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2010年10月29日 (16:45)

左派唯物論者が用いる内在性という概念の問題:内在性と超越性

テーマ:ポスト近代合理主義/ポスト・モダン批判

左翼唯物論者/マルキスト、ネグリとハートの『帝国』で使用される、気になる概念は、ドゥルーズの内在性である。
 彼らは、ドルーズ主義者なので、それを正当のように使用しているが、PS理論から見ると、その概念はまったくの錯誤・誤謬である。
 マルチチュード(世界的プロレタリアートの混成体)の内在性を、「革命」の原動力と見ているようだが、それは、結局は反動となると考えられる。
 超越性(内的超越性:これは又、外的超越性でもある)をもたない限り、物質的内在性は、同一性へと帰結するのであり、それが反動である。
 結局、個・差異の共立・共振、また、差異共融の超越的視点をもたない限り、政治活動は反動化するのである。
 マルチチュードではなく、差異共立が政治を切り開くと言えよう。
 差異共立は国家にあっては、national individuality になるべきだと考えている。民族的個である。
 民族性が、個にとっての、超越性の具体的様相であると思われる。
 日本人ならば、神道や仏教が超越性の民族的具体性である。この民族性については、新たに検討したいが、一言いうと、個の超越性を形成するのは、個の超越的根である。その根は民族的固有性をもっていると考えられる。
 そして、個の根源はMP(Media Point)であるので、MPは民族固有の双極子的様相をもっていると思われる。
 つまり、民族的MPがあるのであり、個はそれを帯びているのである。即ち、超越性⇒民族的MP⇒個である。
 今はここで留める。

追記:内在性の概念はスピノザ哲学に基づく。スピノザ哲学については、以前、問題点を述べた。即ち、連続性の理論なのか、不連続性の理論なのか、あいまいであるという点である。強いて言えば、連続性の理論である。神⇒属性(精神・思惟と身体・延長の心身平行論)⇒様態という発想をもっているのであり、⇒が連続性になっていると考えられるのである。 
 ドゥルーズは、ここに内在性の概念を見たと言えよう。しかし、これは、同一性の理論である。神という同一性が、個物の同一性へと帰結すると考えられるからである。
 思うに、PS理論の視点から、スピノザ哲学を新たに批判することが可能である。余裕のあるとき論じたい。

マルチチュード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



マルチチュード(Multitude)とは、マキャベリ によって最初に使用され、その後スピノザ が用いた政治 概念である。最近では、アントニオ・ネグリ とマイケル・ハート の帝国 論を契機として再び注目を集めている。マルティテュード、ムルチチュードとも。ラテン語 では“多数”“民衆”などの意味を持つ概念である。 「多数性」「多性」「群衆性」などの訳語もあてられる。
ネグリ=ハートのマルチチュード論 [編集 ]

マルチチュードとは、政治哲学 者で元パドヴァ大学 政治社会科学研究所教授 であるアントニオ・ネグリとデューク大学 文学部准教授であるマイケル・ハートが、共著『帝国』および『マルチチュード』において地球 規模による民主主義 を実現する可能性として、国境 を越えるネットワーク 上の権力 として提唱している概念 のことである。

ネグリはマルチチュードを、近代 以降に登場した超大国 の覇権 によるグローバル な世界秩序である帝国主義 に対抗し、これからの世界を変革し得る存在としてそれぞれの国家 の国民 や企業 を含む超国家的なネットワーク上の権力として位置付けている。

ネグリはマルチチュードについて、いわゆる19世紀 以降の社会主義 に代表される革命 に見られた多様性 と差異 性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合 されたひとつの勢力 でありながら多様性を失わない、かつ同一性 と差異性の矛盾 を問わぬ存在としている。
参考文献 [編集 ]

* アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『マルチチュード(上・下)』日本放送出版協会[NHKブックス]、2005年。

執筆の途中です この「マルチチュード」は、共産主義 に関連する書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています 。(ポータル 政治学 /ウィキプロジェクト 政治 )
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%89 」より作成

Multitude
From Wikipedia, the free encyclopedia
Jump to: navigation , search
Look up multitude in Wiktionary , the free dictionary.

Multitude is a political term first used by Machiavelli and reiterated by Spinoza . Recently the term has returned to prominence because of its conceptualization as a new model of resistance against the global capitalist system as described by political theorists Michael Hardt and Antonio Negri in their international best-seller Empire (2000) and expanded upon in their recent Multitude: War and Democracy in the Age of Empire (2004). Other theorists which have recently used the term include political thinkers associated with Autonomist Marxism and its sequelae, including Sylvère Lotringer , Paolo Virno , and thinkers connected with the eponymous review Multitudes .

http://en.wikipedia.org/wiki/Multitude


Empire (book)
From Wikipedia, the free encyclopedia
Jump to: navigation , search
For other uses, see Empire (disambiguation) .
Empire
Swedish edition (Imperiet) cover
Swedish edition (Imperiet) cover
Author Michael Hardt and Antonio Negri
Country United States
Language English
Subject(s) Globalization , geopolitics
Publisher Harvard University Press
Publication date 2000
Media type Print
ISBN ISBN 0-674-25121-0 (hardcover) ISBN 0-674-00671-2 (paperback)
OCLC Number 41967081
Dewey Decimal 325/.32/09045 21
LC Classification JC359 .H279 2000
Preceded by Labor of Dionysus: A Critique of the State-Form
Followed by Multitude: War and Democracy in the Age of Empire

Empire is a text written by Marxist philosophers Antonio Negri and Michael Hardt . The book, written in the mid 90s, was published in 2000 and quickly sold beyond its expectations as an academic work.[1] In general, the book theorizes an ongoing transition from a "modern" phenomenon of imperialism , centered around individual nation-states , to an emergent postmodern construct created amongst ruling powers which the authors call Empire (the capital letter is distinguishing), with different forms of warfare:

If, according to Hardt and Negri's Empire, the rise of Empire is the end of national conflict, the "enemy" now, whoever he is, can no longer be ideological or national. The enemy now must be understood as a kind of criminal, as someone who represents a threat not to a political system or a nation but to the law. This is the enemy as a terrorist.... Hardt and Negri get this absolutely right when they say that in the "new order that envelops the entire space of... civilization", where conflict between nations has been made irrelevant, the "enemy" is simultaneously "banalized" (reduced to an object of routine police repression) and absolutized (as the Enemy, an absolute threat to the ethical order"[2] ).[3]

They proceed to elaborate a variety of ideas surrounding constitutions, global war, and class. Hence, the Empire is constituted by a monarchy (the United States and the G8 , and international organizations such as NATO , the IMF or the WTO ), an oligarchy (the multinational corporations and other nation-states) and a democracy (the various NGOs and the United Nations ). Part of their analysis deals with "imagine[ing] "resistance to it", but "the point of Empire is that it, too, is "total" and that resistance to it can only take the form of negation - "the will to be against"[4] . The Empire is total, but economic inequality persists, and as all identities are wiped out and replaced with a universal one, the identity of the poor persists[5]

This description of pyramidal levels is a replica of Polybius ' description of Roman government, hence the denomination "Empire". Furthermore, the crisis is conceived as inherent to the Empire. Negri & Hardt are also heavily indebted to Michel Foucault 's analysis of biopolitics [6] and Gilles Deleuze 's philosophy. Before that book, Negri was best known for having written The Savage Anomaly (1981), a milestone book in Spinozism studies which he wrote in prison. Empire is thus, unsurprisingly, also influenced by Spinoza . The ideas first introduced in Empire (notably the concept of multitude , taken from Spinoza) were further developed in the 2004 book Multitude: War and Democracy in the Age of Empire and the 2009 book Commonwealth, which were also written by Negri and Hardt.

Empire has created important intellectual debates around its arguments. Many scholars have compared the evolution of the world order with Hardt and Negri's world image that they pictured in the "Empire".[7]

It was published by Harvard University Press in 2000 as a 478-page hardcover (ISBN 0-674-25121-0 ) and paperback (ISBN 0-674-00671-2 ).

http://en.wikipedia.org/wiki/Empire_%28book%29

Multitude: War and Democracy in the Age of Empire
From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Multitude:_War_and_Democracy_in_the_Age_of_Empire

バールーフ・デ・スピノザ

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年 11月24日 - 1677年 2月21日 )はオランダ の哲学者 、神学者 。一般には、そのラテン語 名ベネディクトゥス・デ・スピノザ (Benedictus De Spinoza) で知られる。デカルト 、ライプニッツ と並ぶ合理主義哲学 者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論 と考えられてきた。また、ドイツ観念論 やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。

彼の肖像は1970年代 に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。

・・・・・
存在論・認識論 [編集 ]

ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。

デカルト は神を無限な実体[3] として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体(物体=延長)という二つの有限実体 を立てた。しかし、スピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。スピノザにおいては、いっさいの完全性を自らの中に含む[4] 神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である[5] ものである(自己原因)[6] 。いいかえれば、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのである[7] 。神とはすなわち自然である。これを一元論・汎神論と呼ぶ。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神 における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。また、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱える。この場合、所産的自然としての諸々のもの(有限者、あるいは個物)は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる[8] 。

スピノザは、「人間精神を構成する観念の対象は(現実に)存在する身体である」[9] と宣言する。なぜなら、「延長する物および思惟する物は神の属性の変状である[10] 」以上、二つは同じものの二つの側面に他ならないからである。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明できる、とスピノザは考えた。精神の変化は身体の変化に対応しており、精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立となりえない。身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる[11] 人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており[12] 、この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6
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2010年09月27日 (01:21)

現代フランスの衰退と特別特攻隊

現代フランスの衰退と特別特攻隊
テーマ:ポスト近代合理主義/ポスト・モダン批判
フランスは文化的には哲学の失敗がある。ポスト・モダンは、基本的には、反動的哲学であった。また、唯物論=左翼主義から脱却できなかった。ポスト・モダンの最良のデリダは、真理に近づいたが、やはり、迂回的である。
 そう、メッキが剥げ出しているのである。確かに、絵画は先駆的であった。「モダン・アート」の震源である。しかし、哲学的に深めることができなったのではないだろうか。精神性、超越性を否定する傾向が強い、つまり、世俗的・物質的なのである。これが、フランスを袋小路に入り込ませたと思う。
 そう、シュルレアリスムも、精神的次元があるが、それを哲学・理論的に把捉・認識していないように思える。

