2008年02月25日 (18:03)

女性のエロチシズムとプラトニズム:超越的エネルギーとしてのファッション

女性のエロチシズムとプラトニズム:超越的エネルギーとしてのファッション

テーマ:ジェンダー

先に以下のようにメモ書きした。

「女性のエロチシズムと超越エネルギーとしてのファッション

テーマ:美術・アート

ファッションについて、その超越エネルギー性ないしはファンタジー性を指摘したが、女性のエロチシズムは本来、Media Pointの開放系における超越的エネルギー(差異共鳴エネルギー)と考えられるので、ファッション志向とは女性のエロチシズムを意味するものではないだろうか。後でもう少し丁寧に考察したい。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10075309493.html

どうも、女性のエロスないしはセクシュアリティとは、プラトン主義的ではないかということがだんだん確信に近くなってきた。上記する以前に、私はプラトンとは女性ではなかったのかとふと「妄想」したものである。
 考えてみると、イデア論とは、前父権主義・前アーリア民族、即ち、母権文化の最後の名残を受けて生じた哲学であると私は考えている。つまり、太母神を哲学的に理論化したものがイデア論ではないのか思っている。また、確かに、古代ギリシアの父権文化の影響下に生まれたものであることも確かである。しかし、ベースは太母文化である。
 よく知られたようにプラトン哲学はエロースの哲学、イデア界へのエロースの哲学である。そして、また、美少年を愛することに存する哲学である。異性愛ではないのである。
 先に私は、女性作家が描く裸婦の不思議なエロチシズムについて言った。それは、一種同性愛的なエロチシズムである。それを、私は、プラトニック・エロチシズムとも言ったりした。
 そのようなことから考えると、やはり、女性のエロチシズムは、超越的エロチシズム、つまり、プラトニック・エロチシズムであると考えられるのである。それは、感覚を超越するエロチシズムである。官能を超越するエロチシズムである。もっとも、官能・感覚性を否定するのではなく、それを介して、超越性へと志向するエネルギーということである。
 ここからいろいろなことが考えられる。西洋哲学が起源のプラトン哲学をいまだに捉えられないのは、それが本質的に女性のエロチシズムの哲学であるからではないのか。ユダヤ・キリスト教西洋文明とは、ハードな父権文化である。父権主義、同一性中心主義(ロゴス中心主義)では、プラトン哲学は捉えられないと考えられるのである。
 そう、また、女性が一見どうしてプラトン哲学に魅かれないのかという問題もある。女性の本質はプラトニストだと思う。だから、プラトン哲学は自明なのではないだろうか。女性の意地悪さがあるだろう。
 そう、また、プラトン哲学は、東洋文化、とりわけ、神道・多神教・太母文化が把捉することができるはずである。プラトニック・シナジー理論が日本で生まれたのは、その点で必然性があると考えられる。後でさらに考察してみたい。

p.s. ニーチェがもし真理が女性のようなものだとしたら、これまで、哲学は真理を捉えそこなってきたのであり、鞭をもって女性(真理)のところへ行かなくてはならない云々と言っていた。
 真理が女性のようなものというのは、正しいが、鞭をもっては、どうだろうか。確かにじゃじゃ馬的性質もあるだろう。
 馬で思い出したが、白い馬と黒い馬の比喩があった。これは、前者がプラトニック・エロースであり、後者は感覚中心の欲望である。前者が女性のエロースであり、後者が男性のエロースではないのか。天上のエロース(天上のヴィーナス)と地上のエロース(地上のヴィーナス)。
 ニーチェのディオニュソスにしろ、ツァラトゥストラにしろ、それは、太陽神である。天照大神である。ニーチェは、ほとんど、トランス・モダンであった。
 
参考:
パイドロス
美について

プラトン 著、藤沢令夫 訳
岩波文庫


それは、ものの名前を制定した古人たちもまた、狂気(マニアー)というものを、恥ずべきものとも、非難すべきものとも、考えていなかったということである。
(中略)
神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものであるということを、古人はまさしく証言しているのである。

p.53-54

ある夏の日の昼下がり、アテナイの郊外にあるイリソス川のほとりで行われた二人きりの対話。話題は美と恋(エロース)について──美しい自然に囲まれた舞台設定はそのテーマを見事に際立たせる。
エロスがテーマであっても『饗宴』のようなドギツさはなく、プラトニック・ラブの本質が燦然と輝くばかりに描かれる。とくに翼を持つ魂のイメージ──翼を持つ馭者が翼を持つ二頭立ての馬の手綱を操るイメージ──はあまりにも美しく、その飛翔する想像力には、まったく痺れてしまう。まさに宇宙的な広がりを見せ、イデアへの憧憬を募らせる。

ハンサム・ガイ、パイドロスを悩ましていたのは弁論家リュシアスのパラドックスであった。リュシアスは、恋する者よりも恋していない者に身をまかすべきだ、と、つまり恋愛は有害であると主張していた。その弁論家特有の巧妙な「テクスト」を読むだけで、パイドロスはリュシアスの詭弁に洗脳されそうになる。
無論、そんなことはあってはならない、とばかりに恋愛の達人ソクラテスは、リュシアスの「テクスト」に挑む。

この作品で面白いのは、実際にリュシアスが登場して対話を行うのではなく、リュシアスの「テクスト」について吟味をするという、まるでロラン・バルトのような「読み」(弁論術)をソクラテスがすることだ。まずはその「テクスト」の文体や構成を精緻に調べる。それから「内容」について反論するという変則的な「対決」が行われる。

内容的には、リュシアスの主張する「恋している者は狂気に獲り付かれている」ということに対し、ソクラテスは「狂気」こそが素晴らしいもので、神による贈り物であることを証明する方法を取っていく。

こういった中でプラトンの天才が伺えるのは、一見無関係のような弁論術と恋(エロス)がある時点で結びつくという「はなれわざ」を見せていることだ。すなわちここで翼のある馬(ペガサス)を乗りこなす馭者のイメージ=翼を持つ魂のイメージが天空(イデア)から地上へと降臨する。

