2005年11月30日 (04:31)

[ 田中宇:アメリカの戦略を誤解している日本人 ]

アメリカの戦略を誤解している日本人

2005年11月29日  田中 宇
 記事の無料メール配信
 前回の記事では「米軍は日本から撤退している」「米軍の撤退に対応するため、小泉政権は、憲法を改定し、自衛隊を強化しようとしている」「日本国内に憲法を改定できる雰囲気を作るため、小泉首相は靖国神社に参拝している」といった分析を展開した。私は、ふだんは日本の政界の動きをウォッチしていないのだが、前回の記事を書いたので、政界での憲法改定の動きを少し調べてみた。すると、興味深いことに気づいた。小泉政権は、憲法改定のプロセスを進めることに対し、ものすごく急いでいる、ということである。

 象徴的なことの一つは、自民党で憲法改定の作業を進めている憲法起草委員会が、中曽根康弘元首相がとりまとめた憲法前文の草案を、全く採用しなかったことである。中曽根氏は、憲法起草委員会のメンバーで、前文について議論する小委員会の委員長をしていた。中曽根前文は「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴としていただき、和を尊び・・・」といった、日本人の愛国心や郷土愛を喚起するもので、自民党内の保守派が好む言い回しを集約した文章になっている。

 自民党内からは、この前文に対する異論もあり、中曽根案をたたき台として、ある程度の時間をかけた議論が行われるものと予測されていた。ところが小泉首相の意を受けて動いていた憲法起草委員会の中心メンバー(事務局次長)である舛添要一参議院議員らは、中曽根前文をほとんど採用しない憲法草案を作り、10月28日に起草委員会として決定・発表してしまった。(関連記事)

 舛添氏は「中曽根前文は復古的な内容で、公明党や民主党が憲法改定に賛成できなくなってしまうから削除した」という主旨の説明をしている。公明党と民主党が賛成すれば、憲法改定を発議するのに必要だと憲法96条で定められた国会の「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」が得られる。一方、中曽根氏は、議論が全く行われなかったと怒っている。小泉氏は、自民党内である程度の議論を行ってから公明・民主を抱き込む、というプロセスを経るだけの余裕がなかったことになる。(関連記事)

▼性急な在日米軍撤退に待ったなしの憲法改定

 憲法草案は、前文以外の部分でも、公明・民主を抱き込めるようになっている。草案は9条について「戦争放棄」を定めた9条1項を現行憲法どおりに残す一方、「戦力の不保持」と「交戦権の不認」を定めた9条2項のみを改定し「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」を「内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する」と改定することにしている。

「戦争放棄」を削除すると、多くの国民の支持が得られなくなり、公明・民主も同意しにくいが、2項の変更だけの場合、交渉の余地が大幅に広がる。この点についても舛添氏らは、自民党内に9条1項の削除や改定を求める声があったのを無視して草案を決めている。

 また自衛隊が昇格させて作る正規軍の名称も、党内には「国防軍」にしたいという主張があったが、公明・民主を抱き込めるよう「自衛軍」とした。

 舛添氏は、党の会合で「今回の憲法改定は、9条2項を変えることに尽きると言っても良い」と説明している。つまり、自衛隊の存在を正規軍として憲法に明記することが今回の憲法改定の目的であり、それを実現するためには、自民党内のいろいろな主張につき合うことより、公明・民主を抱き込んで国会の3分の2の賛成を得ることの方がはるかに重要だ、というわけである。

 憲法とは、国のかたちを言葉にしたものである。本来なら、新しい憲法を作る際には、前文をどうするかとか、戦争に対する考え方をどうするか、といった「精神論」や「あるべきだ論」の議論が重要になる。その意味で「精神論が抜け落ちている」という中曽根氏の小泉批判は正しい。

 なぜ小泉政権は、与党内の反対を独裁的に抑圧し、急いで自衛隊を正規軍に格上げせねばならないのか。私なりの答えは、先週すでに書いた。「米軍が日本から撤退するから」である。

 イラクが泥沼化するまで、日本からの米軍の撤退は、もう少し時間をかけて行われる予定だったのかもしれないが、今の米軍は、予算面でも人員面でも、全く余裕がない。アメリカ国防総省は議会から予算削減を求められているし、全米で行っている新兵募集も、必要数に満たない応募しか得られない状態が続いている。そのため世界的な米軍の再編(効率化)は待ったなしの状態だ。

 10月には、性急な軍事再編に協力できない日本政府の姿勢に苛立つラムズフェルド国防長官が、東アジア歴訪の際、日本政府を牽制する意味を込め、予定を変更して、日本だけ立ち寄らなかった。米軍が一方的に在日米軍の空洞化を進め出している中で、小泉政権としては、早く自衛隊を正規軍に昇格させる憲法改定を実現せねばならない状態に追い込まれている。中曽根氏らの悠長な精神論議につき合っている暇はないというわけだ。(関連記事)

▼対米従属ではなく裁量増大を目指したアーミテージ・レポート

 米軍が日本から出ていくという表明はすでに、日本の官僚や専門家らの間で、ブッシュ政権の対日政策の要諦とみなされている2000年の論文「アーミテージ・レポート」に書かれている。この論文には「アメリカは、戦力を低下させない範囲で、日本における米軍の駐留を削減していくことを目指すべきである」と書かれている。(レポートはこちら)

 この論文は、ブッシュ政権が誕生した2000年の大統領選挙を前に、共和党のリチャード・アーミテージ(前国防次官)と、民主党のジョセフ・ナイ(元国防次官補、ハーバード大教授)らが中心となり、次の政権の対日政策の草案として超党派でまとめたもので、アメリカでは「アーミテージ・ナイ・レポート」(Armitage-Nye Report)と呼ばれている。

 この報告書は、アメリカを転換させた911やイラク戦争の前に書かれたものだ。911後、米政権内では「タカ派」が強くなり「国際協調派」であるアーミテージやナイの影響力は低下した観がある。それを考えると、911前に作られたアーミテージ・レポートは、もはや過去の文書とも思える。

 ところが日米の間で実際に起きていることを見ると、軍事問題に限るなら、このレポートで提案されている「沖縄の在日米軍を縮小すべき」「日米は、軍事施設の共用化や、訓練の合同化を進めるべき」「日米は、ミサイル防衛の分野で協力を深めるべき」といった事項は、今も貫かれ、実現されている。

(この論文の提案の中でも「日米共同でロシアの極東開発を支援すべきだ」といった外交面の提案などは、実現していない)

 日本人の多くは、このレポートに込められた戦略は「アメリカが日本を、従来の経済面だけでなく、軍事面でも、アメリカの好きなように使える下請け的存在に変え、アメリカのために日本が派兵する状態を作ろうとしている」というもので、日本に対米従属の永続を強いるものだと考えている。ところが私が読み解くところでは、この理解は間違いである。この論文には「日本はアメリカに従属するのではなく、対等な同盟関係に近づくべきだ」と書かれている。

 国際社会から「危険な国」とみなされていた敗戦後の日本は、軍事・外交の権限を持たせてもらえず、代わりにアメリカが日本に軍事駐留し、安全を保障してやっていた。しかし、この状態はアメリカの負担が大きい。もう日本を信頼しても良い時期に来ているので、アメリカは日本に軍事的・外交的な自由裁量を与え、防衛技能を日本に教えるための施設共用のプロセスを経たうえで、米軍は出ていくべきだ、というのがアーミテージ・レポートの精神であると読みとれる。

▼アメリカの外交負担軽減のための多極化

「しかし、それはあくまでも、日本が対米従属の態度を崩さない限り、という制限がついているのではないか」と考える人もいるかもしれない。ところがアーミテージの論文では、日本政府が1997年のアジア通貨危機の際、アメリカを含まない「アジア版IMF」を作る構想を打ち出したことを例に挙げつつ「アメリカは、日本が(日米2国間ではなく)多国間協調的な外交を展開することを、自国のアイデンティティとして重視していることを、理解し認めてやるべきだ」と書いている。

 論文執筆の中心人物の一人であるジョセフ・ナイは最近、アメリカ抜きの東アジア共同体を作ることを目指した、今年12月に開かれる「東アジア・サミット」について「アメリカの外交負担を軽減するために役立つので、アメリカは自国抜きのアジア共同体の出現を容認すべきだ」と書いている。(関連記事)

 アーミテージ・レポートの精神は「日本に対する対米従属の強化」「アメリカによる世界支配の強化」とは逆方向で、むしろ「アメリカだけが背負ってきた外交負担を分散できるバーデンシェアリングの利点があるので、ある程度、世界が多極化した方が良い」「アメリカの意向を気にせず、日本も自由に国際影響力を拡大してかまわない」という姿勢だと感じられる。

 冷戦後、アメリカは日本だけでなく、西欧諸国に対しても、大幅な自由裁量の拡大を認め、東西ドイツが統一してドイツが強国になることを容認し、西欧諸国が市場統合や通貨統合を進め、EUがアメリカに対抗できる勢力になることを黙認した。これらはいずれも、アメリカにとって自国の覇権の負担を軽減する意味があったと感じられる。EUはアメリカの容認を受けて覇権を拡大したが、対米従属の方が心地よい日本は、ほとんど姿勢を変えなかった。

▼日本の反中国は黙認しつつ米は親中国

「アジア版IMF」は日本の提唱である一方、「東アジア共同体」は中国が主導である。「アメリカは日本のことは信頼しているが、中国のことは信頼していないはずだ」と考える人が多いかもしれない。

 ここで、私が日本人の2つ目の誤解だと思っていることが表れてくる。日本人の多くは「アメリカは中国の台頭を許さないはずだ」と考えているが、私から見ると、それは間違いである。アメリカは、中国の台頭を黙認している。米政界に、反中国派が存在しているのは確かだが、レーガン、パパブッシュ、クリントン、息子ブッシュと、歴代の米政権は、中国の大国化を容認する方向に動き続けている。

 それなら、アメリカは小泉首相の靖国神社参拝に反対なのか、というと、そうでもない。アメリカは、自国は親中国の傾向を強める一方で、日本が反中国の姿勢をとることは容認している。アーミテージ・レポートでは、この件に関してただ一点「日本が尖閣諸島を含む自国領土を防衛することに、アメリカは協力することを再宣言すべきだ」と書いている。

 私はこの部分に「日本が尖閣諸島を自国領だと主張して中国との対立を激化させることを、アメリカは容認する」という意図があるのではないかと感じた。日本がアメリカに頼らない防衛力を持つために国内のナショナリズムを扇動する必要があるなら、尖閣でも靖国でも、何でも使って良いとアメリカは認めますよ、ということではないかと思う。

 日本では、今年2月の日米の「2+2協議」で、台湾海峡の問題を平和的に解決することが日米の共通目標であると初めて両国が表明したことをもって、日米が共同で中国を封じ込める姿勢を強めたと解釈されている。しかし2+2協議後、ライス国務長官が、台中対立の問題に対してアメリカは立場を変えていないと強調し、中国を刺激せぬよう配慮する姿勢を見せるなど、米側は「日本と組んで中国を封じ込める」という動きを採りたがっていないというメッセージを発した。(関連記事)

「日米が協力して中国を封じ込める」という構図作りは、憲法改定など米軍撤退に応じた新しい措置を行う必要がある日本政府が、日本国民を好戦的な方向に引っ張っていくために発したイメージ戦略(プロパガンダ)であろう。日本人の大多数は、これに乗せられている。台湾でも「独立派」の人々は、この新構図の登場に歓喜したが、その後、台湾上層部の人々は、この構図は幻影であって本物ではないと分かったらしく、陳水扁政権は、独立派からも統一派からも距離を置く中間路線を維持している。

「日米で中国と敵対する」というのと同様に「アメリカは日本に従属を求め続けている」というプロパガンダを発しているのも日本政府、特に外務省である。外務省は戦後、一貫して対米従属の外交だけをやってきたので、対米従属以外の国是に対応できない。「鎖国」だけをやってきたので、黒船が来ても「外交」ができなかった江戸幕府の家臣たちと同じである。

▼911で方針の大転換

 アーミテージ・レポートは日本に対米従属を要求していないが、日本が親米を貫く続く前提で書かれていることは確かである。レポートは「日米関係を米英関係のようにすることが目標だ」と書かれている。

 冷戦後のアメリカは、日本や西欧が親米国であり続けることを前提に、親米の先進国がG7などの場に集まり、集団的に世界を統治し、外交や軍事の負担も分散するという「国際協調戦略」を採っていた。アメリカは「人権」「民主」「環境」など、人類にとって普遍的な権利とされるキーワードを使い、それを守るといううたい文句で、日欧など先進諸国を束ねようとした。

