2005年08月30日 (11:36)

再考:差異共存志向性について:ポスト新自由主義と差異共存・共創的資本政治経済社会へ向けて

再考:差異共存志向性について:ポスト新自由主義と差異共存・共創的資本政治経済社会へ向けて

先に、差異共存志向性が人間存在の本質として存することを述べて、さらに、それと、男性の純粋能動性との合体した差異共存能動経済を説いたが、どうも二元論なので、再考したい。
 差異共存志向性とは、特異性でもあるから、個の独立・自立・単独性をも意味するのである。個であることが、個と個との共存を志向するのである。だから、個であることと、個の共存志向性とは、不可分一体、一如である。だから、先のように、二元論化するのは、間違いである。ここで、訂正したい。
 もう一度、ジェダンー分析を考えよう。差異共存志向性は、女男平等であることはこれまでと変わらない。ただ、男性の方が、連続・同一性への志向が強いということである。つまり、男性は、プラス強度が、マイナス強度よりも強い傾きをもっているということである。女性は逆である。これもこれまで通りである。では、問題は、強いマイナス強度をもっているならば、それは、強くプラス強度の方向に転化するのではないか。すると、女性の方が、連続・同一性への志向が強くなる。これでは、矛盾である。どうやら、アポリア(難問)に逢着してしまった。
 考え直そう。女性の場合は、メディア界において、マイナス極が強く、プラス極が弱い傾向があり、男性は逆である。あるいは、単純に、女性のメディア界は、マイナス強度をもち、男性のは、プラス強度をもつと言ってもいいのかもしれない。そうすると、差異共存志向性はどうなるだろうか。理論的に言うと、男性には、差異共存志向性は欠落しているということではないだろうか。しかし、それも矛盾である。男性にも、それはあるからだ。少し考えを変えないといけない。女性のメディア界、男性のメディア界があるのであり、前者は、マイナス極の方向に偏差があり、後者は、プラス極の方向に偏差があると考えよう。つまり、女男の差異は、相対的な極性の偏差ということになる。即ち、女性の場合は、天秤で考えれば、マイナス極に重みがかかっていて、男性は、プラス極にである。そして、連続・同一性化である。現象化は、男性の方が得意となるだろう。なぜならば、男性は、連続・同一性の志向性であるプラス極が発達しているからである。これは、記号・言語、セミオ・サンボリック作用である。しかし、同時に、差異への反動性の傾向が強いので、自我を形成しやすい。つまり、差異と分離しやすい自我の傾向を男性はもっているということになるだろう。
 このように考えて、当初の差異共存志向性の問題に返ると、この志向性は、確かに、女男共通に存しているが、ジェンダー的な差異があると言える。女性において、差異共存志向性が強いのであり、男性においては、連続・同一性=現象化や自我の志向が強いのである。だから、万民に共通の基盤である差異共存志向性に復帰するということは、ある意味で女性的価値観に復帰するということでもあろう。男性の反動性が、今日の弱肉強食の新自由主義に帰結しているのである。これは、宗教的には、ユダヤ/キリスト教的価値観の帰結であるが。
 とまれ、差異共存志向へ、差異への復帰とは、人間存在の根源への回帰である。そう、これは、ポスト「西洋文明」ということになるだろう。もっとも、差異は、「西洋文明」の内部においても、天才たちによって探究されてきたのであり、それが、日本で、不連続的差異論として、集大成したのである。差異とは、東西問わず、叡智として、表象されてきたものであろう。古代ペルシアでも、シュメールでも、クレタでも、古代中国でも、古代インド、アフリカ、アメリカ大陸、オーストラリア、その他でも、差異は、なんらかの叡智として、表現・表象されてきたのである。しかし、ある反動が生じて、差異・叡智が、一神教的に歪曲されたと言えよう。つまり、差異・叡智の反動化が起こったのである。父権制的歪曲と言ってもいいだろう。そして、これが、イデオロギーとなり、「西洋文明」という叡智を喪失した野蛮な文明が生じたのである。この帰結が、新自由主義、グローバリゼーションである。つまり、人類史的に見て、差異叡智の喪失による、世界・地球規模の危機が生じているのである。しかし、人類の内部、人間存在の内部には、永遠の差異共存志向性の聖火が燃えているのである。(これが、ヘラクレイトスの火であろう。あるいは、御水取りの火であろう。)このような超絶的な危機の状況において、人類の生存本能は甦るのである。これが、叡智=差異共存志向性の松明である。 
 差異、不連続的差異という大叡智を人類の理性の王位へと即位させないないといけない。現代の知は、根源を喪失して、利己主義の婢になっている。これが、現代の黙示録である。
 では、経済的には、どうなるのか。ポスト新自由主義であるが、それは何か。これは、既に述べている差異共存志向経済でいいだろう。これには、差異共存志向性政治が必要である。とまれ、具体的には、差異共存志向性経済とは何だろうか。共生経済という考えがあるが、それも一つの方法である。問題の一つは、市場をどうするかである。つまり、棲み分けする必要があるのである。郵政公社のような公益領域は、安易に市場化してはいけないのである。絶対にいけないということではなく、社会益のある領域は、市場化はたいへんリスクが大きので、基本的には公的機関するというのは、理に適うといえよう(適理性と造語しよう)。だから、差異共存志向経済(政治経済:これが正しい考え方だろう)とは、社会益を重視し、且つ、健全な市場的交通を保持する政策をもつものである。では、健全な市場的交通とは何か。それは、公正な取引であるということである。差異創造ないし差異共創的市場経済である。
 ということで、社会益的政策と創造的公正市場経済との相互補完的経済だろう。差異共存志向性政治経済とはそのような両極的志向性をもつと言えよう。ポスト新自由主義。差異共存社会経済と差異創造・共創市場経済との合体である。共存が、共創であり、それが、個的生存性でもある。差異・個・特異性の生存のための共存・共創経済である。差異が必然的に共存・共創へと転化するのである。とまれ、差異共存・共創的資本政治経済である。





メディア界としての資本主義、又は、差異共存共創資本主義


モダン・デザインの創始者、アーツ・アンド・クラフトの主唱者のウィリアム・モリスは、中世的な芸術家の産業社会を夢想した。金のためではなくて、芸術制作を主にする経済、芸術的経済を志向した。『ユートピア便り』には、彼のそのようなヴィジョンが描かれている。
 さて、私は、先に、メディア界的資本主義をあるべき経済として述べたが、これは、考えてみれば、労働者が、芸術家となるような資本主義である。差異共存志向性と差異能動性をもって働く人とは、芸術家である。そう、コラボレーションとしての経済があるだろう。反動的な自我ではなく、差異共存志向性が開花した人間としての働く人である。思うに、働くことが創造となる。創働者である。つまり、メディア界的資本主義とは、創働者の連結する経済である。共存志向性をもち、また創造的能動性をもつ創働者の資本経済である。おそらく、資本の性格が変化するだろう。それは、現象界資本(抽象貨幣価値資本)から、メディア界資本となるだろう。メディア界経済があり、メディア界社会があり、メディア界政治があり、メディア界資本が共差異化する。そう、共差異メディア界資本経済である。差異共存共創経済である。





新自由主義経済の「小さな政府」とは古代奴隷社会への退行原理である


資料です。

差異共存志向性が人間の本質であるとするならば、新自由主義は、大反動であると言える。では、以下の資料にある古代奴隷社会とは、どういう意味をもつのか。思うに、それ以前に、つまり、前古代的母権的農耕/狩猟採集的社会があり、これは、差異共存志向性を体現していたと思う。それを破壊したのが、古代奴隷社会である。これは、私見では、父権制社会の成立を意味する。では、資料の村社会とは、公共的社会であるということだから、差異共存志向性が復活・復権した社会である。しかし、再度、新自由主義的資本主義となり、古代奴隷社会的となる。この一種振り子運動は何だろうか。これは、私の図式から言うと、差異共存志向性と反動的自我主義との「弁証法」である。あるいは、母権制と父権制との「弁証法」である。しかしである。やはり、「弁証法」と呼んではまずいだろう。あくまでも、人間存在の本質は、差異共存志向性にあるのである。それへの反動が人類史において、何度も起こったと考える方が、正しいと考えられる。差異共存志向性がなくなれば、家族は寸時も成り立たないし、労働も、社会も成り立たなくなる。
 では、何故、反動が起きるのか。これに関しては、差異共存志向性の冷暗化ということで、既に、私なりに説明したが、今一度検討しよう。これは、男性の本質にやはり関係していると思う。男性は、連続・同一性の志向・傾向・強度が女性よりも強く、差異志向性が女性よりも弱いのである。私は、男性の差異は劣弱で、女性のそれは、高貴であると以前形容した。形容はともあれ、以上のような女男の差異の「差異」がある。しかし、単に違いだけならば、問題はなく、女男の均衡をとればいい話である。思うに、これが差異共存志向性の世界・社会である。しかし、男性の差異が、強く反動化する事態が発生したのである。これが、父権制だと私は思う。そして、これは、一神教へと帰結した。これは、人類の本質である差異共存志向性から見ると、邪道である。なぜ、邪道が発生したのか。私は、差異共存志向性の冷暗化を言ったが、それは、何なのか。私は、自然的生産性の乏しさと言った。しかし、自然的生産性の乏しいところにも、本来は、差異共存志向性の社会があったのである。
 直観で言えば、ある暗さが生じたのである。視線が暗くなったのである。あるいは、英雄的衝動が発生したのである。そう、反動ではなくて、連続・同一性の志向性が圧倒的に増大したときがあったと考えることができる。そうすると、差異共存志向性は、ほとんど無視される状態となる。自我というよりは、個体の意志の強化である。英雄の誕生である。反動ではなくて、正道としての英雄である。そして、この英雄はいわば傍若無人であり、他者を支配すると言えよう。これは、完全に無邪気である。いわば、幼児の暴力性である。そして、これが発展すれば、帝王となるだろう。そう、ニーチェの力の意志に近い。無邪気な、直截な力の意志である。そして、思うに、このような男性の帝王的英雄に対して、社会は、差異共存志向性の叡智を授けて、「国」を治めさせたのであろう。英雄と叡智との結びつきがあったはずである。英雄神話には、これが、女神との聖婚という形で表現されているだろう。
 さて、この男性の純粋な表現である英雄によって、被害を受けるものがたくさんいた。そう、ここで、ルサンチマンが発生したと言えるだろう。私の言う冷暗化である。そして、ユダヤ教やキリスト教とは、このルサンチマンの宗教化である。力・権力への怨嗟、怨恨である。ニーチェ/ロレンスはこのことを正に天才的に洞察した。とまれ、ここから、疑問への解答が得られたと考えられる。即ち、男性の純粋な英雄化があり、次に、反動として、怨嗟・怨恨(ルサンチマン)の自我中心主義化である。すなわち、反動的英雄待望化である。純粋英雄主義と反動的英雄主義があることとなる。これが、邪道化の正体である。男性の純粋化、そして、それに対する反動である怨恨による自我中心主義・悪魔主義。そして、この反動的英雄主義・自我中心主義が、新自由主義となっていると考えられる。これは、全体主義・ファシズムである。反動英雄待望主義である。小泉首相が「大衆」・群衆受けするのである。
 さて、ここで、人間存在の本質である差異共存志向性を復活させないといけない。世界が、極端に傾いてしまっているのである。超越論的根源・起源・基盤の差異共存志向性へとルネサンスしないといけない。差異共存志向性への回帰、永遠回帰である。原点への回帰・革命である。原点革命である。差異、特異性、個の叡智の噴火である。差異共存志向性社会への人類進化である。

p.s.  補足すると、ここで、差異共存志向性への回帰と言ったが、これを徹底するとやはり、ある種の反動となるだろう。結局は元の木阿弥となる。以上の考察から、純粋な力の発動・発現があるのである。そして、それと均衡すべき差異共存志向性という原点・原動力があるのである。だから、自然のもつ力をねじ曲げてはいけない。純粋な力の能動があり、また、原点の差異共存志向性がある。前者は、純粋な市場的競争を認めるという観点になると思う。しかし、これは、強者の論理である。大資本、巨大資本が有利である。結局、純粋な力の能動と差異共存志向性とのバランスをとる政策・施策ないしシステムが必要であるということではないだろうか。だから、単純な自由主義経済ではだめなのだ。それとバランスをとる差異共存志向性経済が必要なのである。この両極的経済が、理想的というか、「持続可能」な社会を生むだろう。ともかく、小泉一派の路線は、強者の路線であり、邪道である。
 では、このバランスを取る両極的経済とは実際どのようなものだろうか。それは、差異共存的能動創造経済だろう。差異共存志向性と差異連続・同一性とが結合した経済である。母権制と父権制との結合経済と言えるかもしれない。母父権経済である。問題は、主導的価値観の問題である。男性における差異共存志向性が、連続・同一性への志向性よりも弱くても、本来、前者が基盤である。
 少し整理しよう。父権制は反動である。だから、純粋な英雄性ではない。純粋な能動性は、差異共存志向性を否定はしてはいない。ただ、作動させていないだけである。つまり、差異共存志向性と純粋な能動性は結合が可能である。これを、目指すべきなのである。だから、母父権経済ではなくて、差異共存志向性・純粋能動経済を目指すべきである。差異共存志向性強度と純粋能動強度を合体・結合する経済システムである。差異共存純粋能動経済システム。それは、差異共存純粋能動資本主義ではないだろうか。共存能動資本主義。共能資本主義。あるいは、差異能動経済。考えたら、これは、差異の十全に展開する経済である。これには、差異能動主義という政治が必要である。そうでないと、資本主義の反動性が社会を破壊してしまう。差異共存能動資本主義を指導する政治が必要である。とまれ、差異共存能動経済理念が必要である。差異共存能動性の理念をもつ政治家が必要であるし、そういう指導者が必要である。国民の差異共存能動性を点火させるような政治指導者である。

p.p.s. 一言で言えば、スピノザ的差異能動経済ということになるだろう。差異共存能動性である。つまり、差異共存志向性を積極化することにより、個体的能動性をさらに発展するのである。即ち、差異共存的能動経済である。差異共存志向性強度と連続・同一性強度の合体・結合である。つまり、差異共存志向の能動的強度と連続・同一性の能動強度が結合する。差異共存・連続同一性能動経済である。差異共存能動連続・同一性経済である。差異共存能動資本経済である。差異共存能動資本主義である。

