2006年07月31日 (15:10)

連続・同一性自然過程とポスト人類精神革命の理論としての不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論

連続・同一性自然過程とポスト人類精神革命の理論としての不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
Mon, July 31, 2006 14:44:30
以下は、次のブログの部分を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015284984.html
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連続・同一性(と連続・同一性中心主義)の形成を連続・同一性自然過程と、先に呼んだが、それは、当然、ファシズム・全体主義形成過程とも言えるのである。サル社会で、ボス中心のピラミッド社会が形成されるというのは、この連続・同一性自然過程の表出ではないだろうか。もし、そうなら、人間社会は、サル社会と類似していると言えよう。深く、猿の遺伝子を継承しているのではないだろうか。(では、人間の遺伝子とは何か。)
 当然、人間社会は、連続・同一性(主義)自然過程から脱却するものでなくてはならないはずである。もし、進化があるなら、その方向にあるはずである。
 不連続的差異論は、本当に画期的な、否、超革命的な、超進化(精神進化)的な、理論であると思うが(理解している人は、どれほどいるだろうか)、それは、脱連続・同一性自然過程である人類進化・生命進化に役立つだろう。(インテリジェント・デザイン論・ID理論があるが、ここでの「進化」とは、内的デザインの進展ということになろう。)そう、ポスト・「サル/人類」進化の理論である。

 p.s. 父権主義・西洋文明・近代主義、等の地球・人類に破壊的なものがどうして存在するのかという疑問に対して、この視点から答えられるように思う。おそらく、現人類は、サルと超・ポスト人類との中間の、過渡期の、架橋的生命体なのである。そのために、サル社会の連続・同一性自然過程=父権制・原ファシズム・全体主義を内包しているのである。これが、現代の桎梏なのである。このため、戦争、暴力、自然破壊、不正、不平等、等が理不尽に為されるのである。サル遺伝子、サルの遺産が、現人類を、狂気にしているのである。
 不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論は、明らかに、ポスト・人類革命の超理論である。私は、理論誕生直後、直観の狂喜・情熱のままに、
最勝超至高不連続的差異論と呼んだものである。
 耳あるものは、傾聴するといい。


参照:
サル目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E7%9B%AE

ゴリラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%A9

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本ブログの後記:

上記の仮説が正しいならば、ユダヤ/キリスト教とは何か。とりわけ、ユダヤ一神教とは何かという疑問が起こる。それは、サル人類(現人類のことである、勿論)の遺伝子の反動的発露ではないのか。超越神とは、サル人類神である。しかし、問題は、二重構造である。超越神ヤハウェとは、サルのボスと超人類の「超越性」との中間態と考えられるように思うのである。だとすれば、正に、サル人類宗教・神学である。中間神学である。反動的な面と進歩的な面があるだろう。そして、キリスト教が成立する。これも、ユダヤ教と同じく、中間的なものであるが、人間において超越性(イエス・キリストの体現した精神:本当は、仏教・プラトン主義・グノーシス主義的イエスの精神である。p.s. 後で、グノーシス主義の問題を検討したい。)を説いている点で、ユダヤ教より、進歩していると言えよう。
 このサル人類的一神教神学がベースになって、西洋文明、とりわけ、プロテスタンティズム西洋文明が成立したのである。問題は、サル的父権制が桎梏となり、全体主義的に地球・自然・人類を破滅の過程に陥れていることである。超人類の精神能力である、超越性(超越論性:差異共振性)が、反動暴力・狂気化しているのである。まったき倒錯の様態にある。
 結局、父権一神教とは、超人類進化のための、サル人類史の最終段階であると見られよう。サル人類史の終末なのである。黙示録的時代であるが、それも、いわば、ポスト黙示録的黙示録的時代である。即ち、ポスト一神教的黙示録の時代であるということである。新コスモスの新時代(新アイオーン)の開始である。
 これは、イエスの救済(イエスを救済すること)を意味するだろう。救世主を救済することになるのである。イエス・キリストは、本来、超人類、超サル人類進化の方向性を説いた人物と考えられるのであるが、それが、サル人類神学に利用されてしまったのである。そう、D.H.ロレンスが、『死んだ男』で、イエス・キリストを救済することを表明しているのである。新コスモス・超人類進化を説くポスト・イエスにイエス・キリストが変容したのである。(ロレンスは、ニーチェを進展的に継承する大天才である。文学は、20世紀後半以降、反動・停滞・衰退しているだろう。)
 付け加えると、イタリア・ルネサンスとは、超人類進化の、古代ギリシアに続く第二の烽火であったが、プロテスタンティズムの反動に隠蔽されてしまった。しかし、今や、第三の烽火として、新プラトン・シナジー理論が、決定的に、出現したと言えよう。