 だがこの方針は、2001年の911事件から03年のイラク侵攻にかけて、ブッシュ政権が掲げた「単独覇権主義」に取って代わられた。「アメリカは世界最強なのだから、単独で世界を動かせる。どこの国とも同盟関係を結ぶ必要はない。反逆する国は、アメリカ単独で先制攻撃して潰す」というのが新方針となった。

 この新方針は世界を驚かせ、独仏などは反米傾向を強めたが、外務省など日本政府は「対米従属でない国は潰される時代が来たのだ」「われわれの方針に間違いはなかった」と考えたようだ。ところがその後アメリカは、短期間に快勝できるはずのイラク侵攻が泥沼化し、軍事力と財政力を浪費したうえ、開戦事由としたイラクの大量破壊兵器について米高官たちがウソをついていたことが明らかになり、国際的な信用も失ってしまった。

 さらに奇怪なことに、ブッシュ政権は、イラク戦争の失敗が露呈した後も単独覇権主義的な態度を変えず、イランやシリア、キューバなどを攻撃する姿勢をとり続けた。その結果、欧州諸国との関係は回復せず、国際協調体制は失われたままとなっている。

 その一方でアメリカは、中国やロシアといった、アメリカが親しみを感じないはずの国々が台頭することを容認した。北朝鮮問題を中国に任せた結果、朝鮮半島はアメリカの覇権下から中国の覇権下に移った。アメリカは、中央アジアで人権問題を振りかざしすぎた結果、ウズベキスタンなどが親ロシアに寝返り、米軍基地を追い出した。アメリカは、ロシアでエリツィン時代に強かった親米のオリガルヒ(新興大資本家)が、プーチンの時代になって潰されるのを黙認した。(関連記事)

 中国やロシアは、イランやベネズエラといった反米の国々とも親交を深め、アメリカ抜きの緩やかな世界同盟体(非米同盟)ができ、アメリカから覇権を奪っている。

▼先進国に失望し反米諸国に覇権を分散する

 ブッシュ政権は、非米同盟の勃興を黙認しており、政権中枢のネオコンの人々らは、泥沼化すると分かっていてイラクに侵攻し、侵攻後もわざとイラク人を怒らせる戦略が採られていた。このことから私は、米中枢には、イラクをわざと失敗させ、従来はアメリカだけが持っていた覇権を世界に分散させるという秘密の作戦を行った人々(多極主義者)がいるのではないか、と考えるようになった。アメリカは「単独覇権主義」を掲げたことによって、多極主義を実現したのである。

 911以前の国際協調主義と、イラク泥沼化後の隠然的な多極主義とは、実は似ているところがある。国際協調主義は、冷戦終結直後にアメリカが単独で持っていた世界覇権を、西欧などの親米の先進諸国に分散させるものだった。一方、多極主義は、覇権を反米(非米)の諸大国に分散させるものである。

 国際協調主義の限界は、日本の存在に象徴的に表れている。アメリカから「覇権をあげよう」と誘われても「要りません」という国が多いのである。これでは、覇権分散の見返りとして負担の分散を実現しようとしていたアメリカは、困ってしまう。このことは、以前の記事「行き詰まる覇権のババ抜き」と「アジアでも米中の覇権のババ抜き」に書いた。

 日欧やカナダ、オーストラリアなどの先進国は、いずれも親米なのでアメリカに頼る傾向が強いのに対し、ロシア、中国、ブラジル、イラン、ベネズエラといった、反米の立場に置かれている国々は、各時代の政権によって差はあるものの「アメリカには頼れない」「頼りたくない」と考える傾向が強い。これらの国々は、アメリカと対峙してきただけに、アメリカが退却したらその分、前に出ることが必要だと考えている。

 国際協調主義によって、先進国の間で覇権を分散しようとした米中枢の人々は、これがうまくいかないと判断した結果、911からイラク戦争にかけての一連の出来事を活用し、反米諸国の間に覇権を分散させることにしたのではないか、もしくは独仏やサウジアラビアなどの親米国を怒らせて反米に転じさせ、それらの国々が覇権を求めるように仕掛けたのではないか、というのが私の推論である。

 そして、アメリカが覇権を分散したかった理由は、1980年代以来の世界的な経済民営化の結果、覇権が経済利益に結びつかなくなったからであると考える。(関連記事)

▼黒幕は誰か

 この考えに基づくと、アメリカ中枢の国際協調主義者と多極主義者、単独覇権主義者は、対立し合っているのではなく、同じ勢力が方針を転換したり、作戦の一部として演技をしていたのではないかと思われてくる。国際協調主義者だった人々は、戦略がうまく行かないと判断し、多極主義に移行し、その際の戦術として「単独覇権主義」を振りかざしたのではないか、と思われる。

 この勢力は、アメリカを中枢で動かしている人々であるが、ブッシュ大統領が自覚的にこの戦略転換に参加していたとは考えにくい。彼は、使われて踊らされているだけだろう。ネオコン諸氏の中にも、意識的な参加者と、「イスラエルのために」などと信じて参加して騙された人の両方がいそうだ。チェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官は、軍事産業などの利益代理人の色彩が強く、これまた業界のために動いたつもりが、多極主義者の自滅作戦に使われる結果になったのではないか。

 真の黒幕が誰か、というのはまだ確定しにくいが、一つの推測としては、キッシンジャー元国務長官らの一派、ロックフェラー財閥、そしてイギリスのロスチャイルド財閥などという、ひとかたまりの勢力が、欧米の大資本家たちの利益を代弁するかたちで、この転換を思いついたのではないか、と考えることができる。

 あまり推論を広げると「貴殿こそアメリカの戦略を誤解している」というメールが意地悪な読者から届きそうなのでこのへんで止めるが、ほぼ間違いなく言えることは、今のアメリカは、日本に従属を求めていないし、中国包囲網を強化する方向にもないということだ。これらは、多くの日本人が思い込んでいる誤解である。

田中宇の国際ニュース解説
http://tanakanews.com/f1129japan.htm

2005年11月28日 (21:57)

1.傲慢さの起源 2.差異の垂直・水平性に関して再考

1.傲慢さの起源 2.差異の垂直・水平性に関して再考
テーマ:相対性理論/量子論
1.傲慢さの起源:はっきり経験的にわかるのは、傲慢さとは、差異を閉ざしていることから発しているということである。この差異を閉鎖ないし閉塞させることは、どういう構造をもつのだろうか。あるいは、同じことであるが、傲慢さとは、他者を排斥することから発している。差異と他者の閉鎖・排出・隠蔽。これまで、何度も述べたが、これは、差異共存志向性のイデア界を閉ざしていることである。今の考えは、これまで、述べたことの繰りかえしであるが、差異の連続・同一性化が生起し、また、その反転が生起して、差異化が生じる。だから、連続性ないし構造性と不連続性・脱構造性との矛盾が生じるのである。そして、このバランスを取るのが、人倫ということである。しかし、この矛盾を否定する連続・同一性・構造性が近代的自我にある。これは、近代的自我的合理主義で、すべてを解明しようとするので、矛盾を否定するのである。コギトが、近代的主客二元論的自我となるのである。思うに、ここには、不誠実さがある。虚偽がある。自身の矛盾を矛盾として認めずに、近代的自我によって、それを排出・隠蔽して、自己正当化するのであるから。そう、近代的自我は、不正となる。

2.差異の垂直・水平性について:

問題は、立体性にあるのではないか。イデア界は平面であり、そこに、垂直・水平性がある。そして、その平面に直交するように力がはたらく。z軸である。これが、人間で言えば、自我の起源であろう。スピノザのコナトゥス(自己保存欲)とは、このz軸的力によるのではないか。しかし、これは、イデア界平面性をもっているだろう。つまり、このz軸的力は、イデア界の虚力を内在しているだろう。z軸的力とはメディア界の力=エネルギーである。そう、z軸的力をコギトの力と言えるだろう。これは、現象界とイデア界の媒介となっているだろう。このコギトには、差異の垂直・水平性というイデア界の虚力が内在しているのである。だから、現象界的コギトは、内在的にイデア界的コギト(特異性、不連続的差異)へと展開する志向性をもつと言えようが、実際は、1.で述べたように、内在的矛盾を排出・隠蔽して閉ざして、傲慢となる傾向があるのである。
 とまれ、これで、メディア界的垂直性(屹立性、z軸的力)とイデア界的垂直・水平性を区別できたのではないか。
 また、思うに、メディア界的垂直性とは、内的時間、内在的時間ではないか。この時間が力ではないだろうか。思うに、これはまったく思いつきだが、メディア界的垂直性は内的時間であり、また高さの次元ではないか。つまり、この垂直性、z軸は、時間と高さ、つまり、二つの次元を兼ねているのではないか。イデア界平面が、x軸とy軸で構成され、それに垂直にz軸が発出する。作業仮説として、これを、内的時間とし、かつ第三次元とする。そして、例えば、これを重力方向と考えよう。鉛直線である。この重力方向において、時間が進行するのではないか。そう考えると、三次元空間が、時間的に進行するのではないだろうか。
 また、メディア界的垂直力とはゼロ度の力である。だから、思うに、重力と光は同時発生である。そして、また、差異連続化の力として、強い力と弱い力が発生するだろう。強い力は、差異の水平力であり、弱い力は、差異の垂直力から派生するのではないか。問題は、重力と光の関係である。これは、先に触れたことだが、イデア界の不連続的差異の即自的力=対自的力であり、これが、境界の力、虚力を生んでいる。そして、これが、1/4回転によって、境界がゼロ化される。この時に、即自的力と対自的力が分裂して、即自的力が、弱い力と強い力に、対自的力として、重力と電磁気力が発生するのではないか。これは、作業仮説である。即自的力は、連続力そのものである。そして、対自的力は、放出されるエネルギーである。重力と電磁気力が放出されるのである。ここで、即自的力から類比的に言えば、不連続的差異の垂直性の対自的力は、重力であり、不連続的差異の水平的力は、電磁気力となるのではないか。また、両者は、対極的相補性を形成しているのではないだろうか。また、即自的力と対自的力とは、量子論の粒子/波動の相補性に通じるのではないだろうか。
 問題は、重力エネルギーと電磁気力エネルギーの関係ではないか。思うに、重力とは垂直に電磁気力が働くのではないか。そう、電磁気力を水平面として、それへの直交軸として、重力を考えよう。これは、正に、植物の生長を示唆しないだろうか。あるいは、造山運動を。(参照:フレミングの法則)もし、そうなら、エネルギーの立体力学となるだろう。
 ところで、光を発する太陽や恒星とは、イデア・メディア境界の差異の事象だろう。また、ここは、宗教的事象と一致するだろう。光と神仏の関係。

2005年11月28日 (15:51)

インターネット・メディアの生活と瞑想

インターネット・メディアの生活と瞑想
テーマ:メディア界のフロンティア
今は簡単に触れるが、新聞購読も止め、テレビを見ることも止め、今は、インターネットで、情報を得ることが中心になってきた。そう、インターネット・コミュニティができつつあると感じる。直接会ってはいないが、ネット通信で、それなりに、相手の存在を感じているようになっている。これは、新しい対人関係、社会関係であろう。ガタリなら、機械状アジャンスマンと呼んだものになるだろう。不連続的差異論ならば、不連続な差異の共立コミュニケーションである。これは、新しい社会共有体であろう。ネット・コモンズであろう。
 ところで、このネット・コモンズは、何か、私感では、瞑想生活に近いのである。テレビや新聞の「雑音」がなくていいのである。静謐である。
http://freett.com/commons/about.html
http://www.alles.or.jp/~spiegel/docs/cc-about.html
http://japan.cnet.com/column/pers/story/0,20000
50150,20059809,00.htm
http://research.mki.co.jp/eco/proposal/commons.htm
http://www.future-planning.net/x/modules/news/
article.php?storyid=912
http://pcweb.mycom.co.jp/articles/2004/01/27/isic/
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/
4-7885-0748-X.htm
http://joi.ito.com/jp/archives/cat/104.html
http://www.mitsue.co.jp/case/design/b_025.html
http://yanbaru.dyndns.org/creativecommons/
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0719.html
http://commonsphere.jp/column/myasuda/
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0411/24/
news110.html
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/
02080000.html
http://hiki.cre.jp/copyright/?CreativeCommons
http://wiki.fdiary.net/NetSociety/?Commons
http://www.creativecommons.jp/



クリエイティブ・コモンズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

クリエイティブ・コモンズ (Creative Commons) とは、ウェブ 上で行われるプロジェクト、またそれを実施する非営利団体で、法的手段を利用して出版物の創造、流通 、検索 の便宜をはかるものである。利用される法的手段にはパブリックドメイン やオープンコンテント によるライセンスがある。

