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2008年05月31日 (01:22)

利益とは何か:差異共振価値と同一性価値の齟齬としての資本主義と差異共振共同体資本主義

利益とは何か。
今日、想像していたが、資本主義とは、生産に関しては、差異共振主義であるから、当然、一人一人が生産するよりは、余剰に生産できるのである。つまり、資本主義的生産とは、余剰生産なのである。つまり、価値が増加する経済である。差異共振経済である。物質的にも、精神的にも、即自的には発展する経済である。
 問題は、誰もがわかるように、出口、売買・商業の問題である。ここで、生産物は、市場を介して、売買されるわけであるが、このとき、差異共振価値である商品が同一性価値=貨幣価値に還元されるのである。ここが、資本主義のネックだと考える。即ち、差異価値、ないしは、差異共振価値を同一性価値に還元する倒錯を資本主義社会はもっていることである。
 このために、同一性価値が差異共振価値を凌駕するマネーゲームが生じるのである。
 思うに、同一性価値とは、近代民主主義に即応するだろう。差異がすべて同一性に還元され、それが貨幣価値化されるのである。これは、それとして、近代の価値である。封建主義的ヒエラルキーは消滅している。
 これは、これまでの検討から、ユダヤ・キリスト教が古代ギリシアの知性を取り込むような様態で主導的であったから形成されたと考えられる。ユダヤ・キリスト教が同一性価値を肯定しているのである。
 では、資本主義とは何であるのか、という疑問が浮かぶ。これは、実は、先に提示した自己極性方程式で表現されると思う。簡略的に記せば、⇒±1である。この±1の矛盾が資本主義に内在していると考えられるのである。同一性価値とは、当然、-1 であり、差異共振価値とは、+1である。
 結局、この齟齬が現代世界を混沌とさせているのである。問題は、同一性価値の-1にあるのは、誰でも理解できよう。資本主義の差異共振価値=富=+1を、-1が否定してしまうと考えられるのである。
 金融資本とは、-1のことであり、これが、+1の富を横取りしてしまうのである。もっとも、一般的に言っているのであるが。
 問題は、国家がこの-1に深く関与していることである。このために、+1が抑圧されるのである。(トランス国家主義が必要である。)
 結局、これまで、繰り返したように、差異共振価値+1をそれとして、評価する金融システムが必要であるということである。【ここで、Kaisetsu氏の銀本位制の発想が生まれるのである。】
 直感で言えば、得た収益・利益は誰のものあるのか、がいちばんの問題ではないだろうか。プルードンは社会集合力を述べたが、確かに、利益は、企業の総合性に属すると言えよう。つまり、差異共振力に利益は属すると言えよう。そして、この利益を差異共振的に還元しないならば、その企業は、同一性価値に従属することになるだろう。
 だから、私的企業とは、社会的企業でなくてはならないと考えられるのである。そして、この社会的還元を自主的に行うべきである。
 国家が介入すると、利権が生じて、いわば、マージンが取られることになると考えられる。だから、思うに、企業の社会化=共同体化が必要であると考えられるのである。
 このためには、政治家や国家・地方公務員は必要が少なくなってくるだろう。ただし、私はアナーキズムまでは考えない。国家・政府は、やはり、法形成機関としてあるべきである。
 結局、企業自体の差異共振化がなくてはならないということになる。ここでは、企業とは、自営業も含むものである。
 思うに、このためには、差異共振課税が必要になるだろう。自主的に、差異共振投資をするならば控除するが、そうでなければ、課税するのである。
 
*******************************

2008/05/30-19:08 12社中10社が減益=不払いで新契約低迷-主要生保の08年3月期  生命保険主要12社の2008年3月期決算が30日、出そろった。各社とも営業より保険金不払い問題の調査を優先したため新契約がほとんどの社で減少。本業のもうけを示す基礎利益は10社で減り、12社合計では11.6%の減益だった。
 新契約から受け取る保険料を1年分にならした年換算保険料は、アメリカンファミリー生命保険を除く11社がマイナス。医療保険などの第3分野も伸びが鈍化した。また、最大手の日本生命保険は新契約の死亡保障の合計額で3位に転落。不払い問題への対応に「営業を止めるぐらいの態勢で取り組んだ」(日生の筒井義信常務)ことに加え、死亡保障から医療保障へ顧客ニーズが変化したことも影響した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=ind_30&k=2008053000923
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2006年03月05日 (01:50)

