2005年10月31日 (21:41)

自然とは何か:連続的自然と不連続的自然:連続的理性と不連続的理性

後で、詳論する予定であるが、今簡単に創造について触れると、根本的に二種類の創造がある。誰もが目にする、植物の創造は、造化である。スピノザ的に言えば、能産的自然による所産的自然である。これは、ピュシス、自然(じねん)である。しかし、人間は、工作する。テクネーする自然である。これは、造化の自然とは異なるが。広義の自然ではある。二つの自然があるのである。人間の造る機械も、一つの自然である。この自然が自然自体に破壊的ではある。
 ここで、不連続的差異論から見ると、創造は三種類可能である。

1)自然(じねん)の創造
2)機械の製作:人工的創造
3)不連続的差異による創造

これまでの創造観は、1と2が主流だったと思う。しかし、3が可能であるし、多くの創造的な物事は、3に関わるだろう。とりわけ、芸術と呼ばれるものは3に関係する。ここで、三つの理性が考えられる。

1の理性とは、自然科学である。フィボナッチ数列や黄金分割に関係する自然である。

2の理性とは、メディア・現象境界に関係する。つまり、近代的客観主義的理性である。これは、古い近代・自然科学である。

3の理性とは、不連続的差異の理性である。これは、イデア界の理性である。思うに、プラトンの『ティマイオス』であるが、その理性とは、1の理性と2の理性の折衷だと思う。3の理性こそ、現代の理性である。これこそ、純粋理性である。カントの純粋理性とは、イデア・メディア境界の折衷理性である。だから、アンチノミーとなるだろう。

現代は、3の創造・理性の新時代である。1の理性は、プラトンの理性である。そして、2の理性は、近代主義である。これが、1と衝突している。
 では、3の創造性とは何かである。これは、イデア・メディア境界における、新しい創造である。連続化の基準的比率(連続的理性)に因るのではなくて、不連続的差異的理性が基準となる。差異連続的理性ではなくて、差異共存的理性である。

p.s. 1がプラトンの理性と言ったが、説明が必要だろう。『ティマイオス』のデミウルゴスは、理性によって、宇宙を創造するが、それは、ピュシスとテクネーの中間であろう。キリスト教の創造神は、当然、自然を超越した神であるが、しかし、思うに、ロゴスで創造するのだろうから、プラトンのデミウルゴスに似ているだろう。
 他に、カントの純粋理性であるが、イデア・メディア境界にあると述べたが、例えば、自由と必然のアンチノミーを考えると、自由とは、差異から発するのであり、それは、イデア界に根拠がある。しかし、必然性とは、現象界に根拠があるだろう。だから、やはり、これも誤りで、訂正したい。的確に言えば、イデア界と、メディア・現象境界とのアンチノミーだろう。思うに、カントの構想力(想像力)とは、メディア界だろう。
 後で、もう少し検討したい。

p.p.s. 構想力はメディア界であるが、これと、イデア界とが、カントにおいては、つながっていない。フッサールの超越論的主観性、超越論的現象学とは、イデア・メディア境界とイデア界に達していると思う。ただ、私見では、フッサールは、両者の間を揺れ動いていたようである。主観性という発想は、イデア・メディア境界だと思う。しかし、志向性の概念は、イデア界の力の概念と考えられるのである。
純粋理性批判
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『純粋理性批判』(じゅんすいりせいひはん、Kritik der reinen Vernunft)は、ドイツ の哲学者イマヌエル・カント の主著で、第一版が1781年 に、第二版が1787年 に出版された。カントの三大批判の一つで、1788年 刊の『実践理性批判 』(第二批判)、1790年 刊の『判断力批判 』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間の理性が担う諸問題についての古典的名著。ライプニッツなどの存在論的形而上学と、ヒュームの認識論的懐疑論の両方を継承し、かつ批判的に乗り越えた西洋哲学史上、もっとも重要な著作のひとつである。


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概論

『純粋理性批判』は、理性 認識の能力とその適応の妥当性を「理性の法廷」において理性自身が審理し批判する構造を持っている。ゆえにそれは哲学 (形而上学 )に先だち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントはいう。

カントは理性(Vernunft)がそれ独自の原理 (Prinzip)にしたがって事物(Sache, Ding)を認識 すると考えるが、この原理は理性に経験 にあらかじめ先立って与えられる内在的なものであり、理性自身はその起源を示すことが出来ず、またこの原則を逸脱して自らの能力を行使することも出来ない。換言すれば、経験は経験以上を知り得る事ができず、原理は原理に含まれる事以上を知り得ないのである。カントは理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリな認識として、経験を基礎とせず成立しかつ経験のアプリオリな制約である超越論的 (transzendental)な認識形式にもとめ、それによって認識理性(theoretische Vernunft)の原理を明らかにすることにつとめる。
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人間的認識能力とその制約

伝統的な懐疑論 は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、もって認識そのものの成立の妥当性を否定したのだが、カントはこうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能の条件である超越論的制約はすべての人間理性に共通なものであって、ゆえにその制約のもとにある認識は、すべての人間にとって妥当なものである、と。

ここでカントは認識の制約以前にある「物自体」(Ding an sich)と経験の対象である「物」(Ding)を区別する。「物自体」は理性を触発し(affzieren)、感性 (Sinnlichkeit)と悟性 (Verstand)に働きかけ、それによって人間理性は直観 (Anschauung)と 概念 (Begriff)によって、かつ超越論的制約であるふたつの純粋直観(reine Anscuauungen)・空間 と時間 、また12の範疇 (Kategorie)すなわち純粋悟性概念(reine Verstandbegriffe)のもとに、みずからの経験の対象として物を与える。

しかしこれは一方で、人間理性(menschliche Vernunft)が、われわれの認識能力(unser Erkenntnisvermoegen)を越えるものに、認識能力を適応することができないということを意味する。すべての人間的認識は超越論的制約のもとにおかれており、ゆえに伝統的に考えられてきた直接知、知的直観の可能性は否定される。神 やイデア (理念)といった超越が、人間理性にとって認識可能であるとした伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられ得るものにのみ限定する。すなわち、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適応するにとどまるのである。

感性と悟性は異なる能力であって、これらを媒介するものは、構想力 (Einbildungkraft)の産出する図式(Schema)である。また感性の多様 (Mannigfaltigkeit der Sinnlichkeit)は統覚 (Apperation)、すなわち「我思う」(Ich denke: つまりデカルト のコギト)によって統一されている。しかし理性にはおのれの認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質 (Naturanlage zur Metaphisik)がある。このため、認識理性は、本来悟性概念の適応されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適応しようとする。しかしカントは認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識(erkennen)されえないものはただ思惟する(denken)ことのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神・魂 の不滅・自由 が挙げられる。
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アンチノミー(二律背反)

理性概念・理念(Idee)は人間の認識の能力を超えており、したがって理念を認識し、述語付けしようとする試みは、失敗に終わらざるを得ない。カントはそのような悟性の限界を4対の二律背反(Antinomie)する二命題の組み合わせによって示す。

こうした命題 は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいはどちらも偽であるという結果におわる。カントはこのような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適応をあやまったなりたたないものについての言述であることに帰する。こうした二律背反命題としては事物の必然性 と自由 についての背反命題(第三アンチノミー)があげられる。これはキリスト教において予定 との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いであるが、カントにおいては因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適応することから矛盾をきたすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由がなりたつことは、カントの批判の体系内では双方ともに真なのである。

ただし、こうした理性概念と人間理性の問題は『純粋理性批判』のなかでは必ずしも十分に展開されず、のちに『実践理性批判』で展開されることになる。
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影響史

『純粋理性批判』第1版は、当時のドイツ の講壇哲学者と通俗哲学者の双方から激しい批判で迎えられた。とくにカントの哲学をバークリ の観念論 と同一視する批判がなされた。カントはこれに反論し、自らの批判の内容を簡潔に要約した『プロレゴーメナ』を著すとともに、とくに感性 論および統覚 と構想力 について述べる部分に大規模な記述の書き換えをほどこし、第二版を発行した。しかしカントの理解としては、第一版と第二版の間には本質的な差はない。現代の研究者は、両者の間に発展をみとめるものの、大筋では同じ内容に異なる表現を与えたものと解している。

しかし『純粋理性批判』は若い世代に熱狂的に迎えられた。哲学的影響は、フィヒテ やシェリング といった、次の世代に及び、ドイツ観念論 の成立を促した。しかしドイツ観念論は、カントが否定した人間理性による超越の把握に再び向かうことでカントと方向性を別っている。

カントの影響は19世紀末には新カント学派 にも見られる。新カント学派では古典的物理学の認識の基礎付けという側面が強調された。またフッサール の現象学 にもカントの影響は及んでいる。

美学 においては、『純粋理性批判』の構想力論をもとにコンラート・フィードラー が純粋視覚を提唱し、この理論はさらに、20世紀後半のアメリカにおいて、クレメント・グリーンバーグ により抽象表現主義 を擁護するフォーマリズム 批評の理論的根拠として用いられた。
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翻訳

『純粋理性批判』には多くの邦訳があるが、以下には代表的なもののみを挙げた。

* 『純粋理性批判』天野貞佑訳、講談社学術文庫(全4巻)
* 『純粋理性批判』理想社版全集訳
* 『純粋理性批判』岩波書店カント全集訳

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外部リンク

* Kritik der reinen Vernunft - 独語(ウィキソース)
o Critique de la raison pure - 仏語(ウィキソース)

執筆の途中です この「純粋理性批判」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。
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カテゴリ : 哲学書 | 哲学関連のスタブ項目

ティマイオス
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ティマイオス(Timaeus ΤΙΜΑΙΟΣ)は古代ギリシア の哲学者プラトン (紀元前427年 - 紀元前347年)後期の著作である。古くから「自然について」という副題が付いており、アトランティス伝説、世界の創造、元素、医学などについて記されている。自然を論じた書としてはプラトン唯一のもので、神話的な説話を多く含む。後世へ大きな影響を与えた書である。

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内容

* 政治体制を論じた『国家 』の続編という設定で、対話が始まる。冒頭にクリティアスという人物がアトランティス伝説について語る。次いで、ティマイオスという人物が宇宙の創造、宇宙は無限か否か、四元素について、人間の身体についてなどを説いてゆく。(ティマイオスについてはピュタゴラス 派と考えられるが他の記録がなく、架空の人物という説もある)

* アトランティス の伝説については、『ティマイオス』の続編である『クリティアス』でさらに説明が続く(ただし、『クリティアス』は中断している)。

* 創造者「デミウルゴス 」について説明されている。デミウルゴス(δημιουργός) のギリシア語の原義は工匠、建築家である。イデアを見て、模倣しながら現実界(物質世界)を作る存在として、デミウルゴスの名を挙げている(善なる存在と捉えられている)。現実界はデミウルゴスが創造したイデアの似姿(エイコーン)である。

* 「範型」としてのイデアという思想はプラトン中期のイデア論とは異なっているとされる。

* 火・土・水・空気(地・水・火・風)の四元素説が説かれる。それぞれの元素は正多面体であり、その形状によって運動の性質や他の元素との親和性が決まる。たとえば火は正四面体であり、最も軽く、鋭い。これに対して土は正八面体であり、運動することが最も遅い。自然の諸物は元素がまざりあうことによって形成されている。