情報 を共有しようとすると、知的所有権法 や著作権法 が障害になる場合があるが、この運動の基本的なねらいは、そのような法的問題を回避することにある。

これを達成するために同プロジェクトは、著作権所有者が作品のリリースにあたって無料で利用できるようなライセンスのプロトタイプを作成、提供し、作品がウェブ上で公開される際に検索や機械処理をしやすいようなRDF (XML )によるメタデータ のフォーマットを提案している。

著作権を全て留保する"All Rights Reserved"と、いわゆるパブリックドメインである"No Rights Reserved"の中間の"Some Rights Reserved"が、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスが規定する領域である。

発起人は、ローレンス・レッシグ を始め、知的所有権問題、インターネット法などの専門家を多く含む。

ライセンス(Licence)は文書、動画、音楽、写真など多様な作品を前提としている。但しソフトウェアについては既にGPL などが存在することから特に対象としていない、としている。

ネットワーク上でのリソースの流通に寄与する活動が認められ、2004年アルス・エレクトロニカ 賞を受賞した。
目次
[非表示 ]

* 1 ライセンス
* 2 活動の経緯
o 2.1 クリエイティブ・コモンズ・ジャパン
+ 2.1.1 クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのメンバー
* 3 受容と利用
* 4 関連記事
* 5 外部リンク
o 5.1 情報サイト
o 5.2 案内記事
o 5.3 論考など

[編集 ]

ライセンス

Creative Commons License は以下の4項目についてそれぞれ採否を選択する。 詳細はリンク先の記事を参照せよ。

* 帰属(Attribution)

その作品の利用に関しての著作者の表示を求める項目

* 非商用(Noncommercial)

非商用に限ってその作品の利用を認める項目

* 派生禁止(派生作品の禁止)(No Derivative Works)

その作品をそのままの形でのみ利用を認める項目

* 同一条件許諾(同様に共有)(Share Alike)

その作品につけられたライセンスを継承することを求める項目

以上のうち、派生禁止と同一条件許諾は同時に採用できない。また、すべてを採用しないことはできず、2.0以降のヴァージョンでは、帰属を採用しないことができない。従って、実際にあり得る組み合わせは次の通りである。

* 帰属
* 帰属-派生禁止
* 帰属-同一条件許諾
* 帰属-非商用
* 帰属-非商用-派生禁止
* 帰属-非商用-同一条件許諾

2.0未満のヴァージョンでは次が加わる。

* 派生禁止
* 同一条件許諾
* 非商用
* 非商用-派生禁止
* 非商用-同一条件許諾

[編集 ]

活動の経緯

クリエイティブ・コモンズは2001年 に設立された。翌2002年12月、プロジェクトの最初の成果として4つの選択肢を複合して11種類のライセンスを発表した。

日本 、フィンランド 、ブラジル などで既に同様の活動が始まっている。

2004年3月、クリエイティブ・コモンズはバージョン2を発表した。 同時にクリエイティブ・コモンズのライセンスと他のライセンスとの混合の試みも始められている。
[編集 ]

クリエイティブ・コモンズ・ジャパン

2003年6月にはクリエイティブ・コモンズ・ジャパンが発足。これは上記のライセンスを日本の法体系に即したものにすることを目的としたインターナショナル・コモンズ(iコモンズ)の一環である。

同時にクリエイティブ・コモンズ・ジャパンもiコモンズの一環として日本語版を発表した。
[編集 ]

クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのメンバー

* 国際大学 グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)
o 公文俊平 (GLOCOM所長)
o 山田肇(GLOCOM副所長, 東洋大学 教授)
o 林紘一郎(GLOCOM特別研究員, 慶應義塾大学 教授)
o 上村圭介(GLOCOM主任研究員)
o 土屋大洋(GLOCOM主任研究員)
* 牧野法律事務所
o 牧野二郎(弁護士 )
o 若槻絵美(弁護士)
* 他
o 渡辺智暁(インディアナ大学講師)

※ 2004年10月現在のリスト、所属は2003年8月当時、情報引用元 [1]
[編集 ]

受容と利用

クリエイティブ・コモンズのプロジェクトとしての目的は、提供するライセンスを利用する著作権者が増え、それによって様々なコンテンツの利用が促進されることにある。

英語圏ではクリエイティブコモンズで提供しているライセンスを利用した比較的大きなプロジェクトが幾つか存在しており、コンテンツの公開を行っている。例えば次のようなものがそれにあたる。

* マサチューセッツ工科大学(MIT) のオープンコースウェア
* OYEZ − 最高裁判所の口頭弁論のオーディオファイル
* Openphoto.net - 写真のアーカイブ

また、イギリスのBBCは所有する作品をクリエイティブコモンズのライセンスを利用してウェブ上で公開、P2Pソフトなどを使ったファイル交換にも利用できるようにする予定であることを発表した。

他に、commoncontent.org には同ライセンスを利用しているサイトや作品のディレクトリがある。

日本ではアメリカにおけるライセンスの発表と共にネット上で紹介が行われ、クリエイティブ・コモンズ・ジャパンが発足してからは研究者による論考も出て来たが、日本の法律に即した日本語のライセンスがまだ開発中であることもあってか、必ずしも大掛かりなプロジェクト、コンテント・アーカイブなどは存在していない。

また、最近になって日本では、ライセンス利用者の比較的多くを占めると言われるブログ系のページで、他のサイトなどから転載した画像などがページ上に掲載されていることがあり、にも関わらずページ全体をクリエイティブ・コモンズのライセンスでリリースしていることが指摘され、議論を呼んだ。

なお、日本語版ウィキニュース は、クリエイティブコモンズ-帰属-2.5で提供している。
[編集 ]

関連記事
Wikisource
ウィキソース にクリエイティブコモンズの一部の条文 の原文があります。

* パブリックドメイン
* GNU FDL
* OpenCreation Movement

[編集 ]

外部リンク

* creativecommons.org ウエブサイト
o http://creativecommons.org/
* クリエイティブ・コモンズ・ジャパン
o http://www.creativecommons.jp

[編集 ]

情報サイト

紹介、リンク集、および英文資料の和訳などが提供されているサイト(又はサイトの一部)を以下に挙げる

* Mat creative commons日本語情報
o http://www2.117.ne.jp/~mat/cc/menujp.html
* 結城浩 「クリエイティブ・コモンズ 関連文書の日本語訳」
o http://www.hyuki.com/trans/cc-index.html
o (2003年1月からのウェブログの和訳などもある。)
* 神崎正英 「クリエイティブ・コモンズのメタデータ」
o http://www.kanzaki.com/docs/sw/ccm.html

[編集 ]

案内記事

既に挙げたものの他に、以下の文章はクリエイティブ・コモンズについての入門、紹介文章として頻繁に言及される。

* 荒川靖弘 「クリエイティブコモンズについて」 2003年1月
o http://www.alles.or.jp/~spiegel/docs/cc-about.html
* 長野弘子 「共有することから生まれた「クリエイティブ・コモンズ」〜デジタル時代にふさわしい著作権のかたちとは?〜」『OCS NEWS』 2003年1月
o http://www.ocsworld.com/ocsnews/home/694/netlif
e.asp
* 先田千映・白田秀彰・神崎正英「著作権を自分でコントロールするための新しいツール: クリエイティブコモンズとは」『iNTERNET magazine』 2003年4月
o http://internet.impress.co.jp/im/pdf/cc.pdf
* かみむら けいすけ (2003) 「クリエイティブ・コモンズ---知のイノベーションを守るために」 CNET.com 2003年7月18日
o http://japan.cnet.com/news/pers/story/0,2000047682,
20059809,00.htm

[編集 ]

論考など

* Karl-Friedrich Lenz (2003)「著作権とCreative Commons 実施権」 2003年7月
o http://k.lenz.name/j/r/CC.pdf
* ヴァーチャルネット法律娘真紀奈17歳 (2003)「自由利用マークとCreative Commonsと」2003年3月
o http://homepage3.nifty.com/machina/r/mark.html
* 結城浩 (2003)「クリエイティブ・コモンズのライセンスをWeblogツールで使うことの危険性」 2003年4月
o http://www.hyuki.com/trans/blogtrap.html
* 澁川修一 (2003) 「Creative Commons-ユーザが積極的に「共有」するためのライセンス 」2003年6月12日
o http://www.rieti.go.jp/it/column/column030521.html
* 土屋大洋 (2003)「クリエイティブ・コモンズに気をつけろ」 日本経済新聞 2003年9月18日
o http://it.nikkei.co.jp/it/njh/njh.cfm?i=20030916
s2000s2
* 八田真行 (2003)「クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解 「オープンソース的著作物」は可能か」 2003年9月29日 japan.linux.com
o http://japan.linux.com/opensource/03/09/29/0955208.
shtml?topic=6

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%
83%AA%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%
86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BB%
E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BA " より作成
カテゴリ : ‪知的財産権

2005年11月26日 (15:48)

検討課題:何故、イデア・メディア境界において、何らかの「核」が発生するのか

この問題は、根本的なものの一つだろう。簡単に言えば、原構造がどうして発生するのかということだろう。脱構造であるイデア界がim境界で、構造化する。この変換システムは何か。ゼロ化で、連結するのは、わかるが、どうして、あるまとまりを形成するのか。ここで、単純な場合を考えよう。
差異1/差異2⇔差異1φ差異2
この差異1と差異2が連結して、差異1φ差異2という構造を形成する。そして、差異1ー差異2という連続・同一体を発生させる。例えば、水素と酸素が連結して、水が発生する。水素/酸素→水素φ酸素→水である。このとき、エネルギーが放出されるだろう。境界がエネルギーになったのだろう。そして、ゼロ化して、連続・同一体となる。このような化学反応が、差異論に適用できるならば、本テーマは、解決できる。つまり、im境界で、多様な連結化が生起するのである。無数の順列化が生起するのである。ただし、4元性が構造力学として支配的であろう(4つの力)。量子論では、二つの量子を基礎にしているが、不連続的差異論では、一種類の差異を基礎単位とするだろう。(この点は後で、検討。)
 ここで、ついでに思ったことを述べると、差異は、垂直・水平性の対極性があると考えているが、さらに、高低・深浅性があってはいけないのか。つまり、立体性があってはいけないのかということである。この点も後で検討。

p.s. ここで、化学反応の図式を、差異論に適用できるとして仮定した上でだが、境界がエネルギーになるならば、境界には、原エネルギーがあるということになる。これが、デュナミス、一種ポテンシャル・エネルギーである。境界エネルギーとは、イデア界の虚力である。そう、もし、差異と差異の間にゼロしか見なければ、この境界エネルギー・虚力を説明できないはずである。今日、物理学の標準理論が破綻しているということであるが、また、ダークマターやダークエネルギーの存在が仮定されているが、思うに、境界エネルギーを想定すれば、解決できるのではないだろうか。つまり、境界エネルギー・イデア界の虚力が、ダークマター、ダークエネルギーではないだろうか。ここで、想起するのは、D.H.ロレンスが、暗い神dark godと呼んだものである。これは、彼の黒い太陽dark sunと並んで、神秘的な趣があるが、しかし、ロレンスの思考が、科学的ないし哲学的志向性をもっていることを考えると、これも単に、神秘性だけで、扱うべきものではないだろう。そう、これもエネルギー、根源的エネルギーと見るべきである。つまり、暗い神とは、やはり、境界エネルギー、虚力を指しているのではないだろうかということである。ロレンスがコスモスと呼んだものは、ほぼイデア界であり、また、im境界であろう。神々が発生するのは、im境界である。しかし、ロレンスは、『エトルリアの地』で、神々を発生する根源的エネルギーをコスモスに見ていたのである。だから、ロレンスのコスモスとは、イデア界のことと見るべきだろう。ロレンスは、やはり、プラトンに勝利したと考えていたが、プラトンに出会っていたのである。そして、キリスト教に対しては、絶対的に勝利したのである。

2005年11月25日 (19:19)