2006年07月30日 (20:38)

零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察

零度差異共振とは何か:差異と同一性の関係性についての考察

これは、例えば、差異(不連続的差異)1と差異2とが、零度で、共振するということであり、このとき、差異1と差異2とは接していると同時に、接していないという、相反した事象にあるのである。これは、鈴木大拙の即非の論理の事象であると言える。後に、ドゥルーズ&ガタリが、離接という概念を提起したが、同じ意味のものであると考えられる。有り体にいえば、後者は二番煎じである。
 この共振事象ないし共振シナジー事象は、きわめて、不思議なものである。現象界の二項対立的論理を超越した論理である。差異1=差異2、且つ、差異1≠差異2である。イデア界からの順序に即せば、差異1≠差異2、且つ、差異1=差異2である。換言すると、差異1=非差異1である。A=~Aである。これが、差異共振事象の本性・実体であり、差異共立とも呼んでいいのであるが、イデア界の差異共立と混同してはいけない。後者においては、零度共振はなく、境界に隔てられた絶対的差異の共立があるだけである。混乱を避けるために、イデア界の差異事象を、差異分立と呼んでもいいだろう。
 さて、差異共振事象であるが、一方、即ち、差異共振界(=メディア界)のイデア極においては、差異分立性があり、他方、現象極には、差異連続・同一性(明快にするため、差異同一性と呼びたい)があると言えよう。だから、差異共振界(略して、差共界)では、差異分立性と差異同一性との矛盾事象が生起していると換言できる。前者を特異性・単独性と呼ぶことができるし、後者は単に同一性と呼ぶことができるだろう。特異性と同一性との矛盾共立が生起しているのである。因みに、ドゥルーズ哲学は、この矛盾共立を直接反映した哲学であると言えるのである。即ち、特異性としての差異と微分としての差異とを含んだ差異哲学なのである。しかし、これまで、言い尽くしたように、両者を混同しているのである。この混同が、差共界の矛盾共立・矛盾同一の直接的反映を意味しよう。わかりやすく言えば、差共界の矛盾同一事象に没入しているのが、ドゥルーズ差異哲学であると言えよう。没入しているので、自身が揺れ動いているのが、自覚できないのである。そのために、差共界の、謂わば、自然過程に陥っているのである。即ち、連続・同一性過程である。【ここで、想起したのであるが、ヌース理論は、正に、「精神」の連続・同一性化の理論なのであるが、差共界のもつ連続・同一性自然過程に没入しているのではないかと思ったのである。おそらく、そうであろう。素朴な差共界の様態は、連続・同一性への自然過程であると考えられる。そして、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」であるが、これもこの事象を説いていると考えられる。】