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影響

* フィロン

アレクサンドリアのフィロン (Philon 紀元前20/30年?-紀元後40/45年?)はギリシア思想に由来するロゴス やイデア論 の概念をユダヤ教 思想の理解に初めて取り込んだ。フィロンはプラトン の著作とくに『ティマイオス』に影響を受け、「デミウルゴス」の存在を「神」に置き換え、旧約聖書 とプラトン哲学が調和的であると考えた。フィロンはプラトンを「ギリシアのモーセ 」と呼んで、プラトンの思想にモーセが影響を与えたと考えた。フィロンの著作は、初期キリスト教と教父 たちの思想、いわゆるアレクサンドリア学派にも大きな影響を与えている。

* オリゲネス

オリゲネス (Origenes Adamantius 182?-251)は初期キリスト教の神学者、いわゆるギリシア教父 でアレクサンドリア学派といわれるグループの代表的存在。オリゲネスの世界観や歴史観は新プラトン主義(ネオプラトニズム )の影響を強く受けたものであった。プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の「創世記」の世界創造の記述を融合しようとし、「創造とは神が無に自分の存在を分かち与えたことである」と唱えた。死後異端 の疑惑をかけられた。

* グノーシス主義

カトリックの教義からは異端とされたグノーシス主義 では、宇宙を創造した神と真の神(至高神)を区別して次のように考えた。物質は悪であり、物質(自然、人間、宇宙)を創造したデミウルゴス(旧約聖書の神)は下等な神である。人間の身体も実体として悪であるが、その中に聖なる火を含んでいる。聖なる火とは、真の神から降りてきた聖霊 (プネウマ)で、善なるもの、本来の自己である。人間は知識(グノーシス)によって、自己を至高神に復帰させることが出来る。また、イエスは至高神の子で、人間に真理を啓示するため遣わされた。

* カルキディウス

カルキディウス(Calcidius 4世紀後半-5世紀初)は『ティマイオス』の一部をラテン語訳し、注釈書を著した。『ティマイオス』はプラトンの著作のうち、中世の西ヨーロッパに知られていた数少ない(唯一の?)著作であった。

* シャルトル学派

12世紀フランスのシャルトル学派の中で『ティマイオス』(カルキディウス訳)が再評価され、注釈書が作られている。

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邦訳文献

* 『プラトン全集6』(角川書店、1974年)
* 『プラトン全集12』(岩波書店、1975年)
* 『中世思想原典集成8』シャルトル学派(上智大学中世思想研究所編、平凡社)

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関連項目

* ネオプラトニズム
* ティマイオス (クレーター) - 月の北部に位置するクレーター 。プラトンの著書『ティマイオス』にちなんで名づけられた。

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外部リンク

* カルキディウス研究[1]

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3
%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9 " より作成

カテゴリ : 哲学書 | グノーシス | プラトン

2005年10月31日 (03:59)

メディア・現象境界構造について:思いつき

本件は容易に分析できると考えていたので、これまで、特に問題化しなかったが、やはり、きちんと整理する必要がある。
 簡単に言えば、差異的多様性がメディア界にある。それを、「光」が主導して、連続・同一性化させるのである。即ち、差異的多様性をもっていた「光」が、言語的連続・同一性化されて、自我・現象界化するのではないだろうか。この言語的連続・同一性が、カントの超越論的形式に当たるだろう。
 思うに、メディア界においては、『鏡の国のアリス』の白の女王におけるように、時間が逆転することも可能であるが、この超時空性が、メディア・現象境界において、凝縮するのではないだろうか。つまり、簡単に言えば、差異1→差異2が、イデア界とすれば、差異1⇔差異2ないし差異1〜差異2がメディア界で、双方向的である。これが、差異1ー差異2ないし差異1・差異2と固定化するのが、現象界だろう。メディア界の強度という原時間(⇔又は〜)が、垂直化して、有時間(ー又は・)となるのではないだろうか。つまり、差異の垂直化としての現象界である。メディア界は、垂直性と水平性がゆらいでいるのである。位相体。垂直力によって、時間が生じて、水平性が空間化して、現象四次元空間が生起するのではないだろうか。メディア界は、超時空間位相体であるが、これが、垂直力の有時間化によって、有空間化するのではないか。垂直力が「光あれ」ではないか。言語行為である。というか、原言語行為である。そして、人間の言語とは、これを模倣しているのではないか。だから、現象界とは、「言語行為」によって形成されているということではないか。これが、超越論的形式ではないか。つまり、これは、数学である。数学=言語行為⇒現象ではないか。微分という言語行為があり、現象=積分(=異化)が生じたのでは。そう、垂直力が微分ではないか。垂直力=微分=時間ではないか。これで、空間=積分が生じたのでは。つまり、微分⇒積分である。つまり、時間が空間を形成する。つまり、志向性が、メディア連結を生み、さらに、現象界連続化を生んだのではないか。

1.イデア差異志向性⇒2.メディア連結志向性⇒3.現象連続志向性? 

ここで、簡単に現象界知覚について触れると、
差異1⇒差異2の⇒の終点の極限値状態つまり、差異1=差異2となったのが、現象界ではないか。では、どうして、主客二元論となるのか。差異1=差異2とは、正に、超越論的形式のことではないか。差異の連続・同一性化である。これが、フレーム化ではないか。差異の連続・同一性化によって、現象性が形成されるのではないか。言語とは、この記号化であろう。つまり、差異の喪失としての現象界化である。
 しかし、私は、現象界の個体は本来、特異性と考えている。これをどう説明できるのか。それは、連続・同一性(差異1=差異2)においても、差異(=特異性)自体が内在しているからではないか。つまり、本来、不連続的差異の共立である一種の特異性がそこには潜在しているということではないか。そう、不連続的差異の共立・共存体が、本体であり、それが、連続・同一性化されているのが、現象個体(=仮象)であり、不連続的差異=特異性の共立体である現象個体とは、当然、本来、特異性である。特異性の集合と言ってもいいのかもしれない。ここで、思うのは、やはり、ニーチェである。ニーチェは、特異性の共立体、不連続的差異の共立の垂直性を説いたと言えよう。そして、フッサールは、主に、その水平性であろう。ドゥルーズも最善のときは、存立平面として、それを説いているだろう。

2005年10月30日 (17:25)

近代的二元論が、諸悪の根源である:近代主義の彼岸としての不連続的差異論


近代的二元論とは、当然、近代的合理主義、近代的自我主義であるが、近代的合理主義とは、フッサールの説く近世・近代的自然科学の客観主義である。これは、デカルト哲学の一面化に過ぎず、その特異性の哲学を喪失している。
 近代的合理主義・近代的客観主義とは、ある主観性に規定されている。ある主観性のフレーム化をもっている。これは、カントの超越論的形式主義であるが、これは、不連続的差異論から見ると、メディア界と現象界の境界のもつ連続・同一性の構造性を意味する。即ち、メディア界→現象界の反転・反動・能動構造力学を作動していて、現象界は、メディア界を排出・隠蔽しているのである。(この力学構造の詳細に関しては、後で、検討する。)即ち、メディア・現象境界の連続・同一性構造という主観性構造・形式(一つの超越論的主観性)が、近代的合理主義・客観主義の主観性であり、近代的自我主義(利己主義)を形成しているのである。
 マルクスの説いた交換価値も、こことリンクしているのであり、これが、近代的資本主義や社会主義の基盤である。
 さて、ポストモダニズムやポスト構造主義は、この近代主義を解体したと言えよう。不連続的差異論から言えば、メディア界の極性的同一性、相補性を説いたのである。(しかし、これは、量子論や相対性理論に相当する哲学であろう。哲学の遅延。)簡単に言えば、近代的自我・合理主義/連続的同一性客観主義を論破したのである。近代的自我は、差異的多様性に変化した。しかし、この差異は、まだ、連続的差異である。つまり、ポスト構造主義等の脱近代主義は、連続主義を残しているのである。連続主義とは、集合主義、連合主義、連帯主義、全体主義である。これは、また、共同体主義、ナショナリズム、国家主義でもある。近代的自我主義を乗り越えたが、連続主義を残してしまっているのである。政治的には、全体主義・ファシズム、(国民)国家主義、ナショナリズム等である。
 だから、さらに、ポスト構造主義を超えて、不連続的差異主義へと進展する必要があるのである。これで、ポスト近代主義が完璧となるのである。 
 さて、最後に、ポスト近代主義において、心身はどうなるか見てみよう。近代的自我・合理・客観主義とは、連続・同一性構造主義であり、それは、精神と物質の二元論をもたらした。つまり、近代的機械論である。精神のない物質があり、その物質形式を精神が認識するということである。この主観性は、機械主義的合理主義である。いわゆる、感情や魂等は排除されている。感情や魂とは、不連続的差異論から見ると、イデア・メディア境界の事象である。これが、近代主義によって排除されるのである。イデア界の回転的変動・不連続的差異の垂直・水平的変動を排除するのである。この抑圧・隠蔽が反動・暴力であり、他者への差別・攻撃となるのである(日常の諸暴力に加えて、植民地主義、帝国主義、世界大戦、覇権主義等を派生した)。
 デリダ哲学は、メディア界的極性的生成変化(構築と脱構築の反復・相補性)を説いたが、ドゥルーズ&ガタリ哲学は、イデア・メディア境界に達したが、このいわばブラックホールに陥ってしまった。即ち、不連続的差異性と連続的差異性との混同が起こったのである。この点、絶対矛盾的自己合一を説く西田哲学の方が明敏である。そして、世界の大変動に対して、ポスト構造主義は衰退した。確かに、ドゥルーズ&ガタリは、資本主義の分裂性を把捉していたのである。思うに、ドゥルーズ&ガタリ哲学とは、現代資本主義の差異価値性を理論化したものと言えるのだろう。しかし、それは、メディア界的資本主義であり、イデア界的資本主義ではない。グローバリゼーションは、新自由主義は、ポスト連続主義である。即ち、イデア界的なのである。ある意味で、ニーチェ哲学の境域にあると言えよう。物自体も超えている。根源の差異、不連続的差異の世界である。これは、フッサール現象学の間主観性の世界・生活世界である。市場原理主義とは、一切の先入観を排しているのである。超物自体である。「空」である。「空」である差異と「空」である差異との共立原理である。ここは、偶然の世界である。必然性はないのである。骰子一擲の世界である。このニーチェ・フッサール哲学あるいは不連続的差異論の世界に、現代最新の資本主義は達しているのである。ハイパーリンクの世界である。これは、イデア界であり、また、イデア・メディア境界の世界である。ここで、突然変異が生起するのである。差異の組み換えが生起するのである。結局、こうなると、国家、社会、文化も不連続的差異化せざるを得なくなる。国家は人体の脳のように、内外信号の整合化機関(器官)として、ミニマム化されるだろう。もっとも脳とは、不連続的差異の器官ではないか。そう、ここで、アントナン・アルトーの器官なき身体を想起する。器官なき身体とは脳のことではないか。あるいは、「脳」。これは、イデア界の器官ではないか。不連続的差異の器官ではないか。そう、双方向的なイデア・メディア境界とも言えよう。ホワイトヘッド哲学のプロセスに相当するだろう。

