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2010年12月15日 (16:00)

母権的天孫降臨民族?:二つの母権主義:旧母権と新母権の統合

テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能

以下のKaisetsu氏の倭人考察から考えると、天孫とは、母権的民族であり、それは、扶余/ケルト民族の可能性が高くなった。
 考えてみれば、天孫降臨は、天照大神が支配するのであり、それは、母権主義である。
 では、記紀等の日本神話の意味は何かということになる。私見では、この問題は、歴史学、神話学、文化人類学、文化史学等が、まったく答えていないものである。
 直観では、二つの母権主義があるのである。一つは、旧態の母権主義であり、停滞的である。もう一つは、父権主義に影響されて、覚醒した母権主義である。つまり、Media Point的母権主義である。
 扶余/ケルト民族的な母権主義は、後者であったと思う。即ち、古代日本において、扶余/ケルト民族が、停滞した母権主義を新生させたと推測される。
 つまり、二つの母権主義が古代日本を形成したのである。当然、ここには、父権的志向があるのであるが、基本は母権主義である。
 正に、Media Point的均衡が生まれたと思う。

追記:日本における、失われたイスラエル十支族の影とは、正に、新母権における父権的要素ではないだろうか。
 そうすると、扶余/ケルト民族とは、既に、原トランス・モダン民族・文化ということになる。

追記2:HEX氏のいうシュメール神話の太陽神アンであるが、それは、ケルト神話のトゥアッハ・デ・ダナンに似る。
 どうも母権的であるが、勇武の精神をもっていた民族が古代に存していたのではないだろうか。思うに、アマゾネス(アマゾン族:アマ[⇒天]・ゾン[⇒孫]族⇒天孫族?)はその名残ではないだろうか。
 そう、母権的でありながら、父権民族の影響下において、勇武が賦活された民族ということである。いわば、母権的父権的民族である。

倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。 | 『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile
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kaisetsu kaisetsu

『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

参照:

古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
テーマ:ブログ

(シ)ュメールは人類最古の(高度)文明といわれる。(B.C.8000~B.C2000頃)

シュメール神話の太陽神アンは、16弁菊花紋を象徴とし、天皇家と同じである

アンの子、エン・リルは、牛の角を持つ世界を統べる神であり、太陽神にして大気神であった

大気神とは風の神であり、力の象徴にして、軍神である

エンリルが元となってミトラ多神教のミトラ神(牛の角を持つ)が生まれ、オリエント中に広まり、やがて世界中に伝播する

ミトラ神を主神とするミトラ多神教は、B.C.1550頃ミタンニ王国(メディア帝国)で成立し、やがてペルシア帝国の守り神、ミスラ(アスラ)となる。

ミトラとその兄弟インドラ、ヴァルナなどはアフラ(アスラ)と呼ばれる神族。

ミトラ≒アフラマズダはインドの悪神アスラ(アシュラ・阿修羅)になり、インドラが転化して帝釈天に、(インドラの性格を元にシヴァ神を創造)、ヴァルナ神は天空神にして司法神となる。

インドにおいて、仏陀〔釈迦)はヴァルナの生まれ変わりとされ、寺院には多数その意味の絵画・壁画がある

仏教は、ヒンズー教の内数とされ、いわば一宗派、ヒンズー系新興宗教の扱いである

その為、戦後の独立時、国の宗教をヒンズーと定めた時、仏教徒は、追われる事がなかった。


http://ameblo.jp/hex-6/entry-10734584745.html
HEXのブログ
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2010年12月05日 (11:47)

人類史における一神教の画期性:母権主義の切断:超越的父権原理と超越的母権原理:PS理論的統合へ

先に、アジアの母権主義と唯物論について述べた。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10727337837.html
 即ち、母権である凹iが自我凸iと癒着すること、連続化することが問題であった。
 そこでふと気づいたのは、一神教変革とは、母権主義的癒着・連続化を切断した、人類史における画期的なものであったということである。
 なぜならば、超越神である唯一神とは、現象界、感覚界、物質界から切断された神であるからである。凹iは感覚、感性、感情、身体、欲望的なものである。それに対して、超越神とは徹底的に否定的態度をとったのである。偶像破壊が象徴的である。可視的なものへの信仰、執着を否定したのである。(その点では、仏陀に似てないことはないだろう。)
 つまり、PS理論から見ると、凹iを否定して、凸i中心主義をもたらしたのである。言い換えると、凹iと凸iを切断したのである。そして、超越性とは-1であるから、人間認識図で言えば、第二象限の理知の世界を創造・構築したと考えられる。


人間認識図

by Mr. Kaisetsu with Mr. Seiseimon's cooperation

感覚、感情、感性、欲望等を排除した、超越神の世界、それは、超越的倫理・道徳の世界、超越的理性の世界と言えよう。(ここから、デカルト哲学やカント哲学は見えやすい。)
 とまれ、西洋の理性はこの超越神の論理から生まれたと見るべきである。(プラトン哲学もこの側面があるが、プラトンはイデアやイデア界を説いたのであり、超越的哲学を説いたのである。)
 そして、正に、この第二象限的要素がアジアに欠落していると言えよう。つまり、西洋の理性には、現象界から超越した側面があるということで、ここでは、凹iの要素を排除しているのである。故に、そこでは、アジア母権的な癒着、連続性はないのである。
 とまれ、それは西洋文明の知恵である。
 それに対して、アジア母権主義は、別の超越の方法があるのであり、それが、凹i→-1の道、第三象限の知恵である。
 西洋は凸iが主導的なのであり、アジアは凹iが主導的なのであるから、後者は凹iを活かした知恵を目指すべきでなのである。仏陀の知恵はそういうものであったし、神道の知恵もそうである。
 思うに、先に、古代ギリシアと古代日本との酷似性について述べたが、そのとき、根底の母権主義と侵入した父権主義との衝突、共立・共振を述べた。それは、新しい共立的民族・文化を意味すると考えられる。
 その後、ギリシア、日本において問題なのは、基底の母権主義の超越性(第三象限)が希薄となり、物質文化に囚われるようになったことではないだろうか。つまり、精神文化の衰退が生じたと考えられる。
 それに対して、ユダヤ教は母権主義を切断し、また、キリスト教は切断した上での母権主義の導入を説いたと考えられる。
 ユダヤ教の切断は実に画期的である。これは、母権主義、東洋主義を否定したのである。超越的理性の道を開いたと言えよう。
 そして、これとキリスト教によって、西洋文明が誕生したと言えよう。
 現代の問題は、西洋文明の帰結である資本主義の破壊性である。これは、以上確認したことから見ると、超越的理性をもっているのがわかるだろう。第二象限のその理性が、また、同一性価値=交換価値と結びついていると考えられるのである。つまり、超越的同一性価値=超越的交換価値になっていると考えられるのである。
 思うに、ポスト構造主義、デリダやドゥルーズは本来、これに対抗して、乗り越えようとしたと考えられる。前者はロゴス中心主義批判、そして、後者は同一性批判をしたが、結局、彼らは西洋文明の超越的理性原理を的確に把握していなかったために失敗したと言えよう。そう、西洋文明の超越的原理、それも、第二象限の原理を認識しない限り、西洋文明批判とその乗り越えは不可能であると言うべきである。
 ということで、西洋文明の帰結としての資本主義であるが、それは、他者凹iを欠落した経済システムがあると考えられる。
 否、正確に言えば、民主主義とは他者凹iの原理であり、それは「子」としてのキリストから発していると考えられるが、資本主義の同一性価値=交換価値の原理は、超越的理性(第二象限)から発していると考えられるのであり、ここには、母権的原理と父権的原理が分裂的に相克していると考えられる。
 前者は生命的な原理であるが、後者は破壊的な原理であり、後者は資本主義において主導・中心的であるために、世界は破滅の危機にあると言える。
 結局、超越的父権的原理が支配した現代グローバル資本主義世界を乗り越える方途は、超越的母権原理の復活であると考えられる。
 凹iから-1の超越界への方向を復活させる必要がある。それが、シュタイナー的には霊の道であると言えよう。PS理論的には直観の道であろう。
 それは、キリストの道であるが、キリスト教は父の原理に支配されているので、聖霊の道と言うのが的確である。父に支配された子の道ではない、聖霊の道である。それは、Media Pointの道でもある。
 何故、超越的母権原理が必要から言えば、当然ながら、超越的父権原理は、他者を否定する利己主義、自己中心主義であるからである。自由主義とは前者である。私が説く共同資本主義とは後者のエコノミーのである。
 とまれ、これは、個をもつ共同資本主義であり、社会主義や共産主義ではない。
 思うに、超越的母権原理を土台にして、超越的父権原理を活用する様態の個的共同資本主義が可能である。それはトランス・モダン・アジア的資本主義の道である。
 
追記:構造主義の根源も、超越的父権原理、第二象限ではないだろうか。

追記2:以前示唆したが、カント哲学の問題は、超越性と超越論性が分離したままであることである。理性と言ったとき、超越性に関わるものを実践理性と呼び、純粋理性を超越性と同一性に関わらせていて、その矛盾(アンチノミー)を指摘するに留まっているのである。
 超越論性とは超越性と同一性との折衷的概念であると考えられる。言い換えると、混淆であり、連続性である。ポスト・モダンはこれを引いている。というか、Media Pointの同一性に偏した精神的フィルターと言えるだろう。
 フッサールの現象学とは、凸iの志向性を発見したことにあると思う。それは、実質的に凸i*凹iである。ただし、凸iの志向性を超越論的主観性と呼んでいる。しかし、超越的主観性と呼べば、より正確であったろう。
 そして、俗物のハイデガーであるが、彼は、凹iを存在として、それと物質+1との関係様態を探求したのであるが、実際は純粋な凹iではなく、凸iの主観性をもった存在であり、その点で、凹iと凸iが未分化・混淆していたと思われる。そのため、凸iと物質+1との結合が主要となり、いわば、唯物論化した存在論なのである。そのために、純粋存在である凹iを極めることができなかったと言えよう。とにかく、非常に、不純な、中途半端な哲学である。
 死に臨む存在とは、実は、超越界への漠然とした予感であり、凡庸である。
追記3:もし上述のように超越的父権原理を考えるならば、古代日本に侵入した父権的民族を失われたイスラエル十支族とすると、古代日本において、超越的父権原理と超越的母権原理が衝突して、古代ギリシアを超えるような即非的原理が生まれたと考えられよう。
 それは、父と子の即非論理であり、正に、聖霊の原理ではないだろうか。日本文化とは聖霊文化ということになる。トランス・キリスト教的文化である。
 

2010年10月01日 (18:29)

個と自我:自己問題

個とは英語でindividualtyであるが、後者は、同時に自我、とりわけ、近代的自我の意味にもとられうる。
 どうも、individualityとは、個と自我の混淆した概念であると思われる。また、ego、self、subjectivity、等をどう考えるのか。
 結局、PS理論の原理的説明が整合的になるだろう。今は、ざっと述べるだけだが、

凸iは原自我、
凸i⇒+1が、自我、近代的自我

凹iが原他者、
凸i*凹iが、原自己、
凸i*凹i⇒が、個ではないのか?

