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2011年11月06日 (01:07)

悪の心性メカニズムについて

人間認識図(参照:以下の図)では悪は第四象限に位置するが、悪の本質をシュタイナーの悪魔論を参考にして考察してみたい。
 今は予見だけだが、一言言うと、悪は当然エゴイズムであるから、他者の認識がネガティブなのである。他者否定の自我意識がある。
 PS理論ではmedia pointの喪失である。他者との均衡の喪失である。
 結局、凹i(-i)が他者であるが、それが他者ではなく、連続的同一性化されていることに問題があるだろう。つまり、自我凸i(+i)と他者凹i(-i)が精神的フィルターによって、連続同一性化されているのである。つまり、他者が自我化しているのである。
 そのため、他者に属すものを自我が横取りするのである。それが悪である。
 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺がこの連続同一性化、連続同一性自我を意味する。
 凸(+1)は他者凹i(-i)を否定的に巻き込んでいるのである。他者を肯定するならば、それは、第三象限へ帰属するだろう。しかし、他者否定は連続同一性自我凸(+1)を意味するので、凹i(-i)が凸(+1)と融合させられた状態にあるだろう。だから、第四象限に位置するということではないだろうか。
 他者凹i のi回転が第四象限を影のように生むのではないだろうか。他者凹iの-i回転ならば、第三象限を生むことになるのではないだろうか。
 後で丁寧に検討したい。

追記:media pointの基本様態である差異共振と連続同一性は全く異なる。後者は前者を否定するのである。すなわち、自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺を意味し、凸i*凹i⇒を否定するのである。
 先ず、差異共振を見ると、それは凸iと凹iの拮抗、均衡である調和である。それは、母源凹(-1)からの創造エネルギーを受容するのではないだろうか。すなわち、凹⇒凸i*凹iである。ここには、氣が発生していると考えられる。
 しかるに、連続同一性の場合、それが否定される。差異共振ではなく、差異の同一性化である。
 思うに、同一性化とは、ガウス平面における右半円化ではないだろうか。極性が閉じられて、凸(+1)へと収束するのである。
 とは言え、その閉じられた自我、同一性自己は深部にmedia pointを秘めているだろう。media pointの「光の種子」を潜在させているのである。(これがマニ教の教義の根本にあるだろう。)
 しかし、連続同一性自己(自我)にとって、それは排除の対象である。
 とまれ、連続同一性自己は右半円領域を占めると考えられる。しかしながら、道義のある人間はmedia pointの差異共振性をもっているので、左半円領域をなんらか意識していると言えよう。
 唯物論が問題なのは、media pointを否定し、まったく左半円を否定してしまうことである。左派・左翼の問題はここにある。邪悪、悪魔的だ。近代合理主義もほぼ同様と言えよう。
 古典派経済では、まだ、道徳の余地があった。つまり、media pointが生きていたが、新自由主義となると、完全に道徳の領域が消えて、右半円中心となるのである。否、他者否定のために、第四象限的になると言うべきだろう。唯物論も同様だ。
 最後にもう一度、連続同一性の構造について考察しよう。
 同一性化とは、以前提起したが、凸i(i)が凹i(-i)に対して優位な場合の生じるのではないだろうか。つまり、凸i(i)傾斜があるということである。それが、他者凹i(-i)の差異を肯定できずに、同一性を押しつけて、所有化すると考えられる。この同一性の押しつけが、連続同一性であり、それが凸 (+1)に重なっているのではないだろうか。
 それに対して、凹i(-i)の傾斜が考えられるが、それは、差異をベースにする包摂を意味すると思われる。つまり、それは、凸i(+1) を包摂すると思われる。だからここでは、連続同一性化はなく、差異共振化が生じるのである。つまり、media pointの様態が生起することになる。
 ここから見ると、陰陽という命名は意義深い。陰が陽より先に来るのである。それに対して、欧米では陽が陰より先に来るのであり、そのため、連続同一性が形成されるのである。
 そして、それが結局、第四象限へと帰結するのである。つまり、欧米文明は邪悪、魔道であるということである。
 陰陽的東洋文明こそ、道徳的であり、正道である。
今はここで留める。

追記2:欧米の欧は西欧と見ないといけない。また、米であるが、それは、金融資本に買収された米国家である。


人間認識図

ガウス平面で表した人間認識の図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208
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2010年09月05日 (17:43)

検討問題:ダーク・マターと物質:傾斜を時計回り1/4回転と作業仮説する

1)ふと思ったが、物質の背後にダーク・マターがあるのではと思った。

2)アーラヤ識は、Media Pointではないか。

3)media pointにおいて、+実軸だけでなく、虚軸の凸、凹も知覚する。しかしながら、-実軸つまりマイナス1もなんらか知覚しないのだろうか。
 単純に考えて、マイナス1が根源であるならば、それが、Media Pointへと向かうことは考えられる。つまり、-1→media point→+1である。
 →media pointの→とmedia pointの「交点」において、知覚できるのではないだろうか。それは、物自体としての-1ではないのか。物質+1は、エネルギーの終点である。それは、滓、抜け殻のようなものである。
 例えば、樹木ならば、樹木として、感じる実体、身体は、物質+1ではなくて、物自体としての-1ではないのか。もっとも、凸iを認識、凹iを物自体と考えることもできるが、それは別の議論になるが、興味深い。
 こちらの線に切り替えて、考えてみよう。差異共立を薄明とすると、-1は、根源的闇となるだろう。そして、差異共振が光である。
 そして、光の下、対象を物質としての認識する。しかし、対象は凹iであるが、それを+1と認識するのである。つまり、虚数としての物自体があるということである。
 では、-1は何か。これこそ、不可知の存在ではないのか。ロレンスのdark Godではないのか。あるいは、dark sunである。
 そうならば、どうして、ロレンスはそれを直感できたのか。どこかに、センサーがなくてはならないだろう。ロレンスは、dark God が下から入る神であると述べている。そうならば、凹iに関係するだろう。
 先に思考実験したように、凹iは-1と関係するのではないだろうか。そして、凸iが+1と関係するのではないだろうか。
 人間において、男性の場合は特にそうであるが、凸iに傾斜している。だから、凸i=+1という自我・同一性・物質認識が生まれるのである。
 ここで作業仮説を立てるが、傾斜を時計回り1/4回転とする。そうすると、凸iは+1となるのである。そして、凹iは-1となるのである。つまり、傾斜力学が入ることで、凸iは+1と一致し、凹iは-1と一致するということになる。
 そうならば、ロレンスがdark Godを凹iで直感することができたのは、当然と言える。
 ならば、物自体において、ダーク・マターが直感できるということになるだろう。
 今はここで留める。

