2008年07月20日 (02:48)

(無意識の)怒りや憤激とは何か:今日における短絡する精神の病理とトランス・モダン精神への進展

今、フェミニズムの古典の本(『自分だけの部屋』)を読んでいて、そこに、女性の劣等性を論ずる男性の精神を分析して、そこに怒り、憤激があると指摘してあった。
 天才的な作家であるから、鋭敏な洞察力をもっている。私は、この怒りや憤激というものが、今日、日本(に限らないが)社会の精神病理を説く鍵ではないかと感じた。
 思えば、オウム真理教の信者たちの中にも、社会への憤激があったと思う。これが、反社会的破壊行動へと駆り立てたと言えるのではないだろうか。ニーチェ哲学で言えば、ルサンチマン(怨恨)である。【p.s. 私見では、中沢新一がグノーシス主義を説いていたが、オウム真理教に肩入れした彼の精神には、ルサンチマンが深く根差していると思う。】
 さらに思えば、小泉構造改革「ファシズム」も、社会にあるルサンチマンにつけ込んだ現象であったのであり、今日でもルサンチマンは重低音として蔓延していると言えよう。これが、短絡的な暴力行為・凶悪な犯罪の根因ではないかと思われるのである。
 ルサンチマンについては、これまで、同一性に傾斜している人間の精神から発生すると述べてきた。差異における反感が発生し、差異自体を肯定的に知性化できずに、暴力的情動であるルサンチマンが発生するというように考えた。
 ここに、怒り・憤激の要素を見ることができるし、そう捉えることで、今日の精神病理やそれに基づく犯罪を説明できるように思えるのである。
 では、怒り・憤激とは何か。つまり、短絡的な怒り・憤激とは何かということである。端的に言えば、ここには、他者の欠落・欠損した、自己同一性中心主義があると言えよう。
 だから、近代的自我・近代合理主義の病理ということができるし、父権主義の病理ということができると思う。それらは、端的に、同一性主義であり、差異・他者を否定・排除するのである。
 つまり、自己同一性主義の欲望中心であり、それに反する・否定する他者・差異を暴力的に否定・排除するといいうことである。
 これは、端的に、近代主義の帰結であると言える。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽する近代同一性主義の帰結であると考えられるのである。
 (この無意識的な)怒り・憤激について、明確に述べよう。それは、自己同一性欲望主義がもつ差異への怒り・憤激ということだろう。それは、我が侭の極致である。独善・独断・専断的な自我主義・利己主義の極致であろう。
 一見、怒りや憤激には一見、倫理性・道徳性があるように見えるかもしれない。しかし、それは、いわば、偽装された倫理・道徳に過ぎず、本体は、究極の自己同一性欲望主義・利己主義であると考えられるのである。
 そう、ハイパー・モダンがここにあるのである。差異の究極的な否定がここに、怒り・憤激として出現していると考えられるのである。
 ポスト・モダンは、差異と同一性との混淆に帰結したが、今日、純粋差異・絶対的差異・特異性を肯定し、共振・共鳴するトランス・モダンの知性へと転換する時点に達していると考えられるのである。

p.s. 付け加えると、今日、差異が賦活されているので、自己同一性欲望中心主義は、反動的に、あるいは、狂気的に、衝動化していると考えられるのである。そう、差異のエネルギーの反動(狂気)がそこには入っていると考えられる。【p.s.  この点は精緻に考察する必要がある。同一性ルサンチマンは、差異エネルギーを排除するので、エネルギーが枯渇するのである。そして、心に真空状態が生じるのである。ここには、余裕、遊び、空間がないために、ショート(短絡)ないしは没入が生起すると考えられるのである。この真空的ショートと反動化された差異エネルギーが結びつくのではないだろうか。】

p.p.s. ルサンチマンによる怒り・憤激は、ファナティシズム(狂信主義)に通じていると考えられる。ブッシュ/ネオコンの発生の根因もここにあるのではないだろうか。(ルサンチマン・ファナチシズム、又は、同一性ルサンチマン・ファナティシズムという言葉を造語していいのではないだろうか。
 後で、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の概念と比較検討してみたい。

*******************************

「勉強しろと言われ反感」 埼玉・父刺殺の長女

2008年7月20日 朝刊

 埼玉県川口市のマンションで19日、男性会社員(46)が刺されて死亡した事件で、殺人未遂の現行犯で逮捕された長女(15)が、武南署の調べに「両親から『勉強しろ』と言われることに反感があった」と供述していることが分かった。司法解剖の結果、男性の死因は包丁が肺まで達したことによる出血性ショックと判明した。

 長女は当初、取り乱して意味不明のことを話していたが、次第に落ち着きを取り戻し「父親とは普段からあまり会話はなかった」とも供述、武南署は長女に刑事責任能力があるとみて、さらに詳しい動機を調べる。

 長女が通うさいたま市内の私立中学校では校長らが19日午後、記者会見。長女の成績は3年生で中位で、期末テストで成績が下がった英会話の追試を18日に受ける予定だったが無断で欠席。担任が自宅に電話すると、小学6年の長男(12)が「風邪で寝ている」と答えたという。

 長女は3年生になり6月に1日欠席しただけ。校長は「いじめなどのトラブルはなかった」と戸惑いがちに話した。

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008072002000059.html?ref=rank

長女「父親とはあまり会話なかった」 刺殺事件

2008年7月19日23時43分


 埼玉県川口市のマンションに住む製薬会社員の男性(46)が、中学3年生の長女(15)に包丁で刺され、死亡した事件で、殺人未遂容疑で逮捕された長女が「父親とはあまり会話がなかった」と話していることが分かった。逮捕直後には「お父さんが家族を殺す夢を見た」などと話していたといい、県警は、長女の父親に対する思いと事件との関連を慎重に調べている。

 県警は19日午後、父親を司法解剖し、死因は肺を刺されたことによる出血性ショックと発表した。調べに対し、長女は「寝ているお父さんの上半身を2回刺した。その後のことは、気が動転していて覚えていない」と話したという。父親については「『勉強しろ』と言われて『はい』という、やりとり以外の会話はあまりなかった」といい、「大変なことをしてしまった」と反省している様子だという。動機につながるような話はしていないという。

