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2006年02月28日 (15:31)

特異性とコギト/スム:メディア界・メディア空間の3層併存性:特異性・相補性・同一性の併存空間

直観では、「我在り」=身体は、「知」をもっている。「我思う」=心の「知」とともに2つの「知」があることになる。この二重性をどう捉えるべきか。
 端的に言えば、先に述べたことを繰り返すことになるが、《コギト》と《スム》は相補性を形成しているということになる。これは、正に、スピノザの心身平行論と一致するのである。つまり、《コギト》の「知」と《スム》の「知」は、相補性の「知」を成しているということになる。「我思う」は「我在り」と対になり、言わば、対極知(対知)となっているのである。(思うに、ヌース理論は、この対極知(対知)を、対称性の論理で徹底した理論ではないだろうか。)
 直観では、「我在り」とは、特異性である。問題は、「我」である。単なる「在り」ではないのである。この「我」が、「我思う」と関係していると思われるのである。ここでは、正に、中国・東アジアにおける陰陽の様相を見るべきである。即ち、「我在り」の内部に「我思う」が存し、また、「我思う」の内部に「我在り」が存するということを考えるべきではないか。おそらく、「我在り」=陰、「我思う」=陽であろう。
 さて、「我在り」を特異性と言ったのであるが、ならば、当然、「我思う」も特異性になるのである。つまり、「我思う」∞「我在り」(∞は、陰陽性ないし相補性の記号とする。メビウスの帯・輪と見てもいい。)は、特異性でもあるということになる。このことを詳しく見ていこう。 
 問題は、複雑である。我思う/我在りとは、不連続的差異論から見たら、どの領域に位置しているのだろうか。相補性であるから、当然、メディア界、メディア空間である。しかし、現象界・現象空間(近代空間)にも存していないのか。「我思う」は、現象空間を知覚・認識するだろう。現象自我(近代的自我)は、同一性意識をもつ。すると、ここには、2つの自我が併存していることになる。そうなのだろうか。メディア界・特異性の我が、現象界の我でもないのか。例えば、テーブルの上にコーヒー・カップがあるという現象を考えよう。これを、現象界の私が見ている。しかし、同時に、私は、メディア界の私でもある。「この」コーヒー・カップは、同一性でもあるし、同時に、特異性でもある。しかし、一般には、同一性で処理するのである。現象界の私とは、同一性の私である。健診を受ける私は、医学という同一性の科学の検査の下にある。私の身体は、同一性の身体である。
 というように考えると、「我」とは、特異性であると同時に、同一性である。二重性があるのである。(ここで、ヌース理論が、認識は、現象よりも1次元高次にあると説いていることを想起する。確かに、メディア界は、現象界よりも、1次元高次にあり、そこから、現象界を見るということは、考えられないことはないように思えるが。しかし、やはり、そういうのは、誤りではないだろうか。メディア界は、内在的超越の領域、超越論的領域であり、高次とは言え、現象界を包摂した高次であると、この場合、見るべきであると思う。ヌース理論は、超越性と超越論性を混同している面があるように思うのだが。)だから、メディア界・メディア空間の「我」は、現象界・現象空間の「我」を包摂していると見ることができる。
 では、同一性の我を包摂したものとして、特異性の「我」をさらに検討しよう。これは、当然、メディア界・メディア空間の構造の問題となる。メディア空間とは、実は、3層性をもつ。即ち、

1.イデア/メディア境界(IM境界)
2.純粋メディア空間
3.メディア/現象境界(MP境界)

の3層構成である。単純に考えても、メディア空間とは、3元論である。そして、特異性の「我」とは、この3層にすべて関わると見るべきではないだろうか。これをどう見るべきか。これは、地層の多層性として捉えるとわかりやいように思える。

3.dd1ーdd2ー・・・ーddn
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2.dd1∞dd2∞・・・∞ddn
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.dd1/dd2/・・・/ddn

3が、基層であり、その上に2と3が堆積するのである。しかし、問題は、これらを、分離してはいけないということではないか。2とは、境界ゼロ化による3の変容であるが、しかし、実は、3を単に隠蔽しているのである。つまり、2とは、同時に3でもあるのである。ゼロ化とは、このような矛盾を併存させるのである。不連続性であり、且つ、連続性であるという事態・事象がここには存しているのであり、西田哲学の絶対矛盾的自己同一がここには成立しているのである。だから、2は、3を隠蔽的に内包しているのである。換言すると、3は2の暗在系である。つまり、2と3とは次元が異なるのである。3が高次元であり、2がそれより1次元低次元である。
 同様に、1は、2を隠蔽していると言えよう。2は1より1次元高次元にあるのであり、2と1とが併存しているのである。即ち、相補性と同一性との併存、絶対矛盾的自己同一がここでも成立しているのである。1を、特異性とするならば、

3.同一性
・・・・・・
2.相補性
・・・・・・
1.特異性

となり、これら三者は、絶対矛盾的自己同一を成しているのである。三者異質なものが併存している様相にあるのが、メディア空間である。だから、特異性即非相補性即非同一性である。(なお、即非は、鈴木大拙の仏教哲学術語である。即は、同一であり、非は不同一である。それらが一致しているという事態を表現しているのである。)
 ということで、上述した「我」の特異性の問題がこれで解明できたと言えよう。即ち、コギト/スムの哲学とは、本来的には、メディア空間の哲学であり、メディア空間のもつ特異性を帯びているから、「我」は特異性なのである。
 この結論から、ポストモダン理論が新たに解明されることになる。先に、ポストモダンには、イデア性、特異性があると述べたが、そのことを含めて、明確な定義ができるのである。
即ち、ポストモダン理論とは、不連続的差異論で言う《メディア界》ないし《メディア空間》の領域の理論であり、それは、3つの不連続な異質な層が矛盾同一的に併存している領域における様相の理論なのである。しかしながら、通俗には、一般には、皮相に、上っ面に、2と3の局面でしか捉えていず、極めて不十分な、短絡的な理解が行われたのであり、流行に堕したのである。ただ、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学においては、特異性が明確に言及されてはいたが、それと連続的差異=微分とを混同していたので、ポストモダン理論としては、混濁・混乱した欠陥のある理論になってしまったのである。この欠点を、不連続的差異論は、超克して、ポストモダン理論を合理論・整合化したと考えられるのである。ポストモダン理論の新生である。
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