2008年02月24日 (18:50)

グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である

グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である

テーマ:トランス・モダン・コスモス

プラトニック・シナジー理論とは、文理融合理論であり、いわば、統一理論を志向している。個別の諸学に対する統一的フレームを与えると考えられる。
 この新しい知は、決定的に、トランス・モダン・インテリジェンスであり、近代主義からの切断を説いている。それは、近代的自我=近代合理主義=唯物論の乗り越えである。
 しかるに、現代日本において、政治・経済・文化の中枢部では、時代遅れの近代主義が主導的であり、日本の国力を衰退させているのである。また、国民は一般に快楽に浸っていて、知的麻痺状態である。恐るべき亡国状況である。
 今日の世界主義時代において、日本の状態は端的に反動状態であり、ほとんどのものが賞味期限が切れているのである。つまり、同一性の反復だけであり、創造性・質的発展が欠落しているのである。自己保身に陥っているのである。エネルギーが枯渇しているのである。
 この新しい知であるが、私は、知身体と言う方が時代に即したものではないかと思える。知とは本来、基盤を身体(Media Point)にもっているのであり、また、身体は同一性知性を形成させつつ、己(おのれ)へと再帰するのである。身体と知との即非様相があるのである。
 日本近代、とりわけ、日本戦後近代主義は、同一性知性(近代合理主義)を中心にしたものであり、根源の身体を喪失した知なのである。つまり、日本の身体を喪失した近代的知なのである。欧米模倣の知なのである。
 確かに、哲学・思想において、身体論が流行ったが、それは、近代主義への反動という面が強かったと言えよう(アイロニカルな没入)。
 結局、身体と知との結合・融合が必要なわけであるが、それが明晰に理論化、そして、実践化されなかったのである。
 とりわけ、日本の哲学・思想の混乱はひどい。本来、国民に新しい世界主義の時代に対応する知を提供すべきなのに、ポスト・モダン等々あるいは欧米文化の紹介に留まっているのである。
 とまれ、新しい世界時代に対応する新知として、私は、トランス・モダン知身体という考えを提示したい。身体なき知は皮相であり、知なき身体は盲目である。
 政治家・官僚・役人・財界人・文化人等々は、身体なき知(近代合理主義)=利権主義に留まっているので、新しい方策が生まれず、亡国状況となっていると考えられる。また、軽薄な映像文化が流行るが、それは、盲目の感性主義、知なき身体主義である。
 トランス・モダン知身体、そして、トランス・モダン知身体共同体を創造構築(創構)する必要があるのである。そう、人類は、文明進化の時代に入っているのである。同一性主義へと帰結したユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉があり、差異共振主義の新しい文明へと進化すべき現代状況なのである。
 実質的には、インターネットの役割が決定的であろう。これは、トランス・モダン・メディアである。これまでの知はモダンないしはポスト・モダンに過ぎず、グローバル時代において古色蒼然としているのである。これまでの知は反古である。
 トランス・モダン知身体社会創造へと向かうべきである。この新文明進化を、これまで政治・経済・学芸等を独占してきた支配層がいちばん恐れているのである。彼らは不要なのである。近代主義/ポスト・モダン的知はもはや廃棄物である。
 ヨハネ黙示録に倣えば、新しい天と地が到来しつつあるのである。

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「共同-体」とMedia Point=魂=身体⇔トランス・モダン共同体

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

共同‐体(コルプス) (単行本)
ジャン・リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 大西 雅一郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E5%85%B1%E5%90%8C%E2%80%90%E4%BD%93-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%97%E3%82%B9-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC/dp/4879841773/ref=sr_1_4?ie=UTF8&s=books&qid=1203827638&sr=1-4

ようやく、単行本で90ページに満たない本書を読み終えたが、既に述べているような感想は変わらなかった。原著は、1992年発行(邦訳は1996年発行)であり、グローバリゼーションが始動していた時期のものである。
 本書はブレークスルー的画期性と凡庸性をもっている。身体論から共同体論へと展開させている点が画期的であろう。しかしながら、身体を物質に限定している点が、唯物論的残滓であると思う。また、文学者気取りのレトリック(修辞)が多く、鼻につくのである。
 画期性は、ポスト・モダンの差異と同一性との連続性(ドゥルーズ)ないしは混淆(デリダ)を乗り越えている点である。だから、不連続的差異論の先駆者ではある。そして、身体=共同体において、ほぼMedia Pointの不連続点を捉えているので、プラトニック・シナジー理論の一つの先駆に見られるだろう。
 しかしながら、一番大きな問題点は、唯物論的視点である。身体=共同体=物質である。これでは、左翼的視点に留まってしまうのである。思うに、著書自体に矛盾があると思う。超越性でもなく、内在性でもない身体=共同体という発想をしているが、それは、正にMedia Pointの説明であると私は思った。Media Point の虚軸性は、超越的であるが、実軸性は内在性であり、しかも、それらが即非的位相にあるのである。即ち、超越的・即非・内在的である。以前、私は内在的超越性ということをいい、その後、それを否定して、そのままにしていたが、内在的・即非・超越的というのが、Media Point=魂=身体の様相であると考えられる。
 このように、鋭敏な洞察がありながら、物質主義に留まっているのである。(例えば、以下の引用の「重さ」という観念が、唯物論的なものだと考えられる。 Media Pointは、知・即非・存在であるから、軽み・即非・重みとなるのである。)これが、本書の画期的洞察をだいなしにしている。思うに、この物質主義的視点から、レトリックの多用が生じているのではないだろうか。ただ、物質的事柄を羅列するレトリックがあるのである。どういうことかと言えば、物質主義的視点があるので、物質的事物を羅列することになっていると考えられるのである。
 とまれ、本書から意義深い箇所を引用したい。そこで述べられている「プシュケ」とは、魂であり、同時に、身体であると考えられる。プラトニック・シナジー理論のMedia Pointである。だから、まとめると、Media Point=知・即非・存在=「プシュケ」=魂=身体=共同体である。

★★★引用開始★★★

【まさにこうした仕方で〈プシュケ〉は延長であるが、〈プシュケ〉はそのことについて何も知らない。〈プシュケ〉はここでは、「物質」の深奥の、基底をなす下位-層に則して先行措定されるのでもなく、自己-の-知という既に与えられた上位-層に則して先行措定されるのでもない限りにおける身体の名である。先行措定の二つの様態ともに潜勢態(ピュイサンス)のうちに留まったままで、その中で加えて両者は、あらゆる伝統を横断する形で、お粗末なほど観念論的な唯物論や、意味の起源(志向性、根源的時間性)といった常により狭隘な罠に自らしがみつく観念論として、止めどなく崩壊し衰弱していく---
----それに対して諸身体は到来しつつあり、諸身体の様々なアトムのクリナメン〔微小偏倚〕は既に場を持ち=生起し、既に様々な場を開き、世界のあらゆる裂開において互いに端から端までその様々な重さであることを実践している。だがこれは、確かに、「知」の事柄ではない、それは、重さであることの中に到来し、重みを量られるべきものとして奪いかつ与える身体の事柄である。それは「意味の根源」でも「根源の意味」でもない。それは、意味には根源はないからであり、それこそがそれそのもの、「意味」そのもの、根源ーなきー存在、延長ーされるべくー到来すること、創造されるーこと、あるいは重さであることであるからだ。
 紛れもなくこのことに対して=向けて、〈プシュケ〉は延長として現前するのであり、このことに対して=向けて〈プシュケ〉は間を割り裂かれ(アンテレッセ)、無限に外部転位される、〈プシュケ〉が負荷として担い、配慮し、情動=触発されるのはまさにこのことからであり、まさにこのようにして〈プシュケ〉は「現勢態(アクト)にある身体の形式」なのである。現勢態にある諸身体のみが存在し、各身体は〈プシュケ〉である、もしくは様々なアトムまた/あるいはソレ《renshi注:精神分析の基盤の無意識》の延長を通して独異な形で様態化された様々なプシュケ〔精神、自在鏡〕の配置である。】  p. 68