一神教(ユダヤ・キリスト教)、近代的自我合理主義、連続・同一性主義の構造分析:ポスト西洋文明論

何故人間は、自己中心主義、利己主義、傲慢・尊大・暴力的になるのだろうか。ソクラテスは無知の知と言った。アポロンの神託は、汝自身を知れであった。しかし、これは、難問である。超難問である。どうして、自己を知ることができるのか。ハムレットは、ミメーシス論を説いた。鏡に映して見るということである。しかし、鏡像に人間は、ナルシシズムを覚えるのではないか。 
 本論に入ろう。例えば、何故官僚は、利己主義なのか。自己保身なのか。民主主義を実践しないのか。これは、当然、人間の欲望が原因である。「色」である。「色」は「空」であるが、「空」とは理解できない。何故なら、「色」とは、意識が「色」ということである。欲望と連続体であるということである。
 近代という時代は、確かに、自我や個人の解放を志向した。これは、評価すべきでことである。しかし、西欧近代は、決定的に、致命的に、欠陥、欠落、欠如をもっているのである。それは、特異性、不連続性、根源性を喪失しているのである。差異はあるが、連続的差異にしか過ぎないのである。微分・積分の世界である。ライプニッツ、ベルクソン、ハイデガー、ドゥルーズ(の一面)の哲学は、近代主義の深化に過ぎない。(私見では、ハイデガーは、とりわけ、悪質である。なぜなら、ニーチェとフッサールがブレークスルーしたポスト近代の理論的前線を、閉ざしてしまったからである。)この近代主義の途轍も無い欠陥が人類を絶滅の危機に陥らせているのである。これは、西洋文明、キリスト教的西洋文明が生んだものである。キリスト教を突破しないでは、この袋小路から脱出できないだろう。デカルト哲学にこの問題が収斂していると言えるだろう。しかし、この点については、これまで何度も述べてきたので、ここでは述べない。
 近代主義は、自我、個体を中心に展開したのであるが、フッサールが批判するように、主客二元論なのである。これは、不連続的差異論から見ると、連続化の帰結である。あるいは、キリスト教の帰結と言えよう。(思うに、キリスト教とプラトン主義は正反対である。どうして、類似的なものと考えられて来たのか。しかし、ある意味では、類似的である。結局、西欧近代は、完全に、勘違いしている。近代日本は、この勘違いを、踏襲しているのである。)
 近代主義とは、連続化の帰結なのであり、根源は、イデア界である。そして、これは、普遍性である。つまり、普遍性が、近代的自我に特殊化されているのである。個別化と言ってもいいだろう。だから、ヘーゲル哲学は、この理論化である。普遍性が、連続・同一性化されたのである。結局、これが、自己中心主義、利己主義、尊大・傲慢・暴力主義である。普遍性とは、本来、不連続性、脱構性、特異性である。この真理が、近代主義において、倒錯されたのである。
 ということで、本課題への解答を得たであろう。つまり、一神教、近代的自我合理主義、連続・同一性主義とは、根源の普遍性が連続・同一性化したものであり、普遍性を独断化しているのである。つまり、真理の歪曲化があると言えよう。真理とは、本来、不連続的なものであるのに、それを、否認しているのである。つまり、不連続的真理を連続的誤謬に換えているのである。これが、傲慢・尊大・暴力なのである。官僚の知とは、そのように染色されるのである。「色」は、「色」のままである。
 では、どうすればいいのか。ポスト近代主義教育が必要である。近代主義的連続主義をすべて廃棄しなくてはならない。不連続的差異論の教育が必要である。文部科学省中心主義は否定されなくてならない。また、経済もそのようになる必要がある。脱連続的経済である。不連続的経済である。これは、また、不連続的政治を意味する。これは、真の民主主義である。ポスト・モダン民主主義である。そう、ポスト・モダン資本主義である。大前研一氏の経営理論は、これに入るだろう。思うに、今日、人類が新黄金時代への進展するのを阻害しているのは、近代主義=連続主義である。ポスト西洋文明、超世界文明である。

2005年11月25日 (13:24)

生命とは何か:D.H.ロレンスの生命哲学と不連続的差異論

ロレンスは、哲学小説の中で、顕微鏡の下の生命を見た女性主人公(アーシュラ)に次のように語らせている。
「何の目的のためにこの無数の物理的化学的作用が、顕微鏡下に影のように蠢くこの一点に集まっているのだろうか。そして作用を集中させ、今見ているこの生命体を創み出している意志とは何なのか。・・・
 それは本来の自己自身になろうと目論んでいるのだ。しかし、その自己とは何か。・・・突然彼女は、強烈に輝く無量光の中へと没入していった。・・・それは、自己の完成(コンサメイション)であり、無限になることであった。自己は今や、無限と一体化した。自己自身であることは、最高の輝ける、無限の勝利であったのだ。」
「『虹』における原生命」杉山泰、『ロレンス研究ーー『虹』』所収 p.24

「・・・葉っぱやあらゆるところにある微光を放つ原形質を描いたように、・・・」
同書p.50

ロレンスが説く「自己の完成」、「微光を放つ原形質」を参考にして、不連続的差異論の生命哲学を考えたい。今、作業仮説的に、生命体とは、脱構造性と構造性との結合体であるとしよう。つまり、不連続的差異論のイデア・メディア境界のあり方が、生命体の本体である。ロレンスが言う「原形質」とは、脱構造性のことではないだろうか。また、「自己の完成」、「無限になること」も、脱構造性を意味しているのではないだろうか。構造は拘束・規制・規定するものである。それは、形態であり、形相である。自然は、ある必然から構造を形成し、現象化するのだ。しかし、この必然的構造は、不自由を意味しよう。だから、構造に対して、脱構造性が自由への活動を意味するだろう。つまり、生命体とは正に、西田哲学の絶対矛盾的自己同一なのだ。脱構造性⇔構造性の対極・両極的相補性があるだろう。(思うに、ヘーゲル弁証法は、この矛盾対極相補性を、精神一元論にフレーム化したものではないか。)この矛盾が生命そのものだろう。そして、根源は、脱構造性ないし脱構造「体」にあるだろう。これが、ロレンスの「原形質」や「霊魂」(これは、アニマanimaがぴったりするだろう)に当たるものと言えよう。また、遺伝子や種子や胚芽や卵等に相当しよう。より正確に言うならば、イデア・メディア境界が脱構造⇔構造矛盾対極相補性であり、ここが、「原形質」、「霊魂」、遺伝子、種子、胚芽、卵に当たるのではないか。(メディア・現象境界が、構造⇔現象の連続・同一性を意味しよう。言わば、超越論的形式・構造・連続性である。それに対して、イデア・メディア境界は、超越論的志向性であろう。)イデア・メディア境界、IM境界が、生命ないし生命体の核であるということになろう。これは、実は、非生命体にもあてはまるだろう。鉱物にも核があるだろう。(cf. 山川草木鳥獣虫魚悉皆成仏)
 この矛盾相補性が、生命・非生命の存在体の力学であり、本質であると言えよう。キルケゴールの有限/無限のパラドックスは正しいと言えよう。これが、本質である。つまり、存在体は、構造・有限志向性と脱構造・無限志向性のパラドックスをもっているということである。これは、また、カントの純粋理性批判につながるだろう。(そう、キルケゴールも不連続的差異論の先駆者の一人に数えるべきだろう。)
 生命で考えると、有限・構造的現象体は消滅して、子孫を残す。これはどういうことなのか。つまり、現象体はエネルギーの消耗ということで、消滅する。しかし、根源の核は、根源を反復するということになるが、この反復の力学は何か。そう、結局、現象体は、展開するが、それは、根源の核のプロセスである。つまり、根源の核の変態・変化・過程そのものである。だから、遺伝子、種子、卵を「生産」するのである。初めから、現象体には、核が内在しているのであるから、帰結的に、核を現象化すると言えよう。この反復はいわば、シャッフル作用だろう。骰子一擲である。アトランダム作用である。いわば、万華鏡の世界である。
 さて、ロレンスの「自己完成」、無限化とはどういうことだろうか。それは、存在体をイデア界化することではないだろうか。脱構造性をより進展させることが、「自己完成」、無限化であろう。そして、これは、宗教の本来の意味であろう。色即是空、空即是色。親鸞の往相・還相。阿弥陀如来。禅。万教帰一。万物が、イデア界的現象界を志向していると言えるのではないだろうか。地上楽園。万物はそれぞれの「速度」で、イデア界を志向しているのではないだろうか。万物は、生命であれ、非生命であれ、イデア・メディア境界的「霊魂」、「原形質」、「遺伝子」、「種子」、「卵子」、「胚芽」をもっているのだ。
 さて、ここで、経済、資本主義、民主主義を考えるとどうだろう。万民民主主義である。普遍民主主義である。個それぞれの「速度」、「色」で存在している。しかし、脱構造性への志向性を閉ざしたものは、悪である。つまり、構造性だけの存在は悪である。近代主義がそれである。これが、人類を絶滅の危機に陥れているのだ。絶対的ポスト近代主義である。資本主義も、ポスト近代的資本主義にならなくてはならない。新自由主義は、その一歩ではあるだろう。ただし、脱構造的資本主義になることが、本来である。思うに、ドゥルーズ&ガタリは、連続性と不連続性を区別しなかったので、構造性と脱構造性を明確に識別できなかった。だから、彼らの資本主義論は、中途半端なのである。構造と脱構造、近代とポスト近代の混同があるのである。不連続的差異論に立脚することで、資本主義は脱近代化するのである。それは、脱構造的資本主義である。ポスト近代的資本主義である。

p.s. 少し蛇足的であるが、宗教の光とは、脱構造性が放つ光、イデア界の光である。これは、超光、原光である。ロレンスが無量光と言っているのは、正に、阿弥陀如来、アミターヴァ(無量光)に関係しよう。後で、この超光・原光と現象界の光の関係を考察したい。

p.p.s. また、後で、異性化の問題を考えよう。何故、雌雄の別が生じて、それが、牽引したり、反発させたりするのか。これは、正に、差異の問題である。不連続的差異の志向性の問題であろう。以前に、男性は、女性にイデア界を見て、女性は、男性に現象界を見ると述べたことがある。予見を言えば、女性とは、複雑で、イデア界的でありながら、連続主義を志向しているのである。つまり、不連続的差異でありながら、連続主義志向である。現象界志向である。それに対して、男性は、連続主義であり、不連続的差異を志向するのである。ちょうど、女男は正反対である。これは、生命体の脱構造性⇔構造性の「絶対矛盾的自己同一」が二元的に分化・分離したものではないか。

2005年11月23日 (16:44)

D.H.ロレンスのコスモス論と不連続的差異論:脱構造性と構造性の「差異」としての自我

ロレンスの『エトルリアの故地』で説かれている宇宙論と不連続的差異論を結びつけられないかと思っている。問題は、宇宙を一つの「霊魂」と考えている点である。不連続的差異論は、無数の不連続的差異が境界を隔てて存するイデア界を根元に見ているので、一元論的考え方を否定するのである。一つの「霊魂」は、イデア・メディア境界と考えることができるだろう。しかし、イデア界をなんらかに意味合いで、そのように考えることは意味があるかもしれない。
 ロレンスの言う二元性・対極性の宇宙とは、いわば陰陽論であるが、それは、垂直・水平性をもつ差異の「宇宙」と等価になるように思える。ロレンスが説く分裂と統一を行う宇宙とは、やはり、イデア・メディア境界のカオスモスに似ていると思う。
 問題は、自然形成の構造を緻密化することである。多様な宇宙・自然の発生の構造の精緻化である。ロレンスはあらゆる存在には、核があると言っている。これも「霊魂」であろう。そして、ロレンスは、霊魂も破壊されてエネルギーに還元されると言っている。これは、物理学的な考え方に近い。根元をエネルギーと見るのである。これは、不連続的差異論では、メディア界の考え方に相当しよう。エネルギーは±でゼロになるだろう。ここで整理すると、イデア・メディア境界は、境界とゼロ度が交差する領域であり、メディア界がゼロ度の領域である。そして、現象界は、+エネルギーによる現象と−エネルギーの現象が連続する領域だろう。つまり、生成消滅する領域である。

イデア界:差異1/差異2/・・・/差異n

イデア・メディア境界:差異1/φ差異2/φ・・・/φ差異n

メディア界:差異1φ差異2φ・・・φ差異n

現象界:
 
A −差異1+−差異2+−・・・+−差異n+  

B +差異1−+差異2−+・・・−+差異n−  
      
      −  
     差異1
      +
      −  
     差異2
      +
      −
      ・
C      ・
      ・
      +
      −
     差異n
      +



      +
     差異1
      −
      +  
     差異2
      −
      +
      ・
D      ・
      ・
      −
      +
     差異n
      −

