2006年05月30日 (21:57)

「思考実験:XYZNの直交4次元座標」のコメント

以下は、次のエッセイのコメントを独立させたものです。
「思考実験:XYZNの直交4次元座標」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10012934213.html#c10021972478

__________________________________

■虚数空間が現時点では、あくまで、比喩であること

ヌース理論の半田広宣氏の説明は、一つの比喩として捉える方が、より半田氏の考察を有意義にすると考えています。
不連続的差異論誕生の当初、私の教え子で、数学オリンピックの選考に残った青年のことを書いたように思いますが、彼も、「平面のカラーリング、色づけ」という表現を用い、さらに、それを「ウェイト」と見る手法を語っていました。
ここで言う、ウェイトとは、「力」「エネルギー」「傾向」というような意味だと思います。
 思考実験的に考察すると、実軸に居るというイマジネーションを得るには、虚軸に居るイマジネーションが必要であり、虚軸の想起には実軸の想起が必要になる。
 人間の認識構造の、この『ジレンマ』をエポケーに入れて、これを「ゼロ」に還元するしか、現在の哲学は進んでいない。
 つまり、「カフカの『審判』の無実の逮捕である。」
ODA ウォッチャーズ (2006-05-28 00:47:03)

■“受胎告知の形象化”を連想しました

ダニエル・アラスの著書『なにも見ていない』の問題提起の一つは“形象不可能なるものの形象への降臨”こそが“受胎告知図”という画家の仕事だ、ということのようです。
toxandoria (2006-05-28 06:50:18)

■第三の複素平面(1)

お久しぶりです。わたしの拙い思考内容を取り上げていただき感謝しています。ODAウォッチャーズ氏のおっしゃる通りですね。

意識の様々な特性を幾何学的に形式化していくには、複素空間における多様体が最も適している材料であると思っていますが(ドゥルーズも内在平面をn次元多様体と表現していましたね)、現時点では、メタファーの域を出ていないのは確かです。今後、量子論の確率解釈や、観測者問題などを含めた上での細かい検討が必要になってくるでしょう。個人的には、比喩ではなくそのものだとなるように、論理のクラルテを磨いていくつもりです。
半田広宣 (2006-05-28 14:52:20)

■第三の複素平面(2)


>思考実験的に考察すると、実軸に居るというイマジネーションを得るには、虚軸に居るイマジネーションが必要であり、虚軸の想起には実軸の想起が必要になる。

全くその通りだと思います。そうしたイマジネーションのトポスがC^3にあると考えています。

 プログで取り上げていたC^2上においては、虚軸を認識するための虚軸(虚軸に直交する虚軸)は存在していません。その意味でも、対象と主体の分離を表現することが不可能なんですね。こうした他者なき世界、自他なき世界としての「知覚野そのもの」として世界の在り方をC^2上におけるSU(2)対称性(4 次元空間における回転対称性)と見なすのがヌース理論の考え方です。つまり、ここが「無人島」なわけです。

 SU(2)は3次元球面S^3のことでもありますから、コンパクト化が可能で、4次元時空上では、文字通り〈差異化=微分化〉の領域として、分子機械として作動するようになります。

 このミクロな機械内部に広がる連続的な内在面に排他的な離接を用意させてくるのが、第三の複素平面を加えたC^3ということになると思います。対称性で言いますとSU(3)です。「アンチ・オイディプス」的に言えば、原始土地機械から専制君主機械への相転移。ラカン風に言えばファルスのトポスの発現。モーゼの登場というか、脱エジプト的事件がここで起こるわけです。(現代宇宙論がいう「自発的対称性の破れ」がこれに当たります)。

 この C^3において、双対力(SU(2))として実現していた不連続的差異のゼロ度のシステム(+−+−)である聖霊領域は、(++,−−)という父(象徴界)と母(想像界)へと偏曲し、SU(2)によって実現されていたゼロ度のシステムそのもの(現実界)は、その間に眠るメディア界として潜在化させられてしまいます。カバラのいう器の破壊がここに起こるわけですね。

 かなり大まかで申し訳ないのですが、こうした考察からすると、いわゆる左右方向からの視線を持つイマジネーションと、それとともに奥行き方向に侵入してくる乖離感覚がこの第三の複素平面の虚軸と実軸に相当しているのだと思います。イデア構成にこうした第三の複素平面が加わることをヌース理論では「オイディプス化」として説明しています。
半田広宣 (2006-05-28 14:53:47)

■半田広宣様 詳しい解説、感謝します

私自身は、幼い頃から数的に考える「癖」をもっていることと、いつも、文字の「曖昧性」に怯える性質から、余りに端的に表現しすぎる「癖」があります。この点で、的確にポイントを突いて頂いてのコメント、とても感謝しています。
まさに、
「比喩ではなくそのものだとなるように、論理のクラルテを磨いていく」
ことに、私自身も貢献したいと考えています。
さて、「c^3」(勿論、c^2からの連想)についてですが、やはり、「光」が「自然対数のe」と同じ正確を有すると考えることがポイントになるような気がします。高校で習った時から、そんな気がしていました。
この点について、何か、閃きが御座いましたら、御教授ください。
ODA ウォッチャーズ (2006-05-28 18:07:17)

■toxandoria様 とても示唆に富む文章です。


次の文章、とりあえず、当方のブログの巻頭に置いて、毎日、黙考します。
http://blog.kaisetsu.org/


ダニエル・アラスの著書『なにも見ていない』の問題提起の一つは“形象不可能なるものの形象への降臨”こそが“受胎告知図”という画家の仕事だ、ということのようです。
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズ (2006-05-28 18:12:14)

■コメント感謝します:C^2=メディア界の幾何学へ向けて

半田広宣さま

ご執筆でお忙しいとき、TBでお邪魔して、少しは気にしています。
どうも、不連続的差異論に沿った、丁寧な解説ありがとうございます。とても、明快です。
C^2とC^3は、明確に、不連続的差異論のメディア界と現象界(ないしメディア/現象境界)に相当することが、わかりました。この点で、ヌース理論と不連続的差異論は、まったく同じことを記述していますね。
 とまれ、「オイディプス化」とは、見事な命名ですね。私は、父権制化ないし近代的自我化と見ています。左右感覚と奥行き感覚の乖離の事象がとても気になります。C^2=メディア界では、乖離せずに、一種未分化的に合一しているわけですが、この空間は、球面として見ていいのでしょうか。ここは、量子論の《空間》です。私は、まだ、量子論の幾何学が明確に描けずにいますが。
 とまれ、ODA ウォッチャーズ氏の指摘にありましたように、虚軸と実軸の対極性が、C^2=メディア界にあり、それが、オイディプス化=現象化によって、奥行きと左右に乖離するという風に考えていいようにも思えるのですが。C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。
 とまれ、おかげで、私なりに、幾何学化のイメージが出てきました。C^2=メディア界(=メディア平面、内在平面?)は、現象界において、潜在化していて、これが、時間軸と関係していると思います。そして、この時間軸とエネルギーが関係しているのでしょう。相対性理論は、C^2=メディア界をオイディプス化=現象界から定式化していて、また、量子論は、なんとか、それを、相補性等で把捉しようとしていますが、まだ、オイディプス化=現象界のへその緒、つまり、唯物論に囚われていると思います。
 いろいろ、アイデアが浮かんできます。本文で書いてみます。
 
 

PHILOSOPHIA (2006-05-29 05:44:23)

■三つの無意識機械(1)

Kaisetsu of ODA ウォッチャーズさま

>ご執筆でお忙しいとき、TBでお邪魔して、少しは気にしています。

とんでもありません。哲学との関連性に関してたくさんの示唆を与えていただいているのは、わたしの方です。
おかけで、ヌース理論の思想的位置が極めて明瞭になってきています。改めて不連続的差異論との邂逅に感謝しています。
?>とまれ、「オイディプス化」とは、見事な命名ですね。私は、父権制化ないし近代的自我化と見ています。

ドゥルーズも言ってましたが、無意識の構造は地層を持ち、多層化しているように思います。一神教の発明が「オイディプス化」の意ですが、おそらく近代自我の形成はこのオイディプス化におけるヌーメン(神霊)の力が、さらなる下部に独自の生殖領域を作り出すことによって出現してくる第三の無意識回路の生産物ではないかと考えています。ドゥルーズの言葉で言えば、末端性器、つまり資本主義機械ですね。
半田広宣 (2006-05-30 15:28:33)

■三つの無意識機械(2)

今のところ、次のような方向性で考えています。

第一機械/原始土地機械………C^2(前後に虚軸/前後のみ二本)
第二機械/専制君主機械………C^3(左右に虚軸)
第三機械/資本主義機械………C^4(上下に虚軸)

 これはゲージ対称性の拡張にともなう次元進展に同じですが、ヌース理論では虚軸が持った直交性とは「観察」と考えます。イデアは複素n次元多様体の中でこうした直交変換を重ねていくことによって、無意識の観察の進展を推し量っているのではないかと思います。ペンローズも指摘していたように、おそらく、無意識構造は極めてアルゴリズム的なんですね。骨格は極めてシンプルなものではないでしょうか。C^3の虚軸(視線)は左右から介入してきますが、C^4の虚軸は上下に貫かれるように降りてくることになります。発生論的に言えば、人間にとっての絶対的上下とは、宇宙空間と地球内部の方向に当たりますから、この無意識の視線によって、初めて地球が球体として対象化されることになります。これが近代パラダイムの骨格である地動説を誘因してきたのかもしれません。フーコーのパノプティコンを例に出すまでもなく、近代コギトの中に潜むこの高見の塔に住まう巨人の目は常に、この上空からの視線を所持しています。しかし、この「帝国」的視線はC^5の登場によってまもなく勢力を無くしていくことになるのではないでしょうか。C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。

>左右感覚と奥行き感覚の乖離の事象がとても気になります。C^2=メディア界では、乖離せずに、一種未分化的に合一しているわけですが、この空間は、球面として見ていいのでしょうか。ここは、量子論の《空間》です。私は、まだ、量子論の幾何学が明確に描けずにいますが。

はい、おっしゃる通り球面です。4次元空間上の3次元球面S^3になります。C^2で言えば、SU(2)という群です。まさしく、量子論が展開するスピノールの空間です。

半田広宣 (2006-05-30 15:29:52)

■三つの無意識機械(3)

>とまれ、ODA ウォッチャーズ氏の指摘にありましたように、虚軸と実軸の対極性が、C^2=メディア界にあり、それが、オイディプス化=現象化によって、奥行きと左右に乖離するという風に考えていいようにも思えるのですが。

はい、C^2上のSU(2)はメディア界そのもののトポロジーになっていると思います。メビウスの帯のように捩じれを持って内部=外部、外部=内部という交通空間を作っていますね。浅田彰さんが「構造と力」でクラインの瓶の比喩で説明していましたね。