貨幣と欲望と差異:他者の構造とポストモダン

「アダムの呪い」 を読んで
http://sapporo.cool.ne.jp/sakk/koram/adamu.htm
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貨幣は人間の欲望とリンクしている。つまり、経済の媒体である貨幣は、人間の心身と結びついている。私は、貨幣は魂と結びついていると思う。不連続的差異論から言えば、イデアと貨幣は結びついているのである。
 ドゥルーズ哲学/不連続的差異論から見ると、《諸元素》の解放された世界=イデア界が究極であるから、それを志向するポストモダン経済が考えられる。そして、貨幣であるが、それは、ドゥルーズいう他者の構造に結びつくだろう。だから、貨幣は、構造と捉えるのが正しい。そして、この構造と欲望が結びついているのである。つまり、他者の構造の結びついた諸欲望と貨幣と資本主義が結びついているのである。そして、これが、地球・自然・環境破壊の根因である。反動というのも、ここが原因ではないだろうか。権力が腐敗するのもこれによるだろう。
 この他者の構造とは、メディア界の1/4回転である。メディア/現象境界、即ち、相補性/同一性の境界から1/4回転して、メディア・相補性を捩じるようにして、背後に(超越論的領域に)排除し隠蔽するのであろう。この1/4回転のヒネリ・捩じりによって、他者の構造による世界=現象界が生まれるのである。ここでは、主客二元論が支配している。いわゆる《心》は排除される。なぜなら、《心》とはメディア界のことだからである。
 そして、この他者の構造の世界・現象界とは諸欲望に満ちみちた、権力の世界である。修羅場である。悪意の世界である。嫉妬・怨恨の世界である。利己主義の世界である。この利己主義が自由主義として受け取られている面がある。そして、これは、二項対立の世界である。生存競争の世界である。ホッブズの世界である。近代的自我の世界である。近代的合理主義の世界である。
 先に、ルサンチマンの問題として、不連続的差異の悲哀的暗黒化について述べたが、ここでの検討から見ると、そうではなくて、メディア/現象境界の1/4回転で済みそうである。つまり、第2の1/4回転で、メディア界が排出され隠蔽されるのである。これは、自己中心主義、利己主義、近代的自我主義である。問題は、これが、物質主義、唯物論になることである。何故か。これは、愚問に近いだろう。何故なら、相補性であるメディア界を排除しているので、《精神》に関係するイデア界への接点が失われているからである。また、近世における数学的法則化によって、自然が、数量化されたからである。この現象界の没精神的数量化によって、物質主義、唯物論が生まれたのである。(そして、現代日本を拘束しているものもこれであろう。俗に魂というのは、イデア/メディア境界である。)
 ということで、貨幣と欲望は、「他者の構造」(ドゥルーズ)によって、現象界と結びつけられているのである。これが、金融資本主義を生むのである。ホリエモンを生むのである。また、闇の世界を生むのである。これは、ポストモダンの反動化である。IT革命とは何か。それは、一言で言えば、ボーダレスな、多種多様な知識が、公共的に高速に安価に提供されることである。簡単に言えば、知の多元主義である。これは、確かに、近代の二元論を超える知的革命である。そして、物事の相対性が認識されるのである。即ち、メディア界が賦活されると言えよう。問題は、このメディア界の展開である。この領域は換言すれば、イマジネーションの領域である。アートの領域である。これをどう発展させるかが問題なのである。メディア界は、相補性の世界であり、両義的である。ここで、粗雑・粗野であると、反動化するのである、ホリエモンのように。あるいは、軽薄であると、現象界的であり、平凡である。そう、メディア界には、イデア面・特異性の面があるのであり、これを進展させないといけないのである。ここにおいて、勇気がいるのである。単独性を選択する必要があるのである。これによって、メディア界からイデア界へと進展するのである。不連続的差異への進展である。これを選択することで、ポストモダンは、能動化するのである。特異性、単独性、不連続的差異であることで、共的直立である未来が開けるのである。

2006年01月04日 (20:33)

