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2012年01月01日 (14:07)

ミトラ教とシュメール文化とエトルリア文化:日の神キリストの西洋父権化とPS理論的マニ教的日の神

ミトラ教とシュメール文化とエトルリア文化:日の神キリストの西洋父権化とPS理論的マニ教的日の神

テーマ:manichaeism: 哲学

ミトラの密儀/フランツ・ヴァレリ・マリ キュモン
¥3,262
amazon.co.jp

ミトラ教の古典的名著と翻訳者が呼ぶ本書を拾い読みしているが、ミトラ教についてよく知らなかったので、新鮮な、実に興味深い内容である。
 想起したのは、シュメール美術の円筒印章に描かれた牡牛とライオン鳥の図像である。前者を後者が食べるのであるが、前者は微笑んでいる。これは、明らかに、女神文化である。どうも、ミトラ教はシュメール女神文化と関係すると推測される。
 次に思ったのは、イタリアの先住民のエトルリア文化である。D. H. ロレンスが『エトルリアの地』で、エトルリアの墓地の壁画を分析しているが、そこに宇宙・自然的な陰陽的均衡文化を認めているのである。どうも、直観では、それにはミトラ教が影響していると思われるのである。
 そうすると、シュメール⇒イラン・インド⇒エトルリア⇒西方ミトラ教という図式が見えてくる。
 そして、ローマ帝国において、キリスト教と「覇権」を争ったのであるが、敗れたのである。結局、宇宙母権的要素が否定されて、父権的なキリスト教が勝利したことになる。言い換えると、東洋的要素が否定されて、西洋的父権的キリスト教の覇権が明確になったことである。
 私見では、キリストは母権的なのであるが、「父」がヤハウェなので、母権的要素が抑圧されたキリストの宗教が生まれたことになる。母権的キリストならば、第三象限になるが、父権的キリストだと第二象限に属すると考えられる。
 結局、ミトラ教がキリスト教に敗北したということは、東洋母権的宗教(霊的日輪宗教、大女神宗教)が西洋父権的宗教に取り込まれるように敗北しことを意味する。つまり、キリスト教は東洋的な日の神であるキリストを取り込んでいるのである。父主母従、西主東従になっているのである。
 ここで少しマニ教について触れると、それは、光の神としてのキリストを説いていると考えられる。つまり、ミトラ教の母権的キリストを発展的に継続する形でマニ教が生起したように思われる。しかし、マニ教もキリスト教、その他に滅ぼされたのである。
 その後、西欧において近代合理主義という唯物論が発達するが、そのとき、ルドルフ・シュタイナーのマニ教的霊学、D. H. ロレンスの独特なやや反動性をもった東洋的母権的身体的霊学が生まれたのである。
 結局、東洋母権宇宙的霊的日輪グノーシスを創造する衝動が現代世界にあると考えられる。
 そして、PS理論の創造がある。これは、明らかに、この人類史的精神の流れの帰結と考えられる。これは大マニ教、超マニ教と言うべき理論、グノーシスである。日の国で、日輪教の国でこれが生まれたのはある意味で必然である。東洋と西洋の合流点である日の国でこそ生まれるべくして生まれた理論である。
 今はここで留める。
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2010年11月13日 (18:41)

永遠性とは何か:その他、諸々のこと:もろもろ草

私は高校生のとき、教室の机で、後何年かしたら、もうここにはいないというようなことをよく感じていた。それは不思議であった。
 その時は居ないのに、今居るという感覚が不思議であった。これは、一種の即非感覚と言えよう。
 また、人間の感情は、ずっとあるのではないかとも思った。つまり、過去において、誰かが感じた感情はいわば永遠ではないのかと。
 これは、PS理論で言えば、虚軸のもつ永遠性、あるいは、Media Pointのもつ永遠性ではないだろうか。人間認識図で言えば、四つの象限の永遠性であろう。しかし、正確には、第三と第四象限であろう。
 とまれ、永遠という感覚がある。唯物論では、到底認められない感覚である。
 そう、単純に、永遠の感覚を肯定すればいいのではないだろうか。物質主義の視点からは、それは妄念・妄想と見なされるだろう。
 今は、「わたし」は、現在の物質界に制限されているが、「わたし」が物質的身体から解放されれば、新しい意識をもつようになるのではないだろうか。
 思うに、霊魂とはMedia Pointであろう。それは、霊界-1に通じていよう。
 解脱とは、物質性からの脱却である。それは、MP1へと到達することであり、さらに、-1へと参入することではないだろうか。
 根源的エネルギー、元エネルギーが、物質的身体に陥入し過ぎると、物質的欲望の虜になると言えよう。貨幣欲もそれと同等であろう。
 根源的エネルギー、元エネルギーを精神性へと反転することが必要であろう。
 ここで、精神的修行ないし芸術の問題がある。
 今、芸術の問題に簡単に触れたい。芸術は精神的修行と違って、感覚性を保持する。問題は、感覚性、あるいは、感性とは物質的なのか、ということである。
 一見、感覚とは物質的と取られるだろう。果たして、そうなのか。
 例えば、秋の夕焼けは空気が澄み切っているので、鮮明で美しい。その美的感覚とは物質的なのか。
 感覚と物質の関係について解明する必要がある。
 Media Pointにおいて、差異共振は同一性を形成し、それが、物質へと展開する。同一性は原物質である。しかし、感覚は同一性なのか。
 例えば、眼前に、樹林があるとしよう。樹林という認識は、同一性であり、眼前の樹林は差異である。
 そして、感覚、視覚は、樹林の形象に惹きつけられる。視覚は樹林と一如になる。
 このとき、視覚経験は、樹林を同一性とは認識せずに、ただ、緑の形象として感覚するだろう。つまり、ここには、差異はあるが、同一性はない。ただし、言語表現するときは、樹林や緑や梢、等々の同一性を使用する。
 ということは、感覚、感性とは、同一性ではない。それは、なおさら、物質ではない。感覚、感性とは差異である。つまり、精神性に属すると言えるだろう。
 感覚、感性が物質と関係するのは、同一性認識と結びついたときである。例えば、眼前のグラスはグラスという物質的同一性をもち、感覚はそれに限定される。
 つまり、感覚、感性を物質性と結びつけるのは、同一性である。しかし、感覚、感性は同一性と不連続である。
 思うに、この認識がないために、これまでの哲学、科学の認識は混乱してきたのではないのか。つまり、感覚、感性は、同一性⇒物質+1と連続化されてきたのであり、いわば、無理やり、物質と接合されてきたのではないか。
 そうすると、実に新しい地平・視野が広がるのではないのか。つまり、精神的感覚、精神的感性が本来的であり、ここにこそ、芸術の本質があると考えられるのである。
 ここで、D. H. ロレンスの文学を考えると、彼の表現する性とは、実は、精神的感覚、精神的感性ではないのか。言い換えると、精神的性である。これは、同一性・物質的性とはまったく異質である。
 これは、差異共振ではなく、差異共立、さらには、差異共融の表現であると思われるのである。
 近代は同一性・物質的性に取り憑かれていた。しかし、トランス・モダンは、精神的性へと転化すると考えられる。
 思うに、最近の女性のポップスにはその傾向が感じられる。例えば、レディー・ガガの表現は精神的性の表現と考えられる。
 後で、感覚と精神について、緻密に解明したい。
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2010年07月30日 (14:26)