 一方、長女の母親(49)は「2人は大きなけんかもなく普通の父娘で、動機に思い当たることはない」と話しているという。

 これまでの調べでは、同日午前3時ごろ、別の寝室にいた母親が、長女の「ギャー」という叫び声と父親のうめき声を聞いたため、父親と長男(12)の寝室に駆けつけて部屋の電気をつけると、長女はベッドの上でぼうぜんとし、台所にあったはずの文化包丁(刃渡り20センチ)がベッドに置かれていた。父親は吐血し、母親に「警察と救急車を呼んでくれ」と話し、警察官が駆けつけた時は床でうずくまっていた。長男は二段ベッドの上で寝ていて、母親が部屋の電気をつけるまで気がつかなかったという。

 県警によると、長女と父親は事件前日の18日昼、長男と3人で、自宅近くのファストフード店で昼食をとり、その後、「夕食はカレーにしよう」という話になり、スーパーに立ち寄った。午後5時ごろから、自宅で父親と長女でチキンカレーを作ったという。

 長女が通っていた私立中学校によると、長女は同日、英会話の追試を受ける予定だったが、学校に来なかった。担任が自宅に電話すると、弟が「風邪で寝ている」と答えたという。

http://www.asahi.com/national/update/0719/TKY200807190222.html


川口・父刺殺:前日一緒に買い物 母親「仲よかった」

 埼玉県川口市の私立中学3年の長女(15)が父親(46)を刺殺したとされる事件で、母親(49)は県警武南署の調べに「父親と長女は仲がよかった」と話している。長女と父親は事件前日に一緒に買い物にでかけ、カレーを作っていた。一方で、長女は「両親に勉強しろと言われると、やる気がなくなった」と供述している。学校によると最近は成績が下がり気味だったが、他にトラブルがなかったかを含め動機の解明を慎重に進める。

 調べでは、長女は両親と小6の弟(12)の4人家族。長女は19日午前3時ごろ、寝室で寝ていた父親の胸などを、台所にあった文化包丁で刺して殺害した疑い。3部屋に分かれて寝ていて、父親と弟が同じ寝室だった。司法解剖の結果、傷は胸と額の2カ所。死因は肺を刺されたことによる出血性ショックだった。

 調べに対し、長女は当初、「お父さんが家族を殺す夢を見た」という趣旨の話をしたが、その後は「上半身を2回ぐらい刺したが、後のことは気が動転してよくわからない。大変なことをした」。父親については「普段から会話はあまりなかった」と話している。勉強するよう注意されても言い争ったことはないという。落ち着いた様子で取り調べに応じているが、動機については話していない。

 母親の警察への説明によると、長女と父親の仲はよかった。18日は父親は仕事が休み。昼間に父親と長女、弟で買い物に行き、夜は、父親と長女が作ったカレーライスを家族で食べた。その後、両親と長女はビデオを観賞。弟は勉強していた。【浅野翔太郎、小泉大士、山崎征克】
 ◇将来の夢は薬剤師

 長女が通っていた埼玉県内の私立中学は事件を受けて19日午後2時から校長らが会見した。

 それによると、ほとんど学校を休んだことはなかったが、18日の英会話の追試験を無断欠席したため、担任が自宅に電話すると、弟が「姉は風邪で寝ている」と説明したという。終業式は22日の予定。

 成績は中ぐらい。2年の初めまでバスケット部だった。聞かれたことにははっきり答えるが、自己主張するタイプではない。将来の夢について、入学時や1月にあった担任らとの面談では「薬剤師」と伝えていた。教頭は「製薬会社に勤める父親を尊敬していると思った。かなり勉強しないと難しいぞと言うと、『頑張ります』と答えた」と話した。

 担任は「転校する生徒へのメッセージレター作りを進んで引き受け、優しい心の持ち主」と述べた。

 現場のマンションは川口市北部の住宅街にある。7階建てで約70世帯が入居。小学校が同じで別の中学に通う女子生徒(13)は「先週もマンション内で長女とすれ違うと、笑顔であいさつしてくれた。優しくて頭がよかった」と驚いた様子だった。家族の知人は「18日午後に父親と長女、長男が外出先から帰宅する姿を見かけた。仲がよさそうだったのに」と話した。【稲田佳代、弘田恭子】

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080720k0000m040113000c.html

夕食後にトラブルか=衝動的に父親刺す?−中3少女、供述に揺れ・埼玉県警

7月19日20時30分配信 時事通信

 埼玉県川口市のマンションで、男性会社員(46)が中学3年の長女(15)に殺害された事件で、長女が衝動的に父親を刺した可能性が高いことが19日、埼玉県警の調べで分かった。県警は家族での夕食後に、父娘の間に何らかのトラブルが生じたとみて調べている。
 調べなどによると、長女は18日、学校を休み、父親と長男(12)の3人で買い物に出掛けていた。夕方には父親と長女が仲良く一緒にチキンカレーを作り、午後11時ごろまでは特に変わった様子はなかったという。
 事件後も長女は放心状態で逃走する様子はなく、凶器の文化包丁も自宅の台所にあったものだった。
 このため、県警は18日深夜以降、2人の間にトラブルが起き、長女が衝動的に包丁を持ち出して父親を殺害したとみている。司法解剖の結果、父親の死因は出血性ショック死だった。 

【関連ニュース】
・ 「あきらめないでよかった」=小学卒業文集で中3少女-少女父殺害
・ 中3少女「夢は薬剤師」=3者面談で教諭に-父殺害事件
・ 中3少女、父を殺害=就寝中に刺す?顔と胸-マンション自宅で・埼玉
・ 散歩の親子刺され負傷=殺人未遂で男逮捕-茨城県警
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080719-00000094-jij-soci

2008年01月09日 (18:38)

西洋近代の終焉:同一性中心主義から差異・差異共振性への上昇:トランス・モダン・エヴォリューション

我ながら、以下の駄文は長過ぎるというか冗長である。ポイントを簡単に述べたい。

 西洋近代とは、太母文化(差異文化)と父権文化(同一性・連続性文化)の折衷であるが、父権文化が主導的なのである。しかし、今日、差異が賦活されているので、前者へと回帰する志向にあるのである。しかるに、父権文化の連続性のために、前者へと純粋に回帰できない反動の事態が起きている。ポスト・モダン思想がそうであった。
 しかし、プラトニック・シナジー理論は、差異への純粋な回帰を説いている思想であり、反動を乗り越えることができ、それは、トランス・モダンの世界的潮流を解明しているのである。
 現代日本は、近代主義(同一性主義・近代合理主義)に洗脳されている(近代的自我の形成)ので、この動きに気づかず、反動的な自滅に向かっている。同一性主義から差異へと意識・知性を転換する必要がある。

