2008年07月27日 (13:30)

検討問題:1)現象界について:-1と+1の即非様相:物質と差異共鳴精神身体現象

1)現象界について
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-19.html

以上の迷惑コメントがあった記事(「メディア界の連結力学・構造について」)は、不連続的差異論を説いていた頃のもので、約三年前のもの(2005年10月07日付け)であったが、それを読み返して、現象界についての発想が浮かんだので、ここで検討したい。
 問題は、以前にも検討したが、-1と+1との関係である。この問題は実に興味深い、いわば、不思議な問題である。
 -1は同一性主義である。それは、自己同一性主義であり、自我主義であり、物質主義である。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で述べたことと関係する。フッサールが批判する自然的態度は、-1の自我主義的見方であるのではないだろうか。
 +1の見方とは、差異共振・差異共鳴の精神身体認識(精神身体はMedia Point的であるが、思うに、精身を造語したい)であるが、通常は、ないしは、ポスト・モダンは、-1と+1とが混淆して、連続化しているのである。【p.s.  -1と+1との混淆は、ドゥルーズの場合に的確にあてはまる。デリダの場合は、そうではないので、陳謝し、訂正したい。デリダの脱構築主義は、微妙なところがあって、不連続的差異論に近いのであるが、超越性の否定を前提にもって、諸哲学において、-1と+1が共存している様相・様態を確認して、-1の同一性システムに対して、+1の差異が並存している事態を提示して、同一性システムを脱構築するものと考えられるのであり、混淆というよりは、同一性と差異との併存と言わなくてはならない。】
 ここで端的に、構想を言うならば、物質現象とは-1であり、精神身体現象は+1である。しかしながら、現代の見方は、前者中心であり、後者は否定・抑圧・排除・隠蔽されていると考えられる。
 ここで、やや迂回して、量子論について言うと、それは、物質同一性-1の近代科学に対して、+1のトランス・モダン・サイエンスを提起しているのではないだろうか。ただし、量子を物質主義的に捉え、イデアとして捉えていないので、不十分と考えられるのである。イデア(対極イデア:正確に言うと、双極イデアか?。四元的イデアということになるし、Media Pointを加えると、五元的イデアとなるのではないだろうか)の共鳴である量子という考えには達していないのである。【電磁波は、結局、イデアでいいのではないだろうか。一般的には、まだ、物質主義的視点で捉えているだろう。イデアとしての電磁波であろう。】
 ということで、現象とは、一般には、-1の物質現象として考えられている。しかし、心的現象・精神現象があり、これがうまく捉えられていないのである。例えば、「気」をどう捉えるのか、ということもあるし、どのように宗教現象、神秘現象を理解するのかということもある。それらを脳生理学的に捉える傾向があるが、それはやはり、物質主義である。 
 心的現象は、+1と捉える必要があるだろう。フッサールは『危機』で、-1という自然的態度を還元(解体)して、(⇒)+1の超越論的主観性を説いたと考えられる。ただし、既述のように、フッサールは主観的同一性に囚われていたので、差異共鳴(太極イデア)という考えには達しなかったのである。
 端的に言えば、現象の表層は-1の物質現象であり、現象の深層・実相は+1の精神現象(精神身体現象)であるということになる。そして、-1と+1とは即非様相にあるということになろう。先にバッハ音楽について述べたが、バッハ音楽は、-1の聴覚を介して、+1の精神現象(差異共鳴現象)が奇跡的に豊饒に表現されていると言えよう。そして、芸術の感動とは、+1の表現を介して、Media Pointが開いて、イデアに接することにあるのではないだろうか。崇高さとは正にそのように考えられるのである。そう、正に、プラトンの説いた美や善はそのようなものであろう。また、根源的真理はそのようなものだろう。
 さて、ここで、再度、ポスト・モダンについて触れると、超越性(虚軸、イデア性)を否定して、Media Pointを実軸に留めているので、その差異(差延)とは、ゼロに閉塞した+1を意味するのであり、それで、袋小路になっているのである。つまり、虚軸・超越性のもつ開放性がないのである。閉塞された差異と言えるのである。だから、ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界にあると言えるだろう。モダンの縁と言えよう。
 では、構造主義はどう把握できるだろうか。直感では、ほとんど、ポスト・モダンに近いのである。二元対立構造は、言わば、-1の視点から見た+1で説明ができそうである。つまり、物質的二元論(二項対立)の視点から、精神身体現象+1を見ると、二元対立構造が現われると考えられるのである。つまり、即非性のない対立構造である。せいぜい、両義性の構想に留まるのである。【デリダのファルマコンの考えも、これに近いだろう。】
 整理するなら、構造主義は、物質主義-1から差異現象+1を見たものであり、ポスト・モダンはゼロ・ポイント⇒+1の理論と言えようか。そして、不連続的差異論はMedia Pointを捉えた一つのブレークスルーと考えられよう。そして、PS理論は、さらに差異をイデア的共鳴現象と捉えたのである。【p.s. デリダの脱構築理論は、上述したが、不連続的差異論に接近している。ただし、水平軸的特異性としての差異を捉えているので、垂直性が欠落しているために、いわば、三次元にとどまっているのである。】
 

2)日本人に個はあるか。昨日の雑踏を見て、また、公的空間でべたべたする男女を見て、日本人は、個として独立しているのかと思う。
 官僚支配唯物社会主義体制下にあって、日本社会において、日本人は個としての営為をもたないように、抑圧されているのではないだろうか。官僚封建主義にあって、官僚中央集権によって、政治、経済、メディア、教育、文化等々が支配されているのであり、個としての自由な営為をもてないように、巧妙に抑圧・拘束されているのではないだろうか。
 一般の日本人は、その被束縛が、もう気がつかなくなっているのではないのか。いつの間にか、差異を抑圧する同一性主義に染まっているのに気づいていないように思えるのである。つまり、日本人は、同一性主義という「精神病」に罹っているのではないか。
 


3)「精神分裂症」について:同一性主義は、「精神分裂症」を生む。
 同一性資本主義は、パラノイアと同時に、「精神分裂症」を生むのではないだろうか。【p.s.  これは、理解しやすい。何故なら、同一性主義は、自己同一性完結主義=パラノイアとなるのであり、同時に、否定・排除・隠蔽した差異他者-iが、他者の人格として、発現すると考えられるからである。これでは、二重人格であるが、Media Pointの多様・多元性を考えれば、多重人格が考えられよう。】


4)言語空間について:言語とMedia Point精神身体現象

2008年03月27日 (08:52)

検討問題:諸考察:教養(教育)とは何か、他:多神教と一神教の政治的意義について

いくつか検討問題が浮かんだが、時間をおくと、忘れてしまう。何であったのか?

1)教養教育の問題:教養とは何か:liberal arts ないしliberal education(自由人形成)とBildung(自己形成)が混淆・混合しているのではないのか。もちろん、重なる部分はあるが。そう、ここで、アリストテレスの『二コマコス倫理学』に返って考えるといいかもしれない。結局、「徳」の問題なのである。私見では、「徳」は魂に原点があるのである。近代的思想は一般に、魂には否定的で、心、外的感覚(物質感覚)から始めるので、「徳」=魂が忘却されているのである。
 近代主義のパラダイムから、トランス・モダンのパラダイムへ進展させる必要があるが、「徳」=魂をどう基礎づけるかが問題である。心の初期化である。再インストールである。
 そう、プラトンに言及したが、「徳」=魂の教育は、社会共同体ないしは政治教育につながる、というか基盤・「インフラ」であるということである。
 そして、これは、個・差異・特異性の肯定である。しかしながら、同時に、共振共存性の肯定である。新共同体価値である。
 

