2006年06月30日 (00:29)

空間コスモス的視覚について:宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の漫画(アニメも不思議である)を見つつ

空間コスモス的視覚について:宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の漫画(アニメも不思議である)を見つつ

空間感性視覚、空間身体視覚、空間コスモス視覚、
空間一体的視覚、空間一体身体的視覚、・・・

このようなものが、空や風景や絵などを見ているときに、生じるが、これは、どういう身心構造から発生しているのだろうか。これは、いわゆる、近代主義的主客分離性はない。一体的に視覚しているのである。これは、イマジネーション的視覚認識と言えるだろう。つまり、イデア・シナジー理論によれば、メディア界的視覚、対極(双極)性・双対性的視覚である。メディア界である身心を介して、外界が、一体的に視覚されるのである。このときは、メディア界且つ現象界的視覚認識が生起していると言えるだろう。即ち、メディア界⇔現象界、あるいは、メディア《空間》⇔現象空間視覚認識である。身心視覚と呼んでもいいだろう。つまり、身心ないし身体が他者(空)と共振して視覚認識しているのである。換言すれば、コスモス的視覚認識と言える。(思うに、日本人は、この視覚感覚に、本来、富んでいるはずである。何故なら、私見では、日本語は、欧米語とは全く異質な、主客合一型言語であるからである。主語や述語が、いわば、未分化な言語だと思うのである。だから、主語や述語が不分明になりやすいと思う。)これは、鈴木大拙の、ドゥルーズ&ガタリの「離接」の概念に先んじた、概念である即非の感覚認識と言うことができるだろう。即非感覚認識である。
 私が、問題にしたいのは、この即非の《空間》ないし幾何学はどんなものであるのかということである。太極図が一つの答である。太極空間(時空間)と言えよう。あるいは、ヌース理論から双対性空間とも言えよう。この空間では、現象界の空間認識は、当然、通じない。まったく別次元である。高次元多様体である。
 ここで、糸口として、ドゥルーズ&ガタリが、内在平面と呼んでいたことを借りると、メディア空間は、平面であることになる。ここで、作業仮説すると、実軸とY軸で、イデア平面を形成するとしよう。そして、Y軸とZ軸で、メディア平面を形成するとしよう。すると、メディア平面には、イデア平面は認識されないだろう。ただ、Y軸として、イデア界は認識されるのではないだろうか。考えるに、Y軸がゼロ度軸であり、Z軸がゼロ度と無との境界軸ではないだろうか。そして、Α軸が、無軸・現象軸ではないだろうか。即非の論理は、YZ直交座標面で生起すると言えるのではないだろうか。そして、これが、太極図になるのであるが。ならば、+Yと−Yが、即非・対極性・双対性を形成するのではないだろうか。だから、Z軸は、即非・対極性・双対性の境界になるのではないだろうか。
 とまれ、YZ直交座標面を太極空間としよう。これが、上記した主客合一的コスモス視覚認識した空間なのではないだろうか。現象界は、ZΑ直交座標から見ているのだろう。ここにおいては、連続・同一性的な三次元空間ないし四次元時空間があるだけであり、YZ直交座標の太極空間は不可視なのである。ただ、身心・身体的に可視ができると思う。身心・身体が一体と可視するのだからである。言い換えると、太極空間が不可視というのは、現象界的主客分離した視覚にとってであり、メディア界的な即非・対極性・双対性的身心視覚認識をもっているときは、太極空間はなんらかの様態で可視なのだと思われるのである。純正・真正な《アーティスト》がこれを表現するのである。よく、KAISETSU氏が以前、例を出したルネ・マグリットの絵が正にそうである。あれは、即非の空間の絵画である。
 しかしながら、この、いわば、即非的可視であるが、幾何学的には、十分なものではないだろう。即非的可視が生じるが、それが、YZ座標空間とは気がつかないだろう。メディア界である太極空間とは認識しないだろう。しかし、思うに、D.H.ロレンスは、『死んだ男』で《暗い宇宙のバラ》を触覚的に可視したと言えよう。《暗い宇宙のバラ》とは、正に、太極空間、太極螺旋空間と考えられるのである。透視・千里眼的芸術家は、太極空間自体も可視すると言えよう。そう、だからこそ、父権的文明以前の母権的・巨石や青銅器文明において、螺旋形状やメビウスの輪のような形状がよく見られるのだろう。ケルトの組み紐紋様も、同じであろう。
 思うに、モダンの反復(ネオモダンやプロトモダン)によって、メディア界が再び可視化するのだろう。シュタイナーがキリスト霊が再び見られるようになると予言していたが、そのように、神秘学的に言わなくても、新プラトン・シナジー論的に、合理論的に、メディア界が再可視化すると、言えるのである。太極空間が可視化するのである。これを、神秘化やオカルト化する必要はない。合理的なのである。不連続的差異・絶対的差異への回帰によって、メディア界が開花して、太極空間・即非空間が合理論的に可視化(本当は、身心・身体感覚化、触覚的可視化である。ドゥルーズ&ガタリは、触覚的視覚、触視覚のようなことを述べていた)されるのである。それを、人智学のシュタイナーは、キリスト霊の霊視としたのである。
 ここで、キリストのことを考えると、やはり、グノーシスのイエスと考える方がいい。即非・対極性・双対性を体現したグノーシス=叡知=ソフィアの人物である。マクロコスモス=ミクロコスモスを体現した人物なのだろう。神人である。これは、梵我一如と同じである。

p.s. 近代主義、つまり、同一性近代主義(差異近代主義が、本来の近代である)は、上述の空間コスモス的視覚を排除・排斥・隠蔽しているのである。現代日本が、精神的に貧弱になったのは、このせいである。芸術が、今日、日本で死んでいるのも、このせいである。空間コスモス的身心感覚を取り戻す必要がある。これは、近似値的には、量子的と言えるだろう。しかし、量子力学は、現象界の同一性、即ち、光速度一定という物質原則に捕縛されていると思う。この殻を破ったとき、本当のメディア界=差異共振界=イデア・シナジー界が理解されるだろう。思うに、ヌース理論は、この点で、同様のように思えるのである。脱光速度、脱量子である。そう、超量子論としての、イデア・シナジー理論が誕生するだろう。ロレンスが黒い太陽dark sunと呼んだものが、イデア・シナジーだと思う。これは、シュタイナーが言うような霊でもないだろう。霊という存在は、唯物論に似ていると思う。つまり、イデア・シナジーを、同一性の種類・類型で、固定していると思うのである。つまり、唯物論が、物質の同一性を中心にしているのに対して、霊学、神秘学、オカルティズムは、観念の同一性を中心にしているのである。つまり、イデア・シナジーを、観念の同一性の枠で把捉しているのである。これは、唯物論と観念論の近代主義的二元論に拠るのであり、形式は同じである。つまり、同一性形式が同じなのである。
 心も物質も超えたものである。かつて、私は、魂と質料を一体にした、魂質という言葉を造語した。それも二元論的である。ただ、イデア・シナジーというものが様相しているのである。思うに、メディア界には、超素粒子=超精神が存しているのではないだろうか。イデアが、おそらく、無限速度・超光速で、共振しているのである。イデア共振=イデア・シナジー、これが、現象界の壁の彼岸に存する知即存在・知存在である。
 そう、イデア共振体、イデア叡知体が存するのだろう。想像を絶した、不可知の神である。ロレンスが、「見知らぬ神unknown God」と呼んでいたものだろう。イデア超叡知体である。ここの叡知がコスモスを構築・創造しているのだろう。ここでは、イデアと数学が一体であろう。正に、ピュタゴラス/プラトン哲学数学である。そう、思うに、半田氏は、これに、シャーマニズム的に、遭遇したのだろう。ちょうど、SF作家のフィリップ・K・ディックのように。
 とまれ、ここでは、イデア・シナジー=イデア共振叡知体は、量子力学を超えるものであることを、確認しておこう。超ヌース理論が必要なのである。

2006年06月26日 (12:42)

ファシズムの哲学的分析:連続的差異と同一性自我の結合による弁証法構造主義

ファシズムの十全な分析は、勿論、歴史、政治、経済、社会的分析を含めなくてはならないが、私の論点は、あくまで、精神的内因にあるので、哲学的分析をする意味があるだろう。さて、これまでの分析では、叙述がかなり不整合になったので、ここで、整理したい。
 先ず初めに、全体主義との関係を言うと、全体主義に、ファシズムは含まれる概念と考えられる。例えば、旧ソ連の体制は、社会主義的全体主義と言えるだろうが、社会主義的ファシズムとは言えないだろう。そして、ファシズムは、20世紀前半における欧米、日本他に見られた特異な全体主義と考えられよう。いちおう、このように考えておきたい。
 ファシズムとは、不連続的差異論/プラトン・シナジー論に拠れば、メディア界と現象界の境界(メディア/現象境界)における弁証法構造主義の事象と言うことができる。このある特異な、特定の事象が、ファシズムである。それは、連続的差異(疑似連続的差異)と同一性自我との結合による、不連続的差異=他者の否定・排除による弁証法構造主義と言えるだろう。ポイントは、連続的差異と同一性自我との結合にある。これにより、明確に全体性が、そして、ヒエラルキーが明らかになるのである。
 連続的差異(疑似連続的差異)の問題であるが、それは、メディア/現象境界において、同一性化された共振する不連続的差異のことである。つまり、同一性の影響を受けた共振差異であると言えるだろう。この同一性化された共振差異が、ファシズムの全体主義性を形成すると考えられるのである。それは、いわば、疑似コスモスを形成するのである。そう、疑似共同体、民族共同体の発想を生むと言えるだろう。ハイデガーの存在論的差異とは、まさに、同一性化された共振差異であり、これが、ナチスの民族共同体に同化したと言えるだろう。日本の戦前・戦中の天皇制ファシズムも、同一性化された共振差異である天皇制ナショナリズムによって形成されたのではないだろうか。(石橋湛山は、不連続的差異・単独性をもっていた希有の日本人であったのだろう。)
 ここで、D.H.ロレンスとドゥルーズについて、再論すると、ロレンスは、先に述べたように、一時、自身の同一性自我的弁証法構造によって、ファシズムに接近したが、晩年、不連続的差異性を深化させ、ファシズムへの志向を廃棄して、純正のメディア界=コスモスを開花(「暗い宇宙の薔薇」)させたのであり、不連続的差異論の先駆になったと言えよう。
 ドゥルーズであるが、繰り返す価値があるので反復するが、不連続的差異=特異性と連続的差異=微分を混同していて、直観していた前者を充分理論的に展開せずに、後者へと重ねてしまい、理論に大不整合をきたし、ベルクソン/ハイデガーのファシズムの系譜に連なることに堕してしまったと言えよう。