それでは、そもそも弁論術とは、これを全体としてみるならば、言論による魂の誘導であるとはいえるのではないだろうか。

p.96

さすがプラトン。他にも、蝉はムーサの誕生に歓んだあまり食べることや飲むことも忘れて歌い続けた人たちが変身したものであるとか、魂が天球の外側に立ち世界を観照するとかいった、忘れ難いイメージが炸裂する。

しかしなんと言っても、この作品のテーマである美と恋(エロス)を翼のある魂のイメージと結びつけた以下の言説が最高であろう。つまり、
魂の翼を潤すためには、恋人(美少年)が放出する美の微粒子が必要なのだ、ということ。

Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Phaedrus"
http://w_passage.at.infoseek.co.jp/book/i-nonfiction10.htm

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哲学講義19 - プラトン(7) 美のイデアとエロス -
今回は、プラトンの美とエロスについてお話します。(原語では、エロスではなくエロースですが、ここでは表記にはこだわりません。)プラトンの考える美やエロスについて述べる前に、余談を一つ。


「ベニスに死す」という映画があります。トーマス・マン原作の同名タイトルの小説をもとに、ルキノ・ヴィスコンティが映画にしたもので、昔、淀川長治という映画評論家が、世界で三本の指に入る美しい映画だと評していた記憶が残っています。小説では、主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは作家ですが、映画では音楽家として描かれています。マーラーの5番アダージェットが映画のテーマ曲になっていることなどから、映画でのアッシェンバッハは、マーラーを模したものと想像されます。

体調不良のため、ベニスへ休暇旅行に出かけたアッシェンバッハが、滞在先でタッジオという名の美少年に出会い、年がいもなくこの美少年に一目ぼれして後を追いかけ、最後は、恋の病のためか、体調不良が悪化したためか、当地で流行していた伝染病がうつったためか、わかりませんが、タッジオを見ながら死んでしまう、という筋の話です。

全体に情景描写の多い映画で、初めて見る人には少々退屈に思える映画かもしれません。私はこの映画を高校生のときに友人に連れられて初めて見に行ったのですが、その時には、友人は満喫していましたが、私は退屈で仕方がなく、半分眠りながら見ていました。それでもタッジオ役のビヨルン・アンデルセンが美少年であることだけは、印象に残り、その後、どういうわけか、何度もこの映画を見ることになりました。

美とは、努力とは無関係に、突然現れるものか、美とは、努力の結果、現れるものか。アッシェンバッハは、作曲活動を通じて美を創造しようと努力しており、その意味で、美を努力の賜物と考えていたように思えます。そのアッシェンバッハがタッジオに出合ってその美を見たとき、美は努力と無関係に突然現れるものだという意見が脳裏をよぎることになったのかもしれません。

アッシェンバッハがタッジオの美を目の当たりにするとき、何を見ているのか。タッジオの美を見るときの、「美」が一体いかなるものなのか、と言われても、この映画をご覧になったことのない方には、何のことかわからないと思いますので、余談はこれくらいにして、プラトンにとっての「美」や「エロス」がどういうものだったのかを見ていくことにしましょう。
http://matsuura05.exblog.jp/d2004-02-19
古代ギリシア哲学と現代倫理学のページ

2008年01月06日 (12:09)

