2006年02月28日 (15:31)

特異性とコギト/スム:メディア界・メディア空間の3層併存性:特異性・相補性・同一性の併存空間

直観では、「我在り」=身体は、「知」をもっている。「我思う」=心の「知」とともに2つの「知」があることになる。この二重性をどう捉えるべきか。
 端的に言えば、先に述べたことを繰り返すことになるが、《コギト》と《スム》は相補性を形成しているということになる。これは、正に、スピノザの心身平行論と一致するのである。つまり、《コギト》の「知」と《スム》の「知」は、相補性の「知」を成しているということになる。「我思う」は「我在り」と対になり、言わば、対極知(対知)となっているのである。(思うに、ヌース理論は、この対極知(対知)を、対称性の論理で徹底した理論ではないだろうか。)
 直観では、「我在り」とは、特異性である。問題は、「我」である。単なる「在り」ではないのである。この「我」が、「我思う」と関係していると思われるのである。ここでは、正に、中国・東アジアにおける陰陽の様相を見るべきである。即ち、「我在り」の内部に「我思う」が存し、また、「我思う」の内部に「我在り」が存するということを考えるべきではないか。おそらく、「我在り」=陰、「我思う」=陽であろう。
 さて、「我在り」を特異性と言ったのであるが、ならば、当然、「我思う」も特異性になるのである。つまり、「我思う」∞「我在り」(∞は、陰陽性ないし相補性の記号とする。メビウスの帯・輪と見てもいい。)は、特異性でもあるということになる。このことを詳しく見ていこう。 
 問題は、複雑である。我思う/我在りとは、不連続的差異論から見たら、どの領域に位置しているのだろうか。相補性であるから、当然、メディア界、メディア空間である。しかし、現象界・現象空間(近代空間)にも存していないのか。「我思う」は、現象空間を知覚・認識するだろう。現象自我(近代的自我)は、同一性意識をもつ。すると、ここには、2つの自我が併存していることになる。そうなのだろうか。メディア界・特異性の我が、現象界の我でもないのか。例えば、テーブルの上にコーヒー・カップがあるという現象を考えよう。これを、現象界の私が見ている。しかし、同時に、私は、メディア界の私でもある。「この」コーヒー・カップは、同一性でもあるし、同時に、特異性でもある。しかし、一般には、同一性で処理するのである。現象界の私とは、同一性の私である。健診を受ける私は、医学という同一性の科学の検査の下にある。私の身体は、同一性の身体である。
 というように考えると、「我」とは、特異性であると同時に、同一性である。二重性があるのである。(ここで、ヌース理論が、認識は、現象よりも1次元高次にあると説いていることを想起する。確かに、メディア界は、現象界よりも、1次元高次にあり、そこから、現象界を見るということは、考えられないことはないように思えるが。しかし、やはり、そういうのは、誤りではないだろうか。メディア界は、内在的超越の領域、超越論的領域であり、高次とは言え、現象界を包摂した高次であると、この場合、見るべきであると思う。ヌース理論は、超越性と超越論性を混同している面があるように思うのだが。)だから、メディア界・メディア空間の「我」は、現象界・現象空間の「我」を包摂していると見ることができる。
 では、同一性の我を包摂したものとして、特異性の「我」をさらに検討しよう。これは、当然、メディア界・メディア空間の構造の問題となる。メディア空間とは、実は、3層性をもつ。即ち、

1.イデア/メディア境界(IM境界)
2.純粋メディア空間
3.メディア/現象境界(MP境界)

の3層構成である。単純に考えても、メディア空間とは、3元論である。そして、特異性の「我」とは、この3層にすべて関わると見るべきではないだろうか。これをどう見るべきか。これは、地層の多層性として捉えるとわかりやいように思える。

3.dd1ーdd2ー・・・ーddn
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2.dd1∞dd2∞・・・∞ddn
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.dd1/dd2/・・・/ddn

3が、基層であり、その上に2と3が堆積するのである。しかし、問題は、これらを、分離してはいけないということではないか。2とは、境界ゼロ化による3の変容であるが、しかし、実は、3を単に隠蔽しているのである。つまり、2とは、同時に3でもあるのである。ゼロ化とは、このような矛盾を併存させるのである。不連続性であり、且つ、連続性であるという事態・事象がここには存しているのであり、西田哲学の絶対矛盾的自己同一がここには成立しているのである。だから、2は、3を隠蔽的に内包しているのである。換言すると、3は2の暗在系である。つまり、2と3とは次元が異なるのである。3が高次元であり、2がそれより1次元低次元である。
 同様に、1は、2を隠蔽していると言えよう。2は1より1次元高次元にあるのであり、2と1とが併存しているのである。即ち、相補性と同一性との併存、絶対矛盾的自己同一がここでも成立しているのである。1を、特異性とするならば、

3.同一性
・・・・・・
2.相補性
・・・・・・
1.特異性

となり、これら三者は、絶対矛盾的自己同一を成しているのである。三者異質なものが併存している様相にあるのが、メディア空間である。だから、特異性即非相補性即非同一性である。(なお、即非は、鈴木大拙の仏教哲学術語である。即は、同一であり、非は不同一である。それらが一致しているという事態を表現しているのである。)
 ということで、上述した「我」の特異性の問題がこれで解明できたと言えよう。即ち、コギト/スムの哲学とは、本来的には、メディア空間の哲学であり、メディア空間のもつ特異性を帯びているから、「我」は特異性なのである。
 この結論から、ポストモダン理論が新たに解明されることになる。先に、ポストモダンには、イデア性、特異性があると述べたが、そのことを含めて、明確な定義ができるのである。
即ち、ポストモダン理論とは、不連続的差異論で言う《メディア界》ないし《メディア空間》の領域の理論であり、それは、3つの不連続な異質な層が矛盾同一的に併存している領域における様相の理論なのである。しかしながら、通俗には、一般には、皮相に、上っ面に、2と3の局面でしか捉えていず、極めて不十分な、短絡的な理解が行われたのであり、流行に堕したのである。ただ、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学においては、特異性が明確に言及されてはいたが、それと連続的差異=微分とを混同していたので、ポストモダン理論としては、混濁・混乱した欠陥のある理論になってしまったのである。この欠点を、不連続的差異論は、超克して、ポストモダン理論を合理論・整合化したと考えられるのである。ポストモダン理論の新生である。

2006年02月27日 (21:39)

ポストモダン時代の近代的自我という「精神病」とポストモダン革命の構造

ポストモダン時代における近代的自我という「精神病」の構造分析:その2:不連続的差異論の視点から

本件について、先に、賦活された《メディア》エネルギーを、近代的自我は、反動的に排斥して、「分裂症」的になると述べた。それは、内在する《メディア》エネルギーと近代的自我との乖離を意味するのである。しかしながら、直観では、近代的自我の反動性は、なにか、《メディア》エネルギーとつながっている印象があるのである。これをどう説明できるだろうか。
 これは、《力》と境界の問題だと思う。メディア空間(メディア界の意味で使用する)から、1/4回転して、現象空間(現象界の意味で使用する)へとねじれる場合、ゼロ度が、さらにゼロ化して、連続的差異が無化して、同一性が生起するのである。この同一性が意識においては、近代的自我となると考えていいだろう。ここで、メディア/現象境界が、メディア空間と現象空間を隔てているのであり、近代的自我にとっては、メディア空間は不可視である。換言すると、メディア空間は超越論的領域に存しているので、現象空間からは、不可視、非存在なのである。
 さて、他の問題は、知覚・意識・認識の問題である。イデア空間(イデア界のことである)の不連続的差異の、他の不連続的差異への志向性が、原意識である。原知性である。そして、メディア空間においては、差異は連続化しているので、ある差異の他の差異への志向性とは、双方向性になるだろう。(イデア空間においては、差異と差異とは不連続であるから、志向性は一方的になっているのである。)だから、例えば、連続的差異cd1と連続的差異cd2との志向性は、cd1⇔cd2となり、cd1がcd2に、cd2がcd1に「生成変化」(ドゥルーズ&ガタリの用語)になると言えるのである。簡単に言えば、cd1=cd2という等価関係が成立する世界である。つまり、差異と同一性とが一致する矛盾同一の世界である。あるいは、cd1とcd2とが共鳴する世界と言ってもいいのである。多様体の世界である。「内在平面」(ドゥルーズ&ガタリ)の世界である。ここでは、主客融合しているのである。主客一体の世界である。イデア空間での意識を不連続的志向意識と呼ぶならば、メディア空間での意識は連続的志向意識と呼べるだろう。
 次に、現象空間の意識であるが、ここでは、差異が消滅して、同一性の意識があるだけである。差異の志向性を意識と呼んだのであるが、ここでは、差異が消滅しているのだから、「無」意識である。無差異の「意識」である。これを、同一性無意識と呼ぼう。つまり、近代的自我とは、自我において無意識なのである。自己に対して無意識なのである。自我不明である。自我「無明」である。意識が消滅しているので、近代的自我は自分が何ものか不明である。本当のアイデンティティの喪失があるのである。差異意識が消滅して、同一性意識がここにはあるのである。それが近代的自我である。ここには、差異が無いので、他者がないのである。自我同一性が支配的である。思うに、これは、超越神のあり方と等価であると考えられるのである。自我同一性を世界に見るのである。そう、ヘーゲル哲学の世界である。マルクスの『資本論』の世界である。『ハムレット』のエルシノアの宮殿の世界である。カントの超越論的形式の世界である。貨幣形式の世界である。時価総額の世界である。父権制の世界である。構造の世界である。
 近代的自我・現象空間の同一性意識の世界は、どういう力学構造から発生するのだろうか。ゼロ・フィールドであるメディア空間(思うに、場の量子力学とは、ここを対象としているのではないだろうか)における力は、極性の力である。+と−の力である。(4つの力等はここから発現しているのだろう。)
 では、このメディア空間の極性力が、1/4回転するとはどういうことなのだろうか。それは、極性力がゼロ化して、同一性力となるということだろう。
cd1⇔cd2⇔・・・⇔cd3から、cd1ーcd2ー・・・ーcdnへと変換するのである。この二回目の1/4回転の力が、同一性力を生んだのである。とまれ、この同一性力は、メディア/現象境界を強固な壁としているだろう。現象の背後には何もないのである。ただ、現象平面(現象地平)があるだけである。MP境界はいわば絶対的な壁であり、メディア空間は排斥・隠蔽されている。この同一性意識=近代的自我は、二回目の1/4回転が能動的な場合は、単に二項対立的であるが、反動的ではないだろう。しかし、ポストモダン時代においては、三回目の1/4回転によって、反転するのである。即ち、現象空間を構築した同一性の力が失われて、近代的自我・同一性意識に、いわば、ひびが入るのである。無数に分裂すると言っていいだろう。つまり、近代的自我は、連続的差異の多様性に分裂するのである。これは、再メディア空間化と言っていいだろう。この点に関して、ドゥルーズは、時間の差異ということで、カントの純粋理性批判を活用して、才気をもって説明している。ドゥルーズは純粋時間によるひびの発出を述べている。しかし、この純粋時間とは、何だろうか。それは、ゼロ・フィールドの時間ではないだろうか。現象空間の時間を同一性の時間とすれば、それは、差異の時間、連続的差異の時間である。それは、光速の時間なのだろうか。それとも、超光速の時間なのだろうか。ここは、量子力学の時間とは言える。これまでの考え方からすれば、E=mc^2の世界である。E=hνの世界である。そうならば、光速の時間の世界である。そうすると、純粋時間とは光速の時間である。光速時間によって、近代的自我・同一性の意識にひびが入り、無数分裂するのである。多様体の世界である。
 では、この三回目の1/4回転によって、意識はどうなるのか。ポストモダンの意識とは何か。主客の相対主義がここで発生する。相補性の世界である。脱構築の世界である。しかし、これは、ポストモダン意識の一面に過ぎない。この問題は難しい。ここでも、また、デカルト哲学に返って、考えないといけないと思う。デカルト哲学は、コギト(我思う)とスム(我在り)の哲学である。自我認識と自我存在を統一した哲学である。問題は、「自我」である。これは、近代的自我であるばかりでなく、これまで述べたように、特異性に関わるのである。近代的自我は同一性意識であるが、コギトの「自我」はそれだけではない奥行きをもつのである。コギト・エルゴ・スムの哲学とは、自己認識と自己存在の結びつきを述べているのである。主観と客観との相互関係を述べているのであり、主観と客観の二元論である近代的合理主義や近代的自我を述べているのではないのである。つまり、デカルト哲学は、確かに、結果としては、近代的自我、近代的合理主義の生んだのであるが、出発点、基本、原理は全く別のものである。それは、主観と客観の相互性を探求する哲学なのである。(だから、松果体に心身結合の場を求めたのであろう。)コギト/スムの哲学とは、心身哲学なのである。簡単に言うと、コギトが心であり、スムが身体と見ればいいのである。(こう見ると、スピノザまで後一歩である。)心即身体である、これが、デカルト哲学の神髄だと思う。これは、正に、不連続的差異論で言うメディア空間ないしメディア時空間の様相である。ならば、デカルト哲学は、メディア時空間の自己意識を探求したと言えるだろう。《メディア》としての自己意識・コギトである。結局、ポストモダンにおいて、近代的自我・同一性意識が解体しても、この《メディア》の自己意識は残るのである。この《メディア》の自己意識とは、単に相対主義の意識ではありえない。なぜなら、あくまで、一人称の意識であるからである。これは、同一性としての自我ではなくて、特異性の自我である。自我ではなくて、「わたし」の意識なのである。特異性としての「わたし」である。
 では、何故、コギト/スムの哲学は、特異性の哲学であると言えるのか。その根拠は何か、である。それは、懐疑論にあると思う。他のすべてを疑っても、疑う私を疑うことができないとデカルトは言う。「疑う私」とは何か。それは、絶対的自己の根拠である。他をすべて懐疑し、自己だけを懐疑できない「私の思惟」とは、絶対的根拠としての「私の思惟」である。だから、これが、「我在り」となるのだ。いわば、絶対的な私の意識である。これは、一般化できない意識である。私固有の意識である。この私固有性こそ、単独性であり、特異性であると言えよう。この単独的自我の意識が、ポストモダン時代において、近代的自我が解体しても、岩のように残るのである。確かに、主客相対主義=相補性が発生するが、それの基底に単独性・特異性の自我が存しているのである。つまり、ポストモダンは、二重構造であり、表層が主客相対主義であり、深層が単独性・特異性の自我主義なのである。皮相なポストモダン・ポスト構造主義は、表層しか見ない。それは、流行に終わったのである。しかし、いわば、真打ちとしてのポストモダンがあるのであり、それが、単独性・特異性のポストモダンである。そして、それは、キルケゴール・ニーチェ・フッサールの哲学で表現されているものであり、それを不連続的差異論が明確に合理論化したのである。結局、単独性・特異性のポストモダンとは、《メディア》空間から《イデア》空間に回帰するのである。これは、必然である。何故なら、《イデア》空間という原動界・根源界が新たな1/4回転で、そのように志向しているからである。絶対超越論的な《力》(=《無》=「神、神々、神仏」)が、ミクロコスモスに、マクロコスモスに作動しているからである。スピノザが自由即必然と言ったが、これは、巨視的に、正しいだろう。そして、微視的な偶然の要素をポジティブに活用すべきである。
 最後に、簡単につけ加えると、時空間と認識の関係の問題である。ヌース理論では、空間次元の一つ高位の次元を認識次元としている。例えば、時空4次元に対して、認識は第五次元となるのである。この問題は実に核心的で、エッセンシャルである。ここで、直観を言えば、というか、これまでの考えでは、知即存在としての理念を、あるいは、知と存在とを包摂する理念を基礎としている。だから、時空間自体が、認識をもっていると言っていいように思えるのである。その認識を1次元高次にするのかどうかは問題である。これは、視点の問題である。例えば、イデア界の最初の1/4回転において、差異の境界がゼロ化して、連続化するが、このとき、差異自体は視点・認識をもっているだろう。光速の視点・認識である。つまり、光と視点・認識は同一と私は考えているのである。私たちが思考するとは、光が思考していると、私は考えるのである。ヴィジョン、イデア、イマジネーション、直観、それらは、光に関係するのである。だから、光より1次元高次の視点の次元を考える必要があるのだろうか。つまり、光は、存在であり、且つ、知ではないだろうか。量子が、粒子であり、波動であるというのは、このことではないだろうか。そう、スピノザの心身平行論に倣えば、思惟の次元と延長の次元があり、それらは平行しているということである。量子で考えれば、確かに、延長の次元があり、また、思惟の次元があるということになるだろう。しかし、量子の思惟とは、人間の思惟ではなくて、量子自体の思惟であり、1次元高次の視点=思惟を想定する必要がないのではないだろうか。つまり、差異に内在する視点・知で済むのではないだろうか。換言すると、差異は、延長として現出するし、同時に、思惟としても現出するということであろう。延長としては、量子・光子であり、思惟としては、視点・認識ということではないだろうか。思惟と延長の相補的二重構造があるのだろう。この思惟の次元を延長の次元よりも、1次元高次と見るべきなのだろうか。私の考えでは、思惟即延長であるから、両者同次元にあると思われるのである。もし、視点・認識が一次元高次にあるならば、それは、観念論になるのではないだろうか。超越論ではなくて、超越主義になるのではないだろうか。ヘーゲル哲学や超越神的発想になるのではないだろうか。あるいは、霊的世界観に通じるのではないだろうか。

