2008年08月20日 (15:57)

試論:Media Point における超越波動からの物質波動への変換原理について:Media Point という即非変換点:「神」の波動の投影としての森羅万象である。

試論:Media Point における超越波動からの物質波動への変換原理について:Media Point という即非変換点:「神」の波動の投影としての森羅万象である。

物質波動であるが、それは、超越波動の痕跡と考えられる。現象界では、物質次元(時空四次元)において、量子の波動や粒子を捉える。しかし、それは、量子本体の影である。正に、イデア論がここで確認できるのである。
 すなわち、イデア=量子の影としての物質の波動/粒子を知覚しているに過ぎないのである。物質時空四次元に垂直にこのイデア次元が屹立していると考えられる。五次元である。
 端的に本件について言えば、超越波動と物質波動とは、即非様態にあると言える。超越波動は物質波動という物質の影を射影する。この点では、超越波動・即・物質波動であるが、前者はイデア次元にあり、後者は物質次元(現象次元)にあるから、両者は非の関係である。
 ここで、振動数について言うと、物質波動は数値化されるが、超越波動は数値化されない。では、超越波動は、いかなる様態にあるのであろうか。イデア対極差異(略して、対差[ついさ])の共鳴様態があるとは言える。つまり、超越波動とは、イデア対差の共鳴様態(簡略化して、イデア共鳴態)にあるということである。
 そして、イデア共鳴態は、振動の相違によって、多元・多様的である。だから、多元多様イデア共鳴態がMedia Point の虚軸=イデア界において形成されていると考えられる。いわば、多元多様Media Point Resonance、Multiple Media Point Resonanceである。そして、これが、いわば、神の原型である。そして、宇宙、人間、生命、物質の原型である。ユダヤ神秘思想のカバラーのアダム・カダモン(原人)とは、これを指しているのではないか。
 そう、この神の原型であるが、三神の原型である。+iの神と-iの神と(+i)*(-i)の神の三神が根源的に存すると言えよう。記紀の三柱の神とはこれを表現したものと考えられるし、普遍的に見られる、根源的三元性はここに存すると言えよう。たとえば、三巴紋とはそのシンボルになる。これも普遍的である。
 この問題は興味深いがここで留めておき、もう一度、本件の問題について検討したい。すなわち、超越波動と物質波動の関係であるが、たとえば、前者のすべてが後者への射影・投影・映写されるのだろうか。
 有り体に言えば、「神」の波動は物質波動として投影されるのか、である。思うに、境界があるはずである。超越波動が、Media Point に「存している」が、それが、Media Point という変換媒体で変換されるとき、思うに、1/4回転の倍数回によって限定されると考えられる。当然、不連続になるのである。しかし、問題の核心は、波動変換ないしは振動変換である。私が思うのは、この変換には限界があるのではないのかということである。
 そう、哲学的に言えば、差異と同一性との関係である。差異が同一性化された終端において、同一性主義が発生するが、そこでは、差異は否定されている。これとパラレルのことが波動でも言えるだろう。超越波動(差異)が物質波動(同一性)になるが、超越波動は否定されるのである。
 少し整理する必要がある。物質波動の限界ないしは範囲であるが、ある種の超越波動は、まったく物質波動化されないことを意味するのか(A)、あるいは、物質波動には、そもそも、超越波動が排除されていることを意味するのか(B)ということになろう。
 Bについて言えば、たとえば、振動数が超ミクロになっても、そこには、まったく超越波動は存しないということになる。単に物質波動だけが存するということである。
 Aについて言えば、ある超越波動は物質波動化されるが、別の超越波動は物質波動化されないということになる。つまり、ここには、物質の壁があるということである。たとえば、きわめて霊妙な超越波動が発動しているが、それは、物質波動になるには、霊妙であり過ぎるので、物質波動以前に留まっているということが考えられる。物質波動になるには、超越振動のある範囲に限定されるのではないのかということである。
 問題は感覚と物質の関係にもなるだろう。たとえば、紫外線や赤外線は、超感覚・超視覚的である。しかし、それらは、いちおう、物質波動として捉えられているだろう。だからと言って、紫外線や赤外線が超越波動であるということではない。それらは、超越波動の影である。
 どうも私の設問は愚問であるようだ。端的に言って、超越波動はMedia Point において、物質波動へと変換されると、理論的に考えられるのである。だから、Aの問題はナンセンス、不合理である。そして、Bの設問であるが、それも、ナンセンスである。最初に述べたように、即非様態である。いわば、即非変換があるのである。だから、「神」の波動は物質波動として投影されるのかという問であるが、それは、その通りであると言わなくてはならない。
 「神」の波動の射影としての宇宙であり、地球であり、自然であり、人間等の森羅万象なのである。だから、汎神論である。空海の述べたように、五大に皆響きありである。
 ということで、次のような波動論は、超越波動(質)と物質波動(量)を混同している誤りを犯しているのではないだろうかという疑念があるのであるが、粗忽に即断は避けたい。後で検討したい。

「10のマイナス33乗cm以下の世界は非物質の世界といわれます。それは非物質の振動の世界。
ですから意識というスピリチャルな場の世界でもあるのです。
http://subtleeng.thd-web.jp/e8132.html
鈴木 俊輔 の サトルの泉」

2008年07月30日 (17:25)