仮象とは何か:同一性現象は仮象かそれとも「実象」か:現象はイデアを映した影像である:第2版

仮象とは何か。
この問題については、以前、かなり検討したが、以下のように可視の物質現象界を「あやかし」と見る見方は、なかなか刺激的見方なので、もう一度検討してみたい。今は余裕がないので、詳述できないが(p.s. 結局、詳述した)、簡単に予見を述べておこう。
 以下の鈴木氏の考え方はきわめて伝統的な見方とは言える。心が本体であり、物質は仮象(マーヤー)であるというインド思想的な見方である。一見、仏教やプラトン哲学にも通じるように見えるのである(p.s. これは仏教やプラトン哲学とは異なる。既述したことだが、色即是空、空即是色の思想は、現象をそれなりに肯定しているし、プラトン哲学には、分有という観念があり、それは、同一性がイデアを分有するということである。)。
 これまでの私の見解は、同一性=物質ということで、物質現象界の「実象」性(じつしょうせい:造語)を認めるものである。
 しかしながら、最近、私は現象界の「美」、同一性の「美」(p.s. 後段で述べるように、美と綺麗さを分けることが正しいと考える)に対して、たいへん疑問をもつようになっている。化粧的装飾性に対して、私は、いわば、敵意のようなものをもっているのである。
 私が先に説いたのは、肉体的感覚(視覚)を介しての、心の美、差異共振的美のことである。そう、感覚の替わりに、感識という言葉を使用したらどうかと示唆した。だから、視覚は視識であり、等々である。
 つまり、源泉において、諸感識があり、そこに視識がある。それが、同一性化して、肉体的視覚に重なる。そして、肉体的視覚に吸収されると、それは、もはや、源泉の視識性を喪失して、同一性視識となる。
 とまれ、根源的な視識があり、それが、同一性視識となる。根源的視識とは、差異共振視識である。それが、同一性化するのである。そして、根源的視識と同一性視識の関係は、即非的視識となるのである。問題は、即非的視識と同一性主義化した視識である。前者は同一性視識を包摂しているのであるから、論点は、同一性視識にある。核心的問題は、同一性視識の美である。たとえば、奇麗(きれい)に清掃された部屋の奇麗さである。それを美とも呼びえるかもしれない。しかし、奇麗さが妥当であろう。そう、奇麗さと美とは異なるだろう。
 しかし、たとえば、ある女性が美人であると言ったとき、それはどういうことなのか。顔の造りが整っている、端正なのか、それとも、表情・顔貌が美しいのか。通常は、前者であろう(p.s. 本来的には、両方が一致する場合であろうが、ここで、議論上、二分化した。)。心的な側面よりは、肉体的側面を評価していう言葉だろう。肉体的な「美」とは、本来的ではないだろう。それは、奇麗さの分類だろう。奇麗な女性である。それが正しい用法である。
 しかし、この奇麗さは確かに、「あやかし」の面がある。奇麗な顔立ちでも、心が鬼という場合は大いにあるだろう。外観と内面の不一致である。この場合は、端的に、外観は仮象・「あやかし」である。
 この同一性の「美」をどうみるのか。「美」ではなく、快感というべきなのだろう。同一性の快感である。あるいは、同一性の奇麗さである。
 しかしながら、そのように分別しても、問題は、根源的視識の様相である。それは、差異共振する美を視識するのである。夕焼けに共振美を感じるのである。感動した夕焼けには、なにか神々しい心象がある。
 ここで、単なる奇麗さとは異なるのである。つまり、超越性が美にはあると考えられるのである。あるいは、高次元性が美にあるのと考えれるのである。
 しかしながら、外観において、神々しい美があるのではないだろうか。夕焼けのように。それはあり得るであろう。超越性をもった外観があるのではないだろうか。端的に、夕焼けが超越性をもった外観である。
 では、超越性をもった外観とは何か、である。夕焼けの場合、あらゆる夕焼けに超越性を感じるというよりは、あるときの、ある場所の夕焼けにとりわけ超越性を感じるだろう。とまれ、ある夕焼けの色と輝きに、神々しさがある。それは、清澄感であり、崇高さである。つまり、外観に超越性がいわば透き通って存するのである。反射していると言ってもいいかもしれない。おそらく、そこに、超越光があると言っていいだろう。思うに、日没、入り日とは、Media Pointなのではないだろうか。
 そのように考えると、人間の外観においても、超越性が存するということは考えられるのである。心の反映としての超越性ではなく、身体・肉体に存する超越性である。そして、思うに、古代ギリシア人は、このように、人体に美・超越性を直覚・直観したのではないだろうか。だから、それは、外観ではあるが、「まやかし」ではないだろう。真如(しんにょ)ないしは実相(じっそう)である。
