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2006年06月30日 (00:29)

空間コスモス的視覚について:宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の漫画(アニメも不思議である)を見つつ

空間コスモス的視覚について:宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の漫画(アニメも不思議である)を見つつ

空間感性視覚、空間身体視覚、空間コスモス視覚、
空間一体的視覚、空間一体身体的視覚、・・・

このようなものが、空や風景や絵などを見ているときに、生じるが、これは、どういう身心構造から発生しているのだろうか。これは、いわゆる、近代主義的主客分離性はない。一体的に視覚しているのである。これは、イマジネーション的視覚認識と言えるだろう。つまり、イデア・シナジー理論によれば、メディア界的視覚、対極(双極)性・双対性的視覚である。メディア界である身心を介して、外界が、一体的に視覚されるのである。このときは、メディア界且つ現象界的視覚認識が生起していると言えるだろう。即ち、メディア界⇔現象界、あるいは、メディア《空間》⇔現象空間視覚認識である。身心視覚と呼んでもいいだろう。つまり、身心ないし身体が他者(空)と共振して視覚認識しているのである。換言すれば、コスモス的視覚認識と言える。(思うに、日本人は、この視覚感覚に、本来、富んでいるはずである。何故なら、私見では、日本語は、欧米語とは全く異質な、主客合一型言語であるからである。主語や述語が、いわば、未分化な言語だと思うのである。だから、主語や述語が不分明になりやすいと思う。)これは、鈴木大拙の、ドゥルーズ&ガタリの「離接」の概念に先んじた、概念である即非の感覚認識と言うことができるだろう。即非感覚認識である。
 私が、問題にしたいのは、この即非の《空間》ないし幾何学はどんなものであるのかということである。太極図が一つの答である。太極空間(時空間)と言えよう。あるいは、ヌース理論から双対性空間とも言えよう。この空間では、現象界の空間認識は、当然、通じない。まったく別次元である。高次元多様体である。
 ここで、糸口として、ドゥルーズ&ガタリが、内在平面と呼んでいたことを借りると、メディア空間は、平面であることになる。ここで、作業仮説すると、実軸とY軸で、イデア平面を形成するとしよう。そして、Y軸とZ軸で、メディア平面を形成するとしよう。すると、メディア平面には、イデア平面は認識されないだろう。ただ、Y軸として、イデア界は認識されるのではないだろうか。考えるに、Y軸がゼロ度軸であり、Z軸がゼロ度と無との境界軸ではないだろうか。そして、Α軸が、無軸・現象軸ではないだろうか。即非の論理は、YZ直交座標面で生起すると言えるのではないだろうか。そして、これが、太極図になるのであるが。ならば、+Yと-Yが、即非・対極性・双対性を形成するのではないだろうか。だから、Z軸は、即非・対極性・双対性の境界になるのではないだろうか。
 とまれ、YZ直交座標面を太極空間としよう。これが、上記した主客合一的コスモス視覚認識した空間なのではないだろうか。現象界は、ZΑ直交座標から見ているのだろう。ここにおいては、連続・同一性的な三次元空間ないし四次元時空間があるだけであり、YZ直交座標の太極空間は不可視なのである。ただ、身心・身体的に可視ができると思う。身心・身体が一体と可視するのだからである。言い換えると、太極空間が不可視というのは、現象界的主客分離した視覚にとってであり、メディア界的な即非・対極性・双対性的身心視覚認識をもっているときは、太極空間はなんらかの様態で可視なのだと思われるのである。純正・真正な《アーティスト》がこれを表現するのである。よく、KAISETSU氏が以前、例を出したルネ・マグリットの絵が正にそうである。あれは、即非の空間の絵画である。
 しかしながら、この、いわば、即非的可視であるが、幾何学的には、十分なものではないだろう。即非的可視が生じるが、それが、YZ座標空間とは気がつかないだろう。メディア界である太極空間とは認識しないだろう。しかし、思うに、D.H.ロレンスは、『死んだ男』で《暗い宇宙のバラ》を触覚的に可視したと言えよう。《暗い宇宙のバラ》とは、正に、太極空間、太極螺旋空間と考えられるのである。透視・千里眼的芸術家は、太極空間自体も可視すると言えよう。そう、だからこそ、父権的文明以前の母権的・巨石や青銅器文明において、螺旋形状やメビウスの輪のような形状がよく見られるのだろう。ケルトの組み紐紋様も、同じであろう。
 思うに、モダンの反復(ネオモダンやプロトモダン)によって、メディア界が再び可視化するのだろう。シュタイナーがキリスト霊が再び見られるようになると予言していたが、そのように、神秘学的に言わなくても、新プラトン・シナジー論的に、合理論的に、メディア界が再可視化すると、言えるのである。太極空間が可視化するのである。これを、神秘化やオカルト化する必要はない。合理的なのである。不連続的差異・絶対的差異への回帰によって、メディア界が開花して、太極空間・即非空間が合理論的に可視化(本当は、身心・身体感覚化、触覚的可視化である。ドゥルーズ&ガタリは、触覚的視覚、触視覚のようなことを述べていた)されるのである。それを、人智学のシュタイナーは、キリスト霊の霊視としたのである。
 ここで、キリストのことを考えると、やはり、グノーシスのイエスと考える方がいい。即非・対極性・双対性を体現したグノーシス=叡知=ソフィアの人物である。マクロコスモス=ミクロコスモスを体現した人物なのだろう。神人である。これは、梵我一如と同じである。