2005年10月30日 (03:09)

自我の根源とは何か:「わたし」はどこから来て、どこへ行くのか

今は、思考実験でしかないが、作業仮説的に、自我の根源をイデア界の差異共存体としよう。これが、メディア界的遺伝子・形相化して、メディア界と現象界の境界で、有機体化して、個体として誕生するとしよう。即ち、自我個体とは、根源は、イデア界の差異共存体であり、それが、メディア界・遺伝子・形相化されて、現象界で有機体となるのである。図式化すると、

3.現象界:心身体・・・フッサールの自然的態度
________________________
2.メディア界:遺伝子・形相
___________超越論的主観性・生ける現在
1.イデア界:差異共存体・・・絶対的自我・原自我・「神」


このようになるだろう。つまり、人間の根源はイデア界自体である。そして、たとえば、睡眠中は、「わたし」は、イデア界に帰還しているのだろう。というか、原自我にもどっているのだ。不連続的差異の共存体に回帰しているのだ。そして、また、死んだ時は、絶対的に、イデア界に帰還するのだろう。これで、一応、理論化できたのであるが、問題は、個の問題である。自我、「わたし」は、不連続的差異共存体である原自我・イデア界に回帰するのであるが、そのとき、現象界での個はどうなるのか。
 角度を変えて、考えよう。つまり、イデア界の差異を個のように捉えていいのかどうかである。確かに、d1,d2,d3,・・・dnと考えてきたのだから、差異は「個」である。これを、「霊魂」のようなものとしていいのだろうか。(この問題は、解決したが。)
 ここで、また、直観で考えよう。つまり、睡眠中、「わたし」はどうなっているのかという問題を考えよう。夢を見ている時は、「わたし」はメディア界にいるだろう。というか、メディア界を知覚しているのである。ゆらぐ、時空間を超越した世界を知覚しているのである。そう、メディア界自体に存していると言っていいのではないか。 
 次に、夢を見ていない時は、どこにいるのか。先に、「幽体離脱」ではないかと述べた。直観で言えば、メディア界とともに「幽体離脱」状態ではないか。差異連結体であるメディア界が、肉体現象から離脱する? 否、知覚を考えなくてはいけない。知覚とは、根源は、差異境界、差異の強度だろう。つまり、「光」である。思うに、「幽体」とは、メディア界の強度である。エネルギー体である。これが、イデア界へ帰還するのではないか。つまり、メディア・エネルギーが、脱連結化して、差異共存体の「光」へと回帰するのではないか。つまり、即ち、差異共存体の「光」・超光に回帰して、その根源のエネルギーを補給されるのではないだろうか。(だんだん、ファンタジーになってきた。)そして、「バッテリー」が充電されて、再び、メディア界、現象界へと戻るのではないか。すると、知覚とは、エネルギー体である。差異エネルギー体である。そう、光の一種ではないか。結局は、イデア界の差異共存体の「光」、原光ではないか。すると、この原光は、記憶媒体となるのではないか。現象界の記憶媒体となるのではないか。つまり、原光としての知覚である。ということは、無数の差異とは別に、無数の生成変化する原光の知覚があるということになるだろう。この無数の原光知覚が、原自我ではないか。多数の原自我があるということになる。これが、霊魂と言われるものではないか。プラトンは霊魂の不死と言ったが、この原光知覚・原自我のことではないか。ウパニシャッド哲学で、梵我一如(ブラフマンとアートマンの一体性)というが、ブラフマンとはイデア界であり、アートマンが、原自我であろう。そして、これは、無数あるということになる。
 ならば、差異は何かということになる。差異は、自然の質料を主に形成するのではないだろうか。差異=質料であり、原光=知覚である。そして、差異・原光=質料・知覚である。これが、知即存在ではないか。
 ここで、ひとまず、筆を置く。

2005年10月29日 (18:07)

プロテスタンティズムと聖霊の関係:ポストモダン・不連続的差異自由主義イデア界原点革命

問題は、イエス教の意味である。神の下の平等の問題でもある。これは、確かに、キリスト教原理である。ヤハウェとイエスの合体である。しかし、ロゴスを言葉と訳したため、イデア界が喪失されて、現象界中心となった。これは、近代的二元論と相応するだろう。思惟(精神)と延長(物質)の二元論である。ここから、フッサールが批判する物理学的客観主義が生まれた。近代的合理主義である。
 結局、聖霊が意識的には、喪失されたと言えるが、潜在的には、聖霊は存していた。つまり、ルネサンスがプロテスタンティズムに潜在していた。やはり、分裂症としての西欧近代主義である。宗教改革/ルネサンスの二重構造をもつ西欧近代主義である。つまり、イデア界と現象界の分裂である。メディア界を喪失しているとも言える。
 近代的資本主義は、二元論的資本主義であり、聖霊を喪失している。しかし、民主主義が勃興する。それは、実は、イデア界が作用しているからである。しかし、これは、イデア界自体としては理解されずに、現象界的「理性」として理解される。啓蒙思想・フランス革命。つまり、近代的合理主義の枠で、民主主義が創出された。これは、また、キリスト教の平等主義と見合うものである。それは、連続・同一性的平等主義である。「汝自身の如く隣人を愛せよ」 これは、差異の否定である。そして、近代的資本主義に対抗して、社会主義思想・運動が生まれる。これも、結局、近代主義的連続・同一性主義である。つまり、生産の政治的統制を意味するのである。計画経済である。ここにも、差異がない。そして、近代は、近代的資本主義と近代的社会主義に分離して、冷戦に帰結する。しかし、既述のように、資本主義は、ルネサンス、聖霊、差異を内在しているのである。つまり、資本主義自体、ポスト近代主義なのである。つまり、自由主義である。これが、社会主義と決定的に異なる点である。まとめると、近代的資本主義は、キリスト教化された差異自由主義である。イデア界/現象界の分裂症的資本主義である。差異/同一性分裂症的資本主義である。問題は、イデア界の力が、近代主義の枠に閉塞されることである。差異自由主義が、連続・同一性的合理主義のフレームに閉じ込められることである。ここで、キリスト教の用語である三位一体の用語を用いると、近代主義とは、父と子の合体である。一神教と神的平等主義。そして、一神教性は、戦闘・戦争・破壊主義となった。この父と子の合体に対して、無意識の聖霊・差異が作動するのである。これは、差異自由主義であるが、これが、父・子の近代主義をまとうのでる。つまり、差異自由主義が父・子・近代主義化されるのである。これが、植民地主義、帝国主義、世界大戦を生んだと言えよう。【また、社会主義国家の誕生に対応して、国家資本主義・社会主義性を、近代資本主義は取り入れた(ケインズ主義)。】
 この抑圧構造を近代的資本主義はもっていた。つまり、

1.差異自由主義(聖霊)/⇔/2.戦闘的経済自由主義(父)/3.連続的民主主義(子)

の三重構造である。(/⇔/は、抑圧構造の意味である。)
そして、3において、社会主義化したのである。これが、冷戦的資本主義である。しかし、冷戦の終了によって、社会主義が否定され、グローバリゼーションが発動し、新自由主義革命が起こる。これは、社会主義化した3の否定である。小さな政府はそのような意味をもつ。しかし、市場原理主義とは、これは、1の原理である。これは、2の側面をもっているので、極めて破壊的になってはいる。しかしながら、3を否定したので、キリスト教原理は崩壊する。それは、父と子の結合である近代主義の崩壊である。ポスト構造主義、ポストモダニズムは、理論的に近代主義の崩壊を準備したと言えよう。フランス革命を準備した啓蒙思想の位置に相当するとも言えるだろう。すると、近代主義の崩壊によって、実は、根源的な力が発動するようになる。つまり、1の差異自由主義が賦活されるのである。イデア界の力が躍動するようになると言えよう。そう、ネオコンとは、父の側面だろう。しかし、近代主義が崩壊したので、父も解体するのである。子が崩壊しても、父が残ることはありえない。なぜならば、父と子は近代主義において一体だからである。父とは近代的合理主義である。近代的自我主義である。結局、近代主義の終焉である。ポスト近代主義の噴火である。この震源は、差異自由主義・聖霊・イデア界自体である。そして、新自由主義は、その経済的発現である。ただし、国家の枠があるから、権力的で破壊的である。(国家とは何かの問題があるが、後で検討。)
 結局、現代は、ポスト近代主義「革命」(相転移)の新時代であり、近代主義がすべて否定・破壊されるエポックである。思うに、政治・経済の方が、ポスト近代主義を牽引しているのであるが、いまだ、近代主義に染まっている知識人・文化人・国民は、新自由主義をただ否定的に捉えることしかできない。今や、新自由主義は、社会・文化・生活においても発動されなくてはならないのである。それは、不連続的差異共存・共立・共生社会体の構築であろう。不連続的差異共存的民主主義の新構築であろう。
 不連続的差異革命である。イデア界という原点革命である。

2005年10月29日 (00:34)

イデア界の共存力と瞑想・禅・気:イデア・メディア・現象三層共鳴:差異共存共創主義

イデア界とメディア界の境界において、イデア界の虚力と併存して、メディア界の連結力・強度・エネルゲイアが発生している。つまり、後者は、形相・原型・構造・「イデア」・型・雛型(イデア界の差異であるイデアではない)であり、現象界へと転化される。この後者に作用しているのが、いわば、メディア力・強度・エネルゲイアである。わかりやすく言えば、

1.イデア界の力・虚力・デュナミス
・・・イデア・メディア境界・IM境界・・・
2.メディア界の力・強度・エネルゲイア

1と2が、イデア・メディア境界・IM境界に併存しているのである。1⇒2は質的変換である。これが、自然の変化の中でもっとも不思議なものだろう。1/4回転・質的変換である。このとき、連結化が生じて、形相が発生する(連結化の仕方については後で考察しよう)。即ち、形相・エネルゲイア発生である。「無」から「有」の誕生とも言える。しかし、「無」は、不連続的差異の共存状態である。イデア界・虚界における状態である。これが、「有」ないし原有・前有となる。しかし、「有」は、不連続的差異の連結であるから、潜在的には、差異共存性をもっていると言えよう。形相・エネルゲイアは、潜在・内在的に「無」・虚力・デュナミスをもっているのである。とまれ、これが、現象化するのである。それは、連続・同一性化によるのである。微分⇒積分化である。これが、ベルクソン・ハイデガー・ドゥルーズの連続体論の意味するものであろう。連続的差異の有限化である(この点についても後で検討)。
 結局のところ、イデア界の差異は、メディア界化して、そして、現象界化している。だから、超越論的に現象界は差異共存性(思うに、これがプラトンの理性だろう。円だろう。)を内在しているのであるから、なんらかの方法で、差異共存性にコンタクトできるはずであるし、そうした場合、差異共存性の力が、メディア界、現象界に伝導するはずである。これが、思うに、瞑想等によって目指される心身状態だと思う。つまり、心身を差異共存性の状態に変化させるのである。そして、イデア界と共鳴するのである。これが、仏教・禅でいう「無」の境地であろう。空というのも、これと同様であろう。ヨガも同様だろう。また、聖地と呼ばれるところは、このような差異共存性にコンタクトしやすい場所に違いない。確かに、経験的に聖地と呼ばれるところは気持ちがよくなるものだ。(参照:ツボ、経絡、龍脈、レイライン等々)瞑想に関しては、科学的に検証されている。しかし、物質主義的科学では限界がある。
 とまれ、差異共存状態を励起させれば、イデア界が賦活されて、共鳴状態が生じるということになるだろう。おそらく、仕事でも、このような状態になると物事がはかどるはずである。日本一になった千葉ロッテマリーンズは、ボビー・バレンタイン監督の指揮下、このような差異共存状態になったのではないだろうか。イデア界的「超電導」状態である。これからの厳しいビジネス界において、差異共存性の「マジック」を活用すべきである。これは正に、差異共存共創主義である。