2)一神教と多神教の問題:自由主義と民主主義の源泉は何か:先に、自由主義は一神教から、民主主義は多神教から生まれたと言った(作業仮説ないし思考実験)が、それはかなり粗雑な、粗略な考え方である。
 やはり一神教と多神教の二元論・二重性において、これらの政治理念を考えた方が正しいと思う。とまれ、周知のように、両者ともに、近代的市民の形成した政治理念である。近代的市民とは、私見では、同一性と差異との混淆(未分化混合)した存在である。
 つまり、近代合理主義・近代的自我と個・差異・特異性・魂の二元性が混淆した存在である。端的に言えば、自我主義と自己主義の未分化混淆なのである。簡単化すれば、自我と自己の未分化混淆である。この未分化混淆態を一神教と多神教の未分化混淆と考えることもできると思われるのである。
 とまれ、ポイントはこの二元的な未分化混淆態ということである。これが、近代主義の核心にあると考えられる。
 では、この二元未分化混淆から生まれた自由主義や民主主義等の政治理念であるが、どう解明すべきだろうか。これは自明に近い。自由主義は未分化混淆態における一神教ないしは自我から生まれた理念であり、民主主義は未分化混淆態における多神教ないしは自己(魂・徳)から生まれた理念と考えられよう。
 もっとも、民主主義理念には、当然、自由主義的理念も含まれているが、自由主義は自己をもつものの、やはり、自我の側面が強いのである。両者は区別した方がいいだろう。
 結局、傾斜の問題である。即ち、自由主義は自我/自己の未分化態における自我傾斜が強い政治理念であり、民主主義は自我/自己の未分化態における自己傾斜が強い政治理念であると考えられるのである。
 ここで、未分化混淆様態について理論的に解明すると、これは、当然、連続性で説明できるのである。即ち、自己(魂)=多神教原理が連続化して、自我=一神教原理といわば癒着しているということになる。簡単に言えば、連続性が未分化混淆様態をもたらしているのである。また、この連続性=未分化混淆様態が、大澤真幸氏の政治的概念である「アイロニカルな没入」を説明すると考えられる。
 ということで、結局、今日、自由主義と民主主義の対立・分裂・衝突が爆発していて、超大混沌とした社会・世界になっているのであるが、前世紀のポスト・モダン理論は結局、この連続性=未分化混沌様態の哲学的表現であったように思える。もっとも、ポスト・モダン理論は、差異原理を不十分ではあれ、明確に提唱したことで、評価されなくてはならないが。
 とまれ、確認しなくてはならないことは、自由主義と民主主義(個人主義は両者に含めることができよう)は、二元連続性=未分化混淆様態を母胎としているのであり、単純に一神教原理ないしは多神教原理から派生したのではないことである。これは、私自身のこれまでの試論を批判し乗り越えることになるのである。結局、両極性が母胎ということである。
 では、この両極性であるが、それらは、未分化なので、秩序化されていないのである。カオスモスの様態にあると考えられるのである。だから、基本的に不安定なのである。だから、自由主義に過度に傾斜して、新自由主義となり、また、民主主義に過度に傾斜して社会主義路線になるのであるし、グローバル経済においては、サブプライム問題でわかるように、金融資本自由主義の過度・肥大化があるのである。両極端に転化するのである。正に、アイロニカルな没入である。あるいは、いわば、両極回路のショート(短絡)である。
 結局、今日、二元的混淆カオスの大危機にあるのであり、それを乗り越えるためには、カオスの秩序化(再コスモス化)が必要なのである。そして、それが、トランス・モダン化であると考えているのである。
 それは、不連続的差異論を起点として、連続性=未分化混淆様態を切断して、自我と自己、一神教と多神教を区別・整序することである。つまり、自我と自己、一神教と多神教は不連続であることを、先ず認識することである。
 そして、次に、プラトニック・シナジー理論が明らかにしたように、Media Pointにおける両者の即非的関係を認識することが本質的に重要なのである。結局、二元的即非関係の認識が決定的なのである。連続性から即非性への大転換である。これは、カントに倣えば、第二のコペルニクス的転回だろうが、確かに、カントが近代主義の限界を指摘したことの発展とすれば、そうは言えるだろうが、これは、それよりははるかに決定的であると思う。いわば、超コペルニクス的転回だと考えられるのである。
 それでは、この即非理論によって、自由主義と民主主義はどう変化を被るのだろうか。近代主義のパラダイムが終焉したと考えられるので、もはや同じではありえないと考えられる。
 端的に言えば、両者は差異共振原理に発展的に吸収されると直感されるのである。言い換えると、自由主義は差異共振的自由主義となり、民主主義は、同様に、差異共振的民主主義になると考えられるのである。
 そして、資本主義経済であるが、当然、差異共振原理に影響されて、差異共振的資本主義になると考えられる。(それは、Kaisetsu氏の『市場化された場における共同体主義』で説明されていよう。)
 いったい、この差異共振原理の実効性はどういうものだろうか。それは、基本的には、個の力、個の精神・知の力である。個において、差異共振原理が創造・能動的エネルギーをもつのであり、それが実効性をもたらすと考えられる。個において、進化が起るのである。そして、これは、共振的であるから、正に、差異共振進化(差異共鳴進化)となるだろう。経済については、差異共振資本経済であり、差異共振資本(差共資本)が中心化されると考えられる。
 さて、最後に、いったい、この個における差異共振原理の発現とはどういう発生因があるのだろうか。これは、基本的に、内的変容・内的変化である。外的には、同一性主義ないしは金融資本自由主義・新自由主義の破綻があると思う。ブッシュ/ネオコンのイラク戦争が、外的に同一性主義を破産させてしまい、内的変容・内的変成が真面目な人々の心に生じたと思う。
 しかしながら、それでは、外的な原因である。より、内的な原因があると考えられる。それは何か。やはり、差異エネルギーの賦活・活性化があると考えられるのである。同一性エネルギーの衰退・消滅があり、それに換わって、差異エネルギーが奔出・噴出・湧出しだしたと思われるのである。Media Pointが開き、超越エネルギーが発出し出したと思われるのである。これが、内的原因だと思われるのである。
 これは、プラトン的に言えば、善のイデアのエネルギーである。霊学/宗教的に言えば、太陽神の発動である。夜明け・黎明・曙光である。超越光が溢れ出てきたのである。
 Media Pointはイデア・コスモス(宇宙)的なものであるから、イデア・コスモスの変化があると思うのである。そうすると、また、いかがわしく思われている占星術における水瓶座の時代を想起させるのである。
 直感では、あるいは、思考実験的に言えば、Media Pointは回転しているのである。Media Pointのスピンがあるのである。Cosmos Media Pointを想定すると、このスピンによって、宇宙が変化するのである。大宇宙的変化がもたらされるのである。量子論的には、宇宙的電磁波の変化があると思われるのである。
 プラトニック・シナジー理論的には、新たな1/4回転の発動である。この点に関しては、別稿で検討したい。


3)神道とは、本来、宗教というよりは、原宗教・原信仰ではないのか。前宗教・前信仰と言ってもいいだろう。では、神道の神(神々)とは何か。それは、人格神ではなく、超越エネルギーの表現であると思う。(もっとも、私は人格神も、基本的には、超越エネルギーの表現であると考えているが。)
 そう考えると、やはり、原宗教・原信仰(前宗教・前信仰)の思想であると思う。超越的思想とも言えるだろう。
 とまれ、宗教は、一枚岩で捉えてはならない。それは、質的な差異が大きいのである。仏教はほとんど哲学である。それを信仰的宗教と捉えるのは誤謬である。しかし、仏教をほとんどは信仰的宗教として捉えてきた仏教史があるだろう。特に、日本の場合は。
 そう、神道であるが、それは、Media Pointにおける感性思想と言えるように思う。魂の思想と言ってもいいだろう。魂道である。


4)民主主義の平等観念について:私はこの平等観念には、同一性というか、同一性主義がつきまとっていると感じる。つまり、同一性平等なのである。形式的平等なのである。これは、端的に、偽りである。正に、同一性主義である。これは、不正をもたらすのである。何故なら、正義・公正さとは、差異に存するからである。
 ならば、差異平等性が正しいのであろうか。私としては、差異共立性、差異共振性と言いたい。差異は平等であろうか。Is difference equal? 
 後で再検討したい。

2008年03月11日 (03:11)

検討課題

1) ハイデガーとデリダのそれぞれの初期と後期の不連続性について
2) 近代合理性とエネルギー(エネルゲイア、イデア・エネルギー)との関係:合理性と知性と身体性
3) プラトニック・シナジー理論における1/4回転と占星術文明史におけるプラトン月=2160年との関係
4) ヤハウェとは、論理的に矛盾する表現であるが、いわば、唯物神であろう。物質神である。あるいは、自我/物質神である。Material God, Material Egocentric God.
5) 自然美の束の間の生起と芸術美の恒常性
6) 普遍性(一般性)の問題:同一性普遍性と特異性普遍性:形相とエイドス
7) 地域ないし地域社会とは何か:地域的特異性と地域共同体:地域共同体と精神文化:新神仏精神文化と新地域共同体
8) 諸学と哲学:諸学の脱領域化・学際化と哲学の役割:プラトニック・シナジー理論は、いわば、哲学科学philosophience?という新しい知、文理融合知である。新イデア論である。諸学の総合理論であるが、思うに、近代主義による諸学の専門分化であるが、新イデア論で、総合化の地平が出現したのであるが、そのとき、諸学の個別性はどうなるのか。思うに、諸学の差異・特異性が残り、それらが他者と連結する(Media Resonance)ということではないだろうか。思うに、結局、簡約すれば、エネルギー論である。人文科学は、心的エネルギー論となり、社会科学は多元共振的エネルギー論であろう。自然科学は、イデア/物質エネルギー論となるのではないだろうか。結局、イデア・エネルギー論である。エネルゲイア論である。
9) 直感力について:それは、Media Point に生起するヴィジョン(ひらめき、超越光のヴィジョン、イマージュ)であるが、言語化されていないものである。つまり、知性化されていないものである。それは、差異共振的ヴィジョンであり、創造的ヴィジョンである。つまり、AとBを新たなに結びつける質的に新しいヴィジョンである。「電磁波」的創造である。霊感的である。「霊」は「電磁波」であり、差異共振エネルギー・超越エネルギーである。思うに、アーティストが感性というものも、直感のことではないのか。ならば、端的に、アーティストの直感性と言えばいいのである。
10) アーカイブ主義について:先に、高度情報図書館と言ったが、museumの根源に回帰して、高度情報ミュージアムとしたらどうだろうか。あるいは、アーカイブ・ムセイオンである。
11) 共通感覚とは何か:即非感覚とは言えるが、そもそも感覚とは何か。感覚とは身体に則したものであり、また、同時に、知覚へと発展するものである。つまり、Media Pointがもつ原知・即非・原身体性が、同一性=物質化されて、現象心身を形成するが、その現象心身におけるMedia Point 的原知覚性の同一性=物質化が感覚ではあるが、感覚は絶対的には同一性=物質化されたものではなく、即非的にMedia Point的原知覚と関係しているのではないか。だから、諸感覚は、Media Point的原知覚において、総合化されるのであり、それの現象が共通感覚ではないだろうか。さらに、コモン・センスとは何か。
12) コミュニケーションとは何か。

2008年03月10日 (17:06)

検討問題:何故、昼間入浴するとぽかぽかするのか、他

1)何故、昼間入浴するとぽかぽかするのか:夜入る風呂と比べて、昼間入る風呂は、からだがあたたまる気がする。気のせいか。何か不思議である。関係ないが、昼間酔うと気持ちのいいものである。何か、陽光と関係するのか。(残念ながら、最近は禁酒9ヶ月以上である。)


