2008年11月09日 (11:05)

西洋文明の終焉とオバマ新大統領:同一性主義の崩壊と差異共振主義の台頭・勃興

私は、同一性主義金融資本主義の崩壊(ウォール・ストリートの金融崩壊)は、西洋文明の終焉であると述べてきた。
 しかし、オバマ新大統領が誕生した米国は底力があり、西洋文明はだいじょうぶではないかと考えられるかもしれない。
 しかしながら、これまで述べたオバマ氏自身の文化・社会的背景は、アジア・アフリカ的なものが目立つのである。あるいは、多文化多民族共振性があるのである。
 ということは、オバマ新大統領の誕生とは、やはり、ポスト西洋文明、新東洋文明(アフリカを含めて)の誕生と考えられるだろう。
 思うに、同一性主義こそ、西洋文明の哲学的核心であったのであり、これが、崩壊したのである。差異共振主義が台頭し、勃興しつつあるのである。

P.S. 民主主義は、西洋文明的なものではないかと反論されるだろう。しかし、オバマ氏の民主主義は、ブッシュの民主主義とは正反対である。後者は同一性主義であったし、前者は差異共振主義である。
 だから、単純に民主主義が西洋文明的であるとは言えないのである。アメリカ民主主義はキリスト教の影響が大である。それは、「イエス教」(一神教性を除いたイエスの教え)の差異共振主義が根幹にあると考えられるのである。
 そして、キリスト教ではなく、「イエス教」は、東洋の宗教なのである。

参考:
「オバマ氏のハワイ的アジア・アフリカ差異共振文化・社会的背景」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10161595920.html
「検討問題:オバマ新大統領と差異共振経済」http://ameblo.jp/renshi/entry-10161539142.html

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参照:

西洋と東洋の逆転が始まる
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文明は800年周期で西洋と東洋が栄枯盛衰を繰り返し、西洋から
東洋に文明の隆盛が移行する時期になっている。  Fより

村田節先生が発見した歴史法則がある。800年周期で西洋と東洋
の文明が勢力を逆転させているという。

詳しくは、下記のサイトを見れば、詳しく説明されているので、そ
ちらに譲るが、この説の概要は、
800年毎に、東西文明は興亡を繰り返し、クロス期には大激動が
起こるという。今までの800年は欧米文明期であった。
http://archive.mag2.com/0000018239/20081109100000000.html
国際戦略コラム

2008年10月27日 (18:22)

ポエニ戦争:ローマVSカルタゴ:西洋VS東洋:同一性主義と差異共振主義の混淆としてのキリスト教

ポエニ戦争とは、ローマがカルタゴを滅ぼして、地中海の覇権を勝ち取った戦争であるが、カルタゴとは、フェニキア人(東洋人)の建てた国である。だから、この戦争は西洋VS東洋を意味すると考えられるのである。
 古代ローマの勝利とは、直感では、同一性主義の勝利である。古代ギリシアにも同一性主義の要素はあったが、古代ギリシアには、それ以前にMedia Pointの震源があった。これをおそらく古代ローマは破壊したのである。
 そして、その後、古代ローマは「イエス」教を国教化する。これは、「イエス」教の同一性主義化である(P.S. つまり、キリスト教の誕生である)。ヤハウェ化である。イエスの教えの差異共振性がここで、抑圧阻害されるのである。そう、カトリックは、東洋的女神教と父権的ヤハウェ教との妥協であり、前者を利用しているのである。

追記:三位一体説であるが、これは、Media Pointで解明できるだろう。思うに、イエスは、Media Pointを正に超天才的に体現していた人物であったと考えられる。Media Pointの権化、そう、宇宙的なMedia Pointの権化であったと言えるのではないだろうか。だから、この点では、「神」である。しかし、同時に、人間である。だから、「神」即人間である。また、Media Pointは、超越エネルギーを放出するのであるが、これが聖霊として表現されたと考えられるのである。これがPS理論による三位一体説の解明の試みである。
 問題は、ヤハウェである。三位一体の「神」とは、イデア界ないしイデアそのものであろう。それは、ヤハウェではありえない。というか、ヤハウェとは、「神」の同一性主義という様態、アスペクトである。「神」の一面であるヤハウェを「神」そのものとするのは、錯誤である。

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ポエニ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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カルタゴ(赤丸)とイタリア半島、シチリア島(中央の三角形の島)の位置関係。ローマはイタリア半島中、写真中央上部にある2つの湖のすぐ南に位置する。
カルタゴ(赤丸)とイタリア半島、シチリア島(中央の三角形の島)の位置関係。ローマはイタリア半島中、写真中央上部にある2つの湖のすぐ南に位置する。

ポエニ戦争(ポエニせんそう, Punic Wars)は、共和政ローマ とカルタゴ との間で、地中海世界の覇権を賭けて争われた一連の戦争である。ポエニとは、ラテン語 でフェニキア人 (カルタゴはフェニキア人の建てた国)を意味する言葉。紀元前264年 のローマ軍によるシチリア島 上陸から、紀元前146年 のカルタゴ滅亡まで3度にわたる戦争が繰り広げられた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%8B%E6%88%A6%E4%BA%89


参考:
フェニキア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(フェニキア人 から転送)
移動: ナビゲーション , 検索

フェニキア(英語 : Phoenicia)は、古代 の地中海 東岸に位置した歴史的地域名。シリア の一角であり、北は現シリア のタルトゥース のあたりから、南はパレスチナ (現イスラエル )のカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノン の領域にあたる。

フェニキアという名前は、フェニキア人 の居住地がギリシャ語 で Φοινίκη (Phoiníkē) と呼ばれたことに由来しており、そのもともとの語源は不明である。一説によると、フェニキアが貝から取れる紫色の染料を特産としていたことから、「紫色」という意味のギリシア語を語源とする。

住民はフェニキア人と呼ばれる人々で、紀元前15世紀 頃から紀元前8世紀 頃にティルス 、シドン 、ビュブロス 、アラドゥス などの都市国家 を形成して海上交易に活躍し、のちにはカルタゴ などの海外植民地 を建設して地中海沿岸の広い地域に広がった。