2005年10月28日 (17:39)

一神教と多神教の構造について:現象界的連続・同一性とイデア・メディア境界的矛盾同一性

一神教は、イデア界⇒メディア界⇒現象界という連結・連続・同一性の過程であり、境界において、光から闇へ転化すると述べた。この転化の力学を反動と述べたが、それは、不十分で、能動且つ反動、能動・反動的転化と見るべきだと思う。ここには、自然の力学があるのである。これは、一種極性であろう。即ち、能動・反動的転化とは、+作用、又は、+連結作用、+順列作用と呼べるだろう。そして、必然的に−作用が生じる。それが、−連結、−順列作用である。
 しかし、問題は、現象界における連続・同一性の固定、即ち、言語同一性によって、この+と−の極性作用が阻害、疎外、抑止されると考えられる。現象界は、言語意識によって固定される。とりわけ、近代的二元論によって、思惟(精神)と延長(物質)によって固定される。だから、ここで、分裂性が発現すると言える。言語的固定と極性的回転・変動の分裂が生起する。そして、近代主義は、後者を抑止したのである。ここに、近代主義の精神的病理があるのである。そして、後者を保持するものを、狂人と位置づけて、監獄に拘束したのである(フーコーの『狂気の歴史』)。ポストモダンは、近代主義が排除したものを積極的に肯定したと言えよう。結局、メディア界を提起したと言えよう。これは、極性回転・変動・矛盾同一性の世界・領域である。
 さて、極性回転構造について考察すると、これは、正に、矛盾同一的に生成変化する領域である。そして、ここは、たいへん理論的に危険な領域である。ドゥルーズは、ここで混乱したのである。西田哲学の絶対矛盾的自己同一という概念は、この領域を指しているが、絶対矛盾という観念において、ドゥルーズの連続性から脱しているように思える。ドゥルーズは、境界性のもつ矛盾同一性に対して、不明晰であると考えられる。
 では、とまれ、極性回転構造に対して、近代主義は抑圧的であり、ポストモダンは、それを剔抉した。しかし、これをどれほど、知識人は理解しただろうか。とまれ、+回転と−回転があると言えよう。そして、+回転で固定・固着しているのが近代主義である。そして、−回転を指摘したのが、ポスト構造主義である(デリダの脱構築とは正に、−回転だろう。構築した+を−回転で解体するのだ)。しかし、これは、実は、文学や美術等の芸術分野で為されていることである。「モダニズム」と呼ばれるものがそうである。だから、本当は、「モダニズム」とは、トランスモダニズム、メタモダニズム等と呼ばれるべきである。
 今日、現代世界は、ポスト構造主義を超えている。新自由主義は、不連続的差異の肯定である。これは、イデア界の領域である。だから、ポスト・ポスト構造主義、即ち、不連続的差異論に達しなければ、現代を理解できないと言える。このイデア界の構造であるが、これは、+と−の極性の世界ではなくて、虚数、複素数の世界である。虚界である。純粋超越論的世界である。ここでは、不連続的差異の共存の「力」が存するのである。デュナミスの力である。そして、実は、イデア・メディア境界において、この力が作用するのである。共立力である。(思うに、市場原理とは、一種共立力をもっていると言えよう。)今や、この虚界の共立力を抽き出すべきときなのである。これは、思うに、無限エネルギーへのアクセスと通じると思われる。今や、現代は、虚界の世界、純粋超越論世界、イデア界へと参入することになったのである。物理学や数学ではおなじみの世界であるが。

p.s. +回転や−回転とは、素粒子の生成消滅に関係しそうである。+回転で生成し、−回転で消滅するということである。私の想像では、これは、イデア界へ帰還したことだと思う。量子論では、「場」というが、しかし、「場」は、イデア界と見做すべきだろう。イデア界の+回転があり、それが、メディア界的連結エネルギーを発動させ、そして、イデア界の−回転が、メディア界的脱連結エネルギーを発動させるのではないだろうか。+回転とは1/4回転だろうし、 −回転とは2/4回転ではないだろか。ここは、ロジャー・ペンローズのスピノールのようなものに似ているように思える。メディア界の生成消滅の根源は、イデア界の回転ということになる。このイデア界の「力」が、メディア界の極性力となる。イデア界の「力」がメディア界の「力」に転換するイデア・メディア境界の事象は実に興味深い。イデア界の力が、メディア界の極性力に変換するのだ。ガウス平面の力が、量子論の本源的力であろう。もっとも、量子論は、メディア界的相補性を扱っているが、それは、差異/強度の相補性であろう。差異が粒子性となり、強度が波動性となるのだろう。しかし、本来不可分一体である。差異と強度の相補性である。この強度(エネルゲイア)が極性がもつのであるが、前強度、原強度がイデア力である。これが、デュナミスである。デュナミスが差異共存力である。差異絶対力である。

p.p.s. 後、問題点は、イデア力自体が開かれた時は、どうなるのかである。思うに、イデア力は危険である。それは、通常の現象界の同一性の認識と齟齬を来すだろう。だから、一種狂気となるのである。これを、通常の認識に組み込む方法が必要である。やはり、イデア界を知的に肯定する必要がある。それによって、イデア界の力は、現象界の認識と調和するようになるだろう。(参照:禅) D.H.ロレンスがカオスの力と呼んだものが、このイデア界の力であろう。現代、イデア界の力と調和する必要がある。これによって、ポスト近代主義が決定的になり、ポスト西洋文明の、新地球文明時代へと転換するだろう。イデア界の差異共存の力。差異共存の知。そう、イデア界の身体的認識により、イデア界の力があたかも超電導のように流入するのではないだろうか。つまり、差異共存性と調和する心身となると、差異共存力が流入するのではないか。なぜならば、共鳴するからだ。イデア界の差異共存性と心身とが共鳴して、力が流入するのではないだろうか。これは、順列形成とは別である。イデア界とメディア界と現象界の三者共鳴である。そして、思うに、東洋の「気」とは、このイデア界の力のことではないだろうか。これは、生体を活性化するだろう。また、さらに言えば、睡眠とは、やはり、イデア界の差異共存界に帰還することではないだろうか。知覚が、イデア界に帰還して、イデア界に参入するのではないだろうか。また、秘儀・密儀参入も同様ではないか。古代ギリシアにおいてエレウシスの秘儀が有名で、プラトンやソフォクレス等が参加したというが、秘儀とはイデア界に参入することならば、それは説得力があるだろう。また、グノーシス主義の叡知界も同様だろう。

2005年10月28日 (12:04)

一神教、キリスト教、プロテスタンティズムの構造について:再論

一神教の図式


1.イデア界/IM[光/闇]/2.メディア界/MP[光/闇]/3.現象界

二つの境界に光/闇の閾(いき)を作業仮設する。そして、一神教の場合、両境界の光に対してブラインドとなっている。つまり、闇の側面が生じている。これは、イデア界の排出・隠蔽、メディア界の排出・隠蔽を意味する。だから、次のように図式化してもいい。


1.イデア界/IM[光⇒闇/2.メディア界/MP[光⇒闇]/3.現象界

とまれ、一神教は連結・連続・同一性への能動的志向であり、不連続的差異、連続的差異を排出・隠蔽して、それらに対して、ブラインドである。
 これがヤハウェ教である。では、イエス教はどうなのか。思うに、イエス教は、新たに、イデア界が賦活された場合ではないだろうか。それが、イエスの連続・同一性の平等性の教えとなったのではないか。つまり、イエス教は、プロテスタンティズムに似ているように思う。つまり、イエス教の場合、イデア界の触発が新たな触発があるのであり、その不連続的差異、聖霊性が出現していると思う。つまり、イエス教は、精神分裂症があるのである。これは、新約聖書の解読と一致する。矛盾同一性を洞察するのである。だから、イエスは、聖霊の最重要性を説くのだろう。つまり、イエス教は、聖霊教と一神教とのハイブリッドであるということになる。その教えは、聖霊教(不連続性)と一神教(連続性)との折衷となる。
 これに基づくならば、キリスト教本来とプロテスタンティズムはとても酷似しているのだ。カトリックの方が、異教性が強い。とまれ、そういうような作業仮説に立って、資本主義を考察すると、それは、聖霊教と一神教の分裂性をもっているもので、その自由主義とは、この分裂性をもっているだろう。つまり、不連続的自由主義と連続的自由主義である。前者が、経済的には市場主義であり、後者は、経済的には公共事業、社会主義、官営主義と考えられよう。政治的には、両者、代議制民主主義であるが、前者は、自由主義的民主主義であり、後者は、社会主義的民主主義である。
 とまれ、問題は、不連続性と連続性の関係である。資本主義は分裂的に両義的である。これが、いわば、近代主義を構成したのだろう。そして、冷戦的二項対立を生む。しかし、連続主義が敗北する。すると、資本主義は変質して、不連続性を強化したと言えよう。つまり、プロテスタンティズムは、キリスト教性を否定して、聖霊教性を肯定し出したと言えよう。ただし、ヤハウェ性があるから、超越神性、非妥協的絶対的暴力性があるのである、極度に破壊的である。つまり、聖霊とヤハウェがいわば結合して、連続・同一性的社会主義性を破壊するのである。これが新自由主義ではないか。そう、これはイエス教の破壊的側面と言ってもいいかもしれない。イエス教の連続・同一性をイエス教の不連続性(聖霊性+ヤハウェ性)が破壊するのである。
 問題は新自由主義の市場原理である。これは何か。市場原理とは、基本的には聖霊性・不連続性である。経済的聖霊性・不連続性と言えよう。しかし、新自由主義の場合、ヤハウェ性とそれが結びついているので、連続・同一性、社会主義、平等主義を破壊するのである。いわば、自分自身を破壊するのでる。ヤハウェ/イエスが構築した連続・同一性の社会を破壊するのである。なぜならば、聖霊・不連続性による駆動があるからだ。つまり、ヤハウェ/イエスは自分自身に反動化するのである。これは、自己破壊以外の何ものでもないだろう。つまり、聖霊・不連続性・イデア界の威力によって、ヤハウェ/イエス教は、自己破壊、自害するのである。つまり、新自由主義は正に転換点である。これは、キリスト教の超克である。近代主義の超克である。西洋文明の超克である。ただ、この破壊主義は至上に凶暴であるので、純粋イデア界に帰還して、新秩序化する必要がある。即ち、聖霊・不連続的差異に即した(則した)、社会・政治形成が必要であるということである。経済的には、市場原理が勝利したのである。これは、聖霊・不連続性の勝利である。経済以外の政治・社会・文化において、聖霊・不連続的差異の自由主義を新構築する必要があるのである。

p.s. ヤハウェ教の構造とは、上図式の兇離ぅ妊界⇒メディア界⇒現象界の移行全体を意味すると考えられる。ただし、光が闇へと転じている事象は、光の差異が闇の同一性へと転化していることと考えられる。この転化の力学は、否定・反動の力学だと思われる。簡単に言えば、差異から自我同一性を形成する力学である。私がこれまで、一神教における、反動性、捩り、拗くれと言ったものは、この転化過程のことと考えられるのであり、これは、一つの自然過程と見ることができる。権力・暴力もこの自然力学である。そして、ジェンダー論的には、これは、父権制の過程である。そして、近世になり、ルネサンスにおいて、イデア界の再賦活が起こり、再構造化が起こったのである。それは、一神教構造においては、プロテスタンティズムとなったのである。つまり、不連続的差異・聖霊の自由主義が発動したのである。これは、ポスト近代主義、ポスト西欧の動きである。結局、一神教構造と自由主義の矛盾・衝突(二律背反)が生じて、それは、冷戦終焉で、基本的に終了したと言えよう。新自由主義とは、経済領域における自由主義の貫徹である。現代は、ポスト近代主義、ポスト西欧主義、ポスト・キリスト教の超新代である。イデア界の不連続的差異的自由主義のスーパー・エポックである。ポスト・ヒューマン、「超人」、生まれ変わりのアイオーンである。西洋文明のサイクルが終焉して、らせん回帰的に新たな文明のサイクルが始まるアイオーンであろう。

