2008年09月03日 (16:44)

一神教の問題:キリスト教三位一体と太元・太極的三位一体:トランス一神教的新太元文明の黎明

この問題は、東方キリスト教(正教会)と西方キリスト教(カトリック教会、プロテスタンティズム)との対立にも関係する重大な問題であるが、以下、本問題の解明の試論である。
 PS理論では、根源的三元性ないしは三一性を説く。それは、自己認識方程式の左辺に明確に現われている。即ち、(+i)*(-i)である。+iが一つの根源要素であり、-iがそれと対となる根源要素であり、双極を形成していて、その極性様態事象(根源事象)が、いわば、太元(太極)である。換言すると、根源的陰陽性(超越的極性)である。古事記では、これは、三柱の神として表現されていると考えれるのである。
 この根源事象を三位一体と呼ぶことができるだろうか。それは可能である。ならば、キリスト教の三位一体とはどう関係することになるのか、である。
 キリスト教の三位一体論は、推察では、この根源的三位一体論から発生しているが、それとの関係はいかなるものだろうか。すなわち、「父」と「子」と「聖霊」の三位一体と根源的三位一体との関係はいかに。
 「父」が問題であるが、「父」は、結局、太元・太極であると考えられる。つまり、「父」は本来「母」である。これが、キリスト教ないしは一神教の大問題点の一つである。
 「子」であるが、それは、根本的には、「母」の「子」である。これは、⇒+1の+1と推察できる。
 「聖霊」であるが、それは、端的に、差異共鳴エネルギーと考えられるので、Media Pointである。
 「父」が唯一神・超越神ヤハウェになっているのであるが(聖書には、本来、ヤハウェとは別に、エローヒームが存する)、ここにキリスト教ないしは一神教の最高度の問題があると言っても過言ではない。
 唯「独り」の神と言った時、それは、「子」の+1と混合されやすいだろう。言い換えると、「一(いつ)」の問題である。
 太元・太極を「一」と見ることは可能であるが、それは、「一」即「双極」なのである。だから、唯一神の「一」とは異質である。言い換えると、唯一神の「一」とは、端的に言えば、同一性主義なのである。超越的同一性主義なのである。差異=神々を排除して形成された超越的同一性主義である。
 だから、作業仮説的であるが、キリスト教三位一体性とは、根源的三位一体性とは異なるものであると言わなくてはならない。
 唯一神=超越神の超越的同一性主義を、根源的三位一体論から「脱構築」することができるのであるし、今日、それが必要になっていると考えられるのである。トランス一神教である。
 ヤハウェは、新しい太元・太極、即ち、新母神に包摂されることになるのである。もっとも、既述したように、ヤハウェは実際は、太元・太極・太母の極端な一面、物質主義的側面だったのである。それが、今や、生成回帰によって、本源的な双極様相を復活し始めたと言えるのではないだろうか。
 新たな「天の岩戸」の開扉である。ヤハウェが基盤・「インフラ」となり、新しい太母文明(新超越光文明)の黎明となっていると考えられるのである。

2008年04月01日 (20:30)

検討問題:太母と太父の二重性とMedia Point:三柱の神の意味

ヤハウェは、太母の陽化ではないのか:思うに、象徴比喩化における混乱があるのではないだろうか。太母は本来、太陽であり(天照大神)、月というのは、その変容様態を示唆しているのでないのか。とまれ、太陽が陰となったが、「父なる神」ではないのか。一神教の神は月が象徴である。それに対して、神道においては、太陽が象徴である。しかし、逆に言うと、太陰として、いわば、太父があるのではないのか。
 先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の倒置の可能性を述べた。即ち、(-i)*(+i)⇒+1である。前者の左辺が例えば、太母の「太陽」であり、後者の左辺が太父の「太陰」ではないのか。もしそうなら、二種類の原神が存するだろう。それは、神道の高産霊神と神産霊神に相当しないのか。それとも、イザナミ・イザナギであろうか。そして、根源の中点として、Media Pointとして、天之御中主神が存するのではないのか。だから、天照大神と月読みが太母と太父であり、スサノオがMedia Point に相当するのかもしれない。
 ここで聖書を考えると、ヤハウェが太母であり、エローヒームが太父ではないのか。二重神性である。
 その視点からイエス・キリストを考えるのは実に興味深い。彼は、ヤハウェの子であり、同時に、エローヒームの子となるだろう。つまり、精神的双子ではないのか、ということになろう。神話において、双子ないし兄弟の神話は多い。なにか、これと関係しないのか。これまでは、差異の二元性で説明してきたが。思えば、先に、二人のイエスないしは二重のイエスのことを述べたが、それは、以上の述べたことに通じる。
 しかしながら、以前は、ヤハウェを父、太母を母として、それぞれの子としてイエスを見たのであるが、以上の考察では、ヤハウェ=太母であり、エローヒーム=太父である。太陽の子と太陰の子としてのイエスである。そう見ると、戦争の子は前者であり、平和の子は後者となるのではないのか。
 私は太母が復活しつつあると言ったが、以上の視点から言えば、太母と太父の復活、端的に言えば、Media Point の開きではないだろうか。Media Point の黎明であることは既に述べたが、そこでの超越光とは、二重の超越光になるということではないのか。つまり、「太陽」と「太陰」の二重光ではないのか、ということである。
 この問題は後でさらに検討したいが、今、経験から言うと、真夏の海辺の太陽に陰影を感じたことであるが、この陰影が「太陰」に関係するのではないのか。
 言い換えると、太陽光には、明るい太陽と暗い太陽が重なっているのではないのか。二重光としての太陽光である。
 さらに言うと、ダーク・エネルギー、ダーク・マター、またブラックホールであるが、この二重性の「太陰」の方に関係していないのか。これまで、これらは、超越光、超越エネルギーに関係すると指摘してきたが、さらに超越的二重性に関係するのではないのかということになる。簡単に言えば、太陰がそれらに関係するのではないのか、ということである。
 ここで文学への興味から言うと、D.H.ロレンスのdark Godやdark sunであるが、それは、太陰を指しているのではないのか。また、『死んだ男』の宇宙の暗い薔薇であるが、それは一体何なのか。それは、Media Point ではないのか、等々、さまざま興味深い考えが浮かぶ。

2008年03月18日 (21:35)