フェニキア人は系統的には様々な民族と混交していたが、アフロ・アジア語族 セム語派 に属するフェニキア語 を話し、言語的に見ればヘブライ人 同様カナン 人の系統にある民族である。彼らがフェニキア語を書き表すために発明したフェニキア文字 は、ギリシャ文字 ・アラム文字 ・アラビア文字 ・ヘブライ文字 など、ヨーロッパ ・西アジア の多くの言語で用いられる文字 の起源となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2%E4%BA%BA

2008年10月24日 (02:33)

イラク戦争とは何か:父権的同一性主義帝国暴力とトランス・モダン・エヴォリューション

イラク戦争とは何か:父権的同一性主義帝国暴力とトランス・モダン・エヴォリューション

イラク戦争、アフガン戦争とは何か。私は戦争は本当にくだらないと思っているが、哲学的に簡単に戦争を考察しよう。
 端的に言って、父権文明が国家対国家の戦争をもたらしたのである。そう、父権文明が国家を形成したのである。それは、ヘーゲル哲学に結晶している。
 そう、文明civilizationという言葉は問題がある。それは、本来は、ローマ市民化することを意味したのであり、ギリシア市民化することではないのである。つまり、帝国市民化することなのであり、都市国家(ポリス)市民化することではないのである。
 ローマ帝国は当然ながら、中央集権的であり、ギリシア都市国家は多元的であった。父権文明、そして、キリスト教が大きな意味をもつ。
 確かに、古代ギリシアにおいても、戦争はあった。古代ギリシアも父権的な要素が強かったのであるが、ローマ帝国ほどの中央集権制はもたなかった。
 とまれ、簡単にいうと、父権主義とは、暴力・略奪主義なのである。端的に、野蛮である。それを国家が理屈で正当化するのである。(因みに、ホッブズの万人の万人に対する戦争観は、ハイパー父権主義と言えよう。)
 文明とは、そのように父権暴力を含むものなのであり、戦争がつきものなのである。哲学的には、同一性主義である。狂気である。宗教的にはヤハウェ的一神教である。(ここで要注意なのは、ヤハウェ的一神教とアッラー的一神教は異質なものであることである。この点は、既述したが、簡単に言うと、前者は差異を否定する同一性主義そのものであり、後者は差異を肯定する一元論である。)
 イラク戦争について言えば、ネオコン的同一性主義金融資本主義に拠るものであったと言えよう。
 そして、今日、ヤハウェ的同一性主義金融資本主義が、世界史的に、瓦解したので、イラク戦争の意味が問われるのである。それは、端的に、ヤハウェ的同一性主義金融資本主義暴力・略奪・狂気なのである。
 そして、トランス・モダン的進化的転換期にあって、イラク戦争が悪魔の戦争であったことがわかるだろう。同一性主義すべてのものが崩壊し、批判・糾弾・弾劾の対象となるのである。
 これから、アメリカは反ブッシュ/反ネオコン主義となるだろう。そして、同一性主義的金融資本は、徹底的に解体して、差異共振資本が形成されるだろう。
 トランス・イラク戦争の時代である。
 

IVAW事務局長ケリー・ドーアティーは、イラクにおける米兵の行いの責任は米
国政府の政策にあると言う。「占領下のイラクとアフガニスタンでおかされる
数々の悪行は、軍の『一部の腐敗分子』のせいなどではなく、米国政権の最上
層部で綿密に練り上げられた政府の中東政策の結果なのです」と、彼女は語る。

そのことを理解したからといって、証言で明らかになった情緒的倫理的な荒廃
のひどさが薄らぐものではない。

「白旗を掲げたやつが、ただゆっくりと近づいてきて命令に従ったら、それは
トリックだと思え、殺すんだ」とは、ファルージャに侵攻する前に所属大隊の
法務士官から受けた命令だと、マイケル・ルダックは証言した。ルダックは海
兵隊伍長であり、2004年の米軍によるファルージャ侵攻に参戦した。

この本は、特に合州国の一般の人々にとって価値がある。なぜなら、この「冬
の兵士」証言は、ワシントンポストが首都圏ニュース欄に埋め込んだ小さな記
事を除けば大手メディアが一切報道しなかったからだ。
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/816

10月16日 速報785号 「冬の兵士」証言集、米国で出版 - tup_bulletin
ダール・ジャマイルが解説する『冬の兵士証言集──イラク・アフガニスタン帰

2008年10月21日 (06:07)

The Guys From ‘Government Sachs’

The Guys From ‘Government Sachs’
Photo illustration by The New York Times

Treasury faces, from left: Steve Shafran (formerly of Goldman), Kendrick Wilson III (ditto), Henry Paulson Jr. (you guessed it), Edward Forst (yep) and Neel Kashkari (see a trend?).


THIS summer, when the Treasury secretary, Henry M. Paulson Jr., sought help navigating the Wall Street meltdown, he turned to his old firm, Goldman Sachs, snagging a handful of former bankers and other experts in corporate restructurings.
http://www.nytimes.com/2008/10/19/business/19gold.html?em

2008年08月10日 (10:28)

今日において、同一性主義の意味するもの:黙示録的現代とトランス・モダンとしてのポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

