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2007年12月02日 (19:08)

構造主義について:垂直性と水平性の混同する構造主義とサブ構造主義としてのポスト・モダン:トランス・ポスト・モダン=トランス・モダン=トランス・オクシデント

(+i)*(-i)を根源的対立とすると、構造主義、とりわけ、神話学的構造主義は、この対立がMedia Pointにおいて、連続=同一性化したときの様態を捉えたもののように思える。即ち、(+i)*(-i)⇒±1の⇒±1を形式化したものではないかと思えるのである。たとえば、「天」と「地」との対立があるとしよう。これを、構造主義は、二項対立(二元論)として、⇒-1の側面を形式化する。そして、同時に、即非対立の側面⇒+1であるが、これを構造主義は中間項として提起すると思われるのである。山口昌男で言えば両義性である。つまり、構造主義は、Media Pointにおける連続=同一性化プロセスにおける顕在且つ潜在的両面を形式化しているということである。顕在的側面とは⇒-1であり、潜在的側面とは⇒+1である。
 問題は、潜在的側面・中間項を、顕在的側面・二項対立と同じ次元・レベルで扱っていることである。つまり、本来、垂直・虚数的事象であることを、水平・実数的事象として扱っているのである。一種のカテゴリー・エラーがあると言えよう。つまり、端的に言えば、混乱・混同・混濁・混線があるのである。垂直性と水平性の混乱・混同があるのである。これは、結局、ポスト・モダンの混乱、袋小路に引き継がれたのである。思うに、構造主義よりも、ポスト・モダンは理論的には、悪化した面があるのである。なぜなら、神話学的構造主義を考えると、そこには、混乱しつつも、垂直性が作用しているが、ポスト・モダンにおいては、垂直性が否定されているからである。デリダは、フッサール批判において、フッサールの垂直性(超越論性)を否定・排除しているし、ドゥルーズ(&ガタリ)は、フッサール現象学の超越性を否定しているのである。ここにおいて、ハイデガー哲学について言及しておくのが適切である。ハイデガー哲学こそ、フッサール現象学の超越性を否定した似非現象学なのである。ポスト・モダン哲学の元祖はハイデガー哲学である。(また、さらに言えば、ヘーゲルこそ、ポスト・モダンの大元祖であると考えられる。なぜなら、構造主義論理は、弁証法論理と一致すると考えられるからである。)
 もう少し、ポスト・モダン哲学について述べると、これは、神話学的構造主義のもっていた垂直性を否定して水平性へと還元させた理論と考えられる。プラトニック・シナジー理論で言えば、実数軸の理論であり、Media Pointが実数軸の原点に還元されているのである。だから、この点から言うと、ポスト・モダンとは、サブ構造主義(亜・従位構造主義)sub-structuralismである。だから、ポスト構造主義とは、誤った命名である。
 ここで、視点を広くすると、芸術におけるモダニズムが構造主義に相当するだろう。そこでは、垂直性と水平性が混乱しているのである。そして、モダニズム主流においては、水平性・同一性が優位となり、垂直性を否定したのである。それに対して、モダニズム傍流においては、垂直性が優位となったのである。D.H.ロレンス文学はそのようなものであるし、宮沢賢治文学もそうである。ポスト・モダンとは、サブ構造主義なのである。「デカダンス」である。今日の文化的混乱・行き詰まり・閉塞はここに根差すと言えよう。トランス・ポスト・モダンが必要なのである。それは、同時に、トランス構造主義であるし、端的に、トランス・モダンである。
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2007年08月29日 (23:48)