父権一神教と母権多神教の関係について:自由主義、民主主義、個人主義に関係させて

父権一神教と母権多神教の関係について:自由主義、民主主義、個人主義に関係させて

この問題は複雑なので、余裕のあるとき十分に検討したいが、今簡単に問題を言うと、例えば、自由主義とは、父権一神教から生まれたのか、それとも、母権多神教からなのか、という問題である。
 そう、その前に、自我の問題について再考しておこう。私はヤハウェをいわば、自我中心主義の神として邪神扱いしてきたが、どうも問題はそんなに簡単ではないようである。
 結局、自我と自己の関係をどう捉えるのか、ということである。例えば、今、考えている私がいるが、その私は自我なのか、自己なのか、である。私は今、考えを言語化して、パソコンのキーボードに打ち込んでいるが、そのとき、思考している私は自我なのか、自己なのか、である。(これはつきつめると難しくなるので、普通に考えたい。)考えが頭にまとまり、それを言語化して、キーボードに打ち込んでいる私は自我か自己か。
 私はこれまで、自我を否定的に捉えてきたが、果たして、自己から自我を無くすことができるのだろうか。考えている私は一部では自我ではないのか。つまり、頭のことである。自己の源泉は身体内にあると思っているが、思考する私の頭は自己の先端かもしれないが、それは自我と言えないだろうか。
 言語知性の部分である。思うに、それは自我と言えるように思えるのである。そして、自己はもっと深部に存していて、自我と即非関係にあるように思えるのである。思うに、自己の同一性の展開として同一性自己としての自我があるということだろう。そして、自己が自我を包摂しているということだろう。(因みに、ユング心理学は個性化として、自我と自己の統合を述べているが、それは、この点から見て、折衷的である。自己が自我を包摂するのであるからである。)
 そうすると、ヤハウェはいわば自我神ということで、重要な役割があると言わなくてはならないだろう。それは、同一性自己=自我を形成させる原因である。そして、この自我形成によって、原自己=Media Point の同一性展開が十全に為されるのだろう。この同一性自己=自我の発展は、自己を分裂化するものである。そして、とまれ、同一性の形成作用があり、それに対抗する差異作用が発動すると考えられるのである。言うならば、同一性と差異との相克関係が生じるのである。
 ということで、これまでのヤハウェに対する全的批判をここで取り下げて、同一性自己=自我形成の役割を見て、その部分は肯定したい。
 しかしながら、この同一性自己=自我形成は、その連続性から同一性主義(自我中心主義、悪魔主義)を生み出したと言えよう。キリスト教はヤハウェ(父)に対して、子のイエス・キリストを神としたが、しかしながら、やはり、父と連続しているので、イエスは同一性主義から脱出していないのである。ここにキリスト教の限界があると考えられるのである。つまり、父(同一性)と連続的であるイエス(差異)であるということである。つまり、いわば、キリスト教はポスト・モダンなのである。
 この問題をさらに延長すると、脱連続化とは、聖霊によると考えられるのである。ヨアキム主義である。これがトランス・モダンに当たると思えるのである。聖霊の時代である。
 さて、そのように自己同一性=自我を考えるた上で、自由主義はどうやって生まれたのかを考えると、やはり、ユダヤ・キリスト教が必要であったと思えるのである。しかしながら、同時に、基盤として、母権的多神教が必要であったと思えるのである。これは民主主義とも関係するが、父権的一神教と母権的多神教との間ないしは境界において、自由主義、民主主義、個人主義等が生まれたと思えるのである。
 しかしながら、父権的一神教の要素が強化されて、基盤・母胎の母権的多神教が弱化すると、それらは歪曲ないしは形骸化すると考えられるのである。つまり、差異と同一性の緊張関係からそれらは生まれたのであり、差異が失われると、同一性主義となり、ショート(短絡)すると考えられるのである。【ただし、ポスト・モダン期においては、確かに、差異が活性化するが、それは、逆に同一性を否定して、二元的緊張関係を喪失して、倒錯化(ショート)したと思えるのである(アイロニカルな没入)。】
 以上から、今日、トランス・モダン進化にあって、父権的一神教と母権的多神教の結合ないしは調和が考えられるのであるが、トランス・モダンとは同一性を包摂した差異共振性であるから、正確に言えば、父権的一神教を包摂した新母権的多神教が誕生するということなると思われるのである。これが新東洋文明である。

p.s. 上記において、キリスト教の父、子、聖霊の根本観念を用いているが、私が言う脱連続化としての聖霊主義(ヨアキム主義)とは、脱三位一体論ないしは三位三体論である。三位一体論とは、連続論である。それを不連続化する必要があるのである。キリスト教の解体・解放である。トランス・キリスト教である。


参考:
ヨアキム主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ヨアキム主義(よあきむしゅぎ)は12世紀 のカトリック 教会に興った予言的・終末論 的な歴史思想である。フランシスコ会 の修道院長フィオーレのヨアキム (ジョアキーノとも)が唱えた。

フィオーレのヨアキムは三位一体的構造を世界史 に当てはめ、全歴史 は三つの時代からなるとした。第一の時代は「父の時代」で、地上においては祭司と預言者 の時代であり、旧約 の時代にあたる。第二の時代は「子の時代」であり、教会の時代で、キリスト以後現在まで続いているとした。これは過渡的な時代であって、第三の時代である「聖霊の時代」によってやがて克服される。第三の時代において、世界は完成し、地上においては修道士の時代が出来する。ヨアキムの考えでは、第三の時代において現在ある教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序は廃され、兄弟的連帯において修道士が支配する時代が来るとされる。

ヨアキムの思想は問題視され、ローマ教皇庁 からたびたび警告されたが、ヨアキムは撤回せず、ついに異端 と宣言されるに至った。ヨアキム主義は13世紀の西方異端思想に大きく影響を与えた。

ミルチア・エリアーデ は『世界宗教史』において、レッシング の『啓蒙の世紀』やシェリング、ヘーゲルなどの絶対者の三段階からなる展開などの近世ドイツ思想における精神史観にヨアキム主義の影響を指摘している。
執筆の途中です この「ヨアキム主義」は、キリスト教 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています。 (ポータル キリスト教 /ウィキプロジェクト キリスト教 )
執筆の途中です この「ヨアキム主義」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(Portal:哲学 )
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カテゴリ : キリスト教スタブ | 哲学関連のスタブ項目

 
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同一性狂気について:同一性主義であることで、同一性自己=自我を支える仕組みの意味について

