2005年09月23日 (21:45)

派閥政治と新自由主義:近代的資本主義から脱モダン的資本主義へ


派閥政治とは何であったか:近代的資本主義から脱モダン的資本主義へ

先の検討では、派閥政治とは、近代国家の封建主義的特権性に基づくと考えたが、それだけでは、とても不十分であるので、さらに検討したい。
 近代的民主主義ないし間接民主主義は、先に述べたように、自由な市場を求める資本主義と自由・平等を求める社会・「民衆」との収斂として形成された。しかし、近代的政治・国家は形式的には民主主義形態を取ったが、政治・国家(官)は、公共投資、公社・公団、地縁的共同体、圧略団体等を含む国家資本主義ないし「社会主義」的資本主義的な政治・行政形態となっていた(いる)のである。これは、政官財の癒着となって現れているのであり、ここが、日本の財政の破局的危機をもたらしたと言えよう。
 さて、では、この国家資本主義ないし「社会主義」的資本主義政治形態とは、理論的にはどういうものか考察しよう。これは、実は、社会・「国民」の民主主義の政治・経済的実現を意味しているだろう。つまり、国民のための公共投資等々である。つまり、民主主義は、いわば、社会主義と資本主義を折衷させたのである。これが、20世紀ないし戦後の近代国家の政治経済状態である。資本主義と社会主義のハイブリッドとしての近代民主主義政治経済と見なくてはならない。これが、派閥政治の本質である。しかし、この中間形態に対して、資本主義側から、異論・反対が生まれる。それが、新自由主義である。これは、反抗であり、革命性を帯びている。自由市場論であり、脱社会主義化である。そして、これが、現代日本にも押し寄せたのである。
 とまれ、以上のように考えると、社会主義的資本主義とは、近代主義の帰結と言えよう。資本主義と社会・「民衆」のそれぞれの志向が民主主義によって妥協的に統合したのであるから。しかし、資本主義、国際金融資本主義は、この近代主義を否定して、さらに、資本主義自体の自由を求めて、新自由主義を形成するのである。これは、明らかに脱モダンである。ここでは、もはや、社会・「民衆」の本来的志向は無視されている。社会主義的志向は完全に否定される。利己主義、弱肉強食が正当化される。これが、小泉新自由主義・ファシズム革命の意味である。
 ここで、これまでの私の考察を加えると、新自由主義は、差異への反動である宗教改革・プロテスタンティズムの延長・帰結である。日本では、おそらく、明治維新の尊王一神教的「革命」の延長・帰結である。そう、戦前であり、明治に日本は回帰したのである。問題は、ここで、反動により否定されたものが、必然的に力をもつことである。これは、反動の問題である。反動となるのは、元にある根源的な力があるからである。この根源的な力に対して、反動が生じるのである。だから、新自由主義とは、この根源的な力を逆喚起するのである。これが、差異の力である。おそらく、新自由主義は、差異理論に喚起されているはずである。そう、差異哲学、ポストモダン理論、ポスト構造主義理論の影響を新自由主義は受けていると思う。つまり、こういうことではないだろうか。20世紀後半、1970年代〜1980年代、ポストモダンの隆盛期であり、1990年代からは、新自由主義の隆盛期である。この順序に注意すべきである。ポストモダンは、近代主義への批判であり、その解体であり、連続・同一性を批判し、差異へと解体したのである。これは、差異の力への還元を意味する。そして、この還元された差異の力が、賦活して、原動力となったと考えられるのである。つまり、差異ルネサンス(イタリア・ルネサンス)が復活したのである。そして、これに対応するように反動としての新たな宗教改革・プロテスタンティズムが復活したのであり、それが、正に、新自由主義なのである。現代は、近世の復活・回帰現象である。14世紀〜17世紀の回帰(日本で言えば、安土桃山時代と明治維新の回帰)である。(思えば、私がシェイクスピア悲劇を引用したのは、衒学ではなくて、本質的意味があると言えよう。そう、また、ここで、忘却された花田清輝が復活するだろう。)
 結局、現代は、ルネサンス/プロテスタンティズムの回帰である。しかし、それは、単に同じものの回帰ではなく、らせん的回帰のはずである。それは何か。アメリカ一極主義ないし欧米中心主義の崩壊である。多極主義・多元主義がはっきりと出現し出したことである。これは、国際・世界金融資本主義という一義性における多極化・多元化である。これは、いわば、経済のスピノザ主義であり、「帝国」の実現である。そう、経済のスピノザ/ニーチェ主義と言えるだろう。
 さて、もう少し詳しく見ていこう。ポストモダン理論であるが、それは、結局、近代主義を解体・破壊したのは事実である。もはや、連続・同一性を信じられないのである。結局、個・単独性・特異性へと還元されたのである(デカルト哲学への還元)。つまり、多元主義の勝利がここにある。ドゥルーズ&ガタリの理論は無ではなかったのである。この基盤にある多元論こそが、現代のルネサンス/プロテスタンティズムをらせん的回帰にしているものである。かつては、一元論、一神教が基盤にあったが、現代は、ポスト一元論、ポスト一神教である。ここが決定的に異なるのである。これは、何を意味するかと言えば、新自由主義は、早晩、解体して多元主義へと進展することである。ポスト新自由主義であり、差異共存共創主義・差異メディア・エネルギー資本的政治経済へとパラダイム変換することである。

2005年09月23日 (02:10)

差異ルネサンスへ向けて:新自由主義を哲学する:小泉新自由主義ファッショ革命とは何か

差異ルネサンスへ向けて:新自由主義を哲学する:小泉新自由主義ファッショ革命とは何か

問題点は、近代主義であり、資本主義である。
 まず、近代主義について、簡単に整理しよう。私は、初め、差異への反動性をもつ自我主義と考えた。しかし、これだと、新自由主義と区別がつかなくなる。
 ここで、発想を変えよう。政治/経済/社会という三層性から生活界は成り立つ。政治は法権力的である。そして、経済は、生産/消費の仕組みである。そして、社会は、ある種の倫理性をもつ集合的組織である。
 さて、近代は、封建的政治から、国家主義的政治へと移行したものである。しかし、実は、封建制を中央集権化したものと言えよう。つまり、封建制の一極的極限として近代国家がある。ヒエラルキー的である。そして、経済的には、封建的構造から、脱封建的な、個体的自由な活動、利益追求的経済活動が台頭する。そして、社会的にも、個体的な自由を求める動きが出てくる。問題は、資本主義の勃興において、個体的活動は、プロテスタンティズムの影響を受けて、利己主義的となる。イタリア・ルネサンスにおいては、経済活動は、差異的であり、差異共存性をもっていた。しかし、宗教改革によって、経済活動は、利己主義・自我主義となる。私が、差異への反動と言ったものである。問題は、政治・国家の次元である。これは、上述したように、封建性のヒエラルキーを残しているのだ。この封建的国家構造と資本主義的運動が衝突するのである。啓蒙思想/フランス革命はこれを意味しているだろう。もっとも、ここでは、社会的次元も考えなくてはならない。ここでは、ユートピア的社会主義・共産主義的志向が現れるのである。簡単に言えば、資本経済における利己主義的な自由と、社会的な自由への衝動がある。これが、民主主義に収斂する。これが、近代主義の完成である。ここでは、国家の制限・規制に対する経済や社会からの反撥がある。経済においては、自由な市場を求める衝動となる。これが、新自由主義に帰結するだろう。そして、この資本主義運動は、社会的次元を巻き込んで、政治・国家レベルを動かすのである。この帰結が、今回の小泉新自由主義・ファシズム政権の誕生である。新自由主義は、政治・国家レベルをミニマム化して、資本経済にとり、自由な条件を確保しようとする。そして、社会における国民層を巻き込むのである。
 さて、このように考えた時、小泉新政権が果たした、派閥政治の解体とは理論的にどういうことなのだろうか。それは、もう言うまでもなく、「封建」的政治・国家レベルでの特権的利権の解体である。これは、国家資本主義、「社会主義」的資本主義の解体であり、これは、ある意味で、ポスト近代的出来事である。 
 結局、一番の問題は、宗教改革、差異への反動である。これが、新自由主義を起源である。私は、ポスト新自由主義を唱えているが、これは、プロテスタンティズムの解体を意味する。つまり、差異の積極的肯定を意味する。これによって、新自由主義は、脱構築されるのである。差異の解放である。これによって、世界は絶対的に革命化される。ある一つの人類史の終焉となるだろう。だから、今や、差異ルネサンスを提唱する必要がある。





光:優しさの社会経済へ:差異の社会資本経済へ

私はポスト新自由主義として、差異共存共創主義を唱えているが、それは、以下の記事のようなものを志向しているだろう。そう、一言で言えば、優しさの社会経済である。新自由主義は、正反対である。もっとも、優しさと強さは一如である。新自由主義は、強さというよりは、暴虐性である。攻撃性、獰猛性である。交感神経の過剰作用である。思うに、軍事とは、父権的な、自我主義的な、反動性、攻撃性に基づいている。脱自我的な、脱父権的な、政治経済のあり方があるはずである。ポスト近代主義とは、差異理論とは、差異共存共創主義である。フッサールの現象学もそれを説いていると考えられる。差異主義的政治経済社会。競争は共創となるべきである。
 とまれ、私は、だんだん、この国に住みたくなくなってきた。傲慢や暴力が蔓延っている。思えば、D.H.ロレンスは、いったん、ファシズム的な指導者を志向した時期があったが、晩年、それを破棄して、優しさを説くようになった。『チャタレイ夫人の恋人』に、初めは、『優しさ』(Tenderness)というタイトルをつけようとしていたのである。優しさのない新自由主義を、私は批判する。

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今日は某大企業の人が来る

精神障害者の法定雇用に向け

情報収集をしている人だ

あんまりここに書ける具体的な話は今の所ない

今日話した事と常日頃考えてる事を交えて書く


精神障害も法定雇用の中に含まれ

大企業は、精神障害者を雇用する社会的責任が生じた

現段階での企業側のひとつの見解は今抱える精神病の社員に手帳を取らせて

法定雇用率を満たそうという考えが主流だ

うつ病の蔓延は何処の企業も抱える問題

企業の本音は、精神病の人には退職してもらいたいと陰では聞く

中小企業と違い大企業は福利厚生が良いし組合もしっかりしてるので

長期療養の後、復職する人が多い

だから大きな企業ほど精神病の人が多い

公務員もそうだ

笑い話じゃないが道庁など何処に健康な人が居るんだと

健康な人を探す方が難しいなどという道会議員もいる

まあ、市役所もにたようなものだ


不思議なのは制度があって金があっても機能しない

産業カウンセラーや社内メンタルヘルス事業

企業側が窓口を置き医者やカウンセラーまで置いて

誰も利用しない

そんな現象も結構耳にする

差別や偏見が根深いからだと思う

行政サイドでは福祉工場を幾つか作り企業とタイアップして障害者雇用を促進してきた

勿論、福祉法人が主役だし身体と知的がほとんどだ

これも立ち上げるには、どえらい苦労が居る

本の一冊も書ける内容だ

土地の確保や億単位の資金繰りから認可まで

作業所立ち上げの何倍かの労力を要する

しかし福祉工場そのものも仕事が無いという不思議な現象がある

障害者に仕事をやって貰うより

中国に外注したほうが安価で確実だという現実がある

企業側が苦労して仕事を回すそんな事例もある

そんな障害者福祉の中でも精神障害福祉だけは悲しいくらい遅れてる

主因は行政の怠慢だけでもない

遅れてる原因は医療の側や親の囲い込みの問題でもあるだろうし

事業を立ち上げる主役になる当事者がほとんど居ないというのもある

身体障害では当事者が運営する所が主流だ

知的障害では育成会など親の会が様々な運動を起こしてきた

もうひとつが企業の利益追求や効率性から離れた所で何か出来ないか?

今ある福祉という枠組みや企業という枠組みを超えた何か?

これは、僕もいつも考えているので知ってる限りの事を話す

何か新しいものを創造しようというひとつの流れ

融合なんだけど。。。。

浦河ベテルや和歌山のやおき福祉会

数少ない中で奮闘中の所もある

医療と福祉と地域の融合だ

そして官と民の融合

これが理想だと思う

アメリカのNPO企業のの成功例を見ると本当に凄いと思う

道路やビルの設計から施行までNPO企業がやるのだ

勿論、談合も入札もない

民間が受注する額の半額以下で工事してしまうのだ


精神障害者の就労を企業で考えているというだけで少し明るくなれた

企業も社会貢献する時代に少しずつなっていくべきだ

広告にばかり金をかけないで社会還元するべきだと思う

金の出所が行政だけじゃなく・・・・行政がまず出すべきだが

あちこちから色々なものが出来てきたら面白いなあと思う

もっともっと当事者の人材が出てきたら面白いと思う

どう考えても社会資源が少なすぎるのだ

金儲けばかりのこの国で社会を良くしたいとか

障害者の為に何か始めたいとか

そんな人が企業の内部にも居るんだという事が僕には嬉しかった

経団連も厚生労働省もこの企業の方針に賛成だという


ひきこもりやニート

うつ病その他の精神病

これらが蔓延して

医療機関も福祉施設も手詰まりの観がある

そんな中で企業側が当事者を主体にした事業を起こそうとしている

利益や効率だけじゃない事業所

人間関係を大切にする職場

そんなのが増えて欲しいと思う

ネックは人材だ

いつもこれを思う

人が育たない

余裕のない福祉や医療

当事者に対する過保護

これらの問題を少しずつ考えていくと

人が育てる場

育てられる人

そんなものが沢山必要だと思う

ようやく社会全体がメンタルヘルスに本腰を入れようとしている

そんなことを感じた

暗い話ばかりの世の中で

何だか明るい気分になれた

久しぶりにこの国に光を感じた
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■光とは何か

nohohonkoubouさん
この記事の意味するものは何であろうかと思います。私は、ポスト新自由主義として、差異共存共創主義を説いていますが、いまだ、抽象的な段階です。しかし、ここにあるのは、具体的なもの、血肉のあるものですね。少し時間をかけて、熟考したいと思います。
sophio (2005-09-22 06:43:47)

そういちの平庵
http://ameblo.jp/nohohonkoubou/entry-10004448520.html





異邦人と喪魂:脱近代主義と叡智学

昨日、昼の新宿をやや久しぶりに歩いたが、なにか異国を歩いているような感じがした。なぜ、そう感じたのか。ただ、人の歩く姿を見て、漠然とそう感じたのだ。つまり、私の関心は、人が誇示する外見にはまったくなくなっているということだろう。魂の無い街。死せる魂というよりは、喪失した魂の都会だ。喪魂。これは、近代主義の帰結である。本当は、知とは、身体であり、身体とは知である。というか、本来、知と身体との二重性があるのである。これは、差異である。「吾思う」という知と「吾在り」という身体があると思う。「故に」(エルゴ)とは、差異、不連続的差異と見るべきなのだ。コギト・エルゴ=不連続的差異・スムである。一種、多重人格としての個である。ただし、コギトもスムも、一義的である。つまり、特異性である。特異性において、多重・多元なのである。 
 問題は、観念である。イデアは、メディアであるが、メディアは、本来、差異的である。しかし、今日、現象(界)が支配的である。連続・同一性が反動的に支配しているのだ。(これが、新自由主義・ファシズムでもある。)そして、マスコミは、本来のメディアではなくなり、現象界のメディアとなっている。これは、メディアとしての自殺行為である。差異として、メディアがあるのであり、メディアが現象界化したら、それは、単なる現象に過ぎない。メディアの死である。観念が今日、現象になっているのである。プラトン哲学は、観念と現象との差異に基づいているのだ。私としては、哲学者、思想家の犯罪的な怠慢を許せない。哲学・思想を、国民・庶民化しなかったのである。自己満足の曲芸的言語で、哲学・思想を、生活に無縁なものとしてしまった。ポスト哲学・思想。叡智学へ。