★★★引用終了★★★
 

参考:

ナンシーの著作は、多くが日本語に訳されています。その中心概念である共同性に焦点を当てて見ました。積極的な議論の一つの種になれば幸いです。

Nancy, Jean-Luc ジャン・リュック・ナンシー 1940年生まれ

略歴

1940年7月26日、フランスのボルドー近くのコデラン生まれ。1962年に哲学学位を取得した直後から、カール・マルクス、イマニュエル・カント、フリードリッヒ・ニーチェ、アンドレ・ブルトンといった著者についての本を出版。パリで哲学教授資格を取った後、1968年コルマールで短期間教師を務め、その後ストラスブールの哲学研究所の助手になる。現在もストラスブールに居住し仕事をしている。1973年にはポール・リクールの指導の元でカントについての論文で博士号を取得し、その直後からストラスブールの人文科学部で「助教授」をつとめる。1987年にはトゥールーズで、ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタールらが審査員となり、国家博士号を授与される。ジェラール・グラネルの監修のもとに書かれたカント、シェリング、ハイデッガーの著作における自由の問題を扱った博士論文は、1988年に『自由の経験』として出版された。とはいえ、1987年以前から、すでに彼はアカデミックなキャリアを積み重ねていた。1970年代から80年代にかけてベルリン自由大学やカリフォルニア大学など様々なところで客員教授を務めていたほか、哲学教授として、東ヨーロッパを中心にフランス外務省の文化委員を務めていた。

しかし1980年代末に重病に陥り心臓移植を受け、その活動は突然終わりを迎えた。さらにガンとの闘病が重なり、その回復を遅らせた。これらの病気のために彼のキャリアは大きく変わり、今まで自分が務めていたほとんどの委員職を辞任しなければならなかった。最近また活動を再開したが、こういった闘病期間の間も驚くべきことに執筆や出版活動は精力的に続けていた。政治や社会や哲学的な話題に関わる彼の著作の多くは1990年代に出版されたが、2000年には自分の病気についての著作『侵入者』も書いている。そして60代になった今日、人間として哲学者として今まで以上に活発に世界中を飛び回っている。

http://www.saysibon.com/yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm



ジャン=リュック・ナンシー:amazon.com

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/249-6735820-3839547?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&field-author=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%3D%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%AF%20%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC

2007年10月29日 (01:27)

Media Pointと同一性の関係:ポスト・モダンはメディア同一面哲学で、MPには不到達である

浮かんだアイデアは、すぐ展開しないと、後では消えてしまう。本件で何を思いついたか、今は、忘れてしまっている。思い出してみよう。公園で読んでいた本にメモしてあったので、それをここに書こう。【同一性メディアの両義性、同一性メディア平面の闇】である。
 これは、昨日書いたのと同じ事柄である。つまり、Media Pointが同一性に張り付くというような事態のことである。メディア同一性平面と言ってもいい。これは、ドゥルーズの内在平面と同じである。
 そうだ。ようやく思い出した。つまり、以前言及したことではあるが、このメディア同一性平面(以下、メディア同一面)に、超越性が入っているのか否か、という問題である。ポスト・モダン哲学(ドゥルーズとデリダ)を考えるときに問題になった事柄である。そのときは、ドゥルーズ&ガタリ哲学(以下、ドゥルーズ哲学)には超越性を認めて、デリダ哲学には認めなかったと思う。
 しかしながら、ドゥルーズ哲学は、現象学の超越論性を否定している。デリダ哲学は基本的に、超越性を認めていないことは確定できるが、ドゥルーズ哲学の場合は曖昧さが残る。しかしながら、メディア同一面を考えると、ドゥルーズ哲学は、正にそこに当てはまるのである。だから、それには、超越性はないと見るべきだ。
 メディア同一面においては、差異は同一性と融合しているのである。言い換えると、差異は連続的差異=微分になっているのである。この連続的差異には、流動性があるので、何か超越性と勘違いするのである。
 既述した通り、ドゥルーズの特異性は錯誤・誤謬(インチキ)であり、それは、疑似・似非特異性である。それは、実軸のMedia Pointに過ぎない。つまり、メディア同一面のゼロ度であると考えられる。思うに、メディア同一面とは、マイナスの実軸で提示できるのではないだろうか。因みに、フッサール現象学は、正に、Media Pointが同一性へと志向する始点を捉えたのではと思われる。しかしながら、ハイデガー哲学は、ドゥルーズ哲学と同様に、メディア同一面のゼロ度を本来的存在として捉えている、つまり、フッサールが捉えたMedia Pointの端点・始点を看過してしまった。
 さて、問題は、以前と同様に、メディア同一面に、純粋Media Point自体が関与しているのか、である。メディア同一面とは、Media Pointが同一性に変容してしまっているものであり、純粋なMedia Pointはないと考えられる。
 ダイナミクスの問題を考えなくてはならない。Media Pointのエネルギーは、確かに、同一性に変換されて、メディア同一面を賦活・活性化するだろう。しかし、このエネルギーはもはや超越的エネルギーではなくて、連続的同一性エネルギーである。この点が、Media Pointとメディア同一面の関係を混同させていると考えられる。
 ここで明確にしておこう。Media Pointとメディア同一面とは分離されるもの、つまり、不連続なものであるということである。ハイデガー哲学を含めてポスト・モダン哲学は、フッサール現象学が到達した(超越的な)Media Pointの始点を看過して、メディア同一面の哲学に留まったのである。

2007年08月31日 (22:51)

志向性について:連続性と不連続性の即非としての志向性:ポスト・モダンからトランス・モダンへ

今日、再び、タリーズで『存在と時間』の続きを読んでいたら、ある表現に触発されて、思考が涌き出して、本の余白に書き込んだ。それを転記すると、試行錯誤した内容なので、蕪雑になるので、以下、新たに結論となった内容を書きたい。

