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2010年12月30日 (15:28)

力への意志とニーチェ哲学のポスト・モダン的限界:トランス・モダン哲学・科学のPS理論

フランスのポスト・モダンやハイデガーは、ニーチェの「哲学」の影響を強く受けてきた。今や、PS理論が誕生して、既成の学問は一掃されるが、哲学において、露払いする必要があると思うので、一言、ニーチェ問題について述べたい。
 ニーチェ哲学の核心は、力への意志である。Der Wille zur Macht(Will to Power)である。これをどう理解するかである。以前は評価したが、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10252980429.html
今は批判することになる。これは、PS理論が進展して、知がより明晰になったからである。
 直観で言えば、「力」とは、この場合、自我凸i⇒+1と連続化した凹iのエネルギーであると考えられる。当然、純粋差異、純粋他者ではなく、自我の否定力があるので、「力」とは、否定的なエネルギーなのである。それは知を混濁させる力動・情動であり、反知性的である。それは、実に不透明なのである。闇である。
 それゆえに、反知的な権力願望を肯定することになり、ナチスに利用されたのは当然であると言えよう。
 この視点から、初期ニーチェのアポロ/ディオニュソス、あるいは、後期のツァラトゥストラについても解明できるだろう。一言言えば、それは、やはり、自我凸iが他者凹iに混濁しているのである。換言すると、アポロとディオニュソスは連続化しているのである。そのために、ディオニュソスさらにはツァラトゥストラが、否定的エネルギー、反知性的エネルギーになるのである。
 そう、自我の混濁・連続化の視点によってこそ、ポスト・モダンの源泉となったニーチェ「哲学」の欠陥が明らかになるといえよう。
 すなわち、それは、物質性ということである。自我が入ると、唯物論的になるのである。そのために、超越性は否定されるのである。この反超越性、物質主義がニーチェ「哲学」に巣食っているのである。確かに、それは、既成のロゴス的哲学・科学を否定したが、自身の唯物論性を否定できなかったのである。そして、それが、ハイデガーやポスト・モダンを規定・限定していると考えられるのである。
 丁寧に言えば、確かに、ニーチェには、超越性の予感があったが、それは、自我の物質主義のために、精神病理的に抑圧されたと言えよう。
 今や、トランス・ニーチェの時代である。超・超人の世界である。仏教の他者知性の時代である。それは、神道的多神教的霊性と調和するだろう。
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2010年09月07日 (12:38)

保守主義問題:反自民党・反近代主義とPS理論

テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築

Kaisetsu氏が保守主義を明快に類別している。それに拠ると私はある保守主義には妥当し、他のそれには妥当しない。
 私は保守という言葉を積極的に使用したのは、思うに、1回くらいしかないと思う。
 私は今でも自民党基盤の田舎で育ち、反自民であった。田舎の人間の、一種自民信仰のようなものに反発はしていた。そう、田園を破壊していく自民党の近代化政策にも反発していた。また、米国に追従する自民党を嫌悪した。(追記:思うに、田中角栄をどう見るかが保守主義問題の核心にあるだろう。これについては、後で考察してみたい。)
 そもそも、近代主義への反発が強かった。これは、一種ロマン主義的反発である。美的反発である。物質主義への反発である。資本主義への美的な反発である。
 一番の問題は、近代文化史に典型的な、精神・感性と近代科学・技術との折り合いをつけることのほとんど不可能さであった。その最大の原因は戦後の物質主義教育を植え付けられていたこと(唯物論的洗脳)である。結局、PS理論は、徹底的にこの問題を解決して、合理的な現実主義と超越主義の両極を見つめる形になったのである。

追記:開明的保守主義という発想があり得る。ところで、後で、述べてみたいが、小沢一郎の発想は実に、差異的である。差異共立的であり、また、差異共振的である。結局、現実創造的に考えると自然、必然的にそうなるのである。差異こそ、現実の根拠であるからである。それに対して、干首相は典型的な同一性主義、空っぽ主義、空虚である。個のまったき欠如である。常に、他者を否定することで、自己同一性を維持するだけで、自己差異=個がないのである。
 民主党代表選はだから、近代とトランス・モダンのゾロアスター教的争闘の哲学的意義をもっているのである。

追記2:考えてみれば、私は反自民・反近代ということで、典型的な二項対立になっていたのである。それは、単純な発想である。そして、それを乗り越えるために、私は両極性(陰陽論)という発想に、また、「気」の超越的思想には行き着いてはいたが、それから、不連続的差異論、PS理論に行き着くまでは永い永い道のりであった。