>C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。

対峙し合う自他の関係性が、○(視野空間)と・(他者の目)の双対(○・○・)から、○○(二つの視野空間の同一化)と・・(二組の目の同一化)へと乖離してしまうということだと思います。このへんは初期ラカンが用いたシェーマLの図式と同じです。象徴的同一化と想像的同一化の作用と解釈することができると思います。C^2で顕在化していた純粋強度の場としてのメディア界(これが不連続的差異の場だと思っているのですが……)は、これら両者の間に沈み込み、文字通り、メディア界として無意識の欲望回路となるのだと思います。対象aのことだと思います。黄金比的運動が起こっているところですね。
半田広宣 (2006-05-30 15:34:36)

■三つの無意識機械(4)

>とまれ、おかげで、私なりに、幾何学化のイメージが出てきました。C^2=メディア界(=メディア平面、内在平面?)は、現象界において、潜在化していて、これが、時間軸と関係していると思います。そして、この時間軸とエネルギーが関係しているのでしょう。相対性理論は、C^2=メディア界をオイディプス化=現象界から定式化していて、また、量子論は、なんとか、それを、相補性等で把捉しようとしていますが、まだ、オイディプス化=現象界のへその緒、つまり、唯物論に囚われていると思います。

はい、そうですね。わたしも全く同じように考えています。現在のわたしたちの意識は、主体が自他ともに鏡像空間で把握されているために、4次元の方向が反転しているのではないかと思います。上に挙げた群SU(2)はパウリ行列で表現することができますが、4次元空間を虚時間と見て、虚時間を実時間に符号を換えると、SU(2)はローレンツ変換群にかわります。時間t→虚時間itはウィック変換と呼ばれていますが、おもしろいことに、あのホーキングが「無境界仮説」の中で、特異点を解消するために使用したトリッキーな数学的技法です。宇宙の始まりの前には虚時間宇宙があった。。これが実は原始土地機械なんでしょう。物理学がモノ的イメージから脱却することができれば、新世界は一気に訪れてきますね。楽しみです。
半田広宣 (2006-05-30 15:36:43)
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2006年05月29日 (09:47)

思考実験:メディア界の空間・幾何学について

作業仮説として、メディア差異(ゼロ度共振差異)を、三次元時空体としよう。あるいは、n次元時空体としよう。この時空体とは、時間と空間が未分化一体となっているということである。E=mc^2である(とりあえず)。この差異時空体が、メディア/現象境界領域において、同一性化されるわけであるが、この同一性化によって現象化が為されるのである(半田氏は、オイディプス化と呼んでいる)。このとき、思惟と延長が分化するのである。主客二元論化するのである(近代西欧化)。この同一性化による延長の発生が、半田氏の言う奥行きに相当するのではないだろうか。
 ガウス平面=イデア界での、1/4回転によって差異が虚軸化する。そして、それが、垂直に展開して、Z軸化するとしよう。このZ軸が、メディア/現象境界ではないだろうか。そして、ここにおいて、現象化に際して、延長が発生するのではないだろうか。Z軸と延長方向が重なることになる。このようなことは、以前考えたことがある。とまれ、Z軸を前後方向としよう。すると、ガウス平面=イデア界とは、Z軸=現象界と直交している関係にある。これは、ヌース理論が表現している世界観と重なるだろう。
 問題は、この現象界とメディア界の「空間」関係である。Z軸が前後方向あるいは時間軸方向ならば、左右方向、上下方向はどうなるだろうか。それらは、互換できるものになるだろう。つまり、X軸が上下方向に、Y軸が左右方向になったり、Y軸が上下方向に、X軸が左右方向になったりするだろう。しかし、根本的には、無数の上下左右方向が可能になるということである。つまり、上下左右は回転するからだ。しかし、前後方向/時間軸は一つしかないだろう。これが、半田氏が奥行きという言葉で表現したものに通じるのかもしれない。
 とまれ、ここでは、作業仮説として、Z軸が前後方向・時間軸であり、ここで、延長空間=現象化が発生するのであり、この一次元に対して、ガウス平面=イデア界の二次元が加わって三次元空間=4次元時空間が発生すると言えないだろうか。それは、1/4回転による捩れによって、ガウス平面=イデア界に垂直に差異(ゼロ度差異=共振差異)が「発出」するという事象で説明できるだろう。つまり、Z軸の発生によって、差異は、三次元化しているのである。そして、これが、同一性化によって時空4次元化すると言えるだろう。考えれば、確かに、左右上下は、多様性であるが、前後も多様である。この点を説明しなくてはならない。
 これは、感覚の中でも、視覚に関係する。正面や背後の問題である。直観的に、正面は枢要なものである。同時に、背後の意識も喚起される。正面と背後・背面の体極性があるだろう。視線が基礎であり、ここから、前後方向が規定されて、左右上下が決定されるだろう。視線ないし視点の問題である。そして、これは、同一性化の問題である。光の同一性の問題である。光の同一性が、視線・視点を形成するのであり、これが、延長空間・前後方向・現象化を発生させると考えられる。ということで、前後方向の問題は、光の同一性⇒視線・視点による正面・背面で説明できるだろう。即ち、前後方向(=奥行き)とは、光の同一性=視線・視点によって一義的に決定されるということである。
 ここで、時間軸が光軸であるということになるだろう。相対性理論は、ここを理論化しているのだろう。つまり、Z軸理論である。ついでに、量子論は何かと言えば、それは、メディア三次元体の理論ではないだろうか。ただし、ガウス平面=イデア界を外しているように思えるのである。差異が現象化する以前のXYZ三次元事象が真の量子空間ではないだろうか。つまり、絶対エネルギーの空間(ガウス平面=イデア界)を入れて、完全な量子空間となるのではないだろうか。つまり、現在の量子論は、ゼロ度共振差異=量子のみを扱っているのであるが、その原初に、絶対的差異の回転エネルギーがあるのであり、この回転エネルギー=絶対(絶対値)的エネルギー(=デュナミス)を計算する必要があるのではないだろうか。この点は後で検討したい。
 ここで、最後に、メディア界の空間・幾何学の形態について触れると、それは、二重らせん形状、あるいは、円柱、あるいは、球体等になるのではないだろうか。ここに形態の原型があるのだろう。そして、プラトンは、ここを、イデア界、コーラと呼んだのだろう。そして、ここは、D.H.ロレンスの『死んだ男』の暗いコスモスの薔薇に相当するだろう。多重多層な時空間多様体である。また、善のイデアであるが、それも、メディア界を指していると見ることができるように思われる。しかし、なにか、イデア界自体の示唆も感じるのである。また、大乗仏教であるが、《空》とはメディア界を指しているだろう。また、キリスト教は、同一性の極致を意味しよう。Z軸=ヤハウェからの同一性の展開としてのイエス・キリストだろう。そして、ここは、極点であるから、反転して、メディア界へと回帰するだろう。これが、聖霊教を意味しよう。そして、私の直観では、これが、宝瓶宮(水瓶座アイオーン)の意味するものである。水瓶の水は、聖霊であると考えられるのである。っ伝統的には、ミューズ(ムーサイ・詩神たち)である。また、天使や精霊である。霊感である。そして、メディア界は、確かに、差異調和の世界である。コスモス的ハーモニーCOSMIC HARMONYの世界である。ロレンスが、『馬で去った女』で表現した宇宙、月と太陽の調和の世界である。華厳経宇宙である。モーツァルトの音楽の世界である。また、円空の言う「法の御音」の世界である。高天原である。常世である。新エデンの園である。新八百万の神々の世界である。新多神教である。
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2006年05月27日 (21:39)

思考実験:XYZNの直交4次元座標

ヌース理論の半田広宣氏は、以下のように述べている。

「ヌース理論では奥行き方向を虚空間の方向と考える。というのも、奥行き方向は知覚が世界へと降り立ったときに生じる干渉場のようなものであり、3次元の中で人間の現実が息づく唯一の方向性でもあるからだ。その意味で、奥行き方向は左右方向や上下方向とは絶対的な差異を持っている。その差異の方向を実軸(左右や上下)の手前側への90度回転と見立て、虚軸として考える――。筋書きとしては至って簡潔である。実際に、そこには一つの直線が息づいてはいるのだが、その直線は目で見ることはできない。それがゆえに、それは「虚」の次元であると考えてみようということだ。。奥行きを実の1次元として、左右・上下と無理矢理、同一化させて見ている現在の空間認識よりも、心理的には極めて自然な空間解釈と言えるだろう。  この考え方でいけば、モノを中心に自他が向かい合った状態では、二本の虚軸が奥行き方向に重なり合って存在しているということになる。知覚正面に十文字に実の2次元平面が広がり、奥行きに二本の虚軸が重畳する――これがヌースが21世紀の人類に向けて提言するこの存在空間のベーシックな描像だ。」
《最終兵器C^2》
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/05/c2_99a2.html

これをヒントにして、不連続的差異論の1/4回転による虚軸の様相を、再考しよう。
 半田氏は、虚軸を奥行きの方向であると述べている。不連続的差異論では、虚軸Y軸は、メディア界が形成される軸である。ここでは、差異(不連続的差異)は、ゼロ度共振連結するのである。そして、メディア界の差異は、垂直に捩れて、Z軸を形成する。ここで、立体空間が発生するが、Z軸を境界ゼロ度軸とすることができるだろう。そして、境界無軸N軸(Nはnothing)を考えよう。すると、XYZN軸直交座標の4次元空間がある。
 問題は、時間軸をどこに設定するかということである。Y軸にするのか、Z軸にするのかである。ここでは、Z軸を時間軸と仮定しよう。Z軸は、量子軸と言ってもいいかもしれない。ここでの、時間とは、光速に関わる時間だろう。境界ゼロ度の量子時間である。ならば、結局、XYNで、空間三次元を形成するということになり、Zが時間一次元である。
 ここで、半田氏の考えを借りると、X軸が左右軸、Y軸が前後軸(奥行き)、N軸が上下軸となるだろう。不連続的差異論では、Y軸虚軸は、境界ゼロ度を形成する軸であるが、イデア界とメディア界の境界、即ち、イデア/メディア境界ではないだろうか。完全な境界ゼロ度軸は、Z軸と考えたい。(因みに、YZNの三次元が、メディア立体空間であろうか。ドゥルーズ&ガタリの内在平面とは、YZ平面かZN平面のことではないだろうか。それとも、ガウス平面のことなのだろうか。)
 虚軸は、イデア/メディア境界とここでは、考えたい。ここは、正に、不連続的差異の特異性と差異の共振共感的連続性とが、混淆する領域であるが、直観では、「魂」の領域である。ここで、心身的な無限が発生するのである。そう、虚軸は、「魂」・心身的無限を意味しているように思えるのである。ここは、深度の軸と言ってもいいのかもしれない。深みである。そして、これが、上下に適用されて、高さ、深さが発生するのではないだろうか。確かに、半田氏が説くように、虚軸は、奥行きの軸なのかもしれない。無限軸と言ってもいいだろう。おそらく、ここに、森羅万象の核心があるのではないだろうか。だから、実軸(左右)ー無限軸(虚軸:前後)ー時間軸ー現象軸(無軸:上下)となるだろう。
 そして、この無限軸が、上下左右に向けられるのではないだろうか。ここで、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を想起するが、鏡は、正面にあるのであり、無限軸を意味するだろう。そこでは、特異性と差異の対極性が併存している「カオスモス」の世界のはずであるし、実際、時間の可逆性(差異の対極性)があるし、また、特異性の人物が跋扈しているだろう。また、宇宙論では、特異点が問題になるが、それも、無限軸のことではないだろうか。いちおう、ここで、留めたい。
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2006年05月24日 (22:11)