追記:そうならば、アーラヤ識は、-1=凹iに存するということになるだろう。

阿頼耶識

阿頼耶識(あらやしき、Skt : ālaya-vijñāna आलयविज्ञान)は、大乗仏教 の用語。

サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。また「蔵識」(藏識)「無没識(むもつしき)」とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

唯識 思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 ・末那識 ・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālaya の語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子 を内蔵していることから「蔵識」とも訳される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが、これは ālaya の類音語 alaya に由来する異形語である。法相宗 では、心は阿頼耶識までの八識 とする。天台宗 では阿摩羅識 を加えて九識 、真言宗 ではさらに乾栗陀耶識 を加えて十識 とする。

はたらき [編集 ]

ある人の阿頼耶識は、蔵している種子 から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習 (くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那 に生滅しつつ持続(相続)する。

この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。諸法の種子を内蔵している点からは「一切種子識」(sarva-bījaka-vijñāna)、過去の業の果報<異熟(いじゅく)>として生じた点からは「異熟識」(vipāka-vijñāna)、他の諸識の生ずる基である点からは「根本識」(mūla-vijñāna)、身心の機官を維持する点からは「阿陀那識」(ādāna-vijñāna、「執持識」/「執我識」。天台宗 では末那識 の別名)と呼ばれる。
法相宗の説 [編集 ]

唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟り の諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。

* 阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 唯識述記 2末

三種の境 [編集 ]

1. 種子 (しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
2. 六根 (ろっこん) 眼耳鼻舌身意の六根。俗に言う「六根清浄 (ろっこんしょうじょう)」とは、この眼耳鼻舌身意が清浄になるように唱える言葉。
3. 器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。

阿頼耶識は、常にこの3種を所縁 の境とする。
心 [編集 ]

心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子 を集め、諸法を生起するので、心という。

* あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 唯識論 3
* 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。唯識述記 3末

阿頼耶識と文学 [編集 ]

三島由紀夫 の絶筆となる『豊饒の海 』(第三巻『暁の寺』)において主人公が一旦傾倒した思想であるが、その後インド のガンガー 川畔の巨大な火葬 の町ベナレス(ワーラーナシー )のガート での火葬風景を見て、途方もないニヒリズム に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に耐えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。

『暁の寺』には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。

三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学 をいともたやすく、一瞬にして微塵もなく破壊したのである。



◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆

8.人生を演出する阿頼耶識

前項で、過去一切の行為を洩れなく記録し(種子として)溜め込んでいる心を、唯識は阿頼耶識と名付けている事を申し上げました。そして、過去一切と言うのは、私が母の胎内に生を受けた瞬間から現在までだけではなく、私に命を伝えた両親、そのまた命を繋いで来た無数の祖先達、遡れば、地球上に生命が誕生したと言われる30億年にものぼる過去を蔵しているのが阿頼耶識だと捉えてよいとも申しました。

しかし、30億年もの行為の記録と言われましても、残念ながら、それらが何かを私達は知ることは出来ません。どんな種子(しゅうじ)が溜めこまれているかが分からないのが深層無意識領域の阿頼耶識だからです。物心がついてからの記憶は勿論溜めこまれているでしょうが、どのような種子として溜めこまれているかは窺い知ることは出来ません。たとえば、他人とケンカした場合、相性の悪い人物像と言う種子として溜めこまれるのか、ケンカとなった原因を種子として溜めこむのか、ケンカの要素全てを種子として溜めこむのかは分りませんが、分らないことも含めて、過去の行為・経験を種子として溜め込んでいるのが阿頼耶識であると考えると、私と言う存在を考察する上での辻褄が合うと、唯識は考える訳であります。

また、こうして今私がこの唯識の世界を書いている瞬間も、私の阿頼耶識の内容は刻々と変化しています。これを唯識では「恒に転ずること暴流の如し」と、阿頼耶識は過去一切を蔵しながらも激しく変化し続けているものであると考えます。

そして、阿頼耶識はあらゆる行為を種子として溜めこむだけではなく、現在を生み出す源であると考えます。これが『種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)』と言う阿頼耶識のもう一つの働きです。前項の『現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ)』とこの『種子生現行』は、表裏一体のものと言えます。どちらが後でも先でも無いと言うものです。

表題を『人生を演出する阿頼耶識』と致しましたが、私達の人生をドラマと見たてたばあい、阿頼耶識は陰に隠れた脚本家であり、演出家のようなものだと思えるからであります。テレビドラマは、小説の原作者が居て、それをドラマ化する脚本家、そしてそれを俳優の演技に展開する演出家が居て始めてドラマ化されます。私達の人生を一つのドラマと仮定致しますと、脚本家と演出家は、阿頼耶識と末那識が担っており、私達はドラマの行く末を知らされないままに演技させられている人生の俳優であると言っても良いのではないでしょうか。と考えますと、人生の原作者は仏様でしょうか。

~阿頼耶識は人柄を作り出す~

人間の風格とか品性と言うものは急に作られるものではありません。コツコツと積み上げた身口意の三つの行為が阿頼耶識に薫習(くんじゅう)されておのずから具わって来るものである事は、人に感じる印象を思う時、納得出来るような気が致します。皇室の方々のもの静かで慎ましやかな物腰とお言葉は演技ではなく身に染み着いたものでありましょう。一方、犯罪を重ね人生の裏街道を歩み続ける暴力団は一目で分るような気が致します。医者には医者の匂いがあり、学者には学者の匂いを何となく感じます。賄賂に手を染めた政治家には、それなりの風貌を感じるのは私だけではないと思います。

