思われるのである。ある1/4回転に対して、さらなる1/4回転が生起する。これで、新たにMedia Pointが開くと考えられるのである。
 結局、人間の心身(精神的身体)は、Media Pointを基礎に形成されていると考えられるのである。そして、1/4回転に対して、マイナス1/4回転の反作用がはたらき、回帰するのではないだろうか。つまり、絶対的二元論と差異共振性が交互に生起するのではないだろうか。言い換えると、同一性と差異との交互変換である。
 すると、同一性エネルギーが主導のときと、差異エネルギーが主導のときが存するのである。西洋文明は、ユダヤ・キリスト教文明なので、前者が主導的なのであるが、二重性の文化であり、無意識においては、差異エネルギーが存しているのである。同一性主導であるが、同一性と差異の二重性・分裂性をもっているのである。
 私見では、今日、マイナス1/4回転が発動しているのであり、差異エネルギーが賦活されているのである。しかしながら、人間の意識は、同一性に留まっているので、賦活された差異エネルギーを受容することができずに、排除・隠蔽しているのである。そのために、無意識のエネルギーとなり、非合理主義的なエネルギーとなって、いわば、今日現代の人間・人類を襲っているのである(戦争、犯罪、病気、等)。
 つまり、新たに、Media Pointは開いているが、人間の意識は、近代合理主義/近代的自我の二元論に留まり、開いたMedia Pointから発動する差異エネルギー(差異共鳴エネルギー=イデア・エネルギー=超越エネルギー)の現前・現象に対して、無力なのである。排除したり、隠蔽したりするが、存在するものを排除したり、隠蔽するというのは、無理なことであるので、病理的なのである。
 そう、今日・現代、差異エネルギー=差異共鳴エネルギー=イデア・エネルギー=超越エネルギーは賦活され、発現しているのである(聖霊の時代)。
 これに対する反動が起きているのである。とりわけ、現代日本がそうである。国家主義経済の反動であり、近代主義の反動である。この反動は、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」で説明できよう。【同一性意識と差異無意識の分裂があるが、後者が主導的になっているので、その過剰性から、ショートを起すのである。つまり、同一性による連続性があるので、両者はショートしてしまうのである。】
 グローバリゼーションは、この差異エネルギーの能動と反動の両側面があるのかもしれない。だから、新しい経済とは、差異エネルギーを能動積極的に取り入れる経済と言えよう。これは、同一性主義を乗り越えるので、脱資本主義になると思われるのである。つまり、同一性資本ではなくて、差異資本が発生するのである。差異資本を積極的に発展すべきなのである。【これまでの資本主義が同一性に拘束されていたとするならば、新しい経済は、差異資本主義としての脱資本主義である。差異資本とは、物質資本、貨幣資本を包摂した精神資本、精神的身体資本と言えるだろう。Media資本ないしはMedia Point資本と言えるのではないだろうか。ならば、Media 資本主義、Media Point資本主義である。】
 これは、経済だけでなく、政治もそうならなくてならない。差異共振政治である。結局、今日現代、人類は、差異共振進化のエポックを迎えていると言えよう。大進化の時代である。あるいは、新たな大洪水の時代である。黙示録的時代である。

化石:3億8000万年前のへその緒、最古の胎生化石 豪の研究チーム、新種の魚発見

 約3億8000万年前の地層から、人間のように赤ちゃんを産んでいた新種の魚の化石を、豪ビクトリア博物館などの研究チームが発見し、29日付の英科学誌ネイチャーに発表した。さい帯(へその緒)とつながった胚(はい)(受精卵)が初めて確認され、脊椎(せきつい)動物で交尾-出産が行われた最古の記録となる。

 発見された化石は2種類で、初めてあごに骨を持った魚類の仲間「板皮(ばんぴ)類」に分類される。約3億年前に絶滅したとされているが、このうち1種類は新種だった。

 研究チームは、西オーストラリア州のデボン紀(4億1600万~3億5920万年前)の地層で発見されたこの化石を調べた。顕微鏡で精査すると、新種の魚の子宮内から胚とさい帯、卵黄の痕跡が見つかった。もう一方の既知の魚の体内からも3個の胚を確認した。

 交尾によりメスの体内で卵子と精子が受精し、成長後に赤ちゃんとして体外に出る繁殖は胎生(たいせい)と呼ばれる。従来の最古の胎生化石は中生代の爬虫(はちゅう)類で、研究チームは記録は約2億年さかのぼったと分析する。【田中泰義】

毎日新聞 2008年5月29日 東京朝刊

http://mainichi.jp/select/science/news/20080529ddm041040101000c.html


ギョギョ!?へその緒残る古代魚化石 「胎生」起源、2億年遡及
2008.5.29 07:55
発見された化石を元に作成された、魚の出産の想像図(ビクトリア博物館提供) 発見された化石を元に作成された、魚の出産の想像図(ビクトリア博物館提供)

 へその緒(臍(さい)帯(たい))で母子がつながった約3億8000万年前の古代魚の化石が、オーストラリア西部で見つかった。母体内である程度まで子供を成長させてから出産する「胎生」が確認された最古の脊椎(せきつい)動物となる。同国のビクトリア博物館の研究者らが、29日発行の英科学誌「ネイチャー」に発表した。

 見つかった化石は、板(ばん)皮(ぴ)類と呼ばれる絶滅した魚類の1種で、全長約25センチ。発見場所はオーストラリア西部の古生代・デボン紀後期の地層。

 化石は保存状態が良く、体内に臍帯とつながった胎仔(たいし)、栄養をためる卵黄嚢(のう)が石化した痕跡などが残っていた。現代のサメやエイの一部と同様に、母体から胎仔に直接栄養を供給する「胎生」の生殖機能を備えていることが分かった。

 今回の発見で、脊椎動物の胎生の起源は、これまでよりも2億年ほどさかのぼることになる。
このニュースの写真
発見された化石を元に作成された、魚の出産の想像図(ビクトリア博物館提供)
オーストラリアの約3億8000万年前の地層から見つかった魚の化石の一部。へその緒や子の骨が見られる(ビクトリア博物館提供)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080529/acd0805290758002-n1.htm
スポンサーサイト

2007年09月07日 (20:14)

『パイドン』のイデア論について:プラトンとプラトニック・シナジー理論

古典とは、二種類あるのではないだろうか。現代の視点から、余裕をもって読めるものと、現代的視点に対して、挑んでくるものとがあるのではないだろうか。
 プラトンの中期の著書『パイドン』は後者である。ここでは、魂の不死と不滅について、ソクラテスが鋭く論じている。刑を受け、毒杯を飲む直前のソクラテスである。
 とまれ、ここでは、魂の不死と不滅に関わるイデア論について、少し考察したい。
 「大」なら大そのものであるイデア。絶対的な超越的存在である。このイデアを、プラトニック・シナジー理論から考えたらどう究明されるだろうか。
 それは、当然ながら、虚軸の超越性を指すだろう。それがイデアである。興味深いことは、その著書で、イデアの分有という概念が述べられていることである。ある事物がイデアを分有するということである。これは、同一性=現象を超越的差異がMedia Pointにおいて包摂するということで説明ができるように思える。例えば、ある建物が建物のイデアに分有されているということは、超越的差異が Media Pointにおいて、ある建物を包摂しているということだと思う。
 また、『国家』において現われている輪廻転生の思想は、ここにもあるが、『国家』により、悪をはたらいた者に対する懲らしめの発想が中心になっていると思う。輪廻転生からの脱出を主に説いているのであり、仏教と似ていると言えよう。
 そう、先にも述べたが、プラトニズムと仏教は、世俗的なものを否定して、超越界へと回帰することを説く点では共通である。
 ここで私なりに、PS理論を考えると、それは、プラトニズムと仏教の原理主義ではなく、超越的差異=イデアが同一性を包摂しているので、同一性=現象に対しては、それとしては肯定的である。だから、大乗仏教的なのかもしれない。もっとも、分有という考えは、同一性=現象を肯定しているように思えるのである。
 しかし、徒に、同一性=現象を肯定するのは、日本仏教のような現世肯定主義に陥りやすいだろう。つまり、いったん同一性=現象を肯定すると、諸欲望が肯定されて、物欲・金銭欲・情欲等によって、知性や精神性が曇らされると考えられるからである。(これは、ルネサンスの問題でもある。)
 結局、同一性と倫理・道徳の問題でもある。今日問題となっている年金問題であるが、それは社保庁や厚労省や自治体等の同一性主義自我に根差しているとは言えるのである。
 差異は同一性を包摂(分有)すると言ったが、これはそのような危険な面がある。同一性欲望をどうするのか、である。基本は差異であり、差異原理主義で行くべきである。もっとも、差異が同一性を包摂していることを忘れてはいけない。

