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2010年10月06日 (18:18)

「存在」の問題:ハイデガー存在論批判

「存在」の問題:ハイデガー存在論批判

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

「我思うゆえに我在り」の「我在り」の「存在」について検討したい。今は予備考察のみである。
 先に、ハイデガーの唱える「存在」とは存在性のことであると述べた。思うに、フッサールの志向性は凸i⇒凹iのことである。左辺がノエシスであり、右辺がノエマである。
 しかし、ハイデガーはフッサールの虚と突くように、「存在」を唱えた。しかしながら、ハイデガーの「存在」とはいわば、物質の超越論性である。現存在の超越論性である。だから、先に、⇒の先端がそうであると述べたのである。
 しかし、又、先に存在性とは凹iに存するのではないかと示唆した。「我在り」の「我」は自我と個が混合していると思う。つまり、それは、凸i⇒+1と凹i⇒-1が混合しているのである。
 存在性とは、本来、後者であると思う。それは、「個在り」である。前者は「自我在り」である。(先に述べたが、individualityもこの点で混同がある。)
 思うに、ハイデガーの「存在」は、凹i⇒+1である。つまり、凸iが主導のフッサール現象学の虚を突いて、凹iを指摘したのである。しかしながら、それが、⇒+1と連続化しているのである。
 ここにハイデガー「存在論」の大問題があると思う。フッサール現象学を補完するならば、凸iと凹iの共立を志向すべきであった。言い換えると、凸i⇒凹 iのフッサール現象学に対して、凹i⇒凸iの志向性を提起すべきだったのであるが、凹⇒+1へと連続化、同一性化、現象化、物質化、実体化してしまったのである。
 思うに、その結果、ハイデガー存在論は似非神秘主義と物質主義の間を揺らぐようになるのである。つまり、凹iの原存在は、⇒-1を漠然と予感するが、すぐに、⇒+1の物質主義が干渉して、真の神秘化を否定するのである。結局、連続性が支配していたので、ハイデガーの存在論は物質主義から脱却できなかったのである。
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2007年08月30日 (01:08)

ハイデガー哲学を超えて:Media Pointと超越論的差異:PS理論とポスト・モダン哲学:v2

現存在をMediaPointとするなら、垂直共振性が水平共振性を帯びるはずである。しかし、現存在には、水平共振性が欠損している。だから、現存在は正当なMedia Pointではない。水平共振性を欠落させたこの現存在とは何か。
 思うに、現存在は超越論的差異である(超越的差異ではない)。それは、虚軸的Media Pointであり、実軸的Media Pointが排除されている。だから、水平共振性は発生しない。
 しかしながら、現象する存在者であるから、当然、実軸性を帯びている。世界内存在である。しかし、ここには水平共振性は欠落して、相互同一性(ないしは、間同一性、又は、単に、同一性でもよい。ここで、相互同一性というのは、ハイデガーの配慮的気遣い、ないしは、道具的世界の様態である。)が主導的である。つまり、同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。これをどう見るのか。思うに、存在者ないしは世界内存在の観点では、ハイデガー(以下、 H.)は、実軸的Media Pointで考えているように思える。つまり、虚軸的Media Pointを排除している。
 Media Pointの意識は虚界と実界との交叉点にある。Media Pointの意義は、だから、1/4回転にある。即ち、両者の交叉性をもった垂直から水平への転換にある。だから、虚軸的Media Pointとか実軸的Media Pointというのは、本来正しくない言い方である。それは、Media Point自体を破壊している考え方である。
 ならば、Hの考え方をどう見るべきか。一方には超越論的差異があり、他方には同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。Hの思想には、Media Pointはない。似て非なるものである。
 超越論的差異と同一性の二元論として、現存在がある。両者の交わらない二元論的現存在である(これは、不正確である。現存在においては、交わるのである。)。
 思うに、超越論的差異と同一性との結合を考えないわけにはいかない。超越論的差異が同一性化するのだ。そして、同一性から脱却して、超越論的差異へと復帰する。
 思うに、同一性構造とは、超越論的二項対立構造ではないのか。この超越論性と超越論的差異が結びついているのではないのか。より的確に考えると、同一性化における超越論性と同一性との二元論的発生がHの哲学の意味ではないだろうか。
 ここで、PS理論から見ると、Media Pointからの同一性の形成において発生する事態を表現したのが、Hの哲学ではないだろうか。つまり、Media Pointを否定・排除・隠蔽するようにして、超越論的同一性構造がここに発生して、一面には超越論的差異が、他面には同一性が生起(現象)するのではないか。即ち、一面では超越論的差異であり、他面では二項対立的同一性である。Hは、前者を本来的存在と、後者を非本来的存在と呼んでいるように考えられる。
 そう見れば、端的に、Hの思想は、構造主義に通じる面がある。そして、ポスト・モダン哲学にも通じる面がある。とまれ、Hの思想は同一性の思想の延長にあるだろう。「超越論的差異」的同一性である。(それに対して、フッサールの哲学は、超越性ないしは超越的差異がある。ドゥルーズの思想は、ほとんどHの思想である。又、デリダの脱構築主義もほとんどHの思想である。つまり、Hの存在=時間(根源的時間)を差延に置き換えたように思える。)
 問題は超越論的差異と同一性の統一性、言わば、「超越論的差異」的同一性構造を破壊することにあるのである。Hの哲学はフッサールのブレークスルーを無視したものの「ポスト・モダン」であった。そう、構造主義を超えて(時間的順序が反対となるが)、近代主義的超越論的構造を明らかにした。ドゥルーズやデリダのポスト・モダン哲学は、それを踏襲しているのに過ぎないと考えられるのである。
 不連続的差異論が超越論的差異と同一性の統一体、即ち、「超越論的差異」的同一性構造を破壊したと考えられる。差異を同一性から解放した。そう、超越的差異(超越論的差異との区別は絶対的である)の発見である。そして、プラトニック・シナジー理論はそれに即非性を与えた。つまり、超越的即非差異(超越的差異即非)の発見である。即ち、ポスト・ポスト・モダン=トランス・モダン哲学である。
 結局、構造主義/ポスト・モダンの壁を突破したと考えられる。プラトニック・シナジー理論はフッサールの超越性を救い上げる形で、鈴木大拙の即非論(ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」の思想もほとんで同じである)を取り込んで成立したのである。
 言い換えると、プラトニック・シナジー理論は、不連続的差異論が構造主義/ポスト・モダン哲学の壁を突破し、それによってフッサールの超越性を救い出し、取り出した超越的差異に、鈴木大拙の即非論を取り入れることで、いわば、超越的差異即非論として成立し、さらに、Kaisetsu氏による数学化[(+1)*(-i)⇒+1]によって、数理/科学化(数理科学化)されたのである。

