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2007年08月10日 (01:47)

現象学と構造主義とポスト・モダン:脱構造主義としての現象学/ポスト・モダン

Bloghiro-dive氏による構造主義の明快な解説を読んで、本件の三つの理論の関係を整理したいと思った。
 Bloghiro-dive氏の説明からわかるのは、構造主義の構造とは主観性から独立した深層構造があり、これが、現象を規定しているということである。すると、深層構造とは、客観的ということだろう。この点が私にとって新鮮であった。ソシュールの構造主義にしろ、レヴィ=ストロースの構造主義にしろ、私見では、その構造は超越論的な形式である。言語の深層構造あるいは部族の深層構造、それらは、超越論的形式と言えるのではないだろうか。
 問題は超越論的形式と言ったとき、主観性と客観性が生じるだろう。超越論的主観性と超越論的客観性とが存するだろう。これと構造をどうみるかだ。思うに、どちらにしろ、構造ではないかと思われる。主観的構造と客観的構造である。私はこれまで両者を混淆させて考えてきたが、一度は切り離して考えるべきであろう。(p.s. ここでも、以下の論と齟齬を来しているので、整理したい。超越論的主観性は、構造ではなくて、差異である。だから、構造は超越論的客観性ないしは超越論的形式に限定すべきである。ということで、本文の超越論的主観性は無視されたい。)
 Bloghiro-dive氏の言う構造は客観的構造であろう。ソシュールの差異の体系とは、言語の共時的な普遍的な差異の体系ということであるが、例えば、シニフィアンとシニフィエの差異の体系とは、共時的言語であるラングにある構造ということになるが、しかし、ラングは、超越論的主観性という構造として存するのではないのか。つまり、超越論的主観性が、客観・普遍的に存すると言えるのではないだろうか。とまれ、私としては、超越論性を構造としたい。
 そうすると、カントや現象学も構造主義に入ってくるだろう(p.s.  これでは、以下の論と齟齬を生じているので、ここで整理したい。以下では、現象学は差異の哲学であると述べているのであるが、問題点は超越論性である。超越論的形式ならば、構造であるが、超越論的主観性や超越論的現象性ならば、差異である。だから、カントの場合は、構造主義的であり、現象学は差異的であると言えるのである。だから、訂正して現象学を構造主義からは抜かなくてはならない。)
。では、ポスト・モダン哲学はどうだろうか。これまでの私の考察はかなり揺れ動いているが、端的に言えば、ポスト・モダン哲学(ドゥルーズやデリダ)は、同一性の構造に対して、差異の様相を説いているのであり、差異の哲学を提起したのである。
 ここで同一性の構造について説明する必要があるだろう。これは、例えば、主体と客体との関係においては、二項対立になるのである。なぜなら、主体は客体に同一性を投影して、優越的に認識するのであるから。つまり、主体が優位であり、客体が劣位であるのである。ということで、同一性構造=二項対立である。優劣構造である。ここから、一般的な二項対立ないしは「差異」の構造が生まれるのはわかりやすいだろう。例えば、主体がある客体を「花」と名付けるとしよう。「花」が同一性である。そして、名付けた主体は、客体に対して、優位にあるのである。つまり、主体である「私」は「花」よりも優位であり、当然、「花」は劣位である。そして、これが、展開すると、「人間」が優位であり、「植物」は劣位となるだろう。これで、二項対立構造の説明がつくだろう。
 以上から見ると、ポスト・モダン哲学は、いわば、同一性の構造主義を否定して、構造主義の差異=同一性ではない「差異」を提起していると言えよう。混乱するのは、構造主義が差異の体系であると考えられていることからくるだろう。用語を整合化すれば、構造主義は差異の体系ではなくて、同一性的二項対立の体系なのである。
 そして、ポスト・モダン哲学は、それに対して、差異の様相を提起し、構造主義を乗り越えようとしたのである。だから、ポスト・モダン哲学は、脱構造主義を志向したとは言えるのである。
 しかしながら、ポスト・モダンの差異とは、実は、同一性的二項対立に対する反動的な差異であったと考えられるのである。これまで述べてきたように、同一性はMedia Point(特異性・差異・個)を否定する。しかし、否定されたMedia Pointは、深層として潜在する。そして、この潜在するMedia Pointは、エネルギーをもっているので、いわば、蠢動するのである。それに対して、通常、同一性=自我は否定的に振る舞う。しかし、蠢動する Media Pointを肯定する場合がありうるのである。それは、同一性の知を超越するエネルゲイアである。神秘的であったり、不思議なものであったりする。
 しかし、同一性=自我に主体があるとき、この蠢動するMedia Pointは、同一性=自我の反転において把捉されるようになると考えられるのである。つまり、同一性=自我との連続体において、Media Point=差異が把握されると考えられるのである。これが、端的に、ポスト・モダン哲学の様相であると私は考えているのである。即ち、同一性との連続体としての差異を提起する哲学である。言い換えると、連続的同一性の連続性に主導された差異の哲学であり、端的に、連続性が主導的である差異の哲学である。既述したように連続的差異の哲学である。
 では、現象学はどうなのだろうか。フッサール現象学は、Media Pointを超越論的主観性として捉えているだろう。しかしながら、主観性ということで、主知主義的であり、同一性的志向が強かったのである。
 ハイデガー現象学はどうだろうか。それもMedia Pointを捉えている。そして、フッサールよりも明確に捉えていると思われるのである。なぜなら、本来的自己を特異性・差異・個として見ていると考えられるからである。先に、ハイデガー現象学はPS理論の先駆の一つであると言ったが、しかし、問題があるように思える。
 それは、世人と本来的自己との関係である。確かに、「一つの裂け目」を両者において認めながらも、世人と本来的自己とは、現存在の実存様態としては、同一である点である。世人の変様として本来的自己があるのである。ここにハイデガー現象学の矛盾があるのではないだろうか、一方では、「一つの裂け目」を言い、他方では、変様と言っているのである。ここにおいて、PS理論との相違が明らかになるだろう。
 PS理論は、明確に同一性=自我と差異=自己との不連続性を説くのであり、変様という言葉を使うなら、不連続な変様である。不連続な飛躍がそこにはあるのである。どうもハイデガーの場合は、この点であいまいである。
 とまれ、以上から、ポスト・モダン哲学と現象学を比較するなら、前者は後者の問題圏において、差異の哲学を説いたと言えよう。言い換えると、現象学は、実質的に、差異の哲学なのである。そして、Media Pointに関して言うと、現象学の方がポスト・モダン哲学よりも進んでいると思えるのである。とまれ、現象学/ポスト・モダン哲学を一連の流れで見ることができるだろう。つまり、脱構造主義の哲学としての現象学/ポスト・モダン哲学である。 
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2007年07月18日 (11:11)