今日、良識ある人に、差異ないしは感性が復活している。他方、反対側の人においては、同一性主義が過度となり、一種狂気状態になっていると考えられる。だから、いわば、黙示録的状況と言えるだろう。
 いったい、この、差異主義(正しく言えば、差異共鳴主義)と同一性主義との、黙示録的な、二極分化の意味は何であろうか。(当然、古いもの[モダン]の終焉と新しいもの[トランス・モダン]の始まりを意味しているのはわかるが、その点は既述済みである。)
 今日の同一性主義とは、近代が極まった状態において生じたものと考えられる。プロト・モダンはMedia Point から同一性志向性をもっていて、まだ、Media Point が開いていたと考えられる(イタリア・ルネサンスや初期プロテスタンティズム。日本では、明治維新や戦後初期)。
 このハイパー・モダンは、差異を完全に抑圧していて、いうならば、悪魔主義的なのである。あるいは、諸精神病的である。端的に、倒錯的である。シャドウ(影)に支配されているのである。
 そこには、同一性と差異が完全に分離してしまっているのである。そして、同一性は自己完結主義(自己中心主義)になっているのである。鏡像主義と言える。
 しかしながら、易(えき)にあるように、陽極まれば、陰に転ず、ということであるので、同一性の陽に対して、差異の陰が胎動している、乃至は、台頭し始めていると言えよう。この差異の陰の発動が、差異を否定・抑圧・排除している同一性主義の狂気の動因と考えられる。すなわち、抑圧していた差異の陰が鬱勃(うつぼつ)と発動しているのであるが、差異を否定意志で抑圧してきた同一性主義はもはや抑圧し切れなくなっていて、鬱勃とした差異のエネルギーが非合理主義的に衝動化(狂気化)して、同一性主義を突き動かすと考えられるのである。
 そう、私が言いたかったことは、この同一性主義と資本主義の関係である。とりわけ、サブプライムローンに見られる資本主義の様態との関係である。金儲けは、単純に言えば、同一性主義である。そこでは、交換価値の追求が中心である。この同一性価値(貨幣価値)の追求は、差異を排除した、二項対立的なものである。この排除される差異とは、多様であるが、端的に言えば、他者である。他者が排除されているのである。(そして、これは、新自由主義にもあてはまる。市場原理主義という同一性主義が、社会保障等という差異を排除したのである。)
 同一性主義は、徹底して、同一性価値(貨幣価値)を追求し、金融工学を介して、サブプライムローン・「バブル」へと倒錯したと言えよう。同一性主義は、この場合、新自由主義と重なると見るべきであろう。
 ここで、上述の同一性主義の狂気を考えてみるのである。つまり、ハイパーな同一性主義が生じているのであり、それとサブプライムローン問題が重なっているのではないのか。あるいは、日本では、小泉似非構造改革路線であったのであり、今では、継続する官僚支配体制である。
 端的に、今日の政治・経済・社会的狂気は、精神経済概念的には、この病理的な同一性主義に存すると言えよう。抑圧された差異が反転して、同一性主義を狂気へと駆り立てていると考えられるのである。他方、差異を認識した人たちは、差異共鳴志向をもっている。一方の狂気と他方の正気があるのである。
 だから、同一性狂気と差異正気が並存しているのが、現代社会である。不思議な世界と言える。狂気が狂気を正気と見なし、正気を狂気と見ているのである。これが、一般的な社会的状況となっているので、正に、黙示録的である。
 とまれ、明確に言えることは、同一性主義には未来はないことである。何故ならば、同一性主義には、エネルギーが枯渇しているからであり、創造性・想像力がないからである。差異にこそ、エネルギーがあり、創造性・想像力があるのである。
 この黙示録的事態とは、トランス・モダン的事態と言えるだろう。これは、これまで述べてきたように、ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明を意味していると考えられるのである。何故なら、これまで論述したように、ユダヤ/キリスト教のヤハウェが同一性主義の根本原理であると考えられるからである。ヤハウェ支配は今や破綻ないしは瓦解したのである。そう、端的に、ヤハウェの死である。
 差異共振神が今や復活するのである。それは、新多神である。新しい神々である。とまれ、それは、科学的には、差異共振エネルギーである。新たにMedia Point は開かれて、差異=陰へとエネルギーが発動していると考えられるのである。
 新たな1/4回転であろう。すなわち、新たにMedia Pointが「開闢」し、虚軸=イデア界=五次元が新生しているのである。

P.S. 先に、精神経済学を作業仮説したが、思うに、差異と同一性の理念に基づく哲学経済学が可能である。そう、哲学政治学、哲学社会学、哲学科学、哲学宗教学、哲学芸術学、哲学文芸学、等々可能となるだろう。とまれ、とりわけ、哲学経済学ないしは哲学政治経済学が重要である。PS理論的経済学、PS理論的政治経済学である。PS理論的科学である。

2008年08月02日 (14:33)

マルクスの亡霊:一神教的同一性主義とグローバル資本主義:ポスト官僚社会主義と差異精神資本主義

「マルクスの亡霊」とは何だろうか。私は資本主義における同一性主義が問題であり、差異共振主義へと転換すること(トランス・モダン化)を唱えてきた。
 問題は同一性主義は、ユダヤ・キリスト教的一神教の背景・源泉をもっていることである。この同一性主義は既述のように、超越的同一性主義、形而上学的同一性主義である。
 日本における同一性主義は、官僚封建体制下における同一性主義であり、欧米のもの、とりわけ、アメリカのものとは異なるのである。言い換えると、一神教的同一性主義と封建的同一性主義との違いである。
 日本は、アメリカに隷属しているので、根本の問題は、前者である。思うに、日本人は一神教のもっている、ある種のドライさを知らないのである。日本人は、根本的には、現代では珍しい気のいい多神教徒であるが、多神教のもつ人の良さを一神教は当然もっていないのである。
 一神教とは、とりわけ、ユダヤ・キリスト教とは、換言すると、超越的自我主義と考えられる。これが、資本主義の同一性主義の精神的源泉であると考えられる。サブプライムローン問題は、金融工学の問題でもあるが、しかし、私見では、資本主義の同一性主義、超越的同一性主義、同一性形而上学に根因がある。
 これは、金儲けを性善説にしたものである。ビジネス中心主義である。そう、これは無邪気だと思う。ユダヤ・キリスト教的同一性資本主義が、今日、行き詰まっていると考えられる。
 これまで、指摘したようにオバマ大統領候補の理念は差異共振(共鳴)主義であると考えられる。これは、実質的に、トランス一神教主義である。だから、アメリカの政治が転換する可能性が強いのである。
 これまで、アメリカを奉っていた日本の政治・経済は舵取りを変えないといけない。ポスト福田がきわめて重要である。というか、ポスト自民党「独裁」主義=ポスト官僚社会主義である。
 しかし、今日を見るに、ポスト官僚封建社会主義への気概が国民に乏しく、亡国官僚封建社会主義が継続する可能性があるのである。ブログでは、少なからぬ覚醒した人物が警鐘を鳴らし、処方箋を説いているが、多くの国民は、「太平の眠り」のままである。
 覚醒・啓蒙が必要である。どん底に落ちてからよりも、落ちる前に、先見の明をもって新たな舵取りをすべきである。
 「太平の眠り」は少なからず、マスメディア=マスコミに根因がある。マスメディア、とりわけ、テレビについて、次に検討したい。

p.s. マルクスの話題のついでに、マルクスの『資本論』の貨幣論であるが、そこでは、端的に、同一性価値としての貨幣価値(交換価値)が説かれている(いわゆる、価値形態論)。マルクスはそこに神学的なもの(言い換えれば、形而上学)を見ていたが、それは、天才的な直観があるのではないだろうか。(ただし、時間労働価値説は問題外である。)
 差異価値を同一性価値へと転換するはたらきが貨幣にはあるのである。これは、実は、自然にとても似ているのである。しかし、反面、自然に似ていないのは、差異共振性が抜けることである。今はここで留める。
 