だから、一般には、individualityは、凸i⇒+1と凸i*凹i⇒が混淆、連続化しているのではないのか。
 つまり、連続性の問題である。⇒は連続性を意味するだろう。だから、凸i*凹i⇒が+1と連続化するのである。
 つまり、自己認識方程式、

凸i*凹i⇒+1

において、左辺は、個元であるが、MP変換によって、+1と連続化して、自我、近代的自我と連続化されるということだろう。
 ルネサンスは、正に、この図式に当てはまると考えられる。本来、個の覚醒であるが、それが、⇒+1の近代的自我へと連続化したのである。つまり、ルネサンス文化の帰結は、デカルト哲学である。
 しかし、それとも異なる方向性があった、あるのである。それが、MP回帰の不連続化である。それは、西洋哲学的には、キルケゴールやニーチェ、そして、フッサールによって表現された。もっとも明確なのは、フッサール現象学である。
 ここで、仏教(原始仏教と大乗仏教を本来は区別すべきである。原始仏教には、-1が示唆されているのではないだろうか。大乗仏教は、MP的である。)を考えると、本来、空の哲学は、あるいは、禅哲学は、MP回帰を意味する。後者は、とりわけ、⇒+1の連続化をデリダ以上に断固否定してきたのである。つまり、不連続化、MP回帰、⇒回帰である。
 そして、鈴木大拙、西田幾多郎の哲学はそれと同質的であり、理論的進展である。差異共振は⇒+1であり、⇒は差異共立である。
 そして、差異共立から-1への根源回帰が作用しうるのである。おそらく、一如というのは、あるいは、如来というのは、それを意味しているのではないだろうか。
 ここで、西洋、近代西欧に戻ると、フッサールの切り開いた、不連続化への方向が、すぐさま、ハイデガーによって、連続化へと引き戻されたのである。つまり、西洋において、哲学的反動が起きたのであり、結局、それが、その後の西洋哲学の混乱、混迷の根因と思われる。
 存在論であるが、それは、思うに、-1の「存在」を意味すべきである。つまり、超越的存在、超在である。しかるに、ハイデガーの「存在」は、⇒の先端に過ぎないと考えられる。つまり、構造主義の構造と似るのである。
 確かに、カントの超越論は、一つの切断であったが、それは、⇒の先端を捉えたと思われる。しかしながら、カントは、同一性ないしは、理性主義、凸iの意識を支点にしていたので、凹iとの共立によって、-1への超越的存在への方向は、指摘できずに、実践理性によって、-1を示唆したと言えよう。
 結局、西洋文明・文化は凸iに強く傾斜しているので、東洋文化のような凹iのエネルギーの極を純粋に確認できないのである。それは、西洋では、神秘主義になるのである。勿論、反動的要素が強いのではあるが。
 しかしながら、20世紀後半における、東洋文化の流入によって、西洋文化は変容を起こしていると考えられる。広義においては、ポスト・モダンもその流れの一端ではあったが、それは連続性に囚われていたので、挫折したのである。
 政治的にナショナルとは、MP回帰であろう。インターナショナル、グローバルは、⇒+1である。
 また、オバマ路線の原点はMP回帰のトランス・モダンである。それは、米国がもっている、超越的文化が影響しているのではないだろうか。欧州は超越的文化を⇒+1の近代合理主義で、否定してしまったと考えられる。そのため、精神性が欧州では衰退したと考えられる。ただ、英国文化には、ケルト文化が背景にあるので、精神性がそれなりに保持されていると考えられる。
 思うに、一神教の問題がある。超越神とは、-1であろう。そして、プロテスタンティズムは、個において、超越的存在への感応をもたらしたのではないだろうか。ルネサンスが⇒ならば、プロテスタンティズムは、-1への再帰ではないのか。米国の伝統はこれを保持しているのではないのか。
 現代日本は、根源的超越性を見いだすべきである。とまれ、一神教と多神教との融合が今日起っているだろう。オバマ大統領の精神にそれを見ることは可能である。
 私はこれまで、一神教に断固否定的であったが、-1を考えると、肯定すべきである。思うに、明治維新は-1への志向性をもっていたと思う。それが、戦後、近代合理主義で喪失するのである。明治維新は日本における一神教的変革と見ることができるのではないだろうか。神道が復活するには、一神教性と多神教性を融合すべきである。プロテスタンティズムとルネサンスの融合ということである。そして、この融合志向は本来のルネサンスの知にもあったのである。
 後で整理したい。
 

参考:

ラルフ・ウォルド・エマソン エマソンの論文集 「自己信頼」 「償い」  「精神の法則」  (1/4)

訳:永間幸子・国分舞・樋口謙一郎 



 



人は自らの星

誠実で完全な人をつくりうる魂は

すべての光を、すべての影響を、すべての運命を支配する

人の身に降りかかるものに、早すぎるものも遅すぎるものもない

われらの行いは、良いものも悪いものも、われらの天使

常にわれらに寄り添い歩く運命の影

ボーモントとフレッチャーによる「正直者の運命」へのエピローグ
自己信頼

-1-

 魂は常に、独創的な言葉から戒めを聞き取ります。言葉がもたらす感情は、言葉が内包するいかなる思想よりも価値のあるものです。 自分の思いを信じること、自分の心のなかの自分にとっての真実はすべての人にとっての真実だと信じること、それが才能なのです。あなたが心のなかで確信していることを語れば、そのときそれは普遍的なものになります。最も深いところにあるものが、ときが経てば表面に出てくるように、私たちの最初の思いは、最後の審判のラッパの合図とともに私たちの身に戻ってきます。

モーセやプラトン、ミルトンの最大の功績は、書物や伝統にとらわれずに、他人の考えではなく自分の思いを語ったことにあります。人は、自分の精神をよぎる内なる光のきらめきを見つけ、見つめていくべきなのです。しかし、人は気づかぬうちに、それが自分の思いであるという理由で、自分の思いを追いやってしまいます。才能のこもった仕事には、私たちが捨ててしまっている自分自身の思いを見出すことができます。それらの思いは、ある種の威厳とともに私たちのもとに戻ってくるのです 。

http://www.internal.co.jp/services/selfhelp/emerson/emerson1.phtml


Transcendentalism
From Wikipedia, the free encyclopedia
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This article is about the nineteenth-century American movement. For other uses, see Transcendence (disambiguation) and Transcendental (disambiguation) .

Transcendentalism was a group of new ideas in literature , religion , culture , and philosophy that emerged in New England in the early to middle 19th century. It is sometimes called American transcendentalism to distinguish it from other uses of the word transcendental . Transcendentalism began as a protest against the general state of culture and society , and in particular, the state of intellectualism at Harvard and the doctrine of the Unitarian church taught at Harvard Divinity School . Among transcendentalists' core beliefs was an ideal spiritual state that "transcends" the physical and empirical and is realized only through the individual's intuition , rather than through the doctrines of established religions. Prominent transcendentalists included Ralph Waldo Emerson , Henry David Thoreau , Walt Whitman , Amos Bronson Alcott , Orestes Brownson , William Henry Channing , James Freeman Clarke , Christopher Pearse Cranch , John Sullivan Dwight , Convers Francis , Margaret Fuller , William Henry Furness , Frederick Henry Hedge , Theodore Parker , Elizabeth Peabody , George Ripley , and Jones Very .[1] [2]


http://en.wikipedia.org/wiki/Transcendentalism

2010年07月14日 (00:06)

精霊流しの「海」とは何か:折口信夫の妣が国、常世

テーマ:D. H. ロレンスと折口信夫

長崎の祭礼の精霊流しでは、仏を精霊船に乗せて、海へと導く。仏はspiritである。
 では、行く先の「海」とは何か。これは、マイナス1の母神に近いが、しかしながら、水の要素を考えると、第三象限領域ではないだろうか。
 因みに、私は、

風  火
  空
水  地

と見ている。
 空は聖霊でもある。

後でさらに検討したい。

追記:直感では、イシスとオシリスの神話を想起する。オシリスは弟のセトに殺害されバラバラとなり、男根が船に乗せられて、ナイル川を漂い、漂着して、樹木になるのである。そして、それをイシスが見つけて、他の部分と接合して、復活させるのである。母神神話である。古代オリエント神話である。

精霊流し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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長崎市県庁坂を登る精霊船

精霊流し(しょうろうながし)とは、長崎県 の各地でお盆 に行われる、死者の魂を弔って送る行事のこと。
概要 [編集 ]
精霊船

長崎市 をはじめ、長崎県内各地でお盆 に行われる伝統行事である(県内でも海から遠い波佐見町 等にはこの風習はない)。初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、流し場と呼ばれる終着点まで運ぶ。

毎年8月15日の夕刻から開催され、爆竹 の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒のなかで行われる。精霊船は山車 を連想させる華美なものであり、見物客が集まる。「祭り」と誤解されることもあるが、あくまでも故人を追悼する仏教 の行事である。

初盆でない場合は精霊船は作らず、わらを束ねた小さなこもに花や果物(供物)を包み、流し場に持っていく。精霊船や供物は、以前は実際に海へと流されていたが、長崎市では1871年 (明治4年)に禁止された。精霊船も水に浮かぶような構造にはなっていない。現在でも島原市 、西海市 、松浦市 、五島市 などでは、実際に川面や海上に浮かべることもある。

長崎市には長崎くんち という祭りがあり、精霊船の造りはくんちの出しものの一つである曳物に似ている。 曳物は山車を引き回すことがパフォーマンスで行われており、精霊船をそれを真似て引き回すことが一部で行われている。郷土史家の越中哲也 は長崎放送 の録画中継の中で「難破船になるですばい」と毎年、出演の度に「悪しき行為」と解説している。この行為は一般的には好ましい行為と見られておらず、警察も精霊船を回す行為には制止を行っている。

代表的な流し場である長崎市の大波止には、精霊船を解体する重機が置かれている。家族、親類らにより盆提灯や遺影 、位牌 など、家に持ち帰る品々が取り外され、船の担ぎ(曳き)手の合掌の中、その場で破壊される。遺族にとっては悲しい瞬間である。
精霊船 [編集 ]
もやい船の印灯篭

精霊船は大きく2つに分けることができる。個人船と「もやい船」と呼ばれる自治会 など地縁組織が合同で出す船である。個人で精霊船を流すのが一般的になったのは、戦後のことである。昭和30年代以前は「もやい船」が主流であり、個人で船を1艘つくるのは、富裕層に限られた。

もやい船、個人船に限らず「大きな船」「立派な船」を出すことが、ステータスと考えている人もいる。現代でも「もやい船」の伝統は息づいており、自治会で流す船のほか、病院や葬祭業者が音頭をとり流す船もある。また、人だけでなく、ペットのために流す船もある。

流し場までの列は家紋 入りの提灯 を持った喪主 や、町の提灯を持った責任者を先頭に、長い竿の先に趣向を凝らした灯篭をつけた「印灯篭」と呼ばれる目印を持った若者、鉦、その後に、そろいの白の法被 で決めた大人が数人がかりで担ぐ精霊船が続く(「担ぐ」といっても船の下に車輪をつけたものが多く、実際には「曳く」ことが多い)。

精霊流しは午後5時頃-10時過ぎまで掛かる事も珍しくない為、多くの船は明かりが灯るように制作されている。一般的な精霊船では提灯に電球を組み込み、船に積んだバッテリー で点灯させる。小型な船や一部の船ではロウソクを用いるが、振動により引火する危険があるため電球を用いる事が多い。また、数十メートルの大型な船では発電機 を搭載する大がかりな物もある。

精霊船は「みよし」と呼ばれる舳先に家紋や苗字(○○家)、もやい船の場合は町名が書かれている。艦橋 の部分には位牌と遺影、供花が飾られ、盆提灯で照らされる。仏様や観音様、お経を書いた帆がつけられることが多い。

印灯篭は船ごとに異なる。もやい船の場合はその町のシンボルになるものがデザインされている(例:町内に亀山社中 跡がある自治会は坂本龍馬 を描いている)。個人船の場合は家紋や故人の人柄を示すもの(例:将棋が好きだった人は将棋の駒、幼児の場合は好きだったアニメキャラなど)が描かれる。

船の大きさは様々で、全長1-2m程度のものから、長いもので船を何連も連ね20-50mに達するものまである。

精霊船の基本形は前述の通りであるが、近年では印灯篭の「遊び心」が船本体にも影響を及ぼし、船の形をなしていない、いわゆる「変わり精霊船」も数多く見られる(例:ヨット好きの故人→ヨット型、バスの運転士→西方浄土行の方向幕を掲げたバス型など)。
由来と爆竹 [編集 ]