以上四種類の差異連続・同一性が生起するのではないか。上二つは、差異水平力の連続化であり、下二つは垂直力の連続化である。だから、両者をまとめることができるだろう。

     ±
  Σ ±差異k± 
     ±

問題は、+と−のエネルギーないし極性の意味である。ゼロ度から、±が生成するだろう。では、なぜ、生成するのか。それは、差異がもともと志向性があるからである。志向性が根元的な力、虚力であると考えられる。この志向性(原志向性と読んだ方が明快だろう)が、ゼロ度連結で、連続化すると言える。つまり、実数化されると言えるのではないだろうか。虚数から実数へ。この時にゼロ度連結の+エネルギーが形成され、同時にそれを解消する−エネルギーが発生するのではないか。つまり、連続化とは、エントロピーを発生させるということではないか。生成消滅性である。これは、現象界の4つの連続的差異現象にあてはまる。そして、それは、メディア界へと解消するように見えるだろう。ゼロ度の世界である。これが、いわば、「空」である。しかし、これは、見せかけの「空」、ゼロ度の世界である。
 とまれ、問題にしたいのは、ロレンスが説く烈しく対立しつつ調和する世界のこととである。この対立、対極・両極・相補性はどう説明できるだろうか。ライオンと鹿の対極性はどう説明できるだろうか。火と水の対立・相補性はどう説明できるだろうか。作業仮説的に、垂直力と水平力の対立・相補性ではないだろうか。差異の原志向性である垂直/水平力の根元的対立相補性が、つまり、イデア界の差異の原志向性である垂直/水平力が、ゼロ化によって、連続化される。そのとき、垂直的連続化と水平的連続化が発生する。そして、これが基本的対立構造(構造主義)を構築しているだろう。そして、この連続化は、現象界での対立となり、同時に、メディア界においては、「空」、ゼロ度として、一体化している。これが相補性となるだろう。ロレンスが説いているエトルリア文明の古代宇宙論、コスモス論は、このように説明できるだろう。即ち、「空」、ゼロ度のメディア界と連続・同一化の現象界の結合としての宇宙論である。そう考えると、これまで、イデア・メディア境界をカオスモスとしてきたが、メディア界自体をカオスモスないし絶対矛盾的自己同一と考えた方が適切・的確であると考えられる。とまれ、差異・ゼロ度のメディア界からの現象発生であるが、それは、上述の差異連結からわかるように、垂直連結と水平連結が結合して、らせん的な形状・形態となるのではないだろうか。DNAの二重らせん形態とは、一種典型であろうし、渦巻星雲、つるまき植物、巻貝、竜巻、台風等々のらせん形態もそうだろう。黄金分割やフィボナッチ数列は、このメディア・現象境界の構造であろう。つまり、原らせん構造は、メディア界にあるのであり、それが、メディア・現象境界を通して、現象化するということだろう。また、時空四次元の発生であるが、それも、これで説明できるのではないだろうか。つまり、差異・ゼロ度の原らせん的構造が、時空四次元現象となるのではないだろうか。つまり、宇宙時空間とは、らせん形態をしているということである。そして、ここでは、ただ触れるだけだが、現代物理学の4つの力も、この4つの差異・連続化に関係しているのであり、当然、4つの力は、差異・ゼロ度のメディア界の数学で説明できるはずである。強い力、弱い力、重力、電磁気力は、融合して、メディア界の差異・ゼロ度になるはずである。(このように考えても、重力と電磁気力は双一的ないし相補的ではないだろうか。光が重力によって曲がるのは、ここから見れば、当然である。)
 さて、時空四次元のうち、時間を形成する差異連続とは何だろうか。時間も一つの空間ではないだろうか。あるいは、逆に空間が時間なのか。思うに、時間によって空間が移動するのだから、やはり、空間軸ではないか。とりあえず、時間も空間としよう。そうすると、時間は、電磁気力が形成するのではないだろうか。光である。(これは直観である。)
 次に、ロレンスが説く「霊魂」、「魂」とはどう説明できるだろうか。すべての存在にそれがあると言う。物質的には、DNAのようなものである。遺伝子である。あるいは、現象体の発生をどう説明するのか。あるいは、生命とはどう説明するのか。現象体は、メディア界の構造によって(、正確に言えば、メディア・現象境界の構造だろう)、発生するだろう。つまり、差異連続の順列の種類によって多種多様な現象体が発現すると考えられる。「霊魂」、「魂」とは、メディア界の差異・ゼロ度であるということになるだろう。
 では、生命と非生命体はどう説明できるのか。あるいは、知的生命体と非知的生命体は。たとえば、鉱物と植物の相違は何か。直観で言うと、基本構造的には、相違はないのではないか。共に、差異・ゼロ度の原構造をもっているのではないか。人間また他の動物の違いもそうなるだろう。また、確かに、新しい存在が生まれてもいいだろう。ポスト人間が。天使は、現象体ではなくて、メディア界の構造だろう。
 しかしながら、私はこれまで、人間の特性として、イデア界の過剰性を説いてきた。つまり、メディア界的構造性を脱構築するものとしてイデア界的不連続性をもっていると考えてきたのである。これはどう説明するのだろうか。
 人間の場合、あるいは、生命の場合も含めていいかもしれないが、メディア界の差異・ゼロ度構造に対して、イデア界の不連続的差異的脱構造性が存していると考えられる。つまり、イデア界の脱構造性とメディア界の構造性との「差異」があるのである。(カントのアンチノミーはこの表現の一種であろう。)脱構造性は創造性とも言えるだろう。そして、構造性は同一性である。便宜的に、脱構造性を差異性、構造性を同一性としてもいい。(プラトンのイデアは、両者を指していたと言えよう。)
 もし、構造が必然性ならば、脱構造性は偶然である。(スピノザ哲学は、やはり、基本的には、メディア界的哲学である。)そして、意識や認識、自我を考えると、それは、イデア界(脱構造性)/メディア界(構造性)の「差異」によって生起しているだろう。コギト・エルゴ・スムとは、やはり、この「差異」を指しているだろう。デカルトはカントやフッサールの先駆である。これを具体的に解明するなら、特異性や不連続的差異とその共存性が、連続・同一性の構造に介入することであろう。【ここで、ジュリア・クリステヴァのル・セミオティック(原記号作用)とル・サンボリック(象徴作用)との対立を想起するが。】この「差異」が人間存在の本質と言っていいだろう。(しかし、近代主義は、この差異を排出・隠蔽してきた。そして、近代主義自体が、いわば「精神病」になったのである。つまり、脱構造性を否定するので、それが反動衝動・狂気となって主体に逆襲するのである。現代社会の精神病理は近代主義の病理であろう。)
 思うに、もし、イデア界、脱構造性の介入がなかったら、意識、自我、認識は生まれなかったのではないだろうか。ただ、動物のように自動作用しかなかったのではないか。(勿論、ここで、進化を考えているのではない。進化論については、後で検討しよう。)とまれ、イデア界、脱構造性の介入によって、生体は、主体となり、現象界その他を対象化するようになったと言えよう。これは、不連続的差異の不連続性によって原志向性が、純粋志向性になっていると言えるのではないだろうか。なぜなら、通常の差異・ゼロ化による連続化では、志向性が連続化して、自己対象化ができないからである。つまり、連続・同一性化された志向性とは、自己対象化がないから、意識、自我、知的認識は生じないだろう。動物である。動植物である。対象と一体となった個体である。だから、イデア界の不連続的差異の脱構造性の介入によって「差異」が発生して、意識、自我、認識が生まれる基盤となると言えるだろう。(ここで、精神病について言うと、この「差異」において、脱構造性を否定する方向に構造性が作用するのだろう。そして、その反動衝動が狂気である。また、これは、一種分裂性である。自我分裂である。脱構造性と構造性の分裂である。しかし、両者の接点があるので、病理的な自我が発現しているのである。本来の自我は失われているのであるが。今日の自己愛性人格障害とは、ここに病因があるのではないだろうか。「差異」を否定して、連続・同一性の自我に癒着しているのではないか。)
 ということで、物質身体的には、類人猿と人間は違いがほとんどなく、ヒトゲノムは、他の動物のゲノムとの違いはわずかであろう。結局、質的差異を以上のように認めなくてはならないだろう。人間において、過剰なイデア界、脱構造性、不連続性が存在するのである。ならば、人間の「霊魂」、「魂」とは何だろうか。それは、イデア界の「霊魂」、「魂」ということだろう。動物の「霊魂」、「魂」は、メディア界の構造であろう。もっとも、この二分化を絶対化してはいけないだろう。おそらく、相対的なものではないだろうか。イデア/メディア的「霊魂」ということである。脱構造/構造性、不連続性/連続性である。すると、これは、イデア・メディア境界の問題となるだろう。このゼロ度において、「霊魂」が発生するだろう。ここは微妙な問題があるだろう。 二つの変換が考えられるのである。一つは、イデア/メディア変換であり、一つは、メディア・現象変換である。後者は、構造による生成消滅を意味しよう。+エネルギーと− エネルギーの相補的ゼロ度性である。前者は、不連続/連続変換でもある。これは、境界/ゼロ度変換でもある。そして、ゼロ度は境界へと回帰するということになるだろう。つまり、ゼロ度、「空」、メディア界が、イデア界に回帰するのである。虚界に回帰するのである。ロレンスが、魂も破壊されてエネルギーになると言っていたが、魂をメディア界的構造とするなら、このエネルギーは、イデア界的なものではないか。もっとも、もうエネルギーとは呼べなくなるだろうが。何が、言いたいのかというと、人間の場合、いわば、二重構成となっているということである。一つは、構造性であり、一つは脱構造性である。そして、両者の「差異」において自我が生じる。つまり、二つの要素の中間としての自我である。つまり、いわば、二つの「霊魂」、「魂」を人間はもっていることになろう。イデア界の「霊魂」とメディア界の「霊魂」であり、後者はゼロ度、「空」ないし「無」に回帰する。しかるに、前者は、イデア界に回帰する。つまり、不連続的差異とその境界に回帰するのではないか。つまり、イデア界の「霊魂」とは、不連続的差異とその境界のことではないか。これをロレンスは根源的エネルギーと呼んだのではないか。しかし、これは、メディア界から見た把捉である。もっとも、デュナミス・エネルギー、ポテンシャル・エネルギーとすればいいだろう。ならば、人間(、本当は、動植鉱物を含めていいのだが)は、死んだ時、その「霊魂」はイデア界に回帰すると言っていいだろう。それは、イデア界自体かもしれないが。それとも、一つの不連続的差異なのだろうか。とりあえず、今は前者を取っておこう。
 ならば、さらに問題は、これまで、何度も検討してきたが、記憶の問題、プラトンの想起説の問題である。「霊魂」は現象界の記憶をもつのかである。脱構造性と構造性との「差異」があるのだから、両者には、なんらかの交通があるはずである。どうやって交信するのか。それは、思うに、先に述べた想像力・創造力・虚力が顕現する身心体(メディア界)において交通すると思う。メディア界が媒体となり、イデア界と現象界が交通するのだ。すると、現象界の知覚・経験は、メディア界に内蔵されるだろう。そして、それは、そこに存する想像力・創造力・虚力に反映するだろう。これで、現象界がイデア界に記録されることになるだろう。虚力的記憶である。(これが、大乗仏教の阿頼耶識ではないか。)これが、イデア界という記憶装置に蓄積されるのだろう。イデア界は、個体的記憶をもつことになるだろう。イデア界とはいわば、一者が多数・無数である。この一者が、無数の個体的記憶をもつのだろう。この一者がブラフマン、梵である。しかし、真実在は、境界で隔てられた無数の不連続的差異である。思うに、ロレンスが一つの「霊魂」としての宇宙を述べていたが、それは、この意味で取ることができるだろう。一つの「霊魂」としての宇宙とは、無数の不連続的差異の一者である。もっとも、一者とは、存在の一義性と言うべきかもしれないが。
 最後の付け加えると、一神教の一神・超越神とは、このイデア界をいわば連続化していると言えよう。無数の不連続的差異としての一神・超越神を捉えるべきである。それも、内在性・超越論性においてである。

p.s. 「気」とは、これまでは、メディア界の力と考えたが、それは、イデア界の虚力と考えるべきだと思う。自然が発する「気」=生命力とは、イデア界の力だろう。
イデア界の「霊魂」であろう。

2005年11月22日 (03:55)

『エトルリアの故地』Etruscan Places 1932 D.H.ロレンス著 奥井潔訳 南雲堂

これは、小説家(長編、中編、短編)、評論・批評家、紀行作家、詩人、劇作家他であったD.H.ロレンスの紀行文である。紀行文として、他に、『イタリアの黄昏』Twilight in Italy、『海とサルジニア』The Sea and Sardinia、『メキシコの朝』Mornings in Mexicoが、代表的である。『メキシコの朝』を除けば、イタリア紀行文の三部作と言えるだろう。
D.H.ロレンス(1885〜1930)は、日本では、一般には、『チャタレイ夫人の恋人』でのみ知られたほぼ忘れられた作家であるが、アカデミズムにおいては盛んに研究されている作家である。ここで一つ問題をあげておけば、現代文学のカノン(「聖典」)の問題がある。20世紀現代文学の代表的古典として、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(並びに、T.S.エリオットの『荒地』)とマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』をあり、これらが、規範となって、現代文学が形成されてきたことは確かであるが、しかし、現代文学が行き詰まる新世紀において、アカデミズムの規範が排除してきた文学を見直すことは意味がある。詩人T.S.エリオットは、批評家でもあり、文学のモダニズム革命に当たり、文学の規範を、古典主義に求めて、ロマン主義を排除した。しかし、このモダニズム革命は、矛盾していたのである。自身の内部にロマン主義ないしサンボリスム(象徴主義)の要素をもっていたのであり、それを否定するように、反動的に、古典主義を主唱したのである。だから、モダニズムは早晩限界に突き当たるのである。結局、ロマン主義や象徴主義の問題に正対しなくてはならなかったのであり、今日、D.H.ロレンス研究が盛んであるというのは、この意味があると言えよう。つまり、ポスト・モダニズム(ポスト近代主義)の問題が、現代的であると言えるのである。そういう現代の知的文脈において、D.H.ロレンスの再評価があると考えるべきである。そういう意味合いにおいて、ロレンスの本作品と自身の絵画集の序論を見ていきたい。