3p.s. 差異共存志向極と差異連続・同一性極の両極性経済。イデア極と現象極の両極性経済。つまり、メディア界経済だ。メディア界的資本経済、メディア界資本主義、これである。メディア界両極資本主義。

4p.s.  大岡信氏の連詩の概念を差異共存能動資本主義に適用するといいのかもしれない。連詩とは、何人もの詩人が、短い詩に対して、自己の詩を付けて展開するものである。連歌の詩ヴァージョンである。ここで、興味深いのは、連詩にすると、詩人の個性がさらに深化することである。つまり、連化するから、集団性が強化されるのではなくて、個・差異・特異性が純化されるのである。連詩的な差異共存能動資本主義を私は想像する。



「新自由主義の「小さな政府」は古代奴隷社会への退行原理である


竹中平蔵の「小さな政府」論を批判した稿の中で、新自由主義者の「小さな政府」への原理主義的志向は、実のところ古代奴隷制への回帰だと論じたことがある。その主張の中身を少しだけ埋めたい。最近は経済学の本や論文を全く読まなくなった。野口悠紀雄や田中直毅の頃はそれなりに読んでいた。最後は金子勝のセーフティネット論とクルーグマンの「流動性の罠」を表面だけ斜め読みして、そこから先は経済学の話が全く面白くなくなって読まなくなった。世の中を「勝ち組」と「負け組」に分ける経済理論には私は興味と興奮を覚えない。「勝ち組」と「負け組」の存在を社会的に前提した経済理論は読む気がしない。だから森永卓郎も読まない。私が読みたいのは、昔の宮崎義一のような夢のある格調高いマクロ・エコノミーであり、市民社会を構成する中産的な生活者である市民が、日本経済を分析したり構想する上で有意味な思考材料を提供する社会科学である。最近はそういうものが無くなった。日本から経済学が消えたと言ってもいい。理論らしい理論はすべて米学で生産された英語のドキュメントであり、日本人がやるのは翻訳と口パクの無批判受容だけだ。
・・・」
http://critic.exblog.jp/3359140#3359140_1
世に倦む日々

2005年08月24日 (11:53)

現象学、不連続的差異論、仏教:超越論的現象、メディア界、空

フッサールの現象学が、先にも触れたが、不連続的差異論の先駆の一つであることが、明確に検証される箇所が、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫)の中に見いだすことができた。それは、第五十四節のbの箇所である。そこでは、不連続的差異論のメディア界における差異共存志向性に当たる事柄が、フッサール特有、一流のくどくどしい用語や言い回しで詳論されている。今は余裕がないので、引用できないが、例えば、338ページのところは明らかに、差異共存志向性を述べていると考えられる。
 先にも述べたが、現象学とは、超越論的差異論である。そして、ドゥルーズ哲学の主要な源流はここにあると言うべきである。ドゥルーズ自身がフッサールに言及したことを見たことはないが、フッサールを読んで、相当取り込んでいると考えられる。思うに、スピノザ、ニーチェ、ベルクソンがドゥルーズ哲学の表立った源流であるが、隠れ源流としてフッサール、そして、現象学があるのだ。フッサールの超越論哲学とは、主体の構造主義であるし、また、差異論を示唆しているので、ポスト構造主義の先駆である。また、無意識論と言うことができるだろう。判断停止とは、自我の判断停止であり、個吾の強度が対象となるのである。個吾とは、メディア界的であり、それは、無意識の領域である。そう、フッサールが言う自我(エゴ)とは、通常の自我ではなく、個ないし個吾として捉えなくてはならない。
 結局、現象学的判断停止(エポケー)とは、不連続的差異論でいう現象界の判断停止であり、メディア界への直覚へと人を赴かせると言えるだろう。そして、これは、仏教の解脱と重なるだろう。道元の身心脱落も同様だろう。自我から個・個吾へだ。(ユング心理学の個性化とは、本当は、このことを意味するべきであるが、ユングは、通常の自我を維持しているので、分裂しているのだ。そう、ユング心理学は、メディア界と現象界との折衷であり、混乱、混濁していると言わざるをえない。)
 結局、予見通り、不連続的差異論、現象学、仏教は共通する領域をもっているのである。それは、メディア界、超越論的現象、空である。結局、ポスト・モダン哲学である。脱近代哲学である。いわゆる、ポスト構造主義とは、実は、現象学のある種の進展であったと言えよう。現象学自体、構造主義的である。結局、19世紀から20世紀にかけての哲学の営為とは、超越論性、超越論的差異性を共通の震源にしていたと考えられる。そして、今や、グローバリゼーションによる日本乗っ取りの状況の中で、哲学、フィロソフィア、叡智学が、不連続的差異論として、結晶したのである。数千年、否、それよりも太古から、人類は、智慧を探究してきたのであり、いわば、永遠の智慧が不連続的差異論として、結晶したと言えよう。これは、森羅万象、万物、万有を包摂する統一理論である。存在の普遍的基本構造をこの理論は、明らかにしたのである。だから、あらゆる事柄に適用できるのである。そう、これまで、哲学者たちが探究してきた叡智の形が発見されたと言えよう。日本人には、縁遠いとされた哲学が、奇蹟的に創造されたと言えるのである。日本人も哲学民族になったのである。これを、郵政民営化、衆院総選挙で、考えるべきである。日本人の叡智が試されているのである。

2005年08月24日 (02:42)

反動自我のナルシシズムは倒錯した歓喜である

反動自我のナルシシズムの快感とは倒錯した歓喜である:反動から差異共存志向へのパラダイム転換

反感的力動は、連続・同一性と結びついて、自我となるのだが、反感的力動の志向性は、自我自身に向いている。ナルシシズムあるいは、自我価値化であるが、このメカニズムは何だろうか。 
 差異共存志向性は、連続・同一性(連続志向)化によって個体化しても、自我にはならず、個(個吾)となる。つまり、個ないし個吾においては、差異共存志向性があるので、連続・同一性化しても、自己の差異と他者の差異への志向性を保持していることになる。簡単に言えば、差異としての個・個吾である。
 しかるに、自我・反動自我は、差異共存志向性を否定し、反感・反動力動を発するが、この力動は、差異ではなくて、連続・同一性へと志向し、固着すると言えよう。結局、ナルシシズム、自我価値化とは、この反感・反動力動性に拠ると言えるだろう。自己目的化である。ここで、精神分析を参照すると、鏡像段階があり、そこで、自己像と同一化して、自我形成することになる。これを参考にするならば、反感・反動力動の志向が、連続・同一性化の志向と結びつくということであり、この結合が、自己目的化、即ち、ナルシシズム、自我価値化を意味すると考えられる。差異共存志向が積極的であれば、それと連続・同一性の志向性とが結合しても、自我ではなくて、差異的個体、個・個吾になるのである。即ち、差異への志向性をもっているのであり、非自我的である。
 では、反感・反動力動と連続・同一性との結合において、どうして、自我快感が生起するのだろうか。自己陶酔と言われるような快感はどうして生じるのだろうか。思うに、反感・反動性は、快感性をもつと考えられよう。破壊快感でもある。暴力・攻撃の快感でもある。この破壊・暴力・攻撃の快感とは何だろうか。否定の快感である。フロイトなら、死の欲動の快感と言うだろう。破壊の快感とは、暴力の快感とは、「殺害」の快感とは、反動的「能動」の快感であろう。このように考えたらどうだろうか。差異共存志向とは、始原的歓喜であるが、反感・反動は、これを否定するが、この歓喜への反動は、歓喜という快の代償、代理となる快感を含むということではないだろうか。もっとも、歓喜の快と反動の快感とは質が異なることに注意しないといけない。後者の代償、代理性の意味を見ないといけない。つまり、反感という快感が生起していることを考えなくてはならない。いわば、否定的な快である。つまり、反感・反動とは、否定された歓喜であり、これが、反感・反動の快感の原因というか、それ自体なのではないだろうか。倒錯的な歓喜、虐待的歓喜ではないだろうか。これは、マゾヒズムであり、サディズムである。マゾ/サディズムである。(因みに、これをドストエフスキーに強く感じる。また、小泉愁傷にもそうだ。)結局、反感・反動の快感とは、差異の否定、差異への暴力であるから、自己への暴力の快感であると同時に、他者への暴力への快感である。ここでは、本来の志向性が否定されていて、いわば反志向性となっているのである。
 ということで、ナルシシズム、自我価値化とは、歓喜の倒錯、虐待的歓喜である快感を内在していることになる。差異共存性の否定であるから、自己と他者の両者への否定性をもっているが、これは、個人的な偏差があるだろう。自己へ傾くとマゾヒズムであり、他者へと傾くと、サディズムとなるだろう。
 以上から敷延できることは、反感・反動である自我とは、資本主義と結合して、自我中心的に、差異、他者を破壊することに倒錯的な喜び、快感を覚えるということである。死の欲動というよりは、死の快感である。暴力の快感、戦争の快感である。戦争ゲームである。殺人ゲームである。これが、現在の資本主義の精神的実態である。ホッブズ化である。万人の万人に対する戦争である。これは、また、持てる者の持たざる者に対する戦争でもある。これは、先にも述べたが、主にプロテスタンティズムの病理である。あるいは、父権制の病理である。近代的自我とは、人類の癌である。小泉政府は、悪の総本山アメリカ株式会社の意志に洗脳されて、郵政公社の国民の富をアメリカへ貢ごうとしている。これも、近代的自我の暴力快感によるのである。
 では、この近代的自我癌の治療方法は何だろうか。一言で言えば、脱近代主義である。これはあらゆる領域、分野でなされなくてはならないが、ポイントは、反感・反動的暴力から積極的な差異共存志向へのパラダイム転換である。

p.s.  言い忘れたが、反感・反動的破壊快感である自我衝動は、当然、自己中心主義でもあり、また、連続・同一性である言語と結合して、知識による支配欲をもつが、理性の基盤となる差異共存志向を否定していて、先にも述べたように、反感・反動衝動とは、反感独善衝動であるから、いわば狂気的衝動、パラノイア、狂信的衝動である。結局、自我とは、倒錯した歓喜であり、差異・他者破壊・攻撃・暴力的であり、言語的支配的であり、狂信・狂気的であるということになる。私は、以前から、自我、父権的自我、近代的自我、並びに、精神分析のラカンが説く象徴界的自我は、狂気ではないかと思っていた。これでようやく、所期の課題・問題をほぼ解明できたのではないだろうか。そう、明らかに、自我、近代的自我とは、人類が陥った全体的狂気である。そして、それと結びついた資本主義によって、世界は、狂気破壊の跳梁跋扈する無秩序・カオス状態となっている。
 さて、最後に、ラカンの言う現実界への回帰とは何かを考えよう。現実界とは、いわゆる現実や現象ではなく、不連続的差異論で言えば、イデア界に当たると考えられる。(想像界はメディア界に、象徴界は現象界に当たるが、しかし、不連続的差異論は、ラカン的精神分析あるいは精神分析の家族的被限定性を批判して、普遍的見地によって、乗り越えていると考えられる。)だから、現実界への回帰とは、実は、差異共存志向への回帰を指していると言えるだろう。それは、メディア界を介したイデア界への回帰である。ポスト精神分析としての不連続的差異論でもある。