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Fri, August 01, 2008 21:37:31

「マルクスの亡霊」とは何か
テーマ:政治・経済 後で検討。

【正論】京都大学教授・佐伯啓思 「マルクスの亡霊」を眠らせるには
2008.7.31 02:33
このニュースのトピックス:景気

 ≪急速に左傾化する若者≫

 若い人を中心に急速に左傾化が進んでいる。しかもそれはこの1、2年のことである。小林多喜二の『蟹工船』がベストセラーになり、マルクスの『資本論』の翻訳・解説をした新書が発売すぐに数万部も売れているという。若い研究者が書いたレーニン論がそれなりに評判になっている。書店にいけば久しぶりにマルクス・エンゲルス全集が並んでいる。私のまわりを見ても、マルクスに関心を持つ学生がこの1、2年でかなり増加した。

 私のように、マルクス主義左翼全盛の学生時代に知的好奇心をやしなった者にとっては、マルクスを「卒業」したところから社会科学の研究は始まったはずであった。そのような時代的経験を経た者からみると、この動向は何か奇妙にみえる。

 しかし、考えてみれば決して不思議なことではない。近年の所得格差の急速な拡大、若者を襲う雇用不安、賃金水準の低下と過重な労働環境、さながら1930年代の大恐慌を想起させるような世界的金融不安といった世界経済の変調を目の前にしてみれば、資本主義のもつ根本的な矛盾を唱えていたマルクスへ関心が向くのも当然であろう。おまけに、アメリカ、ロシア、中国、EU(欧州連合)などによる、資本の争奪と資源をめぐる激しい国家(あるいは地域)間の競争と対立は、あたかもレーニンとヒルファーディングを混ぜ合わせたような国家資本主義と帝国主義をも想起させる。

 ≪「無政府的な」資本主義≫

 この事態を生み出したものは何だったのだろうか。いうまでもなく、社会主義の崩壊以降に一気に進展した金融中心のグローバリズムである。

 資本主義の崩壊、社会主義への移行というマルクスの予言は間違っていると考えていたので、私にとって、社会主義の崩壊は、その時期はともかく、ある意味では当然であった。しかし、その後のいわゆる新保守主義もしくは新自由主義のいささか傲慢(ごうまん)なまでのグローバル市場礼賛は、私にはあまりに危ういものに思われた。絶えず貪欲(どんよく)なまでに利潤機会を求めて拡張を続けようとする資本主義は、過度な競争の果てに、社会そのものを深刻な不安定性の深淵(しんえん)に引きずり込むのではないか、と思われたのである。

 社会主義の崩壊以降の真の問題は、資本主義の勝利を謳歌(おうか)することではなく、いかにして「無政府的な」(つまり「グローバルな」)資本主義を制御するか、という点にこそあったのである。

 グローバリズムは、経済の考え方を大きく変えた。戦後の先進国の経済は、製造業の技術革新による大量生産・大量消費に支えられて発展してきた。賃金上昇が需要を喚起してさらなる大量生産を可能とし、一国の経済政策が景気を安定化したのである。社会は中間層を生み出し、政治は安定した。明らかにマルクスの予言ははずれた。

 しかし、80年代のアメリカの製造業の衰退は、資本主義経済の様相を大きく変えていった。国内での製造業の大量生産ではなく、低賃金労働を求める海外進出によって、さらには金融・IT(情報技術)部門への産業構造の転換によって、資本と労働を著しく流動化させ、そこに利潤機会を求めた。

 ≪「経済外的」な規制必要≫

 その結果、90年代に入って、利潤の源泉は、低賃金労働や金融資本の生み出す投機へと向かった。要するに、製造業の大量生産が生み出す「生産物」ではなく、生産物を生み出すはずの「生産要素」こそが利潤の源泉になっていったのである。かくて、今日の経済は、確かに、マルクスが述べたような一種の搾取経済の様相を呈しているといってよい。

 資本主義が不安定化するというマルクスの直感は間違っていたわけではない。しかしむろん、マルクスの理論や社会主義への期待が正しかったわけでもない。マルクスに回帰してどうなるものでもないのである。

 問題は、今日のグローバル経済のもつ矛盾と危機的な様相を直視することである。市場経済は、それなりに安定した社会があって初めて有効に機能する。そのために、労働や雇用の確保、貨幣供給の管理、さらには、医療や食糧、土地や住宅という生活基盤の整備、資源の安定的確保が不可欠であり、それらは市場競争に委ねればよいというものではないのである。

 むしろ、そこに「経済外的」な規制や政府によるコントロールが不可欠となる。「無政府的」な資本主義は、確かにマルクスが予見したように、きわめて不安定なのである。マルクスの亡霊に安らかな眠りを与えるためには、グローバル資本主義のもつ矛盾から目をそむけてはならない。(さえき けいし)

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080731/plc0807310235000-n1.htm

2008年04月24日 (20:34)

