2006年01月27日 (20:52)

ポストモダンからメタ・ポストモダンへ:ポストモダンの「アイロニカルな没入」からの脱出

後で充分に述べたいが、ホリエモン/ライブドア問題は、ポストモダンの問題であること見るのが正解だと思うのである。新興宗教化は、ポストモダンの陥穽であると思う。大澤真幸氏の説く「アイロニカルな没入」が、ポストモダンに発生して、ポストモダン的「善意」が、新興宗教(原理主義)的闇へと転化すると考えられるのである。新自由主義はポストモダンであり、必然的に、新興宗教化する。自身が、闇となり、外部の闇をひきつけるのである。ポストモダンは、危険である。反動化するのである。自民党が、公明党と連合化したのは、この構造があると思う。IT企業、新自由主義、リバタリアニズムというポストモダンは、新興宗教、前近代的共同体、原理主義と一致してしまうのである。
 結局、この悪のメビウスの輪からの「出エジプト」のためには、差異の不連続化が必要なのである。それは、不連続的差異論のみが説くものである。それは、メタ・ポストモダンである。メディア界=ポストモダンから、イデア界=不連続的差異への回帰である。
 ここで、ホリエモンが、構想していたITによる「頭脳の共有化」であるが、それは、正に、再結合(religio:宗教の語源)であり、連続主義的一体化である。ホリエモン/ライブドアは、ポストモダンの陥穽に落ちて転落したのである。
 今のところ、おそらく、不連続的差異論だけが、唯一の「救世主」である。

Get away from Postmodern Great Danger!
Make an Exodus from it.
There is a new way of Meta-postmodern.
Only A Supreme Theory of Discrete or Discontinous Difference
can bring about New Dawn of Meta-postmodern at the moment.

参考:「[政治 ]新自由主義 とホリエモン 」
Watermark
http://d.hatena.ne.jp/umkaji/20060127#p1

2006年01月25日 (00:58)

自由主義と不連続的差異論:能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新へ向けて

私が、差異というとき、これは、個の自由ということとほぼ同じことである。そう、不連続的差異論は、一種自由主義である。しかし、通常の自由主義あるいは新自由主義とは決定的に異なる点をもつ。それは、差異の共存・共立・共生をも志向するからである。個の自由が同時に、個と個との共存であることを志向するのである。ここが、決定的に異なる点だと思う。
 イギリスそしてアメリカの自由主義は、簡単に言えば、近代的自我主義であり、個人主義だと思う。では、不連続的差異論から見たら、それは、どのように分析できるだろうか。これは、意外に難しい問題である。自我とは何かという問題があるからである。 
 まず、近代的自我であり個人主義的である自我が近代西欧に誕生する。これは、二重である。近代主義的であり、個人主義的である。しかし、デカルト的な合理的な主体というよりは、特異性をもった自我であると思う。つまり、不連続的差異論から見ると、自由主義の自我とは、不連続的差異性を帯びていると思われるのである。問題は、この不連続的差異の性質である。これは、先に二つのポストモダン(言わば、暗黒ポストモダンと光明ポストモダン)に述べたことと関連がある。即ち、反感的か肯定的かの違いが関係すると考えられるのである。二つの不連続的差異が存するということである。反動・憎悪・利己主義的不連続的差異と能動・歓喜・共生的不連続的差異である。ここまで、言うと、自由主義の自我がどちらであるか、ほぼ明瞭である。これは、前者でしかありえない。ニーチェ的に言えば、ルサンチマン的不連続的差異である。(おそらく、ホリエモン氏や小泉氏や竹中氏がこれである。)これは、極めて、破壊的な個人主義である。アナキストのシュティルナーの唯一者とは、ほぼこれに近いのではないだろうか。
 ということで、自由主義と不連続的差異論の「自由主義」の違いがこれで判明したと言えよう。前者は、イデア界から発しているものの、反動となった、いわば、凶暴な個人主義である。それに対して、後者は、イデア界に能動的に回帰した、差異共生共創的な個人主義である。前者は戦争主義であり、後者は平和主義である。一元論と多元論、一神教と多神教の違いとも言えよう。憎悪的であるか、歓喜的であるか。父権的あるか、母権的であるか。天上的であるか、大地的であるか、等々である。
 日本人は、戦後、USAの半植民地となり、アメリカ化した。それは、自我が反動・憎悪・利己主義を帯びたということである。本来、多神教の日本文化(ヤポネシア文化と言おう)は、差異共存主義の文化である。しかし、自覚乏しく、欧米化されて、自己を喪失しているのである。今、日本の政治・経済は大きく揺らいでいる。カオス状態である。結局、新自由主義的ポストモダン路線は、問題が多いのがわかる。これは、強暴な路線であり、他者を排斥するものであり、社会は荒廃する。確かに、新自由主義の小さな政府という理念は、「社会主義」的資本主義に対する処方箋の意味があることは否定できない。しかし、これは、いわば、副作用が大き過ぎるのである。社会をずたずたにするだろう。勝者と敗者の二極化が徹底するだろう。当然である。そして、今や、ライブドアや耐震強度偽装等で、そのダークさが誰の目にも明らかになったのである。
 今年は、戦後日本社会の一番の転換点となるだろう。アメリカの中国重視・多極化の政策という新たな黒船が来航しているからである。平成維新の可能性があるのである。ここで、ヤポネシア本来の文化の復活と、不連続的差異論が説く能動・歓喜・共生的ポストモダンの創造が、蓋然的になってきているのである。ポスト新自由主義としての能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新のエネルゲイアが、ふつふつと滾ってきていると思うのである。

2006年01月22日 (18:33)

父権的部族主義/近代/差異の近代日本と不連続的ポストモダン・ヤポネシア・レヴォリューション

近代日本は、半封建/半近代主義であったと考えられるし、戦後日本は、USAに対して、半独立国半植民地である。しかし、基本的な半封建/半近代主義はベースにあると考えられる。父権的部族主義を基底にもつ近代主義である。父権的共同体的近代主義である。ここで、近代主義を明確化すると、主客二元論による近代的自我主義・合理主義・科学主義のことである。それに対して、啓蒙思想、女性解放思想、自由主義、民主主義等は、近代主義ではなくて、差異主義であると考えられる。(資本主義も本来は、差異主義であると考えられる。)つまり、近代という時代は、少なくとも、近代主義と差異主義の二重構造をもっていた。
 だから、日本の近代主義は、当然、差異主義とは別のものである。勿論、差異主義も日本に入ってきたが、それは、教養主義的なものとなったと思われる。おそらく、日本の差異主義は、教養主義が維持してきたものと思われるのである。そして、これが、良識層を形成したのである。だから、近代日本とは、正確に言えば、封建/近代/差異(教養)的三元論性をもっていたと言えよう。しかしながら、権力においては、封建主義が支配的であったと言えよう。そして、これが、暴走して太平洋戦争へと突入して行った。
 戦後日本は、近代主義が強化されたが、しかし、基盤にある封建主義(父権的部族主義)は変わらなかった。つまり、封建/近代/差異という図式は変わらなかった。しかしながら、近代主義が強化されて、差異(教養)主義が、疎外されて行ったと言えよう。資本主義の強化である。つまり、差異(教養)主義を軽視ないし無視した、半封建/半近代主義的資本主義の発達である。そして、これを、自民党政府は形成してきたと言えよう。そして、これが、ケインズ的財政赤字経済(国家社会主義)を構築したのである。これは、近代主義と父権的部族主義(共同体主義)に上に乗ったものである。
 そして、バブル発生とバブル崩壊、グローバリゼーション、そして、小泉「改革」である。自民党は、封建/近代/差異の三元性をもっているが、封建/近代性の基盤に資本集合型経済(公共事業主義経済・ケインズ主義)が発展したのである。そして、バブル崩壊後の超赤字財政の事態から、小泉「構造改革」・新自由主義路線が生まれる。これは、自民党の封建/近代主義を否定する立場に立つものである。広義において、ポストモダンと呼べるだろう。しかし、新自由主義は、資本主義的自由主義の系譜にあり、リバタリアニズムである。そして、これは、差異主義の一つでもある。
 しかしながら、ポストモダン、差異主義の問題があるのである。ODA ウォッチャーズ氏は、小泉路線を構造主義路線と見ている。日本でこのような見方をしている人を、寡聞にして、他には知らない。しかし、構造主義という見方は、鋭敏であると思われる。構造主義という思想は、実は、本来的に、ポスト近代的なのである。構造主義=ポストモダンと言っていいだろう。だから、フランス現代思想における「ポスト構造主義」とは、ポスト・ポストモダンということになるのである。しかしながら、問題を複雑にして、錯綜させるのは、構造主義と「ポスト構造主義」とは、相補性になっていると考えられることである。だから、用語としては、両者をポストモダンと呼ぶことができるのである。つまり、構造主義は、現象を生みだす超越論的構造を指摘しているのであるが、この超越論的構造とは、実は、極性のある領域で生成変化するのである。すなわち、不連続的差異論におけるメディア界なのである。だから、構造主義/ポスト構造主義=ポストモダンとしていいのである。
 ということで、小泉「構造改革」路線は、ポストモダンである。差異主義である。しかし、この路線の欠陥は、何度も繰り返すことになるが、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対理論で見事に剔抉されるのである。ポストモダンは、共同体に転化してしまうのである。つまり、簡単に言えば、小泉「構造改革」は、自民党の守旧的な封建/近代主義的官僚体質に回帰してしまうのである。この力学については、先に述べたが、それは、ポストモダンは、メディア界的であるが、それが、連続主義に飲み込まれて、封建的なメディア界的集合性に一致するということと考えられるのである。これで、小泉首相の靖国参拝や安倍官房長官への支持が発生すると考えられるのである。
 結局、今日、ポスト小泉としては、ポスト・ポストモダン主義が必要なのである。ポストモダンを真に進展させるには、そうならなくてはならないのである。私は、仮に、ウルトラ・ポストモダンと呼んでいるが。あるいは、不連続的ポストモダンと呼ぶことが出来るだろう。先に述べたことを繰り返すが、小泉構造改革とライブドアは、ポストモダン改革の第一波であり、それを乗り越えて、不連続的ポストモダン改革へと進展すべきなのである。