ハイデガー哲学を超えて:Media Pointと「超越論的差異」的同一性:PS理論とポストモダン

今日は、比較的涼しかったが、タリーズに行って、『存在と時間』の未読部分を読みつづけた。そして、思索して、本に書き込んだことを、以下、記したい。論述に乱れたところがあると思うが、ほぼそのまま転記したい。
 さて、一言あらかじめ述べておくと、これまで、ハイデガー哲学について考察してきたことは、評価において、極端に揺れ動いている。最初は、ポスト・モダン哲学の先駆としてのハイデガー哲学と捉えたり、あるいは、PS理論の先駆と考えたりしたが、昨日、ハイパーな近代主義ではないかと考えた。そして、今日、良心の呼び声に関わる箇所を読んで、考え直した。問題点は、本来的存在のもつ単独性と世界の道具性のパラドクシカルな二元性である。単独性があるならば、ポスト・モダン的であるが、世界の道具性は、同一性を意味して近代主義的である。この齟齬をどう解決するかにあったのである。私は、この両極に揺れ動いたと言える。しかし、今日、これを統一する視点がないかと考え込み、思いついた仮説を以下に記したい。尚、〔 〕は転記の際、補足したものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現存在をM.P.[Media Point]とするなら、垂直共振性が水平共振性を帯びるはずである。しかし、現存在には、水平共振性が欠損している。だから、現存在は正当なM.P.ではない。水平共振性を欠落させたこの現存在とは何か。
 思うに、現存在は超越論的差異である(超越的差異ではない)。それは、虚軸的MP[Media Point]であり、実軸的MPが排除されている。だから、水平共振性は発生しない。
 しかしながら、現象する存在者であるから、当然、実軸性を帯びている。世界内存在である。しかし、ここには水平共振性は欠落して、相互同一性〔ないしは、間同一性、又は、単に、同一性でもよい。ここで、相互同一性というのは、ハイデガーの配慮的気遣い、ないしは、道具的世界の様態である。〕が主導的である。つまり、同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。これをどう見るのか。思うに、存在者ないしは世界内存在の観点では、ハイデガー(以下、H.)は、実軸的MPで考えているように思える。つまり、虚軸的MPを排除している。
 M.P.〔MP〕の意識は虚界と実界との交叉点にある。M.P. の意義は、だから、1/4回転にある。〔即ち、〕両者の交叉性をもった垂直から水平への転換にある。だから、虚軸的MPとか実軸的MPというのは、本来正しくない言い方である。それは、M.P.自体を破壊している考え方である。
 ならば、Hの考え方をどう見るべきか。一方には超越論的差異があり、他方には同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。Hの思想には、M.P.はない。似て非なるものである。
 超越論性〔超越論的差異〕と同一性の二元論として、現存在がある。両者の交わらない二元論的現存在である〔これは、不正確である。現存在においては、交わるのである。〕。
 思うに、超越論性〔超越論的差異〕と同一性との結合を考えないわけにはいかない。超越論性〔超越論的差異〕が同一性化するのだ。そして、同一性から脱却して、超越論性〔超越論的差異〕へと復帰する。
 思うに、同一性構造とは、超越論的二項対立構造ではないのか[この考えが今日思いついたことである。新しい発想である。]。この超越論性と超越論的差異が結びついているのではないのか。より的確に考えると、同一性化における超越論性と同一性との二元論的発生がHの哲学の意味ではないだろうか。
 ここで、PS理論から見ると、M.P.からの同一性の形成において発生する事態を表現したのが、Hの哲学ではないだろうか。つまり、差異[共振的差異ないしは差異共振性]を排斥するようにして、超越論的同一性構造がここに発生して、一面には超越論性が、他面には同一性が生起(現象)するのではないか。[即ち、]一面では超越論的差異であり、他面では二項対立的同一性である。Hは、前者を本来的存在と、後者を非本来的存在と呼んでいるように考えられる。
 そう見れば、端的に、Hの思想は、構造主義に通じる面がある。そして、ポスト・モダン哲学にも通じる面がある。とまれ、Hの思想は同一性の思想の延長にあるだろう。超越論的同一性である[この点は、少し不正確になっている。言うならば、「超越論的差異」的同一性である。]。(それに対して、フッサールの哲学は、超越性ないしは超越的差異がある。ドゥルーズの思想は、ほとんどHの思想である。又、デリダの脱構築主義もほとんどHの思想である。[つまり、] Hの存在=時間[根源的時間]を差延に置き換えたように思える。)
 問題は超越論的差異と同一性の統一性[言わば、「超越論的差異」的同一性構造]を破壊することにあるのである。Hの哲学はフッサールのブレークスルーを無視したものの「ポスト・モダン」であった。そう、構造主義を超えて[時間的順序が反対となるが]、近代主義的超越論的構造を明らかにした。ドゥルーズやデリダのポスト・モダン[哲学]は、それを踏襲しているのに過ぎないと考えられる[のである]。
 不連続的差異論が超越論的差異と同一性の統一体[「超越論的差異」的同一性構造]を破壊した[と考えられる]。差異を同一性から解放した。そう[、]超越的差異[超越論的差異との区別は絶対的である]の発見である。そして、PS理論[プラトニック・シナジー理論]はそれに即非性を与えた。つまり、超越的即非差異[超越的差異即非]の発見である。[即ち、]ポスト・ポスト・モダン=トランス・モダン[哲学]である。
 結局、構造主義/ポスト・モダンの壁を突破したと考えられる。PS理論[プラトニック・シナジー理論]はフッサールの超越性を救い上げる形で、鈴木大拙の即非論[ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」の思想もほとんで同じである]を取り込んで成立したのである。
 言い換えると、PS理論は、不連続的差異論が構造主義/ポスト・モダン[哲学]の壁を突破し、それによってフッサールの超越性を救い出し、取り出した超越的差異に、鈴木大拙の即非論を取り入れることで、いわば、超越的差異即非論として成立し、さらに、Kaisetsu氏による数学化[(+1)*(-i) ⇒+1]によって、数理/科学化[数理科学化]された[のである]。

2007年08月25日 (17:31)

ハイデガーの『存在と時間』とプラトニック・シナジー理論(PS理論)