 ということで、差共界について、整理する必要があるだろう。不連続的差異論は、差異の根本・基本的な不連続性を発見した、ないし、仮説するものであり、差異の不連続化によって、不連続的差異の共立するイデア界が発見できたと考えられるのである。それまでは、差共界の自然過程のままに、連続・同一性に拘束されていたのであり、反動化が免れなかったのである。差異の不連続化、即ち、差共界の不連続化によって、この連続・同一性化=反動化の拘束から脱却できたと言えるのである。(言い換えると、真の社会革命が可能になったのである。)連続・同一性の束縛を切断したのである。即ち、不連続的差異の共立するイデア界に回帰することにより、差共界の連続・同一性の桎梏・束縛・拘束・規定・構造(カントの超越論的形式)を解体・破壊・解消して、差共界を変容したと言えるのである。差共界の変容とは、何か。不連続的差異化、イデア界への回帰による差共界の変容とは何か。それは、連続・同一性自然過程を解体・脱構造化したことである。それは、また、連続・同一性である自我の解体・破壊・脱構造化と言えるだろう。自我が、とりわけ、近代自我が、仮象・仮構であることを明らかにしたのである。「わたし」とは、自我ではなくて、差異・特異性であること、そして、根本的には、不連続的差異、絶対的差異であることが、判明したと言えよう。自我が、差異・不連続的差異に還元されたのである。イデア界に回帰したのである。
 その結果の差共界の変容とは何か。連続・同一性化が解体されて、今や自我が消滅したのではないだろうか。つまり、連続・同一性過程において、自我、とりわけ、近代自我が成立するのであるが、連続・同一性過程が解体されたとなると、差共界は、もはや、連続・同一性過程を形成しなくなるのである。即ち、連続・同一性自然過程から解放された差共界の成立・形成・創造である。これが、差共界の変容・変成である。連続・同一性の現象界からの解放である。連続・同一性の「力」からの解放である。そして、差異共振シナジー・エネルギーの解放であろう。差異共振エネルギーが、これまで、連続・同一性を形成する「力」になっていたのだが、それが、それから解放されて、純粋な差異共振シナジー・エネルギーとなるということである。完全な零度共振が可能になるということだろう。即非論理の貫徹がここに発生すると言えよう。差異共振シナジー世界が、いわば、現象化すると言えるだろう。
 では、不連続的差異化以前において、連続・同一性自然過程の「力」とはいったい何なのであろうか。私の直観では、捩れを感じさせるのである。差異否定の「力」である。連続・同一性の極において、おそらく、言語化が発生するのである。そして、連続・同一性が、謂わば、固定・固着・凝固するのである(連続・同一性中心主義の成立)。この連続・同一性極の言語的石化によって、連続・同一性中心主義=自我中心主義が発生すると言えるだろう。そして、これが、差異・他者を否定・抑圧・排除・排斥・排出・隠蔽すると考えられるのである。暴力の誕生である。父権制暴力の誕生である。戦争の誕生である。帝国主義の誕生である。(そして、現代、西洋文明として、この父権的暴力の帰結を迎えているのである。)結局、連続・同一性自然過程の「力」とは、連続・同一性のエネルギーの言語的固定であった。
 では、不連続的差異論/差異共振シナジー理論(新プラトン・シナジー理論)によって、純粋な差異共振シナジー・エネルギーが解放されることは何を意味するのか。当然、帝国主義の解体、国家主義の解体、自我中心主義の解体、等である。一つの人類史、父権的人類史の終焉である。ポスト人類史、ポスト父権的人類史、ポスト西洋文明である。当然、ポスト一神教である。ポスト資本主義である。新コスモス文明への駆動と言えよう。そう、純粋・純正差異零度共振シナジー・エネルギーとは、新コスモス・エネルギーと言えよう。