脱構築主義とプラトニック・シナジー理論:特異性の展開としてのMedia Point

今は余裕がないので、以下、bloghiro-dive氏が述べていることについて、少しコメントしたい。
 bloghiro-dive氏の視点は、私見では、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)を理解しようとするのではなく、彼の理解するデリダの脱構築主義に則り、PS理論を裁断しているものと考えられる。
 つまり、構築する行為は、可能性の縮減であるから、脱構築主義に劣っているというような発想だと思う。
 ここで一点だけ言うと、デリダは同一性システムにおける決定不能性を取り出して、脱構築=解体するわけであるが、実は、決定不能性の根拠は、特異性ないしは特異点である。それは、後期デリダは明確に述べている(『死を与える』)。
 しかしながら、PS理論は、この特異性(単独性)を掘り下げて、超越性と同一性とが交差する点(Media Point)まで、いわば、深化させたのである。ここで、特異性=不連続的差異が、超越的差異共振性であることが仮説されたのである(当然、PS理論は、仮説である)。
 そして、ここから、単に脱構築ではなく、新たな構築が可能になったと考えられるのである。つまり、ポスト脱構築主義である(もっとも、的確に言えば、トランス脱構築主義である。何故なら、新しい構築とは、脱構築主義を包摂していると考えられるからである。脱構築主義が前提になければ、新しい構築は古くさいものであり、偽物、紛い物である。)。
 bloghiro-dive氏は、デリダの脱構築主義を教条主義的に受け取り、それを絶対化(ドグマ化)して、それ以外の可能性を裁断的に否定している考えられるのである。
 最後に一言いうと、bloghiro-dive氏の文体が魔女狩り的になっているのに気づかれないだろうか。これは、哲学を行う人間の文体とは正反対と言わなくてはならないだろう。

p.s. また、以下の引用の最後の方の、仮説を否定したり、可能性を云々したりしている箇所は支離滅裂である。

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「差異を自己理論に担保できていると思い込んでいるが、理論化している時点で抹消される可能性に無頓着なのを考えれば、いかにその理論が自己瓦解しているか理解できるだろう。「これを簡便に取り扱うために、Media Pointという「概念」を構築した。で言う、Mediaとは、「媒体」の本質、つまり、「Aであり、Bである」状態を示し、結局、「即非」状態のことである 」とは、この理論の孕む根本問題を明白している。言わずとも構築しているわけだ。その代償が可能性の縮減化であることはいうまでもない。理論とは構築することで、別の理論の可能性を縮減するのだ。このハーバーマスがデリダと何十年も拘った部分に無頓着なのだ。知らないのであろう。「Media Pointという「概念」を構築した 」と自信気に述べる部分は嘲笑か沈黙のいずれかしか選択できないだろう…。あまりの無知蒙昧と無頓着、分析力に欠く点で。東洋哲学であれ、アフリカ哲学であれそんなものは仮説でしかない。可能性としてあるだけである。デリダが言うように可能性としてのみ妥当性のあるアクチュアリティーが存在する。」
http://ameblo.jp/bloghiro-dive/entry-10121507312.html
差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代

2008年07月23日 (09:49)

覚書:デリダの脱構築主義とMedia Point:MPゼロ度とトランス・ポスト・モダン

覚書:デリダの脱構築主義とMedia Point:MPゼロ度とトランス・ポスト・モダン

テーマ:哲学

かつて、デリダの脱構築主義が独り歩きしていたと言えよう。しかし、今思うに、デリダの哲学は、そのようなキャッチ・コピーでは捉えられないのではないだろうか。
 今、思うところを言えば、問題は、特異性の哲学をどう打ち立てるのかにあったように思える。同一性主義が中心化している西洋文明において、特異性の哲学をどう構築するのかが、哲学者、とりわけ、現代の哲学者に要請されていたことと考えられる。
 私自身について言えば、特異性と同一性の問題が、生きる問題であったのである。私自身は、正に、他の何ものでもない個であるが、日本はオイル・ショック以後、70年代半ば以降、どんどん同一性が流通する社会となり、私は強烈な違和感をもっていたのであるからである。
 とまれ、今簡単にデリダ哲学について言うと、特異性という差異に対して、西洋哲学はこれまで、同一性の哲学を構築してきたのであるが、同一性のシステムを立てても、そこには、特異性という差異が付き纏っているのであるから、同一性のシステムは決定不能性に陥るというものではなかったであろうか。
 それは、不連続的差異論/PS理論から見ると、正しい考え方である。PS理論が明らかにしたように、特異性は実は超越性と現象性との交叉するMedia Pointに存するのであるが、デリダはフッサール批判そしてハイデガー哲学の擁護によって、超越性を排除していたので、差異からMedia Pointへと進展することができなかったと考えられるのである。
 思うに、ハイデガーの存在そしてデリダの特異性とは、PS理論で言えば、これまでの検討の結論を否定して、最初の考察に戻ることになるが、Media Pointの実軸点であると思われるのである。いわば、ゼロ・ポイントである。
 とまれ、デリダ的ポスト・モダンには、トランス・モダンへの契機があったことは確かである。結局、トランス・ポスト・モダンである。