p.s. 上記に、「それは、連続的差異(疑似連続的差異)と同一性自我との結合による、不連続的差異=他者の否定・排除による弁証法構造主義と言えるだろう。ポイントは、連続的差異と同一性自我との結合にある。これにより、明確に全体性が、そして、ヒエラルキーが明らかになるのである。」とあるが、「それ」は、ファシズムを指しているのであるが、この記述は、ファシズムというよりは、全体主義の定義ではないだろうか。だから、この論述は、「ファシズムの哲学的分析」というよりは、「全体主義の哲学的分析」と言うべきではないだろうか。
 しかしながら、今考えるに、確かに、ファシズムは全体主義に広義に含まれるが、しかしながら、ファシズムには、全体主義にはない「特異性」があるように思える。どうも、定義の再訂正が必要なようである。わたしは、全体主義にファシズムが含まれると言ったが、逆ではないだろうか。ファシズムに全体主義が含まれるのではないだろうか。問題は、スターリニズムである。それは、全体主義というよりは、ファシズムに含ませた方が的確なのではないだろうか。つまり、私が言いたいのは、ある中心が必要であるということである。ファシズムには、独りの支配者・指導者が必要であるということであり、全体主義は、ファシズムの全体統一性の様態を意味すると考えられるだろう。
 ということで、二転三転することになったが、本件に関して、ファシズムの分析でいいだろうが、全体主義とファシズムの関係は、反転しないといけないことになった。だから、社会主義・共産主義体制は、ファシズム体制と見るべきである。今日、北朝鮮の体制も、ファシズムと見るべきである。将軍様という、独りの指導者が存するからである。思うに、ファシズムとは、歴史的には、絶対主義・絶対王制の形態・類型なのではないだろうか。ハイパー・モダン、資本主義の危機・破局的状況において、絶対主義形態であるファシズムが出現するということではないだろうか。絶対主義形態とは、正に、弁証法構造である。
 ここで、近代の問題に触れると、それは、一方では、絶対主義があり、他方では、差異主義があるのだろう。そして、後者が民主主義を生んだのだろう。絶対主義は、哲学的には、弁証法構造と言えるだろう。結局、近代とは何かとなるのである。私は、つねづね、ルネサンスは差異から出発しているのであり、プロテスタンティズムは同一性による反動であると言っているが、そう考えると、近代は基本的には、不連続的差異が原点なのである。それが、イタリア・ルネサンスで初期開花する。しかし、すぐ同一性反動のプロテスタンティズムが生まれる。そして、同一性的主客分離の近代科学が誕生する。近代科学は、不連続的差異の同一性的反動の実践知なのだろう。結局、近代は、フッサールが言うように、超越論的差異の時代であり、いわゆる、近代主義は、同一性反動様態に過ぎないだろう。つまり、近代とは、初めから、「ポスト・モダン」であったのである。デカルトのコギトは、単独自我を指していているのであり、いわゆる、デカルト的合理主義は、その同一性的表現である。
 ここで整理すると、「近代」とは、基本的には、不連続的差異=超越論的差異のエポックである。そして、歴史的には、ルネサンスを発動させ、また、同一性反動形態として、プロテスタンティズムや近代科学を生んだ。「近代」は、様態的には、差異と同一性の矛盾として、表出したのであり、民主主義とファシズムという両義性をもつのである。これは、資本主義についても同様である。資本主義は、ルネサンス的様相とプロテスタンティズム的様相があると思うのである。前者は、社会的共振性(差異共生主義)を持っていたが、後者は、モナド的自由主義(例えば、『ロビンソン・クルーソー』)を志向した。(思うに、イスラームの無利子銀行とは、ルネサンス的様相に近いと思うのである。初期のシエナ銀行であったろうか、後で調べたい。)
 ということで、「近代」とは、シュタイナーが述べていたようにまったく質的に新しい人類史のエポックであると言えよう。不連続的差異・単独自我(コギト)・特異性・超越論的差異の時代なのである。しかし、メディア/現象境界における同一性の展開に、差異を忘失して、倒錯した「近代」に、現代陥っているのである。「近代」は本来、差異のエポックなのである。差異を、現代、忘却しているのである。そうすると、ポスト・モダンは意味のない言葉になるのではないだろうか。それよりは、新近代(ニューモダン)の方がいいのではないか。現代は、「近代」の倒錯的忘却があるのである。あるいは、同一性の様相になっているのである。ファシズムである。
 まとめると、「近代」は、新たなイデア界への回帰から始まっていると思われるのである。だから、私が、不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論で、イデア界への回帰というのは、ピントがずれているのである。モダン・エポックは、イデア界への回帰から始まったと思うのである。それが、イタリア・ルネサンスとして、発動・発現したのだと思う。ただし、同一性の罠に陥りやすく、実際、陥っているのだと思う。ニーチェの超人思想も結局、本来の近代思想と言えるだろう。資本主義も、同一性・ファシズムに染まっているのである。本来の近代性=不連続的差異性=社会共振性(イデア・シナジー性)を取り戻すべきなのである。

2006年06月23日 (03:04)

ヌース理論と新プラトン・シナジー理論から、四次元空間を考察する


ヌース理論の提唱者である半田広宣氏は、今、新著の執筆中ということで、完成が待ち遠しいが、私としては、ヌース理論のコスモス幾何学論を、私なりに、知りたいという欲求がある。
 今、不連続的差異論で言うメディア界の《空間》、プラトン・シナジー・セオリーでは、おそらく、シナジー界と言える《空間》を、私なりに、ささやかながら、イメージしてみたい。
 先ず、それは、対極性時空間である。太極図を想起されるといいだろう。KAISETSU氏は、鈴木大拙の即非の考え方を述べている。即ち、A=非Aということである。換言すると、西田哲学の絶対矛盾的自己同一である。とまれ、この領域は、不連続的差異・絶対的差異の共振する場である。量子論の世界である。ここでは、現象界の時空間の概念が通用しない。ここでは、非局所性が機能しているだろう。「ここ」と「あそこ」が一致するだろう。また、「今」は、「過去」であり、「未来」であろう。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』のような逆さまが成立する世界と考えられる。そして、「わたし」は、「あなた」と「彼女」と、自然と、その他の、一致するだろう。D.H.ロレンスが説くコスモスである。あるいは、梵我一如である。主客合一である。日本(正しくは、東アジア)で言えば、縄文カルチャーである。半田氏は、球面であると説いていたと思う。三次元の球面だったと思うが。これは、直観でわかる。
 ここで、思考実験をしてみたい。実軸に対して、三つの虚軸を考えて、四次元とするのが、これまでの、KAISETSU氏の考えである。これには異論はない。そして、実軸に、虚エネルギー、ないし虚力があると仮定しよう。そして、三つの1/4回転(i, j, k)によって、直交三次元空間が生じるとしよう。これは、不連続的差異論の《メディア界》である。メディア空間と呼べる。ここは、奇妙な空間である。相対的空間である。例えば、y1とy2の関係は、y1=y2であったり、y1≠y2である。伸縮自在のような空間である。かつて、KAISETSU氏が述べたように、『不思議の国のアリス』のアリスのように、大きくなったり、小さくなったりする空間である。ありは、半田広宣氏の考えを借りれば、トポロジー空間となるのだろう。量子力学空間である。
 そして、このメディア空間、量子・素粒子空間が、必然的に現象化するのであるが、それは、ゼロ度から無化である。差異の無化=同一性化である。これは、連続・同一性化と言える。ここで、メディア空間=量子空間の極性的ゆらぎ、振り子的往復性等が、消去されるのである。これをどう把捉すべきなのだろうか。メビウスの帯(環)を、切断するような事象がここにはあるのだろう。切断するのは、同一性である。それが、差異と差異との共振を切断すると考えられるのである。そして、同一性とは、思うに、光速度である。これが、差異共振性を切断して、メディア空間を、現象空間に転換するのではないのか。トポロジカルな三次元メディア空間から、ソリッドな三次元現象空間が派生するのだろう。
 ここで、時間について言うと、実軸の虚力・虚エネルギーが、虚軸においては、いわば、虚時間となるのではないだろうか。だから、そう、メディア空間は、四次元虚時空間であろう。そして、これが、四次元時空間として、現象(仮象)化すると考えられるだろう。この四次元時空間は、正に、幻像であろう。光速度の同一性が、虚構する仮象界であろう。正に、 PHENOMENAである。同一性の光が、この四次元時空間の仮象を構築していると考えられるのである。しかし、この同一性の光とは、単に外縁・周縁・外壁等ではないだろうか。つまり、メディア界・メディア虚時空間にある《光》の外縁・周縁・外壁等ではないかと思われるのである。というのは、メディア界・メディア虚時空間では、差異がゼロ度共振をしているのであり、このゼロ度共振が波動であると考えられるのであり、これが、メディア界の《光》と考えられるのである。つまり、ここにあるのは、無限速度の《光》である。共振差異の《光》である。これは、ドゥルーズ&ガタリが『哲学とは何か』で述べていた内在平面における無限速度に通じると思われるのである。言い換えれば、超光である。即ち、メディア界・メディア虚時空間において、超光が無限速度で進行するのであり、それが、差異の無化において、同一性の光に変換されると思われるのである。即ち、超光から光への変換である。これが、外縁・周縁・外壁等の意味である。ここで、何度も言及するが、D.H.ロレンスの言う黒い太陽dark sunと背面を見せている光という考えを想起する。つまり、メディア界の《光》が、いわば、裏返しになって、現象界の白光となっていると言えるのではないだろうか。(因みに、シュタイナーが言った太陽霊としてのキリスト霊とは、メディア界の《光》のことではないだろうか。)
 ここで、喩えて言えば、球の裏面が表面になるようなことではないだろうか。つまり、本来のメディア界=球は、無限速度の超光の世界であるが、それが、差異の無化によって、反転して、本来裏面であった同一性が、表面・表層になったのではないだろうか。整理すると、本来のメディア界(メディア球と言おうか)において、表面は、超光が無限速度で走行しているが、差異の無化によって発生する同一性の光が前面(表面)化して、本来の表面の超光を覆ってしまうのではないだろうか。つまり、メディア界=超光の世界が隠蔽化されるのである。これが、ロレンスの言う《光》(=黒い太陽)が、背を向けた様相であろう。
 そして、この同一性の光に規定されて現象界において、近代科学の唯物論的世界観が発生すると言えよう。つまり、虚軸が、同一性の光/光速度によって、実軸化されるということではないだろうか。無限が有限化されるとも言えるのではないだろうか。この同一性の光によって実軸化された時空四次元の「現象界」は、正に、仮構・幻像の世界なのである。この唯物論的世界観、アーリマン的世界観(正しくは、ルシファー/アーリマン的世界観、又は、コナトゥス/エゴイズム世界観)が、本来の実相であるメディア界・メディア虚時空間を否定・排除・隠蔽して、人間・地球を破壊しているのである。
 これは、どういうことなのだろうか。現象界的唯物論的世界観は、世界を破壊させるのだろうか。人類を破滅させるのだろうか。ここでは、示唆するに留めるが、イデア界=ガウス平面における回転は、1/4回転を4回することで、元の実軸に回帰するのである。3/4回転から4/4回転によって、不連続的差異=絶対的差異への回帰が発生して、現象界の連続・同一性を解体すると考えられるのである。即ち、現象界という壁が破壊されて、メディア空間・メディア虚時空間が、出現すると思うのである。ここでは、ルドルフ・シュタイナーとD.H.ロレンスは一致するのである。太陽霊・キリスト霊、黒い太陽が、出現するのである。コスモスの復活である。

