2005年12月31日 (00:34)

何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのか:過渡期としての近代とポストモダン革命

今、思いつくままに述べるが、この問題は、フッサールが、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で鋭く解明していると言えるだろう。つまり、近代的自然科学の問題である。コペルニクス、ガリレオの問題である。つまり、近代において、古代宇宙論(コスモス論)が崩壊して、太陽中心の宇宙という物質主義的宇宙観が進展したということである。コスモスの崩壊である。ユニヴァースが始まったと言えるだろう。
 とまれ、簡単に言えば、コスモスと叡知が結びついていたが、ユニヴァースは、近代的知性と結びついている。これが、西欧近代が、叡知を失った理由である。コスモスからユニヴァースへの転換である。つまり、これは、叡知的宇宙から物質的宇宙への転換である。この問題は複雑であるが、簡単に言えば、叡知の力の宇宙(コスモス)から物質の力の宇宙(ユニヴァース)へのパラダイム変換したことである。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560024162/250-8960880-5103431
フッサールが、『危機』で述べていることは、このことに関係するだろう。
 わかりやすく言えば、宇宙が、なんらかの「精神性」をもったものから、数量化できる物質だけから構成されるものへの変換である。そして、この結果、近代的科学・唯物論的宇宙観が形成されたのである。これが、西欧近代における、叡知の喪失の事態である。これは、主客二元論と平行し(デカルト)、第3のものを喪失したのである。ただし、事態は、単純ではなくて、近世においては、この物質的理性と神の理性とが、一致していたのであるが、後に、分離して、神の理性が消失するのである(神の死)。つまり、本来は、神の理性と人間の理性とがあったわけであるが、これが、これが、後者中心になり、前者が消失したのある。つまり、三元論から二元論への転換がここにはあるのである。
 これを不連続的差異論から見るならば、メディア界の喪失であろう。イデア界と現象界の二元論となったのである。キリスト教的に言えば、聖霊の喪失であり、父と子の二元論の宗教となったのである。芸術的に言えば、想像力の喪失である。このようなコスモスの崩壊・喪失によって、叡知の伝統が断たれたと考えられるのである。
 しかしながら、この叡知の喪失は、単に否定的なものだけではなかっただろう。これは、デカルト哲学の問題である。ここに近代の意味が集約されるだろう。即ち、コギト主義である。個的合理主義である。近代以前までは、神の理性が、宇宙を説明していたが、コギト主義となって、個から、正確に言えば、個の特異性から、森羅万象を説明しなくてはならなくなったのである。これは、実に、認識の大革命、パラダイムの変換であった。カントが、コペルニクス的転回と自身の哲学を呼んだが、実は、これは、デカルト哲学に発していると言うべきだろう。それまで、神の理性、神の叡知が主導的であったが、コギト革命の結果、コギトが主導的となったのである。そして、このコギト主義に、先に述べた主客二元論、物質主義・唯物論が重なるのである。
 結局、西欧近代における叡知の喪失とは、単に否定的な意味だけでなく、積極的な意味、即ち、コギト主義という意味があったのである。何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのかという問題は、こういう意味をもつのである。これは、人類革命なのである。神の理性、神の叡知から人間の理性、人間の叡知への転換を意味するのである。しかし、これは、根源的次元の喪失をともなったのである。
 整理すると、近代的科学において、神のコスモスから人間のユニヴァースへの転換があり、コスモスの叡知が喪失した。それは、メディア界、想像力の喪失であった。しかし、それは、神の理性から人間・主体の理性・コギトへの転換を意味していたのである。これは、一般性から特異性への転換を意味するのである。つまり、一般的叡知が解体して、特異性が出現し出したのである。不連続的差異論から見ると、イデア界の本来の不連続的差異の特異性が発現し出したのである。進化というよりは、進展である。イデア界の進展としてのコギト革命である。
 結局、叡知の喪失とは、イデア界の必然的進展であり、一種の忘却である。即ち、特異性は、近代的二元論の装いをしたのである。特異性の現象界化の徹底ということである。イデア界の現象界化への徹底である。結局、コギト主義は、イデア界の叡知の必然であったのである。叡知の喪失とは、叡知の展開であったのである。叡知の現象界化、これが、西欧近代における叡知の喪失の意味である。フッサールの自然的態度である。ハイデガーの言う存在忘却にほぼ当たるだろう。つまり、不連続的差異論から見ると、1/4回転によってメディア界が発生し、さらに、1/4回転によって、現象界が発生して、イデア界がすっかり裏返しになり、イデア界を消失するのである。しかし、これは、イデア界自体の発現なのである。自己隠蔽的発現なのである。つまり、イデアの影としての現象・仮象なのである。西欧近代とは、この徹底であるということである。これは、自己否定的発現である。自己否定的同一性である。これは、暴力・権力・破壊・狂気的である、これまで何度も指摘したように。
 結局、西欧近代とは、ニーチェが言うような過渡期であったのである。イデア界の現象界への自己否定的転化の徹底化であったのである。ここでは、積極性と反動性が併存しているのである。
 さて、今やポストモダン革命の真っ直中であるが、結局、何が、近代主義からの転換の駆動力であるのか。私は、何度も、資本主義は、差異から発動していると述べた。コギト主義も差異・特異性によって発動しているのである。つまり、近代とは、不連続的差異・特異性によって駆動されていたのであり、それが、現象界という衣をまとっていたのである。結局、震源である不連続的差異・特異性・イデア界は、近代の枠組・フレームワークを破砕・ブレークせずにはいないということなのである。そして、今日、それが実現して、ポストモダン革命が驚異的に進展しているのである。近代が解体するのは、必然であったのである。それは、過渡期だったのである。近代は意外に短い時代だったと言えよう。16世紀から20世紀にかけての、約4世紀が近代だったのである。
 もう少し、精緻にこのポスト近代革命について見ると、不連続的差異・特異性の駆動としてのコギト主義があり、それが、主客二元論の近代諸科学を生んだのである。しかし、それは、表面的な学に過ぎなかったのである。なぜならば、ベースの不連続的差異・特異性を排斥しているからである。しかし、これは、「自己主張」を当然行い、その結果、近代主義が瓦解するのである。この破壊の獅子吼がニーチェであった。また、先駆として、ブレイク、シュティルナー、ドストエフスキー、キルケゴール等をあげていいだろう。ニーチェの後、フッサールがポスト近代の理論を打ち立てたのである。
 また、物理学は、大天才のアインシュタインによってポスト近代的科学が誕生し、量子力学が決定的にした。そして、世界戦争の大災厄を越えて、フランスで、構造主義革命以後、ポストモダン革命が再燃したと言えるだろう。ポスト構造主義、「ポストモダン」である。そして、冷戦の終焉後、資本主義のグローバリゼーションが発動し、ポストモダン革命が忘失される。しかし、グローバリゼーションは、近代とポストモダンの折衷である。帝国主義性は近代主義であり、新自由主義は、ポストモダン的である。即ち、近代的資本主義のもつ集団的特権性を破壊するのである。これも、不連続的差異・特異性から発動していると考えることができるだろう。結局、ポストモダン革命が資本主義にも進展しているのである。ポストモダン資本主義であるが、これは、不連続的差異的資本主義と言ってもいいだろう。ここでは、資本が不連続的差異化、ミクロ化すると言えよう。そして、ここから、新しい民主主義が創造されるだろう。不連続的差異資本の共立による民主主義である。不連続的差異的資本共立民主主義である。人間は、不連続的差異的資本市民となるだろう。イデア界・メディア界・現象界の循環叡知が、資本となり、社会・世界・自然を環流するだろう。そう、近代の無明を超えた叡知資本主義とも言えるだろう。

2005年12月30日 (02:12)

黄金比と不連続的差異論:2:叡知の伝統と西欧近代における喪失

イデア界の「黄金比」・超五芒星形は、比喩的に言えば、王冠であり、指輪であり、聖杯であり、賢者の石等である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Golden_ratio
http://en.wikipedia.org/wiki/Pythagoras
プラトンが善の太陽と言ったものであるが、この場合、太陽は超正五角形なのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plato
この超正五角形の太陽は、真善美であり、知・力・心である。ニーチェの絶対的不連続性、ツァラトゥストラであり、フッサールの間主観性・相互主観性である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7
http://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Nietzsche
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%81%AF%E3%81%8B%E3%81%8F%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%81%8D
http://en.wikipedia.org/wiki/Thus_Spoke_Zarathustra
http://www.gutenberg.org/dirs/etext05/8zara10.txt
http://www.gutenberg.org/dirs/etext99/spzar10.txt
http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Husserl
スピノザの神である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6
http://en.wikipedia.org/wiki/Baruch_Spinoza
フィリップ・K・ディックのヴァリスである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BBK%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF
http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_k_dick
グノーシス主義の至高神であり、
http://en.wikipedia.org/wiki/Gnosticism
アナクサゴラスのヌースであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9
http://en.wikipedia.org/wiki/Anaxagoras
道教の太極であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
http://en.wikipedia.org/wiki/Taoism
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E5%9B%B3
朱子学の理気であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90%E5%AD%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%AD%A6
古事記の天之御中主神である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E7%A5%9E
また、本来のキリスト教の父である。エックハルトの「無」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88
http://en.wikipedia.org/wiki/Meister_Eckhart
 思うに、ドゥルーズのような混乱が、叡知に関して、人類史において生じたと考えられる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Deleuze
フィリオクェ(子と共に)もそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%82%A7%E5%95%8F%E9%A1%8C
また、ヨハネの福音書で、ロゴスを言葉と訳したのもそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8
本来は、「初めにロゴスありき。ロゴスは神と共にありき。そして、ロゴスは神であった。」である。そして、こうすると、ロゴスが、超知・叡知であることがわかるのである。ロゴス=父=「黄金比」である。
 この叡知の混乱は、西欧近代で起こったとほぼ見ていいだろう。あるいは、西方キリスト教会で起こったと。『カラマゾフの兄弟』で、イワン(?)が、カトリック教会を攻撃していたのを想起する。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Brothers_Karamazov
ギリシア正教、東方キリスト教会は、叡知(ソフィア)を継承していたのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Eastern_Orthodox_Church
http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Orthodoxy
(『罪と罰』のソーニャは、ソフィア(叡知)であろう。)つまり、不連続的差異論的三層性を、「正統」にも残していたのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Crime_and_Punishment
http://en.wikipedia.org/wiki/Fyodor_Dostoevsky
トルストイにも、流れているだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A4
http://en.wikipedia.org/wiki/Leo_Tolstoy
そう、ロシアには、ソフィアの伝統があったのである。ソフィオロジー(叡智学)の伝統があったのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Solovyov_%28philosopher%29
http://en.wikipedia.org/wiki/Sergey_Bulgakov
http://en.wikipedia.org/wiki/Pavel_Florensky
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Berdyaev
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0940262606/250-8960880-5103431
http://72.14.203.104/search?q=cache:daaC_Cm1JH8J:blog.melma.com/00122700/20041103075652+sophiology&hl=ja&lr=lang_ja&client=firefox-a
http://72.14.203.104/search?q=cache:T8RzfbXWt0EJ:blog.melma.com/00122700/20041103073121+sophiology&hl=ja&lr=lang_ja&client=firefox-a
そして、西欧では、神秘主義者が、受け継いでいたのである。シェイクスピアにもあるし、ウィリアム・ブレイクにもあるし、そして、D.H.ロレンスにもある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shakespear
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Blake
http://en.wikipedia.org/wiki/D._H._Lawrence
(イギリスの場合、ジョン・ラスキンにも叡知の伝統が流れていて、その指導性が大きな意味をもっていた。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%B3
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Ruskin
隠秘学、オカルティズムと不本意に呼ばれている。それは、本当は現実主義なのである。精神分析では、フロイトの枠を越えて、ラカンがこれを感知した。フランスの象徴主義(ボードレール、マラルメ)も感知している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Baudelaire
http://en.wikipedia.org/wiki/St%C3%A9phane_Mallarm%C3%A9
そして、日本では、大江健三郎がこれに気づいている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E
(中沢新一は、ドゥルーズ的であり、また、知性が不合理ないし杜撰である。)
別の稿で、この叡知の喪失の意味について検討したい。

p.s. ゲーテやシュティルナーに関しては、きわめて批判的である。なぜなら、両者とも、イデア界を感知していたが、それを直視することを回避しているからである。前者は、本当の闇に達していないと思う。悲劇的要素が足りないと思うのである。だから、光が弱いのである。後者は、先にも触れたが、メディア界からイデア界を見ているのであり、不連続的差異が、霊・スピリットになっているのである。シュティルナーは確かに、叡知の伝統に触れてはいたが、言葉(=メディア界)から、叡知(=イデア=ロゴス)を捉えようとするという西欧近代主義の倒錯に陥っているのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC

2005年12月29日 (18:23)

知・叡知の普遍空間の創造へ:事象共通平面の構築

様々な分野、領域に渡る考察や引用を行ってきて、だんだん、様々な(different)異質なもの、不連続的差異が、1つの知的空間に嵌まるような感じがしてきたのである。おそらく、不連続的差異の共通・普遍空間と言っていいだろう。イデア界・メディア界・現象界が共立するような超空間が形成され出したと言えよう。これは、意外に、三つ巴の文様が表現していることではないか。ボロメオの輪・結び目のような感じにも思えるが、それよりは、もっとシンプルだと思う。三層平面と言っていいようにも思える。というか、三層でもないのである。華厳経の事事無碍に近いと思うのである。つまり、イデア界の事象も事であり、メディア界の事象も事であり、現象界の事象も事であり、三者、事であることで、共通である。だから、事象共通平面、事象共通空間と言ってもいいのかもしれない。 
 後で、もう少し考えたい。

2005年12月29日 (18:16)

黄金比と不連続的差異論:1

黄金比の問題は、難問なので、もっと準備を行う必要があるが、ここで、簡単に、今イメージしていることを述べよう。
 物理学の4つの力と地水火風をアナロジー的に対応させることは、とり合えず、見合わせた方がいいだろう。それよりは、不連続的差異論から考えられる垂直・水平の4つの力との関連を考えた方がいいだろう。
 ここで、直観から述べていこう。イデア界は、即の世界であり、多数・無数の不連続的差異が、境界を隔てて、即「一」の状態にある。鈴木大拙の用語で言えば、即非である。あるいは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。もっとも、この用語は、メディア界にもあてはまるのである。思うに、西田哲学の用語は、メディア界に限定した方がいいだろう。イデア界の即一・即非とは、メディア界の様態の矛盾的同一ではなくて、共立的同一、共立的一である。多が多のまま、一になるのである。
 とまれ、イデア界において、垂直対極(2つ)、水平対極(2つ)、そして、総合力(1つ)の5つの力・虚力が考えられると思う。この5つの力が、いわば、共立しているのである。それは、共立均衡となるのではないだろうか。5であるから、正五角形が発生するのではないだろうか。(イデア界の秘数は、5ないし3であろう。三位一体は、ここから来るのではないか。あるいは、三神性。)これを作業仮説として、イデア界の原正五角形ないし原五芒星形(アーキペンタグラム)としよう。つまり、イデア界は、多数・無数の不連続的差異が、原正五角形を構成しているということになる。これは、イデア界自体が、正五角形ないし五芒星形を構成しているということになるだろう。簡単に言えば、イデア界は、超五芒星形であるということである。超黄金比を成しているということである。これが、超光速なのである。超五芒星形が超光なのである。
 これが、1/4回転して、メディア界を形成するが、当然、メディア界は、黄金比のエッセンスをもって、垂直に捩れるだろう。つまり、黄金比らせん形成である。そして、これが、現象化して、森羅万象の様々なラセン形状・造形を発生させるのである。
 では、これを物理学で考えるとどうなのだろうか。イデア界には、5つの力・虚力があるのであるから、物理学も、4つの力ではなくて、5つの力を想定、前提しなくてはならないだろう。そして、5番目の力とは、当然、総合的な力であり、全体的均衡力である。そして、これが、最近注目され始めたダークエネルギーではないだろうか。ダーク力、暗黒力である。4つの力+暗黒力の5つの力で、不連続的差異論の原5元論に対応することになるだろう。そして、原五芒星形・原正五角形・原正十二面体が、宇宙・コスモスを貫徹しているということになるだろう。結局、ピタゴラス派、ピュタゴラス派のルネサンスである。あるいは、プラトン/ピタゴラス派・ルネサンスである。また、占術も新たに考え直されることとなるだろう。どうやら、現代は、古代ギリシア/イタリア・ルネサンスのスーパー・スーパー・ルネサンスの時代に突入したようである。ポスト・キリスト教的西洋文明である。
 ところで、不連続的差異論の三層界を数で表記すると、5/5/4あるいは、1/5/4あるいは、3/5/4となるだろう。14,10又は12となる。

参考
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity221.html
http://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%94%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%8A%9B&start=0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP:official
http://www.geocities.jp/timstjp/bb1-dark-enargy.htm
http://ameblo.jp/renshi/entry-10007521097.html

2005年12月29日 (03:50)

黄金比とメディア界

黄金比とメディア界:五芒星形と聖数5

思うに、黄金比は、メディア界の比率=理性と考えるべきではないだろうか。五芒星形、正五角形が、ピタゴラス派のシンボルとされたのは、メディア界のエネルギーと関係するだろう。即ち、メディア界は、4つの力の不可分一体の第5のエネルギー(ダークエネルギー)を帯びると考えられるからだ。ここで、アナロジー的に考えると、人間の手であるが、親指が他の指に対して、特殊である。英語には、親指は指ではなくて、thumbである。親指に当たるのが、第5のエネルギーではないだろうか。
 とまれ、差異・ゼロ度のメディア界は、相対性理論・量子力学の世界であり、ダークエネルギーの世界であり、そして、幾何学的には、五芒星形や正五角形と関連する領域と言えるのはないだろうか。(現象界は4の世界であろう。ならば、世界全体は5+4+1=10の世界ではないか。イデア界に1という数を当てるのは、それは、多元的であるが、一つの即の世界ということから考えられる。)ピタゴラス派にとって五芒星形ないし正五角形がシンボルとなったのは、それが、メディア界の幾何学であるからではないだろうか。4つの力ではなくて、5つの力があるのである。ダークエネルギーがあるのである。あるいは、ダークマターがあるのである。これは、五芒星形に関するラセンを形成するのだろう。そして、これが、現象界の基本の形状・原形なのだろう。(参照:「 フィボナッチ数列(Fn+1=Fn+Fn-1)と,黄金分割(χ2−χ−1=0)と,等角らせん(指数関数y=eχ)が同じことの証明」
http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/fibonatti.shtml

 思うに、この5とは、根源的には、イデア界の不連続的差異の「力」に発するのではないだろうか。即ち、不連続的差異の総合力である虚力と、垂直・水平の2つの極性の四元力があり、1+4=5ということではないだろうか。つまり、イデア界の元5が、メディア界の5となるのではないか。イデア5→メディア5である。ならば、イデア界も5に関わる幾何学があるのではないだろうか。正多面体・プラトン立体とは、メディア5であろう。イデア5とは、ピラミッド体・三角錐かもしれない。黄金分割ピラミッドという考えもある。(参照:
http://www.google.co.jp/search?hs=q76&hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=%E9%BB%84%E9%87%91%E5%88%86%E5%89%B2%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
) 
 とまれ、黄金比が、宇宙・世界の構造の原理・基本的比率・理性かもしれない。それは、聖数・秘数5の世界である。中世のキリスト教宇宙観では、占星術の4つの星座(ペテロ、パウロ、マタイ、ヨハネ)とキリストないし聖母のセットとなっているから、これも、5である。
 さて、ここで、宗教・神秘的に考えると、根源は、イデア界とメディア界の二種類・二元性・二重性があるのである。これは、いわば、光と影であろう。D.H.ロレンスが、キリスト教の神に換わる暗黒の神dark godを唱えたり、あるいは、暗黒の太陽dark sunと言ったりしたが、暗黒とは、このイデア/メディアの二重性に関係するだろう。否、正確に言えば、三重性である。イデア/メディア/現象の三重性である。この三重性を、プラトンは、『国家』の有名な洞窟の比喩で指摘していると考えられる。善の太陽が、イデア界であり、洞窟内の人形がメディアで、影絵が現象である。だから、暗黒と言ったときは、二重である。
 問題は、やはり、イデア/メディアの関係である。ロレンスのcosmosは、基本的には、メディア界であろう。しかし、『死んだ男』では、明らかに、不連続的差異の共立(イデア界)が表現されているのである。だから、イデア・メディア境界、IM境界が問題となっているのである。この両義性が問題となるのである。暗黒と言ったとき、この境界が問題となっているのだろう。連続と不連続とが、混淆しているのである。ここで、また、宗教や神話が生まれるのである。連続・同一性的にイデア界を解釈するのである。複雑なのは、光が、メディアであることである。そして、それは、メディア界の一部に過ぎないのである。光は暗いと言っていいのである。暗黒の太陽があるのである。陰陽二重相補性である。しかし、本当は、それを突き抜けないといけない。そこは、超光=超闇の世界であろう。無量光であろう。仏陀の光はこれを意味するだろう。後光、後背、白毫の光。ゾロアスター教も、原神道もここから発しているだろう。聖書も本来、ここから発してるだろう。「光あれ」。
 すると、この原光とダークエネルギーの問題があるだろう。直観では、ダークエネルギーは、根源光の背中である。ここで、根源の太陽は背中を見せているというロレンスの言が意味をもつだろう。そう、暗黒の太陽とは、実は、根源の太陽を指していると考えられるだろう。だから、やはり、cosmosは、イデア界をも指すと考えられる。
 結局、イデア・メディア境界が大きな意味をもつと言えよう。不連続的cosmosと連続的cosmosの混淆があるのである。そして、この混淆哲学がドゥルーズ哲学である。まとめると、光と影の問題は、三重である。イデア界の光の影がメディア界で、メディア界の影が現象界である。だから、現象界は影の影である。夢のまた夢である。ウパニシャッド哲学では、ビシュヌの見る夢が、ブラフマンであり、ブラフマンの夢がインドラである。これを借りると、ビシュヌ=イデア界、ブラフマン=メディア界、インドラ=現象界だろう。(参照:
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-7.htm