 では、ここに少なくとも二つの美があることになる。外観の美と心の美である。こう見ると、古典主義とは前者を志向し、ロマン主義は後者を志向したと言えるように思えるのである。
 とまれ、端的に、外観の超越性とは何だろうか。身体の超越性とは何だろうか。それは、思うに、身体・人体のエイドス・イデア=テオーリアではないだろうか。今はそういうことにしておきたい。
 そして、ここでも先に述べたイデアと構造の相違があるのである。イデアは美であるが、構造は奇麗さであろう。化粧は後者なのである。形式快感である。そう、近代文化は、この区別ができないのである。致命的な盲目さである。
 最後に付け加えて言うと、古代ギリシアには、ロマン主義的美(心の美)はなかったのであろうか。これは、ヘーゲル美学にも関係する事柄である。また、ニーチェ哲学の問題でもある。
 つまり、ディオニュソスとアポロの問題である。ここで、簡単に言うと、ディオニュソスがロマン主義であり、アポロが古典主義である。これで、疑問に答えたことになる。そう、古代ギリシア人は、二つの美、二つの超越性を感識していたことになる。畏るべき古代ギリシア人である。通常、ディオニュソスの美は感識していた古代人は多いだろうが、アポロの美を感識した古代人は稀有ではないだろうか。
 では、ニーチェの『悲劇の誕生』の問題に答えるとどうなるだろうか。これは実に霊妙・微妙な問題である。ニーチェは、ギリシア悲劇のベースには、ディオニュソスがあり、それがアポロ文化を生むと言ったのである。つまり、ロマン主義ないしは心の美が基盤にあり、それから、古典主義ないしは外観の美が生まれたということになる。
 ここで、プラトニック・シナジー理論から、つまり、Media Pointを中心点として考察しよう。森羅万象はMedia Pointから生まれるのである。宇宙の臍(へそ)である。ここでは、超越性と現象性が即非様相にあるのである。心をMedia Pointと見ると、心と現象性とが即非様相にあることになる。
 そう、現象性、たとえば、身体・人体であるが、それも、ある心の表出である。これがアポロの美となるだろう。つまり、身体・人体のイデア・エイドス=テオーリアがあり、それが、外観に照り映えているのである。
 そう考えると、ニーチェの考えはまったく的確、正鵠(せいこく)を射ていたと言える。今、思いついたが、やはり、イシスとオシリスの関係ではないのか。イシスがディオニュソスであり、オシリスがアポロである。極言すれば、オシリスとはイシスの一部なのである。つまり、アポロはディオニュソスの一部なのである。その一部が照り映(は)えているのがオシリスやアポロであるということではないだろうか。
 そう、D.H.ロレンスがdark Godと言ったのを想起するし、また、天文学のダークエネルギーを想起する。この場合、dark、ダークは不可視と把捉しないといけない。即ち、イシスやディオニュソスは不可視であるということになるだろう。超越性である。虚軸の超越性である。超越光である。超越エネルギーである。そして、これらが、 Media Pointで可視化したのが、現象界ということだろう。
 問題は、この不可視性と可視性である。ここで、鈴木氏の問題、「あやかし」の問題に返るのである。そう、不可視性という考え方も問題があるのではないだろうか。夕焼けにおいて、美は視識するのである。心で視識すると言ってもいいが、やはり、視識はするのである。だから、不可視ではないのである。
 そう、超越性は即非的に、現象性に照り映えているのである。それがニーチェが天才的に説いたディオニュソスとアポロの関係ではないか。だから、darkやダークという言い方は、不正確であると言えよう。それは、現象中心性から超越性を見んとしているのである。
 だから、「あやかし」という表現は間違いであるということになるだろう。マーヤーという考え方も間違いである。
 現象は仮象ではあっても、「あやかし」や「マーヤー」ではないのである。現象はいわば、映象(えいしょう:造語)、ないしは、照象(しょうしょう:造語)である。現象はイデア界を映した影像なのである。

p.s. 現象界を影像界と呼ぶのが適切だろう。

p.p.s. 影象(えいしょう)界とも呼べよう。そう、映象(えいしょう)界でもいいだろう。

3p.s. アポロの美に関して、上の議論では、最初は、それは心の美ではなく、外観の美であると言い、その後、それは一種心の美の表出であると述べている。この見解は齟齬に感じられないことはないので、少し説明する。
 先ず、最初に述べた心の美と外観の美の区別であるが、これは、どちらかと言えば、厳密に分類したときの場合であり、後者の、心の美の表出としての外観の美とは、心の美を広義にとった場合である。即ち、心を諸超越的エネルギーにとって、その中で、身体・人体・外観を形成するものがあるということであり、そのとき、心の美の映出としての外観の美があるということである。