2006年07月29日 (16:44)

精神=差異共振世界という《現実》と自我について:並びに、差異零度共振シナジー界の科学へ向けて

精神=差異共振世界という《現実》と自我について:並びに、差異零度共振シナジー界の科学へ向けて
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
不連続的差異論は、今では、NEW PLATONIC SYNERGY THEORY、即ち、新プラトン・シナジー理論に発展している。略して、プラトン・シナジー理論ないしイデア・シナジー理論と呼ぶことが出来るだろう。この発展ないし進展の意味は、簡単に言えば、不連続的差異論において、メディア界が、現象・実際的に、重要な意味をもつようになり、それを深化されるということである。
 さて、本件について、不連続的差異論から考えてみるとわかりやすい。イデア界の根源的発動があり、それが、差異共振的共立のメディア界を形成する。(イデア界においては、差異共立はあるが、差異共振はない。この相違は、根本的原理の一つを意味する。)
 このメディア界が、連続・同一性化して、現象界を形成するのである。メディア界と現象界の境界に、連続・同一性の構造があると考えられる。これは、連続的差異=微分の領域であり、カントの超越論的形式の領域とも考えられる。そして、私見では、連続・同一性に言語形式が介入して、連続・同一性中心主義=自我が発生していると考えられる。そう、近代合理主義・近代自我は、ここに関係していると考えられる。
 この点は、微妙なので、精緻に言うならば、メディア/現象境界において、差異と同一性との争闘・弁証法が発生しているのである。近代意識は、この争闘の表出である。(また、近代における優れた芸術家や思想家は、ここにおいて、差異を同一性より強調している非凡さをもっている。ドイツの大詩人ヘルダーリン【正しい発音は、ヘルダリンである。】が正にそうである。)しかし、近代合理主義は、同一性が差異を否定・排除した自我様態であり、ここから、近代科学・技術が発展したと言えるのである。
 ここで、簡単に、空間・次元意識について触れると、遠近法の発達とは、メディア/現象境界においてであろう。この境界において、同一性が、差異を同一性空間に布置していくのだろう。絵画では、フェルメールが代表的と言えよう。しかし、近代合理主義、近代唯物自然科学・技術・資本主義経済は、この両義的境界領域を、同一性中心主義へと変換するのである。即ち、現象界を物質界へと変換すると言えよう。(だから、思うに、現象界とは別に物質界を提起した方がいいのかもしれない。即ち、1.イデア界/2.メディア界/3.現象界/4.物質界
である。しかし、この場合、現象界は、これまでの、メディア/現象境界となるから、このようにする必要なない。)この同一性中心主義の物質界は、空間を三次元として、それに時間の一次元をもつ時空四次元の空間をもっている(相対性理論)。(現象界=物質界とは、メディア/現象境界の差異を同一性が否定して発生したものと言える。だから、現象界=物質界とは、現象物質界と呼んだ方が適切だろう。近代主義は、現象物質界の合理主義化である。)この時空四次元であるが、これは、現象物質界の時空間ということであり、差異が否定・排除されているのである。しかし、差異は、差異共振界は実在しているのである。その証拠が、光速度一定の公理であると考えられる。差異共振シナジーという実在事象を、現象物質界の視点から見ると、光速度一定となると考えられるのである。つまり、差異共振シナジーとは絶対事象であり、観測点に規定されていないということであろう。これは、差異共振シナジーという時空一体事象があると考えることで理解されるだろう。(この時空一体事象を、近代主義は、空間と時間に分離して、時空四次元としていると思われるのである。)つまり、差異共振シナジー事象とは、零度共振事象であり、同一性現象の根源、即ち、原現象であるのであり、同一性現象における時空分離・時空四次元とは、同一性物質の間の空間をもち、また、空間における移動による時間が発生しているということであるが、その真実在は、差異零度共振シナジー事象である時空一体事象であるということであろう。言い換えると、現象物質界において、同一性=物質による空間配置と時間経過が発現(仮現)しているのである。同一性現象(=物質仮象)が、時空間四次元の仮現であり、真実在は、時空一体事象である差異零度共振シナジー事象である。より正確に言うならば、時空一体ということは、不正確である。なぜなら、時間、空間がそこには存在していないからである。差異共振シナジー事象における「間主観性」があるが、そこでは、たとえば、差異1と差異2とは、一体であるが、同時に、分離しているのである。差異1と差異2との一体性とは、結局、原・同一性、原・連続・同一性のことではないだろうか。あるいは、原・差異=微分のことではないだろうか。原・微分事象がそこにはあるのだろう。原・同一性を点とすれば、原・同一性の一体性・集合体が、原・空間になり、そして、原・空間における「光」の移動が原・時間となるのではないだろうか。即ち、差異共振シナジー事象における、差異の一体と分離という即非の世界(メディア界)において、前者の差異一体において、原・同一性による原・空間と原・時間との原・時空間が発生していると言えるだろう。ここに、発生している共振エネルギーを「光」と記したが、正しくは、原・光であろう。これが、現象界ないし現象物質界において、光となるのである。