シュタイナーの霊的科学(霊学)と差異的哲学科学

シュタイナーの説く霊・精神(der Geist)は、PS理論から見ると、差異として把捉できると思う。
 というか、差異的哲学科学として、シュタイナーの霊的科学(霊学)を見るといいと思う。シュタイナーは哲学博士であったし、また、自然科学研究者でもあったのである。
 また、「オカルト」という用語は不可視性と捉えるといいと思う。
 また、「霊」、「魂」、「体」の三元論であるが、「霊」は差異共立(MP1)、「魂」は差異共振(MP2)、「体」は同一性として捉えられるだろう。
 とまれ、最大の問題の一つは霊的力学をどう見るかである。例えば、エーテル体、アストラル体、自我である。
 今は簡単に触れるが、エーテル体とは、「気」であり、それは、⇒ではないだろうか。
 思うに、訳語に問題がある。自我と訳されているものは、ichであり、それは、自己ないし個と言うべきである。それは、凸i#凹iと考えられる。
 結局、エーテル体を科学的に説明できれば、霊的科学は説得力をもつようになるだろう。エーテル体は生命体を形成する情報エネルギーである。それは、差異共振エネルギーと言えるように思える。
 また、問題は、アストラル体である。それは、感情・情感に関係するのである。これは、凹iに関係するだろう。つまり、他者性である。対他者的様態である。
 結局、アストラル体はMedia Pointの凹i的様態である。そうすると、「わたしich」はMedia Pointの凸i的様態である。(そして、共振様態がエーテル体となる。)
 そうならば、シュタイナーの「自我」とアストラル体の関係がPS理論の凸i#凹iの差異共立に相当するのかもしれない。
 後で再考したい。


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


神智学 (ちくま学芸文庫) [文庫]
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌 (翻訳)
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2009年05月10日 (02:09)

唯物論的医学とPS理論的医学:神経伝達物質は差異共振エネルギーの物質体ではないのか:新精神医療へ

今は予見を簡単に述べるだけであるが、私は今の唯物論的精神医療に大いに疑問をもっている。
 以下のニュースでは、「SSRIやSNRI」のブロック効果を述べているが、それは、実に消極的な療法ではないだろうか。もどってくる神経伝達物質をブロックするということであるからである。
 私の直感では、神経伝達物質とは、差異共振エネルギーを体現している「物質」である。だから、本来は精神・イデアを具現しているのである。ということは、薬物療法では、精神・イデアの末端の治療に関わっているに過ぎないのであり、本体の精神・イデアの治療へは関わっていないのである。
 勿論、薬物療法全体を否定するつもりはない。ただし、それは、末端療法に過ぎないから、本当の治療は行えないと思う。(メルマガの小野寺光一氏のように、坑うつ薬の危険性を説く人もいる。例えば、自殺衝動や攻撃衝動が発生すると述べている。)
 思うに、神経伝達物質(差異共振エネルギー)が戻ってくるというのは、心において、差異共振認識が形成されてないということに関係しているのではないだろうか。
 つまり、差異=他者を受容する意識が形成されていないのではないだろうか。差異=他者の受容の心的回路が形成されれば、神経伝達物質を受容できるのではないだろうか。
 そうすると、神経伝達物質とは、-iに関係すると言えよう。心を+iとすると、差異=他者である-iを受容する心的回路が構築されていないと、-iに関わる神経伝達物質が受容されないということではないのか。
 ここでは、「霊主体従」が重要である。差異=他者=-iを否定するとき、差異共振エネルギーが形成されないことになる。そして、差異共振エネルギーの「物質」が神経伝達物質とすると、当然、活性化されないので、移動せずに、もどってくるということではないのか。
 また、それだけでなく、ニュースの記事にあるように、患者は神経伝達物質が少ないとあるが、正に、差異共振エネルギーが十分に形成されないために、それの「物質」的体現である神経伝達物質が少なくなるということではないのか。
 だから、唯物論的精神医療、薬物療法は末端医療に過ぎず、病気の本体である心・精神を本来的に治療するものではないと思われるのである。後で緻密に検討したい。

追記:また閃いたが、差異共振(差異共鳴)が形成できない人は、怒気に満たされるのではないだろうか。言い換えると、攻撃性が形成されるのでないだろうか。
 端的に言えば、差異共鳴エネルギーとは和合・調和・「共和」のエネルギーであり、平和・平安・優しさ・歓喜・幸福のエネルギーである。もっとも、創造的エネルギーではある。だから、それが形成されないと、心に不要な怒り・攻撃性・ルサンチマンが発生するということではないのか。
 つまり、差異=他者=-iを否定すると、当然、積極・能動的な差異共振エネルギーが形成されなくなる。それは、(+i)*〔-(-i)〕⇒-1と考えられる。つまり、+1を神経伝達物質」とすると、-1が怒り・攻撃性・ルサンチマンということではないだろうか。あるいは、鬱状態である。-1がいわば、悪の本質ではないだろうか。
 思うに、⇒+1は超神経伝達物質であり、霊性ではないだろうか。今日のトランス・モダンの時代精神はそこへいかないといけない。

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多様化するうつ(2) 薬物療法が中心 種類と量、調整しながら

2009年5月8日
写真

 うつ病治療の中心は現在、薬物療法だ。抗うつ薬が主に使われ、抗不安薬などさまざまな薬が処方されている。治療効果が上がっている新世代の薬も登場し、治療に役立っている。 (鈴木久美子)

 「治療ガイドラインと医師の経験に基づいて、患者さん一人一人の特徴に十分配慮した微調整をしながら処方するのがうつ病の薬だ」

 東京女子医科大神経精神科の坂元薫教授は投薬の考え方をこう説明する。

 使用する薬の中心は、抗うつ薬だ。「うつ病に伴う気分の落ち込みや不安、こだわりを軽くして、回復を助ける」と杏林大の田島治教授(精神医学)は解説する。

 主に使われているのは、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)で、日本では一九九九年から使用が始まった。四商品がある。翌年から一商品だけだが、新薬SNRI(選択的セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)も出た。

 五〇年代から使われていた抗うつ薬は、口が渇いたり、便秘、だるさのほか多量服薬すると心停止により死に至るなど重い副作用があった。SSRIやSNRIは「第三世代」と呼ばれ、効果はほぼ同じで、こうした副作用が少ないといわれる。「うつ病は心の風邪。気軽に病院に行こう」と呼びかけるキャンペーンのきっかけにもなった。