注:以上の論考は、http://ameblo.jp/renshi/entry-10045161527.html
の本文を修正したものである。

2007年08月28日 (23:20)

『存在と時間』の存在:存在の「良心」と道具的世界:存在は唯一者=エゴイストではないか?

先に、ハイデガーの世界には、他者が不在であることを述べた。ハイデガーの世界は道具的連関が支配する。そのような世界における現存在が世界内存在である。そして、そのような存在者として、実存的である。
 また、現存在は、死へとかかわる存在であり、本来、単独的である。ここが、本来的自己であり、存在を意味しよう。しかし、存在自体は判然としないように思える。
 他者が不在であると言ったが、強いて言えば、死が他者である。しかし、ハイデガーの死は、観念的な死だと思う。想念の死だと思う。だから、真に他者とは言えないだろう。
 とまれ、ハイデガーの存在ないしは自己は、単独性であることは確かである。固有の自己である。しかし、差異や他者がそこには不在である。これは、どういうことだろうか。責めある存在や良心の呼び声についてハイデガーは述べている。おそらく、それが、ハイデガーの他者ではないだろうか。良心が他者である。これが、存在の他者であろう。
 私が言った他者の不在とは、いわば、外的他者の不在である。世界内他者と言いたいところだが、ハイデガーの世界は、道具的世界なので、基本的に、外的他者が不在であるので、そう言えない。
 だから、内的他者として良心が存在していると言えようが、それが、水平化されていないのである。水平的世界は、道具的世界であり、自我(自我中心主義ではなく)の世界である。
 すると、ハイデガー哲学は、奇妙な分裂というかパラドクスが支配していることになる。いわば、自己存在の他者としての良心と道具的世界とのパラドクスである。つまり、良心と道具的世界との結びつきがないということである。簡単に言えば、良心の存在と道具の世界との分離的二元性である。
 私は、これは、錯誤であると思う。良心の存在があるならば、それは、本来、外的世界の他者にも向けられるからである。しかしながら、外的世界は、単に、道具の世界であり、他者が不在なのである。ということは、ハイデガーの世界概念が偏頗であるということである。それは、誰が見てもわかるだろう。その世界には、道具しかないからである。一方では、良心という存在、他方では、道具だけの世界。なぜ、世界に他者が不在なのか、理由がわからない。
 少なくとも、ハイデガーの存在は閉ざされた、閉塞した存在であることは間違いない。外界に他者が不在であるというのは、正に、唯我的である。これは、きわめて尊大であろう。悪魔的というか、一種、凶悪犯罪に結びつくような精神である。そう、外的他者を前提としない良心とは何だろうか。他者なき良心とは何だろうか。
 それは、端的に不毛であろう。偽善・欺瞞的な良心ではないだろうか。良心であるとの思い込みないしは妄想ではないのか。(ここからも、ハイデガーはパラノイアではないかということは、考えられることである。)
 とまれ、世界に他者が不在であることは、決定的に、異常である。そう、他者を無視しているのである。究極の傲岸不遜さであろう。やはり、ここには、差異の否定があるのである。なぜなら、外界は、差異が原初的投影があり、地の上に、同一性の絵が投影されるのであり、他者を否定するということは、前提の差異を否定することであるからである。
 思うに、この差異の否定が、「良心」を発生させているのではないだろうか。言い換えると、ハイデガーの存在とは、差異の否定自体であり、否定された差異の蠢きとして、「良心」(良心という思い込みないしは妄想)があるのではないのか。
 差異の否定、究極的な同一性ということで、ハイデガー哲学のパラドクスが説明できるように思える。つまり、存在とは、差異の否定であり、それが、外界の他者の不在を発生させていて、また、差異の否定による同一性が道具的世界を形成していると思うのである。つまり、端的に、エゴイストの哲学である。先に、シュティルナーの唯一者とのいくらかの類似を述べたが、確かに、エゴイストという点では、共通する。そして、確かに、ハイデガーの存在は、唯一者と呼ぶにふさわしいだろう。