腐り始めた「人権大国」フランスの魂


参考:

神風目次へ

アンドレ・ マルローの言葉

(2000/12/8up)

(会報[特攻」第8号より)

 元リヨン大学客員教授で特操3期出身の長塚隆ニ氏は、特攻隊員に対する戦前・戦後の急激な評価の変化、その純粋な心を傷つける輩の態度に憤りを感じておられた。氏は昭和49年夏にパリ南方郊外にアンドレ・マルロー氏を訪れ、そのようなお話をされた。その際のアンドレ・マルロー氏の言葉は感動的である。

特別攻撃隊の英霊に捧げる

  アンドレ・マルローの言葉

(略)

 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。ス夕-リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかっ た。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。
  戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。
  フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を 抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?》と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである」
  二十世紀の思想を代表するフランスの文人アンドレ・マルローは、こういうと床に視線を落としたまましばし瞑黙した。まさに百の頌詞にまさる言葉であろう。私はこれ をつつしんで特別特攻隊の英霊に捧げたい。

(会報「特攻」第8号より引用)

http://www.geocities.jp/kamikazes_site/gaikoku_kamikaze/andre_malro.htm
神風目次へ





外国人から見た"KAMIKAZE"


参考2:
不思議な少年!! その84

イエス、スカルの人々を教える。悪霊にとりつかれた者をいやす!!

 エクソシズム(悪魔払い)の原点がここにある。イエスは少なくとも最強のエクソシスト(悪魔払い師)でもある。悪霊(あくりょう、あくれいとも読む)とは、一体何者か。サタンとも言われるが、そうではない。広義にはそう呼ばれるが、個性を持った人の霊である。
飄(つむじ風)

参考3:

流れの転換の向こう側1、われわれの内面の変化? (09/22)

今回の記事

中国との問題など、いくつか重要なテーマがある。また、金融のクラッシュに関する情報も入手した。もちろん当たるかどうかはまったく分からないが。これらのテーマはメルマガで書くことにし、今回の記事ではまったく別の話題について書く。

大きな転換はわれわれの内面にもやってきているのかもしれない。読者の方で、自分や周囲の人の内面に大きな変化を感じている人はいるだろうか?コルマンインデックスでは、人間の内面の変化に主導されて現実が変化することになっている。だとするなら、もしコルマンインデックスにある通り、もしわれわれがいま本当に転換期にいるのなら、われわれ自身の内面が大きく変化する過程にあってもおかしくない。

たとえば、コルマン博士は昨年11月に発表した「2012年への最後の段階:11月8日─第6の夜の開始」では以下のように述べている。

「これはどういうことかというと、われわれの人生を方向づける新しい意識が生まれると、その意識は世界と社会に影響を与え、世界と社会に対するわれわれの関係のあり方を変化させてしまうといことを指しているのだ。したがって意識の進化というのは、われわれの心の中だけで起こる現象ではない。同時にそれはわれわれのあらゆるものとの関係の変化として現れる。むろん、経済に対するわれわれの関係も意識の進化に伴い大きく変化せざるを得ない」

そして、何がどのように変化するのか説明して次のようにいう。

「実は経済成長の希求は、人間の意識が左脳と右脳に二極分化し、統合できなくなっていた事実にあるのである。この分裂状態から心の限りない空虚感が生まれるのであり、人間はこの空虚感を物質的な満足で充足しようと、あくなき経済成長を希求するようになったのだ。過去5000年間、経済成長は人類史のメインテーマであったが、それは特にプラネタリーアンダーワールド(第7サイクル)の盲目的な意識が一般化した時代にとことん加速し、これとともに人口も増加したのである。

だが、意識の統合とバランスの回復がテーマとなるギャラクティックアンダーワールド(第八サイクル)では、経済成長と人口の増加を希求する欲求そのものが消失してしまうのである。この意識変化により、われわれ人間は、地球環境や地球上に存在するあらゆるものを、これまでのように左脳の計算によっていかようにでも収奪が許される生命のない単なる物質として考えることはできなくなる」

コルマンインデックスでは7月17日から転換期に入り、11月2日までに意識の変化が加速するとしている。いまわれわれは意識変化の真っ最中にいることになる。そのような変化をわれわれは感じるだろうか?

http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-187.html
ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだ


ホメオパシー問題:波動と本体
テーマ:Media Point:MP1⇔MP2
私はホメオパシーは原理的には合理的であると考えていた。即ち、波動が情報となり、それが、治療に役立つ可能性を考えたのである。もっとも、基本的には今日の物質的治療を優先させるべきだとは感じてきた。
 今、ふとホメオパシーは問題があると感じた。つまり、波動とは、Media Pointの現象の一部であり、本体ではないからである。本体は双極子としても、-1の超越的身体が元本体である。だから、波動を基礎にすると、双極子や -1が抜けている、言い換えると、外面だけで、中味がないという様態である。

ホメオパシーは有効? 「副作用もないが治療効果もない」VS「科学的に有効性が証明」
 植物などを希釈させた水を砂糖玉にしみこませて作る「レメディー」を服用する代替療法「ホメオパシー」の有効性などの議論が活発化している。8月末に日本学術会議が、ホメオパシーの治療効果を否定する談話を出したことがきっかけだ。これを受け、ホメオパシー関連団体が「科学的根拠はある」などと反発。厚生労働省も実態把握に乗り出した。ホメオパシー利用者が現代医療を拒否したために死亡したとされるケースもあり、議論の行方は予断を許さない。(産経新聞)
[記事全文]

◇ホメオパシーの実態調査で明らかに
・ 助産所36か所で過去2年以内にビタミンK2投与せず-助産師会調査 - 医療介護CBニュース(9月8日)
▽死亡で訴訟も
・ 医療ナビ:新生児のホメオパシー ビタミンK2を与えず、独自の療法を… - 毎日新聞(9月15日)



尖閣事件多元方程式:石垣海上保安庁と前原外相
テーマ:軍事・武力・国防・核兵器・諜報・領土問題
私は勘違いしていたが、「石垣海上保安部(沖縄県石垣市)は8日未明、船長の中国人、※其雄容疑者(41)を公務執行妨害容疑で逮捕した。」
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100908k0000e040062000c.html
ということなので、石垣海上保安部が逮捕したのであり、前原外相ではないのである。
 しかしながら、当然、内閣が責任を負うのは確かである。そして、逮捕、拘留延長を前原外相が肯定したということである。だから、前原外相の責任がある。
 とまれ、本事件は様々な変数があるので、解読が難しいのである。尖閣事件多元方程式である。
 

参照:
ガス田で首相、対抗措置を検討 単独試掘案も 
(9月19日 02:09)

 菅直人首相は18日、日中双方が権益を主張する東シナ海のガス田「白樺」(中国名・春暁)で中国が掘削作業に踏み切った場合の対抗措置の検討に着手した。中国側が白樺の洋上施設に掘削用とみられる機材を搬入したことを重視し、同日午後に前原誠司外相、仙谷由人官房長官らと公邸で協議した。政府部内では中国側の施設周辺で日本単独での試掘に踏み切ることも含めた「複数案」(政府関係者)が浮上している。

 協議には外務省の佐々江賢一郎事務次官、斎木昭隆アジア大洋州局長、細野哲弘資源エネルギー庁長官らも出席。中国側の動向を注視するとともに、外交ルートを通じて自制を求めていく方針を確認した。

 海上保安庁の巡視船と中国漁船の衝突事件で漁船船長を逮捕、送検したことをめぐっては「国内法にのっとり粛々と手続きを進める」(前原氏)ことでも一致したとみられる。白樺周辺では、海上自衛隊哨戒機P3Cによる警戒監視活動を強化する方針だ。

 日本政府は2005年7月に帝国石油に試掘権を許可。対抗措置としては、国際海洋法裁判所への提訴も選択肢となる可能性がある。

http://www.shimotsuke.co.jp/news/domestic/main/news/20100918/384938

******************************
 
国際戦略コラム NO.3759       ???
             発行部数 4000部    ???
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/ ???
         2010.09.26        ???
******************************
        尖閣沖衝突事件の顛末
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
月曜有料版の0章、1章途中まで、お送りします。

中国は世界第2位の経済大国になり、経済規模が大きくなったこと
を生かした外交交渉ができることを世界に示した。軍事力も米国に
ついで第2位の位置にあり、中国がアジアの地域覇権を取ることは
確実になっている。

しかし、経済規模は大きいが、中国首脳は自国のことを発展途上国
と規定して、自分の利益優先にし世界経済秩序の安定に寄与するこ
とをしないし、領土拡張を目指して周辺諸国と紛争を起こすことが
多くなっている。
          Fより

0.事件の顛末
中国の漁船が、9月7日午前10時56分ごろ、尖閣諸島・久場島
の北西約15キロの日本領海上で、巡視船の再三の停船命令に応じ
ず、左舷を衝突させて、公務の執行を妨害した疑いで中国人船長を
逮捕し、9日午前に、この中国人船長、※(※=簷の竹カンムリを
取る)其雄容疑者(41)を那覇地検石垣支部に送検した。

中国の外交を統括する戴秉国・国務委員(副首相級)は12日午前
0時(日本時間同日午前1時)、丹羽宇一郎・駐中国大使を中国外
務省に呼び出し、中国側の「重大な関心と厳正な立場」を表明した。

この中国の申し出により、日本政府は13日午前、公務執行妨害の
疑いで逮捕した漁船の中国人船長を除く中国人船員14人を帰国さ
せた。

9月14日、民主党代表として菅首相が代表に再選された。

検察当局は16日、石垣海上保安部が中国人船長の拘置期間の10
日延長を請求するし、裁判所が認め拘置期限は29日となる。

東シナ海ガス田「白樺(しらかば)」(中国名・春暁)の掘削施設
に、中国の作業船が16日までに掘削作業用のドリルのような機材
を運び込んだ。

中国外務省の姜瑜副報道局長は22日夜、「日本側がただちに(逮
捕された)中国人船長を無条件で釈放することでのみ、両国関係が
さらに傷つくのを避けることができる。」と仙谷官房長官が日中政
府間のハイレベルな接触を模索する考えを示したことに対し、これ
を拒否する姿勢を示した。

