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2010年02月04日 (19:40)

ps理論の先駆としてのフッサール現象学:ハイデガーは二流の哲学者である

文庫本で50ページに満たない長さながら、フッサール現象学のエッセンスが凝縮されている。
 ps理論は、フッサール現象学(超越論的現象学)が先駆であり、また、差異論的進展である。
 思うに、フッサール現象学に欠けているものは、内的他者性であり、自己と他者との即非的共同性である。しかしながら、それを除けば、ps理論のアウトラインを記述していると言えるほどである。
 フッサールの失敗は、ハイデガーを弟子にしたことである。鬼っ子であり、画期的な現象学を破壊した悪魔的「弟子」である。
 因みに、ハイデガーの存在論であるが、それは、有=存在=物質の思想と超越論的自我の思想を結合させた折衷的思想である。ここには、他者性(倫理・道徳性)が欠落しているのであり、物質主義的唯我論であると言えよう。

ブリタニカ草稿 現象学の核心

エトムント・フッサール 著 , 谷 徹 翻訳
現象学の始祖フッサールが、ブリタニカ百科事典の求めに応じた四つの草稿の集成。成熟した思索において、「現象学とは何か」、その核心を語る。
ブリタニカ草稿 現象学の核心

* シリーズ:ちくま学芸文庫
* 定価:1,365円(税込)


この本の内容

現象学の始祖エトムント・フッサールが、『ブリタニカ百科事典』の求めに応じ、「現象学」の項目のために執筆した、ドラマチックな推敲のあとが窺える四つの草稿の集成。変化しつづけたフッサールの思索が成熟した時点で書かれた本書は、まさに“現象学とは何か”その核心を語る。そのため、完成稿(第四草稿)は、始祖自身による最も完備した好適な入門書ともなっている。これら草稿は、ハイデガーとの共同作業を経て完成したが、とくに第二草稿には両者の一致と相違が如実に現れていて、20世紀を主導した両者の現象学的哲学の本質を考えるための重要なヒントもここにある。詳細な訳者解説を付す。
この本の目次

第四草稿(最終稿)(純粋心理学、その経験の場、その方法、その機能
現象学的心理学と超越論的現象学
超越論的現象学と絶対的に基礎づけられた普遍的学問)
第一草稿(「純粋」心理学としての心理学的現象学
心理学的現象学との対比における超越論的現象学)
第二草稿(改訂の試み)(現象学の理念と意識への還帰
純粋心理学の理念
現象学的心理学と超越論的現象学)
第三草稿の序論部分
第三草稿の結論部分
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088178/

参考:

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

パリでの講演をもとにした、フッサール晩年の著作である本書では、『イデーン』ではほとんど触れられなかった、間主観性や他我についてが論じられている。


後期フッサールは、『イデーン』などの中期から大きく変化した、とたまにいわれる。形而上学へ近づいた、とか、独我論を抜け出すために間主観性という考え方を提示した、とか、そんな風にいわれているようだが、実はそんなことはまったくない。
http://www.geocities.jp/ittokutomano/cartesian.html


フッサール『イデーンⅠ』


1.フッサールの情熱

日本語訳の冒頭に掲載されている「あとがき」で、フッサールは次のようにいっている。

筆者は今老境にいたって、少なくとも自分自身としては、完全に、次のように確信するにいたっている。すなわち、自分こそは一人の本当の初心者・端緒原理を掴んでそこから始める人間であると、こう自ら名乗り出てもよいで あろう、と。」

いつでも真摯に哲学してきたフッサールの、静かなる情熱が感じられる。私はこういう文章に、結構じーんとくる。

 そして彼は、さらに次のようにいう。

「現象学的哲学の全般的な研究地平は、いわばその地理上の主要構造の面では、露呈されおえ、本質的な問題層と本質的な接近方法とは、解明されおえたわけである。筆者は今、真の哲学の無限に開かれた土地、その『約束の地』 が、自分の前に拡がっているのを見る。その土地が完全にもう開拓され尽くすありさまを、余命いくばくもない筆者自身は、もはや体験することはないであろう。」