フッサールもそうであるが、ハイデガーの分析的論考は、きわめて綿密であり、その微に入り細をうがった文体とともに、読解するのに多大な知力を要する。有り体に言えば、うんざりする。
 とまれ、「死へとかかわる存在」としての現存在を説く箇所からは、単独性(特異性)の問題が明瞭になっていて、これは、ある意味で、分かりやすい事柄だと思う。そう、ハイデガーは、存在ないしは現存在を説くことで、キルケゴールやニーチェの問題にした単独性・特異性の存在論的考察をしていると言っていいだろう。(私は、ドゥルーズはハイデガー哲学に正対していないと思うが、それは、ドゥルーズが、ハイデガー哲学の圏内にある証拠の一つではと推測する。)
 ハイデガーの存在ないしは現存在であるが、PS理論では、Media Pointと言えるだろう。正確に言えば、存在がMedia Pointに当たり、現存在とは、Media Pointが現象的に顕現している様態を意味しているだろう。
 ハイデガーのいう非本来的自己や世人とは、Media Pointの同一性構造から発生した自我のことと言えよう。そして、本来的自己とは、同一性構造から乗り越えて、Media Pointの差異を積極的に開いた自己であると言えよう。
 PS理論では、Media Pointが時間(固有時間)になるので、当然、ハイデガーの存在が時間ないしは根源的時間に関わるということは、納得できることである。
 そのように見ると、ハイデガー現象学は、ほとんどPS理論を先取りしているように見えるかもしれない。しかしながら、Media Pointにおける根源的差異が、即非的であることは、ハイデガーは説いてはいない。また、根源的差異がイデア界・虚界性をもっていることを明確にはしていない。(もっとも、後期ハイデガーは、その方向に向かっていると思うが。)
 そうすると、ハイデガー現象学は、差異の即非性と連続性と不連続性との即非性には、達していないことになると考えられる。
 思うに、日本の哲学研究は怠慢ではないだろうか。鈴木大拙や西田幾多郎が、禅から重要な叡知を受けて、理論化したのにかかわらず、それを、現象学へ適用して、発展させなかったことは、怠慢の度を越して、ほとんど犯罪的ではないだろうか。その罪とは、知の進化に対する罪である。
 さて、最後に、少し話しが飛ぶが、現代西洋哲学の第一級の問題として、ハイデガーとデリダの関係があるだろう。私見では、ポスト・モダン哲学は、ハイデガー現象学に端を発している。(フッサールは、シェリング、キルケゴール、ニーチェと並んで、偉大な先駆者である。また、ほとんど即非論理を説いたウスペンスキーも先駆者である。)
 私は、デリダとフッサール現象学に関しては、既述したが、簡単に言えば、デリダは、フッサールの超越論性によって発見された、一種のイデア性を否定しているのである。そして、差異と同一性が連続した差延を説いているのである。
 では、デリダとハイデガーの関係はどうなのだろうか。私は、よく知らないが、先に私は、ハイデガーの存在を差延と呼んでいる節があることを言った。ただし、存在には、イデア界・虚界性が入ると思うが、差延には、基本的には入らないだろう。とまれ、思うに、現存在と差延が似ているだろう。なぜなら、現存在には、同一性構造もあるし、差異の原点もあるからである。しかし、差延は、存在のもつ超越性を否定していると思う。(この超越性であるが、通常の超越性ではなく、PS理論における虚数である。虚的存在である。後で、説明したい。)
 


参考1:デリダと現象学に関係して

「デリダ追悼(1’) ― ヘーゲル・フッサール・ハイデガー・デリダ」
http://ashida.sakura.ne.jp/blog/2004/10/hamaenco_4_100.html
デリダ追悼(1’) ― ヘーゲル・フッサール・ハイデガー・デリダ

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デリダ追悼(4) ― フォネーロゴス中心主義
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返信: デリダ追悼(2’) ― 京都を散策するデリダ
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デリダ追悼(3) ― デリダと『現代思想』
2004年10月11日 | この記事の訪問者数 ( )
デリダ追悼(2) ― 早稲田大学でのデリダ
2004年10月10日 | この記事の訪問者数 ( )
デリダ追悼(1) ― デリダのフッサール理解について
2004年10月10日 | この記事の訪問者数 ( )
デリダが死んだ …
2004年10月10日 | この記事の訪問者数 ( )


参考2:デリダ『精神について―ハイデッガーと問い』

http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-95.html
http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-96.html
 

2007年08月14日 (17:43)