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ハイデガーの『存在と時間』では、現存在の本質の作用として、気遣い・関心を考えているが、私の見るところ、これは、フッサールの志向性をハイデガーなりに敷延化したものだと思われる。志向性という概念の方が、理論的には、包括・統括・包摂的であると私は考えるので、志向性を「存在」の基盤の作用として捉えて、考察することにする。
 さて、私は、意識存在(これは、ハイデガーの存在でもなく、フッサールの意識でもなく、両者を統一したものである。もっとも、フッサールの意識には、本来、存在と関係していると思われる。)の地盤に志向性を置く。これは、差異の志向性である。PS理論では、(+i)*(-i)⇒+1における⇒の様相である。+iと-iは差異、超越的差異(超越差異)であり、(+i)*(-i)は即非(共振)様相を意味する。そして、そこには、志向性が潜在している。中間の空虚によって、志向性の潜勢態があり、空虚を満たすようにして、志向性が実勢化する。そして、それが、エネルゲイアとしてのMedia Pointを発生させる。
 さて、このとき、(+i)*(-i)の志向性は、連続性と不連続性との対(つい)の志向性となる。これを対志向性ないしは即非志向性と呼ぶこともできる。
 さて、このMedia Pointのエネルゲイアにおいて、一方では、連続化が発生する。連続的エネルギー化である。これが、現象化である。このとき、連続化された差異は、同一性化する。即ち、同一性の意識、自我を形成する。人間の日常の意識は一般にこれである。
 問題は、この連続化による同一性が、必然的に、不連続性を忘却することである。Media Pointのエネルギーが連続性(同一性)へと傾斜したと考えればいいだろう。当然ながら、不連続性はブラインド、影になるのである。ここには、否定・排除・隠蔽という行為はなく、ただ、忘却である。
 しかし、形成された同一性意識は、志向性・対志向性・即非志向性の不連続性ないしは不連続面を忘却しているので、不連続性のエネルギーの発生に対して、否定的になるのである。ここに否定・排除・隠蔽作用が生起すると言えよう。
 つまり、こういう力学が考えられるのである。志向性・対志向性・即非志向性において、連続化と不連続化の極性がある。連続化エネルギーと不連続化エネルギーはそれぞれ、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーであり、両者でゼロとなり、エネルギー保存則を形成している。これは、生(エロス)と死(タナトス)の対エネルギーと言ってもいいだろう。哲学的には、同一性と差異と考えられよう。(フッサールの志向性の欠陥は、同一性の志向性のみを考えた点にあるだろう。ここを、デリダに攻められたと言えよう。とまれ、志向性は、対志向性であり、即非志向性である。)
 ここで、ポスト・モダン哲学を考えると、それは、同一性の志向性の現象に対して、差異の志向性を提起したと考えられるのではないだろうか。こう考えると、実に、明快になると思われる。即ち、同一性とは連続性であり、差異とは不連続性である。
 ハイデガー(私は、ハイデガーをポスト・モダンの一つの先駆と考えている)の『存在と時間』を見ると、存在(本来的自己)が差異・不連続性であり、非本来的自己が同一性・連続性である。(ハイデガーは存在と存在者の間に「一つの裂け目」、存在論的差異を見ていたので、これは、正当化されよう。)そして、前者を中心化したのである。つまり、存在=差異を中心化したのである。
 次にドゥルーズ哲学を見ると、それは、それは、自明ながら、同一性に対する差異の哲学を説いたのである。差異を中心化させたのである。しかしながら、その差異は、不連続なものではなく、連続的なものでしかなかった。ここに差異論としてのドゥルーズ哲学の大きな欠陥があると言えよう。
 次にデリダであるが、デリダは同一性への対抗として、差延を説いた。これは、永遠に同一性を逃れる差異である。即ち、不連続性である。だから、ハイデガー哲学を踏襲していると言えよう。
 そして、不連続的差異論を見ると、それは、ポスト・モダン理論の最終的帰結であると言えるのではないだろうか。何故なら、不連続性を究極的に説いた理論であるからである。
 さて、志向性・対志向性・即非志向性の視点から、ポスト・モダン哲学を見ると、それは、不連続性の志向性を肯定して、連続性の志向性を否定したものである。換言すると、近代主義が連続性を肯定して、不連続性を否定した事態とは正反対の事態がここにはあると言えよう。反近代主義である。脱近代主義ではない。反動とも言える事態である。
 さて、ここで、志向性・対志向性・即非志向性の視点から、この問題を考察すると、同一性(連続性)の志向性と差異(不連続性)の志向性の両極を共存させる哲学・理論が正当であるということになる。結局、同一性と差異とが即非的に結合した意識存在が本来的である。同一性の極と差異の極をもった対極的志向性が妥当なのである。そして、これを説いているのが、プラトニック・シナジー理論なのである。同一性と差異との即非性としての志向性を説いているのである。これは、ポスト・モダン哲学を乗り越えたトランス・モダン哲学である。また、フッサールの画期的な概念である志向性を、敷延して、差異の志向性として捉えた理論である。
 さて、ここで、派生的な問題として、(+i)*(-i)の志向性について考察したい。(+i)*(-i)の志向性において、連続化を考えると、二つの連続化が考えられる。(+i)→(-i)⇒-1であり、(+i)←(-i)⇒-1である。前者は知の同一性であり、後者は身体の同一性であると思われる。前者は合理主義であり、後者は非合理主義である。問題は、後者と差異の関係である。ポスト・モダン哲学は、差異中心主義である。これは、知の合理主義に対する反発・反抗・反逆と言っていいだろう。だから、身体性との結びつきが生まれると言える。
 身体的同一性=非合理主義とポスト・モダン哲学との関係はどうなのだろうか。差異を中心化すると、当然、同一性=合理的知が解体されるだろう。すると、当然、非合理主義となるのである。すると、ポスト・モダン哲学の差異とは、身体的同一性と同じであるということになるのではないだろうか。それは正しいだろう。知の同一性=合理性を否定するのだから、当然、差異は、身体の差異による同一性化となるだろうからである。
 そこで、D. H. ロレンスのdark Godやdark sunを考えると、それは、正に、差異=身体的同一性=非合理主義=闇=-1であろう。これを説いた当時、ロレンスはファシズム的発想をしていたのである。そして、賢明にもロレンスは、最晩年の(『逃げた雄鶏』[『死んだ男』])において、それから脱却して、差異共立の思想に到達したのである。つまり、ロレンスなりに、ポスト・モダンからトランス・モダンへと開眼したのである。ロレンスが『アポカリプス』で説いたコスモスとは、志向性のコスモス、 Media Pointの宇宙であろう。また、そこで批判されている、権力志向のキリスト教(イエスの教えとは異なるとロレンスが考えたもの)とは、ルサンチマンのキリスト教であり、同一性の志向性のキリスト教であろう。先に言った、超越論的同一性のキリスト教である。
 別稿で、先に考えた超越論的構造について、本件の視点から再考したい。