********************************************

1億3千万の日本国民の凡そ1%の130万人でも、見た目の物質現象界が「あやかし」であって、
「充実」や「よろこび」や「しあわせ感」という見えない心の中の世界こそが本物であることを見抜けばよい。
国民の1%が覚醒すると一気に「日本人全体の魂の充実」への次元変化が加速するのです。
心象界の喜びがさらに良性な現象を生むのです。
そうした心象の喜びから現象の創造その繰り返しによる人生修行のスパイラルアップがこの世の仕組みになっている。
http://subtleeng.thd-web.jp/e6094.html
鈴木 俊輔 の サトルの泉

2008年01月06日 (01:46)

仮象とは何か:同一性現象は仮象かそれとも「実象」か:現象はイデアを映した影像である

仮象とは何か。
この問題については、以前、かなり検討したが、以下のように可視の物質現象界を「あやかし」と見る見方は、なかなか刺激的見方なので、もう一度検討して見たい。今は余裕がないので、詳述できないが、簡単に予見を述べておこう。
 以下の鈴木氏の考え方はきわめて伝統的な見方とは言える。心が本体であり、物質は仮象(マーヤー)であるというインド思想的な見方である。一見、仏教やプラトン哲学にも通じるように見えるのである。
 これまでの私の見解は、同一性=物質ということで、物質現象界の「実象」性(じつしょうせい:造語)を認めるものである。
 しかしながら、最近、私は現象界に美、同一性の美に対して、たいへん疑問をもつようになっている。化粧的装飾性に対して、私は、いわば、敵意のようなものをもっているのである。
 私が先の説いたのは、肉体的感覚(視覚)を介しての、心の美、差異共振的美のことである。そう、感覚の替わりに、感識という言葉を使用したらどうかと示唆した。だから、視覚は視識であり、等々である。
 つまり、源泉において、諸感識があり、そこに視識がある。それが、同一性化して、肉体的視覚に重なる。そして、肉体的視覚に吸収されると、それは、もはや、源泉の視識性を喪失して、同一性視識となる。
 とまれ、根源的な視識があり、それが、同一性視識となる。根源的視識とは、差異共振視識である。それが、同一性化するのである。そして、根源的視識と同一性視識の関係は、即非的視識となるのである。問題は、即非的視識と同一性主義化した視識である。前者は同一性視識を包摂しているのであるから、論点は、同一性視識にある。核心的問題は、同一性視識の美である。たとえば、奇麗に清掃された部屋や奇麗である。それを美とも呼びえるかもしれない。しかし、奇麗が妥当であろう。そう、奇麗と美とは異なるだろう。
 しかし、たとえば、ある女性が美人であると言ったとき、それはどういうことなのか。顔の造りが整っている、端正なのか、それとも、表情・顔貌が美しいのか。通常は、前者であろう。心的な側面よりは、肉体的側面を評価していう言葉だろう。肉体的な「美」とは、本来的ではないだろう。それは、奇麗の分類だろう。奇麗な女性である。それが正しい用法である。
 しかし、この奇麗は確かに、「あやかし」の面がある。奇麗な顔立ちでも、心が鬼という場合は多いにあるだろう。外観と内面の不一致である。この場合は、端的に、外観は仮象・「あやかし」である。
 この同一性の「美」をどうみるのか。「美」ではなく、快感というべきなのだろう。同一性の快感である。あるいは、同一性の奇麗である。
 しかしながら、そのように分別しても、問題は、根源的視識の様相である。それは、差異共振する美を視識するのである。夕焼けに共振美を感じるのである。感動した夕焼けには、なにか神々しい心象がある。
 ここで、単なる奇麗とは異なるのである。つまり、超越性が美にはあると考えられるのである。あるいは、高次元性が美にあるのと考えれるのである。
 しかしながら、外観において、神々しい美があるのではないだろうか。夕焼けのように。それはあり得るであろう。超越性をもった外観があるのではないだろうか。端的に、夕焼けが超越性をもった外観である。
 では、超越性をもった外観とは何か、である。夕焼けの場合、あらゆる夕焼けに超越性を感じるというよりは、あるときの、ある場所の夕焼けにとりわけ超越性を感じるだろう。とまれ、ある夕焼けの色と輝きに、神々しさがある。それは、清澄感であり、崇高さである。つまり、外観に超越性がいわば透き通って存するのである。反射していると言ってもいいかもしれない。おそらく、そこに、超越光があると言っていいだろう。思うに、日没、入り日とは、Media Pointなのではないだろうか。
 そのように考えると、人間の外観においても、超越性を存するということは考えられるのである。心の反映としての超越性ではなく、身体・肉体に存する超越性である。そして、思うに、古代ギリシア人は、このように、人体に美・超越性を直覚・直観したのではないだろうか。だから、それは、外観ではあるが、「まやかし」ではないだろう。真如である。
 では、ここに少なくとも二つの美があることになる。外観の美と心の美である。こう見ると、古典主義とは前者を志向し、ロマン主義は後者を志向したと言えるように思えるのである。
 とまれ、端的に、外観の超越性とは何だろうか。身体の超越性とは何だろうか。それは、思うに、身体・人体のエイドス・イデア=テオーリアではないだろうか。今はそういうことにしておきたい。
 そして、ここでも先に述べたイデアと構造の相違があるのである。イデアは美であるが、構造は奇麗さであろう。化粧は後者なのである。形式快感である。そう、近代文化は、この区別ができないのである。致命的な盲目さである。
 最後に付け加えて言うと、古代ギリシアには、ロマン主義的美(心の美)はなかったのであろうか。これは、ヘーゲル美学にも関係する事柄である。また、ニーチェ哲学の問題でもある。
 つまり、ディオニュソスとアポロの問題である。ここで、簡単に言うと、ディオニュソスがロマン主義であり、アポロが古典主義である。これで、疑問に答えたことになる。そう、古代ギリシア人は、二つの美、二つの超越性を感識していたことになる。畏るべき古代ギリシア人である。通常、ディオニュソスの美は感識していた古代人は多いだろうが、アポロの美を感識した古代人は稀有ではないだろうか。
 では、ニーチェの『悲劇の誕生』の問題に答えるとどうなるだろうか。これは実に霊妙・微妙な問題である。ニーチェは、ギリシア悲劇のベースには、ディオニュソスがあり、それがアポロ文化を生むと言ったのである。つまり、ロマン主義ないしは心の美が基盤にあり、それから、古典主義ないしは外観の美が生まれたということになる。
 ここで、プラトニック・シナジー理論から、つまり、Media Pointを中心点として考察しよう。森羅万象はMedia Pointから生まれるのである。宇宙の臍である。ここでは、超越性と現象性が即非様相にあるのである。心をMedia Pointと見ると、心と現象性とが即非様相にあることになる。
 そう、現象性、たとえば、身体・人体であるが、それも、ある心の表出である。これがアポロの美となるだろう。つまり、身体・人体のイデア・エイドス=テオーリアがあり、それが、外観に照り映えているのである。
 そう考えると、ニーチェの考えはまったく的確、正鵠を射ていたと言える。今、思いついたが、やはり、イシスとオシリスの関係ではないのか。イシスがディオニュソスであり、オシリスがアポロである。極言すれば、オシリスとはイシスの一部なのである。つまり、アポロはディオニュソスの一部なのである。その一部が照り映えているのがオシリスやアポロであるということではないだろうか。
 そう、D.H.ロレンスがdark Godと言ったのを想起するし、また、天文学のダークエネルギーを想起する。この場合、dark、ダークは不可視と把捉しないといけない。即ち、イシスやディオニュソスは不可視であるということになるだろう。超越性である。虚軸の超越性である。超越光である。超越エネルギーである。そして、これらが、 Media Pointで可視化したのが、現象界ということだろう。
 問題は、この不可視性と可視性である。ここで、鈴木氏の問題、「あやかし」の問題に返るのである。そう、不可視性という考え方も問題があるのではないだろうか。夕焼けにおいて、美は視識するのである。心で視識すると言ってもいいが、やはり、視識はするのである。だから、不可視ではないのである。
 そう、超越性は即非的に、現象性に照り映えているのである。それがニーチェが天才的に説いたディオニュソスとアポロの関係ではないか。だから、darkやダークという言い方は、不正確であると言えよう。それは、現象性から超越性を見んとしているのである。
 だから、「あやかし」という表現は間違いであるということになるだろう。マーヤーという考え方も間違いである。
 現象は仮象ではあっても、「あやかし」や「マーヤー」ではないのである。現象はいわば、映象(えいしょう:造語)、ないしは、照象(しょうしょう:造語)である。現象はイデア界を映した影像なのである。