改憲問題と新自由主義:差異共存共創主義へ

民主党代表の前原は、改憲論者である。私は、軍隊をもってもいいと思ったが、改憲論者は、ただアメリカの計略に乗っているだけであるから、改憲論には、与するわけにはいかない。また、ブログ「世に倦む日々」で鋭敏に述べられているように、民主党は、日和見ってしまい、党は、世間から見透かされて、さらに、支持を失うだろう。とまれ、こういう状況だから、改憲論には、反対の立場を取らないといけない。日本の進路は、独自に選択しないといけない。もっとも、現在の状況は、アメリカは、軍備において、日本に肩代わりさせたいと考えているのだろう。(p.s. 対中国、対東アジアのアメリカの戦略にますます日本は組み込まれて、資金だけではなくて、軍隊も提供するようになるだろう。日本は、中国や東アジアと、アメリカの狭間で、どうするのだろうか。靖国参拝が強化されるだろう。ここに問題点がある。反動的な力の意志としての、新自由主義・ファシズムである。しかし、戦前と異なるのは、明らかに、国際金融資本が背後にあることである。本来、国際主義と靖国参拝は矛盾することである。しかし、アメリカが、日本のナショナリズムを利用しているのだ。この点を後で、検討しよう。)
 現在は、小泉新自由主義・ファッショ政権によって、なにか、閉塞状況が深まった感じがする。凶暴な牙が、むき出しになるのが目に見えている。この必然性が閉塞感、絶望感を生む。古い派閥政治が終焉したが、うれしさがまったくない。結局、今は、「一派閥」が、他の派閥を破壊して、独占してしまった専制・独裁形態となっている。新自由主義のもつ市場経済性と社会的共存性をどう連関させる政治理念を形成することが必要である。私は、差異共存共創主義と言っているのが、新自由主義では、これがまったく否定される。「力の意志」の政治経済であるから。「力」を差異、それも不連続的差異に脱構築しないといけないのである。今は、「力」が連続・同一性の全体になっているのである。フッサールにしろ、D.H.ロレンスににしろ、当時ファシズムを目の当たりにして、個・特異性・不連続的差異の思想を説き、表現したと言える。問題は、現代哲学の継承にあるだろう。ニーチェ哲学は二面性をもっている。不連続的差異の思想と、力・権力の意志の思想である。後者は本来、前者とリンクするものであるが、ニーチェは、混乱して、反動化した側面を帯びてしまっている。
 問題は、反動化への対処である。その乗り越えである。「ポスト構造主義」は、これを意味していたはずである。構造のもつ規定を外して、差異の力を発現させるはずである。しかし、差異はなくなり、連続・同一性の構造のみが、今、支配している。後で、小泉新自由主義・ファシズム政権の成立をもう一度哲学的に解明して、何が問題かを明確にしたい。

p.s. 軍事力をもっていいと私は述べたが、寺田学氏の明晰なブログを見て、考え直さないといけないと思った。自衛権と軍事権とは異なるのである。ここを明確にしないといけない。この問題は私の盲点である。自衛力と武力。ここを哲学しないといけない。平和憲法は、特異な憲法である。それは、武力ではなくて、自衛力をもった平和主義の憲法であろう。問題は、世界が、武力肯定であるという現実の文脈において、自衛力的平和主義をどう位置づけるかであろう。後で、検討したい。





アレゴリーとシンボル:構造主義の二つの表象・表現方法

今日は必要で、文学表現であるアレゴリーとシンボル(象徴)について、愚考してみた。この分野では大古典のC.S.ルイスの『愛とアレゴリー:ヨーロッパ中世文学伝統』(玉泉八州男訳 筑摩書房)の第二章アレゴリーと解説を読んだ。はっきり言って、難しい問題である。若い頃、アレゴリーに対して反発を感じて、シンボルの肯定派であった。何故、反発したかと言えば、抽象観念の道徳性が予め規定されていて、読書・読者の自由がないことに反発を感じたのである。とまれ、今日も、解説を読んだが、よくわからなかったので、自分なりに整合的な解明を試みた。その結果、これは、「構造主義」に対する二つの表現の仕方だと思った。不連続的差異論から言えば、メディア界の「実在」に対する二つの表現方法である。即ち、アレゴリーとは、「構造」を知的に、観念的に、直接的に指摘する表現方法であり、シンボル(象徴)とは、「構造」を感情的に、間接的に、示唆・暗示する表現方法であると考えたのである。たとえば、中秋の名月であるが、これは、暦という「構造」においては、アレゴリーであるが、純粋に月と見た場合は、シンボルであろう。あるいは、百合であるが、これは、キリスト教的には純潔を意味するのであり、それは、キリスト教的「構造」におけるアレゴリーであるが、純粋に花としては、シンボルである。(私の直観では、百合は、楚々として、凛とした、単独的な花という印象をもつ。これは、シンボルとしての百合である。)
 以上、大雑把ではあるが、本件に関する実に明快明確な分類説明解明になると思う。

p.s.  中秋の名月の例は、中秋の名月という暦上の観念を表現する月ということになるだろう。しかし、明快ではないので、別の例を考えよう。たとえば、巨大な杉の木を考えよう。直観では、いかにも、内在的力を感じさせる。だから、シンボルとしては、力である。力を象徴する。しかし、神社にとっては、御神木である。つまり、神道の「構造」では、神を表現するアレゴリーである。これは、山でもそうだろう。奈良の三輪山は、ご神体であるから、神のアレゴリーである。しかし、三輪山を直観すると、これは、いかにもシンボルで、いろいろな連想が湧いてくる。暗示・示唆的である。そう、フッサール現象学と使用すると明快になるのではないか。シンボルは、暗示的な志向性であり、アレゴリーは、直截な志向性である。 
 とまれ、アレゴリーとシンボルは明確に区別されるが、実際は、両者混淆していることが多いと言えよう。





近代国家・国民国家の原動力としての「力の意志」:「力の意志」は、国民国家を超える

明治維新は、私見では、衰退した多神教(神仏混淆)に換わる一神教(天皇教・尊王思想)/自我主義によるものであり、これが、国民国家を形成した。これは、文学的にはロマンティシズムである。しかし、これは、当然、反動化する。そして、諸戦争を起こして、敗北する。戦後、この反動化した権力がもどり、アメリカと連携する。現代、アメリカにおける新自由主義と連動する形で、小泉新自由主義・ファシズム政府が誕生する。
 原動力は、やはり、一神教/自我主義=力の意志であると思う。これを不連続的差異論から見たら、メディア界の力・強度が反動的に自我権力へと作動していると言えるだろう。
 さて、新自由主義とは、近代主義の最終点であり、ポスト近代主義を内包しているが、問題は、これは、「ファシズム」であり、人間の個が犠牲にされるシステムであることである。そう、反動のシステムであるから、優れたものは、生まれにくいのである。これが問題である。画一性・凡庸さが支配する。ビッグブラザー体制である。画一的自我、連続・同一性の自我から、差異を肯定して、ポスト新自由主義へと展開するには、たいへんな時間がかかるだろう。少なくとも数十年はかかるだろう。もっとも、アメリカが、ポスト新自由主義になりそうなので、その影響を日本も受けることだろう。そう、アメリカに差異革命が起こるかどうかである。差異がキリスト教に吸収されないで、発現できるかどうか。アメリカ文化には、内在的には、神秘的伝統があって、それが、差異へと転化すれば、差異革命は起きるだろう。神秘主義とは、実は、差異の不十分な、不正確な知覚である。





検討課題:プロテスタンティズムとは何か:新自由主義を超えて

マックス・ウェーバーの論は有名であるが、これにニーチェ哲学を加味して、考えると現代的な理論となるだろう。私は、宗教改革とは、ルネサンスへの反動であると言った。とまれ、この資本主義的帰結が新自由主義である。つまり、差異の反動の帰結である。差異は狂気となる。そう、ディオニュソスや力・権力の意志となる。(ブッシュや小泉がそうである。)ここで、古代ギリシア悲劇、エウリピデスの『バッカスの信女』を想起するのもいいだろう。結局、新自由主義は一種神憑りである。これは、不連続的差異論の視点では、メディア界が動力となっているのである。そして、これが、連続・同一性である金融資本によって規制されているのである。これを、差異的に解放実現する必要があるのである。なぜならば、それこそ、メディア界の本来の力であるからである。つまり、新自由主義は、不十分な実現である。新自由主義の脱構築が必要である。それが、差異共存共創経済、差異メディア・エネルギー的資本政治経済である。





ポスト新自由主義とは何か:シェイクスピアの予言的『リア王』:第三の方法としての差異共立路線

後で、本件を検討したい。
問題の一つは、国家、近代国家とは何であるかである。
ホッブズのリバイアサン問題。
近代国家は、絶対主義の延長にあるだろう。
これは、一種封建制を維持しているだろう。
国家=お上・王権である。
だから、国家・「公共」的利権で政官財が癒着する。
そして、新自由主義は、これを解体するものである。
しかし、カトリーナで、この脆弱性が露見した。
結局、ポスト新自由主義であろう。
これは何を意味するのか。
これは、これまで、私が繰り返したように、
差異メディア・エネルギー資本政治経済、
差異メディア主義であろう。

p.s. そうすると、「近代」とは、実は、中世的枠組みをもっているということになる。

「近代」とは、少なくとも、以下の8個の要素から成るだろう。

1)「近代」科学/技術
2)差異主義としてのルネサンス
3)差異への反動としての宗教改革・プロテスタンティズム
4)国家や領地・領土という中世・封建的枠組み
5)資本主義
6)民主主義
7)デカルト哲学(これは、1〜3と関係する)
8)自我中心主義(3と7に関係する)

p.p.s.  今回の「郵政民営化・改革」選挙やハリケーン・カトリーナによるニューオーリンズの惨害を見ると、シェイクスピアの予言的な『リア王』を想起する。リア王の長女たち、グロスターの私生児エドマンドは、自我中心主義で、「新自由主義」であり、リア王やグロスターは、「派閥政治」や「社会主義」である。そして、後者は、無惨に前者に破壊されるが、前者も、自身の破壊本能によって自滅する。そして、第三の方法として、コーディリアのあり方がある。これが、私の言う差異共存共創主義/差異メディア・エネルギー資本政治経済に当たるだろう。

3p.s. 日本の明治維新、天皇制一神教体制とは、宗教改革・プロテスタンティズムに当たるだろう。

4p.s.  イギリスの作家D.H.ロレンスも、第三の方法を探究していたと言える。『王冠』で、「父」は新自由主義、「子」は派閥政治・社会主義、「聖霊」が第三の方法である。これは、正に、差異の方法である。そう、ある意味で、キリスト教とは、二元論的に分裂しているのだ。キリスト教は、新自由主義も生んだし、派閥政治・社会主義も生んだのである。ロレンスは、『死んだ男』で、ポスト・キリスト教を表現しているが、「死んだ男」のあり方が、第三の方法、差異の方法である。それは、正に、差異共存共創主義であり、差異メディア・エネルギー的資本政治経済であろう。

2005年09月18日 (02:05)

ルネサンスと宗教改革と近代主義:差異の行方と差異メディア・エネルギー的資本政治経済へ向けて

先に、差異の開花としてのルネサンス、それへの反動としての宗教改革を提示して、近代主義は、ポスト近代主義を内包していると述べたが、少し訂正したい。宗教改革を近代主義と捉えるのは、少し単純である。近代主義は、思うに、主に、ガリレオ他に発する近代科学とデカルト哲学の一面(合理主義)に見るべきである。(もっとも、デカルト哲学は、ポスト近代主義の発端でもあるのだが。つまり、デカルト哲学は、差異主義としてのルネサンスを継承しているということである。)そして、宗教改革は、主にルネサンスに対する反動と見るべきであろう。つまり、差異主義への反動であり、差異を逆に示唆しているのである。つまり、ルネサンスと宗教改革は、差異を基盤にした能動と反動の関係にあるということになるだろう。 

 そして、資本主義は、宗教改革と近代主義を伴って発達するのであるが、ここで、近代的自我主義とは何かをもう一度考えてみよう。それは、近代科学における観察主体であり、また、差異への反動である個体意識である。問題は、宗教改革、つまり、プロテスタンティズムにおける個体意識である。これは、超越神を意識した「自我」である。そう、この超越神を意識した自我こそが、差異への反動である自我と言えるのではないだろうか。そして、デカルトのコギト(吾思う)とは、差異をもつ個吾であり、それとは区別されるだろう。

 以上のように区別して見ると、資本主義とは、差異を排出する近代主義(近代科学)と差異への反動である宗教改革の両面をもっていると言えるだろう。そして、後者の面において、差異への反動的志向という一種捩れたポスト近代主義性をもっていると言えるだろう。つまり、資本主義とは、単純な近代主義ではなくて、差異、ポスト近代主義と関係するシステムであるということである。新自由主義とは、実は、この反動的な差異主義、ポスト近代主義的側面によると考えられるのである。これは、また、ファシズム形態を取るのだろう。

 結局、現代日本において小泉新自由主義・ファシズム政権が誕生したが(ファシズムではないと考える人もいるが、しかし、誕生のあり方を考えると、ファシズムと見ていいだろう)、これは、反動ではあるが、広義のポスト近代主義、差異主義である。内在されている差異を、これから、能動・創造的に開花・実現する必要があるのである。つまり、これは、差異主義、ポスト近代主義への転換期を意味するだろう。そう、ニーチェ哲学(力の意志)的段階に達したのである。これからは、不連続的差異が解放されなくてはならない。差異共存共創的な差異メディア・エネルギー的資本政治経済へと進展すべき時なのである。

p.s. 近代的自我とは、近代科学的主体と差異への反動である個体意識であると上述したが、これは、表現としてのは不整合である、論理的ではない。近代的自我とは、単純ではなくて、近代/ポスト近代的個体と正確には言うべきである。これは、結局、デカルトのコギト(吾思う)に起源・基盤がある。コギトの個体が、近代/ポスト近代的個体である。だから、単純な近代的自我とはないだろう。私は自我と近代的自我とを混同している傾向があるので、明瞭にしないといけない。私の言う自我とは、近代的個体意識のことであるが、これは、実は、形容が不正確である。というか、近代自体の問題が生じているのである。近代とは、主に近代科学に限定すべきであろう。ルネサンスは、近代ではなくて、差異主義である。また、宗教改革は、その反動である。

 結局、近代とは何かということになるが、正しくは、差異主義を原点にして近代自体を捉え直すべきだろう。差異に対して、正道としてのルネサンス、反動としての宗教改革、そして、差異の排出としての近代科学があるのである。近代とは、差異へのある反応を意味するのである。そう、近代とは、差異の排出・隠蔽と見るべきであろう。そして、差異への能動主義であるルネサンス、差異への反動主義である宗教改革があるのである。近代とは、だから、差異への一対応に過ぎないのである。ポスト近代主義とは、実は、発現・発動したポスト中世の震源である差異へのさらなる進展を意味するだろう。近代の終焉である。ポスト中世、ポスト近代としての差異主義が活断層として大震動しているのが、現代であると言えよう。