追記3:ポスト・モダンは結局、近代文化史の矛盾を乗り越えることができなかったのである。

追記4:個の問題は、感性、美、芸術、精神、倫理の問題が入るのである。このテーマについては後で検討したい。重要な問題である。

【再掲示】 7つの保守主義(海舌の分類)
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811636
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

2010年08月17日 (17:09)

再掲(字句補正):芸術作品の成功の基盤:PS理論的トランス・モダン美学:トランス・モダン進化の降臨的襲来

芸術作品、例えば、文学作品が成功していると判断できる基盤とは何だろうか。それは、結局、追体験できることにあるのではないだろうか。そして、追体験ないし体験の基軸にあるのは、Media Pointである。理論的には、そうであるが、追体験、体験における具体性とは何なのか。
 それは、感覚、知覚に基づく経験的表現ではないだろうか。単に、観念、概念、知性による叙述ならば、それは、思想や哲学にはなっても、芸術作品には、当然ならない。
 では、感覚的な体験的な表現の何が芸術の本質なのか。これは、やはり、Media Pointの意義を考えざるをえない。芸術とは、感覚・追体験的にMedia Pointの様態を表現していると思われる。
 ただ単に、感覚的追体験的な表現だけでは、すぐれた芸術にはならない。平板な凡庸な作品になる。そこに、Media Point的様態がなくてはならないのである。Media Point的感覚体験的表現があることに拠り、作品がいわば、生きる、息吹をもつのである。生空間が生まれるのである。それにいわば共感し、感動感銘を覚えるのである。
 そう、Media Point的な感覚体験的表現は、読者、鑑賞者、視聴者のMedia Pointを感覚追体験的に解放すると考えられるのである。つまり、日常において、一般者は、物質的感覚知覚の世界に生きていて、いわば、Media Pointを閉じているのであるが、日常生活を離れて、上質の芸術作品に接することで、閉じられていた一般者のMedia Pointが解放されて、いわば、再生するのである。これは、作品のもつ凸i#凹iの差異共立エネルギーが放出されるからだと考えられる。
 日常生活は、差異共振的同一性(物質)的な力動が支配するが、芸術作品の享受においては、潜在的な差異共立エネルギーが放出されるのであり、それが、美ないし崇高的感銘・感動を生むと考えられる。言い換えると、即非的な追体験を味わうのである。
 単に三次元的な感覚体験では、浮薄なものしか得られないが、Media Point的感覚体験的表現では、深い、高い境地を得られるのである。そう、今では、それが、高次元的表現であると明確に説くことができるのである。あるいは、心精的表現である。シュタイナー的に言えば、感覚―超感覚的表現ということになる。
 また、以上のことは、芸術的普遍性を意味すると考えられるのであり、PS理論的美学、トランス・モダン・イーセティックが形成されたことになるのである。
 そう、Media Point的感覚体験的表現とは、高次元的表現であり、それは、超越光的表現である。ここから、芸術において、ポリフォニー(対位法)がなぜ核心的か簡単に理解できるのである。これは、音楽、美術だけでなく、文学においてもそうである。代表的作家は、音楽ならばバッハ、美術ならばルネ・マグリット、文学ならばD. H. ロレンスである。これは、芸術・美学の相対性理論と言えよう。ただし、差異共立が前提である。
 さて、最後に簡単に、トランス・モダン・アート(多様な芸術を含める)の創造について触れよう。
 結局、近代という時代において、すぐれた作家は近代合理主義に対抗して、Media Point的表現を志向したと言える。(他の領域においても、Media Pointの探究が為されたと言える。)つまり、トランス・モダン的志向性をもっていたのである。とりわけ、20世紀初期、前期の作家に見ることができる。しかしながら、文学史等では、それらをモダニズムという様式概念に括っている。これは、明らかに誤謬、錯誤、倒錯である。
 それらは、トランス・モダニズムと呼ぶのが適切なのである。それは、後のポスト・モダニズムをはるかに超えた芸術表現であると言える。結局、モダニズムとは何かということになる。それは、端的に言えば、トランス・モダンの表現衝動がモダンの表現と激突して生まれた芸術表現様式であると考えられる。だから、表面的に見ると、モダン的表層があり、それが、斬新なために、モダニズムと呼ばれたのではないだろうか。
 よくモダニズムの断片性やモンタージュ性(パスティーシュ性)について言われるが、それは、根源にMedia Pointの絶対的差異性ないし絶対的他者性があるからであり、意識を不連続化する傾向の表出として、それらを見ることができよう。あるいは、神話的志向であるが、それも当然、Media Pointの高次元性がそれを志向したと考えられる。この点から、また、シュルレアリスムやダダイズムを考えるべきである。
 日本では、三島由紀夫や大江健三郎もその視点から見るべきである。そして、宮沢賢治はこの視点からのみ、明確に理解されるのである。そして、折口信夫の奇蹟的な『死者の書』もこの視点から理解可能である。つまり、近代・現代的文学とは、トランス・モダン的志向を胚種としてもつ文学であると言える。
 今日、モダン/ポスト・モダン的な物質主義が支配的なために、モダニズムのトランス・モダン性がまったく理解されていない(いなかった)のである。近代合理主義、唯物論が悪魔的に支配しているのである。
 とまれ、今や、リーマン・ショックによって、近代主義が終焉したと言えるのであり、誤解されてきたトランス・モダン芸術が評価される時代となったのであり、また、新たなトランス・モダン・アートが創造される時代となったということができるのである。
 そう、たとえば、レディー・ガガは、Media Point的表現によって、トランス・モダン・シンガーアーティストと言えよう。
 