2007年08月28日 (11:46)

ハイデガーの『存在と時間』と他者の不在

『存在と時間』から、事物への配慮があるが、他者の不在を表していると考えられる箇所を引用したい。

「・・・世界内存在は、差しあたって世界という現象に着目して性格づけられた。しかもわれわれの究明は、環境世界の「内で」の道具的に存在しているものや事物的に存在しているものを存在的・存在論的に特色づけることから出発して、さらに世界内部性を際立たせることへと進み、こうして、この世界内部性に即して世界性一般の現象を看取しうるようにするにいたった。」『存在と時間 Ⅲ』p. 80 (中公クラシックス)(赤色ボールド体は、renshiによる強調である。)

つまり、ここでは、世界内存在は、世界環境内部における道具や事物から、世界認識を形成することを述べているが、これでは、世界は、端的に、モノの世界であり、人間不在である。つまり、モノの認識は、人・他者の認識より遅れるか、あるいは、同時だと考えられる。世界が道具や事物だけとは、考えられない。もし、世界が道具や事物だけとするならば、ハイデガーの世界概念が間違っているのである。

同様の他の箇所も次に引用するが、説明を繰り返すが、配慮的に気遣うということは、事物やモノを気遣うということで、人間・他者を気遣うということではない。

「気遣いとして現存在は、本質上、おのれに先んじているのである。差しあたってたいていは、配慮に気遣いつつある世界内存在は、おのれが配慮的に気遣っている当のものにもとづいて、おのれを了解している。非本来的な了解は、日常的に従事しているさまざまな業務の配慮的に気遣いうるもの、実行しうるもの、緊急を要するもの、不可避的なものをめがけて、おのれを企投する。しかし、配慮的に気遣われたものは、それが存在するとおりに、気遣いつつある存在しうるという目的のために存在しているのである。この気遣いつつある存在しうることを現存在は、配慮的に気遣われたもののもとでの配慮的に気遣いつつある存在において、おのれへと向かって到来せしめるのである。現存在は、第一次的には、おのれの最も固有な没交渉的な存在しうることにおいておのれへと向かって到来するのではなく、むしろ現存在は、配慮的に気遣われたものがもたらす成果や、それがこばむ拒絶にもとづいて、配慮的に気遣いつつおのれを予期している。配慮的に気遣われたもののほうから現存在は、おのれへと向かって到来するのである。非本来的な到来は予期という性格をもつ。ひとが従事している当のものにもとづいて、世人自己として配慮的に気遣いつつおのれを了解することは、到来のこうした脱自的様態のうちに、その可能性の「根拠」をもっている。」 p. 86 (尚、訳文の傍点は、下線に変えた。)

2007年08月27日 (21:05)