p.s. 補足すると、同一性の志向性が光の志向性であり、差異の志向性が闇の志向性である。そして、本来の志向性、対志向性、即非志向性は、光と闇の即非的志向性である。Twilightの志向性とも言えよう。
 ここで、ニーチェのアポロとディオニュソスを考えると、正に、これに当てはまるだろう。同一性の志向性がアポロであり、差異の志向性がディオニュソスであり、両者即非で一つの神性を表わすのである。正に、陰陽である。
 ところで、ディオニュソスは、破壊や解体の作用をもつが、ディオニュソス的一体感とは何だろうか。ニーチェは破壊の恍惚感と言っている。三島由紀夫的である。これは、同一性が解体されて、差異に還元されたときの根源・原初的歓喜ではないだろうか。思うに、同一性から差異へのプロセスと見るべきだろう。そうならば、根源・原初的即非的歓喜ということが考えられるだろう。ただ、差異だけならば、破壊だけであり、一体感はないだろう。
 視点を変えると、ディオニュソスとは、同一性が解体して、差異のエネルギーが解放(放出)されるということだろう。この差異のエネルギー、不連続性のエネルギーが一体感を生むのではないだろうか。
 ではなぜ、一体感なのだろうか。それは、同一性の個別・個体性の枠組みが解体して、前個別・前個体的なエネルギーが発動、Media Pointが賦活するからではないだろうか。脱主体的な、差異即非のエネルギーが発動するからではないだろうか。つまり、差異即非が、同一性=個別・個体化を超越した、メディア共鳴的様態だから、一体感を生むのではないだろうか。
 ところで、最後に三島由紀夫について簡単に触れると、どうも、彼のニヒリズムは、近代的同一性に対する反動であり、ポスト・モダン的であると言えよう。身体的同一性を志向しているのである。同一性の有に対して、差異の無(=神秘主義)に、いわば、取り憑かれたと言えよう。もっとも、その両極の間において、かいま、道徳を見いだしたと思われる。つまり、超越性ないしは超越界(叡知界)を感得したと思われる。彼の阿頼耶識論(『豊饒の海』の『暁の寺』)は、それを示唆していよう。阿頼耶識と世界との間に道徳を見るのである。
 別稿で、輪廻転生について再考したい。

2007年08月31日 (11:41)

Media Pointの諸様相:超越的差異⇒超越論的差異⇒超越論的同一性構造⇒同一性

先に、ハイデガー哲学、そして、ポスト・モダン哲学とは、超越論的差異を基盤とした哲学であるとした。また、ニーチェ哲学もそうであるとした。しかし、ニーチェ哲学をそのようにポスト・モダン化することは、単純化であると感じられる。
 私は、超越論的差異は、超越的差異へ示唆と超越論的同一性構造への志向性の両義性をもつと言ったが、それは、不正確ではないかと感じる。ハイデガーの存在は、超越論的差異でいいと思う。しかし、ハイデガー哲学において、超越的差異への志向性はないだろう。だから、図式を変更する必要があると思う。

1.超越的差異⇒2.超越論的差異⇒3.超越論的同一性構造⇒4.同一性

だから、1から2への移行はあるが、2から1への移行はありえないということになる。ただ、⇒の領域に位置することはありえる。そのように考え直してみると、ハイデガー/デリダ哲学はやはり、2の超越論的差異を基盤にしていると見ていい。そして、ニーチェ哲学は、1⇒2,又は、1と2の中間に位置している。フッサール哲学は、意外に、ニーチェと同等ではないだろうか。では、ドゥルーズ哲学はどうなるのだろうか。私は、先の考え方では、2と3の中間、又は、2⇒3の⇒に位置するだろう。しかしながら、なにか、1の要素が感じられないこともない。そう、ガタリとの合作において、共立概念を説いているので、1の要素があったように思える。ただし、ドゥルーズはひどく混濁していて、1〜3を、一体化している。つまり、連続的差異=微分の概念で「統一」しているのである。
 以上の図式的視点から見ると、不連続的差異論、並びに、プラトニック・シナジー理論のブレークスルー性が明瞭である。不連続的差異論は、端的に、超越的差異に到達したのである。そして、プラトニック・シナジー理論は、超越的差異が、超越的即非差異ないしは超越的共振差異であることを明確化したのである。
 最後に、まだ疑問点がある。以上の説明では、ハイデガー哲学とデリダ哲学が同質である。これはどうなのか。問題は、存在と差延の関係である。私は、これまで、それらは一致すると考えてきたが、どうだろうか。
 デリダは、存在のもつ一種の単一性ないしは一元性を解体したいのだと思う。だから、差延と提起したのだ思う。しかし、ハイデガーの存在は単純ではない。現存在という実存性から存在を見ているので、純粋な存在が捉えられるのだろうかと思う。つまり、現存在の様態が差延的であると私は思う。例えば、到来というような考え方が、差延的であると思う。あるいは、既在(既往)性という概念もそうだと思う。何故なら、デリダは、現在が過去や未来からの遅延でズレ(差延)をもっていると言う。このような考え方は、到来や既在(既往)性と似ていると思う。
 私は、ハイデガーの存在は差延的であると思うが、デリダは、存在のような一元性を排除したいのである。その代わりに、痕跡やエクリチュールを置きたいのである。しかし、差延や痕跡やエクリチュールとは、現象における差異の様態であり、ハイデガーの存在とは様相がことなるのである。そう、デリダは問題の様相を混同させていると思う。存在は、超越論的差異に位置する。そして、差延は、超越論的同一性と同一性において発生する。というか、超越論的差異=存在において差延が発生するのである。だから、デリダはハイデガー哲学を勘違いしているのである。存在=差延である。そして、デリダはないものねだりをしているように思う。ということは、デリダこそ、ハイデガーの後塵を拝していると言えるだろう。そう、デリダは、巧妙に、というか、狡猾に、レトリカルである。本来、存在がもつ差延を、現象同一性の領域にもってきて、つまり、存在と差延を分離・独立させて、つまり、差延を現象領域にもってきて、それから、存在の統一性ないしは同一性を批判して解体しようとしていると考えられる。デリダの読みは、フッサールのときもそうであったが、ハイデガーに関しても、勘違い的であると思う。言い換えると、差延や脱構築主義を、対象にもちこんで、強引な、牽強付会的な読みをしているのである。ハイデガーの場合は、カテゴリー・エラーである。
 そのように見ると、デリダを超越論的差異に位置づけたのは、間違いになる。デリダは、超越論的差異⇒超越論的同一性構造の⇒に位置づけるべきであろう。
 それにしても、デリダの超越性への一種反感・嫌悪・否定は特異に見えるのである。形而上学への嫌悪と言ってもいいだろう。しかし、形而上学への嫌悪とは、別に斬新なことではなく、近代主義の特徴である。しかし、単純にデリダのそれを近代主義的というわけにはいかないだろう。
 デリダの形而上学への反感は現前性に対する批判から来ていると言えよう。現前性とはいわば現象性である。それをデリダは否定したいのである。しかしながら、超越性とは現前性ではない。それは、虚性であり実性である。即非的なものである。
 思うに、デリダが形而上学の現前性を否定した根因は、超越性が超越論的構造と結びついているからではないかと思う。つまり、ハイデガー哲学の超越論的差異のように、超越論的構造の規定をもっているからではないだろうか。超越論的構造のもつ同一性構造、即ち、超越論的同一性構造(言わば、現前構造)をデリダは批判したいのだろう。それなら、理解できる。
 だから、超越論的同一性構造(現前構造)を徹底的に批判するために、デリダはハイデガーの存在を否定するし、フッサールの超越性を否定するのだろう。しかし、その、いわば、ラディカルな否定のために、たいへんな犠牲を払っている。真正な超越性を否定してしまっているのである。超越論的同一性構造の否定が超越性の否定をともない、差延の思想は、いわば、何処にも位置しない、幽霊の思想になってしまったと考えられるのである。
 問題は、超越論的同一性構造(現前構造)の批判のため、超越性をも否定したということはどういうことなのだろうか。それは、デリダには、もともと、超越性の意識が欠落しているということだろう。つまり、この点では、近代主義がはたらいているのである。内在性がはたらいているのである。唯物論的と言ってもいいのかもしれない。