2006年02月27日 (16:11)

ポストモダン時代における近代的自我という「精神病」の構造分析

近代的自我というパラノイア性については、既に論じ尽くした観があるが、ここでは、それを、不連続的差異論からより精緻に構造分析したい。
 既に、問題は、メディア界から現象界への捩れによって発生すると述べている。しかしながら、近代的自我が精神と物質の二元論を作った点を的確に構造化しないといけない。前近代と近代の違いは、メディア界の有無ではないだろうか。中世においては、メディア界が活動していて、主客の連続性があった。ルネサンスは、その個的発展と言えるだろう。そして、近代においては、主客が分離するのである。これは、メディア界から現象界への「捩れ変換」において、メディア界を決定的に隠蔽したことを意味するだろう。これは、イデア界から見ると、1/2回転だろう。ガウス平面への直交方向への捩れを無視して、ガウス平面上で考えると、プラスX軸がマイナスX軸へと変換するのに等しいだろう。そして、プラスY軸がメディア界に相当する。そして、マイナスX軸は、現象界で、プラスX軸のイデア界とは180度回転した正反対の、逆さまの位置にあると言えるだろう。これが、近代的自我の位置である。そして、これは、不連続であれ、連続であれ、差異のまったくない、同一性の世界である。同一性の個体の世界である。揺らぎゼロの世界である。2項対立の世界である。善悪二元論の世界である。そして、自己中心主義(「自己中」)・利己主義の世界である。冷戦の世界である。
 思うに、ガウス平面において、さらに1/4回転する。それは、270度回転である。それは、最初のメディア界と正反対の位置にある。しかし、ここでは、志向性は、イデア界の方向にあるだろう。即ち、最初のメディア界(プラスのメディア界、+メディア界としよう)では、連続性の志向性が主導的であるということである。dd1/dd2/・・・/ddnからdd1〜dd2〜・・・〜ddn(〜は連続の記号とする)という連続志向性である。それが、第二のメディア界(マイナスのメディア界、−メディア界としよう)では、逆になり、dd1〜dd2〜・・・〜ddnからdd1/dd2/・・・/ddnというイデア界への、不連続性への志向性が主導的になっていると考えられるのである。
 思うに、これが、ポストモダン時代に相当するだろう。そして、当然、イデア界への回帰を志向しているのである。ここで、反動として、「アイロニカルな没入」が発生すると言えよう。おそらく、それは、プラスのメディア界への反転なのだろう。
 さて、ここで、本件を考察するならば、ポストモダン時代における近代的自我の様態の問題である。もし、近代時代においてなら、近代的自我は、病理的にならなかったはずである。なぜならば、エネルギーの流れがそういう方向にあったからである。しかし、ポストモダン時代においては、《メディア》が解放されるのである。近代の固定していた二元論が解体されるのである。典型は、デリダの脱構築理論である。それは、量子力学の相補性の世界が、意識において出現した時代ということである。対極相補性の《論理》の時代となったのである。しかし、これは、単純にかつての陰陽世界の復活ではない。というのは、近代の後の時代ということであるからである。近代的自我の後の時代ということである。近代的自我は、近代的合理主義をもたらしたが、しかし、近代的自我の背面には、コギトがあるのである。コギト/近代的自我という二重構造が近代主義の意識にはあるだろう。(近代日本の場合、コギトが欠落しているのである。)この二重構造の近代的意識が、ポストモダン時代になると、主客融合性が入り、コギトを明確にもたないと、近代的自我は、その利己主義が拡張するのである。そして、反動化するのである。
 ポストモダンは、とまれ、近代的自我の二元論を解体する。しかし、コギトは、解体せずに、コギトと《メディア》を結合するのが本来である。これが、ポスト構造主義の《差異》である。このコギトの有無が、前近代とポストモダンとを真に区別するメルクマールと言えるだろう。そして、《スム》(我在り)と《メディア》が結びつき、ドゥルーズが言ったデカルト/カントの《差異》が生起するのである。そして、《スム》化した《メディア》は、当然、《イデア》界を志向するのである。これが、正嫡のポストモダンである。そして、この方向を徹底した理論が不連続的差異論なのである。
 さて、本題に返ると、ポストモダン時代の近代的自我はどうなるかと言えば、発動した《メディア》・主客融合のエネルギーに対して、主客二元論の近代的自我は、防御するようになる。即ち、抑圧し、排除する、あるいは、排斥・隠蔽する反動的態度をとるようになるのである。この反動性が非合理な衝動となるのである。何故ならば、近代主義の時代においては、根源の《イデア》の力は、現象化へと使われていて、《メディア》のエネルギーとしては、使われていなかったので、近代的自我は、健全であったのである。しかし、ポストモダン時代においては、《イデア》の力は、再び、《メディア》のエネルギーとして使われるのである。近代的形式がもう用済みなのである。《イデア》の力が、《メディア》を賦活するのである。(ここで、ラカンのリビドー/無意識論を想起する。しかし、リビドーは、《イデア》の力と読むべきである。リビドーとすると、知的認識性が欠落してしまうのである。)
 この賦活された《メディア》エネルギーを反動的に抑圧すると、近代的自我の「精神病」(いちおう、パラノイアが考えられるが、私見では、多重人格や分裂症になると思う。)になると私は考えている。《メディア》エネルギーの襲来なのである。そして、この時代の力に対して、現代の教育や社会は無力なのである。心身の《メディア》を意識させ、陶冶させる方向、《メディア》的《教養》の方向をオリエンテートしなくてはならないのである。そして、これは、先にも述べたが、コギト/スムの《差異》がなくてはならないのである。即ち、特異性への志向性を明確にしなくてはならないのである。即ち、何度も述べているが、《イデア》界への志向をもったポストモダンである。
 最後に、ポストモダン時代の近代的自我の「精神病」について、簡単にまとめると、それは、賦活された主客融合的《メディア》エネルギーと主客二元論的近代的自我との二律背反が起因と考えられるのである。つまり、それは、「精神分裂症」なのである。あるいは、人格分裂症である。人格多重分裂症である。なぜ、多重分裂になるかと言えば、《メディア》界は、多種多様の生成変化・多様体の世界だからである。

2006年02月26日 (23:22)