 自らの哲学的成果がどれほどに画期的なものだったか、フッサールはよく自覚していた。

 しかし、彼が切りひらいた「方法」によってその後飛躍的に深化するであろう諸学問の展開を、彼はその予告通り、みることはできなかった。

 ばかりか、残念なことに、現象学はいまだその真価を理解されないまま、過去の思想になろうとしているのだ。

 フッサールのやってのけた大事業は、これからもう一度吟味し直し再評価される必要があると私は思う。

 彼の成し遂げたことは、いったいどのようなものだったのか。

 ここで少し、みてみることにしよう。

http://www.geocities.jp/ittokutomano/ideen.html
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2009年06月19日 (09:10)

検討問題:フッサール現象学と「超越論的主観性」:客観的空間把握は主観的空間把握が先立つ

今は問題提起だけである。新しい地域に来て、巨大なスーパーがあり、最初、中で迷ってしまったが、今は、中で方向感覚がつくようになった。
 これは、客観的認識というよりは、主観的認識である。主観性の「勘」に基づくと思われる。
 つまり、⇒が基礎であり、⇒+1が主観的空間認識であり、+1だけを取り出すのは、客観的認識であり、唯物論的である。
 PS理論はこの点については解明済みであるが、今の時点で少し考えたい。
 「近代化」によって、認識は客体へと向けられ、主体・主観はきわめて疎かにされてきた。この超越的主観、絶対的主観の衰退が今日の日本の衰退をもたらしたとは言えよう。
 本来、哲学が超越的主観・絶対的主観を説くべきものであったのであるが、フッサール現象学をハイデガーがまったく勘違いしたために、西洋哲学において、大混乱が起きたと考えられる。ハイデガーによる「災禍」がポスト・モダンの制約になった一面がある。
 日本の戦後の哲学は、ほとんど西洋哲学の受け売りであり、フッサールと同時にハイデガーをも批判なく受容してきたのである。本来、フッサールとハイデガーの違いは、歴然としているのに、それに気づかないというのが愚鈍である。
 思うに、哲学を学ぶ人は、あまり、文学に親しんでいないらしい。文学に親しんでいる人であれば、ハイデガーの『存在と時間』は、文学的な内面の叙述であることがすぐわかるのである。つまり、内在的な主観性の叙述である。
 それに対して、フッサール現象学の「超越性」はきわめて根源的であり斬新なのである。既に構造主義を乗り越えているのである。換言すると、トランス・モダンの原点に達しているのである。
 私にはなにか不思議に思えるが、どうして、フッサール現象学の「超越性」をそれ以後の西洋の哲学者はほとんど誤解したのか。
 私の推測では、ユダヤ文化と近代西欧文化の本質的な違いがそれを説明するように思える。即ち、ユダヤ文化は、超越性を保持した文化であり、近代西欧文化は超越性を否定して、自我・物質性を中心にした文化であるということである。今はここで留めたい。 

2008年08月01日 (12:31)

