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2009年09月19日 (19:43)

検討問題:ps理論と阿頼耶識:情報源は⇒-1なのか、虚軸のゼロ点なのか

この問題はプラトン哲学の想起説の問題であり、あるいは、オカルト的問題である。つまり、記憶、それも、単に生涯の記憶ではなく、もっと根源的な記憶はどこに存するのか、ということである。
 わかりすく一例を出せば、遺伝子情報は、どこにあるのか、ということである。直感では、⇒-1が情報源ではないかと思ったのである。しかしながら、 Media Pointが「魂」と思われる。これが、いわば、不生不滅である。暫定的に、イデア魂と呼ぼう。プラトンの説く、「魂」に当たる。
 ⇒+1は「光」の意識であり、明晰な意識である。しかしながら、それに対して、「闇」の意識、不可知の意識があるのではないか。それが、⇒-1ではないのか。
 あるいは、+iと-iの共振領域に情報源があるのか。そうすると、Media Pointの虚軸のゼロ点にあることになる。
 これまでの考えに拠ると、⇒-1と虚軸のゼロ点は通じるものである。思うに、虚軸のゼロ点の記憶とは、森羅万象の記憶であり、⇒-1が個の記憶ではないだろうか。
 唯識の阿頼耶識とは、虚軸ゼロ点⇒-1に当たるのではないだろうか。
 どうも、虚軸ゼロ点は可能性であり、具体的な記憶は⇒-1に蓄積されるのではないだろうか。そうすると、情報源は⇒-1となる。つまり、阿頼耶識は⇒- 1となる。そうすると、それが実質的な根源である。また、それがイデア界かもしれない。つまり、虚軸は超越界であるが、イデア界はそれと通じているが、それとは別に、マイナスの実軸にあることになる。とまれ、後で精緻に考察を行いたい。


阿頼耶識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿頼耶識(あらやしき、Skt : ālaya-vijñāna आलयविज्ञान)は、大乗仏教 の用語。

サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。また「蔵識」(藏識)とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

唯識 思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 ・末那識 ・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālaya の語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子 を内蔵していることから「蔵識」とも訳される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが、これは ālaya の類音語 alaya に由来する異形語である。法相宗 では、心は阿頼耶識までの八識 とする。天台宗 では阿摩羅識 を加えて九識 、真言宗 ではさらに乾栗陀耶識 を加えて十識 とする。
はたらき [編集 ]

ある人の阿頼耶識は、蔵している種子 から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習 (くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那 に生滅しつつ持続(相続)する。

この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。諸法の種子を内蔵している点からは「一切種子識」(sarva-bījaka-vijñāna)、過去の業の果報<異熟(いじゅく)>として生じた点からは「異熟識」(vipāka-vijñāna)、他の諸識の生ずる基である点からは「根本識」(mūla-vijñāna)、身心の機官を維持する点からは「阿陀那識」(ādāna-vijñāna、「執持識」/「執我識」。天台宗 では末那識 の別名)と呼ばれる。
法相宗の説 [編集 ]

唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。

* 阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 唯識述記 2末

三種の境 [編集 ]

1. 種子 (しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
2. 六根 (ろっこん) 眼耳鼻舌身意の六根。俗に言う「六根清浄 (ろっこんしょうじょう)」とは、この眼耳鼻舌身意が清浄になるように唱える言葉。
3. 器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。

阿頼耶識は、常にこの3種を所縁 の境とする。
心 [編集 ]

心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子 を集め、諸法を生起するので、心という。

* あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 唯識論 3
* 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。唯識述記 3末

阿頼耶識と文学 [編集 ]

三島由紀夫 の絶筆となる『豊饒の海 』(第三巻『暁の寺』)において主人公が一旦傾倒した思想であるが、その後インド のガンガー 川畔の巨大な火葬 の町ベナレス(ワーラーナシー )のガート での火葬風景を見て、途方もないニヒリズム に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に耐えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。

『暁の寺』には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。

三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学 をいともたやすく、一瞬にして微塵もなく破壊したのである。

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唯識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唯識(ゆいしき、skt :विज्ञप्तिमात्रता vijJapti=maatrataa)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教 の見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教) の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論 とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである(後述)。

唯識思想は、一切を「識」のみとする思想なので、極端なニヒリズム やエゴイズム に陥る危険性があり、瑜伽行 や禅定 を通じて学ばないと危険であるとされる。
概要 [編集 ]

唯識思想では、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。
八識説の概念図の一例

* まず、視覚とか聴覚とかの感覚も唯識では識であると考える。感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。これは総称して「前五識」と呼ぶ。
* その次に意識 、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。また前五識と意識を合わせて現行(げんぎょう)という。
* その下に末那識 (まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。
* さらにその下に阿頼耶識 (あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。

唯識は、4世紀インド に現れた瑜伽行唯識学派 (ゆがぎょうゆいしきがくは 唯識瑜伽行派とも)、という初期大乗仏教 の一派によって唱えられた認識論 的傾向を持つ思想体系である。瑜伽行唯識学派は、中観派 の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、とりあえず心の作用は仮に存在するとして、その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)。

この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、とするので西洋の唯心論 と同列に見られる場合がある。しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定される(境識倶泯 きょうしきくみん 外界も識も消えてしまう)。したがって唯識と唯心論 はこの点でまったく異なる。また、唯識は無意識の領域を重視するために、「意識が諸存在を規定する」とする唯心論とは明らかに相違がある。

唯識思想は後の大乗仏教全般に広く影響を与え、最終的に識の奥底に仏性 の存在を見出す論者も現れた。(如来蔵思想 )
識の相互作用と悟り [編集 ]

唯識は語源的に見ると、「ただ認識のみ」という意味である[1] 。
心の外に「もの」はない [編集 ]

大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起 、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えるのである。これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)という。また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子 くゆうのしゅうじ、後述)が存在するからであると唯識では考える(これはユング の集合的無意識 に似ていなくもない)。
阿頼耶識と種子のはたらき [編集 ]

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子 (しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。これを薫習 (くんじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる(現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ)。このため阿頼耶識を別名蔵識、一切種子識とも呼ぶ。阿頼耶識の「アラヤ」という音は「蔵」という意味のサンスクリット語 である。さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ(種子生種子)。

また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう)。このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。
最終的には心にも実体はない [編集 ]

このような識の転変は無常 であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)ものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。

このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。これは西洋思想でいう唯心論 とは微妙に異なる。なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空 )であり、究極的にはその実在性も否定されるからである(境識倶泯)。

単に「唯識」と言った場合、唯識宗(法相宗 )・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。
唯識思想の特色 [編集 ]

仏教の中心教義である無常 ・無我 を体得するために、インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系である。

1. 心の動きを分類して、八識を立てる。とりわけ、末那識と阿頼耶識は深層心理として無意識の分野に初めて注目した。
2. 自らと、自らが認知する外界のあり方を、三性 (さんしょう)説としてまとめ、修行段階によって世界に対する認知のありようが異なることを説明した。
3. ヨーガを実践することによって「唯識観」という具体的な観法を教理的に組織体系化した。
4. 『法華経 』などの説く一乗は方便であるとし、誰もが成仏するわけではないことを説いた。(五性各別)
5. 成仏までには三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれるとてつもない時間がかかるとした。
6. 『般若経 』の空 を受けつぎながら、まず識は仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行 の実践を通して悟りに到達しようとする。

成立と発展 [編集 ]