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1億3千万の日本国民の凡そ1%の130万人でも、見た目の物質現象界が「あやかし」であって、
「充実」や「よろこび」や「しあわせ感」という見えない心の中の世界こそが本物であることを見抜けばよい。
国民の1%が覚醒すると一気に「日本人全体の魂の充実」への次元変化が加速するのです。
心象界の喜びがさらに良性な現象を生むのです。
そうした心象の喜びから現象の創造その繰り返しによる人生修行のスパイラルアップがこの世の仕組みになっている。
http://subtleeng.thd-web.jp/e6094.html
鈴木 俊輔 の サトルの泉

2007年12月09日 (14:53)

視覚像について:内的光と外的光の結像?:試論

内の光と外の光とが結像して、視覚像が生まれるのではと思いついたので、少し考えたい。
 内的光とは、たとえば、夢の光である。その時は、外光がないのにかかわらず、映像を見ているのである。その光はどこから来ているのか。いわば、闇の光である。
 ここで作業仮説して、+iの光と-iの光を考える。簡略化して、陽と陰とする。陽と陰が共振して、超越光となる。そして、これが、同一性化して、現象光となると考えられる。即ち、(+i)*(-i)⇒+1が、陽*陰⇒光となる。しかしながら、左辺は、超越光と見るべきであろう。即ち、超越光⇒光である。
 これは、一種、自然のマジックである。とまれ、ここで視覚像を考えると、それは、確かに、光の像であるが、実際は超越光の像があるはずであるが、それは潜在しているのではないだろうか。そして、夢の映像が、超越光の映像のなんらかの反映ではないだろうか。夢においては、三次元空間には従わないのである。
 私が先に共振光と言ったのは、超越光と現象光との共振を意味しているだろう。言い換えると、超越光と現象光との境界を指すと言えよう。それは、端的に、 Media Pointの光である。Media Point LightないしはMedia Point Twilightと呼べよう。夢の光とは、正確には、これであろう。
 さて、視覚像であるが、問題は、同一性視覚は、単に現象光を知覚するだけであり、超越光やMedia Point Light(略して、MP-Light)を知覚できないのである。そして、これが、近代的自我の視覚、唯物論的視覚である。そして、本来、美術とは、超越光やMP-Lightを表現するものであるが、同一性視覚のために、美術本来の表現が喪失していると考えられるのである。そして、これが、断絃の時ならず、喪光の時である。死んだ光になっているのである。
 これは、=+1の光である。水平の光のみであり、垂直的共振性が喪失されているのである。
 では、どうして、垂直的共振性が喪失されるのか。左辺が喪失されるのか。それは、当然、同一性によって、差異を否定しているからである。つまり、⇒+1 ではなくて、=+1になっているのである。これは、また、+i→-i=-1の事態でもある。差異の否定は等号化であり、正に同一性化である。
 しかしながら、先に述べたように、Media Pointは三相共振様態である。同一性による差異否定があっても、原点においては、差異共振性が賦活されていると考えられる。思うに、同一性の光(現象光)に対して、超越光は「闇」として、想定されるのではないだろうか。ロレンスのdark sunである。あるいは、玄牝である。あるいは、イシスである。そう、黒い聖母である。この「闇」とは、現象光に閉ざされているということから、「闇」ということであり、本来は超越光なのである。
 近代主義の同一性中心主義が、現象光のみを知覚して、超越光を排除したということになる。そして、モダン・アートは、本来、超越光を復活させようとしたと考えられるのである。しかしながら、反動化して、-i中心化となってしまったと思われる。
 私が先に、美術に大きな問題があると言ったが、それは、以上の問題と一如であると考えられる。反美術になっているのである。(もっとも、美術に限定されないが。)同一性=現象光の壁を突破しないといけないのである。単なるデフォルメ、抽象画は、反動に過ぎない。
 内的光、超越光を取り戻すことが必要である。では、どうやって。それには東洋身体思想が役に立つだろう。たとえば、道教の丹田の考え方であるが、上丹田が+iであり、下丹田が-iであり、そして、中丹田が⇒+1ではないだろうか。つまり、上丹田と下丹田のバランスとしての中丹田の形成によって、⇒+1が生成しうるのではないだろうか。真正な心の形成である。言うならば、正心ないしは真正心の形成である。これによって、超越光が復活するのではないだろうか。そして、美術も新生するのである。当然、ヨガや禅も同質であると考えられる。今はここで留める。

2007年11月23日 (19:20)

シャガールの絵画と差異共振性とエロス的同一性

今日は、祝日で時間があったので、上野の森の美術館で開催されているシャガール展を見に行った。
http://special.enjoytokyo.jp/TK/070901chagall.html
 千円では、安かったと言えよう。「おとずれ」、「秘密」等々の油彩画がよかった。「おとずれ」は、部屋の中のベッドに寝ている女性に、花束をもった浮遊した男性が訪れる場面である。左上には、黄色い月(太陽?)があり、右上には、ドアがある。
 残念ながら、この絵の葉書やコピーはなかった。
シャガールは、一般には、親しみやすい、甘美なムードの、俗っぽい軽い、凡庸と思える作品が多いが、中には、優れた作品がある。
 輪郭を不明確にした、簡略化した造形が、融合的な空間に溶け込んでいる。この空間がシャガールの一つの特徴である。ここでは、多様なものが融合しているのである。
 おそらく、この空間を、差異共振融合空間と言えるように思う。しかしながら、なにか保留したくなる面もある。とまれ、浮遊した像や渦巻くような造形等は、明らかに、垂直次元を表現していると思う。明らかに、夢の次元に似ているのである。Media Pointから表現していると考えていいように思う。しかし、シャガールの問題は、差異共振が男女のエロスの方向に傾斜している、ないしは中心化していることである。このために、世界が狭められるのである。
 思うに、エロスは差異共振性というよりは、差異的同一性なのである。これが、基盤にある差異共振性を覆っているように思えるのである。言い換えると、基層にある差異共振性と表層にある差異的同一性の二重性がシャガールの絵のように思える。
 
p.s. インターネットの画像で見ると、漫画みたいになってしまうし、また、俗受けする作品が多く出ている。

マルク・シャガール
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シャガール(1941年撮影)
シャガール(1941年撮影)

マルク・シャガール(Marc Chagall、イディッシュ語 :מאַרק שאַגאַל‎‎、1887年 7月7日 - 1985年 3月28日 )は、20世紀 のロシア (現・ベラルーシ )出身のフランス の画家 。

帝政ロシア領ヴィテブスク (現ベラルーシ ・ヴィツェプスク 、Vycebsk またはWitebsk、Vitebsk )にモイシェ・セガル(Moishe Segal、משה סג"ל)として生まれた。ロシア名マルク・ザハロヴィチ・シャガル Марк Захарович Шага́л、ベラルーシ名モイシャ・ザハラヴィチ・シャガラウ Мойша Захаравіч Шагалаў。故郷ヴィテブスクは人口の大部分をユダヤ人 が占めているシュテットル で、シャガール自身もユダヤ人 である。

1907年 、当時の首都ペテルブルグ の美術学校に入るが、同校のアカデミックな教育に満足しなかったシャガールはやがてレオン・バクスト の美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団 の衣装デザインなどを担当していた人物である。

シャガールは1910年 パリ に赴き、5年間の滞在の後、故郷へ戻る。この最初のパリ時代の作品にはキュビスム の影響が見られる。1915年 に結婚。10月革命 (1917年 )後のロシアでしばらく生活するが、1922年 、故郷に見切りをつけ、ベルリン を経由して1923年 にはふたたびパリへ戻る。

1941年 、第二次大戦 の勃発を受け、ナチス の迫害を避けてアメリカ へ亡命 した。なお、同郷人で最初の妻ベラ・ローゼンフェルトはアメリカで病死した。

1947年 パリへ戻ったシャガールは、1950年 から南仏 に永住することを決意し、フランス国籍を取得している。1952年 、当時60歳台のシャガールはユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキー と再婚した。1960年 、エラスムス賞 受賞。同年、当時のフランス共和国文科大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルロー はパリ、オペラ座 の天井画をシャガールに依頼。これは1964年 に完成している。1966年 、シャガールは17点から連作『聖書のメッセージ』をフランス国家に寄贈した。マルローはこの連作を含むシャガールの作品を展示するための国立美術館の建設を推進し、ニース 市が土地を提供する形で1973年 、画家の86歳の誕生日にニース市のシャガール美術館が開館した。