2006年01月21日 (18:02)

ライブドア問題を哲学する:その2:IT企業・ポストモダン・メディア界の両義性の落し穴

ホリエモンの側近の自殺を聞くと、何か、また、オウム真理教を想起する。私は、去年から、ライブドアに新興宗教の感じを受けていた。ホリエモンが尊師であり、社員は信者である。おそらく、この連想は間違っていないだろう。このことを含めて、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論の線に沿って、本件を考察しよう。

A.1.プレモダン/2.モダン/3.ポストモダン

B.1.原理主義/2.モダン/3.多文化主義

C.1.共同体/2.モダン(構造主義)/3.脱構造主義

A~Cは、等価構造である。そして、1と3は、相互依存、相補性を形成している(「アイロニカルな没入」)。IT企業は、3に相当する。そして、前近代的共同体(「父権的部族主義」)が残存している。そして、ライブドアは、この三幅対構造の力学から、プレモダン・原理主義・共同体に癒着したと言えるだろう。極めて、単純・明快である。これで、ライブドアの転落は説明できるのである。
 しかし、これは、ポスト・モダン主義にとっては、由々しき問題である。いわば、袋小路・閉塞である。実は、これは、ポスト構造主義のジル・ドゥルーズの哲学の閉塞と同質・等価と考えられるのである。この点について、不連続的差異論から究明しよう。
 この問題の中心は、メディア界にあると考えられる。近代主義は、主客二元論=二項対立を構築して、揺らぎの無い世界観をもった。しかし、とりわけ、20世紀後半において、近代主義が解体して、ポストモダンの状況が生まれる。これは、広義には、個人主義、自由主義、情報資本主義等の進展として捉えることができるだろう。これは、不連続的差異論におけるメディア界の領域の開拓に通じるのである。即ち、近代的自我・合理主義を脱構築する力の発動である。しかしながら、メディア界とは不連続性と連続性の連結している領域であり、また、イデア界と現象界の媒介の領域である。
 問題は、IT企業=ポストモダン=メディア界が、発展しようとするときに、危険な罠があるということである。それは、連続化である。ここは、非常に複雑な事態がある。不連続的差異論におけるメディア界とはエネルギー領域であるが、原動力はイデア界にある。即ち、メディア界は、本来、イデア界、つまり、不連続的差異によって駆動されているのである。しかし、それが、メディア界特有の様相によって、連続性が同時に作動しているのである。力動の根源は、イデア界・不連続的差異でありながらも、同時に、連続性の力学がそこには作用しているのである。だから、IT企業=ポストモダン=メディア界は、厳しい自己認識をもたないと、連続性の力学に流されるのである。それは、イデア界・不連続性の反動という形で、連続性が強化されるので、極めて悪しきもの、悪魔的なものになるのである。本来、不連続的差異性に駆動されていながらも、連続性の傾向のために、反動的な連続化が発生するのである。これが、大澤真幸氏が述べた「アイロニカルな没入」であろう。つまり、IT企業=ポストモダン=メディア界は反転して、前近代・原理主義・共同体へと転化するのである。これが、ライブドアに起ったことと考えられるのである。私が、新興宗教化と言ったは、ここから来ているのである。そして、経済倫理を喪失したのも、ここから発していると考えられるのである。悪魔化である。
 さて、この隘路からの脱出は、先にも述べたが、また、これまでの記述からわかるように、IT企業=ポストモダン=メディア界の不連続化、不連続的差異化、脱構造主義化である。つまり、共同体との関係を一切切断しないといけないし、不連続的差異の共立・共生・共存というイデア界の志向性・要請を実現する方向をもたなくてはならないということである。つまり、IT企業=ポストモダン=メディア界のイデア界化が必要なのである。IT企業が、不連続的差異としての市民や地域と共立・共生・共存することが絶対的に必須であるということである。
 思うに、ホリエモンは、出発点としては、彼自身、不連続的差異であったろう。そして、IT経済・ポストモダン・メディア界を構築する。しかし、この連続性の力動・エネルギーに彼は染まり、出発点の不連続的差異性を喪失・忘失するのであり、さらに反動化して、共同体化して、ダークな、違法な行為へ突き進んだのである。彼に欠落していたものは、真の理論・哲学・叡知である。彼に、ポストモダンの叡知があれば、正しく進むべき方向は察知できただろう。正しい方向とは、不連続化、不連続的差異化、イデア界化への方向である。それは、不連続的差異の共立・共生・共存・共創であり、それは、ポストモダン的民主主義の方向である。彼は、経済において、民主主義を否定していたが、それこそ、必要であったのである。傲り、倨傲によって、自滅したと言えよう。彼の倨傲・驕慢とは、反動的なポストモダン的心性に拠るのである。そう、メディア界とは、極めて危険な領域であり、不連続性と連続性がいわばせめぎ合い、相克様相にあるのである。不連続性が連続性を否定しようとしたり、連続性が不連続性を否定しようとする矛盾同一の力学がここにはあるのである。
 
 

以下資料。________________________________________

─ Dailymail Businessより ─────────────────────────
■ 堀江をもてはやしていたのは誰だ
■ 今になってマネーゲームだ錬金術師だなどと
■ 批判している大新聞・テレビ報道のバカらしさ
■ とにかくこの国を悪くした小泉ペテン改革5年間
──────────────────────────────────────

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竹中イカレ大臣が小泉デタラメ首相に吹き込んだ改革と称する
株式資本主義とIT至上主義はいよいよ馬脚をあらわしている

5年も経ってもいまだに「改革の芽を大きな木に育てたい」
とフザケたことを言っているが、こんな政治が続いていれば
第2第3のホリエモンが続出し国は滅びる
----------------------------------------------------------

「時価総額世界一は近い将来なんじゃないか」。昨年12月25日の株主総会でこう
ブチ上げ、自ら進んでフラッシュライトを浴びていた男が、今はマスコミから逃げ回
っている。近く、東京地検の事情聴取を受けるライブドア社長の堀江貴文(33)。
豹変ぶりは大新聞・テレビも同じで、今になって堀江批判を始めた。
「株式分割と株式交換を組み合わせた『錬金術』にメスが入った」「投資家を軽んじ
たマネー至上主義の実態はどこまで解明されるのか」なんて調子で、堀江を連日バッ
シングだ。「1株が3万株は法律スレスレ」とか「分割の時間差を利用して株価45
倍」と、もともと錬金手口が問題視されていたかのように解説する記事も多い。
 テレビのワイドショースタッフは、「局内は『とにかくホリエモンをたたけ』で突
っ走っている。もちろん数字(視聴率)が取れるからで、コメンテーターもアンチ堀
江派をどんどん使っていきますよ」と笑う。
 何を今さら、じゃないか。ウサンくさい「錬金術師」を百も承知で、これまでもて
はやしていたのは、一体、誰なのか。
 堀江はプロ野球新規参入、フジテレビ買収、衆院選出馬……と、株価を吊り上げる
ために話題を振りまいてきた。そのたびに、TVのコメンテーターたちは「旧体制を
ブチ壊す革命家」「時代の寵児」とヨイショしてきた。乗っ取られそうになったフジ
テレビやTBSまでが、バラエティー番組に呼んで喜んでいた。

◆ 女性広報までタレント扱い ◆

 さらにホリエモンのPR担当者・乙部綾子を「美人広報」とちやほやし、エッセー
集まで出版させてバカ騒ぎしていたはずが、事件発覚後は「(堀江は)会見で目が泳
いでいた」なんて小バカにしている。法大教授の須藤春夫氏(マスコミ論)がこう言
う。
「勝ち組・負け組社会の成功者として堀江氏を持ち上げてきた大マスコミの責任は重
大ですよ。当然、知っていたはずの違法スレスレの経営手法には目をつぶり、プロ野
球新規参入問題では、旧体制に一石を投じたベンチャーの旗手として扱った。だから
世間も、新時代の起業家として歓迎したのです。フジテレビの買収騒動にしても、む
しろ防衛策を講じなかったテレビ局の方が悪いという論調で後押ししていた。結果と
して大マスコミは、『違法でなければ何をやってもいい』という時代の雰囲気づくり
に加担したとも言えるでしょう」
 それでもまだ、朝日新聞などは「堀江流の功罪」とか「ライブドアが残したものは
『負の遺産』ばかりではない」なんて生ぬるいことを書いている。
「先の総選挙で朝から晩まで堀江氏を追いかけ回し、“選挙協力”していたTVは、
特捜部が動いた途端に手のひら返しです。なぜ、堀江氏のような存在を生み出してし
まったのかという問題の本質を突かず、ただ勝ち馬に乗るだけの報道姿勢を改めない
と、今後も第2、第3のホリエモンを生み出すだけです。個人投資家は、結局、メデ
ィアがつくった“ITバブル”に乗せられて痛い目に遭った。そういう意味でも罪は
重いですね」(須藤春夫氏=前出)
 今になってTV局は堀江や乙部出演の番組を大慌てで差し替えている。堀江をのさ
ばらせてきた大マスコミに、批判する資格などないのだ。無節操だし、調子がよすぎ
る。