2006年06月21日 (10:44)

お金と指導層:コナトゥス(自己保存力)とシナジー強度:シナジー共生体エコノミーへ向けて

日銀の福井総裁は、村上ファンドへの投資で、元本の2倍以上に値上がったこと等の事実の判明に対して、元本等を慈善団体に寄付すること、報酬を自主的に減額することを、償いとして発表したが、これは、自分の責任回避の、悪賢い、没倫理的な、行為であり、このような人物を日本経済のキーポイントに置くことは、許されるべきことではない。
 貨幣至上主義という悪魔・悪霊の精神がここにはあるのである。日本の中枢に巣くっている、悪霊どもである。これを、浄化しないといけない。貨幣というマモン・悪霊に憑依された者どもである。
 明らかに、お金は、現象界自我と結びついてる。自我所有欲と結びついている。そう、誰でも、自我所有欲はある。ホッブズ/スピノザの言う自己保存力(コナトゥス)とは、人間個体存在の基盤にあると言えよう。しかし、ホッブズのように、それがすべてであるとは言えないと私は考える。(参考:
http://www.mars.dti.ne.jp/~kells/Essay/spp2.html
http://www.ne.jp/asahi/village/good/hobbes.html )
 整理して言おう。コナトゥスがすべてであると言っていいのである。しかし、コナトゥス(自己保存力)は、単に、ホッブズの言うように、利己主義ではないのである。コナトゥスには、自我所有欲が一つの中枢として存するが、その他の中枢があるのである。
 より整合化して言えば、個体の基盤にあるコナトゥス(自己保存力)とは、根源の差異が同一性的に現象化して、発生しているものだろう。(おそらく、唯識論の阿頼耶識とは、差異と同一性の境界意識を指しているのではないだろうか。)
 思うに、一般の動物・植物の場合は、差異が類型化していて、差異と同一性の相違がそれほどないのではないだろうか。しかるに、人間の場合は、差異と同一性の相違が大きいのである。思うに、人間の場合、差異が剥き出しであり、プラトン・シナジー(イデア・シナジー)理論(New Platonic Synergy Theory)の説く「メディア界」(これも名称を変えた方がいいだろう。シナジー界ではどうだろうか。)が、剥き出しであり、生成変容する多次元多様体であり、それに対応する同一性自我が強化されると考えられるのである。即ち、多次元多様体としての差異とそれに対応する同一性自我の境界において、コナトゥスが発生すると思えるのである。正確に言えば、境界の現象面にコナトゥスが発生すると言えよう。図化すると、

シナジー界(メディア界)/境界/《コナトゥス》→同一性自我現象界

である。コナトゥスは、ホッブズ/スピノザの言うように否定することはできない。それが、人間を現象界(いわゆる現実や経済)を動かしているのである。そして、近代以降、このコナトゥスが中心的になったのである。しかしながら、人間は、境界を介して、シナジー界への「心感性」をもっているのである。そして、指導層となる人間には、この「心感性」の意識知性が要求されるものである。しかしながら、日銀福井総裁は、憎らしくも、これを裏切ったのである。(もっとも、今日、日本の指導層は、「鬼畜」であるが。)「心」があるなら、当然、「自己責任」で、辞職すべきである
 理論的検討を続けると、境界人間(シナジー/同一性境界的人間)は、シナジー界と同一性自我現象界の両面を帯びているのである。ただし、ここで、弁証法構造を考えてはいけない。弁証法構造とは、確かに、境界の事象の一つであるが、優先点(プライオリティ)は、同一性である。つまり、シナジー/同一性境界の同一性面にあるのである。つまり、ここで言いたい境界人間とは、対極性構造の「力学」をもった人間である。つまり、シナジー界的人間、シナジー強度をもった人間と換言できるだろう。このシナジー強度は、コナトゥスに対する「倫理」の強度であると言えよう。そう、コナトゥスは否定できない、これは認めよう。しかし、プラトン・シナジー(イデア・シナジー)理論では、コナトゥス以外の力として、シナジー強度を肯定するのである。そして、指導層には、このシナジー強度を内包した人間が必要なのである。しかるに、現日本は、コナトゥスのみの、没シナジー強度・倫理の悪霊人間が中枢を占めているのである。福井総裁が正にそうである。これは、明らかに亡国路線である。
 では、コナトゥスとシナジー強度の関係を考えると、少なくとも、相補的関係になるのが整合的であろう。自己保存力が、シナジー強度・倫理強度と結合することは、必要ないし必然なことのように思えるのである。(私が、オカルティズムや宗教に対する疑念はここに存すると言える。霊主体従に批判的である。だから、D.H.ロレンスを評価するのである。彼の『死んだ男』のオシリス・イエスが、貪欲と贈与の二元論でなく、そのバランス・エコノミーを説いていたが、正に、コナトゥス/シナジー相補経済である。)なぜなら、もし、シナジー強度中心にすると、コナトゥスが否定的になる。しかし、コナトゥスは否定しようがないから、反動化して、さらに悪霊化するのである。(おそらく、新興宗教関係が悪魔・悪霊化しているのは、ここにあるだろう。コナトゥスではなくて、シナジー強度を中心に説くから、個体に強く存在しているコナトゥスが影に隠れて反動的に拡大するのである。ここで、親鸞哲学の意味を考えた方がいい。また、愛国心教育も同様である。それは、悪魔・悪霊の教育である。)
 両者の相補的バランスを目指すべきである。今日のグローバル資本主義と社会民主主義の問題も、ここに帰着するのだろう。即ち、コナトゥス/シナジー・コンプルメンタリティ(相補性)政治経済文化社会を目指すべきなのである。思うに、共産主義/社会主義の失敗は、コナトゥスを否定して、コナトゥスの悪魔的反動を招いた点であろう。そして、新自由主義の問題は、シナジー強度を否定して、コナトゥス一辺倒である点にあるだろう。この二元論的発想を捨てなくてはならない。西洋的二元論を廃棄して、東洋的対極論を身につける必要がある。(しかし、これは、単純な東洋的対極理論ではなくて、コナトゥスとシナジー強度の「シナジー」の対極理論である。)
 しかしながら、具体的には、コナトゥス/シナジー・《ポリティカル・エコノミー》(ポリティカル・エコノミーとは、共生体経済と訳せるのではないだろうか。差異共生体経済、シナジー共生経済でもある。)とはどのようなものなのだろうか。小沢一郎氏の共生主義とは、一見、コナトゥスを否定したシナジー主義のように見える。しかし、推察では、私見では、小沢共生主義とは、コナトゥスをもったシナジー政治経済である。そう、小沢氏の共生主義は、私がここで述べているコナトゥス/シナジー共生体経済に類似的なような思えるのである。精神と物質とのシナジー経済とも言えるだろう。精神・物質シナジー共生体経済、これが、グローバル資本主義と社会民主主義の二元論を超克する新しい政治経済ではないだろうか。簡単に、シナジー共生体エコノミーと言おうか。もっとも、正確には、コナトゥス/シナジー・コンプルメンタリティ(相補性)共生体エコノミーであるが。