創造・能動主体的資本主義あるいは不連続差異的資本主義

個的多元主義的資本主義を考える。これは、哲学的には、どういうことを意味しているのだろうか。近代においては、資本家と労働者という二元論で考えられていた。二項対立である。しかし、ポストモダンの現在、この図式はもう崩壊している。不連続的差異論的に言えば、主客二元論・現象界的資本主義から、主客相補性・メディア界的資本主義(情報資本主義)に変容しているのであるし、さらに言えば、個・特異性的資本主義、即ち、イデア界的資本主義になりつつあるだろう。
 二元論が崩壊して、現在、結局、脱構造化された差異論、とりわけ、不連続的差異論というポストモダンの世界となっているのである。だから、個人も、意識をポストモダン化する必要があるのである。いまだに、近代主義の意識では、時代の動きに対応できない。資本主義と民主主義、資本家と労働者等々の主客二元論では対応できない。つまり、これまでのように主観性を否定・受動的にしておくのではなくて、主観性を肯定・能動化することが求められているのである。この創造的能動的主体が、私の考える個・特異性につながるのである。そして、この主体が資本主義に参与することになるのである。それは、資本主義内部での「仕事」であると同時に、不連続的差異的投資という形も取るだろう。つまり、創造的能動的主体的資本主義ということである。これが、共生共創的資本主義ということになるだろう。だから、ポストモダンの時代においては、創造的能動的主体性を構築しないと、取り残されるだろう。落ちこぼれるだろう。敗者となるだろう。ここでは、ポストモダン教育が必要である。主体・主観性の変容が必要なのである。結局、ポストモダン意識革命である。これが、ポストモダン資本主義を形成するのである。
 この点、日本の教育は、いまだに、近代主義的教育であり、致命的である。世界から取り残される。敗残者の日本となるだろう。

Awake, awake, Japan!
Arise, arise, new Japan!
Great darkness bears down on you.
There are darkness of mind and of institution.
You have to change your negative passive mind into positive creative one in order to make postmodern Japan.
Modernized Japan is too incompetent to cope with the comtemporary world.
Wake up and arise for the dawn of new "polytheistic" Japonesia of postmodern capitalism!
You are too lazy and dreaming.
You have to be rather a postmodern Asian wolf than a modern stupid sheep!
Life is Struggle!

▼ 急速に広がる格差社会の現実 ▼

 UFJ総研の試算によると、正社員の平均年収387万円に対してフリーターは4
分の1の106万円。生涯賃金では正社員の2億1500万円に対してフリーターは
5200万円とダンゼンの開きがある。この差は今年以降、さらに拡大することは間
違いない。政治評論家の本澤二郎氏が言う。
「日本社会でこれほど格差が開いた時代はありません。正社員になれない月収10万
円ちょっとの人は、結婚はおろか、国民年金、健康保険料すら払えない。これでは国
の根幹が崩れてしまいます。ところが竹中・小泉路線はそんな競争社会を奨励してい
るのですから、格差は広がるばかりです」
 公立の小中学校に通う児童・生徒のうち、文房具代や給食代が払えずに自治体から
援助を受ける子どもが、この4年間に4割も増えているという。東京・大阪では4人
に1人の親が子どもに給食代や修学旅行の積立金を持たせられないのである。小泉政
治が生んだ、この悲惨な現実は今年、さらに拡大する。

dailymail日刊ゲンダイから
[NGD:060105]大乱加速のドッグイヤー

2005年10月25日 (23:09)