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■ ホリエモン側近(野口英昭氏)はなぜ自殺したのか
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 ホリエモンの側近が自殺していた。地検特捜部の強制捜査後に失踪、18日に那覇
市内のホテルで遺体が見つかったのだ。亡くなったエイチ・エス証券副社長の野口英
昭氏(38)は、事件のキーマンだった。

▼ 不正事件のキーマンだった ▼

 ライブドアの違法行為は、自社の支配下にあった「JMAMサルベージ1号投資事
業組合」がすでに買収済みだった消費者金融「ロイヤル信販」など2社の株価吊り上
げのために、「今から買収する」とニセ情報を流していたことだ。
 この投資事業組合を運営する「日本M&Aマネジメント」の親会社「エイチ・エス
インベストメント」社長が野口氏。ライブドアの指示を受け、M&Aの契約書の作成
などを組合員に行わせていた。
 野口氏は元国際証券(現三菱UFJ証券)社員だったが、堀江社長に公開取引業務
の手腕を買われ、00年にライブドアの前身「オン・ザ・エッヂ」に入社、マザーズ
上場の立役者とされる。02年にエイチ・エス証券に移った後も、ホリエモンらライ
ブドア幹部との交流は続いた。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
日刊ゲンダイ Dailymail Digest 2006年 1月21日号(平日毎日発行)

2006年01月12日 (09:09)

イデア・不連続的差異とは、超越論(内在論)的包摂理性・知性・概念である

イデア界に存する「概念」は、包摂的な理念である。これは、デカルトの延長と思惟を包摂しているのである。それは、当然、物質でもなければ、観念でもない。イデアであるのだが、イデアの意味が、皮相に捉えられているので、注意が必要である。これまで、このイデアを不連続的差異と呼んでいる。即ち、不連続的差異=イデアである。
 わたしたちが見る世界、現象界とは、このイデア、イデア界の反映である。それを近代は物質の世界と見ているが、それは誤りである。物質とは、イデアの延長と見るのが正しいのである。そして、わたしたちの意識、心、知性、言語、精神、観念、感情、感覚等は、イデアの思惟と見るのが正しいだろう。
 スピノザは、デカルト哲学を受けて、いわゆる心身平行論を立てた(『エチカ』)。それは、実体/属性/様態の三層論である。そして、延長と思惟を属性と見た。スピノザは、能動的観念という主観性を肯定・能動化することで、創造的主観性の思想を構築して、実体を把握する理論を立てた。とまれ、スピノザは、能動的観念を精神における観念としてしているが、それは、不連続的差異論から見ると、メディア界の心身性・心身相補性、想像力をスピノザは、活用していると考えられるのである。そして、心身性・心身相補性・想像力の創造化によって、ほぼイデア界的概念に達していると考えられるのである。思うに、スピノザ哲学の独創的画期性は、思惟と延長との結節点である想像力を把捉して、それから、イデア界への道筋を提示した点にあるだろう。これは、いくら強調しても、強調しきれないくらいの天才的ブレークスルーであろう。これは、実は、内在的超越性、つまり、超越論的哲学への進展である。そして、後に、フッサールがこれを、超越論的主観性、超越論的現象学として構築するのである。また、ドゥルーズ&ガタリは、『哲学とは何か』において、現象学を批判して、内在性の哲学を主張するのであるが、しかし、内在性の理論とは、超越論にほかならないと考えられるのである。つまり、内在性の哲学とは、スピノザとフッサールの哲学の延長にあるのであり、彼らの独創ではないのである。ただ、超越論性を内在性に変えただけだと考えられる。(もっとも、ハイデガーは、フッサールの主観性を存在に変えて、超越論性に存在性の側面を付与したとは言えるだろう。しかし、正しくは、主観性且つ存在性であるので、ハイデガーの存在論は、一面的であると考えられる。)
 結局、不連続的差異論は、以上の哲学を統一したものであり、換言すると、プラトン哲学の差異論的完成である。これにより、近代主義を真に克服されたと言えるだろう。新のポスト・モダン理論の誕生と言えるだろう。これにより、科学は、全くあたらしいものとなるだろうし、認識の大変革となるだろう。上記したように、物質はイデアの延長として、精神はイデアの思惟として把握され直す。そして、想像力は、延長と思惟の相補性であるメディア界の「力」としての把捉されるだろう。そして、ここから、イデア界の理念(イデア)への直観力が創造されるだろう。
 さて、ここで、光とは何かという問題を簡単に考えよう。光は想像力的なもの、メディア界的なものと考えられる。それは、延長と思惟を媒介するものである。E=mc^2である。そして、光を介して、「精神」は、「神性」を直感すると考えられる。これは、光=想像力を介して、イデア界を直感すると考えられる。なぜならば、光=想像力は、イデア・メディア境界から発出して、ここで生成消滅を繰り返していると考えられ、このイデア・メディア境界は、当然、イデア界に接しているからである。「神」=イデア界は確かに光を創造するが、しかしながら、光の根源として、超光としての「神」=イデア界を考えることができる。これが、阿弥陀如来(無量光)、ゾロアスター教、神道等が表現しているものと考えることができる。「光あれ」という神とは、イデア界であり、その光の根源である。この超光であるが、これは、逆に、闇と見てもいいだろう。超光=超闇である。D.H.ロレンスが、黒い太陽dark sun、暗黒の神dark godと呼んだものが、これであろう。これは、プラトンの善の太陽である。
 では、このイデア界と現代物理学で問題となっているダークマターやダークエネルギーとはどう関係するだろうか。これは少し難しいだろうが、ここで直観で言えば、ダークマターもダークエネルギーも、イデア界を指しているのではないだろうか。ブラックホールも、イデア界を示唆しているのではないだろうか。この潜在界であるイデア界を、ダークマターやダークエネルギーは指しているのではないか。この問題は複雑である。他の可能性としては、イデア・メディア境界がダークエネルギーを指すか、あるいは、反世界がそれである。この問題は後で再検討したいが、今の直観では、イデア界がそれに当たる。

2006年01月09日 (16:30)

日本の「原風景」の危機とは何か:個的特異性になり、無思想なニホンジンを無視すること

toxandria氏が、グローバリゼーションと日本の原風景に関して、考察されていることに、刺激を受けて、私も少し愚考したい。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060107/p1
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060108/p1
 私の実家は、農村地帯であり、区画整理事業にともない、曲がった野の道が、直線の舗装道路に改造された。車にとっては、便利になった。しかし、当然ながら、興趣がなくなった。子供の頃の思い出の風景が、無惨にも、奪われた。私が好きな奈良の山の辺の道には、昔の風景が残っているが、極めて稀少になったと思う。toxandria氏が書かれているように、欧州では、自然は大事にされていると思う。イギリスは、田舎に行くと、豊かな牧場や森林が守られている。イタリアでも、トスカーナの自然は豊かである(果物が美味である)。
 日本人は、本来、自然に神を感じてきた民族であるが、今日では、文明・都市化されたのである。一言で、言えば、近代化が元凶である。とりわけ、戦後である。アメリカ文明が日本にやってきて、皮相に模倣した。つまり、アメリカの一種植民地になったのである。(そう、ポスト・コローニアル、ポスト植民地主義の問題は、日本にとって、重大である。)戦後、アメリカの植民地となったことが、日本の原風景、里山の破壊をもたらしているのだと思う。しかし、アメリカ文明の基本である個の思想は、取り入れなかった。というか、隷属し、卑屈となったのだから、そのような個の基づく闘争・力の意志はないのである。政治・経済的にアメリカに屈したのであり、その帰結が、現内閣である。
 とまれ、文化問題を考えると、私見では、日本人は、一般に、根本的なものが欠落していると思う。それは、「血」だと思う。D.H.ロレンスは、近代的合理主義を否定して、「血」を信仰すると述べた。「血の意識」である。これだと思う。日本人から「血」が消えたのである。あるいは、灰色の血になったのである。血は、日・火・緋・霊であろう。このままでは、日本は、世界の劣等生である。フッサール的に言えば、「血」の生活世界をとりもどさないといけない。それは、太陽、宇宙・コスモスの生活世界であろう。私は、非合理主義にもどれと述べているのではなくて、個・特異性に基づく新しい合理主義を述べているのである。これが、不連続的差異論である。
 宇宙的な合理主義を取り戻すべきである。コスモス的な合理主義である。理念的合理主義を構築すべきである。そのためには、言葉が必要である。そう、「血」とは、実に言葉の問題である。ロゴスの問題である。「血」を表現する言葉があるのである。それが、消滅されているのである。マスコミ、マスメディアの悪魔的軽佻浮薄さが、日本の「血」・言葉・ロゴスを殺害しているのである。つまり、個人は別として、彼らは、自分の「血」を懸けないで、上辺だけの、「優等生」の、借り物のコトバを述べているのである。彼らには、「血」がないのである。彼らは、日本語の殺人者である。日本の「血」の破壊者である。
 今日、文学は、元気がない。文学とは何か。これは、本来、「血」の言葉の表現である。命の言葉の表現である。しかし、命の言葉を、文学は忘却したのである。イノチ。息の血であろう。イは、生命、魂、霊である。生命の太陽である。D.H.ロレンスは正しい。
 日本の風景、原風景を取り戻すには、命の太陽を体に取り戻さないといけない。