*******************************

先の論考
http://ameblo.jp/renshi/entry-10064779052.html
の追記が長くなったので、ここで独立させることにする。


以下の拙文では、同一性視覚ということが近代的自我形成の契機となっている。同一性視覚も同一性志向性も同じである。最初に、同一性視覚/志向性が生まれたのである。これが、いわば、人類の「原罪」である。しかし、これは、根因は自然にあるのである。だから、自然の「原罪」である。自然は、人類が同一性を先行させるように生んだのである。
 しかしながら、太母文化社会については、考えないといけない。それは、同一性が先行していない。それは、同一性と差異とが未分化であると考えられる。だから、自然の「原罪」云々は誤りである。ここで訂正したい。
 結局、父権文化が西欧近代において主導的になり、同一性が先行することになり、近代的自我/近代合理主義が生起したのである。
 そうすると、本文で述べたMedia Pointからの同一性志向の先行性という考えは、父権文化に当てはまる考えであり、太母文化には、当てはまらないということになる。
 しかしである。Media Pointを太極と見れば、陰陽原理が作用するので、同一性化=陽化の先行性はそれなりに肯定できるのかもしれない。しかし、易において、陽から始まるのだろうか。調べてみよう。
 よくわからないが、やはり、陽の方が陰より先行しているようである。しかしながら、陰陽という言い方は、陰が先だから、なにか易には強いている面があるように思える。
 とまれ、前父権文化において、Media Point=太極太母文化があったと考えられる。これは、陰陽バランスの文化であり、陽へと傾斜すれば、陰へのバランスを取る智慧をもっている。陽=同一性、陰=差異とすれば、同一性と差異とのバランスをとっていたの文化である。偉大な文化である。
 しかるに、人類文化史において、父権文化が主導的になる。そうすると、Media Point=太極太母文化が崩壊して、陽=同一性へと傾斜した文化になり、陰=差異は否定されることになるのである。ユダヤ・キリスト教西洋文明はこの徹底化である。
 ということは、太母文化における同一性と父権文化における同一性とは意味が異なるのである。太母文化においては、同一性は徹底化されることはなく、差異がそれを補完するのである。同一性の志向性に対して、差異の志向性が発生するという対極性があったのである。
 それに対して、父権文化では、同一性が徹底化して、差異が否定・排除・隠蔽されるのである。同一性中心主義である。結局、同一性への志向性は、二種類あるということになる。太母型同一性化と父権型同一性化である。太極型(三元論型)と二元論型である。言い換えると、差異共振型と同一性中心主義型である。
 思うに、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、両方を含んでいると言えよう。即ち、左辺は太母型(太極型)であり、右辺は父権型(二項対立型)であるということになる。これで明快になる。
 私がこれまで、異常に執念深く、執拗に批判的解明を追求してきた近代的自我とは、右辺中心主義であり、左辺を否定・排除・隠蔽しているのである。
 しかしながら、西欧近代ではなく、西洋近代文化の問題は、単に、右辺中心主義だけではなく、左辺を賦活させていることである。これは、既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの併存を意味するのである。(これは、イエス・キリスト自体に源流があると言えよう。そう、占星術では、イエス・キリストは双魚宮・魚座を意味するのであり、おそろしく的確である。)差異と同一性を併存させているが、しかし、同一性が支配的・主導的なのである。(民主主義の問題もこの視点から見る必要がある。)
 整理すると、西洋近代文化とは、同一性主差異従の関係にあると言えよう。単純な父権文化ではないのである。
 また、さらに考えなくてはいけないのは、太母型と父権型に分類したが、先に述べたように、父権型とは太母型の反転と見られるのであるから、根本は太母文化であり、父権文化はその派生であるということである。
 だから、西洋近代文化は、実に複雑な様態であることがわかるのである。(イエス・キリスト型、双魚宮型と見ればいいのであるが。双魚宮の尾の紐を、差異と同一性との連続性と見ることができよう。)そして、ポスト・モダンとは、その様態における差異ないしは太母文化への志向性であったが、差異が同一性と連続化しているので、純粋に、差異、即ち、Media Point=太極へと回帰できなかったのである。ポスト・モダン思想の限界を確認することが必須である。
 結局、整理すると、西洋近代において、Media Pointの発動があったが、それが父権文化によって、いわば、歪んだものになっているのである。父権的同一性主義志向(連続性への志向)が太母的差異主義志向を抑圧しているのである。ここでは、二つの志向性が矛盾しているのであるが、結局、自然・コスモスの生成流動を考えると、明らかに、同一性から差異へと進行していると見ることができるのである。つまり、Media Pointの回転において、同一性=陽の主導性が終焉して、差異=陰の主導性へと転換していると考えられるのである。これは、当然ながら、Media Point=太極=太母文化の復活を意味しているのである。
 思うに、数千年ないしは何千年に渡る人類父権文化の支配が今や終焉を迎えている自然・コスモス状況になったと思われるのである。同一性中心主義の支配が終焉しつつあるのである。それは、太極で言えば、陽(=同一性中心主義)中心主義が終り、陰が新たに発動しているのである。つまり、本来のMedia Point、太極原理が発現していると考えられるのである。
 陽極(同一性)の支配が終り、陰極(差異)が賦活され出したのである。しかしながら、同一性とは本来的に、連続性であり、差異を差異として認識不可能なのである。この同一性と差異との異質性に注目しなくてはならない。同一性=連続性の反動がここで起るのである(参照:アイロニカルな没入)。差異が飛翔しようとしても、同一性=連続性の拘束によって、同一性へと逆戻りしてしまうのである。つまり、モダンの乗り越えのつもりがモダンへと回帰するのである(これは、例えば、かつては、日本のポスト・モダンの旗手であった柄谷行人氏の今日のモダン回帰を見ればいいだろう。また、ブッシュ/ネオコンもそうである。そして、サブプライムローン問題もそうである。小泉似非改革もそうである。)
 いわば、人類文化史の鬼門に達していると言えよう。思うに、現在は、人類史上、最大の転換点・分岐点に達しているのではないだろうか。
 賦活された差異へと純粋に飛躍することができないである。超大反動である。だから、様々な狂気・傲慢・暴力・犯罪が起るのである。結局、父権文化=同一性中心主義の縛りを突破することが最大の課題である。これがあるために、賦活された差異が否定・抑圧・隠蔽されて諸々の狂気を生みだしているのである。
 しかし、不連続的差異論、さらにその深化・進展であるプラトニック・シナジー理論が生まれて、理論的には、この同一性中心主義の縛りが突破されたのである。これは、端的に、ユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉を意味すると考えられるのである。つまり、新たな差異の文化、Media Point=太極・太母の文化が発動し出したと言えるのである。それは、トランス・モダンの動きである。それは、今日の世界の動き・潮流に見いだすことができるのである。
 そう、ここで経済について言うと、同一性中心主義であった資本主義もこれで終焉することになるだろう。もはや、同一性(=同一性貨幣)ではなくて、差異を人類が追求するようになるからである。(因みに言うと、ゴールドが人気があるというのは、同一性貨幣ではなく、差異として価値があるからだろう。)
 そして、差異とは、端的に、差異共振性なのである。だから、経済も、差異共振経済となるだろう。それは、トランス資本主義である。差異共振価値が中心化されて同一性価値は手段となるのである。主従逆転するのである。
 最後に、日本についてであるが、近代主義に洗脳されて、同一性を機械的に追求して、差異が衰滅してしまった社会になっている。これは、今日、おそろしく危険・危機的な状態にあると言えよう。
 日本人が差異へと目覚めないと、世界の差異への動きの中で、消滅してしまうかもしれない。カルタゴの運命である。その可能性が出てきた。
 では、日本人が差異・差異共振性へと覚醒するためには、どうしたらいいのだろうか。それは、独りとなり、独りの心に蠢く声に耳を傾けることではないだろうか。独りの身体に蠢く声やエネルギーに耳を傾けることだと思う。そう、身体内部の心にある振動・波動・エネルギー、それが、差異である。
 