不等価交換としての経済:差異と差異との不等価交換:拡大的投資主義から創造的消費主義へ

マルクスは、交換価値の普遍性を説いた。しかし、これは、擬制であろう。交換価値は、シミュラクルである。問題は、等価とは何かである。誰が、等価を決めるのか。それが、市場であると、資本主義は言う。交換とは、結局、不可能の実現である。不連続な差異と不連続な差異とを等価と見做して、交換するのである。疑似等価交換である。問題は、この等価を決定する市場の力学である。力をもつのは、資本家である。投資家である。あるいは、消費者である。宣伝である。また、創造的能力である。
 ここで、思考実験すると、例えば、販売を促進しようと努力するとしよう。そのとき、消費者はどういうものを望んでいるか。どういう値段がいいか。どう宣伝すればいいか。等々。このとき、知恵が必要である。知恵とは、この場合、アイデア力、観念力、想像力、知識力等々である。多様な知識や経験を活用して、ヴィジョンを描く。デザインである。結局、ここには、創造的な発想が必要である。これが、資本主義に欠かせない。資本創造主義である。しかし、そして、とても売れて、たいへん利益があがるとしよう。得た交換価値をどうするかである。必要経費様々あるだろう。問題は、創造から生まれた利益・交換価値をどう使用するかである。これを、創造的価値のために使用しなければ、その企業は衰えるだろうし、資本主義自体も衰退するだろう。ソニーを見よ。つまり、創造力の開発が必要なのである。創造性に交換価値を使用すべきなのである。単に、交換価値の増殖のために用いれば、それは、早晩、衰退するだろう。バブルを見よ。交換価値を創造価値のために消費することである。投資ではなくて、創造的消費である。これによって、差異が発展するのである。
 この考え、即ち、差異創造消費論を適用するならば、資本主義は、変容するだろう。マネーゲームではなくて、創造的消費経済。創造消費資本主義である。これは、これまでの公共投資ではない。いわば、マイナス型の資本主義である。しかし、このマイナスが、プラス循環を生む。というか、カオスからコスモスへと進展するのである。カオス型資本主義からコスモス型資本主義である。エントロピー的資本主義から、ネゲントロピー(逆エントロピー)的資本主義である。成長的投資主義ではなくて、創造的消費主義である。このための、方策が必要であろう。創造消費主義。これによって、おそらく、さまざまな問題が解決するのではないだろうか。マイナスの発想が、秩序を生む。創造消費型政策が必要だ。これは、創造差異主義である。創造的差異共存主義である。創造的英知が秩序的資本主義をもたらすだろう。

2005年10月21日 (07:31)

現象学の差異論化としてのポストモダニズム:結晶としての不連続的差異論

以下のクォリア理論の説明は、やはり、現代哲学をはずしている、物質中心主義的発想である。日本の科学者における哲学的遅れがある。ポストモダニズムが、現象学を乗り越えようした事態であることを、理解していない者が多いようである。簡単に言えば、現象学の差異化をポストモダニズムは志向していた。物質的次元の差異化ではないのだ。超越論的差異論、プラトニズム的差異論を志向していたのであり、この志向は、結局、不連続的差異論として結晶したと考えられるのである。
 また、今日、思うに、ポストモダニズムを経てきていない学術がたくさんあるように思われる。しかし、問題点は現実に残っているのであり、理論的に回避しようとしても、ポストモダニズムの志向した問題を究明せざるをえないであろう。そう、超越論的形式ないし構造までは、行き着いたのであるが、そこから、後退しているのだ。構造を差異化しようとして、混乱してしまったのである。構造は、超越論的次元にあるのだから、差異化は、当然、超越論的次元で起こるのである。柄谷行人は、この点で、失敗挫折したのである。 
 では、これを具体的に考えるとどうなのだろうか。使用価値/交換価値の相補性を考えてみよう。これは、差異価値/交換価値と換言できある。今日、資本主義は、差異価値に基づいているだろう。差異化である。ファッションを見れば、わかりやすい。差異化、個化、特異性化である。これは、超越論的差異の次元から発している。つまり、イデア界から発しているのだ。今日、21世紀資本主義は、イデア界的である。この意味を捉えない政治・経済は致命的である。郵政民営化、「改革」とは資本主義の論理であり、民主党が敗れたのは、社会主義的論理、官営資本主義の論理を残していたからだろう。確かに、首相はパフォーマンスという点で問題点があるが、しかし、首相は「郵政民営化」、「改革」という特異性を強調したことを認めないといけない。小泉首相の論理は不連続的差異論的ではないだろうか。新自由主義は、不連続的差異論的ではないか。もっとも、すべて肯定しているわけではなくて、ポスト新自由主義、脱新自由主義を考えてのことである。
 思うに、新自由主義には、超越論的差異の次元があるように思える。これが、新しい資本主義である。脱近代的資本主義である。ポストモダン資本主義である。現代、この転換期にあるようだ。新自由主義は、不連続的差異論を内在・潜在しているだろう。これを全面的に展開する必要があるだろう。反動はだめである。柄谷行人のように近代主義に逆行してはおしまいである。とまれ、新自由主義は、差異化を徹底するはずであり、それは、自らを超克しなくてはならないだろう。何故ならば、グローバル経済は閉鎖系だからである。差異を創出しなくては、新しい秩序は生まれないからである。新自由主義という悪魔は、天使を内在させているだろう。悪魔/天使的新自由主義である。 
 後で、もう少し考察を続けたい。