唯識はインド で成立、体系化され、中央アジア を経て、中国 ・日本 と伝えられ、さらにはチベット にも伝播して、広く大乗仏教 の根幹をなす体系である。倶舎論 とともに仏教の基礎学として学ばれており、現代も依然研究は続けられている。
インドにおける成立と展開 [編集 ]

唯識は、初期大乗経典の『般若経 』の「一切皆空」と『華厳経 』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『解深密経(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』として確立した。そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる。

論としては弥勒 (マイトレーヤ)を発祥として、無著 (アサンガ)と世親 (ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された。無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん) 」を、世親は「唯識三十頌 (ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論 」等を著した。「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした。「唯識三十頌」では上述の八識説を唱え、部分的に深層心理学 的傾向や生物学的傾向を示した。弥勒に関しては、歴史上の実在人物であるという説と、未来仏としていまは兜率天 (とそつてん)にいる弥勒菩薩であるという説との二つがあり、決着してはいない。

世親のあとには十大弟子が出現したと伝えられる。5世紀はじめごろ建てられたナーランダ (naalanda)の大僧院において、唯識はさかんに研究された。6世紀の始めに、ナーランダ出身の徳慧 (グナマティ、guNamati)は西インドのヴァラビー(valabhii)に移り、その弟子安慧 (スティラマティ、sthiramati)は、世親の著書『唯識三十頌 』の註釈書をつくり、多くの弟子を教えた。この系統は「無相唯識派」(nirakaravadi=yogacaara)と呼ばれている[2] 。

この学派は、真諦 (パラマールタ、paramaartha)によって中国に伝えられ、摂論宗 として一時期、大いに研究された。

一方、5世紀はじめに活躍した陳那 (ディグナーガ、dignaaga)は、世親の著書『唯識二十論 』の理論をさらに発展させて、『観所縁論 』(aalambanapariikSa)をあらわして、その系統は「有相唯識派」(saakaaravijJaanavaadin)と呼ばれるが、無性 (アスヴァバーヴァ、asvabhaava)・護法 (ダルマパーラ、dharmapaala)に伝えられ、ナーランダ寺院において、さかんに学ばれ、研究された。
中国・日本への伝播 [編集 ]

中国からインドに渡った留学僧、玄奘三蔵 は、このナーランダ寺において、護法の弟子戒賢 (シーラバドラ、ziilabhadra)について学んだ。帰朝後、『唯識三十頌』に対する護法の註釈を中心に据えて、他の学者たちの見解の紹介と批判をまじえて翻訳したのが『成唯識論 (じょうゆいしきろん)』である。この書を中心にして、玄奘の弟子の慈恩大師基 (もしくは窺基=きき)によって法相宗 (ほっそうしゅう)が立てられ、中国において極めて詳細な唯識の研究が始まった。その結果、真諦の起こした摂論宗は衰退することとなった。

その後、法相宗は道昭 ・智通 ・智鳳 ・玄 などによって日本 に伝えられ、奈良時代 さかんに学ばれ南都六宗 のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺 ・法隆寺 ・薬師寺 、京都の清水寺 に受けつがれ、江戸時代 にはすぐれた学僧が輩出し、倶舎論 (くしゃろん)とともに仏教学の基礎学問として伝えられた。唯識や倶舎論は非常に難解なので「唯識三年倶舎八年」という言葉もある。明治時代 の廃仏毀釈 により日本の唯識の教えは一時非常に衰微したが、法隆寺 の佐伯定胤 の努力により復興した。法隆寺が聖徳宗 として、また清水寺 が北法相宗 として法相宗を離脱した現在、日本法相宗の大本山は興福寺 と薬師寺 の二つとなっている。


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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
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2009年03月29日 (17:51)

『《個》の記憶はどこまで届くのか:Media Point の記憶は、イデア記憶であり、不死不滅・永遠不滅である:イデアが輪廻転生主体である:PS理論的日本維新ルネサンスへ向けて』

『《個》の記憶はどこまで届くのか:Media Point Memory(MP記憶)は、イデア記憶であり、不死不滅・永遠不滅である:イデアが輪廻転生主体である:PS理論的日本新維新へ向けて


《個》におけるMedia Point の形成は、当然、共同体、自然、精神、倫理、宗教等的性向の形成でもある。問題は、有り体に言えば、Media Point の意識ないしは「記憶」がどこまで「届く」のか、である。PS理論は、当然ながら、虚軸=超越界に達すると考えるわけである。それは、当然、自己同一性=同一性自己=自我を超えている(それは、虚構・仮想・仮象である)。
 問題を言い換えると、Media Point の記憶は、《個》の経験を超えるのか、否かである。言い換えると、生まれてから死ぬまでの現世の記憶に留まるのか、それとも、超えるのか、である。
 少し迂回すると、「わたし」の問題を考えよう。通常、「わたし」(自我)を同一性自己ないしは自己同一性の意味でとっているが、「わたし」の本体は、先に述べたように、+iの主体差異、主体絶対的差異である。だから、それは、「わたし」ではないのである。思うに、「わたし」に重なるようにして、あるいは、その裏面に、主体差異+iが存しているだろう。《個》(差異共振自己)とは、それと関係しているのである。
 だから、「わたし」と主体差異+iないしは《個》とは分裂しているのである。英国の詩人・版画家ウィリアム・ブレイクは、近代的自我をspectre (幽霊)と名づけたが、それは的確である。「わたし」は「幽霊」である。もっとも、虚構・仮想・仮象とこれまで呼んだが。確かに、マーヤー(幻像)である。
 輪廻転生という観念があるが、そのとき、輪廻する主体とは何だろうか。普通は、不滅の魂ないしは霊魂が輪廻する主体と考えられている。そうならば、「わたし」が輪廻する主体ではないのである。
 問題は、主体差異+iである。それは、「わたし」と混同される傾向が一般的である。デカルトの「我思う」(コギト)の「我」も混同されていると考えられる。「我」が同一性自己(自我)となると、近代合理主義が生まれるのである。(「我」の裏面の主体差異+iを探究したのが、フッサールと言えよう。)
 主体差異+iは虚数であるから、同一性=物質ではない。端的に、イデアである。すると、それは、不滅のはずである。つまり、主体差異というイデアが「わたし」の裏面・本体として超越的に内在していると考えられる。
 そして、Media Point を考えれば、他者差異-iというイデアも超越的に内在していると考えられる。端的に、Media Point が超越的差異共振イデアと考えられる。+iのイデアと-iのイデアから、Media Point のイデアを区別すべきである。とりあえず、仮に、前者を小イデア、後者を大イデアと呼んでおこう。
 端的に、小イデアであり、大イデアであり、それは、不滅のはずである。何故なら、超越的であるからである。虚数だからである。
 だから、輪廻転生という観念は、「わたし」が輪廻する主体ではなく、小イデア、大イデアが輪廻する主体ということになる。そう、魂や霊魂とは、小イデアであり、大イデアである。(もっとも、小イデアを内包・包摂した大イデアと言う方が的確である。)
 そこで、Media Point の「記憶」はどこまで「届く」のかという本題に戻ると、今や、当然、《個》の現世の経験の記憶を超えるものである。過去世(前世・前生)や未来世(後世・後生)の「記憶」をもつと言えよう。また、さらには、個体的な「記憶」に限定されずに、ユングの説くような集合的無意識・普遍的無意識をもちうると考えられる。「神」、「神仏」と言える。ただし、ユング心理学の問題点は先にも述べた点もあるが、ここでは、集合的無意識について言うと、それは、連続化されているのが大欠点なのである。集合的ではなく、あくまで、絶対的差異的、特異点的であり、それが、普遍的な認識をもちうるということと考えなくてはならないのである。後で、この点を詳述したい。
 ということで、ここで、明確に、プラトン哲学の進展であるPS理論による以上の視点から、プラトン哲学のイデア論の正しさが証明されたことになるだろう。ただし、プラトン自身、小イデアと大イデアを明確に区別していなかったと考えられる。主体差異+iという小イデアは、同一性志向性をもち、いわば、同一性イデアになるのである。これと、大イデア=不死不滅の魂の区別が明確ではなかったと考えられるのである。
 ここで、飛躍して、現代日本の破滅的状態の乗り越えを考えると、PS理論的な、根源的な復活・ルネサンス・維新が必要である。トランス・モダン維新である。PS理論的イデア維新ルネサンスである。