2)道教でいう丹田とプラトニック・シナジー理論の関係について:上丹田は知性、中丹田は心でいいが、下丹田は肚であるが、PS理論ではどうなるのか。
 直感では、差異共振性は、中丹田=心(又は、魂)で起る。だから、Media Pointの位置はここにあると思われる。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺は中丹田となるが、+iが上丹田で、-iが下丹田ということになるのか。もし、そうならば、近代的自我/近代合理主義とは、上丹田が中心化されている自己である。つまり、右辺の+1の自我=同一性自己は、+i が中心化されていることになる。
 そうすると、これまで思考実験してきたように、+iが原同一性知性であり、-iが原身体性ではないだろうか。また、ジェンダーで言うと、+iの優位が男性(人間)であり、-iの優位が女性ではないのか。また、西洋は+i(頭)が優位であり、東洋は-i(肚)が優位ではないのか。
 近代的自我/近代合理主義は、+iが中心化された+1と見るなら、それは、-iが劣位に置かれている、ないしは、抑圧されているのである。その状況においては、心と言っても、-iが抑圧否定されているので、+i(頭・同一性)の枠組みの中の心であり、純粋な差異共振性としての心ではないだろう。(本居宣長の大和心は、これだと思う。自我における心なのだと思う。キリスト教の愛もやはり、これと同質になっていると思われるのである。自我における愛である。)
 この観点から見ると、ポスト・モダンは、-iの取り戻しと言えないこともないだろう。+iを原同一性とすれば、-iが原差異であるからである。しかし、逆に-iを中心化するのは、反動となる。アイロニカルな没入という反動が生起するだろう。また、-iを他者と見てもいいだろう。近代的自我/近代合理主義は、他者を否定しているのである。
 内面を測深することの必要を言ったが、問題はもし、内面観察(省察)が-i(肚)に達さなければ、それは、自我内の心に留まるということである。-iの肚まで、測深は達する必要があるだろう。それをするには、東洋的身体行が必要である。単なる瞑想ではだめで、-i=肚=下丹田を基盤とする瞑想が必要になるだろう。
 思うに、今日の日本人は、この-i=肚=下丹田を喪失しているように思えるのである。皮相な+i=頭=上丹田中心の自我=同一性自己になっていると思われるのである。
 ここで、私説の西洋文化史を言うと、イタリア・ルネサンスは、左辺の差異共振性の発露であり、プロテスタンティズムは、それをベースにした、自我=同一性自己である。だから、プロテスタンティズムは、近代的自我/近代合理主義を生みだしても、それは、トランス・モダンへと転換する資質はあると考えられるのである。(しかし、それには、ヤハウェ主義を乗り越える必要がある。後期デリダには、それが見られるが。)
 日本の場合、神道や仏教が左辺を保持していたのであるが、それが、近代化で、まったく喪失してしまったのである。三島由紀夫の言う「断絃の時」である。
 とまれ、整理すると、内面形成と言っても、-i=肚=下丹田に達しないと中途半端である。そこに達して、+iと-iとの差異共振性*が発生すると考えられるのである。だから、プラトニック・シナジー理論とは、プラトニック・東洋文化理論でもある。
 そういうような視点から近代的自我/近代合理主義の狂気やポスト・モダン的精神病理を見ると、-i=肚=下丹田のもつエネルギーに対して盲目であることから発していると言えないだろうか。単に、上丹田の知や中丹田の心だけでは、差異共振エネルギーを摂取することはできないのである。言い換えると、-iに基づくエネルギーが反動エネルギーとなり、狂気・精神病理を発症させているのではないだろうか。

p.s. 確かに、近代的自我/近代合理主義意識は、-i=肚=下丹田を喪失しているが、逆に、そのエネルギーが、いわば、闇のエネルギーになって、それに非合理に突き動かされているように思える。-iの闇のエネルギーが反動となり、攻撃衝動となっているように思えるのである。この点は、さらに検討したい。

丹田:
http://search.jp.aol.com/search?query=%92O%93c&x=0&y=0


3)自我=同一性自己の問題について再考:近代的自我/近代合理主義では、自我が中心化している(自我中心主義と言うべきであり、いわゆる、自己中心主義は、理論的には間違いである。自我と自己が混同されているのが問題である。我と己は異なるのである。)

 以前考察したが、自我のもつ他者に対する優位・優越の意識はどこから発生するのか。二項対立の原因である。差異共振性=他者を抑圧的に否定して、自我=同一性自己が形成されるのであり、そのとき、抑圧する自我=同一性自己は、当然、優位・優越の意識を帯びると考えられるが、結局、どうして、それが発生するのか、という問題である。
 他者を否定する自我はどうして、自身を優位・優越と思うのか、である。この疑問に答える前に、自我は他者(差異共振性)の抑圧的否定によって、アイデンティティ(正に、同一性である)を保つのである。いわば、他者に勝ち誇りたいという一種盲目な欲望がある。
 そう、自我=同一性自己のもつこの他者に対する攻撃性はどこから来るのだろうか。自己認識方程式では、左辺の否定として、右辺の自我=同一性自己が発生するのである。それは、機械的な、単純な抑圧的否定である。自動的な抑圧的否定である。
 ならば、これは、自然的悪魔性である。人間のもつ自然的悪魔性としか言いようがないだろう。それに対して、善性は、抑圧否定された他者=差異共振性から生まれるのである。人間の内部に、悪魔と天使が住んでいるのである。ただし、意識は自我としては、悪魔と一体なので、自分が悪魔的であるのが認識できないのである。悪魔としての自我=同一性自己なのである。近代的自我/近代合理主義とは、悪魔的なのである。だから、この根源であるヤハウェとは、端的に、悪魔神、魔神、邪神である。(グノーシス主義は、この世界を造った創造神デミウルゴスを邪悪な神としたが、それは正しいだろう。デミウルゴスとは、ヤハウェである。)
 とまれ、肝心の問題は、自我=同一性自己の優位・優越意識の発生因は何かである。何故、自我=同一性自己を優位・優越と意識するのか。ここには、鏡像の問題があるだろう。思うに、Media Pointから自我=同一性自己が発生するとき、同一性の志向性は、鏡像を結ぶと思うのである。その鏡像に対して、意識は、同一性化すると考えられる。そして、自我=同一性自己が生起すると考えられるのである。
 だから、当然ながら、元々、自我=同一性自己があるのではなく、Media Pointからのある意識が同一性の志向性から自我=同一性自己意識を形成すると考えられるのである。ここでは思考実験するが、ある意識とは、+iの意識ではないのか。つまり、原同一性である。本来、原同一性と原身体とが共振するのであるが、⇒+1の同一性発現では、原同一性が自我=同一性自己になると思われるのである。言い換えると、原同一性意識が自我=同一性自己になるということである。
 だから、人間においては、+iと-iとの非対称性があるように思えるのである。つまり、以前、人間は本来的に同一性に傾斜していると言ったが、それがここでも確認できるのではないだろうか。+iが-iに対して、元々優位を帯びているのである。原優位性、原傾斜である。
 そうならば、自己認識方程式は複雑になるだろう。⇒+1とは、+iの優位に基づく産物であることになるのではないだろうか。否、それではおかしいだろう。差異共振が積となって、⇒+1となるのである。そこには、均衡があるのである。
 ならばどう考えたらいいのだろうか。思うに、+1において、+iの意識が優位になっているということではないだろうか。あるいは、積とは、+iの-iに対する優位を意味するだろうか。そうかもしれない。私は、また、+iを原形相、-iを原質料としても考えている。だから、+iが優位となり、-iに対して、原形相を押しつけて、形相のある物質を生みだすのが、+iと-iとの積の意味かもしれない。そうならば、もし、-iが優位であったらどうなるのだろうか。それは、積にはならないだろう。商になるのか。即ち、(+i)÷(-i)=-1ということなのか。この問題はここで留めたい。
 ここで、異なる考え方をしてみよう。つまり、原優位性、原傾斜はないということで考えるのである。それは、最近の考え方である。つまり、抑圧的否定によって、+1である自我=同一性自己が生成するということである。ここでも、鏡像を考えると、同一性鏡像が生じるとすると、これに意識は同一性化するのである。
 思うに、Media Pointが鏡面になるのである。そこで、+iと-iとが出会うのである。+iが-iを見るのであり、また、-iも+iを見るのである。いわば、お見合いである。そのときの相互的鏡面において、原同一性像=鏡像が生まれるのではないのか。そして、この原同一性像=鏡像が、エイドスとしてのイデアであり、それが、現象化したのが、+1ではないのか。
 換言すると、Media Pointは鏡面を形成して、鏡像=エイドスを形成する。それが、現象=物質化したのが、+1ではないのか、ということである。だから、⇒の起点・始点は、鏡面=エイドスでもあるのではないだろうか。そして、鏡面は一種のイデアであり、観念であろう。
 では、後者のように考えるとき、優位・優越性はどこから生まれるのか、である。これはわかりやすいのではないか。即ち、Media Pointの鏡面の鏡像を介して、+iは-iと同一性化するのであるが、この時、鏡像と同一性的に融合した自我(ないしは原自我)は、正に自己陶酔(ナルシシズム)の様態にあるだろう。この自己陶酔、自己快楽、自己悦楽が、自我優位・優越意識の原点ではないだろうか。言い換えると、Media Pointにおいて、根源界・イデア界の差異共振様相から「鏡像段階」へと展開するが、差異共振性を否定する鏡像への同一性化による自己陶酔の快楽・悦楽が、差異共振性=他者に対する自我優位・優越意識をもたらすのではないだろうか。
 ここには、言葉・用語の問題がある。快楽・悦楽と言ったが、ここにあるのは、欲望の原点であると思う。だから、原欲望である。それに対して、差異共振性は歓喜であろう。つまり、歓喜から欲望への転換がここにはあると考えられるのである。歓喜は他者との共感性(共振・共鳴性)にあるが、欲望は他者を同一性化することにある。
 問題はどうして歓喜から欲望への転換において、優位・優越意識が発生するのかということである。やはり、ここでは、なんらかの同一性価値の発生を見るべきように思われる。基準となる同一性価値ないしは同一性中心価値があり、それが優位項となり、他者(差異共振性)は劣位とされると見るのが妥当だと思われるのである。
 では、価値基準となる同一性価値とは、どこから発生するのか。他者価値(差異共振価値)よりも、同一性価値の方が優れているという価値観はどこから生まれるのかである。
 思うに、同一性への志向とは、「自立」・「独立」への志向である。的確に言えば、個体への衝動であると思われる。同一性への志向性とは、個体化への志向性である。当然、それは、自我への志向性である。
 ここで丁寧に考えると、イデア界において、イデアは差異共振様相(エネルゲイア)にあり、イデアは非同一性の様相にあるのであり、個体としては存していないのである。イデアは、現象化して、個体・個物になることを志向していると思われるのである。つまり、差異から同一性化への志向性がイデア(差異共振性)にはあると考えられるだろう。この、言わば、同一性志向性は、当然、ある必然性をもっていると考えられる。
 差異共振性であるイデア(エネルゲイア:活動態)から同一性(エンテレケイア:終局態)への進展は、だから、能動的なもの、積極的なものと言えよう。その観点から言うと、他者=差異共振性より、同一性の方が価値があるのである。つまり、言い換えると、イデア様相の差異共振性、すなわち、原差異共振性から同一性への志向性(これを同一性エネルゲイア乃至は、同一性エネルギーと呼べよう。それは、端的には、物質的エネルギーであろう。)がMedia Point において発生し、この同一性志向性(同一性エネルギー)は、原差異共振性(イデア)を劣位に置き、同一性を優位に置く価値観をもっていると考えられるのである。
 言い換えると、同一性志向性自体が優劣価値観、即ち、二項対立的価値観をもっていると考えられるだろう。
 ということで、なぜ、自我=同一性自己は優位・優越意識をもつのかという問いにいちおう答えたことになる。つまり、イデアの必然性なのである。言い換えると、自然の必然性なのである。そして、これは、父権神話的、一神教的必然性である。男性的必然性である。
 それに対して、太母(母権)神話的、多神教的、女性的必然性があると考えられる。それは、イシス・オシリス神話に存していると思えるのである。オシリスは同一性であるが、差異共振性であるイシスと分離していないのである。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point に包摂された同一性としてのオシリスであると考えられる。
 この場合、オシリスはイシスに対して優位・優越意識を、当然、もっていない。両者は一如であり、どちらかと言えば、イシスに優位性があると言えよう。
 では、この場合の力学はどう説明できるのだろうか。一神教的必然性では、他者である原差異共振性に対して、同一性は優位・優越意識をもったのであるが、この意識が発生しない多神教的必然性とはどう説明されるだろうか。おそらく、原差異共振性(イシス)と同一性(オシリス)は未分化なのである。Media Point 自体における「現象」としての多神教的必然性があるのだと思う。つまり、純粋な同一性、原差異共振性から独立した同一性は発生していないのである。言い換えると、イデアからの同一性への変換の過程にあると考えられるのである。つまり、エネルゲイア自体としての多神教的必然性である。これで説明できたこととしよう。
 そうすると、ガウス平面ではどう説明できるのだろうか。一神教は端的に1/4回転で説明できよう。思うに、多神教は一神教への移行過程とするならば、それは、いまだゼロ回転ではないだろうか。1/4回転への志向性はあるが、それは、エネルゲイアである。思うに、Media Point におけるゼロ回転としてのエネルゲイア自体で説明できるのではないだろうか。ゼロ度の多神教力学である。Media Point の多神教力学である。そして、これは、仏教、とりわけ、大乗仏教にもあてはまることと考えられる。
 そして、さらに、一神教的必然性の後のことを考えてみよう。同一性=物質が形成された後、その必然性は終焉して、もはや、創造は為されなくなるだろう。終末である。一神教の終焉である。プラトニック・シナジー理論で考えると、もうエネルギーの放出が終わったのであり、新たなエネルギーの放出が考えられるのである。新たなエネルゲイアの発生である。即ち、新多神教・新仏教である。新神道である。それは、新たなMedia Point の開放である。それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で説明すると、(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)ではないだろうか。第3番目の差異共振性は、いわば、螺旋的回帰であり、第1番目の差異共振性よりは高次元にあると考えられるのである。そして、これは、二重螺旋であると考えられ、この二重螺旋回帰が永遠に反復されるように思われるのである。すると、二重螺旋永遠回帰がイデア/現象界に起こっているということになるだろう。
 では、補足的に言うと、-1とはどういう意味をもつのだろうか。形式的に考えると、+1が物質ならば、-1は反物質ではないだろうか。あるいは、前者が光の物質ならば、後者は闇の物質ではないだろうか。今は、思考実験的に言うだけだが、ルイス・キャロルの『鏡の国』のような対称的世界ではないだろうか。逆さまの世界ではないだろうか。時間が逆転するのではないだろうか。とにかく、不可能の世界だと思う。ひょっとして、これが、デュナミス(可能態)の世界ではないだろうか。-1=(+i)^2=(-i)^2である。だから、-1は、+iや-iの+1/4回転、-1/4回転を形成していると言えないだろうか。つまり、イデア界の1/4回転の原動力ではないだろうか。言い換えると、-1とは、デュナミス・イデア界ではないだろうか。そして、それが、いわば、エネルゲイア・イデア界を発生させるのではないだろうか。すると、初めに、-1ありきとなろう。今はここで留める。