2005年10月28日 (02:47)

「父」と資本主義:戦闘的自由主義と不連続的差異共存社会

これまで、「父」・一神教と資本主義を同一視してきたが、先に考察によって、そうでないことが判明した。即ち、プロテスタンティズムは「精神分裂症」であるのであり、ルネサンス/キリスト教原理主義である。そして、資本主義はこの両義性・分裂性をもって進展してきた。
 ここで、父と資本主義の関係を明確にしたい。先の考察で、プロテスタンティズムは、キリスト教原理主義/ルネサンスということになった。そして、父とは、同一性化したイデア・メディア境界である。これと資本主義はどう関係するのか。自由主義とは、基本的には、ルネサンス的である。そして、父とは、自由主義にとって、アンチ封建的国家のイデオロギーの中心だろう。自由主義は、基本的にイデア界的である。しかし、イデオロギーとして、キリスト教原理主義をまとったと言えよう。つまり、ルネサンス的では、平和主義的である。推進力をもつためにキリスト教原理主義を採用したと言えるのではないだろうか。つまり、差異の垂直化である。そう、ここはとても複雑である。不連続的差異の垂直化としてのプロテスタンティズム・父である。ここで、二重構造を確認しないといけない。イデア界の不連続的差異の垂直化と、イデア・メディア境界における同一性化(反動化)である。これがプロテスタンティズムの父である。つまり、自由主義的解放性と二律背反・弁証法的破壊主義が併存しているのである。
 ここで、新自由主義を考えると、これは、プロテスタンティズムの父のイデア界的解放性をもつと同時に、父の破壊性をもっているだろう。すると、やはり、新自由主義とは、プロテスタンティズムの現代的展開であると言えるだろう。これは、一切の連続・同一性主義を破壊するだろう。できれば、国家も破壊するだろう。アナキズム的リバタリアニズム。結局、旧来の官営的社会民主主義は破壊される。とまれ、戦闘・破壊的自由主義である。しかし、イデア界の差異は、共存性を志向するのであるから、これに対する相補力が喚起される。これが、不連続的共存主義であろう。これをどうするかである。ネグリの考えているマルチチュードとは、マルクス主義に囚われているが、これを潜在的に志向しているのではないだろうか。結局、自由主義的社会民主主義、自由主義的差異共存主義をどう構築するのかということだろう。これには、個人が不連続的差異になって共存する社会を構築するしかないだろう。おそらく、娯楽する余裕がなくなるだろう。不連続的差異の共存する社会構築のために、資金を共立共生化するしかなくなるのではないだろうか。個人がイデア界に達して、不連続的差異共存コミュニティ・エコミュニティを構築するしかないのではないだろうか。イデア界的差異共存社会である。これを共同社会と呼んでいいのであろうか。共生社会、共存社会とは言えるだろう。しかし、共同社会と言えるのだろうか? 
 とまれ、自由主義的差異共存主義の政治・社会が対抗として打ち出されなくてはならない。
 とまれ、父は、子である社会主義、平等民主主義、即ち、近代的民主主義を破壊するのである。これは、先に述べたように、結局、キリスト教の終焉であり、父自身の崩壊であるのだろうか。否、ユダヤ教の支配だろう。キリスト教は崩壊するが、ユダヤ教は残るだろう。父は残るのだ。結局、ユダヤ教/ルネサンスという「父」である新自由主義である。これに対しては、やはり、イデア界的自由主義的共存主義を打ち出すしかないだろう。イデア界への絶対的回帰しか生存の方法はないだろう。不連続的差異共存民主主義だろう。これを政治・社会化する必要があるのだろう。自由差異共存主義である。これは、連続・同一性的民主主義は否定するだろう。思うに、多神教的イスラム教的なもののようになるだろう。不連続的差異的イスラム教。不連続的差異共存コミュニティ(共同体?)が必要だろう。

2005年10月27日 (23:21)

プロテスタンティズムの構造について:基盤としてのルネサンス・聖霊・イデア界

先の考察を明快に整理しよう。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10005552330.html
宗教改革はルネサンスへの反動と考えていたが、それは単純過ぎるだろう。ルネサンスは、イデア界⇔メディア界⇔現象界の図式でいい。宗教改革は、聖書、超越神信仰から発するメディア界の喪失である。この力学の原因は何か。それは、中世的枠組みの支配への反抗がある。絶対主義王権への反抗がある。封建制への反抗がある。プロテストは、異議申し立てである。ルネサンスの個人主義、自由主義との違いは、共存性の有無ではないか。だから、宗教改革は、非協調主義である。この力学構造は何か。確かに、垂直主義である。非妥協的垂直主義である。これは、ヤハウェ主義である。この根源は何か。これは、先に書いた図式でいいのではないか。即ち、

イデア界⇒メディア界⇒現象界 
 ↑          ↓  
 ・・←・・←・・・←・・

⇒が近代的自我主義・エゴイズムであり、←が父への志向性である。この父への志向性であるが、父とイデア界は実は一致しない。父自体がイデア界への示唆であろう。つまり、父とは、イデア界の一種影であろう。即ち、イデア・メディア境界が父ではないだろうか。だから、図式を修正しないといけない。

イデア界⇒メディア界⇒現象界 
 ↑          ↓  
 ・・/父/←・・・←・・

だいたい、このようになるだろう。//は、イデア・メディア境界である。つまり、父とは、イデア・メディア境界の「力」(おそらく、デュナミス/エネルゲイア)である連続的差異主義である。父は統一的な力となるだろう。なぜ、そうなるのかと言えば、それは、現象界の連続・同一性主義を帯びているからだと思う。現象界的連続・同一性を帯びたイデア・メディア境界が父=ヤハウェだと思う。だから、これは、多神教の構造とよく似ているのである。多神教の場合は、 ⇔となるのであり、神々は、父=ヤハウェと同様に、イデア・メディア境界にあるだろう。だから、ルネサンスが、現象界主義になったのがプロテスタンティズムと言えよう。
 では、この修正をポスト近代主義に当てはめると、新自由主義の勝利とは、一神教・父の勝利であるが、子という近代的水平主義の敗退である。そう、父の勝利を正当に認めなくてはならない。確かに、父の勝利である。
 では、父とは何かである。存在場所は、イデア・メディア境界である。そして、ここが、連続・同一性によっていわば、硬化している。つまり、差異共存性が、同一性化している。差異がいわば一枚岩のようになっている。これが父だろう。そして、それは、メディア界をも支配する。この連続・同一性化した父は、当然、連続・同一性そのものではない。そう、差異共存性、志向性(フッサール)を否定した唯一者である(参照:シュティルナー)。これが、父である。つまり、イデア界の志向性を否定した唯一者である。これは、イデア界の反動と言ってもいいだろう。ここには、冷酷無惨さ・超悪魔性があるのである。(旧約聖書のヤハウェの野蛮酷烈無惨さを見よ。また、西洋文明の同様さと比較せよ。)
 すると、新自由主義が父とするならば、そして、子を滅ぼしたとするなら、それは、聖霊、不連続的差異、イデア界への扉を開いたことになるだろう。問題は、西欧近代主義と聖霊の問題である。ルネサンスは、聖霊的である。そして、ルターの聖書の独訳を見ても、それは音楽的であり、いわば、聖霊的である。つまり、プロテスタンティズムにも本当は、ルネサンス性が存しているのである(参照:バッハ音楽)。つまり、イデア界の志向があるのである。ここは非常に複雑である。やはり、持論である反動と見るのが正しいのではないだろうか。否、単なる反動ではない。二重性である。異教とキリスト教の二重性と言ってもいい。この構造はどうなっているのかである。
 こう考えたらどうだろうか。ルネサンス的志向をもちつつ、反体制的な自由主義に立った時、聖書がイデオロギーとなったということではないか。つまり、プロテスタンティズムとは、ルネサンス且つ聖書である。ルネサンス的キリスト教原理主義である。だから、折衷ではある。ハイブリッドではある。だから、プロテスタンティズムは、イデア界・聖霊性をもつと同時に、それを遮蔽する抑圧性をもつのだ。分裂症である。精神分裂症としてのプロテスタンティズム・資本主義である。ここで、ドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』を想起する。副題が、「資本主義と精神分裂症」である。確かに、プロテスタンティズム/資本主義は分裂症である。
 とまれ、プロテスタンティズムが以上のように分裂症的なものであるなら、新自由主義とは、父を超えているのではないか。父は抑圧的であり、不連続的差異を認めない。しかし、市場原理は、不連続的差異を肯定するのである。すると、経済的自由主義とは何かの問題にもなるだろう。それは、本来やはり、聖霊、差異、ルネサンス的なのである。しかし、父である国家や子である平等主義・社会主義がそれに対して、規制的である。そうすると、新自由主義の勝利とは、一神教の勝利ではなくて、ルネサンスの勝利である。聖霊の勝利である。父と子の近代主義を破壊したのである。結局、現代とは、ルネサンスの再来であるが、繰り返すが、グローバル・コスモス・ルネサンスである。聖書によって、抑圧されたルネサンスがここで、復活したのである。それは、イデア界の復活である。聖霊の復活である。結局、キリスト教・西洋文明・近代主義が崩壊・解体したのであり、イデア界的自由主義の全面的開花である。

2005年10月27日 (21:14)