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デリダのジョイス論とトランス・モダン

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

デリダの『ユリシーズ グラモフォン』の訳者の一人の合田正人氏の解説が知的に刺激的である。できれば、後で、検討したいが、そこで、問題になっている哲学的事象は、端的に、Media Pointであると考えられる。デリダは、ドゥルーズ以上にMedia Pointに接近していたのである。しかし、既述したように、ハイデガー哲学の影響によって、デリダは超越性を排除してしまっていたので、明確に Media Pointを捉えることができなかったと考えられるのである。
 思うに、ドゥルーズの差異イデア論とデリダの超越論的差異論ないしは決定不能性論を統合すると、不連続的差異論になる。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は出てこない。何故なら、ポスト・モダンは超越性を排除してしまっているからである。
 だから、未読であるが、レヴィナスをそこに加えるといいのかもしれない。ライプニッツ、スピノザを加えてもいいだろう。また、未読であるが『神的な様々の場』のジャン・リュック・ナンシーを加えてもいいのではないだろうか。
 しかしながら、一番の寄与は、ウスペンスキーの第三の論理学(正しくは、ターシャム・オルガヌム)や、鈴木大拙の即非の論理学、他からもたらされるだろう。矛盾が共鳴・共振する論理が決定的なのである。それが、トランス・モダンであり、トランス西洋文明なのである。
 自然科学では、量子論がその論理をもっている。即ち、粒子と波動の相補性である。

p.s. 因みに以下の翻訳が出版されている。デリダの修論だそうだ。

フッサール哲学における発生の問題 ジャック・デリダ、合田 正人、 荒金 直人 (単行本 - 2007/11/22)
http://www.amazon.co.jp/gp/search?field-keywords=%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C&index=blended&tag=mozillajapan-fx-22&sourceid=Mozilla-search&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&linkCode=qs


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ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス) (単行本)
ジャック デリダ (著), Jacques Derrida (原著), 合田 正人 (翻訳), 中 真生 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E2%80%95%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8-%E5%8F%A2%E6%9B%B8%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%8B%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%82%B9-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80/dp/4588007238

[思想]
2004.6.18 中井 悠
蓄音機の効果 (1/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 およそあらゆるマーク(≒記号)たるもの、それが意味をもち、理解され、使用されうるかぎりは、たとえどんな私的なものであろうと、その担い手たる主体の不在においても反復可能でなければならない。というジャック・デリダが1968年の「署名・出来事・コンテクスト」以来口酸っぱく主張してきた反復可能性の議論は、だがいつもながらこの哲学者の語り口の曖昧さからしていらぬ誤解を招きやすい。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo/daily/content/200406180001/index.html

[思想]
2004.6.24 中井 悠
蓄音機の効果 (2/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 もしボルヘスが物語ったような絶対的な記憶を持つ神のごとき存在、あるいはその逆に、ニーチェが嫉妬したような記憶という重荷と縁のない動物たちが相手であったならば、余計な言葉を費やさずともよかっただろう。だがあいにく語りかけられるべきは、その狭間にいる中途半端に頭の良い/悪い人間たちであり、その多くが対処すべく直面しているのは、忘却の不安(?)を抱えつつも反復はとりあえず成立しているという、いささか厄介な事態である。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo/daily/content/200406240001/index.html

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2008年07月15日 (01:20)

鏡像を破砕せよ:同一性形象が現象を構成している

今日は余裕がないので、詳論できないが、簡単に触れると、同一性という現象形式は、視覚において、鏡像を基盤にしていると考えられる。
 では、鏡像とはどういう力学から発生するのだろうか。これまで、何度か検討してきたが、今一つ明瞭ではない。
 これは、直感では、Media Pointにおける力学である。+iが-iに関係するときに、鏡像が発生するのではないだろうか。そう、先の考察から言えば、差異・同一性形式(差同形式)において発生するのではないだろうか。即ち、差異+iと差異-iとの関係において、同一性が発生する。この同一性の基盤が鏡像であると考えられる。
 思うに、差異+iが差異(他者)-iに関係するとき、自己像を投影すると考えられる。即ち、+iを-iへ投影するのである。だから、(+i)*-(-i)⇒-1になると考えられる。
 しかし、問題はそれほど単純ではない。なぜなら、Media Pointにおいて、差異共振的同一性(+1)が形成されると考えられるからである。思うに、この同一性が鏡像ではないのか、あるいは、少なくとも、鏡像に関係しているのではないのか。
 そう、Media Pointにおいて、差異があると同時に、同一性が生起するという即非様相が発生しているのである。差異共振性とは正に、その即非様相を意味するのである。
 差異であり、且つ、同一性であるという即非様相があることを十分確認しないといけない。
 そして、この同一性の基盤が鏡像であると思われるのである。そう、端的に言えば、Media Point において、鏡像が形成されると同時に、差異が存在しているのである。しかしながら、同一性志向性=自我は、差異を否定して、鏡像=同一性に没入=感情移入すると考えられるのである。
 つまり、+iの「自己」が同一性に没入して、他者であり-iを否定するということではないだろうか。同一性=鏡像という影像が発生するが、それに同一性化するのが、+iの同一性志向性ではないだろうか。
 一つの差異である+iが+1へと没入するのである。これは、他者-iの否定であると同時に、自己+iの否定と言えるのではないだろうか。
 そう、ラカン的に言えば、鏡像段階とは、差異・他者の否定であり、同一性=鏡像への没入段階と言えるのではないだろうか。
 この事態・事象は、+iの自乗ないしは、-iの自乗で、-1となると言えるように思う。つまり、Media Pointが「鏡像段階」であり、ここで、+1が-1へと転換されると考えられるのである。これが、正に、自我=自己同一性の発生である。
 問題は、この鏡像自我形成からの脱却である。これは、端的に、最高度に難しい。何故なら、生起した同一性像=鏡像は、固定した物質像=現象像であるからである。
 例えば、眼前にあるコップを疑うことはできないのである。コップはコップとしての同一性をもっているのであるからである。般若経で言えば、「色(しき)」である。問題は、この同一性像=鏡像に没入することである。ここにおいて、差異が否定されるのである。
 ここにおいて、仏教・大乗仏教の哲学的意義があるのである。PS理論が明らかにしたように、差異はイデア的な差異共振性であり、同一性からは、離脱したものなのである。
 差異は端的に、イデアである。これを取り戻さないといけないである。ここに瞑想の大きな意義があるのである。あるいは、精神文化の意義があるのである。【思うに、今日、これが欠落しているので、批判知性が形成されないのではないだろうか。瞑想性があれば、外的対象への距離が生まれて、批判的観察ができると考えられるのである。】
 そう、難しいのは、差異は同一性を形成しつつも、同時に、差異自体であるという即非事態が生起することである。【不連続的差異論の大きな意義がこれを発見したことである。そして、ポスト・モダンは、差異と同一性を峻別できずに、連続化させたままであったのである。】
 ということで、鏡像の発生とは、正に、同一性の形成と見ていいことが確認された。思うに、この鏡像への関係は、男性文化(父権文化)の場合、正に、同一性主義的になり、女性文化(母権文化)の場合、同一性に対して、距離、すなわち、差異を保持すると思われるのである。
 ということで、これまで説いてきたように、脱父権文化としての新母権文化の創造が今日、必然であると考えられるのである。