 とまれ、5という数が、イデア界とメディア界に共通するのだろう。聖数5である。3という数は、5の単純化であると言えよう。また、思うに、占星術や占いとは、メディア界宇宙の智であろう。

pentagram
http://en.wikipedia.org/wiki/Pentagram


p.s. イデア界の根源的太陽=太陰のイメージとしては、原点(0,0)を中心に、プラスのx座標とマイナスのx座標が均衡を取っているもので、そして、x−y座標で、円を描くのである。プラトンは、円が、理性の形と考えていた。(楕円の問題もあるが、これは新たに考えよう。ケプラーとも関係する。)思うに、イデア界=ガウス平面の円が、イデア界の根源的太陽=太陰ではないだろうか。そして、この太陽・太陰の影が、メディア界のダークエネルギー、いわば、ダークコスモス(暗黒宇宙)と考えられるだろう。イデア・メディア境界のスリット、孔、亀裂から、イデア界の太陽・太陰の超光が漏れると言えるのではないだろうか。そして、この漏れた光が、ダークエネルギーであり、現宇宙を構成しているのではないだろうか。つまり、暗いエネルギーから、銀河や諸星雲や太陽系等々が浮かび上がっているのである。D.H.ロレンスの『死んだ男』の暗黒の薔薇の宇宙とは、この暗いエネルギー、ダークエネルギーを表現・表象していると考えられる。
 暗いエネルギー、ダークエネルギーのもつ五芒星形のラセンが、現宇宙の基盤にあるのだろう。この暗い薔薇宇宙を、今、物理学は明らかにしつつあると言えよう。しかし、これは、まだ、根源の太陽・太陰の背中に過ぎないのである。暗い薔薇宇宙、暗黒薔薇宇宙を越えて、イデア界の太陽・太陰に達しないといけないのである。仏教や神秘思想での「無」とは、ここを指しているのではないだろうか。「空」は、メディア界であろう。だから、無/空/色というような三層構造があるのではないだろうか。仏陀は、空を説き、空の彼岸の無を説いたのであろう。
 とまれ、イデア界において、多元的無数の不連続的差異の「即非」的共立が、超光=超闇の状態なのだろう。根源的ヴィジョンは、ここから発しているのだろう。プラトンは、ここを視たのであろう。プラスx座標を光、マイナスx座標を闇とすれば、光と闇が均衡している世界であろう。根源的陰陽、超陰陽の世界であろう。根源的二元論であろう。根源的対極性の世界であろう。


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先にあげた『黄金比はすべてを美しくするか:最も謎めいた「比率」をめぐる数学物語』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4152086912/qid=1135595885/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-8960880-5103431
(マリオ・リヴィオ著 早川書房:これだけの知見が含まれていて、本体2000円は、安い。コストパフォーマンスが高いと言えよう。)の大半を読んだが、これは読んでためになった本である。しかし、訳が、少し練れていない、ぎこちない日本語で、少し読みにくいのが残念である。とまれ、たいへん、よく調べてある、博学の著であり、素人には少し難しいところがあるが、中味が詰まっている。本書で、国際ピタゴラス賞、ペアノ賞をとったと書いてあるが、それは、賞にとっても名誉であろう。とにかく、黄金比が身近になったと言える。一番、面白かったのは、ペンローズ・タイルが黄金比に関係していること、また、フラクタルにも通じることを述べている個所である。
 やはり、黄金比は、メディア界の核心にある比率=「理性」と見ていいのではと感じた。差異・φ(ゼロ度)・差異=差異・φ(ファイ)・差異とやはりなるように思われるのだが。φ(ファイ)は、プランク定数等の自然定数に近いのではないだろうか。
 問題は、その意味合いである。イデア界からメディア界への変換において、φがはたらくことになるのだが、この意味は何か、である。おそらく、本来、プラトン立体、正多面体の問題を含めて、検討しなくてはならないのであろうが、ここでは、ざっと述べると、1/4回転したときに、垂直方向に捩れるが、この捩れに黄金比が発生するということではないだろうか。問題は、何故、これが、黄金比になるのかということである。直観で言えば、ここで、プラトンとペンローズの考えがポイントになると思う。1/4回転で、垂直に捩れるときに、平面や立体が発生するだろう。それらは、連続的差異の平面、立体であろう。この連続化を可能にするのが、黄金比ではないかと思うのである。本来、不連続な差異が境界を隔てて共存しているのであるが、それらが、ゼロ度で連続化するのであり、その連続構造の形相が黄金比ではないかと思われるのである。(ひょっとしたら、メディア・現象境界の構造かもしれないが、これは置いておく。)思うに、yーz軸で、メディア界平面を形成すると考えてもいいのではないだろうか。そうならば、メディア平面が、例えば、ペンローズ・タイルのようになるのではないだろうか。あるいは、エッシャーの連続パターンになるのではないだろうか。
 直観では、黄金比は、1/4回転、不連続性を隠蔽しているのである。この調和は、不連続の調和を隠しているのである。そう、ゼロ度になったことで、比率が可能になるのである。通約不可能性(共約不可能性)があるが、しかし、比率は比率で、連続性である。通約不可能性が、不連続性、虚数/複素数、イデア界の名残ではないだろか。そう、不連続性/黄金比/連続性ではないだろうか。
 さて、問題は、五芒星形ないし正五角形、あるいは、聖数5である。これが謎である。不連続的差異論から、メディア界の力は、4+1の力であることがわかる。ダークエネルギーが入るのである。もし、第5がダークネルぎーならば、どうして、それが、五芒星形、正五角形と関係するのだろううか。ここでも、想像であるが、イデア界自体が、五芒星形、正五角形、5と関係しているのではないだろうか。以前、半分冗談で、太陽系は差異5として、想像したことがあるが。思うに、イデア界は絶対均等ないし均衡の原空間である。差異1、差異2、差異3、・・・差異nが、不連続に、共立しているのであるが、±水平、±垂直、全体の計5つの力がはたらいていると考えられないか。この5つは、バランスで、五等分割されるのではないのか。つまり、イデア界に原五芒星計ないし原正五角形を想定するのである。そして、これが、1/4回転で、メディア界平面を形成して、五芒星形、正五角形を形成するのではないだろうか。ダークエネルギーの五芒星形・正五角形である。
 また、後で、再検討したい。

2005年12月24日 (22:09)

不連続的差異論

ガウス平面で、x軸を1/4回転させると、y軸と同化する。これは、z軸を考えると、(0,0、z)であり、これが、おそらく、現象界であろう。ここで、球座標を考えてもいいのかもしれない。宇宙は、球座標となる。
 問題は、時空四次元性である。私の直観では、時間が、空間の三次元性を創造するのである。思うに、z軸は、時空軸ではないだろうか。そして、これが、垂直に捩れて、現象界を形成するのではないか。これが、時空四次元ではないだろうか。xーyーzの三次元に対して、現象は、x−y−z−p(phenomena)の四次元として、発現するのではないだろうか。
 さて、x軸の1/4回転の意味をさらに展開させると、これは、プラスのx座標とマイナスのx座標があり、プラスのy座標とマイナスのy座標ができる。これが、メディア界の対極性を意味するのではないだろうか。陰陽である。極性である。そして、このメディア界の対極性のエネルギーが、ダークエネルギーだろう。つまり、これまで、プラスのy座標、「光」、「重力」しか見てこなかったのである。しかし、マイナスのy座標である、反「光」、反「重力」を考慮することで、超対称性が成立するのではないだろうか。思うに、反「光」、反「重力」が、暗黒物質、ダークマターではないだろうか。そして、y座標全体が、暗黒エネルギー、ダークエネルギーではないだろうか。そうならば、古代中国の道教は、まったく正しいのである。また、朱子学もほぼ正しいのである。ただ、理気説において、イデア界とメディア界を混同しているのと考えられるのである。ならば、易経もほぼ正しいと言えるだろう。八卦は正しいと言えるだろう。2の6乗=64は、RNAに関するコドンの数である。(参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86
)ならば、占いも、ほぼ正しいと言えるだろう。それは、メディア界の智であろう。
 結局、残った問題は、イデア界のことである。それは、超知性、超智性であろう。ここでは、万知帰一であろう。力は知である。知即存在である。スピノザの神である。フッサールの超越論的主観性ないし志向性である。イデアである。超知性としてのイデア界である。これを、神と呼んだのは、理解されることである。全知全能的である。しかし、これを、一神教的に解釈するのは、擬人化であろう。また、不連続的差異の多元界としてイデア界であるから、一元化するのは、誤謬である。一義性ならば、正しいのである。そう、SF作家のフィリップ・K・ディックのヴァリスの方が、超越唯一神より、適切であろう。結局、一神教とは、多元的なイデア界を、連続・同一性である現象界の視点から解釈しているのであると考えられる。
 最後に、4という数であるが、これは、基本的には、不連続的差異の垂直・水平相補性の直交性から発したものではないだろうか。ここには、弱い力と強い力、重力と電磁気力のペアがあるのではないだろうか。地水火風の四大もこれと重なるだろう。仏教の五大(地水火風空)、五輪であるが、これは、メディア界全体、ダークエネルギーを指しているのだろう。空海の「五大にみな響きあり」は、暗黒エネルギーのことだろう。(参照:
http://www.eel.co.jp/03_near/01_sei
gowchannel/
now_events/0807mikyo.html
)量子論である。そう、ダークエネルギーの振動を、空海は、響きと呼んでいるのだろう。また、円空の「法の御音」も、このことだろう。西洋文化で言う、天空の音楽もこのことであろう。D.H.ロレンスのコスモスの音楽もこれであろう。しかし、このダークエネルギーの「音楽」、ミューズとは、実は、イデア界の根源の「音楽」に通じているはずである。イギリス・ロマン主義の詩人のジョン・キーツは、「耳に聞こえない音楽」と表現したが、それは、イデア界の「音楽」のことであろう。
 結局、コスモスとは何かである。それは、メディア界の「宇宙」であると同時に、イデア界の「宇宙」であろう。空海の両界曼荼羅はこのことを意味しているのではないか。金剛界がイデア界のコスモスであり、胎蔵界がメディア界のコスモスだろう。
 さらに言えば、古事記の三柱の神・「造化の三神」であるが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは、正にイデア界であり、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)は、メディア界の対極性を意味しているのではないか。

参照:天之御中主神
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%A4%A9%E4%B
9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E
7%A5%9E
http://www.google.co.jp/search?q=
%E5%A4%A
9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B
8%BB%E7%A
5%9E&start=0&start=0&hl=ja&lr=
lang_ja&ie=ut
f-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls
=org.mozilla
:ja-JP:official
http://www.loops.jp/~asukaclub/
kami/kami_001.html





内在的イデア界と現象の光

なぜ、人間は、光に救いを感じるのだろうか。大江健三郎の傑作『万延元年のフットボール』の冒頭は、正にそうである。私は、闇が光に変容すると直観する。思うに、現象の光を通して、介して、人間は、イデア界の光を直感しているのではないだろうか。初日の出、ご来光、大日如来、ヒミコ、日御子、天照、ひじり、お水取り、お天道様、日=火=緋、等々。日の本、元、基は、イデア界の太陽であり、それを、人は、直感するのだ。個に内在するイデア界が、現象界の光を介して(光はメディアである)、イデア界の太陽を求めるのだ。現象界の太陽とは、実は、イデア界の太陽の影、影像、陰影であり、そのスクリーンを介して、根源のイデア界=超太陽を郷愁するのだろう。ゾロアスター教は正しいのである。日本の宗教も本来は、ゾロアスター教と共通であろう。
 イデア界の超太陽とは、大宇宙の根源の超太陽であろう。



イデア界の虚力とは、直観智であろう。

私は、イデア界=直観力、メディア界=想像力、現象界=物質力と、先に考えた。思うに、イデア界は、即の世界である。イデア界の差異の境界の虚力とは、無限速度の直観智ということができるだろう。フッサールの間主観性、相互主観性とは、このことだろう。インテレクトとは、本来、直観力のことであった。つまり、知性とは、直観力、直観智のことであった。それが、理性と入れ違ったのである。理性は、比率のことである。それは、メディア界の知性ではないだろうか。用語の混乱があるのだ。カントの純粋理性とは、直観智と比率智とのハイブリッドであろう。
 とまれ、直観智が、近代主義で、排斥、排出されたのである。直観智をもつ、天才たちが、近代において、狂人、精神病者とされたのである。実は、近代主義者こそ、狂人・精神病人・愚人であったのである。

2005年12月21日 (03:02)

占星術とは何か:イデア界とメディア界の関係:超光と光:根源闇と光

不連続的差異の共存する「コスモス」
であるイデア界に対して、不連続的差異
がゼロ化して、連結しているメディア界は、
形相が形成されるだろう。この形相は、
いわば、文様のようなものだろう。