 脳内には、セロトニンやノルアドレナリンといった神経伝達物質があり、神経細胞から放出されて近くの別の神経細胞の受容体に結合して、細胞間に情報を伝える。うつ病患者は、同物質が少ない上に、結合しきれなかった同物質が、放出した神経細胞に戻って取り込まれてしまう。同薬はそれをブロックし、情報伝達を活発にする仕組みだ=イラスト。

 処方では、徐々に服用量を増やしていくのが特徴だ。一-二週間ごとに増やし、患者に適切な量にする。

 「薬量を増やすことに抵抗感を持つ患者さんも多い。医師が最初に処方の基本方針をしっかり説明することが大切だ」と坂元教授は言う。少量のまま飲み続けても、効かなければ意味がない。

 効果が表れるまでに二週間ほどかかる。服用中にいきなりやめると、吐き気やめまい、ふらつき、といった「中断症候群」の症状が出る。

 SSRIには前世代薬のような副作用は少ないが、まれに服用初期や増量時に、不安や焦燥感、怒りっぽさなど「アクチベーションシンドローム(賦活症候群)」と呼ばれる症状が出る。

 効果が思わしくない場合は、ほかの抗うつ薬に変えたり、抗不安薬や気分安定薬などと組み合わせる。日本では、抗不安薬の消費量が多く、米国の約七倍という。米国はSSRIだけを使うが、日本は抗不安薬を一緒に処方する場合が多い。

 併用が不安の解消に有効だという検証結果に基づいているが、六週間を過ぎると効果に差がなくなることも分かっている。短時間で効果が切れる抗不安薬がよく使われ、患者が不安から薬を欲しがり、医師が処方を続けて依存症になる場合もあるという。

 だが「作用時間の長いタイプの抗不安薬を医師が適切に処方すれば、依存は起こりにくい」と坂元教授は話す。医師に相談し適切な知識を持って自分に合った処方で服用すれば、心配ない。

 現在では、抗うつ薬だけでも約三-四割に効果がある。

 坂元教授は「最初の薬で十分な効果が見られなくても、次の薬に変更することで良くなる人も多い。あきらめないで治療を続けてほしい」と話す。

http://www.chunichi.co.jp/article/living/health/CK2009050802000067.html?ref=rank
中日新聞 CHUNICHI WEB

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神経伝達物質
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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神経伝達物質(しんけいでんたつぶっしつ、英 Neurotransmitter) とはシナプス でシグナル伝達 に介在する物質 で、神経細胞 などに多く存在する。

1960年代からの判断基準によれば、以下のような条件に該当する物質が神経伝達物質と呼ばれている。

* シナプス前細胞で合成される。
* シナプス後細胞に受容する機構(基本的に受容体 )がある。
* シナプス前細胞から開口放出 後、シナプス後細胞に影響を与えるに十分な量がある。
* 非常に局所的に作用し、あたかも物質放出がシナプス後細胞内でおこったかのように作用する(内在性放出の模倣)。
* 放出後に生化学的に不活化するような機構が存在する。

ただし、亜鉛 イオン のように、生体内で合成とは言いがたい方法で単離されるもの、一酸化窒素 のように細胞膜を透過しシナプス間隙より広い範囲に拡散するものについても神経伝達物質とみなす見方もある。

また、ホルモン も細胞間シグナル伝達に介在する物質であり、特定の分子が開口放出され受容体に結合して作用する点なども同じであるが、神経伝達物質による神経性調節は特定の細胞間で局所的に短時間で作用が及ぶもの、ホルモンによる液性調節は循環器系を通じて拡散し大局的に作用するものとして分類されている。

オピオイド などは脳内麻薬 と呼ばれたことがあり、エンドルフィン という語は「体内」「モルヒネ」の混成語 である。現在これらの物質はヒトの体内で生産され恒常性 の維持などに関与していることが分かり、誤解のないよう神経伝達物質と呼ばれている。むしろ現代風の命名法 に従えば、麻薬 は神経伝達攪乱物質などと呼ばれただろう。

神経伝達物質やホルモンの標的となる受容体に対し働きかけ、同様の作用を示す物質をアゴニスト と呼ぶ。受容体と結合するが変化を引き起こさず、結果として神経伝達物質やホルモンの働きを阻害する物質をアンタゴニスト と呼ぶ。
機序 [編集 ]

放出前 [編集 ]

神経伝達物質はシナプス 前細胞の細胞体 で合成され、細胞輸送によって運ばれてくるないしは細胞 外から吸収され、前シナプス終末にあるシナプス小胞 に貯蔵される。前シナプス終末に活動電位 が到達すると神経伝達物質はシナプス間隙 に放出される。

放出後 [編集 ]

神経伝達物質はシナプス間隙 に放出されると、拡散 によって広がり、後シナプス細胞の細胞膜 上にある受容体と結びついて活性化される。受容体がイオンチャネル 型の場合そのイオンチャネル が開き、受容体が代謝型であればその後いくつかのステップを経てイオンチャネル を開かせ、後シナプス細胞に脱分極 ないし過分極 を生じさせる。放出後は速やかに酵素 によって不活性化されるか、または前シナプス終末に再吸収 され、一部は再びシナプス小胞に貯蔵され再利用される(元のシナプス小胞に戻るのではなく別のシナプス小胞に充填される)。

分類 [編集 ]

神経伝達物質は大きく分類すると以下の3つになる。

1. アミノ酸 (グルタミン酸 、γ-アミノ酪酸 、アスパラギン酸 、グリシン など)
2. ペプチド 類(バソプレシン 、ソマトスタチン 、ニューロテンシン など)
3. モノアミン 類(ノルアドレナリン (ノルエピネフリン)、ドパミン 、セロトニン )とアセチルコリン

その他一酸化窒素 、一酸化炭素 なども神経伝達物質様の作用を示す。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E4%BC%9D%E9%81%94%E7%89%A9%E8%B3%AA


参照:
[ 企業戦略 ]
社員を輝かせる会計-5
価値観の共鳴が強い会社を生む
2009年05月07日(Thu) 天野 敦之



昨今では、業績の悪化や仕事量の増加などに伴い、鬱病の増大などメンタルヘルスが深刻な問題になっている。

 メンタルヘルスに対処するための直接的なコストだけでなく、企業全体の生産性が落ちることによる間接的な損失まで含めると、その影響は甚大であろう。
何のために働くか分からないことが鬱を引き起こす

 鬱病の原因には様々なものがあるが、大きな原因の1つに、自分の仕事の意味が見出せないという点がある。一般的に人は、意味を見い出すことができれば多少肉体的に疲労していても鬱になることは少ない。

 むしろ自分が何のために働いているのか分からないという状況が鬱を引き起こす。

 価値に着目することは、メンタルヘルスに関する有形無形のコストを著しく減少させるという意味でも大きな意味があると言える。

 ここまで説明してくると、読者の方の中には、価値とは要するに企業理念のことか、企業理念であれば当社にもしっかりとしたものがある、と思われる方もいるかもしれない。

 確かに、企業理念は企業がどのような価値を創造するのかを示すものであり、概念的に近い。本当の意味でしっかりとした企業理念を持っている企業は、間違いなく社員が輝き、価値を創造し、利益を生み出し続けている。