p.s. また、自己理解即ち、自己覚醒の問題であるが、自我主義に染まっている人間の覚醒方法は何か。金儲けが人生の目的であった私の亡父は、癌で死ぬ間際、病院のベッドで、金儲けなんてどうでもいいと諦めるような口調で言っていた。死に際になって目覚めたのである。日本も死に際になって目覚めるのか、それとも、死に際でも度し難く無明のままであるのか。


4)今日の心の病であるが、なにか、精神の発達の衰えがそこにはあるのではないだろうか。なにか、幼稚な発想の人が心の病になる傾向はないのか。精神の発達の衰えとは、教養の衰えと相関関係にあるのではないだろうか。端的に言えば、知の衰退である。
 後で補足したい。

2008年01月29日 (15:12)

検討問題:資本の差異化とは何か:差異価値に基づく同一性価値のエネルゲイア化?

先に私は、資本の差異化ということを言ったが、考えてみると、あいまいな観念であると思う。いったい資本とは何か、である。同一性価値(同一性交換価値)の資本(金融資本)なのか、それとも、差異価値(質価値:差異共振価値)としての資本なのか、両方が考えられるだろう。
 しかしながら、後者は通常、同一性価値の基準によって評価されているだろう。たとえば、ある企業の創造性の価値は、売り上げ等の同一性価値によって評価されるだろう。つまり、現実の資本主義において諸価値が、同一性価値によって評価されているということである。つまり、差異価値が差異価値として評価されるのではなくて、同一性価値という異質な価値基準によって評価されているということである。ここに諸価値の混乱・混同・混沌があると言えよう。つまり、わかりやすく言えば、価値評価が狂っているのである。
 ある価値を価値そのものとして評価するのではなくて、同一性価値によって評価するという現実があるのである。つまり、差異である価値を同一性という貨幣交換価値によって評価するという現実が資本主義にはあるのである。
 ここには、同一性主義が支配していると言えよう。そして、私は、同一性主義を狂気・妄想・悪・エゴイズム・闇(無明)等であると考えているのである。しかし、これが現実である資本主義の正体である。
 結局、真如(しんにょ)・真実・真相を認識する必要があるのである。即ち、価値を価値そのものとして認識し評価することである。つまり、価値とは本来、差異価値なのであり、差異価値として認識評価すべきであるということである。
 そう、ニーチェが説いたように価値転換が必要なのである。同一性中心主義(デリダのロゴス中心主義)を解体・脱構築して、差異価値を評価すべきなのである。ただし、同一性価値は同一性価値として評価すべきである。つまり、差異価値と同一性価値を明確に分離して、それぞれ評価すべしということである。現代資本主義は、両者を混淆しているのである。ポスト・モダン理論がそうであったのである。
 では、本件の問題にもどると、資本とは何か、である。差異価値が資本なのか、同一性価値が資本なのか。思うに、資本という概念ないしは観念は、混乱しているのではないだろうか。つまり、二つの価値を混同して資本と呼んでいるのではないだろうか。差異価値も資本であり、同一性価値も資本である。そして、差異価値「資本」は、同一性価値によって評価されているのである。つまり、同一性価値(正確に言えば、貨幣価値)が中心化されて、資本となり、その価値基準から差異価値も評価されて資本とされているということであり、つまり、同一性価値=資本の視点から差異価値が評価されて資本となっているのである。いわば、差異同一性価値資本となっているのである。同一性価値資本が中心化されて、差異価値が否定・排除・隠蔽されているのである。ここに要注意である。そう、ここが根本的なポイントである。(マルクスなら、「ここがロドスだ、ここで跳べ」と言っただろう。)
 この価値評価の混同によって、資本主義はカオス・無秩序をもたらしているのである。結局、繰り返すが、差異価値を差異価値として、同一性価値を同一性価値として、純粋に評価することが科学的であるのである。(そう、資本主義は、価値混同において、非哲学的・非科学的・非理性的でなのである。)
 結局、物質的且つ非物質的生産・創造において、差異価値共振性があり、そこから、差異価値(製品・商品・生産物)が発生するのである。そして、この差異価値を同一性価値(交換価値・貨幣価値)を介して、販売するのである。同一性価値とは物質的価値であり、その観点から、生産・創造は評価されることになるのである。しかしながら、これは、いわば、仮象的評価である。仮面的評価である。ここには、いわば、虚偽があるのである。あるいは、誤謬があるのである。
 交換において、あくまで、差異価値は差異価値である。しかるに、同一性価値としての交換価値が評価されてしまうからである。ここに混乱があるのである。
 つまり、同一性価値としての交換価値=貨幣価値は仮象・仮面に過ぎないのであり、本体・真実・真如として、差異価値が存しているのである。言い換えると、差異価値がイデア・本体であり、同一性価値=交換価値=貨幣価値とは、仮象・仮面、仏教で言えば、空に過ぎないということである。これを現代の経済学は理解していないのである。
 途中。

2008年01月26日 (00:55)

検討問題:「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。

1)「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。原知+iと原身体-iの共振*において、ヴィジョン=エイドス=イデア=テオーリアが形成される。この原映像において、何が観ているのか。そう、感覚とは何か。今、直感で言うと、差異共振態が原感覚である。+iが原知であり、-iが原身体であり、その両者の共振態に原感覚があるのではないのか。また、そこには、原感情(共感性)があるだろう。
 そう、共振態において、+iの側面が感覚で、-iの側面が感情ではないだろうか。つまり、感覚と感情は表裏一体ということではないのか。また、欲望は、感情よりも、より-i・原身体側に存しているのではないのか。

2)映画を観るとはどういうことか:ヴィジョンの問題:夢と映画

3)今日、芸術が死んでいるのは、Media Point(差異共振性・差異即非性)を閉鎖させているからである。美術にしろ、音楽にしろ、文学にしろ、伝統的な芸術が死んでいる。(宮崎駿のアニメとは、Media Pointが開いているのである。だから、生き生きとしたヴィジョンがあるのである。)。Media Pointとは、「魂」と言える。
 しかし、個体の「魂」とどう関係するのか。つまり、今の私の考えでは、魂は、虚軸(虚界)の超越的双極差異であり、それは、Media Pointとは区別される。そう、魂とMedia Pointとの関係をどう見るのか、である。魂=イデアは、Media Point=開口部に流出するものであろう。そして、芸術は、本来、後者の表現であろう。『国家』におけるプラトンの芸術批判は同一性の模倣としての芸術批判と見ることができるのであり、Media Pointの表現としての真正な芸術を批判しているのではないと考えられる。(すぐれたファンタジーはMedia Pointの表現である。神話もそうである。また、すぐれた小説や詩もそうである。)
 
