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2009年03月04日 (13:55)

物質とは何か

先に、同一性=物質は仮象、幻像、マーヤーであると述べたが、そうすると、自然現象や身体もそういうことになってしまう。たとえば、内臓もそうなる。血液の流れもそうなる。それでいいのか。物質科学はどうなるのか。つまり、酸素と水素が結合して、水になるが、それらは、すべて仮象、幻像、マーヤーになるが、それでいいのか。ここでは丹念に思考する必要がある。
Media Pointにおいて、差異共振像・差異共振性が存している。そこでは、同一性像が存している。つまり、差異共振像の中に同一性像が存するということである。以前、差異的同一性ということを言ったが、それと同じことである。
 思うに、Media Point の同一性像が差異共振鏡面(差異共振スクリーン)に投影され、反照されると考えられる。だから、同一性=物質とは、この同一性像のことであると考えられる。そして、この同一性像が仮象、幻像、マーヤーであるということになる。しかしながら、そうだとは言え、同一性自体は、一種の実質性をもっていると考えられるのである。
 ということで、同一性=物質とは、自然現象そのものの姿ではないが、部分的実質と考えられる。というか、同一性=物質とは、差異共振心象の同一性的側面、表層的側面、おそらく、より端的に言えば、光的側面である。そう、同一性=物質とは、差異共振像
の光的側面ないしは光現象ということができるのではないだろうか。あるいは、差異共振像の可視光現象と言えるかもしれない。
 とまれ、以上から同一性=物質は、仮象、幻像、マーヤーであるが、実質は、差異共振像の同一性・表層・光・可視光的現象であるということになった。
 そう、思うに、この同一性=物質の光・可視光が人間の理性を盲目にすると言えよう。正に、マーヤーに自己意識が囚われるのである。つまり、同一性光現象に視覚が囚われてしまい、本体である差異共振像を知覚できないのである。
 では、差異共振像とは視覚認識できるのだろうか。あるいは、それは、どういう「光」なのだろうか。それは当然ながら、これまで述べてきた超越光である。
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2007年09月24日 (20:46)

現象の外観とは何ぞ哉:超越的視覚美と現象的視覚美の対立:トランス・モダンとモダン

今は簡単に触れるが、現象の外観とは何か、ということである。私の経験からは、一般には、外観には、人間の内面が透けて見えることが多いが、いったい外観とは何を意味するのか。
 外観には内面・性格が透けて見えるという私の「視覚」的直観であるが、それは、何を意味しているのだろう。先に、超越光と現象光が融合すると言ったが、超越光で内面・性格を見ているように思われるのである。つまり、その人の精神の光(超越光)が、相貌として現われると思うのである。ペテン師の人間は、ペテン師の相貌が外見に浮き出るのである。
 思うに、この精神的視覚の無い人間には、当然ながら、精神の光(超越光)は見えないことになる。そして、近代合理主義は、精神を排除しているので、現象光の外観しか見ていないことになる。同一性中心主義である。差異認識が欠落しているのである。精神的盲目である。(思うに、今日、精神盲が何と多いことか。)
 とまれ、問題は、外観の美とは何かである。若い時は、肉体が確かに美的であり、年をとると肉体が衰えて、醜くなる。しかし、若さには、ほとんど、精神の美はない。
 とまれ、確かに、外観の美があり、それは精神とはまったく関係がないと言えよう。感覚美である。西洋近代は、感覚美を求めたと言えよう。ピューリタンたちの潔癖な綺麗好きがあるだろう。問題は、美醜の二項対立である。美を肯定して、醜を排除するという二項対立力学である。これは正に、同一性の問題である。美=同一性、醜=差異であり、醜は排除されるのである。
 これは、感覚感情的二項対立である。精神的知覚が欠けているのである。つまり、感覚感情欲望が、美=同一性、醜=差異の二項対立を形成するのである。例えば、前者に白色人種、後者に有色人種を入れて考えればいいのである。感覚感情美とは、実に差別的である。
 先に二つの視覚があると言った。超越的視覚と現象的視覚である。そして、外観美には現象的視覚が関わる。近代合理主義において、現象的視覚=同一性的視覚が中心化して、超越的視覚=差異的視覚を否定・排除・隠蔽すると考えられる。外観美とは現象的視覚=同一性的視覚の欲望に囚われたものであり、その二項対立的力学によって、超越的視覚=差異的視覚による精神的美を排除すると言うことができる。
 ということで、外観美とは、差異哲学から見ると、危険なものである。現代の化粧中心主義は、悪しきものである。それは、近代主義そのものであると言えよう。
 視覚、二つの視覚があるのである。超越的視覚と現象的視覚である。前者を取り戻さないといけないのである。イタリア・ルネサンスは、両者が混淆していたのである。近代合理主義は、超越的視覚を排除してしまったのである。近代・現代の美術は、超越的視覚を取り戻そうとしたが、モダニズムという概念によって、再発動した超越的視覚を明瞭・明晰に把捉することを妨げられて、美術は混乱してしまった。これは、文学や音楽にも言えることである。
 以上で、本稿の問題は解明されたこととしたい。