由来は諸説あるが、中国 の彩船流しの影響が色濃くでているものとされている。また、流し場までの道行で鳴らされる爆竹は、中国が起源であるなら「魔よけ」の意味であり、精霊船が通る道を清める為とされる。近年ではその意味は薄れ、中国で問題になっている春節 の爆竹と同様に、「とにかく派手に鳴らせばよい」という傾向が強まっている。数百個の爆竹を入れたダンボール箱に一度に点火して火柱が上がったりする等、危険な点火行為が問題視されている。観覧者を直撃する事が多くあるため、ロケット花火の使用は禁止されている。度を過ぎた花火の使用をした場合、各船の花火取扱者(事前に精霊流しの花火についての講習を受けた者)に警察から指導が行く場合がある。
見物ポイント [編集 ]

長崎市の場合は長崎放送 が中継録画を行う長崎県庁前には数多くの船が流れ、「変わり精霊船」も多く見られる。一方、長崎市役所周辺ではもやい船の伝統が残る下町が多く、3連、4連の巨大な精霊船を見物することができる。
法的な規定 [編集 ]

* 道路上での船の作成や全長2m以上の船を流す場合は所轄の警察署長の許可が必要
* 船の大きさは最大で全長10m、胴体7m、幅2.5m、高さ3.5m。なお、高さは本体高さでなく持ち上げたり担いだりしたときの高さとなる。
* 花火取扱者以外の花火取り扱いは禁止
* 矢火矢(やびや、ロケット花火)、連発花火などの使用禁止
* 花火を人や車両に向けて使ってはいけない
* 流し場で取り扱える精霊船の大きさは各所で異なり、大きいものは大波止など一部の場所でしか扱えない。
* 責任者は青、花火取扱者は赤のたすきが必要。このたすきは事前の届け出を行う際に所轄警察署の署長から交付される。

精霊流しに伴う影響 [編集 ]

* 精霊流しが行われる時間帯は長崎市中心部をはじめとする各所で交通規制が行われ、バスや路面電車 は経路を変更する形で運行される。
* 精霊流しの後は自治体が精霊船の処分を行うため一定期間粗大ごみの搬入が停止される。
* 近年薄暮競走 を行うようになった大村競艇場 は、最終12競走の本場発売締切時刻を18時40分(2007年 8 月・2008 年 8月実績)としているが、精霊流し当日のみ最終12競走の本場発売締切時刻が18時15分になる。(これに伴い当日各レースの発売締切時刻や発走時刻等も変更となる)

さだまさしと精霊流し [編集 ]

長崎市の人にとっては大変重要な行事であり、長崎出身の歌手さだまさし が聞いた話によれば、1945年 8 月9日 の長崎原爆投下 の際には多くの人が「自分が死んだら、誰が精霊船を出してくれるのだろうか」と気に懸けながら亡くなっていったという。

そのさだまさしは、自分の従兄弟の死に際して行われた精霊流しを題材にして、1974年 のヒット曲『精霊流し 』を作った。しかし、その歌と一般的な灯篭流しの情景を結び付け悲愴なイメージを作り上げてしまった観光客が実際に長崎の精霊流しを目の当たりにしてあまりの賑やかさに「歌と違う!」と驚くこともしばしばあるらしい。実は、さだも歌詞の中で「精霊流しが華やかに」と書いており、グレープ のファーストアルバム『わすれもの』では『精霊流し』のイントロ に爆竹 の音が入っており、賑やかさの奥底にある哀しみを描いているのだが、一般的な行事の印象が如何に強いかを物語るエピソードとも言える。
関連項目 [編集 ]

* お盆
* 盆踊り
* 送り火
* 御招霊
* 爆竹
* 舟っこ流し

関連サイト [編集 ]

* 精霊流し(長崎市)
* 長崎精霊流し(長崎新聞)

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%9C%8A%E6%B5%81%E3%81%97 」より作成
カテゴリ : 日本の年中行事 | 長崎県の祭り

★精霊船の由来
寛政時代の記録には「昔は精霊を流すに船をつくるということもなく」とある。精霊は聖霊とも書いていた。読み方もしょうろうではなく、昔風にはしょうりょうである。

享保(1716~1725)のころ、中島聖堂の学頭をしていて、のち幕府の天文方をした廬草拙(ろそうせつ)という儒者が市民が精霊物を菰包みで流しているのを、これはあまりにも霊に対し失礼だというので藁で小船を作ってこれに乗せて流した、という記録がある。
ろそうせつ(1671~1729)が亨保のころ始めたとすれば、正徳(1711~1715)以前には精霊船は無かったことになる。
長崎名勝図絵という本には、享保のころ、物好きな男が小船を作って供え物を積んで流した、とある。この場合は一市民が始めたというおもむきで書いてある。また古書には、唐人の彩舟流し(さいしゅうながし)という説もある。今日まだ定説はない。
◇長崎辞典・風俗文化編・長崎文献社より
http://www.medaka.org/~ryouma/file/file_01.html

2009年11月27日 (21:17)

牛頭天王と女神信仰

牛頭天王については、これまで考察したことはなかったが、牛の頭ということで、これは、女神の信仰に通ずるのではないかと思った。当然、ヒンドゥー教とも関係する。
 そうすると、仏教と女神の信仰との関係が示唆されている。
 また、武塔神という点では、シャーマニズムと関係があるので、やはり、女神の文化に近いだろう。
 また、武塔神の「民話」は、傘地蔵やゼウスの民話的神話に似ている。
 また、悪を滅ぼすという点では、聖書のロトの話を想起する。いわば、義人救済の神話である。
 先に転載した記事では、近世の神道家や国学者にとっては、「まことに疎ましく目障りなもの」とあった。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/minoh/gozutenno.htm
国学はキリスト教の影響を受けて一神教的になったと考えると、これは意味深長である。女神信仰や多神教をやはり想起する。今はここで留める。 

追記:端的に言えば、Media Point、精神的フィルターの様態ではないだろうか。一神教ないしは父権制の思考にとっては、それは否定の対象である。有り体に言えば、憎悪の対象である。一神教や父権制は多神教と母権制にがまんがならないのである。
 
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参照:
蘇民将来
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蘇民将来(そみんしょうらい 蘇民將來)とは近畿地方 を中心に日本各地に伝わる説話 、およびそれを起源とする民間信仰 である。

古くは『釈日本紀 』(卜部兼方 鎌倉時代 中期)に引用された『備後国風土記 』逸文 の疫隈國社 に見えるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神 (むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来 こたんしょうらいとされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神 は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神 は速須佐雄能神(スサノオ )を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

この逸話を基に岩手県 内を始め各地に伝わる蘇民祭 を始め、京都の八坂神社 や伊勢 ・志摩 地方の年中行事で厄除け祈願として、茅の輪 潜りや蘇民将来護符の頒布、注連飾り などの祭祀が盛んに行われている。

また、川村湊 は『牛頭天王 と蘇民将来伝説』(作品社、2007年)にて武塔神 (むとうしん)と妻女頗梨采女 (はりさいじょ)の関係と朝鮮 土俗宗教である巫堂 (ムーダン)とバリ公主 神話(パリ公主神話)の関係について関連があるではないかとの説を述べている。


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武塔神
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武塔神(むとうしん)は、蘇民将来 説話 に登場する神。武塔(むたふ)の神、武塔天神とも。卜部兼方 が13世紀 後半に著した『釈日本紀 』にも引かれている『備後国風土記 逸文 』の「疫隈國社 (えのくまのくにつやしろ)」)が初見である。

武塔の神は北海の神で、嫁取りに南海に訪れたとされ、自ら「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり」と称している。ゆえにスサノオ と同一視される。 武塔は固有名詞ではなく、朝鮮の武塔(ムータン)の台形状の聖所にある神の意味と言われる。 ムータンという言葉は、朝鮮では、巫堂mudang というシャーマン 的存在が知られる。中国語にはmudan(牡丹)という語があり、 また毘沙門天 と唐 代の武将李靖 (571年 - 649年)が習合した道教の神である托塔天王と関連付ける説もある。

『備後国風土記逸文』の武塔神の説話は、のちに牛頭天王 の説話『祇園牛頭天王縁起』へと話がスケールアップしている。

武塔神の弟の巨旦将来 は、夜叉国の巨旦大王(金神)になり、武塔神は「身の丈七尺五寸の大男・牛頭をした太子」牛頭天王 へと変化し、巨旦大王と戦争まで起こしている。牛頭天王は、摩訶陀国 (まかだこく)の王舎城 (マガダのラージャグリハ)の大王とされる。

* 『伊呂波字類抄 』によれば、「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神とも云う。」としており、八王子と8万4654の眷属神をもつとする。

* 陰陽道 の教典の一つである「刃辛(ほき)内伝」では天刑星(てんぎょうしょう)の神の転生で、吉祥天 の王舎城の大王で商貴帝と呼ばれる。

* 「九相国」はときに「倶相国」「吉祥国」「豊饒国」等と記述されるが同じである。

関連項目 [編集 ]

* スサノオ
* 牛頭天王
* 蘇民将来
* 金神

執筆の途中です この「武塔神」は神道 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (ポータル 神道 /ウィキプロジェクト 神道 )。
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カテゴリ : 民間信仰 | 日本の神 | 説話

バリ公主神話(口伝神話)



1. 概要

 バリ公主(王女)の両親は、占いの結果を無視して厄年に結婚し、世継ぎの太子を望んでいたが、それとは裏腹に七人の公主が次から次へと生まれ、激怒した父親は末っ子であるバリ公主を捨てるように命じる。
 バリ公主を捨てたため、両親は不治の病にかかるが、捜し出されたバリ公主が、親の命を助けるため西天西域国へ薬水を求めて旅立つことになる。
 途中、様々な苦難が待ち受けているが、釈尊、地蔵菩薩、弥勒菩薩、神などの加護で、その苦難を乗り越える。最後に、神(弥勒)と結婚し、九年間に息子七人を産み献じ、その見返りとして薬水をもらい、親のところへ帰る。
 そこですでに亡くなっていた両親を甦らせ、その褒美として、バリ公主とその息子たちは、十王またはそれに準ずる神となる。 (金香淑 『朝鮮の口伝神話―バリ公主神話集』 1998和泉書院 p.22~23)
 

・死霊祭において巫堂(ムーダン)により唱えられる、バリ公主を主人公とした代表的な巫歌。口伝であるため異本が多い。

・バリ公主のバリは「捨てる(バリダ)」という動詞からきている。公主は王女。地方によってはベリテギと呼ばれるが、これは「捨て子」のこと。他に七公主(七番目の娘から)、オグ大王解(父親がオグ大王と呼ばれていたことから)などの呼び名もある。

・バリ公主は、両親を甦らせたことから、巫祖の神として死霊を極楽へ連れて行くとされる。

・「死霊祭の巫歌に(使われ)…、さらに満州・蒙古地域の巫歌との共通点も(あることから)…、①生き返らすモチーフの上に②捨て子の要素の結合、さらに③ 男女の対立、④姉妹の葛藤と⑤孝の要素(など)が潤色されたものと思われる」(崔吉城『韓国のシャーマニズム』p.397)

・「棄子」や「母神と若い息子神」は多くの始祖神話にも見られるパターンである。

・バリ公主神話は、もともと(イザナギのように)死の国への旅であったが、その後道教・仏教などの影響を受け、西天、西域国あるいは玉皇の天上界への旅となったと考えられる。

・虐げられた末娘の孝行話はシェークスピア「リア王」を連想させる。

・孝行娘が試練を経て病気の親を救う話は、有名なパンソリの「沈清伝」のテーマでもある。

・このような巫俗における父娘関係の重視は、儒教において父息子関係が重視されているのと対照的である。

・他人の救済のため生きたまま天上界を往来するバリ公主の行動はまさにシャーマンである。

・薬水を得るために耐えねばならない艱難辛苦はシャーマンのイニシエーションを象徴しているといえる。



2. 全文

 金東里 『巫女 乙火(韓国文化選書3)』 1982成甲書房からの引用(p.197~219)。巫女である乙火がクッのなかでバリ公主神話を唱えるシーン。内容はソウル地方のものと思われるが、上の概要とは異なる部分もある。