4)感覚欲望とマーヤーとMedia Pointの関係:この問題は、簡単に言えば、連続性と不連続性の問題である。モダン/ポスト・モダンとトランス・モダンの問題でもある。感覚欲望は、外的対象と志向する。このとき、Media Pointから発したエネルギーは外的対象と連続化される。つまり、自我と連続し、不連続なMedia Pointは見失われる。
 ここから見ると、仏教の偉大さがわかる。仏教は、空という概念によって、連続性を断ち切るのである。色即是空。しかるのち、現象へと戻るのである。空即是色。空はMedia Pointである。しかし、空をゼロとするのは、後退である。それは、構造点に過ぎない。つまり、ポスト・モダン的差異である。
 また、イデア論も仏教と同質である。現象を仮象とすることで、いったん現象から切れるのである。現象からの不連続化である。しかし、イデアを分有する仮象という概念がプラトンにはあるのである。
 問題は、感覚現象が不連続化したとき、感覚欲望はどうなるのかである。直感では、感覚は同一性構造から外れる(脱構築・脱構造化)ので、当然、欲望も脱構築・脱構造化されるのである。私の言葉では、「間(ま)」が生まれるのである。そう、外的対象が他者になるのである。差異化である。
 では、「間」化されたとき、感覚欲望だったものはどうなるのか。つまり、エネルギーはすべてが感覚欲望とはならなくて、差異共振エネルギー化するのだと思う。これが、社会倫理・秩序道徳の源泉である。
 ここで、カント哲学を考えると、カントは、構造的同一性主義であるが、差異を物自体や実践理性にゆだねたと言えよう。そして、カントの超越論性とは構造主義的であり、フッサールの超越論性とは、脱構造主義的である。

5)3に関連して、魂=イデアとMedia Pointの関係についてさらに考えたい:思うに、Media Pointとは、端的に、イデアと物質との境界であり、イデアでもないし、物質でもない。実に不思議な領域である。
 私はイデアはヴィジョンであると言うが、そのヴィジョンは、Media Pointで形成されるだろう。しかし、Media Pointとは別である。ここが微妙である。夢はMedia Pointのヴィジョンであり、魂=イデアそのもののヴィジョンではない。この「差異」が重要である。
 魂=イデアそのもののヴィジョンとは、いわば純粋である。しかるに、Media Pointのヴィジョンとは、屈折しているだろう。何故なら、即非様態にあるからである。思うに、プラトンがイデアの表現として円や円運動をあげているが、それは、魂=イデアそのもののヴィジョンだろう。
 では、宇宙の円や円運動や渦巻き運動とは何だろうか。それは、オイラーの定理の現象様態ではないのか。つまり、時間化された様態ではないのか。だから、Media Pointの表現ではないということだろう。
 思うに、不連続的差異論の頃、イデア界と現象界とを重ねて考えていた。イデア差異が現象差異となるのである。おそらく、イデア界と現象界との相関性があるように思える。これについては、新たに考察したい。

2008年01月24日 (01:21)

検討問題:1.Media Pointと科学、2.虚軸からの1/4回転と脳(左脳・右脳)と身体、他

1)Media Pointと近代科学:近代以前の思想家(洋の東西を問わず)は、Media Pointから発して思考していたように思える。例えば、天という発想は、そうである。つまり、超越的観念をもって思想を説いていたのである。しかるに、近代科学の勃興によって、経験的知性が重視されて、それまでの超越的観念が否定されていった。もっとも、近代科学の初期においては、探究者は、まだ、超越的観念を保持していた。コペルニクス、ニュートン、ケプラー等は、神的観念をもっていた。だから、近代科学が進展して、超越的観念が否定されていったと見るのが正しい。
 とまれ、超越的観念は、Media Pointがそれなりに生動していたことを意味するだろう。しかし、近代合理主義が中心化されると、Media Pointが否定・抑圧・排除されるようになるのである。典型的なのが、唯物論である。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』に、神的観念を心情へと還元する思想が熱烈に述べられている。つまり、Media Pointが同一性主義へと圧縮される心的作業が行われたということである。言い換えると、Media Pointから同一性主義へのパラダイム転換、これが、近代の思想的意味である。しかしながら、Media Point的な観念は文系的観念として、そして、同一性主義は近代科学・近代合理主義として二分化していき、文系と理系の分裂を生み出したのである。文学・芸術で言えば、ロマン主義と近代合理主義の分裂を見ることができる。
 それから、資本主義の全面的進展によって、同一性主義である近代合理主義・近代的自我が主流になり、Media Point的観念は次第に傍流になっていった。近代科学・近代合理主義・近代的自我の勝利が訪れたように見えた。この同一性主義を批判する思想・哲学・理論に関しては、最近までは、ポスト・モダン理論が存在した。しかし、挫折した。そして、グローバリゼーション全開となり、今日・現代を迎えているのである。しかし、サブプライムローン問題でわかるように、ポスト・モダンを経た近代科学・近代合理主義・近代的自我は、遂には、崩壊したと言えよう。
 これまで、プラトニック・シナジー理論で解明したように、近代主義において喪失・忘却されたMedia Pointが新生したと言えるのである。近代の分裂を乗り越えて、Media Pointに基づく、同一性を包摂した超越的差異論が誕生したのである。近代科学も乗り越えられて、トランス・モダン・サイエンスとなったと考えられるのである。それは、トランス・モダン哲学と一致することになったのである。文理一体理論が誕生したのである。
 

2)虚軸界(虚界)から実軸界(実界)への転換の様相について:左右の問題:虚軸から反時計回りに1/4回転したとき、+iは-1に、-iは+1になる。 +iは原知であり、-iは原身体である。そして、-1は同一性主義であり、+1は同一性である。思うに、-1が脳であり、しかも、左脳であり、+1が身体であり、しかも、右脳ではないのか。
 そして、先に、内的身体におけるMedia Pointの存在を言ったが、それは、+1の身体(右脳)の内部にMedia Pointがあるということになり、確かに、+1は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を潜在させていると考えられるから理論的に正しいことになるだろう。
 そして、-1であるが、それは、同一性主義であり、左脳(脳)であり、これは、自己認識方程式の左辺をもっていないので、そこからは、Media Pointに達することは絶対的に不可能ということ明証できるだろう。つまり、近代的知識人(近代合理主義・近代的自我の持ち主)は、Media Pointに達することができずに、エゴイズム・自己中心主義・私利私欲・悪意・狂気・傲慢等に陥ることになろう。漱石の『こころ』はそれをえぐり出していると言えよう。


3)人間の五感、とりわけ、視覚は、三次元空間に適合しているように見える。なにかそれは不思議に思える。どうして、高次元を三次元と同様に知覚できないのか。どうして、諸感覚は三次元に限定されやすいのか。
 人間の知の形式が同一性形式であり、それが感覚を限定しているということなのかもしれない。つまり、自我同一性形式が主導的なので、感覚が同一性に限定されるということなのかもしれない。
 もし、同一性主義に限定されなければ、感覚は今とは異なるものではないだろうか。
 結局、問題は、感覚が同一性を生み出しているのか、それとも、自我同一性が感覚を同一性に限定しているのか、である。
 少し具体例をあげて明快にしよう。たとえば、遠くの山岳を眺望しているとしよう。あるいは、東の方向の道路の上方に月がのぼったとしよう。遠い山に対して、距離感を喪失して、なにか近くに山容を感じたりするだろう。また、同様に、月が道路のすぐ上にあるように見えたりするだろう。これをどう説明するのか。
 感覚は、絶対的には、三次元的ではないと思う。遠近法とは、視覚によるというよりは、透視画法や器具に基づくと言えよう。遠近法による三次元意識によって、感覚が規定されているということではないだろうか。これは、フッサールの『危機』の問題意識と通じるだろう。
 とまれ、同一性主義意識では、三次元空間の感覚を発生させると言えるのではないだろうか。だから、この近代主義的意識を超えれば、高次元空間感覚は可能であろう。
 そして、すぐれたアーティストはそのような空間を構築してきたと言えるだろう。そう、Media Pointから発する超越光の視覚をもっていたと考えられるのである。
 とまれ、近代において、同一性感覚、同一性視覚が確立したことは認めなくてはならないのであろう。トランス・モダンとは、この同一性を包摂して高次元空間感覚を形成すると考えられる。そう、新たなルネサンスである。トランス・モダン・ルネサンスである。

2007年12月21日 (02:26)

四次元時空間について

後で検討したいが、一言いうと、四次元時空間とは、Media Pointにおいて、連続・同一性が発現するとき、垂直に捩れて、時間が発生するときに、発現するのではないかと思えるのである。ガウス平面に対して、直交する第三の軸(Z軸)の方向に四次元時間が発現すると思えるのである。
 そして、思いつきでは、X軸(実軸)とZ軸によるXZ平面が、これまで作業仮説したMedia平面ではないだろうか。問題はどうして、空間三次元に見えるのかということである。思うに、小児の知覚は二次元平面的である。それは、ガウス平面から来ているのではないだろうか。それに対して、近代主義の空間把握は、Z軸が入って、いわば、奥行きが発生して、三次元になるのではないだろうか。
 そう、この第三次元と時間次元は重なるのではないだろうか。今はここで留めたい。

p.s. ガウス平面が小児の二次元空間ならば、Media平面も、それではないか。つまり、ガウス平面がMedia平面ではないか。そう考えたほうがいいだろう。そうすると、構造主義とは、Media平面の実軸の世界である。そして、ポスト・モダンは、Media平面の原点を意識した世界であるが、実軸を基盤としているので、原点(Media Point)を連続混淆化して、正確に認識できないのである。ハイデガー哲学は、ポスト・モダンの元祖である、おそらく。
 

2007年12月17日 (01:54)

検討問題:社会と同一性(同一性共同体と差異共振共同体)etc.

