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2012年05月03日 (14:31)

差異共振の比率が黄金比ではないのか:精神の物質に対する比:原形としてのペンタクル

「闇」が「光」と共振するとき、「光」による物質を巻き込むが、その物質形態の比率が黄金比になるのではないだろうか。
 言い換えると、超光(霊光)が「光」の物質体を組織・秩序(コスモス)化するとき、発生するのが黄金比ではないのか。簡単に言えば、精神の物質に対する比率が黄金比ではないのか。そして、ピュタゴラス派がペンタクル(五芒星形)を最重要視したのは、黄金比を形成する象徴的な、典型的な図形だからと考えられる。
 そう、ペンタクルは、形態的には、精神の物質に対する、言うならば、プロト・パターン、原形、そう、根源的フラクタルと考えられるだろう。
 後で更に検討したい。

黄金比
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/golden/page62.html

縦と横の比率が最も均斉のとれた長方形を想像してみて下さい。それは人によって様々かもしれませんが,黄金比と呼ばれる比が最も美しいと言われています。ところで,どうしてその比率がバランスよく見えるのでしょうか。もしかしたら,その中に何か神秘的な ...
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2012年05月03日 (01:57)

現象太陽とdark sunの交差するmedia point:超越軸と虚軸と実軸の交差するMP

先に、凸iを現象太陽、凹iをdark sunとし、両者の共振から超光(霊光)が生まれると作業仮説した。
 そうすると、現象太陽とdark sunの発生が問題となる。しかしながら、既に、超越軸(ガウス平面に直交する軸)を想定している。それが、凸iと凹iを発生させると作業仮説したのである。
(思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point (04/18) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1810.html
即ち、超越軸に凸jと凹jを置き、

凸j*凹j⇒凹i+凸(+1)  ・・・・・Ⅰ
凸j*凹凹j⇒凸i+凹(-1) ・・・・・Ⅱ

という方程式を作業仮説したのである。
 だから、現象太陽凸iはⅡ式から、生まれるのであり、dark sunは、Ⅰ式から生まれるのである。即ち、超越的極性において、同一性力学から現象太陽凸iが、差異共振力学からdark sun凹iが誕生すると考えられるのである。
 以上のように仮説すると、media pointは超越軸とy軸(虚軸)とx軸(実軸)との三者交差が重要になる。
 とまれ、現象太陽とdark sunの交差におけるmedia pointを考えると、やはり、当然、同一性力学と差異共振力学があり、いわば、現象太陽とdark sunが「渦巻いている」と思われる。これは、比喩である。
 具体的に考えると、例えば、渦巻き星雲であるが、それは、dark sun主導の差異共振力学の螺旋的運動によって、現象太陽が巻き込まれて取る形態・形象ではないのか。(複数の現象太陽、複数のdark sunを一応想定する。しかし、dark sunは一つかもしれないが。)
そう、それは、弦巻植物の螺旋とフラクタルな関係が考えられる。
 差異共振力学とはdark energyに拠ると考えられるので、渦巻き星雲は超越的にdark energyを内在していると考えられる。
 これは、直観では、Vector Modeに関係すると思われるのである。
つまり、物質的平面に現象太陽の渦巻き(渦巻星雲)を現象化させるのであるが、精神的超越的内面において、dark sun主導の差異共振のdark energyが(直線的に)力動していると考えられるのである。つまり、現象太陽凸iとdark sun凹iの差異共振によるdark energyが超光を形成しているのである。そう、超光はdark lightと言ってもいいだろう。
 とまれ、現代物質宇宙科学は、dark sunを導入することで、進化するだろう。現象光だけでなく、不可視の闇の存在を肯定することで、進化するのである。そう、唯物論的科学は、精神的物質科学となるだろう。

追記:先にdark matterは存しないのではないのかと述べたが、dark sunを考えると存するのではないのか。つまり、現象太陽凸iは物質体をもっているのであるから、dark sunもそれに応ずる「体」をもっていると思われる。それが、dark matterではないのか。
 それとも、凸(+1)の超光をdark matterと見るのか。後で更に検討したい。

追記2:現象太陽凸iが電磁波ならば、dark sun凹iは対応するに何であろうか。重力波であろうか。もしそう仮説するならば、ブラック・ホールは、ここに位置するのかもしれない。とまれ、思考実験である。


参照:
■ フリーエネルギーに挑戦する現代の平賀源内たち:エマモーターの衝撃 ( 2012-05-02 15:20:18 )
http://quasimoto.exblog.jp/17902189/

Kazumoto Iguchi's blog

2012年04月18日 (10:42)

思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point

凸i*凹i⇒凸(+1)     ・・・・・ A

において、右辺が光である。つまり、光とは同一性(「物質」)と差異(「精神」)によって形成されているのである。
 しかし、自我(凸i)は、光を物質(光子)としてのみ捉えるのである。
 
凸i*凹凹i⇒凹(-1)      ・・・・・ B

の自我方程式(と呼ぶことにする)において、右辺は物質主義、利己主義、合理主義、自我主義等を意味すると考えられる。近代・現代人はこれに陥っているのである。
 問題は物質である。物質はどう記述されるのか。
 同一性凸iを「物質」と上記している。問題は、同一性凸i=物質としていいかどうかである。先にはそう考えたのであるが。
 直観で考えると、同一性凸iが内的他者凹iに否定的に接するときに、物質化が為されるのである。
 つまり、凸i*凹凹i⇒凹(-1)である。だから、物質は右辺の凹(-1)であると思われる。
 そうすると、自然は単に差異共振しているだけではなく、同一性主導があることになる。ここが極めて重要なポイントとなる。
 もし、自然が差異共振事象だけならば、すべては光となり、物質は形成されないだろう。
 だから、これまで、自然は差異共振現象であるとした私の考えを訂正しないといけない。
 結局、自然現象とは、差異共振現象=光と同一性現象=物質の両面をもっていることになる。簡単に言えば、自然現象とは光と物質の複合体である。
 ところで、このように考えると、z軸は不要になり、再び、ガウス平面だけで説明できるようになる。
 では、自我凸iはどのようにして、光を認識するのか。media pointが原点であり、そこが差異共振事象の起点である。同時に、当然、同一性事象(物質事象)の起点でもある。
 問題は視覚とは何かである。
 ゲーテが光が視覚の原因であると述べていたと思う。そうならば、視覚は、差異共振事象が形成したものである。
 直観では、視覚とは差異凹iの、同一性凸iにおけるいわば飛び地である。つまり、凸iと凹iのなんらかの連結において視覚が形成されると考えられる。
 同一性凸i主導だけでは、視覚は形成されないし、差異凹i主導だけでも、視覚は形成されない。両者のなんらかの結合が視覚形成のために必要である。
 この結合力学はいかなるものか。
 というか、端的に、media pointが視覚ではないのか。結合力学は必要ないのである。
 media pointは同一性凸iの極と差異凹iの極、両極、双極、対極をもっているのであるから、これを視覚として捉えるのは的確であると考えられるのである。端的に、視覚は正に特異点である。聴覚はそれに対して、より差異に傾斜しているだろう。いわば、視覚の裏側である。(ついでながら、古代ギリシアのアポロとは正に、media pointの表現であろう。ディオニュソスとは、同一性にとらわれない、正に、差異共振現象を指しているだろう。つまり、アポロから同一性側面を取ったものであろう。ニーチェの混乱は両者の二元論化にあるだろう。D. H. ロレンスのdark sunとは正に、差異共振事象としての光である。そう、視覚であるが、media pointの同一性側面としての視覚は、光を差異共振事象としてではなく、同一性のフィルター[精神的フィルター]を通して見ていると言えよう。思えば、以前、超越光と私がしきりに述べたが、それは、media pointの差異側面から見た差異共振事象=光[dark sun]のことであると言えよう[dark Godは凹iであろう]。光はルドルフ・シュタイナーから言えば、アフラ・マズダ=キリストである。)
 とまれ、以上から、自我凸iがどのように光を知覚するのか解明できた。つまり、自我は視覚であるmedia pointを介して、光を主に同一性的に、従的には差異的に、知覚するのである。
 ここで、プラトンの有名な洞窟の比喩に言及すると、洞窟とは正に、同一性であり、その壁の影像とは、正に、凹(-1)である。そして、洞窟外の太陽(善のイデア)とは、正に、凸(+1)である。そして、洞窟の穴がmedia pointである。
 最後に光と宗教の関係に簡単に触れよう。
 いったい、差異共振事象の起因である凸i*凹i(的確には、凹i*凸i)の「存在」はどういうものなのか。始めから存するのか、それとも形成されたものなのか。
 ここで、凹(-1)の問題が出てくる。凹(-1)の平方根が凸iと凹iである。そうすると、物質である凹(-1)が差異共振事象の起源であることになるだろう。
 これはどういうことなのだろうか。いわば、摩訶不思議である。もし、そうならば、唯物論である。光も宗教も物質が根源になるのである。
 しかし、そうではないだろう。
 凸i*凹iを産出するのは、なんらかの超越性であろう。ここで、ガウス平面に直交する軸が必要になるのかもしれない。Kaisetsu氏の言う超越軸である。
 先にフレミング右手の法則の視点を提起したが、ここではフレミング左手の法則を上記の視点から適用すべきだろう。
 即ち、磁界の方向をz軸、導体にかかる力をx軸の凹(-1)、そして、電流の流れる方向をy軸の凹iに見るのである。
 導体にかかる力を物質の力(重力)とすれば、光はその正反対の方向に位置する。(これで、重力が光を曲げることが説明できよう。そう、導体にかかる力の方向はブラックホールの方向であろう。そして、おそらく、dark matterは存在しないかもしれない。それに対して、dark energyは明らかに存するだろう。それは正に、差異共振事象としての光を意味しよう。つまり、今日の科学は、光の同一性的側面、物質的側面しか見ていないので、光の差異共振本体を捉えていないということになるのである。)
 ということで、超越軸を仮説してそこが凸i*凹iの起源であると考えたい。超越軸の差異共振方程式(と呼びたい)は、

凸j*凹j⇒凹i+凸(+1)   ・・・・・ C

である。これこそ、宗教的な光方程式(と呼びたい)と言えよう。
 では、凸jと凹jとは何か。あるいはどういう神霊なのか。先に述べたように、凸jは「父神」で凹jは「母神」と考えられよう。しかしながら、差異共振は、主導的根源は凹j、「母神」に存すると考えられるのである。
 そう、それが母権的文化、母権的世界である。本来のアジア、東洋の文化世界である。
 それに対して、一神教は「父神」の凸jが主導的になって形成されたものである。即ち、

凸j*凹凹j⇒凸i+凹(-1)   ・・・・・ D

ではないだろうか。(因み、創世記におけるヤハウェは凸jであり、エローヒーム[神の複数]は凹jと考えられる。)
 そして、この場合はフレミング右手の法則を手がかりすることができると思う。即ち、電流の流れる方向が凸iとなるのである。(ひょっとして、陽電子の流れと言えるのかもしれない。)
 だから、D式は父権的一神教方程式と呼べよう。そして、C式は母権的多神教方程式とも呼べよう。
 ということで、これまでの諸論考をだいぶ整理できたと考えられる。結局のところ、人間認識図は基本的には左右逆転にすればいいことになる(人間認識図の構成は左右逆転すれば、ほぼそのまま使用できよう)。また、ガウス平面に直交する超越軸z軸をつければ、ほぼ十全な認識図になると考えられる。それは、宗教的認識図と呼べよう。それは、超越論的ではなく、超越的認識図とも言えよう。