イデア界と現象界の関係:不連続的差異と特異性

ヌース理論を提唱されている半田氏からのコメントがヒントとなって、不連続的差異論におけるイデア界と現象界との関係を明確・明瞭化する必要があると感じた。
 不連続的差異論は、ドゥルーズの差異理論におけるニーチェ(とキルケゴール)の特異性・単独性singularityの差異概念をベースにしているイデア論である。そして、私の直観では、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界に存するのである。これをどのように説明できるのだろうか。これは、デカルト哲学によって説明できるのではないだろうか。周知のコギト・エルゴ・スムであるが、これは、ドゥルーズが説くようにコギトとスムの間に亀裂・分裂、即ち差異を見るべきだろう。そして、この差異ないし矛盾・分裂におけるスム(存在)が個の特異性・単独性の基盤であると思われるのである。(ところで、近代主義の「狂気」とは、スム=特異性・単独性が、捩れて、現象界の自我、即ち近代的自我に同一性化した点にあるのではないだろうか。つまり、捩れたスム=コギトになった点である。これは、パラノイア的狂気でもあろう。捩れた特異性=スムとは、反動性ではないのか。つまり、捩れとは、反動ではないのか。この点については、別の稿で考察したい。)つまり、デカルト哲学のコギト/スムの差異が、現象界の個ないし自我において、特異性・単独性を内在させていると考えることができるのである。だから、イデア界に特異性・単独性が存するだけでなく、現象界にも存するという命題が証明されるのである。(デカルト哲学の問題は先にも触れたが、メディア界が排斥されたことである。このために、デカルトは、近代的合理主義の始祖ともなったのである。そして、排斥されたメディア界は、スピノザが掬い上げて、いわゆる心身平行論を打ち立てて、ポストモダンやポスト構造主義の先駆となったと考えられるのである。)
 さらに、この特異性(・単独性)=スムの問題について検討したい。先に私は、特異性は、不連続的差異そのものというよりは、不連続的差異の共立態総体ではないかと述べた。図式記号で言えば、dd1、dd2、dd3、・・・ddn(ddとはdiscrete or discontinuous differenceの略で、不連続的差異を意味する)というような個々の不連続的差異ではなくて、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnではないかということである。つまり、イデア界総体である。なぜ、個々の不連続的差異ではなくて、イデア界総体が特異性となるのかと言うと、イデア/メディア境界(メディア界のイデア面ないしイデア界のメディア面)においては、不連続的差異は、個々としてというよりは、総体として存していると考えられるからである。
 ということで、特異性とはイデア界のことであるということとなった。だから、イデア界が現象界の個・自我において、内在し、いわば、半田氏が指摘するように顕在化しているのである。問題は、この内在しているイデア界が、個・自我において、どのように把握されるのかということである。イデア界は換言すれば、コスモスである。そして、特異性とはミクロコスモスである。だから、特異性・存在(スム)において、ミクロコスモスとマクロコスモスとの連結が生じているのである。この点では、神秘家は正しい。宮沢賢治は正しい。そして、D.H.ロレンスのコスモス論も正しい(キリスト教の崩壊である)。しかしながら、イデア界はデュナミス、「バッテリー」であるから、当然、エネルゲイア・メディア・エネルギー化するのである。イデア・メディア的エネルギー(簡単に、イデア・エネルギーと呼ぼう)となるのである(思うに、東方キリスト教で、神のエネルゲイアと呼ぶものがこれに当たるのではないだろうか)。このイデア・エネルギーが問題なのである。イデア界がデュナミス・特異性として存するときは、現象界の自我・個は、差異共立主義である。即ち、他者を特異性として見て、差異共立志向をもつのである。つまり、他者をも自己と同等のイデア界的存在として見るのである。(問題は、それは、理念・理論的態度であるが、実際は、他者は、多種多様であり、愚人、悪人、狂人でいっぱいである。だから、それに対しては、戦闘的ないし矯正的になるのが正しいのである。差異共立性とは、イデア界的特異性的差異共立性と見るのが正しいだろう。)
 しかし、イデア界がデュナミスではなくて、エネルゲイア・エネルギーとなったときは、そのようにはならないのである。つまり、差異共立主義から、自己絶対主義、自己尊大・傲慢化、権力・暴力化になるのである。思うに、アナキストのシュティルナーの唯一者は、そのようなもののように思える。そう、政治的にはファシズム化であろう。(D.H.ロレンスも、一時、そのように傾いた時期があったし、ニーチェも晩年において、「力への意志」でそのようになったと思うのである。)つまり、《力》の問題がここにはあるのである。
 では、何故、イデア界=特異性は、メディア・エネルギー化すると、権力化するのか。それは、必然なのか。つまり、本来、差異共立性であるイデア界はメディア界化すると、反動化して、自己権力化するという事態は、必然なのかという問題である。思うに、実際、メディア界においては、イデア界=特異性とメディア・エネルギーの反動性との両義性が生起していると思われるのである。つまり、両者のゆらぎが、メディア界に発生していると思うのである。即ち、dd1/dd2/・・・/dd3とdd1〜dd2〜・・・〜ddとの揺らぎである。そして、後者は、現象界のdd1−dd2−・・・ddnの同一性と連続するのである。
 ここで、2回の1/4回転の捩れを考慮すべきである。イデア界において、1/4回転から、メディア界が発生するが、それは、境界においては、イデア界とメディア界が併存している。しかし、2回目の1/4回転において、メディア界から現象界が発生するとき、その捩れにおいて、イデア界=特異性がまったく暗在・潜在・排斥・隠蔽化されると言えるだろう。つまり、現象界化において、イデア界は完全に隠蔽されるのである。現象界化において、直前のメディア界が隠蔽化されるだけでなくて、本源のイデア界が完全に隠蔽される(忘却される)事態が生起するのである。二重の隠蔽構造があるのである。しかし、1/4回転は、固定したものではなくて、さらなる回転、回転の持続が考えられるから、隠蔽は絶対的なものではありえないのである。つまり、現象界においても、なんらかの揺らぎが発生するのである。それは、メディア界と現象界との境界の揺らぎであろうし、さらには、イデア界とメディア界との境界の揺らぎであろう。二重の揺らぎの発生が考えられるのである。(芸術家や宗教家、哲学者や数学者は、この揺らぎが出発点であろうし、庶民の習俗・祭礼もここを無意識の基盤としているだろう。これは、コスモスの分節と関係しているのだろう。参照:二十四節気)
 以上の考察から、本論に戻ると、メディア・エネルギー化とは、必然的に反動化するのかという問いであるが、それへの答えは、否である。メディア界において、イデア界=特異性とメディア界=エネルギーとの極性が発生しているからである。そして、イデア界=特異性が正当に作動するならば、エネルギーは、反動化せずに、積極・能動的なものとなる。スピノザが述べた能動的観念による身体の活動的エネルギーとは、この積極・能動的エネルギーと関係しよう。ここで、図式的に整理しよう。

1.イデア界=特異性⇔2.メディア界=エネルギー⇔3.現象界=自我同一性(利己主義)

メディア界という中間態において、イデア界への志向と現象界への志向の極性・両義性があり、後者が主導的になると、メディア・エネルギーが反動化するのであり、前者が主導的になると、積極・能動化すると考えられるのである。ここで、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論と「アイロニカルな没入」論を想起するのは、適切であろう。つまり、ポストモダンがプレモダンに、リバタリアニズムが原理主義にアイロニカルに転化する事態のことであるが、それは、このメディア・エネルギーの反動化として理解することができるだろう。即ち、ポストモダンは、メディア界、《メディア》のエネルギーの発動・開放であるが、それが、現象界的志向が主導的だと反動化するということである。つまり、日本の場合は、戦後の似非アメリカ的近代主義によって、唯物主義/拝金主義という現象界的志向が主導的であるから、《メディア》の開放であるポストモダンは反動化するのである。小泉「改革」がそうである。そして、ライブドアもそうである。(ホリエモンの場合は、事情が少し複雑である。私見では、彼は、特異性をもっていたのである。しかし、それが、やはり、現象界的主導性のために、大反動化したのである。特異性があるゆえに、彼の反動は、超反動性と言えるように思うのである。一種精神分裂病的状態に彼は陥ったと思うのである。彼の言動から判断するとそのように思えるのである。つまり、特異性は、イデア界であるから、理想性をもつ。それが、ホリエモンの反逆的理想主義となったといえよう。即ち、老害の日本社会主義への反逆として、みんなが情報を共有してつながる社会の構築という理想主義をもった。しかし、彼は、バブル以降の現象界的志向・拝金主義に染まっていたのである。だから、《メディア》の開放、メディア・エネルギーが大反動化・超反動化して、利己主義的に底無しに暗黒化したのだと思うのである。)
 以上の考察から、《力》の問題が明晰になったであろう。簡単・簡潔に言えば、《メディア》がイデア的志向性をもつのか、現象的志向性をもつのかが、《力》の様相を決定するということである。 前者ならば差異共立的志向性をもち、後者ならば反動・権力的利己主義的志向性をもつということである。これまで、何度も述べてきたように、現代資本主義、ポストモダン資本主義、差異資本主義は、イデア界的志向性をもつべきなのである。つまり、差異共立共創主義化すべきなのである。これで、ポスト資本主義となるのではないだろうか。(この点について、別に論考したい。)この点で一言付加すれば、資本主義は、利益追求を一つの本質意義としてもつのであるから、現象界性を否定することは当然できない。問題は、ポストモダン資本主義は、イデア界的志向性を明確化しつつ、現象界的志向性を保持しなくてはならないということである。
 さて、最後に、不連続的差異と特異性の問題を考察したい。結局、両者はつながりがあるものの別の概念であるということになったであろう。多数・無数の不連続的差異の共立態としてのイデア界が特異性となるのである。もっとも、イデア界即特異性ではなく、イデア/メディア境界におけるイデア界が特異性であるということである。そして、この反動化は、きわめて危険であり、いわば、「超越神」化、即ち、専制・独裁化するだろう。全体主義やファシズムの危険があるのである。
 さて、これまで、不連続的差異としての《個》ということを言ってきたが、それは、ここでの検討から、不正確であったと言えるのではないだろうか。この問題は以前に解決したつもりではあったので、もう一度考察しよう。特異性とは、不連続的差異の共立態であるイデア界であることとなった。では、不連続的差異の共立態と不連続的差異とはどう関係しているのかということが問題となる。《個》において、イデア/メディア境界において、特異性が生起している。それは、積極・能動的な様相において、多数・無数の不連続的差異の共立態の発出である。すると、《個》において、その共立態の志向性ないしデュナミス・可能態が発出していると言えるだろう。つまり、共立態のイデア・エネルギーがそこに発出・発動していると見ることができる。このイデア・エネルギーは、不連続的差異の共立態をヴィジョンとしてもつ静かな精緻微細な知的志向性をもつイデア・エネルギーである。正に、イデア界のエネルギーである。だから、ここには、不連続的差異性の直観があると言っていいだろう。この直観が、現象界において、他者に適用されると言えるだろう。つまり、イデア界を現象界に重ねるのである。イデア界の不連続的差異という理念点を、現象界へ重ねるということである。これで、イデア界と現象界が一つの平面となるのである。しかし、この適用は合理論的なのだろうか。つまり、イデア界の不連続的差異を現象界の個に適用する根拠は何かということである。視点を換えて、個とは何かと問おう。個体とは何か。根本から考えると、イデア界において、1/4回転で、ゼロ化が発生する。このとき発生するメディア界は、ゼロ化の連結を帯び、不連続的差異が共鳴して連結するのである。つまり、不連続的差異は連続的差異へと変換・変形するのである。このとき、入れ子的な構造が生起すると考えられるのである。この入れ子構造は、フラクタル構造で呼べるだろう。つまり、メディア界において、不連続的差異がゼロ化して、入れ子・フラクタル構造を形成すると考えられるのである。この構造が、いわば、メディア構造が個体の原型であろう。そして、これが、さらに1/4回転して、現象的個体として発現・現出すると言えよう。だから、《個》とは、個体とは、本来、イデア界を内在しているのである。イデア界のゼロ化的変形としての《個》であると言えるのである。そう考えると、ここで提起した問題、即ち、不連続的差異を現象界の個体に適用する合理論的根拠は何であるのかという問題は、悪い問いではないかと思われてくるのである。そうではなくて、不連続的差異の共立態としてのイデア・エネルギーが特異性としてあり、それは、他者をも基本的に特異性として見るということではないか。つまり、特異性として、《個》が存するのであるから、当然、他者をも特異性の《個》として見るということではないか。すると、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界にも存するという私の直観は、不連続的差異の現象界への適用に拠るのではなくて、内在する特異性自体による特異性の共立性への志向性に拠ると言わなくてはならないだろう。特異性の民主主義的志向なのである。特異性の共民志向である。結局、不連続的差異の共立態であるイデア界のイデア・エネルギーである特異性が、他者を特異性として志向するという出来事が現象界に発生するということである。簡単に言えば、イデア界の可能態として、個体・他者を見るという志向性が根源的合理論的志向があるということである。つまり、他者とは、潜在したイデア界なのである。
 長くなったが、もう一点、不連続的差異と特異性について述べると、個々の不連続的差異というイデアは、それ自体で、特異性と言えるだろう。だから、不連続的差異の共立態としての特異性とは区別されなくてはならない。不連続的差異としての特異性を、とりあえず、ミクロ特異性と呼び、不連続的差異の共立態としての特異性を、マクロ特異性と呼んでおこう。即ち、ミクロ特異性の共立態としてマクロ特異性があり、これが、《個》となるのである。そして、伝統的には、《個》とは、ミクロコスモスである。ならば、《個》=ミクロコスモスとは、ミクロ特異性の共立態であるマクロ特異性を超越論的に内在していることになる。そして、イデア界の発現である、地球を含めた現象界である大宇宙マクロコスモスとは、《個》=ミクロコスモスに内在するマクロ特異性であるイデア界において、《個》=ミクロコスモスと一致すると言えるだろう。即ち、《個》=ミクロコスモスと大宇宙マクロコスモスとは、イデア界という共通の根源的基盤において、一致するということである。即ち、イデア界という根源界において、神秘学のミクロコスモス=マクロコスモスという概念は、正しいと言えるのである。
 そこからの問題は、マクロコスモスとしての現象界を、イデア界の倒錯した現象界である人間界に、イデア界的共立性をもたらすこと、現象・人間界をイデア界的に変容することではないだろうか。
 思うに、何故、イデア界が初めからイデア界的な現象界を創造しなかったかと言えば、それは、イデア界のもつ「歴史」性によるのだろう。それを進化と呼んでいいのだろうか。進展ないし高転ではないだろうか。イデア界の回転が螺旋的回帰・永遠回帰運動を生むのだろう。螺旋的進展化が、螺旋的イデア界史が、あるのではないだろうか。そう、《個》ミクロコスモスの、イデア的マクロコスモス化が、人間現象の目的なのだろう。《個》ミクロコスモスとして、共立して、マクロコスモスをイデア界的な共立態へと変容させることが、人間・人類のエンテレイケイア(終局態)なのだろう。