反感のエネルギーとは何か:反感衝動は、イデア界の秩序を混沌化する

反感の衝動のエネルギーはどこから発するのか。差異共存志向性とは、調和的エネルギーをもつ。それは、生体、身体に活動力を与えるように思う。そう、「気」である。しかし、反感衝動の場合、それは、差異共存志向性に否定的であるから、生体、身体に悪い影響を与える。自己身体に否定的作用を与えるのである。不健康の力である。しかしながら、その反感のエネルギーはどこから生まれるのか。それは、イデア界、身体であるイデア界から来るのではないだろうか。
 少し整理しよう。差異共存志向性は、いわば健やかな力であるし、それは、イデア界の力を受けている。しかし、反感の力は、差異共存志向性を否定して、イデア界の力を反動化させているのではないか。すなわち、反感衝動のエネルギーとは、イデア界の力の反動から来ているということになる。差異共存志向性の場合のイデア界の力は、積極的な創造的な力となるが、反感衝動における反動化したイデア界の力とは、破壊的に作用する。つまり、反動化したイデア界の力とは、他者への暴力だけでなく、個体の差異共存志向性を阻害する暴力である。差異共存志向性を阻害するというのは、イデア界を阻害すると言ってもいいだろう。そう、イデア界をカオス化するように思う。イデア界の秩序(コスモス)を混乱させるのではと思う。差異共存・差異共立のイデア界の秩序を混沌化するのではないだろうか。差異共存志向という秩序性の否定なのだから、当然、秩序否定で、カオス化である。つまり、反感衝動とは、他者への攻撃・暴力であるばかりでなく、個体自身のイデア界への攻撃・暴力であり、個体自身の健全なあり方を破壊するものであろう。すなわち、個体は、狂乱となるか、病気となるか、不活性・衰退化するか等であろう。すなわち、一種廃人の方向である。因みに、小泉愁傷は、このような方向に進んでいると思う。これは、日本にとって最高度に危険なことである。





欧州系ファンドマネジャー、小泉首相の衆院選勝利を予想

資料です。

これは、「予想」ではなくて、明らかに、「期待」、「希望」、「欲求」であろう。否、「意志」である。欧州系ファンドマネジャーと言っているが、ロイターはモルガンとつながっていて、「アメリカ株式会社」と連携しているだろう。だから、この記事は、ヤラセである。非常にたちの悪い記事である。洗脳情報である。

「欧州系ファンドマネジャー、小泉首相の衆院選勝利を予想

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 8月22日、ロイター通信の調査によると、欧州系ファンドマネジャーは小泉首相(写真)の衆院選勝利を予想していることが明らかに。写真は19日、自らのポスターの前の同首相(2005年 ロイター/Yuriko Nakao)

 [ロンドン 22日 ロイター] ロイター通信は欧州を拠点とするファンドマネジャー10人に対し、9月11日衆院選について調査を実施した。その結果、小泉首相が勝者になり、改革への期待感から投資家は日本株購入を増やすと欧州系ファンドマネジャーが予想していることが明らかになった。
 調査対象の10人中9人が、自民党が民主党に勝ち、小泉首相が続投するとの見通しを示した。調査は8月17日から22日にかけて実施した。
 小泉首相の勝利が日本株にとってプラス材料と答えたファンドマネジャーは10人中9人で、中立的と答えたのが1人だった。5人は円にとってもプラス要因になるとしている。
 JPモルガン・フレミング・インベストメント・マネジメントのファンドマネジャー、スティーブン・ミッチェル氏は「有権者は改革や民営化に賛成票を投じ、小泉首相に、これまで以上に強力に推進することへの信任を与えるだろう」と述べた。
 <民主党勝利の場合>
 民主党が勝利を収めるにしても、岡田代表は改革を公約していることから、欧州系ファンドマネジャーは市場にとってはプラスとなるかもしれないとみている。ただ小泉首相が再任された場合よりも、その度合いは低いという。
 民主党勝利の場合に日本株が「買い」、と答えたマネジャーは10人中5人だった。2人は「売り」とし、2人は「中立的」と答えた。
 改革や市場にとってあまりよくない結果になり得るのは、自民党が勝利を収めながらも、党利党略により小泉首相を首相の座から下ろすケース。調査対象のマネジャーのうち5人は、その場合は株の売り要因になるとしながらも、そうなる公算は非常に小さいとしている。
 今回の調査では、ファンドマネジャーが株式市場が選挙結果に最も反応すると予想していることが判明した。円や日本国債(JGB)は経済など他の要因により大きく影響されるとみられている。
(ロイター) - 8月23日6時37分更新」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050823-00000397-reu-bus_all

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Step3: ファンドマネージャーはどんなことをしているの?


その22: ファンドマネージャーってどんなことをやるの?(株式編)

 株式投信のファンドマネージャーは、実際どうやって運用しているのでしょう。個別銘柄の選択や、組み入れ比率の決定は?大切な資金を任せるのですから、気になるところですね。ファンドマネージャーが何を目的として、どんな目標で、どのように投資の意思決定をしているのか、ご紹介します。
ファンドマネージャーの仕事
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 株式ファンドの運用というと、きったはったの世界のように思われる方が多いかもしれません。実際そのように運用されているファンドも少なからずあることでしょう。ですが、ここでは少しレベルを上げて、本当にあるべき運用の姿を頭に描きながら、株式運用について確認することにします。

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 ファンドの運用にまず必要なのは、お金を預ける人と、運用する人との間で何がどうなっているのかをお互いに確認し合う方法です。そのために必要なものがベンチマークです。ベンチマークというのは、TOPIX(東証株価指数)」とか「店頭株指数」など、運用の基準となるような指数のことを言います。これが決っていてはじめて、軸がぶれにくい運用が出来るというわけです。

◆.罐縫弌璽垢虜鄒

 次に、必要なのが投資対象銘柄群となるユニバースです。これは、運用手法にもよりますが、投資する可能性のある銘柄を決めておくということになります。以上が、どのタイプのファンドにも当てはまる運用の前段階の必須事項となります。

 実際の運用

 次に、実際の運用にはいりますが、運用の手法の違いによって目標が変わります。「パッシブ運用」では、特定の株価指数との連動を目指します。このタイプのファンドでは、株価指数との比較で収益率が勝っても負けてもだめで、乖離の幅だけ評価が下がるような運用といえます。逆に、「アクティブ運用」では、ベンチマークとの比較でより良い成果を得ることを目指します。そのために、調査部門にアナリストを配置したり、各種の情報機器での市場や・株価の分析を行ったりします。

 ところで、ファンドマネージャーは、好き勝手に売買できるのかというと、そうではありません。運用会社の最高の意思決定機関である運用会議(役員などで構成)の決定に従い、売買をする前に運用計画を策定し、責任者に承認を得てから実際の売り買いを行うことになります。株式ファンドの運用は、だいたい以上のような考え方で行われています。


text: FP総研
http://finance.nifty.com/event/semi/fund/22.jsp


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以下の記事の赤色の文字に要注意。


● J・P・モルガン
●ソニー躍進の背景
2000 年2月2日にジャパン・ソサエティー主催でソニー創業者、盛田昭夫氏をしのぶ会がニューヨークで開かれ、新生銀行の取締役に就任したデビッド・ロックフェラー氏、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、そしてソニーの社外取締役であるピーター・ピタソンCFR議長などアメリカのエスタブリッシュメントが勢揃いした。
このソニー創業者である盛田氏の人脈は1969年3月のJ・P・モルガン国際委員会役員就任にさかのぼることができる。この「モルガン人脈」こそがソニーの発展を陰で支えたのである。
その後盛田氏はモルガン系企業との連係により新事業参入にも乗り出す。
1972年モルガングループの中核IBMの子会社WTC社の取締役就任、1979年プルデンシャル生命保険と折半出資でソニー生命の前身であるソニー・プルデンシャル生命保険設立(取締役会長就任)、1980年パン・アメリカン航空の取締役に就任する。
同時に日米賢人会議、経団連などの財界活動により日米財界人との交流を深めていくのである。モルガングループのGM(自動車トップ)のいすゞ自動車への大口株式所得やテキサス・インストゥルメンツ(TIIC最大手)の日本進出にさいして仲介役を務めた。

●モルガングループの構成
モルガングループの中核を担うJ・P・モルガンはモルガン・ギャランティー・トラストの持株会社でジョン・ピアポント・モルガンにより1861年に設立された。法人、機関、富裕家族などの顧客サービスに特化した名門ホールセール(純粋卸売)バンクである。
現在その運営は執行役員(Management)、取締役会(Board of Directors)、国際委員会(International Council)、諮問委員会(Directors Advisory Council)の4部門で行っている。最高意志決定機関である取締役会は18名で内2名が内部取締役で16名が社外取締役で構成されている。
現在のダグラス・ワーナーCEOは自ら総合電機最大手ゼネラル・エレクトリック(GE)と総合エンジニアリング最大手ベクテルの取締役を兼任しておりモルガングループの結束を担っている。
GE、ベクテル以外にもモルガンと歴史的に関係が深いゼロックス、ハネウエル、テネコ、デュポン、フェルプス・ダッヂなどのCEOおよび元CEOが外部取締役として参画している。特に注目すべきは1999年に合併した国際石油資本最大のロックフェラー系エクソン・モービルのリ・レイモンドCEOが名を列ねている点であろう。
盛田氏が役員を務めた国際委員会には後任として小林陽太郎富士ゼロックス会長が選任されている。会長はジョジ・シュルツ元国務長官が務めシンガポールのリー・クワン・ユーやダイムラー・クライスラーのシュレンプ会長など世界を代表する政財界人が集結している。
注目はロイターとの結合関係である。実質ロイターとJ・P・モルガンは相互に役員を交換しあう緊密な関係にある。

●ロイターに集うモルガン人
ロイターのクリストファー・ホッグ会長がJ・P・モルガンの国際委員会役員に就任している。
またロイターの取締役会にはまもなく退任するJ・P・モルガンのロバート・メンドサ副会長、モルガン・スタンレ・インターナショナルのデビッド・ウォーカー会長、モルガン・スタンレー・ディーン・ウィッターのロバート・ボーマン社外取締役、ドイツ・モルガングレンフェルのジョン・クラーベン会長が結集しており国境を超えてグローバルに展開しているモルガングループの政策発信基地としても機能している。
ロイターは国際的なニュース配信ソースとして有名だが、実際には金融情報通信企業である。電子決済取引システムはロイターの「ディーリング2000」とJ・P・モルガンを中核とした「EBS」の寡占状態になっている。実質J・P・モルガンとロイターが連係しながら現在の巨大電子金融市場における絶対的な覇権を実現させたのである。
J・P・モルガンは1933年の銀行・証券業務兼営禁止を規定したグラス・スティーガル法成立によりいったんは商業銀行業務に専念するが、1935年に投資銀行業再開の為にモルガン・スタンレーを分離設立した。このモルガン・スタンレーは1997年にロンドン拠点としてモルガン・スタンレ・インターナショナルを設立する。1997年にはディーン・ウィッターと合併しモルガン・スタンレー・ディーン・ウィッターとなり現在も名門投資銀行として第一線にある。
J・P・モルガンの前身であるロンドンJ・S・モルガン商会から派生したモルガン・グレンフェルは、1903年にJ・P・モルガンより分社したバンカーズ・トラストとともに現在はドイツ銀行傘下にある。
J・P・モルガンを中核にモルガングループ各社は時には競い合いながらも高度な情報と金融技術を提供しながらM&A&A(買収、合併、提携)を実行している。特にモルガングループの「アメリカ株式会社」の国益を最優先にした企業再編手腕は日本でも見習うべきであろう。
モルガングループはグリーンスパンFRB議長に代表されるように社内外役員をホワイトハウスや主要閣僚、連邦準備制度理事会、世界銀行などの政府機関に送り込み「アメリカ株式会社」の権力中枢に絶対的地位を確立している。