********************************

近代同一性主義の狂気について

近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。
 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。
 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。)
 しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。
 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。
 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。
 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。
 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。
 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。
 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。
 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。
 近代主義からのエクソダスが必要である。
 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。

2008年01月02日 (19:51)

観るとは何か:眼を介して、心で観る(心観・心眼・霊眼):都市空間視覚と天然自然視覚の分裂から、トランス・モダン視覚へ

田舎(農村地帯)に居ると、空気が澄んでいるので、空や空を背景にするものがよく見えるのである。先ほどは、東京では、不気味に夜に声を聞くことが多い烏であるが、大群が、北から南へと急流に流されるように滑空して飛んでいた。ダイナミックな動きであり、感心した。
 澄んだ西空を見て、思ったのは、肉眼中心で見るのと、肉眼を介して心で見るのとの違いである。前者は自我中心的視覚であり、後者は差異共振・心的視覚であると考えられる。今日一般の日本人の視覚が前者であると思う。近代合理主義・近代的自我の視覚なのである。これは、心の死であり、神の死である。死せる魂である。亡魂である。死んだマグロの眼である。
 後者はいわゆる心眼というものに近いかもしれないが、心眼ほど玄妙なものではなく、もっと平明な、日常的なものでありうると思う。もっとも、心眼と言ってもいいのかもしれない。私としては、心観・心見とか呼びたいのである。(以下、心眼を用いている。)
 先に見た夢の中で、私は道と道の間の公園の樹木に咲く花を心の目で見ていた。心と花が共振してその美に触れていた。どうも、それがいわば予兆であったろう。予知夢である。私の中に、心の目が復活したようである。心観(心眼・心視)である。
 とまれ、この心観・心眼・心視の形成というか復活によって、これまで私が当惑した視覚の問題が解決できたと思う。すなわち、心の目は外的対象と共振するのである。とりわけ、自然と共振して天然美を感受するのである。この体験は、美術・芸術の肝である。美術・芸術の美の根源である。いわゆる、ロマン主義と呼ばれた世界観もこれに拠ると考えられるのである。もっとも、古典主義もやはりベースには、天然美の体験があるとは思うが、それが、自我同一性形式(線形性、シンメトリー等)によって拘束されているのである。
 具体的に言うと、若い日、学生の頃である。夕焼けが、私の意識から遠くへ行ってしまう経験をもった。それまでは、夕焼けと心が結びついていたが、それが、離れて行く、喪失経験をした。そう、私の意識では、この分離経験と一体経験との分裂性が残ったのである。いわば、統合失調症である。これは、文化史的に言えば、未分化的太母文化と父権文化、あるいは、前近代文化と近代文化との分裂様態と言える。そう、私は一種の分裂症であったのだろう。思えば、漱石の『草枕』の冒頭の有名な「智に働けば、角が立つ。情に棹させば流される。」に似たような経験と言えるだろう。そう、漱石も近代主義に拠る分裂に悩んだ天才的知識人である。
 とまれ、私のこれまでの生涯は、この分裂症に悩んできたと言えるかもしれない。しかしながら、今や、私の意識の中には、はっきりと、心が存するのである。そして、感覚を介して、心で知覚することができるのである。そう、脱自我となり、自己形成できたと言えよう。確かに、肉眼は、自我と結びつくが、心眼は自己と結びつく。私は、自我であり、且つ、非自我=自己である。(正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の様相である。)
 まだ、精緻には考察していないが、心の知覚があり、また、肉体的感覚がある。視覚に限定すると、心の視覚(心眼)があり、身体的視覚(肉眼)があるが、心眼(Media Point)が同一性化して、身体的視覚(肉眼)と結びつく。つまり、心眼は肉眼へ同化吸収されて、心眼本来の差異共振性を喪失する。これが、近代的自我の視覚様態である。近代合理主義・唯物論的視覚、冷たく光る不気味な支配せんとする悪霊の眼である。
 しかしながら、心眼(差異)が完全に肉眼(同一性)に吸収されることはできない。心眼が無意識において作用しているのである。だから、近代主義の都市空間を離れて、自然天然空間に置かれると、自然天然空間の光、差異共振的光に晒(さら)されて、心眼が賦活・活性化されるのである。励起されると言ってもいいのかもしれない。そのとき、私の体験では、コスモス(心的宇宙)を感得することが多い。コスモスとは、端的に、Media Pointの経験と言っていいだろう。近代主義の都市空間では、この経験はほとんど閉ざされるが、天然自然空間では、これが生起するのである。
 そう、思えば、学生の時の分裂の悩みはこれで説明できるのである。近代主義の都市空間の視覚と天然自然空間の差異共振的な視覚との分裂である。戦後日本人は、この分裂を無視して前者に同一性化したのである。日本人の心的視覚を捨てて、近代合理主義/近代的自我の視覚を受容したのである。これは、日本の心の死であり、神の死である。日本文化の死である。三島由紀夫の言う「断絃」である。(これは、連合国占領軍と亡国・売国的支配者との野合によると考えられる。小泉路線は、これである。)
 そう、社会的に問題なのは、近代主義的都市空間の視覚が支配的であるとき、天然自然の差異共振的視覚が否定されるのである。だから、本当に心眼をもった人は排除されやすいのである。(イジメの問題はこれが関係することが多いと思う。)東京中心に近代主義的都市空間視覚が支配的なので、これが、日本全体に蔓延する事態になっている。洗脳である。
 とまれ、問題に返ると、近代主義的視覚に対して、心眼があるが、抑圧される。しかるに、今日、心眼である差異エネルギーが賦活されているのである。この点については、これまで、太極原理で説明した。陽極まれば陰に転ずと。
 丁寧に見るなら、これは、自由のエネルギーが陽(同一性)の方向へと展開したが、今や、それが反転して、陰(差異)への方向へと向かっているのではないだろうか。ポスト・モダンである。自由のエネルギーとは、端的には、Media Pointのエネルギーということだろう。【私はイタリア・ルネサンスが新たなMedia Pointの発動と考えているし、プロテスタンティズムも基盤がこれであるが、それが同一性主義(近代合理主義/近代的自我)に傾斜しているのである。つまり、これまで述べてきたように、プロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内在しているということでもある。】
 ということで、自由のエネルギーは陰(差異)へと今や転じているわけであるが、問題は、ポスト・モダン様態になっていることである。つまり、同一性主義の枠組みから脱していないのである。そのために、アイロニカルな没入・反動が起こっているのである。ネオコンや小泉構造改革がそうである。また、私見では、サブプライムローン問題もそうである。過剰な同一性主義、ハイパー・モダンが生じているのである。そして、心の病(私は心病と呼んでいるが)の根因もここにあると考えているのであり、また凶悪犯罪の根因もここにあると考えている。確かに、較差問題が引き金になっているとは考えられるのではあるが。
 この、いわば、私がとりわけ若い頃経験した「分裂症」に今日日本が陥っていると考えられるのである。結局、自由のエネルギーは陰や差異へと向かっているのであり、それを実現するには、ポスト・モダンを越えて、トランス・モダンへと転換する必要があるのである。純粋な差異へと転化しなくてはならないのである。結局、同一性主義から「解脱(げだつ)」して、差異(差異共振性、心)へと回帰する必要があるのである。
 簡単に、この「解脱」の方法を理論的に説明すると、第一歩は、同一性と差異とを不連続化することである(不連続的差異論)。それで、自我同一性と自己差異(特異性)が分離するのである。しかしながら、後者の自己差異とは、実は、差異共振性なのである。これを自己測深して感得する必要がある。そして、また、自我同一性と自己差異とが、Media Point(ガウス平面の原点)において、直交していることを認識する必要がある。即ち、自己差異とは、超越的差異なのであり、高次元的自己なのであるという認識の必要である。そして、最後は、自己主体とは、自己差異が主であり、自我同一性は従であると認識会得し、また、実践することであると思う。差異主同一性従、心主我従である。即ち、差異共振的自己が主であり、同一性自我は従であるということである。これが、心眼の復活をもたらすと思えるのである。
 さて、以上が、日本の復活の哲学的鍵である。不思議なことに、それは、日本の伝統への回帰なのである。それは温故知新であり、また、正確には螺旋的回帰なのである。東洋・日本伝統文化への螺旋的回帰なのである。即ち、西洋文化を経由して、東洋・日本伝統文化へと螺旋的回帰するのである。そして、これが、トランス・モダンである。父権統合型新太母文化である。差異共振文化である。
 思うに、私が心眼を復活させたのであるから、共時的に、多くの人にもこれが起こっていると考えられるのである。Media Resonanceメディア共鳴である。宝瓶宮(ほうへいきゅう)[水瓶座]文化期が胎動しているのである。
 
