2007年11月27日 (23:06)

三島文学と差異共振性:トランス・モダンへの萌芽

三島由紀夫文学であるが、彼の文学は、基本的には、-i→+iの文学である。そして、その反近代主義、身体・神秘主義には、差異共振性=Media Pointが内包されていたというのが私の考えである。ハイデガーを超えていたのである。大江健三郎は三島を批判するが、それは狭量である。大江自身に本来差異共振性があったが、それが、戦後民主主義や近代合理主義で、弱化されてしまい、枯渇してしまったと思っている。ほとんどの日本人は、三島文学のもっているトランス・モダン性が理解できていないのである。

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昨日は三島由紀夫没後37周年と言う事で、豊島公会堂で開かれた憂国忌に行って来ました。37年も経つと中年以上の人しか三島由紀夫の生前の姿を知らない。私は三島由紀夫の講演会などで生の姿を知っていますが、まさに文化人のスーパースターであり女性ファンも多かった。

私もミーハー的なファンであり小説には読んでもなじめなかったが、政治的なエッセイなどは読みあさった。戦後の日本は文化人と言えばリベラル左翼の代名詞であり、右翼とか民族派というと暴力団的なイメージが付けられてしまっていた。その中で三島由紀夫と石原慎太郎は異彩を放っていたのですが、現在には彼らのような若手の文化人のスーパースターがいない。

70年安保ぐらいまでは大学でも学生運動が盛んでしたが、現在の大学は政治的学生運動はほとんど無いといっていい。それくらい現代の若者はすっかりノンポリ化してしまって政治的講演会があっても若い学生を見かけることはまれだ。それくらい政治思想には無関心であり、戦後マスコミと教育ですっかりノンポリに洗脳されてしまったのだ。

「株式日記」はその名のごとく経済ブログなのですが、最近では政治ブログ化している。三島由紀夫が生きていたらどんなブログを書いただろうか? 自分で言うのもなんですが三島由紀夫の魂が乗り移って書いているのだろうか? 檄文などを読んでもらえば分かるとおり、60年以上たった現在も実質的にアメリカ軍に占領された状態は続いている。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20071126
株式日記と経済展望

2007年08月21日 (18:44)

三島由紀夫の『豊饒の月』の第三巻『暁の寺』の阿頼耶識論:PS理論と三島の阿頼耶識論乃至は唯識論

貪るように、『暁の寺』を読み始め、途中を少し飛ばして、本巻の主人公、本多の阿頼耶識(あらやしき)論ないしは唯識論の箇所を再読した。以前読んだとき、なにか、その阿頼耶識論は、少し間違っているのではないかと感じたが、今読むと、三島が焦燥に狩られて、急いで、阿頼耶識論・唯識論を展開したのではと思えるが、それでも、十分研究すべき内容をもっていると考えられる。
 冒頭から始まる、本多(三島)のタイ、バンコックの大理石寺院(ワット・ペンチャマボピット)やインドのベナレス(今日では、ヴァラナシ、ワーラーナシー等)やアジャンターでの体験の、絢爛な、あるいは、凄絶な描写も見逃せないが、やはり、圧巻は、本多の輪廻転生、阿頼耶識、唯識論に関する論考である。第三巻第一部の十三章から二十章までの箇所である。文庫本で、38ページほどである。
 少し引用しよう。


「・・・一切のものは阿頼耶識によって存し、阿頼耶識があるから一切のものはあるのだ。しかし、もし、阿頼耶識を滅すれば?
 しかし世界は存在しなければならないのだ!
 従って、阿頼耶識は滅びることがない。滝のように、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、不断に奔逸しているのである。
 世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れている。
 世界はどうあっても存在しなければならないからだ!
 しかし、なぜ?
 なぜなら、迷界としての世界が存在することによって、はじめて悟りへの機縁が齎されるからである。
 世界が存在しなければならぬ、ということは、かくて、究極の道徳的要請であったのだ。それが、なぜ世界は存在する必要があるのだ、という問に対する、阿頼耶識の側からの最終の答である。
 ・・・
 最高の道徳的要請によって、阿頼耶識と世界は相互に依為し、世界の存在の必要性に、阿頼耶識も亦(また)、依拠しているのであった。
 しかも現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである。
 ここに、唯識論独特の同時更互因果の理が生じる、と本多は辛うじて理解した。」 p. 160〜p. 161 (尚、本文で傍点を振ってある箇所は、下線をつけた。)