超越エネルギーと一神教:差異共振性の光と一神教の闇:トランス・キリスト教と新東西文明

先に、超越的叡知存在の感受に関して考察したが、多神教的感性と一神教的感性では違いがある。この点を精察したい。
 今思ったが、前者はハイデガー的存在的感性であり、後者は自我的感性ではないかということである。ただし、ハイデガーは後者に傾斜してはいると思う。
 言い換えると、存在論的感性と一神教/自我的感性である。しかしながら、ヤハウェは「我在りて、・・・」であるから、自我存在の神である。デカルトのコギトの前身のようなものである。だから、ハイデガーの存在論を前者に適用するのは問題がある。やはり、ハイデガーの存在論は後者の方に近いだろう。
 端的に言えば、後者はMedia Pointから同一性志向性のエネルギーを指すと言えるだろう。これは、自己同一性=自我志向性であり、これは、Media Pointの差異共振エネルギーを反転させた同一性エネルギーと考えられる。つまり、差異共振性を否定抑圧した自己同一性(自我)エネルギーであり、この否定抑圧の力動は差異共振エネルギーに対する反動エネルギーであり、絶対的衝動であると考えられる。だからこそ、これが、一神教エネルギーと考えられる。差異共振性、多神教性を否定する一神教エネルギーである。
 これは端的に、狂暴なエネルギーである。野蛮なエネルギーである。これこそ、闇のエネルギーではないのか。聖書では「光あれ」というが、これは、闇ではないのか。問題は自己同一性志向性は光の放出なのか、それとも、闇の放出なのか、である。
 これは実に根本的問題である。自己認識方程式は、光の放出でもあるが、そこでは、自我が自己であることを確認することを意味しているのである。
 しかしながら、同一性志向性はそうではなくて、左辺を否定抑圧しているのである。だから、同一性志向性=自己同一性志向性=一神教的自我志向性とは、⇒+1ではなくて、⇒-1ではないだろうか。-1としてのヤハウェ(超越神・唯一神)ではないのか。
 思うに、-1を闇ないしは月と象徴していいのではないだろうか。そして、+1を光ないしは太陽としていいのではないだろうか。【イスラム教が月をシンボルにしているのが参考になるのではないだろうか。また、神道が太陽をシンボルにしているのも参考になるだろう。】
 そうすると、闇の神であるヤハウェが「光あれ」というのはどういうことなのだろうか。ずいぶん以前に、エローヒーム(神の複数)とヤハウェを区別したことがあり、そのとき、創造神はエローヒームではないかというようなことを言ったかもしれない。
 とまれ、ヤハウェを闇の神とすると、光の神は別に考える必要がある。それがエローヒームではないだろうか。この点の問題に関して、以前何度も考察したことがあるが、思うに、差異共振的同一性を形成する神があり、それは、例えば、イシスとオシリスであろう。イシスが差異共振エネルギーであり、オシリスが⇒ +1の光である。これが、母権多神教の「創造」=造化である。
 それに対して、一神教の創造神が発生して、差異共振エネルギー=イシスを否定し、当然、光のオシリスを否定して、天地創造を行なうが、このときの太陽神とは何か。例えば、バビロニア神話におけるマルクトによるティアマトの殺戮による天地創造と太陽神シャマシュの場合である。
 英雄マルクトと太陽神シャマシュを結びつけて考えていいだろう。この統合態の帰結に一神教形成を見ていいだろう。つまり、ヤハウェの形成である。ならば、太陽神シャマシュの光とは、本来の光ではなく、ヤハウェの闇ではないだろうか。
 自己同一性主義は闇であるが、光と表象されるのは、何故か。この自己同一性主義=自我主義とは自我合理主義であり、物質的合理主義に帰結すると考えられる。
 この自我合理主義=物質的合理主義が光と表象されるのであろう。言い換えると、本来、闇である-1が光と錯視されるのである。
 思うに、これは物質的光と見ていいだろう。同一性の光である。これは、古典物理学の光と見ていいだろう。ニュートンの光である。
 ということで、近代主義は、本来、闇を光と見ているということになる。ここで、私が10代終わりの頃言った「光は暗く、闇は明るい」【記憶があいまいで言葉が違っているかもしれない。光は冷たく、闇は暖かいであったかもしれない。もっとも、言わんとしていることは同じである。】というアフォリズム的な言葉が証明されるだろう。近代主義の光は実は暗く、反近代主義の闇の心性に本来の光があるという意味になる。
 とまれ、一神教の帰結である近代合理主義は闇であるとここで証明されたであろう。また、物質主義も闇である。資本主義も同一性交換価値を至上価値とする限り、闇である。
 最後に整理すると、一神教の問題は、結局、光と闇が混淆していることであり、また単に混淆しているだけでなく、倒立転倒倒錯していると考えられることである。光と闇となり、闇が光となっているのである。つまり、例えば、キリスト教のいう光とは本来、闇であり、闇が光になるということである。だから、ヨハネの黙示録の最後の審判は、悪魔主義的である。悪魔の最後の審判である。神が悪魔となり、悪魔が神となっていると考えられる(参照:D.H.ロレンスの『黙示録論』)。
 【キリスト教の問題は、複雑であり、既述したように、二種類のイエスを想定するのが妥当だと考えられるのである。一つは、闇のイエスである。自我主義のイエス、悪魔のイエスである。戦争狂のイエスである。もう一つのイエスは、光のイエスであり、差異共振性のイエス、天使のイエスである。平和のイエスである。言い換えると、ヤハウェの子のイエスであり、太母の子のイエスである。】
 結局、一神教によって、差異共振理性=叡知(ソフィア・般若)が否定抑圧されたのであり、そこで、人類の叡知文化が否定されたと考えられるのである。叡知文化は異教や異端として否定されてきたのである。悪魔的キリスト教が暴虐野蛮な世界を生んだのである。
 父権一神教の狂気にあって、差異共振理性=叡知は、少数者によって探求され、保持されてきたと言えよう。哲学者、芸術家、詩人・作家、宗教者、革新的科学者、真民衆等はこれらのために戦ってきたのである。
 しかしながら、近代・現代西洋文明にあって、一神教的同一性主義が中心化して(ロゴス中心主義)、全体主義が生起しているのである。資本主義、とりわけ、国家統制主義と結びついた巨大資本主義が、同一性主義を中心化させて、世界は牢獄的になっているのである。
 問題は、差異共振理性=叡知の喪失にある。これをこれまで、証明できなかったのであり、単なる理想としか理解されなかったのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は、Media Pointという概念によって、この差異共振理性=叡知の実在性を解明したと考えられる。
 ここを精神の起点とすることで、キリスト教的西洋文明の分裂性を乗り越えて、トランス西洋文明、新東西世界文明が創造されると考えられるのである。

2008年03月15日 (23:03)