2010年02月25日 (14:35)

感性は精神と同一性感覚の連続的混淆・混濁だ:モダン・アートの終焉とトランス・モダン芸術の誕生

哲学や美学で感性と言われるが、これは、実に曖昧である。私もつい使うことがあるが、どうも使い心地がよくない。
 心性という言葉が浮かんでしまう。心眼というときの「感覚」は精神的感覚・知覚・認識のことである。それに対して、同一性的な感覚・知覚・認識があるだろう。これが、通常の感覚である。言い換えると、物質的な感覚である。
 「感性」というとき、両者が混合・混淆し、混濁していると思われるのである。つまり、連続的な感覚・知覚がそこにあると考えられるのである。いかには、近代的な中途半端な感覚・知覚と言えよう。
 PS理論によって、今や、明確に、精神的感覚と物質的感覚は分離されるのである。そして、この結果、もっとも影響を受けるものの一つは当然、芸術である。モダン・アートというものが、これによって、超克されるのである。トランス・モダン・アートが誕生するのである。
 これは美術だけでなく、音楽、文学、その他の芸術もそうなると言える。
 思うに、精神的感覚とは実は本義における自然的感覚なのであり、トランス・モダンとは、自然的感覚(即非的感覚知覚)の復興を意味すると言えよう。モダン・アートの崩壊である。もっとも、モダン・アートにあるトランス・モダン性は評価されなくてはならない。つまり、超越性、精神性を表現しているモダン・アートである。そして、その結果、はっきりと、モダン・アートが終焉するのである。

追記:同一性感覚・知覚については、厳密に検証する必要がある。即非的感覚・知覚において、現象は、同一性というよりは、差異である。つまり、「わたし」が「ジンチョウゲ」を即非的に感覚・知覚するとき、後者は本来、差異である。同一性感覚・知覚とは、対象を「ジンチョウゲ」として認識することである。
 だから、感覚・知覚は二重なのである。一つは、差異的感覚・知覚であり、一つは、同一性感覚・知覚である。後者は言語と深く関係している。
 思うに、フッサールのノエマとは、差異的感覚・知覚と捉える方がいいだろう。それは同一性感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚ではないからである。
 確かに、現象において、物質的対象は存する。それは、プラス1である。それに対して、即非的感覚・知覚は、プラス1を乗り越えて、対象に差異を見るのである。
 差異的対象となり、差異的現象である。このとき、確かに、対象には物質や同一性があるが、それは、いわば、基体である。サブスタンスである。
 そう、端的に言えば、対象は⇒+1である。対象を+1と見るのが、同一性感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚である。
 結局のところ、感性とは⇒+1と+1との混淆・混合・混濁であり、連続化である。あるいは、質と量の混濁である。
 では、即非的感覚・知覚にとって、同一性感覚・知覚とは何だろうか。それは、一つの抽象である。本来、対象は絶対的差異・絶対的他者であるが、それを同一性に還元しているのである。
 思うに、位階があるのである。即非的感覚・知覚ないしは差異的感覚・知覚は垂直性・超越性をもつが、同一性的感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚にはそれが欠落して、ただ、水平性・物質性をもつだけである。
 言い換えると、次元が異なるのである。前者は後者に対して、高次元に位置するのである。後者が三次元ならば、前者は四次元である。あるいは、後者が四次元ならば、前者は五次元である。
 結局、換言すると、感性とは、異なる次元を混同させるという誤謬を犯している近代的美学・哲学用語と言える。
 

Untitled (Black on Grey)
Artist Mark Rothko
Year 1970
Type Acrylic on canvas
Dimensions 203.3 cm × 175.5 cm (80.0 in × 69.1 in)
Location Solomon R. Guggenheim Museum , New York

RothkoBlackGray.jpg

http://en.wikipedia.org/wiki/Untitled_%28Black_on_Grey%29

2009年12月04日 (22:03)