 とまれ、イデア界の回転によって、
メディア界的
らせんが形成される。このらせんの円を
12分割したのが、占星術の星座ではないか。

とまれ、西洋中世的宇宙論は、四つの星座を
基本とする。牡牛座、獅子座、蠍座、水瓶座で
ある。これらは、直交していて、円の90度
分割された領域に当たる。不連続的差異論は、
1/4回転・90度回転が基本である。両者、
関係があるのか。90度とは何か。

 とまれ、中世的宇宙論では、4つの星座と
キリストが結びつく。キリストは、光である。
4つの星座と光ないし太陽が関係する。
イデア界の無限速度の回転が、光を生むの
ではないか。それは、イデア界においては、
超光であり、メディア界においては、光であ
ろう。

 今、想起したのだが、ゼロ度によって、
光が発生するのではないか。そして、それ以前、
イデア界においては、前光があり、それは、
闇なのではないか。ここで、D.H.ロレンス
の言ったdark sun, dark godを想起するし、
また、ダークマター、ダークエネルギーを
想起する。ゼロ度において、太陽や恒星と
なるのではないか。しかし、その背後、
裏面は、闇である。イデア界の闇。しかし、
それは、超光であろう。ロレンスは、
われわれは、根源の背中しか見ていないと
いうようなことを述べていた。とまれ、
イデア・メディア境界ないしメディア界が
太陽、恒星であろう。光である。差異・ゼロ度
である。エネルギーである。しかし、それは、
表面ないし裏面に過ぎない。根源は、
不連続的差異の共立調和界(コスモス)である。
そう、ここで、華厳宇宙を想起する。あるいは、
無量光(阿弥陀如来)を。

 問題は、どうして、不連続的差異の共立調和が、
超光となるのかである。そう、闇と見た方が、
わかりやすいかもしれない。道教では、玄牝である。
玄(くろ)である。そして、同時に、これは、
白である。(cf. 『白鯨』)

 思うに、無限速度で回転する不連続的差異
があり、それが、1/4回転と3/4回転で
ゼロ度となるのではないか。1/4回転で、
光が発生し、3/4回転で、反光が発生する
のではないか。そう、無限速度で回転する
不連続的差異の共立調和界が、闇=超光の
世界ではないか。そして、1/4回転と
3/4回転において、光を発生するのだ。
ただし、3/4回転は、反光であろう。
反世界であろう。つまり、不連続的に、
イデア界は、光を発生するのである。
これが、太陽、恒星、銀河、星雲等であろう。
そして、イデア界が、ダークコスモスであろう。
闇から光が生まれ、そして、闇に吸収されるの
だろう。光より闇の方が根源である。古代中国
の道教は、正しいのだ。玄牝。闇が母胎なので
ある。

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JIJI PRESS 時事通信社

◎ふたご座は交通事故に注意?=星座、
干支別の発生率を公表−石川県警

 ふたご座のあなたは歩行者に注意?−。
石川県警は、交通死亡事故をめぐる星座別、
干支(えと)別の発生・遭遇件数を公表した。
若者や高齢者による事故が増えていることから、
関心を持ちやすい切り口で注意喚起した。

 データは2003年1月から今年10月までの県内の死亡事故277件が対象。それによると、星座別で最も事故が多かったのはふたご座で、32人が起こした。やぎ座30人、おひつじ座28人と続き、最低はおとめ座の14人だった。

 危険度上位の星座については、事故の傾向を分析。「歩行者に注意」「スピードは控えめに」などとワンポイントアドバイスを付けた。

 また、交通死者の4割強を占める高齢者(65歳以上)向けに、干支別の事故遭遇率も示した。最も死者が多かったのは酉(とり)年で17人。以下、申(さる)年、卯(う)年の順で、「横断歩道を渡りましょう」などと注意を促した。 

2005年12月18日14時46分 時事通信社 / 提供元一覧

http://news.livedoor.com/webapp
/journal/cid__1562807/detail?rd

2005年12月11日 (14:21)

メディア・現象境界の力学について再考

本件であるが、音声言語、シニフィアン以外の契機も考えられそうである。つまり、言語ではなくて、より根本的にこの力学を考えたいのである。メディア界を現象界に変換する力学は何かである。
 これは、以前に述べたことだが、錯視、同一性錯視に関係するのではないか。ここで、図式的に見ると、

メディア界:差異1・ゼロ・差異2

現象界:差異1・無・差異2

であるが、現象界において、差異と差異が融合して、差異が消滅しているのである。この融合化が、メディア・現象境界の変換構造に機能としてあるはずである。ゼロ→無のプロセスがそこにあるだろう。フッサール現象学から見ると、差異1→差異2という差異の志向性が、イコールになってしまうということである。差異1=差異2である。つまり、志向性の極限、極限値として、連続・同一性があるだろう。これは、正に、微分であろう。差異1が、差異2となるのは、微分である。0.9999999・・・=1である。つまり、メディア・現象境界は、微分・積分構造があると言えるのではないだろうか。メディア界自体は、微分構造ではない。それは、連続化ではあるが、脱連続化もするのである。脱構築性がメディア界であろう。それに対して、メディア・現象境界は、微分・積分構造のように思える。差異を同一性と錯視する力とは何か。この無化の力とは何か。この極限化の力とは何か。差異を連続・同一性と見なす力である。現象力である。それは、何か。
 それは、メディア界自体の想像力、心像力から発しているのではないか。つまり、メディア界は、差異・ゼロ度であり、連結体、多様体、位相空間である。つまり、ここには、想像力という連結力、連続力が発生しているのである。しかし、これは、ゼロ度であるから、融通無碍に変容する。揺らいでいるのである。ちょうど、水面の波のようだろう。そして、この造形力が、全面化するのが、メディア・現象境界の事象ではないだろうか。つまり、揺らぎ、ゼロ度が裏面化して、造形力、包括的造形力が表面化するのである。この造形性が、差異・無化を意味するだろう。図式化すれば、

メディア界:差異1・ゼロ・差異2・ゼロ・・・ゼロ・差異n

メディア・現象境界:差異1・ゼロ→無・差異2・ゼロ→無・・・・ゼロ→無・差異n

となるだろう。このゼロ→無という裏面化とは何か。これは、メディア界自体の極性化自体ではないか。即ち、メディア界は、差異・ゼロ度であるから、差異的側面(連続的差異)とゼロ度的連結・連続的側面がある。この両者の相補性があり、これが、揺らいでいるのである。即ち、差異的様態となったり、ゼロ度的様態となったりするのである。これは、正に、量子力学の世界である。粒子と波動の相補性である。そして、ゼロ度的様態化が、メディア・現象境界であろう。ここでは、想像力的形象、形相、造形力、連続的造形力が作用しているのである。思うに、プラトンのイデアの一つは、ここを指しているのだろう。また、カントの超越論的形式もここを指しているのだろう。
 しかし、問題は、メディア界は、ゆらぎの世界であり、差異的側面とゼロ度的造形的側面が交替・振動することである。つまり、前者が裏面化するには、固定化が必要である。この固定化の手段ないし契機として、先に、音声言語を述べたのであるが、どうだろうか。何が、ゆらぎを無くすのか。とまれ、ゼロ度的造形的側面が表面化して、多様平面ができるだろう。これが、現象界となるだろう。その裏面が、差異的側面である。もっとも、連続的差異であるが(ドゥルーズは、これと、イデア界の不連続的差異を混同したのである)。
 この固定化はどうして生じるのかが、枢要な問題である。イデア界からメディア界への展開は、不連続的差異の1/4回転、90度回転によるものである。では、メディア界から現象界への転化には、何が生起しているのか。どんな力学があるのか。それは、思うに、捩れではないだろうか。メディア界から現象界への転化は、捩れが発生するのではないか。1/4回転は、メディア界を形成するが、メディア界自体は、捩れていないだろう。
 ここで、発想を変えよう。イデア界は、無時空間である。それに対して、メディア界は、有時空間である。そして、現象界では、これが、時空四次元に転化する。このメディア界の有時空間が、重要であろう。つまり、有時空間ということは、遅れが生まれるということだろう。メディア界の遅れが発生するのである。この遅れの連鎖が連続・同一性化となるのではないだろうか。つまり、残像や残響である。この遅れの「構造」が、メディア・現象境界ではないだろうか。つまり、有時空間において、ある差異・ゼロ度と他の差異・ゼロ度が重なり、連続・同一性化するのでゃないか。それは、メディア界の重層化とも言えよう。これで、厚みも生まれるだろう。また、質量も発生するだろう。つまり、ここで、時空四次元が発生するだろう。だから、有時空間軸が、メディア・現象境界と言えるだろう。これは、z軸である。ここから、時間軸をともなって時空四次元が発現するのだろう。時間軸をt軸としよう。x−y−z−tの時空四次元である。t軸とは、第4次元である。
 さて、すると、有時空間の重層化が、メディア・現象境界の力学構造ということになった。これが、連続・同一性を発現するのである。つまり、メディア界が映像化されるのである。これが、現象界である。つまり、簡単に言えば、メディア界の重層が現象界である。この重層化によって、4つの力が発生するのだろう。しかし、これは、シミュラクルである。ほんとうは、メディア界の差異・ゼロ度の不可分の力が実体である。これは、エネルゲイアであり、想像力・信力であり、「ダークエネルギー」である。つまり、4つの力とは、見かけの力、虚構の力なのである。これをいくら計算しても、宇宙構造を説明できないだろう。標準理論の破綻。不可分一如の4つの力の根源であるメディア界エネルギーを計算する必要があるだろう。
 とまれ、メディア・現象境界の力学とは、音声言語によるのではなくて、有時空間の重層化によるものであるということとなった。音声言語は、メディア界の重層化の分節化に過ぎないだろう。だから、ラカン・デリダの考えは、間違いである。

p.s. ベルクソン哲学は、メディア・現象境界の哲学と見ることができるのではないだろうか。持続とは、正に、メディア界の重層化であろう。ハイデガー哲学も、ここを対象としているだろう。ハイデガーの存在とは、メディア界のことだろう。ニーチェやフッサールは、それを超えて、イデア界の不連続的差異を説いていた。ドゥルーズ(&ガタリ)は、イデア界とメディア界を混同していた。
 ところで、ホワイトヘッド哲学であるが、推測では、メディア界的ではないかと思う。有機体という発想は、メディア界的であるからだ。

2005年12月11日 (01:14)