 しかし多くの会社の企業理念は、どこかで聞いたような美辞麗句を並べただけに過ぎないものになっている。社員に聞いても企業理念を理解していないか、暗唱させられて覚えてはいるが日々の行動に結びついていないケースも少なくない。

 なぜ企業理念は薄っぺらくなってしまうのか。またなぜ企業理念は利益に結びつかないのか。

 それは、利益の源泉である価値を創造する主体である社員の価値観と合致していないからだ。社員が、企業理念を自分の問題としてではなく、他人事として捉えている。それでは企業理念が機能しないのは当然である。

 社員が企業理念を他人事ととらえることを、経営者は非難してはならない。社員が企業理念に本気にならないのは、経営者が企業理念に本気になっていないからだ。

 まず当然ながら、経営者は自分の言葉で語らなければならない。借り物の言葉では決して社員の心には届かない。自社はどんな価値を創造するのか。どのようにお客様を幸せにするのか。なぜその価値を創造することが自社にとって大切なのか。それを自分の人生観と重ね合わせて語ることが求められている。

 そのためには、経営者の人生観、世界観、事業観から、徹底的に内省し思考を深めていくことが求められる。決して誰かに教えてもらえるものではない。

 また、どれだけ言葉で語っても、それだけでは本気とは言えない。経営者は行動で示さなければならない。自ら見本とならなければ、リーダーシップとは言えない。言葉と行動が一致していて、はじめて人は本気で動く。

 そして重要なことは、社員が企業理念に共鳴していることだ。企業が組織として生み出そうとしている価値と、社員一人ひとりが生み出そうとしている価値。その両者をいかに近づけるかが、今後の企業経営においては極めて重要な意味を持つ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/987
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2007年12月18日 (02:35)

悟り:We are One.

私は、Media Pointが一(いつ)であると、一昨日、認識して、非常に、心が楽になったのである。そう、深いやすらぎを得たのである。一種の悟りである。私は輪廻転生をほぼ信じるが、輪廻転生という観念でさえ、一という観念には、負けるのである。ビートルズとその個々のミュージシャンの高い精神性は、今更ながら、驚く。いったい、あれから、どれほど、我々は進んだというのだろう。退化しているだろう。
 60年代から70年代初期にかけて、確かに、精神文化が盛り上がり、ビートルズもその中にあり、また、それにフィードバックしただろう。
 この精神文化の活動が、70年代後半から衰退した。おそらく、ここには、何かがある。精神文化活動を衰退させる動きがあったように思えるのである。ビートルズの例で言えば、キリスト教右派による妨害があった。ジョン・レノン殺害もなにか、あるように思う。
 よく陰謀論と言われるが、権力支配する筋から見て、権力文化を破壊するものに対しては、それを解体させる行為をするはずである。民衆は洗脳されやすいのである。自分の心で考えないからである。
 とまれ、一であること、これは、特異性と矛盾しないのである。普遍性は特異性であり、特異性は普遍性である。私たちが見る世界は、本当は一つなのである。オノヨーコが、We are One.とベッドインで言っていたのを思い出す。
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2007年08月30日 (19:56)

瞑想時間を生活に:肚で瞑想し、空となり、無(超越性)とつながる:西洋哲学の終焉と新東洋哲学の誕生

先に、ハイデガー哲学を論じて、西洋哲学・西洋文化が、超越論的構造に囚われていること、そして、東洋哲学・東洋文化が、超越性へと開かれていることを述べた。http://ameblo.jp/renshi/entry-10045219894.html
 思うに、現代日本は、アメリカ的近代物質・金融主義が支配的である。それは、基本的には、超越論的構造ないしは超越論的同一性構造に支配されているのである。自我同一性中心主義である。これが日本や世界を狂わせているのである。新自由主義は最たるものである。
 前世紀の第四・四半世紀に支配的であったポスト・モダン哲学であるが、それは、超越論的構造をもつ哲学であり、いわば、西洋形而上学を脱却できず、知的に混濁したまま、現実的な力とはなりえず、後退した。
 不連続的差異論そして真打ちであるプラトニック・シナジー理論が21世紀初頭、日本で形成されたことの意味は大きい。これは、東洋思想・東洋文化の復興を意味すると考えられるのである。単なる伝統としてのそれではなく、西洋哲学・西洋文化を成果を批判的に継承した、新たな東洋思想・文化である。
 理論的には、既述済みであるので、ここでは、もっと平明に述べたい。即ち、端的に、瞑想を生活においてもつことである。肚を基盤として、瞑想することの必要である。座禅となると本格的になるが、私が言うのは、もっと簡単な、肚へと測深して、瞑想することである。
 これによって、実践的に、空様態となり、無へと接続するのである。つまり、PS理論でいうとMedia Pointに接続できるのである。これが、21世紀世界文化の中心となるべき心身様相であると考える。
 ところで、いわゆる、ホーリズム(全体論)的な考えには反対である。全体論とは連続主義である。それは、正に、全体主義につながる。マインド・コントロール的な宗教に通じる。ホーリズムではなく、空無や虚空へと連絡することが必要である。それは、差異共振主義となる。
 西洋哲学は、分析的知性が発達しているので、細部への精緻さにこだわり、一般には、複雑なものになり過ぎていて、理解ができないものとなってしまった。
 私は経験的には、現代日本のある社会においては、差異共振性は実際に生きられていると思う。東洋文化の社会があると思う。思うに分析知性の傲りがあるのである。それは、無である超越性ないしは超越的差異の一種の経験性を無視しているのである。だから、晦渋な、ハイデガー哲学となったり、デリダ哲学となったりするのである。何といっても、超越論的構造主義の支配のもたらしたものである。
 PS理論は新東洋哲学・数理理論であり、超越性や超越的差異を説くのであるが、これは、実質的には、空や無の経験・体験への回帰を意味するのである。西田哲学のような晦渋さももう必要ではない。何故なら、超越論的構造による哲学が終焉したからである。超越性、超越的差異の新時代なのである。
 差異共振世界へと21世紀世界は向かわなくてはならない。
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2007年07月22日 (11:05)