検討問題:間接民主主義から個的自由共同代社会へ

優れた哲学者・思想家は、「民主主義」に否定的である。プラトンも、古代ギリシアの政治を考えて、イデア論を説いたのであったし、ニーチェやロレンスは近代民主主義を「愚民」のものとして批判した。
 私はこれまで、民主主義に両義的な態度をとってきたが、トランス・モダン・デモクラシーを唱えた。
 しかし、結局、制度の問題はあるものの、個が原点である。ここから始めると、個が求める共同体が基本的であり、国家制度に基づく「民主主義」社会は二義的なものと言えよう。
 私自身、アナキズムに傾斜している面がある。もっとも、アナキズムの欠点も知っているつもりである。tまり、アナキズムは社会主義と同様に、連続的であることである。思うに、シュティルナーの「アナキズム」は、一見、非連続的に思えよう。しかし、彼の「アナキズム」は、自我中心的であり、その点で、近代主義的でなのである。つまり、自我による欲望が支配しているのである。
 私の想定している自由共同体社会とは、確かに、アナキズム傾斜はあるが、国家制度は否定はしないが、批判的評価をするのである。
 ということは、個的社会と国家的社会の平行した社会を私は想定していることになる。しかし、主は前者であり、後者は従である。ここが絶対的なポイントである。フッサールの生活世界とは、前者ではないかと思う。
 そう、日本文化社会は、本来、自由共同体社会であるが、それが、近代化によって、否定され、国家主義的社会になったのである。
 ところで、個的自由共同体社会において、経済をどうするかが一番の問題である。例えば、その社会が独立して、通貨発行権をもちうるのかが、重要な点である。
 ともあれ、自由共同体の通貨は、兌換制度にすべきである。Kaisetsu氏の唱える銀本位制にすることは、ありえることである。結局、自由共同体通貨であることが、ポイントである。
 私見では、例えば、農業自由共同体、科学自由共同体、文化自由共同体、等々を設けるべきではないかと思われる。そして、それらが、差異共振ネットワークを形成するのである。

2009年10月20日 (14:11)

検討問題:マネーと「実体経済」の乖離とは何か:トランス・モダン転換期とトランス・モダン政権

これは、素人ながら、余裕のあるとき、簡単に考えてみたい。
 これは、単純化すれば、同一性価値と差異共振価値との乖離である。そして、それは、資本主義の、いわば、絶対矛盾である。言い換えると、モダン/ポスト・モダンとトランス・モダンの絶対矛盾であり、現在、オバマ政権と鳩山政権がそういうものである。もっとも、前者の方が明確である。
 今日をトランス・モダン転換期と捉えれば、絶対矛盾が生まれるのは当然である。現代の人間自身も、トランス・モダン転換期的な二重的なものになっているのである。
 思うに、主観のこの二重性があるために、以上の乖離が出現しても、まだ、(一見)持続的なのだと思われる。
 いわば、半分、夢を見ているような状態、半夢半醒であると言えよう。しかしながら、トランス・モダンが進展すれば、これは持続されない。ここがポイントである。国民がトランス・モダン・インテリジェンスを形成すれば、今の転換期的な政権は乗り越えられる。トランス・モダン政権が生まれる。
 

[2009年10月20日] 分離が進む金融市場と実体経済!米年末商戦にみる危険な兆候
現在、マーケットはフローティングマネー(=FRBや各国中銀が金融機関に供給したマネー)のおかげで活況を呈している。
 
 だが、実体経済側にはほとんどマネーは行き渡っていないことが指摘されている。
 
 金融マーケットと実体経済の乖離がどれほど進んでいるのか、一度ここで確かめておきたい。
http://kabu.sakiyomi.com/aifence/?EACH=447


[2009年10月17日] フローティングマネーで熱狂するマーケット、暗澹たる米国経済、そして高まる地政学リスク
http://kabu.sakiyomi.com/aifence/?EACH=445

アイフェンス

東海アマ氏のHPからの情報

2009年10月03日 (08:23)