 庭にいっぱいの、群衆の息づかいすら、とまったかのように静まりかえった。その静寂を破って、杖鼓の音が二回くらい鳴ると、こんどは乙火のしわがれたような情愛のこもった声がおちついて唱えられはじめた。
「ベリテキ(*)、出てくれ!」
 このひと声に、たちまち、ア!と感嘆する声まで聞こえた。
 乙火は黒い宝石のように輝く両眼で、群衆をひとまわり眺めた後、右の手があげられるのと同時に、そのはりつくような声を再びはりあげた。

 * 「捨て子」の意味。=バリ公主。


http://homepage2.nifty.com/jiyudaigaku/kannkoku/bariteki.htm

シャーマニズム
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シャーマニズム(英 : Shamanism, シャマニズムとも)は、シャーマン (巫 師・祈祷師 )の能力 により成立している宗教 。シャーマンはツングース語 「šaman, シャマン」に由来し[1] 、トランス状態 に入って霊 (超自然的存在)と交信する現象を起こすとされる。この現象自体や現象に基づく思想 をシャーマニズムと呼ぶこともある(ミルチャ・エリアーデ など)。広義には地域 を問わず同様の宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼ぶ。アニミズム を伴うことが多く、実際の宗教形態においてはシャーマニズムのみが存在するということはほとんどない。
用語 [編集 ]

日本語における「シャーマニズム」「シャマニズム」の区別は、研究者の学問分野と密接な関係がある。北海道・樺太・シベリア・満州・モンゴル・朝鮮半島を中心とした北方文化圏の研究者の多くは「シャマン」「シャマニズム」という表記を用いてきた。ツングース語の発音は「シャマン」に近いとされる。一方、沖縄(琉球)・台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏の研究者の多くは「シャーマン」「シャーマニズム」の表記を用いてきた。また欧米の民族学・人類学・宗教学の研究を紹介する際の翻訳語としては、「シャーマニズム」「シャマニズム」が任意に用いられている。堀一郎 の場合、「シャーマニズム」という表記にはこの対象を世界的視野で捉えようという意図が込められているという指摘がある。[2] 。
シャーマニズムの定義 [編集 ]

シャーマニズムの定義は学者によって様々である。まず地域であるが、北アジアに限られるとする説と、世界中の他の地域で見られる諸現象を含める説がある。また超自然的存在と交信する際、脱魂と憑依(憑霊)のどちらを基本と捉えるかについても意見が分かれている。エリアーデは脱魂(ecstasy)を本質的とするが、マッカロック(J. A. MacCullock)は憑依 (possession)を重視し、I. M. ルイスは一方を強調することを批判する。例えばシベリアなど北東アジア研究者は脱魂を重視し、東南アジアや南米の研究者は憑霊を重視し、日本や朝鮮半島の研究者は憑霊ないし折衷説をとる傾向がある[3] 。

佐々木宏幹によると、シャーマニズムには、次のような3つの要素があるとされる[4] 。

* トランスという特別の精神状態において脱魂(ecstasy)または憑依(憑霊)(possession)が行われる
* 神仏・精霊などの超自然的存在と直接接触・交流・交信
* 社会的に一定の役割を持つ信仰と行動の体系

トランスは、ある種の異常心理状態ではあるが、平常の社会人と半ば交流できる状態でもある。また演技的なものもあると考えられている。「脱魂」とは、ある人物の霊魂が身体を離脱することであり、「憑依(憑霊)」とは、神霊・精霊がある人物の身体に憑くことである。脱魂したシャーマンは、その間、超自然的存在と交流していて、その事情を報告する場合もあるが、憑依されたシャーマンは、その間のことを正気に返った時にまるで覚えていない場合が少なくない。また「憑霊(憑依)」はトランス状態になくても起こっていると考えられる場合がある[4] [5] 。 トランスパーソナル心理学 と変性意識状態 参照。


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アブラハムの宗教 における預言者 も一種のシャーマン(予言者型)と見ることもできるが、強い倫理観に基づき、神の意思として当時の社会を批判している点で特異である。
日本のシャーマン [編集 ]

『三国志 (歴史書) 』中魏志倭人伝 に記述されるいわゆる邪馬台国 の女王 の卑弥呼 が用いたという「鬼道」もシャーマニズムと言われている。

下北半島の恐山 におけるイタコ 、沖縄県周辺のユタ など、20世紀においても各所にシャーマンに当てはまる事例が報告されている。なおユタ(シャーマン)とノロ(祭司)とは役割が異なる。

ロト (聖書)
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洞窟の中のロトと娘たち

ロト(ヘブライ語 : לוֹט‎, Lot)は『旧約聖書 』の登場人物である。『創世記 』11章後半から14章、および19章に登場する。父はテラ の息子ハランであり、ロトはアブラハム の甥にあたる。また、『新約聖書 』では義人として紹介されている(『ペトロの手紙二 』2:7-8)。

アブラハムに伴って古代エジプト へ、そしてカナン へと旅をするが、アブラハムの牧夫とロトの牧夫との間に争いが起きたため、ロトは肥沃な土地である東方のヨルダン 地域へと移動し後にソドム へと移住する。エラムの王ケドルラオメルによってソドムが略奪されると、ロトの家族は家財もろとも捕虜として連れて行かれるが、そのことを伝え聞いたアブラハムによって救出される。

後に、天使がソドムに派遣され、ヤハヴェ がソドムとゴモラ を滅ぼすことを決定したことをロトに伝える。そこでロトは夜が明ける前にロトの妻 (ヘブライ語 : אשת לוט ‎ エシェット・ロット)[1] と2人の娘を伴ってソドムを脱出し、近隣の都市ツォアル(ベラ)へと向かう。逃げる際に「後ろを振り返ってはいけない 」と指示されていたが、ロトの妻は後ろを振り返ってしまい、「塩の柱」(ヘブライ語 : נציב מלח‎ ネツィヴ・メラー)となる。なお、『創世記』はロトの妻と娘たちの名を明らかにしていない。

その後、彼らは山中の洞窟に移住したが、ここで娘たちは父を酔わせ、父によって男子を1人ずつ生んだ。長女の息子は「モアブ (父親より)」と名付けられモアブ人の祖となり、また、次女の息子は「ベン・アミ(私の肉親の子)」と名付けられ後にアンモン の人々の祖となった。

ロトがいた洞窟とされる場所はビザンチン時代はキリスト教徒の巡礼地となり、教会が建造された。この教会の遺跡(アラビア語 : دير عين 'أباطة‎ UNGEGN 式: Deir 'Ain 'Abata デイル・アイン・アバタ)が死海 東南岸に残されている。教会横には「ロトの洞窟」が存在する。教会は現代のヨルダン王国カラク県に位置するが、カラク地域は歴史的には「モアブ」と呼ばれていた。洞窟で生まれたというモアブ人は鉄器時代には同地域に王国を築いていた。

2009年11月14日 (16:20)

臥竜山女子学生惨殺事件:日本母権制と父権制の衝突事件

テーマ:社会・芸能・増す塵:薬物・凶悪犯罪

後でこの事件について、宗教・神話学・深層心理学・社会力学的に解明を試みる予定であるが、私が脳裏に想起されるのは、『羊たちの沈黙』(映画、小説)である。
 これは、母親を想起させるような女性を殺害し、その皮を剥いで、それを身につけるのである。
 どうも、本事件は、場所といい、狂気・暴力といい、また、社会状況といい、最高度の問題を秘めている。
 どうも、日本母権制と父権制の確執がここにあるように思う。女性の詐欺殺人事件も母権的であると思う。結局、父権制が基層の母権制を抑圧している力学がある。そのため、母権制が父権制に復讐すると思われる。そう、ギリシア神話ならば、復讐の女神である。
 思うに、本事件は、内なる父権制による母権制の否定である。
 とまれ、現代、日本の父権制と母権制が反動的に衝突していると言えよう。
 日本の封建・父権・近代的同一性の縛りを解体する必要があるのである。

参考:
羊たちの沈黙(1988年) トマス・ハリス作(新潮文庫)

FBIの行動科学課の訓練生クラリス・スターリングが、所長のジャック・クローフォドに依頼され、監房に入っているハニバル・レクター博士(人食い《ザ・カニバル》ハニバル)の調査書を作成するように頼まれる。そのとき、レクター博士から、ラスペイルの車の中を調べるように言われ、調べている。車の中には、ヴァレンタインのしるしのあるアルバムとマネキンがあった。また研究室用の大きな標本瓶に人間の頭が入っていた。
クラリスは、レクター博士と話をする。標本瓶の頭は、ラスペイルのゲイの恋人で、スェーデン人クラウスのものだと言う。レクター博士がクラリスの手助けをしたのは、クローフォドと取引したいからで、人間の皮を剥ぐバッファロゥ・ビルのことについて教えることができると言う。
クラスの仲間から離されたクラリスに、射撃教官のブリガムが、ジャック・クローフォドといっしょにバッファロゥ・ビル-タイプ(人間の皮を剥ぐタイプ)の死体の調査に出かける任務を伝えた。ブリガムは、車でクラリス・スターリングを、クワンティコの飛行場に連れて行った。そこでは、古い双発のビーチクラフト、「ブルー・カヌー」がクローフォドを乗せて待っていた。
バッファロゥ・ビルに関するファイルを飛行機の中で、クラリスは読む。白人女性ばかりを狙った、皮を剥ぐ犯罪で、おそらく犯人は白人男性である。少なくとも五回の犯罪歴があり、死体は、いずれの場合も流水に投げ込んでいる。それぞれ異なった州の別の川で州間高速道の交差点の下流で死体が発見されている。バッファロゥ・ビルは各地を移動する男である。双発機は、ウェスト・ヴァージニア州ポターへ向かう。
【人間の皮を剥ぐこと、女性が犠牲者であること、死体が川に投げ込まれること、各地を移動していること等から、予感できるのは、これは、一種宗教的な儀式・儀礼のようなものではないかということである。そう、アメリカの自然・大地へ犠牲を捧げること、供儀ということなのだろうか。また、レクター博士の犯罪も不気味である。そう、思うに、皮を剥ぐというのは、「魂」や生命の器を破壊するということではないだろうか。
ならば、それにより、「魂」・生命を解放する行為ということになろうし、正に儀礼となろう。アメリカの自然への「魂」・生命を捧げること、なにかアステカの宗教儀式を想起する。】
ポター葬儀場は、ランキン郡の死体保管所で、そこで、クラリスは、犠牲者の検査を行う。
「・・・この被害者が誰であれ、どこから来たにせよ、川が彼女をこの土地に運んできたのであり、この土地のこの部屋に救いなく横たわっている間、クラリス・スターリングと彼女の間には特別な繋がりが存在するのだ。ここではスターリングは、土地の産婆、知恵者の女、薬草医、常に必要なことを果たしてきた女、絶えず監視役を務め、その役が終わると、土地の死人の体を洗い身なりを整えてやる女の後継者なのだ。」122~123頁
(クラリスは、メディスン・ウマンだ。土着的女神的な存在、魔女的存在。女性指導者的な存在だ。それも、モダンのシャープな即物的な知覚をもった存在、近代科学を身につけた存在だ。「神秘・神話」と近代科学の結合だ。)
スターリングは、死体の指紋や写真をとったりして検屍を終える。六番目の被害者は白人女性、二十歳前か二十代初め、射殺、胴体下部と腿剥皮(ももはくひ)で頭皮を剥がれた最初の被害者、両肩の後ろから三角形に皮を取られた最初の被害者、胸を撃たれた初めてで、喉の奥に繭があったのも初めてである。
クラリス・スターリングは、スミソニアン国立自然史博物館へ行き、被害者ののどに入っていた虫の繭について、ピルチャーとロゥドンに検査してもらう。それは、蛾のエレブス・オドラ(クロエレブスオオヤガ)で、フロリダ最南端とテキサス南部で年に二度、五月と八月に産卵することがわかった。帰り際、ピルチャーはこの事件が解決した後、クラリスに食事をしようと誘った。
上院議員のルース・マーティンの一人娘キャザリン・ベイカー・マーティンが襲われ誘拐される事件が起る。ブラウスが切り裂かれていた。
六番目の事件で、死体保管場での検死の経験が、クラリスに衝撃を与え、精神に地殻変動を起こしている。クローフォドから電話があり、スミソニアン自然史博物館に行くように言われる。クラスメートのマップは、クローフォドに刑法の試験に関して手配してくれるよう頼むように勧める。
クラリス・スターリングは、スミソニアン自然史博物館に行き、クローフォドと落ち合い、標本瓶に入っていたクラウスの首が作業台に載っていた。クラウスの喉からも虫が見つかったのだった。このため、クラリスは、再度レクター博士に会うことになった。