p.s. 近代主義、つまり、同一性近代主義(差異近代主義が、本来の近代である)は、上述の空間コスモス的視覚を排除・排斥・隠蔽しているのである。現代日本が、精神的に貧弱になったのは、このせいである。芸術が、今日、日本で死んでいるのも、このせいである。空間コスモス的身心感覚を取り戻す必要がある。これは、近似値的には、量子的と言えるだろう。しかし、量子力学は、現象界の同一性、即ち、光速度一定という物質原則に捕縛されていると思う。この殻を破ったとき、本当のメディア界=差異共振界=イデア・シナジー界が理解されるだろう。思うに、ヌース理論は、この点で、同様のように思えるのである。脱光速度、脱量子である。そう、超量子論としての、イデア・シナジー理論が誕生するだろう。ロレンスが黒い太陽dark sunと呼んだものが、イデア・シナジーだと思う。これは、シュタイナーが言うような霊でもないだろう。霊という存在は、唯物論に似ていると思う。つまり、イデア・シナジーを、同一性の種類・類型で、固定していると思うのである。つまり、唯物論が、物質の同一性を中心にしているのに対して、霊学、神秘学、オカルティズムは、観念の同一性を中心にしているのである。つまり、イデア・シナジーを、観念の同一性の枠で把捉しているのである。これは、唯物論と観念論の近代主義的二元論に拠るのであり、形式は同じである。つまり、同一性形式が同じなのである。
 心も物質も超えたものである。かつて、私は、魂と質料を一体にした、魂質という言葉を造語した。それも二元論的である。ただ、イデア・シナジーというものが様相しているのである。思うに、メディア界には、超素粒子=超精神が存しているのではないだろうか。イデアが、おそらく、無限速度・超光速で、共振しているのである。イデア共振=イデア・シナジー、これが、現象界の壁の彼岸に存する知即存在・知存在である。
 そう、イデア共振体、イデア叡知体が存するのだろう。想像を絶した、不可知の神である。ロレンスが、「見知らぬ神unknown God」と呼んでいたものだろう。イデア超叡知体である。ここの叡知がコスモスを構築・創造しているのだろう。ここでは、イデアと数学が一体であろう。正に、ピュタゴラス/プラトン哲学数学である。そう、思うに、半田氏は、これに、シャーマニズム的に、遭遇したのだろう。ちょうど、SF作家のフィリップ・K・ディックのように。
 とまれ、ここでは、イデア・シナジー=イデア共振叡知体は、量子力学を超えるものであることを、確認しておこう。超ヌース理論が必要なのである。
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