2007年09月17日 (11:54)

Media Pointと連続性・同一性:同一性構造について

輪廻転生問題がうまく解明できない。問題点は、連続性・同一性の形成の意味にある。言い換えると、構造の問題である。Media Point(差異)から、連続化して同一性が発生するが、それ以前に、同一性構造が発生すると考えられる。問題は、同一性構造がどこに存するのか、である。
 不連続的差異論から考えると、メディア界と現象界の境界に同一性構造が属するのである。これから類推すると、同一性構造は、Media Pointと連続的同一性の境界に存することになる。
 Media Pointと連続的同一性の境界とは何だろうか。それは、実軸のゼロではないだろうか。乃至は、±0ではないだろうか。
 とりあえず、そう仮定した上で、実軸の0とは、何を意味するのだろうか。当然、実軸0とは同一性構造である。通俗的なイデアである。あるいは、形相である。
 問題は、この同一性構造とMedia Pointの関係であろう。Media Pointは、連続化するとき、同一性構造を形成し、そこから、同一性を発現させると考えられる。しかし、先に述べたように、差異からの変換として同一性が発生するが、この同一性は差異を否定するという点があることを考えないといけない。だから、同一性構造とこの同一性の否定作用はどう関係するのかということが問題である。
 簡単に思いつくのは、同一性構造と同一性の否定作用が一つではないかということである。同一性のもつ否定作用が同一性構造を形成しているのではないだろうか。言い換えると、連続化の否定作用が同一性構造を形成しているのではないのか、ということである。差異(Media Point)が自己否定して、連続化=同一性化する。
 問題は、この連続化=同一性化は構造なのか、それとも、同一性(現象、物質)なのかである。これは、後者ではないだろうか。すると、構造とは、差異の自己否定作用にあると言えるのではないだろうか。
 そうすると、

1.Media Point・差異⇒2.実軸の0(ゼロ)・同一性構造⇒3.同一性(±1)

となる。ここまでは、明快、明晰であるが、問題は、差異と同一性との関係である。私は、差異と同一性とが連関していると言った。つまり、差異が深層構造・基盤・土台・「無意識」ないしは本体であり、同一性が表層構造・顕現面・現出面・「意識」ないしは現象である。
 つまり、同一性構造を介して、差異と同一性とは、矛盾・相反的に連絡しているのである。これで、一応、本件の問題は説明がついた。

 ここでさらに輪廻転生問題に関係させよう。同一性=物質は、当然、生成消滅するものであり、同一性個体は死滅する。つまり、差異自体は永遠であるが、同一性発現には、有限のエネルギーが使用されて、それが、滅するということになる。連続化エネルギーが使用され、それが消滅するということである。しかしながら、同一性構造があるから、同一性個体は、なんらかの時間、保持される。生存である。
 それでは、同一性個体の死とは何だろうか。それは、同一性構造の消滅も意味するのか、それとも、端的に、それ自体だけなのか。ここが、実に核心的論点である。
 見方を変えよう。生存している際、同一性個体=自我は、差異・他者への否定によって、自己の差異・Media Pointに対して、損傷を加える。(問題は複雑である。同一性形成における差異否定と、同一性自我における他者としての差異の否定について区別する必要がある。これは置いておく。)差異・Media Pointへの否定的刻印があると考えられる。言い換えると、差異・Media Pointの記録・記憶がある。これを確認しておこう。
 そこで、同一性構造の保持か消滅かの問題に返ると、同一性構造は、連続化の過程において形成されるのであり、死滅の場合は、やはり、消滅されると考えられる。
 そうすると、これまで、輪廻転生仮説で考えた、同一性構造の保持は否定されなくてはならない。ここでの考察からは、差異・Media Point自体が記録を保存すると考えられるのである。言わば、Media Point Record、ないしは、Media Point Memoryである。
 そして、これが、魂ということになるだろう。これは、不死であり、不滅であろう。そう、Media Point Memoryは、特異性、特異点であり、イデア界・超越界の叡知の超光(善のイデア)を浴びることになるのだろう。これが、死後の裁判・審判なのだろう。(キリスト教の最後の審判は、これが、直線的時間の下に置かれたものであろう。)
 以上の仮説に従えば、霊界とは、どうなのだろうか。Media Point Memoryが魂であるが、それが存する場とはどこになるのだろうか。イデア界・超越界なのか、それとも、Media Point Fieldというものを考えるべきなのか。これまた、難問である。
 Media Point Memoryは、確かに、イデア界・超越界・霊界に存するだろう。しかし、Media Point Fieldというような領域は考えられないだろうか。物理学で言えば、量子領域であろう。そうならば、考えられるだろう。Media Point FieldにおけるMedia Point Memory=Soulということになる。そして、Media Point Fieldは、イデア界・超越界・霊界の特異な領域ということになる。結局、霊界という言葉は、イデア界・超越界には使用しない方が適切である。霊界は Media Point Fieldに当てはまるだろう。だから、

1.イデア界・超越界⇒2.Media Point Field・霊界⇒3.現象界・物質界

となるだろう。つまり、魂は霊界に存するということである。天国は、イデア界・超越界のことであり、神とはイデア界・超越界の存しているということになるだろう。しかしながら、エネルゲイアは、霊界にあるのであり、創造神はここに存するということをどう考えるのかということになる。しかしながら、やはり、創造神はイデア界・超越界に存すると見るべきだろう。その神の創造エネルギーがMedia Point Field・霊界にあるということではないだろうか。
 今はここで留めておく。

2007年09月16日 (23:20)