近代主義の閉塞と聖霊差異性:根源的自由主義とポスト近代的資本主義

ルネサンスの差異起動に対して、宗教改革はどのように排出・隠蔽して、近代的資本主義を形成したのか。それは、反動である。この反動の構造はどうなっているのか。思うに、ここが決定的契機である。不連続的差異論から言えば、イデア界へのコンタクトが途切れたのである。三島由紀夫的に言えば、「断絃の時」である。それまで、古代宇宙論、コスモス論が持続していた。アリストテレスやネオプラトニズム的宇宙・世界観があった。これは、ある意味で連続主義である。これが崩壊したのである。コスモスの崩壊である。物質主義的近代主義が始まっている。思いつきでは、これと、宗教改革とはつながっている。唯物論的近代主義とプロテスタンティズムはパラレルだと思う。また、これは、聖書のロゴスを言葉と訳したプロテスタンティズムとパラレルだと思う。端的に言えば、イデア、聖霊が隠蔽・遮蔽されたのである。つまり、当時において、イデア界の意識が希薄になっていたのである。しかし、ルネサンスという強力なイデア界志向もあったのである。ネオプラトニズムとは、そのように見ることができる。フィレンツェのプラトン・ルネサンス(フィチーニのプラトン・アカデミー)。つまり、イデア界の駆動があり、イデア・メディア境界が賦活されていたのである。宗教改革は、カトリックという、いわば異教的キリスト教に対する、キリスト教原理主義の勃興である。この力学は何か。ここがポイントである。これは、聖書から触発された超越神信仰である。超越神とは、現象界を超えた神ということである。ここでは、内在性が否定されている。不連続的差異論からの私見では、内在性とは、ここでは、イデア・メディア境界である。これが、排出・隠蔽されているのである。これは、メディア・現象境界が強固になって、それ以前のイデア・メディア境界が衰退しているということではないだろうか。排出・隠蔽があるのだろうか。ここは実に微妙な論点である。当時、ルネサンスによって、イデア・メディア境界の賦活があった。また、一方、メディア・現象境界の強固もあった。つまり、近世とはヤヌス(両面)的である。つまり、メディア界的である。メディア界の両極性を帯びていたと言える。即ち、一方では、イデア界への志向があり、他方、現象界への志向があった。これは、絵画で言えば、ボッチチェルリに体現しているだろう。つまり、

イデア界⇔メディア界⇔現象界

という構造であったと言えよう。これが、近世の構造である。そして、イデア界⇔メディア界の賦活がルネサンスであり、メディア界⇔現象界の賦活が宗教改革であったろう。後者は、前者にどのように作用するのだろうか。後者は、連続・同一性の構造である。だから、これは、差異を排出・隠蔽するのである。差異をシャットアウトするのである。だから、正確に言えば、宗教改革とは、メディア界を否定した現象界主義である。つまり、メディア界⇔現象界は誤りであり、メディア界⇒現象界である。メディア界⇔現象界は、ルネサンスである。だから、訂正すると、

ルネサンス:イデア界⇔メディア界⇔現象界

宗教改革:イデア界⇒メディア界⇒現象界        
      ↑←・・・・・・・・←↓
 
である。
つまり、宗教改革は現象界主義から不連続となったイデア界へと帰還しようという発想である。つまり、連続・同一性主義ではあるが、そこには、不連続性が残っているのである。そう、反動というよりは、残響として、イデア界があり、それが、父となっていると言えよう。そして、これが、西欧資本主義の精神構造である。アメリカ独立宣言のGod created us equal(神がわれわれを平等に創った)というのは、このことである。連続・同一性の平等主義があり、同時に、父がある。
 ということで、宗教改革は、メディア界を排出・隠蔽しているのである。一方では、明確な現象界があり、他方では、イデア界の残響、名残、残照等があるのである(だから、アレゴリーではなくて、象徴主義的になるのである。)近代主義の閉塞性とは、メディア界の閉塞であったと言えようし、ルネサンスの閉塞であったのである。しかし、潜在、無意識の内に、メディア界やルネサンスは作動している。とりわけ、天才や庶民において。
 とまれ、近代主義とは、現象界中心主義であり、それが、近代的二元論を創ったと言えよう。即ち、思惟と延長、精神と身体の二元論である。思惟や精神とはこの場合、言語知性である。だからこそ、ヨハネ福音書のロゴスが言葉と訳されねばならなかったのである。近代主義は、現象界主義であるから、精神は言語知性ないし言語意識となるのであり、ロゴスという理性は言葉・言語となったと言えよう。そして、このキリスト教的近代主義は、連続・同一性の平等主義を生み、これが、近代的民主主義となったし、また、資本主義への反動として、社会主義を生んだ。それは、キリスト教的近代主義からの派生である。そして、プロテスタンティズム的構造をもった近代的資本主義が発達する。これは、現象界主義(物質主義)であるが、本質的には、イデア界から駆動しているのである。つまり、自由主義の問題である。自由主義とは、思うに、プロテスタンティズム/ルネサンスという二重構造をもっているが、経済的自由主義とは、プロテスタンティズム的である。
 さて、ここで問題なのが、近代的民主主義の発生である。それは、当然、経済的自由主義と関係するし、また、キリスト教的道徳と関係する。神の下の平等。隣人愛。自由は、悪からの解放等であろう。しかし、キリスト教的民主主義とは、連続・同一性の「道徳」であり、それは、差異を抑圧している。メディア界とイデア界を抑圧して、閉塞している。しかし、神はイデア界的ではないかという反論が生じるが、しかし、神は、示唆されても、イデア界ではなくて、連続・同一性の神である。キリストと一体化された神である。キリストとは、連続・同一性の神である。言葉の神である。ロゴスの神ではない。つまり、キリストは、現象界の神であるから、父も現象界的になるのである。即ち、連続・同一性=言葉の神となるのである。だから、イデア界への示唆も現象界に飲み込まれてしまうのである。これが、神の死である。つまり、近代主義とは現象界主義である。現象界中心主義である。そして、これが、現代日本の姿である。ということで、近代主義は、資本主義と連続・同一性の民主主義を生み出すことになる。そして、後者は社会主義を生むのである。つまり、資本主義と社会主義の二項対立である。これは、近代主義の分裂である。 
 問題は、資本主義である。自由主義の問題である。これは、近代主義ではあるが、不連続性をもっている。つまり、プロテスタンティズムの不連続性である。ここには、特異性が生じるのである。つまり、不連続的差異の垂直性がある。ルネサンスは、いわば、優等生で、垂直/水平性の均衡があった。即ち、イデア界の差異の純粋発動があったのである。だから、宗教改革はいわば、不良である。捻くれ、拗くれ、である。拗ね者である。そう、パスカルの宇宙的孤独である。とまれ、特異性があることを認めなくてはならない。そして、ここで、自由主義の資本主義と平等主義の民主主義との二律背反が生じているのである。これが、冷戦に帰結する。資本主義と社会主義の弁証法である。そう、やはり、父(特異性)と子(同一性)の対立が近代主義にはあるのである。
 結局、現代、後者が敗退したのである。連続・同一性が敗退したのである。これは、西欧近代主義の崩壊を意味する。そう、冷戦崩壊以前のポスト構造主義を考えると、それはメディア界の復権であり、それは、それで、近代主義の解体を意味した。プロテスタンティズムの特異性とは絶対的エゴイズムを意味するだろう。唯一者である(シュティルナー)。ここでは、共存性はない。ただ、唯一者と唯一者の連合(同盟)があるだけである。問題は、近代主義の水平的連続・同一性(キリスト教・社会主義)が崩壊して、不連続的・絶対的エゴイズムが勝利したのであるが、しかし、この近代主義の崩壊とは、現象界主義の崩壊を意味する。ポスト構造主義はメディア界を復活させた。それは、ある意味で、ルネサンス的である。そして、近代的民主主義(社会主義的資本主義)が崩壊して、いわば、差異の水平性・共存性が発動するようになったと言えよう。結局、近代主義の現象界中心主義が解体したのであり、メディア界が復権し、また、イデア界自体が賦活されたと言えよう。問題は、ポスト構造主義において、イデア界に到達できずに、イデア/メディア境界への進展で留まったことである。新自由主義は、ある意味でイデア界に達しているのである。経済的イデア界主義に達しているのである。それに対して、社会・政治・人文学的には、遅れているのである。
 もう少し、整理しよう。近代的資本主義は、マルクスが説いたように交換価値という連続・同一性に基づいていた。しかし、現代資本主義は、差異価値に基づいているのである。情報資本主義である。メディア界的資本主義である。また、これは、当然、イデア界的でもある。創造とは、イデア界から生起するのであるから。だから、現代資本主義はポスト近代的資本主義である。これが、新自由主義の意味であろう。旧資本主義、官営資本主義を否定するのである。そう、ポスト構造主義とは確かに、現代資本主義に対応しているだろう。とまれ、ポスト近代的資本主義に対して、意識、理論が、遅れているのである。未だに、近代的民主主義であるのである。つまり、連続・同一性・平等的民主主義なのである。これは、新自由主義に負けているのである。先の衆院選挙は、いわば、「理性の狡知」である。下層民が上層階層を支持したのである。上層階層は、新自由主義である。
 結局、経済領域においては、ポスト近代主義が勝利したのである。即ち、差異が勝利したのである。これは、ルネサンス的である。一面的であるが。そう、既に、イデア界が啓かれているのである。ただ、意識がひどく遅れているのである。阿弥陀如来の無量光が差しているのであるが、気がつかないのである。新自由主義はイデア界に達しているのである、経済的に。後は、政治、社会、文化的に、そこへ達することが必要なだけである。つまり、近代主義において、潜在していた差異、不連続的差異、聖霊が今や開花したのであり、大地の聖霊(これは、天界の聖霊でもある)のエネルゲイアを意識し取り込む時である。これは、聖霊差異共存主義となるはずである。この差異共存主義が新自由主義と相補併存して、新しい地球文明が生起するだろう。それは、聖霊差異自由主義地球資本主義スーパー・エポックである。根源的自由主義によって、不連続的共存主義が賦活されるのである。

2005年10月27日 (17:21)