宗教的思考とイデア論的思考:超越エネルギーと信仰:近代的自我はカルトである:脱父権一神教としてのトランス・モダン・パラダイム・チェンジ

先に、宗教的思考について説明したが、これは、言い換えると、イデア論的思考ということになる。勿論、厳密に言えば、プラトニック・シナジー理論的思考ではあるが。思うに、差異共振イデア論的思考ともいえよう。簡略して、差異イデア論的思考であろう。
 もっとも、同一性主義と差異主義を、一神教原理と多神教原理と言い換えた方が深さを表現するときは優れているだろう。また、インパクトもある。
 ところで、今日、日本人の多くが無宗教と言うのは、決して無神論ということもないだろう。神社仏閣に参拝するのだから、無神論ではない。やはり、日本人の無宗教・不無神論とは、イデア論的なのだと思う。超越エネルギーは感じているのであるが、それに無自覚であったり、また、うまく表現していないと思えるのである。
 ここで、超越エネルギーと信仰ないしは信について簡単に言おう。超越エネルギーは、Media Point において発出される。それが同一性自己(自我)を形成し、また、差異として、内発している。同一性自己(自我)が中心化(同一性主義ないしは同一性中心主義。デリダのロゴス中心主義に相当する)されると差異は抑圧否定されて無意識になる。【既述したように、Media Point とは、超越・即非・内在の様態にあるのであり、単純な超越性でなければ、また、単純な内在性でもなければ、また、内在的超越性でもない。この点は、いくら注意しても注意し過ぎることはないだろう。】
 Media Point とは、伝統文化的には、魂や心や霊や精神等という用語で指し示されてきたものであると考えられるが、当然、宗教の領域に属するのであるし、また、思想・哲学の領域にも属するのである。
 ここにおいて、広義の心は、ある力を受動するのである。ある力とは、超越エネルギーであると考えられるのである。【ただし、同一性主義(自我中心主義)である限り、この力は感受されない。言い換えると、同一性主義では、この超越エネルギーを抑圧否定するのである。平明に言うと、不可視のものの排除である。】この超越エネルギーの感受とは、同一性によっては合理化できない。これは、差異としか理解されないし、的確には、特異性であり、差異共振性と考えられるのである。
 この超越エネルギーは、同一性現象性を越えているので、神的現象(ルドルフ・オットーのヌミノーゼ)として捉えられたりする。【いわゆる、オカルト的なものも本来はここに発して、ある場合超常現象として、誤って考えられているだろう。私は占いも本来は、ここに発していると考えている。占いも根源に変えれば、宗教・哲学・科学的である。】この超越エネルギーに対する感受性(感性)における帰依が信仰であろうし、宗教の根源であろう。
 しかしながら、この超越エネルギーの受動と共に、能動的な知性を形成することは可能なのである。これが、私が言う宗教的思考=イデア論的思考に当たると考えられる。そう、また、この超越エネルギーに基づいて、能動的表現をすることも可能である。これが、いわゆる、芸術・アート活動であろう。芸術は宗教的である(D. H. ロレンス)というのは、この意味においてである。
 問題は、超越エネルギーと同一性の関係である。超越エネルギーが同一性主義化(自我中心主義化)したときは、恐ろしく危険である。思うに、狂信化とは、このことではないだろうか。少し脱線するが、《近代的自我は狂気である》という私のテーゼであるが、これは、超越エネルギーの同一性主義化と言い換えることができそうである。そして、そう考えた方が的確であるような気がする。
 これは、また、カルトの問題にも適用できると思われる。オウム真理教の場合であるが、超越エネルギーが同一性主義化して、排他的二元論となり、同一性主義に宗教観念が入って、一種イデオロギーとなり、カルトとなったと言えるのではないだろうか。これは、また、西洋植民地主義、帝国主義、金融資本主義にも適用できよう。また、さらに、ナショナリズムにも適用できる理論ではないだろうか。そう、明治維新におけるナショナリズム・文明開化路線は、この超越エネルギーの同一性主義化(同一性中心主義化)で説明できると思われるのである。端的に言えば、超越エネルギーが、差異という理性を喪失して、同一性主義へと放出されるのである。
 この超越エネルギーの同一性主義化(カルト化)の問題について、精緻に考えよう。Media Point と同一性は本来、不連続なのであり、前者は特異性・特異点なのである。言い換えると、両者の間には、亀裂・溝があるのである。しかしながら、カルト化の場合、両者の亀裂・溝が消えて、超越エネルギーが即、同一性へと放出されるのである。言わば、差異回路のショート・短絡である。正に、狂気なのであるが、この原因は何か。
 上記において、私は超越エネルギーの受動・感受のことを言い、同一性主義はそれを抑圧否定すると言った。そして、直近において、超越エネルギーの同一性主義化について言い、両者はいわば矛盾・齟齬状態になっているが、このことはどう解明されるだろうか。
 超越エネルギーの受動・感受とは、差異の形成を意味するが、超越エネルギーの抑圧否定とは、差異の未形成を意味する。差異が形成される場合、超越エネルギーは能動・積極・肯定的に主体に作用する(スピノザの能動的観念とは、このことを指していると考えられる)が、差異が未形成である場合、超越エネルギーは反動・消極・否定的に主体に作用すると思われる。だから、超越エネルギーの同一性主義化(カルト化)とは、超越エネルギーの能動・積極・肯定化ではなくて、反動・消極・否定化であると考えられる。
 しかしながら、後者はどういう事態なのだろうか。やはり、ここには、Media Point の新たな開放があると思われるのである。原近代は、Media Point の開放から開始されたと考えられる。即ち、イタリア・ルネサンスである。そして、それがベースになり、プロテスタンティズム的近代化が生起するのである。しかし、それは、父権一神教的同一性化であったのである。だから、必然的に、そこには、カルト化が起こったと見るべきであろう。魔女狩りは端的にそのようなものであるし、植民地主義や帝国主義もそのようなものである。
 そう、やはり、近代的自我/近代合理主義は狂気であると見るべきである。しかし、正しくは、ここで検証したように、近代的自我/近代合理主義はカルトであると修正すべきであろう。
 そうならば、敷延すると、父権一神教自体がカルトではないのか。おそらく、そうだろう。ユダヤ・キリスト教はカルトなのである。また、天皇制的一神教もカルトである。(しかしながら、天皇文化は、本来、多神教である。多神教的天皇宗教文化が正しいのである。)
 だから、オウム真理教問題であるが、それは、端的に、父権一神教の新興宗教的現象であると言えよう。世界の縮図と言えよう。
 最後に大問題を投げ掛けよう。いったい、どうして、父権一神教ないしは父権的神話が生まれる必然性があったのか、である。
 今は、簡単に答えるだけだが、やはり、母権多神教の衰退があり、なんらかの原因で父権主義化が生起したということであろう。つまり、女性主義が衰退して、男性主義が生起したということである。予見では、Media Point という太極において、陰の志向性が衰退して、陽の志向性が台頭した結果が、父権一神教の誕生であると思われるのである。そうならば、自然のもつカルト性ということになるだろう。
 しかし、カルト化の意味とは何か、である。それは、端的に、同一性主義の形成である。つまり、自我主義・物質主義の形成である。言い換えると、西洋文明の形成である。(実際、キリスト教は母権多神教をネガティブながら包摂していると考えられる。)そして、今日、これが終末を迎えて、いよいよ、脱父権一神教=脱自我主義・脱唯物論であるトランス・モダンへとパラダイム・シフトしつつあるということなのだろう。