ハイデガーの『存在と時間』に見られる問題点:配慮的気遣いと他者の不在

今は、余裕がないので、引用しないが、ハイデガーの『存在と時間』は、後半、他者不在の哲学になっていると考えられる。
 前半においては、他者への顧慮と事物への配慮の二面があったが、後半は、後者である配慮的気遣いのみが現存在の非本来的自己として取りあげられているのである。
 先に、私は、ハイデガー現象学には、差異共振性がないのではないかと提示したが、やはり、それは正しかったと思う。
 ハイデガーの説く本来的自己は、だから、他者なき自己となり、一種唯我論的である。これは、キルケゴールやニーチェの単独性から後退している。キルケゴールには、神という他者があったし、ニーチェには、未来の他者があった。
 いったい、これをどう考えたらいいのだろうか。配慮的気遣いとは、事物、物質への配慮であり、人間は対象となっていないのである。自己以外の人間(他者)が消えているのである。思うに、ハイデガーの本来的自己とは、同一性志向性をもつと言えるが、それが、物質的同一性志向性なのである。モノ(道具等)への同一性志向性なのである。
 これは、きわめて異常である。また、不気味でもある。人間、他者が消えているというのは、本来的自己に差異がないということになるだろう。差異があれば、差異共振性が生起するからである。
 そう、先に触れたが、シュティルナーの唯一者に似ているが、それよりはるかに無機質であり、不気味である。
 冷血な、というか、無血的な、同一性志向性がある。ハイデガーの自己は、モノと自分しか見ていないようだ。では、ハイデガーの自己(本来的自己)とは何なのか。思うに、シュティルナー的なエゴイストをはるかにドライにした、無機的にした、唯一者・単独者ではないだろうか。思うに、それは、ハイデガーの風貌や、文体の無機質さにも通じるものである。
 そう見れば、ナチスに関与したのも、驚くことではない。ナチスの冷血さに、惹かれたのではないだろうか。そう、ハイデガー哲学は、悪魔的である。確かに、異常に明敏な分析的知性があるが、共振的精神が欠損しているのである。
 後で、フッサール現象学の意義について、簡単に述べたい。
 
p.s. フッサール現象学にあって、ハイデガー現象学にないものは何か。私の直感では、フッサールは、差異を、それも、純粋差異を発見した。しかし、フッサール自身の囚われから、それを、同一性理性認識をもつ超越論的主観性としたのである。言い換えると、フッサールの実際に把捉したものと、言語化したものとは、別物なのである。よく作家には生じる二重性であるが、それと同質だと思う。私はフッサールは、差異の志向性を発見したのだと思う。これは、 Media Pointである。しかし、それを同一性の志向性に言語化したのである。
 では、その発見に対して、ハイデガーは、どうしたのか。ハイデガーはフッサールの差異の志向性=Media Pointを看過している。そして、同一性の志向性をもつ自己を存在として捉えたのだと思う。
 つまり、ハイデガーには、差異は元々不在であった可能性がある。即ち、同一性自己がある。それが、外界を気遣う(関心をもつ)。そこには、道具的存在や事物がある。しかし、それらに気遣う自己は、非本来的自己である。だから、それらへの気遣いを無くして、本来の自己へ帰還する必要がある。本来的自己とは同一性自己である。だから、ほとんどヘーゲル哲学である。ハイデガーの使用する、配慮的気遣いを意味する頽落は、ヘーゲルの疎外に通じるだろう。そして、ヘーゲルが否定の否定である疎外の否定としての精神への復帰が、本来的自己への復帰である。ただ、死へかかわる存在という味付けがあるのが違いだろうか。
 ハイデガーは確かに、異様に明敏な分析的知性がある。しかし、叡知はほとんどないだろう。思わせぶりな、変奏曲のような内容で、煙に巻いているのだ。ペテン師ハイデガーという気がしてきた。おそらく、ハイデガーは、一種精神病ではなかったのだろうか。そう、パラノイアである。これは、近代主義の病気である。パラノイアと考えると、『存在と時間』のもつ唯我論性が理解できるのではないだろうか。
 また、時間論であるが、それは、差異(Media Point)の時間論ではなくて、同一性の時間論に過ぎないのではないのか。(時間論については、後で再考する。)
 
p.p.s. ハイデガーの唯我論性であるが、率直に言えば、私のことを考えると、わからないでもない。私は若いころ、自分以外誰も存在せずにも、生きていけると思ったものである(p.s. 最近、そのような考えがふと浮かんだことはあったが)。他者不在である。それは、同一性構造がもたらす唯我論性だと思う。近代主義の唯我論性である。これは、無機的であり、不気味である。
 とまれ、ハイデガーは、フッサールが開拓した現象学の地平をすぐに閉ざしてしまった人物ではないだろうか。私は、ハイデガー現象学はポスト・モダン哲学の先駆であると言ったが、それは訂正したい。ハイデガー哲学は近代主義の反動である。現象学の偽装をもったヘーゲル主義である。ハイデガーがテクノロジーについて論じるのは、当然であろう。近代主義者なのだから。
 では、ポスト・モダン哲学はどういうことになるのか。構造主義を乗り越えるために、きわめて困難な状況にあったと言えよう。本来、フッサール現象学を批判的に継承すべきなのに、例えば、デリダは、フッサールを誤読して、否定的に理解して、差異と同一性の混合する様態を提示したのである。差延である。そして、差延から、同一性主義を批判したのである。
 ドゥルーズは、いわば、通俗的なプラトニズム=同一性主義を批判して、差異を説いたが、それは、連続的差異=微分であった。
 結局、フッサールの差異を救い出せばよかったのであるが、それができなかった。なぜだろう。思うに、デリダもドゥルーズも、フッサールの超越論的主観性の示唆する超越性を怖れていたからではないだろうか。表現が微妙なのだが、超越的差異(超越論的差異ではないだろう)を怖れていたと思う。彼らは唯物論的だったと思う。そう、フランス左翼の唯物論が彼らには支配的ではなかっただろうか。