同一性自己=自我は、同一性主義でないと自我を維持できないようだ。同一性主義がいわば麻薬のようなものである。同一性主義の快感・快楽によって、自己の理性(差異理性であり、同一性理性ではない)を麻痺させるようだ。
 この病的・病理的なメカニズムの仕組みはどういうものなのだろうか。自我ではなく、自己(これが、本来のその人であり、自我は同一性化された自己のことである)の根源・基盤はMedia Point にある。ここには、差異と同一性の即非的なエネルギーが存している。だから、同一性自己=自我にとっては、自然のままでは、差異と同一性の両方のエネルギーがあり、差異は自我にとっては不都合なもの、不快なもの、否定すべきものとして存するのである。そう、心中の否定すべきものである。だから、自我は内的な差異を否定するようにして、同一性主義を発動させると考えられるのである。自我にとって、同一性主義であることが必然なのである。これが、いわば、同一性主義の反復強迫であり、同一性狂気と言うべきものと思われる。
 そう、意識が内的に向いていないのである。意識が自己の根源に向いていないのである。単に外的対象に向いていて、外的対象を云々するのである。正に、世間形成動因である。
 やはり、先にも述べたが、内観(内感)・内省・省察・瞑想等の必要を唱えたい。そして、自己涵養を行うのである。それにより、近代的自我を解体させるのである。脱近代的自我である。
 問題はこの内感主義は、きわめて精神的な作業であり、それなりに危険をともなうので、場、教本、養成者等が必要であろう。近代主義教育では、当然、これは行えない。しかし、内感性をもたらす読書はできるのである。
 仏典・哲学書・神話学・文学であるが、私はその他に、シュタイナーの『いかにして超越的感覚を獲得するか』をあげたい。私はシュタイナーのオカルティズムには批判的であるが、この本における八正道は参考になる。ただし、彼の瞑想法(薔薇十字の瞑想法)はやや疑問をもっている。(因みに言うと、黒い十字架に七つの赤い薔薇を想起する方法である。)

2008年03月18日 (12:18)

父権一神教と母権多神教の関係について:自由主義、民主主義、個人主義に関係させて

父権一神教と母権多神教の関係について:自由主義、民主主義、個人主義に関係させて

この問題は複雑なので、余裕のあるとき十分に検討したいが、今簡単に問題を言うと、例えば、自由主義とは、父権一神教から生まれたのか、それとも、母権多神教からなのか、という問題である。
 そう、その前に、自我の問題について再考しておこう。私はヤハウェをいわば、自我中心主義の神として邪神扱いしてきたが、どうも問題はそんなに簡単ではないようである。
 結局、自我と自己の関係をどう捉えるのか、ということである。例えば、今、考えている私がいるが、その私は自我なのか、自己なのか、である。私は今、考えを言語化して、パソコンのキーボードに打ち込んでいるが、そのとき、思考している私は自我なのか、自己なのか、である。(これはつきつめると難しくなるので、普通に考えたい。)考えが頭にまとまり、それを言語化して、キーボードに打ち込んでいる私は自我か自己か。
 私はこれまで、自我を否定的に捉えてきたが、果たして、自己から自我を無くすことができるのだろうか。考えている私は一部では自我ではないのか。つまり、頭のことである。自己の源泉は身体内にあると思っているが、思考する私の頭は自己の先端かもしれないが、それは自我と言えないだろうか。
 言語知性の部分である。思うに、それは自我と言えるように思えるのである。そして、自己はもっと深部に存していて、自我と即非関係にあるように思えるのである。思うに、自己の同一性の展開として同一性自己としての自我があるということだろう。そして、自己が自我を包摂しているということだろう。(因みに、ユング心理学は個性化として、自我と自己の統合を述べているが、それは、この点から見て、折衷的である。自己が自我を包摂するのであるからである。)
 そうすると、ヤハウェはいわば自我神ということで、重要な役割があると言わなくてはならないだろう。それは、同一性自己=自我を形成させる原因である。そして、この自我形成によって、原自己=Media Point の同一性展開が十全に為されるのだろう。この同一性自己=自我の発展は、自己を分裂化するものである。そして、とまれ、同一性の形成作用があり、それに対抗する差異作用が発動すると考えられるのである。言うならば、同一性と差異との相克関係が生じるのである。
 ということで、これまでのヤハウェに対する全的批判をここで取り下げて、同一性自己=自我形成の役割を見て、その部分は肯定したい。
 しかしながら、この同一性自己=自我形成は、その連続性から同一性主義(自我中心主義、悪魔主義)を生み出したと言えよう。キリスト教はヤハウェ(父)に対して、子のイエス・キリストを神としたが、しかしながら、やはり、父の連続しているので、イエスは同一性主義から脱出していないのである。ここにキリスト教の限界があると考えられるのである。つまり、父(同一性)と連続的であるイエス(差異)であるということである。つまり、いわば、キリスト教はポスト・モダンなのである。
 この問題をさらに延長すると、脱連続化とは、聖霊によると考えられるのである。ヨアキム主義である。これがトランス・モダンに当たると思えるのである。聖霊の時代である。
 さて、そのように自己同一性=自我を考えるた上で、自由主義はどうやって生まれたのかを考えると、やはり、ユダヤ・キリスト教が必要であったと思えるのである。しかしながら、同時に、基盤として、母権的多神教が必要であったと思えるのである。これは民主主義とも関係するが、父権的一神教と母権的多神教との間ないしは境界において、自由主義、民主主義、個人主義等が生まれたと思えるのである。
 しかしながら、父権的一神教の要素が強化されて、基盤・母胎の母権的多神教が弱化すると、それらは歪曲ないしは形骸化すると考えられるのである。つまり、差異と同一性の緊張関係からそれらは生まれたのであり、差異が失われると、同一性主義となり、ショート(短絡)すると考えられるのである。【ただし、ポスト・モダン期においては、確かに、差異が活性化するが、それは、逆に同一性を否定して、二元的緊張関係を喪失して、倒錯化(ショート)したと思えるのである(アイロニカルな没入)。】
 以上から、今日、トランス・モダン進化にあって、父権的一神教と母権的多神教の結合ないしは調和が考えられるのであるが、トランス・モダンとは同一性を包摂した差異共振性であるから、正確に言えば、父権的一神教を包摂した新母権的多神教が誕生するということなると思われるのである。これが新東洋文明である。
 
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同一性狂気について:同一性主義であることで、同一性自己=自我を支える仕組みの意味について