差異と反動:ルネサンスと宗教改革:近代とは何か:差異エネルギー資本政治経済へ

今は問題提起に留めたい。

ルネサンスで、差異が開花した。それへの反動として、宗教改革が起こった。この反動の意味を考えないといけない。つまり、近代とは、差異への反動であるのであり、内在的には、差異を示唆しているとは言えるだろう。つまり、近代主義とは、内包的には、ポスト近代主義なのである。新自由主義、ファシズムは、隠れポスト近代主義だと思う。この反動形態を判断停止して、能動形態へと変換すること、これが、真のポスト近代主義である。現代は哲学的時代である。

p.s.  政治・経済的に、差異を能動的に展開するとはどういうことなのだろうか。差異の反動形態である新自由主義やファシズムは、破壊的である。差異が反動エネルギーになっているのであり、それを能動的エネルギーへと転化することが、差異の能動的展開である。破壊エネルギーを能動的創造的エネルギーへと転換すること。これを政治・経済的に発現するということは、差異と差異との新たな連結を意味するのではないだろうか。差異の新しい集結である。これは、資本が差異化することではないだろうか。近代においては、資本は、連続・同一性である貨幣の獲得のために利用されていた。しかし、資本の差異化によって、差異の能動エネルギーが発動して、差異の新しい連結が生まれるだろう。資本差異政治経済である。差異としての資本の展開である。これは、差異エネルギーとしての資本経済である。差異連結エネルギー資本経済である。差異の共存性と差異の創造性とを連結させる資本経済であろう。私が差異共存共創政治経済というものはこのようなものであろう。とまれ、差異エネルギー資本経済であり、政治は、この経済を実現する差異的立法機関となるだろう。

p.s. 差異メディア・エネルギー資本政治経済とも言える。正確に言えば、差異メディア界エネルゲイア資本政治経済である。

p.p.s.  差異メディア・エネルギー資本主義によって起業すれば、現代において、発展する核となるだろう。差異メディア・エネルギー資本会社を創業するのである。メディア・エネルギーをメディアルギーとしようか。メディア・エネルゲイアから、メディアルゲイアとしようか。difference media-energy capital economy. difference media-energy capital political economy.

2005年09月12日 (04:51)

自我/近代主義/ファシズムと叡智の喪失:日本における一神教とメディア界の復活

自我/近代主義/ファシズムと叡智の喪失:日本における一神教とメディア界の復活


先の考察を続けよう。メディア界が現象化して、「現実」があるのである。近代においては、反動性である自我と「現実」(資本主義経済)とが「連続」しているのである。 そう、反感による独善衝動である自我は、本質的に倒錯的である。自己の暴力性に気がつかず、自己善を信じているのである。
 先に、精神分析の説を借りて、死の欲動、死の本能が自我にはあることを述べたが、不連続的差異論の観点から説明する必要がある。簡単に言えば、反感による攻撃衝動である。憎しみによる攻撃衝動である。これは、差異共存志向性がいわば死んでいるのであり、否定相となっているのである。そして、この否定相となった志向性が死の欲動に当たるのではないだろうか。心の闇である。このような反動、倒錯、攻撃的自我は、差異共感性、差異共存志向性を喪失しているので、つまり、理性を失っているので、邪悪である。そして、この暴力的感情・情動をもった自我に対して、権力的情動を注ぐ者が、リーダー、支配者に選ばれる。
 つまり、ファシズムでは、自我による反動・暴力・権力的情動が社会を支配するのである。つまり、自我に対する解毒剤のような智慧、文化、叡智がないところでは、自我主義が蔓延して、ファシズムに対する免疫がなく、感染するのである。つまり、自我主義が跋扈した社会に、ファシズムはその温床を見出すのである。自我を解体する、あるいは、自我を相対化する叡智がなくなれば、自我/近代主義における資本主義はファシズム化すると言えよう。
 日本において、今、「改革」ファシズムが実現した。では、何故、日本において、自我に対抗する叡智が、喪失したのであろうか。これは、政治/経済/文化/社会/歴史的問題である。これは、実に大きな問題であるが、ここでは、不連続的差異論の見地から言うと、何故、日本人は、肯定・積極的なメディア界を喪失したのかと換言できる。これは、折口信夫の新神道論とも関係する。折口は、日本人は、宗教的情熱を永く失っていると考えた。そして、敗戦は、新しい神道を生み出す好機と見たのである。しかし、日本人は、折口の意向をまったく無視した。宗教とは、実は、メディア界の問題である。そして、差異・個の問題であり、漱石が問題にしたものでもある。
 思うに、近代日本と戦後日本の問題である。そして、民衆、人民の問題であり、また、言語の問題である。問題はきわめて複雑なので、ここで、直観で言おう。父権的自我が、母権的差異を、日本では、侮蔑している文化・社会状況があると私は考える。この点が、欧州と異なるのだ。欧州文化は、母権的差異が基盤にある。そう、日本にはマッチョであることを美意識とする父権制が今でも残っている。母権的差異性、差異共存志向性を女々しいものとする父権的価値観があると思う。男尊女卑である。これが、日本問題の元凶だと思う。それは、以前、政府が、イラクに行ったNGOのメンバーに自己責任を取れと言ったことと通じる。そう、マッチョであり、暴力性を価値観とする父権制が日本には色濃くあるのだ。だから、刺客も生じるのである。(首相と暴力団との関係も取りだたされている。)これは、ある意味で、武士、武家の文化である。というか、一種野蛮性の文化である。これが、日本文化・社会にあるのである。アングロ・サクソンも野蛮性があるが、計算づくのものである。
 そう、粗野であること、荒々しくあることが、美徳のように、日本では今でも捉えられている。威勢のよさが評価される。これは、ヤクザ文化とも言えるだろう。そう、これが、日本社会に巣くっているだろう。西欧には、中世において、宮廷愛文化があった。女性が主となり、求愛するのである。これは、母権文化である。日本の場合、母権文化が、おそろしく破壊されてきたと思う。とにかく、日本にある凶暴・狂暴・野蛮な「文化」。この根因は何なのだろう。これが、日本の真の開化を阻害しているのだ。とにかく、日本的父権制、これが元凶である。どうも精神の基盤の喪失があると思う。私は、いつも、廃仏毀釈、神仏分離政策が、日本人の精神性を破壊したと感じるのである。私見では、神仏習合は、日本の地域と一体となっていた。いわば、土着化されていた。これが、日本の大地や都市を「精神」化していたと言える。つまり、神仏によるメディア界で、日本の土地を包んでいたのである。しかし、日本においても自我化の傾向が生じる。それが、国学だろう。これが、天皇制・父権・一神教的イデオロギーを生んでいく。思うに、日本における一神教の覚醒のようなものがあると言えよう。これと、下級武士が結びついたと言えるだろう。そう、廃仏毀釈、神仏分離令以前に、日本において、多神教文化は崩壊していて、一神教性が芽生えていったのではないだろうか。日本における「ユダヤ・キリスト教」文化性である。これは、ルサンチマン宗教であり、反動・暴力的である。野蛮である。そして、これが、明治維新で、天皇制国家となって発現したのではないだろうか。日本的ユダヤ・キリスト教=天皇教が、日本におけるマッチョ/野蛮文化を造ったのではないだろうか。この鋳型が近代日本にはあると思う。そして、戦後においては、アメリカがいわばこれを利用するようにして、日本を支配してきたと言えよう。小泉ファシズムは、この帰結ではないだろうか。そう、日本人は、内から一神教を形成して、野蛮化したのではないか。だから、日本の解放とは、ポスト一神教、ポスト父権制を意味するだろう。ならば、日本人が、アメリカに共鳴する内在的原因があるのである。野蛮な一神教・父権制が共通なのである。日本の多神教を復活するには、差異共存志向性を肯定しなくてはならない。肯定・積極的なメディア界の復活である。





人相と人格相:その1

人を人相で見るのは、浅い、皮相な見方、浅薄である。人は、人格相で見ないといけない。小泉氏は、一見人相はよさそうであり、岡田氏は、人相はよくない方だ。しかし、人格相から見ると、小泉氏には、凶相がある。凶悪さが現れている。岡田氏の人格相は、単に生真面目である。凶悪な人格相の人を選んだのだから、この結果は、計り知れない恐ろしいものとなる。日本人は、心眼を失っているから、このような途方もなく由々しき選択をしたのである。
 私にははっきりと凶相が見える。小池にも見える。別に私は霊能者ではない。ただ、自分の直観を信じているだけである。そう、「霊」というものは、実は、「霊」ではない。「霊」ではなくて、不連続的差異論におけるメディア界なのである。魂とか、心とか、倫理とかは、実は、メディア界のことである。このメディア界を確信していれば、人格相が見えてくるのである。つまり、メディア界に他者のメディア界が映されるのである。
 どういうことかというと、人間の実在は、メディア界である。これが、現象化しているのである。そして、メディア界の差異共感性、差異共存志向性を誠実に、正直に保持している人は、それが、心を映す鏡となるのである。明鏡としてのメディア界である。フッサール現象学で言えば、志向性である。純粋志向性である。これを、ねじ曲げている人、濁らせている人、即ち、志向性を喪失している人は邪悪な人であるから、その歪みがメディア界に生じるのである。そして、このメディア界の歪みが凶相となって、顔の人格相に現れるのである。小泉氏の人格相は明らかに、凶相であり、凶悪である。そして、確かに、外見や発言は表面的には、真摯そうに見える、聞こえるが、それに同化されるというのは、自身のメディア界、すなわち、心や魂や倫理が歪んでいたり、喪失されているからである。表面で物事を判断しているのである。悪魔のペテン師に魅入られたアホな愚劣な国民と多くの日本人はなってしまった。
 後で、このメディア界的人格性についてさらに考察してみたい。

p.s. ついでに言えば、ホリエモンは、ある独創的な洞察力をもつブログ(『世に倦む日々』)で述べられていたが、確かに、人相と人格相が悪化したと言える。誠実さを無くしたのである。魂を悪魔に売ったと思う。





女男のメディア界の差異性:差異共存志向性と連続・同一性

先に、試論で、人間は、他の動物と比べて、差異共存志向性が過剰であり、それの受け皿となる極がないために、連続・同一性=言語・象徴という現象界へと転化されると述べた。
 では、女男の差異はどう説明できるのだろうか。私は、これまで、女性の方が男性よりも、差異が強いと言った。しかし、正確に言うならば、極性が違うと言うべきである。女性は、差異共存志向性であるマイナス強度に偏差があり、男性は、連続・同一性のプラス強度に偏差がある。もっとも、これは、相対的である。このように見たとき、現象化において、女男のどういう違いが生まれるだろうか。
 先ず、女性について見ると、メディア界が、差異共存志向性の強度(マイナス強度)をもっているので、これに補完するものとして、連続・同一性への転化である現象化が生起するのであるが、思うに、この転化・現象化は、差異共存志向性を積極的に帯びていると考えられる。つまり、差異共存内包的現象化が、女性存在であると言える。
 では、男性の場合は、連続・同一性の強度(プラス強度)が強いのであるが、それでも、存在する差異共存志向性によって、外連続・同一性=言語・象徴化=現象化が生起する。しかし、このとき、女性のように差異共存志向性が積極的に関与することはない。なぜならば、男性の現象化の場合、差異共存志向性の転化において、連続・同一性のプラス強度が介在するからである。つまり、女性の場合は、差異共存志向性の転化は、直截であり、積極的であるが、男性の場合、いわば、中間に、連続・同一性のプラス強度が関与するのである。この中間のプラス強度が、差異共存志向性のマイナス強度をいわば遮蔽するように作用するのではないだろうか。そう、こう考えたらどうだろうか。差異共存志向性の強度に押されるように連続・同一性の強度が連続・同一性=言語・象徴=現象化する。つまり、男性の場合は、二重になるのである。差異共存志向性に駆動されながらも、連続・同一性志向性が現象化すると言えよう。
 もう少し整理しよう。というか、考えを少し修正しよう。人間の場合、メディア界が過剰であり、この過剰さが、現象化を生む。これは、これまで通りである。そして、女性の場合、差異共存志向性であるマイナス強度が強く、これをもって、現象化すると言える。これもこれまで通りである。しかし、男性の場合、メディア界が、連続・同一性のプラス強度が強い状態で、現象化すると言い直そう。だから、当然、男性の場合は、連続・同一性=言語・象徴=現象化が強く、差異共存志向性は弱くなっているのである。では、男性の場合、差異共存志向性はどうなっているのだろうか。(急に思いついたが、右脳が差異共存志向性であり、左脳が連続・同一性志向性ではないだろうか。)思うに、メディア界においては、差異共存志向性と連続・同一性志向性の両義性が存しているが、しかし、現象化したとき、男性の場合、連続・同一性=言語・象徴性に同一化して、差異共存志向性を隠蔽するのではないだろうか。なぜならば、男性の特徴である連続・同一性のプラス強度が、言語・象徴と同一化しやすく、内在していた差異共存志向性を排出・隠蔽するからではないだろうか。もう少し丁寧に言うと、プラス強度が言語・象徴と同一化するのであり、マイナス強度である差異共存志向性が、正に、無意識化されるのだと思う。これは、精神分析の言うような抑圧や排除ではない。それは、自然に排出・隠蔽されるのである、女性の場合が、差異共存志向性を内在させた現象化であるのに対して。
 では、反感や反動はどうなるのだろうか。それは、これまで、述べてきている、冷暗化等で説明できるだろう。

p.s.  女性は、差異共存志向性が強いということは、女性が、男性よりも、芸術的、文化的であること、そして、右脳/左脳の両義性をもつことを意味しているだろう。女性が、例えば、編み物、衣服、織物、ファッション等々を志向するのは、メディア界の差異共存志向性に起源があると言えよう。なぜならば、それは、差異と差異とが共存的に連結される領域であり、テクスチャ、テキスタイルの領域であるからである。また、脳梁が女性は男性よりも太い、大きいのは、女性における右脳/左脳の両義性を証明しているのではないだろうか。
 結局、女性は、男性よりも、内在的には、多元的な能力に優れているのである。メディア界的能力をもっているのである。男性の場合は、メディア界を排出・隠蔽した連続・同一性=言語・象徴の能力が強いということになる。近代科学、近代主義は、正に、男性的である。哲学という行為は、女性的な領域を男性的な志向で構成する営為ではないだろうか。
 とまれ、今日、男性的領域(父権制/近代主義/新自由主義)は、行き詰まり、女性的領域(母権制/ポスト近代主義・メタ近代主義/差異共存主義)にシフトしていると言えよう。何故だろうか。後で、このパラダイム・シフトについて、考察したいが、簡単に言うと、近代主義への懐疑が強まり、脱近代主義(ディーモダン)への必然的展開があり、それによって、女性的領域、メディア界が発見されてきたことがあるだろう。ポストモダン、ポスト構造主義は、このようなものである(が、理論的不備のため、頓挫してしまった)。巨視的なスケールで見た場合、ポスト近代主義、脱近代主義の潮流は否定できない事実である。そして、これが、女性的領域への移行・シフトを意味しているのである。

p.p.s. 触れるのを忘れたが、一般に、女性がきれい好きというのは、どう説明できるのか。それはやはり、差異共存志向性のもつ根源的調和性に拠ると考えられるだろう。この調和が美を希求するのである。因みに、コスモス(宇宙)とは、古代ギリシアでは、秩序であり、美を意味していた。そして、化粧品(cosmetics)は、これ(cosmos)からの派生である。

参考
cos・met・ic/kzmétik | kz-/
[名]

1 ((通例〜s))化粧品.