2007年08月27日 (01:24)

ハイデガーの「気遣い」とは何か:PS理論の視点から:水平的Media Pointとしての気遣い

想像するに、ハイデガーの言う「気遣い」とは、Media Pointにおける現象に対する志向性ではないだろうか。つまり、Media Pointにおける、「天」から「地」への下降の段階・過程において発現する志向性ではないだろうか。ここでは、垂直性から水平性へと志向性がシフトしているのである。そう、この垂直性から水平性へのシフトは重要なポイントである。虚点から実点への転換なのである。この実点としてのMedia Pointにおける志向性がハイデガーの「気遣い」ではないだろうか。
 とまれ、このとき、差異が無意識に、外界に投影されるだろう。そして、その無意識の外界におけるなんらかの原対象に対して、主体は、同一性を投影するのである。そして、言語認識を形成するのでる。
 では、それは、何を意味するのか。これまで、単に、Media Pointにおける同一性構造の投影と考えてきたのであるが、それ以前に、無意識の差異の投影があることを考えなくてはならない。
 無意識の内に、差異が投影された外界空間がある。そこに原対象があり、それを言語同一性化する。思うに、投影された差異とは、主体に内在する差異であり、本来、主体はそれに共振している。明快にするために、投影される差異を自己差異としよう。それは、差異共振空間でもあろう。
 その投影された自己差異ないしは差異共振空間において、外的他者が発生する。思うに、初期においては、主体は、外的他者に対して、自己差異ないしは差異共振空間を適用して、外的他者と共振しているのである。そして、その、いわば、差異共振化した外的他者に対して、言語同一性を適用して、外的他者を言語同一性認識する。
 つまり、最初期においては、基本的には、同一性は差異を否定・排除・隠蔽していないのである。差異と同一性が一致するのである。これが、幼児のある基本的な体験ではないだろうか。
 しかしながら、ある外的他者は自分に対して阻害的ならば、主体の差異共振的同一性認識は破れて、主体は反感的認識を形成するだろう。そう、差異共振的空間の否定様態がそこには成立するのである。そして、ここにおいて、自我主義が形成されると考えられる。自我は、差異共振的同一性認識の同一性において形成されているが、差異共振性が否定されて、自我主義ないしは自我中心主義が発生すると考えられる。それは、差異共振性を抑圧するのであり、同一性中心主義へと向かい、無明・世人となるのである。
 以上のような視点から、再度、ハイデガーの「気遣い」ないしは「気遣いの構造」を考えると、それは、最初に述べたように、垂直から水平へと転化した志向性であると言えよう。ここでは、思うに、垂直への意識をほとんど忘却しており、水平・現象・外界へと志向性が向けられている。しかしながら、主体は差異であることは、変わらない。つまり、差異の志向性が、ハイデガーの「気遣い」である。これで、解明したこととしたい。
 先にも触れたが、ハイデガーの「気遣い」は、本来的自己を形成するために、単独化するのであるが、それは、水平化した差異、即ち、同一性化した差異における単独化ということだと考えられる。これは、キルケゴールやニーチェの単独性と同質であろう。つまり、差異が同一性から切断されずに、同一性=自我化をもったままの、差異への回帰がその単独化だと思われるのである。だから、そこでは、差異本来の共振性が不明確だと思われるのである。
 言い換えると、単独性が不連続的差異になっていないと考えられるのである。だから、一種唯我論的になると思われるのである。そう、マックス・シュティルナーの唯一者に近くなると思われるのである。
私の見るところ、ハイデガーの「気遣い」には、差異の志向性のもつ差異共振性が欠落しているのではないかという危惧があるのである。
 そのような見方では、ハイデガー現象学は、ポスト・モダン哲学そのものである。
 とまれ、少し整理すると、Media Pointの水平化において、差異の志向性は、同一性構造をもっている。つまり、水平的Media Pointである主体は、差異と同一性の両義・相補性構造をもつのである。差異的同一性の志向性とも言えるだろう。この視点からハイデガーの「気遣い」を見ると、それは、ほぼ差異的同一性の志向性に当たるが、しかしながら、差異と同一性の両義・相補性からは真に脱却せずに、差異と同一性の両義・相補性構造に留まって、単独性=本来的自己を説いているように思えるのである。端的に、ハイデガー現象学には、差異が本来もつ差異共振性への志向性が乏しいと感じられるのである。差異と同一性の両義・相補性構造が強いとは言える。水平的Media Pointの哲学と言えるのではないだろうか。