eliot-akira氏の明敏な思慮・洞察に満ちたコメント:体験と哲学

以下のようにeliot-akira氏から、思慮・理解のある、長文のコメントをいただきました。どうもありがとうございました。
 eliot-akira氏が指摘されていることは、まったくその通りだと思いました。例えば、Aという体験/システムからなる哲学Aがあるとします。それに対して、Aという体験/システムを超えた異質なBという体験/システムからできた哲学B(仮説)が生まれたとします。
 哲学Bを果たして、哲学Aの視点から、理解・把捉・了解できるでしょうか。例えば、実数のシステムしか知らない人に、虚数のシステムが理解できるでしょうか。哲学で言えば、フッサール哲学とハイデガー哲学がありますが、両者は現象学で括られていますが、私は両者はまったく異質であると考えています。(ですから、現象学という名称を両者に使用するのはミスリーディング、端的に言えば、誤謬だと考えています。)
 即ち、フッサールはあるエポケー(判断停止)による体験Xから哲学(超越論的現象学)を形成していますが、ハイデガーは、その体験Xとは異なる体験Yから哲学Yを作りました【p.s. 上記の例とは、時間的に逆になりますが】。私見では、体験Xには、超越性が含まれていますが、体験Yには、極言すれば、超越性は含まれていません。ですから、ハイデガー哲学を哲学Aとして、フッサール哲学を哲学Bとすれば、哲学Aの認識から哲学Bを洞察することは不可能だと考えています。【もし、哲学Bを理解しようとするなら、哲学Aの前提をいったんエポケーする必要があります。イギリスの詩人キーツの言葉で言えば、「否定的能力」 negative capabilityをもつことであります。これは、とても東洋的な観念で、自分の心を無にすることだと考えられます。有り体に言いますと、謙虚・虚心になることであります。】
 私は以前言いましたが、理論・哲学とは主観現象の秩序・合理・整合的言説化であります。ですから、eliot-akira氏が正に述べられる通りであります。初めに主観体験ありき、その後に、言説理論化が為されます。
 ですから、eliot-akira氏が、PS理論を芸術理論や神話として、受けとるのは、主観現象の先行性を考えれば、適切なことと言えましょう。
 前提となる体験/主観性に理解力はない人は、その前提から生まれた哲学を認識は不可能でしょう。ただ、自分の体験/認識の視点から、他者であるその哲学を裁断してしまうと思います。
 まだまだ、言うべきことがありますが、今はここで留めたいと思います。たいへん明敏な、喚起力のあるコメントをほんとうにありがとうございました。

p.s. この問題は実に奥が深いと思います。卑近な例を出せば、介護の体験のない人に、介護とはどのような心労やストレス等をもたらすか認識できるでしょうか。哲学的には、端的に、他者の認識の問題であります。他者(差異)を他者(差異)としてどう理解するのか、これは決定的な重要性をもっているでしょう。通常、人は、自己同一性の認識(同一性主義)から、他者を認識してしまい、他者の他者性(差異)を看過・無視します。この他者性へのセンサーをもっていることが、すぐれた人や哲学や理論の指標であり、また、今日、それを形成することが必須であります。

p.p.s. eliot-akira氏はニーチェについて言及されていましたが、『ツァラトゥストラはかく語りき』からわかるように、ニーチェの特異な体験が語られています。私の哲学の実質上の先生は、仏教に似ていると述べていましたが、それはともあれ、ニーチェの体験は端的に、超越的体験だったと思います。プラトン他の古代ギリシアの哲学者の体験に類似したものではないかと思います。それは神秘体験と名付けることが可能でしょうが、それは語弊があるので、私は使用を避けています。
 思うに、ニーチェの超越的体験(神秘体験)とは、端的には、トランス・モダン体験だと思います。ただ、ニーチェの場合、脱構築の破壊性が、超越的体験に含まれる積極性より強く出てしまっているのではないかと考えます。
 以前述べましたが、プラトン哲学とニーチェ哲学は根本的には一致しうると考えています。また、プラトン哲学/イデア論ですが、一般的には、教科書的な凡庸な解釈が流通していると思います。
 プラトン哲学の紙背に徹する必要があります。同一性的発想が見やすいので、人はそれを指摘して、同一性形而上学と判断しますが、それは、皮相な見方だと思います。イデア界は同一性形而上学を包摂したものと私は考えています。超越界と取るのが、明快ではないかと思います。


尚、eliot-akira氏のブログのURLは以下の通りです。
http://ameblo.jp/eliot-akira/

***************

差出人
eliot-akira

日付
2008/08/01 01:02

件名
こんにちは

最近の bloghiro-dive さんとの論争、興味を持って読んでいます。これは「論争」というよりは、喧嘩を仕掛けられたようなものですね。

renshi さんの多面的な思索にいつも刺激されているものとしては、何とか支持を表したいのですが、残念ながら主流の西洋哲学の教養が足りません。bloghiro -dive さんの土俵で戦うための哲学的な用語や概念を持っていませんし、また彼の言う「言論闘争」にはあまり興味がありません。