2 (表面的な)体裁の繕い, ぼろ隠し.

━━[形]

1 表面的に繕った, ぼろ隠しの

a cosmetic solution

その場しのぎの解決, 弥縫びぼう策.
2 美容のための, 化粧用の.

3 《外科》整形の;補綴ほてつの

cosmetic surgery

整形外科. ⇒ PLASTIC SURGERY
[ギリシャ語kosmētikos(kósmos秩序+-IC=秩序ある→美容の)]
livedoor辞書

2005年09月10日 (21:51)

新自由主義を哲学する:弱肉強食の思想と差異共存志向の思想


新自由主義を哲学する:弱肉強食の思想と差異共存志向の思想


ハリケーン・カトリーナによって、新自由主義は、打撃を受けて、小さな政府から、必要な政府という方向に風向きが変わるだろう。もっとも、官と公は区別しないといけない。日本語だと、混同される傾向にあるだろう。お上=公(パブリック)ではない。
 また、首相の「官から民へ」の「民」は、民間大資本ということであり、日本「人民・民人」のことではない。これも確認しておこう。 
 さて、ここでは、政治学の見地ではなくて、新自由主義を生む思想源について、考えたい。これは、古典経済学に起源があるだろうが、それよりは、もっと哲学的に考えたい。つまり、近代の問題である。近代における個体の問題である。私は、自我と差異とを明確に区別して、いわゆる、近代主義は、自我に、ポスト近代主義は、差異に関わると考えている。そして、近代は、差異主義であるイタリア・ルネサンスへの反動である宗教改革・プロテスタンティズムに起源があると考えている。
 哲学的には、当然、デカルトが問題となる。デカルト哲学には、自我と差異の両面が存していると考えられるのである。とまれ、近代主義とは、自我主義である。これは、差異を否定するのである。差異であれば、差異共存志向性があるから、公益、相互扶助、共助等の社会志向性がある。これは、実は、欧州にある志向である。つまり、欧州は、近代主義を生みながらも、それに対抗する差異共存の思想をもっているといえる。これが、ポスト近代主義、メタ近代主義の思想になるのである。(これは、ジェンダー論的には、欧州には、母権思想が強いと言うべきである。地中海沿岸の国は、そうであるし、古ヨーロッパの前アーリア民族文化も、「遺伝子」としてあるだろう。)しかし、近代西欧・米が支配的になり、自我主義、自由主義、個人主義が強化されて、古典経済、そして、究極的には、新自由主義やlibertarianismが生じたと言えるだろう。(思うに、アナーキズムのシュティルナーの唯一者の思想とは、これらに近いのではないだろうか。)
 自我主義・近代主義とは、差異の否定である。それは、差異への反動形態をもつ。精神的には、2項対立、優劣、善悪、二元論の思想であり、憎悪、侮蔑、嫌悪、傲慢の感情をもって、支配的である。これが、新自由主義にはっきり現れている。今回のハリケーン・カトリーナのニューオーリンズ直撃は、そのことを白日の下にさらした。ブッシュは、民主主義を唱えるが、それは、政治形態としての民主主義(間接民主主義)に過ぎず、社会組織としての民主主義ではない。民主主義も、数えなくてはならない。民主主義たち、democraciesである。だから、ブッシュのは、政治形態的民主主義と呼ばないといけなく、また、それは、社会組織的民主主義を欠落させているのであり、欠陥民主主義である。
 とまれ、ここに来て、自我/近代主義の資本主義の中味が露呈されたと思う。黙示録的終末論である。自我/近代主義とは、政治形態的民主主義をもったが、社会組織的民主主義を否定するものである。つまり、自我/近代主義は、民主主義としては、パラドクシカルである。たいへんな矛盾を抱えた問題であり、完成的形態からはほど遠いのである。ここで、差異/ポスト近代主義、差異/メタ近代主義が明確に出現する。
 この哲学的意味を考えると、必然性があると思う。不連続的差異論から見ると、いわゆる現実である現象界を創っているのは、メディア界である。そして、メディア界における反動から、自我/近代主義が形成されたのであるが、しかし、源泉は、メディア界であり、メディア界には、差異共存志向性が、潜在的に活動しているのである(エネルゲイア)。これは、反動である自我に対して、いわば反復強迫のように、反復されるのである。つまり、自我に対する攻撃をするのである。ジュリア・クリステヴァ風に言えば、ル・セミオティック(原記号作用)がル・サンボリック(象徴・言語作用)を襲うのである。そう、根源の差異共存志向性が、自我を解体せんとするのである。これは、哲学的には、ニーチェ/フッサール哲学が震源である。結局、人間存在の根源の必然性から、自我/近代主義は、解体されると言えるだろう。結局、新自由主義に取って代わる、差異共存主義が出現するのである。これが、新しい政治思想である。

p.s. 思うに、スピノザ哲学は、差異共存主義の先駆であろう。また、スピノザ哲学をどう捉えるのかの問題もある。先に述べたが、スピノザ哲学は、デカルトを受けて、ある意味で、個・差異の哲学を形成したと思う。先にも触れたが、能動的観念という考え方は、現象学的還元性をもっているのではないか。この点は、後で、再検討したい。

参考
新自由主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新自由主義(しんじゆうしゅぎ)、ネオリベラリズムとは、政府 の機能の縮小(ダウンサイジング)と、一切の規制の廃止、市場原理 の絶対化を特徴とする経済 思想である。

1980 年代、英国 首相のマーガレット・サッチャー とアメリカ合衆国 大統領のロナルド・レーガン が新自由主義を先駆けて実行した。サッチャー政権は、電話、ガス、航空などの各種国有企業の民営化や規制緩和、金融改革などを断行。 日本 においても中曽根康弘によって電話、鉄道などが民営化された。

1990年代 に入ると、日本 では小沢一郎 が、著書「日本改造計画」で、新自由主義の思想を集約した。 「日本改造計画」では、既存の市町村 の全廃と300都市への削減が述べられている。 2000年以後に現れた、韓国の金大中 政権や、日本 の小泉純一郎 政権や竹中平蔵 蔵相(正式には経済財政担当大臣)の政策も、新自由主義の典型である。
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新自由主義の弊害

新自由主義について、「国民の生存権の保障」を、「『サービス』という名の営利事業」に変えたものであるとの指摘がある。つまり、従来は民だと撤退する準公共財の供給事業を官が補完していたが、新自由主義はそれを否定し、「民(=大企業)こそ絶対だ」という一元的な発想に基づいていると言うのである。

国営事業の民営化による弊害の例としては、アメリカ合衆国 のアトランタ における水道 事業の民営化やニュージーランドにおける郵便・電力・航空事業の民営化等がある。前者においては、水道管の点検と交換がままならなくなり、銹びた水が噴出して、ペットボトルが必需品となっているという。後者においては一旦民営化が行われたものの、様々な問題が噴出したために再国営化が行われた。

新自由主義者に共通する特徴は、大企業 の横暴への放免と、労働者 への迫害(例:日本の産業再生法 、韓国の整理解雇法 )であるという主張もある。
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関連項目

* 資本主義
* 自由主義
* 新右翼 (新保守主義 )
* 労働運動
* ミルトン・フリードマン
* フリードリヒ・ハイエク





シェイクスピアの不条理な『リア王』等の悲劇は現代日本だ。

愚劣なリア王やグロースター(日本国民)は、娘ゴネリルやリーガンの美辞麗句やエドマンドの策謀(小泉やマスコミ)に欺され、遺産(郵貯、簡保、郵便)を奪われる。そして、誠実で、実直な末娘コーディリアたち(良識派)は、追放され、惨たらしい結末を迎える。シェイクスピアは、現代日本を予見していたみたいだ、およそ400年前に。
 しかし、シェイクスピアは、近代の出発点の悲劇を描き、現代日本は、近代の末期の悲劇を露呈している。そう、この化け物の首相の時代を越えると、新しいメタモダンの時代があるのだ。メタモダンの黎明だ。ならば、今の悲劇は、喜劇である。





自我/近代主義的非合理主義から差異/メタ近代主義へ向けて


首相の選挙演説は、お題目を唱えることであり、念仏選挙と言うべきだと思う。そう、公明党は、創価学会であり、それは日蓮関係である。南無妙法蓮華経である。郵政民営化改革=南無妙法蓮華経である。
 とまれ、私は、今日、感情に流される日本人を分析したい。彼らにとっては、知性や理性は、嘲りの対象である。情動性が占めているのである。非合理主義である。フロイト的に言えば、死の欲動である。死の本能である。これは、自我の裏返しである。自我のもつ非合理衝動である。
 どういうことかと言えば、本来、自我とは、差異共存志向性への反感である反動であるから、根本的に非合理主義である。つまり、自我とは、理性ではなくて、反感という非合理的感情を基盤にもっているのである。そして、生活が苦しい困難な時代となったとき、この反感・反動的な非合理主義が奔流となると言えるだろう。つまり、自我/近代主義/大資本主義において、金融資本主義となると、「新自由主義」的な時代(弱肉強食の時代)となり、一般人は、苦しい生活となる。このとき、自我の反感・反動の非合理主義が支配・主導的となるのである。このような時は、理性、知性、智慧、叡智ではなく、「力」の感情に一般人は共鳴するのである。この点、知性がまったくない、首相の演技的な「力」の誇示に人々は引きつけられるのである。「ぶっ壊す」、「改革」、「官から民へ」という破壊的な「力」の誇示に酔うのである。
 そう、こういうときは、絶望的である。しかしながら、この非合理主義、ファシズム現象は、近代主義の帰結ないしハイパー近代主義であり、結局、この試練は、近代主義の彼岸であるポスト近代主義あるいはメタ近代主義を志向、意味している。近代的自我・資本主義である限り、この非合理主義・ファシズムは反復されるのである。これは、死の欲動である。破壊の欲動である。創造はない。ただし、このカオスの縁の、メタ近代主義、メタモダンに未来があると言えよう。

p.s. そう、近代主義的非合理主義と言ったが、ならば、近代科学は、非合理主義であるのかという反論が提起されるだろう。この問題は、実に哲学的である。フッサールの現象学にも関係する。この点は実に本質的な問題なので、後で、詳論するつもりであるが、今、簡単に言うならば、近代科学と近代主義的非合理主義は、同居できるのである。というか、一如の面が強い。そう、これは、また、ニーチェ哲学の問題でもある。また、漱石の問題でもある。D.H.ロレンスの問題でもある。近代科学の真理への意志とは、非合理主義と一体ではないかという問いが提起される。反感・反動である自我と近代科学とは、一如ではないか。なぜならば、自我は、差異共存志向性(真の社会性、共助性、互恵性、相互扶助性、共同的社会性等)を排斥するのであり、利己主義である。しかし、この自我=利己主義は、近代科学的客観主義と容易に結びつくのである。つまり、自我=利己主義は、近代科学的客観主義と連続・同一性化するのである。つまり、自我は、後者にアイデンティティを求めるのである。自我の独善的志向は、近代科学的客観主義に同化するのである。だから、自我=利己主義=近代科学的客観主義は、悪魔主義である。つまり、近代西欧とは、近代的悪魔主義のことである。これで、いちおう、証明されたと言えよう。
 近代主義、近代西欧主義とは、近代的悪魔主義である。そして、今現在、これが、首相/自民党に顕現して、悪魔的国民を魅入らさせているのである。悪魔的政府と悪魔的国民、好一対である。

p.s. 悪魔的マスメディアの存在も忘れてはならない。この三位一体である。





民主党がとるべき道とは何か(インタビュー)

資料です。

以下の記事で、宮台真司氏は、首相の正義感を述べているが、これは、違うと思う。首相の「正義感」とはルサンチマン(怨恨)によるものである。それは、反感・憎悪による見かけの正義感に過ぎない。首相の「正義感」とは、結局、憎悪の対象の「旧経世会」を模倣するものとなるだろう。官僚型利権構造である。宮台氏は、確かに、状況の明敏な分類能力はあるが、洞察力が浅いと言わなくはならない。この浅さは、自己認識の浅さによるのではないだろうか。つまり、自惚れが、洞察力を鈍化させているように思う。評論家のスタンスとも関係するのだろう。


民主党がとるべき道とは何か(インタビュー)
投稿者:miyadai
投稿日時:2005-09-03 - 20:12:00
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(20)
8月25日にアップしたものを再度(上にくるように)掲載します******

■総選挙の見取り図となるキーワードがあります。「旧保守=農村型保守」「新保守=都市型保守」「都市型リベラル」です。
■小泉政権の性質を見ると、小泉氏には、バラマキ政治に終止符を打つ正義感がありつつ、清和会的な金融族利権と、旧経世会への憎悪があります。正義感と利権と個人的感情の、重ね焼きなのです。
■加えて外的事情として、今日的ポピュリズムと、米国の意思が重なる。まず石原慎太郎人気や9・11以降の米国世論動向と同種のポピュリズムがあります。国民の不安を煽り、鎮められるのは俺だけだと男気を示す、という伝統的戦略です。
■ また小泉氏は旧経世会的なカネやコネのバックかない分、米国をバックにしてきました。横須賀育ちなのもある。イラク自衛隊派遣から郵政改革まで、一貫した米国一辺倒。340兆円の「国民の虎の子」を狙う米国金融界は郵政民営化を望み、米国政府の年次改革要望書の筆頭項目です。
■正義感、金融利権、経世会憎悪、ポピュリズム、米国好きの5要素で彼の行動は説明できます。だから郵政法案否決も衆院解散も百%だと私は予想しました(http: //www.videonews.com)。法案否決で、衆院解散すれば、自民党が負けようとも旧経世会が一掃されて万々歳だからです。
■小泉氏が「そういう人だから」総裁に選ばれて自民党を延命させたのと裏腹に、「そういう人だから」旧自民党を当然潰そうとする。小泉氏を総裁にした時点でこうなるのが必然的なのです。この逆説の背後に、骨太な地殻変動があります。
■ 小泉支持は、旧保守でなく、新保守=都市型保守です。背景にあるのが九〇年代を通じた旧保守から新保守への地殻変動。「新しい歴史教科書をつくる会」「2ちゃん右翼」が象徴的です。過剰流動性と生活世界空洞化で不安になって「断固」「決然」の言葉に煽られる「ヘタレ保守」です。
■亀井氏や綿貫氏の支持層は旧保守。旧保守は集権的再配分を目指すので左派的です。再配分を望む地方の弱者が、旧社会党じゃなく自民党を頼るのは自然。だから自民党政治が永続し、小選挙区制でも二大政党が実現しなかったのです。それが小泉氏で変わった。
■旧保守も旧左翼も団体的動員(土建屋的動員・組合的動員)を梃子とする同じ穴のムジナです。新保守は、団体的的動員とは無縁。天皇の尊崇と無関係なことを含めて、都市無党派層に近い性質を持ちます。この地殻変動に、旧保守が鈍感だったのです。
■ 見田宗介氏が八月一六日の『朝日新聞』で、日本は経済水準が高いのに「とても幸福だ」と答える人が極端に少ないと語ります。アマルティア・センの言葉だとケイパビリティが低い。すなわち多様な仕事、多様な趣味、多様な家族、多様な性を、自由に選べそうで、実は選べない。制度的に選べないのに加え、主体の能力が低いので選べない。鬱屈と嫉妬が拡がるばかりです。
■そうした国民は、「決然」「断固」に象徴される小泉的振舞いからカタルシスを得ます。現に都市部の若者は「気持ちいい」と口々に語る。それが新保守の感情です。この感情は二〇〇一年参院選で明白でした。高祖議員の得票が典型で、自民党の団体的動員の時代は終わります。
■平成不況による会社共同体の空洞化に加え、ハコもの的な集権的再配分による地域共同体の空洞化こそが、皮肉にも旧保守の地盤を崩した。かくして新保守的な感情が高まる二〇〇一年、小泉氏が登場します。
■彼は十年前から、バラマキ政治を続けたら未来はないと主張しています。完全に正しい。財政赤字を積むバラマキは、もの言えぬ子孫からの収奪で、倫理的に許されない。すぐにやめるべきです。
■ でも、バラマキをやめるのと、弱者を放置するのとは別問題。現に社会的弱者だからこそ噴き上がる都市型ヘタレ保守は、小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれません。そこに、都市型保守への「都市型リベラル」の対抗可能性があり、都市浮動票を取り合う二大政党制の可能性があるわけです。
■ だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。
■「バラマキはダメだから壊す」の小泉流は明瞭です。対する民主党が「壊し方の非合理性」を訴えるのは稚拙です。郵政法案がデタラメでも、デタラメな法案を武器に使って旧経世会を葬り去ったことを、国民が賞賛しているのですからね。小泉氏を倣って「削る」「縮小」を繰返すのも稚拙です。「小泉さん、壊してくれてありがとう。壊れた後は民主党が作ります」で行くべきじゃありませんか。
■「都市型保守」のネガティビティに「都市型リベラル」のポジティビティを対置する。「不安」に「幸せ」を、「不信」に「信頼」を対置する。本当にタフでカッコイイのはどちらか。言うまでもありません。