生成消滅のサイクルという法則と宗教:根源界と現象界の乖離と新たな関係

以前にも述べたが、ニュースを見ると、世界あちこちで、戦争があったり、いざこざ、争い、問題が蔓延している。人類の末期症状と言えるのではないだろうか。
 ここには、平和の知恵・意志・志向がないのであるが、問題は、利己主義に囚われていることがいちばんの問題である。利己主義からの脱却を説く叡知は多いが、それが機能しなくなっていると言えよう。結局、世俗問題、物質的同一性が大きな問題となり、それらからの脱却を説いていた宗教的叡知は無視されていると言えよう。
 端的に言えば、欲望の問題である。これに対して、これまでの知恵が役に立たなくなっていると言えよう。
 仏教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、今ある形では有効ではないだろうし、逆に、利己主義に仕えていると言えよう。アンチになっているのである。
 プラトニック・シナジー理論(PS理論)から見ると、根源であるイデア界と同一性・欲望の現象界とが、一般においては、無関係になっているのである。というか、一般においては、根源であるイデア界が完全に喪失されているのである。
 ただ、同一性・欲望の物質・現象界と小さな良心があるだけの世界だろう。近代主義の帰結であり、ポスト・モダン化である。
 私が言いたいのは、正に、ヘラクレイトスの万物は流転するということである。生成流転である。あるいは、生成消滅である。これが、森羅万象に当てはまる大法則であると思うのである。
 だから、宗教は例外ではない。今日の宗教も消滅するし、それが正しいと思うのである。ただし、新たに生成ないし創造される叡知があると思うのである。
 モダンないしポスト・モダンは、人類史における特異な時代と考えられる。それは、根源との知的・意識的結びつきを人類が断った時代であるからである。物質的現象に同一性化した時代である。そう、根源界と現象界との乖離がこの時代の特徴である。この点に関する問題点は、不連続的差異論の時期に、解明したので、ここでは縷々述べないが、簡単に言えば、差異と同一性との不連続性が原則として確認されなければならないということである。
 ポスト・モダンは、両者の連続性に立脚していたために、モダン的同一性を脱却できなかったのである。というか、連続的差異の理論である(ポスト)構造主義に留まったのである。
 不連続的差異、さらには、超越的即非的差異(PS理論)へと飛翔することで、構造主義的閉塞から脱出できるのである。
 これを宗教に当てはめれば、「神」、「仏」と「自我」との連続性から、ないし、構造化された「神」や「仏」からの脱却が実現するのである。おそらく、脱宗教=新叡知へのエクソダスと言えるだろう。
 宗教を否定するのではなくて、宗教をその連続性や構造性から解放して、純粋化するのである。そこでは、プラトンのイデア界と諸宗教の神仏の世界が一致するのである。また、科学の世界もそこに根源を見いだすことになるのである。芸術も当然である。
 それは、差異共振の世界である。根源的調和・平和・共存の世界である。これを取り戻さなくてはならないのである。これが見失われているために、世界は、戦争・争いこと・犯罪・事故に満ち満ちているのである。
 人類が根源界へと脱皮する時期になったと言えよう。一回転、一サイクルが過ぎたと思うのである。古いサイクルが終焉して、新しいサイクルが始まると思うのである。

p.s. モダンの同一性主義とポスト・モダンの連続的差異主義(「ポスト構造主義」)の相違が明確ではないかもしれないので、簡単に説明したい。
 モダン、即ち、近代主義、近代合理主義は、物質的量的合理性=同一性を基礎としている考え方である。それは、主体では、自我的同一性に基礎を置いている。
 それに対して、ポスト・モダンは、「差異」を提唱したのである。それは、モダンないし西洋文明の同一性主義の乗り越えを意図したものであった。しかし、理論的中心と考えられたドゥルーズにしろ、デリダにしろ、彼らの説く「差異」とは、連続的差異であったのである。ドゥルーズの場合は明瞭であるが、デリダの場合はわかりにくいので、少し説明しよう。
 デリダ哲学は、フッサール現象学批判から、始まったと言えよう。そこでは、フッサールの超越性が、同一性と混淆していることが提示されて、フッサール現象学を、言わば、脱構築しているのである。(脱構築とは、批判であり、批判対象の変容のことである。)
 つまり、フッサール現象学が、超越性と同一性との混淆態として説かれているのである。その結果、フッサール現象学の超越性が同一性のレベルに落ちているのである。また、デリダは、混淆態における超越性と同一性の差異を差延と呼んでいるのである。
 結局、本来、フッサール現象学の超越性が、ハイデガーにおいてそうであったように、無視されて、同一性のレベルに落とされて、別物にされているのである。
 同一性のレベルとは、端的に、現象界のレベルである。問題は微妙である。超越性は本来、同一性と混淆しない。しかし、デリダにより、両者の混淆が説かれているのである。混淆が生じるには、両者が同レベルになくてはならない。これを同一性のレベルと言ったのである。言い換えると、構造性のレベルである。
 構造性から同一性、とりわけ、連続的同一性が発生する。つまり、換言すると、《力》の問題である。同一性ないし連続的同一性は《力》の問題である。それは、他者を同一性化する力動をもっているからである。力学である。同一性力学である。
 この《力》は、構造性から発するのである。つまり、構造力学から発するのである。(一般に、構造は静的なものと考えられているが、そうではなくて、構造は、実軸のゼロ度の極性から生まれると考えられる。ゼロから正負の極性が生まれるのであり、このゼロ・ポイントに《力》があるのである。)だから、構造的同一性力学である。
 ということで、この視点からデリダの説く超越性と同一性の混淆態を考えると、フッサールの超越性が、構造性に還元されているのがわかるのである。つまり、フッサールの超越性は、ゼロ度の構造に転換されてしまっていて、誤読されているのである。
 結局、構造と同一性の混淆がデリダの説く脱構築主義、差延主義なのである。だから、これは、ドゥルーズの連続的差異の理論と同質なのである。なぜなら、構造ないしゼロ度の実軸は、連続的差異を発生させるからである。
 さて、最後に、構造性と同一性の連続性について説明すると、それは、上記からでも理解できるが、構造力学が同一性力学に連続しているということである。
 そして、両者を不連続化すると、構造力学は解体して、超越性へと還元されるのである。フッサール現象学の超越性と言ってもいいかもしれない。しかし、PS理論では、さらに、これを即非的差異というイデアとして考えているのである。
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2007年05月27日 (22:03)

現代のドイツの思潮を知る貴重な内容で、検討資料としたいと思いますので、全文引用させていただきます

現代のドイツの思潮を知る貴重な内容で、検討資料としたいと思いますので、全文引用させていただきます。
 なお、私のコメントは赤文字で書きます。


現代オカルトのビオ思想 [ 文学・思想 ] / 2007-05-24 02:30:08


先週の新聞にバイオダイナミック 農法に関する記事を見つける。ベルリンのカフェー・アインシュタインで、元国務大臣レナーテ・シュミット 女史が女性代議士たちを集めて、これについてお話をしたと言われる。

この新聞記者は、「まあまあ、そこで驚愕もされることもなく、シュタイナーに言及されることとなり、これで、迷い道へと進む怪訝もなくこれがドイツプロテスタント勢力の土台となった」と語る。

この農法は、先頃カッセルの大学でドイツで初めて講座が持たれることになり、そのオランダ人教授をして、そこで農学を教えるのではなくてシュタイナーのアントロポゾフィーのオカルト を教えているだけではないかと強い批判が挙がっている。

しかし、この記事にあるように、我々都会生活者は土いじり等とも縁遠く、農業など知らない者が殆どで、バイオ、バイオと二言目には口に上らせるだけなのである。バイオ商品に高い金を払い、喜んで健康なものと信じて、変わらぬ不健康な生活を続け、経済活動に貢献するのである。

プロテスタント信仰者にとって、反省することも無く、これほど魅力的な逃げ道はないと思うのは私だけだろうか?