聴く耳を持つものは聴くがいい。

2007年10月27日 (01:25)

ポスト・モダン期における近代主義狂気とトランス・モダン叡知との争闘

余裕がないので、簡単に言うと、近代的自我/近代合理主義は、同一性中心主義の知しかない。有り体に言えば、自己中心主義の知しかない。
 しかし、ポスト・モダンの現代において、差異が回帰するが、近代的自我はどうなるのか。それは、非合理衝動に駆られることになる。
 どうしてか。近代的自我は、i→-iの同一性志向性をもつ。ここでは、同一性観念を形成する。つまり、単純に考えると、ここでは、差異である-iが否定されているのであるから、他者(差異)への共感性(倫理)はないのである。ただ、優越的な道徳は志向するだろう。パターナリズムである。
 つまり、近代的自我/近代合理性には、他者がなく、共感性がなく、倫理・社会性がないということである。端的に、共感知がないと言えよう。言い換えると、精神的知性がないということである。
 この様態において、ポスト・モダン期となると、否定された差異-iが回帰するのであるが、近代的自我は、差異-iの受皿がないのである。-i→iにおいて、それは、いわば闇の衝動となって襲うと考えられるのである。これが、精神病の原因である。見知らぬ衝動=狂気が近代的自我を襲うのである。今日、うつ病、あるいは、凶悪凶暴な犯罪が多い内因はここにあるのではないだろうか。また、新興宗教、カルト、原理主義が発生する内因もこれだろう。
 問題は、差異が回帰しても、単なる非合理な衝動にしかならず、近代的自我/近代合理主義=同一性構造はそのままであることである。いわば、狂気の近代的自我/近代合理主義である。これが、ブッシュ/ネオコンを説明するし、グローバル巨大資本主義を説明するだろう。
 簡単に言えば、共感知がないのである。また、素朴な共感性があっても、近代的自我=利己主義の環境によって、攻撃されるだろう。(ここで、スピノザの能動的観念の智慧が生きるのであるが。)
 もし、近代的自我/近代合理主義とは別に、共感性があれば、差異の回帰するポスト・モダン期においても、差異を意識化して、差異知性、共感意識、共感知(共感智)を形成しうるだろう。
 そして、これが、Media Pointの芯になるものなのである。それは、Media Point共感心と言ってもいいだろう。
 問題は、近代的自我/近代合理主義を形成した近代的知識層は、ポスト・モダン期においては、非合理主義・狂気的になることである。一般に、資本家・官僚・役人・政治家・教員等々は、そのようなタイプなので、今日、異常なのであり、端的に、悪人となるのである。ブッシュ/ネオコンはそのような最たるものである。
 そして、あまり高い知識のない層は、共感性をもっているので、非合理主義・狂気化せずに、共感意識ないしは真正な信仰心を形成するのである。
 そう、ポスト・モダンの末世において、後者のような人びとが、導くべきである。前者は自己保身、私利私欲主義なので、世の中は、腐敗・頽廃する一方であり、亡国となる。
 ここで、私の経験から共感知の形成について簡単に触れたい。思うに、シュタイナーが霊的能力を形成するには、知的能力が前提であると言ったのを想起する。思えば、共感能力とは感情性が強いものであるから、知が影響されやすいと言えよう。合理的知性を維持しつつ、共感知性を形成することは難しい。
 そう、端的に、共感性をイデア・理念化する必要があるのである。言い換えると、共感性の霊化である。(スピノザの能動的観念とは、このことを意味していると思う。)共感性を理念化しないと、合理的知性と齟齬を来すだろう。
 合理的知性はクールなものであり、共感性は情感的であるからである。共感性を知的に理念化すれば、合理的知性と共存・共立・併存するものとなる。ここにおいて、Media Pointの萌芽があるのである。
 結局、差異回帰のポスト・モダン期とは、近代的自我/近代合理主義にとっては、非合理主義/狂気衝動をもたらし、共感的自我にとっては、共感知性、共感的理念を形成し、トランス・モダン的自己への転換をもたらすと言えるだろう。
 今日、狂気と叡知との争闘があると言えよう。近代主義狂気とトランス・モダン叡知との争闘である。闇と光の戦いである。かつては、近代主義が光であったが、今日は反動的なのである。そして、共感的イデアをもつトランス・モダン叡知が光なのである。
 それにしても、共感智をもたらすものとは何なのだろう。それは、端的に、自己を見つめることであろう。自己を測深内省することであろう。簡単に言えば、孤独の時間をもつことである。群れから離れることである。脱群化、脱集団化である。思えば、私は原始仏典の「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉を信じた時期があった。
 いろいろ教養があるが、それよりは、基本はただ独りになり、沈思黙考することであろう。