空想&妄想:Media Pointと魂:構造と連続性:輪廻転生はあるのか、否か

以下は、残暑の夜の空想・妄想であるので、読まないこと。

今日も蒸し暑さの不快さのため、頭脳の働きが鈍くなっているが、本件について一言述べておこう。
 Media Pointの構造や意味等に関しては、まだまだ、不分明である点が多いだろう。ここで、試行錯誤すれば、超越的差異は、イデア対微粒子(ついびりゅうし)であると言えよう。
 このイデア対微粒子がMedia Pointにおいて、水平軸へと転換される。このとき、イデア対微粒子と連続的微粒子との中間体が発生するのではないだろうか。不連続的微粒子と連続的微粒子との即非的中間体ということになる。差異的微粒子と同一性的微粒子の中間体ということでもある。
 問題は量子である。これまで、この中間体を量子と見てきたと言えよう。しかし、私は量子力学は物質主義的に量子を捉えているに過ぎないと言った。物質のスクリーンに映った「量子」の映像を量子と呼んでいると考えている。つまり、私が考える量子とは、超量子となる。即ち、超量子を量子力学は量子と捉えているということになる。
 以上の中間体は超量子に当てはまる。これが、超越的エネルゲイアであり、ダークエネルギーの可能性はある。
 ここで本テーマに飛躍するように移るが、魂と言ったときは、連続性の把握である。連続的微粒子における同一性の視点からMedia Pointを見て、魂と言っているのではないだろうか。
 発想を変えよう。Media Pointにおいて、連続的同一性の構造が発生する。連続的微粒子の構造である。(これが、通俗的なイデアである。プラトンのコーラはMedia Pointであろう。)これは、自我の構造である。それに対して、差異がMedia Pointとして存する。これは、不連続性と連続性の即非構造である。そして、これを私は魂soulと呼んだのである。
 この場合、不連続性はイデアであり、連続性は同一性構造である。そして、同一性構造から同一性=物質化して、自我が発生する。同一性構造は原自我に過ぎない。自我は同一性構造から、他者を同一性化する。同一性認識の始まりである。しかしながら、Media Pointが起源であるから、不連続性・差異が潜在している。自我は、起源の不連続性・差異を隠蔽するように作用する。(反近代主義は、自我への反作用として、起源へと回帰するのであるが、これは反動である。ポスト・モダンは反近代主義であろう。)
 差異の不連続化によって、意識はMedia Pointへと回帰する。これは、イデアと同一性構造の即非的交叉点である。(思うに、デリダの差延とは、Media Pointを示唆・暗示していたと考えることが可能である。)ここでは、もはや、連続的同一性=自我はない。ただ、原自我の構造はある。
 問題は、原自我ないし同一性構造は、現象において、感覚作用を受けるのだろうか。感覚作用と受けるのは、連続的同一性という自我身体である。構造自体は感覚作用は受けないだろう。そうならば、カルマは無いことになる。輪廻転生もないことになる。
 しかし、意識は、本源的には、志向性から発している。それは、自我身体をも貫いているはずである。差異的志向性が、同一性志向性に転化しているに過ぎないのである。
 だから、思うに、同一性志向性の作用が差異的志向性に作用しているはずである。端的に、それは否定の作用である。この否定作用はどのように差異的志向性にもたらされるのか。
 否定作用は差異の阻害である。イデアへの阻害である。この阻害がイデアにもたらされる。しかし、これは、Media Pointにおける刻印・影響である。連続性の力学が不連続性の力学を阻害するのである。そして、もし、Media Pointが永劫的ならば、それはカルマになる。
 Media Pointの存在をどう考えたらいいのだろうか。わかりやすく言えば、動的なイデア(エネルゲイア)である。(ここで、オルテガ・イ・ガセットの生の理性の概念を想起する。)これは、一時的なものなのか、それとも、永続的なのか。
 思うに、これは、普遍的ではないだろうか。ここには、諸現象が記憶されるのではないだろうか。普遍的な現象情報アーカイブではないだろうか。オカルティズムで言うと、アカシック・レコードである。普遍的記憶媒体である。全知ではないだろうか。そして、ある意味では、全能である。だから、「神」である。これは、創造神である。古事記では、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)であろう。
 このように作業仮説すると、魂とは、Media Pointの個別性ではないだろうか。Media Pointは類であり、魂は個別ではないだろうか。思うに、Media Pointは多種多様性ではないだろうか。「わたし」であり、「あなた」であり、「彼」であり、「彼女」であり、「彼ら」、等々であるのではないだろうか。そして、そこでは、森羅万象・万有の「魂」が重層化しているのではないだろうか。
 そして、「魂」の相違とは、「魂」の振動数の違いに拠るのではないだろうか。大きい振動数が、より精神的であり、小さい振動数はより物質的になるのではないのだろうか。
 

2007年09月15日 (22:41)

「わたし」とは何か:Media Pointと同一性:死と生

「わたし」とは、端的に、何なのであろうか。私が不思議に思うのは、今生きている人も、いつかは死者になるのに、生が当然のことのように語っていることである。生は、せいぜい百年である。
 そう、何を述べたいのか思い出した。死についてである。死は眠りならば、それは、いつかは覚めるのではないだろうかと思った。問題は、死はイデア界にあると思うが、Media Pointとはどう関係するのか、である。
 直感で言おう。Media Pointにおいて、超越界と接する。死は、当然ながら、同一性(現象・物質)との関係を断たれて、Media Pointにおいて、超越性と深く通じるだろう。超越界の超越光に、Media Pointにおいて、いわば、浸るのではないだろうか。
 私は何を言いたいのだろうか。つまり、イデアとMedia Pointの関係である。イデアは原自己であるが、個体性がない。Media Pointにおいて、原自己/原自我、原個体性が発生する。
 死んだとき、個はMedia Pointへと還元されると思われる。原個体性へと還元される。(これを先に魂と呼んだのである。)ここでは、連続性と不連続性がゆらいだ様態にある。いわば、夢の様態である。あるいは、芸術の様態である。
 では、イデアとMedia Pointとの関係はどうなのか。イデアは高次元にある。イデアを霊とすれば、Media Pointにおいては、イデア=霊が連続化して、同一性=自我へと展開するのであり、この場を魂soulと呼べるだろう。先に、Media Point=魂soulと呼んだのも同じ意味である。図式化すると、

1.イデア(=霊spirit)⇒2.Media Point(=魂soul)⇒3.連続的同一性(=自我ego)

となる。ただし、Media Pointは、イデアと自我の交叉点である。
 ここで本論にもどると、死は、2のMedia Point=魂soulへと回帰すると思われるが、そのとき、同時に、イデア=霊にも回帰しているのではないだろうか。つまり、魂であり、かつ、霊であるということではないだろうか。
 この二重性が死において、存するのではないだろうか。原点の未生は、イデア=霊であるが、死後は、単純にイデア=霊へと還帰するのではなく、Media Pointへと環帰するのではないのか。
 ここで宗教的比喩で表現すれば、天国がイデア界であり、煉獄・地獄がMedia Pointであり、地上が現象界である。閻魔大王はMedia Pointに存するということになるだろう。
 より精緻化しよう。今、領域と魂とが混同されている。即ち、Media Pointは、魂であり、同時に、領域となっているのである。これをどう考えるべきか。直感では、それでいいのではないだろうか。Media Pointは領域であり、且つ、魂であるということで。
 しかしながら、個の問題をどうするのかということになるだろう。魂は個である。思うに、イデア界に接しているということでは、普遍的な領域であるが、個々の魂が存在する点では、個的であると言えるのではないだろうか。
 まだ、不明晰なので、明確にしないといけない。端的に言えば、Media Pointと個との関係は如何に、である。表現が難しい。Media Pointは前個であり、且つ、個である。即非的様相としてのMedia Pointである。これは、個ではない。だから、魂とは、個ではないと考えるべきである。つまり、即非的様相としての魂soulである、ということになる。そして、これは、同時に、領域でもあるということになるだろう。
 では、「わたし」の魂と「あなた」の魂と「彼」の魂、等々はどういうことになるのだろうか。すべての魂はMedia Pointになる。それは、別々のMedia Pointであると考えられる。Media Pointの多元性があるのである。(そして、イデアの一元性があるのである。一元的多元性、一神教的多神教。)
 
