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2005年10月31日 (21:41)

自然とは何か:連続的自然と不連続的自然:連続的理性と不連続的理性

後で、詳論する予定であるが、今簡単に創造について触れると、根本的に二種類の創造がある。誰もが目にする、植物の創造は、造化である。スピノザ的に言えば、能産的自然による所産的自然である。これは、ピュシス、自然(じねん)である。しかし、人間は、工作する。テクネーする自然である。これは、造化の自然とは異なるが。広義の自然ではある。二つの自然があるのである。人間の造る機械も、一つの自然である。この自然が自然自体に破壊的ではある。
 ここで、不連続的差異論から見ると、創造は三種類可能である。

1)自然(じねん)の創造
2)機械の製作:人工的創造
3)不連続的差異による創造

これまでの創造観は、1と2が主流だったと思う。しかし、3が可能であるし、多くの創造的な物事は、3に関わるだろう。とりわけ、芸術と呼ばれるものは3に関係する。ここで、三つの理性が考えられる。

1の理性とは、自然科学である。フィボナッチ数列や黄金分割に関係する自然である。

2の理性とは、メディア・現象境界に関係する。つまり、近代的客観主義的理性である。これは、古い近代・自然科学である。

3の理性とは、不連続的差異の理性である。これは、イデア界の理性である。思うに、プラトンの『ティマイオス』であるが、その理性とは、1の理性と2の理性の折衷だと思う。3の理性こそ、現代の理性である。これこそ、純粋理性である。カントの純粋理性とは、イデア・メディア境界の折衷理性である。だから、アンチノミーとなるだろう。

現代は、3の創造・理性の新時代である。1の理性は、プラトンの理性である。そして、2の理性は、近代主義である。これが、1と衝突している。
 では、3の創造性とは何かである。これは、イデア・メディア境界における、新しい創造である。連続化の基準的比率(連続的理性)に因るのではなくて、不連続的差異的理性が基準となる。差異連続的理性ではなくて、差異共存的理性である。

p.s. 1がプラトンの理性と言ったが、説明が必要だろう。『ティマイオス』のデミウルゴスは、理性によって、宇宙を創造するが、それは、ピュシスとテクネーの中間であろう。キリスト教の創造神は、当然、自然を超越した神であるが、しかし、思うに、ロゴスで創造するのだろうから、プラトンのデミウルゴスに似ているだろう。
 他に、カントの純粋理性であるが、イデア・メディア境界にあると述べたが、例えば、自由と必然のアンチノミーを考えると、自由とは、差異から発するのであり、それは、イデア界に根拠がある。しかし、必然性とは、現象界に根拠があるだろう。だから、やはり、これも誤りで、訂正したい。的確に言えば、イデア界と、メディア・現象境界とのアンチノミーだろう。思うに、カントの構想力(想像力)とは、メディア界だろう。
 後で、もう少し検討したい。

p.p.s. 構想力はメディア界であるが、これと、イデア界とが、カントにおいては、つながっていない。フッサールの超越論的主観性、超越論的現象学とは、イデア・メディア境界とイデア界に達していると思う。ただ、私見では、フッサールは、両者の間を揺れ動いていたようである。主観性という発想は、イデア・メディア境界だと思う。しかし、志向性の概念は、イデア界の力の概念と考えられるのである。
純粋理性批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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『純粋理性批判』(じゅんすいりせいひはん、Kritik der reinen Vernunft)は、ドイツ の哲学者イマヌエル・カント の主著で、第一版が1781年 に、第二版が1787年 に出版された。カントの三大批判の一つで、1788年 刊の『実践理性批判 』(第二批判)、1790年 刊の『判断力批判 』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間の理性が担う諸問題についての古典的名著。ライプニッツなどの存在論的形而上学と、ヒュームの認識論的懐疑論の両方を継承し、かつ批判的に乗り越えた西洋哲学史上、もっとも重要な著作のひとつである。


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概論

『純粋理性批判』は、理性 認識の能力とその適応の妥当性を「理性の法廷」において理性自身が審理し批判する構造を持っている。ゆえにそれは哲学 (形而上学 )に先だち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントはいう。

カントは理性(Vernunft)がそれ独自の原理 (Prinzip)にしたがって事物(Sache, Ding)を認識 すると考えるが、この原理は理性に経験 にあらかじめ先立って与えられる内在的なものであり、理性自身はその起源を示すことが出来ず、またこの原則を逸脱して自らの能力を行使することも出来ない。換言すれば、経験は経験以上を知り得る事ができず、原理は原理に含まれる事以上を知り得ないのである。カントは理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリな認識として、経験を基礎とせず成立しかつ経験のアプリオリな制約である超越論的 (transzendental)な認識形式にもとめ、それによって認識理性(theoretische Vernunft)の原理を明らかにすることにつとめる。
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人間的認識能力とその制約