また、毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはシニカルな態度を示していた。特にピカソ に対しては極めて辛辣な評価を下している。しかし、だからといってピカソと仲が悪かったわけではなく、むしろ、ピカソにしては珍しく、けんかをしないほど仲がよかったともいわれる。

[編集 ] 代表作

* Online complete catalogue of the printed graphic work
* 「I and the Village」(1911年) ニューヨーク近代美術館
* 「七本指の自画像」(1912年-1913年)アムステルダム市立美術館
* 「誕生日」(1915年) ニューヨーク近代美術館
* 「Green Violinist」(1923年) グッゲンハイム美術館
* 「青いサーカス」(1950年) ポンピドゥー・センター
* 「イカルスの墜落」(1974年) ポンピドゥー・センター
* 「America Windows」(1977年) シカゴ美術館
* 「バレエ『アレコ』」(1942年)舞台背景画 第1、2、4幕 青森県立美術館
* 「バレエ『アレコ』」(1942年)舞台背景画 第3幕 フィラデルフィア美術館
* 「イスラエル十二部族」

[編集 ] 関連項目

* エコール・ド・パリ
* 高知県立美術館 - シャガールの世界的コレクションで知られる

[編集 ] 外部リンク

* Marc Chagall at Famous Artists Gallery

2007年11月06日 (22:31)

アートのマーケットとは何か。ここにあるのは、一種、流行である。あるいは、ファッションである。なに

アートのマーケットとは何か。ここにあるのは、一種、流行である。あるいは、ファッションである。なにか、ここには、PS理論から解明できそうなものがある。
 想起したことは、これは、まさに、差異と同一性の問題、それもエネルゲイア(エネルギー)の問題ではないかということである。すなわち、アートのマーケットにおいて、現在の標準的な価値観がある。それは、同一性である。過去において、差異であっても、既成価値となれば、同一性となるのである。ピカソの絵画もかつては、差異であったが、今日では、同一性の価値である。(もっとも、微妙なところがある。本当の鑑識眼のある人は、ピカソの絵画から、本当の差異を確認できるだろう。今、わたしが言いたいのは、マーケットにおける価値である。確かに、純粋に美術としては、差異ではあっても、アート・マーケットにおいては、既成価値は同一性である。)
 この同一性としてアートは一般には、差異のエネルギー、Media Pointのエネルギーを放出しないのである。アート・マーケットは、新たな差異のエネルギーを放出するアートを常に求めているのである。以下の記事の場合、象徴主義(サンボリスム)が新たな差異となっていることがわかる。
 思うに、ここには、アート・マーケットの差異と同一性の力学だけではなく、同時代の差異と同一性の力学も作用していると思われる。サンボリスムを例にとるなら、それは、アート・マーケットとは別に、純粋に差異のエネルギーをもっている。つまり、Media Pointからのエネルギーをもっていると考えられる。おそらく、アート・マーケットの差異と同一性の力学と、純粋アートとしての差異と同一性の力学との相互関係によって、アートの同時代的評価が発生するように思われる。
 現代は、Media Pointからのエネルギーを放出するアートが評価されるだろう。文学、映画、ファッションで言えば、ファンタジー的なものである。この一般的傾向とアート・マーケットの傾向とが一致したのが、サンボリスムではないだろうか。モローの絵画は充分、ファンタジー的である。後で、再考したい。

Art sales: Mystic dreams become real

Last Updated: 12:01am GMT 06/11/2007

Colin Gleadell on Symbolist art
# Market news

One market that has been overshadowed during the current art boom is 19th-century European painting. While values for Impressionist, modern and contemporary art have risen, sometimes dramatically, demand for all but the best traditional 19th-century art has flagged.

Art sales: Perseus and Andromeda
Moreau's Perseus and Andromeda

The problem for auction-house specialists, who frequently see half-empty rooms and as much as 50 per cent of what they offer go unsold, is how to jazz up these sales and make them more marketable.
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/11/06/basales106.xml

2007年11月04日 (14:58)

一般的美と特異性の美:差異共振美について

視覚美に関して、簡単に考察したい。主観的美と客観的美との

問題になると思う。確かに、京都の紅葉は美しいだろう。

それは、一般的美、客観的美である。しかし、それは、

私にとっての主観的美ではない。私にとっては、

最近見た、ローカルな場の桜並木の桜の葉、あるいは、

公園の木々の黄色に変色した葉が、美しいのである。

これは、主観的美である。他者から見たら、

なんの変哲もない黄色の秋の葉である。美とは

感じられないだろう。

 そう、主観という言葉が語弊があるので、特異性の美と

しよう。これは、この場合、私だけが、秋の葉を視覚経験

して感じる美である。美であるし、感銘である。

 京都の紅葉は、いわば、ブランドである。確かに、見たい

とは思うが、観光客で混雑していて、不快感を覚えるだろう。

しかし、京都の紅葉は、ブランドにおいては、特異性の美

ではなく、一般的美、客観的美に過ぎない。

 特異性の美とは、やはり、自己認識方程式で説明できる

のではないか。即ち、(+i)*(-i)⇒+1である。私は+iであり、

公園の木々の黄葉は-iである。これが、Media Pointで

共振して、特異性の美、すなわち、⇒+1を形成するのでは

ないだろうか。つまり、ここでは、差異との共振にすべて

懸かっているということである。京都の紅葉は、

一般的美であり、特異な共振はないのである。だから、

それは、特異性の美ではない。私にとっての本来の美ではない

のである。つまり、共振するか否かに、『美』の存否が

懸かっているということになる。

 そう、思うに、ここにしか、本来の美は存しない

のではないだろうか。世阿弥の『風姿花伝』の「花」論は

正に、これによっているのではないだろうか。一見、

相対論的であるが、実質は、特異性美論ではないだろうか。

 主客交信共振共感において、美が生成消滅するのでは

ないだろうか。それが永遠ではないのか。

 ここで普遍性(不易)と生成流転性(流行)を問題にすると、

美に関しては、普遍性とは微妙である。確かに、客観的美は

あるだろう。セザンヌの絵画、バッハの音楽には、客観的美が

ある。しかし、特異性の美は、主客共振美である。

また、確かに、優れた芸術の客観的美であるが、

そこには共振的調和(不調和の調和discordia concors)が

あるだろう。

 だから、客観的なものの共振的美と主客共振性とが

一致したときに、至高の美が発現するのだろう。

これは、いわば、特異性の特異性の美であろう。


注:尚、上記は、以下の記事の考察の一部を修正して、独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10053908253.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