p.s. ホリエモンには、特異性があると言い、それが、現象界的に反動化したと述べたが、本来、特異性はイデア界性であるから、特異性の共立志向性をもつはずである。そうならば、彼は民主主義を目指すはずであるのに、「格差」社会を志向した。これは何故か。これは、上述した、捩れ=反動性に関係していると思うのである。
 問題は、特異性が何故、反動化したのかである。確かに、捩れ=反動性=現象界化が主導的であったという点に求められるのであるが、特異性は、単独性であるから、その反動性に対する内在的批判が生じるはずである。時価総額云々にはならないはずである。
 今、直感で言えば、特異性を涵養する《教養》が欠落していたのではないかということである。特異性の涵養、それはどういうことなのであろうか。それは、一言では、共感・倫理性の涵養ということではないか。《心》の涵養ということでもいい。《仁愛》の涵養でもいい。しかし、問題は、特異性には、内在性として、それらがあるはずである。共感性・倫理性・心・仁愛の胚芽が、特異性には内在しているのである。それは、涵養・「教養」する必要があるのではないか。そう、イデア界=特異性の「成長」・展開・発展への《欲動》ないし《欲望》が、本来、あるのだろう。しかし、その《欲動》・《欲望》が充足されないと、イデア界=特異性の欲求・志向性が充足されないと、反動で、代償を求めるだろう。そう、渇望としての、権力欲があるのではないだろうか。餓えたイデア界=特異性の欲望が代償として権力を求めるのではないか。つまり、マイナスのイデア界=特異性の欲動が、権力・支配衝動となるのだろう。
 このように考えると、ホリエモンの場合、内在していたイデア界=特異性の志向が充足されずに、餓えて、マイナスの状態になり、権力・支配衝動へと反動化したのではないだろうか。それで、反民主主義、時価総額の発想が生まれたのではないだろうか。衆院選挙の立候補にも、権力欲の意味があったのだろう。そう、換言すると、ルサンチマン・怨嗟・怨恨である。正に、イデア界=特異性のマイナス、反動である。
 つまり、イデア界=特異性の種子があるのだろう。これが、健全に発芽しないと、マイナス・反動化して、権力・支配衝動となるのだろう。つまり、イデア界=特異性の種子が光を得ないと、暗黒化して、邪悪化するということだろう。この光が広義の《教養》ということだろう。ホリエモンには、惜しむらくは、《教養》が欠落していたのである。《教養》なき世代の悲劇である。《教養》なき国の悲劇である。 
 しかしながら、《教養》は、本来、読書が好きならば、誰でも付けられるものである。《無教養》が生まれるには、《教養》に対する嫌悪・憎悪等による排除があるはずである。それは何か。それは、父エモンの影響ではなくて、時代の影響ではないだろうか。70年代初期の生まれである。それは、日本社会がオイルショックを経て、バブルへと向かう時代に少年期を送ったことを意味する。正に、拝金主義・物欲・情欲の時代である。そのような社会風潮に染まって、《教養》を憎悪したのではないだろうか。というか、日本社会において、教養主義が崩壊した時代であるので、その影響を受けているということであろう。それは、思うに、新人類の発現と重なるように思う。イデア界=特異性の心性の涵養を排斥するという野蛮な風潮である。即ち、近代主義である。物質主義である。近代的合理主義である。どうも、今日、戦後の近代的自我・合理主義のつけが回ってきたようである。日本社会の衆愚化は、これに関係しているだろう。ここで、急に、教養と言っても遅いだろう。それは、いわば、ヴィンテージである。
 痴愚的なテレビや雑誌等は見てはいけない。携帯を捨てて、読書隠遁せよ。

2006年02月25日 (09:45)

近代主義と構造主義とポストモダンとポスト構造主義との違い:不連続的差異論の視点から

A)近代主義
B)構造主義
C)ポストモダン
D)ポスト構造主義

これら4つは、不連続的差異論の視点から明確に区別することができる。
1.イデア界/IM境界/2.メディア界/MP境界/3.現象界(フェノミナ界)
が不連続的差異論の基本的世界構造である。IM境界は、イデア界とメディア界の境界であり、MP境界は、メディア界と現象界(フェノミナ界)の境界である。
 A)近代主義とは、3の現象界中心主義である。それ以前の領域を排除しているのである。そして、B)構造主義は、MP境界の構造を中心にした理論である。そして、C)ポストモダンは、2のメディア界の連続的差異=微分の極性変化の理論であり、哲学的には、ベルクソンやハイデガーの哲学が相当する。そして、D)ポスト構造主義は、2のメディア界の不連続的差異と連続的差異との二重構造に関わる理論である。これは、デリダやドゥルーズの哲学が代表的であるが、しかし、かれらは、この二重性を混同していると思われる。明確にすると、ポスト構造主義は、IM境界の理論である。そして、不連続的差異論は、不連続的差異というイデアをイデア界に仮説することで、ポスト構造主義の両義性による混同を解消して、明晰判明な理論としたと言える。ここで、まとめると、

1.イデア界(不連続的差異論)/IM境界(ポスト構造主義)/2.メディア界(ポストモダン)/MP境界(構造主義)/3.現象界(近代主義)

となる。注意すべき点は、不連続的差異論は、その他を包摂していることである。因みに、ヌース理論は、メディア界の周到な理論である。

2006年02月24日 (23:35)

不連続的差異論の図式

不連続的差異discrete or discontinuous differenceをdd、連続的差異をcontinuous differenceをcdと記号化する。/は、境界であり、≈は、ゼロ度による共鳴・共役性であり、intはintegralの略で、積分である。IM 境界とはイデア/メディア境界で、MP境界とは、メディア/現象境界である。
_______________________

イデア界: 

dd1/dd2/・・・/ddn

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    
IM境界: 

dd1/dd2/・・・/ddn(コスモス)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ cd1≈cd2≈・・・≈cdn
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 
 
メディア界:

cd1≈cd2≈・・・≈cdn(カオスモス)

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 
MP界:                 

cd1≈cd2≈・・・≈cdn
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・int1ーinte2ー・・・ーint n-1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現象界: 

int1ーinte2ー・・・ーintn-1(連続的同一性)

_______________________


コメント:個々ののddが特異性・単独性といよりは、ddの総体(dd1/dd2/・・・/ddn)が、特異性・単独性なのではないだろうか。イデア面(イデア/メディア境界におけるイデア界への側面)ないしイデア界の《力》が連続性を解体すると言えよう。この解体が特異性・単独性の「感覚」をもたらすのではないか。
 作家がいうコスモスとは、ddの総体のことではないか。また、共感・倫理性も、ここから発するのではないか。
 なお、連続的差異cdとは、微分である差異である。

2006年02月24日 (21:46)

イデア界の不連続的差異イデアのイメージのスケッチ

今、ヌース理論が説かれている『光の箱舟』を読んでいる最中であるが、いろいろアイデアが浮かんでくる。ヌース理論では、イデアに4+1の5次元を想定している。それを借りて、不連続的差異論的に、素描したい。

イデア界を2次元平面ではなくて、直交三次元空間としよう。そして、イデア界を球体としよう。つまり、一つの不連続的差異=イデアは、直交三次元空間性をもつことになる。x,y,z軸を想定して、たとえば、不連続的差異(discrete or discontinuous difference:略してddとする)は、(x, y, z)の空間座標で表現される。そして、個々の不連続的差異は、dd1(x1, y1, z1)、dd2(x2, y2, z2)、・・・、ddn(xn, yn, zn)と表記できる。
 不連続的差異は、根源的志向性として、x軸±方向、y軸±方向、z軸±方向をもつだろう。これで、6通りの志向性をもつ。しかし、ここで、フッサール現象学を借りて、志向性にノエシスとノエマが考えられるので、6×2=12通りの志向性の様相があるだろう。そして、これらを全体・総体とすると、プラス1で、13通りの志向性の様相となるのではないだろうか。(ヌース理論では、能動的な力としてnoos、受動的な受容力としてnosを想定している。そして、これらの対極として、noos★、nos★を考えて、4元性をみている。そして、総体として、4プラス1の5次元を見ている。) 
 さて、不連続的差異の1/4回転であるが、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnがx軸にあるとしよう。y成分、z成分はゼロとする。すなわち、
dd1(x1,0,0)、dd2(x2,0,0)、・・・ddn(xn、0,0)である。これが、1/4回転して、y軸へ移動する。これが、イデア/メディア境界であろう(y軸=イデア/メディア境界)。そして、これは、捩れて、z軸となる。即ち、(0,0,dn)となる。これが、メディア界であろう(z軸=メディア界)。
 さて、問題はここからである。z軸にある連続的差異(微分的差異)が、現象化するのであるが、このとき、積分が行なわれるのだろう。即ち、∫cdである(cdは、continuous differenceで、連続的差異、微分的差異である)。これは、さらなる1/4回転と見ていいのだろうか。つまり、z軸もゼロ度と見る場合を、そう見ていいのだろうか。理論的に、(0,0,0,α)ということが考えられるだろう。これは、4次元である。第4次元の軸をα軸としよう。そして、α軸を、x軸、y軸、z軸と直交しているとしよう。ここで、z軸の値をゼロにするには、原点(0,0,0)から見れば、可能だろう。原点をα軸にできるのだろうか。原点軸が可能だろうか。思うに、正に、ここに虚軸を考えたらどうだろうか。虚次元を考えるのである。α軸をもつ虚次元である。これは、x軸、y軸、z軸と直交する。そして、この虚次元を、現象次元とするのである。そして、これを時間軸にするのである。これで、時空四次元が成立するのだろう。この時間軸は、 ctで計測できるということだろう。相対性理論における光速度一定というのは、メディア界でのゼロ度連結の係数を意味するのではないだろうか。E= mc^2は、E=kmとなるだろう。そして、E = hνである。すると、k=hとすると、m=νである。質量=振動数である。これは、連続的差異の振動数ということなのだろう。
 連続的差異が円環を形成するとするならば、円環が波動となり、この波動の振動数が質量であろう。この円環は、思うに、連続的差異の等間隔が形成されているのではないだろうか。つまり、円環に正多角形が内接していて、それが、波動となり、振動数をもつということではないだろうか。連続的差異の個数が1個や2個のものは、今は、除外すると、正三角形の波動・振動数、正方形の波動・振動数、正五角形の波動・振動数等々、正n角形の波動・振動数となろう。そして、この正n角形の波動・振動数とは、光速度と結びついているのである。
 とまれ、このように、光速度一定の時空四次元現象界が構成されていると仮定しよう。そうすると、時間軸は虚次元であるから、空間三次元においては、時間軸はいわば透明化している。いわば、至るところに、時間軸があると言えるのではないだろうか。空間三次元に直交している時間軸は至るところにある。そして、これは、虚次元・軸としての超越論的次元・軸である。これは、z軸であるメディア界から原点(0,0,0)へ移動して、発生した虚視点である。これは、メディア界からの1/4回転と見ていいのだろう。
 だから、現象界とは、連続的差異で構成されるメディア界の《影》である。メディア界の《幻影》である。時間軸は、連続的差異のゼロ度である。つまり、不連続的差異のゼロ度のゼロ度である。思うに、このゼロ度のゼロ度が光速ではないだろうか。これまで、最初のゼロ度において、光速の発生を考えてきたのであるが、それは違うのではないだろうか。最初のゼロ度、最初の1/4回転とは、エネルギーの発生であり、原光速の発生ではないのか。超光速ではないのか。そして、これが、さらなる1/4回転で、現象界の光速になるのではないだろうか。ここで、ドゥルーズ&ガタリが内在平面を無限速度で強度が貫くというようなことを述べていたことを想起する(『哲学とは何か』)。メディア界での原光速ないし超光速が、この無限速度なのではないか。内在平面をメディア界と取ることが妥当でもある。そう、最初の1/4回転、ゼロ度連結とは、無限速度のエネルギーを発生させるのではないだろうか。それが、超光速のエネルギーを発生させるのではないだろうか。もしそうなら、それは、原光、超光である。敷延すると、それは、ダークエネルギーではないだろうか。D.H.ロレンスの言ったダークゴッドdark godに当たるのではないだろうか。そして、それが、無量光(阿弥陀如来)ではないだろうか。「光あれ」といった旧約聖書の神とは、そうすると、ダークゴッドではないだろうか。
 ならば、これまで、考えてきたイデア界の《太陽》はどうなるだろうか。それについて考察する前に、簡単に整理しておこう。メディア界からの1/4回転で、現象界が発現する。メディア界とは構造であると言えるだろう。つまり、連続的差異という構造がメディア界であり、このゼロ度連結が現象ということである。通常、イデアと呼ばれているものは、この構造・メディア界を指していると考えられる。そして、これは、超越論的次元である。あるいは、内在(平面)的次元である。ここで、注意すべきは、この超越論的次元と時間軸との区別である。『光の箱舟』で相対性理論の時空四次元と、キュービズム等の四次元を区別しているが、それと同様に、ここでも区別されなくてはならないだろう。超越論的次元であるメディア界とは、空間三次元の現象界から見たら、いわば、第四次元であろうし、時間軸とは、根源的三次元直交空間から見たら、第四次元である。
 では、イデア界の《太陽》とは、どう考えたらいいのだろうか。ここで、光について、整理しよう。最初のゼロ度で、超光速が発生するとしよう。これは、不連続的差異のゼロ度連結である。このエネルギーは、E=mc^2で、記述していいのだろうか。超光速なのであるから、これはまずいだろう。なので、少し前に戻って考え直さないといけない。どうも、ドゥルーズ&ガタリの内在平面の考えを入れて混乱したようなので、それを除いて考え直そう。ゼロ度のゼロ度が、光速ではないかと言った。ゼロ度のゼロ度とは、時間軸の形成である。それは、時空間の発現である。換言すると、カントの超越論的形式にほぼ相当するだろう。しかし、これは、相対性理論の時空間ではない。ガリレオ/ニュートンの時空間である。ならば、ゼロ度のゼロ度とは、光速ではないだろう。やはり、最初のゼロ度が光速なのであろう。これで、元にもどったことになる。メディア界は光速が支配するのである。
 では、ドゥルーズ&ガタリの内在平面の無限速度の強度とは何を意味するのだろうか。不連続的差異論は、ドゥルーズ哲学において、不連続的差異と連続的差異とが混同されていることを指摘し、その区別を理論的基礎、原理としている。だから、この場合も、その混同が考えられるのでないだろうか。即ち、内在平面とは、イデア界とメディア界との混同である。また、無限速度とは、光速との混同である。強度とは、エネルギーの混同である。つまり、ドゥルーズ&ガタリは、イデア界の事象をもメディア界の事象にしていると考えられるのではないか。そうならば、イデア界において、無限速度があり、強度があることになるだろう。ということで、これまでの考え方に戻ったのである。ゼロ度のゼロ度を光速としたことで、混乱したのである。