p.s. コナトゥス/シナジー界的《シナジー》とは、混乱させる表現である。しかし、現代・未来の問題は、もはや、当然、かつての東洋文化にもどることではあり得ない。伝統的な東洋文化とは、対極性文化である。しかしながら、それは、シナジー界と同一性界が未分化の文化だと思うのである。不連続的差異論から言えば、メディア界/現象界の境界の両義性の文化である。
 しかしながら、不連続的差異の発見・創出によって、未分化状態が破られたのである。即ち、純粋なメディア界=シナジー界が出現することになったのである。これは、換言すると、対極性と同一性の未分化的闘争(二項対立)ではなくて、対極性と同一性との調和を意味しないだろうか。未分化状態は、弁証法構造へと転化するだろう。これは、闘争・戦争状態である。父権主義の様態である。しかし、メディア界=シナジー界の純化が生起すると、もはや、闘争・戦争は志向されないだろう。なぜなら、差異共振強度こそ、能動知・力であるからである。つまり、差異共振強度=シナジー強度が、境界において、同一性に作用するとき、同一性は変容すると考えられる。一種、融合である。対極性と同一性の融合である。即ち、ここにおいて、同一性はもはや、否定・反動的に作用するのではなく、対極性・シナジー強度へとひかれている。弁証法構造では、共振差異→同一性の方向性であったが、この対極性構造においては、同一性→共振差異となるのである。ただし、同一性がなくなるわけではあり得ない。自我同一性現象界=近代主義=物質界は、一つの史的所産であり、意味のあるものと考えられるのである。もはや、「科学技術」のない世界は考え得られないだろう。同一性は構造なのである。言語構造(ラカンの象徴界)なのである。(ラカン「意識哲学」は、正鵠を射ている。ただし、何度も繰り返すが、脱オイディプス化しないといけない。)
 結局、「ポスト・モダン」・脱構造主義とは、この同一性=言語構造から、「メディア界」=シナジー界への「回帰」ヘの志向であったのである。デリダ哲学は、それを、脱構築という方法で、暗示した。しかし、その問題点は、同一性を絶対的に否定的に見ていることである。問題は、同一性からの差異化にあったはずである。言うならば、同一性が、現代における出発点であり、ここからの差異への志向が問題であったのである。この点で、デリダ哲学は、倒錯しているのである。だから、やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学の方が、はるかに明敏なのである。
 とまれ、近代主義は、同一性を完成させたのである。西欧・西洋文明・文化は、この点で偉大であったと言えよう。他のどの文明・文化はこれを生むことはできなかったのである。もっとも、これは、実は、悪魔性だったのであるが(参照:シュタイナーの悪魔論)。そして、この近代同一性に対して、共振差異強度が、シナジー強度が到来するのである。これは、クリステヴァ哲学のように、記号作用(セミオティック)のような逆弁証法となる時もあっただろう。また、バタイユのような、やはり、逆弁証法的なエロティシズムもあっただろう。しかし、それは、一時的な事象である。問題は、同一性と差異との融合である。
 不連続的差異の発見によって、純粋な差異共立が可能となったのである。それは、新たなデュナミス(可能態)であろう。このデュナミスにおいて、差異と同一性の融合・調和が可能になると思われるのである。この新たなデュナミスにおいて、融合・調和の可能性を志向できるのである。そして、これが、資本主義と社会民主主義の融合調和となるように思えるのである。即ち、シナジー共生体エコノミーである。これは、新しいデュナミス、新しいシナジー可能性を原点にして、差異と同一性の調和・融合を企図するものであると言えるだろう。だから、デュナミス・シナジー共生体エコノミーと言えるだろう。そう、この新しいデュナミスの発生によって、同一性と差異との調和・融合が可能となるだろう。そして、この新しいデュナミスとは、不連続的差異の創造によって、発生するものと考えられる。ヌース理論の半田広宣氏の言葉を借りれば、顕在的イデアによる創造である。
 ということで、境界における対極性と同一性との調和・融合とは、不連続的差異による差異共立性=新たなデュナミスを契機・メディアにして可能になるということであり、簡潔に言えば、デュナミス的シナジーと言えよう。これが、本当の「ポスト・モダン」、「ポスト構造主義」である。とまれ、この意味で、上述したシナジー共生体エコノミーが「現実」化(エネルゲイア/エンテレケイア化)すると考えられるのである。また、小沢一郎氏の共生主義も、このように捉えることで、より未来創造的になると考えられる。そう、小沢一郎氏の共生主義は、シナジー共生体エコノミー理論ならびにプラトン・シナジー理論と平行である。おそらく、現代日本において、超変革の《潮》強度が満ち始めているのである。

2006年06月18日 (21:26)

V.ウルフの『灯台へ』の哲学分析:二つの「モダニズム」:過剰近代と内超近代

V.ウルフの『灯台へ』の哲学分析:二つの「モダニズム」:過剰近代と内超近代
テーマ:文学・哲学
『灯台へ』(1927年)ヴァージニア・ウルフ作 岩波文庫

灯台へ 岩波文庫
ヴァージニア ウルフ (著), Virginia Woolf (原著), 御輿 哲也 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003229118/qid=1150631122/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-0226866-3012711

灯台へ

表現方法:文学史的には、「意識の流れ」と呼ばれる表現方法である。より、的確に言えば、人物意識「対位法・ポリフォニー」と言うべきものである。
例えば、p.52〜p.54

【哲学的には、推察するに、ヴァージニア・ウルフの意識には、言うならば、コスモス(コスモス体)が息衝(いきづ)いて、そこにおいて、登場人物が「差異」としてありつつ、他の登場人物である「差異」と共振している様相のように思えるのである。登場人物1を差異1、登場人物2を差異2、登場人物nを差異nとすると、例えば、差異1→差異2へと、流動的に、あるいは、内在的(内部意識的)に移動するのである。それまでの、小説は、語り手や主人公の視点・感覚意識(以下、感識と略す)が中心となって、物語が展開することが普通であったが、この小説作品では、視点・感識が、差異から差異へと共振的に移行するのである。これは、音楽の対位法・ポリフォニーに類似していると言えるだろう。差異を声部として、ある声部から他の声部へと展開するのである。あるテーマをもっているから、フーガに似ていないこともないだろう。
 とまれ、作家の創造的意識・感識において、多数の登場人物=差異が共振していて、差異でありつつ、内的に「連通」していると考えられるのである。この差異と差異の共振過程が、対位法・ポリフォニー又はフーガに似ているのである。ここで注意すべき点は、これは、コラージュやパスティーシュに一見似ているが、似て非なるものである。何故なら、それらは、差異が不連続のままで、差異間において、共振していないからである。つまり、いわば、窓のないモナドのように、差異と差異とが、孤立して並立しているのであるから。それに対して、ヴァージニア・ウルフの小説時空間(タイム・スペース)においては、差異は他の差異と共振しているのであり、窓があるのである。差異が他者である差異と共振して、「連通」しているのである。この違いは、絶対的であり、十分注意する必要があるだろう。モナドではなくて、共振差異が生成する多元・多様な共振界がここにはあるのである。
 これは、思うに、画期的に独創的な作品ではないだろうか。「意識の流れ」とは、プルーストやジョイスの小説において、確認された「モダニズム」小説の主要な表現方法の一つであるが、しかし、思うに、それらにおいて、差異は共振せずに、孤立(モナド化)しているように思えるのである。だから、「意識の流れ」は、二種類考えられるのである。モナド的「意識の流れ」と共振差異的「意識の流れ」である。
 この共振差異は、最初に述べたように、コスモスに息衝いていると考えられるのである。だから、作家ヴァージニア・ウルフの意識・感識には、ミクロ・コスモスがあり、そこには、多元的な共振差異が息衝いていると換言できるだろう。この共振差異を量子論(量子力学)の用語を借りて、パーティクル(素粒子)と呼ぼう。即ち、ヴァージニア・ウルフの作品世界は、パーティクル(素粒子)の共振する世界であるということである。プルーストやジョイスの小説世界はモナドの世界であると言えるのではないだろうか。
 パーティクルの世界、共振差異の世界を、シナジーや連創の世界とも呼べるだろう。シンパーティクル(SYNPARTICLE)・共素粒子・共差異の世界でもある。さらに、造語して、共粒子・連粒子・共連粒子の世界とも言えるだろう。
 さて、このパーティクル・共差異の世界であるが、「モダニズム」期において、ヴァージニア・ウルフ以外に、D.H.ロレンスの「作品」に存しているのである。ただし、思想的に表現されている傾向が強いと言えるだろう。しかしながら、小説作品においては、パーティクル・共差異は、コスモス的な場の力になっているように思えるのである。ロレンスの作品のもつ何か異様な臨場感の喚起力に、パーティクル・共差異が変換しているように思えるのである。
 とまれ、思想的表現として、ロレンスの紀行文の『エトルリアの地場(地)』におけるタルクィニアの墓の壁画においてロレンスが発見した「触れ合い」感に、このパーティクル・共差異のコスモスを、典型的に見出すことができるだろう。
 さて、終わりに、「モダニズム」を再定義する必要がある。モナド的「モダニズム」と共差異的「モダニズム」である。前者をハイパー・モダン(過剰近代)、そして、後者をイマネント・トランス・モダン(内在超越近代、略して、内超近代、内越近代)と呼べよう(ポスト・モダンの用語は混乱していて、語弊があるので、避ける)。これまで、ハイパー・モダン(過剰近代)が主流になって、イマネント・トランス・モダン(内超近代)が傍流であったのである。
 このように見るならば、現代、どちらが、未来的で、どちらが反動的であるかは、瞭然である。ハイパー・モダンは、いわば、高度近代主義であったのである。それは、現代の状況の先駆けであったと言えよう。そして、ポスト・ハイパー・モダンとして、イマネント・トランス・モダンを評価する必然性があると言えるだろう。ここで、イマネント・トランス・モダンの哲学の集大成を試みたフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが、ヴァージニア・ウルフとD.H.ロレンスを積極的に評価していること、そして、ジョイスやT.S.エリオットやエズラ・パウンドにはほとんど言及していないこと(エリオットに関しては皆無だろう)を想起すべきだろう。(ただし、プルーストは、高く評価していた。プルーストに関しては、微妙なところがあり、私見では、ハイパー・モダンとイマネント・トランス・モダンの中間態のように思えるのである。だから、先の評価を少し修正しないといけない。)】

p.s. 過剰近代(モナド的「モダニズム」)と内超近代(共差異的「モダニズム」)は、出発点において、似ている面がある。それは、神話を創作に活用する点である。T.S.エリオットの『荒地』やジョイスの『ユリシーズ』における神話の活用は、有名である。また、D.H.ロレンスは、彼ら以上に、神話を活用した。ウルフは、それほどでもないが、神話を見ることはできるだろう。
 この問題は、以前言及した、弁証法構造主義と対極性構造主義の区別に関わると考えられる。即ち、過剰近代は前者に、内超近代は後者に関わると考えられる。だから、両者の出発点は、メディア界と現象界の境界、メディア/現象境界である。しかしながら、方向性が正反対なのである。過剰近代は、差異を取り込むような形態をとるが、現象界・同一性を志向するのであり、内超近代は、同一性から差異へと志向するのである。因みに、toxandoria氏の、本稿へのコメントを敷延すると、小泉内閣の「改革」は、過剰近代であり、小沢一郎の「変革」は、内超近代である。
 ということで、ハイパー・モダンとイマネント・トランス・モダンの共通性と異質性の説明を終えたこととしよう。