これは、阿頼耶識に溜めこまれた種子(しゅうじ)が、我知らず表面に滲み出たものであります。阿頼耶識がその人の人格・風格を作るということは理解出来ると思いますが、恐ろしいのは、そうしてにじみ出る自分の匂いが自分には分らないということです。人にはそれぞれ、明るい人や暗い感じの人、清潔な感じの人や不潔な人、謙虚そうな人、高慢な感じの人が一見して他人には感じられますが、本人には分りません。「そんな積りではないのに」と言う事になりましょうが、この滲み出る匂いは無意識層の阿頼耶識から滲み出ると考えれば自分では分らないと言うことは納得出来るのではないでしょうか。

~阿頼耶識が世界を作る~

私達は、私以外の外の世界は、私とは別に存在しているように思っていますが、実は私の阿頼耶識が私の外の世界を作り出している、こう唯識は考えます。自分の感覚・知識を信じ切っている私達現代人にはなかなか理解出来ないことではありますが、以下の説明を聞けば、何となくそうかも知れないと思えるのではないでしょうか。

私達の眼は、通常は空気中の小さなホコリ、ばい菌を捉えることは出来ません。しかし太陽の光線が部屋に差し込む具合によりましては、沢山のホコリが見える時があります。もし、私達の眼が顕微鏡のような高感度のものでしたら、恐らくは、ばい菌とホコリだらけの世界が眼に映り、とても生きてはゆけないかも知れません。

音についても、私達の聞こえる音の周波数とイルカやコウモリとはかなり異なります。聞こえない音があるから静かに眠ることが出来ているのかも知れません。匂いも、犬は私達の何倍かの嗅覚力を持っていると聞きます。また大地震の前にはある種の動物が予兆を感じ取ると言う話もあります。

こう考えますと、世界は、私達が思っている通りの世界ではないと言うことになります。私達が世界と思っている世界は、私が私の能力で捉えている世界であり、真実の世界ではない、即ち、世界は唯(ただ)私の識(心)が作り出しているものだと言うことになります。

同じ人間でも、人に依って世界は異なります。前にも例として上げましたが、テレビに映る同じ人物を、私は吉永小百合に似ていると思うけれども、私の妻は全然似ていないと言うことがあります。私の認識している吉永小百合と、妻の認識している吉永小百合が異なる像として阿頼耶識に記録されていると言うことだと考えられます。

ピカソの絵を見て、感動する人もいるでしょうが、人に依っては単なる落書きにしか見えません。同じ仏像の前を通っても、その慈悲心に溢れた眼差しに眼が釘付けにされる人もいれば、全く無関心で一瞥も与えないで通り過ぎる人もいます。同じ仏像でも、阿頼耶識に蓄えられた種子に依っては見え方が全く異なると言うことになります。更には、ある人には存在している仏像が、他のある人には存在しないと言うことになります。

極端な話ですが、人間が見ている世界と犬が見ている世界とは目線が違いますし、犬には色彩感覚がないと聞きますから、全く世界は異なるものでしょう。犬にはお星様は見えないでしょうし、宇宙の存在は思いも及ばないでしょう。

私達は、阿頼耶識に溜めこまれた種子によって、一人一人異なる世界を作り出していると言ってもよい、そう唯識は考えるのです。

~阿頼耶識が人生を演出する~

何度も申し上げました「阿頼耶識と言う実体的なものは無い」と言う事を前提としての事でありますが、人夫々に異なった阿頼耶識を持っています。阿頼耶識は変りませんが、その蔵(アーラヤ)に溜め込んでいる種子の内容が異なります。だから人夫々の人生が現出していると言ってよいでしょう。

一流企業の社長・会長にまで上り詰めた人や、総理大臣と言う日本のリーダーだった人達が、司法の裁きを受けて牢獄で人生の最終章を迎える、そういう人生もあれば、雨露さえ凌げないあばら家で独り暮らしながらも、生も死もない自由を満喫しつつ、近隣の人々に愛され慕われ、惜しまれながら一生を終えた良寛様のような人生もあります。

私は、この千差万別の人生は、阿頼耶識に蓄えられている種子の内容の千差万別から生じていると考えます。別の言い方をしますと、阿頼耶識の中には価値観に結び付け得る種子の集合領域があるのだと考えます。価値観とは「人生で何が一番大切か」と言うことでありますが、これは無意識の領域だと思います。人間は常に「人生で何が一番大切か」を自問自答しながら生きているものではありません。しかし一瞬一瞬現れる言動は、無意識のうちに価値観によって支えられているのだと思います。そして、その一瞬一瞬の言動が人生を作ってゆきます。即ち、唯識的に言いますと、阿頼耶識が人生を陰で支えている、演出していると言えるのではないかと思います。

阿頼耶識は無意識層にあるだけに、自分では如何ともし難いのが人生であると言うことになりますが、唯識はだからこそ、阿頼耶識に溜めこむ種子を変えてゆこう、溜めこむ種子を変えれば、人生は変えられるのだと説きます。凡夫の生活から悟りの生活に変革出来ると説きます。

この心の変革過程に付いても、唯識は素晴らしい理論を持っています。それはもう少し後の勉強となりますが、これまでも度々引用させて頂いた下記の言葉は、阿頼耶識に薫習(くんじゅう)する種子を変えてゆくと、人生は変ると言う歌だったんだなと思うことであります。

心が変れば態度が変る、態度が変れば行動が変る
行動が変れば習慣が変る、習慣が変れば人格が変る
人格が変れば運命が変る、運命が変れば、人生が変る

http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki08.html

2010年09月03日 (11:08)

随想:凸iの知性について:直観と言語:同一性・類の発生力学について

先に、凸iの知性とは直観的知性であると述べ、それと同一性である言語と結びつくといようなことを述べた。直観的知性は自己知的差異であるが、それが言語同一性とどう結びつくのか検討したい。