2007年08月21日 (20:33)

イデア界の均衡が破れる原因とは何か:なぜ、イデアは、エネルゲイア化するのか:試論1

三島由紀夫の阿頼耶識論について考察しているうちに、これまで伏してきた根本的問題に考えが向いたので、ここで考察してみよう。
 すなわち、なぜ、イデアはエネルゲイア化して、現象化をもたらすのかである。ひょっとすると愚問かもしれないが、これは答えないわけにはいかないだろう。
 i*(-i)がどうして、⇒化して、⇒+1になるのかである。三島の言うように、道徳的要請であると言っても、力学的には説明には、当然ならない。さきほど、私が頭の中で考えていたことをここで述べよう。
 結局、他者(差異)への志向性(フッサールは、これを、単に同一性意識的志向性に限定してしまったと考えられる)がエネルゲイア(Media Point)ということであるが、イデア界において、どうして、他者への志向性が発生するのかである。
 すこし比喩的に言えば、死の世界、涅槃、他界、彼岸、あの世において、どうして、生への世界への志向が発生するのかである。そう、先ほど、私は、イデア界とは、ユング心理学で言われるウロボロス様態にあるのではないかと思うのである。ウロボロスとは、自分の尾を口にくわえた蛇のことである。円環・循環様態である。(そう言えば、三島由紀夫は、晩年のエッセイで、ジェット機に乗ったときの経験で、地球を取り巻く巨大な蛇が幻視(透視)されたと述べていたが、それは、ウロボロス様態であったことを述べていた。)
 ウロボロス様態とは、自己と他者とが、いわば、円環を形成して、裂け目がない状態である。ある意味で双子の様態であろう。これは、対称的であり、破調がない。いわば、「わたし」は同時に、「あなた」である。即非様態ではないのではないだろうか。即非とは、Media Pointにおいて、生起するのではないだろうか。思うに、前・即非様相ではないのか。言い換えると、即非未分の様相ではないのか。つまり、即非まで分化していない様相である。一元論でも、多元論でもない様相ではないだろうか。一と多とに分化する以前の未分化様相ではないだろうか。
 以上の考えは間違っているかもしれない。ウロボロスは、Media Pointにおける連続様相において、表象されるものというようにも考えられないことはないだろう。
 発想を変えて、ガウス平面での円を考えた方がいいのかもしれない。即ち、オイラーの公理である。結局、ガウス平面の円がイデア界とMedia Pointと現象界を現わしていると言えよう。
 だから、i*(-i)とは、その円(とりあえず、複素円と呼ぼう)におけるなんらかの力学を意味しているのではないだろうか。複素円において、点、すなわち、対になる不連続点が回転しているとしよう。すなわち、iと-iとは、回転力をもっているということになる。つまり、イデア界は、本来、回転力をもっているということになる。それが、Media Pointを形成するということではないか。だから、例えば、左回転する力をもつとすれば、このとき、1/4回転して、-1と+1とが生起する。これが、現象界であろう。そして、さらに、1/4回転すると、イデア界になるが、いわば、逆イデア界である。-iとiのイデア界である。そして、さらに、1/4回転して、+1と-1の現象界となるが、これは、逆現象界である。そして、さらに1/4回転(一回転)して、もとのイデア界に回帰する。
 どうも、例えばであるが、以上のように、回転力をイデアに仮定した方が、首尾一貫するのではないだろうか。

2006年09月20日 (13:21)

ヴィジョン、美、光に関して

今日、電車の車内で、思った。
美とは、私の内奥にあるのだ。それを、外的他者に投影しているのだ、と。そして、帰途の道路を渡りつつ、光は、やはり、内なる光の、いわば、表皮として、存すると。

やはり、プラトンの考えは正しいのだ。イデア界があるのである。しかし、このイデア界は、DDPS理論では、メディア界・差異共振界の「イデア」である。形容すれば、宝石のような「イデア」である。あるいは、零度共振シナジーとしてのイデアである。ここで、明快に区別した方がいいだろう。イデア界のイデアは、プロト・イデアであり、メディア界・差異共振界のイデアは、シナジー・イデアないしメディア・イデアである。より分かりやすくするために、後者を単にイデアと呼び、前者をプロト・イデア、祖イデア、原イデア、等を呼ぼう。そうすると、プラトンのイデアと、一致する。これは、光り輝くイデアである。阿弥陀如来の光と共通しよう。
 しかし、この光は、当然ながら、現象の光ではないのだ。このイデアの光を、人間は、肉眼では、現象の光と知覚すると思うのである。(ここでは、理論的というよりは、直観で述べたい、というか、私の直観経験から述べたいと思う。)
 思うに、人間、主体の内面に、イデアの光があるのである。イデアの光線があるのである。そして、これは、また、コスモスの光でもある。ダンテの天上の光は、これであろう。
 問題は、このイデアの光と現象界の光の関係である。わかりやすくするため、イデアと現象光と呼び分けよう。直観で言えば、イデア光が現象光に終極化しているのであるが、イデア光すべてが、現象光に変じているのではない。思うに、イデア光を感じない鈍重な人は、すべてが現象光であると認識するだろう。しかし、繊細な感覚の人は、内面のイデア光が現象光に投影しているのがわかるはずだ。これは、正に、プラトンの洞窟の比喩に相当するだろう。そう、洞窟外の善のイデアである太陽とは、イデア光のことだろう。では、洞窟内の火や人形は何だろうか。思うに、それが、超越境界である構造である。超越論的同一性構造であると思う。これが、洞窟のスクリーンに投影されて、仮象を「幻燈」させているのである。
 そう考えると、プラトンは、今からおよそ二千五百年前に、脱構造主義を説いていたことになるだろう。不連続的差異論の真正の先駆者としてのプラトンであろう。あるいは、プラトン哲学の真正の継承としてのDDPS理論である。つまり、整理すると、


洞窟の比喩2


《プラトンの洞窟の比喩》

1.善のイデア(洞窟外の太陽)/2.洞窟内の火と人形/3.洞窟のスクリーン上の影像(仮象)


洞窟の比喩3


《DD/PS理論(不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論)》

1.イデア光(零度差異共振シナジー)/2.超越境界同一性構造/3.現象界


洞窟の比喩


両者の1~3は対応するのであり、さらに、不連続的差異論の構成にあてはめると、1はメディア界であり、2はメディア/現象境界であり、3は現象界である。
 ここで、思うに、1の領域は、倫理の領域であると同時に、美の領域であり、また、真の領域である。正に、真善美の領域である。(思うに、ヌース理論の半田氏がヴィジョンで見たものは、1であろう。しかし、半田氏は、1と2との混同して、1の善のイデア=イデア光を、量子力学の光子ないし素粒子として、唯物論化しているのである。目覚めよ、半田氏! 換言すると、半田氏はドゥルージアンであり、差異=微分の連続・同一性の仮象を、真実在と幻想しているのである。「ポストモダン」なのである。)
 1の領域は、何度も既述したように、仏教の光と重なると言えよう。そして、私見では、ゾロアスター教の光と重なるのである。しかし、これも、既述だが、キリスト教の光は、これではないと思う。これは、2か3と思うのである。
 さて、最初の問題に戻ると、私が車内で、構内で、美しい女性を見たとしよう。この美は、実は、その女性の美というよりは、私の内面のイデア光が照らし出した美なのであり、本来の美は、私の内面のイデア光にあるのである。その女性の美とは、仮象に過ぎないのである。その美しい女性は、イデア界の美を示唆していると言えよう。いわば、イデア界の象徴である。ここで、ついでに言えば、ネオ・プラトニズムで、天上のヴィーナスと地上のヴィーナスの区別をするが、これは、私が今述べたことと重なるだろう。車内、構内の美しい女性は、地上のヴィーナスであるが、真実在は、天上のヴィーナスなのである。つまり、言い換えると、後者の投影としての前者、つまり、天上のヴィーナスの投影としての地上のヴィーナスということである。(参考:
http://lib.seisen-u.ac.jp/library/collection/c_venus.htm
http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/text/yomi/1220014_1.htm
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~ssuzuki/ClassLecture/Matriachy_Myth_Hyuga_Transformation_Venus.htm
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/botticelli_venere.html
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/060225.htm
http://72.14.235.104/search?q=cache:Et6XbFPlgrIJ:src-home.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no12/02_mochizuki.pdf+%E5%A4%A9%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=13&lr=lang_ja&client=firefox
http://d.hatena.ne.jp/antares/20051203