2006年01月09日 (02:15)

Pensees on 08/jan/06

1) 共観福音書とヨハネ福音書:前者が、改竄されたものであり、後者が、プラトン/グノーシス主義の覚智者イエスを伝えているだろう。初めにロゴスありき。ロゴス=イデア=ソフィア(叡知)である。

2) 田舎で、東の夜空にかかるオリオン座やその周辺の星を観る。なにか、宇宙は渦巻いているように思えた。cf. ゴッホの糸杉の絵。星月夜等。
http://www48.tok2.com/home/nekoMusa/gogh4.html
http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/StarryNight/1280.html#kab_1

3)大宇宙はフラクタルの形態をしているのではないか。イデア界は、ケルト十字のようではないだろうか。ガウス平面上の回転・円運動。そして、メディア界で、渦巻が発生する。いわば、入れ子状に渦巻が発生するのではないか。イデア・メディア境界で、「渦巻」が発生する。これが大宇宙の「渦巻」で、これが、入れ子状に展開されるのではないか。大宇宙「渦巻」、星雲、銀河、太陽系、台風、渦潮(cf.アメノウズメノミコ)、つむじ、指紋等。

4) なぜ、創造神話において、何故、水と空気(霊)の結合が説かれるのか。cf.対極性。

5)近代主義(近代的自我主義、近代的合理主義、唯物論)とは悪、大悪であった。これが、現代の日本の病巣である。父権部族主義的近代主義である。これが、日本の体制となり、日本人本来の多元論的美質を破壊しているのである。日本人の個を集団主義に洗脳しているのである。

6) ウェブログは、日本人の否定された「多神教」性を復活させるだろう。これは、日本の復活である。

7) 近代的学問体系の完全な崩壊が起きている。ポスト・モダンの創造的学問体系がうまれつつあるだろう。

8) 今や、世界は、ポスト西洋文明、ポスト一神教に転換しているのに対して、日本は、旧態依然として、西洋文明、一神教、国家ナショナリズムで動いている。致命的な認知ミスである。

9) 近代主義は、主客二元論の知識主義であり、これは、自己中心主義である。日本の知識人は、典型的である。

10) 近代的知識主義に取って代わる、ポスト・モダンの超越論的認識主義が必須である。これまでの近代的学問はすべて崩壊する。近代的学問・知識人の「産業廃棄物」が生じる。

11) 結局、ポスト・モダン、ポスト近代とは、単に、近代の後の時代という意味ではなくて、近代の超克・止揚・揚棄である。これは、西洋文明の終焉ということである。

12) 西洋近代主義によって否定された、世界の先住民文化が復活するだろうし、そこに多元主義の発芽があるだろう。

13)ポスト西洋文明の人文系的先駆として、ブレイク、シュティルナー、キルケゴール、ドストエフスキーがあげられ、決定的契機として、ニーチェ、D.H.ロレンス、フッサールがあげられるだろう。フランス現代思想は、この系譜を、混沌としながら、継続したものと考えることができる。

14) 資本主義は、連続主義から、不連続的差異主義へと転換する。

15) 日本の復活は、個々が、自律することから生まれるだろう。ブログは、個のメディアである。

16) 結局、人類の復活は、個々の覚醒に拠るのである。イエスが本来説いたものは、個の覚醒であり、ブッダ・釈迦の叡知・覚智と等価である。万教帰一。

17) イスラム教とは何か。スピノザ哲学に似ていると言われる(今村仁司氏)。イスラム教は、後一歩で、多元主義になるだろう。不連続的差異論の先駆の一つにイスラム教をあげてもいいのではないか。

18) 教会というものは破壊されなくてはならないだろう。これは、集団的洗脳機構である。個々の教会関係者を否定するのではなくて、教会という機構の否定である。生臭坊主より、はるかに誠実な牧師さんはいるのである。

19)太陽の意味、月の意味、宇宙の意味を考え直すこと。太陽や惑星は、思うに、イデア界の象徴であるように思える。つまり、ガウス平面=イデア界の1/4回転が、太陽や惑星の根源であるように思える。つまり、差異のゼロ化(空化)によって、差異が凝縮して、エネルギーが発生するように思えるのである。この差異の凝縮の核心が太陽・恒星ではないだろうか。つまり、(0,0,0)が、太陽・恒星の原点ではないか。惑星や衛星は、太陽・恒星の痕跡ではないのか。つまり、太陽・恒星とは、差異の1/4回転による原点化であるが、惑星や衛星は、原点化以前の差異に関係しているのではないか。換言すると、多元的不連続的差異の凝縮化が、太陽・恒星であるのに対して、諸惑星・衛星とは、根源的不連続的差異の5次元性のメディア界化ではないか。この5次元性が、プラトン立体と関係し、また、ケプラーの惑星論に通じるのではないだろうか。マイナス軸を考えると、10次元と1次元の11次元である。(思うに、+5次元と−5次元の両極化の1次元で、11次元となる。しかし、この総体次元があるように考えられるので、結局、12次元となるのではないだろうか。12という数は重要である。時間の数である。)思うに、このイデア界の次元数が、惑星や衛星と関係するのではないのか。イデア界の次元数が惑星・衛星を発生させるのではないか。結局、そうすると、太陽・恒星と惑星・衛星は、等価となるだろう。差異の連続・原点化が太陽・恒星であり、差異の次元数の連続化が、惑星・衛星ということになるのではないか。

2006年01月08日 (22:22)

検討問題と、母音と子音とは、言葉にとって、何なのか:母音と子音の 編集

検討問題:06/01/08


1) 共観福音書とヨハネ福音書:前者が、改竄されたものであり、後者が、プラトン/グノーシス主義の叡知者イエスを伝えているだろう。初めにロゴスありき。ロゴス=イデア=ソフィア(叡知)である。

2) 田舎で、東の空にかかるオリオン座やその周辺の星を観る。なにか、宇宙は渦巻いているように思えた。cf. ゴッホの糸杉の絵。星月夜等。

3) 大宇宙はフラクタルの形態をしているのではないか。イデア界は、ケルト十字のようではないだろうか。ガウス平面上の回転・円運動。そして、メディア界で、渦巻が発生する。いわば、入れ子状に渦巻が発生するのではないか。イデア・メディア境界で、「渦巻」が発生する。これが大宇宙の「渦巻」で、これが、入れ子状に展開されるのではないか。大宇宙「渦巻」、星雲、銀河、太陽系、台風、渦潮(cf.アメノウズメノミコ)、つむじ、指紋等。

4) なぜ、創造神話において、何故、水と空気(霊)の結合が説かれるのか。cf.対極性。

5) 近代主義(近代的自我主義、近代的合理主義、唯物論)とは悪、大悪であった。これが、現代の日本の病巣である。父権部族主義的近代主義である。これが、日本の体制となり、日本人本来の多元論的美質を破壊しているのである。日本人の個を集団主義に洗脳しているのである。

6) ウェブログは、日本人の否定された「多神教」性を復活させるだろう。これは、日本の復活である。

7) 近代的学問体系の完全な崩壊が起きている。ポスト・モダンの創造的学問体系がうまれつつあるだろう。

8) 今や、世界は、ポスト西洋文明、ポスト一神教に転換しているのに対して、日本は、旧態依然として、西洋文明、一神教、国家ナショナリズムで動いている。致命的な認知ミスである。

9) 近代主義は、主客二元論の知識主義であり、これは、自己中心主義である。日本の知識人は、典型的である。

10) 近代的知識主義に取って代わる、ポスト・モダンの超越論的認識主義が必須である。これまでの近代的学問はすべて崩壊する。近代的学問・知識人の廃棄物が生じる。

11) 結局、ポスト・モダン、ポスト近代とは、単に、近代の後の時代という意味ではなくて、近代の超克・止揚・揚棄である。これは、西洋文明の終焉ということである。

12) 西洋近代主義によって否定された、世界の先住民文化が復活するだろうし、そこに多元主義の発芽があるだろう。

13) ポスト西洋文明の人文系的先駆として、ブレイク、シュティルナー、キルケゴール、ドストエフスキーがあげられ、決定的契機として、ニーチェとD.H.ロレンスがあげられるだろう。フランス現代思想は、この系譜を、混沌としながら、継続したものと考えることができる。

14) 資本主義は、連続主義から、不連続的差異主義へと転換する。

15) 日本の復活は、個々が、自律することから生まれるだろう。ブログは、個のメディアである。

16) 結局、人類の復活は、個々の覚醒に拠るのである。イエスが本来説いたものは、個の覚醒であり、ブッダ・釈迦の叡知・覚智と等価である。万教帰一。

17) イスラム教とは何か。スピノザ哲学に似ていると言われる(今村仁司氏)。イスラム教は、後一歩で、多元主義になるだろう。不連続的差異論の先駆の一つにイスラム教をあげてもいいのではないか。

18) 教会というものは破壊されなくてはならないだろう。これは、集団的洗脳機構である。個々の教会関係者を否定するのではなくて、教会という機構の否定である。生臭坊主より、はるかに誠実な牧師さんはいるのである。