 凸iの超越的主観知性が、凹iの超越敵他者を認識しようとするとき、そこには、同一性が形成されるのである。これは、精神的フィルターに拠ると言える。Media Pointにおいて、虚軸から実軸へと変換するとき、同一性が発生するのである。

 思うに、このMedia Point変換(MP変換)における精神的フィルターの機能には、言語形成もあると考えられる。なぜなら、同一性とは言語であると言っていいからである。(ここで、音声言語と文字言語の問題があるが、同一性は前者に関わると考えられる。これについては、先に文字言語について論じたときに説明した。)

 例えば、主観凸iが対象凹iを認識するとき、いわば、言語同一性変換が発生するのであり、凹iは言語同一性化されるのである。もっとも、丁寧に言えば、言語同一性形成の前には、鏡像形成があると考えられる。つまり、端的に、同一性像である。MP変換において、同一性像が形成され、それが言語同一性へと進展すると考えられる。

 鏡面はどこに存するだろうか。おそらく、Media Pointの実軸側に形成されると思われる。即ち、MP2である。⇒で言うと、その先端であろう。その鏡面に主体は差異自己を投影するが、そのとき、差異自己から同一性自己へと転換すると思われる。

 そして、このいわば、同一性鏡面に次々に外的差異対象が反照して、主体は対象を言語同一性化すると思われる。

 では、本題の類概念であるが、それは、どのように発生するのか。言い換えると、(言語)同一性の発生力学とは何かである。これは、イデア論の問題である。馬のイデア、花のイデア、等々である。これは、エイドスの問題だと思う。以前にも述べたが、あるとき、深山に行ったとき、窓外の山が山のイデアに見えたのである。

 思うに、イデアとは映像、イメージ、ヴィジョンに関係すると考えられる。鏡面を考えよう。鏡面には外的対象が入るが、それは、同一性形象である。しかしながら、Media Pointとは、虚軸性=超越性があるので、その鏡面の同一性イメージは超越性を帯びると考えられる。また、Kaisetsu氏のVector Mode論からわかるように、超越力学からイメージが生まれるのである。つまり、鏡面の同一性イメージであるが、それは、本来、内的イメージのはずである。つまり、内的イメージを鏡面に投影して、外的イメージを確認するのではないだろうか。結局、内的イメージ、超越的イメージ(ヴィジョン)が、類概念の原型ではないだろうか。それが、プロト言語であり、それが、MP変換によって、言語同一性化されると思われる。内的イメージを残しているのは、文字言語、象形文字、表意文字であり、音声言語は、同一性と結びつくと思われる。

2010年09月02日 (13:23)

個について:その2;直感(直観)的知性と言語的知性

個について:その2;直感(直観)的知性と言語的知性

先に、凸iは同一性であり、凹iこそが絶対性ではないのかと指摘したが、それは、極論であり、ここで修正したい。
 結局、知性、本当の知性とは凸iに存するのであり、それは、凹iと極性を為していて、双極的知性というべきである。それに対して、凸i=+1の自我的同一性の「知性」とは言語的知性であり、真理ではないと考えられる。それは、いわば、道具的知性、つまり、技術的知性に過ぎない。(ハイデガーの現存在の知性はこれに過ぎない。つまり、近代的合理性である。)
 つまり、本来の知性凸iは、凸i=+1の言語的知性を道具・手段して、思考するのであり、後者は「従者」に過ぎないのである。しかし、近代合理主義はそれを「主人」にするという倒錯を犯したのである。
 結局、凸iはロゴスであるように示唆したがそれは誤りであるので、ここで訂正したい。ロゴスは凸i=+1に存するのである。真の知性は凸iにあり、それは、凹iと「交流」(intercommunication)して、「如来」、「般若」となるのである。
 この問題について、これまで、かなり疑問を感じていたが、真知性を凸iとし、道具的知性を凸i=+1とすることで、明快になったと思われる。言うならば、近代合理主義は似非知性である。

検討問題:「個」とは何か
鳩山前首相や菅首相他を見ていると、ころころ変わる。これは、個がなく、状況の力学に押し流されているからだと考えられる。
 いったい、個とはPS理論からどう説明されるか、というよりは、再確認になるだろう。
自己体は凸iであり、他者凹iと対になって、いわば、対極、両極、双極的自己を本源的に形成していると考えられる。個というとき、それは単に自己体凸iを指すのではなく、凸i*凹iの双極的「自己」を指すと考えられる。
 思うに、近代的自我は凸iを抑圧しているが、逆にそれに、ある意味で支配されているだろう。つまり、凹iを感知していないために、その力動に支配されると考えられる。つまり、個を自己双極体(凸i*凹i)とすると、近代的自我(近代合理主義)は、凹iを抑圧して、凸iを中心化しているので、自己双極体の力学の凹iの反動力によって無意識に支配されることになるのである。だから、権力のある他者凹iに対して、近代的自我は無意識のうちに動かされて、自我意識をもつのである。自我意識とは、凸i=+1という錯誤的意識である。
 この点の力学について正確に洞察する必要がある。
 つまり、近代的自我(近代的合理主義)の場合、凸i=+1(同一性=物質)という錯誤様態にある。即ち、本来、精神的なもの(差異)が、物質的なもの(同一性)と一致しているという誤謬様態にあるのである。当然、凹iは抑圧されて、無意識である。そこで強大な権力に対して、近代的自我は、保身となり、それを不合理に受容するのである。それは、無意識的に行われる過程と言えよう。いくら、自我意識が理想・理念をもっていても、近代的自我は同一性=物質主義なので、強大な権力には卑屈に服従するのである。それは、同一性=物質的権力力学と言っていいだろう。
 だから、もし、近代的自我ではなく、自己双極体を意識、認識していれば、自己は絶対的差異である、強大な権力に屈しないと考えられる。つまり、自己双極体意識とは個的意識、個的自己意識であると考えられる。なぜなら、凸iよりも、凹iの方が絶対的であるからだと思う。それは、全体的、普遍的とも言えよう。それに対して、凸iはロゴス(言語)的であり、もろいのである。途中。