参考:民主党の新しいCF
http://www2.dpj.or.jp/

民主党公式サイトを訪れるとポップアップする選挙スペシャルの「岡田さん姿」からも飛べます。


MIYADAI.com Blog
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=283





!!!???多分これが一般的無党派層サラリーマンの声を代弁している。!!!???


資料です。

以下の記事は、「改革」という反動路線に乗せられてしまっているものであるが、分析すると興味深い。赤色の字は、私の強調である。すぐわかるのは、偏見で物事を見ているのがよくわかる。
「改革」路線であるが、反論すれば、小泉政府自身は、改革しないで、財政赤字を増大させているのではないか。「小泉総理に強制された」と言っているが、これは、語るに落ちたというものだろう。「強制された」ということは、総理の暴力的な手法を意味しているのである。つまり、サラリーマンは、被害を受けたということである。(私は、この阿修羅への投稿の信憑性を疑う。)
 そう、これだけではないが、グローバル化を受動的に肯定する立場が多いのではないかと思う。一種、諦め、負け犬、短見である。自分たちに被害が降りかかることを考慮していない。また、絶句するのは、改革が、自民党の専売特許であるという主張である。これで、この投稿者は全くの無思考の人間であることを暴露している。そう、この何も考えていない投稿者や同類をどう考えるべきか。これは、現代日本における思考停止現象であるが、この意味は何であろうか。それは、ファシズムである。そう、不連続的差異論から言えば、近代主義の帰結として、ファシズム、全体主義が出てくるのである。つまり、現代は、正に、西洋主義の黙示録的終末論的状況である。人類の新たな創造的変容の前夜を意味しているのだろう。「ハルマゲドン」である、今度の衆院総選挙は。


「多分これが一般的無党派層サラリーマンの声を代弁している。
http://www.asyura2.com/0505/senkyo13/msg/752.html
投稿者 佐藤巧 日時 2005 年 9 月 08 日 17:13:49:



とあるメルマガのコラムが、今の状況を非常に判りやすく解説していた。おそらくこれが私を含めた無党派層サラリーマンの声を代弁していると思ったので、此処に抜粋して提示します。(有料メルマガなので、一部とはいえそのままの転載は控える)

_______________________________
・今回の選挙で民主党に風が吹かない最大の理由は『民主党では改革ができない』と国民が考えているからではないか
・既に国民も企業も痛みを伴う自己改革を行っている(小泉総理に強制された)のに対して、肝心の民主党が改革できないと言っていては『民主党に風が吹く』はずはない。
・野党は『貧富の差』を生んだ小泉総理を非難しているが、貧富の差が出る社会は経済がグローバル化したことで始まった『流れ』である。
・縮小均衡の政策を野党が表明し、グローバル化に沿った政策を自民党が言っているわけだから、現実感のある自民党に支持が集まるのは自然な流れ。
・国民の最大の関心事は年金制度であり、年金改革は避けて通れない。
・しかし、『年金改革』と言いますように、これは『改革』であり、現時点では改革は小泉自民党の専売特許である。
・このため、野党が甘いことを言っても『何もできない』と国民に見透かされている。

_________________________________

一般人から見ると、今の民主党はかつての社会党のようにただただ反対を叫んでいるようにしか映りません。このメルマガの最後でも書かれていましたが、民主党が今回の選挙で大敗し「このままではダメだ」と言うことに気づくことで、本当の対抗勢力となる政党に生まれ変わることが出来るのではないでしょうか。」


http://www.asyura2.com/0505/senkyo13/msg/752.html





政府の郵政民営化案へのコメント:新自由主義から差異共同資本主義へ


ここでは、直観的に思うことを箇条書きにしたい。

1)これまで、小泉内閣は、財政赤字を増やしてきたことを考えると、「改革」で、赤字がなくなるということは、信じられない。
2)郵政公社は、いわば国債の支えであるから、それが、民営化されると、国債が暴落する。ならば、これを狙っているのか。おそらく、国債を買い支えるために、公的資金注入ということになり、米国吸血金融資本、外資に利することになるだろう。泥棒に追銭である。米日の吸血鬼構造が完成する。
3)いわゆるハゲタカ参入を認める。
4)財務省の一極支配を目指している。
5)ファシズム体制を形成して、国民を支配する構造を完成する。

ざっと、こんな感じである。マスコミ操作で、小泉ファシズムを勝利させようとしているが、しかし、いわば奇蹟的なハリケーン・カタリーナが、民営化の大元でありアメリカを直撃した。
民営化=ニューオーリンズである。おそらく、反動路線は、敗北するだろう。新しい政治経済が必要である。差異共存共創政治経済とは、共同的資本主義と似た面がある。差異共同資本主義というように合体できるのかもしれない。





【我々の太陽系は変化している】意識と物質が進化する:ロシアの見解の報告


資料です。

一番下のURLをクリックして見ると見やすいです。
この記事は、不連続的差異論における、一つの旧い世界/宇宙文化サイクル(西洋文化サイクル)が終わり、一つの新しい世界/宇宙文化サイクルに転移することを、示唆しているとみることもできるかもしれない。
「進化」は、創造的変容であり、質的変容である。差異的変容である。
そう、占星術による星座文化期の考え方も、これを反映しているのではないか。現在、魚座文化期(キリスト教文化期)から、水瓶座文化期(ポスト・キリスト教文化期)へと移行中である。相転移ということになるだろう。





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【我々の太陽系は変化している】意識と物質が進化する:ロシアの見解の報告
http://www.asyura2.com/0403/jisin11/msg/200.html
投稿者 HAARP 日時 2004 年 5 月 25 日 03:52:13:oQGUNb5q8hjD.





* 写真は木星上のオーロラとそのエネルギー場に残された衛星の「足跡」、左側の大きい航跡がイオのもの。(ハッブル望遠鏡)

【我々の太陽系は変化している】ロシアの見解の報告 by Mary Rose Gray(2004年5月11日)
http://ufophysics.com/russisun.htm

これは地球の変動(earth changes)に関するロシアの見解であり、この確固たる事実はアメリカでは報告されていない。

* 太陽系の惑星の大気は変化しつつある・・・

ドミトリエフ博士の”地球の惑星物理的状況と生命”の研究は(博士の4部からなる論文はこちら:http: //www.tmgnow.com/repository/global/planetophysical.html )、惑星それ自身らが現在変化していることを示している。惑星の大気に変化が起こっているのだ。

例えば、火星の大気は以前に比べてかなり厚くなっている。1997年の火星観測探査機は鏡の一つを失ったが、これが原因で火星の地表に衝突してしまった。これは、計算されていたよりも火星の大気密度が2倍ほどあり、このことにより鏡に当たる風が強くなりすぎてこれを吹き飛ばしてしまったのだ。

* 地球の月にも大気が形成されている

月に関しても、ドミトリエフが言うところの「ナトリウム」を含む大気が形成されつつある。ドミトリエフによれば、月の周囲には6,000Kmに及ぶ厚さの、以前には無かったナトリウムの層が出来ているという。

そして、地球の大気の上層にもこの種の変化が現れているが、ここには以前には存在しなかった2酸化水素(HO2)ガスが形成されている。これは、以前には無かったものが今は存在するということだ。
これは地球温暖化とは関係がなく、CFCやフロロカーボンといったフロンガス系の温室効果物質とも関係がない。
これは、ただ単に出現したのだ。

惑星の磁場と光度も変化してきている。太陽系の惑星は見かけの光度がかなり変化している。
例えば金星は明らかに明るさを増しているのがわかるだろう。木星などは強力に充電されているようで、木星の衛星イオとの間には実際に目視できるイオン化された放射チューブが形成されいるのが観察できる。
最近では、撮影された写真のなかに実際に輝くエネルギー・チューブを見ることができるのだ。

また惑星の磁場にも変化が起きており、これは強くなってきている。
木星の磁場は2倍以上に強くなっており、天王星の磁場も変化している。
海王星の磁場も強くなっており、これらの惑星は光度も増している。
磁場は強くなる傾向にあり、それぞれの大気組成は変化してきている。

天王星と海王星では、最近ポール・シフトが起こったようだ。
宇宙探査機ボイジャー2号が天王星と海王星の近くを通過したとき、これらの惑星の磁北極と南極は自転軸からかなり外れているのが観察された。(これは地球でも加速されていると言われている:訳者)
天王星ではシフトは50度であり、海王星では40度であったが、この変化は非常に大きいものと言えるだろう。

全体では、これらの変化は基本的に3つのカテゴリーに収めることができるだろう。
これらは:エネルギー場の変化、光度の変化及び大気の変化である。

地球では1975年以来、火山活動が500%増加しているが、我々はこれらの変化を直接的な形で目撃しているのだ。
例えば、マイケル・マンデヴィルの研究によれば地球上の全般的な火山活動は1875年(1975の間違いかも:訳者)以来概ね500%増加しており、地震活動に関してはほんの1973年以来で400%増加している。

自然災害に関しては、1963年から1993年の間で410%増加している。
ドミトリエフ博士は自然災害に関して大胆な計算を行っている。博士によれば1963年から1993年までを比較すれば、台風、土砂崩れ、津波などの全ての災害の総数は410%増加しているということだ。

* 太陽の磁場は1901年以来230%強くなっている

太陽の調査をしているカルフォルニア州ラザフォード・アップルトン国立研究所のマイク・ロックウッド博士の研究がある。彼の発見によれば、1901年以来太陽の磁場の強さは、それ以前に比較して230%増加しているとのことだ。

* 地球の変動を超えて

全てを総合して、我々が見ているものは所謂「地球変動:アース・チェンジ」をはるかに超えるものだ。
人によっては、ここで起こっていることは地球と太陽の相互作用と考えてもいる。
しかし、非常に少数の人々だけしかシベリアの、特にノボシビルスクの国立科学アカデミーで行われているこの分野の研究に気が付いていない。

彼らは、この全太陽系に亘るエネルギー変化を引き起こす原因の可能性は一つしかないという結論に達したのだが、それは我々が異なるエネルギーの領域に移動しつつあるということなのであり、異なるエネルギーとは高エネルギーということである。

我々の太陽系の先端に光り輝くプラズマは、最近では1,000%も増加している。

ここに、ある事実がある。太陽それ自身も磁場を持っているわけで、この磁場は太陽系の周囲にヘリオスフィアとして知られる卵形構造を作り出す。ヘイオスフィアは涙のような形をしていて、その長細い端は我々が進行する反対側を示している。
これはまるで彗星のようだが、彗星の尾は常に太陽と反対側に向いている。

ロシアの研究者たちはこのヘリオスフィアの先端を観察してきたが、彼らはそこに輝く励起したプラズマ・エネルギーを認めた。このプラズマ・エネルギーはかつては10天文単位(1天文単位は地球と太陽の距離で、93,000,000マイル)の厚さだったので、この太陽系の先端に見られた輝くエネルギーの厚さは 10天文単位が通常であると思われていた。

今日では、この輝くプラズマの厚さは100天文単位までになっている。
ドミトリエフの論文には、こうなった正確な経緯は示されていないが、我々はこのプラズマの増加は彼が自然災害の増加を計算した1963年から1993年の期間と同じ期間に起こったと見なすことができる。
この経緯はどうあれ、太陽系の先端のエネルギーの明るさは1,000%増加しているのだ。

そして、これの意味するところは、太陽系自体がより高エネルギー状態の領域に移動しつつあるということなのだ。
まず、このような高エネルギー状態はプラズマを励起させ、形成を促進するので、我々はより大規模な輝きを見ることができる。そうすると今度はこのエネルギーが太陽に流れ込み、また太陽の赤道面に沿って放射、拡散されることになるが、これはエクリプティック(Ecliptic)と呼ばれる。

このエネルギーはまた、惑星間空間に行き渡ることになるのだが、これは太陽の放射をより迅速に伝えることになり、惑星をエネルギーで充填することになる。

またこれは、どのように惑星が運行するのか、どのように機能するのか、そしてどんな種類の生命を維持するのかなどを変化させる意識エネルギーなのだ。
DNA螺旋の調和共鳴状態それ自体も変化することになる。これこそが、今までの歴史において同時発生的に起こった集合進化の本当の、隠された原因だったのだ。

全ては一斉に同時に起っており、突然のシフトに向かって一丸となってクレッシェンドを奏でているというところだ。

別の言葉で言えば、我々は太陽が自身で発するエネルギーに呼応した基本的な共振波長の突然の拡張という新しいエネルギーレベルに到達するだろうということなのだ。

このエネルギー放射の増加は、太陽系内の全ての物質の基本特性を変化させるだろう。惑星は幾分か太陽から遠くに押し出され、惑星を構成する原子や分子は、実際に物理的なサイズとして拡張する。

マリー・ローズ・グレイ
-----------------------------------------------------------------------

*コメント

この記事は、現在の地球を含む太陽系の環境の現実をかなり正確に描写しているのかもしれない。
高エネルギー領域に太陽系が突入することによって、太陽が高エネルギー化されるというのは11年周期を逸脱した太陽活動の説明になるものだろう。
このような太陽系自体が関係する環境の変化が、エネルギーのある種のフードバック回路を変化させ新しい均衡調和状態に移行する。そして、このエネルギー自体が意識と同じものという観察や、物質の基本特性が同時発生的に変化するという観測はいかにもロシア的だ。

