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2008年08月02日 (00:40)

bloghiro-dive氏の似非デリダ主義を暴く:脱構築主義と二項対立主義のb-d氏

Kaisetsu氏は、以下のように、bloghiro-dive氏を論語読みの論語知らずと的確に批判している。

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デリダの哲学が動的である根拠は何であるのかを提示されず⇒bloghiro-dive氏の「論語読みの論語知らず」
2008.07.30 Wednesday
(結論)
bloghiro-dive氏は、ポスト構造主義を理解していない。(にもかかわらず、ポスト構造主義の代表であるデリダの字句的解釈に執着している。)→「論語読みの論語知らず」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=671430
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
*************

傍若無人に、傲り高ぶり、僻み根性と妄想僻をもち、思い込みが激しく決めつけ、まったく説得力なく、他者を罵倒している、権威主義的俗物の bloghiro-dive氏であるが、彼は自身デリダ主義者であることを述べているが、実際は、Kaisetsu氏が分析し、批判するように、論語読みの論語知らず(p.s. 経読みの経知らず)なのである。
 私なりにそれを簡単に証明したい。デリダ哲学は、伝統的哲学は、二項対立という形而上学に浸透されているのであり、それは、決定不能性をもっているので、形而上学が脱構築されるというものであるが、もし、真にデリダ主義者ならば、二項対立的発想をするはずはないのである。
 それにもかかわらず、bloghiro-dive氏は、自身は哲学博士であり、哲学アカデミズムに奉ずるものであり、哲学アカデミズムの擁護者となり、自身は哲学的優位であり、彼の考えに染まないものは、劣位であり、罵倒の対象となるのである。
 これは、正に、二項対立の思想でなくて何であろうか。デリダは二項対立の脱構築をその哲学の中心に置いているのであるが、デリダ主義者の bloghiro-dive氏は、二項対立を体現している哲学博士なのである。言い換えると、bloghiro-dive氏は、デリダ主義・即・反デリダ主義という立場なのであり、彼自身、そのまま、脱構築されているのである。
 だから、被脱構築主義のbloghiro-dive氏と言うことになろう。デリダを逆にして、ダリデ哲学研究者のbloghiro-dive氏である。

p.s. 以下の私に対するbloghiro-dive氏のコメントであるが、それはそのまま彼自身に当てはまるのである。私は彼が、統合失調症の可能性が高いと心配している。是非、神経科等に行って治療されることを勧めたい。

『なぜこの狂信者はデリダに拘るのか意味不明ですね!デリダを肯定してるわけでもないのに。もちろんお得意の恣意的「思い込み」と「捏造」、「妄想」の作用でそう「思い込んでいる」のでしょう。これまでの文章読めば明白なこと。』
http://ameblo.jp/bloghiro-dive/entry-10122415750.html
差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代  
p.p.s. 知に対して、知で答えるのではなく、bd氏は権威主義の鎧を身に纏い、他者を見下し、己を守ろうとしている。ビビって、PS理論の知を知るまいという態度をとっているようだ。どうやら、PS理論を恐れていると見たが、いかがか。bloghiro-dive氏は、大人げないレトリックはおやめなさい。見苦しいですぞ。もっと、誠実な、誠意をもった言動をとりなさい。哲学者なら堂々とした言動を取りなさい。

3p.s. 法曹家としてのbloghiro-dive氏の文章を拝読しましたが、哲学者のbloghiro-dive氏とは別人ですね。私は前者を尊敬しますが、後者は尊敬できません。だから、残酷な言い方になりますが、哲学者には向いていませんね。bloghiro-diveさん、あなたは善人ですが、哲学者の過酷な人生には向いていません。これが私の診断書です。

参照:

「金銭の借入の問題は早めに弁護士に相談してください。自分で背負い込むと絶望的になり、また同時に生活が成立せずに医療が受けられないなど生死に関わることになります。債務で悩んで死を選ぶ勇気があるなら、迷わず法律事務所に駆け込んでください。その瞬間から債権者の取り立てや交渉から解放されます。弁護士介入通知一通で人生が立て直すことができます。」
http://ameblo.jp/bloghiro-dive/entry-10122415750.html