参照:


Flemings_Left_Hand_Rule.png



フレミングの左手の法則 - Wikipedia



Flemings_Right_Hand_Rule.png


フレミングの右手の法則 - Wikipedia


人間認識図
《ガウス平面で表した人間認識の図》

2012年04月14日 (14:07)

再考:陰陽の氣と自我/非自我の作用:自然における同一性と差異

どうも勘違いしているのかもしれない。
 先に、「光」の場合、粒子は⇒凹(マイナス)で、波動は⇒凸(+1)と述べた。
 しかしながら、自然状態では、差異共振が起るのであり、同一性は生起しないと考えられる。
 だから、「光」は⇒凸(+1)しかありえないと考えられる。ということなので、訂正である。
 問題は、自我作用、同一性作用である。自我・同一性作用において、⇒凹(-1)が生起すると考えられる。
 そして、それに抑圧され、排除される非自我は、裏面、背面で、どう作用するのだろうか。
 先には差異共振作用をすると述べたが、どうだろうか。これも勘違いのように思える。
 差異不共振ではないだろうか。否定された凹iの作用は反動作用になると思われる。否定的感情、否定的衝動になると思われる。それは、攻撃的衝動ではないだろうか。
 そう、問題は先に述べた原始差異共振である。これは、自我作用によって、無意識化されるだろう。
 とまれ、ここにおいてこそ、差異共振の原点があるのであるが、自我作用の支配の下、未発達な状態、あるいは、潜在的な状態に留まっていると考えられる。
 つまり、自我作用と原始差異共振作用は矛盾・齟齬の関係にあると言えよう。
 では、自我・同一性作用と自然現象との関係はどうなのだろうか。
 陰陽の氣の差異共振現象が自然現象とするならば、自我・同一性作用とどう関係するのか。
 凸zは純粋悟性になるが、また、外的感覚(空間)にもなるだろう。そして、否定された、また、抑圧された凹z(原始差異共振を含めて)は、それなりに、内的感覚(時間)であろう。
 そう、人間身体を考慮しないといけない。人間身体は当然、自然現象である。つまり、差異共振現象である。そこに、自我/非自我が組み込まれているのである。
 ここでは作業仮説であるが、こう考えたらどうだろうか。差異共振現象とは、当然、凸i*凹i⇒凸(+1)である。右辺が自然現象ないしは自然自体である。
 これは当然、凸iと凹iの共振から形成されているのだから、自然現象には凸iのなんらかの要素があるということではないだろうか。凸iと凹iの即非現象と言ってもいいのであるから、やはり、凸iを基本的構成要素としてもっていると言えよう。
 つまり、同一性の側面をもっているということになる。そして、それが、物質というものでないだろうか。
 そして、自我・同一性作用は自然のこの物質性を認識するということではないだろうか。
 この作業仮説の問題点は、果たして、凸iを凸zと同様に、同一性として見ていいのかということである。
 凸zは自我・同一性作用である。しかし、凸iは自我・同一性作用ではなく、自然のもつ陽極である。
 しかしながら、それを自我極ではなく、同一性極と見ることは可能ではないだろうか。
 ということで、作業仮説的に、凸iを同一性として見れば、それを自然身体において、自我は同一性=物質として認識するということは考えられるのである。
 では、もしそうならば、凹iは何か。凹zは非自我、内的他者、絶対的差異であるが。
 少なくとも、非同一性と言えよう。つまり、差異である。同一性を物質とするならば、非同一性、差異とは何であろうか。おそらく、一種の精神である。自然の精神ということになる。
 「わたし」は「山」であるというとき、「わたし」は凹zであり、「山」は凹iではないだろうか。凹zと凹iとの一種の共鳴、合一等がなければいけない。
 凹zは非自我的精神であるが、凹iは単に精神ということではないだろうか。
 とりあえず、そう仮定して考えたい。
 すると、自然現象、自然自体とは、同一性=物質、差異=精神の共振から形成されていることになる。
 そして、人間は自我・同一性(物質)作用と非自我・差異(精神)作用との二元体である。
 思うに、カントが現象における基体と見ていたものは、差異=精神ではないだろうか。
 そして、物質科学は、自然の物質的側面のみを捉えて、自然の精神的側面を看過していることになる。
 今はここで留めて、後でさらに検討したい。

2012年03月23日 (08:24)

光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる

光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる
テーマ:manichaeism: 哲学
media pointにおける光のモードについて閃いたので、簡単に記す。
 以下の三日月の映像が役立つ。月の光った部分に接している暗い線が、凸iの同一性反射に相当するだろう。
 そして、明るい部分が凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺である。
 しかしながら、現象界、物質界においては、この明るい部分は不可視になっている。D. H. ロレンス的に言えば、dark, unseenなのである。
 そして、暗黒部分を一般には視覚しているのである。つまり、思うに、三日月を容器として考え、弧を底とすると、光の容器が闇を包容している(光が闇を包 んでいる)のが、真実の世界と考えられる。つまり、現象界、物質界とは闇なのである。闇を光と見ているのが、一般の人間である。
 もう少し丁寧に言うと、現実に見る光、現象光は、闇なのである。そして、真の光は不可視、dark, unseenなのである。(これが、ロレンスのdark sun, dark rayと考えられる。)
 プラトンの洞窟の比喩における太陽は、現象界の太陽ではなく、精神界の太陽と見るべきである。
 そう、ロレンスが我々は光の背中を見ているに過ぎないと述べたが、それは正鵠を射ているのである。本当の光の背中の闇を見ているに過ぎないのである。
 この闇である現象光は物質的光と言えよう。しかしながら、先に述べたように、真の光が闇である現象界に漏れ出る、沁み出ることがあるだろう。
 現象の太陽から沁み出る真の太陽、精神の太陽が「見られる」ときがあるだろう。
 真の太陽が正面を向ける時である。それはいつなのだろうか。
 そう、簡単に言えば、差異共振精神という内的精神的光をもつべきである。その光によって、現象の太陽において、真の太陽、精神の太陽を見ることができよう。
 そう、凸iが凹iに設ける同一性面、同一性鏡を突き抜けて、凹iの領域に測深すべきである。
 それは、東洋的瞑想等に関係しよう。また、ロレンスの『無意識の幻想曲』に。
 media pointの同一性面、三日月で言えば、明るい部分に接する暗い弧を突き抜けて、明の部分に達することである。
 しかしながら、大事なのは、凸iの純粋悟性、純粋自我を伴うことである。それによって、凹iと凸iが差異共振して、真の内的光、超越光を生むのである。
 今は簡単な指摘に留める。
 
追記:真の太陽が沁み出ると言ったが、思うに、三日月の二つの尖端から漏れ出るようにも思える。二つの両端とは何か。夜明けと日没時だろうか。もしそうなら、どうしてなのか。
 思うに、夜の闇は凸(+1)の真の太陽を内在しているのではないだろうか。そして、夜明けのとき、光が到来するが、実は現象光と真の光が接するときではないのか。
 日没の時は、逆に、闇が到来するが、その闇の中の真の光が現象光に接するのではないだろうか。
 今はここで留める。

587px-ComputerHotline_-_Lune_(by)_(9).jpg





画像は三日月 - Wikipedia から




ファシモティズム:現代のファシズム・全体主義
テーマ:日本亡国の凶相
こういう踏み絵みたいな善悪二元論の発想がファシズムの根源である。そして、愚民は没思考的なので、それに追従するのである。
 共産主義や全体主義は母権的民族の反動と考えられる。新父権主義が母権的民族には必要である。
橋下市長、入れ墨・地下鉄喫煙で全庁調査指示
読売新聞 3月21日(水)23時3分配信
 大阪市の児童福祉施設職員が子どもに入れ墨を見せて停職処分になるなど、市職員に不祥事が相次いでいることを受け、市の服務規律刷新プロジェクトチーム(委員長=橋下徹市長)が21日、発足した。

 初会合では、入れ墨の有無などについて全庁調査を行うことを決めた。

 チームは、職員が覚醒剤の使用容疑で逮捕された水道局や、全面禁煙の地下鉄駅構内での喫煙が明らかになった交通局などの幹部らで構成。橋下市長は「公務 員の職場で入れ墨が合うか、誰が考えてもわかる。ダメなものはダメという雰囲気が欠けている」と指摘し、「僕はやるといったらとことんまでやる」と、不祥 事根絶に意欲を示した。

 チームは入れ墨以外にも、勤務時間中の喫煙やマイカー通勤など禁止事項に関する実態を調査。このほか、弁護士ら第三者委員が不祥事の実態解明に当たる調査チームも新設する。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120321-00001218-yom-pol




光とは何か:二つの光:同一性(物質)の光と差異共振光

テーマ:manichaeism: 哲学
思うに、光は同一性光と差異共振光に分離するのではないだろうか。当然、media pointにおいて、分離するのであるが、media pointでの両者の関係が微妙である。
 今は精緻に論じられないので、思いつきに留まるが、凸iの主導性に対して、当然、凹iは一種反発をすると思われるのである。
 つまり、凸iの支配は凹iを同一性化する。これは、凸iは凹iに自己反射するのであり、この自己反射の光が同一性光(物質光)のように思えるのである。言い換えると、凸iの反射光が同一性光(物質光)であり、可視の光である。
 それに対して、凸iの支配に反発する凹iは独自に、凸iを包含、内包して、差異共振光を形成するように思われるのである。
 両者はまったく共約(通約)不可能であると考えられる。不連続である。
 D. H. ロレンスがdark sunないしはdark rayと呼んだものは後者であり、前者の視点から後者はまったく感知できないと考えられる。(media pointの二元性と言えよう。あるいは、media pointの絶対的間隙性である。)
 神話学的に見ると、父権的太陽は前者であり、母権的太陽は後者であると思われる。
 しかしながら、凹iは凸iを取込むのであるから、実は、凸iは凹iと共振しているのである。
 つまり、凸iの主導性(父権)は、絶対的ではなく、凹iの差異共振の影響を被っていると考えられるのである。(凸iを「父」とすれば、凹iが「子」であ り、差異共振は「聖霊」であろう。kaisetsu氏的にいうと、このとき、ガウス平面に直交するz軸が形成される。超越軸、聖霊軸である。)
 先に絶対的間隙性と言ったが、実はそうではなく、接触面があると言えよう。
 凸iの主導性によって、media pointに同一性面ができるだろう。しかし、この同一性面の、いわば、裏面は差異共振面である。同一性と差異共振が接触しているのである。
 とまれ、この接触面が重要である。ここで、同一性と差異共振が交差するのである。(だから、交差面とも言えよう。)
 これは、思うに、揺動面とも言えよう。常に、揺らいでいるのではないだろうか。
 また、浸透面とも言えるだろう。
 とまれ、この接続面をどう捉えるかが重要である。それを同一性中心にすると、精神的病気になると考えられる。また、差異共振を中心にすると、神秘主義になるように思われるのである。
 現実的には、同一性(物質)と差異共振(精神)のバランスが必要である。
 このバランスは両者を不連続化したときもたらされるのではないだろうか。もっとも、絶対的不連続化ではないが。
 今はここで留める。
 