2008年07月08日 (22:22)

PS理論的ガウス平面の応用:垂直性(虚軸)と水平性(実軸)の即非交差性とトランス・モダン

           |+i
           |
           |
           |
           | 
           |
           |
           |
           |
__________個・MP__________
-1          |          +1
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |-i

(尚、MPはMedia Pointである。)

プラトニック・シナジー理論におけるガウス平面の簡単な応用を述べたい。
 例えば、美術では言えば、垂直軸(虚軸)を抽象、水平軸(実軸)を具象と考えることができよう。あるいは、シュルレアリスムも同様に、垂直軸は、「超現実」と見ることができよう。
 あるいは、哲学では、垂直軸は差異であり、水平軸は同一性である。物理学では、垂直軸は時間であるし、水平軸は空間であろう。
 また、 原点(Media Point)を個と考えることもできよう。そして、経済では、垂直軸が共同体志向であり、水平軸が市場志向であろう。だから、政治的には、民主主義は、垂直軸であり、自由主義は、水平軸である。もっとも、肝腎要は、両者が即非相であるということである。
 また、現代日本にかけているのは、垂直軸である。戦後は、垂直性を否定したのである。宗教は当然、垂直軸であり、神道が否定されたために、戦後はそうなったのである。これは、連合国と官僚の覇権主義によると言えよう。戦後、同一性自己(自我)はあるが、差異自己はないのである。
 最後に、現代芸術について述べておきたい。今日、芸術が不調なのは、モダニズム期において、発現したトランス・モダン志向を、つまり、Media Point様相を否定して、もっぱら、水平志向・水平主義に堕している点にあると考えられる。
 この元凶は哲学ではハイデガー哲学にあると考えられる。そして、それが、ポスト・モダン哲学に影響を及ぼしているのである。垂直性の否定である。
 そう、結局、構造主義的限界に留まっていること、ここに問題があるのである。垂直的対立が水平的対立に還元されると考えられる。
 この垂直性の否定は、ドゥルーズやデリダに顕著に見られることである。そして、この根因はハイデガー哲学にあると考える。ハイデガー哲学の闇、これは何なのだろうか。
 垂直性を水平性にねじ伏せることの哲学は、何なのか。これは、端的に、近代合理主義の発想と同根と思われるのである。トランス・ハイデガー哲学を明確にしないといけない。

2008年07月06日 (22:22)

多元共振点(多元共鳴点)としてのMedia Point:英雄神話のもつ即非性

神話、例えば、ギリシア神話で出てくる怪物や怪獣であるが、それは、Media Pointにおいて、発現する多元共鳴エネルギーを表現していると考えられるのである。
 Media Point Multi-Resonanceは、太母文明の特徴であると思う。例えば、日本神話の八岐大蛇もそれを表現しているものだと思う。
 しかしながら、同一性主義(二項対立主義)である父権文化にとっては、それは克服されるべき他者(差異、特異点・特異性)である。ここで、英雄神話が生まれたと考えられるのである。
 しかし、問題は、単純ではなく、この英雄神話には、肯定的要素があると考えられるのである。今は、予見的に言うが、英雄によって、知性ないしは自己は、感覚・感性から切断されるのである。しかし、複雑なのは、同時に、英雄は、切断して感覚・感性を何らか帯びるのである。山口昌男の神話学で言えば、両義性を英雄は帯びるのである。即ち、知性であると同時、感覚・感性性である。つまり、プラトニック・シナジー理論から言えば、即非性を獲得すると推測されるのである。
 だから、英雄神話は人類史における大きな転換点である。問題は、この即非性である。一方では、同一性志向性があり、他方では、差異志向性があるのである。しかしながら、意識においては、前者であり、後者は無意識的である。だから、知性の志向において、差異が否定されることになると考えられるのであり、これが西洋文明ないしは父権文明に起こったことだと考えられるのである。そう、英雄神話は分岐点・分水嶺である。
 知的志向において、差異は否定されて、無意識に追い遣られる。しかしながら、本来的には、差異は本源・根源的である。故に、人類の父権知性の病的な抑圧・排除・暴力が生じるのである。そして、それが、今日の人類を大破局的事態に陥れていると考えられる。
 故に、螺旋回帰的に、Media Pointの多元共鳴融合性を知性は確認すべき時になっていると考えられるのである。つまり、同一性知性から差異知性、多元差異共鳴知性への転換が求められていると言えよう。
 経済で言えば、同一性資本主義から多元差異共鳴資本主義への転換が切迫しているということである。国家も多元差異共鳴体として機能すべきなのだろう。民主主義も同様である。差異多元共鳴民主主義である。だから、今日の、大企業・大資本中心主義の資本主義・民主主義は、超克されなければならない。