最後の行に同時更互因果の理とあるが、これは、それ以前の箇所に説明があるので、引用しよう。


「---しかし本多は、唯識論について学べば学ぶほど、阿頼耶識(あらやしき)がいかにして世界を顕現させるかという態様に、興味を抱かずにはいられなかった。なぜなら唯識論は、阿頼耶識による因果は「同時」に、すなわち一刹那(いちせつな)に、しかも更互に起ると説くからである。かりにも因と果を時間的継起によってしか考えられない本多には、この阿頼耶識と染汚法(ぜんまほう)の同時更互因果という観念ほど、難解なものはなかった。しかも、これが唯識および大乗全般と、小乗とを分つところの、根本的な世界解釈の相違をあらわしていることは明らかだった。」 p. 157


 本多(三島)は、同時更互因果の難解さを提示しているが、これは、PS理論から見ると、実に当然というか、簡単なことである。つまり、阿頼耶識と現象との同時生起がここでは問題になっているのであるが、阿頼耶識をMedia Point、現象を同一性発現態と見ればわかりやすいだろう。Media Pointに時間があり、それが、同一性化して、現象を引き起こすのである。だから、Media Pointの発現として現象を捉えることができるのである。だから、それは、同時更互因果である。
 また、最初の引用では、阿頼耶識と世界の二元論が生起しているような気味がある。これは、正しくないだろう。正しくは、両者は一体ないしは一如(いちにょ)である。Media Point=阿頼耶識の、いわば、同一性の顕現した様態が現象界であると考えられるからである。言い換えると、Media Point=阿頼耶識の現象面が、世界なのである。だから、一体、一如なのである。
 もっとも、この関係は微妙である。なぜなら、Media Point=阿頼耶識の同一性の顕在面である現象面ではなく、同一性の潜在面が考えられるからである。だから、潜在面と顕在面で分離するなら、確かに、 Media Point=阿頼耶識と現象界=世界を二つに分けられる。しかしながら、同一性は潜在面と顕在面の両面をもっているのが真実である。
 確かに、近代合理主義的思考においては、この同一性を主客分離させて、同一性の潜在面に主観を、同一性の顕在面に客観を見て、主客二元論を形成しているが、その二元論的思考方法に囚われているなら、本多(三島)に見られる阿頼耶識と世界との二元論が生じるように考えられる。
 ここで、本多(三島)の阿頼耶識論を考えてみると、確かに、鋭敏な思考があるが、上述した理由で、阿頼耶識には十全には達していないように思えるのである。「しかし世界は存在しなければならないのだ!」というような言葉が繰り返されるが、どうも強引な言い方である。なにか、ここには、現象世界になんとかすがろうとしている本多というよりも、作者三島の意志がはたらいているように思える。逆に言えば、現象世界が、三島にとって、希薄なものになってきているのだろう。言い換えると、虚無が三島の精神を犯しているのであり、現象世界の存在を提起することで、それに対抗していると言えよう。
 虚無とは、端的に、死の世界、涅槃、イデア界である。それが、現象世界を無化するのである。その無化への対抗としての現象世界の存在と阿頼耶識の提起なのだと思う。思うに、三島の特異性とは、強烈なイデア界的志向なのだと思う。死・虚無への志向である。これが、同一性をすべて破壊・解体してしまうのだ。ここで、想起するのは、イギリスの女性作家、ヴァージニア・ウルフである。やはり、死への志向性をもっていた作家である。現象世界が希薄なのである。
 「しかし世界は存在しなければならないのだ!」とは、虚無に犯された三島の切望の叫びであろう。思うに、『鏡子の家』の日本画家、夏雄の一茎の水仙の実在を支点にしているのであるが、それは、正しいと思うのである。つまり、一茎の水仙の実在とは、同一性の現象の肯定であるからである。だから、三島は、「確かに、世界は存在する!」と単に言えばよかったと思うのである。一茎の水仙が頼りであったが、やはり、三島にとっては不確かだったのだろう。
 「確かに、世界は存在する!」という現象の同一性の確認ができて、阿頼耶識との関係が明快になると思うのである。そこから、同時更互因果が直覚できると思うのである。
 結局、本多(三島)の阿頼耶識論とは、虚無=死=イデア界の強力な志向力学に対抗して、現象世界が要請されているというバイアスのかかった点を差し引いて言えば、イデア界と現象界の交点であるMedia Point=阿頼耶識は、鋭敏に捉えられていると言えるのではないだろうか。即ち、上の引用の「現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである。」という箇所は、阿頼耶識を的確に捉えていると考えられるのである。「時間の軸と空間の軸の交わる一点」というのは、正に、Media Pointのことを指しているだろう。ただ、時間の軸を虚軸にすれば正解になるのである。