2007年09月09日 (23:56)

二種類の「目」について:超越的差異的「一(いつ)」的ヴィジョンと連続的同一性形相形象:視と観

今は簡単に触れるに留めるが、この問題は夢のヴィジョンから発したことである。日常における視覚とは別に、夜見る夢の「視覚」はどこから発しているのかということである。
 私は比較的よく夢を見る方なので、このことを考えるのである。私は夢や深層の視覚をヴィジョンと考えてきた。ここで、プラトニック・シナジー理論から見ると、イデア界・超越界において、超越的差異のヴィジョンがあるだろう。それは、イデアのヴィジョン(イデア・ヴィジョン)である。超越光のヴィジョンである。その「視覚」を視と呼ぼう。
 それに対して、Media Pointから同一性が形成されるときのイメージ・形象がある。このときの視覚を観と呼ぼう。通常は観の視覚で生活しているのである。この観であるが、これは、Media Pointの超越的差異の「一(いつ)」(=イデア)のヴィジョン・視を否定(抑圧)して、連続的同一性=形相=物質現象の形象を作ることから生まれるものと考えられる。
 超越光的ヴィジョン(イデア的ヴィジョン)を否定・抑圧して、通常は現象界を観ているのである。しかしながら、抑圧されているMedia Pointに回帰すると、超越光に接するのである。超越的差異の「一(いつ)」=イデアのヴィジョンに接するのである。(思うに、霊spiritと呼ばれるものは、このイデアのことと考えるべきだと思う。魂も同じである。この点は後で検討したいが、ひとこと言うと、オカルティズムはイデアを連続的同一性=物質の形相と一致させていると考えている。だから、霊的唯物論という錯誤した思想が発せられるのである。ドゥルーズの差異もこのようなものに近い。そう、ドゥルーズの哲学はオカルティズムに近いと思う。)
 このとき、視覚は観から視へと変換するだろう。というか、観の基底である視へと回帰すると言えよう。すると、視覚は二重となるだろう。視と観の視覚である。「霊視」と肉眼である。もっとも、Media Pointへの回帰が純粋でないと、混乱・混濁・汚染・錯視・錯覚が起るのである。連続的同一性の観と超越的差異の「一」の視とを混合して見るのである。(これがオカルティズムであろう。ルドルフ・シュタイナーの人智学はこのようなものだと思う。危険である。それが、それなりに優れた発想はもっていても、危険である。)
 同一性は同一性であり、物質として評価しなくてはならない。そして、差異は差異として評価しなくてはならない。そして、差異はMedia Pointにおいて、同一性=物質を包摂するのである。つまり、視は、Media Pointにおいて、観を包摂すると言えよう。そして、これが真正の視覚(造語して、視観とする)であると言えよう。
 この視観は、日常においては、同一性を精緻に見るだろう。しかし、同一性の観の背景として差異の、超越的差異の「一」のヴィジョンの視を秘匿している。そして、視観の融合したヴィジョン・イメージを形成するだろう。
 ここでプラトンのイデアとアリストテレスの形相について比較すると、プラトンのイデアは超越的差異の「一」性であり、アリストテレスの形相とは、連続的同一性における原型のことであると考えられる。当然、前者は形而上学的であり、後者は物質現象的である。両者の間には、Media Pointが媒介点として存しているのである。
 思うに、プラトンのイデアが同一性的原型として誤解されたのは、おそらく、プラトン自身の叙述の仕方が影響しているのではないだろうか。『国家』における、国家から詩人や芸術家を追放する、有名な言論であるが、そこでは、例えば(例が違うかもしれないが)、建物のイデアに対して、建築家とそれを描写する作家がいて、作家はイデアから建築家からも遠ざかっているとしている。このような叙述では、イデアを単に同一性的原型として考えられてしまうだろう。
 おそらく、そこでのプラトンの誤りは、作家もイデアから描出しうるということを述べていないことだと思う。toxandoria& Kaisetsu氏がミメーシスについての新説を出しているが、正に、ミメーシスの問題なのである。『国家』でのミメーシスは正に模倣であるが、それは、イデアの問題としてはふさわしくないのである。それは、アリストテレス的形相に近いのである。そうではなく、イデアをミメーシスすると述べれば、正鵠を射ていたといえよう。真正な芸術家も当然ながら、『国家』に入れなくてはならない。今はここで留めたい。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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