 さて、ここで、近代主義の構造を問題にしたい。それは、現象界を前提にした世界観である。メディア界が、連続的差異の領域ならば、現象界は、連続的差異の連続化によって発現する連続的同一性の領域である。この連続的同一性が《物質》とされているのである。しかし、これは、上述のように、虚次元である時間軸によって発現(仮現・仮象)されたものであり、一種虚像である。メディア界の影としての現象界である。(そして、メディア界が構造である。)この現象界を実像として、表象して、形式的に数字化したのが、近代科学である。これは、影の科学である。本当の光とは、メディア界にある。現象界の光とは、メディア界の光の影に過ぎない。(ここで、D.H.ロレンスの黒い太陽dark sunを想起するが、それは、メディア界の太陽を指しているのだろう。)
 近代科学は、この影である現象を対象にしている。そして、本来の光を排除・隠蔽している。この潜在したメディア界の光を探求したのが、文学・芸術では、ロマン主義、象徴主義、「モダニズム」、シュールリアリズム等であろう。思想・哲学では、構造主義である。深層心理学、神話学、言語学もそこに含まれる。自然科学では、相対性理論や量子力学である。つまり、近代主義の現象界的主客二元論を否定したのである。(ここで、近代主義の二元論の発生を考えると、対象として連続的同一性である物体がある。それに対して、連続的同一性である自我主体がある。これら二つの連続的同一性である主体と客体が近代的二元論を構成していると言えよう。)
 では、構造主義とポストモダンないしポスト構造主義はどういう関係にあるのか。思うに、これは、簡単に言えば、メダルの両面の関係に過ぎないのではないだろうか。つまり、メディア界を形式と取った場合は、構造主義であり、メディア界を動態で考えたとき、ポストモダンないしポスト構造主義になるのではないだろうか。例えば、メディア界を対極性ないし相補性と見ることができる。これは、プラスとマイナスの交換可能な形式をもつ。これは、構造主義の発想である。しかし、メディア界を動態として見ると、変容するエネルギーとなる。ドゥルーズ&ガタリが言った生成変化とはこのことであろう。また、デリダの脱構築主義は、連続的同一性の脱構築であり、それによって、不確定の事象が発現するのであり、それが、メディア界の動態である。(私は以前、ポスト構造主義に対して、脱構造主義という言葉を造語したが、言葉通りならば、脱構造主義とは、脱メディア界主義でなくてはならないだろう。それは、イデア界化である。)
 ここで、大澤真幸氏のアイロニカルな没入(ポストモダンとプレモダンの入れ替え可能性)を考えると、それは、構造主義の問題となるだろう。即ち、連続的差異の構造の問題である。連続的差異とは、連続性をもつのであり、この連続性が、全体主義を志向すると言えるだろう。そして、それが、原理主義や軍国主義等を引き寄せるのである。ポストモダン、ポスト構造主義の時代とは、なんらかの全体主義を引き寄せるたいへん危険な時代であると言えよう。
 そこで、脱ポストモダン、脱ポスト構造主義が必要となるだろう。それは、イデア界への回帰である。もっとも、丁寧に言うならば、ポストモダンにおいては、反動路線と能動路線があるのである。二つのポストモダンである。なぜならば、メディア界とは、構造の世界であり、また、エネルギー的生成変容の世界であるだけでなく、特異性の世界でもあるからである。このことも、ドゥルーズは、キルケゴール/ニーチェの思想を受けて、説いていたのである。問題は複雑である。メディア界は、二つの二重性をもつのである。連続的差異における極性・相補性である。プラスとマイナスの極性構造である。これが一つである。もう一つは、不連続的差異性と連続的差異性の二重性である。そして、ポストモダンが反動ではなくて、進展するには、後者の二重性に注意して、不連続的差異を選択すべきである。しかし、これは、内在的には、特異性として現れるのである。これは、また、共感倫理性でもある。そして、この特異性、共感倫理性が、連続的差異ではなくて、不連続的差異であることを認識する必要があるのである。内在的特異性・共感倫理性を不連続的差異であると認識することで、メディア界の連続性から離脱して、イデア界へと進展できるのである。連続的ポストモダン、メディア的ポストモダンから不連続的ポストモダン、イデア的ポストモダンへと前進すべきなのである。これを不連続的差異論は説いているのである。ポストモダンの超克としての不連続的差異論である。
 最後に気になることを付け加えると、モダンアートとは何であったのかである。それは、以上の考察から、メディア界のアートであると言えよう。それは、ポストモダンの不連続性/連続性の二重性から見ると、そのような二重性をもっていると言えるのだろう。私の直感では、ジャクソン・ポロックの絵画には、不連続的差異性があると思う。それは、共感倫理性なのである。また、マーク・ロスコの絵画にも、不連続的差異性がある強烈にあると思う。ジョージア・オキーフの絵画にもあるし、フリーダ・カーロの絵画にもあるだろう。結局、モダンアートとは、ポストモダン・アートであり、同時に、不連続的ポストモダンを指示しているのである。
 では、不連続的差異アートとは何だろうか。それは、差異共立共創アートであろう。

参考:抽象表現主義

http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/T/Twenty/AbExp.htm

2006年02月21日 (16:16)

神道論:太陽乙女神アマテラスと天皇の関係:不連続的差異論の視点から

神道論:太陽乙女神アマテラスと天皇の関係:不連続的差異論の視点から
テーマ:一神教/多神教
イデア界=太陽乙女神アマテラスとしよう。そして、それが、1/4回転して、イザナミ/イザナギの雌雄的ペアの神々が生まれる。イシス/オシリスの神話と同じである。だから、天皇はイザナギであり、オシリスに当たる。イシス/オシリスの神話から見ると、イシスは殺害されたオシリスのばらばらの断片を集めて、復活させるのである。死から生への原理、復活・不死鳥の原理である。このイシスは、実は、イデア界に当たるのではないだろうか。生成消滅がメディア界の原理であって、復活の原理ではない。イシス/オシリス神話というものは、やはり、イデア界とメディア界を混同しているように思う。だから、先に述べたように、ハトホルをイデア界の女神とすべきように思うのである。だから、ハトホル/オシリスの神話である。
 では、極性のイシス/オシリス神話とは、何を意味するのか。また、このメディア界の神話と天皇はどう関係するのか。今、ふと思ったのであるが、太陽乙女神アマテラスとイザナミ/イザナギの双対神話とは、異質なものではないか、あるいは、別の時代や社会のものではないかとといういことである。沖縄の母権的な宗教が、太陽乙女神アマテラス宗教を伝えているのではないだろうか。ヤポネシア宗教である(ここで、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を想起する。)。しかし、男性神が出てくる、イザナミ/イザナギは別の宗教体系ではないのか。ヒミコ(日巫女、日見娘、日巳娘)は、太陽乙女神アマテラスに仕える巫女ではないのか。ならば、アマテラスの巫女としてのヒミコ(日巫女)である。これは、女性・母性・乙女(処女)の宗教的権威を想定させるのである。ここには、男性神は存しないと思う。純粋母権・乙女権的宗教である。
 そうならば、天皇とは何かということになる。おそらく、本来、アマテラスの《力》が付着するのは、巫女、女性祭司である。だから、前天皇とは女性であるはずである。では、どうして、巫女に相当するものが、女性から天皇に変わったのであろうか。日巫女から日御子(ひのみこ)への変化の問題である。これは複雑微妙な問題である。やはり、問題はイザナミ/イザナギ(イシス/オシリス)神話の意味にあると思う。これが、仲介となり、一種父権的な天皇制が生まれたと思うのである。【これは、また、『源氏物語』にも関係する問題である(光源氏が日御子に相当するだろう)。】(p.s. 後述したが、ここでの私の見解は間違っているので訂正する。父権的天皇制は、平安時代には生じていない。父権的天皇制の発想は、江戸時代の国学にあると考えられる。)
 今想像しているのは、ジョセフ・キャンベルの神話学である。そこでは、神話を4種類に分類している。

1)純粋母権・乙女神神話
2)イシス/オシリス型雌雄神話(夫に孕まされた女神から世界が生まれる)
3)父権神話(男神によって、女神の身体から世界が創られる)
4)純粋父権神話(男神単独で世界を創造する)