2010年08月28日 (19:54)

思考実験:先進波と遅延波:光と暗黒物質:凸i*凹iのゆらぎと、凹i傾斜のダーク・エネルギー

Kaisetsu氏は、光と時間の極性を述べているが、それは、先進波と遅延波の視点から生まれたのである。
 光が遅延波として、Media Pointを、いわば、透過して、現象界に到達するのであるのに対して、時間はそれに逆行するのである。とまれ、先進波は光とは逆向きと考えられるので、Kaisetsu氏が指摘するように、暗黒物質において、通常の時間が逆転していることが考えられる。
 結局、MP1の差異共立態において、光と闇が共立していると考えることができるのであり、光は遅延波となり、闇は先進波となるのではないのか。(正確に言えば、原光と原闇の共立態であるが、思考実験的にそのように記述する。)
 ここで直感で言うが、光=遅延波が主導的になったときに、プラス1(物質)へと転換し、闇=先進波が主導的になったときに、マイナス1(暗黒物質)となるのではないだろうか。
 光と闇は極性であるから、物質と暗黒物質の両者を形成すると考えられる。問題はここでも光現象である。光とは同時に闇となるはずである。つまり、凸iの光と凹iの闇である。光に質量がないのは、それが、凸iだからではないだろうか。この辺の問題は検討課題とする。
 結局、MP1の差異共立態において、光凸iが主導的になると、プラス1の物質現象を生み、闇凹iが主導的になるとマイナス1の暗黒物質現象を生むのではないだろうか。
 しかしながら、現代物理学、現代天文学の観察からは、暗黒物質の傾斜が優位なのである。そうならば、凸i傾斜ではなく、凹i傾斜が宇宙にはあるのではないだろうか。
 いろいろ言いたいことがあるが、結局、光と闇は双子であるが、実際は後者に傾斜しているということではないだろうか。
 しかしながら、理論的に考察するならば、差異共立とは極性であり、常時変動していると考えられる。単に凹i傾斜だけではなく、凸i傾斜もあるのである。あるいは、ゆらいでいるのである。
 だから、宇宙の膨張とは、凹i傾斜に拠るであり、凸i傾斜に転ずるときは、収縮となるはずである。つまり、凸iが重力を、凹iが反重力を意味するのではないだろうか。
 この方向で考えると、根源は虚軸にあることになるだろう。つまり、凸i*凹iである。そして、先進波と遅延波を入れると、凸i*凹i⇒±1となることになる。
 そうならば、左辺において、凹i傾斜のときが、ダーク・エネルギーとなるのではないだろうか。通常のエネルギーは凸i傾斜である。

2010年08月01日 (02:46)

検討問題:Media Pointの力学に関して

1)差異共振と差異共立について:

先に、差異共立が差異共振に含まれていること、あるいは、差異共振の前提にあることを述べた。
 問題は、凸iと凹iとの関係である。凸i=凹iとなるのだろうか。例えば、凸iを「わたし」、凹iを「池」としよう。「わたし」は「池」であるというのは、あり得る知覚である。凸i「わたし」=凹i「池」である。もっとも、同時に、凸i「わたし」≠凹i「池」である。
 先に、「わたし」=「池」の等号は同一性であるとして、問題視した。この点について、熟考したい。
 いったい、差異1「わたし」は差異2「池」であり、且つ、「池」ではないというのは、前半において、差異1と差異2の同一性を述べているのだろうか。
 それは、端的に同一性である。そして、即、同一性ではないと否定するのである。つまり、同一性と非同一性との共立がそこにはあるのである。
 だから、 即非、ないし、差異共振には、同一性・即・非同一性という論理があると言える。
 それに対して、差異共立、あるいは、生成門氏の反共振においては、差異1「わたし」と差異「池」は、一如の様態になっていると考えられる。「わたし」は「池」と一(いつ)である。しかし、「わたし」は「わたし」であり、「池」は「池」である。
 以上のことは先の確認である。 
 

2)情感・感情について:

これは、性質上、論じにくいが、理論化する必要がある。とまれ、用語は情感/感情としておく。
 いったい、情感/感情とは何か。それは、主体と他者との関係様態の一つであろう。例えば、「わたし」が「海」を見て、その深い紺色に感銘を受けるとしよう。この感銘が情感/感情である。
 それは、差異共振のときがあるし、あるいは、差異共立の場合もあるだろう。前者の場合、「わたし」は「海」であり、且つ、「海」ではない。後者の場合、「わたし」と「海」は一である。
 共振ないし共立の様態に情感/感情があると言えよう。しかし、どこかに、感じる「器官」がなくてはならない。
 直感では、もし、凸iが能動性、凹iが受動性をもつならば、当然、凹iに感じる「器官」、情感/感情の「器官」があることになる。とりあえず、そう作業仮説しよう。
 差異共振、差異共立が生起したときのエネルギーを凹iは、情感/感情として捉えるということになろう。凸iはそれを知覚するが、感覚はしないだろう。情感/感情の主体は凹iにあるからである。
 いちおう、以上で説明はつくが、他の仮説として、凸iと凹iの共振・共立において、Media Point自体が情感/感情の主体となるということも考えられよう。要するに、感受性の「器官」の位置の問題である。
 思うに、差異共振ないし差異共立の様態において、差異相関が形成されたときに、情感/感情が生起することは確かであり、共振、共立のエネルギー様態の感覚が、情感/感情ということではないだろうか。
 だから、情感/感情の「器官」とは、Media Pointであり、また、凸i、凹iと言えるだろう。つまり、トライアッド(三一体)が「器官」になっているということも言えよう。
 問題は、近代合理主義は、連続性が中心化されて、差異共振、差異共立のもつエネルギー様態の情感/感情知覚を排除してきたのであり、人間の生を抑圧してきたと言えよう。
 脱連続性において、抑圧されてきた情感/感情が復帰するのである。ただし、これは、不連続性をもつので、連続性である近代合理主義の知は知として、保持されると言えよう。
 