追記:以前、私はしきりに超越光が現象光において可視であると述べた。思うに、現象光はやはり、同一性(物質)の光であり、超越光は差異共振(精神)の光と見るべきであろう。
 現象光において超越光が見えるというのは、上述したmedia pointにおける接触面において、現象光と超越光がいわば、融合しているということだと考えられる。
 そう、正確に言うと、超越光は氣の光でもあり、精神の光でもある。氣と精神の光である。
 精神の光、真の超越光は、シュタイナー的に言えば、アフラ・マズダ=キリストになるだろう。日本神話で言えば、天照大御神である。

追記2:media pointは上記の分離と融合(一種の即非性)を考えると、いわば、メビウスの輪のような構造ではないだろうか。(もっとも、メビウスの輪はいわば比喩であるが。)
 だから、∞の記号をmedia pointに使用してもいいかもしれない。即ち、凸i∞凹i⇒凸(+1)+凹(-1)=ゼロとなるのだろうか。それとも凸i∞凹i⇒凸(+1)*凹(-1)=凹(-1)となるのだろうか。
 後者の場合、凹(-1)=e^iπではないだろうか。
 今はここで留める。
 

参照:
天照大神 - Wikipedia


参照2:
メビウスの帯 - Wikipedia





父権と母権について再考
テーマ:新母権的社会:差異共振共同体
私は一神教は母権から生まれると考え、母権的一神教という用語を提起した。
 どうもまだ、不分明である。連続的同一性を形成するのは、最初、父権であると述べたが、先に母権であると判断したのである。
 同一性を形成するのは、基本は父権である。凸iの主導性であろう。
 しかし、凸i主導は凹凹iを生む。つまり、内的他者である凹iを否定するのである。この他者否定が否定的感情を生むのであり、それが、同一性の感情的基盤になるように思える。
 つまり、同一性主義である。だから、母権からではないのである。結局、最初の考察に戻ることになる。即ち、同一性主義を形成するのは父権主義であるということである。
 では、ヤハウェ的一神教はどう説明できるのだろうか。やはり、父権的同一性主義でいいのではないだろうか。
 後でより厳密に検討したい。





差異共振精神の形成の様態
テーマ:media point
どうして、人間によって、道徳・倫理の有無が生じるのか。
 差異共振精神は真善美をもたらすものであるが、精神的感情は、スピノザが説いたように、歓喜になると思われる。
 例えば、モーツァルトの音楽を聴いたとき、この歓喜の情が生起する。
 だから、差異共振精神形成のためには、すぐれた芸術体験が必要であり、また、自然体験も必要である。また、知性を確立させないと、感情中心になり、ロマン主義的になる。(もっとも、ロマン主義が悪いというのではなく、感情中心主義になることを問題視しているのである。)
 悪的傾向をもつ人間は、この差異共振精神形成が為されなかったと考えられる。歓喜の精神が欠落しているのである。
 思うに、今日、うつ病やその他の心の病等は、この問題に関係していよう。差異共振精神の欠落があると考えられるのである。
 今はざっと指摘するに留める。
 
追記:差異共振精神とは光の精神である。即ち、

凸i*凹i⇒凸(+1)

である。右辺が光(光子)である。左辺の双極子から差異共振によって、右辺の歓喜である光が誕生するのである。
 それに対して、差異共振のない、連続的同一性の自我は、闇、無明である。

凸i*凹凹i⇒凹(-1)

である。内的他者凹iを否定して、闇である自我凹(-1)が生まれるのである。
 ここで、純粋自我凸iと連続的自我凹(-1)を峻別する必要がある。前者はきわめて重要なものである。純粋悟性を内在していると考えられる。
 では、差異共振によって誕生した光は、何であるのか。現象光なのかマニ教の光なのか。
 直観では同じである。現象の光とは本来、精神の光であるが、それを連続的自我凹(-1)は物質的、同一性的に視ているのである。
 そう、凸i*凹凹i⇒凹(-1)の右辺は物質的光とも言えるように思える。凸(+1)が精神的光であるのと対照的に。
 E=mc^2とは、思うに、物質的光の公式ではないだろうか。差異共振エネルギー(差異共振光)は、E = hνの方に近いのではないだろうか。
 即ち、E=h(凸i*凹i)である。
 とまれ、二つの光がある。闇(物質、同一性)である光(凹、-1)と純粋な(精神、差異である)光(凸、+1)である。
 尚、本追記は、思考実験である。

追記2:キリストが言った二種類の人間は以上の区別で説明できよう。この世の人間は凹(-1)の人間であり、地の塩である人間は凸(+1)の人間である。闇の人間と光の人間である。前者は後者が見えないのである。





純粋悟性問題
テーマ:manichaeism: 哲学
純粋悟性は既述したように、凸iでいいと思う。これは純粋自我でもある。
 これは、内的他者凹iに対しては同一性的に作用するので、凸i*凹凹i⇒凹(-1)となると考えられる。
 これが人間の自然的一般的精神様態と言えよう。つまり、純粋悟性的精神様態である。
 ここでは、自我が他者を同一性的に支配するのであり、自我は他者、自己を認識していない。無明である。
 もっとも、これは、連続的同一性においてである。母権的自我においてである。
 真の父権的自我は、凸iと凹iを自然的に分離するのである。換言すると、真の純粋悟性、純粋自我は、凹iと不連続的であり、他者・差異である凹iをなんらか認識しているのである。
 思うに、カント哲学の物自体とは、先に述べたとこととは異なり、凹iでないかと思う。カントは凹iを感じていたが、合理的には説明できなかったと思える。
 途中。





光と物質:再考
テーマ:manichaeism: 哲学
先に、光と物質は凸(+1)ということにしたが、どうも違うと思う。
 凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺を光(光子)とすれば、物質は正反対、即ち、凸i*凹凹i⇒凹(-1)と考えた方がいいように思う。
 即ち、光を自我的同一性によって捉えたものが物質ではないだろうか。
 言い換えると、光とは差異共振エネルギーをもつ現象であるが、物質とは、それを自我的同一性的に見たものである。
 だから、果たして、自然界に物質があるのかどうか問題視されよう。物質は仮象のように思える。もっとも、物質とは、差異共振エネルギーの同一性的仮構のように思える。
 言い換えると、差異共振エネルギーの同一性的切り口に過ぎないように思える。本体は差異共振エネルギーである。
 そうすると、オイラーの公式を組み込んだガウス平面の単位円において、右半円(虚軸を含めて)は光の世界、本体の世界であり、左半円(虚軸を含めない)は闇の世界、仮現の世界と思われる。
 つまり、現象的には、光と闇は真逆になっていると考えられる。D. H. ロレンスのdark sunは実は凸(+1)であり、現象世界(物質世界)は凹(-1)と思われるのである。
 今はここで留める。





消費税増税とは何ぞ哉?:権力と愚民:新父権主義へ向けて
テーマ:manichaeism: 哲学
消費税増税政策はオウンゴール策である。これは、単純にわかることである。
 金持ちは貧乏人から金を取りたいのである。そう、民主主義は建前に過ぎない。ブルジョワとプロレタリアがいるに過ぎない。
 前者は金・資本一神教だと思う。これは、母権主義であり、真の父権主義が欠落していると考えられる。
 真の父権主義とは何か。つまり、一神教が母権主義の裏返しと考えられるので、それは逆さまの母権主義であり、真正な父権主義ではないのである。
 思うに、古い母権主義がもっていた原初差異共振主義に、父権主義の原型が存するのではないだろうか。
 私が想起するのは、大国主命である。これが、私にとって、父権主義の原型である。
 するとどういうことになるのだろうか。
 これまで述べたように、母権主義は二重である。即ち、原初差異共振主義と連続的同一性(母権主義的同一性)があるのである。そして、一神教は後者が極まったものと考えられる。つまり、一神教は前者を排除していると考えられる。
 前者はいわゆる多神教的要素ではないだろうか。これを排除したのが、母権主義である一神教ではないだろうか。
 そう、多神教的要素とは端的に原初差異共振主義と言えよう。
 結局、母権主義とは二重であり、原初父権主義と連続的同一性主義があるのである。だから、母権主義という言い方は問題があるが、今はこのままで留めておく。
 とまれ、今日の問題、「トランス・モダン」とは、母権主義の原初父権主義を今日的に復活することを意味しよう。
 それは新父権主義である。
<民主党>消費増税法案了承は19日以降
毎日新聞 3月16日(金)22時3分配信

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民主党厚生労動・財務金融・総務部門・社会保障調査会・税務調査会合同会議冒頭にあいさつする前原誠司政調会長=東京都千代田区の衆院第2議員会館で2012年3月16日、藤井太郎撮影
 民主党の前原誠司政調会長は16日夜、国会内で開かれた党税制調査会、社会保障と税の一体改革調査会などの合同会議で、消費増税法案を党として了承する 手続きを週明けの19日以降に先送りする考えを示した。民主党執行部は16日の了承を目指す方針を示していたが、野田佳彦首相の明言している月内の閣議決 定・法案提出には日程にまだ余裕があり、小沢一郎元代表のグループを中心とする反対派との決定的な対立を避けるため議論に時間をかけることにした。

 会議は午後6時過ぎに始まり、前原氏は「政治家同士で議論しながら、よりいい法案にまとめる努力をしたい」とあいさつ。民主党執行部は16年度にさらなる増税へ向けた法整備を図る「追加増税条項」の修正によって反対派に配慮する方針で会議に臨んだ。

 しかし、反対派は景気悪化時に増税を停止する「弾力条項」に「名目成長率3%」などの数値目標を設定することも強く要求。これには安住淳財務相が16日 の記者会見で「具体的な数字で規定するのは難しい。さまざまな要因を勘案して政治が判断するのが基本だ」と拒否を明言しており、同日中の決着は難しい情勢 となっていた。

 会議は具体的な修正論議に入れないまま2時間近くが経過。野田グループの近藤洋介衆院議員が「きょう決めるべきだ」と発言したのに対し前原氏は「きょうは決めない。中小企業対策など論点を全部出すためにとことん議論してもらいたい」と先送りを明言した。

 もともと週内の決着は難しいとの認識は党執行部側にもあり、野田首相は16日の参院予算委員会で「個別にいろいろ議論があると承知しているが、意見集約 できると思っている」と一定の時間をかけて意見集約を図る姿勢を示した。同時に「法案成立が私の大きな政治目標だ。不退転の決意で責任を果たしたい」とも 述べ、法案を月内に提出したうえで法案成立に政権の命運をかける決意も強調した。【木下訓明、光田宗義】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120316-00000124-mai-pol
消費税法案、決着持ち越し=再増税規定の削除検討―民主
 民主党は16日夜、衆院議員会館で社会保障と税の一体改革に関する政策調査会の合同会議を開き、消費増税関連法案に関する3日目の事前審査を行った。執 行部は、反対論が強い追加増税規定の削除を含め修正する方針を固めた。ただ、会議では小沢一郎元代表グループを中心とする反対派から法案への異論が続出。 執行部は当初予定していた同日中の了承取り付けを断念、決着を19日以降に持ち越した。(時事通信)
[記事全文]