そこで昨夜、どうやって renshi さんのPS理論を含む思考活動を捉えたらいいのか、考えました。

renshi さんの立場は歴史上における神秘主義者たちの立場と似ていると思います。何らかの超越体験を基にした考えというのは、西洋哲学の制約というか枠内に押し込めるのは難しいのではないかと。

晩年に精神に異常をきたしたと言われるニーチェがいい例だと思います。情熱にまかせて執筆した著作は、それまでの哲学や論理、思想といったものを超越した独自の体系を生み出しましたが、もちろんそれなりに多くの哲学者や思想家の批評に晒され、徹底的に解体してしまおうとする動きもあったと思います。それでも、ニーチェの思想は現在まで影響を及ぼし、真価を立証し続けています。

アカデミズムの哲学の制限を逸した考えを、アカデミズムの言葉で守り通すのも無理があると思うんです。「ポスト哲学」または「トランス哲学」として、bloghiro-dive さんが代表する退屈な哲学とは違った次元であることを明らかにすればいいかもしれませんね。

renshi さんの論考は想像力が豊かで、多彩な応用または柔軟な解釈が可能であると思います。僕はPS理論は主流の哲学を超えた、芸術的な価値があると見ています。

従来の哲学は想像力に欠けていると感じます。現在繰り広げられている哲学上の論争はすでに飽和状態に至っており、何か新しい霊感、斬新なアイディアを待っている時点だと見えます。しかしながら、神秘体験、霊的体験というものが疎外された今となっては、主流の哲学を超えた「外側」から哲学自体を批評する必要があると感じます。事実、哲学史において尊敬されている人物は全て、何らかの超越的な体験をされた後で、それを説明するために哲学を応用されたのだと思います。つまり体験が最初で、理論体系は二の次である。

(続く)

差出人
eliot-akira

日付
2008/08/01 01:03

件名
こんにちは(続き)

bloghiro-dive さんが展開されている「言論闘争」は暴力的ですし、何も新しい考えが認められません。つまり芸術作品に対する霊感の乏しい批評家の立場ですね。個人的には、作品自体の小宇宙を楽しむほうが、ずっと価値があると思います。

哲学が言語ゲームであるなら、ゲーム自体を解体してしまうということは、たとえばチェスを例にすれば、そのルールは自律性を持つだけで現実には対照しないという、まあ当たり前のことを繰り返すだけのつまらない行為だと思います。

哲学という言語ゲームを楽しむためには、新しいアイディアを導入したり、ルールを作ったり、様々な可能性を取り入れていったほうが面白いと思います。

それが現実か妄想かという問題は、まず「現実」とは何かということに至りますが、結局、現実というのは「お話し」であり、ストーリーであり、その文化、歴史的な時点における神話にしか過ぎないということに落ち着くと思います。新しい神話を築き上げ始めるのか、すでに崩壊した神話の残骸の只中に立って、空虚に向かって暴言を吐くのか、それは個人的なチョイスだと思うんです。

その視点から見ると renshi さんは実に味わいのある神話(PS理論を神話と見なすのは失礼かもしれませんが・・・)を語っており、それを聞いて世界観が開くか、神話自体を拒否するか、まあ聞く人の自由ですね。

僕としては、PS理論を信じる、受け入れるというよりは、その小宇宙または理論体系自体を、巨大な視野を持った芸術作品として楽しんでいます。成長しつつある作品ですね。

ということで、「哲学」という世界から離れた立場から見た、独断に偏った意見かもしれませんが、renshi さんに伝えたいと思い、筆を取りました。

Eliot.

2007年08月26日 (02:06)