 
3)脱連続性の反転の力学:

先に、初期近代においては、連続性が積極的であったが、後期近代においては、反動的になるのと述べた。この力学を明確にする必要がある。
 先に指摘したが、連続性は差異共振で、つまり、差異の牽引様態ではないかということである。わかりやすく言えば、対の差異が引きつけ合い、連続化して、同一性(物質)を産み出すということである。
 それに対して、対差異に斥力が反対に作用するようになると考えられるのである。これが反共振であり、共立様態とマイナス1をもたらすと思われる。
 つまり、初期近代とは、対差異の牽引力がはたらき、共振化して、連続性と同一性をもたらした。しかるに、後期近代においては、対差異の斥力がはたらき、反共振化し、共立とマイナス1をもたらす脱連続性の志向性をもつのであるが、しかしながら、それは、初期近代の連続性と衝突することになり、混乱、混沌がもたらされると考えられる。
 混乱、混沌となるのは、連続性と脱連続性とはまったく異質な作用であるからであり、両者は通約(共約)不可能だからである。そして、それを体現してしまったのが、ポスト・モダンである。
 とまれ、連続性と脱連続性とは、対差異の極性的力学に拠ると言えるのではないだろうか。もっとも、これは、検討課題であるが。


4)鏡像について:

今は簡単に触れるが、これは、差異共振において、同一性のフレームが生まれるが、このフレームが同一性のスクリーンとなり、それに本来、差異(凸i)である「わたし」を投影したものが鏡像であろう。これは、精神的フィルターで説明できよう。
 正確に言うと、差異共振は発光現象であり、その光が同一性のスクリーンに映り、鏡像となると考えられるのである。
 後で、精緻に考察を行ないたい。思うに、⇒+1の⇒の先端が同一性のスクリーンであり、そこに鏡像が映写されるのではないだろうか。


5)「わたし」ichとは何か:

これも簡単に触れるが、「わたし」は端的に凸iで説明できよう。シュタイナーのichはそう理解すべきだと思う。だから、日本語訳では、自我と訳されているのは、誤訳であると考えられる。

2010年07月18日 (02:21)

エッセイ:差異共立身体:不可視身体とダーク・マター:spiritual body/matter

直観で、差異共立とは身体ではないかと思った。
 即ち、凸i#凹iは、いわば、「肉」である。この「肉」は、不可視の「肉」である。だから、ダーク・マターないしダーク・ボディではないのか。
 これはどういうことなのか。つまり、差異共立とはある身体性である。そう、不可視の身体である。
 そうすると、気の身体、あるいは、クンダリニーの身体に通じるのではないだろうか。これはいったい何なのか。
 思うに、虚軸とは不可視的身体(以下、不可視身体)の領域ではないのか。つまり、dark body, unseen bodyではないのか。虚数とは不可視、darknessを意味しているのではないのか。
 つまり、不可視身体の極性(陰陽)を意味しているのではないのか。
 思うに、不可視身体とはマイナス1であり、その極性化が差異共立であるように思えるのである。
 ただし、差異共立は、原極性であり、卵の様態である。そして、これが賦活されると、差異共振(即非)化し、可視化、物質化へと進展するのではないのか。
 とまれ、差異共振(即非)化によって、不可視身体から可視身体へと転換するのではないだろうか。
 そう、光の誕生である。差異が連続化して、同一性(物質)の光となるのである。
 そうならば、ヘーゲル弁証法こそ、差異共振原理を説いた初出であろう。それは、光、同一性の原理である。差異共振原理である。即非の論理も、ドゥルーズの理論も、その延長と考えられる。
 しかし、PS理論は、トランス・ヘーゲル弁証法である。絶対的差異の共立を説いているからである。
 ここで、陰陽論について言うと、それは、やはり、差異共振(即非)の論理である。ヘーゲル弁証法である。
 結局、陰と陽とが絶対的差異、不一致であることがPS理論の要である。凸i≠凹iである。
 極性原理に変えて、共立原理を導入する必要がある。そして、共立原理こそ、不可視身体dark body, unseen bodyの原理であると考えられる。
 思うに、これは、一(いつ)の共立的分化ではないのか。一の不可視身体の共立分化的様態ではないのか。言うならば、一元論的二元論、二元論的一元論である。
 あくまで、二元論である。二元は不一致であるが、両者は一なのである。
 思うに、鈴木大拙が即非の論理で考えていたのは、このような共立的一元論ではなかったか。つまり、大乗仏教に拠りながらも、それを超える論理を考えていたのではなかったか。しかしながら、仏教の用語を借りたために、差異共振原理と混淆してしまったのではなかった。おそらく、それが正しいだろう。(西田幾多郎にしてもそうだろう。)
 本題に戻ると、思うに、マイナス1のダーク・マターが不可視身体=差異共立身体を産むのである。これは、-1⇒MP1である。この⇒が意味深長である。つまり、これが、不可視身体を意味しているからである。そして、これが、ダーク・エネルギーであろう。つまり、ダーク・マターからダーク・エネルギーが生まれるのである。そして、ダーク・エネルギーとはdark sun、霊的太陽であろう。
 ということは、森羅万象は、暗黒物質から生まれたということになる。つまり、神、神々は必要ないのである。というか、神や神々、神仏は暗黒物質から生まれたのである。
 思うに、D. H. ロレンスが『逃げた雄鶏(死んだ男)』で述べた宇宙の薔薇とは、不可視身体のことではないだろうか。そして、darknessとは、ダーク・マターのことだろう。
 しかしながら、darkとは、spiritually lightであろう。だから、ダーク・マターはspiritual matterである。

2010年07月17日 (22:44)

光とは何か:精神(霊性)の発現としての光?