It makes you a wise person to be alone and contemplate deeply.

But it makes you an idiot to belong to the throng and talk loud.
 

参考:

あらゆる生き物に、暴力を加えず、
いかなる生き物にも、苦悩を与えず、
子女を求めることなく、朋友を求めず、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

交わりをなせば、愛情が生まれる。
愛情が生まれれば、苦悩が生まれる。
愛情から、苦悩が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

朋友や親友などと、時間を共にし、
心が絆されると、己の利が損われる。
親交から、浪費が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妻子への愛著は、竹林が茂るが如し。
竹の子が、他に絡むことがないように、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

鹿が食を求め、欲する処に赴くよう、
聡明な人は、自立自由を目指している。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

仲間と共にいれば、常に呼ばれる。
休む時も、行く時も、旅をする時も。
他人に従属しない、自立自由を目指し、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

仲間の中には、遊戯と歓楽がある。
また、子に対する愛情は甚大である。
愛しきものと、別れることを厭いつつ、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

害心と恐怖を捨て、何処にでも赴き、
得た恩恵に足りて、得た苦難に堪える。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

出家しても、不満を抱くものがいる。
在家にいても、不満を抱くものがいる。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

葉の落ちた樹の如く、在家の印を捨て、
在家の柵を断ち、犀の角の如く独り歩め。

法友を得たなら、危難に悉く打ち勝ち、
心から喜び、落ち着いて、彼と共に歩め。

法友を得ないなら、戦争に勝った王が、
征服した国を捨てる如く、ただ独り歩め。

法友を得る幸せを、褒め称える。
己より優れた者、また、等しい者。
彼らとは、親しみ近づくべきである。
法友が居なければ、罪科なき行を修め、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

見事に輝ける、二つの黄金の腕輪を、
片腕に嵌めるなら、ぶつかるのを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

二人で居れば、饒舌と口論が起こる。
必ず未来に、このようになるのを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

欲望は甘美であるが、心を撹乱する。
欲望の喜びの裏に、撹乱の憂いを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

欲望は、災害であり、禍患であると、
欲望の喜びの裏に、恐怖の憂いを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

寒と暑、飢と渇、風と熱、虻と蛇と、
これらすべて、ことごとく打ち勝って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

蓮華のように、見事な肩をした象は、
群れを離れ、欲するままに森林を歩く。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

群れる者が、解脱に至る道理はない。
太陽の末裔、ゴータマの言葉を聞いて、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

矛盾する観念を超え、悟る者は言う。
「智慧を得た、誰にも教わる要がない」
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

貪ることがなく、偽ることがなく、
渇望することなく、偽ることもなく、
迷妄を除いて、妄執のないものとなり、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

不義なる者を見て、悪い友を避けよ。
貪欲に耽り怠る者と、進んで親しむな。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

真理を弁える、聡明な法友と交われ。
有益な事柄を学び、疑念を拭い去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

遊戯や娯楽や快楽に、喜びを感じず、
心惹かれず、着飾らず、真実のみ語り、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妻子、父母、財宝、穀物も、親族も、
そのほか、あらゆる欲望を捨て去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

「これは、執着であり、魚を釣る針。
ここは、楽しみが寡く、苦しみが多い」
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

水の中の魚が、網を破り出るよう、
既に焼けた処に、火が戻らないよう、
諸々の煩悩の結び目を、悉く破り去り、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

常に下を向き、うろつくことなく、
諸感官を塞いで、煩悩から心を護り、
流されることなく、焼かれることなく、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

葉の散る樹の如く、在家の印を除き、
出家を果たし、袈裟の衣を身に付ける。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

味を貪ることなく、選り好みをせず、
戸ごとに食を乞い、家々に囚われない。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

五蓋を断ち切り、随煩悩を取り除き、
誰にも頼ることなく、愛情を乗り越え、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

以前に味わった、味著と禍患を捨て、
喜びと憂いを捨て、寂静と平安を得る。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

最高の目的を果す為、慇懃精進し、
心が怯む事なく、行を怠る事もなく、
堅固な活動をなし、体力と智力を備え、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

独坐と禅定を、打ち捨てる事なく、
諸々の事柄について、理法に従がい、
諸々の生存には、憂いがあると知って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妄執の消滅を求め、怠惰にならず、
明敏に、学ぶこと深く、心を止める。
理法を明らかに悟り、自制し努力する。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

音や声に驚かない、獅子のように、
網に捕まることがない、風のように、
水に汚されることのない、蓮のように、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