時流批評:トランス・モダンとポスト・モダンの葛藤の「同時代」:新旧ヤヌス政権

先に、鳩山政権をポスト・モダンとトランス・モダンの連続化した政権と捉えたが、どうも、前者の後退性が目につく。明確にするために、ヤヌス政権と見る方がわかりやすいかもしれない。つまり、旧い体制への目と新しい体制への目という本来、絶対矛盾の様態となっているのである。
 端的に、同一性と差異の絶対矛盾様態なのである。この同一性はポスト・モダンの同一性である。大阪不智児を見てわかるように、アイロニカルな没入の反動的同一性である。
 構造主義とポスト・モダンの連関が反動様態になっているのである。
 しかし、トランス・モダンの新生の志向は無意識的にある。差異共振路線である。脱官僚依存路線や社会保障路線である。
 問題はリベラル・コミュニズム、自由共同体主義をどう政治経済的構築して行くのか、である。
 今のままでは、「友愛」主義という絶対矛盾混淆・ヤヌス路線では、明らかに、反動勢力に巻き込まれて、桎梏状態となり、袋小路になる可能性がある。
 国民が冷静にトランス・モダンを把握して、鳩山ヤヌス政権を批評して行けるかが問題である。有り体に言えば、国民生活が潤うか否かである。もし、潤えば、評価が高まり、また、その上で、国民生活に反するような政策が生ずれば、国民の審判が下されるという形が望ましい。
 トランス・モダンの政策が実効化し、そちらへ、天秤が傾くかである。傾けば、一気にそちらへ向かう。今や勝負の為所である。

追記:端的に、同一性を悪=アンラ・マンユ(悪神)、差異、絶対的差異を善=スプンタ・マンユ(善神)⇒アフラ・マズダー(絶対善)と認識把握すべきである。それが明快である。

2009年09月23日 (21:56)

脱欧(米)入亜の新エポック:トランス・オクシデント&トランス・モダン:差異民主主義へ

これまで、本テーマを唱えてきたが、いよいよ現実化する時代(エポック)になってきた。
 西洋文明は物質文明と精神文明が連続化していた文明(占星術的には、双魚宮文明である)であった。今や、精神が主となり、物質が従となる「霊主体従」の新東洋文明の時代(占星術的には、宝瓶宮文明)に相転移すると考えられる。
 私はどうも韓国がリードするように思える。次いで、中国圏であり、東南アジアであり、イランであり、インドである。日本の場合、明治維新/戦後の近代主義化を清算する必要がある。これは、深く、封建主義=父権主義が作用している。この清算が難しいだろう。官僚主義もこの一環である。
 あえて言えば、前近代の日本に、創造的に回帰する必要があるのである。

参照:(鳩山首相は宝瓶宮生まれだが、胡散臭い「友愛」はこれと関係するのか?)

追記:以下で述べられていることは、かなり理想主義的である。大きな欠陥の一つは、調和主義に傾斜していて、悲劇的認識が欠落していることである。創造と破壊の両面がここでは必要なのである。
 また、クリスタルな精神性を説くが、しかしながら、問題は絶対的差異である。多様な絶対的差異が共鳴するのがトランス・モダン/トランス・オクシデントである。何か、統一主義的な発想があるのが問題である。その他、言いたいことはあるが、今はここで留めたい。


《 宝瓶宮時代の幕開け 》

世界は今後、約2,160年間続く「宝瓶宮時代」を迎えました。
宝瓶宮時代を迎えた今日、これまでの価値観や世界の在り方が変わっていくとともに、新しい真実が次々と明らかになっていきます。
それは、超能力などの不思議なパワーや、超常現象の解明も夢ではありません。
なぜなら、水瓶宮(宝瓶宮:ほうへいきゅう)のシンボルマーク「同じ形の上下の波」に象徴される電磁波や宇宙放射線など、目に見えない「波動」の存在や影響力は、宝瓶宮時代において次々と解明され、その活用が広がっていくからです。

・・・・・
《 世界的な友愛精神による宝瓶宮時代 》

さて、宝瓶宮時代は、ルル・ラブア師の書籍にも書かれていることですが、「今までの一切の思想や宗教、国籍や人種にとらわれない、水晶(クリスタル)のような透明な精神を持った新しい人類が現れてくる」と言われています。
やや文学的な表現ではありますが、宝瓶宮時代(水瓶宮)の象意の一端を象わした表現に間違いはありません。
この「一切の思想や宗教、国籍や人種にとらわれない…」という文言は、双魚宮時代をリードしてきた「思想や宗教」が、そのパワーをなくしていくということです。それは、人類歴史に対する「思想や宗教」の大きな使命が終わりを迎えたことを意味しています。
また「国籍や人種にとらわれない、水晶(クリスタル)のような透明な精神…」というのは、近現代の主流となった自由・平等・博愛の精神、すなわち「友愛精神」を示しています。
これらの動きや、世界的な友愛精神やプラトニックな愛は、水瓶宮の特徴なのです。
これからは双魚宮時代の旧い価値観から、宝瓶宮時代の新しい価値観へと徐々に変化していくのです。

One-Point ◆ 近年、すでにその変化が現れていることにお気づきでしょうか? 詳しくは、このあと述べてまいります。思想や宗教といった魚宮の観念的な世界ではなく、自由な個性や平等(博愛)社会の実現といった現実理想が宝瓶宮時代の主な価値観になっていくのです。

http://www.aqast.net/500history.html

NEW HORIZON
宝瓶宮占星学

2008年12月14日 (00:54)