2008年03月08日 (01:44)

一神教/自我力学再論:差異に対する憎悪について:内的な差異共振性=他者の抑圧否定が、外的な差異共

一神教/自我力学再論:差異に対する憎悪について:内的な差異共振性=他者の抑圧否定が、外的な差異共振性=他者の抑圧否定=憎悪・攻撃をもたらす

自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、一神教力学をこれまで見てきて、左辺を内包的に、抑圧否定する同一性自己(自我)の形成を考えた。この同一性自己=自我の基盤の鏡像(反射像・理想像)は、超越神=唯一神の像である。(しかし、この像は、いわば、精神的像であり、不可視である。この点については後で検討。)
 この力学の注意点は、左辺の差異共振性を否定して、そこに超越神を生起させることである。差異共振性は、虚軸と実軸の即非性をもち、超越的・即非・内在的であるが、超越神は、その内在性を否定して、超越性だけを帯びると考えられる。この点は既述したことである。
 問題点は、左辺の否定のもつ憎悪・ルサンチマン(嫉妬深さ)のもつ意識構造の意味である。これについて再考したいのである。
 形成された自我=同一性自己は、超越神に、おそらく、類する力forceをもち、抑圧的に否定された差異共振性(他者)に対して、優位性を志向すると考えられる。優位性をもつというよりは、優位・優越衝動をもつのである。差異共振性=他者を劣位に置かんとする自我(同一性自己)優位・優越衝動であり、差異共振性=他者に対する攻撃衝動をもっているのである。
 この場合、攻撃とは、物理的、精神的暴力(傲慢さ・倨傲さ等)をもつと考えられる。ユダヤ・キリスト教西洋文明の攻撃性はこれで説明できると考えられる。
 問題は、この優位・優越志向攻撃衝動の発生のあり方である。内的に、差異共振性=他者を抑圧否定しているので、当然、外的な差異共振性=他者を攻撃することになると考えられる。何故なら、外的な差異共振性=他者は、自我・同一性自己に対して、内的に抑圧否定している差異共振性=他者を、エネルギー的に刺激して賦活・活性化させるのであり、それに対して、自我・同一性自己は、不快感・不機嫌・不愉快・嫌悪・憎悪等を覚えるのであり、それが原因で、反動的に攻撃衝動が発生することになるからである。
 つまり、言い換えると、内的な、差異共振性=他者の抑圧否定の力forceが、外的な差異共振性=他者を抑圧否定するために、攻撃衝動となると考えられるのである。衝動であるから、非合理的である。言い換えると、同一性知性による差異に対する非合理的な攻撃性である。【そして、この自我・同一性自己が近代合理性という物質的同一性知を得て、近代的自我となるのである。持論である近代的自我=狂気説はこれでも完全に説明できるのである。】
 結局、自我・同一性自己は、力forceで形成されたのであり、本質的に暴力・攻撃的であり、衝動的なのである。(唯一神=ヤハウェ的)父権的暴力衝動と言っていいだろうし、これが拡大したのが国家暴力=戦争であると考えられる。
 とまれ、近代的自我=狂気説であるが、今日、トランス・モダンへの移行期であるポスト・モダンにあっては、近代的自我=狂気は精神病理化すると考えられるのであるし、そのことをこれまで何度も述べてきたが、ここで繰り返して言うと、今日、ポスト・モダンにあって、近代的自我を規制していた同一性主義の枠組みが緩み始めていて、抑圧否定していた内的な差異共振性=他者のエネルギーが積極的に発動するようになり、そのために、それを摂取できない近代的自我は、それをさらに抑圧否定しようとするのであるが、これは、いわば、盛期近代と異なり、差異共振性=他者のエネルギーが賦活されているので、それを抑圧否定しようとする近代的自我は、制御不可能の事態に陥っているのであり、そのため、発動する差異共振性=他者のエネルギー(超越・高次元エネルギー=聖なるエネルギー)が、近代的自我の非合理性を過剰にし、不安定化させるのであり、つまり、精神病理化をもたらすと考えられるのである。
 簡単に言うと、近代的自我の力と差異共振性=他者のエネルギーの分裂化が生起すると考えられるのである。これが、うつ病となったり、パラノイアとなったり、統合失調症(「分裂症」)等を引き起こす根本的な精神的事象であると考えられる。【p.s.  もう少し説明すると、今日のポスト・モダン期において、差異共振性=他者のエネルギーに対して、近代的自我は本来の攻撃衝動だけでなく、賦活された差異共振性=他者のエネルギーへの反動性をもつので、非合理な攻撃衝動と差異共振性=他者のエネルギーへの反動が混淆した狂気、いわば、複合的狂気をもつと考えられるのである。非合理な攻撃衝動狂気と超越的エネルギーの反動狂気の複合した二重狂気である。これは、簡単な言葉で名づけるのが難しいポスト・モダン狂気である。いちおう、反動超越的狂気とでも名づけておこうか。p.p.s. 痙攣的狂気とも言えよう。】
 少し補足すると、差異共振性=他者のエネルギーにさらされた近代的自我であるが、それは不安や恐怖等を感じると考えられる。未知の力にひたされているのである。問題は、この未知のエネルギーを摂取する方法である。自己転換の方法である。これについては、本来、東洋思想は蓄積があるのである。例えば、禅は、この練達の方法、精神・身体技術である。
 しかし、今日、科学・技術の進展した時代においては、この問題はどうなのだろうか。トランス・モダン化が必然となっているので、避けては通れない問題である。とにかく、東洋の修行的宗教思想は、この点で効果的であると考えられるが、知的にはどうなのだろうかという点がある。
 やはり、イデア論が決定的だと思う。イデア界を想定することで、差異共振性=他者のエネルギーを知的に取り込むことが可能になると考えられるのである。この点については、以前触れたことがあるが、重要な問題なので、ここでも述べてみたい。
 イデア的知を想定することで、心は、そこにおける差異共振性=他者のエネルギーを衝動ではなく、観念的に取り込むことが可能になると思われるのであるが、その理由は何であろうか。
 これは、心・観念の力学の問題であるが、心・観念において、衝動・情動が生じると考えられるのである。しかしながら、身体との関連はどうなのかという問題もある。つまり、衝動・情動とは、単に心的だけでなく、身体的でもあるのではないのか、ということである。問題は、エネルギーである。Media Point の差異共振エネルギーの問題である。これまでの考えでは、魂=身体である。あるいは、心=身体である。だから、衝動・情動は、心・観念=身体の問題であるということになるのである。(私がいう身体とは、単に物質的身体ではなくて、知と存在の共振によって発生する心身体である。)
 さて、イデア的知を想定することによって、超越エネルギーは、知性的に把捉されると思われるのである。この知的把捉とはいったい何だろうか。それは、端的に言えば、Media Point と結びついた知性の形成を意味するのではないだろうか。つまり、これまで、知性は、一般には、同一性知性であったが、その知性に超越エネルギーを捕捉する知を加えることではないだろうか。これは、エネルギーの知的捕捉と考えられる。エネルギーの知的蓄積である。
 では、このイデア的知性はどういう意味をもつのだろうか。それは、当然、差異共振知性である。つまり、同一性を包摂した差異共振知性の形成を意味すると思えるのである。あるいは、同一性知性を包摂した超越知性の形成である。思うに、Media Point Intelligenceと呼ぶことができると思う。これこそ、プラトニック・シナジー理論のもたらす知性、プラトニック・シナジー知性である。これは、カントが認識不可能と考えた物自体の知性でもあると考えられるのである。とまれ、これで、イデア的知性の意味を説明したこととしよう。
 因みに、一神教のもたらした積極的意義を考えるならば、それは、純粋に超越的次元を形成したことだろう。虚軸の次元を形成したと考えられるのである。多神教の場合は、Media Point を保持するが、同一性化=世俗化によって、超越的次元を喪失しやすいと言えるのかもしれない。