米紙NYTは22日、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件に絡んで、
中国政府がこのほど、日本向けのレアアース(希土類)の輸出を全
面禁止したと報じた。

23日夜、河北省石家荘市の国家安全機関が、同省の軍事管理区域
に侵入し、違法に軍事施設をビデオ撮影していたとして、日本人4
人を取り調べていると伝えた。

那覇地検は24日、同保安部が公務執行妨害の疑いで逮捕した中国
人船長を処分保留のまま釈放した。

中国外務省は25日、「日本側は船長らを違法に拘束し、中国の領土
と主権、国民の人権を侵犯した」と強く抗議する声明を発表し、日
本側に謝罪と賠償を求める方針を明らかにした。

外務省は25日、中国が謝罪と賠償を求めていることについて「中
国側の要求は何ら根拠がなく、全く受け入れられない」との立場を
示した。これに対して、中国外務省は「尖閣諸島は中国固有の領土
だ。日本は中国の領土主権と国民の人権を侵しており、中国側は日
本に謝罪と賠償を求める権利を当然持つ」と反論する。

1.米国の対応
23日の日米外相会談。クリントン国務長官は尖閣諸島について、
「明らかに(米側の日本防衛義務を定めた)日米安保条約が適用さ
れる」と明言した。これは国務省としては、中国の傲慢さに歯止め
を掛けることが必要であるために、その声明になっている。

しかし、23日夕の日米首脳会談では「両首脳は西太平洋の海洋問
題について議論し、緊密に協議していくことで一致した」という抽
象的な文言しかない。事実、オバマ大統領が中国に直接、事態の沈
静化を働きかけようにはみえない。米国は中国と人民元切り上げの
要求をしていて、その交渉を阻害することを中国に要求できない。

首脳会談に同席したホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)
のベーダー・アジア上級部長は23日の記者会見で、「米国は仲裁
していないし、その役割を果たすつもりもない」と日本側を突き放
していた。これは、この人民元切り上げを要求している時期に厄介
な問題を起こすなという日本に対する警告である。

そして、この首脳会談後、突然の船長釈放という知らせが届いた。

以後は有料版を見てください。

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拾い読みしたが、興味深い:量子化問題
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
生成門氏は粒子を不連続、そして、波動を連続と捉えている。私は波動はやはり物質面での現象だと感じている。
 つまり、量子は、物質面では、粒子となるし、また、波動ともなると考えられるのである。つまり、私のイメージ(妄想?)では、物質平面があり、そこに波形が表れるのである。
 そして、粒子であるが、それも物質平面にあるように思えるし、また、それから浮遊しているようにも思えるが、物質である。
 しかし、私は粒子は仮想ではないかと思っている。量子は双極子である。それが、「粒子」となり、「波動」となるのである。
 おそらく、双極振動ないしは双極ゆらぎ、あるいは、双極回転が根源にあると思う。この超越的双極子の現象が「粒子」や「波動」ということである。
 連続の問題で言えば、確かに、「波動」は連続的と言えるかもしれないが、なにか微妙な感じがある。

追記:量子であるが、それは、「粒子」であり、かつ、「粒子」ではない。また、「波動」であり、「波動」ではないという、即非的エネルギーであると思う。
 そう、「粒子」でもなく、「波動」でもない、という点が重要だと思う。そこで、双極子の仮説がありうるのである。
 また、繰り返すが、非局所的長距離相関であるが、そこで考えられている「粒子」は仮想だと思う。本体は、虚軸的双極子だと思う。もともと、双極子であるならば、凸iと凹iが「虚時間」的に交信しているので、物質的には超光速的に情報が伝搬するように見えるのではないだろうか。
 

ファインマンの量子化という奥義 (0)

要するに、量子化とは連続しているものを小さ小分け(不連続化)することで、計算しやすくするわけです。言ってみれば、アナログをデジタル化するわけです。

量子化とは、連続している状態のものを不連続にする手法です。光という連続している波を不連続な粒にして、その粒を光量子と名付けたのはアインシュタインでした。

量子力学の生みの親は量子のエネルギーの単位を見つけたプランクだとされていますが、光量子と名づけたアインシュタインこそが量子力学の真の親かもしれません。その親が子(量子力学)を「神はサイコロを振らない」といって否定しているのですからおかしなものです。

何故、アインシュタインが量子力学を否定したのでしょうか。それを解明すれば量子力学の矛盾と言いますか、混迷している理由も分かってくるのではないでしょうか。

この問題は、アインシュタインや量子力学学者だけの問題ではないのです。「実在とは何か」という哲学の問題であり、私達の人生に於ける生き方の問題なのです。
シムダンス「四次元能」


対中国にはきちんと理詰めで向かう必要があるが・・・:背景を研究する必要がある
テーマ:軍事・武力・国防・核兵器・諜報・領土問題
MSN産経ニュース
【主張】中国人船長釈放 どこまで国を貶(おとし)めるのか 2010.09.25 03:00
■主権放棄した政権の責任問う日本が中国の圧力に屈した。千載に禍根を残す致命的な誤りを犯したと言わざるを得ない。沖縄・尖閣諸島(石垣市)沖の日本領海を侵犯した中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突し、公務執……続きを読む

中国の攻勢の背景をよく洞察する必要がある。
 まず、前提として、中国と米国は覇権で対立しているということである。
 そして、尖閣諸島や沖縄は、境界となり、力が生まれる箇所である。いわば、活断層である。
 また、前原外相が不用意に先に逮捕という前例のない強硬手段をとったことを認識する必要がある。なにかに教唆された可能性があるが、逮捕は逮捕であり、自己責任があるのである。
 そして、菅政権が弱体・無能政権であるということも中国は認識しているだろう。
 そして、当然ながら、中国の帝国覇権路線があるのである。中国は国境や領土では、絶対譲れない立場にあるのである。そして、国防から見て、民主党は、米国との信頼関係を弱めてしまったので、国防力が弱体化しているのである。また、日本の外交の諜報能力が劣弱なこともある。
 その他、いろいろある。
 ただ、不思議なのは、なにか中国があせっている、性急である印象があることである。何であわてているのか。日本の国家の隙につけこんで、急襲ということはあるが。
 一つの原因は中国の国内問題があるのだろう。それを対外的にそらす意味があるだろう。
 では、国内問題とは何か。何が差し迫っているのか。 

参考:

日中両国の政局からすれば、双方とも事態の悪化を望まないはずである。しかし中国側は強い姿勢を示さなければならない。なぜなら、国内からの政治的圧力に応えなければならないからである。市場経済の衝撃を受けて、共産主義イデオロギーが国民から切り捨てられてからは、中共は体制維持のために政治的合法性を必要不可欠としている。時には民族主義などによって、西側からの普遍的価値観の影響を防御しなければならない。

 隣国との領土問題は、中共にとって迂回する余地がないのである。もし領土問題で体制が弱まれば、政治的合法性を飾り立てるわずかなものさえ失われることになる。そうなれば、国民の不満が噴出するばかりでなく、党内闘争の導火線にもなりかねない。
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/09/html/d87200.html




参照:

以下、きわめて刺激的な東海アマ氏の仮説である。
 ところで余計なお世話ではあるが、東海アマ氏の体調が悪い一因として、過激な内容の記事があるように思える。つまり、感情を高ぶらせているので、それは精神(気)に悪くはたらくのではないだろうか。シュタイナー的に言えば、アストラル体(PS理論では、凹i)に否定的圧力をかけているのである。そうすると、本来、調和的であるべき、Media Pointが乱調になるのである。とまれ、これは、私の勘違いの可能性があるが。

★ 2010年09月26日日曜日 8時更新

 6月中旬から体調が極度に悪化し、まともに歩けなくなってしまった。現在、やっと少し歩ける状態にまで回復したが、長い間、運動不足が続いたので、心身とも頗る不調だ。
 この数日、満月の影響か、またひどく不調になり、今朝も早くから神経が高ぶって寝られない。こうした状態はスマトラ巨大地震の年に酷似している。
 猛暑や熊・イノシシの被害が激発したことなど、本当に2004年にそっくりで、おそらく年末までに超弩級スーパー地震が発生するのは確実と見ている。

 行徳データを見る限り、まだ数日以内に発生が近づいていることを示すグラフはないが、体感は猛烈状態が続き、赤道方面南方海域で巨大震源が胎動しているように思える。
 台風12号は、予想に反して房総はるか沖から北海道はるか東方に抜けた。低気圧は震源を経由する性質があるようだが、発生直前の震源には高気圧のようなブロッキング斥力が働き、台風が逸れてゆく傾向を確認している。したがって房総沖の巨大震源はないと思う。しかし逆に、房総半島内陸に震源があれば、それが原因で上陸をブロッキングされた可能性も考える必要がある。台風の進路を定めるのは、太平洋高気圧のブロッキングと、巨大震源のブロッキングだと考えている。

 現在、予想した千島方面の発生が遅れているようだ。昨日、八丈島沖M5.2が起きているはずだが、UCGS記録がはっきりしない。満月トリガーから離れようとしているが、とうとう目立った発生が確認できず、前兆に比較して発生がないのは、桁違いの巨大震源による抑圧の可能性があると思う。


■ 中国政権が対日侵略を決意したのは、いつ頃?