p.s. toxandoria氏の秋の仙台の画像を見て、また、思った。
実際の場における観照と、写真や画像を介しての「観照」
の違いについてである。
 一般的には、画像を介すると、特異性は減ずる。簡単に
言えば、臨場感がないのである。臨場感とは、特異性の知覚を
含むだろう。
 これは、理論的は何を意味しているのだろう。直感で言えば、
Media Pointのエネルギーが参入するか否かの違いである。
単なる画像の場合は、一般には、それが参入しないのである。
実際の場においては、それが参入するのである。だから、
やはり、差異共振性の問題である。
 では、どうして、画像の場合は差異共振性が乏しいのか、
希薄なのか、ないしは、欠落するのか。
 思うに、同一性の視覚で見てしまうからではないのか。では、
なぜ、一般に、同一性の視覚で画像を見て、特異性の視覚で
実際の風景を見るのか、である。
 それは、時間の問題ではないだろうか。通常は、
同一性の時間において、視覚・知覚する。平板な時間である。
しかしながら、実際の場においては、通常の同一性の時間が
引っ込んで、特異性の時間が発動するだろう。つまり、
Media Pointが発動しているのである。だから、
差異共振エネルギーが発動するのである。
そして、それが、特異性の美なのである。

2007年10月23日 (01:30)

芸術が崩壊している:現象の連続性の問題について

もう昨日になるが、六本木の国立新美術館で、ある美術団体の展覧会を見てきたが、趣向をこらして、派手な、というか、毒々しい色彩の絵画を見たが、いったいこれらの独りよがりの絵画は何だろうか。
 感動がまったくないのである。精神的に問題がある絵画もある。単に視覚上の趣向をこらすだけで、根本の感情が表現されていないのである。絵画とは、視覚を通して、心に感動をもたらすものではないのか。
 私は、モダニズムの影響を思った。モダニズムは、精神性を感受していたが、それを近代主義的に表現してしまい、芸術を袋小路に追い込んだのである。 
 絵画だけでなく、音楽や文学もそうである。芸術はモダニズムによって行き詰まってしまったと思う。感動を新たに生まなくてはならない。それには、知と同時に差異感情身体をもつ必要があるのである。知的差異感情身体は、Media Pointが存するのであり、そこで、超越的共振をもった表現が生まれるのである。
 他に、気づいたのは、自然からまったく離れてしまい、人工的にこね繰り回しているのである。これもモダニズムの弊害である。
 今は余裕がないので、現象の連続性の問題は後で述べたい。

p.s. 黒川紀章の設計がよくないと思う。凡庸だと思う。無機的な外枠のガラスの枠組みをしていて、幽閉されているようである。また、ヒルズやサントリー美術館のビル(p.s. これは勘違いのようだ)にしろ、外観が無機的でよろしくない。

p.p.s. 根本的な感情ないしは差異感情身体と言ったが、PS理論により即して言えば、Media Pointにおける超越様相と連続現象様相とが差異共振する様態を表現したものが、本来の芸術と言えよう。

参照:


国立新美術館
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批判

現在、日展はじめ公募団体は作家の技術を磨く場として機能してはいるが、世界の先端の美術(主に、ニューヨーク を中心としてアメリカ とヨーロッパ などの「アート・ワールド 」から発信される現代美術 )の動向と、日本の公募団体の作風や創作のバックとなる思想の有無には相当のずれが見られ、近年では公募団体から世界的に注目される作家は登場していない。このため、公募団体のための展示施設を充実させても、美術研究や美術ファンに資する展示や、国際的な情報発信は全く期待できないという批判があった。

また、施設利用料(現行の東京都美術館の、公募団体の払う使用料は比較的安い)が都美術館より高ければ団体はどこも使わず、かといって都美術館と同じ程度の使用料なら新美術館の巨額の建設費をまかなうことは何年かかっても不可能であろうという批判もある。公募団体に属さない作家からは、公募団体の政治家に対する影響力の強さを新美術館建設の真の理由と見て、税の無駄遣いとの声も上がった。

ほかに、そもそも公募団体側も国側も新美術館を通して何を実現したいのか、という展望や戦略がないまま、箱の建設のみを進めていたという、ハード面のみの重視に対する批判もある。これに関し、ナショナル・ギャラリーという名称になると、日本国外から来る観光客が、ワシントンD.C.のナショナルギャラリー やロンドンのナショナルギャラリー と同様の施設と勘違いして来館する恐れがあるという批判を受けて「ナショナル・ギャラリー(仮称)」の名称は無くなった。

ロンドンやワシントンのナショナル・ギャラリーは、貸し展示場という意味のギャラリーではなく、いずれも膨大な美術品を所蔵する国立美術館であり、研究員・展示技術者・修復技術者・外部教育担当者など有能なスタッフを抱えている。常設展だけで充実した内容を持つほか、コレクションと研究実績の力をバックに世界中から美術品を借り集めて、ある作家についての代表作のほぼ全てを集めた決定版的な企画展も開くことができる。

名称を公募した結果「国立新美術館」という名称に決定した。また、外国から美術品を借りる際に、受け入れる学芸員が必要なことや、独自の展覧会も開催すべきだとの指摘を受け、数名の学芸員を置くことになった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%96%B0%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8

プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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