ヴィーナスの誕生
http://es.wikipedia.org/wiki/Imagen:La_naissance_de_V%C3%A9nus.jpg


http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Primaver.JPG

【私は、ここで、アレゴリー論を少し展開したい。私の中で、アレゴリーと象徴が混淆しているのである。イデア論から見ると、車内・構内の地上のヴィーナスとは、イデア光のヴィーナスの投影である。ここで、地上のヴィーナスにウェイトを置けば、それは、天上のヴィーナスを指し示すものであり、象徴・シンボルである。しかし、天上のヴィーナスにウェイトを置けば、地上のヴィーナスは、アレゴリーになるだろう。そうならば、アレゴリーと象徴・シンボルの相違は、視点によるだけであり、一致すると言えるのではないだろうか。】
 では、イデア光とは、何であろうか。これと現象光の関係は何だろうか。これも、既述したが、同一性形式を経て、イデア光が現象光になるのだと思う。この同一性形式が、アインシュタインの光速度一定を意味するのではないだろうか。すると、イデア光は、当然、無限速度であろう。図式化すると、

イデア光→同一性形式→現象光

である。零度差異共振シナジーの同一性形式が相対性理論ではないのか。思うに、同一性形式とは、カントの超越論的形式と一致するのではないだろうか。とまれ、これが、超越構造形式あるいは構造物質形式と言えよう。そう、この同一性が光子なのではないだろうか。E=mc^2 である。すると、イデア光はどうなるのか。それは、数式化できるのか。イデア光は、零度差異共振シナジーであり、無限の原エネルギーである。とまれ、今は、作業仮説的に、イデア・エネルギーと呼んでおこう。イデア・エネルギーが、同一性化して、現象光エネルギーEになると言えるだろう。作業仮説的に、イデア光のメディア平面から垂直の方向に、同一性化があるとして、イデア光のエネルギーをSとすると、Si=E となる。即ち、S=E/i である。
 さて、では、イデア光と太陽はどう関係するのだろうか。推察するに、イデア光の原点ないし中心の現象化が太陽ではないだろうか。あるいは、Z軸、ないし、Y軸虚軸の現象化が太陽ではないだろうか。後で検討したい。

2006年08月02日 (05:58)

わたし」の他者である潜在意識について:「わたし」と特異性:そして、時間について

わたし」の他者である潜在意識について:「わたし」と特異性:そして、時間について
テーマ:自我/個
潜在意識とは何だろうか。それは、「わたし」の主体のようなものではないのか。通常、日常、「わたし」は、五感を介して、現象を知覚・意識している。例えば、誰でも、車が道路を走るのを見て、確認するだろう。車がやってくるのを確認するのは、「わたし」である。潜在意識ではないだろう。
 しかし、この自我である「わたし」とは何か。それは、現在において生成される連続・同一性意識である。しかるに、一瞬の後に、その「わたし」は崩壊して、新しい「わたし」になっているのではないか。時間をtとすれば、「わたし」t1→「わたし」t2→「わたし」t3→・・・ではないだろうか。「わたし」をIとすれば、It1, It2, It3, ..... Itn となる。通常、これらを連続・同一性(同一体)として見ている。つまり、It1=It2=It3=.....=Itn である。問題は時間論となる。差異、不連続的差異の時間論である。
 ここでも、直観で考察しよう。「わたし」は瞬間、瞬間、他の差異と「出会って」いる。他の差異をOd(Other difference)としよう。すると、

It1-Odt1→It2-Odt2→・・・→Itn-Odtn    (1)

となる。簡潔にして、

(I-Od)t1→(I-Od)t2→・・・→(I-Od)tn     (2)

となる。これは、いわば、ノエシス/ノエマの時間論である。差異としてのノエシス/ノエマの関係である。これらは、不連続的差異だから、本来は、不連続な「結合」をもつ。つまり、不連続的時間の継起である。零度差異共振シナジーから、それらが、連続体に見えるのである(仮象)。「わたし」は、本来、不連続的差異の「意識」(おそらく、潜在意識である。無意識という用語は、精神分析の用語になっているので、できるだけ使用しないことにする。ミスリーディングだからである。)である。不連続的差異意識が連結して、連続・同一性の自我を形成(仮象)していると考えられる。だから、自我は幻想であると言えるだろう。瞬間の幻想である。極限値という仮象である。(そう、問題は、自我がないとき、倫理はどうなるのかということである。人に害を与えた「わたし」が幻想・仮象であるとすると、責任主体はどうなるのか。思うに、責任主体は、「わたし」、「自我」ではなくて、不連続的差異意識に存するのではないだろうか。つまり、不連続的差異意識とは、特異性であり、特異性として、反復するのであるから、ここに責任主体を置くのは、合理的であろう。特異性自体は不変であるのであり、自我は幻想・仮象であるから、当てにならないものである。【このように考えると、法哲学が変わるのではないだろうか。】)
 さて、以上から、「わたし」=自我が、不連続的差異意識=特異性に還元された。ここで、最初の潜在意識の問題に戻ると、潜在意識とは、不連続的差異意識=特異性と関係していると言えるだろう。しかし、イコールではないだろう。潜在意識は、特異性ではあるえるだろうが、不連続的差異意識とは言えない。つまり、特異性をベースにすると、特異性には、潜在意識と意識との二つがあるということになるだろう。
______________
      |       
      |       
潜在意識 特異性 意識・・・「わたし」→外的他者

      |       
______|_______



特異性=不連続的差異である。
「わたし」の他者がこの特異性である。そして、他者とは、内的他者であり、また、外的他者である。「わたし」の基底に他者=特異性があるのである。それは、いわば、内的他者である。そして、同時に、他者は外部にも存するのである。「わたし」の基底に内的他者=特異性が存するのだから、外的人間は、同様に、外的他者である。つまり、内的特異性が、外的他者を認識するのであるから、当然、それは、外的特異性である。特異性の認識は、特異性としての外的他者の認識になる他はないと考えられるのである。私が、現象界の個物や個体を特異性と呼ぶことの正しさは、この点から証明できよう。
 そうすると、結局、特異性1と特異性2とが出会って、「現実」を構成しているのである。連続・同一性なぞ、どこにもないのである。微分→積分は幻想・仮象である。
 さて、ここで、時間について考えよう。(上図式は、「わたし」と「他者」との時間的継起を問題にしている。I-Odは、特異性の視点からは、 Singular-Other Singularとなるから、S-OSとなる。)時間は、零度差異共振シナジーによって発生しているだろう。イデア界には通常の実時間はないだろう。零度差異共振において、差異連結が発生する。この差異連結エネルギーが時間ではないだろうか。図式化すれば、

差異1ー差異2ー差異3ー・・・ー差異n  (ーは連結)