ジェイム・ガムは、女性ホルモンを使って女性になろうとしているが、未だ男性的な攻撃性があるように見える。彼は、トレイを三つ地下室にもっていき、そこにある涸れ井戸の中に、骨と野菜くずを投げ捨てた。その井戸からは「おねがい」という叫び声がした。

クラリスは、ボルティモア精神異常犯罪者用州立病院に入り、レクター博士と話をする。監房では、サミーという分裂病者が新たに収監されている。博士はバッファロゥ・ビルがサディストではない理由として、どの死体にも縛り傷が手首だけについていて、足首にないことをあげている。サディストなら、楽しみながら皮を剥ぐ時は、被害者を逆さ吊りにしてするものだと言う。クラリスの子供時代の最悪の記憶と引き換えに、博士はバッファロゥ・ビルが、キャザリン・ベイカー・マーティンを誘拐した理由を告げる。それは、彼は乳房のついたチョッキが欲しいからということであった。
クラリスは、上院議員マーティンの取引を携えて、レクター博士に会う。博士は、蛹の話を始めた:蝶や蛾の幼虫は美しい成虫(イマーゴゥ)になる。イマーゴゥという言葉は、幼児期から意識下に埋め込まれ、幼児期の感情に包み込まれた両親のイメージだと言う。
蛹のもつ重要な意味は変化だ。ビリイ(バッファロゥ・ビルを今はこう呼ぶ)は自分も変化したいと思っている。彼は本物の若い女の皮膚を生地にして、若い女性用の服を作っている。ビリイは真の性転換願望者ではない。博士はクラリスに性転換願望者とそうでない者の区別のしたかを教える。
レクター博士はクラリスにジェイム・ガムを引き渡す方法について考えを巡らせている。ラスペイルの語るところでは、ジェイムは本当のゲイではなく、実際のところ、無に近い人間であって、全くの空虚を充たしたがっていた。あるとき、前の雇い主の郵便物を受け取り、小包の中に死んだ蝶が詰まっていて、スーツケースの中から、一匹の蝶が蛹から孵り、飛んでいった。それを見たジェイムは何をなすべきか閃いた。
チルトン博士が、レクター博士の監房の寝台に腰かけて、レクター博士と精神医学資料保管所との間の一番新しい往復文書を読み終える。チルトン博士は、レクターをクローフォドやクラリスが騙すであろうことを執拗に告げる。
ジャック・クローフォドは、ジョンズ・ホプキンズ大学の性同一化科長のダニエルソン博士に、ここで申請を拒否されたものの資料を見せてもらいたいと懇願するが、厳しく断られている。
チルトン博士がこの事件に首を突っ込み、マーティン上院議員が直接介入し始めた。ハニバル・レクター博士がテネシー州に引き渡されることになった。
レクター博士は、マーティン上院議員に、バッファロゥ・ビルに関する情報を知らせる。
本名は、ウィリアム・ルービンで、通称ビリイ・ルービンであること等。
ジェイム・ガムは地下室で飼っている蛾が成虫になるのを見ている。「檻に光線を戻したのがちょうど間に合った。大きな昆虫の羽が背中の上方にあって、模様を隠したり歪めたりしている。今度は羽をおろして体を包むと、あの有名な模様がはっきりと見える。毛皮のような鱗粉で見事に造り出された人間の頭蓋骨が蛾の背中でこちらを見ている。陰になった頭蓋骨のてっぺんの下に黒い眼窩と突出した頬骨がある。その下方で黒い部分が顎の上辺りをさるぐつわのように横切っている。頭蓋骨は、骨盤のてっぺんのように広がった模様の上にのっている。骨盤の上にのった髑髏、すべて自然の偶然によって蛾の背中に描かれている。ミスタ・ガムはたいへん気分がよく、心が軽くなったような気がした。」p. 288
獲物のキャザリンをやるのは明日か明後日である。【ここの頭蓋骨のある蛾とは、ミスタ・ガムにとって、自由と皮剥の二重性を象徴していると見ることができよう。そう、神秘学的に言えば、ガムにとって女性の皮・皮膚を着るとは、生まれ変わることを意味しているのだろう。あるいは、女性に生成変化することを意味しよう。それは、また成虫になることだから、通過儀礼であろう。思うに、女性の皮・皮膚を剥ぐことは、女性の「魂」・生命を取り出すことであり、また剥いだ皮・皮膚を着けることは、自己成就なのであり、それは、女性へと変身することだ。つまり、脱皮と成人儀式の両面を女性の皮剥ぎは意味しているのだろう。死と再生の儀式だ。】
クラリスは、キャザリン・ベイカー・マーティンの住んでいたアパートメントに行き、調べることにした。宝石箱の引き出しの裏に、茶封筒に写真が五枚入っていた。それは、セックスしている時の写真であるが、頭や顔は写っていなかったが、女性が大柄であることから、キャザリンのものであろうと考えた。そのとき、マーティン上院議員が入ってきて、その写真を取り上げた。司法省のクレンドラーが、この事件とはもう関わりはないのだから、クワンティコの学校に帰るように、クラリスを見下して言った。
レクター博士が新たに収監されているメンフィスの古い裁判所へクラリスはやって来た。
レクター博士はクラリスに彼女が子供の頃のことを話させると、クラリスは父が亡くなり、母がモンタナの従姉妹夫婦に彼女をあずけたことを告げ、ある早朝子羊たちが屠殺のため悲鳴を聞こえ目が覚め、目の悪い馬を連れ出したことを語った。
ペンブリイとボイル両係官(矯正官)が、レクター博士を担当しているが、食事を与えるときは、拘束服を着せないで手錠を格子の外に出させるが、レクター博士は隠しておいたボールペンのプラスティックの軸にクリップを差し込んだ簡易鍵を指の間から出して手錠の鍵を開けて、ボイルに手錠をはめ、そしてペンブリイに襲いかかって棍棒で殴り殺し、その後、ボイルを撲殺した。引き出しに拳銃が二挺あり、ボイルのポケットにポケット・ナイフがあった。
テイト巡査部長が、交代のため確認しようとしたが、ボイルとペンブリイはまだ下りて来ていない。銃声がして監房に行くと、二人は無惨な状態で横たわっていた。ボイルは即死だが、ペンブリイは息をしていた。エレベーターの天井から血が滴り落ちたので、犯人はエレベーターの屋根にいるということで慎重・厳重に探ったが、それは実はペンブリイであった。
ペンブリイ、実はレクター博士を乗せた救急車は、救急係がレクターに襲われて、メンフィス国際空港に向かった。
クラリスは、特別休暇を命令されたクローフォドの自宅に行き、レクターの逃亡について説明を受けた。レクターはペンブリイの制服とペンブリイの顔の一部を着けていた。それにボイルの肉を一ポンドほど。またクレンドラーが、クラリスを職務遂行能力審査会にかけるよう訴えたことをクローフォドは告げた。
クラリスはスミソニアン自然史博物館の昆虫館に行き、ピルチャーからクラウスの喉に入っていた繭が確認されたことを告げられる。それは、ドクロメンガタスズメで、学名はアケロンティア・ステュクスで地獄の二つの川の名前から取ったもので、マレイシア種であることがわかった。
キャザリンは、地下室の土牢から脱出しようと試みるがうまくいかない。
ハニバル・レクター博士は、セント・ルイスのマーカス・ホテルに泊まる。ホテルの部屋から、通りの向こうに、セント・ルイス私立病院のマイロン・サディ・フライシャー記念病棟が見える。頭蓋と顔の手術に関する世界一流のセンターの一つである。
アーディリア・マップはクラリスに審査会の勝ってほしいと言う。
クローフォドの妻が亡くなる。
ジェイム・ガムは、地下室で、キャザリンを殺して、母の相当する皮膚=服を作ろうと精緻にデザインし努力している。
クラリスは、マーティン上院議員の侮辱に胸を痛めていた。ブルジョワ的なものに対するクラリスの階級的反感があった。クラリスはレクター博士の言葉を想起して、最初の被害者について探索することの許可をクローフォドに頼み、彼は、それを認めた。
ダムは、四日目の朝、準備を整えてキャザリンを殺そうとしているが、飼っている子犬がいないことに気づいた。犬は、キャザリンが地下室から投げたバケツが開口部から出他後、その中に入り込んで、バケツと伴に地下室に落ちていったのであった。キャザリンは、
犬を殺すと脅して、電話を降ろすようにダムに要求した。
クラリスは、最初の被害者のフレドリカ・ビンメルの自宅を訪ねた。
クローフォドは、FBI本部のオフィスに行き、ダニエルスン博士からの電話で、ジョン・グラントとして、性転換手術を申請した男は経歴チェックでひっかかり、調べた結果、グラントという名前ではなく、ジェイム・ガムであった。
クラリスは、フレドリカの部屋で、手掛かりになそうなものを探している。戸棚を見つめて、犠牲者キンバリーの背中の肩の部分が三角形に切り取られているのを思い出していると、その三角形がドレスの型紙に青い点線で示してあるのを見た。
「――あれはダーツだ、彼は彼女の腰回りを広げるためのダーツを作るのにあの三角の皮膚を取ったのだ。あの畜生野郎は裁縫ができる。バッファロゥ・ビルは本職の裁縫の訓練を受けている、彼は単に既製品を選んでいるのではない。」
ビンメルの家で、スターリングにジェリイ・バロゥズから電話がかかってきた。ダムが裁縫ができることをジェリイに伝える。ジェリイは、犯人として大いに可能性のある人物を発見したことをスターリングに伝える。その名前は、ジェイム・ダムで、別名ジョン・グラントである。場所はシカゴの端のカリュメット市だ。
クラリスは、フレドリカの親友のステイシイ・ハブカを訪ねる。
特別機動部隊の乗ったジェット機がイリノイ州カリュメットを目指して飛んでいる。
ミスター・ガムは、地下室のキャザリンを撃ち殺すため、近づいたとき、ドアベルが鳴ったので、表の様子を見に行く。クラリス・スターリングがやってきた。中に入り、クラリスは、機会を見つけ、ガムを逮捕すると告げた。ガムは部屋から出ていった。クラリスは追うが、照明が消えた。ガムがブレーカーを切ったのだ。彼は赤外線をクラリスにあて、回転拳銃パイソンの撃鉄をカチッと起こした瞬間、体が仰向けに床にぶつかった。ガムは、クラリスに胸を撃たれて死んだ。その後、消防署員が来て、地下室のキャザリンを救出した。
ワシントンのナショナル空港に出迎えの人々が五十人ほどいた。飛行機から降りてくるクラリスを、アーディリア・マップが見つけ、ジェフが運転するヴァンに二人は乗ってクワンティコに向かった。
ジャック・クローフォドは、クワンティコのオフィスに行き、クラリスと会う。ジェイム・ガムの死亡とキャザリンの救出のニュースが流れている。連邦検事がクラリスの宣誓証書をジャックがもってきた。クラリスはフレドリカ・ビンメルの家からステイシイ・ハブカのところへ行き、さらに、ビンメルが下請けをしていた店、リチャーズ・ファッションズのバーディンという女のところへ行って、ミセズ・バーディンがミセズ・リップマンの古い住所、あの建物を教えてくれたというわけであった。ジャックは、クラリスを誇りに思うと堅苦しく言った。
ジェイム・ガムに関するニュースが頻繁に流れた。彼は母親に捨てられ、孤児院に入れられたが、その後祖父母が引き取った。その二年後彼は殺人を犯した。ラスペイルと出会い、その後ラスペイルの愛人クラウスを殺し、皮を剥いだ。それからラスペイルがガムをレクター博士に紹介した。ラスペイルの最後の治療の録音があった。その後レクターはラスペイルを殺した。ジェイムは、一緒に行ったフロリダの旅先でミセズ・リップマンが亡くなると、彼女の全財産―居住部分、店、地下室のある古い家―を相続したのであった。
クラリスは、スミソニアン自然史博物館の昆虫担当のピルチャーの自宅に招待された。
レクター博士はマーカス・ホテルに滞在し、上機嫌である。すでに準備してある南米に逃亡する予定である。レクターはクラリスに手紙を書く。子羊の悲鳴は止んだか答えてほしいと書いてある。その時、クラリスは、チェサピークのキルチャーの家でベッドの中で寝ていた。天空にはオリオン座とそのそばに強く輝く木星があった。