 そうならば、差異の分離における共振シナジー・エネルギーはどう考えるべきだろうか。これまで、共振シナジー・エネルギーを原光としてきたが、より精緻化すると、《闇》であろう。即ち、差異零度共振シナジー界(=メディア界)は、差異一体と差異分離との即非世界であるが、差異一体においては、原・光が発生し、差異分離においては、《闇》が発生していると言えるのではないだろうか。
 では、差異分離の《闇》とは何だろうか。留意すべきは、差異零度共振シナジー・エネルギー事象における差異分離の《闇》ということであり、共振シナジー事象から独立させては考えられないものである。即非の世界を前提とした分離である。だから、差異一体の原・光に対応させて、原・闇とすべきだろう。即ち、原・闇/原・光の太極・対極性の世界を考えることが出来るだろう。簡単に言えば、陰陽界でいいことになるが。
 さて、ここで、量子力学について考えたいが、その前に、簡単に確認しておくと、相対性理論とは、差異零度共振シナジー・エネルギー事象の半面の原・光の事象を、現象界・現象物質界から、光速度一定の公理として、把捉したものと言えよう。つまり、差異共振事象(共振事象ないしシナジー事象と呼ぼう)の「光」の側面を把捉したものであろう。そうならば、もう半面の「闇」の側面を捉えていないということである。
 そこで、量子力学について考察すると、粒子と波動の相補性、あるいは、非局所性の概念、等を見ると、明らかに、共振事象を現象物質界から把捉しようとしているのである。波動性は、共振から説明できる。粒子ないし素粒子であるが、それは、ここでの作業仮説であるが、差異分離の差異の反映ではないだろうか。即ち、原・闇=「闇」の、現象物質界的反映ではないだろうか。つまり、差異・イデア(原イデア)を、現象物質主義の視点から、粒子物質・素粒子物質として把捉しているのように考えられるのである。だから、非局所性の概念が発生するのだろう。確かに、非局所性ではあるのだが、ミスリーディングである。なぜなら、非局所性と言ったとき、局所性とのコントラストで考えられているからである。両者を同レベルで考えているのである。これが、誤りと考えられるのである。つまり、差異分離事象の差異・イデアとは、いわば、超越界にあり、局所性の有無が問題にならない世界にあるからである。言わば、存在以前の問題に対して、存在の有無を問題にしているのというようなものである。カテゴリー・エラーである。
 ということで、粒子・素粒子とは、作業仮説的に言えば、物質ではないのである。それは、差異・イデアの反映であるということになる。デリダ的に言えば、差異・イデアの痕跡である。だから、粒子/波動の相補性は、混濁した、不整合な概念であると考えられるのである。ただし、原・光の側面(象面という言葉を造語したいが)で見れば、粒子/波動の相補性は、仮象的に考えられるのであるが。
 とまれ、素粒子を物質として見ている限り、自然は捉えられないだろう。唯物的自然観の限界がここに露呈していると考えられる。素粒子を、差異・イデアの痕跡と見なくてはならない。だから、ポスト・量子力学、イデア・シナジー・ダイナミクスを提起しなくてはならない。量子力学は、簡単に言えば、原・闇=「闇」を、原・光=「光」から捉えようとしているのである。つまり、E=mc^2から捉えようとしているのである。つまり、共振事象の半面しか見ていないと言えるだろう。原・闇=「闇」の痕跡である素粒子=原光=「光」しか捉えていないのである。ダークエネルギーとは、この看過されたものを指しているだろう。(思うに、原・闇のエネルギー=「ダークエネルギー」とは、イデア界のエネルギー=元エネルギーに関係しているというか、それではないかと推測されるのである。)
 では、この看過されたエネルギー(取り合えず、陰エネルギーと呼ぼう)は、どのように数式化されるだろうか。これを、D(Darkの略)とすると、作業仮説で、Y軸の1/4回転によって、Z軸が生じるとして、このZ軸を光軸とするならば、D×i=mc^2 であるから、
D=mc^2/i となる。だから、虚数エネルギーである。推測するに、これは、虚次元・虚軸・Y軸の世界の問題である。思うに、Z軸は、i×i(又は、i×j)=−1で、実数・実軸の世界だろう。
 さらに展開して考えると、共振シナジー界(略して、共振界)は、Y軸とZ軸の形成するYZ平面にあるということになるのではないだろうか。現象界からは、この平面やY軸が不可視である。20世紀初期に流行した四次元思想であるが、それは、ここを指しているだろう。空間三次元に対しての、虚軸ないし虚空間の第四次元である。空間・次元の問題に関しては、別稿で検討したい。