日本神話は、1と2の結合したものである。ただ、スサノオの八岐大蛇殺戮に3の要素がいくぶん、うかがえるようだが。問題は、2の神話の意味である。狩猟採集文化は、1であろう。農耕文化であるが、それが2ではないだろうか。思うに、前古代日本は、《縄文》文化(東アジア照葉樹林文化と言うべきか)において、1の宗教・神話をもっていただろうし、また、農耕文化性もあるから、2の要素もあったのであろう。すると、1と2の混淆した文化が、前古代日本文化ではなかったか。そして、そこへ、父権的文化が入ってくる。これが、天皇宗教文化をもたらしたのであろう。
 問題は、1と2は、母権神話であるが、日本国が、父権的な国になったことである。もっとも、天皇制は父権制なのであるのかという問題がある。天皇制は母権的だと思うのである。日本国が父権的になったのは、明治においてではないのか。封建制は確かに男女ヒエラルキーがあると思うが、しかし、そこには、母権的宗教が生きていたのではないか。排仏毀釈・神仏分離令は、この母権的宗教を解体して、父権的国家形成の基礎・基盤となったのではないか。すると、やはり、国学の問題がここにある。平田篤胤は、キリスト教の影響を受けて、神道を一神教化したと言うことである。思うに、これによって、神道が父権化したのではないだろうか。そして、これがイデオロギーとなり、明治維新があるのではないか。本居宣長が胡散臭い。大和心と漢心と分離するのがイデオロギーである。もともと、母権的宗教を核として、大陸の文化を吸収したのであるから、純粋な漢心はないはずである。これは、本居宣長のフィクションであると思う。この二項対立的発想は近代的であり、父権的である。やはり、国学に父権化の起源の一つがあるのではないだろうか。国学自体が「漢心」であろう。これは、母権的宗教の衰退があるのであろう。つまり、イデア/メディア的精神の衰退であり、メディア/現象的精神(父権的精神)の強化を意味するのだろう。これが、国学の意味ではないだろうか。この母権的精神の衰退と父権的精神の勃興が、江戸時代に生起して、明治維新の原動力となったのであろう。そして、明治天皇制は、父権制である。根源の母権的精神の衰退があるのである。ここで、折口が日本人は宗教性を久しく失っていると述べていたことを想起するのである。
 思うに、明治維新前後は、古い母権的精神と新しい父権的精神の混淆状態であったように思われるのである。その「カオスモス」、メディア的エネルギーが、明治維新のエネルギーとなったのであろう。そして、極端化して、太平洋戦争となり、敗戦し、米国文明化した。しかし、問題は、古い母権的エネルギーを喪失して、父権的精神を残していることである。これが、現代、靖国問題となっているのだろう。結局、飛躍するが、日本の自立・復活は、母権的エネルギーを再生することである。これは、神道復活であろう。イデア論としての神道・多神教の復活であろう。そう、平明に言えば、日本の女性が、太陽乙女神アマテラスの根源的力を取り戻すことが重要である。新アマテラス、新ヒミコとしての女性の復活である。それは、また、新天皇制ということだろう。新太陽乙女神アマテラス/新天皇をもつ新天皇制である。

2006年02月21日 (03:57)

神道とイデア論/不連続的差異論:メディアとイデアとの関係

神道とイデア論/不連続的差異論の関係を検討しよう。神道の《神》とは、メディアであるのか、イデアであるのかということである。これは、イデア界とメディア界の関係の問題でもある。ここで、平田篤胤/折口信夫の宗教観を想起するのである。平田篤胤の宗教観はキリスト教の影響を受けていて、一神教性があるが、折口の宗教観は一神教と多神教かは決定していない。しかし、彼らの宗教観は、三層構成であり、不連続的差異論と共通する。
 とまれ、神道の《神》は、メディアなのか、イデアなのかであるが、逆に言うと、メディアとしての神とは何か、イデアとしての神とは何かということになるだろう。この問題は、エッセンシャルな問題の一つであると考えられる。少し観点を変えると、メディアとは構造・原型・形相である。通俗に理解されている「イデア」である。しかし、正確に言えば、構造とはメディア/現象境界にあるだろう。カントの超越論的形式に相当するだろう。では、メディアとは何かと言えば、それは、対極相補性である。極性力である。陰陽である。量子である。また、多様体である。エネルギーである(ダークエネルギーを含めて)。また、カオスモスでもある。ここでは、形が生まれ、形が解体する。デリダの脱構築主義の世界である。大乗仏教の世界である。色即是空・空即是色。ドゥルーズ&ガタリの内在平面である。おそらく、4+1の世界である。五芒星形の世界、ピュタゴラス派の世界である。(思うに、+5と−5で、10次元の世界、そして、それをまとめて、11次元の世界となるだろう。超ひも理論と関係しそうだ。そして、イデア界を含めて、12次元の世界、M理論の世界と関係するのではないだろうか。)
 そう考えると、いわば、多神教的世界とは言えるだろう。生成変化、生成消滅の世界である。多様性、生と死との世界である。ならば、神道の神は、メディアであるということになりそうである。しかし、問題は太陽神である。太陽信仰、太陽崇拝である。これが、神道の核心にある。これに大乗仏教が重なるのである。(参照:折口信夫の『死者の書』)問題は、太陽神はメディアであるのかということである。ここで、プラトンの善のイデアを想起する。それは、洞窟の外部の太陽に相当するのである。(ここで、また、宇宙論的に、太陽や恒星とは何かという問題とも関係する。)プラトンの言う洞窟内部のスクリーンが現象界(仮象界)であり、背後の人間が、言わば、メディアになるだろう。そして、洞窟外部の太陽がイデアになるだろう。
 そうなると、類比的に、太陽神は、メディアではなくて、イデアに相当すると直観できるだろう。すると、神道の神である太陽神は、イデアであるということになるのである。つまり、アマテラスは、イデアであるということになる。問題は、天皇制である。天皇とは、アマテラスの「霊」を内在する日御子である。しかし、天皇自身が、太陽神ではない。太陽神アマテラスの、いわば、化身としての天皇ではないのか。「天皇霊」とは、アマテラスの「霊」である。アマテラスのエッセンスであろう。(こう考えると、キリスト教の本質が見えてくるようだ。)つまり、イデアを体現する存在としての天皇である。「現人神」というのは、間違ってはいないのではないだろうか。(p.s. ここのところも、もっと慎重にならないといけない。)
 少し性急になったので、もう少し平静に考えよう。太陽神アマテラスのエッセンスを受けたものが天皇である(参照:真床御衾、大嘗祭)。これは、儀礼として存するのである。古代ギリシア等で言えば、秘儀・密儀に相当しよう。エレウシスの秘儀であり、東地中海では、イシスの秘儀である。そう、エジプト神話で言えば、イシスがアマテラスで、オシリスが天皇である。(聖母マリアがアマテラス、イエスが天皇に相当する。キリスト教の「父」とは、実は「母」でなくてはならない。D.H.ロレンスの宗教論を参考。)
 しかし、このように考えると、混乱するのではないだろうか。イシスとオシリスと考えるとペアの対の発想となり、メディア界の事象となるのである。思うに、イシスとオシリスを超えた根源としてハトホルを考えなくてはならないだろう。これは、聖母マリアを超えたものとして、聖アンナに通じるのではないだろうか(ケルト的キリスト教は、イデア界をもっているのだろう。東方キリスト教もそうだろう。)。それは、処女神の問題、単性生殖の問題である。ここで、作業仮説を言えば、イデア界としての大女神があるだろう。これは、処女神である。アマテラスである。そして、これが1/4回転して、メディア界が発生するが、このとき、女男対の神々が発生する。それが、イシス/オシリス、イザナミ/イザナギ、キュベレ/アッティス、ヴィーナス/アドニス、聖母マリア/イエス、女媧/伏羲(ふくぎ)、等の神話となったのだろう。
 このように考えると、実に明快に整理されるだろう。だから、神道の問題は、アマテラス=太陽処女神=イデア界であり、天皇=メディア界=イザナミ/イザナミであろう。そして、アマテラスと天之御中主神とは一致し、そして、神産霊神と高皇産霊神が、イザナミとイザナギと一致するのではないだろうか。そうならば、記紀神話は混乱しているのである。イデア界とメディア界の区別が不明確になっているのである。(p.s. 天皇とはイデア界の1/4回転を意味するだろう。つまり、ゼロ度連結のことである。ここでは、光が発生するのである。この光が天皇であろう。しかし、同時に、闇も発生するのである。光と闇との極性があるのである。ならば、光の天皇に対する闇の天皇がいるだろう。この点で後で検討。)
 とまれ、以上から、太陽神・太陽処女神がイデア界であることが推理でき、神道は、イデア界の宗教であることがわかった。これは何を意味するのだろうか。つまり、神道・イデア界の視点から、各宗教を理解する地平が開けたということだろう。ゾロアスター教は、思うに、イデア界の宗教であるが、しかし、一神教である。これは、男性的意志が入るのである。つまり、メディア/現象境界が入っているということだろう。そして、メディア/現象境界が、アフリマン(闇の神)になるのだろう。では、重要なユダヤ教は何だろうか。私見では、ゾロアスター教の男性的要素がさらに展開しているのである。即ち、メディア界を排斥するように、現象界化しているのである。だから、メディア/現象境界の宗教と言えるだろう。そして、キリスト教は、排斥されたメディアを肯定である。しかし、不十分である。そして、イスラム教であるが、それは、メディアからイデアへの進展を意味するが、一神教という男性的要素が残っている。ゾロアスター教とちょうど極性が反対になると思う。とまれ、イスラム教は、イデア界を取り戻したと言えるだろう。仏教であるが、それは、微妙である。《空》と《無》とがあるが、《空》がメディア界で、《無》がイデア界であろう。だから、仏教もイデア界を取り戻していると言えよう。神道が仏教と習合したのは、当然だと言える。両者は、イデア界の宗教なのであるから。とりわけ、大乗仏教がイデア界の宗教と言えるだろう。神道と大乗仏教との結合(神仏習合)とは、宗教文化上の最高度の幸運であろう。これは、ケルト宗教とキリスト教との結合以上の幸運であろう。日本文化は、宗教的には、最高度のものをもったと言えよう。(排仏毀釈・神仏分離令、脱亜入欧等という明治近代化は、この恵まれた日本文化を破壊したことになるのである。というか、排斥してしまったのである。そして、太平洋戦争という大愚行を犯して、アメリカの半植民地となったのである。伝統根源的な日本文化・社会の完全な喪失である。魂を抜かれたのである。)
 さて、問題はイデア界=太陽神・太陽処女神=善のイデアの問題である。そして、宇宙・太陽系の問題である。イデア界のどういう構造が、《太陽》性なのであろうか。不連続的差異の共立が《太陽》性なのであろう。これを数理的にはどう記述できるのか。+−を超える世界である。絶対値の世界である。超ゼロ度の世界である。そう、ガウス平面の世界である。ガウス平面上の円の世界ではないだろうか。この円が、《太陽》、原太陽なのではないか。不連続的差異を、例えば、素数の集合と考えればわかりやすいだろう。これが、円を形成する。そして、メディア界的には球体ないし球面となるのではないか。
 とまれ、ガウス平面の永遠の無限速度の円運動、これがイデア界の事象ではないか。(プラトンは円が根源的な形であると説いた。)そう、運動であり、且つ、静止である。形であり、力であり、π叡智である。形=力=智である。これが、イデア界ではないか。そして、そこには、不連続的差異であるイデアが共立・存立している。不調和の調和である。華厳宇宙である。両界曼荼羅である。
 問題は、境界の力である。これは、当然、無限大の力であろう。そして、これが、無量光(阿弥陀如来)=超光を意味するのではないだろうか。なぜ、超光になるのか。ゼロ度が光の発生である。それは、境界=無となるからではないだろうか。ゼロ度ではなくて、無である。境界という有=無である。不連続的差異は、他の不連続的差異(他者)と、共立的一致(共一と呼ぼうか)するのである。この共一性の力が超光なのではないだろうか。正に、華厳経宇宙や浄土教の世界であろう。不連続的差異・イデアの共立一致・共一した超光の充溢した世界である。超光は、超光子であろう。超光子のメディア化が光子であろう。

p.s. 神道と一神教の問題であるが、神道は、男性的な意志が欠落しているから、衰退してしまっったのではないか。アマテラス=イデア界と理論化することで、神道に個的意志が入るであろう。やはり、日本・東アジアと(ポスト)西洋文明の統一としての新神道・新多神教論である。

p.p.s. 「現人神」の問題は別に考察したい。

2006年02月21日 (00:30)