阿修羅
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/886.html





世界平和のために:アメリカの巨大金融資本を支配する人たちは、心の闇の惨めな人たちである

これまでの自我論から、結局、ニーチェが言うとおり、ユダヤ/キリスト教は、「根暗」の宗教であり、ルサンチマン(怨恨)の宗教であることが判明した。つまり、「魂」に病的な暗さを抱えている人たちの宗教である。そして、これとアメリカの巨大金融資本が結びついているのである。差異共存志向性が傷ついた冷暗さがあるのである。ユダヤ人たちは、被差別の暗い歴史のトラウマをもつ。また、キリスト教原理主義者は、思うに、本来貧しい階層の出身者であろう。アメリカへの貧しい移民者たちの宗教であろう。かれら貧民、極貧民の暗い記憶がトラウマになっているのだろう。今日、世界に不平等をもたらしているものは、トラウマの貧困や被差別であろう。貧困と被差別が、貧困と被差別を再生産しているのである。心の闇が、巨大金融資本を生んでいるのである。ウォール街のスクルージたち。差異共存の太陽を復活させよう。キリストとアマテラスは一つである。暗い、闇の、自我の資本主義から明るい、太陽の、差異共存の資本主義へ。





イエスとは救世主ではなく、ニーチェ的な「超人」ではなかったか

1)自我と個の違いについて
2)キリスト教・教会とイエス・キリストの違い
3)新しい民主主義とは何か
4)差異共存志向性を拓いていくために:日本人は、これが閉ざされている
5)差異共存的資本主義ないし経済とは何か
6)ホリエモンの立候補とは何か。彼の差異主義と今回の立候補はどうつながるのか。
7)差異共存志向性とは、差異特異性をもつ。イデア界の力とメディア界の強度
8)特異性とは何か。差異特異性、個特異性とは、イデア界に通じる。思うに、イエス・キリストというシンボルは、ある意味で、ニーチェ的存在性を示唆しているのではないか。つまり、特異性のシンボルがキリストではないのか。もし、「父」がイデア界ならば、イデア界の発現としての「子」イエスであるから、それは、特異性である。そう、キルケゴールのイエス論である。救世主としてのイエス・キリストは、ユダヤ教の文脈から捉えたものだろう。しかし、それは、一面的であるというか、狭隘である。イエス・キリストの本質は、救世主ではなくて、ニーチェ的な超人だろう。特異性を体現した人間だろう。ポストヒューマンである。D.H.ロレンスの『死んだ男』で復活したイエスとは、そのようなものだろう。つまり、これまでのキリスト教は、まったくイエス・キリストを誤解していたのではないだろうか。イエス・キリストを誤読したのではないだろうか。救世主を欲したのは、ユダヤ教徒や教会側であろう。そして、宗教家のイエスを、救世主に祭り上げたのではないだろうか。本当は、グノーシスのイエスの方が、本当のイエスに近いのではないだろうか(『トマスの福音書』)。
9)志向性について:差異の志向性とは本来、他の差異への志向性である。そして、ここに差異共存志向があるのであるが、自我の場合は、志向性が差異へではなくて、連続・同一性である連続化へと志向するのであり、個体へと固着し、自我となるのではないだろうか。ならば、自我とは、差異共存志向性を排出・隠蔽した反感・反動力と一体の連続・同一性の個体ということになろう。では、個ないし個吾とは何か。それは、差異共存志向性を肯定しつつ、連続・同一性への志向をもつ知覚・意識であろう。そう、差異共存志向性から発する能動肯定的な力と結びついた連続・同一性の知覚・意識をもつ個体性のことだろう。差異共存志向とは、実は、特異性でもある。だから、この差異共存志向とは、特異性の志向でもあり、それが、連続・同一性の個体知覚へと志向することになるのであり、差異共存的個体、特異性的個体となり、これが、個ないし個吾である。デカルトの「コギト(吾思う)」の「吾」とは、個・個吾であろう。自我の場合は、反感・反動的個体であるから、個体としての本質(差異共存志向性
特異性)を否定しているので、「スム(吾あり)」にはならないのである。つまり、自我の場合は、内的本質と分離・乖離しているので、「スム(吾あり)」が否定されるのであり、自己分裂となる。
 とまれ、志向性の肯定的能動と反感・否定的反動とは全く異なる結果となる。個と自我の違いである。ここで、志向性の差異性について言うと、デリダのフッサール批判とは、志向性が連続・同一性になっていることへの批判ではないだろうか。それは、正しいように思える。志向性を現前とするのは、現象界的である。しかし、志向性を差異とすれば、正しくメディア界となるだろうし、これまで、その意味で志向性を考えてきているのである。連続性の志向性ではなくて、差異の志向性にすればいいのである。デリダ哲学が示唆するのは、メディア界であるが、しかし、連続・同一性を脱構築した後、残るものは何であろうか。どうも、デリダもやはり不連続性には達していないのではないだろうか。どうも、連続性と脱構築が相補性、相互補完になっているのではいだろうか。

2005年08月23日 (07:27)

差異共存性を憎み、蔑み、貶め、自己を優越化する自我主義とは何か

差異共存性を憎み、蔑み、貶め、自己を優越化する自我主義とは何か


これまで、さんざん自我の問題は論じてきているが、まだ、究極の答えに達していない。
 なぜ、自我は差異共存志向を忌避し、それを攻撃して、自我優越を保持しようとするのか? これは、おそらく、人間の最高の問題の一つである。ここに悪の問題があり、現代の狂気を乗り越える為には、答えなくてはならない問題である。極論すれば、ここに
究極の問題、一切合切の問題がある。人間とは何かの問題でもある。また、自我とは何か。個とは何かの問題もあるが、これは別に論じたい。
 この問題に関しては、先に、男性の志向性と女性の志向性の違いということで、前者の連続化志向性、後者の差異共存志向性を述べた。これは、メディア界的極性の問題であるが、男性の場合、差異共存志向と連続化志向をもつメディア界について見ると、後者が前者より強大ということになる。即ち、力学的に、両者に大小があるということになる。また、これを、優劣としてもいいのかもしれない。しかし、大事な点は、これを、質的差異にしないことである。ただ、強弱の問題に過ぎない。だから、優劣という方は、不正確ないし誤りである。
 では、この差異を質的区別、差別にしたのは何であろうか。先に、差異共存志向性における冷暗化という概念を提起した。それは、反感を生起させて、反動である自我を形成するものである。だから、メディア界の差異共存志向と連続化志向という両極性を、二項対立、二元論、優劣差別論に変えるものは、冷暗化の反感・反動性であると考えられる。単純に考えて、共感の否定としての反感であるから、共感性に対して、否定的になるのは、当然ということではないだろうか。
 丁寧に考えよう。弱い差異共存志向と強い連続化志向というメディア界を男性はもっているのであるが、ここで、冷暗化が生じると反感が生起する。しかし、問題は、この冷暗化の意味である。これは、差異共存志向の否定であるが、絶対的否定であるだろうか。つまり、差異共存志向という生得的能力において、冷暗化という苦痛が生じたのであるから、基礎の差異共存志向性は存しているのである。だから、男性の場合、1)弱い差異共存志向と2)冷暗化による反感性・苦痛と3)強い連続化志向の三つの要素があることになる。そして、反感的自我を形成するときは、1)をなんらかのかたちで、否定することになるのだろう。精神分析では、原抑圧ということを言う。しかし、それは、母子結合の原抑圧、近親相姦の抑圧ということになる。しかしながら、1)の否定とは、そうではない。とまれ、ここには、「原抑圧」と呼ばれていいような事態があるだろう。私はこれを、以前から、排出・隠蔽と呼んでいる。あるいは、排斥と言ってもいいだろう。これが、自我ないし反感自我の成立の動因である。この排出・隠蔽(略して、排隠か)は、段階が考えられる。否定の段階、これが、一般的であろう。そして、排斥の段階、それは、いわば病理的な、反動暴力的な段階であり、精神病理を発生させるだろう。パラノイア、「分裂症」、多重人格症等である。すなわち、差異共存性を攻撃するような段階である。そして、これは、ユダヤ・キリスト教に通じると考えられる。(旧約聖書における、ヤハウェの異教への残虐さを見よ。)この異常な反感的攻撃性は、結局、反感の度合いが異常であるということであるが、それは、差異共存志向性における冷暗化の強さを語っているだろう。この冷暗化による反感によって、差異共存志向性を排斥するのである。だから、自我悪の人間とは、過去において、冷暗化のトラウマがあるはずである。これが、ルサンチマンを生んで、他者を攻撃するのである。とりわけて、差異共存志向的人間に対してである。なぜなら、トラウマの根因である差異共存志向性を刺激するからである。「古傷」を刺激するからである。「太陽」のなさ、暗黒冷凍の苦痛・苦悩・悲惨・陰惨さが、その暴力者の急所に潜んでいるのである。ところで、ドストエフスキーは、おそらく、このようなトラウマがある。その自虐性は、暴力・攻撃性の内向化と言えるだろう。
 ということで、先に、差異共存→反感と連続化の二元論で考えたが、ここで、差異共存/反感/連続化の三元論を提起することで、これまで、何年も私を悩ませていた問題への解答に近いものが見つかったように思う。





キリスト教の司牧権とは何か:ユダヤ・キリスト教の支配への意志とは何か

結局、キリスト教とは何かという問題になる。キリスト教、キリスト教会の問題。聖霊の問題。聖霊の喪失。フィオレのヨアキムの聖霊の時代の思想。思うに、聖霊とは、メディア界である。フッサールの現象学的還元とは、聖霊であるメディア界の復権を意味をもっているのではないか。西方キリスト教は、フィリオクェ(子とともに)によって、古代キリスト教の三層界性を破壊し、東方教会と分裂した。思うに、ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』の大審問官とは、西方教会のことではないのか。トルストイやユングの思想は、内在的な宗教であり、聖霊宗教に近づいているのではないか。聖霊とは、ソフィアでもあるだろう。聖ソフィア教会。問題は、個、特異性、差異である。キリスト教会の管理支配思想は、これとは全く異なる。イスラム教は前者的である。
 不連続的差異論は、徹底してヒエラルキーを排する理論である。差異平等主義である。というか、差異共存主義である。差異共存的民主主義である。これは、特異性をベースにしている。しかし、現実の問題として、自我主義が支配的であり、それが、差別、上下を生んでいるのである。すなわち、自我とは、差異共存志向性を憎悪し、貶め、自我を高揚化するものである。自我主義は、差異共存志向を憎み、貶め、劣位化して、自己を尊大化、優位化する。このメカニズムは何か。これは、何度も述べているが、ニーチェの問題である。『道徳の系譜』である。真正な民主主義は、差異共存志向性に基盤があると言えよう。差異共存志向性とは、高貴な強度である。もし、貴族性という言葉に積極的な意味があるならば、差異共存志向とは、貴族的である。だから、貴族的な民主主義である。これは誤解されるからもう言わないが、言い換えると、特異性の民主主義である。そう、思うに、フッサールの現象学的還元とは、この特異性への還元ではないのか。ならば、ニーチェと一致するのである。また、思うに、特異性の強度とは、メディア界の強度を越えたイデア界の力をもっていると思うのである。だから、原強度である。そう、これがニーチェ哲学の「力の意志」の意味だろう。
 結局、キリスト教は、この特異性の民主主義とは正反対の、自我的ヒエラルキーをもつ似非民主主義であり、現代の民主主義は、このようになっていると言えよう。プロテスタンティズム的自我主義的ヒエラルキー的似非民主主義である。だから、民主主義の変容・変革が必要なのである。似非民主主義から、真正民主主義へ。民主主義の進化が必要なのである。不連続的差異論は、これを提唱する。近代的民主主義からポストモダン的民主主義へ。
 自我主義的民主主義から特異性的民主主義へ。