同一性自己=自我は、同一性主義でないと自我を維持できないようだ。同一性主義がいわば麻薬のようなものである。同一性主義の快感・快楽によって、自己の理性(差異理性であり、同一性理性ではない)を麻痺させるようだ。
 この病的・病理的なメカニズムの仕組みはどういうものなのだろうか。自我ではなく、自己(これが、本来のその人であり、自我は同一性化された自己のことである)の根源・基盤はMedia Point にある。ここには、差異と同一性の即非的なエネルギーが存している。だから、同一性自己=自我にとっては、自然のままでは、差異と同一性の両方のエネルギーがあり、差異は自我にとっては不都合なもの、不快なもの、否定すべきものとして存するのである。そう、心中の否定すべきものである。だから、自我は内的な差異を否定するようにして、同一性主義を発動させると考えられるのである。自我にとって、同一性主義であることが必然なのである。これが、いわば、同一性主義の反復強迫であり、同一性狂気と言うべきものと思われる。
 そう、意識が内的に向いていないのである。意識が自己の根源に向いていないのである。単に外的対象に向いていて、外的対象を云々するのである。正に、世間形成動因である。
 やはり、先にも述べたが、内観(内感)・内省・省察・瞑想等の必要を唱えたい。そして、自己涵養を行うのである。それにより、近代的自我を解体させるのである。脱近代的自我である。
 問題はこの内感主義は、きわめて精神的な作業であり、それなりに危険をともなうので、場、教本、養成者等が必要であろう。近代主義教育では、当然、これは行えない。しかし、内感性をもたらす読書はできるのである。
 仏典・哲学書・神話学・文学であるが、私はその他に、シュタイナーの『いかにして超越的感覚を獲得するか』をあげたい。私はシュタイナーのオカルティズムには批判的であるが、この本における八正道は参考になる。ただし、彼の瞑想法(薔薇十字の瞑想法)はやや疑問をもっている。(因みに言うと、黒い十字架に七つの赤い薔薇を想起する方法である。)

2007年12月08日 (18:11)

真正神道と本居宣長批判:ロマン主義とポスト・モダンとトランス・モダン

神道の逆襲 (講談社現代新書) (新書)
菅野 覚明 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E9%81%93%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%8F%85%E9%87%8E-%E8%A6%9A%E6%98%8E/dp/4061495607


菅野覚明(かんのかくみょう)著『神道の逆襲』(講談社現代新書)をちらと見たが、本居宣長の周知の「もののあわれ」論があり、興味をそそった。
 私は、本居宣長に対して、疑義があるので、興味深い。思えば、かつて、本居宣長の考え方に共感していたのであるが、どうして、今は疑問に思っているのかを精査するためにも、本居宣長の思想を考察してみたいと思うのである。
 簡単に言うと、本居宣長の思想は、ロマン主義なのである。しかしながら、直感では、彼の説明に臭みがあるのである。私の直感にひっかるものがあるのである。誤解・錯誤ならば、是非、解いてみたい。
 宣長は、理を排して、生成した感情・心情・情感を素直に認めるべきであると主張していると考えられる。理性主義に対して、ロマン的感情を肯定しているのである。時代的に見て、西洋のロマン主義の時代とほぼ同時代の人間でもある。
 理論・哲学的に見ても興味深い問題があるのである。そう、「ポスト・モダン」の問題なのである。理性とは、同一性である。それに対して、宣長/ロマン主義は、感性・感情の差異を提唱するのである。そして、理性=同一性を排除するのであるのである。これは、正に、「ポスト・モダン」の様態である。
 ここで、イギリス・ロマン主義の詩人・版画家であるウィリアム・ブレイクを考えると興味深い。彼は、苛烈に啓蒙思想を排斥するのであるが、結局、理性の中心主義化に対して、異議を唱えているのであり、理性を否定しているのではないのである。結局、イギリス・ロマン派らしく、理性と感性との調和を目指しているのである。換言すれば、同一性と差異との調和を志向しているのである。そして、これは、プラトニック・シナジー理論の視点から見ると、正しい方向性と考えられるのである。つまり、同一性を包摂した差異共振性への方向性が認められるのである。
 しかるに、本居宣長の場合は、同一性を排除したままである。これは、例えば、漢意(からごころ)への排除と転化するだろう。そして、これは、端的に、非合理主義である。文化史的には、偽ロマン主義である。(真正ロマン主義とは、理性を包摂した超越性を志向する心の文化である。プラトニック・シナジー理論は、真正ロマン主義のの進展であるとも言えよう。また、音楽で言えば、ベートーヴェンの音楽はロマン主義となるが、やはり、真正ロマン主義と言うべきである。二つのロマン主義があるのである。つまり、真正ロマン主義と反動ロマン主義である。宣長のは、後者なのである。国学の反動性があるのである。これが、明治維新ならびに近代日本文化に病的な、狂気的な反動性をもたらしていると推測されるのである。新しい歴史をつくる会等がそうであり、また、従軍慰安婦や集団自決等の問題も、この病理的・狂気的な反動性が関係しているのである。戦前の全体主義の狂信も、ここに根因があると思われるのである。実に恐ろしい国学的反動性の束縛・桎梏を乗り越えたとき、日本は蘇ることができるだろう。真正神道の復興である。)
 理性=同一性を排除したとき、心は、情緒中心となる。ここには、批判知性もなくなり、無知蒙昧化するのである。感情中心となれば、そうならざるを得ないのである。もっとも、「もののあわれ」には、共感性があることを認めなくてはならない。それは、PS理論的には、差異共振的共感性ということになるのである。しかしながら、理性=同一性を排除した共感性とは、結局、-i→+i⇒-1となるのである。つまり、闇の共感性となり、病的になるのである。それは、D.H.ロレンス等の神秘的作家が陥った闇の心性である。光ではなく、闇のあわれなのである。病的なあわれなのである。
 思うに、ずいぶん、以前に思ったことであるが、本居宣長の「もののあわれ」論が日本人の心性を情緒中心に歪めて、正しい知性の形成をそこなっていると感じたものである。
 私の言いたいのは、情緒を否定することではなく、情緒中心主義の否定である。それは、プラトニック・シナジー理論によって明確化されている心性の提唱である。同一性=理性を包摂した差異共振的心性である。ここでは、知と感とが即非様態、差異共振様態、創造的共振様態にあるのである。今はここで留めたい。


参考:
本居宣長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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本居 宣長(もとおり のりなが、1730年 6月21日 (享保 15年5月7日 ) - 1801年 11月5日 (享和 元年9月29日 ))は、江戸時代 日本 の国学 者・文献学者・医師 である。名は栄貞。鈴屋大人(すずのやのうし)と号した。
経歴

伊勢国 松坂(現在の三重県 松阪市 )の出身。幼名は富之助。通称は瞬庵、春庵(しゅんあん)、松阪の商家である小津家の次男として生まれる。兄が死んだ後、その小津家を継ぐ。そして、22歳になったとき、医学の修行のため京都へ遊学した。京では朱子学者の堀景山 に師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、荻生徂徠 や契沖 に影響を受け、国学の道に入ることを志す。その京都での生活に感化され、王朝文化 の憧れを強めていく。