構造主義の差異とポスト・モダンの差異の相違点:構造主義は現象学を無視した近代合理主義の極限である

本件については先に簡単に述べたが、これは、重要な問題なので、ここで、さらに詳しく検討したい。
 私は、構造主義の差異とは、同一性間の差異、言わば、間同一性的差異ないしは相互同一性的差異であるとした(同一性的二項対立とも言った)。それに対して、ポスト・モダン(ドゥルーズとデリダ)の差異は同一性以外の差異、脱同一性的差異であると言った。
 同一性が発生する原因は、根源的差異の形相性にあると考えている。原主体と原客体が即非様相を形成している(差異即非イデア)。これが、Media Pointで、動態化・エネルゲイア化する。不連続性と連続性との一致が生起する(絶対矛盾的自己同一)。そして、連続性はさらに展開して、同一性を形成する(連続的同一性)。
 そして、連続的同一性とは、シニフィアンで言えば、多様な対立するシニフィアンを形成することになるのである。だから、Media Pointの連続性の「構造」が、おおまかではあるが、構造主義の構造であり、その差異を形成すると考えられるのである。
 少し観点を変えると、他者である差異に対して、主体の差異が、自己同一性を投影して、他者の差異を同一性化するのであるが、結局、多様な他者の差異に対して、主体の差異が、多様な同一性的差異(構造主義の差異)を形成するということになるだろう。ここで、多様な同一性的差異の構造が、構造主義の構造であり、シニフィアンを考えれば、当然、静的な構造である。それに対して、多様な他者の差異に関係する差異がポスト・モダンの差異であると言えるだろう。
 言い換えると、構造主義の差異とは、主体の差異のもつ同一性志向性が形成する間同一性的差異のことであるのに対して、ポスト・モダンの差異とは、端的に、他者の差異、乃至は、同じことになると思うが、主体と他者との差異である。少し分かりにくい言い方になるが、主体の差異と他者の差異との相違としての差異である。
 シニフィアンとシニフィエ、乃至は、ノエシスとノエマの術語で言えば、シニフィエやノエマを超越したところに他者の差異があり、この差異に焦点を当てたのが、ポスト・モダンであるということになるだろう。
 つまり、主体の差異は、他者の差異に対して、自己同一性という認識(シニフィアン/シニフィエやノエシス/ノエマ)をもってしまうのであり、この主体の差異の同一性を超えた他者の差異を取りあげたのが、ポスト・モダン哲学であると考えられるのである。だから、私の造語であるが、ポスト・モダン哲学とは、基本的には、脱構造主義哲学なのである。(注意:私が考えるところ、構造は、決して、主観性からは離れていない。つまり、例えば、シニフィアンと言っても、それは、主観性において、形成される同一性であるからである。シニフィアンの差異も間同一性的差異であり、それは、主観的である。より的確に言えば、構造とは主観・主体の差異における深層構造ないしは超越論的形式である。後で再考したい。)
 ここで、この視点から、現象学について検討してみよう。私見では、フッサール現象学は、主体の差異から客体の差異への志向性を発見した。しかしながら、フッサールは主体の差異を中心化して、客体を差異をほぼ看過しているのである。フッサールの混乱(と言っていいと思うが)は、志向性を同一性志向性に限定してしまったことにあると思う。主体の差異の他者の差異への志向性とは、正に、差異の志向性であり、本来、純粋差異的志向性のはずである。しかるに、フッサールは、それを、同一性的志向性に限定したのである。だから、フッサール現象学は二重性をもっているのである。一方では、差異的志向性の次元(Media Point)の発想があり、他方では、同一性的志向性が作動しているのである。分裂と言ってもいいだろう。自我的同一性に囚われていたために、自身が切り開いた現象学のもつ脱自我性を積極的に肯定できなかったのである。だから、フッサール現象学には、可能性ないしは潜在性としての(ポスト・モダン)の差異があると言えよう。
 そして、ハイデガーであるが、いわば、存在的存在者=現存在ないしは世界内存在を提起することで、主体の差異と他者の差異との相関性を主題にしたと言えよう。つまり、いわば、間差異性、相互差異性が存在的存在者=現存在ないしは世界内存在として問題化したのである。フッサールにおいては可能性であった他者の差異を主体の差異と関係させて積極的に摂取したと考えられるのである。
 だから、ハイデガー現象学においては、他者の差異そして主体の差異ということが問題化しているのである。だから、既にハイデガー現象学は、ポスト・モダン哲学なのである。PS理論から言うと、存在とは、主体の差異を、同時に、他者の差異を示唆する。つまり、主体の差異と他者の差異との即非様相、即ち、 Media Pointを示唆する。ハイデガー現象学はPS理論に近いのである。
 先にも触れたが、では、構造主義の意義は何であったのだろうか。それは、いわば、超越論的同一性(=構造)ないしは超越論的同一性的差異を明確に理論化したことにあるだろう。主体の差異のもつ超越論的同一性(的差異)構造を明瞭にしたのである。現象学は、だから、いわば、損をした立場にあるのである。現象学は、もともと連続的同一性を批判して、超越論的自己(超越論的主観性というよりは、こう呼ぶ方が深い)を提起したのである。既に、構造を確認していたが、それを特には提示しなかったのである。