1)先にもあげたが、同一性の構造の問題を再考したい。

2)社会のもつ閉鎖性について:共同体とは何か:同一性共同体と差異共振性共同体:

同一性共同体が世間というものである。ここでは、同一性が支配していて、それに対して、差異は否定・排除・隠蔽される。端的に、差別されるのである。それに対して、差異共振社会が考えられる。これも共同体ではあるが、同一性共同体と区別されなくてはならない。
 同一性共同体(世間)は、二元論・二項対立が中心化されている。つまり、上下差別的社会なのである。民主主義社会は、このようなものとなるのである。
 そう、結局、同一性=二元論・二項対立とは、なんらかの「超越性」が基盤にあるのであり、それで、上下優劣が発生するのである。同一性の基盤の「超越性」とは、虚軸上の+iに拠るのではないだろうか。この虚軸的超越性があるので、同一性は優越性をもって、差異・他者を同一性化させて、支配すると考えられる。
 この虚軸的超越性の同一性が権力と世間の基盤となると考えられる。結局、差異共振性、Media Pointの様相を取りだすことが重要なのである。
 単に超越性だけでは、同一性も噛んでいるのである。そう、今ふと思ったのであるが、デイヴィッド・アイク氏が、爬虫類人と呼ぶものであるが、それは、この超越的同一性(虚軸的超越性の同一性志向性)によって説明できるのではないのか、ということである。
http://www.asyura.com/07/revival2/msg/134.html
http://slicer93.real-sound.net/0-ig-space-8480.html
 そう、さらに今浮かんだことは、シュタイナーの悪魔論である。
http://blog.mag2.com/m/log/0000219955/108382429.html
アーリマンがこの爬虫類人であり、ルシファーとは虚軸的超越性のもう一つの極の-iではないだろうか。
 つまり、超越的同一性=爬虫類人=アーリマンではないだろうか。もっとも、超越的同一性と説明した方が、より学理的であると言えよう。そう、シュタイナーの発想を借りると、アーリマンとルシファーの協働によって、生命体が作用していることになるだろう。しかしながら、それは、物質的身体・心身としての生命体であり、精神・霊・智的生命体としてではない。
 とまれ、アーリマンとルシファーは相互補完的になり、近代合理主義を形成するのである。そして、差異共振性であるMedia Pointが否定・排除・隠蔽されるのである。平和の美徳ではなく、戦争の悪徳が肯定されるのである。
 シュタイナーの霊学では、アーリマン/キリスト/ルシファーの三相共振性が説かれるのであるが、これは、古事記/易=PS理論で言うと、三柱の神の三相共振相である。そして、これが、太古からの叡知であったと思うのである。この三相共振叡智を神道を継いでいるのである。しかしながら、先にも述べたように、父権的一神教の発生によって、三相共振様相が崩れたのである。超越的同一性(父権的一神教)が中心化されたのである。(そう、ユダヤ・キリスト教の神とは、悪魔であろう。つまり、アーリマン、爬虫類人であろう。)
 この超越的同一性の中心化は、二元論を生みだしたのである。例えば、天と地との二元論である。いわゆる、大地母神とは、この二元論によって、天の父との対極になるように発生したと考えられるのである。大地母神の考えは、かなり普及しているが、私は、女神、大女神、大母神は、本来、差異共振性・Media Pointではなかったのかと考えているのである。(この点は後で再考したい。p.s. 大女神ないしは母権制文化とは、三相を大女神としたのではないのか。三女神としての大女神ではないのか。)だから、聖母マリアという考えは、キリスト教の父中心主義の二元論によって、発生する大地母神に相当するのではないだろうか。
 とまれ、超越的同一性志向性ないしは超越的同一性エネルギーによって、太古の人類の叡知、三相・三元的叡知(三つ巴、天川の五十鈴http://www.tenkawa-jinja.or.jp/ )は、破壊されて、二元論的知性が中心化したのである。西洋文明・文化の発生である。二元論・二項対立文化による幽閉・牢獄・地獄が生起したのである。
 とまれ、今日、求められているのは、根源的三相的叡知を復活させることである。神道の叡知を復活させることである。陽である同一性から、陰である差異へと転換するときにおいて、実は、陽である同一性に囚われたままなのである。そして、それが、ポスト・モダン様態なのである。だから、太極の考えは、二元論的になりやすく、不十分なものとなるのかもしれない。もっとも、正しい太極の考えならば、三相になるのであるが。つまり、太極という第三の核心があるのである。
 思うに、スピリチュアル系の問題は、この二元論に囚われやすいことではないかと思う。これは、ポスト・モダン哲学と同様である。同一性を否定するので、反対の差異を肯定して、反動となるのである。問題は、同一性と差異との間にある差異共振性・Media Pointを肯定することなのである。これが、心の本体である。
 ずいぶん、話が飛躍したが、高次元差異共振共同体の構築であるが、それは、同一性を乗り越えたものである。そして、差異の反動も乗り越えたものである(アイロニカルな没入)。
 最後に一言いうと、超越的同一性であるが、それは、+iと-iの両方がそうではないだろうか。形相における同一性と質料における同一性があるのではないか。後で検討したい。

p.s. Media Pointを介して、虚軸的超越性は、±1に転換・変換する。現象化である。しかしながら、このときにおいても、Media Pointは生動していると思われるのである。⇒+1を+1としてのみ取るのが、超越的同一性中心主義-1である。しかしながら、⇒+1を正しく⇒+1として感じるのが、差異共振性・Media Pointの直感・心感性である。換言すると、X⇒+1であり、Xを漠然と感じるものである。
 今、思ったが、-iの中心化とは、無へと向かうのではないのか。神秘主義的無である。三島由紀夫の無である。しかし、ここには微妙な問題がある。ハイデガーの無は、+iと-iの両極の結合点であろう。それには、差異共振性・Media Pointが欠落しているのである。しかるに、三島の無には、共振性への志向が感じられるのである。ハイデガー哲学の闇は深いのである。恐ろしく深い闇があるのである。ハイデガーがナチスに関与したのは、その闇の心性からだろう。
 超越神(唯一神)とは、差異共振性をもたない、さらには、差異共振性を否定するものである。それは、同一性に帰結する。
 問題は複雑で、+iの同一性と-iの同一性があるだろう。前者が光の同一性であり、後者が闇の同一性であろう。アーリマンの光とルシファーの闇である。この光と闇の合間にある差異共振性・Media Pointを取り戻さないといけないのである。シュタイナーはそれをキリストと呼んだが、それは、西欧文化の文脈においてである。それは、日本文化では、天之御中主神、天照大神、大日如来、空である。
 さて、今ふと、プラトンのコーラのことが浮かんだ。イデアとコーラの関係は興味深い。コーラは端的に、差異共振性・Media Pointのことではないのか。それは、形相と質料の共振様相ではないのか。そして、それが、イデアではないのか。私はかつて、深山の山を見て、山のイデアを直観した。また、フェルメールの絵画を見て、イデアないしは特異性を感じた。
 +iと-iの共振様相としてのコーラであり、イデアではないのか。即ち、コーラ・イデアである。そして、西洋哲学は、そこから、同一性を引きだして来たと言えよう。思うに、遺伝子も正しくは、Media Pointではないだろうか。それが、物質化したのが、DNAということではないのか。つまり、Media Pointの物質面があり、それが、DNAではないのか。それは、Media Pointの実軸様相であろう。
 そう、今啓(ひら)めいたが、実相の世界とは、Media Point世界(Media Point World or Media Point Cosmos)なのではないか。現象世界とは、Media Pointが実軸化した世界である。連続化・同一性化した世界である。三次元ないしは四次元時空間である。そして、それは、虚軸世界にいわば、覆いを覆っているので、実相世界が知覚・認識されないのである。つまり、四次元時空間における連続・同一性感覚知覚現象しか認識していないのである。連続・同一性が +1である。⇒+1の⇒を捉えられないのである。
 実相は、差異共振性であり、超越的対極共振振動(太極振動・太極波動)である。そして、根源は三相であり、連続・同一性は四元(四大)となるのではないのか。そして、三相とは、空であり、四大に加えて、五大(地水火風空)になる。思うに、中世キリスト教において、占星術的観点から、四人の福音書家(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ:牡牛、獅子、鷹、天使:順番は怪しい)とキリストを合わせた五元性があったのである。キリストは、空になるだろう。そう、思うに、西洋文化においても、キリストを空と捉える発想があったように思えるのである。仏教的思想が西洋中世に入っていたのではないだろうか。あるいは、ケルト文化的発想がキリスト教に入ったのではないのか。(とまれ、数字で言うと、根源の3と現象の4で7となる。)
 さて、実相世界をMedia Pointと考えたが、そこでは、五次元と四次元の交差する世界であり、通常は、後者の現象世界に閉じこめられている。グノーシス主義のように現象世界を悪と捉えるのは、単純化である。なぜなら、Media Pointから必然的に発生するのが現象世界であるからである。いわば、同一性による衣装・衣服・ファッションとしての現象世界なのである。
 そう、私が言いたいのは、魂、霊魂、霊のことである。結局、それは、Media Pointであろう。では、何故、多数の魂が生起するのかということになるだろう。思うに、多数の魂とは幻ではないだろうか。思うに、根源的には、一つの魂the Soul/the Spiritがあるだけではないだろうか。一つの魂の時間的多様化が、個別の多数の魂ではないのか。ユダヤ神秘学では、アダム・カドモンという原人間を想定しているが、それが、一つの魂ではないのか。
 そのように考えると、唯一神の考え方も変わってくる。問題は、超越的同一性の唯一神と、Media Pointの唯一神の二種類の唯一神である。
 ヤハウェ(エホバ)は前者で、エローヒームは後者ではないのか。つまり、聖書においても、Media Pointがあったのであり、それが、エローヒームではないのか。
 そう、とにかく、Media Pointとの唯一神は、実は、多神である。八百万の神である。一即多である。(宮崎駿の神学がこれである。p.s. D. H. ロレンスが、『黙示録論補遺』で、聖書は多神教的であると述べていた。記憶が正しければ、やはり、一即多の神を説いていたように思う。また、新しい神が誕生するとも言っていた。確かに、Media Pointは、永遠回帰の場であるから、古い神々は滅びて、新しい神々が誕生するように思えるのである。では、新しい神々とは何だろうか。新しい装いの神々かもしれない。神の仮面である。)思うに、イスラーム教のアッラーとは、これではないだろうか。つまり、一神教とは言え、ユダヤ・キリスト教の唯一神とイスラーム教の唯一神は別物ではないのか。ただし、前者においては、二重になっているのであり、そして、超越的同一性が主になり、Media Pointが従になり、さらには、否定されていったと考えられるのである。
 アメリカの神話学者、ジョセフ・キャンベルの主著・傑作『神の仮面』にあるように、正に、神とは、一即多であり、仮面をもっているのだろう。
 結局、宗教・神話の根本的問題は、Media Pointに様態にあると言えよう。一即多が根本であるが、ある出来事によって、一が強大化して、多を否定する事態になったのである。父権的唯一神化である。Media Pointの傾きと言えるのではないだろうか。思うに、単に、陽への傾斜だけでなく、陽への極限化である。そのために、陰が否定されたのである。太陽となり、陰が無化されたのではないか。とまれ、陽中心化が発現したのであり、ユダヤ・キリスト教文明が生起したのである。同一性中心主義(ロゴス中心主義)の文明である。そして、その帰結が西欧近代主義/西欧近代合理主義/西欧唯物科学・技術・資本主義である。
 当然ながら、陽への極限化は、陰へと回帰するのである。これが、ポスト・モダンであった。しかしながら、陽の極限化による同一性中心主義が強く、太極=Media Pointを捉えられなかったのである。陰陽の連続体に留まったのである。
 結局、不連続的差異論を発展させたプラトニック・シナジー理論が、太極・即非様態であるMedia Pointを捉えることとなったのである。(p.s. 陽の極限化としての超越的同一性の発現としたが、それは、正に、1/4回転のことではないのか。虚軸から左へ1/4回転する事態、これが、陽の極限化=ヤハウェ化ではないのか。そして、さらに回転すると、ふたたび、虚軸化する。それが、太極ではないのか。そして、さらに1/4回転すると、陰の極限化を迎えるだろう。そして、さらに1/4回転すなわち、4/4回転で回帰するのである。おそらく、1/4回転と1/4回転の間には、中間期がないしは、転換期があるだろう。正に、複素数的段階ではないだろうか。
 とまれ、最初の1/4回転が、ヤハウェ化であり、西洋文明化であったが、それが、さらに1/4回転して、トランス・モダンになるということではないだろうか。
 思うに、時間的にはどうなのだろうか。1/4回転はどれくらいかかるのか。占星術的歴史を考えると、約2160年ではないだろうか。そして、今や、西暦2007年も終りで、2008年にならんとしている。一つの文化サイクルの終焉に近づいているということになる。次は、水瓶座文化期である。新しい1/4回転である。
http://www.aqast.net/21his_ari.html
http://homepage2.nifty.com/SON/uranai/Aquariusage001.htm
http://blog.livedoor.jp/renshi1900/archives/15662125.html