松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀 』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵 の書に出会って国学の研究に入ることになる。1763年 (宝暦 13年)5月25日 、宣長は、松阪を来訪した真淵に初見した。そして、兼ねてから志していた古事記の注釈について、指導を願うのである。真淵は、万葉仮名 に慣れるため、万葉集 の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意した。この真淵との出会いは、宣長の図随筆集『玉勝間』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。この二つの文章から再構成された宣長と真淵との邂逅は、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載され、この読本によって宣長の名が国民的な文化人として記憶されるようになった。

宣長の代表作には、約35年を費やして執筆された『古事記 』の浩瀚な註釈『古事記伝 』や、『源氏物語 』の注解『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』などがある。日本固有の情緒「もののあはれ 」が文学の本質であると提唱したことで知られる。大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な孔子の教え(「漢意 」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明 や思想を尊重する荻生徂徠 を批判した。しかし、徂徠の学問の方法論である古文辞学 からは多大な影響を受けていることが指摘されている。古事記伝の画期は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、やがて国学の源流を形成してゆく。

門下生として石塚龍麿 ・夏目甕麿 (みかまろ)・高林方朗 (みちあきら)・小国重年 ・竹村尚規 ・本居春庭 (宣長の実子)・本居大平 (宣長の養子)などがいる。

また、国学者としての業績が余りにも大きすぎるために無視されがちであるが、地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動してきたことでも知られ、かつ、寛政4年紀州藩 に仕官し御針医格十人扶持となっていた。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。また意外な一面として、小児科医としても著名であったが、付き添いの母親の診察を乳児の病気の原因は母親にあるとして、必要以上に診察した逸話がある。

宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋 によりあきらかになった面が大きい。

鈴 コレクターとしても有名で、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していた。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。

遺言に自分の墓のデザインを示した。昭和34年に松坂市内を見渡す小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに平成11年には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。

[編集 ] 作品

[編集 ] 国学

* 『古事記伝 』
* 『源氏物語玉の小櫛 』
* 『直毘霊 』
* 『玉鉾百首 』
* 『玉くしげ 』
* 『鈴野屋問答 』

[編集 ] 評論

* 『紫文要領 』

[編集 ] 語学

* 『字音三音攷 』
* 『紐鏡 』
* 『字音仮字道 』
* 『詞の玉緒 』

[編集 ] 随筆

* 『玉勝間 』

[編集 ] 学問論

* 『うひ山ぶみ 』

[編集 ] 経済

* 『秘本玉くしげ 』

[編集 ] 家集(和歌集)

* 『鈴屋集 』

[編集 ] 参考文献

* 吉川幸次郎 『仁斎・徂徠・宣長』、岩波書店 、1975年 6月。
* 小林秀雄 『本居宣長』
* 長谷川三千子 『からごころ』中央公論新社  1986年  ISBN 4-12-001489-4

[編集 ] 関連人物

* 徳川治宝
* 谷川士清
* 橘守部

[編集 ] 外部リンク

* ようこそ宣長ワールドへ
* 吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』(松岡正剛の千夜千冊)
* 本居宣長記念館

Wikiquote
ウィキクォート に本居宣長 に関する引用句集があります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7 " より作成

カテゴリ : 江戸時代の人物 | 紀州藩 | 18世紀の学者 | 国学者 | 神道に関連する人物 | 三重県の歴史 | 1730年生 | 1801年没

2007年11月19日 (12:13)

夢の花咲く樹木:こころの眼と美しさとよろこび:女神楽園回帰

今朝、衷心からの歓びをもつ夢を見た。かなり長い夢であった。旅の夢であった。簡単に触れると、中学時代や高校時代の仲間たちが居る。そして、現在の仲間もいて、和解の気がそこにはある。
 美しい樹木に満ちた、渓流のある場所である。しかし、また、外国人がいて、故郷に戻りたくなる時期のことを言ったようだ。場面は、イタリアのフィレンツェのようでもあるが、もっと川が広く、輝いている。海辺にある輝いている都市のようにも見えた。
 そして、また、場面が変わり、私は、細長い樹木園のような場所を歩いている。花が、淡い肌色的な黄色の花が咲いていて、私は心から感動する。心には喜び、至福の歓びがある。右側には線路があり、花を乗せた列車が通る。
 そう、花を咲かせた樹木の道を歩く私は、花を美しさに心から歓喜している。母が居たようにも思うが、言葉としてある。
 私はただ樹木の静かな美しい花を見て、深く歓びに満たされているのである。
 今、目覚めて考えると、それは、トールキンの『指輪物語』のロスロリアンかもしれないし、W.ブレイクの長編詩の月のオアシスのような国、ビューラかもしれない。
 花園である。女神の神話に出てくる庭園かもしれない。神の国や浄土というには、もっと和やかな地上的な国である。(仏国土に近いのかもしれない。折口信夫の常世や妣の国に近いのかもしれない。)そう、深い安らぎがある。これは、今日の日本では感じられないものであるし、私の好きな音楽の感動もこれには達していないようだ。つまり、単に聴覚を通した感動ではなくて、心からのやすらぎ、よろこび、うつくしさがあるからである。
 そう、美とは、こころにあると思う。私が夢の中で見た樹木に咲きほころぶ花は決して派手な花ではなく、どちらかというと地味なカリフラワーのような花であるが、それが、こころと共振して美しいのである。
 こころと視覚が一体なのである。こころの眼で見ているのである。

追記:
 私は、ヘイリー・ウェステンラの美しいListen to the Windの歌がこころに鳴っている。彼女はケルト系である。以前、私は、日本神話とケルト神話が相似していることを言った。海の彼方にある楽園があるという神話は共通なのである。それは神話的には、女神の楽園である。今日、人類がほとんど忘却した記憶である。
 私は夢で、そこを訪れたのだろう。ケルト神話の他界、女人の島へ行ったのだろう。光の民トゥアッハ・デ・ダナン(ダナの息子たち)。日御子(ひのみこ)たち。

参考:ケルト神話と中世騎士物語―「他界」への旅と冒険 (中公新書) (新書)
田中 仁彦 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A8%E4%B8%AD%E4%B8%96%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E7%89%A9%E8%AA%9E%E2%80%95%E3%80%8C%E4%BB%96%E7%95%8C%E3%80%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%97%85%E3%81%A8%E5%86%92%E9%99%BA-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E4%BB%81%E5%BD%A6/dp/4121012542

