2007年10月01日 (21:42)

シュタイナーの霊学とプラトニック・シナジー理論:霊性の実践学としての知

f:id:sophiologist:20070930223310j:image

照応する宇宙 (シュタイナー コレクション) (単行本)

ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著 ), 高橋 巌 (翻訳 )

http://www.amazon.co.jp/%E7%85%A7%E5%BF%9C%E3%81%99%E3%82%8B%E5%AE%87%E5%AE%99-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/448079073X

久しぶりに、シュタイナーの本を読んだが、この本は面白かったというか、シュタイナーの霊学がプラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)に通じることがはっきりわかったのが収穫である。これまで、私はシュタイナーの霊学を霊的唯物論であると批判してきたが、謝罪しつつ、誤りを訂正しないといけない。霊的唯物論とは中沢新一の用語であり、中沢の「思想」に当てはまるもので、シュタイナーの霊学には適用されないと考えられるのである。
 とまれ、この私の判断の転換をどう考えたらいいのだろうか。思うに、PS理論が初めより深化して、より熟してきて、より普遍的な視点をもつようになったということではないだろうか。
 例えば、シュタイナーのいうアストラル体やエーテル体という、いわば、オカルト的な概念であるが、それは、PS理論のMedia Pointの様相で説明できそうである。即ち、Media Pointの虚軸性がアストラル体、Media Pointの実軸性がエーテル体というように考えることができそうである。まぁ、当たらずといえども遠からずであろう。
 つまり、シュタイナーの霊学とは、オカルト学ではなくて、差異哲学、差異現象学(現象学はフッサールの意味で捉えられなくてはいけない)、差異数理科学として、説明できるように思えるのである。今は、残念ながら、余裕がないので詳述は行なわないが。
 この本の重要な箇所は、他に、訳者高橋巌氏による長文の解説『シュタイナーの宇宙思想』である。ここでは、仏教の視点からシュタイナー思想を解説しているのである。目が開かれる内容をもっている。高橋氏の独創的な概念である「エーテル的・アストラル的世界海」という考え方は大事だと思う。これは、正に、 Media Pointの宇宙的様相(コスモス)を表現している思えるのである。この点も余裕があれば後で触れたい。この本はお薦めである。ただし、シュタイナーの基本的思想に馴染んでいない人には、意味不明な点が多いだろう。叙述は平易平明であるが、かなり難解な本である。

2007年10月01日 (02:05)

シュタイナーのコスモス:ハートの思考とMedia Pointの思考:Media Pointと空間

照応する宇宙 (シュタイナーコレクション) (単行本)
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E7%85%A7%E5%BF%9C%E3%81%99%E3%82%8B%E5%AE%87%E5%AE%99-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/448079073X