2007年08月21日 (00:00)

ハイデガーの『存在と時間』と三島由紀夫文学:三島ルネサンスへ向けて

ハイデガーの『存在と時間』(中公クラシック)を、納得しながら、しかし、冗長な叙述にすこし退屈しながら読んでいたが、ふと、数日前に駅前の本屋で手に取った三島由紀夫の『鏡子の家』の夏雄の富士山麓青木ヶ原樹海での神秘体験の叙述に興味をもったので、購入して、今日読み終えた。そして、今日、未読の『絹と明察』と昔読んだ『豊饒の海』の『暁の寺』を購入して、今、後者を読んでいる。急に、三島文学に夢中になってしまった感じである。
 ハイデガーの『存在と時間』の読書途中であるというのが、なかなか、意味深長である。私が既に述べたように、三島文学は哲学的文学である。そして、ニーチェのアポロとディオニュソスとの視点から三島文学を簡単に考察してみたが、思うに、ハイデガー現象学からも、三島文学は解明できるだろう。もっとも、PS理論から分析できるのである。
 時間や空間の問題が三島文学にあるのであり、輪廻転生もその問題に関係する。それにしても、今回、三島文学が哲学的文学であることを発見したことは、大きな喜びである。そう、いわゆる、日本近代文学の一つ頂点の発見でもある。そして、さらには、トランス・モダン文学の発見でもある。
 漱石は確かに日本近代文学の開拓者であったが、その後、谷崎潤一郎、川端康成等の優れた文学が創造されたが、また、戦後においても、それなりの成果があったが、なにか、現代に関係するような文学がないように思えていたのである。いわば、近代と現代をつなぐミッシングリンクとして三島文学を発見したと思うのである。
 三島は自刃による壮絶な事件のインパクトが強く、その面が中心となってしまっているが、文学自体は、それからいったんは切り離して読むべきである。今日の日本が忘却した思想がそこにはある。仏教/プラトニズムの思想である。三島ルネサンスが来るだろう。

2007年08月18日 (18:58)