PS理論から、フッサール現象学とハイデガー現象学を考える:試論1

芦田氏の論考から刺激を受けて、もう一度、PS理論から、現象学の位置づけを行いたいと思う。勿論、大雑把なアウトラインを描くだけであるが。
 先ず、フッサール現象学のブレークスルーを評価しないといけない。いったい、フッサールは何を発見したのだろうか。私の直感では、フッサールは、超越論的意識を発見したのである。それを超越論的主観性と呼んでいるが、超越論的意識の方が明快であろう。そして、それは、私見では、超越論的差異である。しかし、フッサールは、それを、差異とはせずに、原同一性として理解してしまったと思う。本来、差異であるのに、原同一性としてしまったのである。
 ここで、ハイデガー現象学とつなげるならば、超越論的意識=超越論的差異(以下、超越論的差異意識)とは、ハイデガーの存在である。そして、それは、PS理論では、Media Pointである。(私自身もあいまいなところがある。直感では、超越論的差異意識は、イデア界的である。即ち、i*(-i)である。しかしながら、それは、本来、不可知の根源的世界の様相である。だから、超越論的差異意識は、イデア界に帰属するのではなく、やはり、Media Pointの意識とすべきである。)つまり、フッサールの超越論的差異意識=ハイデガーの存在=PS理論のMedia Pointということである。
 フッサールは自分が発見したものを正確に理論化できなかったと思うのである。私は、フッサール現象学には二重性があると言ったのがそれに当たる。即ち、超越論的差異意識を同一性意識と合一させているのである。ノエシス/ノエマは、同一性意識を指している。この点をPS理論から見ると、Media Pointの虚軸・実軸の交叉点における交叉を無化して、虚軸=実軸にしてしまっているのである。混乱である。
 ハイデガーは、それに対して、フッサールの発見したものを、正しく、存在という術語で察知したのだと思う。そして、存在論が生起したのである。思うに、現象学的存在論と呼ぶべきである。だから、ハイデガー現象学的存在論は、フッサール現象学の正嫡である。
 ここで、まったくの私の推測だが、『存在と時間』が未完に終ったのは、現存在から存在へのアプローチが壁にぶつかったからではないだろうか。思うに、ハイデガーは、慧眼にも、存在と存在者の差異の裂け目(「一つの裂け目」)を把握している。そして、Media Pointである存在の単独性・特異性をも理解している。これは、キルケゴールやニーチェの単独性を継承していると言えよう。問題は、存在=Media Pointのイデア的差異性の様相なのである。PS理論は、差異の即非性【i*(-i)】を根源に見ている。思うに、存在=Media Pointの単独性・特異性までは進展したが、それから、存在=Media Pointの差異即非性へと展開できなかったから、未完に終ったのではないだろうか。
 後期ハイデガーは、差異共振性を理解していると思う。古代ギリシアの神殿への理解は、それを指示していると思う。結局、現存在からのアプローチと、存在自体からの発想が統一できなかったのではないだろうか。
 思うに、フッサールの超越論的差異意識を真に理解すれば、そこからは、差異即非性ないしは、差異共振性は考えられるのである。ということは、ハイデガーの存在とは、実は、真に他者、外的他者を見ていなかったのではないかという疑問が浮かぶのである。
 つまり、こういうことである。存在=Media Pointの同一性構造(連続的同一性構造)から、自我=世人(非本来的自己)が発生する。しかし、現存在が、その単独性へと帰還するとき、つまり、本来的自己へと帰還したときは、当然、自我=世人は解体する。そのとき、差異即非性ないしは差異共振性が発生するのである。これは、PS理論的に考えていることであるが。なぜなら、存在=Media Pointの差異とは、差異意識であり、他者である差異を志向するからである。つまり、差異即非・差異共振性がそこには発動すると言えるのである。
 しかしながら、ハイデガーの現象学においては、単独性までは達するが、そこから、外的他者への志向性がないように思えるのである。確かに、垂直性が生起するが、水平性が解消しているのである。
 ということは、ハイデガーの存在とは、実際のところ、Media Pointではないのである。それは、実際、同一性からは切断されていない差異・単独性・特異性ではなかったかと思えるのである。そう、ニーチェ的単独性・特異性に近いと思うのである。道徳・倫理が消えているのである。
 そうすると、現存在から存在へのアプローチと後期ハイデガーの存在論への発想は、ある意味で通じているだろう。しかし、前者は、水平性から垂直性へであり、後者は垂直性のみである。この点で、齟齬はあったと言えよう。
 とまれ、私が考えた存在=Media Pointの図式は破棄されなくてはならない。存在≠Media Pointである。
 そうすると、フッサール現象学とハイデガー現象学の関係はどうなるだろうか。思うに、フッサールの超越的差異意識が、ハイデガーにおいては消去されているのである。フッサールにあった同一性への重なりを、ハイデガーが取り入れて、フッサールの超越論的差異意識を排除しているのではないかと思えるのである。
 だから、間主観性や生活世界の発想が、ハイデガーには喪失していると思えるのである。言い換えると、ハイデガーの存在とは、Media Pointの実軸的ゼロ点に当たると思えるのである。後期ハイデガーは、実軸的ゼロ点から、虚軸的ゼロ点を垣間捉えようとしているのではないだろうか。つまり、あくまで、ハイデガーは、同一性からは切断されていなかったと思えるのである。
 その視点から、ハイデガーとデリダの関係を見るときわめて興味深い。意外に両者は似ているのである。デリダは、フッサールの超越論的差異意識を否定して、差異と同一性の連続態としての差延を説いていると思うし、ハイデガーも、差異(存在)と同一性の連続態を現存在として説いているのである。ならば、ハイデガーとデリダはどう異なるのか。思うに、デリダには、後期ハイデガーの存在の超越論的志向性がないのではないだろうか。
 以上は、まったくの独断的私見であり、空想的試論に過ぎないことをお断りしておく。