 尖閣問題の予兆といえそうなニュースを調べていたら、このようなものがあった。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100903-00000069-scn-cn
 これは9月3日の報道だが、中国首脳が揃って抗日烈士の墓参を行っていた。このニュースは、明確に今回の尖閣侵攻が中国政権による重大な侵略決意の元に行われた計画的なものであることを示している。江沢民抜きというのは、これが胡錦涛北京派の共同意志であることを意味していて、従来、上海派と目されていた時期総理候補筆頭、習近平も加わっていることから、噂通り、習は江沢民派を離れて北京派に加わったと判断できるだろう。
 いずれにせよ、このニュースは、中国首脳が日本とのつながりの大きな上海派との抗争に勝利する切り札として、尖閣を強奪し、日本の経済的影響力と決別する意志を鮮明に打ち出したと見るべきだ。

 日本は、田中内閣による国交回復以来、38年にわたって、戦後賠償の意味も含めて4兆円を超える巨額のODA援助を行ってきた。実質は、その数倍もありそうだ。そうした資金は、主に江沢民ら上海派の腐敗幹部の懐に流れ込んだと見られている。そこで中国侵出日本企業の現地拠り所になる役人の多くが上海派になっており、生産拠点が上海周辺に固まっているのも同じ理由によるものだ。
 こうしたカネこそが、江沢民派に集う中国地方政権を腐敗させた根源にあるもので、北京派としては、これを苦々しく思ってきたにちがいない。
 それが中国経済を主導しているうちは、北京派にも恩恵をもたらしてきたが、上海市場を中心とするバブル経済の崩壊が目前に迫り、虚構、虚飾に満ちたインチキ評価の化けの皮が剥がれて、中国経済の実態が、アメリカや日本なみの深刻な危機にあり、まさに超巨大なバブル崩壊が目前に迫っていると胡錦涛北京派が認識していたと考える。

 そこで、バブル崩壊による経済破綻の後に責任を取らされる北京派が、追求の矛先を日本侵略にすり替える大作戦に出たと考えるのが自然だと思う。中国経済に対する日本の寄与は終わり、後は技術移転、パクリの果実を中国人だけが享受すればよいのであって、日本企業にこれ以上うまい汁を吸わせるわけにはいかないという大局的判断だろう。

 抗日烈士の墓参は、中国政権が日本を真正面から叩きつぶすという大きな決意を示すものであり、これは尖閣を突破口として、沖縄強奪、ひいては日本本土侵略も視野に入れたものだろう。もちろん、中国内日本企業資産はすべて没収し、日本資産も強奪する。数十万人というわれる日本人は追放、あるいは殺害されるだろう。
 もう中国にとって日本の利用価値はないという判断であり、とりあえず尖閣原油資源は、1000億バレルの埋蔵量としてバレル50ドルの利益が出ると計算すれば500兆円の価値になり。これだけでも強奪できれば、中国政権のバブル崩壊に伴う傷を癒せるという政治判断だと考えられる。

 中国政府代弁ジャーナリストの発言 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100926-00000000-rcdc-cn
(表向きの意味の裏に隠された真意を読み取れ! 中国の要求を拒めば、日本企業から取り立てる、つまり資産没収をするという意志だ)

東海アマチュア無線  地震予知研究会

参考2:
◆温首相、政治改革に言及 内部分裂激化の証しか

保守派の異常な動き

 中共内部において、改革派と保守派は常に論戦し合っており、その焦点は毛沢東に対する評価となっている。薄煕来が左派の領袖として「革命の歌を歌い、マフィア組織の取り締まりを行う」ことをもって国民の支持を得ようとしている。一方、改革派は毛沢東の諸問題をつねに言及しつつ、天安門事件で失脚した趙紫陽前総書記の功績を讃えるのである。「炎黄春秋」がその代表的な刊行物である。

 左派の人たちは言論にとどまらず、さまざまな行動も見られる。たとえば、「真の共産党」を作ろうとすることや、各地で労働者によるストライキを企画、組織するなどである。このほど、各地で起きたストライキブームは実は、左派たちの「傑作」だったと言われている。特に日系企業をターケットにして民衆の感情を扇る狙いであるという。
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/09/html/d90519.html


南シナ海への米の介入、中国が警告 専門家「領土争議の挑発は内部闘争の証し」

 領土争議の挑発は、中南海の内部闘争を反映か

 米国在住の中国問題専門家、石藏山氏によると、南シナ海は中国の核心的な利益であるというスタンス発言は、中共軍部と米国軍部の間の話題であるはずだ。中国政府が米政府高官にこのように発言したのは異例なことであり、中南海高層の内部闘争に関係している可能性があるという。

 ここ数十年、中国海軍は、速やかな発展を成し遂げ、南シナ海の海域に対する権利をコントロールする実力を備えていると考え、ますます強いメッセージを発信するようになってきている。そのため、ほかの国々に警戒心を与えてしまった。しかし南シナ海問題をASEANの間で協議することは北京政権にとって最も望ましくないことであると石藏山氏は指摘する。

 実際、南シナ海は核心的な国益と発言した後、国際社会で一連の反発を招き、中国のトップ責任者らのメンツを大きく潰している。裏には中国軍部の一部権力者が中南海高層に難題を造り出していることを石蔵山氏が指摘した。民族主義は最も扇動されやすく、現在、尖閣諸島の漁船衝突も、裏に挑発する勢力がいると考えられる。その狙いは、南シナ海海域や、米国や日本に向かっているのではなく、「中南海高層にターゲットしている」と、同氏は考えている。

 また、「南シナ海において北京は制海権もないし、制空権もない。ASEANのほかの国々の陸地は南シナ海との距離が近いため、陸基地の空軍とミサイルに頼ることができるが、中国は海の基地に頼るしかない。南シナ海問題で米国がもしASEAN各国を支持し、これらの国に武器輸出などのメッセージを発信すれば、北京はすぐさま優位を失ってしまう」と同氏は語る。
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/09/html/d39549.html

2010年06月02日 (10:55)

検討問題:ポスト・モダンの起源はカント哲学か

検討問題:ポスト・モダンの起源はカント哲学か

テーマ:検討問題:思考実験・(作業)仮説・備忘録

カント哲学は、PS理論から見ると、Media Pointを超越論性で、いわば、閉じている。Media Pointの視点からは、物自体は直観されるのである。
 超越性をカントは超越論性で押さえているのである。超越論性とは、⇒+1における、⇒と+1の境界であろう。ただし、それは、⇒に対して、「背を向けている」。
 とまれ、⇒と+1の境界を超越論性、あるいは、超越論的理性と呼べるだろう。
 ここにおいて、自由と必然のアンチノミーが形成されると言えよう。自由は⇒の先端に接するので、生じるのだろう。必然は+1に拠る。
 この境界は言わば、ヤヌスであり、差異と同一性の両方向を向いているのであるが、それは、両面が矛盾的に存立しているのであり、両価的に留まり、アンチノミーになるのである。
 この中間的、ないしは、中途的な位置が、ポスト・モダンなのではないだろうか。ハイデガーの位置もほとんどここにあるように思えるのである。初期デリダもそうであるし、ドゥルーズは、差異を連続化して、同一性と一体化させてしまった。それは、ヘーゲル化であろう。
 今はここで留める。後で、精緻に検討したい。

純粋理性批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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Kant Kritik der reinen Venunft 1781.jpg

『純粋理性批判』(じゅんすいりせいひはん、独:Kritik der reinen Vernunft) は、ドイツ の哲学者イマヌエル・カント の主著で、第一版が1781年 に、第二版が1787 年 に出版された。カントの三大批判の一つで、1788年 刊の『実践理性批判 』(第二批判)、1790年 刊の『判断力批判 』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間の理性が担う諸問題についての古典的名著。ライプニッツなどの存在論的形而上学と、ヒュームの認識論的懐疑論の両方を継承し、かつ批判的に乗り越えた西洋哲学史上、もっとも重要な著作のひとつである。
概論 [編集 ]

『純粋理性批判』は、理性 認識の能力とその適用の妥当性を「理性の法廷」において理性自身が審理し批判する構造を持っている。ゆえにそれは哲学 (形而上学 )に先立ち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントはいう。

カントは理性 (Vernunft) がそれ独自の原理 (Prinzip) にしたがって事物 (Sache, Ding) を認識 すると考えるが、この原理は理性に経験 にあらかじめ先立って与えられる内在的なものであり、理性自身はその起源を示すことが出来ず、またこの原則を逸脱して自らの能力を行使することも出来ない。換言すれば、経験は経験以上を知り得る事ができず、原理は原理に含まれる事以上を知り得ないのである。カントは理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリ な認識として、経験を基礎とせず成立しかつ経験のアプリオリな制約である超越論的 (transzendental) な認識形式にもとめ、それによって認識理性 (theoretische Vernunft) の原理を明らかにすることにつとめる。

初学者向けの解説: すなわち「認識する」とされる理性そのものは、理性からは認識できる範囲外にあることを原点とした。「コペルニクス的転回」を見せたのである。[1]

人間的認識能力とその制約 [編集 ]

伝統的な懐疑論 は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、もって認識そのものの成立の妥当性を否定したのだが、カントはこうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能の条件である超越論的制約はすべての人間理性に共通なものであって、ゆえにその制約のもとにある認識は、すべての人間にとって妥当なものである、と。

ここでカントは認識の制約以前にある「物自体 」 (Ding an sich) と経験の対象である「物」 (Ding) を区別する。「物自体」は理性を触発し(affzieren)、感性 (Sinnlichkeit) と悟性 (Verstand) に働きかけ、それによって人間理性は直観 (Anschauung) と 概念 (Begriff) によって、かつ超越論的制約であるふたつの純粋直観 (reine Anscuauungen) ・空間 と時間 、また12の範疇 (Kategorie) すなわち純粋悟性概念 (reine Verstandbegriffe) のもとに、みずからの経験の対象として物を与える。

しかしこれは一方で、人間理性 (menschliche Vernunft) が、われわれの認識能力 (unser Erkenntnisvermoegen) を越えるものに、認識能力を適用することができないということを意味する。すべての人間的認識は超越論的制約のもとにおかれており、ゆえに伝統的に考えられてきた直接知、知的直観の可能性は否定される。神 やイデア (理念)といった超越が、人間理性にとって認識可能であるとした伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられ得るものにのみ限定する。すなわち、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適用するにとどまるのである。