p.p.s. ここで、ハイパー・モダンの形成の原因を考えたい。これは、イマネント・トランス・モダンと、言わば、双子であろう。なぜならば、モダンが、成熟し、高度化すると、当然、反転するからである。過剰になると、当然、反対の極にもどる力学が作用すると考えられるのである。即ち、モダンは、中世的メディア界を否定して、生まれた個物の世界である。しかし、近世においては、まだ、メディア界の差異が息衝いていた、ルネサンスのように。しかし、近代が深まるにつれて(プロテスタント化)、差異を喪失し、同一性化が強化される。しかし、さらに近代が進展すると、近代の極限に達して、力やエネルギーが反転すると考えられるのである。この反転する領域が、メディア界と現象界の境界、メディア/現象境界である。そして、ここでは、メディア界=差異へと進展する方向性が、積極的であり、現象界=同一性へと、言わば、後戻りする方向性は、反動的である。この二つの正反対の方向性が、二つの「モダニズム」になったと考えられるのである。
 では、過剰近代が、モナド的「モダニズム」になったとはどう説明できるだろうか。それは、正に、弁証法構造主義で説明できるだろう。ここでは、差異は同一性によって統一(ジンテーゼ)されるのである。「正」としての自我同一性があり、「反」としての差異や他者があり、それをさらに否定して、統一的自我の「合」が成立するのである。この統一的自我とは、いわば、絶対的自我であり、差異を否定し尽くした同一性であるから、窓がない近代自我、即ち、モナドなのである。言わば、モナド自我である。おそらく、これは、コギト・エルゴ・スムから、スムを排除したコギトであろう。だから、ハイパー・モダンの場合、近代自我=モナド=コギトなのである。
 以上のように考えると、モナド的「モダニズム」と共差異的「モダニズム」のコントラストが明確・明解になる。同じ「モダニズム」であるが、似て非なるものである。また、換言すると、前者は、いわゆる、構造主義であるのに対して、後者は、トランス構造主義である。
 最後に、この視点から現代社会・世界がよく判別できるだろう。小泉「改革」とは、toxandoria氏のコメントから示唆されるように、モナド的同一性幻想・妄想・詐術なのである。みんな、ばらばらなのである。そして、モナド的同一性である貨幣(マモン)=金融資本中心主義が、違法に、支配するのである。ライブドア、村上ファンド、福井日銀総裁、等々である。新自由主義は、モナド的同一性「モダニズム」である。マヤカシである。
 そして、小沢一郎の共生主義とは、正に、共差異的「モダニズム」、即ち、イマネント・トランス・モダンの政治である。
 
 

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■モナド的「モダニズム」に共鳴しました

renshiさま、TBありがとうございます。

モナド的「モダニズム」と共差異的「モダニズム」に共鳴しました。

今まで、まさに歴代の自民党政治がやってきたことは、各モナド間の矛盾と乖離を放置してきた“モナド的「モダニズム」”です。

小泉政治は、その傷口が拡大し過ぎた矛盾と乖離を糊塗するために国民を悪辣なトリックで騙したと考えられます。

そして、渦中の「日銀・福井総裁のスキャンダル」は、その悪辣なトリックのシナリオを炙り出す契機となるような気がします。

toxandoria (2006-06-18 21:45:31)

■悪辣なトリックとモナド・同一性の幻想・妄想・詐術

toxandoria 様

どうもたいへん示唆的で有意義な指摘をありがとうございます。この考えが、小泉似非改革に当てはまるとは思いませんでした。
 そうですね。モナドは、正に、古典派経済に通じますね。見えざる手とモナドの予定調和は一致します。新自由主義は、市場原理&小さい政府という見えざる手で、モナド化した国民を欺いたのです。これは、実にあざとい、悪魔的手法です。結局、見えざる手=予定調和イデオロギーが、悪辣なトリックなのですね。このイデオロギーによって、政治家も国民も盲目状態です。そして、幻想・妄想の下には、同一性というおぞましいマモン・貨幣至上主義が隠れています。即ち、利己的欲望・打算です。悪魔的欲望が支配しています。悪魔は、甘く囁くのですね。うぶな国民は悪辣なサディストのプレイボーイに、貢がされました。
renshi (2006-06-19 00:39:46)

2006年06月11日 (12:36)

スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志

スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志
テーマ:身体と精神
不連続的差異論では、メディア界は、心身一体の領域となるが、不可視の領域である。これは、スピノザの神即自然の領域であろう。しかし、スピノザは、心身論を説かなかった。心と身体の二元論をあくまで保ったのである。スピノザは、思惟と延長を属性とした。これをどう捉えるべきか。即ち、実体(神即自然)の属性とすることで、デカルト哲学から、離れたと言えるだろう。思うに、思惟と延長、ないし、心と身体は、不連続的差異論的には、どこに位置するのだろうか。
 思惟・知性・心はどこに位置させるべきか。確かに、メディア界に置くというのは考えやすい。しかし、問題は、メディア/現象境界である。ここでは、差異と同一性の弁証法が生起しているのである。即ち、思惟と言った場合、差異の思惟と同一性の思惟があるのである。近代自我は、同一性の思惟をもつし、また、同一性の身体をもつだろう。しかし、差異の思惟と差異の身体があるだろう。ここには、二重の思惟と身体があることになる。スピノザの思惟と延長、心と身体とは、メディア/現象境界における差異と同一性の弁証法を、差異を肯定することで、解消し、メディア界の対極性の回路を開く契機となっていると言えよう。だから、スピノザの思惟と延長、心と身体は、メディア/現象境界にあり、それが、差異の能動観念的肯定からメディア界へと浸透していくと言えるだろう。
 ということで、スピノザの心身平行論における思惟と延長、心と身体の属性を不連続的差異論的に位置且つ意味づけることができた。

 以上のようにスピノザの心身平行論を不連続的差異論的に布置できたが、では、スピノザ哲学の自我は、どういう意味をもつのだろうか。私は、これまで、デカルト哲学からの進展としてのスピノザ哲学を説いてきたが、デカルトのコギトをスピノザは、継承しているのだろうか。私はこれまで、そう考えてきたのであるが、以上のような布置からすると、再検討が必要である。
 スピノザ哲学の実体に相当するメディア界的思惟・身体(心身)は、単独的自我と同一性自我との中間であろう。おそらく、少なくとも、三つの自我がある。即ち、

1)単独自我
2)心身自我
3)同一性自我

である。そして、自我をフッサール哲学からノエシス/ノエマとしよう(簡単に、ノエシスマないしノエシマとしよう)。ノエシマとは、知と感覚との統一体であろう、本当は。というか。知覚そのものと言うべきかもしれない。ヌース理論で言えば、NOOS即NOSである。志向性は、感覚知覚、知覚、知性感覚である。物質的に言えば、神経である。神経の正体は、ノエシマである。ヌース理論的に言えば、造語して、 NOOSAであろう。不連続的差異論的には、差異のベクトル(方向性)である。また、造語して、知性覚としよう。知性覚が、神経の正体である。そして、これは、不連続的差異であり、また、共振差異である。そして、同一性において、身体と知性に分離する。
 とまれ、上図式は、

1)単独知性覚
2)心身知性覚
3)同一性知性覚

となるだろう。少なくとも、この三重の知性覚が存していることを確認しよう。これは、当然、イデア界知性覚、メディア界知性覚、現象界知性覚である。
 ここで、デカルト哲学に何度も言及することになるが、コギトは、1と3とが重なり合っているものであり、単純に近代自我と見ることはできない。しかし、考えると、もともと、根源には、単独知性覚があり、その展開としての同一性知性覚が生じるのである。図式化すると、

3)表層:同一性知性覚
____________

2)中間層:心身知性覚
____________

1)基層:単独知性覚


となり、基層の展開としての中間層、表層であると言えよう。とまれ、近代自我の潜在意識として、基層があることは確かである。これを、ニーチェやフッサールは明確に、探求し突き止めたと考えられるのである。スピノザはそこまで達していないと思う。ドゥルーズは、中間層と基層を混同していたと考えられる。(キルケゴールは、先駆的に達していたと考えられる。シュティルナーの唯一者は、デカルトのコギトの展開のように思える。)
 近代自我とは、中間層を排除し、かつ、また、基層も隠蔽している。つまり、近代自我/近代合理主義は、中間層と基層を排除し隠蔽しているのである。近代自我の暴力性は、この排除・隠蔽という反動性にあるだろう。思うに、近代自我暴力は、基層の単独性・特異性の力に対応しているものだろう。つまり、ニーチェ的に言えば、力の意志に対応して、近代自我暴力が反動として発生していると言えるだろう。
 問題は、単独性・特異性の力は、自我においてどういう意味をもつのかである。これは、自我の根源である。原自我である。前自我である。これは、不連続であるから、メディア界的共振的連結性を断ち切る、切断、断裁すると言えよう。つまり、破壊/創造の力と言えるだろう。あるいは、独創の力、天才の力である。これは、メディア界→現象界的連続・同一性の現象を断ち切り、新しい《メディア》を創造するのではないだろうか。古い《メディア》を破壊して、新たな独創的《メディア》を新構築すると考えられるのである。その基盤は、単独・特異性の力、力の意志(イデア界の力・虚力)である。
 結局、不連続的差異論によって、この《潜在イデア》の力が明確化して、連続性を断ち切り、メディア界を純粋化したと言えるのである。それまで、メディア界は現象界と連続していたのである。つまり、両者未分化状態にあったのである。これが、明晰に分化したのである。だから、現象界からメディア界への進展がここで、明確になったと言えよう。近代の崩壊・解体・瓦解である。即ち、西洋文明の終焉である。新たな東洋文明(ユーラシア文明)の起動である。

2006年06月10日 (15:56)

メディア界《コスモス》の幾何学とは何か

以下は、「検討問題:新しい螺旋的回帰の意味:新しい主客合一・一体化の意味:コギトとポスト・コギトの関係」の第四の項を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10013453062.html

__________________________


4)メディア界《コスモス》の幾何学とは何か

(思うに、簡単に言えば、多様体である。あるいは、フラクタルな宇宙であろう。ここでは、知と存在、ないし、心と身体が両極的に共振結合しているだろう。
 この両極共振結合とは、原生命を意味するだろう。また、当然ながら、森羅万象の母型(マトリックス)である。ついでに言えば、質料とは、ここ、メディア界を指しているだろう。そして、これは、アリストテレスのデュナミスである。そして、プラトンのコーラである。そして、同時に、アリストテレスのエネルゲイアである。
 これまで、デュナミスをイデア界に置いていたが、微妙なところである。デュナミス⇒エネルゲイアであるが、デュナミス「即非」エネルゲイアとすることができる。こういうことだろう。メディア界において、差異と差異とが共振する。それは、ノエシス(知性)がノエマ(感覚・身体)の交信を介して、他のノエシス(知性)と連結するということである。この差異共振は、多様な可能態であり、同時に、現実態(エネルギー態)である。即ち、可能態(デュナミス)「即」現実態(エネルゲイア)である。
 こう考えると、デュナミスは、イデア界に置かない方がいいように思える。しかし、潜在性を言うならば、デュナミスは、イデア界に置いた方がいいだろう。すると、問題は、可能態と潜在態をどう考えるのかということである。アリストテレスは、質料と形相との結合で、個物が形成されると考えたのである。しかし、メディア界においては、質料は、ノエマ的共振「身体」性と考えることができるし、また、形相は、ノエマ的共振的原形態で説明できるだろう。だから、アリストテレスは、プラトンを補完したに過ぎないように思えるのである。
 そうならば、可能態はメディア界の半面のノエマ的身体(ノエマ的質料)であり、潜在態をイデア界と区別するのが適切のように思える。結局、私のデュナミス/エネルゲイア/エンテレケイアという三層論を訂正して、