久しぶりに、ルドルフ・シュタイナーの本を読んでいるが、この書は、シュタイナーの霊学の一つの核心が述べられている重要なものだと思う(第四講と第五講が未読であるが)。
 余裕があれば、引用して検討したいが、ここで述べられている霊学は、プラトニック・シナジー理論と通じるものがあると直感した。初め、オヤッと意外に思ったが、ハートの思考(ハートの論理)を重視しているのが、共感できるのである。ハートの思考とは、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)の Media Pointの思考に通じると思ったのである。
 心の思考であるが、心というと多義的なので、誤解を生むが、訳者の高橋巌氏が、ハートの思考と訳してあるので、明快になったと言えよう。PS理論の Media Pointは、人間においては、超越的差異の共振するポイントであり、他者との共振を形成する領域であり、ハートの思考に通じると考えられる。
 シュタイナーは頭脳(知性)の論理とハートの論理を区別しているのだが、PS理論では、前者は同一性の論理であり、後者は即非の論理となるだろう。
 また、もう一つの興味は、シュタイナーのコスモス論である。実に興味深いのである。マクロコスモスとミクロコスモスの照応を説くのであるが、これは、一般に神秘学の基本的テーゼであるが、その内容が独特であると思った。太陽系のコスモスと人間の内面のコスモスとの照応が説かれているのである。今、丁寧に説明できないのが残念であるが、睡眠と覚醒のミクロコスモスが太陽系のマクロコスモスと連絡しているのである。ここで言われるコスモスとは、霊的宇宙のことである。物理学の宇宙、物質的宇宙のことではなく、その背後・背景にある霊的宇宙のことなのである。
 私は、今、次元の問題で悩んでいるので、シュタイナーのコスモス論はそれなりに参考になる。そこで、少しそれを出発点にして、いろいろ考えてみたい。
 結局、シュタイナーのコスモスとは、PS理論で言うと、ちょうど差異のコスモスに当たると考えられるのである。感覚・物質界とは、正に、Media Pointからの連続性・同一性によって形成されるものであり、根源・真相・本体の差異共振性が隠されるのである。
 シュタイナーが言うマクロコスモスとミクロコスモスはPS理論ではどうなるだろうか。思うに、両者、Media Pointになるのではないだろうか。自己で考えると、自己とは、Media Pointであり、ここにミクロコスモスがあると言えよう。そして、これは、大宇宙(マクロコスモス)と共振するということになるだろう(参考: Kaisetsu氏のメディア共鳴)が、大宇宙もMedia Pointとなるということである。
 興味深いのは、太陽系と黄道十二宮と人体の骨と結びつけていることである。12と31という数が共通となるのである。とまれ、PS理論は今のままでは、太陽系をうまく説明できないだろう。
 また、興味深いのは、現象界(物質界)ー元素界ー霊界ー理性界ー原像界という霊的階層性を説いていることである。【私流に造語すると、現象界ーエレメント界(四大界)ー星霊界ー超理性(超知性)界ー原霊界となる。】
 次元の問題を言うと、シュタイナーは、ウスペンスキーと同様に、四次元を考えているが、ウスペンスキーは高次元としての四次元であり、シュタイナーは霊的次元としての四次元である。これは、PS理論の虚軸の超越次元で説明がつくのである。
 どうして、物質界が三次元空間なのかは、シュタイナーには、説明されていない。シュタイナーが説く霊的コスモスが本体としてあり、それにベールがかかっているのが感覚・物質界であるというのは、PS理論と共通すると考えられるので、わかりやすいのではあるが。
 直感に頼ろう。シュタイナーもやはり、霊的次元は、対象と主体とが一体であると述べている。これは、私が先に言ったコスモス体験と同質の事柄である。
 コスモス次元、超越的次元は三次元空間を包摂していると考えられる。この包摂次元において、物質的空間の同一性は仮象となるだろう。即ち、超越的次元とは差異共振性があるのであり、それは、同一性=物質性を超克していると考えられる。例えば、私と眼前の鳥海山の間には、物質界においては距離5kmあるとすれば、超越的次元(コスモス次元)においては、距離はないのである。私と鳥海山は即非的一体なのであるから。つまり、i*(-i)の様相である。(iが私で、-iが鳥海山である。)
 より精緻に考えよう。包摂次元を超越的次元と考えたが、Media Pointは包摂次元にならないのか。ここは微妙である。私が先に言ったコスモス体験であるが、それは、私と立山連峰とは一体であるという事象であったが、それは正確に言えば、Media Point的体験であると言えよう。Media Point的即非体験であり、そこで、超越的次元が現前・顕現すると言えよう。
 ならば、三次元空間を包摂している超越的次元は、やはり、虚軸と端的に見るべきであり、Media Point自体ではないことになる。Media Pointは独特な「次元」である。それは、思うに、シュタイナーの説く霊的階層と通じるのではないだろうか。先に、現象(物質)界ー元素界ー霊界ー理性界ー原像界という階層をあげたが、Media Pointは、元素界ー霊界ー理性界に当たるのではないだろうか。現象(物質)界は、端的に、連続的同一性の世界であり、原像界はイデア界・超越界、即ち、虚軸界に相当すると思われるのである。(理性界は、連続的同一性を形成するものと考えられるので、さらに説明が必要である。)