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References* 写真は木星上のオーロラとそのエネルギー場に残された衛星の「足跡」、左側の大きい航跡がイオのもの。(ハッブル望遠鏡)

【我々の太陽系は変化している】ロシアの見解の報告 by Mary Rose Gray(2004年5月11日)
http://ufophysics.com/russisun.htm

これは地球の変動(earth changes)に関するロシアの見解であり、この確固たる事実はアメリカでは報告されていない。

* 太陽系の惑星の大気は変化しつつある・・・

ドミトリエフ博士の”地球の惑星物理的状況と生命”の研究は(博士の4部からなる論文はこちら:http: //www.tmgnow.com/repository/global/planetophysical.html )、惑星それ自身らが現在変化していることを示している。惑星の大気に変化が起こっているのだ。

例えば、火星の大気は以前に比べてかなり厚くなっている。1997年の火星観測探査機は鏡の一つを失ったが、これが原因で火星の地表に衝突してしまった。これは、計算されていたよりも火星の大気密度が2倍ほどあり、このことにより鏡に当たる風が強くなりすぎてこれを吹き飛ばしてしまったのだ。

* 地球の月にも大気が形成されている

月に関しても、ドミトリエフが言うところの「ナトリウム」を含む大気が形成されつつある。ドミトリエフによれば、月の周囲には6,000Kmに及ぶ厚さの、以前には無かったナトリウムの層が出来ているという。

そして、地球の大気の上層にもこの種の変化が現れているが、ここには以前には存在しなかった2酸化水素(HO2)ガスが形成されている。これは、以前には無かったものが今は存在するということだ。
これは地球温暖化とは関係がなく、CFCやフロロカーボンといったフロンガス系の温室効果物質とも関係がない。
これは、ただ単に出現したのだ。

惑星の磁場と光度も変化してきている。太陽系の惑星は見かけの光度がかなり変化している。
例えば金星は明らかに明るさを増しているのがわかるだろう。木星などは強力に充電されているようで、木星の衛星イオとの間には実際に目視できるイオン化された放射チューブが形成されいるのが観察できる。
最近では、撮影された写真のなかに実際に輝くエネルギー・チューブを見ることができるのだ。

また惑星の磁場にも変化が起きており、これは強くなってきている。
木星の磁場は2倍以上に強くなっており、天王星の磁場も変化している。
海王星の磁場も強くなっており、これらの惑星は光度も増している。
磁場は強くなる傾向にあり、それぞれの大気組成は変化してきている。

天王星と海王星では、最近ポール・シフトが起こったようだ。
宇宙探査機ボイジャー2号が天王星と海王星の近くを通過したとき、これらの惑星の磁北極と南極は自転軸からかなり外れているのが観察された。(これは地球でも加速されていると言われている:訳者)
天王星ではシフトは50度であり、海王星では40度であったが、この変化は非常に大きいものと言えるだろう。

全体では、これらの変化は基本的に3つのカテゴリーに収めることができるだろう。
これらは:エネルギー場の変化、光度の変化及び大気の変化である。

地球では1975年以来、火山活動が500%増加しているが、我々はこれらの変化を直接的な形で目撃しているのだ。
例えば、マイケル・マンデヴィルの研究によれば地球上の全般的な火山活動は1875年(1975の間違いかも:訳者)以来概ね500%増加しており、地震活動に関してはほんの1973年以来で400%増加している。

自然災害に関しては、1963年から1993年の間で410%増加している。
ドミトリエフ博士は自然災害に関して大胆な計算を行っている。博士によれば1963年から1993年までを比較すれば、台風、土砂崩れ、津波などの全ての災害の総数は410%増加しているということだ。

* 太陽の磁場は1901年以来230%強くなっている

太陽の調査をしているカルフォルニア州ラザフォード・アップルトン国立研究所のマイク・ロックウッド博士の研究がある。彼の発見によれば、1901年以来太陽の磁場の強さは、それ以前に比較して230%増加しているとのことだ。

* 地球の変動を超えて

全てを総合して、我々が見ているものは所謂「地球変動:アース・チェンジ」をはるかに超えるものだ。
人によっては、ここで起こっていることは地球と太陽の相互作用と考えてもいる。
しかし、非常に少数の人々だけしかシベリアの、特にノボシビルスクの国立科学アカデミーで行われているこの分野の研究に気が付いていない。

彼らは、この全太陽系に亘るエネルギー変化を引き起こす原因の可能性は一つしかないという結論に達したのだが、それは我々が異なるエネルギーの領域に移動しつつあるということなのであり、異なるエネルギーとは高エネルギーということである。

我々の太陽系の先端に光り輝くプラズマは、最近では1,000%も増加している。

ここに、ある事実がある。太陽それ自身も磁場を持っているわけで、この磁場は太陽系の周囲にヘリオスフィアとして知られる卵形構造を作り出す。ヘイオスフィアは涙のような形をしていて、その長細い端は我々が進行する反対側を示している。
これはまるで彗星のようだが、彗星の尾は常に太陽と反対側に向いている。

ロシアの研究者たちはこのヘリオスフィアの先端を観察してきたが、彼らはそこに輝く励起したプラズマ・エネルギーを認めた。このプラズマ・エネルギーはかつては10天文単位(1天文単位は地球と太陽の距離で、93,000,000マイル)の厚さだったので、この太陽系の先端に見られた輝くエネルギーの厚さは 10天文単位が通常であると思われていた。

今日では、この輝くプラズマの厚さは100天文単位までになっている。
ドミトリエフの論文には、こうなった正確な経緯は示されていないが、我々はこのプラズマの増加は彼が自然災害の増加を計算した1963年から1993年の期間と同じ期間に起こったと見なすことができる。
この経緯はどうあれ、太陽系の先端のエネルギーの明るさは1,000%増加しているのだ。

そして、これの意味するところは、太陽系自体がより高エネルギー状態の領域に移動しつつあるということなのだ。
まず、このような高エネルギー状態はプラズマを励起させ、形成を促進するので、我々はより大規模な輝きを見ることができる。そうすると今度はこのエネルギーが太陽に流れ込み、また太陽の赤道面に沿って放射、拡散されることになるが、これはエクリプティック(Ecliptic)と呼ばれる。

このエネルギーはまた、惑星間空間に行き渡ることになるのだが、これは太陽の放射をより迅速に伝えることになり、惑星をエネルギーで充填することになる。

またこれは、どのように惑星が運行するのか、どのように機能するのか、そしてどんな種類の生命を維持するのかなどを変化させる意識エネルギーなのだ。
DNA螺旋の調和共鳴状態それ自体も変化することになる。これこそが、今までの歴史において同時発生的に起こった集合進化の本当の、隠された原因だったのだ。

全ては一斉に同時に起っており、突然のシフトに向かって一丸となってクレッシェンドを奏でているというところだ。

別の言葉で言えば、我々は太陽が自身で発するエネルギーに呼応した基本的な共振波長の突然の拡張という新しいエネルギーレベルに到達するだろうということなのだ。

このエネルギー放射の増加は、太陽系内の全ての物質の基本特性を変化させるだろう。惑星は幾分か太陽から遠くに押し出され、惑星を構成する原子や分子は、実際に物理的なサイズとして拡張する。

マリー・ローズ・グレイ
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*コメント

この記事は、現在の地球を含む太陽系の環境の現実をかなり正確に描写しているのかもしれない。
高エネルギー領域に太陽系が突入することによって、太陽が高エネルギー化されるというのは11年周期を逸脱した太陽活動の説明になるものだろう。
このような太陽系自体が関係する環境の変化が、エネルギーのある種のフードバック回路を変化させ新しい均衡調和状態に移行する。そして、このエネルギー自体が意識と同じものという観察や、物質の基本特性が同時発生的に変化するという観測はいかにもロシア的だ。



http://www.asyura2.com/0403/jisin11/msg/200.html
阿修羅





米国が現実に引き戻された

資料です。

「米国が現実に引き戻された(仏『ヴォルテール・ネット』より)
http://www.asyura2.com/0505/jisin13/msg/118.html
投稿者 さすれば 日時 2005 年 9 月 07 日 17:23:23: reQxnNwQ2shuM

米国が現実に引き戻された
(9月5日 主筆ティエリ・メイサン)
----
突然、米国の「国家の不在」を明るみに出しながら、ハリケーン、カトリーナはブッシュ政権の真の政治を暴露した。すなわち、国家の民営化、縁者びいき、公益より石油企業優先という路線変更。
ティエリ・メイサンによれば、米国内の緊張の始まりは戦争ではなくてハリケーンである。


第一次大戦以降、米国は《自由の国》というイメージをでっち上げてきた。20世紀初めのヨーロッパの崩壊と、それに次ぐソヴィエト連邦の崩壊によって、民主主義と繁栄を保証するモデル国家として人々を納得させてきた。

その優位性と《神》から授けられた使命感によって、米国はその規範を至るところに押し付けようと企て、石油産出地帯を植民地化しようとした。フランシス・フクヤマは《アメリカ式生活》の勝利は決定的だと説いた。----

流れに逆らって、われわれは今日の米国は民主主義ではない、米国は世界と自国から略奪し捲くっている捕食動物の徒党によって統治されていると言い続けてきた。

突然、米国のプロパガンダは現実の壁に砕け散った。ハリケーンである。カトリーナが、ミシシッピー地域とニューオーリンズを破滅させたのである。一瞬のうちに《王様は裸になった》

米国南部はハリケーンには慣れていたが、このような激しさで北へ向かって吹き荒れたのは初めてである。そこには、米国が主要な原因で、京都議定書を受け入れていたら削減できたであろう気候温暖化に関する罪がある。しかしブッシュ政権は、同胞の利益よりも、政権を構成している石油会社の利益を擁護することを好んだ。

ミシシッピー地域は多くのハリケーンに耐えてきた。だが堤防が水没したのは初めてである。そこには、一世紀半にわたる乱暴な石油開発を原因とする沼地の崩壊に関して罪がある。

そこには、科学者が警告し、同時にデルタ地帯の合理的な管理と、下から侵食する堤防の強化を勧告してきた長い年月がある。しかしブッシュ政権は、この地域ではことに黒人である同胞の利益よりも、政権を構成している石油会社の利益を擁護することを好んだ。

FEMA (連邦緊急事態管理庁)はたいへんな自然災害に直面した。この新しい状況に対してどうしてよいか分らなかった。そこには、新しい長官、マイケル・D・ブラウンに関する罪がある。無資格の法律家で、アラブ馬の国際協会顧問という地位から乱暴に配置転換された人だ。他の人たちと同様、ブッシュ家によって再就職したのである。FEMAは911の後に創設された国家安全保障省の中心部に組み込まれた。ここにあるのは、対テロ戦争という名目だけで、見せかけの契約と閑職以外のなにものでもない。

米国には、すばやく展開できる優良な衛生機関がある。しかし、連邦の財政負担を軽くするために、反論もなく民営化された。つまり教会に与えられたのである。これはすべて官僚の報告により信仰に基く優位性の名で実行された。

(以下略)

http://www.voltairenet.org/article127437.html


阿修羅





ハリケーン・カトリーナと台風14号のタイミング

古い文学作品、例えば、シェイクスピア等を読むと、天の采配、天の配剤、摂理等の言葉が出てくる。私は、今は、そのようなことを信じないが、今回のハリケーンと台風は、そのようなことを想起させるように、衆院総選挙に影響すると思った。これは、野党の雄弁をはるかに越える説得力があると思う。
 首相、自民党は、小さな政府を主張するが、小さな政府の結果が、ニューオーリンズである。災害救助の恐ろしい遅れやその無策等は、ブッシュの小さな政府路線によるものである。あるいは、戦争にかまける新自由主義路線による。金融資本の利潤のために、社会的公益が見捨てられるのである。富者のための政治で、一般人は、犠牲を強いられるのである。そのような路線の帰結が、今回のハリケーンと台風のダブル・災害によって、誰の目にも、明らかとなったと言えよう。これは、天の裁量ではないが、それに近いようなものである。ネットで、「荒野に叫ぶ声」を演じることは大事であるが、その影響はまだ限定されている。しかし、カトリーナ、そして、それと重なる台風14号の甚大な被害は、啓蒙・覚醒的な作用があると思う。さすがの、パフォーマンス屋のゴミ済みも、自然の真の PERFORMANCE(行為)には勝てなかったようだ。





日本語の「KAIKAKU」について:REFORMとA REFORM

先に、郵政民営化問題は、一部、日本語が原因になっているのではないかと言った。つまり、日本語の場合、抽象語、観念語に、冠詞がないので、全体化されて、絶対化されやすいということである。英語では、改革は、抽象語としては、reform,reorganizationであり、具体的には、a reform(一つの改革), a reorganizationであり、観念レベルと具象レベルの区別がつくのであるが、日本語では、それができない。首相や自民党が「改革」というが、抽象か具象か区別がつかない。単に、「改革」は、reformであり、これは、いわば、概念、イデアである。これを実現するのに、具体的な「改革」案が生じるのであり、これが、a reform, a reorganizationである。だから、首相等が、「改革」というならば、それは、後者が中心となり、説明する責任があるのであるが、それが欠落しているのであるから、それらは、信用できないものであると判断できる。一種アカウンタビリティを、首相らは放棄しているのである。 
 結局、この手法は、商品の使用価値を説明しないで、売ろうとするイカサマ、詐欺、ペテン的手法である。でも、おかしいのは、たとえば、胃薬を買うとき、店員が、これは、胃薬!、胃薬!、胃薬!ですと宣伝したって、普通は買わないのに、KAIKAKU!, KAIKAKU!, KAIKAKU!は買ってしまうというのは、奇妙である。どういうKAIKAKU薬なのかを説得力をもって説明する必要がある。また、なされている説明らしきものは、合理的、論理的根拠がないのである。この問題は、情緒的判断か知的判断かを問われている。マスコミぐるみの超ペテンに国民をかけようとしているのである。マスコミに死を!!!(もっとも、マスコミにはたらく個々の人たちには真面目な人がいるだろうから、彼らには、独立して、新しく、差異としてのメディアを創ってもらいたいものである。)





最重要な記事です:自衛隊がイラクで戦争ゴッコをしている間に日本で小泉がクーデターを実現した


資料です。

「自衛隊がイラクで戦争ゴッコをしている間に日本で小泉がクーデターを実現した
http://www.asyura2.com/0505/war74/msg/105.html
投稿者 フランクリン 日時 2005 年 9 月 07 日 09:20:51: YsxokeAxLx13M



自衛隊がアメリカ軍を助ける「お手伝いさん」として、イラクの戦場の塹壕にもぐっている間に、日本では小泉が自衛隊抜きでクーデターをやってしまい、独裁者として全権委任を求める国民投票を行い、いよいよファシズムが始まったという分析は、単なる選挙だと考えている者にとって教訓的だ。しかも、イラク李戦場で殺されて帰る自衛隊員には、小泉の「靖国維新」が何かをするらしいから、日本のことはくよくよと考えないでいるしかなさそうだ。それにしてもヒットラーの手口を使うとは、この四年で小泉は大化けしたものだと思う。


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9月11日の選挙の正体は「全権委任」の国民投票という理論
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/866.html
投稿者 海野雄吉 日時 2005 年 9 月 07 日 00:55:01: Kg/AGhESWTs4c