デリダ哲学ないし「ポスト構造主義」批判:「差異」と同一性の動態構造としての「ポスト構造主義」

構造主義について、差異と同一性の点から整理したい。既述事項ではあるが、所謂、ポスト構造主義に対して疑義を強くもっているからである。
 構造主義は、私見では、と言うか、プラトニック・シナジー理論(PS理論)から見ると、実数軸のメディア・ポイントMedia Point(MP)を中心とする思考である。ここにおいて、±ゼロ度の対立原理と同一性原理が発生すると考えられる。
 同一性原理について言うと、ある個体と他の個体との関係において、例えば、前者が主体化されて、他の個体を同一性化するという原理である。ここでは、前者が優位となり、後者は劣位となる。二項対立の原理と言ってもいいだろう。
 ±ゼロ度の対立原理であるが、それは、ある極性原理であり、+の様態の度の同等の-の様態の度が発生し、量的に加算すると、ゼロ度になる関係である。+100ボルトに-100ボルトである。
 さて、構造主義であるが、それは、これら二つの原理の結合したものと考えられるのである。対になる項があるが、それらは、対立し、差異を形成する。しかし、一つの項が優位になって、他の項が劣位になる。しかし、同時に、逆の事態も考えられるのである。相剋の状態にある対立項と言えよう。一般に構造主義は静的な差異の体系と考えられるが、実は、その静的様態は、動的様態を潜在させていると考えられるのである。
 以上、簡単であるが、これを基盤として、ポスト構造主義批判をすると、それは、構造主義の動的様態に過ぎないと考えられるのである。例えば、デリダのフッサール現象学批判とは、以上の構造主義的動態性を根拠にすれば、フッサール現象学に、「差異」(超越性)と同一性との混淆を見て、その同一性からフッサール現象学の不整合性、一貫性のなさを批判する(脱構築)するのである。
 つまり、デリダの批判とは、「差異」と同一性の連続体である動態的構造をベースにして、それをフッサール現象学にも見て、その、言わば、不純性を批判するのである。そして、それを脱構築をすると呼ぶのである。つまり、デリダの脱構築理論、「ポスト構造主義」とは、動態的構造主義であり、その視点を他の哲学・理論に反映させて、それらの理論の不整合性を暴き、批判するのであり、結局、当然ながら、自身の動態的構造主義が肯定されるのである。
 この方法をどう判断したらいいだろうか。それは、方法論として、不正確なものである。何故なら、動態的構造主義が前提となり、それを他の哲学・理論に投影して、批判するのであるからである。それでは、他の哲学・理論のもつ特異性が喪失されざるをえない。実際、フッサール現象学に対するデリダの批判は、フッサール現象学のもつ超越性を喪失しているのである。
 そう、デリダは、確かに、超越論的差異について言及しているが、その超越論性は、フッサールの超越性を喪失しているのであり、実際は、動態的構造主義の「差異」を説いていると考えられるのである。
 
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