 さて、核心の次元の問題である。超越的次元がMedia Pointから連続化=同一性化するときに、三次元空間が発現するということになるのであるが、連続化は超越的差異のもつ波動に拠ると考えられる。端的に、これが電磁波ないしは光であり、光によって現象界・物質界が形成されると考えられる。Media Pointにおいて、E⇒mc^2となると考えられる。同一性は光速度で示されるだろう。だから、時空間的同一性である。
 光によって、同一性時空間が説明できる【i*(-i)⇒+1】が、距離はどうやって説明ができるだろう。例えば、地球から月への距離と地球から太陽への距離をどう説明できるのか。なぜ、距離の違いが生まれるのか。超越的次元では、地球と月とは即非関係にあると考えられるだろう。だから、距離は、実軸で言うと、ゼロである。
 私が知りたいのは、物理的距離、空間の発生のシステムである。思うに、簡単ではないだろうか。+1を例えば、光速度であり、一秒間の光の進む距離とすればいいのである。だから、時間の経過によって、二秒間の距離、三秒間の距離、等々と形成されると考えればいいのではないだろうか。時間はMedia Pointのエネルゲイアに基づくと言えよう。
 これで、距離の発生の説明は済んだが、次元の問題は未了である。ここで、虚軸の超越界を面とすると、それが、Media Pointからの同一性=光化によって、距離を発生して、立体になると言えないだろうか。つまり、虚軸ならぬ、虚面を想定するのである。虚面が同一性=光化して、距離(奥行き、遠近、前後)が発生するということである。
 そう仮定するならば、問題は、虚面である。どうして、虚軸が虚面になるのか、である。線がどうして平面になるのか、である。先に、Media PointにおけるMedia Point Plane(メディア平面Media Planeと読んだ方が適切だろう)を仮定したが、それは、今一つである。
 ここで、想起するのは、不連続的差異論が創造されて間も無いころは、私はメディア界を平面として想像して考えていたのであり、今、参考として、当時の考えを述べてみよう。不連続的差異論において、イデア界と現象界の間にメディア界があった。そこでは、不連続的差異と連続化されて現象界が発生するのであった。そして、メディア界を平面として想像して、メディア平面を考えたと思う。
 メディア平面の一面がイデア界に面しているのであり、他面が現象界に面しているのである。つまり、メディア平面から垂直的投影によって現象界が発現するのである。何故、垂直的投影なのか。当時は単純にそう考えたのである。つまり、メディア平面を言わば、目として考えて、そこから垂直に光を発すると考えたのである。同一性の光である。
 とまれ、やはり、ここでも問題は平面である。メディア平面とは何か、である。不連続的差異論における発想はこれくらいにして、PS理論に戻って考えよう。
 問題は、Media Pointの独特な即非様相を考慮すべきことである。ここでは、超越性・即非・現象性となるのである。差異・即非・同一性なのである。言い換えると、不連続性・即非・連続性なのである。
 連続性(同一性)の側面で考えると、ドゥルーズのような内在平面の発想が生まれてくるだろう。しかし、どうして平面なのか。わからない。言えることは、連続的側面の場合、虚軸が虚軸でなくなり、実軸と重なるのではないだろうか。思うに、時間軸を考えると、実軸の平行移動ということで、平面が考えられるのだろう。
 不連続的側面の場合、虚軸と実軸が明確に分離される。思うに、ここでこそ、垂直性が発生すると言うべきではないだろうか。
 そして、連続的側面と不連続的側面を結合して考えると、平面とそれに直交する垂直性が考えられないだろうか。もし考えられるならば、それは、三次元空間である。もしそうならば、三次元空間とは、超越的差異の連続性と不連続性との結合において発生するものということになる。言い換えると、Media Point的三次元空間ないしは四次元時空間と言えるだろう。そして、Media Pointが潜在しているので、総体では、四次元空間ないしは五次元時空間となるだろう。今のところはここで留めたい。
 最後に、シュタイナーが述べているこれまた興味深い、境域の守護霊のことであり、ミクロコスモスへの境界には、境域の小守護霊が、マクロコスモスへのそれには、境域の大守護霊が存すると述べていることである。シュタイナーは彼なりに、物質界とコスモス界との裂け目を認識していると言えよう。しかしながら、境域の守護霊とはなんだろうか。それは、哲学的には、構造であろう。同一性構造である。これが、あるために、通常の知覚・認識・意識は、差異の知覚・認識・意識を言わば忘却しているのである。同一性構造がいわば蓋をして、差異を閉ざしているのである。
 では、小守護霊、大守護霊とはどう説明されるのだろうか。これは、同一性構造の内界性と外界性で説明がつくのではないだろうか。後で再検討したい。