 さて、ここで、物質的現実界に返ると、ここでは、物質的論理が支配する。経済的論理が支配する。サブプライムローンのように、もともと問題のあるローンはバブル化して崩落するのである。また、日本の財政も問題があり、破産寸前であるから、それに対処する必要があるが、この財政問題を作ったのは官僚である。また、それを許した政治である。
 官僚や政治家たちは、近代的唯物論に染まっているから、イデア界=霊界を無視している。彼らは、死んで、Media Pointの地獄・煉獄において、苦しむことになる。(参照:ダンテの『神曲』の「地獄篇」)
 そのことよりも、官僚や政治家が、霊性を知らないことが問題である。それは、差異・差異共振性であり、そこでは、他者との共生・共立が本質的である。民主主義とは根源的には、霊性に根差していると考えられるのである。そう、霊的民主主義である。これを官僚や政治家、さらには国民が知らないから、日本の財政は垂れ流し的に杜撰化したと言えるのではないだろうか。
 トランス・モダンの民主主義とは、霊的民主主義である。超越的民主主義である。もっとも、Media Pointにおける霊性と知性との対話が実践的になるのである。
 以上、試行錯誤したので、後で整理したい。

2007年09月12日 (20:16)

イデアと魂:あるいは、「わたし」とは何か:イデアとMedia Pointと物質的身体

先に、もし、イデアだけしかなかったら、個体性、単独性・特異性、そして、「わたし」が存在しないと言った。この点を詰めたいのである。これは、輪廻転生問題とも関わる。そして、これは、フッサールの志向性とソシュールのシニフィアン/シニフィエにも関係するだろう。
 自己認識方程式i*(-i)⇒+1の左辺は、イデア界の事象を意味する。ここでは、差異、二つの差異iと-iは、対極的な様相にはあるが、まだ、エネルゲイア化していない。デュナミス様相であると考えられる。
 しかし、対極的な潜勢力が、動態化すると考えられる。これが志向性である。差異から差異への志向性である。ここにおいて、Media Pointが発生するのである。そして、「わたし」の原点があるのである。つまり、不連続性と連続性との即非共立としてのMedia Pointが発生する。連続性において自我が、同時に、不連続性において自己が発生すると考えられるだろう。つまり、個体性、単独性・特異性、「わたし」の発生である。
 精緻に言えば、イデア界においては、超越的差異の即非様相があるが、それは、可能性としての差異の即非様相であり、連続性も可能性として存するのであり、前物質的な様態にあると言えよう。しかし、いったん動態化すると、志向性は連続化を目指す。ここにおいて、Media Pointが形成される。それは、物質化の原点である。精緻に言えば、原物質性がそこにある。同一性・物質・自我構造である。
 ということで、イデア界においては、魂、「わたし」、自我/自己は存在しないということではないだろうか。Media Pointにおいて、それらが発生すると考えられるのである。
 では、Media Pointを魂と考えていいのだろうか。ここでは、魂は、プラトンが使用した意味のものである。否、そうではなくて、先に、私はそのように考えたのである。その妥当性はいかに。
 イデアは霊spiritと考えられるので、魂soulをMedia Pointとするのは考えられることである。問題は、イデア界とMedia Pointの関係である。端的に言えば、Media Pointとは、永続的なものなのか、それとも、現象時間的なものなのか。私の考えは前者に傾いている。
 正確に言えば、Media Pointは、永遠的なものと現象時間的なものの交点である。不滅のものと死滅するものとの交点である。この不滅のものが問題なのである。Media Pointにおける不滅のものとは、イデアないしは霊spiritなのだろうか。
 私は違うと考えている。やはり、魂soulである。ここにおいては、連続性の構造が内包されていて、これが、不連続性とともに、永続的な魂soulを形成していると思えるのである。連続性の構造があるので、当然、イデア・霊spiritとは異なるのである。
 この考え方に拠れば、死とは、魂が物質体である肉体を離れて、Media Pointへと回帰する(p.s. 回帰という言い方は不正確である。本来のMedia Pointに還元されることである。)ことだろう。そして、そこで、イデア界・「霊界」の純粋ヴィジョンを観照するということではないだろうか。イデア界は涅槃である。そして、イデア界・涅槃のヴィジョンを充電して、Media Pointとしての魂soulは、現世・物質界へと転生するのではないだろうか。今はここで留めたい。

2007年09月06日 (21:55)

個体性と輪廻転生:Media Pointと個体性

輪廻転生について考える前に、Media Pointの構造について、さらに究明しておかなくてはならない。
 Media Pointにおいて、先に、同一性構造を見た。それは、主客的空間性を発生させるものであり、カントの超越論的形式に類似したものである。もっとも、それにハイデガーの気遣い・関心を加えたようなものであるが。だから、超越論的同一性構造である。
 さて、問題は、差異としての個体性である。直前の記事で、同一性を包摂した差異ということを述べた。では、その差異はMedia Pointにおいて、どういう位置を占めるのだろうか。私は先に超越論的差異と超越的差異を区別して述べた。ハイデガーの存在を前者と考えた。まだ用語や考え方の問題がないではないが、同一性に対する否定としての差異は、おそらく、超越論的差異である。それに対して、同一性を包摂する差異が超越的差異であると考えられる。
 だから、差異としての個体性とは、後者の超越的差異であると考えられるのである。これは、Media Pointの虚軸性である。(問題は、実軸のゼロは何かということである。それがハイデガーの存在ではないだろか。そうすると、超越論的同一性構造はどこに位置するのかということになる。それは、同一性と同じ-1でいいのではないだろうか。何故なら、-1とは同一性を示す様相構造でもあるからである。)
 ということで、本来の差異である超越的差異が連続的同一性=自我を包摂している個体性が把捉された。この個体性とはMedia Pointの現象的実相と言えるのではないだろうか。これが差異の生の実相であると思われる。死の場合は、同一性ー自我が消失するが、同一性構造を包摂した超越的差異が存続するのではないだろうか。つまり、連続化される以前のMedia Pointである。
 ここで述べたいのは、Media Pointが個体としての「霊魂」ではないのかということである。それとも、同一性構造を含まない超越的差異が、つまり、虚軸的差異がそれなのだろうか。
 虚軸的差異とは、端的に、「イデア」であり、これは、同一性を含まない。だから、個体性は存在しない。しかしながら、Media Pointになると、実軸を含むので、個体原理が発生すると思えるのである。そう、単独性・特異性である個体の原理である。このMedia Pointの個体原理が、輪廻転生する「霊魂」のように思えるのである。「霊魂」、「魂」、「霊」という言葉はいろいろ含みがあるので、Media Point的超越的個体性、ないしは、端的に、超越的個体性(超個体性)と言ってもいいだろう。
 ここで、用語・術語を整理しよう。超越的差異というとき、それは、虚軸的差異を意味するが、Media Pointにおける超越的差異もあるのである。これを明快に区別しないといけない。超越的個体というのは、Media Pointにおける超越的差異のことであり、虚軸的差異全体を含むわけではない。しかしながら、虚軸的差異であれば、Media Pointにおける超越的差異になるのではないだろうか。
 否、そうではないだろう。虚軸的差異ないしは超越的差異であるからと言って、必ずしも、Media Pointにおけるそれではあるということではないだろう。なぜなら、Media Pointにある超越的差異とは、エネルゲイアとしての超越的差異であり、イデア界の超越的差異はデュナミスであると考えられるからである。
 ということで、区別して呼ばないといけない。暫定的に、Media Pointの超越的差異をMP超越的差異としよう。そして、イデア界のそれをイデア超越的差異としよう。ということで、輪廻転生する個体は当然、MP超越的差異・超越的個体となる。