2008年06月30日 (22:51)

古典的問題:必然性と自由:偶然性とは何か:即非の論理あるいはMedia Point Logic

古典的問題:必然性と自由:偶然性とは何か:即非の論理あるいはMedia Point Logic

テーマ:検討問題

最近は、私は、いわば、運命論的である。しかし、諦めはないのである。これをどう考えるべきか。
 この問題は、私が小学生の頃から考えていたことである。必然性(運命)と自由の問題である。これは、哲学の根本的問題の一つではある。
 そう、当然、カント哲学の問題である。カント哲学では、アンチノミー(矛盾)が生起するのである。また、マルクス「哲学」の問題でもある。
 直感では、私はどう考えているのだろうか。思うにこの問題は既に解決されているのである。差異共振的イデア=太極を考えた時点で、それは、いわば、科学的法則的である。必然である。運命である。
 しかし、個を深化させると、この必然性に到達するのである。即ち、必然即自由である。スピノザ/マルクス主義である。
 問題は偶然である。偶然性をどう考えるのか、である。直感では、偶然性は、実は、必然性である。結局、差異の問題であろう。
 そう、的確に言えば、Media Point(MP)の問題である。MPは同一性と差異を形成するのである。つまり、同一性的必然性と生み、同時に、差異的必然性を生むのである。後者が偶然性であろう。九鬼周造の偶然性はこれだと思う。
 結局、Media Point論理が支配するのである。即非の論理とは、Media Point Logicと言えるだろう。

**************

Mon, June 30, 2008 22:09:00
「ポスト・近代国家」としての差異共振主義

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

国家とは何ぞ哉。今日、国家主義と民族主義との衝突が起っているのだろう。国家主義は、ヘーゲルの国家理性からわかるように、同一性主義である。しまし、民族とは本来、差異である。ここに矛盾が起るのである。
 結局、単純化して言えば、今日、差異共振的国家が要請されていると言えよう。このモデルは、実は、きわめて不十分とは言え、アメリカ合衆国である。
 日本も最近、アイヌを先住民族を認めたのである。これは差異共振主義への大きな一歩である。思うに、近代の国民国家、民族国家、ネーション・ステートが、今や意味をなさなくなっていると言えよう。
 ポスト近代⇒トランス・モダンである。国家は、グローバル経済における支店に過ぎなくなると思われる。もっとも、私は、民族の差異を絶対的価値としている。しかし、諸民族の価値と価値が共振するのが、差異共振主義という未来である。

セルビア系住民が独自「議会」=分断状態に拍車−コソボ

6月29日8時0分配信 時事通信

 【ベルリン28日時事】コソボからの報道によると、独立に伴い同国で少数民族になったセルビア系住民は28日、北部ミトロビツァで独自の「議会」を創設した。
 同議会は「コソボ独立を認めない」と宣言、多数派のアルバニア系が主体のコソボ政府や欧州連合(EU)の文民支援隊との協力を拒否しており、新生国家は新たな火種を抱えた形だ。
 この日の初会合には、セルビアのコソボ担当相らも駆け付けた。一方、コソボ政府は「違法であり受け入れられない」と批判している。 
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080629-00000006-jij-int

2008年06月11日 (23:46)