2007年09月26日 (20:58)

次元について:Media Point Planeと現象三次元空間:ディオニュソスとアポロ

この問題は、アポリア(難問)である。今の段階で、最高の理論的難問である。今日、昼間、考えたことから考察したい。
 これまで、三次元空間を前提にして、次元形成の問題を考えてきたが、一番のポイントは、第三次元ないしは奥行きの次元にあると思われる。というのは、奥行きの次元は、遅れて発生したと考えられるからである。つまり、遠近法の形成は、近代の出来事であり、それ以前には、存在しなかったからである。そこで、三次元を前提にするのではなく、直感から次元問題を考察しよう。
 コスモスと言うとき、それは、森羅万象が一体となっている様態である。例えば、私は列車の窓外の真っ白な雪を頂いた立山連峰を見ているとしよう。列車は立山連峰に近づいてきて、窓外には、巨大な連峰が聳え立ち、私はその存在に圧倒される。私と立山連峰は一体となり、宇宙的なシンフォニーが奏でられる。ブルックナーの第八交響曲のようである。
 コスモス的体験とは、端的に、Media Pointの体験である。ここにおいて、心ないしは心身は垂直的経験をして、森羅万象とつながるのである。つまり、差異共振化するのである。
 そう、この体験の次元を問題にしたいのである、先ず。ここでは、他者と私は一体(一如)であるから、遠近法が成立たない。つまり、通常の距離感が消滅しているのである。だから、三次元空間はないことになる。直感では、二次元である。平面空間があると思う。思うに、これが、ガウス平面をつながるのではないだろうか。
 何故ならば、Media Pointにおいて、垂直的共振によって、私は他者(差異)と一体であるという体験をすると考えら、また、私の視線は、窓外の巨大に聳え立つ雪の衣を着た立山連峰、即ち、外的対象を捉えているので、実軸の出来事と考えられ、結局、垂直と水平との重なりの空間(=コスモス)があり、それは正に、二次元平面空間としてガウス平面と通じると推測されるからである。これを作業仮説としよう。
 つまり、現象発生論的に見ると、三次元空間ないしは四次元時空間の発現以前に、Media Pointの事象があるのであり、それは、二次元空間であると考えられるのである。
 では、次に、奥行き、遠近の発生の問題である。Media Pointにおけるコスモス的体験(ディオニュソス的体験とも言えるだろう)を鎮まると、主客分離が生起して、私と立山連峰は別々の存在になる。ここににおいて、遠近・奥行きが発生すると言えよう。それまでは、上下・左右が存在したが、これに前後が付け加わるのである。つまり、三次元空間が発生するのである。ニーチェの言葉で言えば、アポロ的なものが形成されるのである。これで、三次元空間の発生は説明がつくだろう。
 では、時間はどうなるのだろうか。Media Pointにおける私と立山連峰との一体感におけるコスモス体験において、私は、宇宙的シンフォニーが奏でられると言ったが、音楽の発生に注意すべきである。これは、正に、時間的なものが発生しているのである。エネルギー(エネルゲイア)が発生していると考えられるのである。つまり、コスモス体験とは、三次元時空間を意味すると考えられるのである。
 そして、Media Pointから物質的現象化によって、三次元空間が発現するのであるが、隠れたMedia Pointにおいて時間次元(=エネルゲイア次元)が潜在しているのと言えよう。これで、四次元時空間としての現象時空間が説明できよう。
 さらに考察すると、Media Pointにおける三次元時空コスモスと物質的現象界における四次元時空間との関係をどう見るべきなのだろうか。前者の方が高次元であるのに、次元数が少ないのはおかしいと言えよう。どう考えるべきなのか。換言すると、平面空間から立体空間への変化をどう考えたらいいのか。
 問題点は、どうして、遠近・前後・奥行きを付け加わるのかという点にあるだろう。それは端的に、Media Pointの垂直次元・超越的次元が消失するからであろう。その換わりに、同一性の遠近法が発生するということになるだろう。つまり、差異と差異との共振次元が消えて、同一性の次元が発生して、それが、遠近・前後・奥行きの次元になるのではないだろうか。
 思うに、この同一性の次元の発生が、純粋な三次元空間(近代的物理空間)の発生を意味するのではないだろうか。それまでは、上下は天地の次元であり、天は神の領域であり、地は被造物の領域であったし、また、左右も左は悪しき方向(英語の「邪悪な」のsinisterは語源では「左手の」を意味する)で、右(英語でrightは、右であり、正しいを意味する)が正しい方向であったろう。
 とまれ、Media Point的空間(ディオニュソス的空間)から同一性的空間(アポロ的空間)へと転換して、遠近・前後・奥行きが発生したと言えよう。イタリア・ルネサンス絵画の遠近法(背後に風景が描かれる)の発生である。
 だから、平面空間(三次元時空間)から立体空間(四次元時空間)への転換に関する問いに答えるならば、Media Pointにおける平面空間とは、超越次元をもつ平面空間であり、現象空間とは同一性に基づく立体空間であり、両者において、次元の意味が異なっているので、量的な比較は意味がないということになるだろう。
 正確に言えば、Media Pointの空間とは、量的な、同一性的な二次元空間ではなく、超越的な二次元空間である。言い換えると、超越的な平面空間が同一性的な立体空間へと転換したということである。言い換えると、超越的垂直が、同一性的垂直(上下)と同一性的遠近(前後:思うに、時間的前後ではないだろうか)を発生させたということではないだろうか。
 では、左右はどうなのだろうか。今のところは、作業仮説として、垂直から水平への転換において、最初に発生するのが、左右的水平性であるとしておきたい。つまり、Media Point Plane(Media Point平面)において、超越的垂直(超越的上下)と水平(左右)の平面空間が発生したと考えるのである。つまり、ガウス平面の発生そのものと言えるのではないだろうか。
 最後に、ドゥルーズとガタリの共著において、共立平面ないしは存立平面という概念がよく使用されていたが、思うに、この平面は、正しくは、Media Point Plane(メディア・ポイント平面)ではないだろうか。そうした方が、差異の共立・共振を明確に考えることができるのである。何故なら、ドゥルーズとガタリの連続的差異の共立の考え方では、差異の同一化がもたらされてしまうからである。
 今はここで留めておきたい。

