2006年03月31日 (04:02)

差延

差延
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差延 (différance) とは、哲学者 ジャック・デリダ によって考案された「語でも概念でもない」とされる造語。およそ何か或るものとして同定されうる(アイデンティファイできる)ものの不可避的な前提条件としての、根源的な「ずれ、遅れ」、空間的で時間的な差異化を指す。原・痕跡、あるいは原・エクリチュールとも表現される。
目次
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* 1 表記
* 2 前史
* 3 概要
* 4 フッサールの現象学との関係
* 5 ハイデッガーの存在論的差異との関係
* 6 関連書誌
* 7 関係事項
* 8 外部リンク

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表記

フランス語 の名詞 différence (差異 )は動詞 différer に由来する。この動詞には「異なる」という意味のほかに、「遅らせ、先延ばしにし、留保する」という意味もある。そこで、eをaに変えることで、 différer の現在分詞形である différant を経由して名詞化した形となり、 différence で失われた「遅らせ、先延ばしにし、留保し、後にとっておく」という意味を担わされた名詞として différance が得られる。

また、デリダは-anceの形からの名詞化であることから、ギリシア語 でいう中動態 のように、能動態 と受動態 の間で宙吊りにされた、再帰的なニュアンスを持つ名詞であることを示唆している。(différanceは能動・受動の差異の手前にあってその前提をなす自己差異化の運動を指す)

また、この二つの形は発音の上では区別がつかない。そのことによって、この区別が声の次元ではなく、文(エクリチュール )の次元に存在することが示唆される。(différanceは声(フォーネー)が直接性において文に優越するというモデルに依拠する音声中心主義 への批判を伴い、そうした直接性をその不可避な前提として予め成り立たせている間接性・媒介性を指す)
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前史

différance は差異についての20世紀に入って再び活発になった哲学的な思考の流れの中に位置する。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル は「AはAである」の同一性の判断について、この判断は同一性だけではなく非同一性をも意味している、と述べた。「Aは」のAと「Aである」のAは、少なくとも概念的には異なるものとして識別されている。すなわち、同定においてすら、Aは二重化され、自己自身に対して差異化されなければならない。ヘーゲルにおいては、この差異化が弁証法 を駆動するが、その差異化は止揚 において総合されることが、あらかじめ展望されている。

また、ヘーゲルは、さまざまな多様性をなす諸々の差異が構成されていく起源には、もはや何者にも媒介も規定もされない、根源的な直接性である一者があると考えた。この一者が、あたかも生物学的な卵割のように区分されて差異が生じて行き、弁証法的な運動によって多様化し、歴史が進展していく。

こうした、ヘーゲルによってひとつの完成に達した、同一性の支配に服した差異の概念と、それに依拠した「形而上学 」を批判する哲学的な傾向が、20世紀に入って、フリードリッヒ・ニーチェ 、フェルディナン・ド・ソシュール などの影響のもとに発生した。

ニーチェは差異を価値と意志と力の観点から考え、差異を必然的に価値的な、還元できない複数の力の拮抗として捉えることで、そこに安定した同一性への収束の保証も、同一性による支配の根拠も存在しない、と主張した。また、力は、二つの量の間の差異としてのみ現れえるもので、それ自体として力は把握できない。この原因のない効果としてのみ存在するという点で、différanceへと力としての差異は繋がっている。

ソシュールはその1906年 から1911年 に行った一般言語学に関する講義のなかで「言語には差異しかない」と述べた。彼によれば、記号の意味は、他の記号との違いによってしか規定されていない。ひとつの記号は他の諸記号が「不在において」介在している限りで意味しうる。しかも、その他のものは、その記号それ自体においては不在であるから、あらかじめどういうものかは決して規定されない。

このことは言語論的転回 を参照するまでもなく、それ自体ひとつの記号であるところの哲学的な概念、とりわけ、他のすべての概念がそこから意味を汲み取っており、他の概念には依存していないとされる、形而上学的で超越的な観念やそこからなる体系にも波及せざるを得なかった。
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概要

デリダはこのソシュール的な差異のあり方を痕跡として捉え、そこに時間的な遅れ、ずれを見出した。

言語においてある語が何かを意味するとき、その語は、意味されているものの代わりに、我々に対してたち現れて意味する。代理・代表・表象する(represent)するということは、一方では代理なしでは現前(present)しないものを現前させることだが、他方では直接には現前させない、ということでもある。代理するということは、不在の形で現前させるということでもある。

したがって、意味のあるところには、つねにすでに、他への参照、あるいは、他による媒介が働いている。そして、そこで不在の形で介在する他のものは、しかし、あくまでも、その記号とは異なるものである限りで、その記号自身によってはコントロールできないものであることから、そうした根源的な媒介性の関係、基本的な差異化の運動には、必然的にずれと遅れが孕まれざるを得ない。

このことは別の形で言い換えるとむしろ順番は逆であって、意味がそこにあるためには、その記号は、他との関係を必要とする。そして、その為には、他と異なることが必要になる。そこで、或る他との差異化の運動がまずはじめに必要となる。しかしこの差異化は、必然的に、時間的な差異化でもある。この、他との差異化の側面が「ずれ」であり、時間的な差異化の側面が「遅れ」である。意味を為すためには異ならねばならないのだから、形而上学 が想定するような、「透明でずれも遅れもない関係」=「直接性」というのは幻想に過ぎない。

また、およそ何かあるものが、それとして同定(アイデンティファイ)できるということは、それが反復可能性 を有していなければならない。繰り返されうる記号だけが、同定するものと、同定されるものとの二つに二重化されうる。識別可能な二つのものだけが同定可能であり、そこにはまずはじめに差異がなければならない。したがって、何か同一性を保ち、何らかの体系の支えになるような根源的な概念を考えたとしても、それがまさしく同一性を保ち、現前するものであるかぎりで、その手前にあらかじめ差異化の運動、différance が存在して、内的な同一性を引き裂いている。

ただし、デリダは差異化という表現に対しては、それが、その主語である何かの実体を想定させてしまう能動性を意味するという点で、次善の表現であるとして留保している。différance は、ひとつの効果、あるいは効果を生む作用であるが、その主語、主体、原因は持たない。

こうして、「つねにすでに」いかなる記号や表現、概念、存在、同一者においても、他への参照と他からの遅れ、他なるものの痕跡としての、不在のものとの関係、不可避で還元不可能な「ずれ」があらかじめ働いていて、そうした何ものも、根源的なものとして立てることはできない、というのが、différance によってデリダが思考しようとしたことである。
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フッサール の現象学 との関係

フッサール現象学は、経験される現象を、純粋に意識に直接与えられている、いわば疑いようのない確実なものだけにいったん還元して、そこから現象を再構成することで、認識の不確実性やそれにまつわる哲学的問題を克服しようという、デカルト 的な試みであった。

その為には、そこからすべての現象が構成される「根源」として、純粋かつ直接的に意識に与えられた現在(現前 present)というものが考えられなければならない。ここで、現象学にとって、時間性というものがアポリアとして現れる。意識に直接与えられているのは、あくまでも現在の瞬間であって、そこから他の時間を引き出すことはできない。そこでフッサールは過去と未来は独立した、現在と対等の何かではなく、唯一存在する「現在」が持っているひとつのモードであるとした。こうしてフッサール現象学において、根源的かつ自己充足した現在の、意識への純粋な自己現前という、絶対的な位置づけが成立する。

このような現在のあり方は他を必要とせず自らを、余すところなく提示するということであり、デリダは「声」がそのようなありようのモデルとしてフッサールだけでなく過去の形而上学を規定してきたと批判する。音声中心主義 。これに対して提出されるのがエクリチュール の概念である。声は直接的に意味を伝え、文書はそうした生き生きとした「声」の間接的な反響に過ぎないとされてきた。

差延 (différance)はデリダによるこの絶対的な現在への批判に関係する。(以下、主として『声と現象』ISBN 4480089225 による)彼の批判によれば、意識は現在を純粋かつ直接的に経験することはない。デリダはこうした、自己自身に直接的に、何ら媒介をともなわず、明晰に意味が現前( present )する、届くという想定を指して『自分が-話すのを-聞く』と表現する。「直観」や「明証」、また透明な理想的コミュニケーションとは、『自分が-話すのを-聞く』かのごとき概念なのである。しかし、聞く自己と話す自己の差異=差延が、またそれに加えて話される言葉の話されなかった他の言葉との差異=差延が、聞くことの条件である限りで、この直接性も実際には汚染されている。つねにすでに現在は、過去によって不在の形で、つまりその痕跡の形で取りつかれており、過去に間接的に媒介されない直接的な現在というものはない。現在は不可避的にすでに過去によって痕跡という形で汚染されている。

言い換えると、過去の痕跡との関係によってはじめて現在は意味を為すことができるのだが、痕跡の形で現在と関係している当の過去は、あくまでも痕跡の形でしか現在に含まれていないため現在にとっては不在であり、フッサールの受動的総合のように、現在にその一部として所有されているわけではない。こうして、現在はその自己充足性を失い、つねに欠如をはらんだ動的な時間性を帯びることとなる。現在は独立して存在することができず、その外部である過去とのひらかれた関係を必要とする。

現在を構成する記号や表現は、それが意味を成すためには、それ自身とは別の記号や表現を指し示すことが必要であるが、この参照は無時間的なものではなく、必然的に時間的な「遅れ」を伴う。記号は別の記号への参照によってはじめて記号として機能するのだが、この参照に不可避的に孕まれる「遅れ」によって、指し示す記号と指し示される記号は、同一の現在の内部にあることができない。こうして、現在において不在の記号が過去として、現在の記号に痕跡として憑依するのである。

デリダはこの事実から、根源的なものは、そもそも存在し得ない「意識に直接与えられた純粋な現在」ではなく、こうして不在の過去と現在とを引き裂きつつ関係付ける差異、記号参照において孕まれる「遅れ」「ずれ」としての痕跡の働きであるとみなし、これを、差延 (différance)と名づけた。
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ハイデッガー の存在論的差異 との関係

ものが存在するということをハイデッガーは、存在するものとして語りうるものとは、どうあっても異なるものであると考え、この違いを存在論的差異(Ontologische Differenz)と呼んだ。

この還元できない根源的な違いにこだわる限り、「ものが存在するということは、そのもののこれこれこういう性質である」という形式の説明は一切できない。存在することは、ものの属性ではない。また「ものが存在するということは、より基本的な何かの在り方のモードである」という形の説明も解決にならない。その基本的な何かは、依然として存在する何かなので、その存在がやはり問題として残るからである。

ハイデッガーは、従来の哲学はこのように存在する何かでもって存在するということを説明してきたとみなし、この存在論的差異の忘却によって、存在するということの意味を把握し損ねてきたと考えた。ハイデッガーに依れば、何かが「存在する」ということは、現に「いまここ」というものが不断に存在する、ということとの係わりでしか理解できない。そして、この、「いまここが現に不断に存在する」という出来事は、近似的にいえば、現象の場としての<私>の存在のことであり、これを現存在 と呼ぶ。

この現存在の概念は、認識論的なフッサールの超越論的主観性の概念を存在論的に作り変えたものと見ていい。フッサールの生ける現在(=現前 present)はここでは現存在として捉えなおされる。存在者に存在が不在なものとして必然的に介在するということは、現在に決して現在にはならない(現前しない)過去(の、あるいは、としての)痕跡がその前提を為して介在しているという事態と類比的な事態なのである。

このとき、ハイデッガーの存在論的差異は、思惟や行為の対象からなるものの総体の外部がつねに存在するということを示すという方法的意義を持っている。あらゆるものが思惟や行為の対象になりうるが、そのような思惟や行為の対象は、決して、その思惟や行為の対象をそういうものとして成り立たせているものとは同一ではない。

デリダは、この存在するものに不在という形で取り憑く存在するという出来事を、それ自体としては決して現れないが、そういうものとして存在するものに係わっているものとして、一種の痕跡とみなす。存在は、それ自体として存在者の世界(思惟や行為の対象の世界)に出現しない。現れてしまったら、それはもはや存在者だからである。