エトルリアとは、簡単に言えば、先史時代、イタリア半島に住んでいたイタリアの先住民である。紀元前8世紀〜紀元後2,3世紀まで、存在して、ローマ帝国によって滅びた。今日、イタリア半島の西側にある海洋をティレニア海と呼ぶが、ティレニアとは、エトルリアの語から発している。
本作は4つのエトルリアの地を選んで、そこの遺跡の紀行文となっている。

1. チェルベテリ
2. タルクィニア
3. ヴルチ
4. ヴォルテラ

本紀行文の中核となるタルクィニアに関する章を簡単にまとめる。


「タルクィニア」
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb01.html
「古代の原始時代の地中海民族、それもアジアもしくはエーゲ海系の民族の系譜に属していたと考えなければならない。私たちの歴史の始まりを告げる夜明けの薄明かりは、それに先立って存在した歴史の日没を告げる薄明かりに外ならなかった。」p.54
「エトルリア文明は、先史時代の地中海世界から芽吹いた一本の小枝、おそらくは最後の一枝のように思われる。そして、エトルリア人というのは、新たに来た人々も原住民たちも、互いに種族の異にし、文化の水準を異にしてはいたけれども、共にあの有史以前の古代世界に属する民族であった点では同じだった。勿論、後になるとギリシア人が大きな影響を及ぼすことになった。しかしそれはまた別問題だ。」p.54
「・・・ちょうどエトルリアの宗教が十中八九まで基本的には土着の宗教であり、有史以前の古代世界を包んでいたある広大無辺な古代の宗教に属するものであるように。有史以前の世界という暗がりの中から滅び行く様々な宗教の瀕死の姿が浮かび出て見える。それらの宗教は未だ男の神々、あるいは女の神々という人格神を作り出してはいず、ただ大宇宙に存する根源的な諸力の神秘によって、私たちが今日弱々しい声で自然と呼んでいるものが持つ、あの様々な複合的な生命力によって生きている宗教である。神々も女神たちも、何ら明確な形では未だ出現してはいなかったように見えるのだ。」p.56
「エトルリア人の本能のなかには、生命(いのち)から生まれる自ずからなる気分を守りたいちう真率な願望があったように思われる。」p.68


「タルクィニアの壁画のある墓(1)」

「狩りと漁り(すなどり)の墓」p.86
「みんな小さくて、浮き浮きとしていて、生き生きとした動きがあり、若い生命だけが持つあののびやかな自然さがある。ただ、こんなにも破損がひどくさえなければ嬉しいのだが・・・だってここにこそ本当のエトルリア的な快活さと自然さがあるからだ。それは強い感銘を押しつけてくるものではないし、また偉大でもない。ただ生き生きと寄せてくる生命の小波、と言った感じなのだが、もしそれで満足されるならば、まさにそれがここにあるのだ。」p.88
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb07.html
(突き当たり壁の死者が宴会を開いている光景)
「これは死の、葬送の宴なのだ,そして同時に、これは死者が、下界で、黄泉の国で開いている宴でもあるのだ。なぜなら、エトルリア人たちが往く黄泉の国で開いている宴でもあるのだ。なぜなら、エトルリア人たちが往く黄泉の国は、楽しいところであったからだ。生者が戸外で楽しい祝宴を開いている時、同時に、死者の墓でも、死者自身が、同じように祝宴を開いていたのである、傍らに貴婦人が侍して彼に花輪を捧げ、奴隷たちは彼に紫の酒を運んでいたのである、はるかなる黄泉のくにで・・・。なぜなら地上の生活が、かくも楽しく良きものであったが故に、下界の生活もそれの楽しい続きとなるより外はなかったからだ。
・・・
すべての立居振舞いの中に、何か舞踏のようなもの、生き生きと心を魅する輝きがある。裸の奴隷の男たちの立居振舞いの中にすらそれはあるのだ。」p.89〜p.90
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides3/t-hunt06.jpg
「豹の墓」p.92
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb10.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides3/t-leop10.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides3/t-leop05.jpg
「饗宴の墓」p.98
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb11.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/208.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/210.jpg
「バッカスの巫女の墓」p.104
http://www.mysteriousetruscans.com/art/bacchantes.jpg
「死者の墓」p.105
「雌獅子の墓」p.106
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb04.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/182.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/183.jpg
「乙女の墓」p.107
「彩色壺の墓」p.107
「老人の墓」p.109
「記銘の墓」p.111

★p.113〜p.134で、ロレンスが考える、エトルリア人の世界観・宇宙観が爆発的に述べられる。

「まるである力強い別種な生命の流れが、・・・彼等の中を滔々と流れているよう、まるで我々には掬むことを許されていない別の深淵から、彼等は生命の水を掬み上げているかのよう。」p.114
「生命の自然なる開花!」p.114
「エトルリア人にとっては、すべてのものが生きているものだった、全宇宙も生きていた、そして、人間の務めは、その全体の唯中で自分も生きることであった。人間は、様々な生命力が巨大な潮のようにうねり流れているこの世界という海から、生命という水をみずからの内部に掬み入れなければならなかった。全宇宙は生きていた、まるで巨大な一個の生きもののように。その全体が呼吸し、動いていた。
・・・
世界全体が生きものであった、そして、偉大な魂を、即ち霊魂(アニマ)を持っていた。そして偉大な一つの魂であるにもかかわらず、同時にもっとも小さな無数の漂泊して止まることのない魂に分かれているものでもあった。すべての人間が、すべての動物、樹木、湖、山、川がみな生きものであり、それぞれが自分固有の意識を、心を持っていた。そして、今日だってそれに変わりはないのである。 
 宇宙は一つであった、そして、宇宙の霊魂(アニマ)も一つであった。しかし、それは無数の生きものから出来ている一つなのであった。」p.115
「宇宙というものは、ただ一つの魂を持つただ一つの生きものであったが、そう私たちが考える暇もなく、それはたちまち変化して二つのものから成る一つの生きものとなり、内なる魂も、火のような魂と水のような魂と二つになり、二つは小休みなく混じり合い、またたちまちに相離れつつ、究極的には大宇宙の生命力によって一つの均衡調和が保たれているのであった。しかし、この二つは常に烈しい勢いで合体し、また烈しい勢いで分裂し、そして瞬時にして無数の生きものに変ずるのだった、無数の火山に、海に、それから河川に、山々に、森や林に、生きものたちに、そして人間に。だからすべてのものは二元的であった、即ち内に二元性を蔵していた、そして常時小休みなく混じり合い、瞬時にしてまた分裂していたのである。
 宇宙は一つの生きものであるという古代の思想が徐々に形成されて行ったのは、有史時代が始まるよりもはるかに古い昔のことであって、この思想が精緻に集大成されて既に巨大な一つの宗教となった後に有史時代がきて、我々はこの宗教を垣間見ることになるのである。有史時代のまさに夜明けの頃の、支那にも、印度にも、エジプト、バビロニアにも、いや太平洋諸島や原始時代のアメリカにも、既に一つの宗教思想が、それぞれの土台に存在していたという明らかな証拠が見られる。即ち宇宙は一つの生きものであり、宇宙を形成している無数の生命は、烈しく入り混じって混沌なる状態にあるが、しかしこの混沌には、依然としてある秩序が保たれているという宗教思想が・・・そして人間は、この真赤に燃え上がる混沌のただ中に立って、あえて危険をものともせず、力戦苦闘してただ一つのものを、生命を、活力を、さらに多くの活力を求めるのだ、彼方にきらめく大宇宙の生命力を、さらに多く己れの内部に、いやが上にも掬み入れようとするのである。その活力こそ求むべき宝なのだから。この能動的な力に満ちた宗教観によれば、人間は、鋭敏な注意力と繊細な感受性と全力をあげての努力によって、いよいよ多くの生命(いのち)をいやが上にも多くの、きらめく生命力を己れの内部に掬み入れることが出来、かくして遂にはみずからも朝の如く光り、神の如く燦爛として輝くことになるのであった。生命に満ち、完全に己れ自身を成就すると、彼は自分の全身を朱に塗った、曙の赤い初光のような朱に、そして神の体になった、まざまざと目に見える神の、赤々と、全身に生命が満ち輝く神の身体が具現したのである。」p.116〜p.117
「いろいろな墓を見て私たちの目に付くのは、ライオンと鹿とが対比されている図が、次から次に繰り返し出てくることである。この世界が創造されたそもそもの初めから、この世界は二元的な存在形式を取っていたと言うのが古代人の考え方だった。あらゆるものが、二元性を持つものとなった。・・・ 
 豹と鹿、ライオンと牡牛、猫と鳩もしくは鷓鴣(しゃこ)、これらの組み合わせは、この根元的な偉大な二元性、即ち動物の王国にある両極性と切り離せぬ一部をなしている。・・・この組み合わせは、聖なる大宇宙は、動物を創造する場合にも、動物には二つの対極があるような創り方をしたということをあらわしているのである。
 大切な宝の中でも大切な宝は魂であって、それはあらゆる生きもの、あらゆる生きもの、あらゆる木にも池にも内在するもの、そして火的性質と水的性質というこの二元性を形成する二つの部分、二つの要素の間の釣合い、もしくは均衡を知覚するあの神秘的な意識の切点を意味している。この神秘的な切点は、右手から次々に押し寄せる生き生きとした生命にも、それから左手からも次々に押し寄せるくる生命にも包まれるのである。そして個体は死んでも魂は決して消え失せることはなく、あの卵の中に、あるいはあおの壺の中に、あるいはあの木の中にすら保存されていて、そこから再び芽吹き生まれてくるのである。」p.131〜p.132
【この切点である魂とは、不連続的差異の境界のことではないだろうか。後で検討したい。】


「タルクィニアの壁画のある墓(2)」

「牡牛の墓」p.148
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb02.html
この箇所においても、ロレンスのエトルリアの宗教観・世界・宇宙観が述べられている。
「エトルリアの宗教は、けっして神を擬人化し神と人間を同一化する性質のものでなかったことは確かである。即ちこの宗教の中に現れている神々は、すべて存在しているものではなくて、根源的な様々な力(エネルギー)の象徴だった、まさに象徴に外ならなかった。そして、これはさらに昔のエジプトにおいても同じだった。分割されていない究極の神の本質は、もしそういう呼び方で言ってよければであるが、あのマンダム、即ちその中に核を持つ原形質的な細胞によって象徴化された。そしてこれがそもそもの始源、はじまりなのであって、我々の場合のように、究極の神の本質が、擬人化された神、人格神によって象徴されるではなく、また人間がすべての創造もしくは進化の目指す終点、究極の目的ではないのである。これがエトルリアのすべてに一貫して見られる原理だ。エトルリアの宗教は、霊魂の形成のもとでもあり、また霊魂の破壊のもとにもなるあの物質的な、そして創造的なあらゆる力、あらゆるエネルギーに対する信仰なのである。そしてあの霊魂、個性なるものは、混沌の中から、まるで花のように徐々に産み出されてくるもの、そして再び混沌の中に、即ち下界へと消え去って行くものに過ぎないのだ。これとは反対に、私たちは言う、太初(はじめ)に言葉ありき、とーーそして宇宙という大自然が真に実在することを否認するのである。私たちはただこの言葉の中にのみ存在するのであり、この言葉は打ち延ばされ薄く広げられて、すべてのものを覆い、メッキをかけ、すべてのものを隠してしまうのである。
エトルリア人にとって、人間とは、その人間の持つ他と異なる様々な性質や力に応じて、牡牛であり、あるいは牡羊であり、ライオンであり、あるいは鹿でもあるものであった。人間はその血管の中に、翼ある鳥たちの血を持ち、また蛇の毒を持つものであった。すべてのものはそういう血の流れから出現したのであり、従ってこの血縁関係は、それがどんなに複雑で両立出来ない関係になったとしても、けっして断ち切れれることはなく、また忘れられることもなかった。この血の川の中にはいろいろな流れがあって、その中にはいつもぶつかり合っている流れも少なくなかった、鳥と蛇、ライオンと鹿、豹と仔羊というように。しかしそのぶつかり合いそのものが和合調和の一形式に外ならなかった、ライオンが同時に山羊の頭を持っている姿に見るように・・・。」p.153〜p.154