2007年08月30日 (11:11)

超越的差異と超越論的差異の相違点:Media Pointと超越論的構造:ポスト・モダンを超えて

先に、ハイデガーの『存在と時間』から、その哲学が、「超越論的差異」的同一性構造であることを述べたが、超越論的差異が本来的自己ないしは存在を、同一性構造が非本来的自己ないしは存在者を意味しているのである。しかし、超越論的差異の成立について、あいまいな点があるので、ここで、もう一度検討したい。
 問題は、Media Pointから同一性が形成されるときの過程にある。i*(-i)⇒+1において、同一性とは、i→(-i)ないしはi←(-i)において発生する。【後者のi←(-i)の意味については、検討課題としておきたい。これは、身体的無意識ではないだろうか。】ここでは、主導的だと考えられるi→(-i)について考察したい。
 iである「知」は、「他者」である-iを同一性として認識しようとする。このとき、iが優位にあり、-iが劣位にあり、二項対立的同一性が形成される。iが主体となり、-iが客体へと転化される。問題は、優位となった主体の位置である。
 それを考察する前に、Media Pointについて考えよう。この同一性的転換において、Media Point自体は、自己否定化され、排除・隠蔽される。言わば、裏返しになると言ってもいいだろう。即非差異であるMedia Pointは、差異と同一性の両極ないしは両面をもつが、同一性的転化において、差異の面を隠蔽して、同一性の面を表面化するのである。
 この、いわば、捩れたMedia Pointの表面に現象生起するのが、二項対立的同一性である。即ち、iの同一性化である優位の主体と、-iの同一性化である劣位の客体との二項対立的同一性である。
 ここにおいて、顕現しているのは同一性現象であるが、潜在化しているのが差異である。この顕在化した同一性と潜在化した差異との総体、捩れたMedia Poinとは何であろうか。
 私が超越論的差異と言ったのは、どこに存するのであろうか。事態ないしは事象は微妙である。捩れたMedia Point総体における潜在した差異とは、超越的差異[i*(-i)]のはずである。しかし、差異と同一性の間には境界が発生している。否定・排除・隠蔽する境界線である。(同一性の限定する線、周囲circumferenceと呼べるのかもしれない。この線と形態とを比較したい誘惑があるので、後で検討したい。)
 この境界線は、同一性構造とも言えるだろう。これは、超越論的である。だから、超越論的同一性である。すると、超越論的差異とはどうなるのだろうか。潜在している差異は、超越的差異である。
 とても微妙な事態を扱っているのであるが、超越論的差異とは、超越論的同一性=同一性構造から認識される超越的差異のことではないだろうか。超越論性という視点から見られるので、超越的差異が超越論的差異と認識されると考えられるのである。言い換えると、超越論的同一性=同一性構造という超越論的位置から認識される超越的差異が超越論的差異である。
 図式化して整理しよう。

1.超越的差異/2.(超越論的差異)/3.超越論構造/4.同一性

としよう。あまり適切な図式ではないが、ポイントは、1.超越的差異と2.超越論構造との境界に超越論的差異が発生することである。そして、これが、ハイデガーの本来的存在ないしは存在である。だから、図式は次のようになる。

1.超越的差異/2.(超越論的差異=本来的存在・存在)/3.超越論構造/4.同一性(非本来的存在) 

この図式は十全ではないが、アウトラインは理解できるだろう。現存在とは、2〜4の領域のことになるだろう。
 さて、問題は、超越論的差異=本来的存在=存在のことである。超越論構造は、また、同一性構造でもある。(先に、パラドクシカルな同一性構造と呼んだものであるから、両義的同一性構造とも言えよう。)だから、超越論的差異とは、換言すると、同一性化された超越的差異ないしは差異である。この同一性化が、いわゆる、形而上学を構成していると言えよう。本来、純粋差異である超越的差異が、同一性に汚染されるのである。ということで、超越論的差異=同一性的差異ということになる。
 ここで、ポスト・モダン哲学について考えると、それは、超越論的差異=同一性的差異をターゲットにしていたと考えられる。(だから、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学なのである。)ドゥルーズ哲学は、基本的には、この超越論的差異=同一性的差異を説く哲学であると考えられるから、ハイデガー哲学の亜流ないしは継承である。そして、デリダ哲学であるが、それは、微妙なところがあるが、基本はやはり超越論的差異=同一性的差異に存すると思われる。もっとも、超越論的差異=同一性的差異からのズレとしての差異をデリダは差延等の用語で示唆するのであるが、それだけに留まっているのではないだろうか。
 プラトニック・シナジー理論から見ると、超越論的差異=同一性的差異の彼岸である超越的差異(=虚数的差異)へ突破することができるのであるが、デリダないしは初期デリダはそこへは達していないと考えられるのである。なぜなら、デリダはフッサールの発見した超越性を否定しているからである。ここにデリダの陥った袋小路があったと考えられる。ハイデガーの到達した超越論的差異=存在を乗り越えるために、脱同一性を意味する差異である差延を構想したが、それは、実質的概念というより、戦略的な概念であったと考えられる。超越論的差異からの脱却を目指しながら、自分で脱出口を塞いでしまったので、袋小路に陥ったと考えられるのである。
 では、差延とは端的に何なのだろうか。簡単に言えば、同一性に常にズレをもたらす差異のことである。永遠の生成する差異である。だから、ニーチェ的であり、ヘラクレイトス的である。そう、確かに、意味合いとしては、そのようなものであるが、それを明晰に理論化できなかったのである。確かに、同一性に対して、差延を持ち出して、脱構築することはできる。つまり、同一性に対しては、差延を提示して、常に異議申し立てできるのであるが、それが、皮相に終っていると考えられる。
 つまり、超越性は現前と結びつくという考えから、デリダは超越性を否定してしまい、結局、脱同一性の差異である超越的差異への突破口を喪失したと考えられるのである。だから、同一性に対して、ただ、形式的な差延を突きつけて、戯れを行うことになったと考えられるのである。
 では、デリダの差延の発想の源泉はどういうものだったのだろうか。いったいデリダは差延でどういうイメージないしはヴィジョンをもっていたのだろうか。それは先に述べた永遠の生成する差異のイメージであろう。哲学的には、ハイデガーにニーチェを継いだようなものではなかったろうか。存在を超えた差異をイメージしていたのではないろうか。あるいは、ハイデガーとニーチェの間を目指していたのではないだろうか。しかし、何度も言うが、フッサールの超越性を否定したので、その差異の理論化は不可能になったのである。
 では、フッサールの超越性の否定とはどういうことなのか。やはり、現前の否定がポイントである。デリダは超越性を現前として否定したと考えられる。しかし、現前とは同一性化であろう。確かに、フッサールの場合、超越性と同一性とが結びついていた。しかし、それは、二重性であったのをデリダは看過した。そして、差異と同一性との混淆態である差延を提起した。脱同一性としての差異(差延)を説くが、しかし、同一性から超越できない差異である。
 デリダの二重性がある。一方は、永遠の生成する差異であり、一方は超越性の否定である。問題は後者にある。デリダは、フッサールの超越性を現前として否定するのである。現前とは同一性化である。つまり、フッサールの超越性に同一性化を見て、否定したのである。しかし、デリダは超越性自体を透視的に看取することはできなかったのである。あるいは、デリダは超越性を憎んでいたために、超越性を否定したと考えられる。超越性とは高次元を意味する。そう、デリダは高次元を嫌ったのであろう。PS理論で言えば、実軸の次元に拘ったのである。現象の次元に拘ったのである。これは、内在の思想ではないだろうか。そう、思うに、悪い意味で、ニーチェの思想の影響があるようである。ニーチェの袋小路は、やはり、超越性の否定にあったと思う。自己矛盾しているのである。超越性への志向がありながら、超越性を否定したのである。このパラドクスの意味は何であろうか。
 問題がニーチェになったが、それは、やはり、超越論的構造にあると思う。それも、超越論的差異を含んだ超越論的構造である。それは、超越性を示唆すると同時に、それを閉ざすような構造である。自己矛盾した構造である。示唆と否定の極性をもっているのである。ニーチェはこの領域で思索したのである。だから、示唆の極では、永遠回帰が生まれ、否定の極では、形而上学や超越性の否定である。
 ということで、この両義性は、おそらく、デリダにもある。だから、永遠の生成する差異と同時に超越性の否定があったのだろう。結局、超越論的構造ないしは超越論的差異の領域にあったから、デリダは、超越性を否定して、両義的な差延の思想に留まってしまったと考えられる。これは、ドゥルーズの場合もほぼ同様であるが、ドゥルーズは、ニーチェやデリダより、同一性構造に傾斜していると考えられる。
 後で、整理したい。