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臥竜山は偶然ではない
龍臥亭事件〈上〉 (光文社文庫) 龍臥亭事件〈上〉 (光文社文庫)
価格:¥ 780(税込)
発売日:1999-10

まだマスコミでは出てないんだが、島田荘司の「龍臥亭事件」との関連性、ますます濃厚になってきた気配があるんだが、だとすると
臥竜山は偶然ではないわけです。犯人は、わざわざ臥竜山を遺体の捨て場所として選んだわけで、すべては犯人の描いたストーリーに沿った展開ですね。まぁ、オフィスマツナガさんちに書いたのを読んで貰えばいい んだが、有料なので、貧乏な人は
増淵倉吉事件で検索してください。

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ネットゲリラ

2009年11月08日 (14:19)

検討問題:飛鳥時代の仏教とは何か

私見では、宗教は、太陽信仰、太陽神信仰に帰する。そして、ゾロアスター教は、この倫理・道徳的発展である。つまり、同一性論理が生じた後における、その克服を目指す太陽神信仰である。(注:「神」とは精神的エネルギー、霊的エネルギー、超越的エネルギー、虚数的エネルギーである。)
 飛鳥時代の仏教であるが、明らかに、太陽神信仰が入っている。阿弥陀如来(無量光仏)等を見てわかる。(天平時代は、大日如来という太陽神、即ち、アフラ・マズダーの影響が如実である。キリスト教に関連して言うと、死海文書におけるエッセネ派は、ゾロアスター教的であった。)
 ここで、私見を言うと、大乗仏教は、仏教がゾロアスター教化されたものである。また、ほぼ同時代のキリスト教(正しくは、イエス教)であるが、それも、本来、ゾロアスター教的であるが、ユダヤ教(正確には、ヤハウェ教)がそれを支配して、キリスト教が誕生した。
 神道は、当然ながら、太陽神信仰であり、これがベースとなり、ゾロアスター教的仏教を受容したように思う。天皇とは、先に述べたように、太陽女神の子である(イエスもそうである)。
 イエス教はヤハウェ教の影響を被り、キリスト教となったが、日本仏教は、ヤハウェ教の影響を強大には受けずに(ユダヤ教の影響はあるだろう。ここで、ヤハウェ教とユダヤ教は区別しないといけない。)、ある意味で、純粋な神道ベースのゾロアスター教的仏教となったのではないだろうか。それが、聖徳太子の仏教ではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:より正確に言えば、月神信仰を言わないといけない。私はよくわからないが、月神信仰が原点であり、その後、太陽神信仰に変じたのか。
 それとも、月神信仰自体が太陽神信仰と一体であったのか。
 宗教史的には、月神信仰が原点であるように思える。そして、月神(処女神)が、太陽神を生んだように思える。イシスとオシリスはそのような関係ではないだろうか。
 とは言え、月神と日神は一如と見るのが明快であろう。
 
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聖徳太子
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凡例
聖徳太子
Umayado Miko.jpg
時代 飛鳥時代
生誕 574年 2月7日 (敏達天皇 3年1月1日 )
死没 622年 4月8日 (推古天皇 30年2月22日 )
改名 上宮厩戸、厩戸皇子、厩戸皇太子、摂政太子
別名 厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、
上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖
徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、
厩戸豊聰耳聖徳法王
諡号 聖徳太子
墓所 叡福寺北古墳
官位 摂政 、皇太子
主君 用明天皇 、崇峻天皇 、推古天皇
氏族 皇族 、上宮王家
父母 用明天皇 、穴穂部間人皇女
兄弟 聖徳太子(厩戸皇子)、来目皇子 、殖栗皇子
茨田皇子 、田目皇子 、麻呂子皇子
酸香手姫皇女
妻 菟道貝蛸皇女 、刀自古郎女 、橘大郎女 、
膳大郎女
子 山背大兄王 、財王 、日置王 、白髪部王
長谷王 、三枝王 、伊止志古王 、麻呂古王
片岡女王 、手島女王 、春米女王 、
久波太女王 、波止利女王 、馬屋古女王
特記
事項 物部守屋討伐戦を元服と、また便宜上
天皇を主君とみなす。
表 ・話 ・編 ・歴

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇 3年1月1日 (574年 2月7日 ) - 推古天皇 30年2月22日 (622年 4月8日 )(同29年2月5日 説あり-『日本書紀 』))は、飛鳥時代 の皇族。

用明天皇 の第二皇子。母は欽明天皇 の皇女・穴穂部間人皇女 (あなほべのはしひとのひめみこ)。また、『上宮聖徳法王帝説 』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王 )らがいるという。

『隋書 』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤 による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と言われている[1] 。

近年の歴史学研究において、太子の事績と言われてきたことや資料を否定する研究があることから、厩戸皇子の存在は認めるが、『日本書紀』等の伝える聖徳太子像を虚構とする説もある(詳細は#聖徳太子虚構説 の節を参照)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90


聖徳太子







聖徳太子像
滋賀県八日市市 市神神社
http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/shotokutaishi.htm
聖徳太子
山岸涼子氏の「日出処の天子」を読んで聖徳太子に興味を持ち、次に読んだのが、梅原猛氏の「隠された十字架」。法隆寺は太子の怨霊を沈めるために藤原氏の思惑によって建てられたものだ、とする大変ショッキングな内容でした。 それ以後太子に取り憑かれたように太子にのめり込んでいきます。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sub1.html

憲法十七条
聖徳太子の政治理念・哲学の表明
【アジアの仏教】

* 憲法十七条 原文(書き下し文)
* 憲法十七条 現代語訳
* 『憲法十七条』の成立した時代背景

◆ 憲法十七条 原文(書き下し文)

 夏四月[なつうづき]の丙寅[ひのえとら]の朔戊辰[ついたちゆちのえたつのひ]に、皇太子[ひつぎのみこと](=聖徳太子)、みづからはじめて憲[いつく]しき法[のり]十七条[とおちあまりななおち]作りき。

一にいはく、和[やわ]らかなるをもつて貴[とうと]しとなし、忤[さか]ふることなきを宗[むね]となす。人みな党[たむら]あり、また達[さと]れるひと少なし。ここをもつてあるいは君[きみ]・父[かぞ]に順[したが]はず、また隣里[さととなり]に違[たが]へり。しかれども上和[かみやわ]らぎ下睦[しもむつ]びて、事を論[あげつら]ふに諧[かな]ふときは、すなはち事理[こと]おのづからに通ふ、なにの事か成らざらん。

http://www2.big.or.jp/~yba/asia/kenpou17jou.html


十七条の憲法


http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm


聖徳太子の憲法十七条
聖徳太子

http://asikenko.jp/syotoku/main.html

2009年11月01日 (00:21)

検討問題:精神的フィルター又は精神的言語フィルター:多神教⇒一神教⇒新多神教:ver2

今日、多神教と一神教における違いをあれこれ考えていたが、前者の場合は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で記述できる。
 問題は、精神的フィルターの存在である。これまで、差異共振現象が多神教であると考えた。即ち、例えば、「わたし」は「鳥」であり、且つ、「わたし」は「鳥」ではない、という事象=心象が生起する。
 しかしながら、このとき、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、言語も形成されるのである。
 つまり、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、差異共振現象が実は、連続化されるのである。だから、「わたし」は「鳥」であるということが、いわば、粘着的に強化されるのである。いわば、情緒主義化が生起するのである。癒着である。
 思うに、偶像崇拝はこの帰結のように思えるのである。
 そして、これに対して、ヤハウェの一神教の意味があるのである。つまり、堕落した多神教、連続化した多神教に対して、超越的切断を提起したのだと考えられる。
 そして、ヤハウェであるが、これは、確かに、超越性から発しているが、+iに極端に傾斜していると考えられる。
 端的に、Media Pointが源泉であるが、+iに極端に傾斜しているということである。そのため、他者-iを否定して、⇒-1になるのではないだろうか。
 多神教は本来、⇒+1であるが、ヤハウェ一神教の場合、⇒-1になると思われるのである。
 しかしながら、源泉はMedia Pointで同じである。だから、両者の神話においては、神話要素が共通すると考えられるのである。「蛇」、「生命の樹」、「楽園」、等である。
 つまり、ヤハウェ一神教は、母権的多神教の内在的反転のように思われるのである。つまり、メビウスの帯のように、両者、一如であるということである。
 思うに、ヤハウェは、+i⇒-1ではないだろうか。これは、抽象的同一性という精神的フィルターを形成するのではないか。
 そして、次にキリスト教であるが、それは、ヤハウェ一神教への反転のように思える。つまり、⇒+1である。一種、多神教的である。しかしながら、問題は、この反転は、「父」ヤハウェからの反転であり、「父」の精神的フィルター(精神的言語フィルター)が影響しているのではないだろうか。
 それが、ヨハネの福音書の「はじめにコトバありき」に残像しているのではないだろうか。
 つまり、本来、キリスト教的反転とは、多神教だったはずであるが、それ以前の文化文脈がヤハウェ的一神教なので、その影響を受けて、一神教性を残しているのではないか。一神教の精神的フィルターから脱却できないままだったのではないだろうか。
 これは、理論的というよりは、経験的な問題ではないだろうか。
 しかしながら、キリスト教であるが、本当に、反転しているのか。どうも、十分な反転ではないように思えるのである。中途半端なのである。本当の反転ならば、脱一神教とならなくてはならないからである。
 とりあえず、不十分な反転としておこう。そうならば、十分な反転が次に起るはずである。それが、完全な脱一神教・新多神教となるはずである。
 不十分な反転をいちおう、Burgeoning -iによるものとしよう。Strong +iとBurgeoning -iが存するのである。これは、共振もあるが、やはり、強意の+iが支配しているのである。
 そして、Strong -iが発動するときがくるのである。それによって、新しい差異共振(新多神教)が生まれるのではないだろうか。
 以上は思考実験である。後で整合的に考察を行ないたい。