イマジネーション知性へ向けて:イマジネーションと知性の結婚:同一性を包摂する不連続的差異・真実在

啓蒙主義/ロマン主義(・象徴主義)の問題、即ち、理性と感性の対立の問題であるが、これは、英米文学モダニズムにおいては、古典主義的回帰で、反動化して、問題から逸れてしまったと思う。
 この啓蒙主義/ロマン主義問題は、知性とイマジネーションとの結婚ということで解決できると思うのである。これを、不連続的差異論が可能にすると考えられる。なぜなら、近代ないしポスト近代の《精神》とは、差異と同一性の分裂、即ち、差異の心身性(感性、イマジネーション、ヴィジョン等)と同一性の言語知性との分裂があり、これを、不連続的差異であるイデア界を仮説することで、統一できると考えられるからである。つまり、不連続的差異の仮説によって、差異を現象界の同一性(同一性自我)から切断して、差異を差異として、同一性から独立させることができるのであり、このとき、不連続的差異に対応した不連続的差異的知性が生起するのである。言い換えると、それまでは、差異は、知性というよりは、心身性、感性、「身体」であった。即ち、「非合理」なもの(ロマン主義・神秘主義・象徴主義)であったのである。そして、その「非合理」な差異と同一性の近代科学(唯物論的科学知性)の知性とが分裂・矛盾していたのである(これは、おなじみの図式であるが)。また、フランス・ポスト・モダンにおいては、差異の理論化への明確な知的営為があった。(これは、フランス・ポスト・モダンの偉大な功績である。)しかし、それは、絶対的差異である不連続的差異と連続的差異とを理論的に峻別しなかったので、ブレークスルーまでには達しなかったと考えられるのである。即ち、差異が、同一性から完全に脱却できなかったのである。これは、ドゥルーズの差異哲学にはっきりと確認できることである。差異=微分の積分として、現象界(連続・同一性)を把捉したことに見られるのである。
 といういうことで、フランス・ポスト・モダンは、近代主義の矛盾から差異の理論への不十分な出発であったのである。
 結局、不連続的差異論によって、不連続的差異の知性が形成されたのであり、これにより、感性・心身(差異)と言語知性が統一されたと考えられるのである。即ち、イマジネーションと知性が結合・「結婚」したと考えられるのである。
 さて、問題は、この統一において、同一性はどうなったのかということである。先に三つの理性ということを言ったが、差異と知性の統一とは、現象界的同一性を包摂していると言えるだろう。確かに、知覚できる物は物であり、同一性である。もっとも、三重の知覚がここにはあるだろう。不連続的差異としての対象、対極的な対象、そして、現象界的な対象への知覚である。ということで、同一性は、差異に包摂されたのである。超越論的高次元の差異に、現象界の同一性は包摂されたのである。ここで、ウィリアム・ブレイクの箴言を想起する。即ち、身体は、魂の一部であり、五感によって知覚されているものであるという内容のものである。即ち、身体を現象界の同一性とすれば、それは、超越論的高次元的差異の一部分であるということになるだろう。私たちが見ている、知覚しているこの世界・現象界は、超越論的高次元的差異の世界の一部に過ぎないということである。この光の世界は、真実在のほんの一部に過ぎないということである。真実在の先端の光の相(phenomena)を見ているに過ぎないのである。真実在の高次元多重多層界を喪失している「無明」にあるのである。

2006年05月24日 (07:06)

キリスト教問題:罪の赦しとは何か

私は、昔、キリスト教が一番の問題であると考えていた。ダ・ヴィンチ・コードで、問題が復活しているようだ。
 私の立場は、脱キリスト教であるが、この場合のキリスト教とは何か。キリスト教会で行われた葬儀の真面目さには感銘を受けた。葬式仏教のずさんさは、何をか言わん。そう、キリスト教を問題にするとき、個別の人は度外視して、考えたい。つまり、個々の信仰は、基本的には肯定する立場である。
 不連続的差異論から見ると、イエス・キリストとは、現象化の極限の面をもつと思われるのである。ヤハウェは、弁証法構造であるが、そこから、同一性化が徹底されたのが、イエス・キリストと見ることができるように思うのである。思うに、イエス・キリストは、現象化の極限であるから、同時に、転換点である。自我中心主義の極点であり、同時に、ポスト自我中心主義の始点ではないだろうか。ここで、聖霊の問題があるのである。つまり、絶対的自我に達したイエス・キリスト(神人)は、傲慢の極致にあり、そこからは、脱現象化作用としての聖霊が意味をもつと考えられるのである。つまり、キリスト教は、終焉するのが正しいのであり、聖霊教ないし、聖霊叡知となるべきなのである。グノーシス的イエス主義とも言えよう。かつて、この問題にずいぶん拘った。聖霊教が生まれるだろう。参照:http://ameblo.jp/renshi/entry-10002164656.html
 では、罪の赦しはどうなるのだろうか。ここに一つのポイントがあるだろう。やはり、罪の赦しは、一種同一性であり、差異ではないと思うのである。例えば、私に害を与えた人間に私は、復讐心をもつと同時に、また、同時に、赦しているかもしれない。復讐と赦しが併存していると思うのである。だから、罪の赦しという教義は、立派であるが、やはり、同一性の教義だと思われるのである。聖霊は、メディア界の事象であるから、矛盾が対極的に共立するのであるから、罪の赦しと復讐が共立するというのは正しいと思うのである。やはり、ポストキリスト教としての聖霊教ではないだろうか。D.H.ロレンス的宇宙教と言ってもいいだろう。この点では、ロレンスは、誰よりも、ラディカルであると思うのである。

p.s. メディア界は、差異共振の世界だから、ある意味で、罪の赦しは成立しているのかもしれない。しかし、罪の赦しとは、不正の擁護ではないのか。思うに、メディア界に受けた傷(言わば、外傷・トラウマ)は、事象として、残ると思うのである。それを、赦すというのは、事象に対する不誠実ではないのか。存するものは、存するものである。それを解消するのではなくて、それに耐えることが、差異的ではないだろうか。確かに、メディア界には、共感性があり、一種赦しがある。しかし、同時に、外傷・トラウマが事象として、存するのだから、それを否定するのは、反科学的である。トラウマを赦すとはどういうことなのか。それは、赦せないからトラウマではないのか。
 罪の赦しは、観念論だと思う。それは、偽善の一種だと思う。後で、できれば、もう少し考えたい。

2006年05月17日 (07:19)

ゾロアスター教と一神教:光と闇とは何か:二つの一神教、二つの理性

ゾロアスター教と一神教:光と闇とは何か:二つの一神教、二つの理性


キリスト教は、ヨハネの黙示録において、ゾロアスター教の影響を受けていると考えられている。後者は、光・《善》であるアフラ・マズダと闇・《悪》であるアンリ・マンユとの闘争史を予言的に説くのである。そして、これが、前者の最後の審判のヴィジョンの基盤となっているということである。
 先に、『光の彼方へ:・・・』(以下、『光の彼方へ』)http://ameblo.jp/renshi/entry-10012425552.html
の論考において、同一性の光と差異の闇というレベルの違いを明確に提示した。西洋文明は、前者をいわば「理性」にしてきたのであり、後者を「非合理」として、否定・排除してきたのである。いわゆるロゴス中心主義である「理性」の問題は少し複雑であるが、同一性の光を、とりわけ、近代的合理主義(近代科学・近代的自我)では、「理性」としたと言えよう。後で、「理性」の問題を詳しく考察する予定であるので、ここでは、同一性の光が「理性」とされたとして、論考を進めよう。
 不連続的差異論から見ると、キリスト教のヤハウェは、同一性の光の神である。あるいは、メディア/現象境界の弁証法構造の神である。これは、プラトンのデミウルゴス(創造神)にほぼ相当すると考えられるのである。そして、グノーシス主義は、これを邪悪な創造神と考えたのである。
 とまれ、ゾロアスター教に戻ると、ここでの光と闇が、そのまま、キリスト教や西洋文明の同一性の光と差異の闇となったと見ていいのだろうか。私は、以前から、そうではないと直感してきたし、そのように論じてきた。即ち、ゾロアスター教の光・善は、差異の闇であり、その闇・悪は同一性の光だと思われるのである。私の直観はそのように告げるのである。何故だろう。それは、その光・善が火・火焔だからではないだろうか。つまり、根源的エネルギーを感じさせるからである。拝火教とも呼ばれたのであり、火を聖なるものと見たのである。火と光では、ニュアンスが異なるのである。火は古いものを焼尽するものであり、新たなものを産む契機となる。不死鳥・フェニックスの神話に通じるだろう。しかし、光は、白光は、それとは異なり、視覚的な輪郭・線の形成を感じさせるのである。極言すれば、両者、まったく別個のものである。
 ということから、ゾロアスター教の善・光・火とは、不連続的差異論のメディア界のエネルギーであり、悪・闇とは、同一性の光だと思うのである。即ち、ゾロアスター教とキリスト教(ユダヤ教も含めて)は、価値観が逆転しているということである。ならば、ゾロアスター教の一神教性はどう説明するのかということになるが、それは、思うに、メディア界⇒メディア/現象境界の⇒の領域において、ゾロアスター教が発生して、差異が同一性の様相を得たために、一神教となったと考えられるのである。それに対して、ユダヤ・キリスト教は、メディア/現象界⇒現象界の⇒が一神教となったと思われるのである。(また、これまで述べたことから考えると、イスラーム教の一神教もゾロアスター教と同類ではないかと思われるのである。しかし、前者は、メディア/現象界⇒メディア界の⇒ではないだろうか。だから、タウヒード【一性の思想】は、個体性・差異の原理を含むと考えられよう。また、今村仁司氏は、イスラーム教とスピノザ哲学の類似性を指摘していたが、スピノザ哲学は、メディア界の哲学と考えられるので、それは、考えられることである。不連続的差異論を導入すれば、イスラーム教は、不連続的イスラーム教となり、真にイデア界のイスラーム教となるだろう。)