政治の道具としてのテロ戦争:メディアと不連続的差異論

資料です。

以下の記事は興味深い。結局、米国は、メディア界戦術を巧みに使って、「アルカイダ」を操縦し、自国民を騙して、国家戦略を実行しているということになるだろう。そう、民主主義だから、国民へアピールすることが不可欠である。このとき、メディア戦略・戦術が必須であり、それにアメリカ国家は長けているということである。このメディア界戦略・戦術は、悪魔的天才性をもっていると言わざるをえない。これで、太平洋戦争でも勝利したのである。このメディア界的天才性は、誰が創造しているのだろうか。ここに、アメリカの力の根源がある。今回の郵政民営化もアメリカのメディア戦術である。日本政府を洗脳して、郵政公社をのっとろうとするものである。
 いったいどのような経緯で、メディア界の戦略・戦術の最重要性をアメリカは知り、実現したのだろうか。一つは、映画であろう。テレビは、その後である。メディアが人間を支配することができることをアメリカの権力者は十分知っているのだ。西洋はまた、弁論術の伝統をもっている。これは、大雑把に言えば、真理を伝えるのではなくて、いかに聴き手、オーディエンスを説得するかのノウハウである。ハムレットは、「言葉、言葉、言葉」と言ったが、今や、「メディア、メディア、メディア」である。小泉首相を支えるメディア戦術的プロデューサーは、優秀であると認めていい。
 不連続的差異論は、メディア界と現象界との截然と分けている。通常、人は、両者の混淆状態で生きているので、真実とメディア的カモフラージュ・幻影との区別がつきにくくなっている。だから、哲学の必要があるのだが、哲学は、日本では、縁遠いものと思われている。哲学は、真理学である。叡知学である。もっとも、哲学者自身にも、問題がある。晦渋・難解な言葉を、饒舌に述べて、読む意志を挫けさせるからだ。しかし、読み手の方にも問題がある。すぐわかろうとするからだ。認識は、天才でない限り、インスタントには生じない。ヴィンテッジである。実る、醗酵するのである。
 とまれ、不連続的差異論は、きわめて鋭敏なメディア論でもある。そう、メディア論でない哲学は、偽物である。
 さて、今や、ネット・メディアの時代に転換した。国家戦術の洗脳マスメディアに対抗する手段を得たことになる。メディアvsメディアである。権力メディアvs個のメディア。マクロメディアvsミクロメディア。連続・同一性のメディアvs不連続的差異のメディア。そう、私は、オスカー・ワイルドの言葉「自然は芸術を模倣する」に倣って、「人間はメディアを模倣する」と述べた。ならば、ネット・メディアを模倣する人間とは、メディアを創造する人間ということになるだろう。これは、メディアの「コペルニクス的転回」である。受動的メディアから、能動的メディアへの転換である。『1984年』に欠けていたものである。ネット・民主主義である。しかし、問題は、この能動的ミクロメディアの質を高めることである。だから、教育的でなくはいけない。
 とまれ、知のあり方が、ドラスティックに変化するだろう。そう、これまでの、饒舌・雄弁な知は消えていくだろう。それは、古典としてのみ留まるだろう。簡潔で、明快で、正確で、洞察力のある知恵の需要が増えるだろう。そう、これは、学問の危機でもある。アカデミズムの危機でもある。知識中心のアカデミズムの解体の危機である。

p.s. アメリカのメディア戦略・戦術の起源の一つは映画ではないかと述べたが、それよりもっと根源的な起源がある。それは、キリスト教である。フーコーは司牧権と言った。そう、キリスト教、とりわけ、キリスト教会のもつ民衆管理支配意志である。そう、これは、遊牧民の発想だろう。牧畜を牧場に囲い管理する発想である。だから、日本は、アメリカ牧畜管理者の牧畜である。世界は、アメリカ権力の牧畜である。洗脳・マインドコントロール体制は、教会から発しているに違いない。また、共産主義の前衛としての共産党も同様の発想である。これは、ヒエラルキーの発想である。キリスト教、キリスト教会的ヒエラルキーの発想である。これは、似非民主主義である。民主主義の起源は、古代ギリシアであり、キリスト教ではありえない。アメリカ独立宣言の「神がわれわれを平等に創った」というのは、似非民主主義である。ここには、神という超越性があり、ヒエラルキーが生じているのであり、ここから、民衆の支配・管理の思想が生まれるのだ。やはり、キリスト教、ユダヤ・キリスト教を、解体しないといけない。これが、諸悪の真正な根源である。 (p.s. 調教、飼育、等々。サイードの言うオリエンタリズムの起源はやはり、西方キリスト教会であろう。劣った東洋の世話をするということである。)

p.p.s.  管理という点で、プラトンが問題にされるかもしれない。しかし、問題は、プラトンが、西欧において、キリスト教化されたことである。真正のプラトンは、西欧においては、去勢されているのだ。つまり、ロゴスと同様に、イデアは、その超越論的次元を近代西欧において失ったのだ。(この点に関しては、以前述べた。)問題は、西方キリスト教となる。東方キリスト教は、まだ、三層界性を維持している。西方キリスト教が、叡智の三層界性(不連続的差異論は、これを現代に創造的に復活させたのである)を破壊したのである。そして、宗教改革が決定打である。これで、世界のキリスト教的牧畜化が始まったのである。ルサンチマン的支配である。思うに、西方キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズムは、自我中心主義的資本主義を生み、世界を絶滅の危機に陥れたと言える。フッサールの現象学とは、近代西欧、プロテスタンティズムが喪失した超越論的次元の復権である。それは、内在的根源の復権である。しかし、問題は、この超越論的次元、超越論的現象が、フッサールの場合、一つであったのかどうかである。ハイデガーは、フッサールの展開であるが、連続性をもっている。全体主義的である。この点は後で検討しよう。とまれ、現代は、近代西欧、とりわけ、プロテスタンティズムの二元論(デカルトの二元論もこれと平行である)によって、意識が錯誤的になっているのだ。

「政治の道具としてのテロ戦争

2005年8月23日 田中 宇
 

 この記事は「アルカイダは諜報機関の作りもの」 の続きです。

 前回の記事で「テロ戦争」とはアメリカなどの諜報機関が世界支配の強化のために仕掛けている作戦のようだと書いたが、だとしたら、諜報機関はどうやって自爆テロ志願者を集めているのだろうか。

 その答えとなりそうなのは、最近、米英当局者が言い出した「アルカイダはテロ計画の立案実行には関与せず、単にテロを誘発するイスラム原理主義の理念をばらまいているだけの存在である」という分析である。これはビンラディンは「資本論」のカール・マルクスと同様、革命的な理念を表明しただけで、実際の革命(テロ)活動は、その理念に感化された人々が勝手に行っている、という見方である。(関連記事 )

「アルカイダは、ネットワークではなく、ウイルスのようなものだ」という主張も出てきた。世界各地にばらばらに存在するイスラム過激派の地元組織を感化して自発的にテロをやらせているのがアルカイダであるという主張である。(関連記事 )

「アルカイダの幹部」たちは、中東や北アフリカ、西欧や北米、東南アジアなどの都会にある貧しいイスラム教徒たちが住む地域の、モスクを中心とするコミュニティの中に入り込み、失業者が多く欲求不満が募り、最近では反米感情も高まっている若者たちに時間をかけて接近し、彼らを「聖戦」に立ち上がる気にさせる。彼らは「アルカイダの幹部」たちは、米英などの諜報機関に通じているから、そのルートで爆弾も入手できる。

(テロが起きると、爆弾の入手先が不明確なままになることが多い。たとえば7月7日のロンドンのテロでは、使われた爆弾が軍用の「C4」だったのか、それとも自家製の「過酸化アセトン」だったのか、当局の発表が揺れ続けた。軍用爆弾だったとなると、テロ組織がそれをどのように入手したのかについて、マスコミや世論は詮索し続けるので、当局にとっては自家製の方が都合がいいが、過酸化アセトンは運搬が非常に難しく、事件の状況と食い違いが出てしまう)(関連記事 )

 1993年に行われた、ニューヨークの世界貿易センタービルの地下駐車場の爆破テロでは、エマド・サレムという名のFBIのエージェントが地元のモスクの過激派組織には入り込み、テロをやろうと扇動したが、モスクの指導者がテロ活動に反対した。そのためサレム自身もテロの実行には乗り気でなかったが、FBIの担当官がエージェントに「おとり捜査用のニセの爆弾だ」と偽って本物の爆弾を手渡し、サレム自身が地下駐車場に仕掛け、実際に爆発が起きてしまった。

 FBIは、イスラム原理主義を悪者に仕立てるため、テロ事件を画策したのだと思われる。サレムはFBIに騙された腹いせに、事件後にこのことをマスコミに暴露し、その後、姿をくらましている。(関連記事 )

 自爆を志願する者がいない場合は、若者たちを騙す手が使われる。たとえば7月7日のロンドンのテロの後に出た分析として「アルカイダの幹部は、麻薬の売人として活動し、若者に麻薬を詰めたリュックサックをかついで地下鉄に乗り、車内で他の売人にリュックを渡してくれ、と頼んだ。実際にはリュックに入っていたのは時限式の爆弾だった」という説がある。(関連記事 )

 イスラム教以外の過激派組織が使われることもある。昨年3月にスペインのマドリードで起きた列車爆破テロでは、スペイン北部のバスク地方の分離独立を掲げてテロやゲリラ活動を行っている過激派ETAの組織内に「アルカイダ」が入り込み、ETAが北部の鉱山から爆弾を調達するルートが使われた。(関連記事 )

 このように「アルカイダ」の名をかたるエージェントたちは、あちこちのイスラム・コミュニティを扇動して回っている。アルカイダ自体はテロを行わず、各地のコミュニティに取りついて、扇動したり爆弾を調達する「ウイルス」のような働きをしている。当局の「ウイルス説」と実際の「アルカイダ」が異なる点は「アルカイダ」が当局の敵ではなく、米英などの諜報機関によって操られた便利な道具であるということである。

▼現職の指導者を有利にするテロ戦争

 ここで指摘しておかねばならないのは、米英の当局の全員が、自作自演のテロ戦争に荷担しているわけではないということである。アルカイダを操っているのは、当局者の中のごく一部で、秘密に行動することが多い諜報機関である。英米などの諜報機関は、政府のトップに直結しており、たとえばCIAは大統領の命令にのみ従う。ブッシュ大統領と、ホワイトハウスの側近は、CIAが「アルカイダ」を操作していることを知りうるが、その他の役人や警察官などは、自分の政府が自作自演のテロをやっているなどとは思っていない。

 そのため911事件の前には、FBIなどの現場の捜査官が、テロに関与しそうな容疑者に対する捜査を申請しても、上部から「必要ない」と却下され、事件後に「何であのとき却下したのか」と問題になった。

 911や、7月7日のロンドンテロの当日には、実際に起きたテロとほとんど同じ想定で訓練が行われており、現場の係官たちが、テロなのか訓練なのか分からずに混乱するような仕掛けが、あらかじめ作られていた。これも、テロを演出する上層部による、何も知らない現場担当者たちが正常に動いてテロの発生が阻止されるのを防ぐための作戦だったと考えることができる。(関連記事 )

 大規模テロの発生は、国民が政府を頼りにする度合いを強め、世論を保守化させるので、現職の指導者にとって有利に影響する。テロ対策と称して、野党や反政府人士を弾圧するのも容易になる。911後、世界の多くの国々の政府は、アメリカが始めた「テロ戦争」に賛同した。各国の指導者は、米英の自作自演ではないかと察しても、それを黙認して「テロ戦争」に参加すれば、自国内の野党や反政府人士を弾圧できるようになるので、賛同している。

 米英以外の各国の諜報機関も、アルカイダを監視することはあっても、潰そうとはしない。その結果、中国は新疆ウイグルのイスラム教徒に対し、ロシアはチェチェンなどのイスラム教徒に対し、好きなだけ弾圧を加えられるようになった。日本でも最近、諜報機関の強化が政府の内外で構想されている。諸外国の例と同様、これも政府の独裁力を強めようとする試みであろう。

▼支配層の内部で対立するテロ推進派と反対派

 とはいえ、首相や大統領がテロ対策を口実に自らの権限を拡大することは、政府内や支配層の内部から反発が出る。世界の多くの国は、支配層が一枚岩ではなく、国内のいくつもの勢力間のパワーバランスで権力が成り立っている。「テロ戦争」は、これを独裁化の方向に持っていこうとする意図を含んでおり、現職の指導者の独裁傾向が強化されることを好まない勢力は、テロ戦争は実は政府内の一部勢力による自作自演なのだ、ということを示す情報をマスコミにリークし、状況の転換を図る。

 911は非常に衝撃的な事件として仕上がったので、この手の作戦転覆作業は、アメリカでは今のところあまり成功していないが、ロンドンのテロでは事件後、イギリス当局内部から、ロンドン警視庁などがウソをついているという情報が次々にマスコミにリークされ、英政府は窮地に立たされている。

 またテロ戦争と同様、情報操作によって戦争を実現したイラク侵攻に関しても、侵攻前から米英の政府内から「イラクは大量破壊兵器を開発していないのに、米英政府はウソを言って大量破壊兵器が存在していることにして、侵攻しようとしている」といった情報がたびたびマスコミに流された。それは侵攻後、ブッシュ政権を窮地に陥れ、それまで政権内で力を持っていたネオコンらタカ派が弱まり、代わりに多極主義の勢力が力を増すことにつながった。