追記1:以上の記述は、便宜的なものであり、整合性を無視している。つまり、キリスト教の中途半端な反転という発想が便宜的なのである。
 やはり、理論的には、正式な反転と見るべきである。そして、そこで、精神的フィルター(精神的言語フィルター)を考えるべきだろう。
 つまり、「父」の精神的フィルターがあるので、キリスト教本来の母権主義・多神教・異教性が否定されると見るべきではないだろうか。+i⇒-1の精神的フィルターである。
 つまり、⇒-1(ヤハウェ)と⇒+1(イエス)の両面が発生して、分裂しているのではないだろうか。
 前者は戦争を志向し、後者は平和を志向するということではないだろうか。
 西洋において、歴史上、大革新的変化は、やはり、ルネサンスである。ここで、個が覚醒するのである。これは、Media Pointの覚醒である。つまり、それまでは(例えば、中世)、限られた個人による覚醒はあったが、ルネサンスにおいて、社会的な覚醒が発生したと考えられる。
 しかしながら、やはり、問題は、精神的フィルターである。精神的同一性フィルターが強いために、ルネサンスは、遠近法を生み出したと考えられる。イタリアという母権主義の強い土地であっても、精神的言語フィルターが強固なために、覚醒は、同一性へと展開して行ったと思われる。
 フィレンツェにおいて、フィチーニが中心となり、プラトン研究が復興し、ネオ・プラトニズムが生まれたが、結局、絵画では、遠近法が中心になっていくのである。
 より正確に言えば、虚軸性と実軸性の両面の活性化があったが、精神的フィルターのために、連続的に、実軸性(遠近法)へと傾斜していったと考えられる。
 そして、西欧近代主義が生まれるのである。それは、精神的フィルターが強く働いているのである。
 しかし、同時に、Media Pointの動きもあるのである。
 そのようにみると、キリスト教的反転が今日でも、作用しているのかもしれない。つまり、母権的・多神教的・差異共振的反転である。
 その帰結が「聖霊」主義ということではないだろうか。それは、また、ゾロアスター教主義である。
 とまれ、結局、本文で述べたことのままである。

追記2:追記1で述べたキリスト教とは、明確にいうならば、イエス教である。イエス個人本来の宗教であり、ヤハウェ的一神教の影響を受けていないものである。

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キリスト
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キリストは、ヘブライ語 のメシア (מָשִׁיחַ)のギリシア語 訳 Χριστος (christos)(クリストス、フリストス[1] )からの、日本語における片仮名表記。

基督、クリスト、ハリストス 、クライストとも表記される。

ヘブライ語での意味は「油を注がれた(塗られた)者」「受膏者」。古代イスラエルにおいては、王や祭司などの即位に際して頭に油を塗る儀式があった。ここからキリスト教において救世主 との意味が派生した。


Christ
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This article is about the Christian theological role. For other uses, see Christ (disambiguation) .
Christ the Saviour (Pantokrator), a 6th-century encaustic icon from Saint Catherine's Monastery , Mount Sinai .

Christ is the English term for the Greek Χριστός (Khristós) meaning "the anointed ".[1] It is a translation of the Hebrew מָשִׁיחַ (Māšîaḥ). The term "Christ" was a title rather than a proper name. In the four gospels in the New Testament , the word "Christ" is nearly always preceded by the definite article ("the Christ").[2] For centuries the Jews had referred to their expected Deliverer as "the Anointed."[3] The term "Christ" carries much of its original Jewish meaning of "Messiah "―"one [who is] anointed" or appointed by God with a unique and special purpose (mission ) on Earth.[4] It was later in the first century that the title gradually became a proper name, and the expression "Jesus Christ " or "Christ Jesus" became only one designation.[3] Jesus is a central figure in Western civilization .

The area of Christian theology focusing on the nature of Jesus as the Christ, particularly with how the divine and human are related in his person, is known as Christology . A central doctrine within the Trinitarian (Nicene) interpretation is that God took human form in the body of Jesus, "the Christ," and accordingly "Christ" is or was both fully human and fully God.[5] Following from this association between God and Jesus, many Christians believe that belief in Jesus either qualifies them as inheritors of a special privilege or else provides for them a conceptual interface to God's being, such that translates to having a greater "personal relationship" with God . Further, these concepts of personal connection with God have claimed relevance to spiritual concepts including salvation , God's love , divine providence , and divine illumination .

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メシア
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メシアは、ヘブライ語 のマーシアハ(משיח)の慣用的カナ表記で、「(油を)塗られた者」の意。メサイア は、Messiah の英語発音。


概説 [編集 ]

出エジプト記 には祭司が[1] 、サムエル記 下には王が[2] 、その就任の際に油を塗られたことが書かれている。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになった。ユダヤ教 におけるメシア(w:Jewish Messiah )はダビデ の子孫から生まれ、イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。

メシアに対応するギリシャ語 はクリストス(Χριστος)で、「キリスト 」はその日本語的表記である[3] 。キリスト教徒 とイスラム教徒 はナザレのイエス がそのメシアであると考えている。イエスをメシアとして認めた場合の呼称がイエス・キリスト である。但し、メシアの捉え方は両者間で異なっている。詳しくは後述。

各時代にメシアを称した者(保守派や、大多数の者からは「偽メシア」ということになる)は、当然ユダヤ教 内部でも解釈が分かれ、分派を形成した。また、これに賛同したキリスト教 徒・イスラム教 徒もいた。また、こちらも当然ながらユダヤ教からはイエスは偽メシアとして見られている。メシアニック・ジュダイズム のようにユダヤ教を自称し、ユダヤ教的様式の典礼を実践しつつイエスをメシアと認める教派も存在するが、彼ら自身を除いて主流派ユダヤ教やキリスト教両者側からもユダヤ教ではなくキリスト教の一派と認識されている事の方が多い。

イスラーム でもユダヤ教、キリスト教からメシアの概念は継承されており、アラビア語 で「マスィーフ」( مسيح masīḥ)と呼ばれ、イエスのことを指す。イスラームにおいてはイエス自身は預言者 にして預言者ムハンマド に先行する「神 (アッラーフ )の使徒 とされており、また神が派遣したメシアであることも認識されている。クルアーン の記述から「マスィーフ」(救済者、メシア)はダビデ の子孫から出現するとされ、人々の苦難から救済しアッラーフ (神)の支配を確立する者としている。終末 のときに神の代理人として出現し偽メシアを討伐するといい、これらもユダヤ教、キリスト教のメシア像から受継がれている。イスラームにおいて「マスィーフ」はキリスト教の救世主であるのに対し、イスラム共同体 における救世主は「マフディー 」(「正しく導かれる者」の意味)と称する。単に「アル=マスィーフ」(al-Masīḥ)、「マスィーフッラーフ」( مسيح اللّهMasīḥ Allāh ;神のメシア)と呼ぶ場合、イエス自身を指す尊称である。

Messiah
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Messiah (Hebrew : מָשִׁיחַ, Modern Mašíaḥ Tiberian Māšîªḥ; in modern Jewish texts in English sometimes spelled Moshiach; Aramaic : משיחא, Greek : Μεσσίας, Syriac : ܡܫܺܝܚܳܐ, Məšîḥā, Arabic : المسيح‎, al-Masīḥ, Latin : Messias) literally means "anointed (one)".

In Jewish messianic tradition and eschatology , messiah refers to a future King of Israel from the Davidic line , who will rule the people of united tribes of Israel [1] and herald the Messianic Age [2] of global peace. In Standard Hebrew, The Messiah is often referred to as מלך המשיח, Méleḫ ha-Mašíaḥ (in the Tiberian vocalization pronounced Méleḵ haMMāšîªḥ), literally meaning "the Anointed King."

Christians believe that prophecies in the Hebrew Bible refer to a spiritual savior, partly evidenced in passages from the Book of Isaiah : "Therefore the Lord himself will give you a sign: The virgin will be with child and will give birth to a son, and will call him Immanuel,"[Isa. 7:14 ] and "He was pierced for our transgressions, he was crushed for our iniquities; the punishment that brought us peace was upon him, and by his wounds we are healed,"[Isa. 53:5 ] and believe Jesus to be that Messiah (Christ ). The (Greek ) Septuagint version of the Old Testament renders all thirty-nine instances of the Hebrew word for anointed (Mašíaḥ) as Khristós (Χριστός).[3] The New Testament records the Greek transliteration Μεσσίας, Messias twice in John [Jn. 1:41 ] and [4:25 ]

In Islam , Isa (Jesus) is also called the Messiah (Masih),[4] but like in Judaism he is not considered to be the literal physical Son of God or God the Son .

Messianic Age
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Messianic Age is a theological term referring to a future time of peace and brotherhood on the earth, without crime , war and poverty . Many religions believe that there will be such an age; some refer to it as the "Kingdom of God ".
[edit ] Terminology: "messianic" and "eschatology"

In the context of "Messianic Age", the earliest meaning of the word "messianic" is derived from notion of Yemot HaMashiach meaning "The Days of the Messiah", that is, the Jewish Messiah , meaning "related to the Messiah" (See also Messiah ). Messiah comes from a Hebrew word meaning "The Anointed One", i.e., a person who is "specially appointed and empowered". Originally this phrase--the "anointed one"--referred to either a king who was anointed with Holy anointing oil as part of what might be understood to be his coronation ceremony, or a kohen. After the destruction of the Israelite kingship and Davidic line with the destruction of the First Temple in 586 B.C.E., Biblical figures began to write of a yearning for the "mashiach" to return. Originally, however, this only meant a yearning for a return to the Davidic kingship and the just rule and (Israelite) national independence that such a thing connoted. Over time, however, as a return to independent rule became increasingly distant-seeming, hopes for a new "anointed one" to come and liberate the people from their current, dismal conditions took on a decidedly more transcendent cast, eventually morphing into the "Messiah" (that word, an Anglicanization of "moshiach") known to Judaism and Christianity--that is to say, the Divine messenger who will come and herald God's world to come/future age.

Eschatology is an area of religious scholarship that deals with prophecies about "the end of the current age" of human civilization.
[edit ] Judaism, Christianity, Islam and Bahá'í

Jewish , Christian , Zoroastrian and Islamic eschatology teach that there will be a "Messianic Age" when the Messiah will come and bring peace and prosperity to the earth. Although the Hebrew Bible , also known as the Old Testament , and the New Testament both describe such a period, the term "Messianic Age" does not appear in the Hebrew Bible nor in the Apocrypha and is called the "Millennium" in the New Testament. The "Messianic Age" in Islam is described in the Hadith . In the Bahá'í Faith , the "Messianic Age" refers to a 1000-year period beginning with the Declaration of Bahá'u'lláh in 1863. Bahá'ís believe the period of peace and prosperity is gradually unfolding and will culminate in the appearance of 'The Most Great Peace'.