となる。連結ーが、時間となるだろう。即ち、

差異1・時間・差異2・時間・差異3・・・・時間・差異n

である。思うに、差異共振シナジーの極性が、このとき、本質的だと考えられる。差異連結エネルギーを+の極性とすれば、それとは反対の-の極性がなくてはならない。それは、当然、差異解体(解消)エネルギーと考えられる。【この問題については、不連続的差異論誕生直後、Kaisetsu氏が述べた、エネルギー保存則の視点を適用できると考えられる。差異連結の+エネルギー(正のエネルギー)に対して、バランスを取る差異解体(解消)の-エネルギー(負のエネルギー)が発生すると、保存則が言えるだろう。】
 この極性エネルギーが時間だと言えよう。即ち、零度差異共振シナジー・エネルギーが時間であるということである。ここでは、とりあえず、アインシュタインの公式を使うことにして、E= mc^2(=hν)に、それが記述されているのではないだろうか。時間はエネルギーである光であると言えよう。(ただし、この光は、原光であろう。後で検討したい。)
 とまれ、そう考えると、時間軸は、Y軸・虚軸ではないだろうか。そして、Z軸が、同一性=現象軸ではないだろうか。思うに、現象界において、時間軸・Y軸・虚軸は、言わば、Z軸に折り畳まれているので、不可視なのではないだろうか。折り畳まれていると言っても、仮象である。そう、Y軸・虚軸(=共振シナジー軸、共振軸)は、原光の軸であり、Z軸が光の軸ではないだろうか。相対性理論は、Y軸とZ軸の平面(メディア平面?)の理論であると言えるのではないだろうか。
 では、問題は、どうして、Z軸は、三次元空間に見えるのかであろう。あるいは、時空四次元になるのか。ここでは、思考実験であるが、Y軸が時間軸ならば、X軸、Z軸、そして、第四軸・F軸で三次元空間となる。XZ平面を、知覚平面としよう。それに対して、奥行きを、第四軸・F軸の方向としよう。XZFで三次元となる。これが、また、時空四次元なのではないだろうか。何故、現象界には、時間軸が見えないのかというと、それは、1/4回転で、捩れているからではないだろうか。Y軸が捩れて、Z軸へと折り畳まれているということではないだろうか。そして、Z軸が光軸ならば、光の方向に、隠れたY軸・時間軸があるのではないか。光の方向とは、太陽の方向であろう。そして、太陽からY軸・虚軸が出ているのではないのか。思うに、「内側」に捩れている。そう、「内側」に虚次元を作ればいいのではないだろうか。この虚次元が、時間軸・時間次元であろう。だから、虚時間であろう。そして、これが、虚太陽であろう。黒い太陽である。太陽の「内側」に垂直に捩れて虚次元・虚太陽・虚時間があるのではないだろうか。差異共振シナジーはそこに存するだろうし、コスモスもそこにあるだろう。極論すれば、虚宇宙と言ってもいいだろう。ここが、本当のイデア界かもしれない。これまで、メディア界と呼んできたが。直観では、ここは、球体である。あるいは、円である。プラトンが『ティマイオス』で説いたコスモスの原像はここにあるのではないだろうか。そう、古代宇宙論とは、これを対象としているのではないだろうか。また、占星術も本来、ここを対象としたのではないだろうか。零度差異共振シナジー幾何学があるのだろう。それは、均衡・対称・調和的だろう。
 五芒星であるが、それは、思うに、太陽系の基本数ではないだろうか。そう、思うに、基本数は、いろいろあるのだろう。3であったり、4であったり、6であったりするだろう。結局、零度差異共振シナジー幾何学は、太陽系では、基本数は5を取るということではないのか。基本数5の幾何学である。基本数5のコスモスである。占星術の原点はここにあったのではないか。占星術ないし古代宇宙論の惑星とは、このコスモスにおける「惑星」ではないのか。コスモスの「惑星」とは何か。それは、四大+1=五大的なものではないのか。地水火風空。四元論+一元論=五元論である。これは、また、ピラミッドと関係するのではないだろうか。また、人間の五本の指とも(英語では、four fingers + a thumbである)。イエス・キリストとは、本来、この基本数の象徴を意味するはずであったのではないか。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四人の福音書家は、四大の象徴であり、キリストは、総体の5ではなかったのか。そうすると、仏教の五大と共通する(参照:陰陽五行思想)。そう、結局、太陽系である。あるいは、原太陽系である。イシスや女神のシンボルの♀(金星)であるが、これも五であろう。○と+である。イシスとキリストは一体なのだろう。オシリスとしてのキリストだろう、やはり。日御子である。
 では、イシスとは何か、もし、キリストが5を意味するならば。極言すれば、同一である。イシスとイエスは同一である。太陽ないし原太陽の問題である。おそらく、黒い太陽がイシスであり、その現象がイエス=オシリスではないだろうか。いわば、イシスが奥の院で、イエス=オシリス(=日御子・天皇)が本殿である。(拝殿が、地球であろう。)
 では、月はどうなるのか。月がなければ、生命のリズムはない。潮の満ち引きがない。月が、太陽と地球のバランスを取っているのだろう。月が太陽と地球のメディアだろう。太陽系の基本数5に対して、月は基本数7ではないだろうか。7×4=28日の公転周期である。5+7=12 12も基本数である。ならば、5と7の結婚が、地球ということになるだろう。12月。
 問題は、プラトン年である。25920年(=432×60=3×144×5×12=3×12×12×5×12=3×5×12^3)。3も基本数であるが、それは何を意味するのか。これは、神話的には女神の数である。三女神。三美神である。これは、太陽、地球、月ではないのか。アマテラス、スサノオ、ツクヨミ。
 今は、ここで留めておこう。

2006年04月07日 (20:56)

何回の1/4回転によって現象が生まれるのか:ガウス平面の回転について:西洋文明の消滅期に臨んで

複素平面での1/4回転と不連続的差異論の3層構成との整合性が、私の考えにおける、現時点での、いちばんの難点、難問である。
 先の考察から、問題点は、現象界が発現するのに、1/4回転は何回必要なのかということである。1回?、2回?、3回?・・・。あるいは、観点を変えて、メディア界から現象界が生じるのは、どういう力学によるのか。後者を検討した方が、適切なのかもしれない。
 メディア界は、いわば、多様体の世界である。生成変化の世界である。不連続性と連続性が共存しているとも言える。これは、問題ない。しかし、これが、現象化することは、どういうことなのか。私見では、同一性の構造の力学がはたらいているということである。ならば、メディア界から同一性の発生を解明しないといけない。一番簡単に、図式化して考えよう。

イデア界:差異1⊕差異2(差異1⇔差異2)

メディア界:差異1☯差異2

現象界:差異1=差異2

☯から=への変容の力学をどう見るのかである。
 その前に、ここで説明すると、ドゥルーズ&ガタリの内在平面ないし存立平面とは、メディア界のことだと考えられる。差異が、《離接》している。鈴木大拙の用語では、《即非》である。これは、1回目の1/4回転によってもたらされるだろう。そして、イデア界・複素平面に直交するZ軸を時間軸としよう。これで、単純に、らせん的形状が発生すると言えるだろう。問題は、ゼロ化である。ゼロ化は、Y軸で発生すると考え、X軸でゼロ化が解消すると考えてきた。しかし、問題は《視点》である。最初の1/4回転は、X軸上から見ると、ゼロである。そして、2回目の1/4回転では、Y軸上から見ると、ゼロである。以下同様である。つまり、X軸視点とY軸視点が交互に入れ替わって、ゼロ化が発生して、螺旋形状運動が発生すると言えるだろう。だから、奇数回の1/4回転は、X軸視点、偶数回のそれは、Y軸視点となる。思うに、この2つの視点は、不連続的差異・イデアのもつ垂直/水平志向性によるのではないだろうか。即ち、第1回転では、不連続的差異・イデアの水平的志向性の視点から見ると、ゼロ化・ゼロ度となり、第2回転では、不連続的差異・イデアの垂直的志向性の視点から見ると、ゼロ化・ゼロ度となるのではないのか。不連続的差異・イデアの垂直/水平十字志向性がポイントとなる。 
 この点を精緻に考えてみよう。X軸では垂直志向性と水平志向性があるが、それが、1/4回転して、Y軸上に移動するが、そのとき、X軸上での垂直志向性は、逆に、水平志向性になり、水平志向性が垂直志向性になると言えるだろう。つまり、十字志向性が逆転するのである。X軸では、+の垂直志向性と-の水平志向性がある。これが、1/4回転して、-の垂直志向性と-の水平志向性となるだろう。これが、第1回転である。そして、第2回転の結果、-の垂直志向性と+の水平志向性が生まれる。そして、第3回転では、+の垂直志向性と+の水平志向性がある。そして、第4回転・1回転では、回帰して、+の垂直志向性と -水平志向性がある。図式化しよう。

ゼロ回転:+X軸の垂直/水平志向性:+、-
第1回転:+Y軸の垂直/水平志向性:-、-
第2回転:-X軸の垂直/水平志向性:-、+
第3回転:-Y軸の垂直/水平志向性:+、+
第4回転:+X軸の垂直/水平志向性:+、-   (1回転)