 昨年のスペインの列車テロ事件は、総選挙の3日前に起きたが、左翼の野党への支持率を減らそうと、右翼の与党が「左翼寄りのETAが犯人だ」という主張にこだわったため、実はアルカイダの犯行だとする説が出てきたとき、与党のウソを非難する世論が支配的になり、選挙は野党の勝利となった。テロ戦争は「実は当局がテロ組織を動かしている」という点に関してウソがあるので、そのことがばれた場合は現職の政治家の方が潰されるという諸刃の剣である。(関連記事 )
・・・」
田中宇の国際ニュース解説
http://tanakanews.com/f0823terror.htm





パフォーマンスに気付くか否かとは何か

国民の多数が首相のパフォーマンスに騙されているわけだが、でも、どうしてパフォーマンスであることがわからないのだろうか。ここで、私の直観的認識を言いたい。
 私はテレビに映る小泉首相を見て、これは、パフォーマンスだと感づくのである。なぜ感づくかと言うと、一見まことしやかな雰囲気、もっともらしい雰囲気、いかにもキマッタ感じ、等、これらが、胡散臭く思わせるからである。外見がもっともらしいのは、怪しいと私は直観するのである。そう、声が胡散臭い。一見誠実そうな声が、曲者である。私はこれらから、首相の話はパフォーマンスだと直観するのである。郵政民営化に関しては、理論的に問題があるが、それ以前に、首相の胡散臭さを感じるのである。
 では、どうして、多くの国民は騙されるのだろうか。思うに、何が本当に誠実・実直であるか否かがわからない人が多いのではないかと思う。即ち、いい加減に生きている人が多いということになるだろう。これは、言い換えれば、利己主義的に生きている人が多く、感覚が鈍ってしまっているということだろう。不連続的差異論から言えば、メディア界が埋没している人たちである。メディア界は、いわば、直観、勘、想像力、推理力の領域である。この領域が鈍っていれば、現象界という外見だけの世界に生きることになり、パフォーマンスと本当の姿がわからなくなるだろう。
 以前から、私は、日本人において、メディア界から分離、乖離している言語行為に気付いている。メディア界の喪失である。この事態が、小泉ファシズムを支えていると言えるだろう。メディア界の復権、差異の復活が必要である。メディア界、差異の喪失が、亡国に通じているのである。

p.s. 少し言いそびれていることがある。おそらく、首相の話をするときの外見と声との微妙な「差異」を感じているのではないかと思う。ほんとうは、外見と声が一致していないのだと思う。そう、間があるだろう。そこに胡散臭さを感じるのだ。その間で、演技を造っているのである。そうなのだ。首相の話しをするときの間が、パフォーマンスであると感じさせるのだと思う。

p.p.s. もう少し付け加えよう。間と外見との差異があると思う。間の時の首相の表情に、異質なものがあるのである。つまり、声は間をもち、一見もっともらしく響く。しかし、その時の表情に、一種尊大さ、不遜さが窺えるのである。このズレ、差異が、首相の話がパフォーマンスなのだと感じさせる要因の一つだと思う。尊大さ、傲慢さが、表情に、頭の姿勢に現われているのである。だから、間と表情の両方からの違和感によって、パフォーマンスだと感じさせるのだろう。





なぜ、反感独善自我は、差異共存性を攻撃するのか

この問題は既に考察しているが、もう一度考えよう。
 自我は、共感性がネガティブになっている。冷暗化である。そのような人物が、共感性をもつ人物に対するとどう感じるだろうか。そう、共感的人物は、共感の波動を発出している。それは、メディア界の差異共感強度というべきもの、イデア極ないしイデア界的な強度を発している。それは、太陽、陽光の強度である。しかし、それを、差異共感性が冷暗化された人物が、受け取るとどうなるのか。冷暗化された反感・反動の波動がある。それは、いわば、負の強度である。その反感強度に対して、共感性は、正の強度を送る。そう、反感強度を解除するようにはたらくのだろう。それはどういうことか。差異共存の強度を、調和の振動をもっていると言えるだろうし、反感の強度とは、それを阻害するものである。図示しよう。

d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn 共感

d1↑d2↑d3↑・・・↑dn 反感

反感の↑は、とりあえずの、記号である。通常のメディア界の強度が作用していないことを表わす。
 さて、共感は、反感に共感の強度を発出するから、↑+⇔という事態となる。つまり、⇔は、↑を解消するはたらきをすると思う。つまり、↑を阻害するのである。反感を否定するように作用すると思う。そう、d1やd2等の差異に差異共存の強度、共感の強度を付与するように作用するだろう。つまり、反感を共感に変容するようにはたらくのである。しかし、反感の方は、共感を原初に否定されているので、発出される共感の強度、力を受容できず、異物感、違和感を催し、拒否・拒絶反応を起こすのである。「免疫不全」である。だから、反感自我は、共感的人物に嫌悪感、反発を感じて、攻撃・暴力的な態度を取るのである。心の闇は、光を受け付けないのである。いわば、ブラックホールとなった心の闇である。だから、いったん、差異共存性が冷暗化すると、始末に負えなくなるのである。そう、悪となるのである。ディケンズの『クリスマス・キャロル』の高利貸・守銭奴のスクルージが、幽霊や精霊に出会って、心を入れ替えるというようなことは、まれであると言わざるをえないだろう。冷暗化の闇は深いのである。光を、太陽を憎むのである。闇は光を知らないのだ。この場合の「啓蒙」とは何か。蒙を拓けるのか。ほとんど、不可能のように思える。

p.s. 共感強度に対して、反感自我は、拒否反応を起こすということであるが、そうならば、反感自我は共感強度を受信しているのであるが、その受信する領域はどこなのだろうか。それは、まさに、反感性の領域においてだろう。差異共存性が冷暗化した領域が、共感強度を受信して、拒否反応を起こすのだ。そこは、強度を発し、受信する領域であるから、共感強度を受信して、拒否反応を起こすのである。反感強度化した差異に、共感強度が与えられ、その、いわば反感化した差異を揺すぶるのである。この揺すぶりが、反感自我にとり、不快感、嫌悪感、憎悪をもたらすのであり、それをもたらす共感強度の人間、差異共存主義の人間を反動的に攻撃するのである。





差異は神とともにありきとは何か(草稿)

ポスト・ヨハネの福音書によると、不連続的差異は神とともにあったとあるが、この神とは何か。これは、イデア界自体のことだろうか。それは、イデア界の差異の「デザイン」のことではないだろうか。差異の境界、差異の共立の「力」のデザインのことではないだろうか。差異の秩序である。これが、神ではないか。差異のコスモスである。ここで、華厳経調和宇宙を想起する。ライプニッツの予定調和のような浅ましいものではない。根源的調和である。
 そう、思うに、このイデア界には、可能態(デュナミス)であり、結局、万物、万有、森羅万象の根源の「イデア」が存しているのではないだろうか。つまり、不連続的差異の共立状態が、「イデア」である。この共立の「イデア」が、神ということになる。メディア界において、差異は連結する。そこでは、プラスやマイナスの極性強度が発生している。しかし、イデア界には、それらはない。いわば、原強度、前強度、絶対強度がある。私は虚度と呼んだ。そう、メディア界の極性強度を内包・包摂したものとして、イデア界の差異共立調和があるのではないだろうか。絶対空間、絶対界としてのイデア界。そう、イデア界の絶対的無限界において差異の「イデア」がすべて形成されているのだ。結局、メディア界、現象界で生起することの本質は、イデア界に存し、書き込まれているのだ。そう、デリダの言うアルシ・エクリチュールとは、イデア界のこの諸差異の共立の「イデア」のことではないだろうか。つまり、結局、現象はすべてイデア界に原型があるということである。予め決定されているということである。森羅万象の動きが、すべて包摂されているのである。神秘学で、アカシャ年代記(アカシック・レコード)という概念がある。それは、過去、現在、未来の事象がすべて書かれている媒体のことである。これは、イデア界のこと、イデア界の神を指しているのではないだろうか。また、SF作家のフィリップ・K・ディックのVALISもそうだろう。すると、これはどういうことだろうか。そう、決定論となる。そう、すべては予め決定されている。必然即自由である。差異は、ここでは、同一性となるのだ。では、なぜ、最初から同一性ではないのか。不連続的同一性ではないのか。しかし、やはり、同一性ではまずいのである。なぜなら、同一性では、変容できないからである。差異ならば、差異と差異との連結が可能になるのである。だから、差異の同一性とは、差異の「イデア」としてである。思うに、ここに、プラトンのイデア論の困難があったのではないだろうか。差異でありながら、同一性=「イデア」として機能するのである。差異の共立が同一性=「イデア」=神である。プラトンは、イデア論でこの神を指していたのだろう。だから、同一性になるのである。しかし、同時に、コーラのような差異性を提示しているのである。とまれ、プラトンは、やはり、これまで、最高に、存在の秘所・至聖所に迫った人物であろう。差異と神との即非である。

初めに差異ありき、差異は神とともにありき、差異は神であった。

神とは、諸差異のエクリチュールである。差異のイデアである。そう、以前、差異イデアを越えた、原差異のようなものを考えたことがあった。確かに、そのように考えたくなる。つまり、デザインである。しかし、それは正しくないだろう。なぜならば、差異の共立、差異が境界をもってなす共立というイデアは、差異自体から発しているものであるから。差異の即自が、差異の対自となるのである。後者が差異のイデアである。差異即非神。差異即非イデア。

2005年08月21日 (06:25)

人間の悪について:なぜ悪があるのか:近代の終焉と世界ルネサンスへ向けて

人間の悪について:なぜ悪があるのか:近代の終焉と世界ルネサンスへ

これまでの自我論から見ると、自我という悪は、差異共存志向の冷暗化によって生じるということであった。では、何故、近代西欧米において、これが、著しく増加したのだろうか。差異共存の冷暗化、あるいは、メディア界の冷暗化が、強化されたということになるのだが、その原因は何か。
 ここで、観点を変えて考えよう。では、何故、自我悪は、自身を正しいと思うのであろうか。何故、自我悪は、自身を義や善として振る舞うのだろうか。偽善・独善主義である。そのメカニズムは何だろうか。そう、差異共存志向性の冷暗化で述べたことをここで想起すればいい。つまり、誰にでも本来、差異共存志向性という善、本善、原善はあるのである。これは、仏性と言ってもいい。性善説である。しかし、これが、捩れて悪へと転化するのである。すなわち、善が悪と転化するのである。だから、性悪説とも言える。(性善説と性悪説は等価である。)
 とまれ、この冷暗化において、個体は、被害意識をもつのである。生得的喜びを否定された個体は、被害者意識をもち、反感をもつのである。反感とは、自己の存在が否定されたことへの反動であるから、そして、反感は自己の存在を取り戻そうとする衝動を内在させる。この反感・反動的自己存在復権衝動は、復讐でもあるが、独善・独断的衝動であると言えよう。つまり、反感独善衝動を反動性としてもっているのである。そして、これが、連続・同一性化という現象化と結びついているのである。連続・同一性は、必然的に生起する現象化であり、個体を形成するものである。しかし、そこに反感独善衝動・反動暴力が加わると、自我、自我悪魔となるのである。
 さて、以上のように考えて、当初の問題に戻ると、何故、自我悪は自分を正しいと思うのかということであるが、もはや自明的になったが、反感独善衝動が当然、自己を義と錯誤させるのである。反感独善衝動、即ち、自己善錯誤である。つまり、反感独善衝動が、盲目的反理性的衝動であり、個体はいわば、自己善、独善性に憑かれていると言える。
 では、先の問題、なぜ、近代西欧米に、自我悪が増加したのかという疑問を考えると、西欧とは、北の地域であり、自然の諸生産力が乏しいのである。だから、人間の精神も、必然的に、暗くなるのである。また、キリスト教という冷暗化の肯定の宗教が、入っているので、なおさら、西欧の精神は暗いのである。この精神の冷暗化がベースにあると考えなくてはならない。そして、近代であるが、これは、西欧の場合は、宗教改革と見なくてはいけないと考えている。アルプス以南、イタリアにおいてルネサンスが勃興した。そして、この人間・学芸復興運動は、西欧にまで伝わった。このイタリア・ルネサンスとは、差異の発動である。キリスト教に抑止されていた差異が、商業等を介して、点火したのである。そう、個=差異の自由運動がイタリア・ルネサンスである。これが、暗い西欧に達して、西欧は、それへの反動として、宗教改革を起こしたのである。この差異への反動が、近代西欧米を発生させたのである。差異、個、特異性への反動こそ、西欧近代主義であり、ここに自我悪が増加した原因を求められるのである。差異への反動、これが、自我悪の意味である。そして、これが、近代科学主義、植民地主義、帝国主義、社会/共産主義、世界大戦、グローバリゼーションに帰結し、今や、郵政民営化路線と帰結しているのである。そう、反動である近代主義のどん詰まりが、郵政民営化問題なのである。これを乗り越えなくはならない。これは、必然である。今や、自我悪魔たちが跋扈している。これを乗り越えて、イタリア・ルネサンスを継承しないといけない。差異の運動である。これは、当然、世界・地球・国際ルネサンスとなる。そして、グローカル・ルネサンスである。差異の復活である。日本の復活、日本の独立運動、ニッポン・ルネサンスである。