2007年09月19日 (00:30)

超越界から三次元ないしは四次元への展開の解明

本件に関して、今は、随想形式で、試行錯誤していきたい。その中から、ヒントが得られればいいと思っている。

 例えば、一次元空間と二次元空間を比べよう。前者は、後者に包摂されている。次に、二次元空間と三次元空間を比較すると、平面は立体に包摂されている。次に、三次元空間と四次元空間を比較すると、帰納法的に、前者は後者に包摂されているということになる。(参照:ウスペンスキーの四次元論)
 問題は、時間であるが、時間は、Kaisetsu氏の解明によって、Media Pointと見ることができるので、時間次元はそう把握する。それを四次元と考えると、超次元・高次元は、五次元となる。(物理学者リサ・ランドールは、隠れた次元を五次元と考えている。)
 問題は、五次元から、Media Point=時間次元を介して、三次元へと展開するのか、それとも、五次元⇒Media Point=四次元⇒Media Point⇒三次元⇒Media Point⇒二次元⇒Media Point⇒一次元というように次元を降下するごとに、Meidia Pointを介するのか、である。そうならば、書き直して、五次元⇒Media Point⇒四次元⇒Media Point⇒三次元⇒Media Point⇒二次元⇒Media Point⇒一次元となるのかもしれない。もっとも、これまでの考えでは、後者はありえないだろう。
 しかしながら、Media Pointを介して、三次元空間が物質化するというのは、なにか唐突な感もあるが、その通りに考えれば、差異の志向性とは、同一性的志向性となり、それは、三次元的同一性志向性となるだろう。つまり、立体的同一性志向性である。三つの垂線をもった同一性志向性である。これを、とりあえず、原三次元志向性とでも呼ぼう。
 しかしながら、原三次元志向性とは、元々、差異の志向性である。すると、差異即非共振的志向性が本来的である。これと原三次元志向性とはどう関係するのか。これまでの考え方では、差異の志向性が、Media Pointを介して、同一性の志向性へと展開して、物質化する。そして、差異が超越的に潜在している。
 この考えに従って、差異即非共振的志向性(差異の志向性)と原三次元志向性を包括するならば、差異即非共振的志向性は原三次元志向性を包摂しているということではないだろうか。そして、Media Pointにおいて、三次元志向性(三次元同一性志向性)となり、差異即非共振的志向性は、Media Pointとして、超越的に潜在しているということではないだろうか。
 そうすると、三次元志向性が三次元空間(現象空間)を実現(物質化)させ、Media Point(=時間次元・四次元)において、差異即非共振的志向性=超越的次元(高次元・五次元)が交叉しているということになるのではないだろうか。
 そのように考えると、超越的差異とは、原三次元的差異ということになるのではないだろうか。つまり、原三次元的差異が、Media Pointにおいて、同一性化するが、それは、端的に、三次元空間化である。即ち、