今は余裕がないので、十分考察できないが、一言言うと、視覚は明らかに精神(霊性)と結びついている。つまり、内面と視覚が結びついている。
 これは、Media Point(MP)と結びついているのである。これまで、差異共振が発光現象であると考えてきたが、今やどう見るべきか。
 心の問題である。今はざっと言うが、より感覚的には、光はMP2に関係するだろうし、より精神的にはMP1に関係するだろう。つまり、光の知覚には二重性がある。
 外的な面と内的な面である。物質的な面と精神(霊)的な面である。
 しかしながら、問題点は、MP2の「心」に存する。ここでは、いわば、心と物質が連続化ないし混淆するのである。そう、自我の心とも言えよう。感覚であり、また、精神の二重様態がここにあるのである。
 わかりやすく言えば、音楽、例えば、バッハの音楽を聴いたとき、聴覚と精神「感覚」の二重性が喚起されるのである。
 私の考えでは、MP1を霊性SPIRIT、MP2を心魂SOULとするのがいいのである。
一般には、MP2まで感じられるが、MP1は希有である。それは、特異な時空間が必要であると思われるのである。
 光の問題に戻ると、この視点から言うと、光はMP1とMP2の要素があると考えられる。
 私は以前、超越光ないし超光と呼んだのは、当然、MP1の光である。それが、言わば、現象光となるMP2と連続化ないし混淆すると考えられるのである。
 当然、宗教的な光とはMP1である。しかし、近代合理主義、近代的自我の世界では、これは、否定されるのである。
 とは言え、ご来光を拝むとか、夕日に感動するというのは、MP1の光、超越光、超光を直感しているからであろう。そう、霊光と言ってもいい。
 結局、超越光、超光、霊光とは差異共振の様態にある差異共立の一如態の発現と考えられる。
 アフラ・マズダーやアマテラスはここに存するだろう。しかしながら、問題は、マイナス1である。
 差異共立を和として、ゼロとするなら、それは、虚軸ゼロ点であり、それがマイナス1と通じるように思われるのである。この論理は何か。
 これが難問である。これは保留にしておき、直感で考えよう。
 外界の対象の奥にあると思われる物自体であるが、それは、やはり、マイナス1であろう。つまり、本来、いわば、背後にあるものを正面奥に錯覚するのである。
 そう、やはり、-1⇒MP1ではないだろうか。そして、MP2において、MP1を直感するように、MP1においても、-1を直感するのではないだろうか。
 つまり、⇒の先端は起点と通じているということである。だから、MP1の超越光の奥に物自体があることになろう。
 それが、ダーク・マター(暗黒物質、不可視物質)であろう。そう、外的物質の本体とはダーク・マターということになるだろう。
 しかしながら、ダーク・マターのダークとは本当に闇なのだろうか。私はこれは、超超越光の可能性を感じるのである。
 先に霊的太陽はMP1であると言ったが、その根源に超霊的太陽があるのではないだろうか。
 プラトンの洞窟外の太陽(善のイデア)は、この超霊的太陽を意味しているのではないのか。
 ならば、アフラ・マズダーはそこに存するだろう。すると、MP1の霊的太陽とは、超霊的太陽の背面であるということではないだろうか。
 今はここで留める。

2010年07月16日 (21:51)

差異共振と差異共立について:即非再考

余裕のあるとき、本題について、詳述したいが、今は簡単に触れるに留める。
 先に、両者について区別したが、まだ、判然としない向きもあるので、緻密に考察検討したい。
 以前は私はMedia Pointにおいて、差異共振化が起こり、差異共振現象が生起するのであり、その後、差異共振様態が抑圧されて、同一性=物質が言わば分離されると説いていた。
 しかるに、最近は、私はMP1(虚軸のゼロ点)において、差異共立が生じ、MP2(実軸のゼロ点)において、差異共振が生じるのであると述べた。(そして、即非は両方に関わると考えた。)
 端的に差異共振とは何か。これは、一般的な意味での、即非と一致すると言えよう。即ち、A=非Aであり、且つ、A=A(又は、A≠非A)である。
 具体的な経験では、これまで何度も述べたように、「わたし」は「山」であり、且つ、「わたし」は「わたし」である。
 ここでは、差異があるものの、差異(「わたし」)は他者(「山」)と等価となることがあるのである。
 そうすると、これは、連続的差異である。
 とは言え、問題は複雑である。差異共振、あるいは、即非においては、不連続的差異と連続的差異との交互の変換が反復する(共振する)と考えられるのである。
 とまれ、連続的差異とは同一性であり、それが、差異を物質化させ、また、自己を同一性自己化(自我化)させるのである。また、言語はこの同一性の表現の道具であると言えよう。
 他方、不連続的差異ないし絶対的差異として、差異が存しているのである。凸iと凹iである。つまり、差異共振ないし即非においては、差異共立が内包されていると考えられるのである。
 ここで、さらに精緻になる必要がある。もし、MP2において、差異共振があり、そこに、差異共立も含まれるならば、それは、実際は、MP1に関わることである。
 そう、先に述べたように、MP1とMP2とは、即非様態であると考えるのが、的確だと考えられる。即ち、MP1=MP2であり、且つ、MP1≠MP2であるということである。換言すると、MP1はMP2と連続的であると同時に、不連続的であるということである。
 しかしながら、もし以上のようならば、つまり、差異共振において、差異共立が内包され、また、差異共立は差異共振と即非関係にあるというならば、MP1 とMP2との相違は何なのであろうか。
 それは、あくまで、MP1が主であり、MP2は従であるということであろう。あるいは、前者が優位であり、後者が劣位であるという位階関係があるということだろう。
 言い換えると、MP1にとっては差異共立が主であり、差異共振は従である。MP2にとっては差異共振が主であり、差異共立は従であるということになろう。わかりやすく表記すれば、MP1⇒MP2である。
 以上から整理するならば、差異共振=即非には、差異共立が含まれるが、それは、差異共立の優位、主なるものであることが前提である。
 また、ここで、先に、即非には、一如性があると言ったが、それはどうだろうか。A=非Aの連続的差異=同一性を一如性と言うことができるだろうか。
 鈴木大拙は一(いつ)であることを強調していたと思う。これは、連続的差異=同一性の一だろうか。どうもそのように考えられる向きはある。
 しかしながら、私の考える一如性とは、差異共立における一如性である。そこでは、「わたし」は「山」にならずに、両者が共立しつつ、一如様態にあるのである。
 もし連続的差異=同一性の一(いつ)を鈴木大拙が考えていたならば、それは、ポスト・モダン的である。ドゥルーズ的である。
 しかしながら、差異共振=即非には、差異共立的要素があるのである。というか、不連続的差異、絶対的差異性があるのである。つまり、不連続的差異(絶対的差異)と連続的差異との絶対矛盾があるのである。
 とは言え、その不連続的差異であるが、それらは、差異共振=即非において、共立しているのだろうか。
 そもそも差異共立とは一体何なのか。それは、不連続的差異、絶対的差異同士がいわば調和している状態である。
 差異共振の場合には、極性が強く作用するが、差異共立においては、極性はいわばゼロになっていると考えられる。
 思うに、ここには、差異を超越したより大きなものの力が働いているように思えないことはない。
 そう、ここには、全体の視点があると考えられる。この全体が一如性に関係すると思えるのである。
 では、どこから全体性の視点が生まれるのだろうか。これは、保留にしておく。
 とまれ、差異共立に戻ると、それは、差異が均衡している様態であると考えられる。平衡状態である。D. H. ロレンスの言う聖霊=王冠の和解の様態に通じると言えよう。
 やはり、それは、ゼロ様態であり、卵の原初的様態と言えるだろう。それは、母胎内に近い位置にあると言えよう。
 ここで、先の問を考えると、このゼロ様態が原初の全体を喚起するのではないだろうか。神話的にはウロボロスを指すと言える。
 そう、また、卵とは端的に身体である。つまり、差異共立的一如態には、身体性があるということになる。
 そして、この身体ないしは原身体とは、先に示唆したように、マイナス1のダーク・マターから発しているように思えるのである。つまり、虚軸ゼロ点において(実軸ゼロ点ではなく)、マイナス1と通じるように思えるのである。
 つまり、こういうことではないだろうか。実軸ゼロ点は、プラス1(物質)と結びつくが、虚軸ゼロ点は、マイナス1(ダーク・マター)と結びつくということではないだろうか。
 そう、生成門氏が述べた反共振=共立、即ち、凸i*(-凹i)⇒-1 ではないだろうか。今はそう考えよう。