メディア界を現象界に変換する力とは何か:差異・ゼロ度を差異・無に変換する「無」の力とは何か

これまで、イデア・メディア境界ないしメディア界の問題に集中してきたが、本件の問題も重要であるので、検討したい。もっとも、ずいぶん以前に、つまり、不連続的差異論が誕生してから、メディア界から現象界への転化については、それなりに考えた。この理論もそれ以降ずいぶん深化してきたので、ここで、再検討するのは、理論にとって必要な、大事なことである。というか、有り体に言えば、この点の解明がまだ不十分ということである。
 メディア・現象境界(MP境界)において、何が起っているのだろう。ここは、カントの超越論的形式の構造である。また、言語意識が発生する領域である。この変換・転換の力学はどういうものだろうか。これまでの考えから言えば、連続・同一性の構造・形式がここにはあるのである。メディア界の差異・ゼロ度とは、ゆらぎの構造であるが、現象界の差異・無とは、ゆらぎの喪失した世界である。だから、ゼロから無への転換が、メディア・現象境界にあると言えよう。これは、差異φ差異から差異無差異への転換である。この境界で何が起っているのだろうか。ゆらぎを否定する力がここにははたらいているはずである。それは、近代主義に通じる力である。ということは、ユダヤ・キリスト教に通ずる力ということになる。つまり、一(いつ)の力である。これは、直観では、言語と関係するのである。たとえば、ある個体を、小皿と名付ける。これが言語世界のことである。しかし、小皿と名付けられた個体には、多様な要素を内包している。そこには、円があり、模様があり、また、それを、灰皿として使用することができるのである。そして、落とせば、もはや、小皿ではなくなるのである。このように多様な性質をもった個体を小皿として名付けることは、ある意味で、矛盾なのである。つまり、個と一般性とは矛盾するのである。あるいは、不等価である。
 しかしながら、このような暴力的一般化がなされるのが、現象化であろう。目にするブルーの空とは、実は、特異性であるにもかかわらず、ブルーと一般化されるのである。私が今見ている冬のブルーの空は、特異なブルーであるが、それをブルーと一般化する。これが、現象界のあり方である。ここに、途轍もない矛盾があるのである。特異性を一般化するという暴力があるのである。結局、メディア・現象境界には、「一神教」・一元論的暴力構造があると言えよう。
 つまり、イデア・メディア界的あり方を否定して、一元化する力がここにはあるのである。これを、不連続的差異論から、どう力学化できるだろうか。少なくとも、想像力・メディア界を否定・排除する力がここにははたらいている。つまり、連続・同一性化する力である。メディア界の力とは、連続化というよりは、連結する力と言えるだろう。では、連結から連続へと変換する力とは何か。それは、二元論的に裁断する力でもあるだろう。ここで、父権神話を考えていいだろう。それは、母権神話を否定するものである。女神を怪物として、破壊して、二元論・2項対立をもたらすものである(バビロニア神話)。つまり、ここには、想像力を否定した抽象的観念があるだろう。抽象観念が想像力を凌駕するのである。この抽象観念が、カントの超越論的形式に相当しよう。つまり、連続・同一性化する力とは、抽象観念力である。そして、これが、当然、言語力である。【ラカンが、象徴界と言ったものは、このことである。彼の父の名というのは、抽象観念力をもたらす音声言語であろう。つまり、シニフィアン(意味するもの)である。そして、ここで、ラカンとデリダが結ぶのである。父の名(原シニフィアン)とは、ロゴス・音声中心主義のロゴス・音声であろう。《もっとも、このロゴスは、本来のロゴスではない。言語と見なくならない。つまり、ロゴス・音声中心主義とは、言語・音声中心主義と見なくてはならない。》このロゴス・音声が、メディア・現象境界にはたらいているものである。これが、現象界を発現する契機である。だから、ラカン・デリダは正しいのである。このロゴス・音声中心主義、つまり、正しくは、言語・音声中心主義が、現象界の契機である。これが、メディア・現象境界、MP境界の構造である。
では、この言語・音声中心主義をもたらす力とは何かである。ここで、かなり飛躍的に作業仮説しよう。想像力において、形相を捉えるとしよう。しかし、形相とは何かという問題もある。これは、メディア界の形象と見ていいだろう。ゆらぐ形象、位相形象と見ていいだろう。これは、イデアの一つである。これを、言語・音声で把捉すると考えよう。つまり、メディア界的形象、即ち、形相を言語・音声で把捉することで、現象界が発生するのではないだろうか。思うに、象形文字の方が、メディア界的形象、形相に忠実なのである。しかし、言語・音声化によって、メディア界から現象界への転換が起ったと言えるのではないだろうか。
ならば、どうして、言語・音声が必要となるのだろうか。どうして、象形文字だけではいけないのだろうか。音声とは何かである。思うに、ここで、ニーチェのディオニュソスの意味があるのではないだろうか。音声によって、メディア界が共通化されるのではないだろうか。メディア界的形象、形相は、個々のものであり、いわば、社会化されていない。しかし、音声化されることで、共有化されると言えよう。つまり、音声は、メディア界的「カオスモス」を喚起すると言えよう。これによって、個々が連続化されると言えよう。つまり、音声とは、ディオニュソスであり、連続・同一性化するのである。一体感である。つまり、メディア界の一体感を、音声において、固定すると言えるのではないだろうか。
ということで、結局、メディア・現象境界の無の力とは、音声の力であるということになった。ラカン・デリダは正しいのである。原シニフィアン・「ロゴス」・音声が、メディア・現象境界の構造なのである。
ならば、構造主義やポスト構造主義の問題もこれで、より明快になるだろう。構造を作っているのは、言語・音声である。これは、不可避的に、二元論、2項対立となる。つまり、ある音声は、他の音声を排除するからである。これが、また、ソシュールの構造言語学の意味でもある。そして、ラカンは、象徴界から、現実界への回帰を説いた。しかし、これは、実は、イデア界への回帰である。現実界という考えは、あまりに心理学(精神分析)的であり、「現実」的ではない。なぜなら、イデア界への回帰とは、正に、真実在的に、現象界への回帰であるからである。空即是色である。禅である。還相である。事事無碍である。イデア界即現象界である。また、デリダであるが、「ロゴス」・音声中心主義を批判し、脱構築主義と説くことで、現象界中心主義を批判して、メディア界性を説いたのであり、また、イデア界を示唆してしたのである。
結局、構造主義、ポスト構造主義は、現象界主義である西洋の言語・音声中心主義を問題としていたと言えよう。そして、ポスト構造主義の不備から、問題点が不明確になり、忘却されてしまったが、不連続的差異論の創造によって、明確になり、ポスト構造主義、ポスト・モダニズムの問題を真に解明したと言えるのである。不滅の不連続的差異論である。かつては、最勝超至高不連続的差異論と情熱的に呼んだのであるが。でも、それは、どうやら、本当である。

2005年12月10日 (21:02)

資本主義の不連続的差異化へ:イデア界的資本主義:新黄金時代へ

資本主義の不連続的差異化へ:イデア界的資本主義:新黄金時代へ
テーマ:差異資本論
以下のアドルノの言は、いわゆる知識人的発想のものである。確かに、文化の商業化は今日起っている。 
 しかし、逆のことも言えるのである。近代的二元論、「もの」と「こころ」との二元論があり、「もの」中心の経済が近代的資本主義であった。しかし、こんにち、「情報資本主義」であり、それは、「こころ」が資本主義に入っているのである。つまり、文化が資本主義に取り入れられているのである。この点で、アドルノの言は、古いのである。不連続差異論から言うと、メディア界に資本主義が入っているのであり、また、さらに、イデア界にも入っていると言えるのである。つまり、資本主義は、不連続差異化してきているのである。現代資本主義は、イデア界・不連続差異的資本主義である。現代は、ポスト近代・ポストモダン革命の最中である。相転移期である。(今日のような悲観的時代ではあるが、私は、夢想的に、新黄金時代と呼んでいるが、それへと向っていると考えられる。)
 結局、不連続的差異論革命の最中である。イデア界が、人々に回帰しているのだ。だから、新自由主義的力の路線と相補の差異共存共生共創主義が生まれるはずである。後で、もう少し、詳述したい。

p.s. 新自由主義でさえ、それとも、だからこそと言うべきか、斬新な創造的企業が必要であるが、創造性は、イデア界から生まれるのである。そして、それが、メディア界化・想像力化されて、実現していくのである。創造的企業内において、不連続差異化が起きているのである。しかし、これは、力の側面においてである。もう一つは、共存的側面で、不連続差異化が起ると言えよう。

参照:『心の起源 生物学からの挑戦』木下清一郎著 中公新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/
4121016599/250-7564220-6771446


 
以下引用。_____________________________________ 
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自由主義時代を通って、文化は[資本]流通の領域に落ちた。
そして今、流通領域の漸進的壊死は文化そのものの生命中枢に
及んでいる。

十分に計算された産業の配分装置による商業とその非合理的潜
伏地の除去にともなって、文化の商業化はナンセンスなまでに
完成される。

完全に束ねられ、管理され、大体耕作されつくしたものとして
、文化は壊死する。

テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」
『プリズメン』ちくま学芸文庫p20
渡辺祐邦・三原弟平訳、1996年2月7日第1刷発行
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PUBLICITY
No.1270(2005/12/10/土)

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「PUBLICITY」(パブリシティー) 編集人:竹山 徹朗
E-mail:freespeech21@yahoo.co.jp
blog:http://takeyama.jugem.cc/

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登録申し込み先(↓)も必ず合わせて併記してください。
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2005年12月10日 (21:00)

神話・物語・民話・冒険譚等における龍退治の意味について

神話・物語・民話・冒険譚等における龍退治の意味について
テーマ:神話
一つは、父権神話イデオロギーとして:これは、文化史的解釈だ。
一つは、メディア界を統合する哲学的意味として:これは、いわば、「オカルト」的解釈である。というか、密教・秘教的解釈である。あるいは、一種ヨガ的解釈である。一種精神分裂症(狂気)を高次元的に超克し、叡知を形成することを意味するのではないか。つまり、現象界的自我とメディア界的自我の分裂が、龍との闘争を意味するのではないか。そして、これは、イデア界の叡知に達するまでは、カオスの状態であろう。龍とは、メディア界であろう。メディア界的意識であろう。現象界的意識とメディア界的意識が分裂し、激闘する。そして、龍退治する英雄とは、イデア界の叡知に達して、その分裂を克服したことを意味するのではないか。 
 秘儀・密儀も、この叡知の獲得を意味した。結局、イデア界の認識を、得ることを、近代以前までは、至上のこととしたのではないか。それが、近代において、喪失されるのである。近代は、イデア界の喪失である。結局、主客二元論となり、根源界を喪失したのである。そして、近代主義は、根源界の認識を排除してきたのである。問題は、この根源界が、近代以降は、オカルティズムとして、探求されたことである。(p.s. ここの言い方は、短絡的である。根源界は、哲学において探求されたのである。ドイツ観念論、ニーチェ、フッサールによってロゴス的に探求されたのである。そして、喪失・忘却された根源界にたどりついたのである。不連続的差異論は、この完成であると思われる。)オカルティズムとは、霊と物質との2項対立であり、実は、唯物論と同型である。因みに、中沢新一氏が、自身の思想を霊的唯物論と呼んでいるのは、このことの証左となるだろう。ずいぶん以前に、グノーシス主義を唱えていた中沢氏の二元論を危険と私は感じていた。結局、2元論は、唯物論にしろ、オカルティズムにしろ、暴力的なのである。ここで、整理すると、

イデア界・直観力/メディア界・想像力/現象界・言語力(?)