2007年08月10日 (19:49)

ハイデガー現象学とは何か:仏教的本質の西洋哲学化

ハイデガーの『存在と時間』(中公クラシックス)を読み進めているが、ハイデガーのエクリチュールが明らかに、第1部第1篇第4章辺りから変わって、迂回するような文体からより直截的な文体へと変わっていると思う。勿体のつけ方も減ってもいる。
 さて、そのことより、読んでいて直感したのは、くどくどと、現存在だの、存在論的だの、実存的だの云々と、似たり寄ったりの概念を展開しているが、結局、ハイデガーが問題にしているのは、仏教哲学であると思ったのである。結局、無明と悟り(悟達・開悟)の関係を西洋哲学的に叙述しているのだと思ったのである。無明が世人様態であり、悟りが本来的自己存在である。結局、仏教を西洋哲学的に解明していると考えれば、晦渋であるが、実にわかりやすい愉しい著書であると思ったのである。
 そもそもフッサール現象学自体が、仏教的なのである。「事象自体へ」という発想は、純粋に事象を視るということである。真実在(真如)を視るということである。フッサール現象学が切り開いた西洋哲学的仏教論をハイデガーが創造的に継承して、さらに西洋哲学による仏教論を展開していると思えるのである。
 後期のハイデガーは、日本人の影響を受けて東洋哲学を触れたであろうが、よくは知らなかったではないだろうか。仏教のドイツ語訳がどれほどあったのだろうか。鈴木大拙の独訳はあってもよさそうであるが。
 思うに、どうして、こんなに分かりやすいことをはっきり言う人が少ないのだろうか。当然、現象学と仏教の比較研究は多くされているだろうが、端的に同質のものであることを述べている人は寡聞にして知らない。
 思えば、不連続的差異論が生まれるすぐ前の頃、根井康之氏の『東西思想の超克』等の著書を読み、仏教(華厳経)、マルクス、現代西洋哲学、自然科学(量子力学)が「根源的自然」というキーターム、キーコンセプトを用いて包括的に論じられているのを知り、私の求めていた理論の裏付けができたと感じたものだった。私の直感していたもの、「コスモス」が、「根源的自然」で理論化できると思ったのであった。結局、不連続的差異論においては、「根源的自然」は、イデア界/メディア界になったと言えよう。さらに、鈴木大拙の即非の論理を適用して、プラトニック・シナジー理論として進展・深化したのであった。
 即ち、PS理論は単に、プラトン哲学だけではなく、仏教哲学を基礎理論としてもっているのである。ということで、仏教哲学の視点をもった新しい差異の哲学・理論なのである。ということなので、PS理論的視点から視ると、他の哲学・思想等を対象としたとき、仏教性を認識できるのだと思うのである。そう、先に簡単に触れたが、アリストテレスの『心とは何か』の「心」も、仏教の「心」(『大乗起信論』)に似ているのが直感できたのである。
 とまれ、ハイデガー現象学の存在とは何か、簡単に言うと、それは、文化的に言えば、精神、魂、心であり、科学的に言えば、量子であると思う。PS理論的には、Media Point 乃至はエネルゲイアである。
 そして、Media Pointが虚界・イデア界に通じているように、存在は無に通じているのである。
 そう思うと、西洋人が、仏教的本質を対象にすると、フッサールにしろ、ハイデガーにしろ(おそらく、メルロ=ポンティも入るだろう)、なんと晦渋な表現になることか。そう、西洋の近代的理性を超えた異質なものを対象とするとき、なんと不器用なのだろうと思う。キリスト教的思想が支配的であるため、仏教的本質を探求するのが、西洋人にとっては実に困難になると考えられるのである。
 もっとも、西田幾多郎の著書を見ても、日本人でも、仏教的本質を西洋哲学化するのは、実に困難なのである。西田のほとんど理解困難な日本語を見ればいいのである。
 とまれ、仏教が今日、日常社会における知恵になっていないのは残念である。仏教的経済がありうるだろう。それは、精神世界をもちつつ、物質世界の秩序的創造に意を尽くすだろう。

2007年08月09日 (00:12)