伝統的な懐疑論 は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、もって認識そのものの成立の妥当性を否定したのだが、カントはこうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能の条件である超越論的制約はすべての人間理性に共通なものであって、ゆえにその制約のもとにある認識は、すべての人間にとって妥当なものである、と。

ここでカントは認識の制約以前にある「物自体」(Ding an sich)と経験の対象である「物」(Ding)を区別する。「物自体」は理性を触発し(affzieren)、感性 (Sinnlichkeit)と悟性 (Verstand)に働きかけ、それによって人間理性は直観 (Anschauung)と 概念 (Begriff)によって、かつ超越論的制約であるふたつの純粋直観(reine Anscuauungen)・空間 と時間 、また12の範疇 (Kategorie)すなわち純粋悟性概念(reine Verstandbegriffe)のもとに、みずからの経験の対象として物を与える。

しかしこれは一方で、人間理性(menschliche Vernunft)が、われわれの認識能力(unser Erkenntnisvermoegen)を越えるものに、認識能力を適応することができないということを意味する。すべての人間的認識は超越論的制約のもとにおかれており、ゆえに伝統的に考えられてきた直接知、知的直観の可能性は否定される。神 やイデア (理念)といった超越が、人間理性にとって認識可能であるとした伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられ得るものにのみ限定する。すなわち、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適応するにとどまるのである。

感性と悟性は異なる能力であって、これらを媒介するものは、構想力 (Einbildungkraft)の産出する図式(Schema)である。また感性の多様 (Mannigfaltigkeit der Sinnlichkeit)は統覚 (Apperation)、すなわち「我思う」(Ich denke: つまりデカルト のコギト)によって統一されている。しかし理性にはおのれの認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質 (Naturanlage zur Metaphisik)がある。このため、認識理性は、本来悟性概念の適応されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適応しようとする。しかしカントは認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識(erkennen)されえないものはただ思惟する(denken)ことのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神・魂 の不滅・自由 が挙げられる。
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アンチノミー(二律背反)

理性概念・理念(Idee)は人間の認識の能力を超えており、したがって理念を認識し、述語付けしようとする試みは、失敗に終わらざるを得ない。カントはそのような悟性の限界を4対の二律背反(Antinomie)する二命題の組み合わせによって示す。

こうした命題 は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいはどちらも偽であるという結果におわる。カントはこのような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適応をあやまったなりたたないものについての言述であることに帰する。こうした二律背反命題としては事物の必然性 と自由 についての背反命題(第三アンチノミー)があげられる。これはキリスト教において予定 との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いであるが、カントにおいては因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適応することから矛盾をきたすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由がなりたつことは、カントの批判の体系内では双方ともに真なのである。

ただし、こうした理性概念と人間理性の問題は『純粋理性批判』のなかでは必ずしも十分に展開されず、のちに『実践理性批判』で展開されることになる。
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影響史

『純粋理性批判』第1版は、当時のドイツ の講壇哲学者と通俗哲学者の双方から激しい批判で迎えられた。とくにカントの哲学をバークリ の観念論 と同一視する批判がなされた。カントはこれに反論し、自らの批判の内容を簡潔に要約した『プロレゴーメナ』を著すとともに、とくに感性 論および統覚 と構想力 について述べる部分に大規模な記述の書き換えをほどこし、第二版を発行した。しかしカントの理解としては、第一版と第二版の間には本質的な差はない。現代の研究者は、両者の間に発展をみとめるものの、大筋では同じ内容に異なる表現を与えたものと解している。

しかし『純粋理性批判』は若い世代に熱狂的に迎えられた。哲学的影響は、フィヒテ やシェリング といった、次の世代に及び、ドイツ観念論 の成立を促した。しかしドイツ観念論は、カントが否定した人間理性による超越の把握に再び向かうことでカントと方向性を別っている。

カントの影響は19世紀末には新カント学派 にも見られる。新カント学派では古典的物理学の認識の基礎付けという側面が強調された。またフッサール の現象学 にもカントの影響は及んでいる。

美学 においては、『純粋理性批判』の構想力論をもとにコンラート・フィードラー が純粋視覚を提唱し、この理論はさらに、20世紀後半のアメリカにおいて、クレメント・グリーンバーグ により抽象表現主義 を擁護するフォーマリズム 批評の理論的根拠として用いられた。
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翻訳

『純粋理性批判』には多くの邦訳があるが、以下には代表的なもののみを挙げた。

* 『純粋理性批判』天野貞佑訳、講談社学術文庫(全4巻)
* 『純粋理性批判』理想社版全集訳
* 『純粋理性批判』岩波書店カント全集訳

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外部リンク

* Kritik der reinen Vernunft - 独語(ウィキソース)
o Critique de la raison pure - 仏語(ウィキソース)