感性と悟性は異なる能力であって、これらを媒介するものは、構想力 (Einbildungkraft) の産出する図式 (Schema) である。また感性の多様 (Mannigfaltigkeit der Sinnlichkeit) は統覚 (Apperation) 、すなわち「我思う」(Ich denke: つまりデカルト のコギト)によって統一されている。しかし理性にはおのれの認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質 (Naturanlage zur Metaphisik) がある。このため、認識理性は、本来悟性概念の適用されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適用しようとする。しかしカントは認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識 (erkennen) されえないものはただ思惟する (denken) ことのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神・魂 の不滅・自由 が挙げられる。
アンチノミー(二律背反) [編集 ]

理性概念・理念 (Idee) は人間の認識の能力を超えており、したがって理念を認識し、述語付けしようとする試みは、失敗に終わらざるを得ない。カントはそのような悟性の限界を4対の二律背反 (Antinomie) する二命題の組み合わせによって示す。

こうした命題 は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいはどちらも偽であるという結果におわる。カントはこのような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適用をあやまったなりたたないものについての言述であることに帰する。こうした二律背反命題としては事物の必然性 と自由 についての背反命題(第三アンチノミー)があげられる。これはキリスト教において予定 との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いであるが、カントにおいては因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適用することから矛盾をきたすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由がなりたつことは、カントの批判の体系内では双方ともに真なのである。

ただし、認識は根源的なものを求めるから、認識が現にあることから如何にして根源的なものに至るのかということが課題になった。現象の根拠を求めると可能的な世界に求められる、しかし、可能的な世界から現象が与えられているとすると現象の根拠は可能性でしかない。それ故に、認識が現象から抜け出せないものであるので、『実践理性批判』で展開されることになる。認識が現象でしかないが故に、可能をみいだしたのである。こうした理性概念と人間理性の問題は『純粋理性批判』のなかでは必ずしも十分に展開されず、理性の在り方を様々に描いている。そして、『純粋理性批判』と『実践理性批判』は『判断力批判』が統合するとされている。




倶利伽藍とクンダリニー

テーマ:Media P./Vector Mode

倶利伽藍不動明王を見ると、クンダリニーに似ているし、また、雷や竜巻を想起する。
 後者は、天と地の差異共振エネルギーを考えさせるが、根本はMedia Pointのエネルギーだろう。
 思うに、天から地へ、また、地から天へと「力」がはたらくと考えられる。この共振エネルギーが生命だけでなく、無機物を形成するものではないのか。
 例えば、火山や地震もこの天地共振エネルギーに触発されているのではないのか。
 また、山の形成であるが、それは、Vector Modeではないだろうか。垂直のマグマが地表に衝突して、捩れるのではないのか。
 
本尊「倶利伽羅大竜不動明王」
倶利伽羅大竜不動明王

写真: 倶利伽羅大竜不動明王本尊は役行者の自作による倶利伽羅大竜不動明王(秘仏)で、古来より運気の守護、命乞い不

2010年04月11日 (18:40)

『トランス・モダン・オバマ大統領と(ポスト・)モダン同一性主義的側近』

『トランス・モダン・オバマ大統領と(ポスト・)モダン同一性主義的側近』

テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築

以下の田中宇氏の記事はおもしろい。
 オバマ大統領は、タリバンと和解したい方向であるが、側近がタリバンへの戦争を主張しているということである。
 田中氏は、側近に隠れ多極主義を見るようであるが、ならば、オバマ大統領の路線は、多極主義ではないのか。
 管見では、側近が戦争屋覇権路線であり、オバマ大統領が多極主義路線である。ロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」である。
 私の思いつきでは、戦争屋覇権路線は焼きが回っているのである。つまり、父権的一神教の妄念に囚われて、勝つ見込みのない戦争を行っているのである。

カルザイとオバマ
 【2010年4月10日】 オバマはブッシュより聡明なので、側近からの情報の歪曲に気づいている。だから「カブールなんか行く必要はありません。ホルブルックに任せておけば良いんです」という側近を無視し、超多忙の合間をぬって無理矢理カブールまで行ってカルザイと会い、アフガン戦略を立て直そうとした。しかし、オバマのカブール訪問自体が米マスコミには都合が悪いらしく、ほとんど報じられず、訪問直後からマスコミはカルザイと米国の関係を悪化させる報道をあふれさせ、オバマのアフガン戦略を失敗の方に押しやっている。

・・・・・

▼オバマのタリバン和解策を潰す側近たち

 いつも私の記事を読んでいる読者なら、ここまで読んで「ははあ、米政府はカルザイに対しても『隠れ多極主義』の戦略を開始したんだな」と思うだろう。米国はイスラム諸国など、世界のあちこちで、米国の傀儡になっても良いと思う指導者たちを意図的に怒らせ、そこの国民の反米感情を扇動し、米国ではなく中国やロシアに頼らざるを得なくさせて「非米化」を誘導し、世界を多極型に持っていく画策をやってきた観がある。

 カルザイに対する米政府の最近の仕打ちは、構図的に見て、まさに非米化策の典型である。実は、今回の記事は最初「非米化されるアフガニスタン」という題名をつけようと私は考えていた。

 しかし、カルザイをめぐる出来事を読んで分析するうちに、米政府の中心にいるはずのオバマ大統領自身は、カルザイを敵視していないことが見えてきた。オバマは、タリバンとの和解にも反対しておらず、それどころか逆にタリバンと和解して米軍のアフガン撤退を早めたいと考えてきた。今年2月には、米政府は近々タリバンとの交渉を始め、アフガンを取り巻く地政学的なバランスが転換する(タリバンを作ったパキスタンが有利になり、反タリバンのインドが不利になる)という予測も、米マスコミやネット上で流れた。(India Rethinks Policy to Keep Afghan Influence )

 オバマは3月中旬に開いた閣議で、マージャ攻略が一段落したのでタリバンとの話し合いに入りたいと提案した。だが、クリントン国務長官やゲーツ防衛長官といった側近の多くは「タリバンに対してもっと優勢に立てるまで交渉できない。交渉は、今夏にタリバン本拠地のカンダハルを陥落してからにしてください」と強く反対し、オバマの構想を潰した。(Battle over Afghan peace talks intensifies - Gareth Porter )

 それと前後してオバマは、米大統領が決断したら30日で米軍をアフガンから撤退できる条項を含む新法を米議会に通そうとしたが、これも反対多数で否決された。(House Rejects Bid to End Afghan War )

 米国のアフガン戦争がすでに勝てない戦いになっていることは、昨年から関係者の間でよく知られている話だ。米国に長年取りついてきた英国の元駐米大使は昨秋「アフガン戦争は意味のない、ばかげた戦争だ」と本に書き、英軍撤退を呼びかけている。(Tony Blair's Envoy Attacks Afghanistan War )

http://tanakanews.com/100410afghan.htm
田中宇の国際ニュース解説



『日本ルネサンス・トランス・モダン:東洋的日本の復興・復活』

テーマ:日本ルネサンス:西洋を包摂した新東洋文明

これは、私の考えと近い。神道、仏教(禅)、道教、拝火教、漢籍教養、等の「前近代」の日本伝統精神文化を復興・復活すべきなのである。東洋身体的精神文化である。


 日本に訪れた素晴らしい好機

2010/04/01

 民主党は選挙のマニフェストに、沖縄の米軍基地問題について「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」としてきた。この公約には、沖縄だけでなく、多くの人が期待を寄せたことと思う。しかしここにきて、普天間基地の県内移設など、公約と異なる動きが見られている。
インドのような日本
 日本の政治家がアメリカの言いなりになる姿を目にするにつけ、アメリカ国籍を捨て、日本国籍を取得した者としてやりきれない気持ちになる。敗戦による占領が終わり50年以上たつのに、いまだに宗主国の指示の下でしか動けない日本のリーダーたちの姿は同じようにイギリスから支配を受けたインドのようだ。

 日本の場合は公用語が英語にこそならなかったが、イギリスがインドで行ったような政策をアメリカは戦後日本に対して取ってきた。イギリスはインドに英語を導入し、それまでの伝統的な教育制度をすべてイギリス式に変えた。教育こそが人をつくる、すなわち国にとって重要であるということを十分理解していたからである。

 このことはノーベル賞を受賞したインドの経済学者アマルティア・センが著書『議論好きなインド人』の中で、19世紀、イギリスのマコーリー卿が議会に対して植民地統治を成功させるためにまずインドの教育制度を捨てさせ、外見はインド人だが中身はイギリス人をつくることを提案したことについて書いている。
日本に対する政策
 アメリカが日本に対して取った政策も『アメリカの鏡・日本』という本に詳しい。これはマッカーサーが占領中の日本で翻訳出版を禁じた書で、GHQ労働関係諮問委員会のメンバーとして来日したヘレン・ミアーズが1948年に書いたものだ。ここには近代以前の日本の神道は自然と祖先に対する信仰であり、習俗であり、軍事的なもの、国家的なものの対極にあったこと、日本の外交は徹底して平和主義だったこと、それに対してヨーロッパ諸国がいかに拡張主義であったかなどが書かれている。

 秀吉が朝鮮出兵に失敗したころ、スペインはペルーとメキシコを征服し、フィリピンに地歩を固め、ポルトガルは世界を駆け巡り、ジャワ諸島、インド、マレーの沿岸地帯、マカオ、中国沿岸部に及ぶ広大な帝国を築き、イギリス、オランダはスペイン、ポルトガルと競いながら、徐々にポルトガル領の大部分とスペイン領の一部を収めていた。

 日本のサムライ階級が茶の湯に親しみ、花を生け、隠遁(いんとん)的芸事にいそしんでいる時、ヨーロッパ人は貿易、征服、戦争、植民地化といった本当の意味の帝国の建設を目指して東西南北に広がっていたのである。
一掃した教育制度
 そんな日本を変えたのは、戦後、その精神の根底にあった古神道、仏教、儒教、武士道などを一掃させる教育制度だったことは言うまでもないだろう。アメリカは、インドと同じく外見は日本人だが中身をアメリカ人につくり変えることに見事に成功した。

 そう考えると、宗主国アメリカの没落は日本に訪れた素晴らしいチャンスの時である。失われた10年、20年を嘆くのではなく、それ以前の(もちろん明治時代の国家神道以前の)、日本の素晴らしい伝統文化、価値観を取り戻すのにこれほどふさわしい時はない。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/column/tisin/index.html

 (アシスト代表取締役)
【 ビル・トッテン 】



『天道=Solar Media Code:Media CodeとVector Mode』

テーマ:検討問題:思考実験・(作業)仮説・備忘録

Media Pointには、いわば、Media Code(メディア・コード)があると考えられる。
 大事なのは、Solar Media Code(天道)を理解し、実践することである。それが、先天的な道徳・倫理となる。
 人間は人それぞれに、多様なMedia Codeがあるだろう。しかしながら、Solar Media Codeを発見して、思考し、行動することが本来的である。
 ところで、Media Code概念には、遺伝子も含めたい。とまれ、後で検討したい。

追記:Media Codeの発現がVector Modeではないだろうか。つまり、前者が情報であり、後者はエネルギー的現象である。

「天道」VSキリスト教:天道とはGreat Solar Media Pointである

2010年02月22日 (17:32)

ラカンは間違っている:ラカンはポスト・モダンで、連続論である:ラカンを廃棄し、PS理論を取れ!