さて、ゼロ化の問題であるが、+X軸において、不連続的差異は水平共立している。しかし、+Y軸においては、不連続的差異の水平共立が解消して、ゼロ化が生起している。しかし、垂直共立は生起しているのである。このことを、+X軸で考えると、垂直共立はゼロ度であり、水平共立は言わば、+である。このことから考えると、これまで、イデア界と呼んだものは、不連続的差異の偶数回転、メディア界は奇数回の回転に関係しそうである。つまり、イデア界とメディア界の交互変換が複素平面にはあることになるだろう。イデア/メディア/イデア/メディア/・・・である。
I/M/I/M/・・・である。しかしながら、これだと、イデア界とメディア界の質的区別がなくなるだろう。イデア界ないしメディア界の変容だけがあるだけとなるだろう。だから、不連続的差異の垂直/水平十字志向性と、不連続的差異の存立性ないし共立性については、区別する必要があるのではないだろうか。後者、存立・共立性は、X軸の事象であると限定すべきなのではないだろうか。そして、Y軸へ回転移動したとき、この存立・共立性が解消して、メディア界的《離接》・《即非》・《絶対矛盾的自己同一》が発生するのではないだろうか。ならば、I/M/I/M/・・・交互変換とは、無(空)と有との交互過程となろう。即ち、無/有/無/有/・・・である。そして、「原軸」の-X軸の不連続的差異・イデアを考慮すると、これは、双対的過程である。双対的生成消滅過程である。
 そうすると、やはり、メディア界的螺旋運動は、言わば、破線的螺旋運動となる。しかし、《差延》が発生するため、連続化のシミュラクルが発現(仮現・仮象)すると言えよう。以上のように作業仮説的に前提を確かにしたので、いよいよ所期の目標である。現象化について検討しよう。
 1/4回転の反復によって、垂直に捩れて、Z軸が生まれる。これを時間軸と作業仮説しよう。問題は、発生するシミュラクル螺旋形状運動が、メディア界なのか現象界なのかということである。直観では、メディア界だと思われる。そうならば、現象界はどこに発現(仮現・仮象)するのか。先にも使用したが、Y軸で形成される《有》的差異をメディア差異と呼ぼう。そして、シミュラクルの螺旋は、当然、メディア差異と考えられるのである。ならば、差異1☯差異2の共振連結多様体である。(推測するに、DNAの二重らせんは、これの現象的発現ではないか。)だから、ここに同一性構造を入れれば、現象化の起因となる。差異1☯差異2の螺旋形状があり、この螺旋に差異1=差異2の同一性構造を入れればいいのだろう。私は、これまで、同一性構造は、1/4回転によって発生すると、長い間考えてきたが、どうなのだろうか。ガウス平面での1/4回転の反復には、私の考えるような同一性構造を発生させる1/4回転はないように思えるのだが。
 思うに、Z軸をどう理解するかである。又は、Z軸の発生の力学をどう見るのかである。これは、垂直の捩れによると考えられる。そう、こういうことではないのか。1/4回転によって、Y軸へ不連続的差異が回転移動するが、同時に、Y軸からZ軸への1/4回転が生起するのではないのか。つまり、一つの1/4回転は、ガウス平面に直交するZ軸の生起を意味するということではないのか。即ち、一つの1/4回転とは、二重の1/4回転、立体的1/4回転であると言えるのではないだろうか。これを作業仮説としよう。そして、このZ軸が、同一性構造の軸となるだろう。Y軸において、不連続的差異の共立とメディア化の「矛盾同一」があった。ならば、Z軸においては、メディア化と同一化の「矛盾同一」が存するだろう。なぜなら、Z軸では、(0,0,z)が発生して、イデア界も、メディア界もゼロ化となるからである。このメディア差異のゼロ化が同一性化である。即ち、差異1=差異2の「=」である。
 従来は、Z軸からさらに垂直の捩れを考えて、P軸を考えたのである。これで、4次元になるのである。しかし、この捩れは発生しないように推測されるのである。だから、Z軸の視点の問題となるだろう。Z軸視点から、メディア差異の螺旋形状を見ると、それは、(0,0,z)あるいは、(0,0,t)である。イデア界は完全に消失している。そして、メディア差異の共振極性であるが、それは、同一性と「矛盾同一」していると言えよう。そして、この「矛盾同一」であるが、ここで、否定性が発動していると考えられるのである。なぜなら、ここでは、Y軸上の「矛盾同一」とは異なり、メディア差異の「ゼロ」・「空」(くう)が、無化されるからである。「ゼロ」とは、有と無との中間態であるが、「ゼロ」の「ゼロ」化によって、無化が発生すると考えられるのである。この無化が否定性である。
 では、現象化はどうやって発現するのか。もう、さらなる垂直の捩れはないのである。Z軸は、不連続的差異論の3層構成から見ると、メディア/現象境界・MP境界と考えられる。現象発現力学は何か。ここで発想を変えて、Z軸の現象面を仮定すると、これが、現象界なのではないだろうか。つまり、Z軸、MP境界が現象界ではないのかということが考えられるのである。ここでは、自然現象の生成消滅が見られるだろう。そう、プラトンの洞窟理論から言えば、洞窟のスクリーンが、Z軸・MP境界となるだろう。ものが仮現・仮象(マーヤ)する面である。
 そうすると、現象界とは、メディア差異と同一性の争闘の領域になるだろう。そう、これが、旧約聖書のヤハウェが自然宗教を迫害するに現れているだろうし、今日では、アメリカの覇権主義を考えればいいのである。
このように考えると、現象界とは、Z軸・MP境界そのものの事象であるということとなるだろう。
 では、西欧近代主義・近代合理主義・近代自我主義を考えると、それは同一性構造のメディア差異に対する勝利と言えるのであるが、それはどう説明されるだろうか。Z軸・MP境界では、「矛盾同一」であり、対立物が並存しているはずではないのか。しかし、これは、Y軸でのイデア/メディア境界でのような、ゼロ度の共存性はないのである。なぜならば、ここでは、いわば、弁証法が生起しているのであるからだ。つまり、暴力・権力である。父権暴力である。発生した同一性は、メディア差異を否定して、暴力化するのである。だから、西欧近代主義とは、Z軸・MP境界の帰結であると言えるだろう。
 そうならば、3層構成を少し修正しないといけないだろう。即ち、
1.イデア界/IM境界/2.メディア界/3.MP境界=現象界である。しかしながら、現象界は、Z軸・MP境界の帰結であるから、やはり、別枠にしてもいいと考えられるから、これまで通りの3層構成でいいだろう。ただし、力学構造を変更することになる。即ち、現象界の発現は、メディア界からの1/4回転ではなくて、メディア界自体の展開によると言える。
 結局、1/4回転を考えると、Y軸への1/4回転とZ軸への1/4回転の、二重立体的1/4回転構造があるということになる。結局、複素平面の1/4回転とは、立体的1/4回転であり、これが、メディア界/現象界を発現・仮現させていると言えるのである。
 では、このような視点から、ポストモダン革命を見るとどうなるのだろう。これは、偉大な進化革命であろう。とまれ、この力学の意味は何だろうか。これは、Z軸・MP境界の超克であるが、どうして、そのような事態となったのか。その起因・原動力は何か。それは、人間の心身は、基本的にイデア界/メディア界/現象界の総体であるからであり、当然、「無意識」において、イデア界/メディア界の《力》ないし《エネルゲイア》を感じるものだからではないのか。しかし、どうして、19世紀末から、この《衝動》が強化されたのか。それは、様々な原因があるだろう。近代主義の恐ろしい害悪が出現したこともあるだろう。それは、外的原因であるが、内在的原因があるだろう。特異性の問題もあるし、・・・。いったい何が根源なのか。人間の探求心とも言えるし、・・・。私が推測しているのは、イデア界の回転の動きである。1回の1/4回転で、1サイクルが発生するだろう。そして、2回目の1/4回転で、その1サイクルが閉じるのである。おそらく、現代は、ユダヤ・キリスト教西洋文明のサイクルの終焉期を迎えているのだろう。つまり、ユダヤ・キリスト教西洋文明の1/4回転がイデア界・ガウス平面で起こり、それが、西洋文明を発生させる。しかし、イデア界はさらに回転を続けて、その1サイクルを消滅させると言えるだろう。そして、3回目の1/4回転で、新文明が発生すると言えよう。そして、4回目の1/4回転でそれが消滅する。こう考えると現代は、2回目の1/4回転で、西洋文明の消滅期であると同時に新しい文明の胎動期であると言えるだろう。つまり、3回目の1/4回転が近づいているのである。あるいは、現代は、4回目の1/4回転を終えて、新しい第1回転を迎えつつあるのかもしれない。この点については後で検討したい。
 このように考えると、西洋占星術等の考え、つまり、大プラトン年の考えを想起するのである。432の数に60をかけると、25920年という大プラトン年が出てくる。これを12で割ると、2160年というプラトン月が出てくる。ここで、ヌース理論を参考にすると、円運動1周するのに、25920年かかるとすると、1/4回転は、6480年である。そして、これを、これが、西洋文明の生成消滅のサイクル年だろう。そして、新しい6480年の文明生成消滅の「アイオーン」に入るのだろう。西洋占星術でいう水瓶座の時代とは、これを示唆しているのではないだろうか。これを三等分割すると、2160年で、いわゆる星座の時代である。魚座の時代が、典型的な西洋文明の時代であったのだろうが、しかし、それは、同時に消滅の時代である。その前に牡羊座の時代があり、その前に、牡牛座の時代があった。牡牛座→牡羊座→魚座→水瓶座であるが、これは、母権・女神の時代(農耕)→父権・超越神の時代(遊牧民)→キリスト教の時代(都市文明)→新叡知の時代(新ガイア・コスモス文明)ではないだろうか。結局、偉大なイデア・コスモスの新たな回転・R・Evolutionがやってきたのだろう。これは、政治文化的に言えば、共生の時代であり、小沢一郎が、日本での代表である。小泉首相は、古い代表である。つまり、古い西洋文明現象界の代表である。同一性構造の代表である。ODA ウォッチャーズ氏がいみじくも述べるように、小沢氏の政策は、ポスト・モダン、脱構造主義と呼ぶべきである。(参考:『海舌』「小沢一郎氏は「脱構造主義」或いは「ポスト・モダン」という言葉を使うべきだ。」http://blog.kaisetsu.org/?eid=354882 )
それは、また、ポスト西洋文明であり、新東洋文明とも言えるだろう。今年は、日本の社会革命の年になると予見したが、そうならないと日本は、断末魔の西洋文明とともに去りぬとなるだろう。また、今年沸騰するフランスの反CPEのデモなど、やはり、根源的には、偉大なイデア・コスモスの回転に拠るのではないだろうか。ただし、主体性が大事である。主体性のはたらきかけがない限り、運動とはならず、古きものとともに、滅びるものとなるのである。日本人の場合が、きわめて、危険なのである。被洗脳羊である。