『武士道』と多神教と不連続的差異論:源流としての日本多神教・神道

新渡戸稲造の『武士道』は、印象では、とてもなつかしいものである。また、確かに、自分の心性の一部に通じるものがあると感じた。当然、日本文化の底流と通じるのだろう。現代人にとり、武士道は、遺物のようなものかもしれないが、これは、日本人の心性の原基に通じているし、かなり、主要なものをもっていると思う。個々の内容については、以下の資料を参考にしていただこう。
 私が今、感じて、考えているのは、換言すれば、武士道を形成したエッセンスのことである。様式としても、もはや武士道はありえないが、武士道のエッセンスが、日本文化・社会の基層としてあるのではないかということである。そして、このエッセンスとは、日本多神教、神道ではないのかという直感があるのである。神道が、仏教と習合して、封建時代において、武士道へと展開したのではないだろうか。どうも、そう思えてならないのである。切腹という様式は、きわめて宗教的だと思うのである。そう、アステカの人身儀礼を想起するほどである。アステカの儀礼は、太陽神殿で、生け贄のからだをナイフで裂き、血の滴る心臓を太陽神に捧げるものである。切腹は、はらわたをさらすことであるが、はらわたとは、肚であり、魂であるから、魂をささげる儀礼と見ることができるだろうから、アステカの凄惨な儀礼と通じると言えよう。ならば、切腹は環太平洋・アジア的原始儀礼であると言えるのではないだろうか。さらに推測すれば、天皇制も、それと関係しているのではないか思われるのである。つまり、これは、文化人類学者ジェイムズ・フレイザーの『金枝篇』の世界である。古い王と新しい王との暴力的交替の原始共同体的儀礼である。こうなると、全世界的になるだろう。原始共同体、原始農耕的共同体の儀礼となるだろう。
 さて、そういう含みをもって、武士道の源流として神道があるとしよう。これで、私のテーゼが根拠づけられる。武士道の源流として、多神教があるということである。さらに言えば、この根源的多神教ないし根源的神道と、不連続的差異論が関係していると思うのである。私は差異共立共創性を唱えるが、それは、不連続的差異論の理論から発するが、それは、他者を志向する倫理をもち、《多神教》的であるのである。これは、きわめて興味深い・意義深いポイントである。《武士道》のエッセンスとして、日本多神教、神道があり、また、不連続的差異論は、根源的に(イデア論的に)、差異共立共創性をもち、《多神教》的であるということである。すると、不連続的差異論とは、ポストモダン理論、「ポスト構造主義」から発しているものの、内在的には日本多神教、神道を起源にしているということが言えるようになるのである。これは、ポスト西洋文明の思想と東アジア・日本の《思想》との結合・統一であると考えることができるのである。西洋と東洋の統一である。不連続的差異論は、新しい地球文明の理論・哲学・叡知であると言っても大げさではないと思われるのである。一言で言えば、新しいミクロコスモスの思想である。小宇宙の思想である。これは、モナドの思想とはまったく異なるのである。モナドは、近代主義的である。微分・積分である。しかし、小宇宙=不連続的差異の思想は、ポスト近代主義であり、特異性の思想であり、微分不可能の思想である。(思えば、不連続的差異論の誕生以前に、根井康之氏の『東西思想の超克』(参照:http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20050804 )を読んで強く感銘を受けたのである。)
 考えると、神道の秘密は、イデア論なのかもしれない。日本多神教・神道は、ギリシア神話とことなり、イメージ・映像化されていない。神々が擬人化されていない。基本的には不可視である。思うに、ギリシア神話とは、先行したギリシア宗教を物語化したものであり、このことを考えないといけないだろうが、ここでは、ギリシア神話の多神教は、《メディア》的であるとすれば足りるのである。(参照:http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afgrsinwa.htm )
それに対して、日本多神教は、《イデア》的であると言えるのではないだろうか。確かに、八百万の神(神々)と言うが、それは、決して、森羅万象そのものが神々ということではなくて、森羅万象を介して(メディア)、神々を直感するということだろう。深山幽谷はそういうものだろうし、また、雷(神鳴り)は正にそういうものだろう。メディアである現象を介して、《神》を感じるということだろう。だから、ヴィジョンではある。しかし、このヴィジョンは、地中海的ではないだろう。明晰なものではないだろう。深遠なものだろう。メディアではなくて、イデア的だと思うのである。
 先に、日本の古代ないし前古代に、《イデア》の文化・社会があったのではと、推測したが、ここでの推論から見れば、《イデア》=神道の文化・社会があったということになる。そして、これは、当然、《縄文》の問題、日本・ヤポネシアの問題に関わってくる。ここで、北方性と南方性の問題が生じているのである。シャーマニズムとアニミズムである。この点は難問であるので、ここで、留めて、新たに検討したい。
 さて、これからの哲学・理論的課題は、ホワイトヘットの有機体の哲学、道元の『正法眼蔵』の禅宇宙論、ヌース理論、他とを比較検討することである。また、当然、数理論的に、発展させることである。
 
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参考:
武士道
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武士道(ぶしどう)とは、近世日本の武士 が従うべきとされた規範をさす。

通常の概念では、“君に忠 、親に孝 、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす”という態度であるとされることが多い。さらにこれに、常在戦場を以て心構えとした武士の意識を重視して、日本特有の「死の美学」を付けくわえることもある。

ただし上記のような典型的な武士道観念は、明治以降に近世の武士の倫理観・美意識を再編・再解釈されたものであるか、もしくは本来の武士道と明治期の再解釈があいまいなままに混同されているものを指す場合が多く、「作られた古典」の典型的な例である。

1900年 に新渡戸稲造 により流麗な英文で書かれた『武士道』(BUSHIDO:THE SOUL of JAPAN)は、はじめて諸外国に向けて日本人の「倫理観」を示した名著とされ、セオドア・ルーズベルト 、ジョン・F・ケネディ 大統領など政治家のほか、ボーイスカウト 創立者のロバート・ベーデン・パウエル など、多くの人たちに影響を与えたといわれている。

大韓民国 では、「花郎道」と呼ばれる朝鮮半島の思想が武士道の発祥であるとの歴史認識が主流である。
目次
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* 1 士道
* 2 参考書籍
* 3 関連先 
* 4 外部リンク

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士道

武士の発生以来、武士道の中核とされる主君に対する倫理的な忠誠意識は非常に低かった。これは中世期の主従関係が、主君と郎党とのあいだでの契約関係であり、「奉公」は「御恩」の対価であるとする観念が強かったためである。すくなくとも室町末期ごろまでは、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」といった考えかたは主流とはならなかった。

主君に心情的に一体化し、一族郎党のため命を捨てて武勇を示すことは軍記物語 などで賞賛されていたが、戦国乱世を経て江戸時代の平和な世の中となると、自らの名誉のためには命をも軽んじる価値観は天下の混乱を招くとして幕府による取り締まりの対象となった。

元和期以降になると、儒教 の朱子学 の道徳でこの価値観を説明せんとする山鹿素行 らによる士道が確立された。これにより、儒教的な倫理(「仁義」「忠孝」など)が、武士に要求される規範として強調されるようになった。



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参考書籍

* 『武士道の逆襲』 菅野覚明 講談社 現代新書 ISBN 4061497413
* 『武士の成立 武士像の創出』 盒蕎嗣澄‥豕大学出版会 ISBN 4130201220
* 『戦場の精神史 武士道という幻影』 佐伯真一 NHK出版  ISBN 4140019980
* 『BUSHIDO:THE SOUL of JAPAN』 新渡戸稲造
o 矢内原忠雄 訳『武士道』(1938年 )岩波文庫  ISBN 4003311817
o 奈良本辰也 訳『武士道』(1997年 )三笠書房  ISBN 4837917003
* "Bushido" , Nitobe Inazo 電子テキスト全文(Project Gutenberg)
* 『江戸三〇〇年「普通の武士」はこう生きた―誰も知らないホントの姿』八幡和郎、臼井喜法 ベスト新書 92 ベストセラーズ ISBN 4584120927
* 『『葉隠』の武士道 誤解された「死狂い」の思想』山本博文 PHP新書 PHP研究所 ISBN 4569619401

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関連先 

* 切腹
* 葉隠

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外部リンク

* 菅野覚明『武士道の逆襲』
* 久米邦武「鎌倉時代の武士道」
* 盒蕎嗣澄愽雹里寮立 武士像の創出』

執筆の途中です この「武士道」は、歴史 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93 " より作成

カテゴリ : 歴史関連のスタブ項目 | 軍事史
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金枝篇
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金枝篇(きんしへん、The Golden Bough)はイギリス の社会人類学 者ジェームズ・フレイザー によって著された未開社会 の神話 ・呪術 ・信仰 に関する集成的研究書である。金枝とはヤドリギ のことで、この書を書いた発端が、イタリア のネミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られた。

完成までに40年以上、フレイザーの半生を費やした全13巻から成る大著である。
『金枝』(J.M.W. Turner) アイネイアス神話の一場面。『金枝篇』の挿し絵として用いられた。
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『金枝』(J.M.W. Turner) アイネイアス 神話の一場面。『金枝篇』の挿し絵として用いられた。

フレイザーは人類学 者エドワード・タイラー の著作に影響を受けて本格的に宗教学 や民俗学 ・神話学 を研究するようになり、その成果として1890年 に2巻本の『金枝篇』初版を刊行した。その後も増補が繰り返され、1900年 には3巻本の第二版、1911年 に決定版として第三版が11巻本としてまとめられた。しかしその後にも研究は続けられており、更に1914年 には索引・文献目録、1936年 には補遺が追加され、この2巻を合わせた全13巻の決定版が完成した。

この著書はあまりにも大部で浩瀚に過ぎるため、一般読者にも広く読まれることを望んだフレイザー自身によって、1922年 に理論面の記述を残して膨大な例証を省略した全1巻の簡約本が刊行されている。

日本においては、岩波文庫 の全5巻の翻訳『金枝篇』がよく知られているが、これは簡約本からの翻訳である。2004年 から、国書刊行会 で第三版の完訳版(全8巻+別巻)が刊行されている。他にちくま学芸文庫 版『金枝篇』(初版の翻訳)や、東京書籍 の『図説金枝篇』も出されている。

本書にはヨーロッパ のみならずアジア 、アフリカ 、アメリカ など世界各地で見られる様々な魔術 ・呪術 、タブー 、慣習など、フレイザーが史料や古典記録、あるいは口伝から収集した夥しい例が示されている。未開社会における精霊信仰 、宗教的権威を持つ王が弱体化すれば殺し新たな王を戴く「王殺し 」の風習 や「類感呪術」「感染呪術」などの信仰の神話的背景を探った民俗学・神話学・宗教学の基本書として高く評価される。

フレイザーの研究姿勢は書斎における文献調査による事例収集が中心であったため、実際に現地に入り混じって人類学などの研究に従事するフィールドワーク 研究者からは、「書斎の学問」「安楽椅子の人類学」として批判を浴びている。また、未開社会と文明 社会の間に序列を設けるような文化進化論 的思考法も時代的制約とはいえ批判の対象となっている。しかしながら、古代 信仰・呪術に関するこれだけの膨大な事例を広く蒐集・総合した例は他にほとんど絶無であり、それだけでも非常に高い資料的価値を持つ。
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金枝

イタリア のネミの村には、ネミの湖と呼ばれる聖なる湖と、切り立った崖の真下にあるアリキア の木立とよばれる聖なる木立があり、 木立には聖なる樹(ヤドリギ )が生えていた。 この樹の枝(金枝)は誰も折ってはならないとされていたが、例外的に逃亡奴隷だけは折る事が許されていた。

ディアナ・ネモレンシス(森のディアナ )神をたたえたこれらの聖所には、「森の王」と呼ばれる祭祀がいた。 逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。 第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%9E%9D%E7%AF%87 " より作成

カテゴリ : 神話 | 民俗学 | 人類学 | クトゥルフ神話

2006年02月18日 (15:45)

《イデア》とは何か:《理念》とは心(倫理)と知性との統一である。

《イデア》あるいは《理念》というと、抽象的で、冷たいものと考えられるだろう。しかし、不連続的差異論において、《イデア》あるいは不連続的差異とは、冷たいものではなくて、暖かいものである。しかし、同時に冷徹なのである。真善美を志向しているのであるから、そうなるのである。ただ、哲学・数学的、知的に表現するから、その点で、情緒・情感は乏しくなると言えよう。しかし、内包されている感情は、暖かな、優しいものである。私が共立共創性というのは、それを内包しているのである。
 つまり、《イデア》とは、共感性(倫理性)と知性・合理性との包摂したものなのであり、感情と知性との統一なのである。ここでは、パラドクシカルな両者が、共立しているのである。問題は、《メディア》との違いである。《メディア》の場合、感情と知性とは相補性を形成して、いわば、揺らいでいるのである。ある時は、感情性が強かったり、ある時は知性が強かったりするのである。ある意味で、感情の起伏の烈しさを意味しよう。(マーラーの音楽がそうである。)これに対して、《イデア》は安定しているのである。揺らぐことがあっても、バランスを回復する志向をもっているので、均衡性を保持するだろう。結局、《イデア》(《理念》・不連続的差異)は、《メディア》を包摂しているのである。(ここで、この包摂を、止揚・揚棄aufhebenと言えるかということが考えられる。ヘーゲル/マルクス弁証法の術語であるが、それは、正反合であるが、弁証法は、基本的には一元論であり、ジンテーゼが反復されることになるだろう。しかし、《イデア》の包摂は、それとは、異なるのである。それは、《メディア》の対極相補性とに二元論をベースにしているのであり、両者を上位・高位的に統一するということであるから、弁証法ではないのである。だから、止揚等の用語が使用できないのである。)
 結局、《イデア》は、《メディア》を包摂し、また、《現象》を包摂しているだろう。(西田幾多郎が、「叡智的世界」で述べていることは、これと同じことではないだろうか。)結局、
《イデア》⊇《メディア》⊇《現象》ではないだろうか。(思うに、《イデア》⊃《メディア》⊃《現象》ではないだろう。)これを書き換えると、
《イデア・ポストモダン》⊇《メディア・ポストモダン》⊇《現象・モダン》
となるのではないだろうか。今や、小泉『偽装改革』が、解体しつつあるが、結局、『構造改革』とは、イデア・ポストモダンを目指すべきである。それは、差異共立共創経済社会である。それは、差異共立共創政治ということである。新自由主義は、経済主義であり、社会性を無視している欠陥のある経済理論である。自由主義とは差異自由主義として捉え直す必要があるだろう。差異自由主義とは、差異共立共創主義と同値である。