同一性主義金融資本崩壊の哲学的意義:差異合理性を否定した同一性主義狂気:トランス・モダン共鳴圏

この問題の検討は以前に行ったが、今、同一性主義金融資本主義が崩壊した時点で、再確認するのは意味がある。
 私は近代合理主義/近代的自我は狂気であると述べてきたが、これは、当然、同一性主義のことでもある。
 何故、狂気になるかと言えば、差異(差異共鳴性)にこそ、理性・合理性があるのであり、それを否定・排除・隠蔽した同一性主義は当然、狂気を意味するからである。例えば、サブプライム・ローンは、正に、これが当てはまる。まったく差異(下層の人間)=合理性のないローンであり、同一性主義の狂気=不合理主義によるのである。
 思えば、近代初期(プロト・モダン)においては、差異がまだ駆動していたが、近代主義が進展すると、近代的合理性=物質主義という同一性主義が主導化して、差異を否定するようになったのである。これは、精神性・霊性、そして、倫理性の否定である。
 このハイパーな近代性が、狂気=不合理主義を生むのである。そして、これが、経済的に、リーマン・ショックとなったのである。ポスト・リーマンということで、今や、トランス・モダン=差異共鳴主義=自然合理主義へと転換し出したと考えられるのである。
 どうして、そうなるのかと言えば、近代合理主義/近代的自我という同一性主義の帰結としてのリーマン・ショックなのであり、もう同一性主義の命運は尽きたからである。つまり、近代合理主義/近代的自我という近代の知/同一性自己が崩壊したからであり、そして、ポスト・モダンにおいて芽生えていた差異の精神性がここで、賦活されるからである。即ち、同一性主義の作っていた連続性が切断されて、ポスト・モダンがトランス・モダンへと転換する必然性が生起したからである。
 米国は、オバマ次期大統領の下で、トランス・モダンの政治・経済へと歩みだしたと考えられる。トランス・モダン・エヴォリューションである。
 日本人は、これまでの、モダンの手法がまったく時代に逆行することを知らないのといけない。自己の差異合理性=自然合理性に目覚めて、行動する時代となったのである。超維新の時代である。

2008年07月20日 (02:48)

(無意識の)怒りや憤激とは何か:今日における短絡する精神の病理とトランス・モダン精神への進展

今、フェミニズムの古典の本(『自分だけの部屋』)を読んでいて、そこに、女性の劣等性を論ずる男性の精神を分析して、そこに怒り、憤激があると指摘してあった。
 天才的な作家であるから、鋭敏な洞察力をもっている。私は、この怒りや憤激というものが、今日、日本(に限らないが)社会の精神病理を説く鍵ではないかと感じた。
 思えば、オウム真理教の信者たちの中にも、社会への憤激があったと思う。これが、反社会的破壊行動へと駆り立てたと言えるのではないだろうか。ニーチェ哲学で言えば、ルサンチマン(怨恨)である。【p.s. 私見では、中沢新一がグノーシス主義を説いていたが、オウム真理教に肩入れした彼の精神には、ルサンチマンが深く根差していると思う。】
 さらに思えば、小泉構造改革「ファシズム」も、社会にあるルサンチマンにつけ込んだ現象であったのであり、今日でもルサンチマンは重低音として蔓延していると言えよう。これが、短絡的な暴力行為・凶悪な犯罪の根因ではないかと思われるのである。
 ルサンチマンについては、これまで、同一性に傾斜している人間の精神から発生すると述べてきた。差異における反感が発生し、差異自体を肯定的に知性化できずに、暴力的情動であるルサンチマンが発生するというように考えた。
 ここに、怒り・憤激の要素を見ることができるし、そう捉えることで、今日の精神病理やそれに基づく犯罪を説明できるように思えるのである。
 では、怒り・憤激とは何か。つまり、短絡的な怒り・憤激とは何かということである。端的に言えば、ここには、他者の欠落・欠損した、自己同一性中心主義があると言えよう。
 だから、近代的自我・近代合理主義の病理ということができるし、父権主義の病理ということができると思う。それらは、端的に、同一性主義であり、差異・他者を否定・排除するのである。
 つまり、自己同一性主義の欲望中心であり、それに反する・否定する他者・差異を暴力的に否定・排除するといいうことである。
 これは、端的に、近代主義の帰結であると言える。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽する近代同一性主義の帰結であると考えられるのである。
 (この無意識的な)怒り・憤激について、明確に述べよう。それは、自己同一性欲望主義がもつ差異への怒り・憤激ということだろう。それは、我が侭の極致である。独善・独断・専断的な自我主義・利己主義の極致であろう。
 一見、怒りや憤激には一見、倫理性・道徳性があるように見えるかもしれない。しかし、それは、いわば、偽装された倫理・道徳に過ぎず、本体は、究極の自己同一性欲望主義・利己主義であると考えられるのである。
 そう、ハイパー・モダンがここにあるのである。差異の究極的な否定がここに、怒り・憤激として出現していると考えられるのである。
 ポスト・モダンは、差異と同一性との混淆に帰結したが、今日、純粋差異・絶対的差異・特異性を肯定し、共振・共鳴するトランス・モダンの知性へと転換する時点に達していると考えられるのである。