p.p.s. 今、ふと思ったが、『指輪物語』のロスロリアンとは、差異共振性から想像的に表現したものではないのか。
 
 
3)四大としての水とは何か:火と水の共振創造について:あるいは、水の心感性とは何か:心感受性の問題

4)フェルメールの絵画について:イデアと特異性

5)キリスト教会ないしは西洋植民地主義/資本主義のもつ狡知について:支配するための現地調査力と民衆支配のための方法の考察力について:キリスト教会は、民衆の支持(信仰)を得るために、異教的なものを活用してきた。わかりやすい例は、クリスマスである。これは、もともとは、異教である太陽宗教を取り込んで、つまり、イエスの誕生日にして、利用したものである。この狡知と超越的同一性との関係を考察する。マーケッティングとは、キリスト教会の狡知から来ていると思う。

p.s. 端的に言えば、それは、悪魔の狡知である。アーリマンの狡知である。西洋文明とアーリマンと資本主義。思うに、聖母マリアとは、やはり、カトリック教会が、民衆支配を行なうために、異教から取り入れた要素であろう。端的に、女神宗教である。地中海の女神・母権宗教である。
 ところで、思うに、EUとは、矛盾を抱えているだろう。差異共振性を志向するが、ユーロは、統一通貨なので、同一性主義なのである。イギリスのようにポンドを維持した方がいいのではないのか。複数通貨制がいいのではないのか。 

6)創世記の天の上の水について

7)芸術とは、心的差異共振エネルギーを表現したものではないのか。そして、心的差異共振エネルギーこそが、真の存在ではないのか。ハイデガーの存在論の誤りは、それが、超越的同一性の形而上学であることだと思う。完全に差異共振性が欠落しているのである。悪魔主義である。現象学の鬼っ子であり、フッサール現象学を破壊してしまった悪弟子である。おそらく、悪魔が憑依していたのである。

8)現段階における核心的問題は、超越的同一性の問題である。+iと-iのことである。ここで、父権神話を考えてみるのである。バビロン神話の場合、マルクトが、本来母神であるティアマトを殺害して、二分化して、天地創造する。これは、哲学的に、何を意味しているのか。
 それは、端的に、超越的同一性+iが超越的差異-iを同一性化して、差異共振性・Media Pointを破壊して、二分化してしまったことではないのか。ティアマトの死体から、天地創造をするのである。つまり、差異共振性を破壊して、二元論・二項対立を形成するのである。超越的同一性の優位項と超越的同一性の劣位項である。
 ここで、天を形相、地を質料とすると、ここに、西洋哲学の基盤が既にあると考えられる。唯物論の原型がここにあるのである。
 思うに、連続的同一性が否定するのは、差異ということだが、実は、差異共振性である。差異共振性を否定して、主客二元論を形成するのではないのか。初めに、Media Pointありき、ではないのか。そして、超越的同一性が差異共振性を否定して、主客分離を行なうのではないのか。父権神話とは、これを意味していると思われる。
 言い換えると、父権神話とは、構造主義の元祖である。原構造主義である。西洋形而上学の原点である。結局、超越的同一性+iは自乗して、-1となり、超越的差異-iも自乗して、-1になるのではないのか。そして、これが、+1ということである。 
 超越的同一性の盲点とは、差異共振性を否定するということを認識できないことにあるだろう。つまり、本質的に、差異共振性が欠落しているので、差異共振性を理解できないのである。差異共振性の「文盲」である。冷血無惨と言える。
 そして、この同一性(連続的同一性)が支配的であるので、ポスト・モダン哲学においても、差異自体が、同一性から脱却できずに、連続化しているのである。言い換えると、差異-iを見つけたが、それを同一性+iと連続化して捉えたのである。つまり、-(-i)であり、+iである。差異の同一性化なのである。
 構造主義が、+iの中心化とすれば、ポスト・モダン(ポスト構造主義)は、-iを同一性+iからの確認したのであり、-iが-(-i)=+iとなり、元の木阿弥になったのである。差異-iをそれ自体として、認識する方法が欠落していたのである。それは、結局、差異共振性、即非性に拠るしかなかったのである。東洋・日本の思想に拠るしかなかったのである。もっとも、例外は、ウスペンスキーの思想である。あるいは、詩人・作家である。
 思うに、カントが物自体は認識できないと言ったが、それは、西洋哲学の正直な告白である。超越的同一性中心主義(ロゴス中心主義・同一性中心主義)に拠る限り、不可能である。もっとも、カントは、実践的には、道徳・倫理を直感していたのである。カント哲学には、即非の概念が欠落していたので、理論化ができなかったと思われるのである。そう、『判断力批判』において、構想力(想像力)によって、理性と倫理との分裂を解決しようとしたのであるが、もしカントが構想力に即非性・差異共振性を確認できたならば、トランス・モダン哲学を構築できたであろう。
 美と崇高をカントは問題にした。美は同一性に関係し、崇高は差異ないしは差異共振性に関係するだろう。前者は古典主義であり、後者はロマン主義とは言えよう。しかし、カントは、これらを統合できなかったのである。やはり、ここでも、同一性に囚われていたので、崇高美学が、超越・無限的であり、把捉できなかったのである。崇高性が、超越的差異共振性から発することを理解できたならば、カント哲学は、トランス・モダン哲学となったのである。また、美にしても、古典美学は、同一性が基盤とは言え、根源には、差異共振性は必要であろう。先に問題提起したが、芸術とは、心的差異共振エネルギーの表現であり、そのとき、同一性も包摂すると考えられる。カントが、あと一歩進むことができていたならば、世界は変わったであろう。超コペルニクス的転回が起こっていたであろう。
 ちなみに言えば、フッサールはカントより進んで、超越性(フッサールは超越論性と言っている)に到達したのであるが、それを、超越的同一性志向性(ノエシス/ノエマ)に限定してしまったと言えよう。この系譜から言うと、プラトニック・シナジー理論は、カント/フッサール/ウスペンスキーの延長にある。もっとも、即非という鈴木大拙の東洋・日本的理論の進展にあるのであるし、ポスト・モダン哲学の超克でもあるのである。だから、明らかに、プラトニック・シナジー理論は、西洋哲学と東洋・日本思想の創造的合流点に位置していると考えられるのである。根井康之氏の「東西思想の超克」
http://renshi.ameblo.jp/renshi/entry-10003249686.html
の理念であるが、それは、プラトニック・シナジー理論が実現したと言えよう。それは、また、科学をも包摂しているのである。

2007年12月16日 (19:56)

検討問題:社会と同一性(同一性共同体と差異共振共同体)etc.