クオリアは、「赤い感じ」のように、私たちの感覚に伴う鮮明な質感を指します。クオリアは、脳を含めての物質の物理的記述と、私達の心が持つ様々な属性の間のギャップを象徴する概念です。クオリアが脳の中のニューロンの活動からどのように形成されてくるかということは、私たちの脳における情報処理を特徴付ける「統合された並列性」を解く上で重要な鍵になっています。クオリアの研究は、私たちの意識、主観的経験が物質的過程であるニューロンの活動からどのように生まれてくるかを明らかにする上で本質的であるとともに、C.P.Snowの言った「二つの文化」の間の溝を埋める可能性につながります。「クオリア・マニフェスト」は、未来において科学的及び文化的に重要な意味を持つであろう「クオリア」を巡る人類の知的挑戦に関するミッション・ステートメントです。」
「クオリア・マニフェスト」


http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html

2005年10月07日 (21:00)

体制派の資本理論とアングラ資本理論

体制派の資本理論とアングラ資本理論
http://www.asyura2.com/0505/hasan42/msg/669.html
投稿者 姫 日時 2005 年 10 月 06 日 10:37:08: yNQo0naya4Ss.

現代のケインズ理論の唱える政策


 ケインズ自身ともケインジアンとも異なり、現代のケインズ理論の結論によれば、政府支出を増やすことによる景気対策の効果はあまりないということになっている。なぜなら政府支出の増加で増えた人々の所得は、流動性のわなのもとではすべて貨幣のまま持たれてしまうので、消費需要の増加として広がっていくことはないからである。金融政策についても、金融引き締めなどして貨幣供給を減らせばますます不況が悪化するという意味では影響があるが、逆に金融緩和で貨幣供給を増やしても、全部人々がそのまま持ってしまい世の中に出回らないので何の効果もない。つまり旧来のケインジアン以上に深刻な不況の存在を説きながら、新古典派をもしのぐ政策無効命題を導きだしているのである。

ではどうすればいいのか。
 現代のケインズ理論の論者がよく唱えているのが、有名なクルーグマンの提唱した「調整インフレ論」である。「インフレターゲット論」というのは、今日の日本の状況におけるこの穏当な呼び名である。これは、中央銀行が何パーセントのインフレを必ず実現するぞと宣言して、それまで金融緩和を続けるというものである。人々にインフレが起こることを確信させることができれば、今安いうちに買った方がトクだということになり、需要が起こってくる。
 これを貨幣供給量のコントロールでやることには、はたしてうまくコントロールできるのかという反対も多い。運転を間違えてとんでもないハイパーインフレになったらどうするのかというわけである。

document by site's page
writen:
松尾匠:松尾匠のページ
u.ac.jp/~tadasu/yougo_keynes.html

 グルーグマンによれば、日本経済は、人口減少など、何らかの理由によって長期的に縮小してゆく経済である。そのような経済では、貯蓄と投資を均等化する均衡実質金利はマイナスとなる。

 仮にデフレを2パーセントとすれば、日銀の「ゼロ金利政策」によって名目金利がゼロになったとしても、実質金利は2パーセントに留まり、需給ギャップは解消しない。そこで、日銀が意図的にインフレを起こすことによってインフレ率を2パーセント以上にすることができれば、実質金利はマイナスとなって、需給ギャップは解消するはずである。

 よりマイルドな立場として、日銀は物価上昇率の目標を宣言し、それにコミットすべきだという「インフレ・ターゲティング論」がある。

 「調整インフレ論」との違いはわかりにくいが、おおよそ、次のようになる。「調整インフレ論」は、インフレを実現するためには、日銀がドル、債券、株式、土地など、何でも買うべきだと主張する。

 これに対し、「インフレ・ターゲティング論」は、副作用の多い大胆な市場介入を実行することそれ自体より、金融政策が市場参加者の期待に訴えかけることを重視する。日銀が、真剣にインフレ目標実現にコミットしていることを宣言しさえすれば、人々のデフレ期待が消える、と考えているわけだ。

 クルーグマンは、日銀が目標インフレ率を明示した上、それを非伝統的な政策、つまり事実上「何でもあり」の政策を用いて実現することを、「管理インフレーション(managed inflation)」の名で提唱している。このように、調整インフレ的な政策を「インフレ・ターゲティング」の名前で主張している論者も多く、この二つの区別はさほど重要ではない。