 さて、ここで、「理性」の問題を考えよう。西洋は、同一性の光を「理性」としてきたと上述したが、正確に言えば、二つの理性があるのである。そして、近代において、これが混同されて、同一性の光だけが、理性とされたのである。啓蒙主義/ロマン主義の問題でもあるのだが。中世において、いわゆる、信仰と理性の調和が問題とされた。トマス・アクゥイナスが、代表である。そして、ギリシアの教父たちは、イエス・キリストをロゴスの受肉と考えたのである。そう、当然ながら、ヨハネの福音書は、「初めにロゴスありき」と冒頭にあるのである。このロゴスが問題なのである。このロゴスが、理性と同一視されたわけである。つまり、西洋において、伝統的には、形而上学的な理性(ロゴス)と地上的な理性(同一性の光)とがあったのであるが、これが、近代革命によって、自我の理性に収斂したのである。つまり、形而上学的理性は、同一性の理性に吸収されたのである。ロゴスは、言葉となったのである。言葉こそ、同一性の媒体(メディア)である。即ち、欽定聖書やルター訳聖書では、ヨハネの福音書は、「初めに、言葉ありき」と訳されたのであり、ロゴスが言葉に還元されたのである。近代主義が、理性を同一性の光に限定したと言えるのである。しかし、先に論述したように、デカルトのコギト主義は、それとは異なるのである。コギトの理性は、ロゴスと同一性言語が重なっているのである。それは、イデアと同一性理性が重なっているとほぼ言えるだろう。
 カントは、メディア/現象境界の弁証法構造から、純粋理性批判を行い、ロゴス/イデアと同一性を混同したという大錯誤を犯した。それに対して、ニーチェは、同一性を、自身の単独的存在性から、すべて破壊したのである。そして、フッサール現象学は、カントによって奪われたロゴス/イデアの探究を行い、志向性・ノエシス/ノエマの大発見を行ったのである。そして、相対性理論は、同一性の光を基礎として、時空の相対性を発見した。それは、同一性の観点からのメディア界の取り込みであると考えられる。さらに量子力学は、メディア界の事象を対象として、相補性という概念を発見したのである。しかし、現象界の同一性の概念をまだへその緒のようにもっているのが限界であると考えられる。
 そして、フランス・ポスト・モダン運動が起こる。これは、同一性の理性に対する批判、即ち、メディア界による同一性の理性への批判であると言えるだろう。これは、文化史的に見ると、ロマン主義や象徴主義を哲学的に展開したもののように思えて、理論的には、独創性は乏しいと思われるのである。それは、ニーチェ/フッサールの真の独創性とメディア界の論理を整合化することができなかったのであり、それが、欠陥であった。そして、不連続的差異論がこれを実現したと考えられるのである。それは、三つの理性を提示したことになるだろう。イデア界の理性/メディア界の理性/現象界の理性である。簡単に、イデア理性/メディア理性/現象理性と呼べよう。あるいは、イデア知性/メディア知性/現象知性としてもいい。特異性/対極性/同一性と見ることもできるだろう。あるいは、不連続性/不連続・連続性/同一性と見ることができよう。
 世界は、グローバリゼーションにおいて、現象理性資本主義であったが、今や、多極化において、イデア理性のエポックになったと言えるだろう。ポスト・モダンはメディア理性であったが、それは、現象理性と完全には、切断されてはいなかった。そのため、大澤真幸氏のアイロニカルな没入が発生したと言えるだろう。市場はメディア界と考えられるから、新自由主義は、メディア/現象境界に属すだろう。そう、多極化とは、差異の共立であり、メディア界的である。しかし、このためには、イデア理性に達する必要があるのである。それは、現象学的還元である。判断のエポケー(停止)である。不連続的差異=イデアへと根源回帰する必要があるのである。これによって、現象理性との癒着から切断されるのである。多様な、多元的な不連続的差異を思考し、共立させる発想が現代・未来的なのである。

2006年05月13日 (21:18)

光の彼方へ:同一性の光と差異の闇:光の西洋文明の終焉と新コスモスの地平

光の彼方へ:同一性の光と差異の闇:光の西洋文明の終焉と新コスモスの地平


「 同様にクアトロチェントを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチはチェンニーノの影響を受けて著書『絵画論』を著しました。その著書でレオナルドは“物体と物体を区切る線は想像上のもので実在しない”という謎めいた言葉を残しています。レオナルドが言いたかったのは“私たちが現実空間の中で物体の形を認識できるのは、個々の物体の間に色彩や明るさの違いがあるからで、現実を冷静に観察すれば明瞭な輪郭線などは存在していない”ということです。しかし、こう理解したとしても、一方では“そこに線があるように見える”ということも事実です。なぜ、このような矛盾した現実認識が存在し得るのでしょうか?実は、私たちの視覚的な認知メカニズムの中では、周辺の環境情報を簡略化することによって認知速度を速めるという驚くべき機能が作用しているのです。
 私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。無論、私たちが少しでも目の位置をズラせば、これらグループ間の関係は瞬時に変わってしまいます。従って、どのようにリアルに描かれたとしても、絵画上のリアリティは様々な人々が動きながら個々に認識している現実とは異なることになるのです。このような考え方は、近年、再評価されつつある20世紀前半のアメリカの認知心理学者ジェームズ・ギブソンのアフォーダンス理論に近いものがあります。」
『2006-05-10 イタリアにおける「大ラファエロ展」、その現代的意味を考える』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060510/p1
toxandriaの日記



「私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。」とtoxandria氏は述べている。この「線」とは、何だろうか。つまり、不連続的差異論から、理論的に分析したら、何であろうかということである。
 ここで、メディア界を考えてみると、それは、差異と差異とが、共振して連結して、量子・素粒子が形成されている場である。その共振は、不連続な、多重・多層の共振である。この多重共振事象が、現象の、いわば、内在的裏面である。そして、これに対して、同一性の知覚(自我)が、「線」や「輪郭」を与えているのではないだろうか。「光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすること」ということであるが、「一くくりにグルーピングすること」が、同一性の知覚に当たるだろう。同一性が「線」や「輪郭」であろう。
 では、メディア界的極性的多重多層の差異(=量子)を、個別の同一性=「線」・「輪郭」にする「力」は何であろうか。メディア界の共振する差異の多層多相(模様)性を、ある「線」、ある「輪郭」に変換する「力」とは何か。これは、また、実に、量子力学の問題である。非局所性の問題である。
 ここで、私は、ウィリアム・ブレイクの箴言を想起するのである。即ち、理性とはエネルギーの周囲(円周)circumferenceであるという箴言である。エネルギーは、メディア界の共振差異と見ることができる。エネルギーの周囲(円周)とは、エネルギーの末端と考えることができるから、これを、境界無である現象界ないし現象界の「線」・「輪郭」と考えることができるのではないだろうか。そうならば、同一性である「線」・「輪郭」とは、メディア界の共振差異=エネルギーの振動的形態ではないだろうか。それは、光の形態ということではないだろうか。ここでは、作業仮説とするが、同一性とは光のことではないだろうか。メディア界に多重・多層な共振差異=量子・素粒子があるが、これが、同一性化されるとき、光を発生させる現象体となるのではないか。これが、E=mc^2のことではないのか。同一性とは光なのではないか。光が、いわば、闇である差異、共振差異を有形化(線化・輪郭化)するのではないのか。また、アインシュタインの光速度一定も、同一性ということだろう。
 もし、そうならば、光速度一定とは、現象界にのみ当てはまることであり、メディア界には当てはまらないだろう。そこは、時間・空間不可分・未分化一体の超時空間であるからだ。速度という概念が当てはまらなくなる。強いて言えば、無限速度である。超光速である。現象界を光の世界、メディア界を闇の世界とすれば、光の世界とは、闇の世界の同一性化である「周囲」・「円周」であるが、問題はエネルギーである。メディア界の共振差異は、確かに、エネルギーであるが、それは、E=mc^2でのみ考えられるべきものなのだろうか。これは、いわば、同一性・現象化されたエネルギーではないのか。同一性=光化されたエネルギーではないのか。その背後・裏面には、暗いエネルギーがあるのではないのか。つまり、メディア界の原エネルギーである。こういうことではないだろうか。メディア界の量子・素粒子の原エネルギーがあるが、それが同一性=光化されて現象界の「物質」を形成する。即ち、同一性=光化された現象を、人間は知覚認識して、自然科学を構築しているのであるが、しかし、それは、原エネルギーをもつメディア界の同一性=光化の面に過ぎないと考えられよう。つまり、原エネルギーの光面=一面しか観察・観測していないと考えられるのである。謂わば、光エネルギーだけであり、闇のエネルギーを看過しているのである。これが、ダークエネルギーの問題ではないだろうか。また、標準理論が破綻したことに関係するのではないだろうか。現代物理学、量子力学は、量子・素粒子の世界であるメディア界を、同一性=光化の現象界の視点から把捉しようとしているのであるから、壁にぶつかっているのではないだろうか。不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界即ち、弁証法構造から、メディア界を見ていると考えられるのである。即ち、カント的なのである。
 そうならば、E=mc^2は、書き直されなくてはならないのではないだろうか。それは、現象界の公式であるから。今は、疑問の提起に留めることにして、本稿では、メディア・エネルギー(原エネルギー)の「周囲」(「円周」)として、現象界の「線」・「輪郭」を考えたこととしよう。また、D.H.ロレンスの言を想起すれば、黒い太陽とは、メディア界であり、また、太陽はわれわれに背中を向けているという言の太陽も、黒い太陽であり、メディア界の原エネルギーであると言えるだろう。また、『死んだ男』の闇の宇宙の薔薇も、メディア界を指しているということになる。そして、当然、ロレンスの言うコスモスもメディア界である。また、ここで、プラトンに言及すれば、洞窟の外の太陽(善のイデア)も、メディア界であり、また、コーラもメディア界であろう。デミウルゴス(創造神)とは、弁証法構造であろう。光の文明である西洋文明の限界が今や露呈されたと言えよう。新しい闇の「文明」が始まるのだろう。それは、新コスモス文明である。そう、文化である。新コスモス文化である。
 とまれ、量子力学を考えると、どうなるのだろうか。それは、相対性理論的量子力学から脱して、メディア界的量子力学となるだろう。ポスト・モダン量子力学となるだろう。つまり、不連続的差異論的量子力学、不連続的《差異イデア》論的量子力学である。そう、真の宇宙は、共振差異螺旋的玄宇宙=玄牝だろう。この宇宙・母宇宙が、神話では、イシス/オシリス神話等として、表現されたのだろう。イシスは、メディア界であり、オシリスは太陽である。そして、このオシリス=太陽が独立したのが、父権制の太陽である。つまり、英雄である男性の太陽神である。父権神話の太陽である。『ギルガメシュ叙事詩』のシャマシュであり、その他である。そして、キリストは、この面をもっているのである。そう、イエス・キリストの二面性があるのである。一つは、オシリスであり、一つは、父権制の太陽神である。
 さて、不連続的差異論が創造発見されるまで、認識は、メディア界(心身不可分性)と現象界(心身二元性)に分裂していたと言える。しかし、不連続的差異の存するイデア界を明確に提起したことにより、現象界からメディア界へと進展する地平が出現したと言えるのである。

2006年05月13日 (14:10)