 だから、問題は、構造主義にもあると言える。ソシュール言語学を取りあげれば、シニフィアンとは同一性であるが、それは、主観(主体)性が形成するものである。言い換えると、主観性、ないしは主体の差異は、Media Pointにおいて、同一性志向性をもっているのである。この同一性志向性が、シニフィアンという同一性を生起させるのである。だから、いわば、主観の深層構造からシニフィアンが発生するのである(私は主観の深層構造は主観の超越論的形式と考えているのである。)。
 故に、構造主義の構造とは、主観の深層構造ないしは超越論的形式であると考えられるのである。一般には、構造とは、主観を超えた形式と考えられているが、私見では、主観の根底・基盤にある形式である。そう考えれば、ソシュールのラング(共時的一般的言語体系)のことも理解しやすくなるだろう。それは、言語の客観的体系というよりは、主観の根底・基盤・土台にある深層構造的体系と言い直すことができるだろう。
 そうならば、シニフィアン(同一性)とシニフィアンの差異(間同一性的差異、相互同一性的差異)の体系を構造と見たことはどういうことなのだろうか。それは、端的に、客観主義ないしは客観中心主義に囚われている発想を意味するだろう。主観と客観とを分離した近代合理主義の発想が主導的であると言えよう。つまり、構造主義とは、近代合理主義(主客二元論)に基づく、同一性的差異論であるということである。つまり、構造主義は、厚かましくも、現象学の成果を無視して成立した、近代合理主義を基礎とする同一性的差異論ということである。そう、近代合理主義の極限・限界と言えるだろう。主観・主体の超越論的形式ないしは深層構造を始めから排除しているのである。
 だから、構造主義は近代主義的には進展であるが、哲学的には反動なのである。このパースペクティブから、ポスト・モダン哲学を見ると、構造主義と現象学との混乱したジレンマに立たされた哲学であったと言えよう。つまり、哲学的には、実際には現象学の方が進展しているのに、構造主義が進展しているという錯誤が支配した状況において哲学を行ったのが、ポスト・モダン哲学である。非常に不幸な知的状況に、ポスト・モダン哲学は立たされていたと言えよう。哲学と近代科学との分裂的狭間に立たされていたとも言えよう。
 例えば、ドゥルーズ哲学を見る限り、構造主義的発想が強く、主体の差異(=特異性)が、同一性と連続化されて、いわば、差異即同一性のような事態になっていると思う。現象学のもつ主体・主観的超越論性が否定されているのである。『哲学とは何か』でドゥルーズ(&ガタリ)は、フッサール現象学の超越論性を否定しているのである。
 それに対して、デリダ哲学は、現象学との批判的対話から形成されているので、反動的なドゥルーズ哲学よりは、進展的だと考えられる。bloghiro- dive氏の説明からすると、デリダは構造主義の同一性主義を批判しているようである。つまり、ロゴス中心主義を見ているのである。それは、正しい。そして、差延(差異)を説くわけであるが、それは、当然、間同一性的差異ではなく、脱同一性的差異である。(勿論、ドゥルーズの場合も、脱同一性的差異を目標としたのであるが、構造主義性が強かったために、脱同一性的差異と同一性的差異が混同されてしまったと考えられるのである。)
 思うに、デリダの差延とはほとんどハイデガーの存在である。なぜなら、後者は、同一性である存在者とは異なる差異であり、かつ時間的様相をもっているものであるからである。PS理論では、ハイデガーの存在とはMedia Pointを示唆している。
 思うに、ハイデガー現象学に既に出現していた脱同一性的差異=存在を、構造主義に対するロゴス中心主義=同一性主義批判を介して、差延として、提示したのがデリダ哲学であると思えるのである。
 だから、構造主義へのスタンスの違いによって、ドゥルーズとデリダの違い、ポスト・モダン哲学の違いがわかるだろう。
 しかしながら、デリダ哲学の問題は、フッサール現象学が開拓した、「超越論的主観性」の存する次元、ハイデガー的に言えば、本来的自己存在の次元を看過していることではないだろか。どうも用語の問題があって、的確に表現できないのだが、端的に言えば、自我ではない自己を看過していると思うのである。フッサール現象学は、PS理論の視点で言うと、i*(-i)⇒+1において、iの同一性志向性(ノエシス)を明示したと考えられるのである。同一性的主観性を超えた差異的主観(主体)性の次元を説いているのであるが、この差異的主観性をデリダ哲学は看過しているように思えるのである。つまり、単に差延や痕跡やエクリチュールということで、構造主義の客観主義の爪痕を残していると考えられるのである。
 結局、ポスト・モダン哲学は、構造主義と現象学との混乱した狭間にあって、差異論を展開したのであるが、脱同一性的差異という点では構造主義の乗り越えを、そして、現象学に対しては、デリダによる同一性主義批判、そして、ドゥルーズによる超越性批判(これは問題があるが)という立場で、批判を行ったのであるが、結局、構造主義的客観性を保持したこと、並びに、それと必然的に、現象学の差異的主体性=自己を看過した点で問題点があると言えよう。
 だから、端的に言えば、ポスト・モダン哲学とは脱同一性的差異論という点では、脱構造主義性をもってはいたが、それを客観主義的に捉えた点では、超構造主義であったと言えよう。(だから、機械性、没倫理性が生起してしまうのである。)
 PS理論は、だから、現象学、構造主義、ポスト・モダン哲学の問題を解決した理論であると考えられるのである。