2006年03月17日 (06:29)

発語の志向性の問題;他者の志向性を否定する自我同一性構造暴力

ある発語で、特異性の対象を志向したとする。それを、Pとしよう。発語者をSとしよう。即ち、S→Pである。そして、Pに関して、Qという判断を与えたとする。即ち、PはQである。P=Qである。しかし、これは、断定ではなくて、疑問文で提出されたのである。P=Q?つまり、P→Q?である。この発語の前提は、Pという特異な対象である。
 それに対して、別の話者は、最初の発語者はPをメディアを介して見たからQであると断定した。即ち、P→M(メディア)→Qであるとしたのである。しかし、最初の発語者の志向した意味内容は、メディアを通して見て、判断した、特異な対象Pは、Qではないのかという疑問である。つまり、メディアを介したという事を前提として、特異な対象PはQではないかという疑問を提起したのである。だから、別の話者が、メディアを介したから、PはQであると下した断定は、最初の話者の意を無視した暴言であることがわかるのである。前提条件を無視して、最初の発語者に、答えているのである。つまり、最初の発語者の言葉の論理を無視して、反論しているのである。これは、暴力である。ロゴスを無視する、非合理主義者である。これは、一種の狂気である。irrationalである。非理性的である。ただ、最初の発語者の言葉を否定したいという欲望(反感)のために、物の話者は発言しているのである。この暴力的欲望は、先の考察からは、同一性構造欲望であると言えるだろう。他者の差異を否定して、他者に、別の話者の発語の同一性を押しつける、強制するものである。 
 思うに、別の話者は、とりわけ、最初の発語者に対して、自我同一性暴力を発動させるのであるが、これは、どういうことであろうか。それは、一言で言えば、嫉みがあるのである。ルサンチマンである。では、この嫉みの力学構造はどういうものか。ただ、自我同一性構造欲望暴力では説明はできない。同一性構造欲望暴力の対象となるには、その対象にある特質・性質があるはずである。それは何か。ルネ・ジラールは、ライバルへの模倣欲望を説いていた。では、ライバルとは何かとなるだろう。
 しかし、この問題に関しては、先に差異の排除・排斥・隠蔽の問題として扱った。同一性構造自我は、差異を抑圧・排除しているのである。それは、他者の差異であり、自我の差異である。この同一性構造自我は、二項対立的に、差異に対して、優越するのである。ちょうど、ヤハウェが、異教に対して、自己優越するように。即ち、優越項は、同一性自我であり、劣等項は、差異である。差異を同一性化することが、差異を暴力的に否定うすることが同一性構造自我の欲望なのである。だから、同一性構造自我は、自己優越のために、もっとも差異をもつ他者を否定するになるのである。差異を否定すること、ただただ、暴力的に否定することが、同一性構造自我にとり、意味があるのである。それは、シェイクスピアで言えば、イアーゴが、オセロを憎悪するように。凡庸なイアーゴは、高貴なオセロを否定することに、満足を感じるのである。そう、これは、アメリカ合衆国が、オリエンタリズム的に、差異である他文明(アジア文明やイスラム文明を憎むようにである(この場合は、ユダヤ・キリスト教的同一性構造欲望・暴力による)。
 では、差異とは何であるのか。それは、同一性構造システムに属さない他者であることである。自我同一性欲望・暴力システムに属さない他者性があるということである。それは、どういう徴をもっているのか。どういう差異の徴をもっているのか。それは、同一性自我欲望を否定する質的エネルギーをもっていることだろう。つまり、差異的エネルギーをもっているということである。それは、同一性自我欲望(同一性欲望自我)の二項対立の排除的反動エネルギーを「脱構築」・解体する質をもっているということだと思う。つまり、同一性構造自我が抑圧・排斥している「境界」、覆い・蓋の束縛を解除する質をもっているのだと思う。差異的心身性を抑圧している反動暴力を否定する質、つまり、差異的心身性のエネルギーをもっているのだと思う。この差異的心身エネルギーが、同一性構造自我の被抑圧された心身に作用して、同一性構造自我の同一性を揺さぶるのである。つまり、差異的心身エネルギーで、自我同一性を脅かすのである。これが、差異の徴だと思う。差異心身エネルギー、これを、同一性構造欲望暴力自我は恐れて、否定・抑圧・排除せんと暴力衝動に駆られると言えるだろう。そして、この差異心身エネルギーとは、同時に、特異性のエネルギーであり、イデア界の共立志向エネルギーでもあるのだ。そう、同一性構造自我は、メディア界差異エネルギーだけでなく、イデア界的差異共立志向を恐れるのである。
 イデア界の共立志向エネルギーと言ったが、エネルギーでいいのだろうか。特異性、不連続的差異は、エネルギーになるのだろうか。メディア界は連続的差異の共感・共鳴・共振波動エネルギーである。これは、思うに、それほど恐れないだろう。しかし、イデア界的不連続的差異、絶対的差異の直立共立的《力》こそ、いちばん恐れるだろう。この《力》とはエネルギーなのか。不連続的差異のエネルギー? 絶対的差異共立の波動?
差異共立とは、超光的である。それは、無限的である。そう、連続・同一性である現象をすべて解体するものである。絶対的脱構築性があるはずである。絶対的根源の差異の直立である。現象界の同一性はすべて破砕するのである。絶対的死のエネルギーではないだろうか。というか、原エネルギーではないか。最初の1/4回転においてゼロ化が生起するが、そのゼロ化におけるイデア界の《力》である。そう、i力、虚力である。思うに、i力、虚力を発するのだと思う。これをもっとも恐れるのだ、同一性構造自我は。これは、絶対的脱構築・解体性である。仏教の空無に通じよう。色即是空、空即是色の空というより、絶対無である。根源的不連続性である。根源的バラバラ性である。根源的不連続的差異の共立性である。それは、至上の美の世界である。素数の共立のような世界であろう。根源的に異質、不調和なものが、共立調和している世界である。ゼロ化ではなくて、i力の世界である。iが共通で、その他、共通するものはない不連続的差異の直立共立する世界である。まったき脱同一性の世界である。まったき脱現象の世界である。超空であろう。そう、死の世界である、《あの世》の世界、彼岸である。また、超生の世界である。浄土・涅槃の世界である。イデア界である。これを同一性構造自我は恐れるのである。
 そう、現代は、永遠回帰のエポックである。再び、大創造時代となったのだ。根元のイデア界・浄土・天国・彼岸の風が訪れる時代となったのだ。マレビトの時代である。常世の時代である。偉大な彼岸の虚力が発動する時代となったのだ。占星術で言う水瓶座の時代なのだろう。水瓶の水が、イデア界の虚力であろう。