p.s. 今日、ファンタジーが流行しているのは、メディア界が、今日、資本主義における創造性と結びつくからではないだろうか。否、イデア界⇔メディア界と今日の資本主義が、結びつくからであろう。
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2005-12-10 00:12:47
直観力とイデア界の関係について
テーマ:不連続的差異論
イデア界において、不連続的差異が境界をもって共立並存している。不連続的差異の並立がある。ここは、絶対的世界であり、すべてが、即の状態にある。もっとも、境界をもった即ではあるが。境界をもって、不連続的差異が、いわば、即通している。これは、無限速度である。そして、この無限速度の即通ないし即信が、直観力であろう。これは、不連続的差異に内在している垂直・水平相補性によって生起しているものだろう。不連続的差異と不連続的差異の内在的即通が直観力であろう。つまり、直観力とは、不連続的差異の内在性から発する力である。結局、直観力とは、イデア界の力・虚力と等しいだろう。また、直観を閃き、閃光として表現するのは、妥当なことである。それは、超光速である。
 では、時間の問題はどうなるのだろうか。イデア界は、即時の世界である。メディア界は、時空連続体であろう。相対性理論の世界であろう。時間は遅れたり、進んだりするだろう。現象界は、時計の世界である。というか、ガリレオ&ニュートン的古典物理学の時間の世界である。すると、相対性理論とは何かという問題が問われる。量子力学は、既に、メディア界の物理学であると述べた。相対性理論も、基本的には、メディア界の物理学であろう。差異・ゼロ度の世界は、時間・空間相補性を意味しよう。結局、相対性理論も量子力学も、メディア界を対象としているのである。そして、標準理論は、メディア界の概念をもっていないので、破綻したのではないだろうか。また、繰り返すこととなるが、4つの力ではメディア界を記述するには不十分なのである。ダークマター、ダークエネルギーの仮説が出るのは当然だと思う。4つの力とは、確かに、メディア界の力であろう。しかし、メディア界は、これらの力が、不可分一如になっている領域である。つまり、総合力があるのである。これが、4つの力では説明できないと思われるのである。簡単に言えば、メディア力自体を、4つの力では説明できないのである。メディア力=エネルゲイアを4つの力では説明できないから、宇宙において、エネルギーが不足することになると思われるのである。このメディア力=エネルゲイアを考慮することで、ダークマター、ダークエネルギー問題は解決されるのではないかと思われるのである。

p.s. 直観力とは、宗教の無量光であろう。また、後で、太陽や恒星と、イデア界の関係を考えたい。
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2005-12-09 17:54:23
想像力とメディア界
テーマ:ブログ
想像力は、志向性と言えるだろう。そして、また、イデア・メディア境界にあるのではないだろうか。ならば、想像力と物理学はどう関係するのだろうか。ここで、直観で言えば、想像力はほぼメディア界である。だから、想像力とは、エネルギーであり、現象界の力を源である。大ざっぱではあるが、想像力=イデアと言ってもいいのだろう。また、当然、ヴィジョンでもある。想像力=イデア=ヴィジョンである。しかし、想像力は、イデア界とメディア界両面に関わる。結局、イデア界における志向性が想像力であり、また、メディア界の差異・ゼロ度が想像力でもある。(ここで、イギリス・ロマン派のS.コゥルリッジのファンタシーとイマジネーションとの区別を想起する。おそらく、ファンタジーは、メディア界的であり、イマジネーションは、イデア界的ではないだろうか。)ならば、想像力は、自然の力を包括している。4つの力を包括・包摂していることになるが、それでいいのか。
 問題は、差異・ゼロ度の意味である。これは、エネルゲイアである。これを想像力としていいのか。おそらく、それでいいのだ。4つの力は、心身諸力でもある。そして、心身諸力は、想像力を浸透されているだろう。感覚/感情/直観/知性は、想像力を帯びるだろう。
 ここで、より精緻化すると、想像力とは、イデア・メディア境界的である。ヤヌス(両面)的である。だから、不連続性と連続性の両義性をもつのであり、脱領土化と再領土化の両面をもつと言えよう。(思うに、ドゥルーズ&ガタリの哲学は、想像力の哲学である。これは、ロマン主義の哲学の延長であろうし、また、カント哲学の延長であろう。)
 以上の観点から、近代主義を見ると、それは、想像力という根源を排除して、超越論的形式主義に徹したと言えるだろう。メディア界という想像力を排除して、超越論的形式を優越化しているのである。これが、フッサールが批判した、近代的科学である。想像力的である生活世界が喪失されるのである。そして、これが、私の言う近代主義の狂気・精神病性である。
 では、現代、不連続差異が主導的になりつつあるが、不連続差異と想像力とはどう関係するのか。特異性である不連続差異とは、想像力の根源である。しかし、想像力と等しいと言うよりは、直観力と言うべきではないだろうか。おそらく、直観力が、想像力のベースではないだろうか。直観力⊇想像力ではないだろうか。直観力とは、根源的志向性であろう。そして、想像力とは、イデア・メディア境界的志向性であろう。すると、不連続差異が主導的になるとは、直観力が主導的になるということである。そして、当然、想像力も内包するのである。ならば、直観/想像力の主導性を意味するだろう。ならば、完全に現代は、ポスト近代の新世紀・新時代である。原点に回帰した時代である。イデア界ルネサンスの時代である。万民天才化の時代である。結局、不連続差異共立・共存・共生・共創の政治・経済・社会・文化が進展するのである。絶対的ポスト近代主義、絶対的ポスト西洋・一神教文明である。

2005年12月10日 (20:55)

相対性理論と主客相補性の等価性

相対性理論と主客相補性の等価性
テーマ:相対性理論/量子論

後で、検討したいが、個々の視点とは、不連続差異的であり、それらの視点は、等価ではないか。というか、相対的である。では、光速度に当たるものは何か。それが、不連続的差異の共通点になるはずである。ライプニッツのモナドには、窓がなかったが、「光速度」があるのである。それは、何か。
 不連続的差異に共通の「光速度」とは何か。それは、端的には、メディア界であろう。想像力が共通であろう。ここにおいて、各自は、まったく異質ながらも、共通性をもつのである。しかし、さらに言えば、イデア界において共通である。共通且つ普遍的である。つまり、多元的な、複数の不連続的差異において、各自は、共通・普遍である。
 結局、想像力が「窓」であるし、直観力において同一である。そう、近代主義、近代自我主義は、この点でも、倒錯的である。なぜなら、自我という孤絶した存在を考えているからである。これは、特異性とは異なる。特異性とは、差異共存的であり、他者を志向するのである。しかし、近代的自我は孤絶し、「窓」がないのである。近代的自我は、自己中心的であり、他者破壊的である。これは、悪魔主義である。近代的自我、近代的合理主義とは、言語力において連続・同一性化しているのである。言語観念体系において連続・同一性化している。これは、ほとんど、ライプニッツ哲学である。また、ヘーゲル哲学的である。不連続化することで、他者が生成し、共通性、普遍性が生起するのである。近代的自我は、言語的一般性をもつにすぎない。それは、実は、一般形式性に過ぎない。超越論的形式である。

p.s. 後で、光速度一定に当たるものを再考したい。

p.p.s. 光速度一定に当たるものは、想像力と言ったが、信とも言えるだろう。信力と言ってもいいだろう。この方が、的確かもしれない。信力は、各自共通である。神を信仰する人、株式を信用する人、アメリカを崇拝する人、恋人を信用する人等々である。この信、信力が、光速度一定に当たるのではないか。
 この信力は、不連続差異論から言うと、メディア界の力である。だから、想像力と言ったのは、外れてはいないだろう。問題は、差異・ゼロ度の意味である。差異・ゼロ度を、想像力と考えた。そして、エネルゲイアでもある。これを信力としていいのか。ここは、量子力学の領域でもある。つまり、量子世界である。ここには、量子と力があるのである。しかし、想像力とは、これまでの考察では、量子世界全体を意味する。思うに、想像力とは、メディア界的志向性と言っていいだろう。つまり、差異・ゼロ度における差異の差異への志向性である。ゼロ度の志向性である。これが、想像力である。つまり、ここにおいて、差異とゼロ度の志向性とは一如である。不可分である。敷延すると、差異と志向性との相補性があるということである。これが、量子力学の粒子と波動との相補性に通ずるだろう。ならば、想像力とは、単に、ゼロ度の志向性だけには限られない。差異/ゼロ度全体である。ならば、信力に関しても、同様だろう。信力とは、信ずる対象と一如である。だから、光速度一定に当たるものは、やはり、想像力であり、信力であると言えよう。
 ここから見ると、知性とは何かということになるだろう。それは、想像力・信力に包含・内包されているのである。想像力・信力的平等があるだろう。また、魂や心も、メディア界であり、想像力・信力である。
 最後に、物理学では、光と質量との関係でエネルギーを考えるが、メディア界的には、光と質量は、不可分であろう。E=mccとは、この不可分、一如性を意味しているのではないだろうか。だから、光と質量とは一如、不可分と見て、光速度一定に相当するものは、想像力・信力と見ていいだろう。
 付け足すと、光と重力は、不可分であろう。そして、また、弱い力と強い力も不可分であろう。この4つの力の不可分性が、何度も繰り返すこととなるが、ダークマター、ダークエネルギーに関係するだろう。

2005年12月10日 (19:17)

資本主義経済の問題点:不連続的差異政治哲学と差異共生資本:共生支出と共生控除

商品経済とは何か。すべては、商品となるのか。近代的資本主義は、ユダヤ・キリスト教的であった。それは、憎悪主義的自我合理主義である。想像力・直観力を排除している。「もの」の経済であった。
 現代資本主義、ポストモダン資本主義、想像力・直観力資本主義において、「もの」と「こころ」がいわば融合化し、一如である。つまり、芸術化しているのである。コストと品質が重要である。品質が「こころ」である。
 問題は、コストである。価格とは何か。これは、基本的には市場主義的である。売り買いである。生産者と消費者の売買である。新自由主義理念は、市場の自由化である。それは、形式として認めよう。国家社会主義は、財政赤字や非効率性をもたらすからだ。
 しかし、新自由主義は、経済原理の問題であり、社会の問題とは切り離される。社会形成のための原理が必要である。それが、差異共存共創主義と考える。つまり、政治において、経済と社会との均衡を取る必要があるのである。D.H.ロレンスのアレゴリー哲学を借りれば、政治は、「王冠」であり、「獅子」である経済と「一角獣」である社会とのバランスをとる必要があるのである。新自由主義と差異共存共創主義(差異共生主義、略して、差共主義ないし共差異主義 condifferencism)とのバランス・均衡がなくてはならない。結局、新自由主義は、経済原理に過ぎず、社会原理ではないのである。  
 この「王冠」哲学とは、政治哲学となる。これは、不連続的差異論的政治哲学である。不連続的差異論は、経済的には新自由主義を肯定するだろう。しかし、他方、社会的には、差異共生主義(差共主義)を肯定するのである。
 思うに、差異共生主義的な企業がこれから、注目され、また、評価されるだろう。差異共生主義的企業が、市場でも評価されるであろう。
 とまれ、差異共生主義社会のための、資本が必要である。これは、どこから得られるのか。差異共生資本はどこから得られるのか。後で、検討したい。

p.s. 共生主義的資本主義があるはずである。憎悪・他者排除的資本主義とは別に。地域活性化には、共生主義的発想が必要だろう。利己主義的資本主義では、地域零落となる。地域共生主義的資本主義である。

p.p.s. 新自由主義と差異共生主義とのバランスを取るには、このための政治理念・戦略が必要である。不連続差異政治哲学ではあるが、戦術として、差異共生主義のための資本を提供する企業にその分控除するのである。共生控除である。ここから、差異共生資本が捻出されるのである。共生主義が、これで、生命・血を得ることになろう。新自由主義と差異共生主義との結合である。「王冠」結合である。

2005年12月04日 (14:43)

「2つの1/4回転:2つのメディア差異と4つの力」の記事を整理する

「2つの1/4回転:2つのメディア差異と4つの力」の記事を分けて、整理したい。
_________________________________________