2007年08月12日 (11:32)

構造主義再々考:同一性の差異の構造と差異と超虚性:構造と現象学とポスト・モダン

先に、ソシュールの構造主義について勘違いしていたので、ここで再考したい。
 先ず、その前に、構造主義とは直接関係ないが、現象学やポスト・モダン理論に関係する用語について説明しておきたい。
 それは、超越性という用語である。私はこの語を哲学の伝統的用語として用いているのではなくて、PS理論から生じるガウス平面における虚軸の虚数的存在を示すために使用している。勿論、精緻に言えば、実軸における超越性を含めるべきだが、虚数的存在を示す適当な言葉が浮かばないので、超越性という言葉を使用しているのである。
 そういう意味での超越性であり、その意味でPS理論において使用すると、哲学的伝統における超越性と語義上衝突するのである。これは、今のところ、より適切な用語が見つからないので、そのような事態になっていると認めるしかない。
 だから、正確に言うならば、超越性を虚数性乃至は虚数的超越性である。以前は、虚数的超越性という言葉を正確さのために使用していたが、長いので、超越性にしてしまったのである。今、思ったのは、虚超性、ないしは、超虚性という用語を造語してはどうかということである。こうすれば、哲学的伝統の用語と衝突しないで済むだろう。語呂から言うと、超虚性が適しているのではないかと思うので、以下の論においては、この造語を用いたい。
 さて、bloghiro-dive氏による構造主義の明敏な説明によって、言語学に関する構造主義は、シニフィアン(意味するもの)とシニフィアンとの差異に存することを思い出した。例えば、ao(青)とaka(赤)がシニフィアン(この場合は音声)として、差異ないしは対立を形成しているということになる。
 私は、構造主義の差異とは、同一性的二項対立であると述べたが、シニフィアンを同一性にすれば、aoとakaは、同一性的二項対立と言えるだろう。ao を優位とすれば、akaが劣位であり、また、逆も成り立つ。ということで、簡単ではあるが、先に述べたように、構造主義の差異は同一性的二項対立(p.s. 同一性的差異とも言える)であると言えるだろう。
 こういう表層的なことよりも、より事象に即して考えたい。PS理論から見ると、Media Pointから同一性の志向性が主導的になり、同一性が形成される。簡単に言えば、差異の連続/不連続の「相補性」から、同一性が形成されるのである。同一性は当然、一般的には、外界の対象に対して投影されて、対象は言語化されるのである。例えば、ある対象に対して、sakana(魚)と言語化するのであり、別の対象は、それとは差異化して、tori(鳥)と言語化するのである。ここでは、sakanaとtoriが構造的差異を形成しているのであるが、この構造的差異の発生を考えると、Media Pointにおける同一性志向性の力学空間における差異化であると言えよう。諸対象を直感して、諸対象を区別(差異化)するために、同一性における差異化が形成されると言えよう(言語の構造化)。つまり、直感が先にあり、次に、直感に即して、同一性同士の差異化(例えば、sakanaとtori)が生じるのである。これが、言語の構造の発生であると考えられる。
 当然、この構造の差異は静的である。何故なら、単位が同一性になっているからである。sakanaという同一性であり、toriという同一性であるから、これは、このまま固定しているのである(音韻上の変化があっても、同一性自体は不変である。sakanaが、例えば、sakane、sakanoになっても、その同一性自体は変わらない。)。
 ということで、言語の構造は、Media Poinからの同一性志向性の領域において発生すると言えよう。
 それでは、構造主義の差異とポスト・モダンの差異を比較してみたい。これは、もう、ほとんど自明に近いだろう。先にも述べたように、前者は同一性同士の差異である。同一性の差異(p.s. 同一性的差異)である。それに対して、後者は同一性以外の差異である。脱同一性としての差異である。(ここでは、同一性と連続化していても、脱同一性としての差異があると言えよう。)
 だから、構造主義の差異とポスト・モダンの差異とを同列に扱うのは問題があるのであるから、用語を変えるべきである。私は、構造主義の差異は同一性的二項対立で(p.s. 同一性的差異)あると言ったが、やはり、そのように提起して、ポスト・モダンの差異とは明晰に区別すべきであろう。