19) 太陽の意味、月の意味、宇宙の意味を考え直すこと。太陽や惑星は、思うに、イデア界の象徴であるように思える。つまり、ガウス平面=イデア界の1/4回転が、太陽や惑星の根源であるように思える。つまり、差異のゼロ化(空化)によって、差異が凝縮して、エネルギーが発生するように思えるのである。この差異の凝縮の核心が太陽・恒星ではないだろうか。つまり、(0,0,0)が、太陽・恒星の原点ではないか。惑星や衛星は、太陽・恒星の痕跡ではないのか。つまり、太陽・恒星とは、差異の1/4回転による原点化であるが、惑星や衛星は、原点化以前の差異に関係しているのではないか。換言すると、多元的不連続的差異の凝縮化が、太陽・恒星であるのに対して、諸惑星・衛星とは、根源的不連続的差異の5次元性のメディア界化ではないか。この5次元性が、プラトン立体と関係し、また、ケプラーの惑星論に通じるのではないだろうか。マイナス軸を考えると、10次元と1次元の11次元である。(思うに、+5次元と−5次元の両極化の1次元で、11次元となる。しかし、この総体次元があるように考えられるので、結局、12次元となるのではないだろうか。12という数は重要である。時間の数である。)思うに、このイデア界の次元数が、惑星や衛星と関係するのではないのか。イデア界の次元数が惑星・衛星を発生させるのではないか。結局、そうすると、太陽・恒星と惑星・衛星は、等価となるだろう。差異の連続・原点化が太陽・恒星であり、差異の次元数の連続化が、惑星・衛星ということになるのではないか。
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母音と子音とは、言葉にとって、何なのか:母音と子音の差異


専門領域に音声学があるが、それは、私見では、音声同一性ないし音声連続・同一性の構造によって、音声を体系化している。しかしながら、それは、種々の言語音声の差異を排出・隠蔽しているのではないだろうか。つまり、音声差異が現実として存在しているが、それを、音声同一性、音声連続・同一性によって構造化して、排出・隠蔽していると思われるのである。
 では、具体的に検討していこう。例えば、英語という言葉の音声は、子音と強弱のアクセントによって意味のフレームが形成されていると考えられる。簡単に言えば、子音と強いアクセントの音節の結合によって、意味形式、意味構造が構成されているということである。結局、子音・強音節、強子音・音節が、英語の音声の基礎構成要素(ユニット)と言えるだろう。つまり、これが、英語の音声言語としての音声の差異である。
 ここで、日本語の音声を考えてみると、それは、母音を基礎とした拍子と高低(ピッチ)、即ち、高低・母音拍子が基礎構成要素(ユニット)である。これが、日本語の音声言語としての音声の差異である。結局、

英語音声言語差異:強子音・音節構成要素
日本語音声言語差異:高低・母音拍子構成要素

ということになる。いわば、正反対の差異がある。では、両者の差異の質性を、不連続的差異論の視点から考察してみよう。言語、発話行為を、ある差異的主体から他の差異的主体への観念的志向性と考えることができる。この志向性を、不連続的差異(以下、差異)の志向性と見ることができるだろう。そして、差異とは、垂直/水平相補性力学をもっていると考えられる。これを音声構造に変換すると、垂直性(垂直極)が強弱アクセントと子音形式性との構造性に、水平性(水平極)が高低拍子と母音形式性との構造性になるだろう。(簡単に言えば、リズムとメロディーの対極相補構造性である。つまり、英語とはリズム言語であり、日本語はメロディー言語である。)
 この両極性であるが、主観性においては、垂直性は、能動・攻撃・自我性に通じ、水平性は、受動・共感・集合性に通じだろう。そして、この両極的主観性は、メディア界では相補的であるが、現象界では、二元論的に分離し、二項対立を形成する。垂直的言語と水平的言語である。単純化すると、リズム言語とメロディー言語である。「戦争」言語と「平和」言語である。ただし、これは、極論である。本来は、各言語において、両極・対極が存在しているのであり、その様態に多様性があるのであるが。
 さて、このように、音声言語の構造を見ると、音声構造が、主観性を形成するのが理解される。そして、音声構造は、以上のように差異があるから、垂直主義的言語は、水平主義性を排出・隠蔽するし、水平主義的言語は、垂直主義性を排出・隠蔽すると言えるだろう。つまり、ここで、それぞれの様態において、構造的盲点・闇黒が発生するのである。ここでは、言語は、二極化して、偏向したものになるのである。そして、主観性も偏向するのである。即ち、英語的主観性は、垂直主義的で、水平主義を理解できないし、日本語的主観性は、水平主義的で、垂直主義を理解できない。(ここでは、単純化して、考察していることを強調したい。)簡単に言えば、子音アクセント主観性(能動性)と母音拍子主観性(受動性)は、互いに排除的になる傾向があるということである。これが、音声の差異である。
 結局、ポスト音声学、ポスト音声構造主義という視点が必要となる。不連続的差異論的音声学、脱構造主義的音声学、即ち、不連続的差異的対極相補音声学ということになるだろう。この視点から、日本人にとって、英語音声言語を受容する視点・意識が生まれるだろうし、それは、日本語にとっても創造的であろう。また、英語音声言語も、完成品ではなくて、偏差があり、相対的であることが理解されるのであり、多元的な英語音声言語が創造されると見ることができるのである。生成過程の英語であり、日本語である。これは、他の言語においても同様である。

2006年01月07日 (06:51)

「物質」や「心」とは、イデア界から見たらどういうものであろうか

後で、再検討するが、現象界において、「物質」と「心」の二元論が考えられる。しかし、メディア界では、両者の相補性が考えられる。これは、差異・ゼロ度を意味する。では、「物質」となるのは、何であり、「心」となるのは何か。イデア界では、差異1/差異2/・・・/差異nであり、差異と差異の間には境界があり、多元性が、いわば、即非状態で、「結晶」している。「鉱物」状態である。
 量子力学的には、差異が粒子であり、ゼロ度が波動であると考えられる。そして、粒子が「物質」となり、波動が「心」となるだろう。だから、「物質」と「心」は相補性の関係である。また、問題は、力である。境界がゼロ度となったときに、エネルギーが発生し、そこに力が生まれる。差異・ゼロ度全体がエネルギーである。E=mc^2である。mは質量であるが、これは、差異であり、c^2は、ゼロ度の「力」ではないだろうか。あるいは、「強度」ではないか。結局、このメディア界=エネルギーが、現象化して、「物質」と「心」を発動させると言えよう。
 ここでは、作業仮説として、mが「物質」に、c^2が「心」になるとしよう。「身体」と「精神」としてもいいだろう。つまり、心身とは、メディア界=エネルギーの発現であり、本来、不可分である。つまり、エネルギーがある側面では、「身体」ないし「物質」となり、ある側面では「心」ないし「精神」となるのではないのか。そして、現象界においては、これが、相対的に分離すると言えるのではないか。つまり、簡単に言えば、光を介して、「物質」と「物質」が連続化するのである。この光が時空間を構成するだろう。この光の時空間性が、「物質」と「心」を相対的に分離しているのではないだろうか。そう、正に、あらわれとしての「物質」と「心」であろう。結局、メディア界の差異・ゼロ度=エネルギーが直接の本体となる。しかし、イデア界においては、本来、差異と境界とが即非で「結晶」化していることを考えると、メディア界=エネルギーとは、差異・境界という不可分一体のイデア・理念の展開であると考えられるだろう。差異∞ 境界というイデア・理念が、原エネルギーであり、原「物質」・「心」であろう。つまり、ここでは、「物質」と「心」が高次に包摂されているということだろう。つまり、差異=境界であり、「物質」=「心」であろう。というか、超「物質」=超「心」としてのイデア・理念があると言えるのではないか。これは、境界化された差異、境界的差異ということであり、ここでは、無限速度で、差異=「物質」が存在しているのではないだろうか。無限速度の境界で差異が共立しているのではないか。この無限速度の境界の差異が、イデア・理念ということではないか。思うに、無限速度化された差異=「物質」が、イデア・理念ではないか。これが、プラトンの言う善の太陽、仏教の阿弥陀如来=無量光ではないのか。否、そうではなくて、差異=「物質」の無限速度化がイデア・理念であろう。
 ここで、整理しよう。メディア界において、差異・ゼロ度はゆらいでいる。粒子であったり、波動であったりする。これは、「物質」であったり、「心」であったりするということである。一種「分裂症」である。しかし、イデア界においては、このようなゆらぎ、相補性はなくなると考えられる。これは、イデア界の境界によって、差異が共立しているということだろう。境界的差異がイデア・理念ではないか。無限速度の差異がイデア・理念ではないか。差異はここでは、「物質」ととるのはミスリーディングではないだろうか。差異は原物質ないし超物質と取るべきだろう。アリストテレスの質料が、これに当たるのかもしれない。とまれ、無限速度の差異が理念・イデアとしてあり、これらが、イデア界全体の「太陽」を形成しているのではないだろうか。無限速度は超光である。ここは、超時空間である。超エネルギーであろう。原太陽・超太陽であろう。これが、大宇宙を形成するのだろう。原太陽・超太陽のメディア・現象的螺旋的展開が大宇宙であろう。イデア界の現象が大宇宙であり、銀河もアンドロメダ星雲も最遠の星雲もイデア界の原太陽の展開であろう。だから、思うに、一つの原太陽があると言っていいのではないだろうか。もっとも、これが、無数の不連続的差異の共立によるのである。
 今のところは、無限速度の差異が理念・イデアであるということで留めよう。当然、後で、再考したい。

2006年01月05日 (23:09)