われわれが主題的に思惟する対象にできるのは存在者だけである。あるいは、対象として思惟したとき、それはもはや存在者としてわれわれの前に現れている。即ち、存在する何かとして語りうるものになっている。存在という概念によって存在するという出来事を主題化し対象として思惟することは確かにできるが、そのとき、存在するという出来事の特性を、この存在という概念、すなわち存在を意味する存在者を見つめることによっては把握できない。

そういう意味で、存在は、存在者の世界には不在である。しかし、存在者は、存在することによってはじめて存在者なのだから、そこには存在が、やはり或る形で介在している。不在であるがそこにある形で介在しているという意味で、やはりそれを痕跡として規定することができる。

デリダは、この差異、存在するものとその存在との間のずれから、より一般的にあらゆる同一者が前提として経なければならない内的な差異化の運動 différance を引き出す。存在論的差異は、それが存在という形式によって限定されて現れた姿として捉え直される。

しかし存在論的差異や存在は現存在から或る意味で派生するものであり、現存在に先立たれている。それに対して、différance は、存在や現存在に先立っており、それよりも「年老いて」いる。différance は何らかの存在や存在者や主体の作用ではなく、そのような「主体」などの、主語になりうるようなものを成立させ、そのようなものに先立つ。
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関連書誌

* La voix et le phenomene (初版1967年 3版2003年 ) 日本語訳 林好雄『声と現象』ちくま学芸文庫
* La Différance (1968年 1月27日 フランス哲学会における講演) 日本語訳 高橋允昭「ラ・ディフェランス」(『理想』1984年 11月号 「デリダ特集号」)

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関係事項

* ジル・ドゥルーズ  ドゥルーズはヘーゲル的な差異への批判をニーチェとアンリ・ベルクソン を範例としてデリダとは異なる形で遂行した。そこでは差異は微分(differenciation)と関係付けられ、自らを自己差異化する生産的な力、充溢した多様な強度として把握された。

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外部リンク

* Différance Alan Bassによる英訳

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%BB%B6 " より作成

カテゴリ : ポストモダン哲学
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■差延、超越論的主観性、存在:三者は類似的ではないだろうか

この差延の説明は、詳しく明敏に書かれていると思う。
デリダとフッサールの関係がとても興味深い。デリダのハイデガーに対する関係は、近親憎悪みたいだ。似ていると思う。(思うに、ハイデガーの存在的差異とは、カント的である。カント哲学を少し敷延すれば出てくるだろう。)
デリダのフッサール批判は、同一性批判になるが、それは、一面では当たっているかもしれないが、しかし、それは、皮相だと思う。フッサールの時間論は問題があるかもしれない。しかし、超越論的主観性は、実は、同一性ではなくて、差異と見るべきだと思う。つまり、志向性とは、差異1の差異2(他者)への志向性と考えるべきだと思うのである。
 後で、できれば整理したいが、デリダ、フッサール、ハイデガーは、ほとんど、同心円だと思うのである。中心は、当然、差異である。また、彼らの先駆にカントがいるだろう。カントの超越論は、現象形式と実践理念との差異論と見ることが出来るのではないか。ドゥルーズがこのように見ていると思う。カントの実践理念とは、実は、プラトンの善のイデアであろう。カントの近代主義の枠組はなにか小心翼々だ。自由と必然のアンチノミーは、実は、スピノザ的に、一致できるのである。個の自由とは、差異的必然性があるだろう。また、偶然性であるが、思うに、自由と必然の仲介のようなものになるのではないか。
ソフィオロジコ (2006-03-31 03:45:08)

■カントの物自体とメディア界&イデア界

カント哲学は、構造主義の先駆と言えよう。超越論的形式という超越論的主観形式が構造である。しかし、構造を超えて、理論化しなかった。物自体は、脱構造的存在であり、それは、メディア界且つイデア界を指しているのだろう。カント哲学の構造主義とその二元論的亀裂。ポスト・カント哲学は、超越論的差異哲学となる。フッサールであり、ハイデガーであり、デリダであり、ドゥルーズ、他であった。しかし、連続的差異と不連続的差異、相対的差異と絶対的差異を彼らは明確に区別できなかったために、ポストモダン理論は、頓挫した形になってしまったのだ。そのようなポストモダン哲学を超克するものとして、不連続的差異論やヌース理論があるだろう。それを、パラモダン理論、パラモダン哲学と呼ぼう。
ソフィオロジコ (2006-03-31 03:57:28)

2006年03月31日 (01:41)

時間論:1

時間については、何度も、考察してきたが、未だに、明確な解明に達していない。最新の考えでは、時空間は、微分/積分の同一力によって発生することで、結局、微分力が時間ということになるのだろう。
 ここで、少し脱線すると、十代の頃、動きというものを不思議に思っていた。なにかが眼前に現れて、消えていく。普通は、当たり前のことではあるが、これは、不思議だと今でも思うのである。人がやって来て、去る。車が走ってきて、去る。これは何なのか。
 動きと時間が関係する。動くとは何か。それは、同一化の連続化ではないか。即ち、差異1⇒差異2(同一性1)、差異2⇒差異3(同一性2)、差異3⇒差異4(同一性3)、・・・、差異n-1⇒差異n(同一性n-1)となり、Σ同一性kが、現象であり、動きではないのか。メディア界においては、差異の振動が考えられたが、現象界においては、同一性の「振動」があるのではないのか。あるいは、同一性の「速度」があるのではないのか。これは、同一性の力、同一力によるだろう。すると、微分力にもどってしまう。
 もう少し、精緻に、丁寧に考えよう。メディア界は、差異と差異との相補性の領域である。ここでは、差異が共振するのである。これは、連続的差異である。ゼロ化・ゼロ度における共振する差異である。ここでは、差異1⇔差異2の関係があるだろうが、差異1→差異2という極限値の志向はない。極限値は、やはり、同一性が問題になるときである。だから、2回目から3回目の1/4回転において発生するだろう。2回目の1/4回転とは、差異1☯差異2/差異1・同一性・差異2であり、3回目の1/4回転は、差異1・同一性・差異2即ち、差異1=差異2となる。3回目の1/4回転で、微分・積分が決定的になると言えよう。微分を同一性とすると、同一性1、同一性2、・・・同一性nを連続・重層化するのが、積分であり、同一性1→同一性2→・・・→同一性nが現象である。そして、この→が時間ではないか。少し混乱しているのかもしれない。差異1→差異2→・・・→差異nとしてもいいのかもしれない。しかし、差異1→差異2という極限値においては、同一性1が発生する。だから、図式は、同一性1→同一性2→・・・→同一性nが正しいだろう。
 ならば、これは、微分によって形成された同一性の連続化である。この微分の連続化が積分であろう。つまり、∫dy/dx=f(x)=yであろう。そうすると、同一力とともに、連続力がないといけない。しかし、同一力の延長として連続力が発生するだろう。だから、同一・連続力と呼んでいいだろう。これが、時間や速度(動き)を生むのだろう。すると、時間とは、やはり、微分・同一力と見ることができるのではないだろうか。そして、メディア界の差異、共振する差異は、振動数をもっているのだから、この差異振動数の大小が、時間/速度に関係するのではないだろうか。
 ここで、デリダの差延という概念を想起するといいだろう。これは、時間が常に知覚において遅延することを説いたものと言えよう。これは、換言すると、メディア界の差異を、現象界の同一・連続性として捉えるときの遅延と言えるのではないだろうか。また、ここで、ゼノンのパラドックスも想起するといいだろう。矢が飛んでいるように見えるのは、現象界の同一・連続性によるのであり、メディア界においては、飛んでいないはずである。つまり、時間とは、現象界においてのみ存在する仮象ではないだろうか。シミュラクルではないだろうか。微分・同一・連続・仮象(マーヤ)・幻想力が、時間を発生させているのではないだろうか。思うに、ゼノンが正しいのではないだろうか。時間が進んでいるように見えるに過ぎないのではないだろうか。
 結局、時間とは、微分仮象幻想力であり、同一化の力に基づくと言えるだろう。時間とは存在していないということになるだろう。あるいは、時間は止まっている。時間以前には、不可分時空体があるのであろう。メディア界である。差異相補性である。つまり、差異相補時空性である。

p.s. 時間は仮象ということになったが、では、時間の不可逆性をどう説明するのか。覆水盆に返らず。同一性1→同一性2の→に決定的な意味があるのだろう。これは、同一性1←同一性2の←とはまったく異なる。→は、3回目の1/4回転を意味している重要な矢印と言えよう。 
 因みに言うと、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』で、白の女王の出来事の時間の順序が逆さまになる場面がある。指から血が出てから、指に針を刺すのである。この時間の逆転は、鏡の国だから、逆さまということで意味が通るのであるが、この可逆性は、メディア界の相補性による遊びと言えるのではないだろうか。
 3回目の1/4回転で現象界が発現する。しかし、ここから、反転するのであるが、反転は、時間の反転ではない。なぜなら、時間とは、現象界のものだからだ。4回目の1/4回転とは、マイナス1/4回転であろう。これは、差異の相補性を再導入すると言えよう。この相補性の再導入という点では、鏡の国の出来事は、表象としては正しいのかもしれない。あくまでも、メディア界のイメージ・表象としてであるが。

参考1:差延
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%BB%B6

参考2:ゼノンのパラドックス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
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2006年03月29日 (22:33)

不連続的差異論における1/4回転がもたらす力学構造は何か

後で検討したいが、簡単に触れる。
 最初は、2回の1/4回転を考えたが、今では、3回の1/4回転によって現象界が出現すると考えている。第1回目の1/4回転では、ゼロ化がもたらされ、第2回目の1/4回転では、同一性構造がもたらされ、第3回目の1/4回転では、完全な無化がなされると考えている。
 問題は、1/4回転がもたらす力学の意味である。(1/4回転をもたらす原力は、不連続的差異=イデアに内在する十字・直交力であると今は考えている。)X軸、Y軸、Z軸、P軸の直交する4次元を考えると、X軸上にあるイデアが、1/4回転して、Y軸上に変換する。XY平面が、イデア界であり、Y軸は、イデア/メディア境界である。
 そして、Y軸から1/4回転して、Z軸上へと移動する。YZ平面がメディア界であり、Z軸はメディア/現象境界である。
 そして、Z軸から1/4回転して、P軸上へ変換する。ZP平面が現象界である。
 ここで、わかりやすいので、Z軸を考えると、ここは、差異1・同一性・差異2ないし差異1=差異2となる境界領域である。ここでは、メディア界の相補性が否定・排除されるのである。つまり、メディア界のゼロ化は否定・排除されて、同一性が支配的になるのである。私はこれを、「ヤハウェ」同一性構造とでも呼びたい。結局、ここでの、1/4回転は、相補性が捩れて、否定されて、同一性が支配するということである。
 では、第1回目の1/4回転ではどうなのか。そこでは、イデア界の差異境界が捩れて、ゼロ化されると考えてきたが、このゼロ化とは、否定と言えないのか。つまり、イデア界の境界が否定されて、ゼロ度連結が生起するということではないのか。そうならば、問題は、境界が否定されたとき、どうして、2回目の1/4回転のような同一性構造に転化されないのかということである。これは、正に、イデア/メディア境界の問題である。何故、同一性化しないのかと考えると、最初の1/4回転においては、まだ、イデア界の不連続的差異=イデアの境界が残っているのである。つまり、境界且つ無境界(ゼロ化)である。境界と無境界の絶対矛盾的自己同一がここでは成立していると考えられるのである。だから、第2回目のような同一性化にはならないと考えられるのである。
 第2回目の1/4回転は、相補性且つ無相補性(同一性)、相補性と無相補性の絶対矛盾的自己同一を意味する。これで、疑問に答えたとしよう。
 ここで、現段階の私見の整理のため、図式化したい。第1回目の1/4回転を1stq回転、第2回目の1/4回転を2ndq回転、第3回目の1/4回転を3rdq回転と表記する。(qはquarter1/4の略である)