2006年07月28日 (19:06)

ヌース理論の連続・同一性主義批判:ヌース理論の「位置の等化」概念を批判する

半田広宣氏の『2013:人類が神を見る日』を読んでいるが、「位置の等化」(p.202~p.203)に疑問をもった。そこの記述から見ると、主体と対象とを「等化」するということだが、これでは、完全な同一性化である。主体と対象の差異を否定して、同一性にしているのである。ここで、ヌース理論は、完全な連続・同一性中心主義、即ち、ファシズム・全体主義になっていると言えよう。たいへん、危険な理論である。これは、個を否定する理論であり、オウム真理教に近くなると言えよう。とまれ、理論的には、ポスト・モダン以前である。そう、ヘーゲル哲学と同じである。だから、ヌース理論は、時代錯誤で、危険な理論であると言えるのである。 自然科学の衣を、いちおう、まとっているが、哲学的には、古臭く、たいへん危険なものである。

 ヌース理論は、現代のシャーマニズムに入れることができると思うが、問題は、半田氏の意識の媒介である。もし、オコツトと呼ばれる知的存在が、正しい理論を半田氏に伝えたとしても、半田氏の意識が媒介となっているので、そこには、連続・同一性が入りうるのである。不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界には、連続・同一性の構造があるのであり、意識は、通常それに規定されていると考えられるのであり、半田氏の場合も例外ではないと考えられるのである。また、半田氏が、ドゥルーズ哲学の差異=微分論に注目して、特異性論に注目していないのを見ると、これが、信憑性をもつことになるのである。なぜなら、差異=微分論とは、まさに、連続・同一性の理論であるからである。

 ということで、ヌース理論は、半田氏の意識の連続・同一性が無意識に侵入していると考えられるのである。結局、オコツトが純正な理論を伝えてきたと想定しても、半田氏の連続・同一性のバイアスによって、原理論が、歪曲されてしまっていると言えるだろう。

 とまれ、差異が否定され、連続・同一性が明確に説かれているので、ヌース理論は、誤謬・錯誤の理論であると言えるのである。私としては、不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論に立って、再構築することを期待するのである。今のままでは、ヘーゲル哲学と量子力学との結合のフィクション的な似非仮説に過ぎないし、また、人を幻惑する妄想的似非仮説になっていて、邪悪な面もあるのである。

 読んでいると、たいへん魅力的である。おそらく、ある本質の領域に触れてはいるので、そうなのであるが、それが、誤って、連続・同一性化されていると思うのである。半田氏には、ヌース理論を徹底的に不連続的差異化することを、期待したい。そうでないと、理論としては、通用しないのである。また、倫理的には、人を誤誘導するので、悪徳的である。

2006年07月27日 (18:12)