自我における差異と同一性の関係について:デカルト的自我と近代的自我の区別

自我における差異と同一性の関係について:デカルト的自我と近代的自我の区別


先に、デカルトのコギトは、特異性的同一性自我であると言った。そして、近代的自我も同様であることを言った。しかし、それでは、混同で誤りである。両者の違いを明快にしないといけない。
 ここでも、直観から論考しよう。特異性とは、どこから発するのか。それは、心身からである。単に、知性からではないし、また、身体からでもない。ならば、それは、メディア界からである。そして、メディア界は、イデア界に接しているから、特異性は、心身=メディア界(→イデア界)に根差している。すると、デカルトのコギト(我思う)は、メディア界(→イデア界)と同一性自我との結合に存していることになる。しかし、デカルト自身は、ゆらぎを排除しているので、メディア界が否定されるようにして、イデア界と接しているのである。いわば、絶対的自我がここに誕生したと言えるだろう。
 では、近代的自我はどうなのか。近代的自我は、メディア/現象境界における弁証法構造において、成立するだろう。即ち、差異1・同一性・差異2(差異1=同一性=差異2)の力学構造があり、差異を否定・排除するようにして、同一性自我=近代的自我は成立する。しかし、意識は、本来、差異の志向性にあるのである。即ち、差異→の→が意識である。しかし、メディア/現象境界における弁証法において、同一性が支配するが、このとき、差異意識はどうなるのか。あるいは、同一性意識はどう形成されるのか。メディア界においては、意識は、対極性意識(「即非」意識)である。それが、弁証法構造においては、対極的共立性が否定されて、二項対立・二律背反的意識に転ずる。差異は、同一性化されて、いわば、同一性差異となるのである。これが、近代的自我である。
 さて、この同一性差異である近代的自我とデカルトのコギトとの比較考量である。一見似ているが、似て非なるものである。つまり、前者は、同一性となった差異としての自我であり、後者は、特異性を保持しての、同一性自我であるからである。前者は、メディア界的意識を否定排除する、反動的自我であるが、後者は、メディア界的意識をもちつつも、それを懐疑主義で、いわば、保留するように制御して、根源のイデア界性=特異性を保持した上で、形成される同一性自我である。
 デカルトは、厳密には、メディア界を排除せず、メディア界懐疑的保留を行い、イデア界的特異性を保持した同一性自我である近代主客二元論を形成したのである。デカルト合理主義であり、これを近代的合理主義と考えるのは誤りである。
 思うに、デカルトが、松果体に精神と身体との結節点を見ようとしたのは、デカルト自身に、メディア界の心身対極性が存していたからだと推測できるのである。デカルト哲学は、いわば、メディア界とイデア界・現象界の独特の捩れ的接合をもったものであり、単純な近代主義ではありえないのである。
 因みに、スピノザは、このデカルト哲学の潜在性を汲み取って、心身平行論の哲学を立てたと言えよう。つまり、先にも述べたが、メディア界の哲学を構築したのである。

2006年05月08日 (14:07)

差異と同一性の弁証法:なぜ、男性は同一性を志向し、女性は差異を保持するのか:ガウス平面的占星術

問題は、メディア/現象境界の弁証法構造において、どうして、父権主義・同一性主義と母権主義・差異主義の違いが発生したのか。
 以前は、劣弱な差異と高貴な差異とに分けて考えたが、より整合的な理論はないのか。確かに、同一性へと最初の1/4回転は進むが、二回目の1/4回転は、同一性を解消すると考えられるから、同一性から差異へと回帰するのである。しかし、父権主義・一神教は、そうならないのである。ウィリアム・ブレイク、ニーチェ、ロレンスが、確認した二種類の人間の問題でもある。精神的賎民か精神的貴族かの問題でもある。
 思うに、仮定であるが、男性の遺伝子は、+エネルギーに限定されて、−エネルギーが欠落するのではないだろうか。それに対して、女性の遺伝子は、±エネルギーを兼備するのではないか。一種、スイッチの問題である。男性の遺伝子のスイッチは、+エネルギーの展開までを意味して、−エネルギーへと展開しないのであり、それに対して、女性の遺伝子のスイッチは、+エネルギーの展開の後に、−エネルギーへと転化することを意味するのではないだろうか。つまり、男性遺伝子の場合は、−エネルギーに対するブラインド、盲目性があるのではないだろか。差異盲目である。ならば、男性の遺伝子は、精神病理的である。生命として、欠陥のある遺伝子である。つまり、ヒト・オスの問題としてである。ヒト・オスの遺伝子は、基本的に、差異に盲目なのではないか。同一性の展開でストップするのではないか。そう考えると、男性の攻撃性がよく説明できるだろう。
 思うに、±エネルギーの遺伝子があるのだ。換言すれば、陰陽遺伝子である。ヒト・メスは、これをもっているが、ヒト・オスは、+エネルギー・陽遺伝子・同一性遺伝子しかないのではないだろうか、一般に。しかし、遺伝子の対極性を仮定すれば、中間様相が考えられる。即ち、一般に、女性遺伝子は、対極的、つまり、メディア界的であるが、男性遺伝子は、同一性的、現象界的であるが、この区別は絶対的ではなくて、いわば、相対的ではないだろうか。つまり、こう考えたらどうだろうか。女性遺伝子にも、男性遺伝子も、本来、対極的であるが、傾向がことなり、いわば、偏差があるのではないかと。即ち、対極性において、 −極・差異極と+極・同一性極があるが、女性の場合は、前者への偏差があり、男性の場合は、後者への偏差があるということではないだろうか。そして、これは、個人差がある。極端の場合、片方が、ゼロに近いだろう。また、こう考えれば、性同一性障碍も説明できるだろう。つまり、精神・心性の対極性遺伝子の問題である。また、こう考えると、女性と男性との間の相互誤解も説明できるだろう。つまり、視点が根本に違うのである。
 結局、女性は差異に傾き、男性は同一性に傾くということである。こう考えると、高貴な差異と劣弱な差異の二元論が克服できるだろう。つまり、対極論である。そう、男性は、差異がありつつも、それを同一性傾向が否定してしまうし、女性は、同一性がありながらも、それを差異傾向が否定してしまうのだろう。
 このように考えると、父権制とは、男性遺伝子が中心になった社会と言えるだろう。これは、どういうことなのか。本来、女性遺伝子と男性遺伝子が均衡しているはずであるのに。男性遺伝子に傾く時代があったことになる。これは、+エネルギーが強化される時代があったということだろう。占星術からいうと、白羊宮(牡羊座)♈時代だろう。そして、その後の双魚宮(魚座)♓時代は、二項対立となる。そして、今や近づいたと考えられる宝瓶宮(水瓶座)♒時代は、統一・調和の時代である。対立が共振する時代である。これは、仮説では、イデア界の回転の問題である。奇数1/4回転は、+エネルギーであり、偶数1/4回転は、−エネルギーと考えられるのである。しかし、思うに、1/4回転を細分化して、1/12回転を考えていいのではないだろうか。1/12,2/12,3/12回転で、ゼロ度となる。後は同様である。
 ここで、空想すると、1/4回転が、牡羊座であり、2/4回転が、蟹座であり、3/4回転が、天秤座であり、4/4回転が、山羊座である。しかし、春分点は、逆行するのである。牡羊座から魚座へと移動した。それは、2/12回転である。そして、魚座から水瓶座は、1/12回転である。しかし、この図式は、整合性に乏しい。一つずらして、1/4回転が牡牛座、2/4回転が獅子座、3/4回転が蠍座、4/4回転が水瓶座としよう。そうすると、牡羊座から魚座への移動は、1/12回転であり、魚座から水瓶座への移動は、0/12=0回転である。これは、純粋イデア界回帰となるだろう。純粋差異共立の時代ということになるだろう。これは、メディア界の共振より純度が高く、絶対共立である。もし、メディア界がコスモスならば、イデア界は超コスモスである。グノーシス主義の至高天である。とまれ、母権制の波動だろう。それも根源的母権制、原太母性である。双魚宮(魚座)西洋文明期で、二元論的時代として、宝瓶宮(水瓶座)新文明期は、絶対的統一の時代となるだろう。つまり、原軸回帰、イデア軸回帰の時代だからである。原点回帰だからだ。リセットとも言えよう。リストアである。「革命」revolutionである。これは、超ジェンダーの時代である。男性でも、女性でもない、両性具有でもない、超ジェンダーの時代であろう。

2006年05月07日 (22:21)

「気」とは何か:エーテル体とアストラル体とは何か

ヌース理論との遭遇から、はっきり、メディア界が、量子・素粒子の世界であり、同時に、心身の世界であることが確認できた。
 私は、「霊」を否定しているのであるが、しかし、「気」とは、「地霊」のようなものは存在していると考えている。人間の心(心身)は、量子であるから、「気」も量子である。あるいは、電磁波である。これは、自然科学・物理学的に証明・検証できるのである。例えば、人間は歩くと電磁波を発生させるのであるが、それは、その人固有の電磁波で、飼い犬は、それをキャッチするのである。心も同様だと思うのである。心身の量子が、発出していると思うのである。雰囲気とは、それに関係するものだろう。
 そう考えると、いわゆる「霊(スピリット)」も、同様だと思うのである。量子である。しかし、ある固有な、特有な量子であろう。また、ユングの言った共時性(シンクロニシティ)も、これで説明できるだろう。量子が共振するのである。
 心を病む人は、心身の量子状態の共振エネルギーが滞っているのだろう。正しい知と正しい意志と正しい気持ちを持つ必要があるのであるが、それが、阻害されているために心身の病気になるのだろう。東アジアでは、風水が盛んであるが、これも、同様である。量子の共振エネルギーの賦活を目指していると考えられるのである。
 さて、問題は、霊学のシュタイナイーが説くアストラル体とエーテル体の違いである。これをどう説明するのか。私の直観を言おう。アストラル体(共感性)もエーテル体(「気」)も、基本的には、量子であろう。メディア界の事象である。ただ、アストラル体は、境界ゼロ度共振=量子に直に関係していると言えるだろう。光に対する感受性は、アストラル体に関係するだろう。夜明けの光を見て、歓喜するのは、アストラル体に拠るのだろう。
 では、エーテル体はどういう説明ができるのだろうか。同じく、量子に関係しているのであるが、直観では、より身体に関係している量子であろう。つまり、アストラル体が、より心・精神に関係している量子であるのに対して、エーテル体は、より身体・鉱物的身体に関係していると思えるのである。つまり、諸感覚に関係しているのである。即ち、根源的志向性であるノエシスは、根源的自我であり、それが、ノエマ(諸感覚)と即非となるが、このノエシス/ノエマにおいて、/のノエシス面がアストラル体であり、/のノエマ面がエーテル体ではないだろうか。換言すると、

1.ノエシス(根源的自我)→2.アストラル体→3.エーテル体→4.ノエマ(諸感覚・身体)

ではないだろうか。こう図式化すると、シュタイナーのアントロポゾフィー(人智学)の自我→アストラル体→エーテル体→鉱物身体の四層的人体論は、不連続的差異論/ヌース理論のイデア論に取り込むことができると考えられるのである。また、これが、肯定できれば、これまでの、オカルト主義は、イデア/量子論として、書き換えられて、吸収されるだろう。ポスト・オカルト主義である。そして、明確に、ポスト・モダン科学化されるだろう。