1stq回転:「母」:自然宗教・多神教・母権制は発生する
2ndq回転:「父」:超越一神教・父権制が発生する
3rdq回転:「子」:キリスト教が発生する

それでは、「聖霊」はどこに位置するだろうか。その前に、以上の図式を書き換えると、

イデア界:「母」:正しくは、「無」から「母」への転換
メディア界:「父」:正しくは、「母」から「父」への転換
現象界:「子」:正しくは、「父」から「子」への転換

となる。
 では、「聖霊」の位置はどうなるかと言えば、メディア界であろうが、「父」との志向性が反対になるのである。「父」は、イデア界→メディア界→現象界という→の志向性をもつが、「聖霊」は、現象界→メディア界→イデア界の→の志向性をもつだろう。つまり、これまで、マイナス・エネルギーと呼んだ方向である。
 そう考えると、さらに、問題は、1/4回転の意味である。最初の1/4回転は、イデア界、イデア平面、ガウス平面で起こる。では、2回目の1/4回転は、何によって生じるのか。先に、私は、最初の1/4回転は、不連続的差異=イデアに内在する十字・直交力によると述べた。つまり、不連続的差異=イデアの内在十字直交力が原力なのである。これが、最初の1/4回転をもたらすのであるから、同様に、2回目の1/4回転をもたらすと考えられよう。つまり、不連続的差異=イデアの内在十字直交原力が、すべての1/4回転の原動力であると考えられるのである。そう考えると、イデア界がメディア界を発生させ、メディア界が現象界を発生させるということがよく理解できるのである。つまり、イデア界の変容としてメディア界と現象界を把捉することができるのである。だから、イデア界は平面であるが、それがメディア界に変容すると、3次元立体になるのである。そして、メディア界が現象界に変容すると、4次元時空間になると明快に理解できるのである。また、このように考えると、現象界においても特異性・単独性=不連続的差異イデアが内在・内包されているという私の考えも明快に理解されるのである。不連続的差異=イデアが、現象界の個体に折り畳まれている、折り込まれていると言えよう。
 では、最大の問題の一つである時間とは何か、ということになる。時間は、不連続的差異=イデアの内在十字直交原力の展開的変容とどう関わるのだろうか。思うに、差異に内在する十字直交原力による1/4回転は、無限速度と考えられる。超光速と考えられる。無時間的である。だから、問題は、無時間と時間との関係である。また、光の問題である。差異原力(不連続的差異=イデアの内在十字直交原力)は、超光であろう。阿弥陀如来=無量光とは、このことだと思われる。
 光は、差異原力の無限速度で形成されるメディア界で発生すると考えられる。メディア界は差異と差異との相補性の領域であり、共鳴する差異の振動数が発生するのであるが、共鳴する差異が光、光子あるいは量子・素粒子であろう。ゼロ化によって、差異は共振・共鳴して、量子・素粒子に変容するのであり、このとき、光・光子が発生するのだろう。差異のゼロ度共振・共鳴が光となる。そして、ここに時間が発生すると言えるのではないだろうか。E=hν=mc^2のν やcに時間がある。
 ならば、現象界の時間とは何であろうか。あるいは、現象時空4次元とは何であろうか。あるいは、相対性理論とは何であろうか。メディア界3次元は3次元不可分時空間である。時間と空間が分離していない。時間と空間の相補性が成立している。思うに、差異の相補性の速度が時間に関わり、差異の相補性の関係が空間に関わるのではないだろうか。つまり、差異相補性が不可分時空間である。そして、これが、現象化するとき、相補性が同一性に否定されて、見掛け上、時間と空間が分離するのではないのか。即ち、差異1・同一性・差異2又は差異1=差異2であるが、同一性構造が、差異を同一性個体・同一体に変換するのである。つまり、差異1=差異2=同一体である。そして、この同一体が物体であり、物質となると言えよう。そして、同一性構造が、時間/空間の現象形式である(カントの超越論的形式)。思うに、共振・共鳴する差異(差異相補性)に同一性形式を強制・強要して成立するのが、現象空間ではないだろうか。ここで、喩えれば、映画の一コマ、一コマを共振する差異とすれば、それを、連続・同一化して映像化するのが、同一性形式・同一性知覚であるが、この同一性の映像化が、空間化であると言えるだろう。また、単に空間化だけでなく、連続・同一化という映像=現象化は、当然、時間の流れを喚起するのであるから、時間化も生起させると言えるだろう。言い換えると、共振的差異を同一化して、差異同一連続体を形成するのであり、この同一連続体の動きが時間と空間、即ち、時空4次元を形成すると言えるのではないだろうか。現象的同一体という空間と時間の発生は同時であるということになる。これが、相対性理論の意味ではないだろうか。そうならば、これまで、相対性理論を、メディア界の出来事と見たが、そうではなくて、メディア/イデア境界における現象化事象の理論と見るべきだろう。量子力学が、メディア界の理論であるなら、相対性理論は、メディア/現象境界→現象化の理論であろう。
 もう一度、同一連続体の4次元時空間について考察すると、同一性の「力」が、時間・空間の力を形成すると言えるだろう。では、同一性の「力」とは何か。相補性の「力」が量子・素粒子の「力」であると言えるが、ならば、同一性の「力」とは何か。これは、主観的には、2項対立の力・暴力である。差異を無化する力である。とりあえず、同一力と呼んでおこう。同一力が、現象時空4次元の力である。同一力が、時間と空間を同時に発現させると言えよう。同一力が大ならば、速度が速いだろうし、小ならば、速度が遅いだろう。
 では、同一力の力学構造はどのようなものだろうか。直観では、微分の力である。差異1→差異2において、→は極限値を表わすとすると、この→が同一性の志向性であり、微分の力である。差異1⇒差異2と表記しよう。そして、微分の重層化が積分であろう。微分・積分同一化重層力=現象力は必然の力であり、仮象力とも言えるだろう。おそらく、この力がベルクソンの持続であろう。そして、時空間形成・形象力である。例えば、10kmの距離があるP地点からQ地点まで、20kgのお米を運搬しようとしよう。10kmや20kgが、現象力であろう。そして、それに消費する力も現象力であろう。
 結局、同一力とは、Z軸からの3回目の1/4回転を意味するだろう。微分・積分的現象力である。
 では、先にも触れたが、相対性理論と量子力学の関係が問題となるだろう。確かに、現象界は時空4次元連続体である。そして、相対性理論は、これを説明する。しかし、光速度一定の問題がある。これは、現象界ではなくて、メディア界の事象を意味しているのではないだろうか。つまり、相対性理論とは、メディア界から現象界への転化する事象を問題にしているのだろう。そして、量子力学とは、現象界からメディア界への探究を意味するのではないだろうか。両理論は、やはり、メディア界という点で、共通性をもつだろう。
 さて、次に、イデア界の不連続的差異の内在十字直交原力について簡単に考えよう。この原力は、フッサールの超越論的主観性に相当し、また、差異同士の関係は、間主観性・相互主観性ということになろう。この内在十字直交原力、略して、十字原力ないし原十字力であるが、これは、理念の力であり、無限速度、超光速であると考えられよう。超光である。永遠の絶対力である。永遠回帰力である。無限力である。この理念力は、全知であり、潜在(デュナミス)的には全能であろう。「全知全能の神」とは、このイデア界の不連続的差異=イデアないしその総体を指していると言えよう。また、スピノザの神即自然の神もこれを指しているだろう。また、グノーシス主義の至高神もこれを指しているだろう。ついでに言えば、天照大神もこれを指しているだろう。プラトンの善のイデアである。
 さて、最後に、脱構築力について考えたい。これを、これまで、マイナス・エネルギー、死のエネルギーと考えてきたが、1/4回転の視点から見ると、反転ではないか。つまり、3回の1/4回転をプラスの回転とすると、4回目からの回転は、反転になり、脱構築作用をもつのではないか。つまり、3回目の1/4回転で、現象界に達した差異・イデアは、今度は、反転して、メディア界、さらにイデア界へと回帰するのではないのか。つまり、4回目の1/4回転で、現象界からメディア/現象境界(逆にして、現象/メディア境界)に回帰し、5回目の1/4回転で、イデア/メディア境界(逆にして、メディア/イデア境界)に回帰し、そして、6回目の1/4回転で、イデア軸(X軸)に回帰するということではないのか。つまり、計6回の1/4回転で、イデア界に永遠回帰することになるのではないか。6のサイクルである。しかし、イデア軸はプラスだけでなく、マイナスや原点もあるから、複雑になるだろう。マイナスのイデアを含めると、さらに計6回の1/4回転があり、合計12回となるだろう。原点は無変化だろう。今は、ここで考察を留めよう。

2006年03月29日 (02:45)

ポストモダン理論とソーカル事件:ポストモダニズムと近代主義の衝突:モダンからパラ・モダンへ

ソーカル事件は、今や、忘失されているというか、日本では、あまり問題にならずに、忘却されたようだ。
 私は、社会的問題になっているときは、距離を置きたいと思い、関知するのを避けた。しかし、今や、「昔」の事件になったので、冷静に考えられるのである。かつては、本をちらと見て、感情的反発だと思ったものだ。しかし、今や、この問題が、重要な意義をもっていることがわかった。これは、近代主義とポスト近代主義との明確な闘争であるのである。近代主義とポスト近代主義とは、二律背反である。あれか、これかの、二者択一しかありえない問題なのである。
 今、ポストモダニズムは、一時の流行として、忘却されているが、しかし、これは、知的革新なのである。ポスト構造主義の不備、そして、日本におけるポストモダニストたちの不首尾によって、ポスト・モダニズムは、敗退した状態にあるのである。それに対して、不連続的差異論やヌース理論は、ポスト・モダニズムを徹底させているのである。つまり、ポスト・モダニズムとは、換言すると、近代的合理主義、近代的二元論的科学主義に対する現代的プラトニズムの絶対的闘争なのである。(ポストモダンという語が、言い古された感じがあるので、パラ・モダンないしパラモダンという語を造語したい。)
 モダンかパラモダンかである。つまり、モダンは、パラモダンを絶対的に否定するし、パラモダンもモダンを絶対的に否定するのである。しかし、問題は、パラモダンはモダンを高次に包摂しているが、モダンはパラモダンを包摂しえないことである。これは、相対性理論が、ニュートン・ガリレオ力学を包摂できることと類似的である。
 結局、モダンは、パラモダンを魔女狩り的に排除・隠滅しようとするのである。これが、ソーカル事件の意味ではないかと考えられるのである。モダンからパラモダン、近代からパラ近代への移行とは、実際、知的革新、知的革命・「進化」の以外のなにものでもない。これは、哲学、物理学、数学、神秘学、芸術等で準備されてきたものであり、不連続的差異論やヌース理論は、この知的跳躍の徹底である。近代主義の崖っぷちから、思い切って、宇宙・コスモスへと命懸けで跳躍することである。
 結局、私が執拗に偏執的に批判してきた近代的狂気とは、パラモダン、パラモダニズム、パラ近代に対する反動なのである。これは、今や、反動的狂気であり、自己中心的に、破壊的になっているのである。大澤真幸氏のアイロニカルな没入も、これに関係するのである。同一性構造の帰結である近代主義、同一性構造をもつユダヤ・キリスト教の帰結である西洋近代主義を、超克しないと、人類には、未来はないのである。パラモダン「大進化」である。PARAMODERN R-EVOLUTION!!! ここにしか、未来はない。

Without paramodern sophia, modern evil regime will ruin us all.
Overcome evil materialistic modernity and we will have paramodern new eden.
Since all modernity has become most evil and devilish,
Time has come for us to break up this darkest hell of modernity.
Let us destroy the craziest ancien regime of modern japan and the westernized world.
Great Cosmos of Supreme Idea is Emergent Inside Us to Create New Heaven and New Earth!!!

なにとぞ、近代的旧体制を破砕せよ!
創造せよ! 不連続的差異の共立するパラモダン世界を!
近代の破壊とパラモダンの創造、これあるのみである!