その逃げ道の一つとして、陰陽の二元論的世界観もしくはグノーシス的世界観が、罪滅ぼしを願う工業先進国から、または根本的に西洋化出来ない極東のアジア主義者から生まれている。
(★コメント:陰陽二元論とグノーシスの二元論は根本的に意味が異なると私が考えている。前者は、対極性論であり、後者は、二項対立論である。後者は、霊的世界を肯定して、物質的世界を否定するのである。)

特に胡錦濤主席のハーモニー(和谐)社会政策は、我々の知っているマオ思想も、小平の楽天主義も、江沢民の三大主義思想論をも批判せずにすべてを多極化の中で抱擁しようとする思想である。
(★コメント:これらの中国の思想は、道教や老子の対極論から来ていると思われる。対極論・陰陽論は、PS理論に近いと思うが、まだ、連続性と不連続性が不明確だと思う。後で検討したい。)

学而 12
有子曰:“禮之用,和為貴。先王之道斯為美,小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。”

子路 23
子曰:“君子和而不同,小人同而不和。”

そこでは、中庸と言う言葉を使うことなく、ジャコバン派の過激を諌めて、陰陽のバランスの中で調和させようとする思考があるのだろうか。
(★コメント:ジャコバン派の過激とは、弁証法である。否定を否定するのである。)

それとも、このように見てくると、哲学思想文化の世界で進んでいたポストモダニズムの影響が、今頃になって政治社会の主導的な思潮になってきている気配すらある。それが、二元論的なそもそも仮想である二大政党制の衆愚政治でありポピュリズムである。細分化して専門化した近代科学が、または象の鼻に触れて判断を下すような短絡が、こうしたカルト を生みだす温床を育てているだけなのかもしれない。
(★ コメント:少し曖昧な叙述であるが、対極的二元論とポストモダニズムを近づけるのは正しい。しかし、それが、二大政党制のポピュリズムと通じるというのは、ある堕落した形態ではそうだろうが、しかし、思うに、二大政党制とは、西洋哲学の対話論に根差しているのではないだろうか。対極論に近いだろう。
 単純に、対極論・陰陽論をカルトと呼ぶのは誤りだろう。確かに、近代主義への反動からオカルトは生まれる。しかし、対極論・陰陽論には、近代を乗り越えるためのきっかけはあるのである。)


参照:
イエス家の三つ以上の棺  [ マスメディア批評 ] / 2007-03-01
求められる明快な宇宙観  [ マスメディア批評 ] / 2006-05-25
活字文化の東方見聞録  [ マスメディア批評 ] / 2006-05-12
二元論の往きつく所  [ 文学・思想 ] / 2006-04-16

http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/28a8762db77e43a6944b8e14a2c038d3
Wein, Weib und Gesang

コメント



スピリチュアリティーの欠乏? (モモリーネ)
2007-05-24 17:11:46
再び興味深く読ませていただきました。哲学は私の専門でもありませんが、日々西洋社会に生きて、最近は特にこの記事の内容を実感しておりますので、コメントを残したく思いました。
プロテスタント信仰者にとって、これ以上素晴らしい逃げ道はないというご意見には納得します。最近の、教会離れはプロテスタント教会の大きな問題で、先日興味本位にEKDのTextに目を通しましたが、どうも教科書的で本当の問題に焦点を当てていない気がしました。カトリックと違って、プロテスタント教会には、五体の喜びといった感覚に欠け、人間として自然や大地との一体感を実感できるスピリチュアリティーが実感できないものになってしまいました。それを補うがごとく、オカルトやカルトなものが求められていくのでしょうか?マテリアルがここまで満たされると精神性を見失い、更なる真実をこうしてグノーシス主義のようなかたちに求めていってしまうのは、西洋社会でのプロテスタント教会のあり方がもう一度問われていると実感せざるを得ません。
ポストモダニズム時代もそうかも知れませんが、どうも分割(Spaltung)の文化である西洋は「すべてを多極化の中で抱擁しようとする思想」というのをなかなか築けずに、結局二元論的になってしまう宿命にあるのでしょうか?その辺に、手堅い弁証法を使って学問の育つ基盤や政治思想の発達する土台を見たりするのですが、東洋人である私には、西洋人の新しい精神性を求める方向が、何か浅薄な気がしてなりません。そういう意味で、様々な点を象徴的に包括したこの記事は、大変興味深く思いました。
(★ コメント:私はプロテスタンティズムは、ルネサンス的個を隠蔽していると思う。ポスト・プロテスタンティズムとして、新ルネサンス的個の文化が可能だと思う。それは、コスモス的な文化である。グノーシス主義は、きっかけの一つであろう。それよりは、ドイツ哲学のもっている可能性を進展させた方がいいだろう。シェリングには、新しい思想(即非論)のきっかけがあると思う。私は、ハイデガー哲学がドイツ哲学を行き詰まらせたと考えている。)



意外に脆い西洋思想 (pfaelzerwein )
2007-05-25 03:31:02
最近フランスの情報も新聞等に良く出るようになって、それらと比べたりしています。フーバー氏の談話などを聞いていても、そこの肝心のところはある意味、逃げてしまっていますよね。

対立から止揚する形は、例えば政治では異口同音に緩やかな経済成長が政策の基礎となるのですから、求めようがありません。

今述べたフランス新右翼の人気者は、欧州の「寛容と人権」の一押しでは駄目だと主張して、アンチキリスト時代が今始まったとか発言しているようです。これなども、グローバル化の中での旧世界の困難な事情を示しているのではないでしょうか?

上の現代中国の思想問題への深い関心も根は同じなんですね。グローバルな世界で土俵は皆同じなので、イスラム世界を含めて本当に共存出来る方法はあるのか?