「占い師の墓」p.161
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb03.html
「男爵の墓」p.165
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb08.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/194.jpg
http://www.ou.edu/class/ahi4163/slides/197.jpg
「オルクス、即ち地獄の墓」p.168
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb12.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb13.html
「楯の墓」p.171
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/tomb14.html

リンク
http://www.basarchive.org/sample/bswbBrowse.
asp?PubID=BSAO&Volume=1&Issue=1&ArticleID=10
http://www.victorianweb.org/courses/nonfiction
/lawrence/

エトルリア美術 
http://www.mysteriousetruscans.com/art/art.html
http://www.ou.edu/class/ahi4163/files/main.html
http://www.artlex.com/ArtLex/e/etruscan.html
http://www.huntfor.com/arthistory/ancient/etruscan
.htm
http://www.google.co.jp/search?q=etruscan+art&btnG
=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&num=30&hl=ja
http://www.insecula.com/us/salle/theme_40013_M0001
.html
http://witcombe.sbc.edu/ARTHrome.html#Etruscan

イタリアの地図
http://www3.zero.ad.jp/cipolla/map.htm
http://rome-navi.net/miritalymap.htm
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9716/italia0.
html
日本語
http://www.jalcityguide.com/world/italy/citymap01.jpg
イタリア(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3
%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
イタリア・リンク
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5769/links.html

2005年11月20日 (23:48)

日本人の想像力・創造力・差異力が枯渇・消滅・死滅した理由について

ロマン派は想像力を強調する。また、大江健三郎もそうだった。想像力をやたらに言うのは、鼻につく。しかし、芸術からこれを除いたら、単に感覚だけになる。先にも触れたが、想像力は唯物論によって衰退し、死滅させられたのではないか。かなり想像力のある中沢新一でさえ、霊的唯物論という奇妙な唯物論を説いている。唯物論とは、主体の外部に、客体である物質が存しているのであり、その真理を、主体が認識するという考えである。この考えを認めると、主体のもつべき想像力は、衰退する。どうも、戦後日本は、唯物論の道を歩み、現在のように、想像力の枯渇した国になってしまったようだ。イギリスの版画家で詩人のウィリアム・ブレイクは、詩的精神である想像力を強く説き、物質主義の近代に対抗した。そう、ディケンズもそのような面があるだろう。二つの文化(理科系と文科系)の問題は、実は、フッサール現象学で、乗り越えられているだろう。西洋人はプラトン主義が大伝統であるが、日本人は、アリストテレスは理解できるが、プラトンが苦手なようである。
 ところで、日本文学で、想像力がもっとも豊かなものは何だろうか。私は、折口信夫の『死者の書』をあげる。ただし、難解である。精読しないと理解できないだろう。緻密で、複雑にできているのである。

p.s. 想像力とは特異性においてあるものでもあろう。つまり、イデア界の力でもある。これは、軽薄ではない。想像力が消滅すれば、軽くなる。知識人に想像力がない。優れた知識人であった柄谷行人氏にも、想像力が欠落している。
 思うに、知識は、想像力を排除するような方向ではたらくようだ。想像力は理念的な力でもあり、また、主体の力でもある。民主主義を健全なものにするには、想像力が不可欠である。想像力的民主主義である。想像力の欠落した多くの日本国民に対して、民主主義は、洗脳する政治家の道具となる。
 とまれ、何故、想像力を排除するのか。どうして、想像力をもった知性を発展させないのか。それは、やはり、近代的合理主義的知性にとって、想像力は、夾雑物に思えるからだろう。これは、デカルトの責任があると思う。想像力はあいまいに見えてしまうのである。しかし、想像力はあいまいではなくて、明快なものである。虚構想像的な力である。スピノザの能動的観念には、想像力が含まれているだろう。

p.p.s. 想像力を排斥・排除した場合、それは、逆襲するだろう。想像力は本質的に人間に内在するものであるから、否定できないのである。だから、排斥・排除されれば、逆襲する。想像力はイデア界の力である。それは、ほぼ、イデア・メディア境界の力となるだろう。カオスモスの力である。これが排斥されたときは、反作用・反動が生じる。それは、どう現象するのか。それは、衝動となる。非合理な衝動、つまり、狂気となるだろう。もっと正確に言うと、志向性、他者への志向性を排除しているので、連続化だけとなり、現象自我へと集中する。自己中心主義、パラノイア、自己愛性人格障害、分裂症等になるだろう。つまり、想像力の排除に対して、反動衝動が起こるのである。現象自我中心性に、他者排除的反動衝動が加わるのである。つまり、憎悪・暴力が現象自我に内在しているのである。想像力的他者を攻撃しないではないだろう。反感、ルサンチマンからである。そう、ニーチェがキリスト教に見たルサンチマンとは、想像力の排除と等価だろう。想像力とは他者への志向性である。一神教は他者を否定するのである。ここから逆に言うと、一神教とは、ユダヤ・キリスト教とは、想像力を排除したものである。イデア界の志向性を排除しようとする連続・同一性の宗教であろう。やはり、イデア・メディア境界において、イデア界を暴力的に閉ざそうとするあり方であろう。それは、連続・同一性の展開のあり方である。そう、おそらく、+エネルギー的あり方と言えるのではないか。−エネルギーを否定するのである。−エネルギーを認めまいとする不合理な暴力性をもつ。そう、これは、無意識となったイデア界の力が衝動化して、現象自我に狂気をもたらすのである。そう、差異・他者を否定しているので、コスモスがカオスとなった衝動が襲うのである。これは、明らかに精神病である。西洋文明、キリスト教文明は精神病となるのである。

2005年11月20日 (12:24)

夢、想像力、創造力と不連続的差異論:実在感、実在力の基層・原基・基盤は何か

先の検討の中から、夢、想像力、創造力の基盤・根拠が問題になったので、ここで検討したい。 
 先ず、具体的な簡単な疑問から見ていこう。夢を見ているとき、ほぼ夢には実在感がある。夢の世界を疑問なく信じている。(中には、夢と感ずる場合もあるだろうが、ここでは、例外としておく。)この夢の「実在感」から考えたい。現象界の知覚の基盤として、メディア界がある。超越論的知覚である。夢は、この知覚が形成すると考えられる。メディア界は、多様体と考えられる。そして、原時空間であるから、時空を超越するし、また、現象界的連続性を超越する。【フロイトは、夢における性的思考の圧縮や置換を述べていたが、性的と限定する必然性はないと考えられる(フロイト批判)。】この現象界から見たら、奇妙な世界を、見ているときは、そのまま実在と感じている。夢見とは何だろうか。視覚、内的視覚、内的視知覚の問題がある。これは、志向性に還元できると考えられる。つまり、志向性には、視覚、ヴィジョンも入るのであり、とりわけ、視覚が重要だと考えられる。しかし、志向性は根源的には原知覚である。超越論的主観性である。とまれ、視覚優位とは、当然、光と関係する。差異・ゼロ度から発出するメディア界は、ゼロ度を内在している。このゼロ度は、メディア界の強度を発生させるものである。もっとも、強度とは、差異・ゼロ度自体を意味するが。
 ここで、力の問題を考えよう。ゼロ度において、力が発生する。この力は、「知覚」でもある。ここで、用語を規定して明快にしよう。イデア界のおける超越論的主観性を根源知覚ないし原知覚、メディア界におけるそれを中間ないし媒介知覚と呼ぼう。そして、現象界の主観性は現象知覚である。メディア界の力は、中間ないし媒介知覚である。そして、これは、作業仮説として、4つの力に呼応する4つの中間ないし媒介知覚である。感覚・感情・直観・知性の媒介知覚である。もっとも正確に言えば、中間的感覚・感情・直観・知性であり、現象界のそれではない。とまれ、これらが、ゼロ度の4つの力・媒介知覚である。
 では、これらと視覚、視知覚とどうつながるのか。E=mccである。エネルギー・強度において、質量と並んで、光が根源である。強い力と弱い力と重力が質量に関係し、電磁気力が光に関係するだろう。思うに、光の特殊性があるのだろう。ここで、作業仮説的に私の直観を言うと、重力が反光である闇、ダークネスである。つまり、光と重力が対(つい)になっているのではないだろうか。光と闇(重力)が相補性を形成するのではないか。とまれ、言えることは、光と闇が、メディア界において志向性の中核になるのではないかということである。そう、光とシャドウ(重力)の相補性がメディア界の知覚、中間知覚の枢軸ではないか。これを作業仮説とする。ということで、メディア界の志向性
において、視覚、視知覚が優位となるのである。これは、光且つ影である。そして、夢の実在感から言うと、この光/影が実在感の基盤ではないだろうか。即ち、光/重力が基盤ではないかということである。正確に言えば、光/影と質量性が実在感の根拠であろうが、質量性は、夢においては、光/影の背後に隠れているのだろう。(後で、光/重力、光/影(シャドウ)について考察する。)
 では、この実在感とイデア界はどう関係しているのだろうか。睡眠において、イデア界に「知覚」は回帰すると仮説しているが、夢を見ていない睡眠において、「知覚」は、4つの力・中間知覚を超えて、イデア・メディア境界(IM境界)に達して、さらに、イデア界内部に帰還していると思われるのである。つまり、根源知覚、根源的超越論的主観性に達していると考えられるのである。純粋な志向性の世界である。これは、絶対界である。デュナミスである。ここは、前エネルギー世界である。あるいは、ポテンシャル・エネルギーの世界である。これによって、知覚は、原エネルギー体となるのであろう。そして、目覚めとともに、知覚はエネルギーを使用するのである。
 さて、最後に、光/重力、光/影(シャドウ)について考えよう。これは、相補性の関係にあると思う。比喩的というか文学的に言えば、光には、影が伴っているのである。光と闇とは一体である。両者は分離できないのではないだろうか。つまり、光と重力は分離できないのではないだろうか。電磁波と重力との相補性があるのではないだろうか。光が重力で曲がるのは当然だと思う。なぜなら、光と重力は不可分一体だからである。光は重力を伴うのである。知覚で言えば、直観と知性が結びついているのである。そして、これが広義の視覚・ヴィジョンであろう。これが、ニーチェのアポロ的なものに相当しよう。アポロ的ヴィジョンである。そして、これは、影・闇・シャドウが付随している。ディオニュソスである。アポロとディオニュソスは一体であり、いわば、双子である。先に、ディオニュソスを、イデア・メディア境界的な矛盾同一・カオスモス的なものと考えたが、それも考えられるが、狭義においては、こちらの方が適切ではないだろうか。(後で、検討しよう。)アポロとディオニュソス、光と影は一体であると考えると、いろいろ説明がつくことがあるだろう。D.H.ロレンスは黒い太陽と言ったが、それは、ディオニュソスのことだろう。また、暗い神と言ったが、それもディオニュソスだろう。光と闇は双子である。(思うに、天使と悪魔、善と悪も双子だろう、おそらく。プラトンの白い馬と黒い馬も双子だろう。)この闇が光に付随して、身体へとつなぐ。知性が身体と連結するのである。思うに、この闇が想像力・構想力であり、心身を結合しているものではないか。そして、「気」とはこの闇ではないか。つまり、重力である。また、さらに、ダークマターの問題であるが、これも、重力に関係する問題ではないか。光の背面にダークマターがあるのではないか。結局、光重力論が出てくるのではないだろうか。まぁ、作業仮説的想像はここまでとしよう。

2005年11月20日 (02:44)

イデア・メディア境界とイデア界的身体/意識について:イデア知覚とメディア知覚

先の諸考察を整理する必要があるが、ポイントは、イデア界の力を把握した思考をどう捉えるかである。自我、現象自我とは、イデア界→メディア界→現象界の帰結としてあり、これは、歴史的には、近代主義である。(宗教的には、キリスト教の誕生がそうだろう。イデア界が現象界になるのであるから。)しかし、この連続・同一性の志向性は、反転して、イデア界←メディア界←現象界という差異への志向性となる。これが、ポスト・モダニズムである。脱近代主義である。哲学的には、ニーチェとフッサールが巨大な震源である。これは、物理学では、相対性理論、量子力学とパラレルである。文学・芸術では、「モダニズム」がパラレルである。
 明確にしなくてはいけないことは、メディア界の意味である。これは、連続・構造界であり、現象界の原型・形相の世界であることである。現象界にとっての直前の超越論的世界である。カントの超越論的形式は、メディア界の一つであると言えよう。先に、身体をメディア界と考えたが、それは正しいだろうか。つまり、身体とは超越論的世界や原型・形相・構造の世界になるのだろうか。メディア界は差異・ゼロ度連結界である。この差異・ゼロ度連結において、ゼロ度的側面において思考・知性が、差異的側面において身体が発現するだろうが、両者は相補性を形成すると考えられる。つまり、