古代研究〈3〉国文学の発生 (中公クラシックス) (新書)
折口 信夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%883%E3%80%89%E5%9B%BD%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%99%BA%E7%94%9F-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E6%8A%98%E5%8F%A3-%E4%BF%A1%E5%A4%AB/dp/4121600568/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1195441220&sr=1-1
 

2007年11月19日 (10:24)

マヤ神話と古事記/PS理論:大母神とその子(太陽神)

マヤ神話―ポポル・ヴフ (中公文庫BIBLIO) (文庫)
A. レシーノス (翻訳), 林屋 永吉 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%A4%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E2%80%95%E3%83%9D%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%83%95-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%ABBIBLIO-%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%82%B9/dp/4122038847

マヤの神話を述べた『ポポル・ヴフ』であるが、その創造神話は、聖書の創世記の影響があるが、興味深い。古事記/プラトニック・シナジー理論(PS理論)の見地から解明すべきであり、聖書/キリスト教の視点を脱構築すべきであると考える。
 また、ケツァルコアトルの説明が重要である。これは、正に、母なる神(大母神と呼びたい)の子であり、日御子(ひのみこ)に相当する。
 後で検討したい。

###########以下転載引用開始############

マヤ・アステカの神話



◆天界の三神(2000/6/21)
 原初において人間はまだ一人も存在せず、あらゆる動物も草花も石も谷間も洞窟も存在しなかった。ただし、混沌ではない。陸地は無かったが、静かな海と限りなく広がる空だけがあったという。そして、暗闇と静寂の海の中を二人の神が動き回っていた。
 
 そしてツアコルとピトル、テペウとグクマッツ、アロムとクァホルだけが水の中に光り輝いていた。緑と青藍の羽根につつまれて光り輝いていた。それゆえその名をグクマッツといった。彼らは偉大な知恵者、偉大な哲人の資質を具えていた。こんなふうにして天があり、天の心があった。これが、とりもなおさず神の名である。
 
 研究者A.レシーノスによれば、これらの諸神は結局は一組の母神と父神を指すという。すなわち、ここに列挙されている神々は、結局、ツァコルとビトルをもって一体となすニ元神のそれぞれの別名であるというのだ。ここで一度整理しておけば、ツアコル=テペウ=アロム。そして、ピトル=グクマッツ=クァホルとなる。

・・・・・・

 実際、ナワ語で神を意味するケツァルコアトルは、マヤ人が崇拝していたククルカン、そして聖なる文書『ポポル・ヴフ』に出てくるグクマッツなる至高神と同一の神なのである。

 ケツァルコアトルはトウモロコシの貴重な小粒を発見し、人間に農業を教えた。トウモロコシは彼らにとって人間存在の象徴となり、ケツァルコアトルはトウモロコシの神シンテオトルとして身を分けたと考えられる。さらに、水であり大地であり風であったケツァルコアトルは、自らを犠牲に供することで金星となり、暁の明星がやがて光の根源である太陽の中に呑み込まれるように太陽神ウイツィロポチトリとなった。

◆少年時代のケツァルコアトル

 ケツァルコアトルはアステカの太陽神ウイツィロポチトリと同一神である。その意味でケツァルコアトルの母は、太陽の母であり、また太陽の妻であり妹でもあったコアトリクエである。ある日、コアトリクエと四人の姉妹は、コアテペック(蛇の丘)と呼ばれる丘で難行苦行をしていた。処女のコアトリクエは、羽を集め、胸に当てた。別の物語によれば、母なる女神は、羽ではなくエメラルドを呑み込んだ。そこには、ケツァルコアトルを生み出す何か小さくて貴重なものという観念が残っている。
 
 すなわち、ナワの神ケツァルコアトル、そして別の名前で呼ばれるアステカの神ウイツィロポチトリには、聖なる母はいたが父親はいなかった。この物語の別の版によれば、女神の名前は『ラ』で、彼女には400人の息子がいたが、夫が死んだので独り身であったという。ある日、美しい多色の羽根が1枚、空から降って来た。彼女はそれを胸に当て、自分のもとから去ってしまった400人の息子が帰ってくるよう祈願する。
 
 そのとき、彼女は自分が妊娠していることを知り、赤ん坊が体の中でピクピクと動くのを感じる。次の場面では、400人の息子たちが、誰が彼らの母を妊娠させたのかと騒ぎ立て、赤ん坊が誰であれ彼と母を殺してしまおうと要求する。そこで子供は体内から跳び出し、自分はウイツィロポチトリだと名乗り、400人の息子たちを次々に殺す。それは太陽=ウイツィロポチトリが暁の空に上ると消えてしまうおびただしい数の星を象徴している。


http://www.fitweb.or.jp/~entity/shinwa/mayaasuteka.html

#########以上、転載引用終了#############

参考1:
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/ohter/maya/index.htm
http://www.imadr.org/old/japan/project/guate/ppp/d.b/2.html
http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/32/No32.study.hirota.html
http://www.gendaishorin.co.jp/i/20000401_164922.php
http://www.venus.dti.ne.jp/~shigerui/maya/maya.htm


参考2:

◆マヤの十字架と生命の樹

 地上絵は、ナスカの他に南米のあちこちで発見されており、そのいずれもが畏怖の念さえ抱かせる美しい線画であるが、中には一風変った地上絵も描かれている。ペルーのピスコ湾に残る『生命の木』と呼ばれる巨大な枝付き燭台の絵がそれだ。その構造は三叉に別れ、古代ユダヤの神殿で用いられた聖なる燭台メノラーを彷彿とさせるが、奇妙なことに、その先端は190キロほど離れたナスカの方角を指している。『生命の木』は名前が示す通り、南米各地で崇敬された聖なる宇宙樹を示しており、古代マヤの遺跡にも、同様な『生命の木』を数多く見ることができる。

 例えば一般に『マヤの十字架』と呼ばれる聖なるシンボルは、古くは世界樹(もしくは宇宙樹)と呼ばれる生命の根源だった。実際それは白い樹皮を持つ熱帯ジャングルの巨木“セイバの木”であると言われ、マヤの十字架の最も初期の原型を示しているとされる。先古典期中期の終わり頃栄えた都市国家、イサパの遺跡から発掘された石碑には、天に向かって聳え、やがてそこから無数の枝が分かれて世界を潤すセイバの樹が描かれている。イサパで発掘された石碑には、『ポポル・ヴフ』の最も古い部分を成すと思われる神話的モチーフが見られ、イサパはマヤ文明とオルメカ文明の接点となる遺跡として注目されている。