1.ガウス平面で、x軸のプラスにおいて、1/4回転するとき、虚数はプラスとなる。また、x軸がマイナスにおいて、1/4回転するとき、虚数はマイナスとなる。つまり、メディア界化、ゼロ化は、2つの、2種類の差異・ゼロ度を形成すると言えるようだ。プラス・差異・ゼロ度とマイナス・差異・ゼロ度である。差異・ゼロ度は、連続的差異であり、簡単にするため、連続差異ないしメディア差異と呼ぼう。即ち、+連続差異(+メディア差異)と−連続差異(−メディア差異)である。(ここで、関係子、メディオンという用語を借りてもいいだろう。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10006583617.html
)量子力学では、2つの量子があるが、この±連続差異(±メディア差異、±関係子、±メディオン)が、それに相当するのかもしれない。 
 問題は、このメディア差異の力の関係である。メディア界を、エネルゲイアと見ているが、この2つのメディア差異によって対極・両極性が発生するだろう。これを、陰陽と見ていいだろう。先に、メディア界のゼロ度において、極性が発生すると見たが、しかし、今や、2つのメディア差異があるのだから、2つのメディア差異×ゼロ度極性(+と−)=4元性、4極性が発生しているのである。+メディア差異の正負と−メディア差異の正負の4つである。
 とまれ、この±メディア差異が、根源的2元性の起源ではないだろうか。陰陽、雌雄、対極等々である。±メディア差異の根源は、ガウス平面のx軸上の不連続的差異であり、これらは、不連続的調和(discordia concord)、不連続的共立を成している。これが、1/4回転して、この±メディア差異を発生させる。これは、正に、対極性であり、相補性であろう。そして、量子力学の世界であろう。この2種類のメディア差異(連続差異、メディア子、量子、関係子、メディオン)が、対極となり、二重らせんを形成するのではないだろうか。【中国の神話、女媧(じょか)と伏羲(ふっき、ふくぎ)の神話。イシスとオシリスの神話、あるいは、ノアの箱船と関係しそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%B8%A6%E6%B0%8F
】+メディア差異と−メディア差異は対称的な二重らせんを描くだろう。そして、これらは、対立しつつ一体である。つまり、ガウス平面・イデア界の+(のx軸)と−(のx軸)をもって、対立一体化しているのである。この対極力が、例えば、DNAの二重らせんを構成するのだろう。そして、一本のらせんのひもの連続は、ゼロ度における極性、+と−によるものであろう。だから、根源的極性とメディア界的極性を区別する必要があるだろう。とりあえず、前者をイデア極性、後者をメディア極性と呼んでおこう。

【p.s.】 問題は、これまで、不連続的差異の内在的垂直・水平性を作業仮説してきたが、ここでは、抜けていることである。垂直性と水平性が相補性を成していて、それが、メディア界で、即自的と対自的に分離して、4つの力が生起したと考えたのである。しかし、上記では、この考え方が無視されている。ゼロ度における極性によって、いわば、メディア的4つの力を説明している。今の考えを言えば、やはり、垂直・水平性は無視できないのではないかというものである。単なる極性では、4種類の力の性質の相違を説明できないだろう。
 では、垂直・水平性という相補性を活かすならば、ゼロ度の極性はどうなるだろうか。ゼロ度の極性とは、垂直・水平相補性のそれぞれの力における極性となるのではないだろうか。この問題は複雑なので、稿をあらためて検討したい。ここで、既述したことを、繰り返せば、メディア界において、イデア界的即自=対自性が、分化して、即自性と対自性とになる。そして、即自性において、弱い力と強い力、対自性において、重力と電磁気力とが生起する。しかし、これらは、メディア界においては、いわば、メディア的4つの力と見るべきであろう。これが、「積分」して、現象界の4つの力として発現するのだろう。(ところで、急に思いついたが、以上のように考えると、重力にも、極性が生じていることになるだろう。+重力と−重力。そう、重力と反重力であろう。
 今、確認しておくと、メディア界は、一種微分領域であるということである。ここの4つの力とは、微分様態である。これが、積分されて、現象化するということだろう。ベルクソン、ハイデガー、ドゥルーズは、このメディア界→現象界の顕現を哲学化したのである。しかし、本当は、微分・積分は近似値に過ぎないだろう。量子力学が明らかにしたように、確率の世界となっている。微分・積分は、メディア・現象境界の一つの形式ではないだろうか。ならば、メディア的4つの力のメディア・現象境界の形式として、微分・積分であろう。そして、メディア的4つの力とは、本来、ゆらぎ様態であろう。構造と言ったとき、それは、メディア・現象境界形式であろう。例えば、カントの超越論的形式のように。原型と言ったときも、そうではないだろうか。
 では、メディア界本来のゆらぎとは、どう把捉・理解されるべきか。それは、ゼロ度による不連続的差異の連結化の事象である。このゼロ度・ゼロ化によって、分離していた差異が連結・結合するのである(、おそらく、エネルギーを放出して)。この差異連結・結合が、メディア界本来であり、また、ゆらぎの様態である。そして、何度も繰り返すが、これが、量子力学が対象とする自然である。粒子/波動相補性の領域である。ただし、粒子と波動であるが、これは、現象界に反映されるメディア界の「粒子」と「波動」と見るべきである。つまり、メディア界において、差異・ゼロ度は、「粒子」様態と「波動」様態の両面をもつ。そして、メディア的4つの力とは、「波動」様態に入るのではないだろうか。
 ここで、整理すると、+メディア差異と−メディア差異の2つの基本「量子」がある。そして、これが、それぞれ、4つの力を派生させる。しかし、4つの力は本来不可分である。未分化である。「カオスモス」である。この「カオスモス」が、量子力学の対象とする領域である。そして、この「カオスモス」は、2つのメディア差異である、2つの基本「量子」である「粒子」様態を帯び、また、メディア的4つの力である「波動」様態を帯びると言えよう。
 
 
2.さて、ここで、メディア界の力を考えよう。ゼロ化によって、イデア界の境界の虚力が、実的力となる。(おそらく、有限力である。)これは、メディア差異と力との不可分一体相補性を意味するのではないだろうか。ゼロ化によってメディア差異が発生するが、それは、有限であり、いわば、反作用として、脱連続化エネルギーを同時にもっているのである。つまり、ゼロ化の連続化とは、同時に、脱連続化を意味している。生成消滅である。脱構築である。とまれ、メディア差異(連続差異)は、+と−、−と+との2つの連続化の力をもつだろう。そして、メディア差異自体が、2種類だから、結局、4つの力が発生するだろう。これで、2種類のメディア差異と4つの力が演繹された。これは、現代物理学のあり方と一致する。しかし、不連続的差異論の場合、4つの力は、イデア界の根源的力、虚力、イデア力、不連続的差異境界力によって包摂されているだろう。後者が上位概念である。高次元である。


3.ここで、ダークマターやダークエネルギーを考えてみると、メディア差異の4つの力は、メディア差異における極性の力であり、メディア差異自体の、メディア界自体の「力」ではないのである。つまり、4つの力とは、メディア差異の内部の力であり、メディア差異という「存在」を表わしてはいないのである。つまり、メディア差異のエネルギー、メディア界というエネルゲイアを表現してはいないのである。このエネルギー、エネルゲイアこそが、ダークマター、ダークエネルギーの本体であろう。このエネルギーは、イデア界の力であろう。虚力、元エネルギーであろう。デュナミスである。そう、ダークマター、ダークエネルギーとはデュナミスであろう。虚エネルギーである。


4.さて、中国哲学を考えると、理気とは、イデア界の不連続的差異であり、虚エネルギーであろう。つまり、理とは、不連続的差異の元調和性であり、気とは、理のもつ元・虚エネルギーである。そして、これが、ゼロ化によって、エネルゲイア、陰陽となるのである。つまり、太極とは、理気であり、そのゼロ化が、陰陽なのである。ここで、理気の気と陰陽の気とが、朱子学においては、混同されているように思える。前者は、正に、「元」気であり、後者は、言わば、分極気である。だから、明快にするために、前者を虚気、後者を分気とでも呼ぶといいだろう。
 

5.以上のように考えると、4つの力は、メディア界の力に見えるだろう。物理学の4つの力は、現象界の力ではないか。4つの力は、以上からは、メディア差異内部における極性化によるのである。差異・ゼロ化がメディア界化とするならば、ゼロ度内部の極性化は、メディア界化自体とは異なるのではないだろうか。つまり、ゼロ度化が、メディア界の基本的な事象である。そして、ゼロ度内部で、極性化が生起するが、この原因は何か。ゼロ度と極性化は異なると言えよう。思うに、極性力とは、現象力なのではないか。これが、メディア差異を現象化させているのではないか。ゼロ度では、多様体、位相体となるが、固定した形を取らないだろう。現象的時空4次元を取るには、ゼロ度以外に力が必要だろう。そう、ゼロ度を極性化する力である。今、思いつきで言えば、それは、根源の境界力ではないのか。分離する力である。ゼロ度に対して、分離する力がはたらくだろう。ゼロであり、同時に、分離である。これが、極性力ではないか。ゼロでありつつ、境界力が作用して、極性分離するのではないか。ならば、4つの力とは、やはり、メディア界の力ではないのか。しかし、この極性力は、現象力ではないか。(p.s. この箇所は、今では、違うのではないかと思うので、新たに検討が必要である。)
 ここで、簡単に結論づけると、メディア界の4つの力と現象界の4つの力があると考えられる。それは当然、対応している。前者とは、いわば、微分であり、後者は積分であろう。
 

6.さて、難問の一つは、時空4次元の問題である。x軸、y軸、z軸を考えると、z軸は、現象軸となるのではないだろうか。x軸が差異軸であり、y軸がゼロ度軸、メディア軸で、z軸が時空連続軸ではないだろうか。では、どうして、現象界は時空4次元となるのかである。先に、私は、高さの次元と時間の次元は重なるのではと言ったが、あらためて考えなくてはならない。問題は、時間である。時間とは何かである。直観で言えば、時間とは、力である。現象生成の力である。内在する力である。メディア界の4つの力、そして、現象界の4つの力を見たが、この4つの力が、時間ではないか。否、直観では、メディア界のエネルギー、エネルゲイアが時間である。しかし、これは、虚時間のようなものであろう。とまれ、これが、現象界の時間になるのではないか。つまり、隠れた次元としての時間である。可視的なのは、三次元空間であるのに対して、時間次元は、不可視である。何故なら、それは、隠れた次元だからでははないか。x,y、zという三次元空間がある。しかし、4つの力の背後に、原基に、メディア界のエネルギー、エネルゲイアがある。これが、現象空間における、いわば生成の次元となるのではないか。つまり、メディア差異・エネルギーである。これが、三次元空間を包摂しているのではないか。光速度一定というのは、この包摂の規定の定数ではないか。つまり、メディア差異、連続差異、差異ゼロ度があるが、このゼロ度が、光速度一定ではないか。何故、光速度が無限ではないかと言えば、それは、メディア界は、有限化の世界だからであろう。有限エネルギーの世界だからだろう。差異ゼロ度という連続エネルギーを規定するものが、光速度一定ではないか。そして、差異ゼロ度のエネルギーの現象界化がE=mccではないか。そして、4つの力とは、このエネルギーに包含されるだろう。メディア差異のエネルギーがダークエネルギーではないだろうか。(p.s. この箇所も再検討が必要である。)


7.ここで、ロレンスと関係させると、ダークゴッド(暗い神)とは、メディア差異のエネルギー、エネルゲイアでいいのではないだろうか。しかし、コスモスはどうなるのだろうか。ここは微妙なところである。メディア差異のエネルギー自体は、イデア界の虚力から来ている。つまり、デュナミスである。デュナミスが、ゼロ化で、エネルゲイアとなるのである。コスモスと言ったとき、それは、両義的ではないだろうか。それは、気と同様のように思える。コスモスは、イデア界であり、同時に、メディア界となるだろう。不連続的差異の共立・調和としてのコスモスと、生成変化・生成消滅を行なうエネルギーとしてのコスモスである。後で、検討したい。

2005年12月04日 (00:28)