2008年02月16日 (01:12)

超越神はどこに行ったのか:近代的自我の末路としての精神病

先に、 同一性による差異の排除力学という長年(近代的自我の狂気という問題意識から数えると、10年は考え続けてきた)に渡る問題がようやく解決できたのであるが、http://ameblo.jp/renshi/entry-10072754057.html
その副産物として、超越神の穴(喪失)が問題として浮上してきた。つまり、こういうことである。超越神と父権的自我(近代的自我はここに含まれる)が同時生起するのであり、これは、プロテスタンティズムにおいても生起したと考えられるが、近代合理主義の進展とともに、超越神が衰退してくる(世俗化)が、そのとき、超越神の穴はどうなるのか、である。
 もっとも、アメリカ人の90パーセントは信仰者であるということで、それなりに超越神は生きているのだろうが、しかしながら、衰退は否めないだろう。つまり、超越神のもつエネルギーが初期プロテスタンティズムのようにはもはやなく、衰退していると考えられるということである。
 では、その超越神の穴はどうなるのか、という問題である。言い換えると、近代合理主義をもつ近代的自我はどうなるのか、ということでもある。
 思うに、ハイデガーが直面したのも、この穴であろう。そして、それを「存在」で覆おうとしたのではないのか。近代的ニヒリズムである。そう、言うの忘れていたが、ニーチェの言及した神の死とは、以上の事態を指したものである。
 超越神の空虚の意味である。いったいこれは何を意味するのか。超越神の死とは何を意味するのか。ユダヤ・キリスト教の神の死とは何を意味するのか。
 先の考察に由れば、Media Pointが二分化されて、Split Mediaとなり、超越神と父権的自我(近代的自我)が生まれる。しかし、これは、同一性志向性というエネルギー(物質エネルギー)を放出するのである。すると、当然、エネルギーの消滅が起こるのである。残るのは、超越神の穴と父権的自我(近代的自我)である。
 この空虚を満たすことが、西洋近代文化の一つの側面であった。思うに、アメリカ人が信仰をもつというのは、この点から見て、逆説的であろう。つまり、空虚だから、信仰で満たそうとするのだろう。
 私の直感では、空虚は実に恐ろしいものである。おそらく、それを隠蔽するために、近代合理主義を強化すると考えられるのである。つまり、過度の近代合理主義が起こるのである。空虚に蓋にするようにして、近代合理主義の意志をもつのである。
 しかしながら、問題は、空虚のもつ力学である。(これは、ほぼポスト・モダン問題である。この点については既述済みなので、ここでは述べない。)超越神のエネルギーがあるときは、父権的自我は、それに対応するような姿勢をとるだろう。しかしながら、超越神が空虚になったとき、思うに、それは、闇になるのである。その闇が父権的自我にはたらきかけると思われるのである。端的に言えば、その闇が、父権的自我の影の支配者になっていると思われるのである。言い換えると、超越神の影が父権的自我を支配すると思われるのである。だから、父権的自我は、いわば、無意識の支配を受けているのである。
 では、超越神の穴・超越神の影の力学とはどのようなものだろうか。ここでも直感で言おう。その闇は父権的自我を襲うのである。狂気となって父権的自我を襲うのである。これはどういうことなのか。
 これは、単純である。超越神の穴・影・闇とは、虚軸に存するのであり、それは、実軸にある父権的自我は認識不可能なのである。超越次元における穴・空虚・影・闇なので、父権的自我にとっては、まったく得体の知れないものなのである。だから、それはただ非合理衝動となって父権的自我を襲うのだと思う。狂気衝動である。
 そして、また、枯渇したエネルギーを満たすには、Media Pointを開く必要があるのであるが、父権的自我は、Media Pointを抑圧しているので、新鮮なエネルギーが得られずに、さらに枯渇するのである。いわば、うつ病的状態になると考えられるのである。
 結局、狂気とうつ病が襲うのである。狂気は父権的自我を衝動化するのである。非合理衝動で突き動かし、Media Pointを抑圧するように攻撃・暴力的になるのである。それは、パラノイア的であり、また、分裂的である。
 父権的自我である近代的自我の運命とはこのようなものである。つまり、父権的文明の破滅の事態が生じるということになるのである。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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