p.s. 『存在と時間』における現存在の存在のもつ「気遣い」という概念・観念であるが、これは、思うに、フッサールの志向性に相当すると考えられるが、ならば、「気遣い」に、差異共振性(差異即非性)があるかどうかが問題である。直感では、ないと思う。「気遣い」は、あくまで、同一性の意識のように思えるからである。差異の意識ならば、差異共振性が発生するのである。

2007年08月15日 (21:30)

フッサールの志向性とハイデガーの気遣い:差異・即非・同一性志向性としての気遣い:開かれたM.P.

ハイデガーの『存在と時間』におけるキー・コンセプトの一つが、気遣いである。現存在とか世界内存在とかの、難しい抽象語の中にあって、「気遣い」というのは、日常の言葉でもあり、なにかユニークである。
 この言葉は現存在の存在の様相を意味する。こういうと分からなくなるだろう。とまれ、私はこの言葉を、PS理論から説明したいと思った。今ここで、ハイデガー現象学を読みとるPS理論的概念地図を与えるならば、暫定的だが、Media Pointが存在であり、世界内存在は、Media Pointからの現象化した様相である。
 これでは分かりにくいから、端的に言うと、「気遣い」とは、不連続性と連続性との即非様態であるMedia Pointから発動した現象化における個体の「志向性」である。この「志向性」は、フッサールの志向性を、言わば、敷延したもので、差異・即非・同一性様相としての志向性ということになると考えられる。ハイデガーが配慮的な気遣いというのは、同一性的志向性(モノや事物への志向性)であり、顧慮的な気遣い(他者を感知する志向性)というのは、差異的(差異共振的志向性)ということになるように思える。
 ということは、差異・即非・同一性としての志向性(又は、Media Point的志向性)は、差異と同一性が即非様相として存するのであり、ここでは、差異と差異とは、同一性が入っても、共立・共生・共振していると考えられる。つまり、これまで、私は、Media Pointから、第一義的に、同一性志向性が発動すると考えていたが、それを訂正して、差異と同一性の即非共振する志向性、即ち、差異共振的志向性が現象界においても発現すると考えたい。
 しかしながら、差異(差異共振性)が優位になるとき、同一性が優位になるときが存すると考えられる。差異が優位になり、同一性が劣位になるとは、どういうことなのか。同一性が優位で、差異が劣位になるというのは、これまで、近代合理主義の様態であると考えてきたので問題はない。
 差異優位、同一性劣位とはどういうことなのかと考えると、それは、差異共振性が優位であり、同一性的支配が劣位である。これは、結局、Kaisetsu 氏が説くメディア共鳴Media Resonanceの様態が主導的になり、言語や知性による支配が乏しいということではないだろうか。そう、思うに、Media Pointが開いている様態と言えるのではないだろうか、即ち、Open Media Point(開かれたMedia Point)と言えるのではないだろうか。とにかく、そう作業仮説しよう。(ならば、同一性優位のときは、Closed Media Point《閉じられたMedia Point》である。)