今度の選挙は選挙ではなく国民投票であり、それは全権委任を求める独裁への道で、小泉の郵政改革の正体は「靖国維新」名づけたらいい、クーデタだという議論が日本の外で行われている。

「宇宙巡礼」という変わったホームペイジがあって、アメリカで活躍するジャーナリストとして知られた、藤原肇の書いた興味深い記事が読める。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/

とりわけ興味深いのはブロッグ的な「掲示板」であり、その「日本不沈の条件を考える」というスレッドで、興味深い問題提起と議論が行われている。国内の議論の視点と世界で行われている議論が、これほど違うかということが良く分かる。特に小泉の郵政改革の本質が「靖国』維新」であり、クーデタだという分析は秀逸である。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2491/1125942348/


日本不沈の条件を考える
1 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 02:45:48
二十数年ぶりにこの本を読んだことにより、当時の危機感を思い出すと共に、現在の日本がもっと危険な状態に直面しているのに、日本人はそれに気づいていないと先ず指摘したいと思います。
「世界週報」に1977年の11月に出た記事は、日本人記者クラブと石油連盟での講演の草稿で、このときの帰国には防弾チョッキを身につけ、成田ではなく羽田空港を使うために、わざわざ中華航空を使ったことを思い出しました。
2 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 07:59:15

1973 年の石油危機の到来についての予告記事は、1971年の春の『文芸春秋』に掲載されたが、石油危機でパニックに陥っていた時期に、『石油飢餓』の出版がサイマル出版会で決まった。だが、この時点での私の危機感は別のものに移り、それはこの本の「前書き」に次のように記録されている。
「・・・戦後長らく続いた保守政治がついにファッショ化して、独裁者のまわりに翼賛政治家が結集し、すでに財閥化した財界と結託して、一億の国民を再び悲劇の中に巻き込もうとしている。・・・現在進行していることを正しく評価するためには、時間を置いて歴史的事件として過去において見るか、空間的に距離をおき日本列島から一歩遠ざかって、しかも、日本に焦点を合わせてみるかの二つの方法しかない。私は地球を相手にした歴史学者として、自分の生きている時代がどのようなものであったかを後になって気づいて、後悔するのは嫌だから、太平洋を間において日本を観察しているが、このファシズムの不吉な胎動は気がかりでならない。国民が力を合わせてこの狂気時代の亡霊の復活を粉砕し、日本人が一致団結して石油危機の克服に向かって、集中できるような条件を作っておくように期待してやまない。・・・」
そして、この本の中のどこかに、田中首相と中曽根通産相の辞任を要請して書き。それが理由でこの本は市場から消え去ったし、私は多くの人の忠告に従って1977年までは、日本に近づくのを回避したし防弾チョッキを着て帰った。それにしても「光陰矢のごとし」で、この記事が31年前に書かれたとは思えないほどで、今日執筆しても新鮮だと感じるほどである。
なぜならば、小泉がやっている一連の政治的な布陣は、情報時代のソフトなクーデタであり、それに気づいているのは私ぐらいだろうが、それを将来の歴史のために「靖国維新」と名づけて、私はその動きを太平洋のた対岸から観察している。そして、維新は権力支配を目指すクーデタであり、支配者の間の権力争奪だという点で、911選挙で使う非公認や刺客の手配が、ソフトな粛清だと気づく日本人がいないのが寂しい。
3 名前: 中野美恵子 投稿日: 2005/09/06(火) 12:08:11
ショックです。凄い指摘で目のうろこが落ちて胃に詰まったのか食欲がなくなりました。日本の外から見る観察者には、そんな具合に見えたとは驚きです。小泉首相がやっているのがクーデターだとしたら、この選挙は何でしょう。気分がふさいで憂鬱になります。<靖国維新>だと言われてみて、全てが氷解した感じです。目の前で進んでいるのがファシズムですか。怖いですね。
4 名前: 相沢敏夫 投稿日: 2005/09/06(火) 15:19:25
ファシスト・ヒットラーを最初に支援したのは欧州の大銀行家たちだったことは、
だいぶ前に資料がでて明らかになっていることです。
出自に影を持ち芸術志向で口舌巧みな煽動師をはやし立て、お飾りをつけ、
世に出したのが誰だったかを忘れてはならないと思います。
小泉さんも又同じ性向の持ち主、出自もとかくの噂があり、その性癖もまた。
あの時代と同じく利にさとい資本家たちが選んだのが同じタイプの小泉さんで
あったのでしょう。表向きは、愛国主義を押し出しながら、
その実は国際金融資本家の餌食となるのが、ファシズムの歴史から学ばなければ
ならないことではないでしょうか。
郵政民営化もこの流れにあると思われます。
革命家レーニンを応援したのは誰だったか。改革家(?)小泉首相を操る人形師たちは
はこれからどんな手を繰り出してくるのか。しばらくの間、注意されるべきでしょう。
5 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/06(火) 17:09:22
脱藩道場の総会に出席したことのある人は覚えているはずだが、ここはモデルを緒方洪庵の適塾にとっていて、表札には私の顔写真が出ているけれど、皆さんが自主運営をして切磋琢磨し、私は必要な時にしか発言を控える姿勢です。それは自らの頭で考えることが重要で、説明や答えを聞く場所ではないからです。ただ、今回の場合は私が言いだしっぺだから、維新の意味論だけは書いておきます。日本では明治維新が歴史の節目で、維新という言葉はなじみ深いものですが、維新をカタカナにすればクーデタであり、これは権力内部における覇権争いであり、下から体制を変革する革命と違うことは、「ジャパン・レボリューション」で論じたことです。
クーデタは1630年代にイタリアのリベルタンが取り上げ、君主が取る特別な措置という意味で使われ、権力サイドが自分の都合のいいように、改革と称して試みる支配権の確立に期限を持ちます。国家が公を体現し「朕は国家なり」という時代は、権力者による反対派の弾圧はクーデタであり、だから、ブリュメールの18日もクーデタでした。だから、首相として権力を握っていても、絶対的な支配が出来ていないと考えれば、首相自らがクーデタを試みるわけで、それが小泉の「靖国維新」の歴史学的正体です。19世紀までのクーデタは軍事力が中心だったが、情報化が進んだ20世紀はソフトになり、ハードなクーデタは中南米やアフリカにあったが、先進国はソフトな権力交代が中心でした。明治維新はハードだったから戦争が絡んだし、昭和の日本は形だけは工業国だったが、分明度の実態は後進国だったから515事件や226事件は軍事力と結び、昭和維新としてのクーデタになりました。だが、軍隊は権力サイドの組織だから、日本の右翼は時代遅れのせいで三無事件や三島事件のように、自衛隊を使って維新をしようとしたわけです。小泉の場合は背後に電通がいるので、同じクーデタをソフトにやっており、メディアの関心を集めるために殊更に靖国問題を使い、大衆の感情をそこに集める心理作戦を駆使するので、テレビなどのマスコミを使った情報戦術だから、私は「靖国維新」と名づけたのです。
6 名前: 平野次郎 投稿日: 2005/09/06(火) 22:40:06
クーデタの意味論とても分かりやすく明快です。そうなると靖国維新というクーデタは、もう成功してしまった感じです。独裁がどうすれば崩壊するか、その戦術を考えることが問題になりますト思います。
7 名前: ご隠居 投稿日: 2005/09/06(火) 23:32:25
大手メディアが郵政改革支持の方向で歩調を合わせていることが、小泉に対しての批判に水をかける形になりその結果、マスコミ自体が批判眼や牙を抜かれた状態になっているとしたら、小泉政権が国際金融機関のために郵便貯金などを差し出そうとしているこの郵政騒動は、自民党において絶対的な独裁権を握ろうとして強行した藤原流の「靖国維新」になったわけだが、クーデターの仕掛け人が電通ならばメディアに期待は出来ない。
ということはテレビや新聞を読めば読むほど電通の狙いにはまってしまい、毎日のように日本国民は洗脳されて思考能力が低下してしまい、ヒットラーがユダヤ人たちを虐殺したのと同じことになり、小泉の場合だと小泉に反対する日本人はユダヤ的な存在だと扱われてしまい、社会的に差別されていよいよ没落して負け組みになってしまうことになる。
年金問題は我々老人にとって生活がかかった最も重要なテーマであるが、それが脅かされているのに新聞も正面から取り上げてくれないけれども、老人党の存在はほとんど目につかなくなってしまったのは、どうしたことだろうかと気になって仕方が無いけれども、老人は死ねとでもかんがえているのなら世も末だと思わざるを得ない。
それにしても自分が生きている間に靖国維新などに振り回されるとは、夢にも思っていなかったので不甲斐なさに対して情け無いと思わざるを得ない。
8 名前: 藤原肇 投稿日: 2005/09/07(水) 00:27:54

日本の言論界の批判精神が衰えたために、目の前で進行している事態に対して、正確な把握が出来なくなっているような感じで、それが現在の日本を閉塞感から救えない、最大の理由になっていると思います。たとえば、参院での郵政法案否決にたいして行った、小泉の政治的慣例を無視した解散に対して、どうも感情的なネーミングをしており、理性的かつ分析的な発想で位置づけした形で、概念化をしていないように思われます。新聞で見かけたものだから特殊かも知れないが、例えば次のようなものがそれです。
自暴自棄解散・亀井静香
自爆テロ解散・森永卓郎
自己愛解散・香山りか
八つ当たり解散・又市征治
江戸の敵を長崎で討つ解散・高村正彦
これらは表に現れた現象的なものとか、心理的な面を強調したネーミングで、より深い歴史性や深層心理に肉薄しておらず、何となく現代風のコピーライト形であり、キャッチフレーズとして分かりやすいとはいえ、歴史に残るかどうか疑問に感じます。
私の「靖国維新」という捉え方に基づいて考え、そこから「靖国解散」とすれば混乱してしまい、訴える力がなくなるのは次元が違うからです。
だから、『911選挙』を「靖国選挙」といえないわけで、これは「大権委任の国民投票」と理解すれば、ヒトラーが「大権委任法」を根拠に独裁を確立して、合法的に独裁者になったプロセスと同じ、ソフトな形のクーデタに対応すると分かります。
独裁を狙うものは国民投票を好みますから、ペロンやフセインは常に国民投票を求めたし、それでポピュリズムの熱狂を盛り上げました。このメカニズムが理解できれば、なぜ中曽根康弘、石原慎太郎、小泉純一郎などが、首相公選を主張していたかという理由が、明白になるのではないかと考えます。
ほとんどの日本人は選挙だと考えているでしょうが、いま直面しているのは国民投票なのであり、その背後には「全権委任」という独裁者の狙いがあり、こうした理解が歴史の教訓の成果です。これで私の問題提起は一段落したので、後は皆さんの活発な討論を期待しています。


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Re: 自衛隊の駐屯地を思う。イラクで戦争ゴッコをしている自衛隊の明日の姿か ものぐさ太郎 2005/9/07 09:47:15 (0)」

阿修羅
http://www.asyura2.com/0505/war74/msg/105.html

p.s. なお、以上の引用における、字の着色(赤色や太字等)や強調は、renshi=sophioによる。なお、元の記事の強調も入っている。





ポスト・マスコミ論:代弁主義=ヘーゲル哲学から、差異メディア論へ

私は、昔から、マスコミである新聞に、根深い不信感をもっていた。また、一方、新聞に書かれている記事にも飢えていた。これは、真実を知りたい欲求によるものである。しかし、社説等を読むと、ええかっこしいで、「むかつく」。感情のレベルから、理論・批判的レベルに問題を移すと、問題点は、ポストモダンが問題にした事柄である。権力的言説の問題である。いわゆる、表象の問題である。representationの問題である。あるいは、言語の問題と言ってもいい。不連続的差異論から言えば、連続・同一性/言語・象徴である現象界の問題である。つまり、新聞マスコミは、大衆、市民、国民、民衆、人民・民人、人々等を代弁するという建前になっている。私は、これは、虚偽、欺瞞だと思う。なぜならば、多数、多様な国民を代弁できるはずはないからである。多種多様な不連続的差異である国民が存在しているのであり、それらは、代弁不可能である。だから、マスコミ新聞の存在自体が本来いかがわしい、胡散臭い、胡乱なものである。代弁ではなくて、差異としての事実や事象を伝達し、また、差異としての見解を述べることが正当である。つまり、個別=一般性というヘーゲル哲学が、マスコミを支配しているのである。これは、当然、国家主義となるのである。



小学館ランダムハウス英語辞典から
rep・re・sen・ta・tion

■ n.

【1】(…の)表現,描写,描出,叙述殪f・:
the representation of the visible world 目に見える世界の表現.

【2】(言葉・文字・記号などによる)表示,表現[表象]されたもの;表象:
a graphic representation 図示
a phonetic representation 音声表示,発音表記
a statistical representation 統計的表示
a symbolic representation 象徴
internal representations of external reality 外界の現実の心中での表象.

【3】(代理人・代表者による)(…の)代行,代弁.

【4】
(1)代表する[される]こと,代表(者)を出す[送り込む]こと,代表派遣;代表派遣の権利:

a fair representation of the people in Congress 議会で人民が公正に代表されていること
demand [or request] representation on a board of directors 理事会に代表を出すことを要求する.
(2)。行政「代議制,代表制:

proportional [regional] representation 比例[地域]代表制.

【5】沛W合的 (選挙区などの)選出議員団,選出議員数:
the representation from a constituency 選挙区選出議員団.

【6】。外交「国家代表権に基づく行為[発言].

【7】
(1)(考えなどを)心に思い描くこと,想像力,概念力[作用].
(2)(心に浮かぶ)表象,心象,概念;心象の形成.

【8】(絵画・彫刻などで)表現した[された]もの,描出,描写:
the pictorial representation of a myth 神話の絵画表現.

【9】絵画,画像,彫像,肖像[画],似顔:
the primitive representations of animals found in the cave 洞窟(どうくつ)で発見された動物の原始絵画.

【10】(劇などの)上演(performance), 演出,演技:
a theatrical representation 演劇の上演.

【11】汳ハ例 representations (説得のための)説明,説示;考えの表明;(…に対する)意見の提出[陳述]殳o・:
different representations of the same fact 同一事実の異なった説明
make representations 主張[陳述]する
They deceived us by false representations. 彼らはうその説明をして私たちをだました.

【12】泄カ語 殲epresentations (…への)(…についての)(正式の)申し入れ,抗議(appeal)殳o・about・:
make strong representations to the authorities 当局に強硬に抗議する.

【13】。法律「
(1)(口頭・文書による)表示:

a representation of authority 権限の表示.
(2)代襲[承祖]相続:
推定相続人が相続開始前に死亡した場合,推定相続人の子孫が代わって相続すること.

【14】。言語「表示:語・文などを分析し,構成要素を記号などで明示すること:
phonological [lexical, structural, semantic] representation 音韻[語彙(ごい), 構造,意味]表示.

【15】(前任者から権利・義務などを)引き継ぐこと.

【16】。美術「=representationalism 2.