p.s. 結局、ハイデガーとデリダの関係はどうなのか、である。ごちゃごちゃと書いたが、明確に言えば、超越論的差異自体が両義的であり、超越的差異への示唆と同時に、同一性構造への志向性をもつという両義的領域である。だから、デリダやドゥルーズは、超越論的差異=存在を説いたハイデガー哲学の後塵を拝しているのである。ハイデガー哲学の展開である。そう、ハイデガー哲学の展開としてのポスト・モダン哲学である。
 ところで、巨視的に見ると、西洋哲学ないし西洋文化は、いかにも、超越論的構造が支配的であったのかよくわかる。キリスト教も結局、超越論的構造の同一性が支配的なのである。つまり、イエス・キリストという同一性が支配しているのである。これは、いったい何なのか。これは、西洋言語の性質が大きいのかもしれない。
 それに対して、東洋は、例えば、禅のように、無を説いたが、それは、超越論的構造を空にして、超越性を喚起させる方法だと考えられる。そう、東洋は超越性の文化なのである。西洋哲学は、新東洋哲学へと転生するのだろう。プラトニック・シナジー理論が、東洋である日本で生まれたのは、この点で必然性がある。西洋では生まれ得なかったと考えられる。
 思えば、グローバリゼーションも超越論的構造による。個人主義・自由主義が同一性=交換価値に囚われているのである。超越的差異へと到達したとき、脱グローバリゼーションとなるだろう。差異共振主義の世界へと進化するだろう。

2007年08月18日 (20:29)

Media Pointとハイデガーの存在:Media Point=「存在」=空=量子=心

本件に関して、直感で感じていることを言おう。
 ハイデガーの存在とは、PS理論のMedia Pointにほぼ相応するように思う。つまり、イデアと物質との中間態である。量子である。そして、PS理論では、Media Pointに虚軸と実軸との交叉を見ているので、イデア界的であり、且つ、現象界的であることが明瞭である。換言すると、言わば、虚的存在(非存在)と実的存在(存在)との不連続な波動(粒子と波動の相補性)がある。
 しかるに、ハイデガーの『存在と時間』においては、確かに、存在の時間性が捉えられているようだが、PS理論におけるような虚的存在(非存在)=イデアを捉えているのだろうかという疑問がある。思うに、それは、無において、捉えられているようである。ならば、ハイデガーの存在は、仏教の空とした方が明快であるように思える。なぜなら、存在は、無であり、且つ、有(存在者)であるからである。
 そう、今は、粗略に言うが、Media Point=「存在」=空=量子=心である。物質と超物質の中間態である。思うに、ここでは、量子=心となっているが、これは、物質(同一性物質)=心と捉えられるべきではないと思う。そうでないと、オカルティズムの霊的唯物論が発生してしまう。心=量子論である。そして、これは、仏教の心と通じるだろう。

2007年08月09日 (00:16)

ニーチェのアポロとディオニュソスの二重性の問題:視覚世界と聴覚世界:現象界とイデア界

ニーチェのいわば処女作である『悲劇の誕生』の有名なアポロとディオニュソスの二重性、視覚世界(美術)と聴覚世界(音楽)の二重性について、新たに考察したい。
 現象世界というとき、そこには、視覚的世界であることが強く意味されているだろう。仏教では色の世界である。そして、古代の知恵は、たとえば、プラトンは仮象の世界であり、仏教は空の世界でもあると説いてきた。
 先に、私は三島由紀夫の文学の二元性、即ち、イデア性と同一性の対立について指摘したが、アポロとディオニュソスの二重性の問題は、これらに関係しているだろう。
 そう、ディオニュソスの問題とは、イデア界の問題であるが、PS理論から精緻に言えば、Media Point(以下、MP)の問題である。言い換えると、エネルゲイアの問題である。ディオニュソスは神であるから、神のエネルゲイアと言えるのである。
 では、アポロという視覚世界、美術の神は何なのだろうか。ギリシア悲劇(ディオニュソス神に奉献された)は、アポロ神の神託が重要な意味をもっている。『オイディプス王』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%82%B9
では、周知のように、スフィンクスの謎を解いたオイディプスが、結局、父を殺害し、母と結婚して、子をもうけていたことが判明し、自分こそ、テーベの秩序を乱していた原因だったのである。
 人間のヒュブリス(傲り)を戒める悲劇であると解釈されているが、ここでは、盲目の予言者ティレシアスの知恵が悲劇的真実を知っているのである。
 盲目ということがキーポイントであろう。晴眼者が無知であり、盲目者が知者なのである。
 ここで、神としてのアポロをおいておき、現象同一性としてのアポロを考えれば、当然、同一性という知ではなく、ディオニュソス的知が、不可視の知が肯定されていることがわかるだろう。
 しかしながら、ギリシア悲劇の複雑さは、実は、ティレシアスの知は、アポロ神の神託である点である。ということは、アポロはディオニュソスとつながっているのである。
 この皮肉・アイロニーは何を意味しているのか。これこそ、真正なイデア論、プラトニズムではないのか。ギリシア人の底知れない深さがあると言えよう。目に見える世界、現象界、仮象は、実は、目に見えない世界、不可視界、イデア界とつながっているという叡知が古代ギリシア人にはあったと考えられる。(ある意味で三島由紀夫の古典主義、アポロ主義に似ているが、三島の場合は、そのような切望であったと言わなくてはならないが。)
 そう、ここで、私自身の経験を想起するが、真夏の海岸での碧空を背景とする太陽を見て、なにか暗さ、闇を感じたが、それは、補色的反応と言えば、その面があるが、光の充溢の奥には、闇があると感じたのである。これこそ、イデア界に通じるのではないだろうか。つまり、闇とは不可視の世界であるということである。
 古代ギリシア人は、光を見つめて、不可視であるイデア界を直覚したのではないだろうか。これが、アポロ神の意味ではないだろうか。アポロ=ディオニュソスである。現象=イデアである。色即是空、空即是色。
 オイディプスは、アポロ=現象の意味を真に把握していなかったのである。現象はイデア界を背景にもっているのである。未だに凌駕されないギリシア悲劇の意味は、このアポロ=ディオニュソス、現象界=イデア界、視覚世界=聴覚世界にあるのではないだろうか。
 見るとは聴くのである。見るとは触れるのである。以上の問題は、近代主義に正に当てはまるだろう。近代主義は、真正の視覚、眼差しを喪失しているのである。(卑近に言えば、小泉前首相のパフォーマンスと真理が区別ができないのである。)現象を物質と見ているのである。現象は物識である。物質意識としての《量子》である。
 思うに、「モダン・アート」とは、本来、トランス・モダン・アートであったが、モダニズムの反動のために、美術史は混乱して、錯誤しているのである。これは、文学にもあてはまる。モダニズム期(最近、モダニズムに対する疑念が起こっていて、間大戦期という用語が使われる。)は、実は、トランス・モダンとモダン的反動との混淆期であったのである。英米文学では、T. S. エリオット、ジェイムズ・ジョイス、エズラ・パウンドの反動的モダンとD.H.ロレンス、ヴァージニア・ウルフのトランス・モダン(W. B. イェイツは、両面があるが、基本はトランス・モダンであろう)が混淆されてモダニズムで括られていたのである。(日本では、宮沢賢治のトランス・モダンと萩原朔太郎のモダンがモダニズムで混淆されているのではないだろうか。)
 後でもう少し検討したい。