2006年03月28日 (03:11)

所謂、ソーカル事件について:モダンとポストモダンの戦争

遅ればせながら、話題としては、とうに過去のものであるが、『「知」の欺瞞』(日本語訳:2000年)を読み出した。「1.はじめに」を少し読み、所謂、ソーカル事件が、モダンとポストモダンとの、近代主義とポスト近代主義との、戦争・闘争であると直観した。近代的合理主義者であるアラン・ソーカルは、近年流行したポストモダン思想に、当然、否定的見解をもっていたと考えられるのである。ポストモダンは、近代的二元論を否定するし、また、相対主義であり、近代的科学を、一つの「神話」や「物語」に変えるのであるが、それを、近代的合理主義者のソーカルらは、当然、否定したい欲望をもつのである。これは、新旧闘争である。この点を見ないと、この事件は、理解できないだろう。勿論、ポストモダン思想は、あいまいな叙述があるのは確かであるが、しかし、それは、近代主義の超克としての明確な理論性をもっているのである。これは、否定出来ない確固としたものと言える。
 思うに、ソーカルらは、自らの近代的合理主義の立場から、ルサンチマン的に、ポストモダン理論を否定すべく、策略の論文を書いたのである。しかし、彼らはデタラメと言っているが、しかし、説明を少し見たが、デタラメではなく、ポストモダン思想としての正当な意味をもっていると思われるのである。ソーカルらは、ポストモダン理論を認めたくないために、単純に、短絡的に、全否定しているに過ぎないように思える。
 後で、読み続けて、明確にしたい。

2006年03月27日 (19:03)

不連続的差異論関連の読書・文献案内(哲学・思想関連)

不連続的差異論を理解するための、あるいは、イデア論的思考のための文献リストを作成しました。


プラトン著
『ティマイオス』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000904221/qid=1143437392/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
『国家』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360176/qid=1143437442/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360184/qid=1143437442/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3


アリストテレス著
『心とは何か』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061593633/qid=1143533352/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『形而上学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360435/qid=1143533578/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003360443/qid=1143533578/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0291.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/philosophia10.htm


空海著
『秘密曼荼羅十住心論』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480770011/qid=1143522396/sr=1-8/ref=sr_1_10_8/250-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0750.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7


道元著
『正法眼蔵』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309407196/qid=1143521262/sr=8-4/ref=sr_8_xs_ap_i4_xgl27/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/430940720X/qid=1143521379/sr=8-11/ref=sr_8_xs_ap_i11_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309407218/qid=1143521460/sr=1-11/ref=sr_1_2_11/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309407226/qid=1143521460/sr=1-15/ref=sr_1_2_15/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309407234/qid=1143521460/sr=1-14/ref=sr_1_2_14/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003331907/qid=1143521444/sr=1-10/ref=sr_1_10_10/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003331915/qid=1143521801/sr=1-12/ref=sr_1_2_12/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003331923/qid=1143521801/sr=1-18/ref=sr_1_2_18/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003331931/qid=1143521801/sr=1-16/ref=sr_1_2_16/250-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0988.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83


スピノザ著
『エチカ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4124006403/qid=1143437799/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003361547/qid=1143437623/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003361555/qid=1143437623/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6


ニーチェ著
『悲劇の誕生』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363914/qid=1143438378/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『道徳の系譜』、『善悪の彼岸』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363949/qid=1143436980/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080813/qid=1143436980/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
『ツァラトゥストラはこう言った』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363922/qid=1143444476/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363930/qid=1143444476/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
『このようにツァラトゥストラは語った』
http://www.bk1.co.jp/product/161882
http://www.bk1.co.jp/product/161883
『反キリスト者』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080848/qid=1143442913/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/25 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003363949/qid=1143436980/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431 0-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1023.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7


ルドルフ・シュタイナー著
『いかにして超感覚的世界の知覚を獲得するか』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480086641/qid=1143438061/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC


D. H. ロレンス著
『黙示録論』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088873/qid=1143437903/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
『無意識の幻想』
http://www.bk1.co.jp/product/483403/?partnerid=99easylink
http://ja.wikipedia.org/wiki/D%E3%83%BBH%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9


ホワイトヘッド著
『過程と実在』
http://www.bk1.co.jp/product/312072
http://www.bk1.co.jp/product/411458
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9870631827
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9833995632
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0995.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%98%E3%83%83%E3%83%89


フッサール著
『イデーン』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622019167/qid=1143487609/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622019175/qid=1143487609/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622019183/qid=1143487609/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
『デカルト的省察』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003364333/ref=pd_sim_dp_3/250-8960880-5103431
『ブリタニカ草稿』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4480088172/reviews/ref=cm_rev_more/250-8960880-5103431#4
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122023394/qid=1143488211/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
『幾何学の起源』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791760344/qid=1143531497/sr=1-20/ref=sr_1_2_20/250-8960880-5103431
『現象学とは何か』新田義弘著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061590359/qid=1143437137/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/250-8960880-5103431
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jsshama/j/HUA-home.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB


西田幾多郎著
『西田幾多郎哲学論集〈1〉』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003312449/qid=1143520633/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『西田幾多郎哲学論集〈2〉』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003312457/qid=1143520633/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-8960880-5103431
『西田幾多郎哲学論集〈3〉』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003312465/qid=1143520633/sr=8-3/ref=sr_8_xs_ap_i3_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/nishida_guidance.html
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1086.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E
http://homepage1.nifty.com/office-ebara/philos4.htm
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person182.html


鈴木大拙著
『新編 東洋的な見方』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003332326/ref=pd_sim_dp_2/250-8960880-5103431
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/daisetsu_guidance.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99


九鬼周造著
『いきの構造』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003314611/qid=1143524765/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061596276/qid=1143524765/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-8960880-5103431
『偶然性の問題』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4924520497/qid=1143524765/sr=8-4/ref=sr_8_xs_ap_i4_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000905627/qid=1143524765/sr=8-7/ref=sr_8_xs_ap_i7_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/kuki_guidance.html
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0689.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%91%A8%E9%80%A0
http://scrapbook.ameba.jp/imossiblity_book/entry-10000828660.html


ジル・ドゥルーズ著
『記号と事件』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309706177/qid=1143436661/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/250-8960880-5103431
『ニーチェと哲学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4772000151/qid=1143436847/sr=1-19/ref=sr_1_2_19/250-8960880-5103431
『差異と反復』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309230296/qid=1143437574/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
『スピノザと表現の問題』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588003216/qid%3D1143443684/250-8960880-5103431
『スピノザー実践の哲学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582764401/ref=pd_bxgy_text_2/250-8960880-5103431
『哲学とは何か』ドゥルーズ&ガタリ著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309241972/qid=1143444203/sr=1-23/ref=sr_1_2_23/250-8960880-5103431
『原子と分身』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886790070/qid=1143444203/sr=1-28/ref=sr_1_2_28/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA
http://wwwsoc.nii.ac.jp/paj2/thigaki.htm


デリダ著
『声と現象』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480089225/qid=1143531421/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『グラマトロジーについて』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4329000296/qid=1143531518/sr=1-35/ref=sr_1_2_35/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/432900030X/qid=1143531518/sr=1-36/ref=sr_1_2_36/250-8960880-5103431
『エクリチュールと差異』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588000799/qid=1143531497/sr=1-19/ref=sr_1_2_19/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588000802/qid=1143531835/sr=1-23/ref=sr_1_2_23/250-8960880-5103431 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80


根井康之著
『東西思想の超克』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/454083021X/qid=1143437261/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/250-8960880-5103431
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31487870
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4540041851/reviews/ref=cm_rev_more_2/250-8960880-5103431
http://homepage3.nifty.com/koujisuwa/neweco1.htm
http://homepage1.nifty.com/office-ebara/philos4.htm
http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20050804


井筒俊彦著
『意識と本質』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003318528/qid=1143438810/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8960880-5103431
『意識の形而上学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122039029/qid=1143488737/sr=1-6/ref=sr_1_10_6/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E4%BF%8A%E5%BD%A6


半田広宣/砂子岳彦著
『光の箱舟』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198613524/qid=1143438130/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-8960880-5103431
http://www.noos.ne.jp/


オスカー・ベッカー著
『ピュタゴラスの現代性』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4875022069/qid%3D1143439529/250-8960880-5103431
『数学的思考』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4875021453/qid%3D1143442355/250-8960880-5103431
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0748.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Oskar_Becker


レヴィナス著
『全体と無限』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003369114/qid=1143524031/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-8960880-5103431
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003369122/qid=1143524031/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-8960880-5103431
『存在の彼方へ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061593838/qid=1143524129/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/250-8960880-5103431
『レヴィナス・コレクション』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480084916/qid=1143524129/sr=1-5/ref=sr_1_10_5/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%82%B9


参考:ソーカル事件の元となったポストモダン理論批判の著書

アラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン著
『「知」の欺瞞』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000056786/qid%3D1143443244/250-8960880-5103431
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

尚、日本におけるソーカル側に立つ近代的合理主義者のサイトは以下である。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/Sokal/index-j.html

p.s. 尚、数学/自然科学篇、政治/経済篇、文学/芸術篇の文献リストも作成したいと思います。

2006年03月25日 (23:54)

不連続的差異論の構想を振り返る:不連続的差異論の新たな開展の可能性について

今は簡単に触れるが、不連続的差異論の誕生時に、私は、華厳経宇宙の、個と個との調和のイメージを浮かべていて、その個が、不連続的差異になったものを想起したのである。
 不連続的差異論の基本的概念は、実に単純である。つまり、不連続的差異であるイデアが、ある事態により、連続的差異(メディア)となり、それが、同一化して、現象界、目に見える世界になるということである。プラトンのイデア論に、不連続的差異イデアやメディア界を付加して、いわば、不連続的差異イデア論を創ったのである。

 メディア界の連続化とは、量子力学の世界、量子・素粒子の世界と考えるのが正確である。ここでは、連続的時空間、時空相対性が成立していると考えられるのである。つまり、メディア界において、アインシュタインの相対性理論と量子力学とは結びつくと考えられるのである。(このことは、既述であるが。)換言すると、不連続的差異が連続化して、共振するのである。
   
 差異の共振は、どうして起こるのか。ゼロ化・ゼロ度において、差異と差異とが接すると考えられる。このとき、極性が生じるのだろう。即ち、−差異1+− 差異2+−・・・−差異+となるだろう。この極性が、共振ということではないだろうか。つまり、ここでは、ゼロ化・ゼロ度の力が発生すると考えられる。このゼロ化・ゼロ度の力が、共振を起こす力だろう。ゼロ度空間において、差異が共振すると考えられよう。共振する差異、これが、量子であり、光であろう。そして、共振する差異はエネルギーをもつ。E=hνである。この共振する差異の「宇宙」は、原時空間の宇宙であろう。まだ、時間、空間が分化していないだろう。
 時間/空間は、現象化において、発生するのだろう。差異1・同一性・差異2、差異1=差異2において、相補性を否定する。粒子であり、波動である共振する差異(共振差異と呼ぼう)の相補性が、同一性によって否定されると、差異は同一性体となり、また、波動は、統一力に変換されるだろう。同一性体は、原子、分子等であろう。統一力は、おそらく、物理学の基本的な4つの力に関係するのではないだろうか。時間/空間であるが、同一性体が空間を、統一力が時間を形成するのではないだろうか。
 では、相対性理論はどういうことになるのか。それは、現象界というよりは、メディア界における事象を意味しているのだろう。それは、量子力学と一致するはずである。

p.s. 以上の箇所は、問題がかなりある。物理学の4つの力とは、量子・素粒子に関わるものである。しかし、上記では、4つの力を現象界の力と考えようとしている。
 ここで、もう一度、メディア界の共振する差異を考えよう。イデア界の差異が、垂直/水平性をもっているならば、つまり、絶対的直交力をもっているならば、それが、ゼロ化で、連続化するとき、直交的共振的差異となるだろう。ここで、構築/脱構築(+と−)性あるいはヌース理論の双対性の考えを取り入れると、水平構築/脱構築性と垂直構築/脱構築性の、いわば、四重の構造となる。これが、メディア界の共振する差異の構造である。そして、これが、同一性によって、統一化されて、現象界を形成するということかもしれない。この四重の構造が、物理学の基本的な4つ力に関係するのかもしれない。
 とまれ、このように考えると、メディア界は直交する四重の時空間であり、現象界は、このメディア平面に、同一性の捩れとともに、直交軸が加わり、時空四次元となるのだろうか。即ち、同一性の捩れが、水平同一性、垂直同一性、そして、それらに直交する高さの同一性を、時間の同一性とともに、形成して、時空四次元の現象界を形成するのだろうか。
 時間の同一性とは、何だろうか。差異1・同一性・差異2ないし差異1=差異2を考えると、同一性の志向性が時間の同一性ではないだろうか。これは、同時に空間の同一性でもあるだろう。つまり、同一性の力、無の力、三回目の1/4回転の力が、時間の同一性であり、また、この同一性の力によって形成される差異の同一性が、空間の同一性ではないのか。即ち、三回目の1/4回転である同一性の力が、時空四次元現象界を形成するということではないだろうか。
 