◇2つの焦点
・ [図解]消費税増税関連法案の焦点と意見 - 産経新聞(3月15日)
◎追加増税
・ <消費増税法案>「追加増税」修正へ…政府・民主 - 毎日新聞(3月16日)
・ 再増税時期、明記せず…消費税法案の付則 - 読売新聞(3月16日)
◎景気弾力条項
・ <安住財務相>消費増税法案弾力条項「数値、非常に難しい」 - 毎日新聞(3月16日)
・ [政治クローズアップ]検証消費税 景気によっては増税凍結? - 景気条項について。Yahoo!みんなの政治





いかにして差異を認識するか:同一性認識と差異認識
テーマ:manichaeism: 哲学
母権的自我が主導の父権的自我の場合、その意識は同一性主義になると考えられる。
 つまり、母権的自我のもつ凹iの感情が~主義を作り出すから、父権的自我の同一性が主義化して、同一性主義になると考えられる。
 では、父権的自我(同一性に傾斜する)はどのように差異を認識できるだろうか。
 ある事柄、事象をXとすると、それは、端的に差異であるが、父権的自我はそれを言語化して、同一性化する。しかしながら、Xは差異(カントの物自体)として、存するのである。
 ここで、母権的自我が重要となるだろう。凹iの存在である。つまり、父権的自我が母権的自我の凹iを直観することがポイントである。これが、差異である。凹iという差異を直観することで、事象Xは、差異として、認識されるようになるのである。
 結局、内観の問題になると言えよう。外在的認識のままであると、Xは同一性のままであるが、内的認識を基盤にすると、Xは差異化されるのである。
 そう、空間認識のベースに時間認識を置くのである。
 簡単に記すに留める。





カントの外的感覚(外官)と内的感覚(内官)
テーマ:manichaeism: 哲学
カントの述べる外的感覚とは凸iに、内的感覚とは凹iに基盤があるのではないだろうか。
 当然、純粋形式もそれらにあると考えられる。つまり、空間形式は凸iに、時間形式は凹iに存すると考えられる。
 問題は、差異共振化である。時間と空間の差異共振化とは何か。つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)なのか、それとも、凸i*凹凹i⇒凹(-1)なのか、である。
 時間と空間の差異共振化は前者以外にはありえないだろう。それが、自然の摂理である。
 しかし、時空四次元とはどうなのだろうか。それは、差異共振様態なのだろうか。
 途中。





光と物質
テーマ:manichaeism: 哲学
凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸(+1)が光で、凸i*凹凹i⇒凹(-1)において、凹(-1)が自我ならば、物質はどこにあるのだろう。
 この点で、Neo-PS理論が意味があると考えられる。つまり、ガウス平面に直交するz軸がいわば自我軸であり、y軸は、生命軸(氣の軸)のように考えるとわかりやすい。
 とまれ、私説は混乱を含んでいる。端的に、凸i*凹i⇒凸(+1)は何であるのかである。
 積を同一性化と考えると、凸(+1)は、自我化であり、商凹(-1)は差異共振化である。自然(氣)の場合、凹(-1)が自然の物質(物自体)である。
 そう、やはり、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺が物質ではないだろうか。つまり、差異共振を人間は認識できないので、凸iの純粋悟性=同一性の視点から自然を認識するので、物自体が物質になるのではないだろうか。
 すると、光は差異共振であり、凹(-1)ということになる。それでいいだろうか。
 以上はまったく不整合状態である。
 積をどう捉えるのかが問題である。それを差異共振に捉えるならば、それが光を意味する。そして、光は物質を意味するだろう。E=mc^2である。
 では、商は何か。それは、・・・。

どうも、ひどく混乱しているので、後で整理したい。
 
追記:問題の核心は同一性力学をどう捉えるのかである。
 同一性と物質はどう関係するのか。同一なのか、異なるのか。
 同一性とは自我の事態であり、それから、外的対象を捉えたときに、物質が生起すると考えられる。
 つまり、凹(-1)を自然とすると、それを自我は凸(+1)と捉えるのである。凹(-1)がカントの物自体である。(自我とは純粋自我凸iが外的に純粋他者凹iを認識するときの主観性である。)
 つまり、凸i⇒凹i⇒凸(+1)が物質である。また、光である。
 それに対して、凹i⇒凸i⇒凹(-1)が物自体である。氣的身体である。
 凸(+1)の光とは現象光である。それに対して、凹(-1)の光とは、いわば、氣の光である。(おそらく、D. H. ロレンスのdark sunとはこれである。)
 しかしながら、ここで正確に言えば、ガウス平面に直交するz軸における凸jが本来の純粋自我(アートマン)であり、凹jが純粋他者である。
 「イデア」というとき、自然的「イデア」と人間的「イデア」の区別があると思われる。
 結局、Neo-PS理論の見地である。即ち、ガウス平面の右半円が人間的現象界であり、左半円が自然現象界である。そして、ガウス平面に直交するz軸において、凸jが純粋自我であり、凹iが純粋他者である。
 そのように見たとき、不明なのは、y軸とz軸との関係である。その力学である。
 これは検討課題とする。

追記2:どうも、やはり、はっきりとしない。自我が⇒凹(-1)であり、光が⇒凸(+1)ではないのか。つまり、左半円が自我世界、闇の世界である。右半円が自然世界、光の世界である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)の左辺は積、差異共振を意味し、凸i*凹凹i⇒凹(-1)の左辺は同一性力学を意味するということの方がいいように思う。
 後でさらに検討したい。 





重力問題
テーマ:manichaeism: 哲学
次の私の論考に対して、コメントといただいた。興味深いので、検索したら、以下のような記事があった。


「2012-01-30 重力とは何か:光と物質の反作用としての重力?:闇としての重力作業 編集
重力 とは何か:光と物質 の反作用 としての重力 ?:闇としての重力 作業仮説

テーマ :science

今は直観 だけを言う。空間 を歪めるはたらき、光を曲げるはたらきをするということから 、どうも、media point に関係すると直観 される。
 以前も私見を書いたが、もし、物質 が⇒のエネルギー 方向をもつなら、重力 はそれとは反対に←のエネルギー 方向をもつの ではないだろうか。光が⇒の方向ならば、重力 は←の力の方向である 。
 もし、そうならば、重力 は⇒の反作用 的なもの となろう。凸i*凹i⇒凸の反作用 として、凸i*凹i←凸が形成され、その←が重力 ではないだろうか。
 簡単に言えば、重力 はmedia point の方向を示していると考えられる。そして、ブラック ・ホール もこの方向にあると言えよう。そう、ブラック ・ホール はmedia point から 第三象限ないし凹を指すのかもしれない。
 とまれ、以上から 考えられるのは、重力 と光は対蹠的であり、ある意味 で両極的である 。
 作業仮説である が、実MPにおいて、光と物質 が発出されるならば、その裏面に重力 が形成されるのではないだろうか。やはり、反作用 の法則 、エネルギー 保存則である 。
 だから 、光(現象光)に対して、闇である 。虚MPや第三象限等を志向 しているのではないのか。
 あるいは、光、物質 の表面(現象)に対する裏面、背後である 。その不可視 の世界 、精神 の世界 に、重力 は通じているのではないのか。
 言い換えると、現象太陽 の裏面、背後の闇の太陽 dark sun 、ないしは、霊的太陽 を意味 しているのではないのか。
 光と物質 の第一象限の現実 世界 に対して、重力 は、精神 と闇の光(超越光、マニ教 の光)の霊的世界 を意味 しているのではないのか。
 今はここで留めたい。

追記:先に、凸iの光(原光)と実MPの光(現象光)は異なると言ったが、そう考えなくても説明できるだろう。
 即ち、現象光を同一性 の光とすれば、それは、凸iの光と一致すると思われる。
 そのときは、凸iが主導となって、凹iを同一性 化しているのである 。
 しかるに、凹iが主導のときが考えられる。そのときは、光ではなく、凹iの闇(原闇)が生起すると考えられる。
 それは、当然、不可視 である 。闇である 。これが、重力 なのではないだろうか。方向性は、光凸iの反対であり、下降↓である か、物質 化⇒の反対の←である 。
 とまれ、闇としての重力 である 。さらに後で検討 を続けたい。」
http://d.hatena.ne.jp/antares/20120130#c

コメント
「 gavity man 2012/03/12 02:52 「太陽は地球を引き回す」
重力作用を考えてみると、私見では質量に2種の 働きがあるような気がする。一方は質量の最小構成要素から発生する波と他方は質量がその波と共鳴する時、質量体は飛来した反対方向に光子を排出すると光子 同志の摩擦で波の飛来した方向に力が働く、丁度光子ロケットのように、即ちこれが万有引力ではないだろうか。例として太陽と地球の引力は地球軌道の接戦方 向に作用する、太陽はあたかも地球を引き回すように。詳しくは是非URLを参考にして欲しい。」

MEBIUS - Gravity man さんのサイト(再掲、追記)

MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2

MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2

MEBIUS - 重力とは何だろう その2

1.重力の謎

電荷のエネルギー

2012年03月02日 (23:56)

男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位

男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位

テーマ:media point

男性は女性の言動を見ると、不合理、異常、病的に思うことがあるが、女性が男性を見ると、馬鹿と思うのではないだろうか。
 結局、昔から言われていることは間違ってはいない。
 女性は凹iの感性感情欲望が優位なのであり、男性は凸iの原自我、同一性志向が優位であると考えれば、簡単に解明・解決できる。(尚、本稿では、後期PS理論に基づいている。Neo-PS理論の場合は三次元になるが、後期PS理論はガウス平面が知的インフラである。)
 だから、女性はその意味で不合理の塊と言えようし、男性は直観力の乏しい愚物である。
 凸iと凹iは互いに絶対的差異であり、絶対的矛盾である。これは、そのままでは、コミュニケーションは不可能である。
 しかしながら、PS理論はこれを差異共振、media pointによって簡単に解決するのである。
 そう、母権と父権の相克していたD. H. ロレンスは、晩年の『逃げた雄鶏(死んだ男)』で、この矛盾をPS理論を先取りするように解決したのである。
 女性は知性や理性の存在ではなく、感性、感情、直観の存在であり、男性は同一性的知性の存在である。共役不可能(通約不可能性 - Wikipedia )な存在であるが、PS理論がこの問題を解決・解明したのである。