2010年07月12日 (21:39)

Spiritとは何か: Was ist der Geist?:Spiritual Earth

差異共立一如態(MP1)とは、瞑想やその他のときに生起する。
 これは、凹iを肯定して、凸iとの均衡を意味しよう。差異共振のときは、揺れ動きがある。
 直感では、差異共立様態のときに、霊精が感得されるのである。
 共立を和立、和交、和共と言おう。和立の静態において、感受性が生じて、ある霊精を感得するように感じられるのである。
 では、この和立の感受性と霊精との関係は何か。Kaisetsu氏が共立は和であると述べていることから、ゼロ度の感受性と言えよう。凸i+凹i=ゼロである。ならば、+1+(-1)もゼロである。
 これは、作業仮説であるが、共立=和立=和共のときは、実軸のゼロと、「共立」するのではないだろうか。それとも、融合であろうか。
 とまれ、MP1の差異共立のゼロは、MP2のゼロとなんらか交接しているのではないだろうか。
 というか、ゼロ状態である点で、両者は一致すると考えられる。
 つまり、虚界と実界が一致するのである。思うに、これこそ、聖霊的ゼロ・ポイント、あるいは、聖霊点と言えるのではないだろうか。
 ここで、私の経験から言うと、ある対象に、霊精を感じるとき、例えば、樹木や岩石に霊精を感じるとき、その霊精とは、-1の物自体、ダーク・マターではないのだろうか。
 つまり、聖霊点を介して、対象の樹木、岩石の+1に物自体、ダーク・マターの-1を直感しているのではないか。
 ならば、霊精とは、マイナス1、物自体、ダーク・マターである。
 霊的感覚は確かに、差異共立一如態MP1に存するが、霊精はどこに存するのかと考えていたのであるが、以上の思考実験から、それは、マイナス1に存すると言えよう。言い換えると、マイナス1が霊精である。
 これは、これまで述べた霊的大地と一致することになる。即ち、鈴木大拙の日本的霊性、折口信夫の妣が国、そして、D. H. ロレンスの地霊、等に一致すると言えよう。そして、それは、「母」である。プラトンのコーラである。思うに、マイナス1は霊的地球と言えよう。 Spiritual Earth, Dark Earthである。(そうならば、コペルニクス以前の地球中心説はその点から妥当性をもっていたと言えよう。)
 では、シュタイナーの霊的位階的存在(霊的ヒエラルキア)とは、どう説明ができるのだろうか。
 私は先に、位階的スペクトルを述べた。それは、クンダリニーに関係することである。
 思うに、この位階的スペクトルと霊的ヒエラルキーは関係しそうである。
 クンダリニーとは、身体と霊精との結節点である。この身体が重要ではないだろうか。それは、+1になるからである。そうすると、やはり、聖霊点が関係するのではないだろうか。クンダリニーとは、瞑想において、生起するものである。だから、聖霊点に関わるのである。そうすると、当然、マイナス1としてのクンダリニーが考えられるのである。すると、霊的ヒエラルキーもマイナス1に存すると考えられよう。
 それとも、クンダリニーは、虚軸に存すると見るのか。身体を実軸にとれば、やはり、クンダリニーは、実軸であろうし、霊的ヒエラルキーもそうなるだろう。
 そうすると、マイナス1は、霊的身体である。そして、そこには、螺旋的エネルギーが流れていることになるのではないだろうか。そう、Vector Modeが+1の方向に形成されるならば、それ、Dark Vector Modeではないだろうか。あるいは、Spiritual Vector Modeである。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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