身体ー差異/ゼロ度ー思考

である。だから、メディア界は身心体と呼んでもいいだろう。とまれ、身体をメディア界とするのは、不正確である。身心体をメディア界とするのが正しい。では、身心体において、超越論界があることになる。身心性の四つの知覚、感覚・感情・直観・知性と、超越論性がどう結びつくのだろうか。これは、カント的に考えて、超越論的感覚・感情・直観・知性があるとすればいいだろう。つまり、超越論的身心体性である。これが、原型・形相・構造となる。一種の超越論的主観性である。メディア界的超越論的主観性である。
 問題は、この超越論性を知覚できるのかということである。ここでも直観で述べよう。身心体において感じる過剰な知覚は何だろうか。感覚のフレームを超えるような過剰な、何か超越的な知覚とは何だろうか。これは、思うに、一種の超越論的主観性だと思う。ならば、身心体において、超越論性を知覚できるのである。つまり、差異/ゼロ度というメディア界である身心体を知覚できるのである。超越論的知覚を得ているのである。
 そして、さらに問題は、このメディア界的知覚は、イデア界的知覚に達するのではないかということである。メディア界はイデア界に接している。だから、理論的に、メディア界的超越論的知覚は、イデア界に触れることができるのである。これは、すぐれた哲学者、芸術家、宗教家等において存していることだろう。
 では、この接触したイデア界はどのような知覚をもたらすのか。それは、一言で言えば、カオスモスの知覚である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。これは、力の知覚でもある。ニーチェのディオニュソスとはこの知覚であろう。簡単に言えば、一即多である。実際はもっとはるかに複雑だろうが。とまれ、不連続的差異と不連続的差異とが共立しつつ、連結する状態である。ここには、イデア界の力とメディア界の力とが混交しているだろう。問題は、このイデア界の力がどういう機能をもつのかである。これは、正に、脱構築であろう。メディア界の構造を解体するだろう。正確に言えば、脱構造化であろう。つまり、連結・連続化した差異の構造を、イデア界の力は解体させるのである。つまり、不連続化させるのである。この頂点にニーチェ哲学がある。問題は、このイデア界の力とメディア界の力とをドゥルーズのように混同しやすいことである。不連続性の力と連続性の力とが混同されやすいのである。これをどう識別するのか。これはとても難しいと思う。なぜならば、連続化と同時に、不連続性に触れるからである。ここで、特異性を考えるといいだろう。不連続性とは特異性である。この特異性がメルクマールとなるだろう。イデア界の力とは特異性を形成する。例えば、コギトとは、特異性であるから、イデア界の力である。また、自然との一体感というのは、それを感じる自己は特異性であるが、一体感は連続性であるから、メディア界の力が入っていると言えるだろう。ということで、特異性が区別する契機になるだろう。
 では、イデア界の力、特異性はどのような力学をもつのだろうか。いわば、脱構造的「構造」を形成するのではないか。つまり、共立である。不連続的差異の共立構造を形成するのだろう。これは、メディア界的な連続構造とは異質のものである。ドゥルーズ&ガタリが離接(分離的接合)と呼んだものに近いだろう。あるいは、ガタリの用語だと思うが、機械状アジャンスマン(アレンジメント)に似ているだろう。これは、近代の連合、連帯、アソシエーション、コミューン、団結等々とは全く異なるもの、次元の異なるものである。共立、共存、共生であろう。これは、フッサール現象学の志向性の世界である。不連続的差異の他者の不連続的差異への志向性がある世界である。そして、ここは、コナトゥス(自己保存力)が機能している世界である。しかし、また、不連続的差異の境界的調和が作用している「調和」の世界でもあるだろう。おそらく、原調和の世界である。イデア・メディア境界において、ゼロ度の調和があるだろう。
 そうなると、イデア界の力、即ち、虚力は、(独特の)創造性をもつだろう。不連続的創造性である。これまでにないものを生み出すと言えるだろう。発見や発明。つまり、イデア界の虚力は、新しいメディアを創出するだろう。あるいは、ポスト・メディアである。つまり、不連続的差異・特異性の共立である脱メディアの創出である。
 最後に、イデア界の虚力と想像力についてである。想像力とは何かである。イメージ力とは何か。あるいは、実在感とは何か。夢は実在感がある。何故か。実在感の基礎がはたらいているからだろう。実在感の原基は、イデア界なのかメディア界なのか。これは、夢はメディア界的であり、実在感もほぼメディア界に拠るだろう。そして、想像力は、やはり、メディア界的なものだろう。しかし、夢、実在感、想像力は、メディア界のみを根拠にしているのか。イデア界の力がないのだろうか。今は、指摘だけするが、イデア界の力がやはり作用しているのではないだろうか。例えば、小説を読んで深く作品世界に参入しているとき、それは、メディア界的であると同時に、読者が創り出している虚構世界だから、イデア界的創造力がはたらいているのではないか。虚構は、単にメディア界的構造では形成できないのではないだろうか。メディア界は、構造という固定した世界であるからと考えられるからである。想像力には、やはり、イデア界の創造力が必要のように思える。後で、検討を深めたい。

2005年11月19日 (10:07)

不連続的志向性と連続的志向性:イデア界的志向性とメディア界的志向性

先にあげた4つの力・知覚(力知覚)は、メディア界における連続的な力であり、それは、現象界の自我の基本構成(基本構造)となるだろう。しかし、自我においては、メディア界だけではなく、イデア界が作用しているのである。もっとも、これは無意識的にという方がほとんどの場合適切だろう。ここで、身体の問題が発生するだろう。通常、身体は、感覚、感情、欲望の領域であるが、イデア界の作用を問題にするとき、身体性が問題となるのである。これはどうしてなのか。身体とは何かを考える必要があるだろう。実は、身体とは、延長と思惟との接合領域であると考えられる。感覚体であり、同時に、思考体である。つまり、身体とは、差異ゼロ度のメディア界領域総体を指していると見ていいだろう。自我や意識は身体から発すると言ってもいいだろう。(思惟と延長の二元論は、身体が欠落している。スピノザの心身平行論は、精神と身体の二元論で、思惟と延長との二元論とは異なるだろう。)
 ということで、身体=メディア界となったのである。そして、イデア界の力は、イデア・メディア境界に存している。これは、換言すれば、メディア界の背後、裏面にあると言えるだろう。通常は、この無意識のイデア界は隠蔽されている。しかし、ある時、これがひらかれるのである。これは、仮説的だが、成長と関係していると思う。成長の前半は、イデア界→メディア界→現象界と進展して心身形成される。しかし、これが、成長の後半になると反転すると思うのである。つまり、現象界→メディア界→イデア界である。何故こうなるのか。
 今、二つの考えが浮かぶ。一つは、イデア界のさらなる1/4回転である。他の一つは、メディア界の強度の極性力学である。前者は置いておいて、後者を考えよう。つまり、プラス強度によって連続化が発生したとするならば、当然、力の拮抗性によって、マイナス強度が発生する。

A)差異1+−差異2+−差異3・・・+−差異n

B)差異1−+差異2−+差異3・・・−+差異n

Aを+強度として、Bを−強度としよう。BはAの反転である。そして、A+Bで、再び、ゼロ度の状態を回復するだろう。つまり、イデア・メディア境界回帰となるだろう。この反転が、成長の後半であると作業仮説しよう。そして、これによって、イデア界の差異共存志向性が出現することとなる。ある人にとっては、心機一転の時期だろうし、ある人にとっては、宗教性への開眼だったり、ある人にとっては、精神病や狂気の発生だったりするのではないだろうか。ユングが中年の危機と呼んでいたものがこれと共通するだろう。(思うに、ユング心理学の無意識はイデア界と見れば、明快になるだろう。)
 すると、必然的に、メディア界の反転によってイデア界の力が自我に参入するようになるのである。(思うに、天才と呼ばれる人は、イデア界の流入が初期、前期からあるのだろう。また、精神病理も、これと関係しよう。)そして、この流入の場所が、身体であると考えられる。なぜならば、メディア界の反転においてイデア界が流入するのであるから、身体であるメディア界に生起することになるだろう。
 このように考えると、メルロ=ポンティの身体現象学やD.H.ロレンスの身体的無意識論が、より明快整合的に説明できるだろう。フッサール現象学も身体現象学と言えるようになるだろう。また、ロレンスの身体的無意識の二元的四元性の知覚とは、イデア界的対極的志向性とメディア界的対極的志向性を総合させたものを表現したいるのかもしれない。
 さて、この観点からポスト構造主義を見ると、それは、イデア界的次元の示唆にあると言えるだろう。差異ゼロ度によるメディア界を近代的二元論的世界に説くのであるが、それは、また、イデア界領域を示唆していたのである。思うに、長期の文化期においてもこのような反転が言えるのではないだろうか。不連続性から連続性へ、そして、連続性から不連続性へと移行する。
 ここで、気になるのが、映像の問題である。特にテレビの問題である。(私は、テレビをほとんど見ない。)今日の映像は、写実主義であり、連続体である。(ドゥルーズの映画論はベルクソンの持続論を根拠にしているので、連続論で、全く使い物にならないだろう。)これは、人間の視覚を平面・平板化させると思う。つまり、イデア界的心象直観を喪失させるように思うのである。これは、また、都市の問題である。イデア界的建築物や施設の有無の問題である。今日の都市文化において、イデア界的直観が欠落すると思うのである。自然の乏しさも問題である。おそらく、イデア界的心象直観と現代の映像・都市がそぐわないのである。不連続的映像・都市が必要である。テレビの不連続化が必要だろう。ライブドアはどうなっているのだろう。不連続的差異テレビである。

2005年11月18日 (22:27)

差異共存志向性とは何か:イデア界の虚力的脱構造性とメディア界の構造性

先に、4つの力・知覚に関して言及したが、では、それまで述べていたイデア界の差異共存志向性はどういうものとなるのだろうか。差異共存志向性とは、イデア界の力である。だから、先の4つの力・知覚の考え方は、補足説明が必要だろう。イデア・メディア境界において、イデア界の虚力が作用する。この虚力が連続化して4つの力となるのであるが、しかし、連続化されない虚力あるのである。これが、差異共存志向性ではないか。4つの力・知覚が、連続・同一性の自我を形成するなら、差異共存志向性の虚力は、脱自我、ポスト自我を形成するだろう。だから、4つの力・知覚+一つの虚力・虚知覚だろう。この虚力・虚知覚が、虚次元知覚であり、イデア界知覚である。この虚力・虚知覚・イデア界知覚を近代主義は排出・隠蔽しているのである。これは、自然科学的に見たらどうなるのだろうか。虚力を自然科学ではどう捉えているだろうか。これは、高次元や虚時間等で、考えられているの事象ではないだろうか。因みに、空海は、五大に響き在りと言った。地水火風空である。だから、空が虚力・虚知覚ではないか。この空は、メディア界の空ではなくて、イデア界の空である。また、思うに、「気」とは、この虚力ではないのか。
 思うに、現象界において虚力的創造化することが、差異共創共存主義ではないか。虚力が新たな差異連結を創造するのである。ところで、プラトンのコーラとは、この虚力的形成力を指しているのではないだろうか。これまで、メディア界的形成力がコーラと思っていたが、どんなものも受け入れる容れ物とは、虚力的創造力でしかないだろう。なぜなら、メディア界的形成力とは、構造・原型・形相であるからだ。それは、連続的差異の多様体・位相体である。これは、生成変化するが、連続体の型があるだろう。だから、あらゆる形態をもつというわけにはならないだろう。構造主義としてのメディア界であろう。黄金分割とかフィボナッチ数列とかである。あるいは、有機体の連続性である。脱構造化するには、イデア界の虚力が必要である。そして、コーラとは、融通無碍なものであるのだから、虚力であると見た方がいいだろう。つまり、コーラとは、イデア・メディア境界を超えて、イデア界的虚力であると思う。やはり、プラトンは、決定的にイデア界を捉えていたこととなるだろう。プラトンのイデアは、メディア界的構造とイデア界的脱構造の両方を指しているのである。最初のポスト構造主義者であるし、また、イデア界を明快に指していた点では、デリダやドゥルーズを超えていたと言えるだろう。

p.s. イデア界の虚力の知覚を理性にすれば、カント哲学が解明されるのではないか。純粋理性批判とは、イデア界的知性とメディア界的知性の混同である。これによって、アンチノミーが生じていると考えられるのである。イデア界的知性を不連続的知性、メディア界的知性を連続的知性と区別すれば整合化されるだろう。アンチノミーはないのである。とりあえず、前者をイデア知性、後者をメディア知性と呼べるだろう。近代主義の知性とは現象知性であろう。

2005年11月18日 (19:02)