 さて、以上は、作業仮説であるが、問題として、光速度の問題があるだろう。思うに、メディア界は、差異と差異との関係がゼロ度であるから、差異1☯差異2の関係、あるいは、差異2☯差異3と関係が、等価になるだろう。これが、光速度一定に関係しているのではないだろうか。つまり、ゼロ度・相補性において、差異は等価になるということではないか。換言すると、差異の共振性、これが、光速度一定を意味するだろう。共振する差異が、光とも言えるだろう。

 では、イデア界における不連続的差異は、どういうことになるだろう。それは、いわば、絶対的不連続性をもつだろう。ここで、D.H.ロレンスが、「星の均衡」という言ったことを想起する。不連続的差異の均衡があるのではないだろうか。絶対力の均衡だろうか。不連続的差異の絶対力の均衡。思うに、不連続的差異1→不連続的差異2の→であるが、これは、絶対的志向性ではないか。また、不連続的差異1↑不連続的差異2↑・・・↑不連続的差異nも考えられる。つまり、不連続的差異の絶対力の直立・垂直性が↑で、関係・水平志向性が→ではないだろうか。換言すると、不連続的差異の絶対的直交力(十字力)が、イデア界にあるということではないだろうか。この絶対的直交力が、1/4回転を生むのではないだろうか。


p.s. ならば、イデア界は、

差異1⊕差異2⊕差異3⊕・・・⊕差異n

と図式化できるだろう。


p.p.s. 全体を図式化し直す。

イデア界:差異1⊕差異2⊕・・・⊕差異n

メディア界:差異1☯差異2☯・・・☯差異n

現象界:差異1╬差異2╬・・・╬差異n

尚、╬の記号は、時空四次元を生む同一性化を意味する。

2006年03月23日 (04:57)

反転とマイナス・エネルギーという考え方

イデア界、メディア界、現象界、各界の反転をマイナス・エネルギーによると考えているが、それは、正しいのであろうか。

Aイデア界B/Cメディア界D/E現象界F

の図式で考えると、例えば、現象界において、E→Fの志向に対する反転として、F→Eという、言わば、逆志向が生じると考えられる。前者をプラス・エネルギーによるものとするならば、当然、後者はマイナス・エネルギーによるものと考えられる。
 この問題に関しては、1/4回転の力学を考えなくてはならない。イデア界における最初の1/4回転がある。それに呼応して、メディア界、現象界の生起がある。この、イデア界の最初の1/4回転で、メディア界と現象界が形成される。そして、次の1/4回転で、それが、「脱構築」されると考えれるだろう。だから、奇数の1/4回転で、構築作用が生じ、偶数の1/4回転で、脱構築(解体)作用が起こるのではないだろうか。 そうならば、例えば、ポスト近代の動きをどう考えるべきか。今は、作業仮説として述べるが、先に述べたことと関連するが、イデア界における回転を前提条件にして考えたい。つまり、イデア界が永遠回帰として、回転運動をすると仮説した上で、1/4回転を考えることにする。
 そこで、イデア界の最初の1/4回転が、メディア界を形成し、そして、現象界を形成したと考えられる。これは、《力》の連鎖である。では、二回目の1/4回転は何を意味するだろうか。それは、解体・「脱構築」だと思う。最初の1/4回転が近代主義を意味するならば、二回目の1/4回転は、ポスト近代を意味するだろう。では、三回目の1/4回転は何を意味するのか。それは、新たな近代主義だろう。これは、ポスト近代に対する反動とも考えられよう。大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」をここで、考えることができるだろう。つまり、再近代主義である。そして、四回目の1/4回転が、イデア界の回帰、永遠回帰となり、これは、不連続的差異論を意味するだろう。
 このように考えられるならば、これらの1/4回転は、確かに時代に関係するが、同時に、超時代的と考えれるだろう。ニーチェは、自身も考えていたが、はるかに時代を先駆けて、現代・未来的なのであるし、また、フッサールもそうである。つまり、彼らは、四回目の1/4回転に属する先駆的哲学者であると考えられる。
 もし、以上の考え方が正しいならば、イデア界の諸1/4回転は、時代の展開と、同時に、超時代的な様相を意味するだろう。後者は、主に、天才が担うものである。例えば、デカルトは、近代主義を生んだだけでなく、ポスト近代、さらに、イデア界再帰の思想の先駆であると言えるのである。結局、この諸1/4回転の動きは、実現されずにはいないだろう。しかしながら、占いのように、時期を限定するのは、完全に誤りだろう。例えば、西洋占星術のように、現代は、水瓶座の時代になりつつあるというのは。それは、機械主義である。そうではなくて、諸1/4回転は、無時間・永遠回帰であり、時代を限定しないと考えるべきである。ただし、傾向・志向として、時代において、実現されつつあるとは言えるだろう。(だから、進化論の問題がここにあるだろう。進化論とは、イデア界から見ると、後れた進展論ではないだろうか。)今は、ここで留めよう。

2006年03月21日 (18:37)

同一性構造自我とメディア界の関係:生成と消滅のサイクル;イデア界の永遠回帰

同一性構造自我(二項対立的自我・近代主義的自我)は、唯一神的な自我優越・傲慢・尊大さのため、差異・他者を否定・無化せんとして、攻撃・暴力的である。
 ここで、私が問題にしたいのは、この同一性構造自我とメディア界のエネルギーの関係である。メディア界のプラスのエネルギーが、展開して、現象化を起こすと考えられる。プラスのエネルギーの極限化としての現象界の発生である。つまり、差異1→差異2において、この→を極限値の方向とすればいいのである。だから、差異2が極限値である。しかし、これは、同一性となった差異2である。もはや、差異ではないのである。ここには、プラス・エネルギーによるマイナス・エネルギーの排除があるはずである。即ち、

メディア界:−エネルギー/←排除・隠蔽/現象界:+エネルギー

である。この「←排除・隠蔽」が同一性構造・二項対立である。問題は、ここで、排除された−エネルギーが存するメディア界の意味である。メディア界は本来、差異相補性の世界であり、+と−がゆらぎ、均衡している世界である。この相補性を否定して、二項対立の現象界が形成されるのであるが、排除された−エネルギーと相補性のメディア界との関係はどうなるのだろうか。排除された−エネルギーは、いったい、メディア界に存するのだろうか。どうも、少し考え方が混乱しているのかもしれない。
 差異1⇔差異2が、メディア界の相補性である。即ち、差異1→差異2と差異2→差異1の双方向のエネルギーが均衡している世界である。そして、これが、現象化するというのは、差異1→差異2の極限値として差異2、差異2→差異1の極限値として差異1が、発生するということである。それも、同一性としての差異2であり、差異1である。即ち、同一性=差異2=差異1である。つまり、現象化において、排除されるのは、−エネルギーではなくて、エネルギー自体である。±エネルギー自体が排除されるということではないか。つまり、→を+エネルギーとし、←を−エネルギーとすれば、両者が排除されるということだ。あるいは、極性エネルギー(メディア・エネルギー)が排除されて、同一性エネルギー(現象・エネルギー)が発生すると言ってもいいのかもしれない。同一性エネルギーとは、もはや、エネルギーではなくて、力・物質力であろう。
 とまれ、このように考えると、現象化によって排除されるのは、メディア界のエネルギーということになる。そうすると、同一性構造自我によって排除されるものも、同様である。これまで、+エネルギーの展開によって、−エネルギーを排除すると考えたのであるが、そうではなくて、エネルギーが排除されて、同一性構造自我が形成されるということになる。そして、この同一性構造自我は、差異を否定・無化する暴力性をもつのである。典型がユダヤ・キリスト教であり、その帰結である西欧近代主義である。問題は、この差異排除であるが、エネルギーの極限化として現象化が発生するのであるが、この極限化自体は、能動的である。それは、積極的展開である。同一性への展開がなければ、自我は形成されない。メディア界のままでは、相補性の状態、差異1⇔差異2であり、自我と他者との区別が形成されないのである。ヌース理論で言う双対性がここには生起していて、未分化ないし不可分一体なのである。対極性・両極性、陰陽の世界である。それも、非対称な極性様相である。
 ということで、エネルギーの極限化としての現象化とは、同一性の自我の形成を意義があるのである。しかし、問題は、この同一性構造自我の様態である。あるいは、排除の問題である。つまり、現象化において、メディア界の差異相補性が排除されるが、それは、絶対的に排除されるのかということである。ここで、考えるべきは、エネルギーの極限化としての現象化であることであり、極限化ということは、微分・積分の事象であるということであり、それは、極限値の問題であり、実相ではないということである。極限値として、現象があるのであり、プラトンの言う通り、仮象意外のなにものでもないことである。だから、現象界、同一性構造の現象界とは、内在的に、あるいは、超越論的に、メディア界を内包していると考えられるのである。つまり、排除と言っても、絶対的排除ではありえないのである。現象界において、同一性構造自我は、メディア界的相補性を内在させているのである。潜在的に内在させているのである。いわば、無意識・潜在意識としてそれは内在しているのである。メディア/現象境界は、相補性/同一性(差異相補性/差異同一)という図式は、内在・超越論的境界として理解すべきである。だから、同一性構造自我は、直感として、メディア界的相補性、差異相補性、差異性をもつのである。これが、本来的な現象界である。
 問題は、近代主義である。それは、内在するメディア界・差異相補性を、敵意をもって排除するのである。絶対的二項対立である。これは、これまで述べたように、ユダヤ・キリスト教的同一性構造の帰結であると考えられる。そして、現代、ポスト近代期において、メディア界のエネルギーが再賦活されている時代、近代的自我は、きわめて、反動性をもつようになると考えられる。言わば、狂気・精神病的同一性・二項対立主義となると考えられる。今日、近代的自我は、分裂症になるのである。一方では、絶対的二項対立があり、他方では、賦活された相補性があるからである。そして、後者を反動的に抑圧・排斥しようとするのである。これは、わかりやすい。重要な点は、近代的自我のもつ絶対的二項対立性である。本来の現象化は、相補性を隠蔽するに過ぎず、排除はしないのである。近代的自我のメカニズムは何か。同一性構造自我の徹底である。どうして、このような絶対化が生じたのか。デカルト哲学の問題でもある。コギトは、懐疑して、あいまいなものを排除する。このとき、メディア界的相補性、差異は排除される。あいまいさを否定する明晰さへの意志が、実は差異の否定になるのだ。デカルト哲学は、矛盾した哲学である。差異・特異性の哲学であると同時に、同一性中心主義の哲学である。
 問題は、相補性を排除する意志とは何かである。ユダヤ・キリスト教的同一性主義によるとは言えるが、その意味は何か。そう、敵対的同一性主義とは何か。それは、意識化の問題に関係するだろう。無意識を排除することである。確かに、同一性構造には、その排除性をもつが、現象界自我は、メディア界を内在しているのである。つまり、敵対的同一性主義とは、同一性構造主義であり、徹底した現象界主義である。メディア/現象境界自体は、本来、両義的であり、排除はない。そうすると、現象化において、二種類考えなくてはならないということになるのだろうか。
 確かに、現象化において、同一性構造が生まれ、その徹底化として、敵対的な同一性が生まれると考えられるかもしれない。思うに、各領域において、サイクルがあるのではないだろうか。イデア界、メディア界、現象界自体、それぞれのサイクルがないのか。イデア界の一回転、メディア界の一回転、現象界の一回転。あるいは、現象界の終点を考えるべきだろう。つまり、現象界は、メディア/現象境界を始点として、現象界の縁で終点となるのではないのか。図式化する。