2つの1/4回転:2つのメディア差異と4つの力

ガウス平面で、x軸のプラスにおいて、1/4回転するとき、虚数はプラスとなる。また、x軸がマイナスにおいて、1/4回転するとき、虚数はマイナスとなる。つまり、メディア界化、ゼロ化は、2つの、2種類の差異・ゼロ度を形成すると言えるようだ。プラス・差異・ゼロ度とマイナス・差異・ゼロ度である。差異・ゼロ度は、連続的差異であり、簡単にするため、連続差異ないしメディア差異と呼ぼう。即ち、+連続差異(+メディア差異)と−連続差異(−メディア差異)である。(ここで、関係子、メディオンという用語を借りてもいいだろう。)量子力学では、2つの量子があるが、この±連続差異(±メディア差異、±関係子、±メディオン)が、それに相当するのかもしれない。
 問題は、このメディア差異の力の関係である。メディア界を、エネルゲイアと見ているが、この2つのメディア差異によって対極・両極性が発生するだろう。これを、陰陽と見ていいだろう。先に、メディア界のゼロ度において、極性が発生すると見たが、しかし、今や、2つのメディア差異があるのだから、2つのメディア差異×ゼロ度極性(+と−)=4元性、4極性が発生しているのである。+メディア差異の正負と−メディア差異の正負の4つである。 
 とまれ、この±メディア差異が、根源的2元性の起源ではないだろうか。陰陽、雌雄、対極等々である。±メディア差異の根源は、ガウス平面のx軸上の不連続的差異であり、これらは、不連続的調和(discordia concord)、不連続的共立を成している。これが、1/4回転して、この±メディア差異を発生させる。これは、正に、対極性であり、相補性であろう。そして、量子力学の世界であろう。この2種類のメディア差異(連続差異、メディア子、量子、関係子、メディオン)が、対極となり、二重らせんを形成するのではないだろうか。(中国の神話、女媧?)+メディア差異と−メディア差異は対称的な二重らせんを描くだろう。そして、これらは、対立しつつ一体である。つまり、ガウス平面・イデア界の+と−をもって、対立一体化しているのである。この対極力が、例えば、DNAの二重らせんを構成するのだろう。そして、一本のらせんのひもの連続は、ゼロ度における極性、+と−によるものであろう。だから、根源的極性とメディア界的極性を区別する必要があるだろう。とりあえず、前者をイデア極性、後者をメディア極性と呼んでおこう。
 さて、ここで、メディア界の力を考えよう。ゼロ化によって、イデア界の境界の虚力が、実的力となる。(おそらく、有限力である。)これは、メディア差異と力との不可分一体相補性を意味するのではないだろうか。ゼロ化によってメディア差異が発生するが、それは、有限であり、いわば、反作用として、脱連続化エネルギーを同時にもっているのである。つまり、ゼロ化の連続化とは、同時に、脱連続化を意味している。生成消滅である。脱構築である。とまれ、メディア差異(連続差異)は、+と−、−と+との2つの連続化の力をもつだろう。そして、メディア差異自体が、2種類だから、結局、4つの力が発生するだろう。これで、2種類のメディア差異と4つの力が演繹された。これは、現代物理学のあり方と一致する。しかし、不連続的差異論の場合、4つの力は、イデア界の根源的力、虚力、イデア力、不連続的差異境界力によって包摂されているだろう。後者が上位概念である。高次元である。
 さて、ここで、ダークマターやダークエネルギーを考えてみると、メディア差異の4つの力は、メディア差異における極性の力であり、メディア差異自体の、メディア界自体の「力」ではないのである。つまり、4つの力とは、メディア差異の内部の力であり、メディア差異という「存在」を表わしてはいないのである。つまり、メディア差異のエネルギー、メディア界というエネルゲイアを表現してはいないのである。このエネルギー、エネルゲイアこそが、ダークマター、ダークエネルギーの本体であろう。このエネルギーは、イデア界の力であろう。虚力、元エネルギーであろう。デュナミスである。そう、ダークマター、ダークエネルギーとはデュナミスであろう。虚エネルギーである。
 さて、ここで、中国哲学を考えると、理気とは、イデア界の不連続的差異であり、虚エネルギーであろう。つまり、理とは、不連続的差異の元調和性であり、気とは、理のもつ元・虚エネルギーである。そして、これが、ゼロ化によって、エネルゲイア、陰陽となるのである。つまり、太極とは、理気であり、そのゼロ化が、陰陽なのである。ここで、理気の気と陰陽の気とが、朱子学においては、混同されているように思える。前者は、正に、「元」気であり、後者は、言わば、分極気である。だから、明快にするために、前者を虚気、後者を分気とでも呼ぶといいだろう。
 さて、以上のように考えると、4つの力は、メディア界の力に見えるだろう。物理学の4つの力は、現象界の力ではないか。4つの力は、以上からは、メディア差異内部における極性化によるのである。差異・ゼロ化がメディア界化とするならば、ゼロ度内部の極性化は、メディア界化自体とは異なるのではないだろうか。つまり、ゼロ度化が、メディア界の基本的な事象である。そして、ゼロ度内部で、極性化が生起するが、この原因は何か。ゼロ度と極性化は異なると言えよう。思うに、極性力とは、現象力なのではないか。これが、メディア差異を現象化させているのではないか。ゼロ度では、多様体、位相体となるが、固定した形を取らないだろう。現象的時空4次元を取るには、ゼロ度以外に力が必要だろう。そう、ゼロ度を極性化する力である。今、思いつきで言えば、それは、根源の境界力ではないのか。分離する力である。ゼロ度に対して、分離する力がはたらくだろう。ゼロであり、同時に、分離である。これが、極性力ではないか。ゼロでありつつ、境界力が作用して、極性分離するのではないか。ならば、4つの力とは、やはり、メディア界の力ではないのか。しかし、この極性力は、現象力ではないか。
 ここで、簡単に結論づけると、メディア界の4つの力と現象界の4つの力があると考えられる。それは当然、対応している。前者とは、いわば、微分であり、後者は積分であろう。
 さて、難問の一つは、時空4次元の問題である。x軸、y軸、z軸を考えると、z軸は、現象軸となるのではないだろうか。x軸が差異軸であり、y軸がゼロ度軸、メディア軸で、z軸が時空連続軸ではないだろうか。では、どうして、現象界は時空4次元となるのかである。先に、私は、高さの次元と時間の次元は重なるのではと言ったが、あらためて考えなくてはならない。問題は、時間である。時間とは何かである。直観で言えば、時間とは、力である。現象生成の力である。内在する力である。メディア界の4つの力、そして、現象界の4つの力を見たが、この4つの力が、時間ではないか。否、直観では、メディア界のエネルギー、エネルゲイアが時間である。しかし、これは、虚時間のようなものであろう。とまれ、これが、現象界の時間になるのではないか。つまり、隠れた次元としての時間である。可視的なのは、三次元空間であるのに対して、時間次元は、不可視である。何故なら、それは、隠れた次元だからでははないか。x,y、zという三次元空間がある。しかし、4つの力の背後に、原基に、メディア界のエネルギー、エネルゲイアがある。これが、現象空間における、いわば生成の次元となるのではないか。つまり、メディア差異・エネルギーである。これが、三次元空間を包摂しているのではないか。光速度一定というのは、この包摂の規定の定数ではないか。つまり、メディア差異、連続差異、差異ゼロ度があるが、このゼロ度が、光速度一定ではないか。何故、光速度が無限ではないかと言えば、それは、メディア界は、有限化の世界だからであろう。有限エネルギーの世界だからだろう。差異ゼロ度という連続エネルギーを規定するものが、光速度一定ではないか。そして、差異ゼロ度のエネルギーの現象界化がE=mccではないか。そして、4つの力とは、このエネルギーに包含されるだろう。メディア差異のエネルギーがダークエネルギーではないだろうか。
 ここで、ロレンスと関係させると、ダークゴッド(暗い神)とは、メディア差異のエネルギー、エネルゲイアでいいのではないだろうか。しかし、コスモスはどうなるのだろうか。ここは微妙なところである。メディア差異のエネルギー自体は、イデア界の虚力から来ている。つまり、デュナミスである。デュナミスが、ゼロ化で、エネルゲイアとなるのである。コスモスと言ったとき、それは、両義的ではないだろうか。それは、気と同様のように思える。コスモスは、イデア界であり、同時に、メディア界となるだろう。不連続的差異の共立・調和としてのコスモスと、生成変化・生成消滅を行なうエネルギーとしてのコスモスである。後で、検討したい。

2005年12月03日 (04:56)

ゼロ・ポイント・フィールドとメディア界:永遠のイデア界

『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』リン・マクタガート著 インターシフト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/
4309906079/250-7564220-6771446

この本は読んではいないが、ゼロ・ポイント・フィールドという考えが出てくる。これは、不連続的差異論においては、メディア界に当たると言えよう。あるいは、イデア・メディア境界である。思うに、D.H.ロレンスやドゥルーズは、このような考えに魅かれたであろう。しかし、私は、メディア界の力を問題にしたい。ここで、共鳴が起こると考えよう。ある意味、コスモスとは、ここの考え方である。神秘主義も、ここから発するだろう。とまれ、今は、科学を問題にしたい。
 イデア・メディア境界で、ゼロ化が生起し、それから、メディア界が形成される。これは、ゼロ度の連結体である。ここでは、力は融合して、不可分となっていると考えられる。現象界では、4つの力が分離するが、ここでは、一如である。思うに、これが、無量光ではないだろうか。つまり、メディア力が無量光ではないか。そして、これは、原4つの力である。言わば、第5の力である。超越論的力である。これが、言わば、根源力となって、4つの力として現象化するのであり、4つの力では、根源力は十分把捉できない。先にも触れたが、ダークマターやダークエネルギーは、この根源力で説明できるのではないか。しかし、根源力は、超越論的力であるから、現象界的な「物質」的エネルギーでは把捉できない。そう、この根源力、メディア力は、正に、エネルゲイアである。「マグマ」である。(プラトンのコーラは、やはり、ここに位置させるべきなのか。)
 とまれ、4つの力は、この根源力で統一されるだろう。超大統一論とは、これで、完成するはずである。超ひも理論のように、10次元は必要ないのではないだろうか。これは、5次元である。しかし、イデア界を考えるともっと複雑になる。とまれ、おそらく、4つの力は、根源力において不可分となる。未分化的になるだろう。光と重力が一如になる。
 ところで、これは、心身的には何になるのだろうか。おそらく、これが、「気」ではないか。身心体である。根源力=気ではないか。気は陰陽性があるが、根源力は、確かに、プラスとマイナスの極性がある。つまり、ゼロ度であるから、プラスマイナス、ゼロである。このプラスとマイナスが、陰陽となるのではないか。結局、メディア力=根源力=エネルゲイア=気=第5の力となるだろう。そして、この根源力が、現象力へと分化するのである。これは、四元性だろう。四大等々。十字架とは、現象界のシンボルだと思う。そして、メビウスの帯・輪とは、メディア界であろう。無限・∞もそうだろう。そして、量子力学は、メディア界を対象としているだろう。メディア界は二元論だろう。陰陽、プラスマイナス、粒子/波動。粒子・波動の絶対矛盾的自己同一だ。
 では、最大の謎であるイデア界であるが、これをどう見るのか。直観では、密教の金剛界の感じである。メディア界が胎蔵界だと思える。デュナミスである。ここは、何か、結晶の世界を想起する。絶対の世界である。ゆらぎゼロである。ゼロ以前の世界である。虚界である。理の世界である。「理気」である。真のイデアの世界である。不連続的差異の調和の世界である。おそらく、華厳経に近いのかもしれない。硬質の世界である。鉱物的な世界である。少し、宮沢賢治的な宇宙である。思うに、差異が境界となり、境界が差異となるような世界ではないか。差異/境界の相補性。この差異/境界の力が、超根源力であろう。絶対力である。垂直・水平の絶対力ではないか。discordia concord. 思うに、ここでは、理が力であり、力が理である。知が力であり、力が知である。理=力、知=力、理気である。理気界ではないか。いわば、超ゼロ度である。超越界である。ガウス平面である。超時空である。虚時空である。超根源界である。数学の世界である。超抽象の世界である。超調和の世界である。コスモスである。
 思うに、メディア界とイデア界は混同されやすいし、これまで、混同されてきた。しかし、イデア界は超エネルギーの世界であり