今回のエコ思想を考えていて、嘗ての西海岸などの東洋趣味を思い出す反面、全然違う事情をここに見て、ご指摘のように意外に脆い西洋思想に気がつくのです。社会の表にあまり出ない範囲で、大分揺らいでいる世界観のようなものを感じます。

サイエントロジーもどきへの流れを食い止められないような社会構造になっているのが事実ではないでしょうか。
(★コメント:正に、プラトニック・シナジー理論こそが、哲学・思想・理論的袋小路をブレークスルーものとして考えられるのである。)

p.s. シュタイナー批判を今一度、明確にした方がいいと思われる。もっとも、批判とは言え、その誤謬を指摘し、評価すべきを評価するつもりである。ここでは、十分言えないので、簡単に言いたい。
 第一の問題点は、シュタイナーは、霊・スピリットが実体であり、物質は幻影であると考えている。これが誤謬であると思う。物質は、同一性ということで実体があるのである。
 第二の問題点は、既述したが、同一性形式=構造をシュタイナーは、イデアに当てはめていると思う。つまり、物質の形式・構造を、霊に適用しているのである。だから、霊は、物質化されるのである。中沢新一やヌース理論の霊的唯物論と同じである。つまり、霊が差異であることをシュタイナーは認識していないのである。そう、だから、自我というものをシュタイナーは根源においていると考えられるのである。自我は、同一性である。
 第三の問題点は、瞑想の方法の誤りがあると思う。彼の薔薇十字瞑想法は、霊性に、感覚形式を与えてしまい、霊性を連続化させると思う。
 問題点はこれくらいにしよう。
 思うに、シュタイナー主義は、ドイツ観念論、とりわけ、ヘーゲル哲学に似た面があると思う。そう、ヘーゲル哲学と神秘主義との混淆のように思える。確かに、霊性をなんらか感じ取っていたが、それを不連続化できなかったのである。それで、同一性と合一させて、グロテスクな思想を生んでしまったのである。
 ただし、悪魔論であるが、アーリマンを同一性ないし連続的同一性と取ることができるので、それなりに評価できよう。しかし、ルシファーがあいまいである。これは、思うに、反動的なエネルゲイアであろう。シュタイナーは、アーリマン(同一性)とルシファー(反動的エネルギー)を調和的に仲介するものとして、キリストを考えていた。
 このキリストであるが、それは、PS理論から言うと、正に、不連続的共振性ととるべきだと思う。単に、霊的愛のキリストとすると、同一性から脱出できない。おそらく、シュタイナーは漠然ではあるが、差異と同一性との調和させるものを求めていて、それをキリスト衝動と名付けたと思われる。
 しかし、それは、不連続化であり、差異共振化と見ることで、二種類の「悪魔」を天使的に変容できると考えられるのである。
 PS理論は、シュタイナー霊学の超克でもあるのである。
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2007年05月27日 (01:02)

神秘学のエーテル体やアストラル体とは何か:M・Pのエネルギー変換とTwilightのイデア空間

私は、ルドルフ・シュタイナーの著書をかなり読んだ。今は、彼の霊学の考え方には批判的であるが、しかし、彼の著書を、批判的に読めば、得るところが大きいだろう。信者になってはいけないのである。とまれ、仏教の影響を強く受けている『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』は薦めたい。極言すれば、薦めるのは、この書一冊だけである。


http://www.amazon.co.jp/%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E8%B6%85%E6%84%9F%E8%A6%9A%E7%9A%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%82%92%E7%8D%B2%E5%BE%97%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8B-%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/4480086641
 
 プラトニック・シナジー理論が新霊性論でもあることが判明してきて、なにか、シュタイナーの霊学の基礎概念であるエーテル体とアストラル体について、検討したくなったのである。
 シュタイナーは簡単に言えば、人間を構成している4つの体を説いている。

1)自我(エゴ)⇒自己にすべきである。
2)アストラル体(星気体)⇒霊的差異共振エネルギー様態
3)エーテル体(生命体)⇒遺伝子情報的差異共振エネルギー様態
4)物質体(肉体)
 
である。
 私は自我に問題があると思っている。PS理論から言うと、根源的主体性である。これは、iであり、且つ、i*(-i)である。つまり、即非的主体性である。自我というと、同一性が強く意味されるのである。少なくとも、自己と呼ぶ必要があろう。
 次に、アストラル体であるが、これは、簡単に言えば、人間の感情・心情・魂、等である。私は、これは、差異共振エネルギー様態で説明できるのではないかと思う。
 エーテル体であるが、これは、簡単に言えば、「気」、「プラーナ」である。思うに、アストラル体が、霊的差異共振エネルギーならば、エーテル体は、物質的差異共振エネルギーではないだろうか。電磁波に近いのである。しかしながら、単純に電磁波ではないだろう。思うに、人体形態形成的電磁波ではないだろうか。人体を形成する情報をもった電磁波である。わかりやすく、あえて言えば、遺伝子情報をもった電磁波である。
 次に、物質体であるが、これは、鉱物的人体とも言っていたように思う。物質的人体のことである。物質科学がこの物質体のレベルで人体を研究していると言えよう。東洋医学は、アストラル体やエーテル体のレベルで人体を探求していると言えよう。
 とまれ、以上で簡単ながら、アストラル体とエーテル体について説明したが、では、両者の関係はどうなのだろうか。これは、メディア・ポイント(以下、M・P)を考えればわかりやすいだろう。
 即ち、アストラル体とは、虚数超越的エネルギー(霊的エネルゲイア)であり、エーテル体とは、その実数化におけるエネルギー(実数的エネルゲイア)であろう。
 i*(-i)⇒+1で言えば、⇒がアストラル体であり、⇒の先端ないし終点がエーテル体であろう。また、考えられるのは、エーテル体とは、実数超越エネルギーではないかとということである。
 とまれ、以上で、簡単ながら、アストラル体とエーテル体の関係を見たことになる。極論すれば、M・Pのもつ虚数/実数エネルギー様相と言えるのではないだろうか。
 以上の見方が肯定されるならば、霊的情報というものが、自己に存していることになるだろう。プラトンで言えば、想起される記憶である。イデアとしての霊的情報、霊的記憶である。
 i*(-i)が根源的霊的情報・霊的記憶ではないだろうか。そして、これが、エネルゲイア化⇒すると、アストラル体化して、さらに現象化においてエーテル体化する。そして、完全な現象化において、物質的人体を形成するということになろう。
 私は、これまで、虚数的超越性を超越光と、そして、実数化を現象光化と考えてきたがどうだろうか。つまり、光がメディア領域に関係するなら、イデア界と光の関係は何だろうかということである。
 もし、i*(-i)を超越光とするなら、⇒は何になるのか。⇒の先端が現象光ならば、⇒自体は何なのか。しかし、これまでの考えでは、⇒が超越光ではないだろうか。
 超越性は二種類あるので、混乱するので、ここでは、霊的光と言おう。問題はイデア空間とメディア場である。思うに、イデア空間は、i*(-i)のゆらぎ空間ではないだろうか。しかし、それが、虚数軸M・Pという特異点において、エネルゲイア化すると考えられる。
 では、霊的光はどこに存するのか。創世記の「光あれ」とは、この特異点のことではないのか。霊的光の創造である。ならば、霊的光の場は、虚数軸M・Pとなる。そして、現象光の場は、だいたい、実数軸M・Pとではないだろうか。
 では、イデア空間には何があるのか。確かに、虚数軸M・Pには、霊的光が発生する。では、それ以外のイデア空間には何かがあるのか。
 ここで、『創世記』の神の霊が水の上を吹いていたというような描写を想起するのである。神の霊はiであり、水が-iでないだろうか。つまり、霊的光発生以前の神霊と「霊水」との「離接」様態がイデア空間ではないだろうか。
 光でも闇でもない様態である。D.H.ロレンス的に言えば、Twilightの様態である。薄明様態である。どうも、これが適切なようだ。初めに、薄明Twilightありき。そして、霊光が創造され、現象光が発生した、となるのではないだろうか。
 今はここで留めたい。
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2007年05月26日 (12:26)