1)先にもあげたが、同一性の構造の問題を再考したい。

2)社会のもつ閉鎖性について:共同体とは何か:同一性共同体と差異共振性共同体:

同一性共同体が世間というものである。ここでは、同一性は支配していて、それに対して、差異は否定・排除・隠蔽される。端的に、差別されるのである。それに対して、差異共振社会が考えられる。これも共同体ではあるが、同一性共同体と区別されなくてはならない。
 同一性共同体(世間)は、二元論・二項対立が中心化されている。つまり、上下差別的社会なのである。民主主義社会は、このようなものとなるのである。
 そう、結局、同一性=二元論・二項対立とは、なんらかの「超越性」が基盤にあるのであり、それで、上下優劣が発生するのである。同一性の基盤の「超越性」とは、虚軸上の+iに拠るのではないだろうか。この虚軸的超越性があるので、同一性は優越性をもって、差異・他者を同一性化させて、支配すると考えられる。
 この虚軸的超越性の同一性が権力と世間の基盤となると考えられる。結局、差異共振性、Media Pointの様相を取りだすことが重要なのである。
 単に超越性だけでは、同一性も噛んでいるのである。そう、今ふと思ったのであるが、デイヴィッド・アイク氏が、爬虫類人と呼ぶものであるが、それは、この超越的同一性(虚軸的超越性の同一性志向性)によって説明できるのではないのか、ということである。
http://www.asyura.com/07/revival2/msg/134.html
http://slicer93.real-sound.net/0-ig-space-8480.html
 そう、さらに今浮かんだことは、シュタイナーの悪魔論である。
http://blog.mag2.com/m/log/0000219955/108382429.html
アーリマンがこの爬虫類人であり、ルシファーとは虚軸的超越性のもう一つの極の-iではないだろうか。
 つまり、超越的同一性=爬虫類人=アーリマンではないだろうか。もっとも、超越的同一性と説明した方が、より学理的であると言えよう。そう、シュタイナーの発想を借りると、アーリマンとルシファーの協働によって、生命体が作用していることになるだろう。しかしながら、それは、物質的身体・心身としての生命体であり、精神・霊・智的生命体としてではない。
 とまれ、アーリマンとルシファーは相互補完的になり、近代合理主義を形成するのである。そして、差異共振性であるMedia Pointが否定・排除・隠蔽されるのである。平和の美徳ではなく、戦争の悪徳が肯定されるのである。
 シュタイナーの霊学では、アーリマン/キリスト/ルシファーの三相共振性が説かれるのであるが、これは、古事記/易=PS理論で言うと、三柱の神の三相共振相である。そして、これが、太古からの叡知であったと思うのである。この三相共振叡智を神道を継いでいるのである。しかしながら、先にも述べたように、父権的一神教の発生によって、三相共振様相が崩れたのである。超越的同一性(父権的一神教)が中心化されたのである。(そう、ユダヤ・キリスト教の神とは、悪魔であろう。つまり、アーリマン、爬虫類人であろう。)
 この超越的同一性の中心化は、二元論を生みだしたのである。例えば、天と地との二元論である。いわゆる、大地母神とは、この二元論によって、天の父との対極になるように発生したと考えられるのである。大地母神の考えは、かなり普及しているが、私は、女神、大女神、大母神は、本来、差異共振性・Media Pointではなかったのかと考えているのである。(この点は後で再考したい。p.s. 大女神ないしは母権制文化とは、三相を大女神としたのではないのか。三女神としての大女神ではないのか。)だから、聖母マリアという考えは、キリスト教の父中心主義の二元論によって、発生する大地母神に相当するのではないだろうか。
 とまれ、超越的同一性志向性ないしは超越的同一性エネルギーによって、太古の人類の叡知、三相・三元的叡知(三つ巴、天川の五十鈴http://www.tenkawa-jinja.or.jp/ )は、破壊されて、二元論的知性が中心化したのである。西洋文明・文化の発生である。二元論・二項対立文化による幽閉・牢獄・地獄が生起したのである。
 とまれ、今日、求められているのは、根源的三相的叡知を復活させることである。神道の叡知を復活させることである。陽である同一性から、陰である差異へと転換するときにおいて、実は、陽である同一性に囚われたままなのである。そして、それが、ポスト・モダン様態なのである。だから、太極の考えは、二元論的になりやすく、不十分なものとなるのかもしれない。もっとも、正しい太極の考えならば、三相になるのであるが。つまり、太極という第三の核心があるのである。
 思うに、スピリチュアル系の問題は、この二元論に囚われやすいことではないかと思う。これは、ポスト・モダン哲学と同様である。同一性を否定するので、反対の差異を肯定して、反動となるのである。問題は、同一性と差異との間にある差異共振性・Media Pointを肯定することなのである。これが、心の本体である。
 ずいぶん、話が飛躍したが、高次元差異共振共同体の構築であるが、それは、同一性を乗り越えたものである。そして、差異の反動も乗り越えたものである(アイロニカルな没入)。
 最後に一言いうと、超越的同一性であるが、それは、+iと-iの両方がそうではないだろうか。形相における同一性と質料における同一性があるのではないか。後で検討したい。

p.s. Media Pointを介して、虚軸的超越性は、±1に転換・変換する。現象化である。しかしながら、このときにおいても、Media Pointは生動していると思われるのである。⇒+1を+1としてのみ取るのが、超越的同一性中心主義-1である。しかしながら、⇒+1を正しく⇒+1として感じるのが、差異共振性・Media Pointの直感・心感性である。換言すると、X⇒+1であり、Xを漠然と感じるものである。
 今、思ったが、-iの中心化とは、無へと向かうのではないのか。神秘主義的無である。三島由紀夫の無である。しかし、ここには微妙な問題がある。ハイデガーの無は、+iと-iの両極の結合点であろう。それには、差異共振性・Media Pointが欠落しているのである。しかるに、三島の無には、共振性への志向が感じられるのである。ハイデガー哲学の闇は深いのである。恐ろしく深い闇があるのである。ハイデガーがナチスに関与したのは、その闇の心性からだろう。
 超越神(唯一神)とは、差異共振性をもたない、さらには、差異共振性を否定するものである。それは、同一性に帰結する。
 問題は複雑で、+iの同一性と-iの同一性があるだろう。前者が光の同一性であり、後者が闇の同一性であろう。アーリマンの光とルシファーの闇である。この光と闇の合間にある差異共振性・Media Pointを取り戻さないといけないのである。シュタイナーはそれをキリストと呼んだが、それは、西欧文化の文脈においてである。それは、日本文化では、天之御中主神、天照大神、大日如来、空である。
 さて、今ふと、プラトンのコーラのことが浮かんだ。イデアとコーラの関係は興味深い。コーラは端的に、差異共振性・Media Pointのことではないのか。それは、形相と質料の共振様相ではないのか。そして、それが、イデアではないのか。私はかつて、深山の山を見て、山のイデアを直観した。また、フェルメールの絵画を見て、イデアないしは特異性を感じた。
 +iと-iの共振様相としてのコーラであり、イデアではないのか。即ち、コーラ・イデアである。そして、西洋哲学は、そこから、同一性を引きだして来たと言えよう。思うに、遺伝子も正しくは、Media Pointではないだろうか。それが、物質化したのが、DNAということではないのか。つまり、Media Pointの物質面があり、それが、DNAではないのか。それは、Media Pointの実軸様相であろう。
 そう、今啓(ひら)めいたが、実相の世界とは、Media Point世界(Media Point World or Media Point Cosmos)なのではないか。現象世界とは、Media Pointが実軸化した世界である。連続化・同一性化した世界である。三次元ないしは四次元時空間である。そして、それは、虚軸世界にいわば、覆いを覆っているので、実相世界が知覚・認識されないのである。つまり、四次元時空間における連続・同一性感覚知覚現象しか認識していないのである。連続・同一性が +1である。⇒+1の⇒を捉えられないのである。
 実相は、差異共振性であり、超越的対極共振振動(太極振動・太極波動)である。そして、根源は三相であり、連続・同一性は四元(四大)となるのではないのか。そして、三相とは、空であり、四大に加えて、五大(地水火風空)になる。思うに、中世キリスト教において、占星術的観点から、四人の福音書家(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ:牡牛、獅子、鷹、天使:順番は怪しい)とキリストを合わせた五元性があったのである。キリストは、空になるだろう。そう、思うに、西洋文化においても、キリストを空と捉える発想があったように思えるのである。仏教的思想が西洋中世に入っていたのではないだろうか。あるいは、ケルト文化的発想がキリスト教に入ったのではないのか。(とまれ、数字で言うと、根源の3と現象の4で7となる。)
 さて、実相世界をMedia Pointと考えたが、そこでは、五次元と四次元の交差する世界であり、通常は、後者の現象世界に閉じこめられている。グノーシス主義のように現象世界を悪と捉えるのは、単純化である。なぜなら、Media Pointから必然的に発生するのが現象世界であるからである。いわば、同一性による衣装・衣服・ファッションとしての現象世界なのである。
 そう、私が言いたいのは、魂、霊魂、霊のことである。結局、それは、Media Pointであろう。では、何故、多数の魂が生起するのかということになるだろう。思うに、多数の魂とは幻ではないだろうか。思うに、根源的には、一つの魂the Soul/the Spiritがあるだけではないだろうか。一つの魂の時間的多様化が、個別の多数の魂ではないのか。ユダヤ神秘学では、アダム・カドモンという原人間を想定しているが、それが、一つの魂ではないのか。
 そのように考えると、唯一神の考え方も変わってくる。問題は、超越的同一性の唯一神と、Media Pointの唯一神の二種類の唯一神である。
 ヤハウェ(エホバ)は前者で、エローヒームは後者ではないのか。つまり、聖書においても、Media Pointがあったのであり、それが、エローヒームではないのか。
 そう、とにかく、Media Pointとの唯一神は、実は、多神である。八百万の神である。一即多である。(宮崎駿の神学がこれである。)思うに、イスラーム教のアッラーとは、これではないだろうか。つまり、一神教とは言え、ユダヤ・キリスト教の唯一神とイスラーム教の唯一神は別物ではないのか。ただし、前者においては、二重になっているのであり、そして、超越的同一性が主になり、Media Pointが従になり、さらには、否定されていったと考えられるのである。
 アメリカの神話学者、ジョセフ・キャンベルの主著・傑作『神の仮面』にあるように、正に、神とは、一即多であり、仮面をもっているのだろう。
 結局、宗教・神話の根本的問題は、Media Pointに様態にあると言えよう。一即多が根本であるが、ある出来事によって、一が強大化して、多を否定する事態になったのである。父権的唯一神化である。Media Pointの傾きと言えるのではないだろうか。思うに、単に、陽への傾斜だけでなく、陽への極限化である。そのために、陰が否定されたのである。太陽となり、陰が無化されたのではないか。とまれ、陽中心化が発現したのであり、ユダヤ・キリスト教文明が生起したのである。同一性中心主義(ロゴス中心主義)の文明である。そして、その帰結が西欧近代主義/西欧近代合理主義/西欧唯物科学・技術・資本主義である。
 当然ながら、陽への極限化は、陰へと回帰するのである。これが、ポスト・モダンであった。しかしながら、陽の極限化による同一性中心主義が強く、太極=Media Pointを捉えられなかったのである。陰陽の連続体に留まったのである。
 結局、不連続的差異論を発展させたプラトニック・シナジー理論が、太極・即非様態であるMedia Poinを捉えることとなったのである。

p.p.s. 今、ふと思ったが、『指輪物語』のロスロリアンとは、差異共振性から想像的に表現したものではないのか。
 
 
3)四大としての水とは何か:火と水の共振創造について:あるいは、水の心感性とは何か:心感受性の問題

4)フェルメールの絵画について:イデアと特異性
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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