 ところで、今日、池袋のリブロで立ち読みしていたら(久しぶりに、池袋に行ったが)、ルドルフ・シュタイナーは、個我が輪廻するのであり、仏教は、個我を否定しているとしたが、シュタイナーは唯識論を知らなかったようである。阿頼耶識が輪廻するのである。それは、Media Pointの超越的差異=超越的個体であると考えている。

2007年09月03日 (09:34)

プラトンの『国家』の第10巻の「エルの物語」:プラトンの輪廻転生説:補足

5p.s. 4p.s.で提起した光と闇の問題は、興味深い。超越論的同一性が「光」であるが、事実は闇である。つまり、これまで、同一性=光と考えたが、-1の闇となる。この齟齬をどう解決するのか。ここは微妙である。i→(-i)⇒-1であるが、これは正確には同一性ではなくて、同一性中心主義である。だから、闇なのである。自我ではなくて、自我中心主義・エゴイズムである。
 そのように考えれば、齟齬は生じない。同一性中心主義=闇=無明と同一性=光=知性は微妙に異なる。しかしながら、問題は超越論的同一性構造にある。これが、同一性中心主義を生み出すのである。闇の中に光はあるが、暗い光である。他方、i←(-i)⇒-1で、これは、身体的同一性中心主義の闇、神秘主義の闇、差異中心主義の闇である。ポスト・モダンの闇と言えるだろう。
 言わば、白い闇と黒い闇である。近代主義と反近代主義である。これを形成する支点である超越論的同一性構造から脱却しないといけない。差異を不連続化して、超越性に達することである。そして、それが即非差異へと熟するのを待つのである。そして、Media Pointの開示が生起する。これは、いわば、器ではないだろうか。超越的差異を受ける器、受容器ではないだろうか。聖杯のことではないだろうか。仏教で言えば、阿弥陀如来を受容する信心ではないだろうか。あるいは、プラトンのコーラではないだろうか。魂を受ける容器である。魂は超越的差異である。水瓶座の水瓶・宝瓶ではないだろうか。超越的差異とMedia Point、この関係は微妙・霊妙である。
 神秘学や神学のソフィア(叡智)とは、この器のことではないだろか。Media Pointという聖杯にある魂が超越的差異である。この点は後で考察しよう。
 さて、主題にもどると、Media Pointの形成によって、二つの闇が解消して、真光となる。同一性と差異が共立・共振・共鳴・共生・共存するのである。同一性の光と差異の超光が共振するのではないだろうか。光と超光の共立、これが真光ではないか。闇が光となり、闇が超光となる。超越光と現象光の共立である。思うに、それは、一如になっているのではないだろうか。背景の超越光と前面の現象光が一如なのではないだろうか。共振であろう。超越光と現象光の共振光であろう。

6p.s. Media Pointとは、いわば、超越界と現象界の究極の境界である。超越界であるが、ほとんど現象界である。オカルティズム等でいうエーテル体(気の身体)ないしは、チャクラが生じるのではないだろうか。チャクラは、確かに、Media Point的である。超越的差異があり、超越的共振があり、境界的身体がある。そして、物質身体=肉体が形成される。【超越的差異(元志向性)、超越的共振(精神的感情)、水平的共振身体(エーテル体、気的身体)、同一性身体=物質身体(肉体)】思うに、超越光と現象光は一如というか、一つではないのか。超越光がMedia Pointを介して現象光になると考えられる。Media Pointの視覚があれば、現象光と同時に超越光も視ることができるだろう。超越光とは、以前、Idea-sophia lightと呼んだものだ。
 光子は、ほとんど超越光であろう。量子力学の唯物論的制約を取り払えば、光子は超越光そのものであろう。超光子である。 
 ごちゃごちゃしたので、後で整理しよう。

2007年09月02日 (21:10)

プラトンの『国家』の第10巻の「エルの物語」:プラトンの輪廻転生説

「エルの物語」は、今で言う臨死体験ないしは幽体離脱体験の話である。それは、戦死したと考えられたエルの「死体」を荼毘に付そうとしとき、甦って、あの世で体験したことを述べたものである。たいへん興味深いが、なにか独特の不思議さ、謎めきがある。とまれ、臨死体験してエルが行った場所は、天地・生死の中間点・交叉点であり、プラトニック・シナジー理論のMedia Pointに相当する可能性があると思った。以下、簡単に引用したい。

「彼[エル]が語ったのは、次のようなことであった。---彼の魂は、身体を離れたのち、他の多くの魂とともに道を進んで行って、やがてある霊妙不思議な場所に到着した。そこには大地に二つの穴が相並んで口をあけ、上のほうにもこれと向い合って、天に別の二つの穴があいていた(図1)。
 これらの天の穴と地の穴とのあいだに、裁判官たちが座っていた。彼らは、そこへやってくる者をつぎつぎと裁いては判決をくだしたのち、正しい人々に対しては、その判決の内容を示す印しを前につけたうえで、右側の、天を通って上に向かう道を行くように命じ、不正な人々に対しては、これもまたそれまでおかしたすべての所業を示す印しをうしろについてけ、左側の下へ向かう道を行くように命じていた。
 エル自身がそこへ近づいて行くと、彼らは、お前は死後の世界のことを人間たちに報告する者とならなければならぬから、ここで行なわれることをすべて残らずよく見聞きするように、と言った。
 そこで彼は、一方において、魂たちが判決を受けてのち、天の穴と地の穴のそれぞれ一つの口から、そこを立ち去って行くのを見た。別の二つの穴のところでは、地の穴のほうからは、汚(よご)れと埃(ほこり)にまみれた魂たちが大地のなかから上ってきたし、天の穴のほうからは、別の魂たちが浄らかな姿で天から降りてくるのであった。
 こうしてつぎつぎと到着する魂たちは、長い旅路からやっと帰ってきたような様子に見え、うれしそうに牧場へ行き、ちょうど祭典に人が集まるときのように、そこに屯(たむろ)した。知合いの者どうしは互いに挨拶をかわし、大地のなかからやってきた魂は、別の魂たちに天上のことをたずね、天からやってきた魂は、もう一方の魂たちが経験したことをたずねるのであった。こうしてそれぞれの物語がとりかわされたが、そのさい一方の魂たちは、地下の旅路において- --それは千年つづくのであったが---自分たちがどのような恐ろしいことをどれだけたくさん受けなければならなかったか、目にしなければならなかったかを思い出しては、悲しみの涙にくれていたし、他方、天からやってきた魂たちは、数々のよろこばしい幸福と、はかり知れぬほど美しい観物(みもの)のことを物語った。」『国家』(下)pp. 355~357 藤沢令夫訳 岩波文庫 (なお、文字の着色は、renshiによる)

      天

○            ○
|            |
↓          上へ↑
ーーー裁判官たちの席ーーーー
↓            ↑
|下へ          |
○            ○

      地    
 
   
      図1

(なお、図1は、岩波文庫のものではなく、中央公論社の「世界の名著」からのものである。文面からは、岩波文庫の方が明快かもしれないが、図としての中央公論社のものの方がわかりやすい。また、天と地という語をrenshiが挿入した。)