霊的平和へ向けて:新霊性の時代:トランス・モダン・スピリチュアリティ

昨日の考察から引き続き考えたいが、結局、PS理論は、差異と同一性との理事無碍のあり方を涵養する。そして、差異は、虚数的超越性は、霊性となる。
 私は、このトランス・モダン的霊性が近代主義のもたらした暴力の世界を解消していくのではないかと思ったのである。暴力とは、端的に、差異の否定、同一性中心主義から発するのである。しかし、それだけでは、説明は不十分である。
 差異の否定とは、PS理論から言えば、差異共振性の否定である。即ち、他者との共振したあり方、平和的共存のあり方が否定されているのである。さらに、差異の否定は、精神的エネルギーの否定様態であり、反動様態となる。
 つまり、差異共振性の否定とは、共振エネルギーを反動様態に変えるのである。即ち、差異と他者に対する攻撃的エネルギー=暴力エネルギーに変容すると考えられるのである。
 以前述べたが、天使が悪魔になっているのである。しかし、端的に言えば、神が悪霊となっているのである。つまり、現代の諸暴力、とりわけ、戦争とは、神が悪霊となって生じているのである。つまり、人間が、神を悪霊に変えているのである。とりわけ、アメリカは神を悪霊に変えている国であり、日本は、それに憑依されているのである。
 そう、資本主義というものも、物質主義、交換価値中心である限り、神を悪霊に変えているのである。
 ここで、D.H.ロレンスが『チャタレイ卿夫人の恋人』で述べていたことを想起する。即ち、知性(これは、近代合理主義、近代主義)は、憎悪を基にしているということである。
 この知性の基盤にある憎悪(ニーチェで言えば、ルサンチマンである)とは、正に、差異共振性の否定のことである。スピノザで言えば、哀しみの感情である。
 結局、差異共振性=霊性を否定して、現代人は生きているので、憎悪に満ちて攻撃・暴力的なのである。結果は、破壊である。そう、近代主義とは、端的に、悪魔主義である。近代合理主義とは悪魔合理主義である。かつてあった霊性を否定して形成された物質的合理主義であるからである。
 しかし、近代主義が末期的になると、否定されていた差異共振性が蠢きだすのである。新霊性の目覚め・芽生えである。
 しかしながら、近代主義を形成している連続性を解体しない限り、新霊性は混濁したままであり、また、反動性を帯びると言えよう。神、宗教は、悪魔的暴力となるのである。
 ここに、不連続的差異論を包摂したプラトニック・シナジー理論PS理論の画期的な意義の一つがあるのである。即ち、連続性を切断して、差異を解放するのである。そして、それが、超越的差異共振性=新霊性であることを明らかにするのである。この新霊性が新平和の礎である。
 この新霊性においては、国家主義を超えて、戦争の犠牲者に対する倫理が発生している。いわば、永遠の法がここには、支配しているのである。
 そして、資本主義に関すると、これまでの近代的資本主義、同一性資本主義に換わって、霊的資本主義が考えられるのである。新霊性資本主義、トランス・モダン霊性資本主義である。
 民主主義も、この新霊性に基づくことになろう。新霊性民主主義である。そう、新しい神の時代、新コスモスの時代とも言えよう。
 そう、政治にいちばんこれが必要となってくるだろう。新霊性に基づく政治である。近代主義は、金儲け一辺倒で、不正義をもたらしたのである。
 価値観のパラダイム・チェンジである。可視的な価値から不可視の価値へと転換するのである。
 環境問題、温暖化問題も、結局、この新霊性に基づかなくては、解決しないだろう。何故なら、物質経済中心主義である限り、環境は破壊される方向にあるからである。新霊性に立つことによって、物質経済を乗り越えることができるのである。また、温暖化も同様である。
 また、今日の新自由主義的経済であるが、これは、アメリカのグローバリゼーションの策謀の一つであると言えよう。確かに、小さな政府や民営化はそれなりに必要なものである。また、規制緩和して、企業を活発にするというのも理解できる。
 しかしながら、物質主義経済に立つ限り、それは、悪魔主義であり、格差社会が拡大するのである。人間狼を増大させているのである。
 思うに、新霊性教育が必要である。これによって、新霊性人間が増えることになり、彼らは、霊的社会・文化のために何が必要が考え、実行するだろう。
 また、大企業が儲かるだけでなく、中小企業との共振化が図られるにようになるだろう。また、中央と地域との共振化も図られよう。
 差異共振性という新霊性が基盤となって、国家且つトランス国家共振体的相転移が発生すると言えよう。

p.s. 少し補足したい。差異を否定することから、神を悪霊(悪魔)に変えていると言ったが、この言い方では、神全体が悪霊になっている意味になってしまう。
 例えば、アメリカ人の一人が差異を否定したら、神全体が悪霊になってしまうということになってしまう。これは、あきらかに誤りである。
 ここは理論的に重要である。個にとっての差異共振性とイデア界との関係が問題になっているのである。単純に考えて、個が差異を否定したとき、差異共振性は否定されて、悪霊化する。
 問題は、個において、差異共振性とは何か、である。直観で考えよう。不連続化された差異は、共振する。それは、虚数的超越性をもつ。(実数的超越性はおいておこう。)思うに、それは、虚数的超越性と共振しているのである。イデア界的共振と呼ぼう。
 しかし、これが否定されたとき、反動エネルギーが生起する。これを悪霊と呼んだのである。しかしながら、個における差異共振エネルギー=イデア界的共振エネルギーとは、イデア界全体のエネルギー(ポテンシャル・エネルギーを含めて)ではありえないだろう。
 だから、悪霊化とは、メディアとしての差異共振性の否定と見るべきであろう。イデア界から現象化へと志向する。このとき、連続的同一性化が作用して、差異を否定する。これは、イデア界の形成するメディア・エネルギー=差異共振エネルギーを否定する形になっている。
 だから、悪霊化とは、イデア界全体の否定ではありえない。ただ、メディア・エネルギーとしての「神」の否定としての悪霊化である。エネルゲイアの悪霊化である。
 とまれ、このエネルゲイアの悪霊化とは、他者の否定につながることは言うまでもない。そう、確かに、神の否定と言っていいのであるが、この場合の否定は、排除・隠蔽である。神を否定して、神を閉ざしているのである。
 つまり、近代においては、個々において、神は閉ざされているのである。神に蓋をして、同一性=悪魔の枠に生きているのである。
 トランス・モダンは、神の復活でもある。
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