2006年03月07日 (20:50)

メディア・エネルギーとイデア界:黙示録的終末論的現代と新コスモス文明夜明け前

死のエネルギーとイデア界の関係を述べたが、この辺りの問題はきわめて意義深い事柄であり、まだ不明な箇所がある。だから、本件について、より精緻に検討したいと思う。
 《心》とは何であるのか。《無意識》・《潜在意識》をも《心》に入れるならば、《心》とは正確に言えば、《心身》になると考えられる。思惟=心、延長=身体とするならば、メディア界において、思惟☯延長(思惟∞延長、思惟⇔延長)であるから、メディア界自体が《心身》と言える。これは、単に《心》でも、単に《身体》でもない相補性の領域である。今日、身体論が流行しているが、その身体とは、《心身》ないし《身心》と呼ぶのが的確・正確である。
 では、本件の問題を考えると、メディア・エネルギーとは、《心身》エネルギーであり、《心》の側面と《身体》の側面をもっている。スピノザ哲学で言えば、《心》という属性と《身体》という属性をもっているということになる。そして、スピノザの説く歓喜の情であるが、それを、私は、イデア界の共立共感性の情と考えたのであるが、この歓喜の情と《心身》はどう関係するのだろうか。結局、感情とは何かという問題でもある。
 ここで、少し作業仮説しよう。この問題の領域はイデア/メディア境界である。

                      《心》
                      /
1.イデア界・2.《IM境界・チャクラ》・3.《心身態=メディア》
                      \ 
                      《身体》

2のイデア/メディア境界IM境界に《チャクラ》があるとしよう。通俗に、心と言われるものはこの《チャクラ》の一つであろう。さて、感情とは、3の《心身態》の性質の一つであろう。例えば、いわゆる喜怒哀楽とは、この《心身態》の様態であろう。しかし、イデア界の共立共感的歓喜の領域は、純粋には、3ではないだろう。それは、2の領域に存すると思うのである。そして、これが、3の領域に接しているのである。イデア界の共立性が、2において、共立共感歓喜の情になるのだと思う。これは、根源的情、原情と言ってもいいものだろう。この歓喜原情が、通常の感情である3の《心身態》に作用するのである。精神性、精神的感情とは、2と3との接点に発生すると言えるだろう。
 では、ここで、メディア・エネルギーを考えてみると、3の《心身態》のエネルギーである。しかし、3は2を介して1のイデア界とつながっているのである。問題は、2と3との接点の様相である。もし、この様相が否定的であると、つまり、イデア界とメディア界とが、背反的であるときは、例えば、共立歓喜原情に対して、ルサンチマン的感情が支配的であるときは、どういうことになるのだろうか。そのときは、1と2とが連携していないから、イデア界の《力》が、メディア界に流入せず、メディア界=《心身態》は、否定的なエネルギーが支配的である。問題は複雑である。ルサンチマンと死のエネルギーの関係を明快にしないといけない。ルサンチマンは、共立歓喜原情が、冷暗・暗黒化して、《心身態》が否定化されたものである。それに対して、死のエネルギーとは、《心身態》=メディア・エネルギーが、マイナスの状態になっているものである。プラスのメディア・エネルギーが生のエネルギーであり、現象界へと転化するものである。それに対して、死のエネルギーとは、現象界から再びメディア界へ、さらには、イデア界へと回帰させるエネルギーである。これは、解体、脱構築のエネルギーでもある。これは、純粋なものとしては、ルサンチマンとは無関係である。ルサンチマンとは、生のエネルギーにより関係するものであろう。憎しみ・憎悪となったプラスのメディア・エネルギーであろう。それと、現象界の二項対立的近代的自我と結びつくと、利己主義的な凄まじい、獰猛な破壊力となるのである。
 だから、ルサンチマンと死のエネルギーを見ると、両者、異質のものであるが、攻撃・破壊性が共通であるので、混同されやすいだろう。問題は、ポストモダン時代である現代である。ポストモダンは、死のエネルギーの時代である。近代主義がすべて解体していく時代であるが、この死のエネルギーの攻撃・破壊エネルギーとルサンチマンが結合する可能性がここにあるのである。これこそ、最も恐ろしい事態と言えよう。明らかに強度の精神病理がここにある。どうも、ホリエモンの場合がこれであったのではないかと思われるのである。また、現代日本の若い世代が、このような病理を抱えているのではないかと思われるのである。ルサンチマン+死のエネルギーである。おそらく、これが、去年の衆院選挙で、自虐自滅的に小泉一派を選択させたのだろう。現代は、確かに一種黙示録的終末論的時代である。《ハルマゲドン》の時代である。アメリカはもとよりその傾向が強いし、イラン、イラクを含めてイスラム圏でもその傾向が強いだろう。グローバルな黙示録的終末論的時代である。そう、西洋文明が来るところまで来たのである。同一性構造暴力文明である西洋文明のどん詰まりに来たのである。新東洋文明・新地球文明の前夜である。夜明け前である。
黙示録論
 さて、ルサンチマンと死のエネルギーを区別することができたので、先に述べた、イデア界の共立共感歓喜原情と死のエネルギーとを、能動的観念を形成することを介して、結合させて、秩序創造的エネルギー・コスモス創造エネルギーに変容させるという未来創造をさらに構造分析すると、イデア界の共立共感歓喜原情と能動的観念がいっしょになると、イデア界の共立共感歓喜倫理理性になり、また、死のエネルギーは、もともと、イデア界を志向しているので、このイデア界的《理性》と結合して、秩序創造エネルギーはきわめて建設的なものとなると考えられるのである。黙示録的終末論的ルサンチマン/死のエネルギーと未来秩序・コスモス創造エネルギーはきわめて対称的である。暗黒と光明である。そう正に、ゾロアスター教的宇宙的世界観となる。西洋文明が悪神アンラ・マンユであり、新東洋文明が善神アフラ・マズダーである。ブッシュや小泉は当然、悪魔の一味である。
 とまれ、2.IM境界・《チャクラ》において、イデア界的共立共感歓喜倫理理性秩序構築・コスモス創造エネルギー(エネルゲイア)が発生して、世界を一新更新することになるのである。これが、イデア界コスモスの《摂理》・《法則》である。新しい太陽が昇ることになるのである。

Listen, Earth People!
A Wholly New Sun Will Rise Soon!
So Cautiously Prepare For the Day!

参考:「死の欲動」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060114
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4409310062/qid=1141709258/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-7564220-6771446

ゾロアスター教:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99

『黙示録論』D.H.ロレンス著 ちくま学芸文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088873/qid=1141731234/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-7564220-6771446
黙示録論

2006年03月06日 (17:17)

イデア界の回転と人生のサイクル

人生のサイクルとは、イデア界の回転に相応しているのではないか。

第1期:最初の1/4回転までの時期(メディア界の形成:幼年少年青年期)
第2期:第1期から2回目の1/4回転までの時期(成年前期期)

第3期:第2期から3回目の1/4回転までの時期(成年後期)
第4期:第3期から4回目の1/4回転(回帰)までの時期(老年期)