コメント:以上、四つの穴が提起されている。最初の二つの穴は、天と地への往路であり、次の二つの穴は、天と地からの復路である。赤色の矢印部分が往路であり、青色の矢印部分が往路となる。
 ここで、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)を適用すると、この天と地との交叉点は、当然、Media Pointと考えられる。言い換えると、裁判官たちの席がMedia Pointである。
 ここで、ガウス平面を適用するが、混乱するおそれがあるが、天に当たるのは、虚軸であり、地に当たるのは、実軸であると考えられる。天が+の虚軸で、地が-の虚軸ではないだろう。
 次に、往路を考えると、天への往路とはMedia Point(以下、MP)から虚軸への移動であり、地への往路とはMPから実軸への移動と考えれるだろう。
 では、復路を考えると、天からの復路とは虚軸からMPへの移動であり、地からの復路とは実軸からMPへの移動であろう。
 ここで、二つに分けると、一つは、地からの復路と天への往路を結びつけた移動であり、他の一つは、天からの復路と地への往路を結びつけた移動である。前者は地から天への移動であり、後者は天から地への移動である。換言すると、前者は実軸から虚軸への1/4回転であり、後者は虚軸から実軸への1/4回転である。
 そう考えると、結局、「エルの物語」は、Media Pointを中心とする輪廻転生の物語ということになるだろう。特に問題になるのが、実軸から虚軸への1/4回転である。これは、生から死へであるが、思うに、-1と+1の極性があるが、例えば、前者の否定相を強くもち、後者の肯定相が弱いとそれが、カルマになるのではないだろうか。傾斜である。否定相とは端的に利己主義であり、肯定相とは共振主義である。
 とまれ、結局、天である虚軸が高次元であり、天国である。そして、地である実軸は、修羅場であろう。そして、Media Pointが判決の場であるが、それは、ある「魂」には地獄となるのではないだろうか。
 さて、問題は、天と地とのそれぞれ二つの穴である。天への往路の穴は、実軸から虚軸への1/4回転で発生する穴であり、天からの復路の穴は、虚軸から実軸への1/4回転で発生する穴と言えるのではないだろうか。
 そして、地への往路の穴は、虚軸から実軸への1/4回転で、地からの復路の穴は、実軸から虚軸への1/4回転で生じるのではないか。
 そして、虚軸から実軸への1/4回転の場合、天から地への移動が生じるが、Media Pointにおいて、二つの穴が生じるということになるのではないだろうか。つまり、虚軸的MPの穴と実軸的MPの穴である。また、実軸から虚軸への1/4回転における地から天への移動でるが、そこで生じるMedia Pointの二つの穴であるが、それは、実軸的MPの穴と虚軸的MPの穴であるが、それらは、天から地への移動のとき生起する穴とは異なるということになるのではないのか。
 つまり、天から地への移動の場合、虚軸から1/4回転である。そして、地から天への移動の場合、実軸から1/4回転である。つまり、両者において、1/4回転のズレ・差異・「差延」があるということである。つまり、後者の地から天への移動は、1/4サイクルのズレがある位相であるということになる。だから、同じ、虚軸的MPの穴でも、1/4回転の穴と2/4回転の穴の二種類あるということになるだろう。これが、「エルの物語」の天と地の計四つの穴の解明である。後でさらに検討したい。

p.s. (2k-1)/4回転と2k/4回転の違いである。

p.p.s. その他の箇所も興味深い。天地を貫く宇宙軸があるが、それは、一見、虚軸に思えるが、そうではなくて、虚軸-実軸であろう。p.sのところで提起したものは、前者が生への変換で、後者が死への変換である。問題は、2/4回転における死への変換であるが、それは、-1が-iとなり、+1が+i となる。これは、思うに、女性になるということではないだろうか。つまり、女性の遺伝子をもつことではないか。そして、3/4回転で、生へと変換して、女性として生まれるということではないのか。1/4回転は男性である。シュタイナーは、人間は、男性と女性の両方に生まれ変わると言っていた。これで説明できるのだろうか。
 とまれ、iが元男性性=元知性=元形相であり、-iが元女性性=元身体=元質料ではないだろうか。 
 後で、もう少し、「エルの物語」について考えたい。

3p.s. ひょっとしたら、以上の解釈は間違っているかもしれない。天がiで、地が-iかもしれない。そうすると、四つの穴とは、天=iへ往復路で二つの穴であり、地=-iへの往復路で二つの穴ということになる。後で、この線で考えたい。(天=+iが天国であり、地=-iが地獄となるだろう。では、地上はどうなるのか。「エルの物語」は、Media Pointから正負の虚軸世界の話かもしれない。)


4p.s. やはり、以上の解釈でいいと思う。ところで、自己認識方程式(+1)*(-i)⇒+1であるが、虚軸から1/4回転すると、-1と+1の実軸が生起する。-1が同一性で、+1が差異(差異共振性)ではないだろうか。-1が自我であり、+1が自己である。そう、パラドクシカルなことは、-1は光になり、+1が闇になることである。可視界と不可視界である。「モダン」と「ポスト・モダン」である。両者を即非化したところに、「トランス・モダン」が形成されると考えられないだろうか。
 否、以上は間違いだ。-1には、iが優位の場合と-iが優位の場合がある。前者が「モダン」であり、後者が「ポスト・モダン」である。両者ともに闇なのである。iと-iを即非化したとき、⇒+1の「トランス・モダン」が形成されるのである。
 問題は、「モダン」の「光」は闇であることである。そして、「ポスト・モダン」の闇は確かに闇である(ハイデガーの存在は闇だろう)。「トランス・モダン」だけが、真正の光である。

2007年09月01日 (23:26)

