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2005年09月23日 (21:45)

派閥政治と新自由主義:近代的資本主義から脱モダン的資本主義へ


派閥政治とは何であったか:近代的資本主義から脱モダン的資本主義へ

先の検討では、派閥政治とは、近代国家の封建主義的特権性に基づくと考えたが、それだけでは、とても不十分であるので、さらに検討したい。
 近代的民主主義ないし間接民主主義は、先に述べたように、自由な市場を求める資本主義と自由・平等を求める社会・「民衆」との収斂として形成された。しかし、近代的政治・国家は形式的には民主主義形態を取ったが、政治・国家(官)は、公共投資、公社・公団、地縁的共同体、圧略団体等を含む国家資本主義ないし「社会主義」的資本主義的な政治・行政形態となっていた(いる)のである。これは、政官財の癒着となって現れているのであり、ここが、日本の財政の破局的危機をもたらしたと言えよう。
 さて、では、この国家資本主義ないし「社会主義」的資本主義政治形態とは、理論的にはどういうものか考察しよう。これは、実は、社会・「国民」の民主主義の政治・経済的実現を意味しているだろう。つまり、国民のための公共投資等々である。つまり、民主主義は、いわば、社会主義と資本主義を折衷させたのである。これが、20世紀ないし戦後の近代国家の政治経済状態である。資本主義と社会主義のハイブリッドとしての近代民主主義政治経済と見なくてはならない。これが、派閥政治の本質である。しかし、この中間形態に対して、資本主義側から、異論・反対が生まれる。それが、新自由主義である。これは、反抗であり、革命性を帯びている。自由市場論であり、脱社会主義化である。そして、これが、現代日本にも押し寄せたのである。
 とまれ、以上のように考えると、社会主義的資本主義とは、近代主義の帰結と言えよう。資本主義と社会・「民衆」のそれぞれの志向が民主主義によって妥協的に統合したのであるから。しかし、資本主義、国際金融資本主義は、この近代主義を否定して、さらに、資本主義自体の自由を求めて、新自由主義を形成するのである。これは、明らかに脱モダンである。ここでは、もはや、社会・「民衆」の本来的志向は無視されている。社会主義的志向は完全に否定される。利己主義、弱肉強食が正当化される。これが、小泉新自由主義・ファシズム革命の意味である。
 ここで、これまでの私の考察を加えると、新自由主義は、差異への反動である宗教改革・プロテスタンティズムの延長・帰結である。日本では、おそらく、明治維新の尊王一神教的「革命」の延長・帰結である。そう、戦前であり、明治に日本は回帰したのである。問題は、ここで、反動により否定されたものが、必然的に力をもつことである。これは、反動の問題である。反動となるのは、元にある根源的な力があるからである。この根源的な力に対して、反動が生じるのである。だから、新自由主義とは、この根源的な力を逆喚起するのである。これが、差異の力である。おそらく、新自由主義は、差異理論に喚起されているはずである。そう、差異哲学、ポストモダン理論、ポスト構造主義理論の影響を新自由主義は受けていると思う。つまり、こういうことではないだろうか。20世紀後半、1970年代~1980年代、ポストモダンの隆盛期であり、1990年代からは、新自由主義の隆盛期である。この順序に注意すべきである。ポストモダンは、近代主義への批判であり、その解体であり、連続・同一性を批判し、差異へと解体したのである。これは、差異の力への還元を意味する。そして、この還元された差異の力が、賦活して、原動力となったと考えられるのである。つまり、差異ルネサンス(イタリア・ルネサンス)が復活したのである。そして、これに対応するように反動としての新たな宗教改革・プロテスタンティズムが復活したのであり、それが、正に、新自由主義なのである。現代は、近世の復活・回帰現象である。14世紀~17世紀の回帰(日本で言えば、安土桃山時代と明治維新の回帰)である。(思えば、私がシェイクスピア悲劇を引用したのは、衒学ではなくて、本質的意味があると言えよう。そう、また、ここで、忘却された花田清輝が復活するだろう。)
 結局、現代は、ルネサンス/プロテスタンティズムの回帰である。しかし、それは、単に同じものの回帰ではなく、らせん的回帰のはずである。それは何か。アメリカ一極主義ないし欧米中心主義の崩壊である。多極主義・多元主義がはっきりと出現し出したことである。これは、国際・世界金融資本主義という一義性における多極化・多元化である。これは、いわば、経済のスピノザ主義であり、「帝国」の実現である。そう、経済のスピノザ/ニーチェ主義と言えるだろう。
 さて、もう少し詳しく見ていこう。ポストモダン理論であるが、それは、結局、近代主義を解体・破壊したのは事実である。もはや、連続・同一性を信じられないのである。結局、個・単独性・特異性へと還元されたのである(デカルト哲学への還元)。つまり、多元主義の勝利がここにある。ドゥルーズ&ガタリの理論は無ではなかったのである。この基盤にある多元論こそが、現代のルネサンス/プロテスタンティズムをらせん的回帰にしているものである。かつては、一元論、一神教が基盤にあったが、現代は、ポスト一元論、ポスト一神教である。ここが決定的に異なるのである。これは、何を意味するかと言えば、新自由主義は、早晩、解体して多元主義へと進展することである。ポスト新自由主義であり、差異共存共創主義・差異メディア・エネルギー資本的政治経済へとパラダイム変換することである。
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