ハイデガーの『存在と時間1』の圧巻:第4章:共存在および自己存在としての世界内存在

ハイデガーの『存在と時間1』の《第1部第1篇第4章:「共存在および自己存在としての世界内存在」:第25節~第26節》は、本書の圧巻である。
 ここでのハイデガーの論考は鋭敏であり覇気がある。それまでの、くどい、勿体ぶった叙述がなくなり、世間に対する闘争的なパトスをもった、鋭敏な洞察力をもった叙述となっている。とりわけ、第27節:「日常的な自己存在と世人」がすばらしい。
 ここでの記述は、真に現象学的記述と呼ぶのにふさわしい。ここで述べられている「世人」論は、PS理論における同一性=自我(=「他者」)論とほぼ同一であると言える。わずか新書判で11ページであるが、凝縮された内容をもっている。(『存在と時間』は、最初は退屈なので、この箇所をエッセンスとして出すといいだろう。縮約版ができるだろう。)
 ここで簡単に具体例を出すと、「本来的自己存在は、世人から分離されたところの、主体の一つの例外状態ではなく、本質上の実存範疇としての世人の一つの実存的変様なのである。
 だが、そうだとすれば、本来的に実存しつつある自己の自同性は、存在論的に、体験の多様性のうちでおのれを持ちこたえつつある自我の同一性からは、一つの裂け目によって切り離されていることになる。」(訳書の傍点の箇所を下線で強調した:by RENSHI) p.335~p.336
 「世人」の実存的変容が「本来的自己存在」であるというのは、PS理論から言えば、同一性=自我の特異性・MP的変容として差異的同一性=自己があるということになるだろう。また、「自我の同一性」と「本来的に実存しつつある自己の自同性」(=「本来的自己存在」)とが「一つの裂け目」によって切断されているというのは、正に、同一性=自我と差異的同一性=自己がMedia Pointによって切断されているということになるだろう。即ち、「一つの裂け目」とは、端的に、Media Pointである。あるいは、先に私が述べた同一性パラドクス様相である。
 同一性=自我(ハイデガーの世人)は、差異(=特異性・個・自己)を否定・排除・隠蔽・埋没・秘匿しているのである。そして、この否定の境界、即ち、「一つの裂け目」が、端的に、Media Pointなのである。
 以上のように見ると、ハイデガー哲学はPS理論とほぼ等しい内容をもっていることになる。だから、フッサール現象学と続いて、PS理論の先駆の一つであると言えよう。
 フッサールとハイデガーとの関係を簡潔に見るならば、フッサールの超越論的主観性をハイデガーは存在として「進展」させていると言えるのかもしれない。しかし、思うに、フッサール現象学には、存在の視点はあったのであるが、フッサールがデカルトのコギト主義=主知主義に囚われていたので、超越論的主観性を超越論的存在(私の造語であるが、これがハイデガーの存在を簡明に説明するだろう)へと転換できなかったと思えるのである。実際は、超越論的主観性は、存在性を帯びていたと思えるのである。(p.s. 正確に言えば、超越論的知・即非・存在論だろう。)
 ハイデガーは、フッサールの矛盾をおそらく直観して、超越論的存在論を立てたのである。(PS理論から言えば、超越論的存在論とは、超越的存在論である。)そして、さらに、ハイデガーは、フッサール現象学の同一性主義(デリダ的に言えば、ロゴス中心主義)を乗り越えて、特異性としての自己(「本来的自己存在」)を把捉していたと考えられるのである。
 明らかに、ハイデガーは、同一性=自我と特異性=自己(差異的同一性)との差異を捉えていた。ただし、「本来的自己存在」が差異的なものであることを理解していたかどうかは問題である(p.s. この箇所は少し論理がおかしい。特異性は当然、差異であるからである。後の論考を参照。)。所謂、ハイデガーの存在論的差異とは、存在と存在者との差異であるが、存在(=特異性乃至はMedia Point)自体の差異ではない。
 さて、先に、私は、ポスト・モダン哲学の原型はハイデガー哲学にあると述べたが、以上の考察から、それは正しいし、極言的に言えば、ドゥルーズやデリダの哲学は、フッサール/ハイデガー哲学の亜流である。とまれ、フッサール/ハイデガー現象学と正しく言うべきだろう。(ハイデガーはフッサール現象学に未分化的に内包されていた純粋超越的存在を取りだしたと言えよう。しかし、それが、超越的差異になっているかは微妙なところである。)
 では、ハイデガーは、超越的存在(本来的自己存在)を捉えたが、超越的差異(即非的差異)を捉えていたかどうかである。本来的自己存在とは、実存的本質(サルトルの「実存は本質に先立つ」という考えは誤謬である)であり、特異性であるから、確かに、差異としての自己を捉えていたと言えよう。しかしながら、それを即非的であると把捉していたかどうかは問題である。この点が、キーポイントである。