新母権主義と父権・母権の大調和主義の関係:自己意識と他者意識:精神的身体と精神エネルギー

先に、同一性主義と差異共振主義の相違を明確にしたが、そうすると、それ以前に述べた父権主義と母権主義の大調和主義という私の考えは、変更を受けるのではないだろうか。この点を検討したい。
 大調和主義以前には、新母権主義を唱えていた。新母権主義と大調和主義ではたいへん異なるだろう。
 結局、直近の考察は、Media Pointにおいて、イデア極性の傾斜によって、同一性主義が発生するということであった。そして、それとは別に、本来の差異共振主義があるということであった。即ち、Media Point(以下、mp)を境界にして、一方(意識)では、同一性主義(同一性)が生起して、他方(無意識)では、差異共振主義(差異)が生起するということであった。【これは、心性の分裂である。問題は前者は言語をもつ自我意識であり、それが、無意識の差異共振性を抑圧排除することである。自我意識は言語意識を形成できるが、無意識の差異を包摂できないのであり、不十分な自己なのである。つまり、自己が自我意識主義であると、無意識の差異を包摂できないので、分裂したままになるということである。これが、心の病気の一つの典型ではないだろうか。自己の他者を肯定する必要があるのであるが、それは、他者を明確に確認する必要があるのである。つまり、トランス自我の自己意識形成が必要であるということである。
 問題は、思うに、他者は身体ないしは身体に関係するものではないかということである。他者を内的身体と呼んだりしたのであるから、身体に関わるのである。しかし、この身体は物質身体なのだろうか。後で検討したい。】
 言い換えると、自己は一面では、同一性であり、他面では、差異であるということである。しかしながら、同一性主義である限り、差異は否定されたままである。問題は差異の肯定が意味することである。
 差異(差異共振性)が肯定されたとき、同一性主義は当然、解体する(脱構築)。しかしながら、同一性自体は消滅はしない。何故なら、同一性は、意識の主要な様相であるからである。つまり、同一性中心主義のみが解体して、同一性は保持されるということである。つまり、差異の肯定によって、同一性と差異とが両立することになるということだと思われるのである。
 これを以前は、同一性を包摂する差異と呼んだのである。そして、これが新母権主義と述べたのであるが、先には、父権主義と母権主義の大調和主義を唱えたのであるが、それは、どういうことだろうか。
 同一性中心主義を脱構築して、同一性を包摂する差異が発現しても、思うに、同一性傾斜は変わらないのであるから、父権主義が反復することになるのであり、そのために、単に新母権主義だけでは、不十分なので、父権主義と母権主義の大調和主義が必要であるということだと思う。
 新母権主義と大調和主義の関係をどう考えたらいいだろうか。前者に即せば、差異の肯定によって確かに、同一性主義は解体する。同一性中心主義はありえないことになる。しかしながら、自己差異傾斜=同一性傾斜という事態が残っているのだから、常に、それを解体して(永遠解体、永遠脱構築)、差異の肯定へと志向する必要があるだろう。
 父権主義と母権主義の大調和主義とは、結局、新母権主義と同義であると言えよう。新母権主義であることは、反復生成する父権主義を永遠脱構築するということであるのである。ということで、本件は解明された。自説の齟齬はなかったのである。
 さて、上記の括弧内のことであるが、他者差異と身体の関係を考察しよう。これも一つの核心的問題である。
 これまで、他者差異を内的身体と考えてきたが、より詳しく精査したい。結局、差異共振性と身体の関係の問題にもつながると言えよう。
 これまで、差異共振性を精神的身体と考えてきた。そう、これは、物質的身体、言い換えると、同一性的身体とは異なるのである。同一性主義ないし同一性は自我と同時に物質身体を形成すると考えられる。-1とは、自我且つ物質身体の形成を意味するのである。
 それに対して、+1は、差異共振性であり、且つ、精神的身体の形成を意味すると考えられるのである。【精神的身体とは、言い換えれば、魂と言っていいだろう。】とまれ、端的に、他者差異-iとは何か。これまでの考えでは、+iは原知性であり、-iは原身体である。【思うに、アリストテレスの質料の根源は、この原身体のことではないだろうか。】
 しかしながら、他者差異-iを原身体としなくて、端的に、他者の原知性と考えることも出来るのではないだろうか。他者の意識である。そう、他者の意識とは自己を知る意識ではないだろうか。少なくとも、自己を対象とする意識であろう。どうも、このように考えた方が、積極的であるようだ。
 つまり、自己意識と対になる他者意識が他者差異ではないか、ということである。ならば、どうして、私は、自己差異と他者差異との共振を精神的身体と考えるのだろうか。
 思うに、それは、同一性(自我)における対象としての物質身体からの類推で、他者差異との共振を精神的身体と考えてしまうのではないだろうか。しかし、これはどれほど意味があるのだろうか。
 思うに、差異共振エネルギーが、この精神的身体と等値なのではないだろうか。自己差異(自己意識)と他者差異(他者意識)が共振するとき、エネルギーが発動する。このエネルギー様態を身体として、つまり、精神的身体と感じるのではないだろうか。言い換えると、精神エネルギーである。そう、この精神エネルギーが、内的身体を形成すると考えていいのではないだろうか。例えば、「気」とは、この精神エネルギーの一つであると思われる。また、霊感と呼ばれるものも、この一種であろう。そして、直感もこれの一種であろう。勘もこれで説明できよう。私がコスモスと呼ぶものも、この精神エネルギーが賦活された様態なのではないだろうか。また、プラトンのエロースもこれで説明できよう。
 私のイメージでは、精神エネルギーが内的身体を形成するが、この内的身体が個々においては、内臓となったり、神経となったり、血液となったりするのではないだろうか。
 そう、精神エネルギー(差異共振エネルギー)が、いわば、情報エネルギーであり、物質身体を構成するのではないだろうか。
 この場合、情報とは、精神エネルギーの振動ではないだろうか。電波を見てわかるように、その周波数には、多様な情報の信号が入っているのであり、それが、端的には、人体の形成する情報であろう。つまり、イデアとしての遺伝子、ないしは、原遺伝子が、精神エネルギーに込められていると考えられる。そして、DNAとは、原遺伝子の物質的表現であると思われるのである。本来は、遺伝子エネルギーがあるのであり、それが物質的に発現したのが、DNAではないだろうか。
 後でさらに精緻に考察を続けたい。

2008年06月10日 (01:52)