三島由紀夫の『鏡子の家』は反モダンとしてのポスト・モダンの解体としてのトランス・モダン小説だろう

ハイデガーの『存在と時間』を読んでいると、洞察力には瞠目するものの、叙述のペースが遅いというか、冗長なので、退屈しないわけではない。
 たまたま、駅前の本屋で手に取った三島由紀夫の長篇小説『鏡子の家』を買って、読み出したが、文体は三島としては弛緩している感じで、緊張感が乏しいが、しかし、内容的には興味深い、魅力的なものである。
 どうやら、三島由紀夫ルネサンスを迎えるのではないだろうか。あの壮絶な自決が今でも深く心に浸透しているが、三島の文学作品自体を正しく批評して評価すべきときになっているのではないだろうか。
 今日、すぐれた文学者は不在であり、文学が衰退していている。村上春樹では、軽量過ぎるだろうし、大江健三郎は、凡庸化している。文学だけではなく、音楽も美術も衰退している。さらには、日本全体が衰退している。
 三島由紀夫文学は、日本文学における、『死霊』の埴谷雄高文学と並んで、稀有な哲学的文学として評価すべきと考えている。私は以前、と言っても、今から十六七年前頃、三島由紀夫のエッセイの文体に、大地の奥底からの響きを聞いた。マグマである。そして、彼の一種の不気味な神秘主義に惹かれた。しかし、『豊饒の海』は、それほど、感動はしなかった。それは、あまりにも人工的な作品に思えた。(昔は、人並みに有名作品、例えば、『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』等を読んで感動した。そう、SF的な『美しい星』は、ファンタジックな感動があった。)そして、異様なエッセイである『太陽と鉄』は、難解であった。そして、結局、『文化防衛論』の三島にもっとも強い感銘を受けたものだった。
 しかしながら、当時の私は、三島文学の骨格の哲学に気がつかなかった。ニーチェ哲学を適用することに気がつかなかった。ただ、虚無だけが恐ろしく剥き出しに感じられた。
 しかし、今は、PS理論のパースペクティブがあるので、三島由紀夫文学の哲学性が明瞭に見えてくるのである。先にも触れたが、明らかに、仏教とプラトニズムの哲学である。ないしは、古代ギリシアの思想である。確かに、右翼として三島像があるが、それだけを肥大化すると三島由紀夫文学が見えてこなくなるだろう。
 とまれ、三島由紀夫文学は、今日的な、トランス・モダン哲学を表現ないしは潜在させていたと思えるのである。私の直感では、プラトニズム的仏教ないしは仏教的プラトニズムと呼べるような哲学が三島由紀夫文学には表現されていると思うのである。ただし、イデア論のイデアを同一性的イデアと見るのは、いわば、通俗である。プラトンのイデアは、同一性イデアよりも深いものがある。有名な洞窟の比喩の箇所でわかるように、三層構造である。即ち、洞窟外の太陽と洞窟内の実体と洞窟の壁の映像である。洞窟内の実体が、同一性のイデアであり、洞窟外の太陽がイデアのイデア、ここで私が考えるイデアである。
 直感では、三島の虚無は、D.H.ロレンスの闇に似ている。それは、実際は、イデアの光=超光であると思う。イデアの光=超光は、現象世界からは、不可視であり、虚無や闇に感じられると思うのである。
 今はここで留めたい。

p.s. イデアの《太陽》は、独立しているのだろうか。言い換えると、虚界とMedia Pointとは別々に独立しているのだろうか。思うに、ここで、デリダの痕跡という概念を使用するといいと思う。Media Pointは、イデアの《太陽》の痕跡ではないだろうか。イデアの《太陽》は、実際は、静的なもの、デュナミス的(否、前デュナミスかもしれない)ものである。それは、エネルゲイア以前であるから、実際は、認識不可能である。完全に不可知である。
 Media Pointを媒介にして、イデアの《太陽》が、影のように知覚ないしは認識できるのではないだろうか。常に、Media Pointを介して、認識することになるのである。
 どうも、これは難問である。虚界がイデアの《太陽》ならば、Media Pointは、何であろうか。それは、光なのか。エネルゲイアであることは確かである。思うに、イデアの《太陽》とは虚光であり、Media Pointの《太陽》が超光⇒現象光ではないだろうか。
 後で再検討したい。

2007年08月17日 (19:37)