[1400? 中期英語 representacion<ラテン語 repraesent殳i[〔repraesent殲e「表す(REPRESENT)」より〕]
[ 更新日時:2005/09/07 18:30 ]
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超越論的主観性と超越論的差異性
[ 09:55 ] [ 差異共存志向性と現象学的還元 ]
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フッサールの言う主観性と、不連続的差異論の差異とはどう異なるのだろうか。この相違は、決定的なものがあると考えられる。フッサールは、いわば、観念論の伝統から、超越論性を徹底化した。そして、認識の基盤・原基に、超越論的主観性や相互主観性を発見した。だから、思うに、フッサールは超越論的観念論の立場と言っていいのかもしれない。問題にしたいのは、フッサールは、根源に志向性という意識ないし原意識を置いていることである。だから、原意識である。そう、唯識論に似ているように思える。とまれ、原意識と生活世界は関係しているわけであるが、しかし、生活世界とは何だろうか。これは、思うに、メディア界的世界ではないだろうか。しかし、フッサールは、生活世界を十分に説明していない。志向性と生活世界の具体的関係はどうなるのか。志向性と生活世界はどうつながっているのかという問題もあるだろう。不連続的差異論から見ると、志向性と生活世界との繋がりは、メディア界的な繋がりではないだろうか。志向性は、メディア界⇒現象界であり、生活世界は、志向性の結果である現象界であるから、メディア界的現象界であろう。ということで、フッサール現象学は、不連続的差異論で説明できる。
 さて、最初の課題にもどると、超越論的主観性は、差異で十全に解明できるが、差異を超越論的主観性は十全に解明できない。なぜなら、差異は、主観性だけでなく、あらゆる事象に適用できるからである。問題は、志向性にとり、生活世界とは何であるかである。他者である場合は、相互主観性で、関係することができる。では、他者が自然であるとき、あるいは、物体であるときはどうなのだろうか。これは、不連続的差異論の観点になるが、自然や物体に対しても、一種相互主観性が形成されると思う。つまり、一種、アニミズム的になると思う。なぜならば、志向性である差異共存志向性は、他者の差異と共感するからである。つまり、生活世界は、近代以前の民俗学的な世界であろう。河童やオシラ様や物の怪あるいは妖精や天使が生きている世界である。活物論の世界である。そう、D.H.ロレンス的に言えば、コスモスの世界である。あるいは、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』の世界である。
 このように考えて、超越論的主観性と差異性とを相違をまとめると、フッサールの超越論的主観性とは、人間の意識に限定された差異性であると言えよう。だから、フッサールの現象学は、人間的現象学であり、自然をも、その観点と捉えようとするだろう。だから、これは、やはり、人間と自然との二元論になる。ここに現象学の欠陥があるだろう。だから、不連続的差異論のように、差異的普遍性の立場に立てば、人間と自然を差異一義的に記述できるのである。
 だから、フッサールの現象学は、人間に限定して、差異を探究していたと言えるだろう。ドゥルーズの批判に即して言えば、超越論的主観性という超越性をフッサールはもっていたと言えるだろう。しかし、その主観性の枠には、差異が内包されていたのである。それも、ほぼ不連続的差異である。 
 最後に、先に触れた、ドゥルーズの内在論を考えると、内在論とは、実は超越論の言い直しであろう。ただし、それは、客観的超越論であり、主観的超越論であろう。

2005年09月02日 (14:20)

差延的差異とイデア的差異:デリダとドゥルーズ:不連続的差異論の奇蹟

差延的差異とイデア的差異:デリダとドゥルーズ:不連続的差異論の奇蹟


デリダは、超越論的なものは、差異であると、『『幾何学の起源』序説』の末尾で述べている。しかし、デリダの言う差異は、差延である。本源からの常なる遅延のことである。だから、差異=差延を通して、本源への永遠の遡行が為されるということで、ここにデリダ哲学の存立基盤が述べられているのだろう。しかし、これでは、永遠に遡行は不可能である。デリダは、差異=差延を形成する起源を規定しようとしない。ただ、本源的起源のみだ。差異=差延を構成するのは、イデア的な差異であり、その共立・共存性である。これを、デリダはまったく考えようとしていない。確かに、デリダは、自己の理論に一貫的である。ここで、差延的差異と、イデア的差異とを区別しないといけない。ドゥルーズは、後者に関わったのである。ドゥルーズが、デリダに言及することがほとんどなかったは、当然である。そう、なぜなら、デリダ哲学は、一種不可知論であるからだ。そう、超越論的というよりは、超越性的である。
 とまれ、フッサールを差延的に読むのは、いかがなものであろうか。フッサールは、絶対的起源を確信している。差延の根源を確信している。それは、志向性、相互主観性であり、差異共存志向性である。そう、デリダは、フッサールに差延的様相を与えたとは言えるだろう。だから、フッサール/デリダと見ないといけない。フッサールを基盤に見ないといけない。
 因みに、ハイデガーは、志向性を存在にして、存在論的差異を述べたが、思うに、存在論的差異とは、ほとんど差延である。デリダ哲学の積極性とは何であろうか。思うに、理論ではなくて、西欧主義への反逆的意志の過激さにあったのではないだろうか。その意志は、「怨霊」的と言えないこともない。
 では、ハイデガー哲学をどう見るべきか。これは、推測しか言えないが、志向性を存在に転換したことで、自然哲学に、つまり、人間を包摂した自然哲学になったと言えるのではないだろうか。志向性が、自然の力となったのである。だから、現象学を人間現象学から、自然現象学に変えたと言えるのではないだろうか。しかし、この進展に大きな問題があるだろう。つまり、志向性のもつ他者への志向性が、喪失されているからだ。存在としたとき、即自的になり、対自性が欠落することになったと言えるだろう。そう、フッサールにあった差異と差異との距離(志向性)が喪失することになったと言えるだろう。つまり、フッサールは、特異性を保持していたのである。つまり、ある不連続性を保持していたのであるが、それが、ハイデガーにおいて喪失しているのである。だから、差異の連続・同一性化と言っていい。これは、ベルクソン哲学と通じる事柄である。そして、何度も述べているが、ドゥルーズがこのベルクソン/ハイデガー的連続・同一性の差異を無批判に継承してしまったのである。だから、スピノザやニーチェの超越論性や特異性をも継承しているドゥルーズ哲学は、自己矛盾を犯しているのである。そして、この矛盾を、樫村晴香氏が天才的に抉り出したのである。問題は、フッサール⇒ハイデガーの転移にある。ハイデガーには、デカルト、スピノザ、ニーチェ、フッサールの特異性、単独性が欠落していたのである。この点ならば、サルトルの『自我の超越』の「自我」ではなく「エゴ」の考えの方が、適切であったように思える。(「エゴ」とは、個・個吾とすべきである。思うに、ドゥルーズの言う前個体性とは、サルトルの「エゴ」に起源があるのではないだろうか。)そう、サルトルは、ある意味で、特異性、単独性を捉えていたと思う。サルトルの「実存主義」とは、特異性、単独性ということだと思う。ただ、サルトルの失敗は、連続的全体性に囚われていて、共産主義と結託してしまったことである。そう、サルトルは、だから、ハイデガー以上に、フッサールを継承していたのではないだろうか。ただし、魔が差したと言うのか、マルクス主義を選択してしまった。本来、カミュと共闘できたはずであるが、連続・同一性の全体性の「罠」に嵌まってしまった。これは、メディア界中心主義的に発想するとき、陥りやすい誤謬である。キルケゴール/ニーチェ/フッサールの特異性・単独性を継承した現象学者や、ポストモダンの哲学者はこれまで、いなかった。このように見ると、どれほど、不連続的差異論が奇蹟的な理論であるかが、わかるだろう。ODA ウォッチャーズ氏の不連続性の概念が、スーパーブレークスルーへの導火線であったのである。
 不連続的差異論は、自然の原理を解明したものであり、ここから、新しい世界が創造されることになる。差異共存共創資本政治経済社会の創造である。





フーガの後れ:差延としてのフーガ

フーガは、思うに、不連続的差異論の音楽的表現のように思える。最初の主題提示とは、イデア界からメディア界への転化による出来事である。これは、差異共立である。

d1⇔d2・・・⇔dn

である。そして、これが、メディア界的に変容されるのである。

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

である。この〜は揺らぎである。問題は、フーガの声部の後れである。なぜ、同時ではないのか。これは、デリダの差延に関係するように思える。これは、イデア界における差異の共立の無限速度とメディア界から現象界への転化における相対速度と関係するように思える。簡単に言えば、現象界、

d1ーd2ーd3ー・・・ーdn

が形成されるには、それ以前に、

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

がなくてはならず、この結果として、現象界が発現するのであるから、後れが生じると考えられよう。正に、差延である。この差延をフーガは表現しているように考えられるのである。そう、差延としてのフーガの技法である。〜の揺らぎの応じて、多様なフーガが成立すると考えられる。 
 そして、マイナス強度とプラス強度があるから、前者が主導的だと、より差異共存的フーガとなり、後者が主導的だと、連続・同一性的フーガとなるだろう。そして、それぞれ、対称性をもつので、計四種類となるだろう。差異共存的フーガとは、正に、典型的なフーガということであり、連続・同一性的フーガとは、単純なフーガということではないだろうか。

p.s. 以上の考察で、差延というデリダの概念を用いたが、それは、メディア界から現象界への転化を意味するが、それは、差異と連続・同一性のズレ・後れを意味していると言えるだろう。そして、デリダは、この差延を基礎として、連続・同一性(=「ロゴス・音声中心主義」)を正当に脱構築したのである。そして、差延の起源として、グラマトロジー、エクリチュールを考えたと言えるだろう。これも正しいが、しかし、これは、構造のことである。差異の連結である構造のことである。結局、デリダのエクリチュール論とは、ドゥルーズの差異論と重なると言えるだろう。ただし、デリダの問題は、ロゴス批判をしたために、差延において論理を見いだすことができなくなってしまったことだろう。エクリチュールで留まってしまったのだろう。この点で、差異を理念と見たドゥルーズの方に有利性があったと言えるだろう。事実、差延の基礎は、差異の連結であり、ロゴス・論理があるのである。そう、差延の論理・ロゴスをデリダは、必然的に、否定してしまったと言えるだろう。デリダが陥っていた束縛は、正に、近代的合理主義である。このために、それを越えた差延の「合理主義」を見いだせなかったと言えよう。





差異共益倫/共創資本政治経済と、らせん回帰的創造サイクル論


1)差異共存共創政治経済において、差異共存益・公益・社会益をどう捉えるのか。これは、実益があるし、また、倫理に適うことである。適倫性である。適益適倫性である。あるいは、公益倫性、益倫性である。あるいは、倫益性である。あるいは、共益倫性である。これは、単に、精神的な問題だけでなく、利益に関係する事柄である。だから、差異共存共創政治経済とは、共益倫/共創相補性経済である。年金、福祉、医療問題は、共益倫性の問題である。

2)イデア界の回転とらせん回帰的創造サイクル論

3)フッサールが言うように、主観性の根源に志向性、つまり、差異共存志向性があるのだから、これが、人間の絶対的基盤であるから、これへの意識の欠落とは、自然的態度の奴隷ということになるだろう。つまり、志向性が、自然的態度を確立するのでああるが、志向性に無意識であるとは、自然的態度に囚われているのである。これが、思うに、人間の「狂気」の原因ではないか。妄想とは、この自然的態度から来ているのだろう。つまり、志向性という絶対的基盤から発生した自然的態度(妄想)であるから、「解脱」できないのだろう。自然的態度とは、通常は、自我である。利己主義である。そして、この自然的態度が固着すると、妄想、狂気となるのだろう。参考:小泉首相。後で、再検討する。





バッハ音楽は、差異共存志向性の音楽である

クラシック音楽で、一曲あげよと言われたら、躊躇なく、バッハの『フーガの技法』それもグスタフ・レオンハルトの演奏をあげる。
 とまれ、先に、バッハ音楽は、メディア界の構成を表現しているのではないかというようなことを述べたが、それは、間違ってはいないように思える。バッハ音楽は、差異の共存志向性の音楽である。差異の独立が、差異の共存志向をもつという一見背理だが、「正理」が、そこには感じ取られるのである。フーガは、あるテーマが差異となり、それに対して、別の差異である声部が、それを差異共存的に「追いかける」のである。そう、正に、差異共存の音楽である。だから、メディア界の音楽なのである。
 後で、詳しく検討したい。

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差異的創造論:進化論? 知的計画論(intelligent design)?

資料です。

進化論と創造論の対立であるが、私は、周期的創造論の立場と言えるかもしれない。不連続的差異論において、イデア界の回転があり、その回転周期によって、創造が異なると考えられるのである。そう、らせん的回帰の創造論である。これは、一見、進化論と見られるかもしれないが、そうではなくて、差異的変容論である。ある創造のサイクルがあり、それが、終末すると、新たな創造のサイクルが始まるということではないだろうか。これは、古代インドやマヤとアステカの民族の神話に近い考えである。そう、D.H.ロレンスも『メキシコの朝』で、これに言及している。

p.s. 思うに、現代は、西洋文化という一つの創造のサイクルが終末期に達して、新しい一つの世界文化のサイクルが創造されつつある時期ということになるのかもしれない。占星術で言う星座エポック・サイクル(例えば、水瓶座・宝瓶宮のエポック)は、このようなものかもしれない。

「One side can be wrong

Accepting 'intelligent design' in science classrooms would have disastrous consequences, warn Richard Dawkins and Jerry Coyne

Thursday September 1, 2005


It sounds so reasonable, doesn't it? Such a modest proposal. Why not teach "both sides" and let the children decide for themselves? As President Bush said, "You're asking me whether or not people ought to be exposed to different ideas, the answer is yes." At first hearing, everything about the phrase "both sides" warms the hearts of educators like ourselves.

One of us spent years as an Oxford tutor and it was his habit to choose controversial topics for the students' weekly essays. They were required to go to the library, read about both sides of an argument, give a fair account of both, and then come to a balanced judgment in their essay. The call for balance, by the way, was always tempered by the maxim, "When two opposite points of view are expressed with equal intensity, the truth does not necessarily lie exactly half way between. It is possible for one side simply to be wrong."

As teachers, both of us have found that asking our students to analyse controversies is of enormous value to their education. What is wrong, then, with teaching both sides of the alleged controversy between evolution and creationism or "intelligent design" (ID)? And, by the way, don't be fooled by the disingenuous euphemism. There is nothing new about ID. It is simply creationism camouflaged with a new name to slip (with some success, thanks to loads of tax-free money and slick public-relations professionals) under the radar of the US Constitution's mandate for separation between church and state.

Why, then, would two lifelong educators and passionate advocates of the "both sides" style of teaching join with essentially all biologists in making an exception of the alleged controversy between creation and evolution? What is wrong with the apparently sweet reasonableness of "it is only fair to teach both sides"? The answer is simple. This is not a scientific controversy at all. And it is a time-wasting distraction because evolutionary science, perhaps more than any other major science, is bountifully endowed with genuine controversy.

Among the controversies that students of evolution commonly face, these are genuinely challenging and of great educational value: neutralism versus selectionism in molecular evolution; adaptationism; group selection; punctuated equilibrium; cladism; "evo-devo"; the "Cambrian Explosion"; mass extinctions; interspecies competition; sympatric speciation; sexual selection; the evolution of sex itself; evolutionary psychology; Darwinian medicine and so on. The point is that all these controversies, and many more, provide fodder for fascinating and lively argument, not just in essays but for student discussions late at night.

Intelligent design is not an argument of the same character as these controversies. It is not a scientific argument at all, but a religious one. It might be worth discussing in a class on the history of ideas, in a philosophy class on popul