 そうすれば、構造主義と脱構造主義であるポスト・モダンの意味が明瞭になるだろう。つまり、ポスト・モダンは、構造主義の同一性的二項対立(p.s. 同一性的差異)という構造を乗り越えて、脱同一性である差異の理論を説いたのである。そして、主にアメリカで使われたポスト構造主義という術語も意味が明確になるだろう。つまり、構造主義の同一性的二項対立ないしは同一性の差異の構造を超えた理論としてのポスト構造主義である。以上で、構造主義とポスト・モダン哲学の区別が明瞭になったであろう。
 次に、現象学について考えたい。ポイントは、上述した超虚性(「超越性」)である。最初に、フッサール現象学を見ると、基本的コンセプトの一つである超越論的主観性は、現象学的還元を行って生起する「主観性」ということであるが、そこには、デカルトやカント的な自我の立場が払拭されていないと考えられる。PS理論から見ると、フッサールの超越論的主観性は、一面において、超虚性(「超越性」)に達していると考えられるのである。しかし、通常の主観性の立場、自我の立場が他面において入っているので、同一性からは完全には離脱していないのである。これは、Media Pointから同一性志向性への過程にある視点と言えるだろう。i*(-i)⇒+1から言うと、⇒と+1との間ないしは接点がが超越論的主観性ではないかと思えるのである。ハイデガー現象学は先に述べたことでいいと思うので、繰り返さない。
 さて、問題は、現象学と構造と差異の関係である。PS理論から言うと、Media Pointは、本来の差異、つまり、脱同一性としての差異である。正しく言えば、連続性/不連続性の相補性としての差異である(これも、即非的差異と言えるのかもしれない。後で検討したい。)。だから、フッサール現象学の場合、半面はMedia Pointに達しているので、差異化ないしは脱構造化しているのである。しかし、同時に、主観性ということで、同一性化しているのである。つまり、構造化しているのである。いわば、構造主義とポスト・モダンの中間にフッサール現象学が位置していると言えるのではないだろうか。
 ハイデガー現象学の場合、「一つの裂け目」ということで、差異と同一性を切断しているので、ポスト・モダン化しているし、さらには、不連続性もあるので、PS理論に近づいていると考えられるのである(もっとも、不連続性以外にも理由があるが)。(思うに、存在と存在者の差異、いわゆる、存在論的差異は、差異と同一性との「差異」と考えられるので、ポスト・モダン的であり、「一つの裂け目」を強調すれば、PS理論に近づいていると言えよう。また、ハイデガー現象学にポスト・モダンの起源を見る人はいくらかいるので、ポスト・モダンの先駆者としてのハイデガーということは確定することができるのではないだろうか。)
 最後に、超越論性と主観性と構造について考えたい。カントの超越論哲学とは、主観のアプリオリの形式としての超越論性を説いているだろう。だから、それは、主観性的な超越論性であるということになる。しかしながら、超越論性は、主観性の深層構造であるから、私は、それは、一種構造性をもっていると見ていいのではないかと思うのである。構造は本来、主観性・主体性を超えたものである。この点を整合化するには、どう考えたらいいだろうか。
 上述したMedia Pointにおける同一性志向性空間を考えよう。ここにおいて、構造が生起するのである。だから、同一性志向性構造と言えるだろう。そして、この構造は、自我形成の空間でもある。同一性の差異を形成することで自我が形成されるのである。同一性=自我の形成である。だから、同一性志向性構造は、カントの超越論性と等価であろう。そうすると、やはり、構造と超越論性は等しくなるのである。だから、やはり、カントが構造主義の先駆であるとは言えると考えられるのである。
 問題は、カントの超越論性とフッサールの超越論性である。両者異なるのである。前者は構造性であるが、後者は脱構造性(差異)である。だから、同じ用語を用いるのは間違っているだろう。カントの超越論性は実軸的超越論性であり、フッサールの超越論性は虚軸的超越論性である。だから、超越論的主観性と言った場合、両者ではまったく異なることを指していると言える。カントの場合は、構造であり、フッサールの場合は、脱構造且つ構造である。思うに、超越論性という術語は、超越性と同様に、誤解を生むので、より限定して使用すべきであろう。