検討問題:超越論的自然主義と多神教と不連続的差異論の関係

後で、検討したいが、今、予見を言うと、結局、「身体性」、つまり、身心性の問題になるのではないかと思う。デカルトのコギトは、確かに、特異性の指摘であったが、それを、近代的合理主義に向けた。デカルトを受けて、スピノザやライプニッツが、独自に展開した。後者は、微分・積分の方向であった。前者は、コギトを発展・進展させたと思われる。一言で言えば、能動・創造的コギトにしたことである。これは、メディア界的コギトだと思う。これによって、コギトは、真に、イデア界に通じることができるようになったのではないだろうか。デカルトのコギトは、偉大な端緒であったが、それで、とどまっているのではないだろうか。確かに、イデア界の不連続性を取りだしたのは言えるが、それからの発展の糸口がないように思える。
 それに対して、スピノザは、コギトにメディア界を付与して、実践的な方法論を与えたと思えるのである。つまり、想像力である。その後、カントが、想像力即ち構想力を総合力として、提起するが、それ以前にスピノザが提起していたのではないだろうか。もっとも、スピノザの想像力とは、想像力的理性・知性である。これを、スピノザは能動的観念と呼んでいるが、これが、本件の鍵概念となるだろう。これが、超越論的身体性であり、超越論的自然である。あるいは、超越論的経験と言えよう。これは、フッサールの超越論的現象学の先駆であろう。
 私が、日本の個の復活として、新多神教と言うとき、それは、これに相当するだろう。超越論的身体・自然・経験としての新多神教である。これは、もはや、信仰にはならないだろう。なぜならば、個的観念がそこにはあるからである。知的多神教と言えるかもしれない。これは、結局、自然的多元主義ということになるだろう。これが、新しい、日本のアイデンティティとなるのではないだろうか。

2006年01月04日 (20:33)

創造・能動主体的資本主義あるいは不連続差異的資本主義

個的多元主義的資本主義を考える。これは、哲学的には、どういうことを意味しているのだろうか。近代においては、資本家と労働者という二元論で考えられていた。二項対立である。しかし、ポストモダンの現在、この図式はもう崩壊している。不連続的差異論的に言えば、主客二元論・現象界的資本主義から、主客相補性・メディア界的資本主義(情報資本主義)に変容しているのであるし、さらに言えば、個・特異性的資本主義、即ち、イデア界的資本主義になりつつあるだろう。
 二元論が崩壊して、現在、結局、脱構造化された差異論、とりわけ、不連続的差異論というポストモダンの世界となっているのである。だから、個人も、意識をポストモダン化する必要があるのである。いまだに、近代主義の意識では、時代の動きに対応できない。資本主義と民主主義、資本家と労働者等々の主客二元論では対応できない。つまり、これまでのように主観性を否定・受動的にしておくのではなくて、主観性を肯定・能動化することが求められているのである。この創造的能動的主体が、私の考える個・特異性につながるのである。そして、この主体が資本主義に参与することになるのである。それは、資本主義内部での「仕事」であると同時に、不連続的差異的投資という形も取るだろう。つまり、創造的能動的主体的資本主義ということである。これが、共生共創的資本主義ということになるだろう。だから、ポストモダンの時代においては、創造的能動的主体性を構築しないと、取り残されるだろう。落ちこぼれるだろう。敗者となるだろう。ここでは、ポストモダン教育が必要である。主体・主観性の変容が必要なのである。結局、ポストモダン意識革命である。これが、ポストモダン資本主義を形成するのである。
 この点、日本の教育は、いまだに、近代主義的教育であり、致命的である。世界から取り残される。敗残者の日本となるだろう。

Awake, awake, Japan!
Arise, arise, new Japan!
Great darkness bears down on you.
There are darkness of mind and of institution.
You have to change your negative passive mind into positive creative one in order to make postmodern Japan.
Modernized Japan is too incompetent to cope with the comtemporary world.
Wake up and arise for the dawn of new "polytheistic" Japonesia of postmodern capitalism!
You are too lazy and dreaming.
You have to be rather a postmodern Asian wolf than a modern stupid sheep!
Life is Struggle!

▼ 急速に広がる格差社会の現実 ▼

 UFJ総研の試算によると、正社員の平均年収387万円に対してフリーターは4
分の1の106万円。生涯賃金では正社員の2億1500万円に対してフリーターは
5200万円とダンゼンの開きがある。この差は今年以降、さらに拡大することは間
違いない。政治評論家の本澤二郎氏が言う。
「日本社会でこれほど格差が開いた時代はありません。正社員になれない月収10万
円ちょっとの人は、結婚はおろか、国民年金、健康保険料すら払えない。これでは国
の根幹が崩れてしまいます。ところが竹中・小泉路線はそんな競争社会を奨励してい
るのですから、格差は広がるばかりです」
 公立の小中学校に通う児童・生徒のうち、文房具代や給食代が払えずに自治体から
援助を受ける子どもが、この4年間に4割も増えているという。東京・大阪では4人
に1人の親が子どもに給食代や修学旅行の積立金を持たせられないのである。小泉政
治が生んだ、この悲惨な現実は今年、さらに拡大する。

dailymail日刊ゲンダイから
[NGD:060105]大乱加速のドッグイヤー

2006年01月03日 (11:17)

日本新多神教へ向けて:日本の部族主義の思考構造について:いかに部族的盲目思考から脱するのか

脱亜入欧で、様々な欧米の思想を取り入れてきた日本ではあるが、一つ取り入れていないものがある。それは、個の思想である。近代主義を取り入れたが、デカルトの個の思想は取り入れていない。欧米の強さは、エゴイズムと同時に、この個の思想にあると私は考えている。後者が、前者の行き過ぎに対して、批判的機能を果たすのである。
 しかし、日本の場合、部族主義があるために、個の思想が排除されるのである。部族主義は、二元論であり、部族への同一性か、部族による他者差別かである。もっとも、日本のよさは、この部族主義をもたない、ほのぼのとして「庶民」の個が生きていることだろう。これは、日本多神教の末裔であろう。この点については、後で述べるとして、今や日本の未来にとっての害悪となっている部族主義を批判的検討しないといけない。
 日本の部族主義とは、一言で言えば、父権主義的部族主義である。これに西欧の近代主義が重なっているのである。つまり、近代主義的父権的部族主義、これが、日本社会の諸権力を構成しているのである。問題は、上述したように、ここでは、欧米文化の根底にある個の思想が欠落していることである。これが、いわば、日本の「権力」の致命的欠陥である。そのために、事象を分析的に知解できないし、また、個の思想のもつ内省・省察・自己考察性が欠落するのである。これは、はっきり言えば、愚である。盲点である。ここで、想像をたくましくすれば、日本が、太平洋戦争という大愚行を犯した精神的要因はここにあると思うし、バブルを生み出したのもこれであろうし、また、今問題の耐震強度偽装の問題にも、これがあると思われるのである。
 この近代的父権的部族思考から脱却しないと、日本は没落・滅亡するだろう。ここで、この思考の欠点を詳述しよう。実は、近代主義批判で、ほぼ済んでいるのであるが、ここで、確認しよう。
 近代主義思考とは、叡知の裏返しのような知である。ここでは、知覚は主に外界に向けられているのであり、自己内界は排斥されるのである。外界知覚が、意識の基盤となるのである。また、言語もそれへ向けられる。問題は、この主客二元論は、主観性に対して盲目で、客観性志向である点である。そして、主観性とは、自然的態度では、否定的なものである。つまり、受動的な感情・欲望によって作動しているのであり、簡単に言えば、反感によって作動しているのである。スピノザの『エチカ』から言えば、「悲しみ」の感情から発しているのである。この反感は、反動となるのであり、これによって、近代主義が形成されるのである。反感・反動的主客二元論である。D.H.ロレンスは、知性の基底には、憎悪があると言ったのは、この意味である。もっとも、知性は近代的知性である。
 結局、近代主義は、主観の反感・反動性に盲目であるのである。自己暴力性に盲目であるのである。他者に対して、攻撃的になるのである。そして、この自己盲目性が、いわば、狂気である。無知である。無明である。近代主義は、このように極めて欠陥のある思考である。
 ということで、この近代主義と父権的部族主義が結びついているのが、日本の権力・支配層である。 極めて危険であることがおわかりになるであろう。ここでは、父権的部族に属さないものを差別し、暴力的に排除する体制があるのである。これは、また、天皇制をイデオロギーとして、日本国家ナショナリズムを形成しているのである。(そして、これが、靖国神社と関係するのである。)
 この近代的父権部族主義は、欧米の個の思想を欠いている、一種全体主義である。これが、日本国民に、とりわけ、子供に破壊的な影響を与えるのである。学校問題、ニート・引きこもり・精神問題、幼児殺害等々の、社会問題の元凶はここにあると見ていいだろう。この日本の権力・支配の近代父権部族主義から脱しない限り、日本は、沈没するだろう。結局、日本の個の思想を肯定していかなくてはならないのである。
 日本の個の思想は、実は、日本多神教に本来潜んでいると思われるのである。森羅万象を肯定する日本多神教は、個的であり、同時に、多元的であると考えられるのである。つまり、日本的個の思想は、他者との共存・共生性を本来もっているのである。これは、日本文化・社会の本当の美点であると思われるのである。おそらく、イギリスにおけるケルト文化、北アメリカにおけるインディアン・「ネイティブ・アメリカン」の文化、イタリアにおけるエトルリア文化、ラテンアメリカにおけるインディオの文化、等に相当するものではないだろうか。日本の先住民文化が、日本多神教・庶民文化の基底・原基ではないのか。「縄文」(東アジア照葉樹林帯)・アイヌ・沖縄等々の文化につながる日本の根源・基層的文化が、無意識裡に、庶民層に、底流しているのではないのか。日本多神教文化が、近代父権部族主義の日本権力とは、異質なものとして存していると見なくてはならないだろう。(『古事記」の大国主は、日本的個の思想を体現している人物のように思える。)
 結局、これからの日本の針路とリンクして、日本人の個の思想を展開するには、この根源的な日本多神教(おそらく、東アジア、アジア、ユーラシア、アフリカ、オセアニア、南北アメリカの土着的多神教、そして、グローバルな多神教に通ずるだろう)を復活させなくてならないと考えられる。この日本多神教は、日本の大地・風土に根差したものであり、同時に、普遍的なものと考えられるのである。不連続的差異論的に言えば、特異性としての日本多神教である。そして、これが、普遍・叡知界であるイデア界に通じているのである。

Let Japanese polytheism resurrect! 
Let new Japanese polytheism be your singular thought!
Let Japanese fundamental culture awaken in your minds!
Awake, awake, Japan!
Tremendous danger threatens us.
The sun is fresh and new everyday.
Wake up to the dawn of New Japan!