2006年02月18日 (14:23)

言葉と心:知と心:現代日本における情操・教養教育、想像力の欠落:古典を読もう。

今ベストセラーの藤原正彦氏の『国家の品格』の中で、実際的には役に立たない教養が、構想力を生むようなことが書かれていた。これは、コロンブスの卵であった。現代日本の問題は、経済的合理性を求めるあまり、情操・教養・想像力という社会・文化の「土」が等閑にされていることと言えるだろう。
 今、たまたま、目にした文章に、ディケンズの『クリスマス・キャロル』において、三人のクリスマスの精霊によって、スクルージの心の氷が、融けて、その心が暖かくなり始めたということが書いてあった。そう、心の氷結が、金融資本主義によってもたらされると言えよう。現代日本人も、スクルージ(守銭奴)と同じで、心が凍結して、想像力・共感力が涵養・陶冶されていないのだ。これは、心の強張りを生むのである。日本人の精神の強張りの説明がこれでつくだろう。とりわけ、東京人における心の強張りである。
 つまり、心=メディアが凍てつき、強張っていて、粗暴な合理性のみになっているのである。粗野・粗暴・乱暴・野蛮な現代日本である。このような心的状況において、ポストモダンは、当然、反動化するだろう。凍結した心は、現象界的に発動するのであり、時価総額云々へ向うのである。トリノ五輪が無惨なのも、ここに要因があるだろう。ポストモダンは本来、メディア=心・心身の解放であるが、日本の場合、それが、上述の原因で、反動化してしまったと言えよう(「アイロニカルな没入」)。
 結局、情操・教養・想像力を軽視・無視してきたツケが回ってきたと言えるだろう。『国家の品格』は正にぴたりのタイミングである。メディアである心を涵養することで、ポストモダンは、イデア性をもつようになるだろう。教養革命である。心の氷結・凍結を、想像力の太陽で解凍し、その強張りをなくすことで、落ち目の日本は復活するようになるだろう。また、自己中心主義・自己完結型人間が増加したのは、このような事情があったと言えよう。
 そう、思えば、心を無視し続けてきたのである。神経・精神病が多いのも、この狂気の社会のせいと言えよう。日本/ヤポネシア・ルネサンスである。古典を読もう。古典が日本の救世主である。

p.s. 心の経済学が必要である。私は差異共立共創主義を唱えるが、それは、確かに、共感性(心)と知性との結合した経済社会を意味する。心知性が必要であり、心知性的経済が必要なのである。それに対して、新自由主義は、その点をまったく考えていない。市場原理とは、恐い言葉だろう。自由市場は必要であるが、市場原理ということではないだろう。自由市場に対して、共立共創主義が必要である。心的経済が必要である。それは、民主主義的経済である。自由市場/心的共立経済である。私が差異というものは、あるいは、不連続的差異というものは、自由と心的共立共創性の統一したものである。だから、差異経済・差異自由共立経済と言えるだろう。このためには、差異政治・不連続的差異の政治・政策が必要である。新自由主義ではなくて、差異自由共立主義である。

2006年02月18日 (07:14)

古典的日本人の心性と現代的日本人の心性:メディア界と現象界:ポスト一神教と新多神教

古典的日本人の心性と現代的日本人の心性:メディア界と現象界:ポスト一神教と新多神教
2006年02月18日 05時45分54秒
テーマ:ニッポン社会
先に、『平家物語』を拾い読みして、その封建的主君家来との一体性の強さを感じた。いわば、血の結ばれである。しかし、現代では、そのような感情は排斥されて、ドライになっているし、自己完結的になっている。
 私が直観したのは、『平家物語』では、メディア的連続性が作用しているのであり、現代日本人においては、それが、捩れて、現象界的自我へと転化していることである。つまり、伝統的な日本人の心性は、メディア界が中心であり、現代は、現象界が中心であるということである。このメディア界的心性が伝統的な日本人の道徳を形成してきたのであろう。これは、また天皇制の心性でもあるだろう。そして、現代は、メディア界が捩れて、自我中心主義となっている。ここでは、独善性が支配的である。自我に没入しているのである。他者は排斥されている。通俗に言えば、「自己中」である。
 では、伝統的なメディア的心性は、どう考えるべきだろうか。他者との共感がある。これは、連続性が基盤となっている。しかし、この強度は、情熱的である。生命・本能的である。これは、メディアのエネルギーである。しかし、このメディアには、単に、連続性だけでなくて、不連続性が潜んでいるだろう。イデア性が潜んでいるだろう。神仏を志向する心性である。そう、多神教の心性とも言える。
 この伝統的なメディア心性と現代的な現象心性との相違はどういう意味をもつだろうか。つまり、前近代的日本人の心性と近代主義的心性とのパラドックスがあるのではないだろうか。つまり、メディアと現象との分裂性があると考えられる。ここに日本人のアイデンティティの形成の困難さがあるのではないだろうか。結局、近代的自我をもつために、伝統的メディア的心性を排斥したのではないだろうか。
 これは、少し先の考えとはずれてしまう。つまり、メディアから現象への転換によって、メディアが排斥されると私は考えているのであるから。これは正しいのである。近代主義は、正に、1/4回転で、メディアを排斥するのである。日本人は、現代の日本人は、近代的自我化したのである。問題は、この転換が、必然なのかということである。理論的には必然である。しかし、メディア/現象境界があるから、完全には、メディアを排斥はできないはずである。つまり、1/4回転は、先のものを潜在化するのである。最初の1/4回転は、イデアを潜在化させ、メディアを発生させる。次の1/4回転は、メディアを潜在化させて、現象を発生させるということだろう。だから、正しく言えば、1/4回転で、メディアを排斥・隠蔽するというのは、間違いである。潜在化させるのである。あるいは、無意識・潜在意識化するのである。これは、近代主義ではなくて、普通の現象化である。しかし、西欧近代主義は、絶対的に二元論化したのである。つまり、メディアを排斥・隠蔽したのである。ここには、異常なものがあるだろう。おそらく、キリスト教の絶対的善悪二元論がここに作用しているのではないか。ロゴスの伝統ではなくて、キリスト教の二元論が、このような極端さを生んだように考えられる。つまり、西欧近代主義とは、キリスト教的現象界主義ということである。そして、これが、近代日本に入ってくるのである。ここで、メディア的である伝統的日本人の心性は混乱するはずである。漱石の神経病がそうだろう。また、その他の作家の精神病性もそうだろう。(西欧では、この近代主義に対抗して、ロマン主義が生まれた。つまり、メディアの反逆である。)日本では、メディア的心性は、近代的天皇制に吸収されたと言えよう。そして、それが、太平洋戦争へと巻き込まれる。戦後、このメディア的心性が捨てられるのである。完全に西欧近代主義が、アメリカ文明として入ってくるのである。日本の完全な近代主義化である。この戦後日本の絶対的近代主義が、現代・今日の自己中心主義人間を形成したと言えよう。つまり、日本の伝統的なメディア的心性が完全に排斥されているのである。これを私は狂気と呼んでいるのである。「現実」への逃避があるのである。そして、これが、小泉改革と符号するのである。しかし、小泉首相は、パフォーマンス屋である。近代主義者ではない。近代主義者ならば、従来の自民党路線である。ODA ウォッチャーズ氏がいみじくも述べているように構造主義者であると見るのが正しいようである。構造改革という発想が、確かに、構造主義的である。そして、メディア的である。結局、小泉首相には、メディアが存しているのである。これは、現象界からメディア界への回帰である。すると、ここには、伝統的な日本への志向が生まれるのである。これは、戦前や前近代への志向となるだろう。小泉氏の靖国参拝は、このメディア的一体感から発していると考えられよう。そして、これが、「アイロニカルな没入」である。そして、戦前的右翼的発想の安倍氏と結びつくのである。
 ポストモダンは、メディアの解放を意味して、第二のルネサンスである(20世紀前半もメディアの解放と見られるから、第三のルネサンスと言うべきかもしれない。)。そして、このメディアのもつ連続性から反動性に向ったのが、小泉改革であり、現代日本社会である。かなり、複雑である。若者の保守回帰も同様に考えられるだろう。
 少し整理すると、近代主義に相応するのは、旧来の自民党である。社会主義の日本である。しかし、ポスト近代主義に対応するのは、小泉首相や若い世代である。メディアの世代である。問題なのは、日本のポスト近代のあり方である。日本人のメディアのあり方である。ここで個の問題が出てくるのである。日本の伝統的なメディアの文化に、日本的個があったと思われる。しかし、これを戦後喪失しているのである。つまり、近代的自我主義があり、そして、ポスト近代主義が起ったのである。メディアが個となるのではなくて、近代的自我性を帯びるのである。あるいは、分裂症的になるのである。解放されたメディアと近代的合理主義との分裂があるのである。今日、精神的病気が多いのは後者が原因ではないだろうか。
 結局、個・特異性・単独性の問題になった。つまり、不連続性、不連続的差異性の問題である。結局、メディア/現象のメディアではなくて、イデア/メディアのメディアへと向う必要があるということである。そして、さらに、イデアへと進展すべきである。
 さて、そうなると、不思議なことに、「一神教」が回帰するのではないだろうか。偶像はメディアであるが、それを超えたイデアを志向するのであるから。だから、現代はイメージや映像や芸術の時代ではなくて、「一神教」の時代なのかもしれない。そうすると、キリスト教のようなイメージをもった宗教はダメである。イスラム教やユダヤ教が有力となるのではないだろうか。しかし、ユダヤ教は、私見では、メディア/現象の宗教であるから、イデア界的ではないのだ。すると、イスラム教が残る。ポスト・ユダヤ/キリスト教であり、イスラム教の時代ということかもしれない。しかし、本当に一神教なのか。私は新多神教を主唱してきた。つまり、イデアへの回帰とは、当然、多元的イデアへの回帰であり、ポスト一神教なのである。だから、ポスト・イスラム教でもあるだろう。D.H.ロレンスは、旧約聖書に多神教の世界を見た。そして、新しい神々を生まれると考えていた。そう、イデア界への回帰とは、新しい神々=イデアをもたらすだろう。

2006年02月16日 (13:06)

倫理、共感性、近代的自我:日本「資本主義」、欧米資本主義、《イデア》資本主義

この問題は、ODA ウォッチャーズ氏が、述べていることと関係する。

《 これは、夢遊病患者が、まさに「現実」から「逃避する」と供に、「自分の想像上の『現実』」に「逃避する」という。二重の逃避を始めたことになる。》http://blog.kaisetsu.org/?eid=317032

即ち、近代的自我は、メディア界から1/4回転で捩れて、現象界化することによって形成されるのであるが、この捩れによって、排斥・隠蔽されるものが、倫理や共感性であると、これまで、私は考えてきた。
 しかし、いわば無意識として、倫理や共感性は《メディア》界に内在・潜在している。良心や良識の「元素」である。しかし、問題は、現象化した自我、近代的自我とは、利己主義であり、自己中心主義である。排他的である。悪魔的である。「狂気」である。仏教でいう色であり、無明である。(アポロンの神託の「汝自身を知れ」や仏教の解脱や神道の己を知るは、同一の教えである。万教帰一。)
 現象界の自我(近代的自我)とメディア界の良心との関係を見ないといけない。前者と後者は、パラドクシカルな関係にある。利己主義と倫理主義の二律背反性がある。近代的自我・近代的合理主義に徹すると、当然、《メディア》界に対する排斥・隠蔽が徹底化する。(これが、漱石の『こころ』や『行人』に描かれているものである。)
 問題は、近代的自我の傲慢化と独善化である。傲慢化は1/4回転ですぐ説明できる。独善化も1/4回転から発する。
 この点を細かく見よう。以前、連続・同一性化という言い方で、現象界の近代的自我を説明した。この観点は、メディア界から現象界への1/4回転によって、差異が排斥されて連続・同一性が自我を形成するということである。ここの力学は微妙である。メディア界において、不連続的差異と連続的差異が相補性を形成している。そして、連続的差異が不連続的差異を排斥・隠蔽するような形で、現象界化するのである。連続的差異は、ゼロ度共鳴によって形成されている。(ゼロ度共鳴とは共感性であると先に述べた