内容は知らないが、ラカン批判は必然である。そもそも、言葉使いが非科学的である。いい加減である。これは、ドゥルーズや初期デリダにも当てはまる。
 とまれ、簡単にラカン批判を言うと、現実界/想像界/象徴界の三元論である。
 これは、PS理論から言うと、虚軸界/Media Point/同一性界(物質界)と変換される。問題なのは、ラカンがフロイトを継いで、家族関係に限定していることである。
 PS理論は家族関係、つまり、エディプス関係に限定されないのであるし、家族関係に限定することは、卑小化/錯誤化である。
 だから、一番の問題は想像界である。ここで、母子的融合が問題になるのである。それは、母と子の連続性を意味するのである。しかしながら、PS理論では、それは、主体と客体との即非的関係を意味するのであり、あくまで、不連続な関係なのである。端的に、ラカンは、父権的な連続的思想に拘束されているのである。

***********************

ラカンは間違っている

  ディラン・エヴァンス

   桜井直文監訳 冨岡伸一郎訳

新刊について
エヴァンスの「ラカンは間違っている」は、もとラカン派の精神分析を行っていた著者がみずからの経験をもとに書き下ろした論文「ラカンからダーウィンへ」の翻訳、「4年後」の補筆、カウンセラーを務める訳者による解説からなるラカン批判の書です。

http://www.gakuju.com/

2009年10月10日 (12:49)

オバマ政権の二面性・二重性・ヤヌス性:ポスト・モダンとトランス・モダン

以前述べたように、オバマ政権は絶対矛盾であると述べた。即ち、同一性金融資本主義路線(ロックフェラー路線)と差異共振路線(「ロックフェラー」路線)である。
 そして、核のない世界とか、温暖化防止とかは、明らかに、イデオロギー的宣伝である。核のない世界というイデオロギーは、対イランや対北朝鮮等への「大義」となるし、温暖化虚偽問題は、グリーン・ビジネスへ転換であり、中東産油国への対抗であろう。つまり、両方とも、米国覇権のためである。だから、ロックフェラー路線である。
 そして、差異共振路線(「ロックフェラー」路線)が国民皆保険制度等への努力に現れていると考えられる。
 本当に、二重人格的路線、あるいは、悪魔と天使の同居する政権である。思うに、ドル基軸通貨崩壊は差異共振路線から来ている。
 とまれ、今回のノーベル平和賞とは、ロックフェラー覇権路線、戦争路線を意味する。しかし、これは、トランス・モダンとは逆行する反動路線である。だから、この点では、米国は崩壊すると考えられる。
 米国がどう差異共振路線を展開していくのか、それが問題である。

<ノーベル平和賞>アフガン、パキスタン国民 心境複雑

10月9日22時10分配信 毎日新聞
 【ニューデリー栗田慎一】「核なき世界」を訴え、国際協調路線にかじを切ったオバマ米大統領だが、米国の「対テロ戦」の主舞台と位置付けられ、多数の民間人が巻き添えになっているアフガニスタンとパキスタンの人々は、戦争を指揮するオバマ大統領のノーベル平和賞受賞を複雑な思いで見つめている。両国では9日も武装勢力による自爆テロが発生、女性や子供ら計約150人が死傷するなど治安の悪化が続いているからだ。

 「オバマ氏はまだ何もしていない。アフガンとパキスタンで強硬に戦争を続けたブッシュ前政権との違いはない。期待外れだ」。アフガン国境に近いパキスタン北西部ペシャワル。9日、自動車爆弾の爆発で40人以上が死亡、100人が負傷したテロ現場を取材したばかりのナシード記者はこう語った。「米国の戦闘強化策が武装勢力を勢いづかせている」との見方からだ。

 オバマ大統領は3月に発表したアフガン新戦略で、戦闘強化策に加え、旧支配勢力タリバン「穏健派」との対話やパキスタンへの民生支援を打ち出した。だが、いまだに新戦略は具体化されず、現地住民は治安悪化や失業で苦しみ続けている。

 アフガンのカルザイ大統領の報道官は9日、オバマ大統領の受賞を祝福する声明で「アフガンに平和をもたらすことを望む」と述べた。しかし、同国内務省高官は毎日新聞の取材に「新戦略は発表当時、市民に期待を与えた。しかし、今は失望のどん底にある。ノーベル賞を受賞したからと言って、もはや大きな期待は抱かないだろう」と語った。

 一方、ロイター通信によると、タリバン報道官は9日、アフガンへの米軍増派を引き合いに「(オバマ大統領は)ノーベル賞の代わりに暴力を受けるべきだ」と述べた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091009-00000137-mai-int
 

2007年 ゴア元副大統領とIPCC(気候変動に関する政府間パネル) 書籍と映画による地球温暖化防止に関する啓蒙(けいもう)活動

2009年09月05日 (20:48)

大澤真幸氏の脱構造主義とPS理論:第三の審級の超越的他者は、-iないしはMedia Pointだ

大澤真幸氏の脱構造主義とPS理論:第三の審級の超越的他者は、-iないしはMedia Pointだ

テーマ:検討問題

今では、五年前の論文であるが、大澤真幸氏の「三つの反現実:理想・虚構・不可能性」が、『大航海』のNo. 49で掲載されている。
 独特の攻撃性のある鋭い文体であるが、第3の審級として、超越的他者を仮説されている。そして、Kaisetsu氏が引用する、彼の独創的概念である「アイロニカルな没入」が援用されている。
 その論は、1995年までの戦後を二期にわけて、理想の時代と虚構の時代と捉えている。そこでは、「おたく」論が展開されているが、実に興味深い。意味を避けて、現実へと逃避しているという視点が展開されている。
 結局、Kaisetsu氏が指摘しているように、この「アイロニカルな没入」論は、ポスト・モダン論になるのである。
 この反転が生じるのは、結局、同一性の縛り、同一性構造(自我構造)が強固であるためである。
 もし、同一性から解放されれば、差異化されるのであり、それは、脱オタクとなるのである。
 では、どうして、そんなにの同一性が強固であるのかと言えば、それは、戦後の近代合理主義の支配にあると私は考える。これが、戦前にあったMedia Point的志向を排除してしまったと考える。
 今は余裕がないので、充分述べられないが、大澤氏の視点は、脱構造主義的であり、PS理論前夜というべきものだと感じた。是非、大澤氏には、PS理論を知っていただきたいと思う。

***************

検討問題:「気」と電磁波:虚数知と物質的電磁波

テーマ:検討問題

この問題はある意味で答えが出たものであるが、もう一度確認するために検討したい。
 結局、超越エネルギーと電磁波との関係の問題となる。やはり、私見では、電磁波は基本的には超越エネルギーないしはMedia Pointエネルギーの現象態ないしは「物質」態である。
 本体は、Media Pointのエネルギー(エネルゲイア)だと考えられる。これを測定すると電磁波として捉えられているのではないだろうか。だから、イデア波というべきものが本体としてあるのではないだろうか。
 つまり、イデア波を電磁波として、現象的に把握しているのではないのか。
 とまれ、そうすると、「気」はイデア波である。そして、イデア波=「気」とすると、そこには、イデアの「情報」が入っていることになるだろう。
 理気論で言えば、「理」としての「情報」である。PS理論から言えば、+iと-iの共鳴による超越的情報と言えるのではないだろうか。
 しかし、電磁波として捉えたとき、このイデア=「情報」=「理」が看過されているのではないだろうか。
 思うに、Media PointのModeがあるが、それが単に振動数と捉えられると、それは量的であろう。そうではなく、Modeの質性があるはずである。即ち、Modeの虚数性、イデア性である。(虚構性と言ってもいいのかもしれない。)
 言い換えると、虚数知、イデア知というものがあるはずである。これが、宗教的に言えば、神ないし神々と言えよう。空海ならば金剛界曼荼羅であろう。
 では、電磁波にはどのような虚数知、イデア知があるのだろうか。直感では、宇宙(コスモス)や自然の虚数知・イデア知があるだろう。
 しかしながら、「物質」的に電磁波を形成した場合、それは、宇宙・自然の虚数知・イデア知をもっていないだろうし、それが、生命体にとって破壊的になるというのは見やすいだろう。今はここで留める。

2009年07月23日 (20:19)

トランス・プラハ言語学:トランス・モダン言語学へ

以下、toxandoria氏のプラハ言語学への言及があるが、これは、学生の頃を想起させる。ヤン・ムカジョフスキーの異化作用に夢中になったことがあるし、また、ルイス・キャロルやジェイムズ・ジョイスの言語実験的作品を今想起するのである。
 私は異化作用説については、限界があると考えて、ほとんど省みなくなったものの、脳裏のどこかで潜んでいたと思う。
 限界を感じたのは、異化作用説(ブレヒトの演劇論を想起させるが)が皮相なテクニックになってしまう傾向があるからである。単なる言葉遊びになってしまうと感じたからである。
 PS理論から見ると、異化作用とは、不連続的差異・絶対的差異の作用に近いと言えよう。しかしながら、異化作用とは、言語の作用であるために、十全な思想がないと皮相化するのである。つまり、言語とは、基本的に同一性作用をもっているのであり、それに集中すると本来不連続な異化作用が、連続性ないしは連続的同一性に陥ってしまうのである。
 とまれ、異化作用をPS理論的に進展させ包摂するトランス・モダン言語学は考えられるのである。それは、絶対的差異言語学、絶対的差異共振言語学、即非的言語学、Media Point Liguistics等となろう。