2007年08月04日 (15:45)

デリダの脱構築理論について:差延と同一性:差延は連続的差異である

デリダの脱構築理論とは、ロゴス中心主義(同一性中心主義)に対して、差異中心主義(差延主義)を提唱することによって、ロゴス中心主義を批判して、それを差異中心主義(差延主義)へと変換することに存するとおおまかには言えるだろう。
 フッサール現象学においては、超越論的主観性のロゴス中心主義が批判されて、それが差異中心主義(差延主義)へと変換される。そのとき、フッサール現象学の提起していた超越性も批判され、否定されていたのである。即ち、フッサールの超越論性には超越性と同一性があるが、その同一性に注目して、超越性をも否定したことになるのである。
 ここで超越論性と超越性の相違を説明しなくてはならない。超越論性とは、構造性と言っていいだろう。形相に近いものである。しかし、超越性とは、超越論性=構造性を超えたものである。カントで言えば、物自体である。
 デリダ哲学は、いわば、フッサールの超越論的超越性を看過して、超越論的同一性を否定して、フッサール現象学を脱構築して、差異中心主義(差延主義)に変換するのである。そのとき、当然、超越論的超越性、端的に、超越性・超越界が否定されるのである。
 では、デリダの差異中心主義(差延主義)とは、端的に、何だろうか。例えば、現在を認識するとき、それは、純粋に現在ではなく、過去(おそらく、ないし未来)の様態を経由するので、遅延して、現在が差異化されるということである。つまり、現在は、差延として、存在するということである。言い換えると、現在とは過去の知覚との混淆として存するということである(正しくは、過去と未来との接点である差異として現在があるのであろう)。この混淆という様態が差延を構成しているのである。これは、いわば、時間を連続性として把捉していることになる。言い換えると、連続的差異として時間を捉えているのである(参考:ベルクソン/ドゥルーズの時間性)。
 だから、差延主義とは、連続的差異の思想なのである。これは、既述したように、ドゥルーズの差異論と同質・同一であると言えるのである。
 では、問題は、連続的差異と同一性との関係である。PS理論から見ると、メディア・ポイント(以下、M.P.)は、超越的差異が同一性へと変形される変換点である(だから、変形点とも呼べる)。超越的差異は、不連続的差異であるが、それが同一性へと変形されるM.P.においては、微妙な変容が生起して、連続的差異(=微分)に変容するのである。これは、一種偽装であり、虚構・仮構である。すなわち、差異は連続的同一性化されるのであるが、ここで、生起した連続性が、差異へと還元されて、本来、不連続な差異が連続的差異として表象されるのである。これは、錯誤である。
 ということで、連続的差異とは、同一性すなわち連続的同一性の連続性による視点から、不連続的差異が錯視的に連続化されて、発生したものと言えるのである。
 ここで、超越性ないし超越界(高次元界)について触れると、先に、デリダ哲学を初期と後期に分け、後期デリダにおいては、超越性を否定しているかどうかは不確定であると述べたが、ここで少し再考すると、デリダの考え方は、超越的なもの、すなわち、形而上学は、ロゴス中心主義であるから、超越性ないし超越界は否定されると考えられる。だから、後期デリダにおいても、超越性や超越界は否定されると考えられるのである。
 やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学は、超越性や超越界の要素をもっているのである。しかしながら、フッサール現象学の超越性を否定しているのであるから、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学は、内在的超越論と呼ぶことができるだろう。
 ここで、今想起したことに言及して終りにするが、ポスト・モダン哲学は、いわば、二つの中心をもっているのではないかということである。だから、楕円なのである。一つは、当然、M.P.であり、一つは、同一性志向性である。換言すれば、差異と同一性の中心である。
 さらに換言すると、M.P.における虚軸性と実軸性ということになるのではないだろうか。ドゥルーズ的ポスト・モダンは、両者の混淆である。デリダ的ポスト・モダンは実軸中心主義である。

2007年08月02日 (18:01)