これらに対し、日本銀行はおよそ次の二つの理由によって、日銀がインフレ・ターゲティングを採用することはないと表明している。第一に、日銀はベースマネーすらコントロールできないので、意図的にインフレを作り出すことなどできるわけがない。第二に、仮にインフレを発生させることができたとしても、いったん発生したインフレはきわめて悪性のものになる可能性が高い。すなわち、発生したインフレは制御不能なハイパー・インフレーションになるか、実体経済の悪化をともないつつ物価上昇が進行するスタグフレーションになる。

日本銀行は、現在、「デフレ懸念が消えるまで事実上のゼロ金利を続ける」という政策を取っている。ゼロ金利政策の下で、本当にデフレ経済を脱却することができるだろうか。

渡辺努+斎藤誠(1999)は、「ゼロ金利の下ではデフレから抜け出ることはできず、ある程度の名目金利の上昇とともに初めて、インフレが実現する」と論じている。彼らの議論を敷衍(ふえん)してみよう。ここに、金利平価式とフィッシャー方程式を、再掲する。金利平価式: 日本の名目金利+予想円高進行率=米国の名目金利

フィッシャー方程式: 名目金利=実質金利+インフレ率

先に述べたように、自由な資本移動の結果、日米間で実質金利は長期にわたってほぼ均等化している。これを3%としよう。日米のインフレ率をそれぞれ-2%、1%としよう。するとフィッシャー方程式から、日米の名目金利はそれぞれ、1%、4%となる。日米の名目金利格差は4-1=3%ということになるから、金利平価式から、毎年3%づつ円高が進行することがわかる。

これはほぼ、日米経済の現状である。このように、低金利、デフレ、円高期待という組み合わせを、「レジームA」とよぶことにしよう。次に、何らかの方法で日本がデフレを脱却することに成功し、インフレ率が2%にまで高まったとしよう。

すると、フィッシャー方程式から、日本の名目金利は5%にまで上昇する。その結果、日米の名目金利格差は逆転し、日本の方が2%名目金利が高くなって、年平均2%の円安が進行することがわかる。インフレ・ターゲティングが成功し、ある程度のインフレが実現した場合の日本経済の姿は、多分、このようになるであろう。このように、マイルドな金利上昇、インフレと円安期待が共存する状態を、「レジームB」とよぼう。

最後に、日銀当局やインフレ・ターゲティングに反対する論者が主張するように、インフレが制御不可能な水準、例えば10%にまで高まったとしよう。この時、日本の名目金利が13%に跳ね上がり、アメリカの名目金利が4%にとどまるとすれば、年率9%の急速な円安進行となる。

これは、財政赤字が持続不可能と判断され、日本国債が暴落した状態に対応している。このように高金利、高インフレ、大幅円安という組み合わせを、「レジームC」とする。このように整理すると、日銀の現在の政策は、レジームAの現状を肯定するものであり、本当にインフレを実現するレジームBをめざすものではないことがわかる。したがって、低金利を続けていればやがてインフレが起こるというのも誤りで、インフレが実現するときは必ず、ある程度の名目金利の上昇をともなうのである。

多くの「インフレ・ターゲティング」論者は、様々な資産購入を通じて日銀が十分なマネーサプライを供給すれば、日本経済は、いずれレジームAを脱し、レジームBに移行して、そこで安定すると考えている。これに対し、日銀は、「インフレ・ターゲティング」を実施すると、レジームAからいきなりレジームCに経済が飛躍してしまうと考えているのである。

仮にインフレ・ターゲッティングが望ましいとして、日銀にはそれを実行する有効な手段が存在するのだろうか。繰り返しになるが、金融緩和とは、現金とその他の資産の代替性を高めていくことである。言い換えれば、現金と債券の差である名目金利をゼロに近づけていくことだ。金利がゼロになるということは、現金と債券が完全に代替的になるということであり、こうなると、もうこれ以上の金融緩和の効果はない。

とすると、現在のゼロ金利政策の下で、すでに短期金利はゼロ、国債金利も1%台に低下しており、短期金融市場への介入や国債買いオペによって金融緩和する余地はあまりない。

もう一つ理論的に重要なことは、相対価格を変えることなしには、いかなる経済政策も実体経済に対する効果を持たない、ということである。いくらおカネが「じゃぶじゃぶ」とどこかにあっても、それによって何かが買われ、何かが値上がりしない限り、人々の行動は変わらない。

それでは日銀は何を買うべきなのか。まず、あくまでできればの話だが、ドルを買って円安にすべきである。円安になれば、目先の輸出企業の経営状態はよくなる。すでに、浜田宏一(2000)、Bernanke(2001)などは、aggressiveな円安誘導によって、景気回復を計るべきだと主張している。