2007年08月11日 (22:34)

構造主義再考:構造と現象学とポスト・モダン

bloghiro-dive氏が構造主義について明快丁寧に解説されていて、いろいろ考えさせられる。

* レヴィ・ストロース文化人類学…構造主義の挑戦
* 続ソシュール言語学…その問題とデリダの批判
* 言葉とはサークルである…ソシュール言語学

構造について、私なりに徹底させて理論化したいので、今一度、構造について考えたい。
 先に私は、構造とは、同一性的二項対立であると言った。言い換えると、同一性的二項対立の超越論的形式ということになる。後者ではわかりにくい。ここでは、より具体的に考えよう。先にもあげたソシュールのシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の「差異」で考えよう。
 シニフィアンとは、簡単に言えば、「花」という言葉で例をあげれば、hanaという音声がシニフィアンである。(もっとも、ソシュールは言語化される以前の音像をシニフィアンと言っているが、ここでは便宜上、簡単化する。)そして、「花」という言葉が観念像がシニフィエである。(思うに、この観念像には、対象性も入っているのではないだろうか。参照:「シニフィアンとシニフィエ」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8

だから、hanaと花という観念像との「差異」が恣意的に結合して、「花」という言語を形成しているということになる。シニフィアン(hana)と花の観念シニフィエ(花の観念像)の「差異」(簡単に言えば、「違い」)とは何だろうか。
 とまれ、この「差異」の体系が構造というものであり、これが、言語(共時的言語・ラング)を支配しているということになる。この「差異」は、同一性Aと同一性Bとの「差異」であり、「花」という言語において、統一、乃至は、結合しているものである。
 先に私は、この同一性と同一性との「差異」を、同一性的二項対立と把捉して、それが構造であり、ポスト・モダンの差異とは異なることを述べたのであった。【確かに、同一性と同一性との「差異」をそう捉えるのは、間違っていないだろう。同一性と同一性との二項対立とは、この場合、シニフィアンとシニフィエの二項対立ということであり、シニフィアンが優位、シニフィエが劣位になるとき、あるいは、逆のときが考えられる。前者は例えば、感動して「花」と言ったときに当たるだろう。発話者の感情(シニフィアン)が花という観念(シニフィエ)よりも優位にあると言えるだろうから。後者の場合は、通常の会話においてはそうだろう。音声としての「花」は、単なる記号であり、意味されていること(シニフィエ)である「花」の観念が重要であろう。】
 ここでは、別の観点から考えてみたい。つまり、超越論的形式とこの同一性の「差異」はどう関係するのかということである。というのは、私は先に超越論的形式は構造であるといったからである。
 超越論的形式とは、PS理論から見ると、Media Pointの実軸性である。つまり、連続性や同一性である。言い換えると、連続・同一性的Media Pointということである。Media Pointは、エネルゲイアであり、いわば、超越点Transcendental Pointである。実軸のMedia Pointは、±の極性を発生する力動性をもっていると考えられる。そして、この±の極性が、同一性の「差異」であると考えられるだろう。(p.s. 補足すると、この実軸のMedia Pointには、確かに、主観性や自我が生起するが、それは、実軸のMedia Pointの±の極性内部にある主観性や自我ということで、超越論的形式の構造性が言えるだろう。)
 ということで、以上で証明できたことになるだろう。即ち、超越論的形式は構造であるという命題が証明できたということである。(p.s.  以上では、動的構造主義の説明であり、静的構造主義の説明にはなっていない。では、静的構造主義はどう説明できるだろうか。それは難しくない。 Media Pointの力動性による動的極性を固定化すれば、いいのである。では、固定化はどういうことで生じるだろうか。それは、エネルゲイアの消費された状態を考えればいいだろう。つまり、エンテレケイアになった状態である。エネルゲイアの帰結としてのエンテレケイアという固定の極性とすればいいのではないだろうか。動態の帰結としての静態である。)
 次に、構造と現象学について再考しよう。フッサールの場合、超越論的主観性と通常の主観性が重なる面があるので、混乱しやすいのであるが、しかしながら、超越論的主観性は単に主観性だけではなくて、超越性における主観性なのである。即ち、超越論的形式=構造(実軸のMedia Point)を超えた主観性なのであるから、脱構造主義的でもあるのである。
 だから、整理すると、フッサールの超越論的主観性とは、自己認識方程式i*(-i)⇒+1の⇒と+1との接点と⇒との混合ではないだろうか。とまれ、基本的には脱構造主義と言えるだろう。やはり、現象学は構造主義を既に乗り越えているのである。
 では、ハイデガー現象学について簡単に考えよう。『存在と時間』について、端的に言えば、それは、⇒+1の現象学だと思われる。存在や時間は⇒、即ち、Media Pointを指していると思われる。
 そして、思うに、後期ハイデガーは、⇒以前のi*(-i)の領域、乃至は、i*(-i)と⇒との接点の領域、即ち、イデア界・虚界あるいはそれとMedia Pointとの接点を探求したと考えられるのである。
 最後に、先に述べたポスト・モダンの差異論に関連させて、本稿を閉じたい。ポスト・モダン哲学の差異論は、連続的差異論であると私はこれまで主張している。では、連続的差異とは何かと再確認しよう。
 これまで述べことを反復するが、同一性と連続的な差異ことである。換言すると、同一性を形成する差異のことである。では、この差異とは何か。この差異は構造主義の「差異」のように静的ではなく、動的である。生成性をもつのである。だから、エネルゲイアをもつのである。ということで、ポスト・モダンの差異とは、Media Pointのエネルゲイアと関係した差異である。だから、単純に、Media Pointと考えていいのかもしれない。当然、本来のMedia Pointである。虚軸を含めてのMedia Pointである。
 このことは、ドゥルーズ(&ガタリ)の差異の場合については述べたことである。そして、初期デリダの差異(差延)に関しては、実軸のMedia Pointの差異に限定したのである。何故なら、初期デリダは、フッサールの超越性を否定していると考えられたからである。
 今、思うに、デリダの差異(差延)の場合はかなり曖昧なのではないだろうか。考えられるのは、デリダは、純粋な超越性を否定しているが、同一性と連続な差異を肯定しているので、この連続的差異は、可能性としては、超越的な差異を含む可能性があるということである。つまり、連続化された超越性ならば認めている可能性があるのである。そうすると、やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)の場合とまったく等しくなるだろう。
 結局、現象学とポスト・モダン哲学を比較するとどうなるだろうか。フッサール/ハイデガー現象学において、意識化されていなかった差異が、ポスト・モダン哲学では明確になったと言えよう。しかしながら、不連続的差異ないしは純粋なMedia Pointに関しては、現象学の方が進んでいたと考えられるのである。だから、先に述べたように、現象学/ポスト・モダン哲学=トランス・モダン哲学である。
 だから、不連続的差異論は、無意識の内に、現象学の到達点を、差異論的に取り戻したのである。そして、PS理論は、現象学とポスト・モダン哲学を、創造的に統一した理論であると考えられるのである。もっとも、ここには、鈴木大拙の即非の論理がキー・コンセプトになっているのであるが。
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