"http://en.wikipedia.org/wiki/Messianic_Age "

2009年10月09日 (07:43)

多神教と一神教のイデア力学:多神教⇒一神教⇒新多神教:負のエネルギーとトランス・モダン

先に、-iが内的自然且つ外的自然と言ったが、この視点から、多神教の説明ができる。即ち、認識主体である+iが、内的自然且つ外的自然の-iと共振したときの「観念的映像」が神々と考えられる。
 例えば、「海」-iを認識主体+iが見たとき(差異共振したとき)、「海」-iは、「海神」(ワタツミ、ポセイドン)となるのである。
 あるいは、「太陽」-iを認識主体+iが見たとき(差異共振視覚したとき)、それは、「太陽神」(アマテラス、アポロ)になるのである。
 このように、神々が誕生し、多神教現象界が生まれるのである。神道世界、古代ギリシア世界である。
 それに対して、一神教は、認識主体+iが内的自然且つ外的自然-iを否定する「観念」である。そして、現象⇒+1を同一性+1に抽象還元してしまい、現象を物質化するのである。
 否、的確に言えば、認識主体+iが内的自然且つ外的自然(絶対的他者)との差異共振を否定するのある。言い換えると、認識主体+iが内的自然且つ外的自然(絶対的他者)-iに対して、絶対的に優位に立つのが、一神教の原理であると考えられる。
 だから、-iを否定するというよりは、抑圧するのである。つまり、それなりの差異共振性は生じるが、それを認識主体+i中心に二元論(二項対立)化するのである。そして、+iが同一性=唯一神となり、-iと差異共振性が抑圧・排除・隠蔽される「神々」(母権的多神教)となると考えられるのである。
 ここで、マイナス・エネルギーを考えるべきである。即ち、プラス・エネルギーは、最初は、多神教形成となったが、さらに、+iが支配的になり、一神教へと展開した。しかし、ここで、非対称的・不連続的・「絶対的差異」的反転が起るのである。
 認識主体+iはプラス・エネルギーの帰結として、二元論化によって現象界を+1の同一性、「物質」へと還元したが、新たに、マイナス・エネルギーが賦活されて、同一性を形成した認識主体+iの観念体系を解体し出すのである。これが、脱構造化、脱構築化である。言い換えると、新たな差異化である。
 これは、端的には、内的自然且つ外的自然(=絶対的他者)-iのイデア・エネルギー(超越エネルギー)の活性化と考えられる。ここで、認識主体+iの、いわば、同一性中心主義(「ロゴス中心主義」⇒近代主義)の独裁・支配が解体し、終焉するのであるが、認識主体は、新たに賦活された-iのエネルギーと差異共振エネルギーに挑戦されるのである。換言すると、絶対的他者である「未知との遭遇」が生起するのである。
 ここで、宗教的には、新多神教が生まれることになるのであり、文明的には、一神教的ユダヤ・キリスト教的西洋文明が解体・崩壊・瓦解することを意味するのである(イスラム教的一神教は、矛盾していて、差異共振的一性と同一性を連続化しているのであり、同一性を解体すると多神教的イスラム教となるだろう。)。哲学的には、連続的同一性主義、「ロゴス中心主義」の崩壊である。経済的には、近代資本主義・同一性金融資本主義の崩壊(リーマン・ショック)である。政治的には、近代民主主義の崩壊である。
 そして、ここで、新たな東洋文明の黎明となるのである。
 結局、哲学(哲学科学=フィロソ・サイエンス=「フィロソフィエンス」philosophience)的には、マイナス・エネルギーとは、⇒-1とは、-iの賦活化であり、新たな差異共振化、新たなイデア論化、新たな超越化等を意味すると考えられる。
 ⇒+1を陽化(プラス化)とすれば、⇒-1は陰化(マイナス化)である。
 では、量子力学的にはどうなのだろうか。マイナス・エネルギー(⇒-1)は、-iのエネルギーであるし、差異共振エネルギーでもある。この三つの様態がある。
 おそらく、ダーク・エネルギーと言う場合、これらの三つの様態が混淆されているのかもしれない。
 また、ダーク・マターであるが、それは、-i自体を意味するのかもしれない。これらの点は検討課題である。

追記:因みに、ニーチェのディオニュソスは、負のエネルギーであり、差異共振性である。
 キリスト教の精神であるが、それは、差異共振性を、同一性で規定しているのが、問題なのである。「愛」は、差異共振性の同一性的限定化なのである。ニーチェやロレンスが「愛」を批判したのは、正鵠を射ている。鳩山首相の友愛主義もこの視点から批判される。

追記2:新多神教とは、つまり、ゾロアスター教的黙示録(アポカリプス)を意味する。アンラ・マンユ(正のエネルギー)をスプンタ・マンユ(負のエネルギー)が打ち破り、アフラ・マズダー的新光明文明を産み出すということである。

2009年09月28日 (15:02)

■タルムード:キリスト教徒と利子

単に、タルムード批判では、反ユダヤ主義になる。問題は、キリスト教側に(も)あったと考えられる。
 思うに、利子の問題である。本来、聖書では、利子を禁止していたが、ある時点で、利子を認めるようになった。
 排除・差別されていたユダヤ人が高利貸を営むようになる。金融経済の力をユダヤ人が握るようになったのである。それをキリスト教側は妬んだのである。それで排除したと思う。
 『ヴェニスの商人』を読むとわかるだろう。キリスト教側のユダヤ人高利貸(シャイロック)への差別が露骨である。
 とは言え、これまで検討したように、ヤハウェ神は、同一性の神であり、物質や貨幣の神となったのである。
 ユダヤ教は単にヤハウェ崇拝の宗教でなく、エローヒーム(神の複数形)も存するし、また、神秘的な側面もあるのである。つまり、東洋の宗教の側面があるのである。こちらを、トランス・モダン的に評価すべきである。

追記:深層心理的に言えば、キリスト教徒の深層に、ユダヤ人的なものがあるということである。つまり、ヤハウェ的なもの=同一性主義である。父と子と聖霊の三位一体説であるから、当然であろう。父はヤハウェなのだから。つまり、クリスチャンは、矛盾していて、子(キリスト)的であろうとして、父(ヤハウェ)を排除しているのである。その排除されたものが、被抑圧として、クリスチャンの内面に怨恨(ルサンチマン)として存在するのである。これが、西洋文明の覇権の精神力学的原動力である。ニーチェの慧眼は超驚異的である。

追記2:さらに展開すると、父ヤハウェ(エホバ)とは何かがわかるだろう。ヤハウェは、力をもつが、その根源は、端的に、Media Pointであり、それが、同一性志向性エネルギーを帯びたものがヤハウェである。超越性と同一性志向性をもっているのである。

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■ タルムード
yohmei

歴史をたどると、中世 ヨーロッパ では各国から次々とユダヤ人 が追放されています。

1290年 イギリス

1306年 フランス

1348年 ザクセン

1360年 ハンガリー

1370年 ベルギー

1380年 スロヴァキア

1420年 オーストリア

1444年 オランダ

1492年 スペイン

これはどうみても異常でしょう。犯罪 者個人が国外に追放されるのならばわかりますが、すべてのユダヤ人 が追放されるということは、よほどの理由があるはずです。

当時のユダヤ人 の所業を知る手がかりとして、腐敗した中世 教会 に対して立ち向かった宗教改革 者マルティン・ルター の著作『ユダヤ人と彼らの嘘』 があります。

(全文が、こちらで読めます。http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/yumoku.html )

過激派 を糾弾、暴力を伴う改革を否定したルター が、ユダヤ人 に対しては、「ユダヤ教 のシナゴーグ (礼拝所)は火を放して焼き尽くせ・・・ユダヤ人 の住家屋は取り壊されるべし・・・ユダヤ人 は家畜小屋のようなところに押し込めてしまい、この国土で彼らが主人ではないことを思い知らしめよう・・・これら有毒な苦虫たち(=ユダヤ人 )から かれらの持ち物(私財)を取り上げてしまえ・・・そして二度とこの地に帰ってこないように国外に放逐してしまえ」と述べています。

何故、ユダヤ人 はこれほどに忌み嫌われたのでしょう?

その理由は、タルムード を知ることによって推し測れるのではないかと思います。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060105
日本人が知らない 恐るべき真実
参考:
タルムード
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Talmud-Berachoth.jpg

タルムード(ヘブライ語 : תלמוד‎ Talmud、「研究」の意)は、モーセ が伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法 」を収めた文書群である。6部構成、63編から成り、ラビの教えを中心とした現代のユダヤ教 の主要教派の多くが聖典 として認めており、ユダヤ教徒 の生活・信仰の基となっている。ただし、聖典として認められるのはあくまでヘブライ語 で記述されたもののみであり、他の言語に翻訳されたものについては意味を正確に伝えていない可能性があるとして聖典とはみなされない。
成立の過程 [編集 ]

ユダヤ教の伝承によれば、神はモーセに対し、書かれたトーラー とは異なる、口伝で語り継ぐべき律法をも与えたとされる。これが口伝律法 (口伝のトーラー)である。

時代が下って2世紀末ごろ、当時のイスラエル におけるユダヤ人共同体の長であったユダ・ハナシー(ハナシーは称号)が、複数のラビ たちを召集し、口伝律法を書物として体系的に記述する作業に着手した。その結果出来上がった文書群が「ミシュナ 」である。本来、口伝で語り継ぐべき口伝律法があえて書物として編纂された理由は、一説には、第一次 ・第二次ユダヤ戦争 を経験するに至り、ユダヤ教の存続に危機感を抱いたためであるともされる。

このミシュナに対して詳細な解説が付されるようになると、その過程において、現在それぞれ、エルサレム・タルムード、バビロニア・タルムードと呼ばれる、内容の全く異なる2種類のタルムードが存在するようになる。現代においてタルムードとして認識されているものは後者のバビロニア・タルムードのことで、6世紀ごろには現在の形になったと考えられている。

当初、タルムードと呼ばれていたのはミシュナに付け加えられた膨大な解説文のことであったが、この解説部分は後に「ゲマラ 」と呼ばれるようになり、やがてタルムードという言葉はミシュナとゲマラを併せた全体のことを指す言葉として使用されるようになった。
ユダヤ教徒にとってのタルムード [編集 ]

「タルムードはユダヤ教徒の聖典である。」という解説が今まで日本では多くなされてきているが、実際には必ずしもすべてのユダヤ教徒がタルムードの権威を認めているわけではない。

タルムードの権威とは、すなわちラビ (教師)の権威のことでもあり、こうした権威を認めないユダヤ教の宗派は決して少なくはない。

カライ派 は、ラビ文書の権威を認めない代表的な宗派であり、モーセのトーラー のみを聖典としているのは有名である。

また、シャブタイ派 (サバタイ派)の流れを汲むユダヤ教 においては、むしろタルムードを否定するという立場をとる。
構成 [編集 ]
バビロニア・タルムード全巻

ミシュナを中央に配置し、その周囲にゲマラを記述する形式となっている。

* זרעים (Zeraim) - 11編構成。祈りと祝福・什一税 ・農業に関する法を扱う。
1. ベラホット
2. ペアー Pe'ah
3. デマイ
4. キルアイム Kilayim
5. シェビイート
6. テルモット
7. マアセロット
8. マアセル・シェニー Ma'aser Sheni
9. ハッラー Hallah
10. オルラー Orlah
11. ビクリーム
* מועד (Moed) - 12編構成。安息日 と祭りに関係する。
1. シャバット
2. エルビン
3. ペサヒーム
4. シェカリーム
5. ヨマー
6. スカー
7. ベイツァー
8. ロシュ・ハシャナー
9. タアニート
10. メギラー
11. モエード・カタン Mo'ed Katan
12. ハギガー
* נשים (Nashim) - 7編構成。結婚と離婚、誓約に対する作法とナジル人 の法に関係する。
1. イェバモット
2. ケトゥボット
3. ネダリーム
4. ナジール
5. ソター
6. ギッティン Gittin
7. キダシン Kiddushin
* נזיקין (Nezikin) - 10編構成。市民の商売と刑罰、法廷の機能と誓約について。
1. ババ・カマ
2. ババ・メツィア
3. ババ・バトラ
4. サンヘドリン
5. マコット
6. シェブオット
7. エドゥヨット
8. アボダー・ザーラー
9. アボット
10. ホラヨット
* קודשים (Kodshim) - 11編構成。生贄の儀式に関する、神殿 と食事の法。
1. ゼバヒーム
2. メナホット
3. フリン Hullin
4. ベホロット
5. アラヒン
6. テムラー
7. ケリトット
8. メイラー
9. タミード
10. ミドット
11. キニーム
* טהרות (Taharot) - 12編構成。祭儀的な潔・不潔等の法に関係する。
1. ケイリーム
2. オホロット
3. ネガイーム
4. パーラー
5. トホロット
6. ミクヴァオート
7. ニダー
8. マフシリン
9. ザービーム
10. テブール・ヨーム
11. ヤダイム
12. ウクツィーン

関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、タルムード に関連するカテゴリがあります。

* ラビ・ユダヤ教  (ラビ的ユダヤ教)
* ファリサイ派 - 口伝律法を伝えた教派。
* モーゼス・マイモニデス

外部リンク [編集 ]

* 魔女の鎚 - タルムード全巻一覧
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  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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