ところで円安政策が成功するためには、諸外国が、日銀の円安政策を容認し、対抗して自国の通貨を減価させるような政策を取らないことが必要である。しかし、これが非常に難しい。どこでも自国の経済状態が一番大事なのである。さらに、一般ジャーナリズムでも、日銀が「通貨の番人」としての地位を放棄し、通貨価値の下落を容認することは許されない、との声は多い。小宮(2000)は、「これまでのところ、日銀の金融政策は模範的」と評している。

最近、榊原英資は、一回限りの措置として、大量の政府紙幣を発行して、銀行の保有する不良債権のストックをすべて政府が買い取ることを提案している。榊原によれば、インフレ・ターゲティング等の大胆な金融政策は、これまでの経済運営の制度的枠組の破壊と市場に受け取られ、思いがけない信用の失墜によるハイパーインフレ、円の暴落を招きかねない、とされる。とすれば、特別の政府紙幣を発行した方が、既存の枠組の一時的な停止措置であることが市場関係者に明確なメッセージとして伝わるから、制度破壊を起こさずに、意図する一時的なインフレを招くことができるということになる。しかし、この場合、一時発行される政府紙幣は、マネタイズされ、償還されることはないから、日銀券との関係が問題になる。榊原は、政府紙幣の流通は、法的に日銀券との一対一の交換を義務付けることによって担保できる、と言う。しかし、法的強制だけで、人々が積極的に政府紙幣による買い物をするようになるだろうか。

document by site's page
日銀の金融政策こそ諸悪の根源か?
http://homepage3.nifty.com/ronten/BOJ1.htm
writen:
今井亮一

(考察)

今井氏の論文はそのまま体制派の意見だと思う。これは2002年に書かれたものだが、現在のインタゲとその後の円安政策まで書き示してある。個人的意見として、バブルを引き起こした借りたほうが得政策をまたやっているようにしか思えない。そして、その後の引き締めで、インフレ抑止、貸し出し量規制(自己資本内に収める)そして、円高を抑える為の協調融資(オペ)。これは85年のプラザ合意と性質に違いがあるのか?

運用(資金活用)により、負債を減らし、資産拡大となった資本主義なる社会基盤に暴落の暗い影が付きまとうのは既知だろう。

ケインズの趣旨は消費を喚起させる為、雇用を創出し(公共事業)、商業者の設備投資を促し、雇用を拡大させる為に資金調達のし易い株式社会を創設した。そして、貸し出し金利調整で、需給調整を図ろうとしたのだ。

最近での金利調整はリスクヘッジの要素が濃い。引当金、割引率などで、需給調整を図り、プライマリーバランスを整えることで、暴落回避を行っているが、ケインジアンの経済政策は保護政策に一環している。需要喚起策が莫大な負債となり、際限なく引き出される国債により、紙幣大量発行となり、通貨価値は暴落し、限界レベル(1ドル50円)に迫る勢いにまで達してしまった。それに伴い資産インフレも投資熱を冷ます動きとなり、通貨価値の見直しが本格的に行われなくてはいけないが、この時期にまたもや、増資による需要喚起を行ったのが、竹中金融大臣の金融政策だった。もはや、ケインズの調整策は悪性の要素が濃く、やらない方が安全に思える。

運用の本質はお金がお金を生むことにある。これはインフレを伴うとその対価が上がった分だけ、通貨価値の下落となり、もっと分かりやすくたとえると、次にこの財を買い入れる人からその上がった分の利益を搾取する形になる。つまり、お金を生むのではなく、どっかから引っ張ってくるに過ぎない。そして、最後にその財を売れ切れなかった者が負けになるゲームである。金融発生商品は日銀発行券(紙幣)に価値を創設させることが目的だが、物価高でその価値は相殺される。1億の投資が2億に膨らめば嬉しいが、1億で買えた商品が2億の値上がりが発生してしまうと、通貨価値の減少となる。2倍の負担となって、これの繰り返しが、現在の通貨価値の減少による不況を招いている。早い者勝ちだった資産運用も上がりきってしまった物価はもはや限界値まで達してしまっていると判断していい。