同一性主義と差異主義:Media Pointの様相について:原差異と差異/同一性

いったい何が問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義の意義・意味である。これは事実として認めざるを得ない。
 先の私の考えは、Media Pointにおいて、反発と引き付けの二元性が発生し、反発が同一性主義となり、引き付けが、差異共振性になるというものであった。
 もっとも、丁寧に言えば、反発とは、イデア極性における斥力の極限を意味する。陰陽で言えば、陽の極限である。極限において、同一性主義が発生し、-1 が生起するのである。この同一性エネルギーがヤハウェである。しかしながら、引き合いの極限が発生すると考えられよう。
 これが、+1ではないのか。そうならが、その二つの極限の中間に差異共振様態があるのではないだろうか。即ち、-1/差異共振/+1である。また、思うに、差異共振とはMedia Point(MP)と考えることが出来るだろう。即ち、-1/MP/+1である。
 思うに、簡単に言うと、-1が同一性であり、+1が差異である。そして、構造は、実軸化されたMP、即ち、ゼロ・ポイントと考えられる。
 思うに、量子論的には、-1が粒子であり、+1が波動と見ていいのではないだろうか。つまり、両者は相補性を形成するのである。
 しかしながら、反発と牽引の極限として、-1と+1があるのであるが、それは、事実なのか。それとも虚構なのか。否、両者は現象ないしは仮象と考えられる。矛盾した現象事象である。
 ならば、その視点から見ると、例えば、磁気とは何であろうか。N極とS極とは何であろうか。それは、基本的には、+iと-iとの関係と見るべきであろう。対立が-1であり、牽引が+1ではないだろうか。
 結局、混乱させるのは、自己認識方程式の左辺(+i)*(-i)と右辺+1との意味である。差異とはどちらなのか。
 思うに、左辺が原差異であり、右辺が差異である。大雑把に言えば、ポスト・モダンは、右辺=差異を問題にしていたのではないだろうか。しかしながら、それは、-1といわば、鏡像関係であろう。
 だから、同一性-1と差異+1とは対称関係にあると言えよう。同一であるが、ズレがあるのである。これは、差延であろう。脱構築性であろう。いわば、鏡像のゆらぎである。
 だから、根源的には、原差異が問題なのである。イデアである。原差異=イデアが問題なのである。私が言う、個=差異=特異性とは、この原差異=イデアのことである。しかしながら、実際は、Media Pointにおけるそれであると考えられる。
 さて、先の父権主義と母権主義に戻ると、前者を-1、後者を+1としたが、それは誤りではないだろうか。
 ここは難しい点であるが、私がいう太母とは、原差異=イデアないしはMedia Pointだと思う。そして、-1と+1とは、物質とエネルギーの関係ではないだろうか。
 ここで、神話でいうと、イシスは太母であり、原差異=イデアである。そして、光のオシリスは+1である。そして、それを殺害するセトが-1であると思う。
 +1が生成ならば、-1は消滅であろう。いわば、両者で生死である。これが、現象の生成消滅のリズムではないだろうか。±1⇒ゼロである。(思うに、資本主義経済であるが、成長とは何だろうか。結局、反成長があるのではないだろうか。成長衰滅があるのではないだろうか。衰滅力が恐慌を発生させるのではないだろうか。)
 とまれ、以上から、先の父権主義と母権主義の対立の誤謬を指摘したことになる。つまり、母権主義とは、根本であり、父権主義は派生なのである。だから、太母主義があり、その派生としての父権主義である。
 では、宇宙物理学の問題はどうなるだろうか。これは、簡単に、原差異=イデアの極性の傾斜で説明がつくのではないだろうか。つまり、引き合いに対して、反発に傾斜しているということではないだろうか。つまり、反発に傾斜しているので、膨張の加速度が増加しているのではないだろうか。今はここで留める。

2008年06月08日 (17:10)