Aイデア界B/Cメディア界D/E現象界F

AとBがイデア界の始点と終点、CとDがメディア界の始点と終点、EとFが現象界の始点と終点としよう。もっとも、終点とは折り返し点でもある。
こう考えると、最初の1/4回転において、実は、さらに1/4回転が発生すると言えるのではないか。つまり、ガウス平面に直交するZ軸の生起である。これが、ほぼ、Dとなるだろう。つまり、メディア界の始点はCであり、終点はDである。もっとも、BとCは、矛盾同一となる。そして、さらに1/4回転すると、現象界が発生する。それが、Fである。すると、3回の1/4回転があることになる。だから、3回目の1/4回転で、同一性構造の現象界が発生すると言うべきではないのか。差異を排除する同一性構造自我は、ここで発生すると言えるのではないのか。
 もし以上の考えが正しいならば、現象化は、3回目の1/4回転で発生し、それは、メディア界、差異を排除していると言える。そして、これが、とりわけ、西欧近代で発生したことになる。結局、《力》は常に生成変化しているのだから、反転する時が来るのである。近代主義が、Fならば、ポスト近代とは、F→Eとなるだろう。そして、D/Fのメディア/現象境界に達したと言えるだろう。この位置の典型的表現がデリダの脱構築主義だろう。それは、相補性であると同時に同一性であるという理論である。そして、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学とは、さらに、D→C、そして、B/Cへと志向した理論であると言えるのではないだろうか。そして、不連続的差異論は、さらに、B→Aへと永遠回帰した理論と言えるだろう。
 さて、そうならば、ポスト近代とは、少なくとも、D/Eのメディア/現象境界の様相を意味するだろう。そして、何度も言及した大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」もこの境界の力学と言えるだろう。(ドゥルーズ&ガタリの再領土化も同じことだろう。)しかし、今や、この領域に留まることはできない。何故なら、根元的な力、イデア界の力が、反転して、回帰へ向かっているからではないだろうか。つまり、A→Bがメディア界と現象界への志向ならば、今や、A←B の反転が起こったからではないだろうか。それは、−iの力ではないだろうか。最初は、+iの力で1/4回転したが、今や、それが反転して、−1/4回転したのではないだろうか。これこそ、イデア界への回帰だろう。そして、これが、また、これまで、死のエネルギーと呼んできたものの根源ではないだろうか。つまり、現代は、ポスト近代期である現代は、イデア界への回帰の力が作動・作用していると思われるのである。つまり、イデア界の−1/4回転(イデア界の反転・回帰)が発生して、メディア界、現象界それぞれ、反転・回帰期に入ったように考えられるのである。だから、ポスト近代期は、ポストモダンやポスト構造主義のように、メディア/現象界やメディア界やイデア/メディア境界に留まることができないのである。純粋なイデア界への回帰を考えなくてはならないのである。それ以外は反動となるのである。ここで、これまで、+エネルギー、−エネルギーと言ってきたものを整理すると、前者は+1/4回転、後者は−1/4回転のことと言えると思う。
 以上、試行錯誤したが、後、問題は、イデア界の回転は、1/4回転しかないのかというようなことである。+1/4回転があるなら、+2/4回転はないのかということになる。直観ではあるように思うのである。だから、A←Bの反転であるが、それは、3/4回転、4/4回転を意味するのではないかという疑問がある。ならば、−1/4回転とは、本来、+4/4回転となる。+1/4回転で、量子が発生し、+2/4回転で、量子が消滅し、そして、+3/4回転で、量子が再発生し、そして、+4/4回転で、量子が再消滅するということかもしれない。だから、二種類の量子があるだろう。+iの量子と−iの量子である。2/4回転の相違があり、対称性をもつ。(もっとも正確に言うと、ズレがあるだろう。)
 私としては、−の回転をさせるよりは、1/4回転を倍数化して行く方が、整合的であるように思う。
 だいぶ、右往左往したので、後で整理したい。


p.s. 図式を補足すると、

Aイデア界B/Cメディア界D/E現象界F

第1の1/4回転: Aイデア界B
第2の1/4回転:Cメディア界D
第3の1/4回転:E現象界F

Aは、不連続的差異1/不連続的差異2/・・・/不連続的差異n

Bは、Aの極限として、不連続的差異1/不連続的差異2/・・・/不連続的差異n

Cは、不連続的差異1☯不連続的差異2☯・・・☯不連続的差異n

Dは、Cの極限として、不連続的差異1☯不連続的差異2☯・・・☯不連続的差異n

Eは、不連続的差異1・同一性・不連続的差異2・同一性・・・・・同一性・不連続的差異n

Fは、Eの極限としての不連続的差異1=不連続的差異2=・・・=不連続的差異n

このように図式化したとき、問題は、Eの同一性の意味である。これは、不連続的差異を同一化する志向性ということである。例えば、旧約聖書のヤハウェの様相と考えられる。それに対して、Fは、西欧近代、近代的自我を意味するだろう。デカルトのコギトの一側面の近代合理主義である。

p.p.s. 現代の同一性構造の「狂気」であるが、それは、以上の図式から見ると、わかりやすい。それは、E→Fという現象化の志向性をもち、差異を、 CやDを病的に排除するのである。C やDが賦活されているが、E→Fという同一性構造自我のために、CやDを排除してしまうのである。そのため、反動的に差異に対して、病的に敵意をもち、攻撃的に排除するのである。賦活されて内在しているメディア界を見ないように、メディア界や差異を病的に攻撃的に否定・無化・排除・排斥・隠蔽するのである。これは、先にも述べたが、パラノイア/分裂症的病理である。
 ところで、賦活されたメディア界、差異とはどういうことなのか。賦活させる原因は何か。それは、根源の力は留まらないのであり、回帰するということに求められるだろう。先に述べた、イデア界の回転である。永遠回帰である。ヘラクレイトスが述べたように、万物は流転する(パンタ・レイ)のであり、これは、様々な様相・事象にもあてはまるのだろう。常に生成消滅しているのである(祇園精舎の鐘の音)。これは、イデア界の回転、メディア界の回転、そして、現象界の回転に求められるだろう。サイクルがあるのである。だから、現象界の同一性で固定化することは、本来なく、固定化するのは、病的・病理である。(しかし、なんと、今日、近代的自我に固定した人が多いことか。)思うに、この永遠生成消滅のエネルギーに対して、自我形成するのが、人間の心身的成長であろう。これが、本来の叡知の一つである。かつては、古典教養や修行や経験がこれを担っていたが、今やそれらはなくてなってしまったから、生成消滅するエネルギーのダイナミクスに対して対応できずに、精神病となるのではないだろうか。近代的合理主義、近代的自我の敗北・悲劇である。
 差異の叡知、メディア界並びにイデア界の叡知を探究させるべき学問がなくなってしまったのだ。本来、哲学や神秘学や宗教等がそれらを担ってきたが、近代主義によって、それらが軽視・無視されてきたと言えるだろう。近代主義の傲りがあるのである。これである。近代主義の、他の知、叡知に対する傲りがあるのである。この傲りのために、近代主義は盲目となっているのだ。そして、自己喪失して、精神病理に陥っているのである。とりわけ、現代日本、70年代、80年代以降である。近代主義の傲りが、日本人の精神を占めたのだ。これは、結局、戦後近代主義教育の帰結であろう。唯物科学の帰結である。「魂」、「精神」である心身的意識を排除してきたのだ。人文科学の軽視・無視である(人文の主要な場であった都立大に対する、都知事による破壊・ヴァンダリズムを見よ!)。唯物科学とは悪魔の科学である。それを認識しないといけない。この唯物悪魔科学が主流になっているために、賦活された差異、メディア界、さらにイデア界を知覚・意識・認識することができないのである。小泉全体主義体制を作っているのも、この唯物悪魔科学である。「魂」が欠けているから、すぐ見ればパフォーマンス屋だとわかる者を信用するという超大愚を犯すのである。軽薄に生きているから、虚偽と誠実の区別ができないのである。生きている価値のないカス、クズ、ゴミどもだ。サブ・ヒューマンである。亜人間である。
 闇は深い。途轍も無く深い。叡知学が必要なのである。心身を涵養する叡知学が必要なのである。今日、明らかに、メディア・エネルギーが賦活されているのである。それも、−の方向、イデア界の方向の、いわば、死のエネルギーが賦活されているのである。これに対して、近代主義はまったく無力であり、狂気の元凶である。イデア界的ポスト近代主義が必要なのであり、それは、差異の不連続化以外にありえないのである。
 今日、叡知学としての哲学が必要である。もともと、哲学とは叡知学なのである。philosophyを哲学と訳した西周に呪いあれ! 叡知愛、叡知好がもともとの意味である。とまれ、現代日本の狂気の根因は、戦後近代主義にあると思われる。ポスト戦後近代主義である。これによって、日本は復活するだろう。

Let us overcome japan's postwar modernism.
Let us liberate ourselves from the prison or cage of materialistic modernism.
Let us be independent from irrational power.
Let us be new sophiopracical microcosmoses.
Cosmos of supreme idea is just emerging inside us to break up japan's ancient regime.

2006年03月21日 (09:08)