三島由紀夫の『鏡子の家』は哲学的(トランス・モダン)小説である:アポロとディオニュソス

今から、約半世紀前(昭和34年、1959年発行)の三島由紀夫の、当時批評家からは黙殺され、ある意味で、作家三島を半殺しにした作品であるが、今、半分弱ほど読んだが、文体が今では古くなってはいるものの、哲学的思想が深く表現された作品であると判断した。
 三島の哲学的思想は、よく言われるように、確かに、ニヒリズム(虚無主義)であるが、それでは、大雑把である。三島の哲学的思想は、戦後民主主義即ち、戦後近代主義を無価値として否定する仏教/プラトン的思想であると考えられる。
 『豊饒の海』は、大作であるが、必ずしも三島の代表作とは言えないのではないだろうか。私は、これまで、『文化防衛論』が三島のいちばんの傑作であると思ってきたが、『鏡子の家』を読んでいて、この作品も一つの傑作ではないかと思うようになってきている。少なくとも、代表作にはなると思う。また、日本近代文学における傑作の一つであり、また、さらには、日本/世界トランス・モダン文学の先駆になっているのではないと考えるのである。
 今から見て、あるいは、PS理論から見て、この作品が黙殺されたのはよく理解できる。なぜなら、三島由紀夫は、近代主義をはるかに超えた視点を作品において表現しているからであり、それが戦後近代主義の発展して行く中で、無視されるのは当然であったと考えられるからである。
 先にも少し触れたが、三島の哲学思想を捉える視点の一つは、ニーチェのアポロとディオニュソスの対極的なパースペクティブであると考えられる。この観点でおそらく、明瞭に三島の哲学的文学の骨格が理解されると思われる。
 三島は自身は、アポロ主義ないしは古典主義を標榜しているが、それは、一種のポーズである。三島自身、音楽(ディオニュソス)というものを強く意識している。そして、アポロ(美術、視覚)を超えたものに真の美を見ていると考えられる。このアポロを超えた、超越的な美とは、当然、ディオニュソスと考えられる。つまり、イデアである。
 先にも述べたが、実は、ギリシア悲劇の『オイディプス王』からわかるように、アポロとは視覚を超えたものでもある。アポロ神でもあるのである。そして、これは、ディオニュソスと通じると考えられるのであり、先には、極論単純化して、アポロ=ディオニュソスと述べたが、より精緻に識別できると考えられる。
 ディオニュソスとは、先にも述べたが、エネルゲイア(ダイナミクス)である。エネルギーである。これは、PS理論では、Media Pointである。ギリシア神話で、ディオニュソスの様態が千変万化するが、エネルゲイアであるMedia Pointを考えれば、納得できるのである。
 では、アポロは、端的に、何であろうか。先の等式からは、アポロもエネルゲイア、Media Pointになるだろうが、それは違うと考えられる。端的に言おう。アポロとはイデアである。プラトンのイデアである。善のイデアである。洞窟外の太陽である。つまり、PS理論から言うと、エネルゲイアであるMedia Pointがディオニュソスであり、根源的差異即非であるイデアi*(-i)がアポロである。換言すると、アポロ(イデア界)⇒ディオニュソス(Media Point)⇒アポロ(現象界)という図式になる。アポロが二つの世界に分かれるので、混乱する。しかしながら、同語とするのは意味があるように思う。
 超越的世界と現象世界が同語で表現されるということを、おそらく、古代ギリシア人は意味したはずである。思うに、古代ギリシア人は、現象世界を媒介にして、超越的世界(イデア界)を直観(霊的直観)していたように思えるのである。ここで、『オイディプス王』に出てくる予言者ティレシアスが盲目であり、アポロの神託の内容と同じことに通じていたことを想起しよう。アポロは不可視の世界をも意味しているのである。おそらく、ギリシア神話は、このような予言者や透視者・霊視者によって語られたものだろう。ギリシアの叙事詩の詩人のホメロスは盲目であったことも参考になるだろう。目に見えない世界を見ることができた人間によってギリシア神話が語られたのであろう。そして、古代ギリシアが特異な時期であったのは、その不可視の世界と可視の世界とが重なるような時期であったということだろう。これが、アポロの意味だと思うのである。ということで、アポロ⇒ディオニュソス⇒アポロの図式をそのまま活かしたい。
 三島由紀夫に戻ると、このコンセプトを用いることで、彼の文学がよく理解できるということなのである。三島由紀夫は、正に、古代ギリシア的な作家であったと考えられるのである。『鏡子の家』で言えば、鏡子が正に、ディオニュソス(音楽)を表現するだろう。そして、日本画家の夏雄がアポロを表現するだろう。そして、その他のボクサーの卵の俊吉や俳優の卵の治が、男性の鍛えた筋肉に至高の美を見るというのは、現象に限定されたアポロを意味するだろう。以下、小説(新潮文庫)から傍証したい。