 差異優位、Open Media Point(開Media Point)の場合は、主体、又は個体は、イデア界・虚界に接しているのではないだろうか。イデア界・虚界の「光」ないしは超光に接しているのではないだろうか。思うに、古代ギリシアの時代は、そのような状況ではなかっただろうか。さらに言えば、父権文明以前の母権文明においては、そのような状態ではなかったのか。
 私は、差異優位、Open Media Pointの場合、歴史的には、母権的文明が中心であったと思うのである。神話で言えば、女神支配の時代である。前アーリア民族文化の時代である。また、ハイデガーの「存在の開けた明るみ」となにか神秘的な言い方をしている事象は、このOpen Media Pointにおける様態を指しているのではないだろうか。
 とまれ、以上のように作業仮説して、考察を進めよう。結局、Media Point志向性が差異と同一性の両面をもっていることで、これが、ハイデガーの気遣いと等価ではないかということである。
 そこで、近代合理主義においては、同一性志向性が優位となり、差異志向性が劣位となる。そして、ついには、同一性中心主義となり、差異が否定・無化される。これが、近代主義の極北である。近代的弱肉強食であり、そして、現代である。
 ポスト・モダンは、これに対して、差異志向性を説いたというか、説こうとしたのである。ドゥルーズ哲学の場合は、差異と同一性が連続化していたし、デリダ哲学の場合は、差延が同一性へと連関していたと言えよう。結局、純粋差異を、ポスト・モダン哲学は取り出すことができなかったのである。しかしながら、私見では、ハイデガー現象学は、存在概念によって、ほぼ純粋差異を捉えていたように思えるのである。PS理論は、純粋差異を掬い上げて、差異と同一性との即非的調和へと飛翔したと言えよう。
 とまれ、PS理論によって、明確に、Media Pointが新たに開くことができたと言えるのではないだろうか。このNew Open Media Pointによって、Media Pointのエネルゲイアが流入し、メディア共鳴も活性化されるようになるのではないだろうか。あるいは、差異共振化が賦活されるのである。
 経済で言うと、資本主義は、同一性=貨幣=資本経済であった。同一性が優位となり、差異が劣位となってきたのである。同一性は、唯物論と結びつき、物質主義中心の経済であったと言えよう。
 しかるに、差異共振化が生起すると、差異共振的価値が中心化されて、差異共振性の視点によって、投資されるようになるはずである。実際には、同一性資本主義と差異共振資本主義とが併存すると思うのである。資本主義を同一性経済とするなら、差異共振経済は資本主義ではない、それは、脱資本主義である。即ち、差異共振的脱資本主義である。
 例えば、格差という事態は、資本主義=同一性経済から生じるのである。19世紀における富裕者と貧困者の格差はこれで説明ができるのである。差異共振性の観点で見ると、富裕者と貧困者は対立ではなくて、両者の共振が価値であるということになるのである。全体の富を富裕者と貧困者との差異共振価値に使用することで、社会全体が富むことになると考えられる。例えば、貧困者に対する減税によって、貧困者の家計を潤し、また、富裕者への増税によって、社会全体の富を増加させるのである。問題は政治や行政である。差異共振政治、差異共振行政とならなくてならないだろう。私腹を肥やすことは、同一性=自我主義であり、差異共振価値を損なうのである。
 差異共振価値へのパラダイム・シフトが必要である。

2007年08月14日 (21:54)