聖霊差異自由主義地球資本主義エポック:冷戦の終了、グローバリゼーション、新自由主義とは何か

近代主義とは何であったか。あるいは、近代西欧主義とは。ルネサンスとプロテスタンティズムの二重構造が近代主義と言えよう。持論を繰り返すが、差異が近代の震源であり、それが、最初に開花したのが、イタリア・ルネサンスである。それは、ギリシアの差異経済文化、そして、イスラムの差異経済文化を継承したものである。しかるに、西欧のプロテスタンティズムが勃興し、これが、西欧資本主義を駆動させる。即ち、ルネサンス的差異経済文化性は、いわば、無意識へと排出・隠蔽されるのである。しかし、二重構造性は保持されていると見るべきである。
 簡単に言えば、ルネサンス/キリスト教の二重構造経済文化が西欧近代主義である。そして、キリスト教のもつイエス教が、連続・同一性=水平的平等性を生み、平等民主主義、近代的民主主義、社会主義、共産主義、左翼を生んだのである。そして、他方、キリスト教の一神教性・ヤハウェ教性が、自由主義経済を進展させてきたのである。しかし、これは、植民地主義、帝国主義、世界戦争という人類的災厄をもたらしたのである。結局、キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズム、近代的キリスト教のもつ弁証法、父と子との弁証法が、世界を社会主義と資本主義に分離してきたのである。これが冷戦であり、55年体制である。しかるに、これが、周知である、89年ベルリンの壁崩壊、91年ソ連崩壊、92年以降の中国の改革開放路線の進展によって、大崩壊・大解体したのである。ビッグバン、グローバリゼーション、新自由主義の発動が起こった。
 この出来事は、結局、西欧近代主義の破産・終焉を意味すると考えられる。近代主義の終焉である。それ以前に、思想領域では、フランス現代思想と呼ばれたポストモダン、ポスト構造主義が流行したが、それは、基本的には、西欧近代主義の批判的解体を志向したのであり、社会主義、共産主義の大崩壊・大解体を、ある意味で、予見したものを言えるだろう。しかしながら、史的大事件後、思想としてのポストモダン、ポスト構造主義は衰退した。これは、思想として、不徹底・未成熟であったからである。つまり、簡単に言えば、近代的合理主義の批判ではあったが、近代主義の連続主義を残存させていたからである。不徹底な近代主義批判であったからである。(不連続的差異論は、これを徹底して、絶対的な近代主義批判・解体を行なったと考えている。テーマ「不連続的差異論の誕生」のブログを参照。)
 さて、グローバリズム、新自由主義というポスト近代主義とは、理論化するとどうなるだろうか。それは、不連続的差異の経済ということになるだろう。市場原理とは不連続的差異の新しい連結であり、創造的生産/消費主義である。これは、不連続的差異論から言えば、イデア界とメディア界の境界の出来事である。イデア界のデュナミスの新しい連結であるメディア界の創発・創出(エネルゲイア)である。これは、絶対的差異から発しているから、近代主義徹底的に破壊するのである。官営的連続・同一性主義に対する新自由主義の破壊主義である。
 これは、キリスト教的三位一体の用語で考えると、父は資本主義、子は社会主義、官営主義、聖霊は不連続的差異主義である。そして、西欧近代主義において、聖霊=不連続的差異主義が排出・隠蔽されて、潜在・無意識化されたのである。しかし、この聖霊こそが、イデア界であり、不連続的差異であり、これが、資本主義の震源・駆動・起動源である。そして、グローバリゼーションとは、顕在的にはキリスト教の父・一神教・ヤハウェ教、プロテスタンティズムの勝利であるが、しかし、これは、子を破壊しているのある。つまり、キリスト教の崩壊・解体を意味しているのである。キリスト教において、子がなくなれば、それは、キリスト教の死である。神の死である。父の勝利とは、父の死である。これは、どういうことかと言えば、資本主義は、真実在的には、聖霊=不連続的差異によって駆動されているのであり、それが、グローバリゼーションにおいて、父の子に対する勝利となって顕在化したのである。つまり、資本主義は、近代主義の枠を解体したのである。つまり、プロテスタンティズムという仮象・仮装・仮面を突き破ったのである。地(ぢ)のルネサンスが噴出したのである。聖霊・不連続的差異が噴出したのである。換言すれば、父と子の弁証法である近代主義が破壊されたのであり、その弁証法の彼岸である聖霊が出現したのである。聖霊グローバル・エポックである。不連続的差異のグローバル・コスモス・エポックである。そう、絶対的ポスト・キリスト教=西洋文明のエポックである。そう、前古代、古代、中世がらせん的に回帰するのである。思うに、EUもそういう意味合いがあるのではないだろうか。すると、東アジアもそういうことになるだろう。東アジアに前古代、古代、中世がもどってくるのである。聖霊・グローバル・コスモス的超新時代である。
 新自由主義に相応するように新社会民主主義、自由社会民主主義が発動されるだろう。グローバル・コスモス・ルネサンスのスーパー・エポックである。

2005年10月26日 (15:30)

イデア・メディア境界とメディア界の相違点について:ポスト近代的自由社会民主主義と創造的消費主義

問題点に触れると、イデア・メディア境界とメディア・現象境界の違いを精緻に解明することである。今、図式化すると、

イデア・メディア境界

d1/d2/・・・/dn
・・・・・・・・・・・・・
d1〜d2〜・・・〜dn



メディア・現象界境界

d1〜d2〜・・・〜dn
・・・・・・・・・・・・・
d1≅d2≅・・・≅dn

(尚、dは不連続的差異の記号である。)

となり、明らかに異なる。宗教事象は、やはり、イデア・メディア境界事象と見るべきだろう。自由主義に関して言うと、それは、本来は、イデア界から起動している。それが、近代主義となると、思惟と延長との二元論が支配的になり、イデア界を喪失する(cf. ハイデガーの存在の忘却)。これは、イデア・メディア境界を喪失して、メディア・現象界境界が基礎となったということだろう。つまり、メディア界が思惟であり、現象界が延長である。そして、この近代主義に対する批判が様々な領域・分野でなされる。ニーチェは、イデア・メディア境界を超える形で、不連続性を説き、フッサールは明確に、イデア界の差異の志向性を説いた。そして、ポスト構造主義(デリダ、ドゥルーズ、フーコー他)は、メディア界の存在を解明した。だから、近代的自由主義からポスト近代的自由主義への転換が現代的である。
 近代的自由主義は、フランス革命の自由・平等・博愛でわかるようにキリスト教的価値観の世俗化である。これは、キリスト教の連続・同一性主義によっているのであり、社会主義、共産主義もこれを基盤にしていると言えよう。ここには、差異が欠如している。つまり、近代主義は、差異が欠落しているのだ。近代的自由主義とは、自己撞着した思想である。なぜなら、自由とは、本来、差異に原点があるからである。思うに、欧州の個人主義は、キリスト教からではなくて、古代ギリシアから発してると思う。キリスト教からの「個人主義」とは、連続・同一性主義である。つまり、自我主義である。これが、プロテスタンティズムになると言えよう。イタリア・ルネサンスは、表面的にはキリスト教的な表象があるが、原理は、やはり、教科書通り、古代ギリシアである。(もっとも、古代ギリシアと言っても、複合的である。イタリア・ルネサンスも複合的であり、後で、できれば、触れたい。)つまり、欧州個人主義は、古代ギリシアの原理であり、キリスト教的平等主義とは異なるのである。つまり、近代的自由主義は、キリスト教化されているのであり、個人主義と混淆しているのである。そして、ポスト近代主義が、脱キリスト教化を図ったと言えよう。差異へと志向したのである。しかし、それは、ポスト構造主義の限界のために、頓挫した形になったが、不連続的差異論によって、ポスト近代主義が整合的に徹底貫徹化されたと言えよう。
 とまれ、近代的自由主義は、一方で、社会主義、社会民主主義を生んだと言えよう。しかし、これが、公共事業型財政破綻をもたらしたのである。つまり、近代主義の破産が今日明瞭なのである。そして、新自由主義であるが、これは、ポスト近代主義である。市場原理主義とは、差異と差異との交換を前提にしている。差異の理解を前提としていると言えよう。ここでは、近代主義である連続・同一性は排されている。だから、経済的には、新自由主義は、差異的な自由主義という原則に適っている。 
 結局、ここで、解体される「社会主義」的政治の穴をどうするかが、今日の社会・政治的問題である。ポスト近代的社会的自由主義である。新自由主義は、思うに、イデア・メディア境界の経済である。メディア・現象界的連続・同一性に対する反動性がある。それは、小泉首相の二律背反主義、弁証法力学を見ればわかるだろう。とまれ、本源は、イデア界の不連続的差異にある。だから、その穴を埋めるには、不連続的差異的自由主義でなくてはならない。それは、経済的次元とは別の社会・政治的次元で形成されなくてならない。それは、ポスト近代的自由社会民主主義である。このための政治原理、政策が必要となる。それは、差異的民主主義である。差異共存的民主主義である。そのためには、差異共存共創のための消費が必要となる(これは、投資とすると、マイナスになるから、消費にしないといけないだろう、出発点として。)即ち、自由社会民主主義、差異自由主義のための消費、差異自由社会創造的消費が必要である。これが、ポスト近代的自由社会民主主義の政治社会である。

p.s. 新自由主義は、ポスト近代主義ではあるが、イデア・メディア境界を起点にしているから、反動性をもっているのである。つまり、一神教である。多神教を排斥するのである。多神教の問題もあるが、多神教とは、思うに、イデア・メディア境界の事象ではあるが、受動性、純粋受動性のために、イデア界を直視(「霊視」)していると思う。イデア界の無数の不連続的差異を直視していると考えられる(八百万の神々)。そして、イデア界とメディア界と現象界が連続化するのである。連続的共存性がある。一神教(ヤハウェ教)は、これをすべて排斥しようとする。なぜならば、矛盾同一性があり、一神教は垂直力に駆り立てられて、多神教を否定しようとするのであるが、しかし、実際のところ、一神教と多神教は矛盾同一なのである。つまり、イデア・メディア境界において、水平力が作用すると多神教となり、垂直力が作用すると一神教となるのである。ただ、イデア界の力学に拠るのである。この弁証法を超える必要がある。新自由主義が、新しい多神教と相補性となればいいのである。経済と社会との要である政治が、差異自由主義、ポスト近代的自由主義に立てばいいと考えられる。不連続的差異的自由主義的政治の体制にすればいいのである。

p.p.s. 近代的自由主義の問題は、哲学的には、デカルト哲学のコギトの位置づけに関係する。自由主義は、本来、差異を震源としているのであり、近世において、イタリア・ルネサンスがその発動である。そして、哲学的表現はかなり遅れて、デカルト哲学のコギト主義となったと言えるだろう。しかし、デカルト哲学は両義的である。確かに、近代的二元論の創始者であると同時に、ポスト近代主義の原点でもある。つまり、特異性の哲学である。問題は、コギトの「われ」とは何かである。この「われ」は、近代的合理主義の「われ」ならば、近代的自我ということであり、近代的民主主義に通じていくだろう。しかし、特異性としての「われ」ならば、それは、差異としての「われ」、不連続的差異としての「われ」であり、それは、ポスト近代的自由主義に通じるのである。つまり、特異性としての「われ」とは、イデア界の「われ」である。ニーチェ的な「われ」である。デカルトは、後者の「われ」の端緒を基盤として、前者の「われ」を構築したと言えるだろう。近代主義は、後者を忘却していくことになるのである。そして、ニーチェやフッサールは後者を探求することなり、真のポスト近代主義を打立てたと言えるのである。この偉業が、一般の人に伝わって、理解されていないのは極めて遺憾である。これは、哲学研究者の怠慢があるのかもしれないが、フッサール哲学のあまりの晦渋さにも要因がある。また、現象学という名前にも、問題があると思う。本当は、超越論的現象学である。

2005年10月26日 (13:13)