イデア潜在性/メディア界(デュナミス・エネルゲイア)/現象界(エンテレケイア)

となる。
 さて、ここで、Kaisetsu氏のラディカルなイデア界のイデア不在論に少し言及すると、方向性とは、不連続的差異の《力》(=虚力?)のことと考えられる。これは、前メディア界の領域であり、まだ、まったくの無形と考えられる。「絶対無」とも言えるだろう。ここで、想起するのは、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』で、エイハブ船長が白鯨を探求している最中に、存在の究極を知りたいと言い、そして、結局、段ボールのように、向う側には何もないかもしれないが、それでも、いいと言っていることである。段ボールをメディア界とすれば、メディア界の彼岸に何もないというのは、イデアの不在に通じるように思えるのである。これは、ニーチェでは、力の意志であり、ヌース理論では、NOOS・NOSA&NOOS*・NOSA*であろう。これは、おそらく、潜在イデアと呼べるだろう。あるいは、前イデアである。
 さらに問題は、これは、何を意味するのかということである。私はだいぶ以前に、イデア界史というようなことを言った。イデア/メディア界的螺旋的「歴史」=進化史のことである。第一の1/4回転、第二の1/4回転、第三のそれ、・・・はそれぞれ、異なる進化的意味があると思えるのである。ニーチェ流に言えば、生成の無垢であるが、この無垢は、進展的無垢だと思うのである。第一の1/4回転で、ゼロ度共振が発生する。これは、宇宙の誕生である。そして、第二の1/4回転で、それが消滅するのではないだろうか。そして、第三のでは、新たに、宇宙が生成する。それは、最初の宇宙とは正反対となるだろう。第一の1/4回転は+虚軸への回転であり、第三のは、−虚軸への回転である。これは、いわば、負の回転とも言えるだろう。これは、作業仮説として、分離からの再統一を意味すると言えないだろうか。ヌース理論から言うと、等化であったろうか? とまれ、+虚軸回転を対化(二元論化)として、−虚軸回転を一元論化としよう。この点については、後で、検討したい。
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2006年06月06日 (02:18)

『宝島』R.L.スティーブンソン作

『宝島』(1883年) ロバート・ルイス・スティーヴンソン作

場所:
ベンボー提督屋(宿屋):ブラック・ヒルの入り江にある

登場人物
「わたし」=ジム・ホーキンズ:主人公



リヴジー医師

「船長」:フリント船長:ビルと呼ばれる:頬に刃傷がある。アルコール中毒、船員衣類箱をもってきた

黒犬(ブラック・ドッグ):「船長」を探している

ピュー:盲人

トリローニさん:大地主

レッドルース爺さん:猟場番人

のっぽのジョン・シルヴァー:片足で、ホークのもとで働いて、片足を無くした。財産家。細君は黒人。


物語:
第1部:老海賊
第1章:「ベンボー提督屋」へ来た老水夫
「死人の箱にゃあ十五人―――
 よいこらさあ、それからラムが一罎と!」と古い船歌を老水夫が歌った。
第2章:黒犬(ブラック・ドッグ)現れて去る
第3章:黒丸(呼び出し状)
第4章:船員衣類箱:中には、油布でくるんだ書類のような包みと帆布の袋。敵方は、包みを探すため、ベンボー提督屋を荒らす。ジムたちを探す。
第5章:盲人の最後:税務監督官ダンス氏の馬でピューは殺される
第6章:船長の書類:大地主(トリローニさん)の屋敷へジムとダンス氏は行く:大地主とリヴジー医師の話:フリント船長はこの上なしの残忍な船長。ジムのもっていた包みを開ける。中には、一冊の帳簿(会計簿)と封をしてある
一枚の紙があった。一枚の紙には、ある島の地図があった。
《その島は長さ約九マイル、幅五マイルで、ふとった竜が立ち上がったといったような形をしていて、陸でかこまれた良港が二つあり、中央部には「遠眼鏡山」と記された丘があった。・・・赤インクで書いた十字記号が三つあって、――その二つは島の北部に、一つは南西部にあり、あとのほうの十字記号のそばには、おなじ赤インクで、・・・、「宝の大部分はここに」――と書いてあった。》
裏には、同じ筆跡で、詳しく書かれていた。
 大地主のトリローニさんとリヴジー医師とジムは、その島へ航海することを決心する。

第二部:船のコック
第7章:ブリストルへ行く:トリローニさんの手紙:ブリストルで、旧友のブランドリーの周旋で、スクーナ船(ヒスパニオーラ号)を見つけ、ジョン・シルヴァーを見つけ、そして、ジョンと二人で、屈強な老練な水夫の一団を見つけた。ブランドリーは航海長を見つけ、シルヴァーは副船長を見つけた。トリローニさんのロマン主義:「さあ、海へ! 宝なんぞどうだっていい! 小生を夢中にさせているのは海の輝きです。」(p.70)
 ジムは爺さんと、「ベンボー提督屋」に向かい、母に会う。そこを離れて、ブリストルへ駅馬車で行く。さまざな船などに感嘆しながら、ジムはトリローニさんに会う。明日出帆と言う。

第8章:「遠眼鏡屋」の店で
「わたし」ジムは、「左の脚がほとんど股のつけ根のところから切断されていて、左の脇の下に松葉杖をはさんでいた」のっぽのジョンを見た。松葉杖を「おどろくほど器用に使いこなし、それを当てて鳥みたいにぴょんぴょん飛びまわっていた。たいそう背が高くがんじょうな男で、顔はハムのように大きく、――醜男で青白いが、利口そうでにこにこしていた。」「わたし」は、トリローニさんの手紙を渡す。店には、黒犬(ブラック・ドッグ)がいたが、逃がしてしまう。
「わたし」とジョンは、旅館に着き、大地主さんとリヴジー医師に会う。

第9章:火薬と武器
副船長のアローさんと大地主さんはうまくいっているが、スモレット船長は、すべて不満に感じている人間である。彼の意見で、火薬の置き場を移動する。

第10章:航海
副船長のアローは、自堕落で、役立たずの人間であった。ある波の強い晩に彼は消えていた。肉焼き台と呼ばれているコックは、みんなに好かれていた。また、フリント船長と呼ばれた鸚鵡(おうむ)がいた。
 大地主さんとスモレット船長は、よそよそしい関係が続いた。ヒスパニオーラ号の船員たちには、飲み物や食べ物がふるまわれていた。中部甲板に、林檎(りんご)の樽が置かれていて、誰でも食べることができた。「わたし(ジム)」は、仕事の後、甲板で、声がしたので、林檎の樽へ入った。そこで、シルヴァーの声を聞いたのであった。

第11章:林檎樽のなかで聞いた話
シルヴァーは「肝心なのは稼ぐことじゃねえ、貯めることだ。・・・ばかにゃてえしてやくにたたねえとも、それにちげえねえさ、―――金だってなんだってな。」という。分限紳士(海賊)は、一航海で、何百ポンドの金が入るが、シルヴァーは、それを使わないで、そっくり貯めておくと言う。
 シルヴァーの企みは、大地主と医者に宝島の金を見つけさせて、帰りの航海で、かれらをやっつけることだった。シルヴァーはディックを仲間に入れた。舵手(コクスン)のイズレール・ハンズがいた。
 見張りの者が「陸だぞう!」と叫んだ。

第12章:戦争会議
「船からはるか南西に、二つの低い山が二マイルばかり離れて見え、そのなかの一つの背後に、もう一つもっと高い山がそびえていて、その山頂はまだ霧に包まれていた。三つとも、とがっていて円錐(えんすい)形をしていた。」
シルヴァーは島の前方の島は、髑髏(どくろ)島と呼ばれ、海賊たちにとって大事な基地と言った。彼らは、北の方の山を前檣(ぜんしょう:フォーマスト)山と呼んでいる。また、三つの山が南の方へ一列に並んでいて、前檣山、大檣(メインマスト)山、後檣(ミズンマスト)山である。雲のかかった大檣山を海賊は遠眼鏡山と呼んでいる。
 「わたし」ジムは、スモレット船長、大地主さん(トリローニ)とリヴジー先生に、シルヴァーの企みを話した。スモレット船長は好機を捉えて、謀反人たちにうってかかることを提案する。敵方の大人は19人に対して、こちらの大人は6人であった。

第3部:わたしの海岸の冒険
第13章:どうして海岸の冒険を始めたのか
宝島を前にして、船員たちは不平不満をもつようになり、険悪になっていった。船長は、そこで、シルヴァーに船員たちの不平を解消させる機会を与える為に、水夫たちに、午後の間、上陸を許可することを提案した。
 上陸組が編成された。6人、船に留まり、シルヴァーを含めて13人が乗り込み始めた。そのとき、突然、「わたし」は、向こう見ずな考えが浮かび、上陸するボートに乗り込んだのである。そして、ボートの舳(へさき)が岸辺の樹木の間に突っ込むと、「わたし」は一本の枝をつかんでぶら下がり、いちばん近くの茂みへおどりこんだ。シルヴァーの呼ぶ声を無視して、まっすぐにひた走りに走った。

第14章:第一撃
「わたし」は、シルヴァーの話し声を聞いた。そして、彼らの話を盗み聞きすることにした。シルヴァーがトムに話している間、叫び声がした。それは、死の絶叫であった。それは、アランであった。トムは、シルヴァーたちがアランを殺したと考えた。そして、背を向けて去っていったが、シルヴァーは自分の松葉杖を投げて、その杖の先がトムの背中に刺さり、彼は倒れた。そして、シルヴァーは馬乗りになり、ナイフを二度突き刺した。
 「わたし」は、すぐ逃げることにした。恐怖で、狂気じみた疾走であった。そして、いつの間にか、あの二つの峰のある小山の麓に近づいて、森にやってきた。