同一性と差異との境界について:ポスト・モダン哲学とPS理論

本件の問題は、先に、デリダ哲学を問題にしたときに言及した同一性パラドクス様相で説明できるだろう。しかし、ここは、構造主義の構造にも相当するだろう。だから、差異を積極的に説くときには、不十分である。つまり、ここでは、同一性と差異とが、いわば、シーソーをしているのであり、また、同一性志向性が強いので、同一性に力点があると言えよう。そして、これを理論化したものが、ヘーゲル弁証法であると考えられる。カントの超越論とヘーゲル弁証法と構造主義は、極論すれば、一致すると言えよう。ただ、カント哲学は、物自体という差異を明確に意識していた点で、他の二者より、優れているだろう。
 では、差異の領域にも配慮した、同一性と差異の境界はどう提示できるだろうか。問題点は、差異を同一性と連続化する視点である。同一性意識に対して、差異意識が発生するが、普通、両意識が連続化しているのである。この連続性の原因は何だろうか。
 直感で言えば、差異は内身体的であるが、普通、同一性自我意識(知性)を中心にするので、それと差異意識が連続化するのである。この連続化の構造はどうなっているのだろうか。
 同一性パラドクス様相がある。しかし、ここにおいて、内身体的差異を肯定する状況が生まれると考えられる。つまり、ポスト・モダン状況が生まれるのである。思うに、この進展の原因は何だろうか。これは、近代主義が行き詰まり、非ないし反近代主義的な志向性が発生して、それが、内的身体的差異を肯定する事態を生みだすのだろうか。言い換えると、それまで、外界に向けられていた視線が内界に向けられて、内身体的差異を肯定することになったと考えられる。
 しかしながら、そこにおいても、意識の原点は、同一性自我意識にあるのである。つまり、近代的意識が基盤になって、内身体的差異意識を内包したのである。これが、連続化の原因・要因・基因・根拠であると考えられよう。同一性自我意識から連続して内身体的差異意識を内包するのである。そして、これが、端的に、ポスト・モダンの思想の様態であると考えられるのである。
 構造主義とポスト・モダン主義との関係は、実に、微妙な点がある。私は、これまで、両者は同質であると述べてきた。構造主義を動態化したものが、ポスト・モダン主義であると考えてきた。つまり、動的構造主義がポスト・モダン主義と考えてきた。このダイナミクスとは、端的に、内身体的差異のエネルギーないし諸力に基づくのである。ドゥルーズの差異やデリダの差延は、これを指しているだろう。
 しかしながら、同一性との連続性がある限り、その差異は、同一性と連続化されて、連続的差異=微分になるのである。これが端的に、既述であるが、ドゥルーズの差異である。そして、デリダ哲学は、同一性認識に差延が混じること(連続化)を指摘して、同一性中心的認識を批判して、差延と同一性の混淆である脱構築主義を提唱するものである。だから、両者の哲学は、同一性と差異との連続性という点で共通しているのである。ドゥルーズは連続的差異を説き、デリダは混淆という脱構築を説いたのである。
 しかし、既述したように、超越性の問題があるのである。私は、先に、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学には超越性があるが、デリダ哲学にはないと述べた。換言すると、前者はM.P.を取り込んでいるが、後者はそうではないということである。
 デリダによるフッサール現象学批判(『声と現象』)を見る限り、デリダは、フッサール現象学の超越性を否定して、差延を唱えている。この点から私はデリダ哲学には、超越性はないと述べたのである。
 今考えると、デリダ哲学はより微妙であると思う。超越性に関しては、思うに、やはり、初期デリダと後期デリダでは異なると見た方がいいのかもしれない。初期デリダにおいては、超越性は否定されているが、後期デリダにおいては、「すべての差異はまったき差異だ」と述べていることから、特異性=絶対的差異としての差異をデリダは肯定して、差延の理論からは脱却しているように思われるのである。しかし、この特異性=絶対的差異が超越性であるとは絶対的には言えないだろう。後期デリダは、おそらく、不連続的差異の思想に近づいたが、超越性までに達したかどうかは、不明確であると考えられる。
 そうだから、PS理論の視点から言うと、後期デリダの思想をドゥルーズ(&ガタリ)の思想に適用すれば、PS理論に近づくと考えられる。

p.s. 同一性パラドクス様相=同一性志向性様相であるが、ここから、差異へと転化するということ(ポスト・モダン化)の意味であるが、志向性の転換があると思うのである。近代主義=近代合理主義は、同一性への志向性をもち、それが、物質的合理主義を結びついたのである。
 しかし、ポスト・モダン化は、志向性が明らかに差異へと向かっているのある。もっとも、同一性志向性が、パラドクシカルであるが、差異へと志向しているのである。(だから、それは、連続的差異への志向性であるが。)換言すると、同一性パラドクス様相において、同一性への志向性が、いわば、反転して、差異へと志向したことになる。それ以前は、同一性への志向性は、差異を否定し、排除するだけであったのである。あるいは、同一性への反発として、同一性を否定して、差異を肯定する反近代主義が発現したのである。シーソー様態である。
 しかしながら、ポスト・モダン化は、同一性でありながら、差異を志向しているのである。つまり、同一性と差異との融合を目指しているのである。差異の統一化が発生する。それが、連続的差異=微分の生起であり、ドゥルーズ哲学の意味である。(ライプニッツのモナドロジーの予定調和論にも、この連続化が生起していると思う。)
 しかし、この同一性と差異との融合とは、やはり、混乱である。なぜなら、差異は超越性を帯びて、物質的同一性とは本来一致しないからである。そのような不一致なものを、同一性と差異との融合は目指すからである。
 だから、このジレンマを脱却するには、両者の不連続化が前提となるのである。さらには、差異の不連続化のあとの、差異の超越化である。

2007年07月31日 (01:19)

ドゥルーズとデリダ:類似点と相違点:ポスト・モダンの成就としてのトランス・モダン

今は、簡単に触れるが、差異と同一性の連続態を説いたことで、両者はきわめて類似しているが、問題は、ドゥルーズの説いた内在平面の思想は、超越性がまったくないのかということである。デリダには、超越性はないが、ドゥルーズには、なにかあるような気がしたので、検討したいのである。
 ガタリとの共著『哲学とは何か』で明確に、フッサール現象学の超越性を批判して、内在性を唱えている。内在平面とは、差異(連続的差異=微分)が共立する平面である。これは、連続的平面である。これは、差異と同一性が融合した空間である。一見、差異が主導的であるが、この連続的差異は、同一性に対する否定性をもっているのである。つまり、先に述べた、同一性パラドクス様相の差異の面の強調である。即ち、同一性からみると、ネガである。
 問題は微妙である。今は、論証しないが、直感では、「無限速度」で力が移動する内在平面には、なにか超越性が関与しているように思えるのである。ドゥルーズ&ガタリは否定しているが。なぜなら、彼らは、そこに、共振性を見ているからである。これは、連続性とは異なる。
 生成変化や被知覚態(ペルセプト)・変様態(アフェクト)という概念も、なにか超越性や即非性を感じさせるのである。そうならば、ドゥルーズの差異は単に連続的差異だけでなく、超越的差異と混淆していたことになる。これをどう見たらいいのだろうか。
 そうならば、ドゥルーズはハイデガーの二股性を一つのものとして、混合させていると言えよう。思うに、端的に言えば、超越的共振性と連続性が融合しているのが、ドゥルーズ哲学ではないだろうか。連続性が内在性の基盤となっているのであるが、デリダと異なり、虚軸のM.P.が開口しているのである。つまり、超越性の肯定である。
 思うに、なぜ、ドゥルーズが現象学の超越性を実質的には、取り込んでいるのに、意識では否定した理由は、ハイデガーの現存在的連続性とスピノザの内在性を基礎としているからだろう。
 ということで、先の論を訂正することになったが、「狭義のポスト・モダン」とひとまとめにしたが、ドゥルーズとデリダでは、超越性の有無で異なるのである。デリダではなく、ドゥルーズが、広義のポスト・モダンを継承しているのである。
 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論は、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学の連続概念を超克した真正なポスト・モダン哲学と言えよう。ポスト・モダン哲学の成就である。結局、ポスト・モダン=トランス・モダンである。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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