2006年05月06日 (21:10)

メディア/現象境界における差異と同一性の二律背反性:ポスト・モダンと不連続的差異論革命

メディア/現象境界における差異と同一性の二律背反性:ポスト・モダンと不連続的差異論革命

先に、構造主義の問題で、本件について考察したが、もう少し、細かく検討したい。メディア/現象境界MP境界は、差異と同一性とが発生している領域であり、構造的には、弁証法構造と言うべきである。これは、メディア界の対極性構造と現象界の同一性構造との中間領域である。本来は、矛盾の領域であり、二律背反・二項対立の領域と考えられる。しかし、これを、同一性構造=自我は、弁証法構造にするのである。だから、弁証法構造とは、この境界の現象面を指している見ることができる。

 さて、この領域の差異と同一性との二律背反・二項対立性であるが、これは、差異は同一性を否定しようとし、同一性は差異を否定しようとする相互否定の関係である。ここには、カオスがあるのである。だから、安定するには、どちらかを肯定するしかないのであるが、近代においては、同一性が肯定され、差異が否定されたのである。中世においては、差異は、共同体の信仰と結びついていたと考えられる。そして、バランスをそれなりに取っていたと考えられる。

 しかし、近代になると、自我が全面にでてくる。これは、志向性の必然である。根源的志向性・根源的自我が、イデア界/メディア界からはたらきかけて、エネルギーとなり、メディア/現象境界を活発にする。そして、デカルトのコギト主義が生まれる。これは、根源的差異と現象同一性自我との結合である。簡単に言えば、イデア界と現象界との結合である。これが、コギトである。(この後、排除されたメディア界をスピノザが掬うことになるのである。)問題は強度である。メディア界を否定している強度がここにはあるのである。メディア界が共感エネルギーをもているとすれば、それを否定する反感エネルギーがここにはあることになる。エネルギーと言っても、肯定的ではなくて、否定的である。それは、エネルギーとしては、どういうことなのであろうか。それは、差異共振性を否定するのであるから、本来、エネルギー強度は減退するのである。いわば、エントロピー的なのである。そう、エネルギーが滞るのである。この滞ったエネルギーが、反動エネルギーであり、いわば、負のエネルギーであろう。これが、攻撃・暴力・権力衝動となるのであろう。

 だから、同一性自我は、本来のエネルギーを反動化させて、攻撃・暴力・権力衝動に転化させているのであり、自他破壊的で不毛である。戦争とはここから発しているだろう。近代主義は、このようなものになったのである。ホッブズの世界である。

 問題は、否定された差異、メディア界を取り戻すことであった。近代的合理主義、近代科学は、唯物論化して、メディア界を無視してきたのである。(そして、現代日本の精神の荒廃は、この帰結である。)この取り戻しが、様々な分野で行われたが、一言で言えば、ポスト・モダン運動である。差異の復活としてのポスト・モダン運動である。本来、モダン運動は、差異から始まったのであるが、プロテスタンティズムの反動で、メディア界が否定されてしまい、ルネサンスの差異主義が否定されてしまったと言えよう。だから、モダンとは、矛盾した二重運動である。差異と同一性の二項対立の運動である。

 そして、19世紀後半から、ポスト・モダン運動が明確になり、そして、20世紀後半、フランス現代思想として、流行することになる。それは、既に述べたように、相対的差異と絶対的差異が混同されていて、行き詰まったと考えられる。

 とまれ、差異とは、個のことであり、個の肯定である。それは、鈴木大拙の用語、即非が一番適格に表現している。差異、個の即非である。「わたし」と「あなた」は共感しつつ、分離した存在であるということである。この差異即非性を、同一性自我は暴力的に抑圧・否定するのである。思うに、差異即非性とは、実は、本来の芸術的感性である。芸術に親しむ者は、この能力を涵養していると言えよう。つまり、差異の復活とは、芸術の復活でもある。フランス現代思想が流行したが、それは、実は簡単なことを意味していたのである。本来の芸術的感性(心身性)を取り戻そうということである。しかし、頭でっかちになり、相対主義だとか、脱構築主義だとか、用語が、独り歩きして、実質が抜けていたのである。

 結局、ポスト・モダン運動は、停滞・衰退してしまった。それは、資本主義の同一性が主流になったことが大きいだろう。グローバリゼーションである。これに対して、ポスト・モダン運動は、非力であった。しかし、グローバル資本主義は、脱コード化を行い、自我を脱関係化して、剥き出しの自我、即ち、単独の自我に還元する傾向をもつのである。つまり、グローバル資本主義自体も、自己矛盾的に、ポスト・モダン現象を引き起こすのであり、ポスト・モダン運動は必然なのである。しかし、上述したように、フランス・ポスト・モダンは、相対的差異と絶対的差異の区別を明確にしなかったために、このグローバル・キャピタリズムの引き起こすポスト・モダン現象に、対処できなかったと言えるのである。つまり、特異性、単独性がグローバリゼーションにおいて、多数(「マルチチュード」)出現するのであるが、この事象を、これまでのポスト・モダン知性は、これを十分に理論化できなかったのである。そのために行き詰まったと見る方が的確である。確かに、実質を喪失した用語の独り歩きもあったし、また、グローバリゼーションの同一性の力に非力だったこともあるが、一番の問題は理論的欠陥であったと考えられる。これは、日本においては、ポスト・モダンの旗手であった柄谷行人氏の理論的行き詰まりに見られることである。彼は、単独性の思想を追究してきたのだが、彼の唯物論のために、現象学やドゥルーズ哲学の理解が阻害されてしまい、探究が頓挫してしまい、カント/マルクス主義の近代主義に後退・退行してしまったのである。

 結局、鍵は、単独性・特異性の理論化である。そして、不連続的差異論は、単独性・特異性が、根源的に、イデア界に、不連続的差異として存することを提起して、この問題を解決したと考えられるのである。差異が差異でありつつ、共闘することが可能になることをこの理論は説いているのである。それまで、連帯・共闘するには、連続・同一化したために、反動・暴力化したのであったのである。

 世界は今や、ますます差異化(多極化)していくのであり、また、同時に、反動的な権力が全体主義を志向するのであるが、このポスト・モダン・キャピタリズムの状況において、後者を打破するには、差異を不連続化する必要があるのである。絶対的差異としての個となることが必要なのである。ここから、ポスト・モダンが真に革命的になるのである。それは、不連続的差異的共生共創主義である。不連続的差異論は、個を救うことで、世界共生を目指すのである。

2006年05月06日 (15:33)

1/4回転による境界ゼロの差異即非の時空間について:新アジア主義と狂愚日本の危険性

1/4回転による境界ゼロの差異即非の時空間について:新アジア主義と狂愚日本の危険性


メディア界とは差異が即非の状態にある。即ち、差異が分離しつつ、接合するという、絶対矛盾的自己同一の状態にある。これが、量子・素粒子時空間である。あるいは、心身空間である。
 問題は、この差異共振状態の時空間である。境界ゼロ度共振で、力が発生して、エネルギーとなる。これが、E=hν(=mc^2)であろう。ゼロ度エネルギーである。これは、差異ゼロ度接合によって発出するのであるが、ここで、差異1φ差異2φ・・・φ差異nとなるのであり、このφないし☯が、接合性であり、ここで、時空が生起していると考えられるのである。それまで、差異は、理念点に過ぎず、時空性をもっていなかったが、ここで、ゼロ度連結によって、時空性を発生させるのである。差異1・差異2・・・・・差異nこれが、不可分一体の時空間であると考えられる。ここでは、差異は粒子であり、波動である、波粒子wavicle(量子・素粒子)である。そして、量子時空間を形成している。ゼロ度エネルギーによって接合された差異は、いわば、差異の糸であり、差異の波である。差異糸波ととりあえず呼ぼう。この糸波が原空間であり、ここに流れるエネルギーが原時間を形成しているのではないだろうか。とまれ、この差異糸波(量子世界)において、時間・空間が不可分一体である。そして、共振の速度は一定であり、これが、光速度一定となるのだろう。そして、糸波の振動数が、おそらく、重力を産んでいるのではないだろうか。hν=mc^2であり、ν=mc^2/hであるからである。つまり、差異の共振速度と共振振動数が、量子・素粒子時空(差異糸波)を形成していると考えられるのである。いわば、光と重力は同時に発生していると言えるのではないだろうか。思うに、この重力が、捩れの原因ではないだろうか。差異の1/4回転によって、垂直に捩れるということであるが、発生した重力が、捩らせているのではないか。
 とまれ、これにより、二次元空間から三次元空間へと差異は跳躍するだろう。しかし、この三次元空間・立体空間は、時間と不可分一体であろう。つまり、三次元「時空」間である。時間が空間から分離していないのである。つまり、三次元空間に時間が不可分で、浸透しているとも言えるだろう。しかし、XYZの立体座標で考えると(Xが実軸、Yが虚軸、Zが捩れ軸?)、Z軸方向への捩れがあるのであるから、ここで、いわば、世界が開ける、「天地開闢」、「天地創造」が発生するのではないか。これが、天地の鉛直線方向ではないのか。思うに、−Z軸が天・上の方向で、+Z軸が、地・下の方向ではないのか。人間は、だから、いわば、上下逆さまではないだろうか。とまれ、Z軸が重力方向となるのだろう。左右がX軸で、前後がY軸方向だろう。思うに、右が、−X軸で、左が、+X軸ではないだろうか。そして、前は+Y軸で、後は、−Y軸ではないだろうか。
 とまれ、問題は時間である。共振振動数の差異が、重力の大小を発生させるならば、力の差異を産むのであり、これが、運動の差異を発生させるのであるから、これが、時間を発生させるのではないだろうか。つまり、重力の差異が、時間であるということではないのか。とまれ、これで、四次元空間/時間が生まれることになるだろう。
 では、時間が重力の差異、振動数の差異に拠るのならば、確かに、事象は生成消滅するが、重力や振動数は、普遍であるのだから、過去や未来は、イデア界・デュナミスとして、理念存在しているのではないだろうか。虚軸に過去や未来が理念存在しているのではないだろうか。ここは、いわば、原卵ないし原コーラであろう。多様な糸波と共振することで、原卵・原コーラにアクセスできるだろう。メディア界を介して、過去と未来にアクセスできるのではないだろうか。いわば、理念情報としての過去・未来である。仏教の阿頼耶識、神秘学のアカシック記録とは、ここのことではないだろうか。確かに、現象事象としては、個々の事象は、生成消滅するが、その振動数は、いわば、波形として、残るし、また、未来の波形も考えられるだろう。
 メディア界的共感性があれば、過去や未来にアクセスできるだろう。また、シャーマニズムやアニミズムと呼ばれるものの心性・精神・心身は、このことを指しているのではないだろうか。メディア界的感性・感覚・知覚・認識とは、前近代、即ち、中世、古代、超古代を、差異的に反復するのではないだろうか。このメディア界的「魂」・心身とは、ポスト近代としての、それであり、反動・退行ではない。新たな感性・知性である。新意識である。近代主義は、メディア界を否定して、無化・排除・隠蔽してきたのである。そのため、狂気・暴力に満ち満ちたのである。狂気・暴力を産めよ殖やせよである。
 この、いわば、新シャーマニズム・新アニミズム的知性の潜在性は、東アジアの伝統文化に存していると考えられる。ただし、日本の場合は、ハイパー近代主義と、前近代主義が混淆されていて、精神病の状態である。知性を磨いた後でないと、この新アジア主義は、狂気日本を超狂気日本にするだろう。ここが危険な点である。似非宗教の新興宗教がさらに蔓延するだろう。いったんは、叡智を磨かないといけない。哲学を学ばないといけない。安易に宗教に染まってはいけない。宗教とは、簡単に言えば、同一性のことである。差異としての、特異性・単独性としての自我を磨かないといけない。