1.超越界:原三次元的差異⇒2.時間界:Media Point(四次元)⇒3.現象界:三次元空間(同一性・物質空間)

と図式化されるだろう。そのように考えると、超越的差異=イデアは、言い換えると、原三次元性的差異即非共振性となるだろう。原三次元性と差異即非共振性が結合している様相にあると言えよう。比喩的に言うと、上下・左右・前後の三次元空間を考えると、超越界では、上・即非・下、左・即非・右、前・即非・後という原三次元即非様相にあるだろう。
 では、差異即非共振性はそこではどう表現されるだろうか。上下の場合を考えると、上*下が、差異即非共振性ではないだろうか。すると、全体では、上*下/左*右/前*後となるだろう。
 しかしながら、これでは不十分である。何故なら、原三次元的差異即非共振性(=超越的差異・イデア)とは、始点が一つであり、終点も一つであると考えられるからである。だから、例えば、(上・左・前)*(下・右・後)のようなペアを考えなくてはならないだろう。これが、原三次元的差異即非共振性の表記となるだろう。しかし、・を排して、(上*左*前)*(下*右*後)とする方が的確かもしれない。これが、i*(-i)の空間的意味合いである。
 そして、これが、先に私が作業仮説したコスモスである。作家、詩人、画家、音楽家、哲学者、神秘家等が直感したコスモスがこれと思われる。しかしながら、正確に言うならば、コスモスは、Media Pointにおけるそれである。 
 問題は、そのような直感されたコスモスがこれまで、理論化されてこなかったことである。(もっとも、今日、物理学は、五次元として、コスモスを理論化するようになっている。)これは、直感されたコスモスが、本来、超越的であるが、近代主義においては、内在性の思考が主導的、中心的なために、明晰に把握できなかったためと考えられよう。単なる、詩人や天才の卓越した想像・空想・幻想としか考えられないできたと言えよう。誰が、宮沢賢治のコスモスを真実在と考えたであろう。誰が、ボードレールやマラルメのコスモスを同様に考えたであろう。ましてや、ロレンスのコスモスをである。
 ここで、作家等の直感で捉えたコスモスの問題点であるが、Media Pointと同時に、連続性・同一性において把捉される傾向があることである。つまり、言い換えると、一体性を強調するので、全体主義的傾斜をもちやすいということである。しかしながら、脱同一性化して、Media Pointのコスモス、超越界として看取すべきであると考えられる。今はここで留めたい。

注:以上は、次のブログから独立させたものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10047685416.html

2007年09月17日 (21:53)

差異のコスモスと同一性宇宙:Media Pointにおけるコスモスと宇宙

テレビのニュースを視聴して、今日の暑さが、主観的なものだけではないことを確認したが、本当に、やる気をなくす暑さである。言わば、時間差攻撃で、たまらない。焦熱地獄に陥ったのか。
 