第1期と第2期が、生のエネルギー(+エネルギー)の時期
第3期と第4期が、死のエネルギー(-エネルギー)の時期

第2期と第3期の中間期が、所謂、厄年ではないだろうか。折り返し点である。ユングが中年の危機と言ったことに関係するのではないだろうか。また、死のエネルギーは、フロイトが晩年言った死の欲動に相応するのではないだろうか。第2期は現象界の時期である。第3期から脱現象界化、再メディア界化、そして、再イデア界化の志向が生起する。
 問題点として、死のエネルギー・マイナスのエネルギーが《侵入》・《襲来》・《急襲》すると、一般に、それを宗教化することである。即ち、既成の宗教を信仰したり、新興宗教やカルトに没入したりするのである。(思うに、ブッシュも、そういう面があるだろう。アル中であったが、「死の欲動」から、キリスト教の信徒になったのだ。)これは、正に、知性の危機である。思うに、この点で、宗教化して、反動化するのだ。大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」はこれと共通するだろう。そう、《イデア界》の侵入なのだ。(SF作家フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』や『聖なる侵入』とは、正にこの事象・事態・出来事による壊乱状態を描いているだろう。そして、さらに、人類史的なこの時期があるだろう。サイクルとしての人類史、つまり、らせん的回帰的人類史である。これを進化と言うべきなのか。進化というなら、らせん的進化と言うべきであろう。)この《イデア界》の「侵入」に対して、知性的であるのが正しいだろう。何故か。何故なら、これは、いわば、理念によるエネルゲイア、即ち、イデア・エネルゲイア(参考:ホワイトヘッドの活動的存在)なのだから、理念的知性で「認識」するのが、本来であり、既成の宗教、あるいは、新興宗教で捉えるのは反動である。ただし、個的に、単独的に宗教とするならば、問題はないのである。キルケゴール的宗教、単独的宗教である。一言で言えば、ポスト宗教である。あるいは、不連続的差異的宗教である。
 最後に一言つけ加えれば、ポストモダン革命とは、ポスト西洋文明「進化」であろう。それは、イデア界への再帰である。1サイクル終えたのだ。ここで、西洋占星術が、それなりに、意味をもつ。というか、占星術は、イデア界的コスモス論の迷信化し、堕落したものなのだ。ポスト占星術である。つまり、イデア界的コスモス論の新生である。

2006年02月18日 (07:14)

古典的日本人の心性と現代的日本人の心性:メディア界と現象界:ポスト一神教と新多神教

古典的日本人の心性と現代的日本人の心性:メディア界と現象界:ポスト一神教と新多神教
2006年02月18日 05時45分54秒
テーマ:ニッポン社会
先に、『平家物語』を拾い読みして、その封建的主君家来との一体性の強さを感じた。いわば、血の結ばれである。しかし、現代では、そのような感情は排斥されて、ドライになっているし、自己完結的になっている。
 私が直観したのは、『平家物語』では、メディア的連続性が作用しているのであり、現代日本人においては、それが、捩れて、現象界的自我へと転化していることである。つまり、伝統的な日本人の心性は、メディア界が中心であり、現代は、現象界が中心であるということである。このメディア界的心性が伝統的な日本人の道徳を形成してきたのであろう。これは、また天皇制の心性でもあるだろう。そして、現代は、メディア界が捩れて、自我中心主義となっている。ここでは、独善性が支配的である。自我に没入しているのである。他者は排斥されている。通俗に言えば、「自己中」である。
 では、伝統的なメディア的心性は、どう考えるべきだろうか。他者との共感がある。これは、連続性が基盤となっている。しかし、この強度は、情熱的である。生命・本能的である。これは、メディアのエネルギーである。しかし、このメディアには、単に、連続性だけでなくて、不連続性が潜んでいるだろう。イデア性が潜んでいるだろう。神仏を志向する心性である。そう、多神教の心性とも言える。
 この伝統的なメディア心性と現代的な現象心性との相違はどういう意味をもつだろうか。つまり、前近代的日本人の心性と近代主義的心性とのパラドックスがあるのではないだろうか。つまり、メディアと現象との分裂性があると考えられる。ここに日本人のアイデンティティの形成の困難さがあるのではないだろうか。結局、近代的自我をもつために、伝統的メディア的心性を排斥したのではないだろうか。
 これは、少し先の考えとはずれてしまう。つまり、メディアから現象への転換によって、メディアが排斥されると私は考えているのであるから。これは正しいのである。近代主義は、正に、1/4回転で、メディアを排斥するのである。日本人は、現代の日本人は、近代的自我化したのである。問題は、この転換が、必然なのかということである。理論的には必然である。しかし、メディア/現象境界があるから、完全には、メディアを排斥はできないはずである。つまり、1/4回転は、先のものを潜在化するのである。最初の1/4回転は、イデアを潜在化させ、メディアを発生させる。次の1/4回転は、メディアを潜在化させて、現象を発生させるということだろう。だから、正しく言えば、1/4回転で、メディアを排斥・隠蔽するというのは、間違いである。潜在化させるのである。あるいは、無意識・潜在意識化するのである。これは、近代主義ではなくて、普通の現象化である。しかし、西欧近代主義は、絶対的に二元論化したのである。つまり、メディアを排斥・隠蔽したのである。ここには、異常なものがあるだろう。おそらく、キリスト教の絶対的善悪二元論がここに作用しているのではないか。ロゴスの伝統ではなくて、キリスト教の二元論が、このような極端さを生んだように考えられる。つまり、西欧近代主義とは、キリスト教的現象界主義ということである。そして、これが、近代日本に入ってくるのである。ここで、メディア的である伝統的日本人の心性は混乱するはずである。漱石の神経病がそうだろう。また、その他の作家の精神病性もそうだろう。(西欧では、この近代主義に対抗して、ロマン主義が生まれた。つまり、メディアの反逆である。)日本では、メディア的心性は、近代的天皇制に吸収されたと言えよう。そして、それが、太平洋戦争へと巻き込まれる。戦後、このメディア的心性が捨てられるのである。完全に西欧近代主義が、アメリカ文明として入ってくるのである。日本の完全な近代主義化である。この戦後日本の絶対的近代主義が、現代・今日の自己中心主義人間を形成したと言えよう。つまり、日本の伝統的なメディア的心性が完全に排斥されているのである。これを私は狂気と呼んでいるのである。「現実」への逃避があるのである。そして、これが、小泉改革と符号するのである。しかし、小泉首相は、パフォーマンス屋である。近代主義者ではない。近代主義者ならば、従来の自民党路線である。ODA ウォッチャーズ氏がいみじくも述べているように構造主義者であると見るのが正しいようである。構造改革という発想が、確かに、構造主義的である。そして、メディア的である。結局、小泉首相には、メディアが存しているのである。これは、現象界からメディア界への回帰である。すると、ここには、伝統的な日本への志向が生まれるのである。これは、戦前や前近代への志向となるだろう。小泉氏の靖国参拝は、このメディア的一体感から発していると考えられよう。そして、これが、「アイロニカルな没入」である。そして、戦前的右翼的発想の安倍氏と結びつくのである。
 ポストモダンは、メディアの解放を意味して、第二のルネサンスである(20世紀前半もメディアの解放と見られるから、第三のルネサンスと言うべきかもしれない。)。そして、このメディアのもつ連続性から反動性に向ったのが、小泉改革であり、現代日本社会である。かなり、複雑である。若者の保守回帰も同様に考えられるだろう。
 少し整理すると、近代主義に相応するのは、旧来の自民党である。社会主義の日本である。しかし、ポスト近代主義に対応するのは、小泉首相や若い世代である。メディアの世代である。問題なのは、日本のポスト近代のあり方である。日本人のメディアのあり方である。ここで個の問題が出てくるのである。日本の伝統的なメディアの文化に、日本的個があったと思われる。しかし、これを戦後喪失しているのである。つまり、近代的自我主義があり、そして、ポスト近代主義が起ったのである。メディアが個となるのではなくて、近代的自我性を帯びるのである。あるいは、分裂症的になるのである。解放されたメディアと近代的合理主義との分裂があるのである。今日、精神的病気が多いのは後者が原因ではないだろうか。
 結局、個・特異性・単独性の問題になった。つまり、不連続性、不連続的差異性の問題である。結局、メディア/現象のメディアではなくて、イデア/メディアのメディアへと向う必要があるということである。そして、さらに、イデアへと進展すべきである。
 さて、そうなると、不思議なことに、「一神教」が回帰するのではないだろうか。偶像はメディアであるが、それを超えたイデアを志向するのであるから。だから、現代はイメージや映像や芸術の時代ではなくて、「一神教」の時代なのかもしれない。そうすると、キリスト教のようなイメージをもった宗教はダメである。イスラム教やユダヤ教が有力となるのではないだろうか。しかし、ユダヤ教は、私見では、メディア/現象の宗教であるから、イデア界的ではないのだ。すると、イスラム教が残る。ポスト・ユダヤ/キリスト教であり、イスラム教の時代ということかもしれない。しかし、本当に一神教なのか。私は新多神教を主唱してきた。つまり、イデアへの回帰とは、当然、多元的イデアへの回帰であり、ポスト一神教なのである。だから、ポスト・イスラム教でもあるだろう。D.H.ロレンスは、旧約聖書に多神教の世界を見た。そして、新しい神々を生まれると考えていた。そう、イデア界への回帰とは、新しい神々=イデアをもたらすだろう。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

Appendix


ブログ内検索
RSSフィード
リンク
このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。