2006年05月05日 (08:59)

ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディア界:作業仮説アトランティス文明



ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディア界:作業仮説としてのアトランティス文明

ブレイクは、「人間は魂から区別される身体をもたない。なぜなら、身体とは、五感によって弁別される魂の一部分であるから。」と言っている。

 ブレイクの説く「魂」とは、不連続的差異論のメディア界に相当するだろう。私は、メディア界を心身と捉えているが、正確に言えば、メディア差異である。ここでは、思惟(精神)と延長(感覚・身体)とが、即非である。だから、ブレイクの「魂」とは、思惟(精神)「即非」延長(感覚・身体)である。そう考えれば、正に、「身体とは、五感によって弁別される魂の一部分である」。

 近代主義は、当然、この思惟と延長とを切断・分離したのである。主客二元論である。ブレイクが、「この時代の主なる入口」と五感を呼んでいるが、それは、近代主義ないし唯物論を意味していよう。

 また、「エネルギーが唯一の生命であり、身体から発するのであり、理性は、エネルギーの限界(境界)ないし外的な周囲(円周)である」と述べているが、これは、「魂」⊇身体からエネルギーが発生するということであり、「理性」とは、エネルギーの知性、メディア界の知性ということだろう。敷延すれば、エネルギーと知性とは一体ないし即非であるということになるだろう。

 思うに、ブレイクのエネルギーという言葉は、とりわけ、意味深長である。これは、メディア界のエネルギーであり、単純な物質的エネルギーではなくて、共振差異的エネルギー=共感的エネルギーである。そう、太陽のエネルギーでさえ、差異の共振性=共感性によって発生しているのだ。もし、共振性=共感性を「愛」と呼べるならば、エネルギーは、差異の「愛」から産まれているのである。(ついでに言えば、女性の本性は、メディア界である。今日、メディア界を喪失した現象界化した女性がほとんどである。)

 この視点から見ると、心身平行論と呼ばれるスピノザ哲学は、明らかに、メディア界の哲学である。即ち、スピノザの説く「思惟」・「心」・「精神」とは、メディア界の知性であり、それは、ブレイクの「理性」であり、ブレイクの「身体」(ないし「魂」)・エネルギーと結びついているのである。つまり、メディア界の心身性(心即非身体)を基盤とする心身平行論と考えることができる。スピノザは、デカルト哲学をベースにしているので、心と身体の二元論を保持しているが、実質的には、スピノザの心と身体は心身性=メディア界を共通基盤にしているのである。そう考えると、スピノザの実体(神即自然)とは、メディア界のことではないだろうか。もっとも、イデア/メディア境界をもっているのであるが。つまり、イデア界の縁はもっているのである。

 さらに展開すると、ドゥルーズがスピノザに至高の評価を与えるのは、ドゥルーズ哲学が、メディア界の哲学、メディア差異を対象にした哲学であるということを意味していると考えられるのである。

 さらにさらに、展開すると、西欧文化におけるメディア界的思想の起源は何だろうかという問題があるのである。ブレイクの場合は、ケルト・コスモス主義あるいは、ケルト/東方キリスト教的コスモス主義だと思われるのである。スピノザ哲学のメディア界的コスモス主義はどこから発生しているのだろう。オランダという「地霊」なのか、それとも、ユダヤ教からの逸脱なのか。ユダヤ神秘主義(カバラ)なのか。スピノザとブリテンのロマン主義は、通じるものがあるのである。ブレイクには、グノーシス主義的な要素がある。また、カバラ的なところもある。簡単に言えば、神秘学が背景にある。すると、ケルト・コスモス主義、東方キリスト教、グノーシス主義、カバラ、等となる。そう、超越論的高次元内在論の思想である。結局、これが、スピノザとイギリス・ロマン主義(さらには、ロマン主義全般)に共通する起源ではないだろうか。そして、これが、ニーチェやフッサールで、絶対的ポスト・モダンの展開をすると考えられよう。

 超越論的高次元内在論とは、本来のイデア論ないしプラトニズムである。また、超越論的知性である数学である。文化史的には、西欧ないしヨーロッパにおいては、ルネサンスに結びつく。しかし、スピノザの存在の一義性とは、中世のドゥンス・スコトゥスに拠るのである。彼は、スコットランド出身である。つまり、ケルト文化圏出身である。すると、ケルト・コスモス主義が起源として考えられる。もし、そうならば、ケルト文化とは何かである。ケルト神話は先に見たように、折口信夫の日本宗教観に近いのである。簡単に言えば、ケルトとは、東洋主義である。あるいは、前アーリア民族的な文化である(ケルト人は、アーリア民族であるが、イギリスの巨石文化を受け継いだと考えられるのである)。

 今、アトランティスという言葉が浮かんだのである。作業仮説として、アトランティス文明が起源としよう。こうすると、巨石文化の高度文化性も説明できるし、また、プラトンが『ティマイオス』等で、アトランティスに言及していたことにも符号する。そう、ケルト十字(⊕の+の部分を延長する)は、ガウス平面の円運動を表現していると見ることもできる。また、アトランティス文明を想定すれば、超越論的知性である数学の起源も説明できるだろう。そうならば、起源は、アトランティスの叡智(ソフィア)・般若である(そう考えると、仏教哲学とプラトン哲学の近さを整合的に説明できるだろう)。

 では、折口信夫の日本宗教観とどうつながるのか。記紀神話は、メディア界の表現(イザナミ/イザナミ、アマテラス/スサノオ)と見ることができるし、また、イデア界の表現【造化三神:天之御中主神 (あめのみなかぬし)、高御産巣日神 (たかむすび)、神産巣日神 (かみむすび)】と見ることができる。また、ケルト神話と同様に、他界・常世を、海の彼方と見たのである。海の彼方とは、アトランティス大陸の名残と見ることができるだろう。以上のように考えると、すべては、アトランティス文明で糸がつながるのである。パズルはこれで、解決するのである。

Marriage of Heaven and Hell PLATE 4

The voice of the Devil

All Bibles or sacred codes. have been the causes of the following Errors.

1. That Man has two real existing principles Viz: a Body & a Soul.

2 That Energy. calld Evil. is alone from the Body. & that Reason. calld Good. is alone from the Soul.

3. That God will torment Man in Eternity for following his Energies.

But the following Contraries to these are True

1 Man has no Body distinct from his Soul for that calld Body is a portion of Soul discernd by the five Senses. the chief inlets of Soul in this age

2. Energy is the only life and is from the Body and Reason is the bound or outward circumference of Energy.

3 Energy is Eternal Delight

http://www.english.uga.edu/nhilton/Blake/blaketxt1/marriage_of_heaven_and_hell.html

詩画(版画)は以下。

http://www.blakearchive.org/exist/blake/archive/object.xq?objectid=mhh.i.illbk.04&java=yes

参考:般若

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5

Sophia

http://en.wikipedia.org/wiki/Sophia

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

http://en.wikipedia.org/wiki/Duns_Scotus

以下は、toxandria氏のスコトゥスに関する論考である。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050403

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050404

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1266年 ? - 1308年 11月8日 )中世ヨーロッパの神学者 ・哲学者 。トマス・アクィナス 後のスコラ学 の正統な継承者。アリストテレス に通じ、その思想の徹底的な緻密さから「精妙博士」(Doctor Subtilis)といわれたフランシスコ会 スコットランド のドゥンスで生まれ、オックスフォードとパリ で哲学・神学を学んだ。最後はケルン で教え、そこで亡くなった。主著として「命題集註」が知られている。 士。盛期スコラ学と後期スコラ学をつなぎ、スコトゥス学派の祖となった。

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思想

トマス・アクィナス と異なり、スコトゥスは神学を「人間を神への愛に導く実践的な学問」であると考えた。また個物に本質を見出したアリストテレス から一歩進んで、存在が個物においてのみ成り立つ(「知性は個をとらえる」)と考えたところにスコトゥスの思想の特徴がある。さらには必然的なものである自然と、必然的なものでない意思の自由をわけて考えたスコトゥスにとって、人間の幸福は(トマスが言うような)神を直観することではなく神を愛することにあった。この考えは近代の主体主義 のルーツとなっていく。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 " より作成

カテゴリ : キリスト教神学者 | 1266年生 | 1308年没

折口信夫『妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏

』から

「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾(かつ)ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。

すさのをのみことが、青山を枯山(カラヤマ)なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣(ハヽ)が国」は、われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。

而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣(わけ)があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤(おもかげ)を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ/\移つて行くに連れて、愈(いよいよ)強くなつて来た懐郷心とするのである。併し今では、第二の想像の方を、力強く考へて居る。其は、異族結婚(えきぞがみい)によく見る悲劇風な結末が、若い心に強く印象した為に、其母の帰つた異族の村を思ひやる心から出たもの、と見るのである。かう言つた離縁を目に見た多くの人々の経験の積み重ねは、どうしても行かれぬ国に、値(あ)ひ難い母の名を冠らせるのは、当然である。

     二

民族の違うた遠い村は、譬ひ、母の国であつても、生活条件を一つにして居るものと考へなかつたのが、大昔の人心であらう。さればこそ、とよたまひめの「ことゞわたし」にも、いはながひめ等の「とこひ」にも、八尋鰐や、木の花の様な族霊崇拝(とうてみずむ)の俤が、ちらついて居るのだと思ふ。此方は、かう言ふ事実が、此島での生活が始つてからも、やはり行はれて居て、其に根ざして出て来たもの、と見ても構はぬ。

又、右の二つの想像を、都合よく融合させて、さし障りのない語原説を立てることも出来る。

ともかく、妣が国は、本つ国土(クニツチ)に関する民族一列の※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)から生れ出て、空想化された回顧の感情の的である。母と言ふ名に囚はれては、ねのかたすくになり、わたつみのみやなりがあり、至り難い国であり、自分たちの住む国の俗の姿をした処と考へて居なかつた事は一つである。此は、妣が国の内容が、一段進んで来た形と見るべきで、語部の物語は、此形ばかりを説いて居る。いなひの命と前後して、波の穂を踏んでみけぬの命の渡られた国の名は、常世(トコヨ)と言うた。