 さて、今日は、差異の次元と同一性次元について、いろいろ試行錯誤した。一番の問題点は、虚次元=高次元=超越界(イデア界)から、どのような仕組みで、三次元空間(四次元時空間)が発現するのかという点であり、結局、これは、難解で答えが出ないままであったが、結局、虚次元=高次元=超越界は、三次元空間を包摂しているという点を確認した。超次元には、上下・左右・前後の対の空間性が内包されているということを考えた。そして、それは、作家や詩人が直感で捉えた「コスモス」であると思ったのである。
 今日の収穫は虚次元=高次元=超越界(イデア界)としての「コスモス」の概念を得たことである。私たちは、日常、三次元空間ないしは四次元時空間という世界・宇宙を見て、その中で暮らしているが、通常、「コスモス」というものを知覚・意識・認識しない。(「コスモス」とは、天文学者が使用する術語としてのコスモスではなく、作家、詩人、神秘家が使用するものとしての「宇宙」である。簡単に言えば、宮沢賢治の作品にある宇宙が「コスモス」である。)
 西洋近代思想史から言うと、ルネサンスまで存した古代宇宙論(コスモロジー)が近代科学の勃興によって破壊された。古代的コスモス(アリストテレス的宇宙観)は、コペルニクス/ガリレオの近代的宇宙観(近代天文学)によって、崩壊した。そして、自然科学や近代的技術が、主要な、主動的な知識・技能となり、今日まで続いていると言える。
 この自然科学・近代的技術等によって、三次元空間ないしは四次元時空間の宇宙観が生起したのである。もっとも、相対性理論や量子力学によって、近代的宇宙観は解体して、現代的宇宙観が形成されたと言えよう。しかしながら、基本的な三次元空間ないしは四次元時空間の概念はそのまま継続している。(p.s.  最近、物理学者リサ・ランドールの提起する隠れた次元をもつ五次元宇宙論に注目が集まっている。物理学は、超越界へと一歩歩み出したと言えよう。)
 この近代科学の動きとは別に、作家(芸術家)、詩人、神秘家等は、「コスモス」の思想を復活させたのである。これは、近代合理主義から見ると、非合理主義である。主体と客体とが融合する宇宙観である。近代的主客二元論を超克する意味があるが、理論的に、明確に為されたものではなく、直感的である。
 さて、ここで、プラトニック・シナジー理論(PS理論)を考えると、虚軸の超越界を説いているのであるが、それは、i*(-i)という超越的差異の即非関係を説いている。これは、正に、「コスモス」であると言えよう。差異であるiとその他者である差異-iとが、即非的に共振している様態を提示しているのである。
 ここにおいて、上下・左右・前後の三次元が包摂されていると言えるだろう。四次元ないしは五次元(時間も加えて)としての高次元=虚軸=超越界(イデア界)である。また、ここでは、「わたし」と「他者」とが、即非共振しているのである。ここでは、森羅万象が即非共振していると考えられるのである。ここで想起するのは、D. H. ロレンスの畢生の名作『逃げた雄鶏(死んだ男)』の一節である。宇宙の不可視の薔薇に包まれる様子を描いているが、その宇宙の薔薇こそ、高次元=虚軸=超越界(イデア界)に相当すると考えられるのである。以下、引用する。

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「 『神殿を出たふたりを夜明け前の冷たい空気が包んだ。扉を閉じるとき、彼は再び女神を眺めた。彼は言った「見よ、イシスは情ある女神ではないか。優しさに満ちた女神ではないか。偉大な神々は温かな心を持ち、優しい女神を持っている」 
 女はマントに身を包み、無言で、盲いたように、黄金の蕊(しべ)に新鮮な生命を秘めて再び柔らかに閉じようとする蓮のように、思いに沈みながら家に向かった。彼女は何も見なかった。彼女は自分自身の花弁に鞘のように包まれていたからである。彼女はただこう考えるばかりであった「私はオシリスに満たされている。私は甦ったオシリスに満ちている!」
 しかし男は海に降り注いでゆく夜明け前の生き生きした星を、水平線に向かうシリウスを見詰めていた。そして彼は考えた「なんとしなやかなのだろうか。露に濡れた暗闇のなかに暗い花弁を咲かせた眼に見えぬ薔薇のようだ。柔らかな線と襞の豊かさ! なんと満ち満ちているのだろう、そして、いかなる神々も及ばぬほど偉大なのだ。私をおし包み、私をその宇宙の偉大な薔薇の一部分にする。私はその芳香の微細な一粒に似ている、そして女はその美の微細な一粒なのだ。世界はおびただしい花弁を持つ暗闇のひとつの花でり、私はその芳香に触れているのだ」
 そうして、彼は絶対の静寂と全的な感触につつまれて夜の明け方、洞窟で眠った。夜が明けると風が起こり、冷たい雨を伴った嵐になった。彼は洞窟のなかで、安らかな感触と喜びを味わい、海の音と地をうつ雨の音を聞き、頭をたれていつまでも濡れつづけている一本の白と黄金色の水仙を悦ばしげに眺めつづけていた。彼は言った。「これが、接触するということが大きな償いなのだ。灰色の海と雨、濡れた水仙と私が待っている女、眼に見えぬイシスと眼に見えぬ太陽、それらはみな触れあい、一体となっている」』396〜387ページ 伊藤礼訳 『世界文学全集 ロレンス 息子と恋人/死んだ男』河出書房1968年」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10009947916.html