p.s. 付け加えると、今日、差異が賦活されているので、自己同一性欲望中心主義は、反動的に、あるいは、狂気的に、衝動化していると考えられるのである。そう、差異のエネルギーの反動(狂気)がそこには入っていると考えられる。【p.s.  この点は精緻に考察する必要がある。同一性ルサンチマンは、差異エネルギーを排除するので、エネルギーが枯渇するのである。そして、心に真空状態が生じるのである。ここには、余裕、遊び、空間がないために、ショート(短絡)ないしは没入が生起すると考えられるのである。この真空的ショートと反動化された差異エネルギーが結びつくのではないだろうか。】

p.p.s. ルサンチマンによる怒り・憤激は、ファナティシズム(狂信主義)に通じていると考えられる。ブッシュ/ネオコンの発生の根因もここにあるのではないだろうか。(ルサンチマン・ファナチシズム、又は、同一性ルサンチマン・ファナティシズムという言葉を造語していいのではないだろうか。
 後で、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の概念と比較検討してみたい。

*******************************

「勉強しろと言われ反感」 埼玉・父刺殺の長女

2008年7月20日 朝刊

 埼玉県川口市のマンションで19日、男性会社員(46)が刺されて死亡した事件で、殺人未遂の現行犯で逮捕された長女(15)が、武南署の調べに「両親から『勉強しろ』と言われることに反感があった」と供述していることが分かった。司法解剖の結果、男性の死因は包丁が肺まで達したことによる出血性ショックと判明した。

 長女は当初、取り乱して意味不明のことを話していたが、次第に落ち着きを取り戻し「父親とは普段からあまり会話はなかった」とも供述、武南署は長女に刑事責任能力があるとみて、さらに詳しい動機を調べる。

 長女が通うさいたま市内の私立中学校では校長らが19日午後、記者会見。長女の成績は3年生で中位で、期末テストで成績が下がった英会話の追試を18日に受ける予定だったが無断で欠席。担任が自宅に電話すると、小学6年の長男(12)が「風邪で寝ている」と答えたという。

 長女は3年生になり6月に1日欠席しただけ。校長は「いじめなどのトラブルはなかった」と戸惑いがちに話した。

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008072002000059.html?ref=rank

長女「父親とはあまり会話なかった」 刺殺事件

2008年7月19日23時43分


 埼玉県川口市のマンションに住む製薬会社員の男性(46)が、中学3年生の長女(15)に包丁で刺され、死亡した事件で、殺人未遂容疑で逮捕された長女が「父親とはあまり会話がなかった」と話していることが分かった。逮捕直後には「お父さんが家族を殺す夢を見た」などと話していたといい、県警は、長女の父親に対する思いと事件との関連を慎重に調べている。

 県警は19日午後、父親を司法解剖し、死因は肺を刺されたことによる出血性ショックと発表した。調べに対し、長女は「寝ているお父さんの上半身を2回刺した。その後のことは、気が動転していて覚えていない」と話したという。父親については「『勉強しろ』と言われて『はい』という、やりとり以外の会話はあまりなかった」といい、「大変なことをしてしまった」と反省している様子だという。動機につながるような話はしていないという。

 一方、長女の母親(49)は「2人は大きなけんかもなく普通の父娘で、動機に思い当たることはない」と話しているという。

 これまでの調べでは、同日午前3時ごろ、別の寝室にいた母親が、長女の「ギャー」という叫び声と父親のうめき声を聞いたため、父親と長男(12)の寝室に駆けつけて部屋の電気をつけると、長女はベッドの上でぼうぜんとし、台所にあったはずの文化包丁(刃渡り20センチ)がベッドに置かれていた。父親は吐血し、母親に「警察と救急車を呼んでくれ」と話し、警察官が駆けつけた時は床でうずくまっていた。長男は二段ベッドの上で寝ていて、母親が部屋の電気をつけるまで気がつかなかったという。