追記:上述のことは実はそれほど重要なことではない。ある意味で陳腐な真理である。
 実はそこからの発展が実に重大なのである。
 即ち、私が先に自我について問題にしたが、実は同一性主義の根因は凸iではなく、凹iではないかと思われるのである。つまり、単に凸iが優位ならば、それは、悟性を意味するので、同一性を志向しても、同一性主義、同一性中心主義にはならないと考えられる。
 凹i優位があるために、それが同一性に感情固着をもたらして、同一性主義、同一性中心主義になると思われるのである。
 つまり、連続性が生起する時、精神的フィルターによって、同一性化が生じるが、そのとき、凸iに凹iが連続化、接着化して、凹iのもつ感情性が同一性に加わり、同一性主義、同一性中心主義になると考えられる。
 ここで、飛躍して言うと、日本文化は母権主義と父権主義の結合から生まれたとこれまで述べてきたが、思うに、前者は凹i主義で、後者は凸i主義である。両者のバランスが優れた日本文化を生んできたと考えられる。そう、古代ギリシア的である。
 そして、これまで、明治維新以降の近代日本、現代日本は、父権主義に傾斜してしまい、母権主義を喪失したと述べたが、本稿の視点からするとそれは、間違いである。
 明治維新は一見父権主義的だが、本稿の視点から見ると、実は、ベースの凹iが強く作用して、同一性主義、同一性中心主義を生んだと考えなくてはならない。
 つまり、明治維新は母権主義的なのである。これまでの考えと真逆である。
 実は父権、凸iが足りないのである。そのために、凹iに支配された同一性主義が近代日本、現代日本に支配的になったのである。これで日本人の没思考性、没個性等が説明できる。
 この視点をさらに敷延すると、一神教の謎も解明できる。実はルドルフ・シュタイナーがヤハウェは「キリスト」がいわば、陰化したものであると述べている を以前から不思議な考えと思っていたのであるが、本稿の凹i支配の同一性主義の視点からすると、ヤハウェの基盤は凹iに存するのであり、それが、連続化に よって、同一性主義、同一性中心主義になったと考えられるのである。
 つまり、ヤハウェの本性は光(陽、凸i)ではなく、闇(陰、凹i)なのである。それが、凸iと連続化して、同一性的神、唯一神を産んだと考えられるのである。
 つまり、ヤハウェは母権的なのである。女性的なのである。「我は嫉妬深い神である。」「復讐するは吾にあり。」
 そして、イエス・キリストとはその連続的同一性を切断する不連続性の神であると考えられる。
 つまり、凹iと凸iの癒着を断ち切ったと考えられるのである。
 それは実際どういうことなのだろうか。連続的同一性の自我感情を否定して、他者への共感を説いたのである。そう、他者主義を説いたのである。
 この場合、凹i-1を説いたと考えられる。第三象限である。
 核心は思うに凸iによる認識を介して、他者凹iの発見することである。それまで、凹iは同一性化されて、他者ではなく、自我化されていたと考えられる。
 これは、正に、差異共振、精神的差異共振、自己差異共振である。
 だから、その意味では、PS理論の先駆者はイエス・キリストであると言うことが可能である。
 とまれ、重要なポイントはヤハウェ(「父」)は、凹iに存するであるが、キリスト(「子」)は、人間的差異共振原理を覚醒させたと言えよう。それは、media pointの新生である。
 つまり、ヤハウェは凹iに基づく、同一性原理をもたらした。それに対して、キリストは凹i☯凸i⇒凹(-1)の差異共振原理をもたらしたということになる。ヤハウェの同一性、連続性原理に対して、キリストは差異・他者原理をもたらしたということになる。
 ヤハウェが母権原理ならば、キリストは父権原理を強化して、母権原理の差異・他者性の発見を説いたと思われるのである。言い換えると、父権と母権の均衡を説いたのである。だから、その意味で、キリストとは古代ギリシアの延長であると言えよう。
 とまれ、今はここで留める。
 
追記:「聖霊」について述べていなかったが、それはどう定式化されるだろうか。
 キリストが他者原理凹i⇒凹(-1)ないし凹i-1を説いたとすれば、「聖霊」は既述したように、やはり、media pointである。そう、media pointの新生的覚醒である。
 Neo-PS理論で言えば、3D media pointの開花である。このとき、精神と自然と人間が融合し調和するのである。





自我(凸又は+1)の他者排除性と人間認識図

テーマ:media point

本件は検討問題ということにしておく。
 一つは自我の他者排除主義について、再考したい。これは、自我、自己同一性によって簡単に説明できるが、一体、自我に拠る他者排除の意味を考えたいのである。
 もう一つは、人間認識図において、自我的様態をどう位置付けることができるのかという問題である。
 生成門氏のa+biの考え方に、先に疑問符を付けたが、今の感じでは、π/2回転やπ回転以外にも、自我的様態がありえそうである。
 とまれ、自我は、凸i⇒凸(+1)である。凸iが原自我であり、凸(+1)が自我である。(尚、今の段階では、Neo-PS理論ではなく、ガウス平面を基盤としたPS理論を使用するが自我は凸又は+1とする。)
 とまれ、凸i⇒凸(+1)はもっともタイトな自我様態である。(これを1で問題にすることになるのである。)
 実際は緩い自我が一般的である。心的緩さとは、つまり、media pointないし凹iが意識的にしろ、無意識的にしろ、活動しているということである。
 つまり、凸iの強度と凹iの強度が併存しているのであるが、一般的には凸iが主導的である。
 だから、自我一般方程式はa凸i*b凹i⇒Ego Modeとなるのではないだろうか。つまり、二つの虚数、凸iと凹iが、自我的様態を数式化するとき必要なのである。(先には、精神は双極子であると述べたが、それは、二つ虚数が必要ということと同じ事柄である。)
 そのように定式化したとき、問題は、オイラーの公式との関係である。
 これは難しい問題だと思う。例えば、

a凸i⇒cosθ+i・sinθ

となるように、aを工夫する必要があるだろう。端的に計算すれば、

a=(cosθ+i・sinθ)/凸i=cosθ/凸i+sinθ/凸

=cosθ/凸i+sinθ

となるのではないだろうか。この妥当性は今は問わないでおく。
 次に、b凹iであるが、これは、

b凹i⇒cosθ-i・sinθ

と見ていいだろうか。これだとb凹iは共役複素数になる。それでいいのだろうか。
 私の先の直観では、凹iは凸iを反時計回りに、π/2回転させたものであるから、b凹iもなんらか、π/2回転と関係しそうなのである。
 だから、仮定として、b凹iはa凸iを反時計回りにπ/2回転した位置にあるとする。
 そうすると、

b凹i⇒cos(θ+π/2)+i・sin(θ+π/2)

ということになる。
 共役複素数がいいのか、それともπ/2回転した双極子と見た方がいいのか、それとも、別の考え(不明)がいいのだろうか。
 今は問題提起だけに留める。
 




美と自我:美術的美の自我的傾斜

テーマ:art & design

この問題は以前からの課題である。
 美的感覚には、道徳心が欠落するような感じがするのであるが、それを定見にはしていない。
 もっとも、私の美的認識では、美と倫理は離れていない。この齟齬をどう考えるべきか。
 思うに、美的認識は差異共振認識であり、それは基本的には誰にでも内在している。
 しかし、美術的美の場合、とりわけ、凸jの志向が強いと考えられる。つまり、精神的自我の光が強いということである。
 そう、このために、精神的差異共振主義を欠くので、道徳心・倫理が欠落する傾向にあるということと考えられる。

追記:しかしながら、感動を与える美術は、やはり、根本的に、差異共振主義が存すると考えられる。つまり、音楽的調和性である。
 すぐれた美術は音楽性がある。これは例証するまでもない。







個的自己(造語で個己、個自、あるいは個自己)とは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

私は個とは他者凹jであると述べてきた。個=他者とはどういうことなのだろうか。つまり、「わたし」は「わたし」であるという個の視点から見て、これは齟齬する思考である。
 思うに、人間は自我(原自我凸j)に傾斜している存在である(今日において)。
 だから、他者凹jをそれとして認知するとき、凹j☯凸j⇒凹(-1)の精神事象が生起するのである。(シュタイナー的に言えば、「キリスト」である。)
 しかし、それは、同時に、凸j☯凹j⇒凹(-1)ということである。これが、一般の自然界にはあり得ない事象である。
 結局、原自我でありつつ、他者であるという即非的事象がここにある。それが、個的自己の事象であると思われる。
 つまり、個=他者とは、ベースに原自我が存しているのである。確かに、自我【凸(+1)】ではないが、原自我は存するのである。それが、知性の基盤である。
 今はここで留める。

追記:原自我凸jとはウパニシャッド哲学のアートマン(大我)であろう。





「イデア」ないしエイドスとは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

「イデア」は原像として捉えた方がいいのではないだろうか。理念や観念ではなく。
 今は一言言及するのみだが、差異共振のもつ原イメージがそれではないだろうか。即ち、

凹i☯凸i⇒凸(+1)

の氣的自然形成ならば、左辺に「イデア」(エイドス)が存するように思う。また、

凹j☯凸j⇒凸(+1)

の精神的差異共振においても、左辺に存すると思う。この場合は、「霊魂」、「魂」、「個」性のように思える。
 

2012年02月28日 (00:21)

回転(スピン)の問題:精神子(凹j☯凸j⇒)と氣子(凹i☯凸i⇒)の問題

回転(スピン)の問題:精神子(凹j☯凸j⇒)と氣子(凹i☯凸i⇒)の問題
テーマ:Neo-PS理論

精神子ないし氣子の回転(オイラーの公式に規定されたガウス平面における)は、連続的ではなく、不連続的、端的に言えば、(1/2)nπ回転ないし、(nπ+1/2π)回転ではないだろうか。簡単に言えば、90度回転ではないのかということである。
 オイラーの公式のsinθ±icosθは、理論的には当然存するものであるが、果たして、精神子(精神的双極子)と氣子(自然的双極子)において、それ以外の回転をもつのか疑問に思っている。
 確かに、理論的にa+biは考えられるのであるが。

参照:
• 【人間認識図】 クリーネの3値論理とNull + 真偽(意義、意味)の反転
• Adele – Rolling In The Deepを人間認識図の観点から詳細分析してみる。
• 【人間認識図】 実軸に波動関数の存在確率「密度」を導入するので、精神濃度と共に精神「密度」の概念も用いる。
• 波動関数の「存在確率の計算」の辺りのメソッドを真円人間認識図の実軸分析に応用してみる。

【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図
【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図

 実は、真円の人間認識図の提示と同時に、楕円形の双極系人間認識図も発案していたのであるが、楕円は真円と比較して格段に複雑になり、さらに、双極間の 相互作用など、込み入った説明が不可避であり、その上、真円の人間認識図だけでも非常に難解な解明作業が必要であると判断して、紹介を保留してきた。

 今回、本日の日付で公開する。

d posted by (C)天花一海

 双極作用による相互影響の結果、直観的には、陰陽図のような「光」と「闇」の分化・分領域化が起きると想定して、その図解も挿入した。真円の時のように、直線的な領域分化にならずに、曲線的な領域分化、media point line になるだろうという想定である。

但し、真円の人間認識図も、未だ、未解明な部分が多くあり、楕円双極になると、より高度な分析を必要とするので、今の所、真円の人間認識の解明に重点を置きたい。

 但し、必要に応じて楕円の研究も進める。本来、人間認識は双極構造であろうと思われる。

海舌
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813449
• 【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参考:


スピン角運動量
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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スピン角運動量(スピンかくうんどうりょう、spin angular momentum)は、電子 やクォーク などの素粒子 、およびそれらから構成されるハドロン や原子核 や原子 などの複合粒子が持つ角運動量 で、量子力学 的な自由度の 1 つである。単にスピンと呼ばれることもある。スピン角運動量は、軌道角運動量 とともに、粒子の全角運動量に寄与する。
基本変数を「粒子の位置 と運動量 」とする量子論 ではスピンを記述することができないため、粒子が持つ「内部自由度(固有角運動量、内部角運動量とも呼ぶ)」としてスピンを基本変数に付け加える。この「位置と運動量とスピンなどの足りないもの」を基本変数とする量子論が「量子力学 」である。基本変数を「場 とその時間微分または共役運動量」に選ぶ量子論、つまり「場の量子論 」では電子は粒子ではなく「電子場」として記述され、電子場は電磁場の「偏光 」(電磁場の向きが右回りに回転するか左回りに回転するか)に似た属性を持つ。これがスピンであり、場の自転 のようなものなので、角運動量を伴う。その角運動量ベクトルで、スピンの向きと大きさを表す。このスピンの例でわかるように、古典的に場であったもの(電磁場 など)だけでなく、電子のような古典的には粒子とみなされてきた物理系であっても、場を基本変数にしたほうが良く、適用範囲も広いことが判っている。[1]

スピン角運動量演算子 [編集 ]
スピン角運動量は、3 つのエルミート演算子 sx, sy, sz で表される物理量である。これらの演算子の間には、軌道角運動量 と同様の交換関係 が成り立つ。



ここで、 であり、h はプランク定数 である。ただし軌道角運動量 と異なり、空間座標とその共役運動量との外積 として表される必要はなく、したがってその大きさは を単位として整数値のみでなく半整数値をもとりうる。
スピン角運動量の大きさの二乗を
s2 = sx2 + sy2 + sz2
と定義すると、これは各成分 sx, sy, sz のいずれとも交換する。一方各成分同士は交換しないので、s2 と各成分 sx, sy, sz のうちいずれか一つとを同時に対角化できる。多くの場合同時対角化する成分を sz とする。s2 の固有値 は 、sz の固有値は (ms = - s, - (s - 1), ..., s - 1, s) となる。ms をスピン磁気量子数という。s は、0 以上の整数 または半整数 の値をとる。素粒子の場合、s は素粒子の種類ごとに定まった値をもつ。
スピン 1/2 [編集 ]
s = 1/2 の場合を考える。このとき、s2 の固有値は であり、sz の固有値は の 2 つが存在することとなる。従って対応する固有状態も 2 つであり、それぞれ上向きスピン、下向きスピンと言うことが多い。
スピン角運動量の各成分 (sx, sy, sz) はパウリ行列 (σ = (σx, σy, σz)) を使って以下のように表される。



以上は、sz に関して対角となるようにしてある。
スピンと統計性 [編集 ]
s が半整数の値をもつような粒子はフェルミ粒子 であり、s が整数値をとる粒子はボース粒子 であることが知られている。s の値と統計性の間のこのような関係は、相対論 的な場の量子論 によって説明できる。
脚注 [編集 ]
1. ^ 清水明 『新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために―』 サイエンス社 、2004年。ISBN 4-7819-1062-9 。
関連項目 [編集 ]
• 角運動量
• 量子力学
「http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%B3%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F&oldid=41279740 」より作成
カテゴリ :
• 量子力学
• 量子数
• 回転





3D media pointの混融性:3D media point complex
テーマ:media point

今は一言言うだけだが、三次元のmedia point(3D media point)の意義は計り知れない。
 凸j*凹j⇒凸(+1)であるが、実は、3D media point(z軸とy軸とx軸が交差する原点)では、凸j*凹j⇒凸iというような混合的融合が生じていると思われるのである。
 また、易であるが、その2^6=64の卦であるが、それも、
3D media pointを考えると納得できるように思う。
 つまり、凸j*凸i*凸*凹j*凹i*凹が3D media pointで生じ、それぞれの要素は凸凹(±)の転換が可能であると考えられるのである。詳細は後で検討したい。
 また、英語では9という数字が一種の完全数であるが、それも、易の上部の3項と下部の3項の積であるように思える。
 今は直観的指摘(思いつき)のみである。





光とは何か:自然の光と精神の光と物質の光:三種類の光?
テーマ:Neo-PS理論

Neo-PS理論から、改めて、光とは何か検討する必要がある。
 自然の光は氣的差異共振エネルギーの発光現象のように思えるが、精神の光(マニ教の光)は、原初差異共振では、凹j☯凸j⇒凹(-1)の⇒と考えられる。
 しかし、新しい差異共振は凸j☯凹j⇒凹(-1)ということになる。つまり、凸jの支配の下、凹jが不連続化して、差異共振するということである。
 私がこれまで述べてきた超越光とはこの新しい差異共振光のことのように思える。
 しかしながら、それは、氣の光を帯びているのである。この氣の光と精神の光の融合が、新しい差異共振光には生じると思う。
 そう、正確に言うと、自然の光は微妙である。それは、氣の光でもある。しかしながら、凸jの同一性支配によって、それは、同一性化される。物質的光になると思われる。
 だから、三つの光があるように思われる。一つは自然の光、一つは精神の光(超越光)、一つは物質の光である。
 現象光という場合、自然の光と物質の光が混淆しているように思える。
 ところで、D. H. ロレンスのdark sunとdark Godであるが、これまで、ほぼ同一視していたが、前者は自然の光、氣の光であり、後者は精神の光ではないのだろうか。
 以上は問題提起であり、後で検討したい。

2012年02月22日 (01:03)

言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移

言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
テーマ:language

先に、連続性に関して、それは凸iによる凹iの力学であると述べたが、それから帰結的に、本件の主題が生じる。
 これまで、何回か本件について述べてきたが、結論ないし結論というものに到達していなかったので、あらためて検討したい。
 言語の問題は、正に、イデア論、PS理論における本質的問題である。
 初期PS理論(Premier PS Theory、PPSとする。それに対して、後期PS理論をLate PS Theory、LPSとする。)に拠って考察する。
 明らかに、言語は凸iの支配に関係している。史的に見ても、父権文明が文字文明であり、それ以前の母権文明は口語はあったろうが、無文字文明と言えよう。(シュメール文明の問題がある。)
 だから、正確に言えば、口語と文字言語を区別する必要がある。
 では、最初、口語、話し言葉について考えよう。それは、史的には、前父権文明の母権文明について考察することでもある。
 即ち、D. H. ロレンスが『黙示録論』
黙示録論 (ちくま学芸文庫)/D・H ロレンス

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で明らかにしたように、それは、イメージの文明である。感覚知覚におけるイメージ中心主義の文明である。
 この背景において、口語について考察する必要がある。イメージとしての口語である。つまり、詩的言語的な口語ということが想起される。そう、口承文芸、 吟唱詩人、語りというようなことが想起されるのである。(古代ギリシアのホメーロス、日本では、記紀の元になった口承神話が考えられる。また、平家物語は 本来、吟唱されるものである。)
 イメージを喚起する音楽的言語としての母権文明的口語ということが考えられるのである。
 そうすると、それは、当然、凹iと凸iの差異共振イメージに拠ると考えられる。つまり、凹i*凸i⇒+1の光の言語ということになる。これはここで今は留めておく。
 次に、文字言語について考察しよう。それは上述したように、父権文明における、凸iによる凹iの支配力学から「創造」されたものと考えられるのである。
 これは同一性言語となる。そう、象形文字(表意文字)と表音文字を区別しないといけない。
 では、先ず、象形文字について考察しよう。
 それは、母権文明のイメージ言語を文字化したもののように思える。即ち、凹i*凸iの共振イメージを凸iで写し取ったものと考えられる。漢字が例をあげ るまでもなくそのように考えられる。(絵文字も考える必要がある。エジプト文字である。それは、象形文字以前のものであり、それが差異共振イメージを最も 凸iで写したものであろう。詳細についておいておく。)
 差異共振イメージを凸iで写すとはどういうことなのだろうか。それは、精神的光(凹i*凸i⇒+1)を現象的光(凸i)で写しとることではないだろうか。(精神的光を大光、現象的光を小光と簡略化する。)
 大光を小光に写しとること、内的感覚(内的視聴覚)を外的感覚(外的視聴覚)に書写することである。
 つまり、ここには、ハードではないものの、凸iの凹iに対する支配がはたらいていると考えられる。
 では、次に、表音文字である。(史的にはフェニキア文字がアルファベットの始原である。)
 これは、もう基盤には差異共振イメージはほとんどないと言えよう。もっとも、これもベースは差異共振イメージ、象形文字(表意文字)であったが。
 基盤の差異共振イメージを消去されて、抽象化された表意文字である表音文字が父権文明を精神的に形成すると言えよう。(思うに、象形文字、表意文字の形 成力学において、デリダのエクリチュールの概念はそれなりの意義をもつが、しかし、デリダは口語のイメージ言語と文字言語は混同しているように思われる。 これについては検討課題である。)
 では、抽象化された表意文字である表音文字(例えば、アルファベット)の形成力学とは何か。
 ここには、分析的知性がはたらいていると考えられよう。分析化された音声が表意文字化されるのである。
 この分析抽象化作用であるが、これは、正に、凸iの本性の作用であると考えられる。
 思うに、表意文字的認識は凸iの本性である。そう、正に、同一性作用である。思うに、正確に言えば、超越論的同一性認識作用である。これは、カントの悟性に相当しよう。
 つまり、人間は他の生命体とは異なり、先天的、先験的に、超越論的同一性認識作用=悟性を具備、内在していると言えよう。(一時流行したチョムスキーの 生成文法論であるが、それは、この視点から考えれば、基本的には妥当性をもつと言えよう。しかし、実際は構造主義になってしまった。つまり、二項対立論に なってしまった。)
 以上で、簡単ではあるが、本件の問題を基本的には解明したと考えるが、最後に構造言語学【構造言語学 とは - コトバンク 】(構造主義【構造主義 - Wikipedia 】)について簡単に触れて終わりにしたい。
 構造言語学はソシュール(フェルディナン・ド・ソシュール - Wikipedia )のものが源泉である。ソシュールの有名なシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)【シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia 】との対立と融合について考えよう。
 ここでは簡明にするために、表音文字で考えよう。そこでは、シニフィアンは音声ないし表音文字である。そして、シニフィエであるが、思うに、ここには、 混濁がある。つまり、意味されるものは概念とイメージの両方があるからである。ソシュールは両者を混淆、混同していると考えられる。
 概念の場合は当然、凸iの悟性作用に拠るのであるが、イメージの場合は微妙であり、差異共振イメージ(内的イメージ)と現象的イメージ(外的イメージ)の両方が考えられるのである。
 だから、ソシュール構造言語学とは、一面では、凸iの言語学であり、他面では凸iと凹iの差異共振言語学の側面をもつと考えられる。
 その構造主義とは、シニフィアンとシニフィエの対立に拠ると言えようが、それは果たして、二項対立なのだろうか。例えば、前者が後者に対して、優位であると言えるのだろうか。そのように考えたのは、ラカンであるが、ソシュールではないだろう。
 だから、ソシュールの構造言語学とは二項対立の構造主義とは異なると言えよう。とまれ、二項構造をもつという意味での構造主義ではある。
 そして、ソシュール言語学の差異共振言語学的側面があるからこそ、あるいは、凸iの同一性言語学と差異共振言語学の混同があるからこそ、ソシュールはその後、低迷して、最後、アナグラム(アナグラム - Wikipedia )に関わるようになったと考えられる。
 アナグラムとは一種の言葉遊びで、文字の順番を変えたりして、意味の変化を楽しむものであるが、それは正に、差異共振イメージに拠ると言えよう。例えば、godを順序を逆にすると、dogになるというようなことである。
 つまり、差異共振は、対立するものが共振するということであるから、godと順番が逆という意味で対立するdogを引き出すのである。つまり、アナグラムを生み出すのである。
 ここで留める。