 こういった南米に古くから伝わる宇宙樹の観念が、マヤ独特の哲学的宇宙観で象徴化されたものこそが『マヤの十字架』なのだ。マヤには二つの神の結合に象徴されるカバウィルと呼ばれる独特の二元論が存在し、二つの根源的対立概念―天と地、父と母など―の協力関係によって創造的な行為がなされ、世界が発展してゆくと考えていた。詳しくは別項 を参照願いたいが、ポポル・ヴフの中から簡単な例を挙げれば、テペウ(雄の蛇)とグクマッツ(雌の蛇)、ツァコル(創造者)とビトル(形成者)、天の心と地の心などなどである。マヤの十字架の起源は二元論を示す神秘思想なのだ。
http://unkokuse.hp.infoseek.co.jp/kodaibunmei/nasuka.html
ナスカの地上絵

2007年11月18日 (12:50)

ゾロアスター教とキリスト教と神道:トランス・キリスト教とMedia Pointと新神道

いろいろ思念が心頭にあるが、余裕がないので、ここで簡単に記すに留める。
 たまたま、文語訳の聖書があり、それを開いて、拾い読みするのであるが、文語体なので、言葉の繋がり(シンタクス)がわかりにくいが、やはり文語体のもつ日本語の力にあらためて、驚く。旧新約聖書―文語訳 (単行本)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A7%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8%E2%80%95%E6%96%87%E8%AA%9E%E8%A8%B3/dp/4820212354/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1195358430&sr=8-1
 
 少し引用しよう。


『太初(はじめ)より有りし所のもの、我らが聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手触りし所のもの、即ち生命(いのち)の言(ことば)につきて、ーーーこの生命すでに顕(あらわ)れ、われら之(これ)を見て証(あかし)をなし、その曾(かつ)て父と偕(とも)に在(いま)して今われらに顕れ給(たま)へる永遠(とこしえ)の生命を汝(なんじ)に告ぐーー

  ・・・

我らが彼より聞きて、また汝らに告ぐる音信(おとづれ)は是(これ)なし、即ち神は光にして少しの暗き所なし。もし神と交際(まじわり)ありと言ひて暗きうちを歩まば、我ら偽りて真理(まこと)を行(おこな)はざるなり。もし神の光のうちに在(いま)すごとく光のうちを歩まば、我ら互いに交際を得、また其(そ)の子イエスの血、すべて罪より我らを潔(きよ)む。』

「ヨハネの第一の書」第一章:第一節〜第七節


 さて、キリスト教が単にユダヤ教だけでなく、ゾロアスター教の影響を受けて成立したことは史実である。そして、このことが一般には認識されていないと思う。善悪二元論、光闇二元論、そして、最後の審判、等は、ゾロアスター教に由来しているのである。
 私はゾロアスター教は偉大な宗教と思っている。非常に、尊い宗教だと思っている。(作家のメルヴィルや哲学者ニーチェが、ゾロアスター教に触れているのは、天才的な慧眼である。p.s. モーツァルトの『魔笛』も挙げておこう。)
 そう、直感では、仏教の光の思想もここから発している。阿弥陀如来、大日如来、等の思想の源泉はここにあると思う。
 思うに、ゾロアスター教と並ぶ霊統は神道であろう。アフラマズダの光と天照大神の光は偉大な二つの霊統の光である。もっとも、根本は同一であるが。
 さて、問題を述べるが、それはキリスト教の問題である。(マニ教の問題があるが、それは今後の課題としておく。)
 イエス・キリストは神の子であるが、聖書では、神の子とは、イエス・キリストだけに限定されないのである。

『視よ、父の我らに賜ひし愛の如何に大なるかを。我ら神の子と称(とな)へらる、既に神の子たり、世の我らを知らぬは、父を知らぬによりてなり。愛する者よ、我等(われら)いま神の子たり、・・・』「ヨハネの第一の書:第三章」

ここでは、父があり、子があるのであり、父が決定的に重要である。父とは何か。私は既に、創世記の神霊(=父)を、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)の+iとして見た。そして、それは、同一性の発端であると見たのである。
 そうならば、子とは、同一性の子である。しかしながら、問題は複雑なのである。私は、聖書の神は二重であり、Media Pointと同一性志向性が重なっていると述べた。
 だから、子もそのように見るべきである。単に、神霊=同一性の子だけでなく、Media Point、i*(-i)⇒の子として見るべきなのである。
 そう考えると、子とは、父の子であると同時に、母の子なのである。母とは、Media Pointであり、大女神であり、父権的一神教によって排除された母権的多神教の主神である。
 つまり、イエス・キリストとは二重神(神人)なのである。そして、生命=光であるということなのであるが、それは、非常に複雑な問題をもっている。
 ここでは、簡単に言うと、イエス・キリストとは、同一性(父の子)であり、差異(母の子)であり、二重性を帯びているのである。換言すると、闇=自我と光=自己の二重性をもっているのである。だから、純粋に、光とは言えないのである。闇と光の二重性、悪と善の二重性をイエス・キリストはもっていると言えよう。因みに、イエスは、この世に剣をもたらすために来たと言っている。
 もっとも、実際はもっと複雑である。同一性とはそれなりに必要なのである。物質的現実を肯定するには、同一性が必要なのである。だから、イエス・キリストは歴史的に重要な意義をもっていたと言えるのである。
 しかしながら、今日、イエス・キリストないしキリスト教のこの二重性が反動的になっていると考えられるのである。つまり、同一性が現代において、差異を取り込んでしまい、差異を解放させない情況になっているのである。同一性=自我、とりわけ、近代的自我が強化されていて、差異が活性化されても、差異が純粋に顕現しない事態になっているのである。
 イエス・キリストは光であり、闇なのである。これを認めなくてはならない。あるいは、光の子であり、闇の子であると言えよう。
 今日、前者を復活させないといけないのである。光の子としてのイエス・キリストは、父の子ではなく、母の子である。これは、大女神の子である。日御子(ひのみこ)である。日御子として復活しないといけないのである。これは当然、人間は日御子となるのである。
 すると、今日、ゾロアスター教と神道が出会うと言えよう。アフラマズダとは、プラトンの善のイデアであろう。そして、天照大神ないしは天之御中主神であろう。
 これは、何を意味するのか。それは、ゾロアスター教の神、アフラマズダとは、大女神ではないかということである。あるいは、アンドロギュノス(両性具有)的ではないかということである。
 この問題をどう解明するかと言えば、これは、PS理論によって簡単に答えることができる。つまり、Media Pointの元神(原神)がそこにはあるということである。それは、原光と原闇との共振様態としての超越光を意味するのである。
 だから、正確に言えば、三柱の神々である。つまり、神道こそ、霊統を真正正当に捉えていると言えよう。アフラマズダも三柱の神々と捉えるのが的確なのである。
 ということで、簡単であるが、本件の考察をとりあえず終えたい。結論を言えば、トランス・キリスト教としての大神道復興である。新ケルト復興等と共振して、大復活となるだろう。