過ぎ来た方をふり返る妣(ハヽ)が国の考へに関して、別な意味の、常世(トコヨ)の国のあくがれが出て来た。ほんとうの異郷趣味(えきぞちしずむ)が、始まるのである。気候がよくて、物資の豊かな、住みよい国を求め/\て移らうと言ふ心ばかりが、彼らの生活を善くして行く力の泉であつた。彼らの歩みは、富みの予期に牽(ひ)かれて、東へ/\と進んで行つた。彼らの行くてには、いつ迄も/\未知之国(シラレヌクニ)が横(よこたは)つて居た。其空想の国を、祖(オヤ)たちの語では、常世(トコヨ)と言うて居た。過去(スギニ)し方の西の国からおむがしき東(ヒムガシ)の土への運動は、歴史に現れたよりも、更に多くの下積みに埋れた事実があるのである。大嘗会のをりの悠紀・主基の国が、ほゞ民族移動の方向と一致して、行くてと過ぎ来し方とに、大体当つて居るのも、わたしの想像を強めさせる。東への行き足が、久しく常陸ぎりで喰ひ止められて延びなかつたことは事実である。祖たちの敢てせなかつたことを、為遂げたのは、毛の国から更に移り住んだ帰化人の力が多い。此は、飛鳥・藤原から、奈良の都へかけての大為事であつた。

祖たちが、みかど八洲の中なる常陸の居まはりに、常世(トコヨ)並びに、日高見(ヒタカミ)の国を考へたのも、此処に越え難いみちのおくとの境があつて、空想を煽り立てたからであつた。常世(トコヨ)を海の外と考へる方が、昔びとの思想だとする人の多からうと言ふことは、私にも想像が出来る。併し今の処、左袒多かるべき此方に、説を向けることが出来ぬ。

書物の丁づけ通りに、歴史が開展して来たものと信じて居る方々には、初めから向かぬお話をして居るのである。常世(トコヨ)と言ふ語の、記・紀などの古書に出た順序を、直様(すぐさま)意義分化の順序だ、との早合点に固執して貰うて居ては、甚だお話がしにくいのである。ともあれ、海のあなたに、常世(トコヨ)の国を考へる様になつてからの新しい民譚が、古い人々の上にかけられて居ることが多いのだ、とさう思ふのである。海のあなたの大陸は蒲葵(アヂマサ)の葉や、椰子の実を波うち際に見た位では、空想出来なかつたであらう。其だから、大后一族の妣(ハヽ)が国の実在さへ信じることが出来ないで、神の祟りを受けられた帝は、古物語を忘れられた新人として、此例からも、呪はれなされた訣になる。彼らは、もつと手近い海阪(ウナザカ)の末に、わたつみの国と言ふ、常世(トコヨ)を観ずる様になつて来た。いろこの宮を、さながら常世(トコヨ)と考へることは、やはり後の事であるらしい。 」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/13212_14465.html

p.s. ケルト・ブリテンは、20世紀に入り、大爆発した。文学では、「モダニズム」と呼ばれるものである。(それは、完全に錯誤の命名であり、例えば、前期ポスト・モダニズムと呼ぶべきものである。)D.H.ロレンス、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、T.S.エリオット他である。とりわけ、ロレンスは、西方キリスト教を突き抜けて、さらには、皮相なプラトニズムを突き抜けて、ケルト・コスモス=メディア界を体現し、表現したのである。

 また、哲学では、巨人のホワイトヘッドが、『プロセスと実在』で、メディア界の哲学を打ち立てたと考えられるのである。

 結局、ケルト・ブリテンは、アトランティスの叡智に現代的に反復・回帰したと言えよう。

p.p.s. フランス人ドゥルーズが、英米文学を評価するのは、ドゥルーズには、ケルトの血が流れているからではないだろうか。そう、ニーチェに関しても、ケルトの血を感じるのである。これらについては後で検討したい。

3p.s. 前期ポスト・モダニズム文学として、ジョイスと並び称されるプルーストをあげられるが、ケルトと関係があるのではないかと検索していたら、あった。

「ここで、プルーストの作品構造と、時間が凝固してしまったようなヨーロッパ中世の教会堂建築との血縁性が明らかになる。

 プルーストは、ラスキンの翻訳や、その長い序文執筆によって、ラスキンの美意識と彼の鋭い観察眼をわがものとし、

ゴシック建築をはじめ、中世芸術に通じていた。

さきの引用で、言及されていたロマネスク建築を例にとれば、それは、

「歴史のすべてを監禁し、幽閉し、圧搾している」と表現されていた。

ここでは、時の流れとしての歴史は存在しない。その代わりに、重層する空間化された「時」が存在する。

 現代のわれわれにまで伝わる、例えば十二世紀のロマネスクの教会堂は、

後陣のこの部分は十世紀、柱頭彫刻のいくつかは十一世紀、壁画のこの部分は十三世紀、

この修復はバロック期・・・といった具合に、ひとつの建物の中に、それぞれ具体的な「時」が息づき併存している。

さらには、教会堂の地下にケルト時代の泉があったり、ローマ時代のミトラ信仰の祭壇があったり、

地下墳墓(クリプト)があったりすることもある。

一つの建築物の中に、可視的なレヴェルで、複数の「時」が重層したイマージュの構造をとる。

歴史の連続性が、視覚に訴えられるのである。

 したがって、『失われた時を求めて』の冒頭部、プルースト文学の核心をつくるマドレーヌ菓子の挿話も、

その前後で、古代ケルト人の信仰に触れた一文が置かれていることは、注意深い考察に値しよう。

それは決して偶然ではない。

私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う。それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか植物とか無生物とかのなかに囚われていて、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめられている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないをのような日にめぐりあうまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、われわれを呼ぶ。そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解 かれる。われわれによって解放された魂は、死にうちかったのであって、ふたたび帰ってきてわれわれとともに生きるのである。

 

 ここで、プルーストは、カエサルのゴール征服以前、フランスの土地にいたケルト人の信仰にある霊魂不滅の説をとりあげている。樹木の霊力や魂の再生に触れ、死を征服し、魂の甦りを信ずるケルト人たちの信仰について述べている。プルーストはこの話を、理性や意志の力ではいかんともしがたい隠れた記憶を、感覚が偶然的な契機によって喚起してくれるという、あのマドレーヌ菓子による至福の体験の描写にふかく繋げている。われわれの心の深層に、ふだんは眠っている反覆、繰り返しの単位であった太古の時間は、容易に変化しないものとして、歴史の基層に確かに存在する。」

http://osaka.cool.ne.jp/micay/temps.htm

『夢想書庫:プルースト』

4p.s. 先に、ケルトと結びついた東方キリスト教のことを述べたが、『叡智の禁書図書館』(http://library666.seesaa.net/ )

では、アリウス派であろうと推測している。これは、キリスト教異端で、イエスの神性を否定しているのである。いわば、三位不一体論である。これは、不連続的差異論の三層構成と一致するだろう。「父」/「聖霊」/「子」である。三位不連続である。

 また、D.H.ロレンスが、大天才的作品『死んだ男』で、「死んだ」イエスを、単独的な、コスモス的な人間に変えたことを想起するのである。ケルト・ブリテンも不思議ではない。ケルト・アリウス派と言うべきなのだ。

参考:アリウス派

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/bun041.htm

http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

5p.s. ケルト・アリウス派的ブリテン・コスモス主義を、より広く考えようとすると、19世紀後半から20世紀初めのロシア文学にぶつかる。文豪トルストイやドストエフスキーたちの文学は、奇蹟的である。ロシア文学は、ロシアの大地から切り離しては考えられない。そして、また、ロシア文化には、コスモス主義がある。これは、東方キリスト教から発しているだろうし、また、土着的なものがあるだろう。大地とコスモスの一体性がある。一言で言えば、メディア界文学・文化である。だから、当然、ケルトと通じるものがあるのである。しかし、アトランティス文明を根源として想定したとき、どうつながるのか。そう、キリスト教の問題があるのである。キリスト教は、本来は、アリウス派的な三位不一体であったと思われるのである。あるいは、グノーシス主義的なキリスト教であったと思われるのである。さらに、言えば、超越論的高次元内在コスモス主義である。これが、東方キリスト教に伝播しているのだろう。ギリシア正教である。ギリシアは、東西の結節点である。そう、ギリシアは、古代ギリシアは、古代エジプトの叡智を継承したと思われる(プラトンの『ティマイオス』で、ギリシア人は、エジプト人から見たら、子供であるという言葉が伝えられている)。これは、また、アトランティスの叡智であろう。つまり、東方キリスト教はアトランティスの叡智を継承しているのである。だから、ケルト・アリウス派的ブリテン・コスモス主義と共通点をもつのである。両者、アトランティスの叡智の継承なのであると考えられるのである。

 西洋文明は、アトランティスの叡智の破壊である。そう、アトランティス文明を破壊させたと考えられる同一性の悪魔アーリマンの邪悪な知性を西洋文明は発展させたのだ。それが、近代主義であり、とりわけて、アメリカ文明である。西洋文明は、占星術の双魚宮(魚座)にふさわしく、二面性をもっているのだ。一つは、アトランティスの叡智の継承とアトランティス破壊の悪魔的知性の継承である。今日、前者を批判的に継承しなくてはならず、今や、不連続的差異論やヌース理論として、日本で新生したと言える。ポスト西洋文明である。新アジア文明である。新アトランティス文明である。新アジア=新アトランティス=新ユーラシア=新地球ポスト文明・超文明である。

6p.s. 参考:ベルギー、オランダとケルト

「ベルギー

  国名はローマの征服以前住んでいたケルト系住民ベルガエ族に由来しています。オランダ、ルクセンブルク、ベルギーを含めてネーデルランドと呼んでいましたが、19世紀ごろから分裂してベルギーを国名として使うようになりました。」

http://www.mita.lib.keio.ac.jp/lib_info/display_history/189.html

「オランダの最古の都市Nijmegen(ネイメーヘン)とケルト」

http://plaza.rakuten.co.jp/patitani5555/diary/200601230000/

のコメント参照

その他

http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/forg/forg36.htm

http://www.geocities.jp/beerforum/bbhistory.htm

7p.s. 因みに、私がクラシックのCDで、一枚あげよと言われたら、グスタフ・レオンハルトの演奏によるバッハの『フーガの技法』である。とても、東洋的な幽玄な、わびさびのある、能楽のような、間のある演奏である。また、バッハの音楽、特にこの曲は、ケルト的な、多元的な入り組んだ文様を想起させないだろうか。バッハのポリフォニーとケルト文様は比較する価値がある。

8p.s. ロシアのコスモス主義

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004906772.html

http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/ETHER1.html

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9970051296

http://72.14.203.104/search?q=cache:daaC_Cm1JH8J:blog.melma.com/00122700/20041103075652+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:mdjhiGAnGJ8J:blog.melma.com/00122700/20041103075342+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:-OQecW1jCvYJ:blog.melma.com/00122700/20041103080036+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:0b-_BYSqxikJ:blog.melma.com/00122700/20041103080425+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox

映画ならば、タルコフスキーだろう。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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