反感・否定について:反動的メディア界から能動的イデア界へ

同一性構造自我ないし同一性自我構造は、他者差異を否定する。問題は、共感差異(メディア界)を形成しても、当然、そのメディア界的自我は、他者からの言動に対して、反動的反応をもちうる。つまり、共感性に対して、他者は、反感を呼ぶ態度を取るとしよう。すると、メディア界的自我は、反応として、反感的になるだろう。これは、苦痛である。嫌悪である。反感に対して、反感となる。だから、この反応は、やはり、反動的で、同一性的である。
 メディア界的自我のこの同一性的反応、現象界的反応は何であろうか。メディア界的共感的精神に対して、他者は、不躾な、不作法な態度をとる。ここで前者は、自身が傷つけられ、苦痛を感じて、その他者に反感を感じる。これは、ある意味では、当然である。しかし、問題は、その他者を憎むようになると、それはルサンチマン(怨恨)になるということである。あるいは、反動的態度を形成するようになることである。思うに、これが、凡人のあり方である。暴力には、暴力を。眼には眼を、である。ここで、イエス・キリストの教えが考慮されなくてはならない。罪の赦しである。しかし、これは、知性が欠落しているから、本当の教えになっていないと思う。つまり、罪を犯す他者は、傲りのある人間であることを認知する必要があるのである。これが、罪の赦しの教義では落ちてしまうのである。
 この問題に関しては、今は、簡単に、スピノザ哲学、『エチカ』を読めと言いたい。これは、キリスト教の教えをはるかに超えた叡知であると私は考えている。すなわち、スピノザの能動的観念である。これにより、ポジティブな観念が形成されるのである。積極的知性と言ってもいいだろう。少し整理すると、メディア界的自我は、現象界的自我である他者によって、反動化し、現象界的自我にもどる。これは、ドゥルーズ&ガタリの脱領土化&再領土化の観念に通じるだろう。おそらく、現代の問題もここにあると考えられる。大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」も、これと重なるだろう。そう、ポストモダンの問題である。
 ここで、問題になっているのは何なのだろうか。メディア界の問題である。これは、両義的で、イデア界と現象界の両面をもつ。しかし、今述べたように、これは、反動化して、現象界へと戻ってしまうのだ。それは、スピノザ哲学が欠落しているからと言えるだろう。では、スピノザ哲学とは何か。それは、メディア界=心身性を、能動・積極・肯定化するものである。つまり、メディア界を、現象界化へと反動化するのを抑制する哲学・叡知学であることである。つまり、スピノザ哲学とは、メディア界の共感的差異性を主体・能動・積極的に保持する哲学であり、その結果、差異を共感的差異から、特異性差異へと転換する働きをもつように思えるのである。つまり、共感的差異を保持するということは、共感性を生んでいるイデア/メディア境界の様相を保持することを意味すると考えられよう。つまり、スピノザ哲学は、メディア界的自我からイデア界的自我への移行への方法論をもっていると考えられる。スピノザの共通概念とは、思うに、メディア界的形相(エネルゲイア)に当たるだろう。そして、第三種の概念とは、理念・イデアに当たるのではないだろうか。スピノザ哲学は、イデア界へのコギト/スム哲学からの到達方法を表現しているのである。私は、これまで、スピノザ哲学は、連続性か不連続性かはっきりしないと述べたが、今の考察から、それは、基本的には、不連続性の哲学と見るべきであり、不連続的差異論の先駆者であると見ることができる。
 さて、以上から、真のポスト近代の理論が示せたと考えられる。言わば、初期ポストモダン理論は、反動化して、近代主義へと反動回帰するのである。しかし、スピノザ哲学(、あるいは、フッサール哲学)を内包した後期ポストモダン理論(不連続的差異論)によって、差異は、不連続化・絶対化され、近代的同一性構造自我を超克して、不連続的差異・絶対的差異であるイデアとなるのである。
 さて、最後に付加すれば、キリスト教の教えは、ルサンチマンになるではないかと思うのである。なぜなら、罪の赦しは、反知性的であるからである。知性を含む自我は、罪の赦しの非合理性に反発するのである。その知性の反発が、ルサンチマンになると考えられるのである。キリスト教は、必然的に、ルサンチマンを積もらせ、暴力的になるのである。ニーチェは全く正鵠を射ていたのである。精神主義は、反動化して、暴力的になる。ただ、能動的観念が、事象を積極・能動化して、イデア界への志向を保持するのである。

2006年03月20日 (01:47)

茶道のせかい 帰化人のことなど:女神の文化とギリシア悲劇のことなど

以下の記事に、次のようにある。

「2003/07/10 Thu 23:27 祇園まつりはインターナショナル

 ごずてんのうさんて、知ってはりますか?
 天皇家の家系図みてもあらしませんえ。

 祇園祭りのご祭神はほかならぬ牛頭天皇なのであって、今ではスサノウノミコトが牛頭天皇となってるんだそうだ。神話の世界だからおっとりと聞いておくほうがいいのだろう。

 八坂神社によれば、「天照大神の弟のスサノヲノミコト(素戔嗚尊),その妻,クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)が,一説に都に流行る疫病を静めようとインドから牛頭天皇を呼び寄せ、66の鉾を神泉苑に送ったことに始まる。」という。

 そうなるとご祭神はインドにおわしたのだ。牛の頭とどういうカンケイがあるのか、こちらもおっとりと聞いて来たので今もって分からないでいる。 」

牛頭天皇とは、「女神」の文化・社会のシンボルではないだろうか。インドは、牛が聖獣である。そして、牡牛は、「女神」の文化のシンボルである。また、日本古代は、神道は、「女神」の文化・社会を意味すると考えられるのである。だから、私見では、スサノオは、女神の子である。アマテラスの子であり、「日御子」に当たるのではないだろうか。つまり、イシス/オシリスに相当するものとして、アマテラス/スサノオである。もっとも、スサノオは、父権文化・社会の英雄の姿ももっている。
 とまれ、私見では、アマテラス(女神:牡牛)/スサノオ(女神の子)である。
 ここで、想起するのは、ディオニュソスである。どう位置づけるのかである。今思ったのは、アポロとディオニュソスは一体であるということである。つまり、両者はメディア界の極性ではないと思うのである。+エネルギーがアポロであり、−エネルギーがディオニュソスではないかと思うのである。ニーチェの『悲劇の誕生』の世界である。光と闇は、一体であろう。とまれ、アポロとディオニュソスは、女神の双子である。光と闇、+と−の双子である。女神は、根源・イデア界である。 
 この図式をスサノオに当てはめると、スサノオは二重性をもつはずである。そして、確かに二重性をもっている。秩序破壊者としてのスサノオ(−エネルギー、ディオニュソス)であり、秩序構築者としてのスサノオ(+エネルギー、八岐大蛇の征服者)である。これで、いちおう、牛頭天王の問題をいくらか解明したとしよう。
 次に、《「花街・祇園は江戸中期に門前の水茶屋から発展したもの。」ともいう。 》とあるが、花街・祇園とは、また、女神を想起する。そう、祇園祭とは、正に、東アジアの女神文化・社会を象徴表現しているのではないか。
 さて、以上から考えると、女神は、双子をもつだろう。そして、父権文化・社会の始まりには、双子や兄弟の神話が多いが、それは、女神文化・社会の裏返しなのだろう。『ギルガメシュ叙事詩』のギルガメシュとエンキドゥーの一種双子・兄弟性。そして、聖書のカインのアベル殺し。ローマ神話のロムルスとレムスの兄弟。海幸・山幸。
 さて、このように考えてきて、ギリシア悲劇のことを思うのである。+エネルギー(アポロ)は、父権制となり、−エネルギー(ディオニュソス)は、脱父権制となる。これは、現象界とメディア界のことと言ってもいいだろう。現象界とメディア界の争闘である。思うに、父権的現象界の傲りに対するメディア界側の批判がギリシア悲劇の叡知なのではないだろうか。デルフォイのアポロン神殿の神託やバッカスの反逆は、そのことを意味しているのではないか。メディア界とは、いわば、バランス界である。このバランスを現象界は崩しているのである。しかし、私の直観は、さらに、イデア界への志向を感じるのである。そう、エウリピデスの『バッカスの信女たち』におけるバッカス(ディオニュソス)の支配者に対する復讐であるが、それは、ちょうど現代ポスト近代期に通じる動きがあると思うのである。つまり、現象界的父権制に対する、バッカス(−エネルギー)のエネルギーの発動である。そして、それは、父権制を解体するのである。その脱構築とは、当然、イデア界を志向していると言えるだろう。歴史を見ると、エウリピデスが、紀元前5世紀の作家で、プラトンが、ほぼ紀元前4世紀の哲学者である。古代ギリシア社会は、父権制が腐敗して、−エネルギーが発動して、イデア界を志向していたのではないか。そして、そこに、大哲学者プラトンが出現したということではないだろうか。結局、ギリシア悲劇とは、現象界中心主義に対するメディア界のバランス志向であり、またさらに、イデア界を志向していたということになるだろう。
 とまれ、今は粗雑なまま書き記すに留める。

参考:ギリシア文化
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/23-greece5.html
デルフォイの神託
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0401/delphoi.html?PHPSESSID=6fb63c89bc928139b35caccb857371f4
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茶道のせかい 帰化人のことなど 2006/03/19
 京都の歴史には帰化人は切っても切れない関係がある。祗園祭りで有名な八坂神社の「八坂氏」、上賀茂神社の「賀茂氏」、太秦地区の「秦氏」など、すべて文化を伝播した豪族であり、「帰化人」なのであった。松尾神社、伏見稲荷神社も秦氏の奉祀した神社である。

 桂川の大堰を築堤したり都城の造営等、また絹織物の技に秀でていた彼らが京の都に大きく貢献したことははかり知れない。

 3年前になるが、祗園まつりの茶会にでかけた私は、「八坂氏」が高麗の人だったことをあらためて知り驚いたことがあった。その日のことをノートブックに書いている。
・・・
http://www.janjan.jp/column/0603/0603181018/1.php?PHPSESSID=3b87cdc570afdf8888810891767fe781
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祇園祭
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長刀鉾
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長刀鉾

祇園祭は日本各地の祇園社と呼ばれる神社 に対して行われる祭り である。代表的なものは京都 の綾戸国中神社 と八坂神社 が合同で行う祭りで、京都三大祭り(他は上賀茂神社 ・下鴨神社 の葵祭 、平安神宮 の時代祭 )の一つである。日本三大祭りの一つとされることも多い。7月を通じて行われる長い祭りである。とくに山鉾巡行や宵山が有名。宵山には屏風祭の異名がある。

一説には、869年 、疫病の猖獗を鎮める祈願を込めて、卜部日良麿が66本の矛で牛頭天王に御霊会を行ったのがその起源であるという。970年 から毎年行うようになった。その後、応仁の乱 や第二次世界大戦 などでの中断はあるものの、現在も続いており、千年を超える歴史がある。かつては祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)とよばれていた。その略で、現在でも祇園会と呼ぶこともある。
ちなみに諺で「後の祭り」というものがあるが、これは祇園祭の大一番である山鉾巡行が終わり、この後の祇園祭がたいしてメインとなるものがないことからこの諺が言われるようになったとされる。
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スケジュール

* 7月1日 - 吉符入(きっぷいり)。祭りの始まり。
* 7月2日 - くじ取り式。山鉾巡行の順番を決めるもの。室町時代から競争を避けるために行われるようになった。ただし、さきの巡行の先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、 21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目(さきの巡行の最後)船鉾、あとの巡行の先頭の北観音山、次の橋弁慶山、あとの巡行の最後の南観音山は「くじ取らず」と呼ばれ、順序が予め決まっている。京都市役所 の市会 議場で行われる。
* 7月10日 神輿洗い
* 7月10日から13日まで -山建て鉾建て。分解収納されていた山・鉾を組み上げ、懸装を施す。
* 7月14日 - 宵々々山
* 7月15日 - 宵々山
* 7月16日 - 宵山
* 7月17日 - 山鉾巡行。祇園祭のハイライト。山鉾からは祇園囃子のコンチキチンという独特の節回しが聞かれる。現在のような囃子ができたのは江戸時代から。また豪奢な山鉾の飾りも見どころの一つ。かつては山鉾巡行自体が17日(前祭・さきのまつり)と24日(後祭・あとのまつり)の2度行われていたが、1966年より 17日に統合された。鉾の数は現在は32基で、これも時代によって変化している。山鉾は午前9時に四条烏丸を出発し、午前中にコースを回る。見所の一つは辻回しと呼ばれる鉾の交差点での方向転換である。鉾の車輪は構造上方向転換が苦手であるため路面に青竹を敷き水をかけ滑らして向きを90度変える。
* 7月17日 - 神輿渡御。山鉾巡行で浄められた御旅所へ、八坂神社から神輿が渡る神事。この夜から7日間滞在する。誰とも言葉を交わすことなく七夜お参りすれば、願いが叶うというのが「無言参り」。
* 7月24日 - 花傘巡行。上述の後祭の変化したもの
* 7月28日 - 神輿洗い
* 7月30日 - 夏越祭(なごしまつり)。祭りの終わり。

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山鉾一覧
蟷螂山(屋根上のカマキリが動く)
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蟷螂山(屋根上のカマキリが動く)

* 鉾
o 長刀鉾
o 函谷鉾
o 鶏鉾
o 月鉾
o 船鉾
o 綾傘鉾
o 四条傘鉾
o 菊水鉾
o 放下鉾
* 山
o 岩戸山
o 保昌山
o 郭巨山
o 伯牙山
o 芦刈山
o 油天神山
o 木賊山
o 太子山
o 白楽天山
o 孟宗山
o 占出山
o 山伏山
o 霰天神山
o 蟷螂山
o 北観音山
o 南観音山
o 橋弁慶山
o 鯉山
o 浄妙山
o 黒主山
o 役行者山
o 鈴鹿山
o 八幡山