問題点:経済的差異論と社会的差異論の接点と相補性

市場原理に任せるというのは、差異と差異との交換を可能にすることである。経済自由主義である。
しかし、これとは、別に、政治・社会次元の問題がある。新自由主義は、小さな政府というが、経済に関して、政府の関与を最小にするということではないか。だから、その点は、評価できよう。これは、経済的差異論である。そして、これとは、別に、政治・社会的差異論が必要である。これは、社会的民主主義の問題である。差異である国民の必要は多様である。基本的にはその差異に適応するような政治・社会制度が必要である。
結局、経済的差異論と社会政治的差異論が衝突する。新自由主義と社会民主主義である。思うに、これを相補性にできないだろうか。今は二項対立である。私は、差異共存主義を主張しているが、それは、そのような意味をもっている。思うに、公共事業に問題点があるのではないか。福祉・医療等々は、社会・政治差異論が適用される領域であり、そのための支出が必要になる。結局、財源である。不要な公共事業を削減して、それで、福祉・医療等をまかなうことが必要ではないか。また、創造的活性化のための創造的消費が必要である。思うに、新自由主義と社会民主主義は、接点が生じるように思う。妥協ではなくて、自由主義という共通の原理からである。自由主義原理に拠る経済的差異論と政治・社会的差異論との相補化である。結局、社会主義的、官営的資本主義が害悪なのである。結局、自由社会民主主義である。

2005年10月25日 (23:09)

不等価交換としての経済:差異と差異との不等価交換:拡大的投資主義から創造的消費主義へ

マルクスは、交換価値の普遍性を説いた。しかし、これは、擬制であろう。交換価値は、シミュラクルである。問題は、等価とは何かである。誰が、等価を決めるのか。それが、市場であると、資本主義は言う。交換とは、結局、不可能の実現である。不連続な差異と不連続な差異とを等価と見做して、交換するのである。疑似等価交換である。問題は、この等価を決定する市場の力学である。力をもつのは、資本家である。投資家である。あるいは、消費者である。宣伝である。また、創造的能力である。
 ここで、思考実験すると、例えば、販売を促進しようと努力するとしよう。そのとき、消費者はどういうものを望んでいるか。どういう値段がいいか。どう宣伝すればいいか。等々。このとき、知恵が必要である。知恵とは、この場合、アイデア力、観念力、想像力、知識力等々である。多様な知識や経験を活用して、ヴィジョンを描く。デザインである。結局、ここには、創造的な発想が必要である。これが、資本主義に欠かせない。資本創造主義である。しかし、そして、とても売れて、たいへん利益があがるとしよう。得た交換価値をどうするかである。必要経費様々あるだろう。問題は、創造から生まれた利益・交換価値をどう使用するかである。これを、創造的価値のために使用しなければ、その企業は衰えるだろうし、資本主義自体も衰退するだろう。ソニーを見よ。つまり、創造力の開発が必要なのである。創造性に交換価値を使用すべきなのである。単に、交換価値の増殖のために用いれば、それは、早晩、衰退するだろう。バブルを見よ。交換価値を創造価値のために消費することである。投資ではなくて、創造的消費である。これによって、差異が発展するのである。
 この考え、即ち、差異創造消費論を適用するならば、資本主義は、変容するだろう。マネーゲームではなくて、創造的消費経済。創造消費資本主義である。これは、これまでの公共投資ではない。いわば、マイナス型の資本主義である。しかし、このマイナスが、プラス循環を生む。というか、カオスからコスモスへと進展するのである。カオス型資本主義からコスモス型資本主義である。エントロピー的資本主義から、ネゲントロピー(逆エントロピー)的資本主義である。成長的投資主義ではなくて、創造的消費主義である。このための、方策が必要であろう。創造消費主義。これによって、おそらく、さまざまな問題が解決するのではないだろうか。マイナスの発想が、秩序を生む。創造消費型政策が必要だ。これは、創造差異主義である。創造的差異共存主義である。創造的英知が秩序的資本主義をもたらすだろう。

2005年10月25日 (21:37)

イデア界とイデア・メディア境界とメディア界の区別:神の死と聖霊エコミューン

うまくまとまらない。問題点は、イデア界とイデア・メディア境界とメディア界を明確に区別していないことにあるだろう。ここで、整理しよう。

1.イデア界の回転がある。
2.イデア・メディア境界において連続性が発生する。
3.メディア界は基本的には、連続性の領域である。

宗教表象は、イデア・メディア界IMBにおいて生じると考えるべきである。だから、イデア界の事象は、そこで表象される。1/4回転は、IMBにおいて多神教となる。2/4回転は、IMBにおいて、一神教となる。もっとも、ここでは、IMBからイデア界が志向される。そして、3/4回転では、IMBにおいて、キリスト教となる。これは、イデア界から現象界への志向である。そして、4/4回転では、IMBにおいて、「新自由主義」になる。しかし、これは、一時的な表象である。
 問題は、IMBにおける弁証法が形成されることである。これは、人間の知覚構造に起因すると言えるだろう。人間の知覚は、メディア界に起因するから、基本的には、せいぜい、IMBにしか達しない。とまれ、「新自由主義」は、やはり、IMBの弁証法をもった作用である。これまでの、連続性を否定するのである。社会主義、社会民主主義、官営資本主義を否定するのである。しかし、本源は、イデア界であり、差異共存志向性である。これが本当の原動力である。これが、反動的に、弁証法的に、新自由主義となるのだ。本体が認識されていないのである。
 これは、近代主義の問題である。近代的二元論の問題である。思うに、3/4回転のイデア・メディア境界IMBにおいて、連続作用が生起するが、このとき、思うに、イデア界が連続・同一性化されるのではないか。ここは、キリスト教の発生期である。つまり、イデア界が連続・同一性かつ自我化される。ここで、思うに、不連続的差異が根本的に喪失されるのだ。父=子。イデア界=現象界。つまり、現象界の知覚が基礎となるのだ。イデア界がここで喪失されるのだ。つまり、キリスト教によって、イデア界が喪失されるのである。だから、一神教である新自由主義は、イデア界的次元の意識をもっていない。現象界のみである。少なくとも、イデア・メディア界の境界における弁証法の反動になっているが、それは、イデア界の共存性を欠いているのである。つまり、新自由主義は、聖霊=差異共存志向性を欠いている。聖霊とは、フッサールの相互主観性であろう。新自由主義は、本当に、闇である。ブラックホールである。壁を超える聖霊が不在である。キリスト教によって、聖霊が排出されている。これは、近代主義で決定的になった。
 しかし、現代哲学は、イデア界を説いているのである。これは、聖霊の風を意味しよう。当然、現代は、聖霊の時代である。これを現象化しないといけない。聖霊の息吹、聖霊実践。聖霊共存自由経済。新しい社会民主主義があるならば、ここからしかないだろう。神は死んだのであるから。

2005年10月25日 (15:39)

子の国の時代、キリスト教の時代とは何か:聖霊の国の時代・ポスト西洋文明=新地球文明に向けて

キリスト教とは不思議な宗教である。三位一体という連続・同一性論は、脱構築しないといけない。それも、単に脱構築の戯れだけではなくて、分解しないといけない。つまり、脱構造化、脱連続・同一性化しないといけない。思えば、フィオーレのヨアキムの三時代論とは、それに当たるだろう。脱三位一体論である。ポスト三位一体論である。
 とまれ、キリスト教は、三つの不連続的差異を内包していると言うべきである(ポスト・キリスト教)。

1)ユダヤ教(ヤハウェ教):一神教の本家本元であるが、しかし、実は、多神教と矛盾同一にある。
2)イエス・キリスト教(イエス教):これは、実は、イシス・オシリス神話等と共通である。死んで甦る神である。だから、異教、多神教、女神教である。
3)聖霊教:これは、グノーシス主義(ソフィア主義)、密儀・秘儀、秘教・密教、天使・妖精・精霊等と関係する。プラトン主義と通じる。

この三つの不連続的差異が「野合」しているのがキリスト教だろう。たいへん、いかがわしい。邪教である。「新興宗教」である。とまれ、これが、西洋文明の根幹なのである。これは否定できない。そして、西方教会はフィリオクェ問題で、聖霊を軽んじてしまった。三層性が解体したのである。とにかく、1と2の要素が西洋文明の構成要素である。1は、資本主義であり、2は、社会民主主義である。そして、近代西欧は、実は、3の次元を喪失したのである。これは、不連続的差異論が明らかにしている。現代哲学は、この次元の復権である。ニーチェ/フッサールが震源である。今日、新自由主義の勝利とは、1の勝利であり、2が衰退・崩壊したことを意味する。ヤハウェ教の勝利である。しかし、これは、黙示録的終末論に向かうのだ。アンチ・キリストの時。新自由主義がアンチ・キリストである。子が敗北したのである。この点を不連続的差異論から解明してみよう。
 結局、西洋文明とは何かという問題になる。これは、不連続的差異論の視点による私見では、イデア界とメディア界の境界、imbに西洋文明の起源があるのではないだろうか。ここは、不連続的差異の共存性があり、差異の連結が生じ、両者の矛盾同一性(西田哲学の絶対矛盾的自己同一)が生じている。わかりやすくするために、図式化しよう。

A) d1/d2/d3/・・・/dn (イデア界である。/は境界であるが、同時に共存・共立性を意味する)

B) d1〜d2〜d3〜・・・〜dn (メディア界であり、差異が連結・連続化する。〜は連結・連続とゆらぎを意味する。)

C) 差異共存と差異連結・連続とが矛盾的に同一化している(絶対矛盾的自己同一)

A〜C の事象がイデア界とメディア界の境界、IMB、イデア・メディア境界で生起している。ここでキリスト教を当てはめれば、父はCであり、子はBであり(ほんとうは、Dとして現象界も加えるといい)、聖霊はAであろう。そして、Cは弁証法の世界であり、二項対立・二元論・二律背反の領域である。西洋は、近代以前までは、このバランスを取っていたが、近代以降、Aを喪失して、BとCの併存となった。Bが社会民主主義、社会主義であり、Cが資本主義である。そして、Cは、グローバリゼーション、新自由主義に帰結した。これは、実は、私見では、イデア界の差異の発動から生じている。差異の不連続性から生じている。つまり、Bの水平的連続性の破壊である。つまり、新自由主義の根源として、Aが考えられるのである。ただい、Aの不連続性が強化される形となり、共存性が欠落しているのである。つまり、先にも述べたが、イデア界の力の変化があるのである。水平的共存から垂直的独立へと極性変化したのである。つまり、新たな差異力学の発動である。差異の垂直力への変動である。これは、子の時代(社会民主主義)の終焉はもとより、父の時代(新自由主義)の終焉でもあるだろう。つまり、イデア界の新しい変化があるのである。即ち、差異共存性の時代である。つまり、近代西欧という、イデア・メディア境界中心の時代が、イデア界の垂直的変化によって、終焉したということではないだろうか。つまり、イデア界の活動として新自由主義が発動したと考えられるのである。これは、天使を内在した悪魔、超悪魔である。アンチ・キリストである。近代西欧、イデア・メディア境界時代が、新しい不連続的差異のイデアのエネルゲイアによって、震撼させられ、終焉期に達したのではないか。「天」を震源とする天震である。地殻変動というよりは、天界変動である。ただ、これは、まだ、イデア・メディア境界に囚われているので、反動性をもち、破壊的なのである。アンチ・キリストなのである。天界の新たな発動であるが、それが、捩れて、裏返しになって、反動となって、アンチ・キリスト、超悪魔となっているのである。 
 ということで、やはり、聖霊の国の時代である。これは、ポスト新自由主義、聖霊自由共存主義である。ポスト西洋文明であり、新地球文明、聖霊の地球の時代である。実際どうなのかは、後で、考察したい。