「・・・鏡子は照りつける日ざしもかまわずに島を見ていた。・・・
 島はきらめく海のかなた、潮風のほかに充たすもののない距離を保ちながら、手をのばせば手につかむこともできそうな誘惑的なみせかけの近さを示していた。しかし鏡子は今わが手に、その島の木の梢(こずえ)、草の一ト本(もと)だに握っているのではない。島という存在は現在のものではない。それは未来と過去のどちらかに属しているである。
 定かならぬ細部が一いろのお納戸(なんど)に紛れた島は、記憶のようにも、また希望のようにも見えた。楽しい思い出のようにも、未来にわだかまる不安の姿のようにも見えた。その島と今鏡子たちのいる場所とをつなぐ力は、音楽にもよく似た力で、それは潮風の羽搏(はばた)きのように存在の距離を埋め、距離そのものをきらめいて流動する情緒の連鎖に変えてしまうのであった。こんな音楽の光りかがやく翼に乗って、鏡子は過去でもあり、未来でもあるあの島へ、たちまちにして身を運ぶことができるような気がした。
 ・・・
 鏡子は東京の家にいるときのあの何事にも客観的な自分の代りに、別の、心おきなく恋に酔うことのできる自分がそこに住みならえていそうな気がする。彼女が身に持している固い無秩序とちがって、絹のように柔軟な情念の秩序がそこには備わっていそうに思われる。・・・」 p. 147〜p. 148

「自分たち[治やボクシング・ジムの青年たち]の過剰な筋肉と、窓外の社会とそれが何のかかわりのないことが彼らを幸福にしていた。精力は筋肉のつややかな隆起の内に閉じこめられ、何の目的も呼び求めずに自足して、どこまで行っても、費やされる精力は、この個体の、徐々に増してゆく筋肉の中で終った。それは決して叫びにならない歌のようなものだった。
 筋肉で人を威かす。威かすおはおもしろい。しかし筋肉の、やさしい、ものの役に立たない、絹や花のように眺められる性質について、よく知っているの当の彼らだけであった。」 p. 247

「夏雄はこんな議論に子供らしい危険を感じた。第一、芸術作品とは、目に見える美とはちがって、目に見える美をおもてに示しながら、実はそれ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、超時間性にほかならないのだ。もし人間の肉体が芸術作品だと仮定しても、時間に蝕(むしば)まれて衰退してゆく傾向を阻止することはできないだろう。そこでもしこの仮定が成立つすれば、最上の条件の時における自殺だけが、それを衰退から救うだろう。何故なら芸術作品も炎上や破壊の運命を蒙(こうむ)ることがあるからであり、美しい筋肉美の青年が、芸術家の仲介なしに彼自身を芸術作品とすることがきたとしても、その肉体における超時間性の保障のためにには、どうしても彼の中に芸術家があらわれて、自己破壊しなくてはならないだろう。」 p. 253

■仏教とプラトニズム

三島由紀夫の哲学思想に関して、本稿では、プラトニズムになっているが、私は仏教とイデア論が同質であることを述べそびれている。
 三島の仏教に関しては、『豊饒の海』が表面的には顕在的だが、私はそこよりも、『鏡子の家』やその他の作品ないしはエッセイに三島の文教性があらわれているのではないかと思う。
 三島の仏教性は、強烈であり、超越的無へと突き抜けていると思う。それは、現世を否定して、超越界へと回帰する志向性をもっていると思う。先にも触れたが、これは、仏陀・釈迦牟尼が述べた、輪廻する世界からの解脱に通じるのではないだろうか。現世利益中心の大衆化した仏教ではない、苛烈な仏教性があると思う。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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