4p.s. 因みに、languid-graduatestudent氏であるが、bloghiro-dive氏の、いわば、子分になっていますね。法曹家としてのbloghiro-dive氏は真似ていいですが、「哲学者」としての彼は真似ては不幸になると推測します。

5p.s.  はっきり言って、bdたちの言葉は後味が悪い。精神的に不健全である。精神が病気であると思う。

6p.s. bdたちは、哲学的マインドコントロール下にあると思う。bd氏は、端的に、デリダの字句を盲信・狂信しているのである。デリダ信徒であり、デリダ哲学のエッセンスを理解していないのである。
 
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2007年07月31日 (11:04)

私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。

以下、気になる事柄があるので、引用させていただく。日本左翼の問題点は、それなりに捉えていると思う。しかし、私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。
 私はポスト・モダン哲学の再検討を行い、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学とデリダ哲学とを明確に区別しなくてはならないという考えに傾いている。私見では、ポスト・モダン哲学の本流は、デリダではなく、ドゥルーズ(&ガタリ)にあると思う。何故なら、デリダ哲学(脱構築主義)は、広義のポスト・モダン哲学に必要な超越性を否定していると考えられるからである。つまり、端的に言えば、デリダ哲学(脱構築理論)は、私の考えるポスト・モダン(=トランス・モダン)哲学からは外されるべきである。
 そのように考えて、日本左翼を見ると、確かに、かれらにとっては、ドゥルーズ哲学ないしポスト・モダン哲学よりは、デリダ哲学=脱構築主義の方がわかりやすいのではないだろうか。言葉は悪いが、デリダ哲学は、大御所の哲学に矛盾を見てイチャモンをつけて、それを引きずり下ろすのである。しかしながら、対象となる哲学の矛盾を乗り越えて、その哲学から創造するのではないのである。矛盾を生みだす原因を差延やエクリチュールに見ているのである。これは、自己の考えを対象に押しつけているのである。フッサール現象学に対するデリダの批判がそのようなものである。(私の言葉では、同一性パラドクス様相を差延とデリダは呼んでいると思う。)
 日本左翼は超越性を認めないから、確かに、超越性を否定するデリダ哲学には魅力を感じるだろう。そう、同一性パラドクス様相という近代主義/反近代主義の様相にあるので、スタンス的には合うと言えよう。つまり、日本左翼は、近代主義であったり、反近代主義であったり、都合よく揺れ動いているのである。これは、柄谷行人のスタンスでもある。そう見ると、確かに、脱構築主義は、日本左翼にとって、さらには、左翼にとっては、好都合な理論なのだろう。
 

「日本左翼特有の四畳半フォーク的な虚弱至上主義と無責任主義がある。誤解を恐れず敢えて言えば、日本の左翼は正義が嫌いであり、正義を正面から語り論ずるのが面倒で億劫で苦手である。正義的なもの、正論的なものに対して抗原抗体反応を起こすのが日本左翼の体質であり、そういう正義拒絶の遺伝子を払拭できない。だから本村洋のような正義の英雄が颯爽と登場したときは、本能的に拒絶反応を起こし、石を投げつけ、唾を吐きつけようとするのである。正義排斥の日本左翼は、社会を概念と理論で設計・構築しようとせず、薄暗く陰湿な裏部屋の擬似的共同体を生息環境とし、そこに逼塞して内側に呟きとスローガンを共鳴させる。だからブログ左翼には個性がない。名前と中身を入れ替えてもどれも同じだ。テーマも言葉も文章も全く同じ。正義や倫理、国家や組織、そうした問題に背を向けて、趣味的な小共同体レベルで自己満足に溺る傾向は、全共闘世代以降に支配的となった。それを合理化し補強したのが80年代に安輸入した脱構築主義で、現在の官僚世界(大学・官庁・法曹 )の主流である。」(赤色文字強調はrenshiによる)
http://critic3.exblog.jp/7040710#7040710_1
『山口母子殺害事件はなぜ高い関心を集めるのか - 正義と倫理』
世に倦む日日
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