執筆の途中です この「純粋理性批判」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E7%B2%8B%E
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カテゴリ : 哲学書 | 哲学関連のスタブ項目

ティマイオス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ティマイオス(Timaeus ΤΙΜΑΙΟΣ)は古代ギリシア の哲学者プラトン (紀元前427年 - 紀元前347年)後期の著作である。古くから「自然について」という副題が付いており、アトランティス伝説、世界の創造、元素、医学などについて記されている。自然を論じた書としてはプラトン唯一のもので、神話的な説話を多く含む。後世へ大きな影響を与えた書である。

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内容

* 政治体制を論じた『国家 』の続編という設定で、対話が始まる。冒頭にクリティアスという人物がアトランティス伝説について語る。次いで、ティマイオスという人物が宇宙の創造、宇宙は無限か否か、四元素について、人間の身体についてなどを説いてゆく。(ティマイオスについてはピュタゴラス 派と考えられるが他の記録がなく、架空の人物という説もある)

* アトランティス の伝説については、『ティマイオス』の続編である『クリティアス』でさらに説明が続く(ただし、『クリティアス』は中断している)。

* 創造者「デミウルゴス 」について説明されている。デミウルゴス(δημιουργός) のギリシア語の原義は工匠、建築家である。イデアを見て、模倣しながら現実界(物質世界)を作る存在として、デミウルゴスの名を挙げている(善なる存在と捉えられている)。現実界はデミウルゴスが創造したイデアの似姿(エイコーン)である。

* 「範型」としてのイデアという思想はプラトン中期のイデア論とは異なっているとされる。

* 火・土・水・空気(地・水・火・風)の四元素説が説かれる。それぞれの元素は正多面体であり、その形状によって運動の性質や他の元素との親和性が決まる。たとえば火は正四面体であり、最も軽く、鋭い。これに対して土は正八面体であり、運動することが最も遅い。自然の諸物は元素がまざりあうことによって形成されている。

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影響

* フィロン

アレクサンドリアのフィロン (Philon 紀元前20/30年?-紀元後40/45年?)はギリシア思想に由来するロゴス やイデア論 の概念をユダヤ教 思想の理解に初めて取り込んだ。フィロンはプラトン の著作とくに『ティマイオス』に影響を受け、「デミウルゴス」の存在を「神」に置き換え、旧約聖書 とプラトン哲学が調和的であると考えた。フィロンはプラトンを「ギリシアのモーセ 」と呼んで、プラトンの思想にモーセが影響を与えたと考えた。フィロンの著作は、初期キリスト教と教父 たちの思想、いわゆるアレクサンドリア学派にも大きな影響を与えている。

* オリゲネス

オリゲネス (Origenes Adamantius 182?-251)は初期キリスト教の神学者、いわゆるギリシア教父 でアレクサンドリア学派といわれるグループの代表的存在。オリゲネスの世界観や歴史観は新プラトン主義(ネオプラトニズム )の影響を強く受けたものであった。プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の「創世記」の世界創造の記述を融合しようとし、「創造とは神が無に自分の存在を分かち与えたことである」と唱えた。死後異端 の疑惑をかけられた。

* グノーシス主義

カトリックの教義からは異端とされたグノーシス主義 では、宇宙を創造した神と真の神(至高神)を区別して次のように考えた。物質は悪であり、物質(自然、人間、宇宙)を創造したデミウルゴス(旧約聖書の神)は下等な神である。人間の身体も実体として悪であるが、その中に聖なる火を含んでいる。聖なる火とは、真の神から降りてきた聖霊 (プネウマ)で、善なるもの、本来の自己である。人間は知識(グノーシス)によって、自己を至高神に復帰させることが出来る。また、イエスは至高神の子で、人間に真理を啓示するため遣わされた。

* カルキディウス

カルキディウス(Calcidius 4世紀後半-5世紀初)は『ティマイオス』の一部をラテン語訳し、注釈書を著した。『ティマイオス』はプラトンの著作のうち、中世の西ヨーロッパに知られていた数少ない(唯一の?)著作であった。

* シャルトル学派

12世紀フランスのシャルトル学派の中で『ティマイオス』(カルキディウス訳)が再評価され、注釈書が作られている。

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邦訳文献

* 『プラトン全集6』(角川書店、1974年)
* 『プラトン全集12』(岩波書店、1975年)
* 『中世思想原典集成8』シャルトル学派(上智大学中世思想研究所編、平凡社)

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関連項目

* ネオプラトニズム
* ティマイオス (クレーター) - 月の北部に位置するクレーター 。プラトンの著書『ティマイオス』にちなんで名づけられた。

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外部リンク

* カルキディウス研究[1]

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3
%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9 " より作成

カテゴリ : 哲学書 | グノーシス | プラトン
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