MPの即非二元性:父権的同一性主義と母権的差異共振主義:新ギリシア・ルネサンスあるいは大調和主義

超越神の発生は、イデア極性における反発による同一性主義によるというこれまでの仮説を基に検討を進展させたい。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺を否定して、⇒-1となる。これが同一性主義であるが、⇒の左辺は超越神になると仮説している。たとえば、プロテスタンティズムはこれで説明できるだろう。
 私が不思議に思ったのは、結局、近代主義においては、左辺の超越神が消失していくことであるが、その原因は何であろうか、ということである。別の例として、戦後の日本人を見ると、宗教観念が稀薄となり、近代合理主義・唯物論を信じている。これも、同一性主義の帰結であるが、日本人の場合、超越神ではないが、神はどこへ行ったのか。
 ここでは、プロテスタンティズムについて考えよう。初期においては、超越神の観念が生きていたが、今や、ほとんど死滅しているだろう。アメリカは例外的であるが、イギリスやドイツではそうだろう。
 だから、一枚岩ではないのである。とは言え、アメリカ人が宗教的とは言え、私見では、近代合理主義・近代的自我的である。
 結局、同一性主義は、初期は神観念があるが、結局、物質主義の近代合理主義・近代的自我に帰結する力学は何だろうか。
 同一性主義は、自我観念を発達させる。近代において、近代科学・技術と資本主義の発達があったが、これらが、神観念を切り崩していったものだろう。
 では、神観念の喪失とは何を意味するのか。それは、Media Pointにおける壁の完成ではないだろうか。そこには、絶対的な壁ができ、もう壁の向こう側のエネルギーがなくなるのだ。ということは、壁の消失でもあるだろう。それまで、超越性と現象性を区別していた壁がなくなったのだろう。無壁の状態とは何か。
 これは、無意識に支配される状態ではないだろうか。差異共振性が無意識として潜在している。そして、壁無の状態では、この無意識=差異共振性が支配するようになるのではないのか。
 否、無意識=差異共振エネルギーがありながら、それを排除・抑圧する自我意識体制が生まれるだろう。これは、明らかに、全体主義である。同一性主義資本主義である。マネーゲームであろう。当然、人間は機械化するのである。同一性主義の「悪魔」に支配されるのである。言い換えると、同一性主義構造に支配されるのである。そう、これが、現代世界の真相であろう。
 これまでの考察からみると、これは、イデア極性の反発による力学の帰結に因ると考えられる。言わば、自然の傾斜がこのような狂気的状況を生んでいるのである。
 ここで、シュタイナーの悪魔論を想起するのである。アーリマンとルシファーの「二人」の悪魔がある。前者は物質主義ないしは同一性主義である。後者がわかりにくいのである。思うに、ルシファーとは、差異共振主義ではないだろうか。
 そして、シュタイナーは両者のバランスをとる力として、「キリスト」をおいているのである。私見では、この「キリスト」は、Media Point知性(理性)である。
 簡単に言えば、アーリマンとは物質主義であり、ルシファーは精神主義である。そして、「キリスト」は物質と精神との均衡・調和である。
 これは確かに明快である。私なりに言い換えると、アーリマンは父権主義であり、ルシファーは母権主義である。そして、「キリスト」は、両者のバランスである。
 これは、かなり説得力のある考え方である。もっとも、これまでの私の考察に拠るなら、アーリマンは反発であり、ルシファーは引き合いである。そして、「キリスト」は、Media Point調和知性である(余談だが、調知、調知性という言葉を作ってもいいだろう。共立知性、共知性である。)。
 そう、この視点から、たとえば、ドゥルーズ哲学を見ると、それは、ルシファー主義と言えよう。アーリマン主義=同一性主義を否定して、ルシファー主義=差異共振主義になっているのである。そうならば、先に、ドゥルーズ哲学は+1+(-1)=ゼロと言ったことと齟齬を来す。
 直感では、ドゥルーズの差異とは、確かに、+1における力動を捉えているが、不鮮明なのである。曖昧なのである。大雑把なのである。つまり、ドゥルーズの差異は、+1的であるが、同時に、内在主義なので、+1が同一性主義へと展開するのである。つまり、ここで、+1+(-1)=ゼロが生起すると思われるのである。これで齟齬が解消した。
 また、ハイデガー/初期デリダ哲学を見ると、それは、アーリマンとルシファーの「差異」を提起していると言えよう。しかし、「キリスト」(Media Point 認識)がないのである。
 さて、以上の考察から帰結するのは、今日の同一性主義=アーリマン主義は確かに極端であるが、ポスト・モダンのような差異共振主義=ルシファー主義も反動的極端さをもつということであろう。
 必要なのは、Media Point Intelligence-sophiaである。これはMedia Point調和知性、調和理性、調和叡知と呼べよう。同一性主義と差異共振主義を調和させる大調和知性である。
 私は新母権主義を唱えているが、それは、端的に、この大調和理性主義である。(占星術では、水瓶座文化期となろう。)
 そうすると、これまで、差異共振主義と言ってきたものは、一面的であったことになる。私は同一性を包摂した差異共振性としての差異共振主義を考えてきたのであるが、それは弱いと言えよう。そうではなくて、同一性主義と差異共振主義との調和が必要なのである。簡単に言えば、同一性と差異との調和ということである。
 これは、先には、ギリシア悲劇において確認できたことである。そう、ギリシア悲劇を含めて、ギリシア神話は、この大調和を志向していると言えよう。思うに、イタリア・ルネサンスは、ギリシア・ルネサンスではなくて、差異共振主義=母権主義=ルシファー主義ルネサンスではなかったのか。それは、厳密に言えば、母権ルネサンスであり、ギリシア・ルネサンスではない。
 ということで、結論的には、新ギリシア・ルネサンスがこれから勃興するということであり、それを志向すべきである。

p.s. 以上の結論から、政治について明快な理念が生まれてくるだろう。自由主義は同一性主義であり、民主主義は差異共振主義である。両者の調和主義が新理念となるのである。だから、大調和主義が新政治理念となろう。
 また、D.H.ロレンスの「王冠」の思想も解明される。父と子の対立を相克するものとして聖霊を考えているが、これは、父権主義(ヤハウェ:一神教)と母権主義(イエス:多神教)の対立を相克する調和主義と言える。

p.p.s. Media Point大調和主義から見ると、モダンとは、同一性主義の病であり、ポスト・モダンは差異共振主義の病である。トランス・モダンが両者の傾斜を乗り越え、両立調和主義へと主導するのである。これは、自由主義と民主主義の大調和主義である。D.H.ロレンスの王冠主義である。

3p.s. 用語の的確さ、適性さのことであるが、上記では、同一性主義=アーリマン主義に対するに、差異共振主義=ルシファー主義を説いたが、果たして、差異共振主義でいいのか。差異主義ではないのかと疑問に思うのである。
 やや微妙であるが、たとえば、ポスト・モダンの場合、同一性主義とのなんらかの連続性があった。だから、その「差異」主義とは、厳密には、差異共振主義ではない。しかしながら、包摂する視点から見ると、ポスト・モダンの「差異」は本来は差異共振主義から発生しているものである。だから、広義的に、差異共振主義としても間違いではないと考えられる。差異主義とは、差異共振主義の派生ということである。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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