2007年11月16日 (00:47)

神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。

以下の赤色文字の箇所の空間の意味がわからないのである。後で検討したい。

p.s. これは、昔から読んだときに、不思議に思ったことであるが、「大空の上の水」とは、パラドクシカルな表現である。また、不思議な表現である。その後、これには言及されていない。だから、ここには、謎があり、また、欠くわけにはいかないが、同時に、不都合なことがここにはあると思えるのである。
 先に、私はこの天地創造の箇所は、i*(-i)を意味していると述べた。即ち、神霊が+iであり、水が-iである。だから、-iの中に、大空を創り、そして、大空の上の水と大空の下の水に分けたのであり、大空を天とし、また、大空の下の水を集めて、海として、陸を創ったのである。
 はっきり言って、これは、理不尽な表現である。説得力がないのである。プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)から見ると、水の中ではなくて、 i*(-i)において、天地が生じるのである。(もっとも、水から天地創造が為されたというのは、古事記のおのころ島の発生を想起させて興味深い。)
 そして、天はiの極であり、地は-iの極である。つまり、i*(-i)の差異双極共振において、天地が発生するのである。水というのは、差異双極共振エネルギーのことのように思えるのである。そして、これが、同時に太陽でもあると思うのである。水と火と一体である。
 思うに、「大空」は、*であり、「大空の上の水」は、+iの極であり、「大空の下の水」は-iの極ではないだろうか。すると、「大空の上の水」とは神霊の極である。
 聖書の書記自身、思うに、「ポスト・モダニスト」であり、差異と同一性が混淆していて、不明瞭であったのではないだろうか。つまり、神霊=同一性によって、天地創造が為されたと考えたが、二分化するとき、境界が必要となった。同一性自体が境界となるだろう。しかし、そうすると、三分化になるのである。
 つまり、同一性が他者を二分化するとき、当然、自体が境界となり、2+1=3となるのである。ここで、一つ余計になると思われるのである。その余計なものが「大空の上の水」ではないだろうか。
 言い換えると、神霊=同一性は、「超越」していると考えている。そして、それが、他者を二分化する。しかし、その境界は同一性である。だから、1(大空の上の水)+1(大空=境界)+1(大空の下の水)=3となるのである。
 思うに、本来、これは、差異(+i)・同一性・差異(-i)でなくてはならないはずである。そして、この三元性が意識されていたので、分けのわからない、大空の上の水が発生したのではないだろうか。つまり、聖書の書記は正直だったということだろう。
 ここで、先に考えたように、古事記をコンテクストとして与えるといいと思われる。即ち、三柱の神々である。これが、根本である。そうすると、大空に関わる三元論は明瞭になるのである。
 つまり、一方では、聖書の書記は、三柱の神々の三元論が意識されていたが、他方では、神霊=同一性(唯一神)が意識されていたのである。即ち、差異と同一性の混淆・混同があったのである(「ポスト・モダン」)。換言すると、三元論(差異共振性)と二元論(同一性:二項対立)との混淆があったのである。これが、意味不明な「大空の上の水」の発生原因であると考えらるのである。その後、聖書はそれに言及しないのは、二元論的天地創造論にとって、不要になったからだと考えられるのである。
 ここで、整理しよう。神霊=同一性とは正確に言えば、Media Pointを始点にもつ同一性である。つまり、Media Pointの要素と同一性の志向性の二重性をもっているのである。前者が三元論(三柱の神々:三つ巴)であり、後者が二元論(天と地)である。
 しかしながら、主導・主体的なのは後者、二元論であり、前者は従属的であろう。つまり、同一性が差異を支配しているとも言えよう。そして、同一性は二元論であるから、対象(差異、他者)を二分化する。しかしながら、この神霊=同一性は、Media Pointを帯びているので、対象に三元性を見るのである。つまり、Media Pointの三元性を残しているので、対象に、境界の「大空」を見るのである。
 簡単に言えば、i*(-i)の三元性とi⇒-iの二元性の二重性があり、対象の-i(水)に、i*(-i)の三元性を重ねているのである。それが、水の中に生じさせた大空(差異共振性)であり、また、大空の上の水と大空の下の水である(三元性)と考えられる。
 今はここで留めておく。

*******************************

参考:
Q4 「大空の上にある水」って何?(6〜8節)▲



 第二日で、水を空の上と下とに区別されたとあるけど、これは一体何?

http://www.page.sannet.ne.jp/hayashi-ta/gospel/genesis.html#4

*******************************

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

旧約聖書 創世記  第1章 第1節〜第31節
http://www12.ocn.ne.jp/~sokkidou/sokkig_01/0101_0131.html

******************************

010106,神は言った。「大空よ、水のあいだに現れ、水と水とを分けよ」。すると、そのようになった。

010107,神は大空を作り、大空の下の水と大空の上の水とを分けた。

010108,神は大空を「天」と呼ぶことにした。こうして夕方となり、朝となった。二日目のことであった。

010109,神は言った。「天の下の水よ、一か所に集まれ。乾いた所よ、現れよ」。すると、そのようになった。

010110,神は乾いた所を「陸」と呼び、水の集まった所を「海」と呼ぶことにした。神はこれを見て、よしとした。


http://theology.doshisha.ac.jp/nomoto/kenkyu/index.html


2007年11月14日 (22:14)

聖母マリア、アテネ女神が、なぜ処女神なのか。天照大神も処女神だろう。

聖母マリア、アテネ女神が、なぜ処女神なのか。これは、Media Pointを考えたらいいだろう。それは、自身から太陽や知恵を生み出すと考えられる。だから、天照大神も処女神だと思う。
 また、ギリシア神話のアルテミス(月の女神)もそうである。かぐや姫もそうだろう。考えたら、ギリシア神話のガイアも独りで、宇宙を生み出したのである。
 父権的一神教は、これらを、いわば、簒奪したのである。しかし、父権的唯一神とは、実はそれらより、言うならば、格が下がるのである。なぜなら、同一性化を開始した時点の神であるからだ。結局、大女神に回帰すると言えよう。Media Point 回帰である。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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