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%A5%AD " より作成

カテゴリ : 日本の祭り | 日本の年中行事

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デルポイ
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世界遺産 デルフィの古代遺跡
(ギリシャ )
競技場跡
競技場跡
(英名) Archaeological Site of Delphi
(仏名) Site archéologique de Delphes
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(i),(ii),(iii),(iv),(vi)
登録年 1987年
拡張年
備考
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
デルポイの位置
世界遺産テンプレートを使用しています

デルポイ(ギリシア語 :Δελφοι、デルフォイとも)はギリシア本土、パルナッソス山 のふもとにあった古代ギリシア の都市国家 (ポリス )である。現在は遺跡 となっており、ユネスコ の世界遺産 (文化遺産)に登録されている。


デルポイの遺跡は、アポロン 神殿 を中心とする神域と、都市遺構からなる。神域に隣接して、有力な各諸都市の財産庫も築かれていた。 古代ギリシアにおいてデルポイは世界のへそ (中心)と信じられ、ギリシア最古の神託所であるボイポス・アポロンの神殿の神託 で有名であった。デルポイの神託はすでにギリシア神話 の中にも登場し、人々の運命を左右する役割を演じる。デルポイの神託が登場する神話には、オイディプス 伝説がある。

神がかりになったデルポイの巫女 によって、謎めいた詩の形で告げられるその託宣は、神意として古代ギリシアの人々に尊重され、ポリスの政策決定にも影響を与えた。また時には賄賂を使って、デルポイの神託を左右する一種の情報戦もあったといわれる。デルポイに献納する便のために、ギリシアの各都市はデルポイに財産庫を築いた。これは一種の大使館の役割を果たしたとも考えられる。

史実において有名なデルポイの神託には、ヘロドトス の『歴史』が伝えるアテナイへの二つの神託がある。ペルシア戦争 時にアテナイは初め滅亡を暗示する神託を得たのち、再び使者を立て、以下の神託を得た。

されどアイギス 保つゼウス の御娘 は、
木の壁のみを守りとてアカイア人 に与え給う。 ヘロドトス『歴史』

これをアテナイ市街を焼き払って当時は木造の壁に守られていたアクロポリスに籠城すると解釈するものがあったが、テミストクレス は「木の壁」を船を指すものと解釈し、三段櫂船 を造らせて、サラミスの海戦 にペルシア軍を破った。

またソクラテス の友人はデルポイで「ソクラテスより賢い人間はいない」という神託を得て、その哲学 的探求を促した。この神託に疑問を持ったソクラテスは当時知者とされた人々を訪ねてまわり、結果として、真の知者はおらず、ただ「知っていると思っている」人ばかりがいることを見出し、「知らないと思っている」点でのみ、わずかに自らがそれらの人々より賢いと思うに到った、と、プラトン の『ソクラテスの弁明 』他の古代の証言は伝えている。

その後ギリシアの政治的地位の低下と伝統的宗教の衰微とともに、キリスト教 を待たず、古代末期にはすでにデルポイの神託はかつての地位を失った。プルタルコス は、デルポイの神託について、その衰微を中心として数篇の著作を残している。
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交通

・アテネより高速バス
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世界遺産

この世界遺産は、文化遺産の世界遺産登録基準 における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

* (i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。

* (ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

* (iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。

* (iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。

* (vi) 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。

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関連項目

* 世界遺産の一覧
* Delphi

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%82%A4 " より作成

カテゴリ : ギリシャの世界遺産 | 世界遺産 | 古代ギリシア

2006年03月19日 (21:02)

産婦人科医の逮捕は、ポスト近代期の、小泉「構造改革」・同一性構造暴力の反動の全体主義に拠る

本件に関しては、様々な問題が絡んでいることがわかった。検察側は、国民を守るという姿勢をアピールするために、国民に対する悪人を作る傾向がある。国民への害悪をもたらすものを、色眼鏡で、排除的に追及するのである。正に、同一性構造二項対立暴力によって、「犯罪者」をこしらえるのである。この事件の場合、警察側の同一性構造暴力に問題があると言えよう。
 コメントした方が、カフカ的状況と述べていたが、それは、結局、同一性構造暴力によるものなのである。そして、現代、ポスト近代は、それが反動化するのである。同一性構造暴力は、問題を二項対立で色分けして、差異を見ないのである。加藤医師の差異を見れば、逮捕はできないはずであった。 
 しかし、私は、なにか腑に落ちない感じがある。この事件には、なにか、腹黒い、邪悪な意志があると思う。この問題の起点は、

『医師会ニュ−ス第1061号 (平成17年11月20日)によると、
【「分娩医療機関の消滅は、地元住民に不安を与えている。原因の一つに、看護師の内診問題がある」と指摘し、従来から産科医療機関において医師の指示と責任において実施されていた“看護師による子宮口の開大度・児頭下降度の測定”ができなくなったことが、分娩医療機関の減少を招いていると述べた。 
 この混乱の原因となったものは、厚労省医政局看護課長通知(平成十四年十一月)(平成十六年九月)であり、ここで、“看護師による内診を禁止する”との判断を下している。】』
http://www.janjan.jp/living/0511/0511285704/1.php

によると、厚労省にあると思われるのである。厚労省の同一性構造暴力が、医療世界の差異を無視しているのであると思う。私の勘では、警察側の同一性構造暴力と厚労省の同一性構造暴力とが、裏で、つながっていると思われるのである。つまり、今の日本は、小泉「構造改革」の同一性構造暴力が権力を支配していて、それが、末端まで、影響をもたらしている、全体主義社会であるということだ。コメントのW.S.Bさんが述べたカフカ的状況とは、全体主義体制にほかならない。そう、これで、私としては、腑に落ちるのである。この産婦人科加藤医師の逮捕とは、ポスト近代における、小泉「構造改革」・同一性構造暴力の反動による全体主義体制によるものであるということである。現代日本は、カフカ的、『1984年』的状況になっているのだ。

http://masamiti.at.webry.info/200603/article_11.html
http://ameblo.jp/renshi/entry-10009241370.html#t10006144174
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福島県立大野病院:産婦人科医逮捕 2006/03/13
 2006(平成18)年2月18日、福島県立大野病院の産婦人科医である加藤克彦医師が逮捕され、全国に報道されました。

 帝王切開中の大量出血により患者さんが死亡した医療事故(死亡日 2004(平成16)年12月17日)に関して、業務上過失致死罪および、異状死の届出義務違反(医師法違反)で、刑事事件としての逮捕です。
・・・
http://www.janjan.jp/living/0603/0603110682/1.php?PHPSESSID=a6bed90327bc7b03c8ad9763f0a354c5

2006年03月18日 (17:10)

同一性自我から差異自我への変革の方法の一考察

同一性自我とは、平俗に言えば、我が侭であり、自己中心主義である。しかし、これは、狂気であると私は考える。現象界においては、近代において、同一性自我が形成されるので、世人は、多かれ少なかれ、狂人である。ただ、問題は、この度合いである。同一性自我の度合いが高いと、同一性構造狂気に囚われ、暴力的になるのである。これは、また、政治的には、権力の問題であるから、本テーマは、最高度の重要性をもつものの一つであると考えられる。
 ここでは、個人の問題に限定して考えたい。人間は、自然のある必然性から、同一性構造をもたされる。しかし、直観、叡知教養、経験・体験知によって、人間は、差異であることを自覚して、差異的認識・知性・「科学」を深める。これは、人格的知性と言ってもいい。(因に、近代主義は、とりわけ、近代科学、近代的合理主義は、人格的知性を否定していると言えるだろう。物質主義的合理主義・唯物論だからである。感覚・感情・欲望・知性は認めるが、心性、精神性、叡知性、共感性、心魂性等は、認めない。)
 しかしながら、同一性自我から差異自我へと変容する人は、稀であるように思う。一般には、差異自我が未成熟のまま、同一性自我の生活・人生を送っているだろう。また、ある人は、差異自我を抑圧・排除して、同一性自我中心主義となってしまっている。暴力・反動・狂気の状態に陥っているのであり、社会的に害悪である。とまれ、どうやったら、差異自我(コギト/スム自我)へと転換できるのだろうか。そう、現代社会は、同一性自我的人間の社会であるから、それは困難なのであり、多くの人は、苦悩し、脱出口を見出せないでいる。また、多くの人は、同一性自我の軽薄な生き方を、選んでしまうのである。
 近代という時代は、人類の叡知の伝統が切断された時代と見ないといけない。そして、新しい自我の誕生した時代である。それは、デカルトのコギト/スム哲学である。近代とは、人類史において、全く新しい時代なのだろう。それは、同時に、まったく恐怖すべき時代である。暗黒の時代であるのだ。カリ・ユガの時代である。近代以前の叡知は、宗教や神秘学の形を取っていたと言えよう。それが、近代において、否定されたと言えよう。個人・自我の「知」が、主導的になったのである。コギトの時代である。しかし、同時に、近代的主客二元論の時代である。前者は差異自我を、後者は同一性自我を意味する。この分裂が近代の混乱・カオスを生んだのである。つまり、前者は、後者によって覆われてしまい、差異自我に基づくべき叡知の探求が特殊なものとされたからである。また、後者の探求は、天才的哲学者等によって、為されたが、内容や表現の難解さ・晦渋さによって、一般に理解されがたいものであったのである(とりわけ、フッサール現象学である)。差異自我の叡知が、難解な叙述表現をまとったのである。そして、同一性自我の人間からは、見向きもされないのである。つまり、差異自我の叡知と同一性自我の知識との大分裂が近代において生じたのである。そして、これは、現代、ポスト近代のエポックにおいても、変わらない。
 しかし、ポスト近代とは、差異自我のエポックであり、差異自我の叡知の時代である。そして、近代の同一性自我が反動・暴力・狂気化する時代である。だから、同一性自我から差異自我への変革は重大な根本的意義をもっている。そして、不連続的差異論は、ポスト構造主義の不備を解消した、新しい十全な差異理論と考えられ、また、きわめて簡潔な、シンプルな理論なのであるが、実感的に理解されるのが難しいのかもしれない。このようなことを含めて、本件を考えたい。
 テーマ自体は単純である。同一性から差異への転換である。しかし、これは、一見、抽象的なので難解なのである。フッサール現象学は、エポケー(判断停止)による現象学的還元を説くのであるが、用語や叙述が難しいので、一般の人は避けてしまうのである。(一般の方には、フッサールではなくて、D.H.ロレンスの『無意識の幻想』を読むことを奨めたい。それも、原文で読むことを奨めたい。無意識の心身をロレンス一流に表現しているのである。)だから、私は、平明に、具体的に言いたい。
 同一性から差異への変革とは、日常思考からの脱出であり、脱日常意識・思考の形成である。それは、非日常という特殊な事象ではない。脱日常である。フッサール現象学も脱日常の哲学と言える。そこで、私は説く。通常、思考は頭による思われている。頭で考える。それは正しい。しかし、人間は、「からだ・身体」でも考えると言いたい。しかし、正確に言えば、心身である。心身思考があるのである。これが、差異への変革を意味するのである。頭で考えるとは、言語で考えるということである。そして、心身思考も頭で、言語で考えるが、それに留まらず、頭と身体を対話させて思考するのである。即ち、私の皮膚で考え、胸で考え、腹で考え、眼で考え、耳で考え、手で考え、足で考え、内臓で考える。全身で考えるのである。いわば、全身全霊思考である。つまり、心身他者・差異・多元性(多神教)で思考するということである。いかがであろうか。通常、頭で、言語で思考すると考えられている。それは、一元論である。一神教である。そうではなくて、心身多元論・多神教で思考すること、それが、差異自我のあり方なのである。つまり、心身という差異・特異性において思考するということである。これによって、同一性自我から脱却できるのである。意識、注意を単に頭ではなくて、心身に行き渡らすことである。心身二元論から心身相補性・特異性論への転換である。心身交流である。心身対話である。これが、差異自我を形成するのである。即ち、心身コギト主義である。そして、これは、スピノザ哲学に結びつくのである。また、フッサール現象学に結びつくのである。ポスト近代主義とは、心身差異多元論である。同一性自我意識から心身