*************************

また、市民生活の日常は「会話と口語」で満ち溢れており、それも広い意味で
の「詩的言語」と見なすことが可能だが、この「詩的言語」の役割は日常言語
の世界を絶えず活性化し、その自在性と意外性の性格から規範的文脈を無視す
ることもあるが、実は、そのような場面からこそ「新しい現実世界の発見」と
「現実世界の明視」を可能にする機能が発見されることになる。後の「プラハ
言語学派」は、言語そのものから次第に美学・社会学的な領域へ視点を移し、
より広い意味での「世界の明視」を考察するようになる。


我われが生きる世界を堅固な一つの現実と見なすのは誤りである。例えば、
我われ一般市民が仕事や家庭で喜怒哀楽を感じつつ日常を生きる現実、新聞等
の文字ジャーナリズムが伝える現実、テレビ等の映像メディアが伝える現実、
美術・彫刻・音楽・文学等の芸術作品が伝える現実、Webネットワークが伝え
る現実、法曹界・法律・行政規範等が構成・示唆する現実、各種学会等のアカ
デムズムが構築する現実、政治・経済など何らかの権力が構想する現実・・・
云々ということになる。


ところで、「新聞等の文字ジャーナリズムが伝える現実」と「テレビ等の映像
メディア・ジャーナリズムが伝える現実」を纏めれば「マスコミが作る現実」
ということになるが、この「マスコミが作る現実」と「アカデムズムが構築す
る現実」に共通するのが“客観”、“中立”、“公正”の原則だ。マスコミは
第三の権力と呼ばれることもあるが、その権力たる所以が「言語」(テレビで
は映像と口語)であることは論を待たない。そして、今こそ「プラハ言語学
派」を生んだチェコ・アカデミズムが何故に「言語」を特に重視してきたかを
想起すべきである。


つまり、マスコミないしはアカデミズムが「言語」の自律的役割を放棄して権
力サイドへ魂を売り払うのは完全な自己否定に等しく、そのような事態が導く
現実の恐ろしさは、もしチェコ人がチェコ語を放棄していたならチェコ人と彼
らの文化が間違いなく完全にドイツ化していたであろうことを思えば理解でき
よう。その恐ろしさは、紛れもない一つの歴史的事実の重みとして実感できる
はずだ。このような意味で、「小泉~安倍~福田~麻生」のヤラセ劇場下でマ
スコミとアカデミズムの一部が“御用化”し日本国民を欺き続けてきたのは万
死にも値する罪だと言っても過言ではない。


おそらく、今回の衆議院議員選挙で民主党に追い風が吹いていると言われる背
景の一つには、「グズでKYな麻生首相の逆説的功績」が、図らずも“小泉・竹
中ポルノ劇場の真相をマンガ的に分かりやすく日本国民へ説明してしまった”
という現実がある。つまり、過半の日本国民が、実は“小泉と竹中がウオール
街の強欲なハゲタカの代理人がであった”という現実を漸く理解し始めたとい
うことである。そして、今こそマスコミは、“マスゴミ”の汚名を返上すべく
“客観”、“中立”、“公正”の原則に立ち戻り、一般国民へ正確な情報を伝
えて、彼らが、正しく客観的に「世界の明視」(ビジョンの把握)ができるよ
う貢献すべきである。


これは何も「東国春スケベ騒動」(関連参照、下記★)でマスゴミと共に墓穴
を掘ってしまった自民党だけのことではないが、総選挙の結果を左右すること
になる無党派層の心は、“女心と秋の空”の類であり、彼らのリアリズム(現
実感覚)は“通時(過去-現在‐未来の時間軸)と共時(日常生活の現実、マ
スコミが作る現実、アカデミズムが作る現実、テレビ映像が作る現実など複数
の現実空間を同時的に横に貫く水平面に沿って伸縮する空間)という多次元の
現実空間を揺れ動き、絶えず右往左往するという意味で“交流と緊張の連続”
である。文字と映像言語を道具とするマスコミは、このような「言語機能の性
質」についての理解と、それ故にこそ求められる「日常言語を操る仕事の重要
性と責任」を徹底的に自覚し直すべきである。


★腐れ自民党にたかる“お笑い東国春とマスゴミ(=ねじまき住血吸虫クロ
ニクル)の強欲劇”が意味するアフォリズム、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090708


ついでながら、ロマン・ヤコブソンに次ぐ「プラハ言語学派」の大立者である
ヴィレーム・マテジウス(Vilem Mathesius/1883‐1945)は、1911年に行っ
た有名なプラハ大学(英文学)教授就任時の講演『言語現象における潜在性に
ついて』で次のようなことを語っている。なお、このような言語機能の特性に
つての考え方は、後になり(およそ1960年代以降)レヴィ・ストロース(C.
Levi‐Strauss/1908- )の構造主義やロラン・バルト(Roland Barthes/1915
‐1980)のエクリチュール批判などに大きな影響を与えている。


・・・言語現象には一定の揺れがあり、そこに変化の潜在性を認めるべきであ
る。これは、そもそも我われプラハ言語学派が前提としてきた「言語は構造を
なす」というテーゼのアンチ・テーゼであるが・・・[出典:千野栄一著『言
語学のたのしみ』(大修館書店)]

* 2009/07/23 11:21
* 2009/07/23 11:19

ベスのひとりごと
参考:
プラハ学派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

プラハ学派(プラハがくは)はソシュール と関連づけられる構造主義 言語学 の一学派 である。

1926年 10月にヴィレーム・マテジウス が発起人となり発足した。参加した言語学者 は、ボフスラフ・ハヴラーネク 、ヤン・ムカジョフスキー 、B・トルンカ、J・ヴァヘック、M・ヴァインガルトらがいた。このサークルの『論集』に寄稿した学者には、オランダ のデ・グロート、ドイツ の哲学者・心理学者のカール・ビューラー 、ユーゴスラヴィア のA・ベリーチ、イギリス のD・ジョーンズ、フランス のルシアン・テニエール 、エミール・バンヴェニスト 、アンドレ・マルティネ がいた。特筆すべきは、セルゲイ・カルツェフスキー 、ロマン・ヤコブソン 、ニコライ・トルベツコイ と言ったロシア の言語学者がサークル活動に加わったことである。このサークルの活動より音韻論 が生まれた。

代表的な言語学者 [編集 ]

* セルゲイ・カルツェフスキー
* ニコライ・トルベツコイ
* エミール・バンヴェニスト w:Émile Benveniste
* ヴィレーム・マテジウス
* アンドレ・マルティネ
* ヤン・ムカジョフスキー
* ロマン・ヤコブソン w:Roman Jakobson

2008年02月24日 (18:50)

グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である

グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である

テーマ:トランス・モダン・コスモス

プラトニック・シナジー理論とは、文理融合理論であり、いわば、統一理論を志向している。個別の諸学に対する統一的フレームを与えると考えられる。
 この新しい知は、決定的に、トランス・モダン・インテリジェンスであり、近代主義からの切断を説いている。それは、近代的自我=近代合理主義=唯物論の乗り越えである。
 しかるに、現代日本において、政治・経済・文化の中枢部では、時代遅れの近代主義が主導的であり、日本の国力を衰退させているのである。また、国民は一般に快楽に浸っていて、知的麻痺状態である。恐るべき亡国状況である。
 今日の世界主義時代において、日本の状態は端的に反動状態であり、ほとんどのものが賞味期限が切れているのである。つまり、同一性の反復だけであり、創造性・質的発展が欠落しているのである。自己保身に陥っているのである。エネルギーが枯渇しているのである。
 この新しい知であるが、私は、知身体と言う方が時代に即したものではないかと思える。知とは本来、基盤を身体(Media Point)にもっているのであり、また、身体は同一性知性を形成させつつ、己(おのれ)へと再帰するのである。身体と知との即非様相があるのである。
 日本近代、とりわけ、日本戦後近代主義は、同一性知性(近代合理主義)を中心にしたものであり、根源の身体を喪失した知なのである。つまり、日本の身体を喪失した近代的知なのである。欧米模倣の知なのである。
 確かに、哲学・思想において、身体論が流行ったが、それは、近代主義への反動という面が強かったと言えよう(アイロニカルな没入)。
 結局、身体と知との結合・融合が必要なわけであるが、それが明晰に理論化、そして、実践化されなかったのである。
 とりわけ、日本の哲学・思想の混乱はひどい。本来、国民に新しい世界主義の時代に対応する知を提供すべきなのに、ポスト・モダン等々あるいは欧米文化の紹介に留まっているのである。
 とまれ、新しい世界時代に対応する新知として、私は、トランス・モダン知身体という考えを提示したい。身体なき知は皮相であり、知なき身体は盲目である。
 政治家・官僚・役人・財界人・文化人等々は、身体なき知(近代合理主義)=利権主義に留まっているので、新しい方策が生まれず、亡国状況となっていると考えられる。また、軽薄な映像文化が流行るが、それは、盲目の感性主義、知なき身体主義である。
 トランス・モダン知身体、そして、トランス・モダン知身体共同体を創造構築(創構)する必要があるのである。そう、人類は、文明進化の時代に入っているのである。同一性主義へと帰結したユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉があり、差異共振主義の新しい文明へと進化すべき現代状況なのである。
 実質的には、インターネットの役割が決定的であろう。これは、トランス・モダン・メディアである。これまでの知はモダンないしはポスト・モダンに過ぎず、グローバル時代において古色蒼然としているのである。これまでの知は反古である。
 トランス・モダン知身体社会創造へと向かうべきである。この新文明進化を、これまで政治・経済・学芸等を独占してきた支配層がいちばん恐れているのである。彼らは不要なのである。近代主義/ポスト・モダン的知はもはや廃棄物である。
 ヨハネ黙示録に倣えば、新しい天と地が到来しつつあるのである。