戦後2000円で土地が買えたのに、今は2000万出さないと買えない。1万分の一に日本円の価値が下がっているのである。資産転がし運用は欧米に追いつけとばかりに、官民揚げての資産争奪合戦となった。インフレでその価値が抹殺されていることに気付いた時には既に遅し。めっきり負債漬けとなってしまった資本主義の限界が見える。物価上昇は経済成長の証ではなく、莫大な借入れが引き起こしたに過ぎなかったのだ。戦後、1000億円強だった借入れが今や1400兆円にも及ぶ。預貯金は推定700兆円ほどだろう。運用によって盗まれた分や、諸外国の円保有があるからと、定期で架空に引き上げられた受け取り価格があるからだ。スイス銀行にどれだけプールしてるかも不明確で、マネーロンダリングや、ブラックマネー(闇資金)も計り知れない額かも知れない。脱税策に資金隠しは常套手段だからだ。

株や土地を資産だと勘違いしているから、又借り財政に歯止めがかからない。殆どの内訳が借入れであって、誰かの借入れ資産を誰かの借入れで転売益(含み益)を入手しているのだ。又借りの歴史はテラ銭代を高騰させて終わって欲しいものだ。テラ銭代とは転売ゲームの取引価格である。これが上がると利益率が悪くなるのは明確で、ケインズが言うストックの高騰は雇用を生まないばかりか、負債を返そうとする流れに連結される。ストックの主成分が過剰投資の影響で負債がメインになってしまったのだ。信用取引で2億の赤が出ても、2000億の負債を返済したほうが得なのだ。このまま保有していても、金利分が2億を超えたらこのスモールサイジング(資産整理)は成功となる。金利を上げたときがこのゲームの引き際である。その返済ブームに歯止めをかけようと考案したのが乗っ取り計画である。ストックオプション大放出、キャピタルゲイン減税である。加えて、特殊法人民営化による上場乱発で円高まで付いている。しかし、これらもまた需要喚起の為の増刷(負債水増し)であることは否めない。

スモールサイジング下で、消費の拡大を促すべきだったのだ。物が売れると生産高アップとなり、雇用増となる。手放した株券の資金で雇用を増進させ、生産拡大路線を行えば確実に消費は上がる。

企業の買収がひと段落してから、生産拠点を設けて、消費社会を創設しようとしたのか、金融サイドの政策には未知数が多い。なにしろ、GDP(国内総生産)の民間最終消費支出の部類に株が組み込まれていて、その大部分を占める。所得を上回る消費の謎もこれで解決した。日銀発表の景気動向の消費の伸びは株価に示唆される。役所内会計の「なんでも福祉」に代表される、国民のコンセンサスを得られやすいカテゴリーに株を組み込んでおいたのだろう。これで右肩上がりの会計報告の消費部門も借入れで補える。

何しろ、GDPが株価に与える影響力は絶大で、そのまま、国連の負担費になる。右肩上がりのジレンマとも言える。優良な会計報告書を作るために水増し消費を官僚が作成したのか、株価アップのためなのか、分りかねることが多すぎる。そもそも、大蔵省時代から、予算作成書を政策する官僚は僅かで、二世、三世に受け継がれてきた秘密結社部署だった。明治維新の時から、アメリカの意向はダイレクトに反映されるが、情報機関へは、流して欲しい情報しか漏らさない。完全なる隠蔽組織である。

もはや、真実を明かさない官僚、議会は定説となってしまい、そのままマスコミ不信、政治不信に繋がっている。

(姫)

http://www.geocities.jp/hcyym228/7p.html


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* Re: 体制派の資本理論とアングラ資本理論→貴重な論考 ODA ウォッチャーズ 2005/10/06 11:52:49 (5)
o 「デリバティブ」は一般にリスク・ヘッジと言われ、純粋にリスクを売買する取引なのです。 姫 2005/10/06 12:58:33 (4)
+ 実はリスクを回避しているのではなく先送りしている→「確かに」但し「動態的に見ると」 ODA ウォッチャーズ 2005/10/06 16:35:20 (3)
# 原稿が途中、ハッカーに襲われ、中断してしまいました。最近、g^・;ンこの子に付きまとわれて困ってます。 姫 2005/10/07 01:41:10 (2)
* ぶっちゃけ、メーカーの資金が潤沢になると、金融は用なしになってしまうのです。 姫 2005/10/07 02:31:31 (0)
* 姫さん、しばらくのあいだ、国家破産板ではなく、雑談板への投稿をお願いします。 管理人さん 2005/10/07 01:54:29 (0)
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