第15章:島の男
「わたし」は、森の中で、怪物のように思えた男ベン・ガンに遭遇した。彼は、フリントが宝を埋めたときに、フリントの船にいたと言った。フリントは、六人の部下と宝を埋めたが、彼らを殺害した。当時、ビリー・ボーンズは副船長であり、のっぽのジョンは操舵手だった。
 ベン・ガンは、3年前、別の船に乗っていて、宝島にやってきたが、一人置き去りにされたことを述べた。
 突然、雷のような砲声が聞こえた。戦いが始まったのである。やがて、「わたし」は、英国国旗(ユニオンジャック)が森の上空に翻っているのを見た。

第4部:防禦柵
第16章:医者がつづけた物語 どうして船を捨てたか
【語り手が、ここで、ジム・ホーキンズから医者のリヴジーに変わる】
ハンターと「わたし」(イヴジー医師)は、小型端艇(ジョリボート)に乗って、上陸することにした。防禦柵のところへ行き、一つの丸い丘のほとんど頂上のところから清水が湧いていた。その泉を囲んで、堅牢な丸太小屋がつくってあった。「わたし」が気に入ったのは、泉であった。ヒスパニオーラ号の唯一の不備は、水であった。そのとき、人間の断末魔(だんまつま)の悲鳴が聞こえた。「わたし」は、ジムが殺されたと思った。二人は、スクーナー船に戻った。そして、「わたし」は、計画を船長に話した。小型端艇に武器や食料を積んだ。船に残っていたシルヴァーの手下の六人を、おとなしくさせた。荷物を丸太小屋にもっていき、「わたし」はヒスパニオーラ号に戻った。水夫のエーブラム・グレーを仲間に入れて、島に向かった。

第17章:医者がつづけた物語 小型端艇(ジョリボート)の最後の航行
不運にも、潮が引き潮になった。スクーナー船には大砲があり、その砲声があった。ボートには当たらなかったが、あおり風のせいか、ボートは沈んでいった。そして、「わたし」たちは、荷物は沈んでしまったが、無事に岸まで歩くことができた。

第18章:医者がつづけた物語 第1日目の戦闘の終り
戦いがあり、老人のレッドルースが撃たれて、亡くなる。船長が航海日誌を書いていた。そのとき、呼び声がした。ジム・ホーキンズの声であった。

第19章:ジム・ホーキンズがふたたび始めた物語 防禦柵内の守備隊
ジムはベン・ガンから離れて、防禦柵の裏手に行って、味方に歓迎された。休戦旗があがり、シルヴァーが自分でやってきた。

第20章:シルヴァーの使命
シルヴァーは、宝の海図や自分の仲間を殺さないことを条件に、ここから無事に連れ出すことを言うが、スモレット船長はそれを拒否する。

第21章:攻撃
物別れに終わった後、攻撃が始まった。敵と味方の人数の割合は、結果、9対4になった。(その後、8対4になった。)

第5部 わたしの海の冒険
第22章:どうして海の冒険を始めたか
「わたし」(ジム)は、「停泊所の東側を外海から分けている例の出洲(です)を下っていって、昨夕見かけたあの白い岩を見つけだして、ベン・ガンがボートを隠しておいたのがそこかどうかをつきとめようという」計画をたてた。そして、実行した。ベン・ガンのボート(革舟)を発見した。
 次に、夜陰に乗じて、ヒスパニオーラ号の錨綱を切って、漂流させ、船を座礁させようと考えた。

第23章:退潮(ひきしお)が流れる
錨綱が緩んだので、「わたし」は、綱を切った。船尾から垂れている一本の軽い綱をつかんで、船中を覗いた。船が20度も曲がったとき、船中から叫び声が聞こえた。「わたし」は革舟の底に寝そべり、眠ってしまった。

第24章:革舟の巡航
「わたし」が眼がさめたときは、もうすっかり夜が明けていた。宝島の南西端にあった。ホールボール岬の北の森の岬で上陸しようとした。そして、ヒスパニオーラ号を見つけた。「わたし」は、近づいて、革舟を蹴って、第二斜檣につかまった。それから、ヒスパニオーラ号が、革舟をたたきこわした。

第25章:海賊旗を引きおろす
赤帽の男が死んで横たわっていた。そして、イズレール・ハンズが青白い顔していた。「わたしは新しい司令官としての自分の地位に得意然」としていた。

第26章:イズレール・ハンズ
「わたし」とハンズの闘い。ヒスパニオーラ号は乗り上げて、甲板は45度傾いた。「わたし」は、肩のところをマストに突き刺された、そして、もっていたピストル二挺とも発射した。舵手は、海中に落ちた。

第27章:「八銀貨」
「わたし」は海から上がり、防禦柵へ帰った。しかし、「わたし」は捉えられた。シルヴァーたちが、占領していたのである

第6部:シルヴァー船長
第28章:敵の宿営で
「わたし」は、自分がこれまで、盗み聞きして、シルヴァーたちの裏をかいたことをしゃべった。シルヴァーの仲間は、「わたし」をやっつけようとするが、シルヴァーは、「わたし」をかばって、制する。「・・・わしはこの子(ジム)が好きなんだ。こんあええ子は見たことがねえ。・・・」
 水夫たちは、会議する為に、外へ出た。シルヴァーと「わたし」が残された。「おめえ(ジム)はもうすこしで殺されるかもしれねえところだ。・・・やつらはわし(シルヴァー)を排斥(へえせき)しようとしてるからな。だがな、ええか、わしはどんなことがあっても、おめえに味方してやる。・・・わしにゃあ、あめえが頼りになる男だってことがわかったんだ。わしは自分にこういったのさ。ジョン、おめえはホーキンズに味方しろ。そうすりゃあホーキンズはおめえに味方してくれるぞ。おめえはあの子の切り札だし、それから、ジョン、あの子はおめえの切り札だってこたあまちげえないしだぞ! もちつもたれつなんだよ。おめえが自分の証人を救えば、あの子はおめえの首を救ってくれるだろうよ!ってな」
そして、シルヴァーは医者が自分に海図をくれたことを話した。

第29章:ふたたび黒丸
海賊たちの会議があり、黒丸(呼び出し状)をシルヴァーに渡した。それに、シルヴァーは反論し、また、海図を彼らに見せた。そして、彼らを懐柔(かいじゅう)した(彼らを再び、自分の味方にした)。

第30章:仮釈放
医者のリヴジーが丸太小屋にやってきた。そして、治療した。そして、シルヴァーは、リヴジーと「わたし」との話をさせる。

第31章:宝さがし―――フリントの方針
宝探しの探索で、人間の骸骨が見つかる。死体はまっすぐ島の方向をさしていた。

第32章:宝探し―――木の間の声―――
前面の木立ちの真ん中から、声が聞こえた。
「死人の箱にゃ十五人―――
  よいこらさあ、それからラムが一罎(びん)と!」
海賊どもは、これが、フリントの幽霊の声だと思った。しかし、シルヴァーが不安を取り去る。
彼らは、黄金の場所に近づいた。
しかし、「わたし」たちの前には、大きな掘った穴があった。意味は明白であった。宝物の70万ポンドは奪われ、なくなっていたのだ。

第33章:首領の没落
穴をはさんで、海賊たちと「わたし」とシルヴァーが立っていた。そこへ、銃声があり、メリーは撃たれた。シルヴァーが止めの銃を撃つ。そこへ、リヴジー先生、グレーとベン・ガンがやってきた。そして、先生は、ベン・ガンの宝隠しの話をする。島に置き去りのされたベン・ガンは、宝を島の北東隅の二つ峰の山にある洞穴に運んでいたのであった。
「先生は、あの攻撃のあった日の午後に、この秘密をベン・ガンから聞きだし、また、その翌朝、停泊所に船がいなくなったのを見ると、シルヴァーのところへ出かけていって、いまではもう不要となった例の海図を彼にやり、・・・、防禦柵から二つ峰の山まで安全に移る機会を手に入れるため、なにもかも渡してしまった。」
「わたし」たちは、快艇(ギッグ)のところに着き、そして、北浦をさして海路でまわってゆこうとした。ヒスパニオーラ号に出会った。「わたし」たちは、ベン・ガンの宝蔵に近いラム入江に漕いでいった。
 洞穴に入り、大きな山のような硬貨と、四辺形に積み上げられた金の延べ棒があった。
 その夜、たのしい晩餐が行われた。

第34章:それから結末
黄金を船に積む作業が何日か続けられた。そして、船は出帆した。ヒスパニオーラ号は、ある湾内に投錨した。そのとき、シルヴァーが硬貨の袋をとって逃げた。その後、彼らはブリストルに到着した。そして、黄金を、分け合った。

2006年06月02日 (00:21)

半田広宣氏の「三つの無意識機械」に関して

半田広宣氏の「三つの無意識機械(1)」に関して

半田氏の言葉を《  》で括る。

《ドゥルーズも言ってましたが、無意識の構造は地層を持ち、多層化しているように思います。一神教の発明が「オイディプス化」の意ですが、おそらく近代自我の形成はこのオイディプス化におけるヌーメン(神霊)の力が、さらなる下部に独自の生殖領域を作り出すことによって出現してくる第三の無意識回路の生産物ではないかと考えています。ドゥルーズの言葉で言えば、末端性器、つまり資本主義機械ですね。》