 初めに差異ありき、差異は神とともにありき、差異は神であった。

ポスト新約聖書 『ポスト・ヨハネの福音書』

p.s.  妄想という現象も、反感独善衝動から生まれるのではないか。本人が妄想として思い込んだものに対して、何を言っても無駄である。思うに、妄想とは、実に一般的にあると思う。小泉氏の郵政民営化とは、妄想以外の何ものでもないだろう。自我主義の人は、妄想人である。社会に害悪となる。妄想人に政治を行わせないように、選択しないといけない。

p.p.s. 以上の自我悪論から、ユダヤ・キリスト教を究極的に解体できそうだ。キリスト教批判は、ニーチェの『アンチ・キリスト』が有名であるが、不連続的差異論によるユダヤ・キリスト教批判的解体論は、ニーチェ/D.H.ロレンスのルサンチマン論の系譜にあるが、また、スピノザ哲学の系譜にもあるが、結局、ヤハウェという超越一神とは、反感独善衝動による宗教的表象であるということになるだろう。つまり、イデア界の力の反動でもある反感独善衝動が、連続・同一性という現象化へと志向と結合した自我衝動の表象がヤハウェ、超越一神であるということになろう。だから、ヤハウェ、超越一神、ユダヤ・キリスト教とは、ニーチェがいみじくも洞察したように、ルサンチマンの神、宗教であり、究極的な悪魔の宗教である。邪教である。そう、かつて、私は、超悪魔的宗教と呼んだが。確かに、超悪魔的と呼ばれてしかるべきである。なぜならば、悪魔性の形而上学的結晶化であるからである。旧約聖書は確かにそうと言えるが、新約はほんとうにそうなのか。キリストは愛を説くが、自我悪において愛を説くとはどういうことなのだろうか。独善的な自我に愛を説くとは、その独善的自我が他者に積極的に干渉するということになるだろう。独善的自我における隣人愛とは、独善・自己正当化的に、他者へ干渉し、独善的自我を押し付ける暴力である。これが、キリスト教のミッション・宣教・伝道性に帰結したと言えよう。(また、十字軍という略奪に帰結したと言えよう。そして、現代、「イラク戦争」に帰結し、また、郵政民営化に帰結しているのである。超悪魔の帝国である。)ということで、キリスト教は、旧約宗教の究極的な帰結・完成である。世界平和のためには、絶対的に、ユダヤ/キリスト教を批判・解体しなくてはならなくてはならない。不連続的差異論は、新しい多神教、不連続的差異的多神教を示唆している。もっとも、これは、理知的な宗教であり、叡智そのものである。そう、今や、正しく、逆ハルマゲドンの時である。似非天使=悪魔を退治しないといけない。

3p.s. なお、何度も述べているが、イスラーム教は、ユダヤ/キリスト教とは異質な「一神教」である。それを、一神教と呼ぶのは、最高度にミスリーディングである。それは、存在一義教と呼ばれるべきである。それは、差異の宗教である。イスラーム教の実質は多神教である。多元主義である。アッラーとは、イデア界である。不連続的差異の共立空間である。

4p.s.  D.H.ロレンスの至高の傑作『死んだ男(逃げた雄鳥)』では、死んだイエスが復活して、隣人愛の教えが誤りだったと述べる。そう、ロレンスは、キリスト教を乗り越えた最高度に偉大な作家・思想家である。ロレンスのポスト・キリスト教とは、差異共存的な、新しい宇宙的多神教である。それは、不連続的差異論が示唆する新多神教の先駆である。





小泉政権を敗北させないといけない理由:逆ハルマゲドン

資料です。

郵政改革がほんとうに必要と考えているならば、衆院解散ではなくて、衆院にもどして、再審議・議決をすべきである。これが本筋であり、憲政の法理・条理・正道である。国民投票したいという気持ちは、わかるが、それで、法理を否定するならば、独裁主義である。私も、森田実氏に倣って、今度の選挙で、小泉痔眠倒を絶対に敗北させないといけないと絶叫しよう。小泉日本御陀仏政権を打ち破らないといけない。もし、政権が勝利すれば、思うに、日本経済は没落して、結果、ますます国債を発行し、課税が強化されるだろう。完全にアメリカの奴隷国家となるだろう。このような隷属化を誰が望んでいるのか。これは、近代的自我・合理主義による「狂気」に拠ると言えよう。私説では、近代的自我・合理主義とは、差異共存意識が欠落しているので、没倫理・無責任・利己主義・悪魔主義なのであり、自己中心主義で、他者がどうなろうと一切かまわないのだ。自分の欲望さえ満足できれば、それでいいのである。まさしく、癌的近代主義思想である。これは、パラノイアと言い換えられる。自己絶対だから、聴く耳をもたないのである。狂人の観念である。ジキル/ハイドである。天使の装いをした邪悪な悪魔である。
 現代の世界的潮流は、多元・多極主義である。それに対して、アメリカ一極主義は、古いのである。それは、ハイパー近代主義であり、近代の終末事象である。すると、郵政民営化か否かとは、「ハルマゲドン」である。そう、逆「ハルマゲドン」である。カウンター(抗)・ウォール街/永田町逆「ハルマゲドン」である。郵政民営化賛成の似非天使(逆賊)と、郵政民営化阻止の偽悪魔(国民派)との逆「ハルマゲドン」である。亡国狂信派と護国理性派との逆「ハルマゲドン」である。黙示録的終末論的世界史・人類史的闘争が今闘われていると言えよう。

「疑問1今、なぜ「郵政解散」なのか

「国民投票」で郵政民営化に再挑戦するためです

 小泉純一郎総理(総裁)が就任前から、一貫して必要性を主張してきた郵政民営化法案は国会で民主党などの反対により否決されました。このまま何もしなければ郵政民営化が政治課題にあがることはなくなり、ここまで進めてきた改革は頓挫(とんざ)することになります。
 郵政民営化法案は本当に日本の将来にとって必要ないのでしょうか。
 小泉総理は「国会で郵政民営化は必要ないという結論を出されてしまいましたが、もう一度国民に聞いてみたい」と述べ、「国民投票」で郵政民営化に再挑戦するための解散と位置付けています。
 郵政民営化は是か非かそれは小泉改革をこれからも進めるかどうかの判断を求めるという意味です。そして、そのことは21世紀の日本が進むべき道を国民自らが選択するということに他なりません。
 今回の選挙は歴史的に大きな意味を持っています。わが党は「改革を止めるな。」をキャッチフレーズにこの選挙戦を戦う考えです。そして、郵政民営化をはじめとする小泉改革の推進を求める多くの国民の声を結集していく決意です。」
郵政解散について
http://www.jimin.jp/contents/news/170820a.html





知的デザイン論と創世記

資料です。

intelligent design(知的デザイン、知的計画)仮説による、スミソニアン研究所の雑誌による、紛糾である。興味深いのは、一応、聖書の天地創造説と知的デザイン仮説は対立しているが、両者とも、「神」を原点にする点で共通である。ただ、「神」が、ヤハウェなのか、知的デザインなのかということである。不連続的差異論では、不連続的差異が共立するイデア界が万物、森羅万象の根源であると仮説している。そして、これは、超越論・内在論的差異論であることであり、超越主義、絶対超越のユダヤ/キリスト教的な「神」とは異質である。 
 私は、イデア界の力学、知的法則があり、自然は巨視的には必然性が支配していると考えているが、不思議なのは、スピノザが説くように、必然=自由となるのである。(後で、偶然とは何かを考えたい。)つまり、現象界の連続・同一性とは、メディア界の出来事、事件、生起したことの残像であり、これに執着(政官財メディアの癒着、利己主義等)すること(残像固着・執着)は、偶然であり、メディア界の必然性を逸脱しているのではないだろうか。そう、必然=自由=個=差異である。これが、あらゆる事柄の原点である。


US editor ignites evolution row at Smithsonian over editor institute mithsonian engulfed by row over evolution at centre of row over evolution
By David Usborne in New York
Published: 20 August 2005


Scientists at the prestigious Smithsonian Institution in Washington DC have become embroiled in a controversy over the origins of life, a debate which has also aroused the recent interest of President George Bush.

At the heart of the storm is Richard Sternberg, picked by the Smithsonian to edit one of its scientific journals, the Proceedings of the Biological Society of Washington. Normally, the journal arouses little non-specialist interest. But Dr Sternberg stepped straight into a controversy gripping America by publishing an article supporting the theory of intelligent design, the idea that an outside agent - God - must have at least lent a hand in creating our universe.

He has reignited a row that began when President Bush managed to appall the US scientific community during a meeting with reporters in Texas. Asked whether the notion of intelligent design should be taught in American schools alongside the theory of evolution he answered that, yes, it should. The appearance of the article, by an outside contributor named Stephen Meyer last August, has triggered an academic and political food-fight of astonishing proportions. Mr Sternberg's colleagues believe that the publication of the piece has all but brought a secular scientific institution into disrepute. "We do stand by evolution; we are a scientific organisation," said Linda St Thomas, a spokeswoman for the Smithsonian, which runs 16 of America's most important museums.

But a federal body, run by a hand-picked appointee of President Bush, has now accused the Smithsonian of waging a vindictive smear campaign against one of their own peers.

The allegation has been made by the Office of Special Counsel set up precisely to investigate cases of federal government employees who feel they have been unfairly treated or dismissed.

Most of the smears against Dr Sternberg, 42, came in the form of a flurry of e-mails. Some alleged that he was a closet priest or that he was an agent for radical conservative groups that peddle intelligent design or even creationism, which accepts almost literally the explanations in the Book of Genesis and views fossils not as scientific evidence but the residue from Noah's Flood.

"They were saying I accepted money under the table, that I was a crypto-priest, that I was a sleeper-cell operative for the creationists," Mr Sternberg told The Washington Post newspaper. "I was basically run out of there."

The Office of Special Counsel agrees. In a new but still unpublished report, the office said that "retaliation came in many forms ... misinformation was disseminated through the Smithsonian Institution and to outside sources. The allegations against you were later determined to be false".

James McVay, the principal lawyer and Bush appointee involved in studying the Sternberg case, stated in a letter to Dr Sternberg: "The rumour mill became so infected one of your colleagues had to circulate [your résumé] simply to dispel the rumour that you were not a scientist."

Mr McVay does not have the power to punish the Smithsonian. But he can try to embarrass it and some people believe he may have some political motivation in doing so.

Darwinism may be the basis of understanding for our existence in most of the developed world, but America still argues about it. In fact the debate seems only to get more and more passionate.

A recent Gallup poll showed that 45 per cent of Americans subscribe to the Book of Genesis theory of our origins. Only about one-third are ready to accept the evolutionary propositions of Darwin. Among the e-mails Mr Sternberg received after publishing the Meyer article was this one from an anonymous Smithsonian scientist: "We are evolutionary biologists and I am sorry to see us made into the laughing stock of the world, even if this kind of rubbish sells well in backwoods USA."

Dr Sternberg meanwhile insists that he himself is agnostic about intelligent design but defends his decision to publish the article that discussed it.

"I am not convinced by intelligent design but they have brought a lot of difficult questions to the fore," he said. "Science moves forward only on controversy."

Scientists at the prestigious Smithsonian Institution in Washington DC have become embroiled in a controversy over the origins of life, a debate which has also aroused the recent interest of President George Bush.

At the heart of the storm is Richard Sternberg, picked by the Smithsonian to edit one of its scientific journals, the Proceedings of the Biological Society of Washington. Normally, the journal arouses little non-specialist interest. But Dr Sternberg stepped straight into a controversy gripping America by publishing an article supporting the theory of intelligent design, the idea that an outside agent - God - must have at least lent a hand in creating our universe.