フッサールとハイデガー:超越論的主観性と存在:差異共振性と現象学

フッサールの超越論的主観性についてはいろいろ述べたが、ここで、ハイデガー現象学と比較するため、再考したい。
 ここでは、直感で述べたい。フッサールの超越論的主観性とは、現象学的還元によって生起する「主観性」である。しかしながら、この「主観性」は、当然、日常の自我の主観性ではない。自我を超えた主観性である。私はこれを主観性と呼んでいいのか疑問に思っている。
 端的に言おう。超越論的主観性とは差異共振性のことである。差異共振性とは、原主体と原客体が共振している様相であり、PS理論では、Media Pointの領域である。フッサールの超越論的主観性の構想は、本来、ここを意味していると思えるのである。しかしながら、フッサールは、同一性理性主義を信奉しているので、この原主体・原客体の差異共振性を、同一性理性の主体による志向性によって把捉しているのである。ここに、実質と意識とのズレが生じていると考えられるのである。言い換えると、フッサールは、無意識では、差異共振性(Media Point)を把捉していたが、意識では、同一性志向的主体の志向性として理解したのである。
 このズレを考えると、間主観性(相互主観性)や生活世界の意味がよく理解できると考えられるのである。即ち、無意識の差異共振性が意識の間主観性(相互主観性)と理解され、無意識の差異共振的世界が生活世界と想定されたと推察されるのである。
 言い換えると、フッサールは同一性理性の色眼鏡で、天才的直感で捉えていた差異共振性を理解したのである。このフッサールの差異と同一性とのダブリが現象学を複雑にしていると考えられる。
 さて、ハイデガー現象学であるが、思うに、ハイデガーの天才はフッサールが超越論主観性と誤解した差異共振性を存在と端的に捉えたところにあるだろう(この言い方はよくない。端的に差異共振性ではなくて、差異共振的なものを、直感的に、存在として大掴みしたということである)。これは、正に天才的明敏さである。
 先に述べたが、フッサールがパイオニアとして開拓したが、同一性理性主義という西洋の伝統の枠組みに捉えられていたため、正確に命名把握できなかった、哲学の新たな地平を、ハイデガーが明敏に把捉して、存在論的現象学を構築したと考えられるのである。
 ということで、現象学は、フッサール/ハイデガー現象学(言わば、フッデガー現象学である)と見るべきである。そして、これは、実質的なポスト・モダン哲学なのである。
 というように見ると、現代哲学の混乱・混迷は巨大である。ある種致命的である。端的に言えば、構造主義で現象学を超えたという錯誤が支配したことにあるだろう。そして、構造主義とポスト・モダン哲学との関係があいまいになっていることにも原因があるだろう。
 また別の視点から言うと、現象学の文体にも問題があるだろう。フッサールにしろ、ハイデガーにしろ、晦渋である。確かに、それまでの西洋哲学を乗り越える画期的な理論であるが、あまりにも、文体的に構え過ぎていて、一般の読者には難解過ぎるのである。研究者の文体も一般にはそうだろう。
 思うに、構え過ぎる文体とは、端的に、利己主義を意味するだろう。読者喪失の文体であろう。(私が書いていることも、一般の人には分けがわからないだろう。しかし、文体的には、シンプルであると思う。考え方の筋道が分かれば、PS理論は分かりやすいのである。PS理論入門講座を行おう。ここでは、読者参加型にしたい。)そう、だから、逆に言えば、現象学は、どこかで、他者を喪失しているのである。フッサールの場合は、以上の考え方でそれがわかるだろう。ハイデガーの場合はどうだろうか。
 ここで私事になるが、ハイデガーの文章は嫌いである。勿体ぶりが嫌である。尊大ということだろう。では、端的に何が嫌気を生むのか。(デリダの文章も問題がある。抽象的な表現が過多であり、ポイントが不明確になるのである。ドゥルーズは直截的であるが、論理が目茶苦茶なところが多い。)
 ハイデガーの叙述への嫌悪感の原因は、叙述が経済的でないことにあるからだろう。端的に冗長なのである。冗長というのは、正常な論理感覚が欠落しているということだろう。長々しく、自説を説明するというのは、一種病的な精神である。不健全である。
 正常な論理感覚とは、正に、差異共振的な論理感覚であろう。ハイデガー現象学は、内存在、世界内存在、現存在という点においては、差異があるが、健全な差異共振性が欠落していると思う。思うに、ハイデガーの存在と存在者には、「一つの裂け目」があるとされるが、しかし、十分、不連続化していないように思えるのである。

以上は、暫定的な考えであり、これから、さらに検討していくことになる。
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