2006年01月01日 (18:30)

ケルト的なものとイデア界:イデア・ロゴス・ヴィジョン

私見では、イギリス文学とは、濃厚にケルト的要素を含んでいる。(また、アメリカ文学にも、ケルト的要素がかなりあると思っている。また、ヨーロッパ文学にも、かなりあるのではと思える。)煩雑なので、固有名は出さない。
 さて、イギリス文学は、また、確かに、経験論的ではあるが、それ以外に、イデアリスムの要素があると思っている。イデア界から発想している面がある。この点では、ドイツ的と言ってもいいのだろう。しかし、ドイツ文学とは異なり、イデアリスムが、レッシングやシラー等のように発現することはない。経験主義とイデアリスムが混淆しているのである。
 ここで、ケルト的要素とイデアリスムの要素を突き合わせてみると、両者は通じているのではないかと思えるのである。ケルト的要素とは、超越論的自然主義のようなものである。妖精や魔術が出現するが、それは、自然と関係するが、自然を内在的に超越している。だから、超越論的自然主義である。そして、これが、イデアリスムと通じているということである。考えてみれば、イデア界とは超越論的自然である。気をつけるべきは、超越的自然ではないのである。超越神的ではないのである。現象学的である。結局、ケルト的超越論的自然主義とイデアリスムの超越論的自然性は同一ではないかと思われるのである。つまり、ケルトもイデアリスムも、超越論的自然主義ということである。
 そして、これに経験論を加えると、超越論的自然主義的経験論となる。これが、イギリス文学のエッセンスと言えるだろう。
 さて、さらに、私見では、イギリス文学は他の文学と異なる点は、視覚と関係していることである。これは意外におもえるかもしれないが、事実である。フランス文学よりもはるかに視覚性に関係しているのである。詩人であり、版画家であるウィリアム・ブレイク、美術・建築の評論のある作家ジョン・ラスキン、モダン・デザインの創始者として有名であるが、ファンタジー作家であるウィリアム・モリス、美術に詳しかった、また、晩年絵を描き始めたD.H.ロレンス等々いるのであり、また、ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、鮮明な映像を読み手に喚起するのである。(私はイギリスの文学者は、文学・言葉で、描画していたのではと思うのである。20世紀以前のイギリスの画家よりも、文学者の方が、ある意味で、絵画的だったと思えるくらいである。)この視覚性に関してだが、これは、ヴィジョン・心像と言っていいだろう。
 さて、さらに、西洋文学の表現の特徴であるアレゴリー性を考えると、それは、簡単に言えば、抽象的なものを視覚化することである。そして、イギリス文学には、このアレゴリー性がかなりある。結局、ヴィジョン性とアレゴリー性がイギリス文学の特性と言えるだろう。
 では、先にあげた超越論的自然主義的経験論とこのヴィジョン・アレゴリー性との関係をどう見るのかと言うと、これは、イデアとヴィジョンが通じていると考えることで説明ができると私は考えている。イデアとは、観念ではあるが、本来、ヴィジョンである。この心像的ヴィジョンのイデアがあり、無意識のうちに、それを根拠にして、作家は創作しているのではないかと思われるのである。また、語源的には、イデアideaとヴィジョンvideoは同一である。そう、ここにロゴスを加えてもいいだろう。即ち、イデア・ロゴス・ヴィジョンである。
 ということで、イギリス文学のケルト性、イデアリスム性、視覚性を、結びつけることができた。結局、超越論的自然主義・イデアリスム・ヴィジョン的経験論的文学ということになろう。

p.s. イデアリスムではなくて、プラトニズムと言う方が適切である。イギリスに科学や数学が発展したのは、この要素が強いと思う。
参考:ケンブリッジ・プラトン学派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

2006年01月01日 (14:08)

iPodのデザイナーはイギリス人であった。確かに、ユニークでシャレている。IT革命である。

iPodのデザイナーはイギリス人であった。確かに、ユニークでシャレている。IT革命である。
テーマ:メディア界のフロンティア
iPodのデザイナー、アイブ氏は、イギリス人であった。iPod以外のmac pcもデザインしているのである。デザインが確かに一風変わっているし、シンプルでシャレている。私は、デザインが気に入って、ボンダイブルーのiMacを購入したのである。また、それ以降、ずっとマックの製品を購入している。そうすると、このアイブ氏のデザインに私は魅かれ、共感したということになる。アイブ氏は、ロンドン生まれということであるが、Iveは、コーンウォールのセント・アイブズ市St Ivesを想起する。何か、ケルトの血が流れているのではないだろうか。ケルト文化とは、自然指向である。また、曲線指向である。やはり、ケルト的なのではないだろうか。
 St Iveは、St Ivoともいい、フランスのブルターニュ出身である。ブルターニュとは、大陸ケルトの地である。すると、Iveという名前は、やはり、ケルトに関係する。アイブ氏には、ケルトの血が流れていると思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%BA
http://en.wikipedia.org/wiki/Celt
 因みに、イギリス文化ですぐれたものは、たいがいケルト的である。ビートルズもケルトの血である。
http://saintspreserved.com/Ivo.html#history
http://www.stthomasirondequoit.com/SaintsAlive/id762.htm
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja-JP%3Aofficial&q=St+Ivo&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

p.s. 
ケルト文様は、黄金比(らせん文様を含めて)や不連続的差異論の三層論(三つ巴文様)やと関係するのではないだろうか。
http//www.eigotown.com/culture/special/backnumber01/special_2001031200_p4.shtml_
http://en.wikipedia.org/wiki/Book_of_Kells
http://www.golden-bough.com/celt.html
http://quwa.hp.infoseek.co.jp/page0311.htm
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/12/post_48d7.html
http://www.slipware.jp/slip.htm
http://www.chitanet.or.jp/users/10010382/index.html-ssi
http://www4.osk.3web.ne.jp/~hkido/col/88b.htm
http://www.failyplanet.com/link.htm
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai02/tz0204.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~miki-s/html/travel02.html
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/CELT1.html
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E6%96%87%E6%A7%98&start=0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP:official

イギリス文様
http://www.ne.jp/asahi/fuse/abraham/europe/europe-mid/britain/uk-culturre/uk-design/uk-design.htm

ケルト十字は、イデア界を象徴ではないか。
http://www.celtarts.com/celtic.htm

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米アップル社の「iPod」デザイナー、大英勲章を授与

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 12月30日、米アップル社の「iPod」デザイナーに大英勲章が授与された。11月撮影(2005年 ロイター/John Gress)

 [サンフランシスコ 30日 ロイター] 米アップル社の大ヒット商品、携帯型デジタル音楽プレーヤー「iPod」のチーフデザイナーで同社のデザイン担当上席副社長、ジョナサン・アイブ氏(38)が30日、英国のエリザベス女王による、叙勲対象者リストに選ばれた。
 ロンドン生まれのアイブ氏は大英帝国勲章(CBE)を授与された。
 同氏はアップル社での約13年間で、「iPod」以外に、「iMac」、「iBook」やコンピューターのPowerbookシリーズを製作したチームのリーダーを務めた。
(ロイター) - 12月31日17時19分更新

関連トピックス: Yahoo!トピックス iPod Yahoo!トピックス イギリス王室 Yahoo!トピックス 美容、ファッション

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051231-00000455-reu-ent
http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/4569912.stm

2006年01月01日 (02:03)

基本的な4つの力と四大(地水火風):イデア界の4+1=5つの虚力の原構造

ここでは、詳述せずに、ポイントだけを考えよう。プラトンは、四大と正多面体とを結びつけている。
1)火=正四面体(正三角形の面)
2)空気・風=正八面体(正三角形の面)
3)水=正二十面体(正三角形の面)
4)土・地=正六面体(正方形の面)
そして、世界全体が、正十二面体(正五角形の面)である。
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-03/zone03top.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Platonic_solid
そして、ケプラーがこれを踏襲して、独自の宇宙論を立てたのであり、そこから、ケプラーの法則が生まれたのである。ある意味では、瓢箪から駒である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC
 とまれ、私は、これらが、物理学の基本的な4つの力と対応しないのかと思っているのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fundamental_forces
そして、正十二面体が、ダークエネルギーに対応しないかと思うのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dark_energy
 不連続的差異論から見ると、差異の垂直・水平の対極性があり、垂直の排斥力と牽引力、水平の排斥力と牽引力で、差異の4つの力が考えられ、また、4つの力を含む全体の力が考えられる。だから、4+1=5つの力があるということになる。これが、根源的な原動力・発動力である。だから、ここから演繹すれば、4+1=5つの力の構造が発生すると言えるだろう。これが、4つの力とダークエネルギー、四大や五大に対応するのか云々というよりは、この原構造が前提として存在し、それが、メディア界、現象界において、展開されると述べることが、エッセンシャルだと思う。そう考えれば、物理学の4つの力、ダークエネルギーという考え、プラトン立体、四大・五大という考えは、それぞれ、この原構造に一致するということはできるだろう。つまり、構造の問題としては、一致が見られるということであり、それはそれで限定するのである。
 そして、それ以上のことは、精緻に考察していくべきである。つまり、総論から各論ということである。

p.s. 
1.プラスのx軸とマイナスのx軸があるから、プラス5とマイナス5の力があることになるだろう。10(とう)の力である。しかしながら、プラス5+マイナス5=10全体の力が発生するだろう。すると、11の力となるだろう。超ひも理論では、10次元であったが、M理論では、11次元である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6%E7%90%86%E8%AB%96
http://en.wikipedia.org/wiki/Superstring
2.物理学の基本的な4つの力とは、基本相互作用をもっていることであるが、仮定されたイデア界の4つの力も相互作用をもつのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fundamental_forces