光とは何か:二つの光:差異共振光と同一性光
テーマ:manichaeism: 哲学

マニ教の光とは、初期PS理論モデルに拠れば、凸i*凹i⇒+1の+1に相当しよう。そう、オイラー・ガウス平面の右半円が光の世界である。
 では、一般の光、陽光とは何であろうか。それは、マニ教の光ではない。マニ教の光は、差異共振の光である。凸iと凹iの共振に拠る光である。いわば、霊的光である。
 一般の光、陽光とは何であろうか。これは、実は凸i主導の同一性の光ではないのか、と思った。
 思うに、自我様態と同質の光ではないだろうか。私が想起しているのは、父権的神話である。父権的太陽である。それは、太母を殺戮する父権的な英雄の太陽である。
 思うに、これは、客観的事象というよりは、主観的事象、精神的事象ではないだろうか。
 つまり、差異共振の光(霊的光)を父権的同一性の光で抑圧しているということである。
 これが、凸i主導の光ということになる。凹iと凸iの差異共振の光(霊的光)はいわば閉鎖されているのである。
 だから、一般の光、陽光とは、凸iの光と言えよう。原光である。(そして、これが後の一神教の神となるだろう。)
 まとめると、光は二種類あるのであり、一つは、凸iと凹iの差異共振光(マニ教の光、霊的光)であり、一つは、父権的同一性の光(凸i)である。
 D. H. ロレンスが「我々は光の背中を見ているに過ぎない」と言ったのは正に、この事態を指していると言えよう。光は差異共振光でありながら、いわば、裏返しにされた光凸iになっているからである。
 そう、これは、精神的フィルターの光と言えよう。同一性の反射の光、鏡像の光とも言えよう。
 言い換えると、物質の光と精神の光があるのであり、後者が今日、否定されてしまっているのである。
 マニ教の光は絶対的に後者である。これは、凹iと凸iの原始差異共振を不連続化することで形成されよう。
 ところで、私は先に、自然界は+1であると述べたが、この点どうだろうか。
 つまり、自然界は差異共振によって形成されているということを意味したのである。
 そう、自然界は、精神的光から創造されたと言えよう。しかしながら、人間の同一性的自己、自我は、それを同一性の光で遮断して見えないのである。
 自然的精神の光を同一性の自我の光で排除して、物質的光のみを見ているのである。







連続的複素数精神と不連続的複素数精神:双極子としての複素数精神の連続性と不連続性
テーマ:media point

生成門氏のガウス平面精神マップ(GPS:Gaussian plane Positioning System)は興味深いが、指摘したいのは、精神は双極子であり、cosθ+i・sinθとcos(θ+π)+i・sin(θ+π)が精神の双極子の位置であろうということである。
 次に、精神が連続性のままであるときは、つまり、凸iが凹iを支配しているときは、すべての精神複素数双極子は、当然ながら、連続様態であると考えられることを指摘したい。
 私は現段階では、初期PS理論モデルに従っているが、そこにおいて、凸iによる凹iの支配の状態では、精神複素数双極子は、左半円に属し、それらはすべて、連続態ということになる。
 そして、不連続化が為されたとき、即ち、凹iが独立したとき、精神複素数双極子は、右半円に属するのであるが、それは、すべての位置、点において、不連続態であると考えられる。
 言い換えると、左半円(闇)の自我領域は連続的同一性の領域であり、右半円(光)の自己領域は不連続的差異共振の領域であるということである。
 尚、虚軸は左半円ではなく、右半円に含まれると考えられる。
 今は簡単に指摘するに留める。

追記:精神は双極子と言ったが、そうすると、例えば、右半円の円弧の一つに属するとき、対極は、虚軸の場合を除いて、左半円に属することになり、矛盾することになるのである。
 思うに、凸iと凹iの差異共振の強度(濃度)に応じて、右半円の上部と下部に精神複素数が形成されるのかもしれない。つまり、共役にあるということである。即ち、a±biである。
 そして、連続性の場合(左半円)も同様であるように思う。
 今、ふと思ったが、私が勘違いしているかもしれない。凸iと凹iは双極原理であるが、それをベースに、双極子ではなく、点として、複素数精神が動くのかもしれない。
 そうならば、生成門氏の考えは正しいのである。そうだとしても、連続性と不連続性(差異共振性)は区別されなくてはならない。
 初期PS理論モデルでは、虚軸を除いて、左半円は連続性の領域(自我、闇)であり、虚軸を含めて右半円は不連続性(差異共振性)の領域(自己、光)と考えられる。
 思うに、凸iと凹iの極性原理において、人間では、左半円と右半円が併存している。つまり、自我と身体(氣的身体)である。そして、自我を不連続化すると、右半円に自己形成が起こるのである。つまり、精神の光化である(正に、マニ教的事象)。
 否、正確に言えば、原始差異共振と連続的精神があるのである。つまり、前者は右半円に属しているが、後者は左半円に属しているのである。
 だから、やはり、精神は二重なのである。凸i主導と凹i主導の二重性があるのである。だから、精神は単に一点としては位置付けられないだろう。凸i主導の点と凹i主導の点の両点を把捉しないといけない。
 途中であるが、ここでおく。
 

2012年02月19日 (01:54)

連続性とガウス平面複素数精神様態マップ

先の考察は、以下の生成門氏のかなり難解な、例えば、以下、赤文字と下線で強調した箇所、即ち「第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識」という考え方について述べなかったので、連続性の問題の視点から、一言述べたい。
 先に、連続性とは凸iによる凹iの支配、凸i自体の同一性による凹iの支配であると述べた。(仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html)
 連続性力学(凸iによる凹iの支配力学)の視点から見ると、第一象限とは、基本的には連続性(連続的同一性)の領域に思える。
 ただし、a+biの複素数精神様態をどう見るのか、問題である。そう、私見では、a±biの方が実際的に思える。
そして、aがゼロのときに、±bi、即ち、凸i、凹iが生起する。つまり、不連続化が起こるような感じがする。
 では、aがゼロでないときは、どうなのだろうか。そのときは、純粋な凸iと凹iは生起していないのではないだろうか。
 そうならば、やはり、連続性のままであるように思えるのである。
 ただし、一端、不連続化が生起したとき、不連続態を保持したまま、a±biの様態はあり得ると思う。
 暫定的であるが、今の段階では、私見では、第一象限は、連続性(連続的同一性)の領域に思えるのである。だから、果たして、そこに述語優位の領域があるのか疑問である。(連続性とは先述したように、凸iに拠る凹i支配力学であり、凸iの支配とは、端的に、主語優位になると考えられる。)
 最後に第四象限について簡単に触れよう。それは、一種の連続性の領域、ないし逆連続性の領域に思える。
 強度の凸iの支配があるとき、原始差異共振性は衰滅し、反動的な凹iが生起する。それは、当然、同一性=物質と結びつき、物質欲となるのである。凹i+1の世界である。
 補足的に、原始差異共振について一言述べておこう。先に、それは、新しい差異共振によって乗り越えられると述べたが、それはそれで正しいが、内的メカニズムを捉えていないと思う。
 原始差異共振は凹i主導の差異共振であり、凸iは覚醒化していないのである。しかしながら、凸iの支配力学にあって、深層的に、原始差異共振のもつエネルギーは凹i中心に蠢いていると考えられる。
 凸i支配下にあって、原始差異共振エネルギーを不連続化すること、それが、新しい差異共振の創造を意味すると考えられるのである。
 
資料:

第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0)

『モナドの視点とはなんでしょうか?

「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか?

大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。

「響く」感じです。

これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。

しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。

これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。

「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。

述語と主語の認識

ここで、疑問が出てきたと思います。

第1象限は光の認識であって、山彦が闇なら、第4象限になるのではないかと言うことです。ところが、第1象限は述語優位(響く)から主語優位(山彦)に移っていきますから、第1象限に闇が入ってきてしまいます。これはおかしなことです。

そうです。これが認識の段階が螺旋的だという意味の難しいところです。

子供に大人の認識が入って来るので混同しているのです。

子供はまだ闇を知りません。ですから「響く」だけです。つまり、第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識であって、そこから勝手には右にはいかないのです。

大人はG(0.7,0.7)右、つまり、主語優先の位置に行きます。それは何故でしょうか?

大人は知識を持っています。知識というのは、「帰ってきた、おーい」は「山彦である」という知識です。

しかし、知識は「物」ではありませんから目では見えません。つまり、知識は闇の認識なのです。言い換えると、闇とは他者の知識(認識)なのです。知識とは誰かの先祖とか、科学者、お婆さんの知恵なのです。それが言い伝えられてきた文化伝統の類です。

ですから、その他者の知が私という自己の中に侵入して来なければ、闇は生まれないのです。

子供がこの知識を始めて知ったとしましょう。その瞬間、子供が大人になったときであり、闇が生まれたときなのです。つまり、他者が私に中に入ってきたのです。他者とは、私の中に無断では入って来るのですから、ウィルスのようなものなのです。

このとき子供に凹i(他者)が生成され、第4象限のG(0.7,0.7)から右側の認識が生まれるのです。第4象限の凹iからG(0.7,0.7)を経由して、-1に向かうのが自分で理解したときです。

親から教えてもらうようなケースでは、途中からG(0.7,0.7)が発生するのです。

第4象限のウィルスのように侵入した他者の知による闇の認識:G(0.7,0.7)と、既に発生している第1象限のG(0.7,0.7)との間に共役が生まれます。こうして、第1象限の認識がG(0.7,0.7)から右に移動して+1に向かうのです。これはまるでウィルスによる乗っ取りです。

つまり、第4象限から第1象限へ反転するのです。しかし、ただ、同じGPを渡ることはありません。GPは螺旋的に回転しているのですから、GP1(述語優位)→GP2(主語優位)という渡りになるでしょう。

GP2(主語優位)とは二枚目のGPであり、しかもその半分が主語優位となって出てきたのですから、他者(ウィルス)によって乗っ取られたようなものです。

一枚目GPS(a,-b):a>0,7.b<0 .7→二枚面のGP(a,b):a>0.7,b<0.7

これが自我の発生という瞬間の実況中継です。

http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663

シムダンス「四次元能」

2012年02月18日 (23:39)

仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである

仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
テーマ:media point

生成門氏のガウス平面マップにおける思考(第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0) http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663 )について、即ち、複素数精神様態とは何であるのかと考えていたら、連続性とは何かという問題になった。それについて述べたい。
 PS理論の前身の不連続的差異論は、連続的差異=微分の脱却から始まった。
 いったい、連続性とは何であろうか。これまで、数え切れないくらい論じてきた。
 結局、今の結論(仮説)を言えば、それは、MP2(実MP)における同一性(自我)=物質形成の根本的力学である。それは、凸iが主導する、そして、凹iを支配する原理である。
 この問題は当然、不連続的差異論初期の段階に戻るものである。
 即ち、連続的同一性の力学である。これは、端的に、凸iが主導する力学であり、差異(絶対的差異・内的他者)である凹iを同一性で支配するのである。
 つまり、連続性とは同一性力学のことである。同一性がmedia pointを支配するのであり、そのとき、被支配の差異凹iは、個的自由を求めつつも、同一性支配下にあるために、純粋差異になることができないのであ る。言い換えると、常に、同一性に付きまとわれているのである。
 この差異と同一性の混淆状況を見事に捉えたのが、デリダ哲学と言えよう。差延という用語に表象されていると言えよう。
 しかしながら、これは、連続性、連続的同一性力学の支配下の様態に過ぎないのである。
 この事態において、不連続化が至高の意義をもつのである。それは、凸iの支配を断ち切る、切断することである。そのとき、もはや、凸iが凹iを支配することはなくなり、凹iは差異(純粋差異、絶対的他者、個)自身に回帰するのである。
 ここにおいて、凹iと凸iの共生、棲み分けが生起したと言ってもいい。
 凸iは+1との連携において、第一象限を探究するのである。
 そして、凹iは自身の主導化によって、新たな差異共振をもたらし、第四象限へと開けたのである。
 即ち、物質的世界と精神的世界の併存、共生が可能になったのである。
 結局、(差異の)不連続化とは、PS理論で明らかになったように、凸iと凹iとの差異共振(media point)をもたらしたのである。それは、凸i*凹凹i⇒凹(マイナス1)である。あるいは、第四象限への参入である。
 結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。
 例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。
 とまれ、ここは微妙な問題である。
 今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。
 ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。
 結論が出たので、ここで留める。





述語優位と主語優位

テーマ:media point

以下、生成門氏が述語優位と主語優位について興味深いことを書いているので、少し考えてみたい。

第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0)

『モナドの視点とはなんでしょうか?

「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか?

大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。

「響く」感じです。

これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。

しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。

これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。

「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。


http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc
シムダンス「四次元能」

直観で言おう。木霊の「おーい」が述語優位ということであるが、「おーい」は、差異共振なのである。自己と一体化している。つまり、凸iを介しつつ、凹iで「響き」を捉えているのである。
 思うに、述語優位とは凹i優位と言えるかもしれない。しかし、凸iが媒介になっている。
 次に、「おーい」を「山彦」にしたのが、主語優位ということであるが、これは、凸i優位と言えそうである。
 ただし、第一象限の事象でのことである。凸i+1である。
 述語優位ないし凹i優位とは、第四象限に帰属するのではないだろうか。
 今はここで留める。





一神教(超越神)と父権主義の力学
テーマ:media point
Z軸において、凸j*凹j⇒凸iになると作業仮設する。ただし、j*j⇒-iとする。
この数式が一神教、超越神を意味するのではないだろうか。
 では、凸j*凹凹j⇒凹iとなる。この凹iが多神教、母権主義ではないだろうか。
 つまり、

凸j*凹j⇒凸i=the Father=Heaven

凸j*凹凹j⇒凹i=the Mother=Earth

ではないだろうか。
 そして、凹(マイナス1)は、物質を形成するための、原型(イデア)、あるいは、氣、生命体=エーテル体ではないだろうか。
 「原父」は凸j、「父」は凸i、「子」は凸i⇒+1ではないだろうか。(しかし、凸jが「父」、凸iを「子」とする見方もあるだろう。これについてはおいておく。)
 ならば、「聖霊」はどうなるだろうか。端的に、media pointではないだろうか。凸iの支配下において、凹iが開けるとき、media pointが「開花」する。
 そのとき、個において、二つの差異共振エネルギーが流入するのではないだろうか。即ち、凸j*凹凹jと凸i:凹凹iの差異共振エネルギーである。
 前者は垂直的超越エネルギー(「神」)であり、後者は水平的超越エネルギー(氣)である。
 二つ合わせれば、語呂合わせ的であるが、神氣となる。
 ただし、前者の「神」は、「原父」と「原母」の共振であるから、超神、あるいは、新神とか呼ぶべきだろう。
 ならば、超神氣、ないし、新神氣のエネルギーが流入する。そう、media pointとこのエネルギーを併せて、「聖霊」と呼ぶべきであろう。
 以上は思考実験である。

追記:凸j*凹j⇒凸(+1)の方がいいのではないかという考えも浮かぶ。
 思うに、Z軸とY軸は不連続かもしれない。その場合、二つの超越界が存することになる。
 後でさらに検討したい。





検討問題:1)一神教(超越神)とは何か。2)資本とは超越論的同一性ではないのか
テーマ:検討問題
今はざっと述べる。
 1)に関してだが、これは、ガウス平面に直交するZ軸の「存在」に拠るものである。これについては後で詳述したい。
 2)であるが、今はこの問題の方が重要である。
 これまで、資本を同一性として捉えてきた。しかし、優れた資本家は、感性欲望凹iよりも、抽象的知性凸iが優越しているのである。
 この凸iが資本を管理し、活用するのである。
 同一性は凸i+1である。それに対して、凸iは超越論的同一性と考えられよう。
 ここが資本ないし資本家の存する位置である。
 だから、本来、物質主義的ではないのである。それは、物質を活用する精神である。
 そう、資本家は超越論的同一性精神をもつのである。
 では、これとカントとヘーゲルの哲学はどう関係するだろうか。
 思うに、超越論的同一性とは正に、カントの超越論的形式と一致しよう。
 ヘーゲルであるが、弁証法で言うと、その精神とは、正に、カントの超越論的形式と一致すると思う。
 故に、
 
超越論的同一性=カント超越論的形式=ヘーゲルの精神

となろう。
 これが資本、資本家の精神である。
 これは決定的に唯物論とは異なるのである。マルクス、エンゲルス、レーニンはまったく理解していなかったのである。
 さて、この超越論的同一性精神であるが、これは、1)の一神教の問題、ないしは父権主義の問題と通じるように直観される。
 つまり、Z軸の+の精神に関係しているのである。これが、凸iを支配しているように思えるのである。
 とまれ、言い換えると、一神教、父権主義の誕生がなければ、資本主義は生まれなかったと考えられる。
 とまれ、超越論的同一性=資本(主義)の問題点は明らかに、他者凹iの無視である。
 他者凹iを認知したときに、資本主義はトランス資本主義となるだろう。
 それは何だろうか。それは、自由共同体的資本主義である。
 今はここで留める。





凹i の視覚と凸iの視覚:ディオニュソスとアポロ:二つの視覚とそれらの芸術・アート
テーマ:art & design
私は洋楽ポップス、とりわけ、多くの人と同様に、ビートルズに没入し、また、学生のとき、クラシック音楽に魅せられて以来、自分が音楽的人間だと思ってきた。 
 そして、つい数年前から、私の自己認識は大変化したのである。つまり、私は美術的視覚主導の人間であったという認識である。
 以前述べたが、ある坂道の途中から下の方の景色を見て、スケッチしたいと思ったのである。そう、絵心が「芽生えた」である。
 そして、最近、視覚美に忽然と目覚めたのである。
 考えると、実は私は、小学生のとき絵を描くのが好きで、親に将来は、絵描きになりたいと述べたのである。貧乏人の家庭であったから、即座に否定された。 そして、それから、ビートルズがやってきた。また、思うに、それ以前に私の精神的感性の変化があった。超越的精神が消えてしまったのである。
 結局、視覚美に目覚めたというは、実際は、小学生の頃の絵画志向が再生・新生・復活したと見るのが的確であろう。
 私は文学がそれなりに好きであったので、それに惹かれた。
そして、その後、哲学等に惹かれた。
 思うに、文学は凹i主導、闇主導の芸術である。そう、音楽もそうである。
 しかし、絵画、美術は微妙なところがあり、凹iが土台にありながら、凸iが主導的なのである。
 そう、ニーチェの『悲劇の誕生』の視点は実に天才的であったと言えよう。
 そう、音楽はディオニュソスで、美術はアポロである。これは、前者は凹i的であり、後者は凸i的であると言えよう。
 結局、芸術の極性があるということである。それは、闇と光の極性である。
 しかしながら、先述したように、近代は凸i、そして、凸i+1が主導であり、凹iを喪失したと言えよう。
 あるいは、両者の分裂が生起したと言えよう。
 思うに、T. S. エリオットが「感性の乖離」で述べたことはこの事態と言えよう。凹iと凸iの分裂である。
 そして、美術は凸i主導なので、科学に「伴われて」進展したと言えよう。
 それに対して、音楽や文学は凹i主導なので、科学からは分離したと言えよう。
 これは、C.P. スノウの述べた、「二つの文化」の事態を意味しよう。
 結局、この乖離・分裂した事態は超克されなくてはならないのである。それは、PS理論では、media point(差異共振)を意味する。
 そう、凸iの支配によって、凹iは弱化させられていて、凹iを取り戻すのは難しい。とりわけ、日本において。
 端的に、闇の視覚・凹i・ディオニュソスと光の視覚・凸i*アポロの極性、media pointを復活させるべきでなのである。
 そう、闇の光と光の光があるのであり、今日、光の光が独裁しているのである。
 そして、美術の復活とは、実は、闇の光の復活に拠ると言えよう。ディオニュソスがなければ、アポロは浅薄・皮相なのである。
 そして、音楽・文学も同様である。それらの根源である闇の光を取り戻さなければ、アポロ・科学の文明の支配に屈して、滅びるしかない。
 とまれ、二つの視覚、闇の視覚と光の視覚、それらの共振的視覚を取り戻さないといけない。


参考:ルネ・マグリット『光の帝国』







Z軸の差異共振:凸j*凹j⇒凸(+1)
テーマ:media point
先に、j*j⇒-iとした。
 即ち、

凸j*凹j⇒凸i

とするためである。
 しかし、単純にj*j⇒-1としていいように思う。
 即ち、

凸j*凹j⇒凸(+1)

となるのである。
 これが、例えば、イエス・キリストの現象物質界への顕現を意味するように思えるのである。物質的身体となった神霊である。
 そのとき、左辺の凸jが「父」ではないだろうか。そして、凹jが「母」である。
 そして聖霊とは、凸i*凹iの虚MP(MP1)の差異共振エネルギー、即ち、氣=生命エネルギーではないだろうか。
 ガウス平面が氣を含めて自然界である。そして、Z軸の世界が精神界ということになろう。
 そして、ガウス平面をY軸を中心に1/4π回転したものが、いわば、精神平面となるのではないだろうか。
 こここそ、霊界、天国も地獄があるのではないだろうか。
 とまれ、微細には今は考察できない。
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