この言葉は、暗示的である。「独自の生殖領域」・・・「第三の無意識回路」=「資本主義機械」。
 一神教の形成、これは、旧約聖書のモーゼと神との関係を、不連続的差異論の図式に置くと、メディア/現象境界(MP境界)になると考えられる。「ヌーメン(神霊)の力」とは、この境界におけるメディア界の力であろう。即ち、母権・女神神話の力である。(だから、旧約聖書の神は、ヤハウェとエローヒーム【神々】なのだろう。つまり、メディア界の力がエローヒームであり、現象的同一性がヤハウェなのだろう。)
 「独自の生殖領域」とは何だろうか。本来の生殖領域は、メディア界の差異共振性にあると思う。母権的なものである。イシス・オシリス的な共振結合である。(因みに、まったく誤解されたD.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の性交とは、このメディア界的共振結合を表現しているのである。ロレンスは、真正なメディア界的生殖関係を表現しているのである。『死んだ男』の暗い宇宙の薔薇とは、このメディア界宇宙・コスモスの表現と考えられる。)これが、近代自我の形成において、変質すると考えられる。「独自の生殖領域」とは、メディア/現象境界におけるメディア界と現象界との接点ではないだろうか。即ち、差異と同一性との接点ないし接合点である。共振差異「性交」が、同一性的二項対立的「性交」(暴力的な性交:例えば、バタイユの冒瀆としての性交)に転換した事態を意味しているのではないだろうか。同一性(父権制)が、差異(母権制)を支配する領域が、「独自の生殖領域」だろう。共振差異を否定する暴力的同一性の生殖である。火星(マルス、軍神)ないし白羊宮的と言えるのではないだろうか。【イエス・キリストは、双魚宮である。「愛」とは、差異の共振性、即ち、ゼロ度の差異共感性のことだろう。イエス・キリストは、正に、中間なのだ。父権制と母権制の中間である。現象界からメディア界回帰(一つの永遠回帰、聖霊主義)への過程であろう。そう、ロレンスは、「愛」という言葉を避けて、「やさしさ」と表現したのである。】
 もう少し、精緻に見ると、差異共振性という母権的性交に対して、同一性が否定・暴力的に介入する。差異共振性への同一性暴力、即ち、「サディズム」生殖領域がここに発生しているだろう。(因みに、「マゾヒズム」とは、同一性暴力を受ける差異共振性の側、母権制の側であろう。ここで、ドゥルーズが「サディズム」に対して、「マゾヒズム」を肯定評価していたことを想起する。)この「サディズム」生殖領域=「独自の生殖領域」を、近代自我はもつのである。そして、これが、「末端性器」=「資本主義機械」ということになる。つまり、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械である。これが、半田氏の叙述の説明になるだろう。
 また、ここで、toxandria氏が「ヴァルカノス」=小泉政権論を説いていることを想起する。小泉「ファシズム」政権は、正に、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械(=「新自由主義」)的であると考えられる。私は、先に、小泉政治を弁証法構造主義として、メディア/現象境界に位置づけていたが、以上の論考から、小泉政治=弁証法構造主義は、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械と一致するのである。

_________________________________

半田氏の「三つの無意識機械(2)」に関して

《■三つの無意識機械(2)

今のところ、次のような方向性で考えています。

第一機械/原始土地機械………C^2(前後に虚軸/前後のみ二本)
第二機械/専制君主機械………C^3(左右に虚軸)
第三機械/資本主義機械………C^4(上下に虚軸)

 これはゲージ対称性の拡張にともなう次元進展に同じですが、ヌース理論では虚軸が持った直交性とは「観察」と考えます。イデアは複素n次元多様体の中でこうした直交変換を重ねていくことによって、無意識の観察の進展を推し量っているのではないかと思います。ペンローズも指摘していたように、おそらく、無意識構造は極めてアルゴリズム的なんですね。骨格は極めてシンプルなものではないでしょうか。》

ここの記述から、半田氏が、何故、この論考をODA ウォッチャーズ氏に差し向けているかがわかるだろう。思うに、虚軸の問題なのである。ODA ウォッチャーズ氏は、虚軸として、i,j,kを提示しているのである。つまり、実軸とijkによるメディア界四次元を提示しているのである。半田氏は、これに沿って、この論考を展開していると思うのである。これは、直観的にとても明快な記述である。物理学や数学の素人である私にも、きわめてわかりやすいのである。そう、半田氏が述べているように、シンプルな内容なのである。これは、すばらしい記述だと思う。

《C^3の虚軸(視線)は左右から介入してきますが、C^4の虚軸は上下に貫かれるように降りてくることになります。発生論的に言えば、人間にとっての絶対的上下とは、宇宙空間と地球内部の方向に当たりますから、この無意識の視線によって、初めて地球が球体として対象化されることになります。これが近代パラダイムの骨格である地動説を誘因してきたのかもしれません。フーコーのパノプティコンを例に出すまでもなく、近代コギトの中に潜むこの高見の塔に住まう巨人の目は常に、この上空からの視線を所持しています。》

ここの記述も実に興味深いものである。第二機械/専制君主機械ならば、常識的には、上下と思うかもしれないが、左右と半田氏は述べているのである。
 とまれ、ここは微妙な事柄である。直観的には、第二機械は、上下であり、第三機械は、左右である。しかし、確かに、「近代コギト」は、「上空からの視線を所持」していると考えられる。不連続的差異論から見ると、近代的自我の二項対立は、正に、上下観念である。だから、半田氏の説明と一致するだろう。では、第二機械/専制君主機械をどう考えるべきか。半田氏の記述に即せば、Z軸が左右になることになる。そして、第四の軸(仮に、F軸としよう。the Fourth軸である)が上下となる。
 ここで歴史的に考えてみると、封建制とは、上下ヒエラルキーではないだろう。西欧では、領主が群雄割拠したのであるし、日本でも、同様だろう。江戸時代は、徳川幕府が中心とは言え、分割統治であった。つまり、多元性である。横並びである。これを取りたい。半田氏の記述を肯定しよう。第二機械/専制君主は、左右の軸である。そして、近代が、上下を形成したのである。絶対主義は、近代の始まりと言える。これは、正に、上下ヒエラルキーである。日本においては、当然、明治天皇制近代である。


《しかし、この「帝国」的視線はC^5の登場によってまもなく勢力を無くしていくことになるのではないでしょうか。C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。》

まったく同感である。C^5は、メディア界回帰=ポスト・キリスト教=聖霊主義である。確かに、ニーチェである。ニーチェ/ロレンスである。「始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まる」とは、正に、メディア界回帰である。聖霊発出である。日本で言えば、縄文回帰である。多神教への回帰である。母権神話への回帰である。イシス-オシリス、キュベレー-アッティス、ヴィーナス-アドニース、イザナミ-イザナギの回帰である。簡単に言えば、自然回帰である。自然が、都市を包摂するのである。スピノザの時代でもあろう。
 ただし、偶然と必然の問題がある。これが今や大問題である。これは、また、ホワイトヘッドの「有機体」哲学の問題に関係するだろう。思うに、これは、イデア界の展開の問題であろう。イデア界の展開は、必然であろう。そして、メディア界は、極性の世界であり、差異の偶然の領域ではないだろうか。そして、現象界は、同一性の必然性の領域ではないだろうか。コップはコップである。しかしながら、現象界の同一性的必然性に対して、メディア界の差異偶然性が存するだろう。換言すると、必然性に偶然性が内在しているだろう。スピノザ哲学は、必然性の哲学と言われているが、それは、誤謬ではないだろうか。スピノザ哲学は、メディア界の哲学であるから、偶然性の哲学のはずである。心身平行論や能動的観念とは、必然性の思想ではなく、偶然性の思想と考えることができるだろう。つまり、スピノザ哲学は、偶然性→必然性の哲学と呼ぶべきだろう。

___________________________________

半田氏の「三つの無意識機械(3,4)」について

>C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。

《対峙し合う自他の関係性が、○(視野空間)と・(他者の目)の双対(○・○・)から、○○(二つの視野空間の同一化)と・・(二組の目の同一化)へと乖離してしまうということだと思います。このへんは初期ラカンが用いたシェーマLの図式と同じです。象徴的同一化と想像的同一化の作用と解釈することができると思います。C^2で顕在化していた純粋強度の場としてのメディア界(これが不連続的差異の場だと思っているのですが……)は、これら両者の間に沈み込み、文字通り、メディア界として無意識の欲望回路となるのだと思います。対象aのことだと思います。黄金比的運動が起こっているところですね。》

ここの半田氏の応答も、明快であり、深い。象徴的同一化と想像的同一化とは、不連続的差異論では、メディア/現象境界に相当する。ラカンで言えば、現実界が、象徴界と想像界の分離するのである。おそらく、象徴界/想像界というペアで考えるべきなのだろう。現実界は、半田氏がいみじくも述べていたように、メディア界である。
 ところで、半田氏が、メディア界が不連続的差異の場ではないかと述べているが、その考えは、ODA ウォッチャーズ氏の考えと共通のものと思える。私自身は、不連続的差異の領域は、原理的には、イデア界と考えているのである。しかし、実質的には、不連続的差異の領域は、メディア界なのである。つまり、イデア界=デュナミスの発露としてのメディア界=エネルゲイアということなのである。だから、ODA ウォッチャーズ氏・半田氏の考えは実に慧眼なのである。思うに、イデア/メディア界と見るべきなのである。これが、プラトンのイデア界の考え方と一致すると思うのである。プラトンのイデア界やコーラとは、イデア/メディア界を指していると考えられる。
 また、半田氏が以前述べていた、潜在的差異と顕在的差異のことであるが、私は、初め勘違いしていたが、今やはっきりと了解できるのである。半田氏の言う潜在的差異とはイデア界のことであり、顕在的差異とはメディア界のことなのである。
 
《上に挙げた群SU(2)はパウリ行列で表現することができますが、4次元空間を虚時間と見て、虚時間を実時間に符号を換えると、SU(2)はローレンツ変換群にかわります。時間t→虚時間itはウィック変換と呼ばれていますが、おもしろいことに、あのホーキングが「無境界仮説」の中で、特異点を解消するために使用したトリッキーな数学的技法です。宇宙の始まりの前には虚時間宇宙があった。。これが実は原始土地機械なんでしょう。》

この箇所は、少々難解であるが、虚時間→実時間は、メディア/現象境界の領域の事象と見ることができると思う。正に、ローレンツ変換であろう。

「三つの無意識機械(2)」で、次のように半田氏は述べている。

《C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。》

ヌース理論と不連続的差異論は、私が最初思っていた以上に、同一の理論なのである。ヌース理論の方が、不連続的差異論よりは、成立は早いが、しかし、両者、相互補完的に見た方が、建設的だろう。つまり、ヌース理論は、不連続的差異論のメディア界の「物理学」を独創先端的に展開しているのに対して、不連続的差異論は、哲学・数学的に、ヌース理論を包摂するようにして、全体理論を表現しているのである。以前にも述べたが、不連続的差異論的ヌース理論、あるいは、不連続的差異論/ヌース理論が考えられるのである。
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プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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