 県警によると、長女と父親は事件前日の18日昼、長男と3人で、自宅近くのファストフード店で昼食をとり、その後、「夕食はカレーにしよう」という話になり、スーパーに立ち寄った。午後5時ごろから、自宅で父親と長女でチキンカレーを作ったという。

 長女が通っていた私立中学校によると、長女は同日、英会話の追試を受ける予定だったが、学校に来なかった。担任が自宅に電話すると、弟が「風邪で寝ている」と答えたという。

http://www.asahi.com/national/update/0719/TKY200807190222.html


川口・父刺殺:前日一緒に買い物 母親「仲よかった」

 埼玉県川口市の私立中学3年の長女(15)が父親(46)を刺殺したとされる事件で、母親(49)は県警武南署の調べに「父親と長女は仲がよかった」と話している。長女と父親は事件前日に一緒に買い物にでかけ、カレーを作っていた。一方で、長女は「両親に勉強しろと言われると、やる気がなくなった」と供述している。学校によると最近は成績が下がり気味だったが、他にトラブルがなかったかを含め動機の解明を慎重に進める。

 調べでは、長女は両親と小6の弟(12)の4人家族。長女は19日午前3時ごろ、寝室で寝ていた父親の胸などを、台所にあった文化包丁で刺して殺害した疑い。3部屋に分かれて寝ていて、父親と弟が同じ寝室だった。司法解剖の結果、傷は胸と額の2カ所。死因は肺を刺されたことによる出血性ショックだった。

 調べに対し、長女は当初、「お父さんが家族を殺す夢を見た」という趣旨の話をしたが、その後は「上半身を2回ぐらい刺したが、後のことは気が動転してよくわからない。大変なことをした」。父親については「普段から会話はあまりなかった」と話している。勉強するよう注意されても言い争ったことはないという。落ち着いた様子で取り調べに応じているが、動機については話していない。

 母親の警察への説明によると、長女と父親の仲はよかった。18日は父親は仕事が休み。昼間に父親と長女、弟で買い物に行き、夜は、父親と長女が作ったカレーライスを家族で食べた。その後、両親と長女はビデオを観賞。弟は勉強していた。【浅野翔太郎、小泉大士、山崎征克】
 ◇将来の夢は薬剤師

 長女が通っていた埼玉県内の私立中学は事件を受けて19日午後2時から校長らが会見した。

 それによると、ほとんど学校を休んだことはなかったが、18日の英会話の追試験を無断欠席したため、担任が自宅に電話すると、弟が「姉は風邪で寝ている」と説明したという。終業式は22日の予定。

 成績は中ぐらい。2年の初めまでバスケット部だった。聞かれたことにははっきり答えるが、自己主張するタイプではない。将来の夢について、入学時や1月にあった担任らとの面談では「薬剤師」と伝えていた。教頭は「製薬会社に勤める父親を尊敬していると思った。かなり勉強しないと難しいぞと言うと、『頑張ります』と答えた」と話した。

 担任は「転校する生徒へのメッセージレター作りを進んで引き受け、優しい心の持ち主」と述べた。

 現場のマンションは川口市北部の住宅街にある。7階建てで約70世帯が入居。小学校が同じで別の中学に通う女子生徒(13)は「先週もマンション内で長女とすれ違うと、笑顔であいさつしてくれた。優しくて頭がよかった」と驚いた様子だった。家族の知人は「18日午後に父親と長女、長男が外出先から帰宅する姿を見かけた。仲がよさそうだったのに」と話した。【稲田佳代、弘田恭子】

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080720k0000m040113000c.html

夕食後にトラブルか=衝動的に父親刺す?-中3少女、供述に揺れ・埼玉県警

7月19日20時30分配信 時事通信

 埼玉県川口市のマンションで、男性会社員(46)が中学3年の長女(15)に殺害された事件で、長女が衝動的に父親を刺した可能性が高いことが19日、埼玉県警の調べで分かった。県警は家族での夕食後に、父娘の間に何らかのトラブルが生じたとみて調べている。
 調べなどによると、長女は18日、学校を休み、父親と長男(12)の3人で買い物に出掛けていた。夕方には父親と長女が仲良く一緒にチキンカレーを作り、午後11時ごろまでは特に変わった様子はなかったという。
 事件後も長女は放心状態で逃走する様子はなく、凶器の文化包丁も自宅の台所にあったものだった。
 このため、県警は18日深夜以降、2人の間にトラブルが起き、長女が衝動的に包丁を持ち出して父親を殺害したとみている。司法解剖の結果、父親の死因は出血性ショック死だった。 

【関連ニュース】
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・ 散歩の親子刺され負傷=殺人未遂で男逮捕-茨城県警
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