歯牙が強く、獣の王である獅子が、
他の獣を制圧して、振る舞うように、
他の人から離れた処の、坐臥に親しめ。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

慈愛と悲哀と平静と解脱と歓喜とを、
時に応じて修め、世間に叛くことなく、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

貪欲と瞋恚と愚癡の、三毒を捨てて、
結び目を破り、命を失うのを恐れない。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

今の人々は、自分の利益のため、
交わりを結び、或は、人に仕える。
今日、利益を求めない友は得がたい。
己の利益のみ求めるものは、汚らしい。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

スッタニパータ 第一章 第三節

http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/suttanipata13.htm

2007年10月26日 (23:30)

後期近代/ポスト・モダン期について:同一性iと差異-iについて

ここで述べることは作業仮説である。
 自己認識方程式i*(-i)⇒+1において、iを同一性、形相、-iを差異、質料と捉えるとする。
 思うに、フッサールの志向性とは、iの志向性、すなわち、ノエシスであり、そして、iが差異-iに対して形成する観念がノエシスではないだろうか。
 iも本来は差異であるが、他の差異-iに対するときは、形相(形式)としてはたらき、同一性化するのであり、自乗i^2化するのであり、それは、同一性として捉えていいと思われるのである。それに対して、-iは差異、質料、原身体と言えるだろう。
 さて、初期近代においては、Media Pointから同一性衝動が発動する。すなわち、Media Point⇒(i⇒-i)ではないだろうか。
 そして、盛期近代においては、(i⇒-i)⇒-1ではないだろうか。
 そして、後期近代においては、(-i⇒i)⇒-1ではないだろうか。
後期近代において、志向性が反転・逆転すると考えられるのである。差異・質料・原身体から同一性・形相・原知へと作用するように思えるのである。思うに、反近代主義はこの潮流であるように思えるのである。(ここで、ニーチェを考えると、彼の天才性は、単に反近代主義ではなく、同時に、近代主義を並行させていたことにあるのではないだろうか。i⇒-iと-i⇒i の両極性をもっていたと考えられるのである。だから、両者の中間において、純粋なMedia Pointが感得されていたのではないだろうか。それが、永遠回帰の思想ではないだろうか。ハイデガー=ポスト・モダンの元祖をはるかに超えて、トランス・モダンの元祖の一人であろう。)
 これは、端的に、非合理主義である。それまでが、近代合理主義の流れであった。ここにおいては、理性は軽視・無視される。小泉前首相のパフォーマンスを見るといい。
 問題は、この後期近代/ポスト・モダンにおいて、新自由主義=新植民地主義が発現することである。非合理主義の潮流なので、力・暴力・権力が主導的であるとは言えるだろう。全体主義的である。だから、後期近代/ポスト・モダン=新自由主義=新植民地主義=新全体主義と言えそうである。ここでは、闇に光が飲みこまれてしまうのである。
 しかしながら、近代主義のもつ近代的自我の同一性(近代的同一性)は基盤としてあるのである。それは、i⇒-iではないだろうか。
 この近代的自我同一性があるので、同一性交換価値が支配的になると思えるのである。とまれ、この問題はここで留めておきたい。
 次に、これまで何度も指摘した差異と同一性の連続・混淆空間について考えたい。これは、とりわけ、後期近代/ポスト・モダンに発生する。ドゥルーズにしろ、デリダにしろ、彼らの「差異」はその空間に存すると考えられるのである。
 私は、この空間を客観化したいのである。ガウス平面において、どう表現できるのかである。思うに、i⇒実軸Media Pointないしは-i⇒実軸Media Pointとなるのではないだろうか。即ち、±i⇒実軸Media Point ではないだろうか。i⇒実軸Media Pointとはデリダ的差異であり、-i⇒実軸Media Pointとはドゥルーズ的差異ではないだろうか。とまれ、ポスト・モダン哲学の問題は、±i⇒Media Pointに達しなかったことにあるだろう。虚軸ないしは超越性の欠落があるのである。
 ここで用語を整理すると、実軸Media PointはReal Media Pointであり、虚軸Media PointはImaginary Media Pointである。
 今はここで留めたい。当然、再考が必要である。

2007年09月01日 (23:19)

諸考察:開示(「黙示」)されたMedia Pointによる地球世界進化(相転移)へ向けて

1)Media Point的地球世界進化(相転移)へ向けて:これは検討課題である。

2)グラマトロジー、エクリチュール主義(書記・文字言語主義)のもつ一つの正しさ:
 極論すれば、目に見えるもの(エクリチュール)と目に見えないもの(精神、知、超越性、等)との即非的共立・共振・両義・相補・太極性に「真理」がある。換言すると、Media Point的事象こそ、真実在・真如である。メルロ=ポンティ現象学の再評価へ。

3)アメリカ英語は、超越論的差異ないし超越論的同一性主義である。とにかく、超越論的構造支配があると思われる。これは、アメリカにおいてキリスト教(プロテスタンティズム)が支配的なのと関係する。

4)三島由紀夫のニヒリズムについて:
 三島は超越論的差異のもちうるニヒリズム(これは、ニーチェやハイデガーに通じるだろう。そう、実は、キリスト教が超越論的差異の位置にあるので、キリスト教自体がニヒリズムを生み出したとも言えなくはないだろう。キリスト教自体が神の死をもたらしたのではないだろうか。後で検討。)に、極端に囚われていた。『豊饒の海』の第三巻の『暁の月』の阿頼耶識論は、真の阿頼耶識論ではなく、超越論的差異論であり、ポスト・モダン的であったと考えられる。付け加えると、彼の「無」は、D. H. ロレンスの闇に共通するものがあるだろう。しかし、ロレンスの場合、三島より、明確に、Media Point的要素が入っていた点で異なるだろう。
 
5)身体性について:
 同一性合理性に対して、身体性を優位にすることは、反動となる。光に対して、闇を優位にすることになる。まとめると、同一性・合理性・光VS差異・身体性・闇の二項対立から、両項の即非・共振・両義・相補・太極性へと転換することが必要である。モダン/ポスト・モダンからトランス・モダン的相転移へ。