***********************************

「共同-体」とMedia Point=魂=身体⇔トランス・モダン共同体

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

共同‐体(コルプス) (単行本)
ジャン・リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 大西 雅一郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E5%85%B1%E5%90%8C%E2%80%90%E4%BD%93-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%97%E3%82%B9-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC/dp/4879841773/ref=sr_1_4?ie=UTF8&s=books&qid=1203827638&sr=1-4

ようやく、単行本で90ページに満たない本書を読み終えたが、既に述べているような感想は変わらなかった。原著は、1992年発行(邦訳は1996年発行)であり、グローバリゼーションが始動していた時期のものである。
 本書はブレークスルー的画期性と凡庸性をもっている。身体論から共同体論へと展開させている点が画期的であろう。しかしながら、身体を物質に限定している点が、唯物論的残滓であると思う。また、文学者気取りのレトリック(修辞)が多く、鼻につくのである。
 画期性は、ポスト・モダンの差異と同一性との連続性(ドゥルーズ)ないしは混淆(デリダ)を乗り越えている点である。だから、不連続的差異論の先駆者ではある。そして、身体=共同体において、ほぼMedia Pointの不連続点を捉えているので、プラトニック・シナジー理論の一つの先駆に見られるだろう。
 しかしながら、一番大きな問題点は、唯物論的視点である。身体=共同体=物質である。これでは、左翼的視点に留まってしまうのである。思うに、著書自体に矛盾があると思う。超越性でもなく、内在性でもない身体=共同体という発想をしているが、それは、正にMedia Pointの説明であると私は思った。Media Point の虚軸性は、超越的であるが、実軸性は内在性であり、しかも、それらが即非的位相にあるのである。即ち、超越的・即非・内在的である。以前、私は内在的超越性ということをいい、その後、それを否定して、そのままにしていたが、内在的・即非・超越的というのが、Media Point=魂=身体の様相であると考えられる。
 このように、鋭敏な洞察がありながら、物質主義に留まっているのである。(例えば、以下の引用の「重さ」という観念が、唯物論的なものだと考えられる。 Media Pointは、知・即非・存在であるから、軽み・即非・重みとなるのである。)これが、本書の画期的洞察をだいなしにしている。思うに、この物質主義的視点から、レトリックの多用が生じているのではないだろうか。ただ、物質的事柄を羅列するレトリックがあるのである。どういうことかと言えば、物質主義的視点があるので、物質的事物を羅列することになっていると考えられるのである。
 とまれ、本書から意義深い箇所を引用したい。そこで述べられている「プシュケ」とは、魂であり、同時に、身体であると考えられる。プラトニック・シナジー理論のMedia Pointである。だから、まとめると、Media Point=知・即非・存在=「プシュケ」=魂=身体=共同体である。

★★★引用開始★★★

【まさにこうした仕方で〈プシュケ〉は延長であるが、〈プシュケ〉はそのことについて何も知らない。〈プシュケ〉はここでは、「物質」の深奥の、基底をなす下位-層に則して先行措定されるのでもなく、自己-の-知という既に与えられた上位-層に則して先行措定されるのでもない限りにおける身体の名である。先行措定の二つの様態ともに潜勢態(ピュイサンス)のうちに留まったままで、その中で加えて両者は、あらゆる伝統を横断する形で、お粗末なほど観念論的な唯物論や、意味の起源(志向性、根源的時間性)といった常により狭隘な罠に自らしがみつく観念論として、止めどなく崩壊し衰弱していく---
----それに対して諸身体は到来しつつあり、諸身体の様々なアトムのクリナメン〔微小偏倚〕は既に場を持ち=生起し、既に様々な場を開き、世界のあらゆる裂開において互いに端から端までその様々な重さであることを実践している。だがこれは、確かに、「知」の事柄ではない、それは、重さであることの中に到来し、重みを量られるべきものとして奪いかつ与える身体の事柄である。それは「意味の根源」でも「根源の意味」でもない。それは、意味には根源はないからであり、それこそがそれそのもの、「意味」そのもの、根源ーなきー存在、延長ーされるべくー到来すること、創造されるーこと、あるいは重さであることであるからだ。
 紛れもなくこのことに対して=向けて、〈プシュケ〉は延長として現前するのであり、このことに対して=向けて〈プシュケ〉は間を割り裂かれ(アンテレッセ)、無限に外部転位される、〈プシュケ〉が負荷として担い、配慮し、情動=触発されるのはまさにこのことからであり、まさにこのようにして〈プシュケ〉は「現勢態(アクト)にある身体の形式」なのである。現勢態にある諸身体のみが存在し、各身体は〈プシュケ〉である、もしくは様々なアトムまた/あるいはソレ《renshi注:精神分析の基盤の無意識》の延長を通して独異な形で様態化された様々なプシュケ〔精神、自在鏡〕の配置である。】  p. 68

★★★引用終了★★★
 

参考:

ナンシーの著作は、多くが日本語に訳されています。その中心概念である共同性に焦点を当てて見ました。積極的な議論の一つの種になれば幸いです。

Nancy, Jean-Luc ジャン・リュック・ナンシー 1940年生まれ

略歴

1940年7月26日、フランスのボルドー近くのコデラン生まれ。1962年に哲学学位を取得した直後から、カール・マルクス、イマニュエル・カント、フリードリッヒ・ニーチェ、アンドレ・ブルトンといった著者についての本を出版。パリで哲学教授資格を取った後、1968年コルマールで短期間教師を務め、その後ストラスブールの哲学研究所の助手になる。現在もストラスブールに居住し仕事をしている。1973年にはポール・リクールの指導の元でカントについての論文で博士号を取得し、その直後からストラスブールの人文科学部で「助教授」をつとめる。1987年にはトゥールーズで、ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタールらが審査員となり、国家博士号を授与される。ジェラール・グラネルの監修のもとに書かれたカント、シェリング、ハイデッガーの著作における自由の問題を扱った博士論文は、1988年に『自由の経験』として出版された。とはいえ、1987年以前から、すでに彼はアカデミックなキャリアを積み重ねていた。1970年代から80年代にかけてベルリン自由大学やカリフォルニア大学など様々なところで客員教授を務めていたほか、哲学教授として、東ヨーロッパを中心にフランス外務省の文化委員を務めていた。

しかし1980年代末に重病に陥り心臓移植を受け、その活動は突然終わりを迎えた。さらにガンとの闘病が重なり、その回復を遅らせた。これらの病気のために彼のキャリアは大きく変わり、今まで自分が務めていたほとんどの委員職を辞任しなければならなかった。最近また活動を再開したが、こういった闘病期間の間も驚くべきことに執筆や出版活動は精力的に続けていた。政治や社会や哲学的な話題に関わる彼の著作の多くは1990年代に出版されたが、2000年には自分の病気についての著作『侵入者』も書いている。そして60代になった今日、人間として哲学者として今まで以上に活発に世界中を飛び回っている。

http://www.saysibon.com/yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm



ジャン=リュック・ナンシー:amazon.com

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/249-6735820-3839547?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&field-author=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%3D%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%AF%20%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC

2007年10月29日 (01:27)

Media Pointと同一性の関係:ポスト・モダンはメディア同一面哲学で、MPには不到達である

浮かんだアイデアは、すぐ展開しないと、後では消えてしまう。本件で何を思いついたか、今は、忘れてしまっている。思い出してみよう。公園で読んでいた本にメモしてあったので、それをここに書こう。【同一性メディアの両義性、同一性メディア平面の闇】である。
 これは、昨日書いたのと同じ事柄である。つまり、Media Pointが同一性に張り付くというような事態のことである。メディア同一性平面と言ってもいい。これは、ドゥルーズの内在平面と同じである。
 そうだ。ようやく思い出した。つまり、以前言及したことではあるが、このメディア同一性平面(以下、メディア同一面)に、超越性が入っているのか否か、という問題である。ポスト・モダン哲学(ドゥルーズとデリダ)を考えるときに問題になった事柄である。そのときは、ドゥルーズ&ガタリ哲学(以下、ドゥルーズ哲学)には超越性を認めて、デリダ哲学には認めなかったと思う。
 しかしながら、ドゥルーズ哲学は、現象学の超越論性を否定している。デリダ哲学は基本的に、超越性を認めていないことは確定できるが、ドゥルーズ哲学の場合は曖昧さが残る。しかしながら、メディア同一面を考えると、ドゥルーズ哲学は、正にそこに当てはまるのである。だから、それには、超越性はないと見るべきだ。
 メディア同一面においては、差異は同一性と融合しているのである。言い換えると、差異は連続的差異=微分になっているのである。この連続的差異には、流動性があるので、何か超越性と勘違いするのである。
 既述した通り、ドゥルーズの特異性は錯誤・誤謬(インチキ)であり、それは、疑似・似非特異性である。それは、実軸のMedia Pointに過ぎない。つまり、メディア同一面のゼロ度であると考えられる。思うに、メディア同一面とは、マイナスの実軸で提示できるのではないだろうか。因みに、フッサール現象学は、正に、Media Pointが同一性へと志向する始点を捉えたのではと思われる。しかしながら、ハイデガー哲学は、ドゥルーズ哲学と同様に、メディア同一面のゼロ度を本来的存在として捉えている、つまり、フッサールが捉えたMedia Pointの端点・始点を看過してしまった。
 さて、問題は、以前と同様に、メディア同一面に、純粋Media Point自体が関与しているのか、である。メディア同一面とは、Media Pointが同一性に変容してしまっているものであり、純粋なMedia Pointはないと考えられる。
 ダイナミクスの問題を考えなくてはならない。Media Pointのエネルギーは、確かに、同一性に変換されて、メディア同一面を賦活・活性化するだろう。しかし、このエネルギーはもはや超越的エネルギーではなくて、連続的同一性エネルギーである。この点が、Media Pointとメディア同一面の関係を混同させていると考えられる。
 ここで明確にしておこう。Media Pointとメディア同一面とは分離されるもの、つまり、不連続なものであるということである。ハイデガー哲学を含めてポスト・モダン哲学は、フッサール現象学が到達した(超越的な)Media Pointの始点を看過して、メディア同一面の哲学に留まったのである。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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