「男は、夜明け前の生気に満ちた星々が海の上に雨のように降り注ぎ、天狼星が海の縁近くで緑色の雨のように降り注ぐのを眺めていた。そして、思った。「何という造形の妙だろう。何と曲線と襞(ひだ)にあふれていることか! まるで、露と暗闇が触れ合うところに、目には見えない黒い花弁を開くバラのようだ。何とあふれるほど充実していることか、神々も及ばぬその偉大さ。それはわたしを取り巻くように傾き、わたしはその一部となる。この大いなるバラの宇宙の一部なのだ。わたしはその香料の一粒、そしてあの女はその美の一粒なのだ。今や、世界は多くの花びらを開いた一輪の暗闇の花であり、わたしはその香りのなかに、まるで肌を触れ合うように浸っている。」
 こうして、触れ合いの全き静寂と充足に浸ったまま、男は洞のなかで、夜明けとともに眠りに入った。夜がすっかり明けたころ風が吹き出し、冷たい雨をともなった嵐となった。それで男は洞のなかにとどまって、触れ合っている安らぎと歓びに浸って、海の音や、知を打つ雨の音を聞き、一輪の白と金に彩られた水仙が、雨に濡れてうなだれたまま、まだ今も依然として濡れているのを見て大喜びだった。彼はつぶやくーー「この触れ合いのうちに身を浸すこと、これは、偉大な贖罪だ。灰色の海も、雨も、濡れた水仙も、わたしの待つあの女も、目に見ぬイシスの女神やあの太陽も、すべてが触れ合いのうちに、ひとつのものになっている。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10013869782.html

『D.H.ロレンス短篇全集 5』岩田昇訳 大阪教育図書2006年 218〜219ページ」
なお、訳では、イシスをアイシスとしている。

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 さて、ということで、虚軸・超越界(イデア界)・高次元は三次元空間を包摂した差異即非共振界=「コスモス」であるということになったが、問題点は、 Media Pointとどう関係するのかである。Media Pointにおいては、超越的差異と連続的同一性がゆらいでいる。前者は「コスモス」であるが、後者は物質的現象界である。文学で言えば、ファンタジーの世界に相当する。空想世界であったり、三次元現象世界であったりするのである。しかしながら、「コスモス」とは、虚軸・超越界(イデア界)・高次元世界であり、それは、宗教的には、神界であると言えよう。天国・極楽浄土・涅槃である。高天原、エデンの園であろう。エリュシオンである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3
 そのように考えると、魂は、「コスモス」に存することになるが、これをどう説明するのかが問題である。私は先に、超越的差異=霊spiritと考え、 Media Point=魂soulと考えた。その後、霊界を超越界からMedia Pointに移した。つまり、霊界に魂が存するのである。しかしながら、今や、魂は霊界を超えて、超越界に存することになった。これをどう考えたらいいのか、である。
 結局、霊も魂も同一であるということではないのか。i*(-i)とは、霊であり、魂である、つまり、霊魂であるということである。そして、これは、神でもある。ここで、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」ないしは梵我一如を想起する。あるいは、東方キリスト教の神化思想(テオーシス)を。
 そして、この唯一神は、多神教なのである。一即多である。唯一普遍の神は、多神なのである。ヤハウェやアッラーは当然、同一である。そして、それは、天之御中主神でもある。アメリカ・インディアンのグレート・スピリットでもある。万教帰一である。叡知一致である。
 今は、ここで留めたい。

p.s. ロレンスのコスモスは、上記引用の箇所では、超越界というよりは、Media Pointに近いように感じられるかもしれない。しかし、Media Pointにおいては、差異と同一性との相反的一致の「現象」が基本的であると考えられるので、やはり、Media Pointではないだろう。
 しかしながら、ロレンスのコスモスは、同一性(現象)を包摂した差異と考えられるので、Media Pointに相当すると言える。ロレンスの描写は、流石に、感覚・官能的である。確かに、現象感覚的な表現ではあるが、本質は、差異共振的超越界=「コスモス」の表現であると考えられるのではないだろうか。
 では、いったい、ロレンスの「コスモス」とは、超越界なのか、Media Pointなのか、である。
 今日の直感を尊重すれば、それは、超越界でなくてはならない。コスモスは超越界なのである。そう、コスモスとしての超越界は、三次元空間を包摂しているはずである。Media Pointは、いわば、超越界の屈折点であり、そこから、三次元空間現象が発現するのである。しかし、超越界に、三次元空間性は内包されているのである。いわば、現象を内包していると言えるのではないだろうか。
 とまれ、今は、万有の即非共振界として、ロレンスのコスモスを考えて、それは、超越界であるとしておきたい。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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