6)資本主義から脱資本主義=トランス・キャピタリズムへ:
 資本主義の本質は、差異を同一性(貨幣・交換価値)へと、質から量へと転換することのうちに存している。これは、エントロピーの増加であり、熱力学的死、無機的な死・消滅・破壊・解体へと向う。地球温暖化はこの帰結である。また、知性・精神破壊も同様である。そして、資本主義の矛盾・パラドクスは、新たな差異の創造なくしては、同一性の量を増加させることができないことのうちにある。一方では、差異を食い潰して、同一性化するが、他方では、差異を最高度に必要とするというパラドクス・矛盾である。結局、このパラドクシカルな経済を展開しているのが、グローバル資本主義であり、地球世界は最大の危機に陥っている。
 哲学的には、ポスト・モダンの様態から脱出できない状況と言える。それは、超越論的差異(ハイデガーの存在やドゥルーズの差異に当たる)の様相に嵌り込んでいて、超越性、超越的差異、超越的即非差異へと超出・エクソダスできない状態である。 
 PS理論によれば、差異と同一性の即非共振・共立・相補・両義・太極性が真理であり、同一性(貨幣・資本)を新しい差異(特異性)への創造へと転化し、差異と同一性を即非共振させる方法、即ち、新経済が必要である。ここにおいて、政治や社会の知的精神的姿勢が最重要となる。金融資本による利益に重税をかけて、差異創造、差異保持のために還元させる必要がある。諸生産(物質であれ、情報であれ、精神であれ)による利益には、金融資本の利益に比べて、低い税をかけるべきであるが、公害を発生させる産業に対してはやはり重税(環境税)をかけるべきである。差異を創造するための地盤である教育には、知・精神的レベルの高い内容をもつ情報をもった資本をかけるべきである。
 また医療や福祉に関して採算中心ではない、人間中心に公共投資をすべきである。箱物中心ではない投資である。また、日本では、脱東京中心化を図るため、地周(地域・地方)という差異を積極的に肯定すべきである。ここでも、東京(同一性)と地周(差異)との即非共振性を目指すべきである。相互還流的流動化が必要である。(p.s. 以下、8で述べるが、このためには、新輪廻転生仮説が役に立つ。超越論的構造のもつ同一性主義=利己主義に囚われている限り、資本主義・東京中心主義からは脱却できない。)

7)「元(ハジメ)ちとせ」 の歌(「ワダツミの木」)をラジオでちらと耳にしたが、声のエクリチュールというか、差異共振的であり、共感した。美空ひばりの歌声にもエクリチュールを感じるが、「元(ハジメ)ちとせ」のは、いかにも、現代的な、和洋混淆的な多元的なエクリチュールがあると感じた。CDを聴きたい。
http://www.office-augusta.com/hajime/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E3%81%A1%E3%81%A8%E3%81%9B
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/ES/HajimeChitose/
http://www.hajimechitose.com/
元ちとせと島唄シーン

「元(ハジメ)ちとせ」は、今年の2月にメジャーデビューした若干23歳の女性シンガー。彼女が歌う「ワダツミの木」は、年齢層を越えた今年最大のヒット曲になるのは間違いない。
 独特の節回しをもつ彼女の歌唱法は、出身地である鹿児島県奄美大島の島唄に依る。
 島唄の流行は、1980年代、沖縄民謡をベースとしたシンガー・ソングライターやグループの活躍により、静かにスタートする。   そして、93年に山梨県甲府市出身の�ザ・ブーム�が日本の南の旋律を生かした自
作曲、「島唄」をヒットさせたことにより単なる流行から、一つの音楽ジャンルとして定着する。
http://cci.tomakomai.or.jp/dc/dc0206.htm

8)輪廻転生について、あるいは、阿頼耶識(あらやしき)について:又は、フッサール現象学について
 これは、長文なので、別稿にする。

2007年09月01日 (14:28)

一先ずの結論:ポスト・モダンとMedia Point:差異と同一性の問題

これまで、ハイデガーの『存在と時間』の問題に関係させて、ポスト・モダン哲学の意味を、試行錯誤的に、検討してきたが、緻密な分析は、まだ完成していないが、当たらず言えども遠からずというか、おおまかには間違ってはいないと思う。都合上、ここで、ひとまず簡単な結論を出して置いて、精緻的整合化は、後で余裕のあるときに行いたい。以下、明瞭にするため、箇条書きにする。

1)ハイデガー哲学は、ポスト・モダン哲学の主要な一つである。

2)フッサール現象学は二重性をもっている。字義通りの解釈では、超越論的主観性(これは、超越論的同一性構造)を提起したが、私見では、フッサールは、超越的志向性の位置を確保していた。

3)デリダの差延とは、同一性から絶対的に逃れる差異を意味している。それは、ハイデガーの存在概念ないしは存在論的差異を超えるものとして、意図されている。しかし、それは、戦略的な、レトリカルな概念である。「グラマトロジー」(エクリチュール主義、書記主義)とは、その枢要な一環であると考えられる。(この点は、補足が必要である。)

4)Media Pointから同一性構造が発出する。これは、超越論的同一性構造である。Media Pointと超越論的同一性構造の境界に、超越論的差異が出現する。そして、これが、ポスト・モダン哲学の差異である。ハイデガーの存在、ドゥルーズの差異がそれに当たると考えられる。デリダは、この超越論的差異を超える差異を差延として想定していたが、デリダは、超越性を形而上学、つまり、同一性中心主義(ロゴス中心主義)と結びついているとして、いわば、先入観的に、排除している(とりわけ、フッサール現象学の批判にそれが見られる)。超越性を否定したため、デリダの差延は、実質的な概念になることができなかった。だからこそ、皮相な差延の戯れになるしかなかった。つまり、超越性の否定という壁を作ってしまったので、差延を超越性へと展開する道を喪失して、袋小路に落ち込んでしまった。

5)Media Pointの概念こそ、デリダが本来、差延に求めていた差異の所在である。ここは、超越的差異が超越論的差異、超越論的同一性、そして同一性へと変換される交叉点である。だから、プラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダン哲学を超克したトランス・モダン哲学である。

6)不連続的差異論の位置づけであるが、それは、超越論的差異や超越論的同一性構造から真に脱却した差異を提示した点で、画期的である。つまり、十全、十分ではないものの、超越的差異に到達したのである。つまり、ポスト・モダン哲学を乗り越えたものとして、評価できる。

7)差異と同一性の問題に関して言えば、ポスト・モダン哲学は、差異中心主義であり、同一性を回避しようとした。しかし、同一性は、物質として、否定しようのない実質的現象である。問題は、Media Pointのもつ可能性としての差異共振性を基礎として、同一性に配慮しつつ、同一性中心主義の支配を解消することにある。モダン世界からトランス・モダン世界へのパラダイム・シフトが現代の根本的な問題である。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

Appendix

ブログ内検索
RSSフィード
リンク