2006年01月01日 (01:46)

何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのか:過渡期としての近代とポストモダン革命:補正2

何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのか:過渡期としての近代とポストモダン革命:補正2

近代において、古代宇宙論(コスモス論)が崩壊して、太陽中心の宇宙という物質主義的宇宙観が進展したということができる。コスモスの崩壊である。ユニヴァースが始まったと言えるだろう。
 簡単に言えば、コスモスと叡知が結びついていたが、ユニヴァースは、近代的知性と結びついている。これが、西欧近代が、叡知を失った理由である。コスモスからユニヴァースへの転換である。つまり、これは、叡知的宇宙から物質的宇宙への転換である。この問題は複雑であるが、簡単に言えば、叡知の力の宇宙(コスモス)から物質の力の宇宙(ユニヴァース)へとパラダイム変換したことである。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560024162/250-8960880-5103431
 わかりやすく言えば、宇宙が、なんらかの「精神性」をもったものから、数量化できる物質だけから構成されるものへと変換したということである。そして、この結果、近代的科学・唯物論的宇宙観が形成されたのである。これが、西欧近代における、叡知の喪失の事態である。これは、主客二元論と平行し(デカルト)、第3のものを喪失したのである。ただし、事態は、単純ではなくて、近世においては、この物質的理性と神の理性とが、一致していたのであるが、後に、分離して、神の理性が消失するのである(神の死)。つまり、本来は、神の理性と人間の理性とがあったわけであるが、後者中心になり、前者が消失したのある。つまり、三元論から二元論への転換がここにはあるのである。
 これを不連続的差異論から見るならば、メディア界の喪失であろう。イデア界と現象界の二元論となったのである。キリスト教的に言えば、聖霊の喪失であり、父と子の二元論の宗教となったのである。芸術的に言えば、想像力の喪失である。このようなコスモスの崩壊・喪失によって、叡知の伝統が断たれたと考えられるのである。【p.s.  ここは、もう少し慎重に述べる必要がある。近代において喪失されたものを、ここでは、メディア界と述べているが、しかし、同時に、イデア界が喪失されたと言うことも正しいのである。どちらなのか。近代的合理主義は、想像力を排斥しているのであり、メディア界の排除となり、同時に、イデア界の喪失となるのである。メディア界とイデア界の両方を喪失したと言える。だから、ここで、「イデア界と現象界の二元論」となったと述べているのは不正確なのである。訂正したい。正しくは、メディア・現象境界(言語界=超越論的形式)と現象界の二元論になったのである。つまり、カント的になったのである。あるいは、悪魔的になったのである。このメディア・現象境界が悪魔・ルサンチマン・憎悪領域なのである。ここをエポケーしないといけないのである。】
 しかしながら、この叡知の喪失は、単に否定的なものだけではなかっただろう。これは、デカルト哲学の問題である。ここに近代の意味が集約されるだろう。即ち、コギト主義である。個的合理主義である。近代以前までは、神の理性が、宇宙を説明していたが、コギト主義となって、個から、正確に言えば、個の特異性から、森羅万象を説明しなくてはならなくなったのである。これは、実に、認識の大革命、パラダイムの変換であった。カントが、コペルニクス的転回と自身の哲学を呼んだが、実は、これは、デカルト哲学に発していると言うべきだろう。それまで、神の理性、神の叡知が主導的であったが、コギト革命の結果、コギトが主導的となったのである。そして、このコギト主義に、先に述べた主客二元論、物質主義・唯物論が重なるのである。
 結局、西欧近代における叡知の喪失とは、単に否定的な意味だけでなく、積極的な意味、即ち、コギト主義という意味があったのである。何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのかという問題は、こういう意味をもつのである。これは、人類革命なのである。神の理性、神の叡知から人間の理性、人間の叡知への転換を意味するのである。しかし、これは、根源的次元の喪失をともなったのである。
 整理すると、近代的科学において、神のコスモスから人間のユニヴァースへの転換があり、コスモスの叡知が喪失した。それは、メディア界、想像力の喪失であった。しかし、それは、神の理性から人間・主体の理性・コギトへの転換を意味していたのである。これは、一般性から特異性への転換を意味するのである。つまり、一般的叡知が解体して、特異性が出現し出したのである。不連続的差異論から見ると、イデア界の本来の不連続的差異の特異性が発現し出したのである。進化というよりは、進展である。イデア界の進展としてのコギト革命である。
 結局、叡知の喪失とは、イデア界の必然的進展であり、一種の忘却である。即ち、特異性は、近代的二元論の装いをしたのである。特異性の現象界化の徹底ということである。イデア界の現象界化への徹底である。結局、コギト主義は、イデア界の叡知の必然であったのである。叡知の喪失とは、叡知の展開であったのである。叡知の現象界化、これが、西欧近代における叡知の喪失の意味である。フッサールの自然的態度である。ハイデガーの言う存在忘却にほぼ当たるだろう。つまり、不連続的差異論から見ると、1/4回転によってメディア界が発生し、さらに、1/4回転によって、現象界が発生して、イデア界がすっかり裏返しになり、イデア界を消失するのである。しかし、これは、イデア界自体の発現なのである。自己隠蔽的発現なのである。つまり、イデアの影としての現象・仮象なのである。西欧近代とは、この徹底であるということである。これは、自己否定的発現である。自己否定的同一性である。これは、暴力・権力・破壊・狂気的である、これまで何度も指摘したように。
 結局、西欧近代とは、ニーチェが言うような過渡期であったのである。イデア界の現象界への自己否定的転化の徹底化であったのである。ここでは、積極性と反動性が併存しているのである。
 さて、今やポストモダン革命の真っ直中であるが、結局、何が、近代主義からの転換の駆動力であるのか。私は、何度も、資本主義は、差異から発動していると述べた。コギト主義も差異・特異性によって発動しているのである。つまり、近代とは、不連続的差異・特異性によって駆動されていたのであり、それが、現象界という衣をまとっていたのである。結局、震源である不連続的差異・特異性・イデア界は、近代の枠組・フレームワークを破砕・ブレークせずにはいないということなのである。そして、今日、それが実現して、ポストモダン革命が驚異的に進展しているのである。近代が解体するのは、必然であったのである。それは、過渡期だったのである。近代は意外に短い時代だったと言えよう。16世紀から20世紀にかけての、約4世紀が近代だったのである。
 もう少し、精緻にこのポスト近代革命について見ると、不連続的差異・特異性の発動・発現としてのコギト主義があり、それが、主客二元論の近代諸科学を生んだのである。しかし、それは、表面的な学に過ぎなかったのである。なぜならば、ベースの不連続的差異・特異性を排斥しているからである。しかし、これは、「自己主張」を当然行い、その結果、近代主義が瓦解するのである。この破壊の獅子吼がニーチェであった。また、先駆として、ブレイク、シュティルナー、ドストエフスキー、キルケゴール等をあげていいだろう。ニーチェの後、フッサールがポスト近代の理論を打ち立てたのである。
 また、物理学は、大天才のアインシュタインによってポスト近代的科学が誕生し、量子力学が決定的にした。そして、世界戦争の大災厄を越えて、フランスで、構造主義革命以後、ポストモダン革命が再燃したと言えるだろう。ポスト構造主義、「ポストモダン」である。そして、冷戦の終焉後、資本主義のグローバリゼーションが発動し、ポストモダン革命が忘失される。しかし、グローバリゼーションは、近代とポストモダンの折衷である。帝国主義性は近代主義であり、新自由主義は、ポストモダン的である。即ち、近代的資本主義のもつ集団的特権性を破壊するのである。これも、不連続的差異・特異性から発動していると考えることができるだろう。結局、ポストモダン革命が資本主義にも進展しているのである。ポストモダン資本主義であるが、これは、不連続的差異的資本主義と言ってもいいだろう。ここでは、資本が不連続的差異化、ミクロ化すると言えよう。そして、ここから、新しい民主主義が創造されるだろう。不連続的差異資本の共立による民主主義である。不連続的差異的資本共立民主主義である。人間は、不連続的差異的資本市民となるだろう。イデア界・メディア界・現象界の循環叡知が、資本となり、社会・世界・自然を環流するだろう。そう、近代の無明を超えた叡知資本主義とも言えるだろう。

p.s. 先に、本件の問題に、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を結びつけたが、説明に飛躍があったので、ここで省いた。しかしながら、おそらく、両者は関係している。その点については、後で、検討したい。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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