He has reignited a row that began when President Bush managed to appall the US scientific community during a meeting with reporters in Texas. Asked whether the notion of intelligent design should be taught in American schools alongside the theory of evolution he answered that, yes, it should. The appearance of the article, by an outside contributor named Stephen Meyer last August, has triggered an academic and political food-fight of astonishing proportions. Mr Sternberg's colleagues believe that the publication of the piece has all but brought a secular scientific institution into disrepute. "We do stand by evolution; we are a scientific organisation," said Linda St Thomas, a spokeswoman for the Smithsonian, which runs 16 of America's most important museums.

But a federal body, run by a hand-picked appointee of President Bush, has now accused the Smithsonian of waging a vindictive smear campaign against one of their own peers.

The allegation has been made by the Office of Special Counsel set up precisely to investigate cases of federal government employees who feel they have been unfairly treated or dismissed.

Most of the smears against Dr Sternberg, 42, came in the form of a flurry of e-mails. Some alleged that he was a closet priest or that he was an agent for radical conservative groups that peddle intelligent design or even creationism, which accepts almost literally the explanations in the Book of Genesis and views fossils not as scientific evidence but the residue from Noah's Flood.

"They were saying I accepted money under the table, that I was a crypto-priest, that I was a sleeper-cell operative for the creationists," Mr Sternberg told The Washington Post newspaper. "I was basically run out of there."

The Office of Special Counsel agrees. In a new but still unpublished report, the office said that "retaliation came in many forms ... misinformation was disseminated through the Smithsonian Institution and to outside sources. The allegations against you were later determined to be false".

James McVay, the principal lawyer and Bush appointee involved in studying the Sternberg case, stated in a letter to Dr Sternberg: "The rumour mill became so infected one of your colleagues had to circulate [your résumé] simply to dispel the rumour that you were not a scientist."

・・・

the independent
http://news.independent.co.uk/world/americas/article307079.ece





差異共存可能態(デュナミス)と差異共存活動態(エネルゲイア):差異共存の反感・反動化と攻撃・暴力


不連続的差異論の見地から、人間の利己主義、自己中心主義、攻撃・暴力性を見てみよう。
 イデア界において、差異は共立・共存しているが、それは、潜在性、可能性、デュナミスにおいてである。そして、これが、メディア界で、活動態、実現態、エネルゲイアとなる。このメディア界の差異共存活動態、差異共存エネルゲイアとは、内的な太陽と言っていいものだろう。プラトンの善の太陽は、おそらく、これを介して、イデア界の差異共存可能態(デュナミス)を指しているのだろう。
 さて、問題は、幼児・小児期、あるいは、幼少年期に、トラウマとなるような、「暗い」体験をしたとしよう。すると、差異共存活動態は、「暗黒化」するのである。あるいは、「冷凍化」するのである。簡単に、冷暗化と呼ぼう。この体験は、差異共存活動態のもつ、他者との共存的喜び・歓喜性を消失させるのである。また、それだけでなく、他者への反感性をもたらすと思われる。この理由は、差異共存活動態における積極的感情(私は感情とは、感覚に含めていいように感じているが、とりあえずは、感情という言葉を用いる)・喜び/生命の感情を否定されて、反感的感情が生じていると考えられるからである。この幼少期における差異共存活動態の冷暗化=反感化は、スピノザの説く悲しみの感情と共通すると言えよう。そして、ここから、否定的・反動的な感情は、派生・発出すると言えよう。憎しみ、敵意、嘲り、侮蔑、嫌悪、傲慢、悪意等のルサンチマン(怨恨)等々、そして、攻撃・暴力的な行為となる。
 ここで、整理すると、普通、人間は、上記のような冷暗化のトラウマはもたないから、差異共存感情と保持して、他者との共存を維持するのである。しかし、実際は、差異共存感情と反感を併存させていて、なんとかバランスを取っているだろう。そして、差異共存感情ないし差異共存意識が、良識の根源・基盤である。
 さて、問題は、差異共存活動態が冷暗化している場合である。これは、今日、現代、顕著になってきていると思われる。なぜならば、資本主義の進展によって、利己主義的になり、他者への共感性が衰退ないし喪失していると考えられるからである。すると、子供は一番、この犠牲となる。差異共存活動態の冷暗化が、子供たちに直截に生起するのであり、それによって、暴力化ないし自己破壊(自殺)傾向すると言える。そう、社会のホッブズ化と言っていいだろう。
 とまれ、このような冷暗・反感・暴力化に対して、教育が大変重要な意味をもつ。つまり、単に知識を憶えさせるだけではなくて、各自の差異共存活動態を否定・反動態から、肯定・能動態へと変容させる知恵を授け、得心させる必要があると言えよう。私は、この差異共存活動態の肯定・能動化の方法を説く叡知として、スピノザの『エチカ』をあげたい。これは、宗教を越えた素晴らしい方法論的知恵の書である。
 さて、近代教育とは、実は、差異共存活動態を冷暗化させていると思う。近代的自我・合理主義とは、正に、メディア界の冷暗化の利己的知識である。そして、近代的高等教育を受けた者が、エリートとなり、政治家や役人等となる。かれらは、確かに、知性があるが、利己的な、自我中心的な知性であるから、指導者としてはふさわしくないのである。国民のことを真に考えるべき基盤となる差異共存活動態が冷暗化して、いわば、国民を侮蔑や無視しているからである。結局、今日の理不尽な問題は、この近代教育問題に内在的要因が求められるだろう。だから、ポスト近代、脱近代、ポストモダン、メタモダン、エクストラモダン、エクスモダン、脱モダン、トランスモダン、越近代とは、政治・経済の構造改革だけでなく、人間の構造改革でもあるのである。すなわち、連続・同一性の構造から、不連続的差異の共存共生の構造へとパラダイム変換しなくてはならないということである。因みに、郵政民営化の問題も同様である。不健全な財政を生む政官財メディアの癒着という連続・同一性の構造を解体・脱構築して、多数の差異である個、企業が、自律的に共存できる、収支バランスの健全な構造・システムの新構築へと転換することが本質である。





経済とは、メディア界に属しているのではないか

不連続的差異論から見ると、現象界を形成する直接的な根源はメディア界である。だから、産み出す自然の原基とは、メディア界と考えられる。つまり、自然の「生産」・創造の母胎は、メディア界である。

d1〜d2〜・・・〜dn (メディア界)
 
 ↓

d1ーd2ー・・・ーdn (現象界)

経済を考えると、それは、第二の自然である。自然に働きかけて、有用なものを創り出すこと、そして、それを他者と交換すること、これらは、人間社会の「自然」であると言えよう。だから、経済は、メディア界と理解することができるだろう。すなわち、差異の連結行為から、差異の連続化である商品を形成すると言えよう。だから、初めに、差異の連結ありきであり、それから、結果である製品、貨幣、信用等が生まれるということではないだろうか。ここで、差異⇒商品ないし差異⇒貨幣という方向性を確認しよう。
 さて、資本主義の問題は、貨幣経済ということで、貨幣自体に価値を置く傾向にあることである。しかし、貨幣を生むのは、本来、差異である。(ここで、重商主義や重農主義の二項対立に触れると、それらは、交換と生産との対立であるが、それは、不毛な対立であろう。情報という概念を使えば、それは交換において差異があることになり、それ自体で、生産的であるし、農業生産だけが、富のベースではないだろう。)だから、資本主義は、差異の価値を評価する必要があると言えよう。
 しかしながら、連続化された資本主義は、差異を喪失しているのである。即ち、商品のための商品、貨幣のための貨幣を追求しているのである。つまり、本来、メディア界である経済を現象界に限定している誤謬を犯しているのである。富の源泉は、メディア界の差異の連結にあるのであるが、差異の連続化である商品・貨幣・資本が目的となって、本来の経済行為を破壊して、結果、人間社会、自然を破壊することになっているのである。グローバリゼーションが最たるものである。つまり、差異の連続化である富は、差異の新たな連結化、あるいは、差異の連結の反復へと用いなければならないということである。
 これを、郵政問題で見ると、郵貯・簡保の資産を、差異の連結のために活用すべきであるということになる。国債化というのは、それは、差異の連続化であり、現象化の延長である。そうではなくて、新たな差異の連結を生むための、差異の政策が必要であるということである。国民一人一人が差異であるから、このために、差異的投資というものを考えるべきである。「ハゲタカ」に渡すなんてとんでもない話である。それは、差異化ではなくて、連続化の延長である。民主主義的差異経済システムの構築へと展開すべきであろう。
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2005年08月17日 (12:08)

〈不況の原因〉現在の不況は人為的なものである

「資料です。

私の直観では、小泉は、竹中を盲信しているのであり、ここに最大の問題点があると思う。以下、小野寺氏が述べていることは正しいと思う。もっとも、一番の問題は、マスコミが、きちんとした分析をせずに、大政翼賛会になったことだろう。政官財メディアの癒着が、日本をだめにしていると思う。アメリカ真理教に洗脳された、マインドコントロール国家となってしまっている。この呪縛を越えないといけない。
 それにしても、個人的には、竹中が一番ワルだと思っている。慶応大卒で、ハーヴァード大研究員の経歴、完全なエリートお坊ちゃんである。彼には民衆は、存在していない。ただ、洗脳され埋め込まれた、日本売国・亡国計画をあるだけである。また、平気で嘘をつく人格である。これが、恐ろしい。嘘は泥棒の始まりとはよくいったものだ。不誠実な、虚偽的な性格の持ち主。小泉は、能天気なお馬鹿なだけであるが、竹中は、きわめて邪悪であると思う。魂を悪魔に売った人物である。私は、彼の人生に何があったのかと思う。彼の人生を分析したい気がある。最高度のいかがわしさを感じるのである。また、あの表情、風貌も、というか、に、なにかがある。アメリカ金融の外交官である。そう、日本人ではないと思う。彼の空虚さは、彼の存在が日本にいないことから来ているように思う。つまり、傀儡、操り人形である。ウォール街真理教の前線隊長である。まだ、肝心なことを言っていないと感じる。精神病理を感じる。「精神分裂症」である。スーパー・マインドコントロール合衆国経済省日本担当大臣である。

p.s. そう、肝心なこととは、裏社会、裏組織のことである。国際金融「暴力団」が支配しているのだ。国際金融の暗黒集団。おそらく、それに脅されているのだ。恐怖の国際金融悪魔集団に睨まれているのだ。それで、亡魂なのだろう。

p.p.s. 悪魔とは、自我主義者のことである。それは、これまで、考察したように、反感から来ている。反感が発生する心の闇がある。その心の闇とは、一種の弱さ、おそらく、男性のもっている弱さから来ていると思う。メディア界の虚弱さである。他者に耐える強さが欠落している男性の弱さから来ている。フロイトはマザーコンプレクスを見たが、マザーコンプレクスは原因ではなく、結果である。この男性の本性的劣弱さについては、別に検討したい。

「竹中平蔵というガッツ石松金融大臣

<不況の原因>
○ 今現在不況なのは、小泉が、日本の企業を外資に乗っ取らせることを促進す
る法 案整備、
今まで景気回復のために役立ってきた道路公団、郵便貯金を「景気回復させな
い」た めに外資に売却してしまうからである。

○ つまり中小企業や、多くの大企業も含めて、この不況が人為的な不況である
こと
を理解していない。原因追及の番組の特番を作ればよい。
(参考 日本経済生か死かの選択・リチャードクー これを読めばわかりやす
い)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198614296/qid=1111088388/sr=8-3/ref=
sr_8_xs_ap_i3_xgl14/249-9536616-6021159

<竹中平蔵
○ たとえば、竹中平蔵氏がいる。彼は、もともと日本からハーバード大学に留
学し
ていった。米国では世界各国から来るエリートを選び、その人物に、洗脳教育を
施し
ていると聞く。つまり、「国際金融資本に、すべて任せることがよい」という洗
脳で
ある。

○ 竹中の推し進めてきた政策を振り返るとあることに気づく。それは、すべて日本
の企業を倒産させて、米国の企業に買い取らせるという結果になっている政策ばかり
であり、
しかも竹中はこれを「すばらしい」と表現している。

○ここでハーバードまで留学して、結局、「すべて国際金融資本に任せるべきだ」と
いう思想を植えつけられているとする。

<竹中の破壊の歴史>
・・・」

国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」
http://blog.mag2.com/m/log/0000154606/106318761?page=1#106318761

2005年08月15日 (04:55)

初めまして

これから、差異共存資本主義というものを考えたいと思っています。

とりあえず、私のHPを御覧ください。リンクにある
『ソフィオロジー(叡智学)へ向けて』がそうです。
http://ameblo.jp/renshi/
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プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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