 確かに、ハイデガーはMedia Pointや特異性までは捉えているが、超越的差異=即非的差異まで捉えたか。(この点では、ハイデガーはドゥルーズよりもはるかに進んでいる。ドゥルーズの特異性は似非特異性であるからだ。)もし、ハイデガーがヘルダリンの差異共振性の思想(イエスとギリシアの神々の調和の思想)を理解していたならば、ハイデガーは、超越的差異=即非的差異を捉えていた可能性はある。今のところの私の予感では、ハイデガーはそこまでは達していないだろうが、おそらく、近づいていたとは思える。
 「一つの裂け目」というMedia Point乃至は特異性を理解していたのだから、それが、超越的即非差異であることを認識するのは、困難であるとは言え、直感的には遠くはないのである。
 今、これまで私は評価していない木田元氏の『哲学と反哲学』(同時代ライブラリー)の「四 真理の生起としての芸術作品 ハイデガー」(p. 162~p. 169)のところを読んだが、どうやら、ハイデガーは、差異即非性を概念的というよりは、直感的に把捉していたように思える。
 そこでは、ギリシアの神殿(おそらく、パルテノン神殿)のもつ意義として、その作品によって諸々の現象が立ち現れる(ピュシス)と同時に、ピュシスは人間が住まう場所である《大地》に光をあてたことであると述べられている。また、《大地》は、立ち現れるものを自分に引き込むと説明されている。どうやら、言及されているピュシス(乃至は世界)と大地との闘争が、差異即非を意味しているように思えるのである。iをピュシス乃至は世界、-iを大地とすれば、 i*(-i)の即非関係をハイデガーは芸術作品に即して述べていると思えるのである。(p.s. 正確に言えば、ピュシスは世界と大地を含んでいるだろう。ピュシスはエネルゲイア、Media Pointであろう。)
 ここで、このハイデガー(『芸術作品の起源』)からの引用を孫引きして、証明の資料としよう。
 「そこに立つ建築作品は岩根の上にやすらっている。この作品がこのようにやうらうことによって、岩からそのぶこつな、だがやはり何ものへ向けられているのでもない支える力の暗さがとり出される。そこに立つその建築作品は、その上に荒れ狂う嵐に耐え、そのようにしてはじめて嵐の荒々しい力に気づかせる。石材のきらめきと輝きは、見たところただ太陽の恩恵によるように見えるが、むしろそれがはじめて日の光や空の広がり、夜の闇を現出させるのである。それが確固とそびえ立つことにおって、大気の満ちた眼に見えぬ空間が可視的になるのだ。この作品のゆるぎなさが大海原の潮の波立ちから際立ち、この作品の安らぎを背景に潮騒が響きわたるのである。樹と草、鷲と牛、蛇とこおろぎが、この作品のまわりではじめてそのくっきりとした形態をとるようになり、それらがそれぞれに現われ出てくることになる。このように姿を見せ立ち現れることそのことを、そしてその全体を早朝のギリシア人たちはピュシスと呼んだ。ピュシスは同時に、人間がその上に、またそのうちにおのれの住まいを定めるあのものに光を当てる。われわれはそれを〈大地〉と呼ぶ。・・・・・・大地とは、立ち現れることがすべての立ち現れるものを、しかもそのように立ち現れるものとしてのそれらを、そこへ引きもどしてかくまうところである。立ち現れるもののうちで、かくまうものとしての大地が現成するのである。・・・・・神殿とういう作品は、そこに立つことによって一つの世界を開き、同時にその世界を大地へと送りかえす。そのようにしてはじめて大地そのものも、故郷とも言うべき基底としての姿を現わすのである。」p. 165~p. 166

もう一箇所、木田元氏の説明のついた部分を引用しよう。

『ハイデガーは、そのようにすべてのものが姿を見せ立ち現れることを可能にする明るみを世界と呼び、その世界の現成と同時に、それらすべてを引きもどし、かくまおうとするものとして現成してくる基底を大地と呼ぶ。そして作品のうちで「世界は大地の上に安らぎながらも、この大地を俯瞰しようとする。おのれを開くものとしての世界はおのれを閉ざすものを何ひとつとして許さないのである。だが、一方、大地はかくまうものとしてそのつど世界をおのれのうちに引き込み、おのれのうちにとどめようとする」。作品のうちにあって世界と大地は〈闘争〉(Streit)の関係にあるのである。ハイデガーは芸術作品のうちで闘われる世界と大地とのこの闘争こそが真理の生起であり、真理の実現(ins-Werk- setzen=エネルゲイア)だと主張する。』p. 167
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