輪廻転生について、又は、Media Point的阿頼耶識(あらやしき)について:新輪廻転生仮説

Media Pointにおいて、超越論的同一性構造が形成される。これがフッサールの超越論的主観性の字義通りの意味である。(もっとも、フッサールは、実質では、超越性に達していた。)
 このMedia Pointにおける超越論的同一性構造(以下、超同構造)が同一性=物質現象界を発現させていると考えられる。可視界とは、この超同構造が現出させているのである。だから、カントは正しい。(ただし、主観性というよりも、ハイデガーのように存在においてと考えるべきである。もっとも、正しくは、Media Pointにおいてであるが。)「物自体」は超同構造に基づく限り、認識できない。
 物質とは、当然、「物自体」ではない。それは超同構造が把捉した現象に過ぎない。
 では、「物自体」とは何か。それは、端的にMedia Pointだと思う。世界、宇宙の「物自体」、本体、真如(しんにょ)とは、Media Pointである。汎Media Pointである。【だから、前ソクラテス期のタレスが、大気は神々に満ちていると言ったのは、正鵠を射ている。神々は、諸Media Pointsないしは、多Media Points、ないしは、Poly Media Points or Multi-Media Pointsである。だから、多神教の方が、一神教よりも、現象的には、正しいのである。一神教は唯一のMedia Point, the One Media Point, the Only Media Pointを説くことになるが、それは、イデア界としての即非差異としては言えるかもしれないが、それはMedia Pointではなくなる。だから、超越界の即非差異を唯一神、そして、Media Pointを神々とすることは可能であろう。しかし、私の考えでは、唯一神とは、Media Pointを指しているので、多神教的である。D. H. ロレンスは、瞠目すべきことに、聖書の神は多神教的であると自信に満ちて唱えている。考えれば、ヤハウェとエローヒーム(神の複数)が存しているのである。だから、聖書の神とは、Media Pointの神々ではないだろうか。これは、ギリシア神話の多神教に通じるのではないだろうか。当然、八百万の神々にも通じよう。(p.s. だから、一神教において、混乱があるだろう。唯一神とは、本来、超越界の超越的即非差異であり、本来、静態的であるが、即非差異の中間に空虚をもつために、動態化すると私は考えている。しかし、聖書の神は、Media Point的なエネルゲイアの神である。それは、多神教でなくてはならない。つまり、一神教とは、超原点においては、正しいだろうが、エネルゲイアである Media Pointにおいては、誤りである。多神教的でなくてはならない。脱一神教化が必要である。そう、私は、以前から、ポスト・キリスト教西洋文明を唱えている。)】
 おそらく、諸Media Pointsが森羅万象、万有を満たしているのであり、単体において、一つのMedia Pointないしは複合したMedia Pointを知覚・認知しているのである。しかし、Media Pointに内在する超同構造によって物質現象が生起して、真実在、本体、真如、即ち、Media Point「宇宙」本体を認識できないのである。(もっとも、今日、天体観測技術の向上によって、宇宙の穴が発見されていて、それが、宇宙のMedia Pointであると想定できるのである。)
 物理学で言うと、量子力学あh,まだ、物質主義に囚われていて、量子の本体を捉え損ねていると考えられる。量子とは、素粒子とは、Media Pointの様相ないしは様態である。超・量子としてのMedia Pointである。(PS理論は、Media Point現象学とも呼べよう。)
 では、本論に入ろう。阿頼耶識(あらやしき)、並びに、輪廻転生とは何か。阿頼耶識とは、端的に、Media Point様相と言えるのではないだろうか。もし、阿頼耶識=Media Pointとするなら、Media Pointの記録・記憶性はどう説明できるのだろうか。(プラトンの想起説を思い出す。キルケゴール/ハイデガーは反復説である。オカルティズムでは、アカシャ年代記Akashic recordsに相当する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 )思うに、現象(界)は、Media Pointと他のMedia Pointとの交信によって生成消滅している。おそらく両者から電磁波等が発出されて、相互形成する。超同構造の光と別の超同構造の光との交信で、知覚・認知が生じる。問題は、超同構造におる感受性・感応性である。言い換えると、感覚とは何かである。それは物質に関係した同一性の感覚、光の感覚である。しかし、不可視の差異・身体がある。あるいは、端的に、Media Pointの発信する超・量子がある。光/闇の超・量子である。思うに、総体では、Media Pointは同一性を知覚・認知するだけでなく、光/闇の超・量子を「感受」している。意識と無意識と言ってもいい。
 具体的に考えよう。あるMedia Pointが、超同構造による同一性主義の自我によって、「悪」を他者にはたらくとしよう。このとき、自我と結びついている超同構造はMedia Pointのもつ即非差異共振様相を阻害、「傷つけて」いると言えよう。Media Pointの根本・普遍的な即非差異共振調和様相に対して、否定相が刻印されると考えられる。このような事態が阿頼耶識と共通することではないだろうか。ここでは、同一性中心主義(自我主義・利己主義)的な害悪を、Media Pointに印刻しているのである。その事象は無意識に形成される。これが業熟(カルマ)となると考えられるのである。あるMedia Pointの同一性=物質身体(肉体)が消滅しても、Media Pointは不滅であると思われる。時を経て(ハイデガーの用語を転義して使用すれば、時熟して)、Media Pointが新生・復活する。輪廻転生である。そのとき、過去世(過去生、前世)のMedia Pointの記録・記憶・「アーカイブ」・「情報」・蓄積が作動する。過去の借り、「負債」を支払うのである。
 では、どうして、「死」の様態で学ぶことができるのか。それは、死んだとき、Media Pointは超同構造を消滅させて、Media Point本体へと縮減・復帰する。そして、Media Point本体の意識(現世においては、無意識であった)が活動して、生存中、作った否定的刻印・蓄積を認識すると思う。即非差異共振調和という普遍的価値基準から、己の現象界(現世)における諸行為が吟味される。そして、「裁判」され、「判決」をされる。このMedia Point本体における「裁決」(自己裁決)による知・情報が来世へともたらされるということになると考えられる。こう考えると、Media Point的輪廻転生論は、仏教を超えている。仏教は輪廻転生から解脱(げだつ)を説くからである。
 ということで、今のところは、これで新輪廻転生仮説を提示したこととしたい。

参考1:
過去生の記憶
「生きがい」の夜明け

生まれ変わりに関する科学的研究の発展が人生観に与える影響について

飯田史彦(福島大学経済学部助教授)

商学論集第64巻第1号1995年9月より「はじめに」と「おわりに」を掲載し、本文については見出し部分を掲載したものである。


はじめに

私は、人事管理論を専攻する関係から、人間の「働きがい」や「生きがい」と呼ばれるもの、あるいは「幸せ感」について考えることが少なくない。とりわけ、最近では、各地で、「生きがいのマネジメント」というテーマで話をして欲しいと依頼されることが増えており、この命題の重要性がますます強まりつつあることを痛感している。

元来、私は「組織文化」すなわち「構成員に共有されている価値観」の研究者であるため、経営学の枠組みの中で、価値観の転換による働きがいの向上という観点から考察を進めてきた。つまり、「人間の価値観」をキーワードに、企業組織の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインド・コントロール」としてとらえてみたのである。

ところが、その研究過程で私は、経営者や管理職の方々が、ある共通した問題意識を抱いていることを発見した。それは、「労働意欲を高める様々な方法を実施してみたが、どれも表面的な技法にすぎないため、せいぜい、従業員に仕事が好きになったと錯覚させただけではなかったのか」という危惧である。そのため、彼らは、何らかの方法で従業員の価値観を深層から揺さぶり、既存の思考の枠組みを根底から覆すことによって、単なる働きがいの向上に留まらない本質的な変化を生じさせたいと模索しているのであった。

そこで私は、ある個人的体験を契機に知った待殊な情報について、試みに、各所でそれとなく話をしてみることにした。その結果、その情報を伝えた人々が、目を丸くし、時には涙を浮かべながら、真剣に聞き入ってくれることを発見した。ある経営者は、「それこそが私の求めていたものです。私は間違っていました。社員に何をしてもらえるかではなく、社員に何をしてやれるかという、すっかり忘れていた問題意識がよみがえってきました」とうなづいた。また、ある管理職は「ぜひ、部下ばかりでなく家族や知人にも教えてあげたい」と目を輝かせ、ある学生は、「これで何も怖くなくなりましたしこれからは下宿に帰って一人きりでいても、寂しくありません」と喜ぶのであった。

その特殊な情報とは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する遠年の科学的研究成果の内容であった。私は、人々にその情報を伝えることによって生じる効果の、あまりの大きさに驚いた。その情報を、ただ聞き手の先入観をなくしながら正しく伝えるだけで、人々は、職場における働きがいの意味をはるかに超えた、人生全体の「生きがい」や「幸せ」の意味について、根本的に自問し始めるのである。それまで、いかなる価値観変革の技法を駆使しても頑として揺るがなかった各人の自我が、劇的に固い殻を脱ぎ捨ててゆく光景を目前にするたび、私はそこに何か偉大なカの介在を感じないではいられなかった。

http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai3.html


参考2:輪廻転生google
http://www.google.co.jp/search?num=50&hl=ja&q=%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
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