外観と精神:感覚と精神の関係

外観と精神:感覚と精神の関係
テーマ:哲学
外観から、ある程度、その人の性格がわかるだろう。私は、ある顔写真を見て、直観的に、この人物は、胡散臭い、ペテン師だと感じたが、実物と接して、やはり、そうであった。もちろん、すべてわかるというわけではないが、外観、とりわけ、顔には、その人の性格が現われやすいだろう。そう、風貌、顔貌という言葉があるのである。これは、このことを言っているのである。
 これは、どういうことかと言えば、外観に、内的精神の力が現れるということだろう。しかし、注意すべきは、表情でも、作った表情と、真率な表情との違いである。あるいは、表面・皮相な表情と、真相の表情である。
 思うに、自己に精神を意識していない限り、この区別がつかないだろう。そう、声音でも、ゴマカシの言葉かどうかはわかるものである。これも同様である。
 すると、感覚と精神とが、それなりにつながっているのがわかる。これは、バッハ音楽私見と共通するだろう。根源に、精神感覚・精神身体があるのであり、これが、発露するのである。いわゆる、感性というのは、この精神感覚・精神身体のことだろう。
 大事なのは、精神を霊と混同しないことだ。だから、聖霊とは、聖精神である。地霊も、地精神である。また、アニミズムもシャーマニズムも、万物の精神の問題である。そう、神も精神である。精神という言葉は、実に的確、正確だろう。魂という語も、精神で表現できるだろう。宗教は、精神知性となるべきだろう。
 とまれ、外観には、精神身体が内在しているということになる。
 では、外観美、視覚美とはなにか。それは、精神身体とどう関係するのだろうか。精神身体の美がある。それとは別に、外観美、視覚美がある。そう、現象美である。例えば、自然美がある。これは、否定できない。しかし、ここには、精神美がないのだろうか。紺碧の空には、谷川俊太郎の詩にあるように、単に自然美というよりは、精神美があるだろう。これは、我々の精神を空に投影しているのではないだろう。つまり、自然精神があることになる。思うに、西洋はこれを認めようとしないのである。スピノザ哲学(神即自然)が、どんなに異端視されたことか。思うに、自然精神とは、差異共振シナジー、あるいは、差異共振性と言うべきなのだろう。(この点を、後で検討したい。)
 微妙なところである。現象美は、精神美と重なるのである。しかし、正確に言えば、即非関係だろう。現象美即非精神美であろう。これを一致させているのが、一般に、女性であろう。男性は、言語観念中心主義から、現象美からは、引いているだろう。芸術で言えば、モーツァルトやフェルメールである。しかし、そこには、調和があるだろう。これが、精神美である。
 しかし、精神美と黄金分割(黄金比)はどう関係するだろうか。(これは、後で検討したい。)
 そう、コスモスという言葉の語源を考えるといいだろう。それは、宇宙であり、秩序であり、美である。化粧(cosmetic)の語源である。自然美=精神美=コスモスということになるだろう。そして、現代は、これの喪失した時代である。現象ではなくて、同一性中心主義になっているのである。拝金主義であり、戦争であり、狂気である。即ち、醜悪な時代なのである。

2006年07月25日 (19:57)

差異共振シナジー・宇宙(コスモス)について:人類史の終焉と超宇宙神時代

現代の自然科学・工学技術は、唯物主義に基づいている。すなわち、現象は、物質であると考えているのである。そして、精神や生命等を、物質から説明しようとしている。たとえば、遺伝子は、DNAに集合体であるゲノムに存すると考えているし、また、精神現象を、脳の物質現象として、捉えようとしている。《ヌース理論は、精神を、量子現象として、捉えようとしている。量子は、霊と等価になるだろう。なぜなら、霊とは、精神を、連続・同一形式によって捉えたものだからであり、量子とは、イデア・シナジー(差異共振シナジー)=精神を連続・同一性形式で捉えたものと考えられるから、霊=量子となるのである。中沢新一の霊的唯物論と一致すると言えよう。》
 しかし、唯物論的自然科学・工学技術とは、カント哲学が明らかにしたように、超越論的形式=主観性に規定されているのであり、いわゆる、物自体、言い換えられば、自然自体を把捉していない、主観形式に限定された世界観である。近代主義的自然観である。
 これに対して、プラトニック・シナジー理論は、不連続的差異論をベースにした、新たなイデア論であり、イデア論的科学(イデア・シナジー・サイエンス)、イデア論的技術(イデア・シナジー・テクノロジー)、その他を目指していると言えよう。これによれば、現象は、イデア・シナジーの発現ないし仮象である。すなわち、差異イデア共振シナジー現象である。つまり、現象は、イデア共振シナジーが本体であるということであり、物質とは、イデア共振シナジー現象の同一性化であると言えるのである。換言すると、物質主義的自然科学は、イデア共振シナジー現象の同一性的表面のみを捉えているのであり、差異的本体を捉えていないということができるのである。すなわち、イデア的真実在を捉えていないということである。正に、表層・皮相科学である。
 これは、端的に言うと、どういうことであろうか。それは、差異共振シナジーという事象事実を取り逃がしているということである。より明快に言えば、差異共振という事象事実を看過しているということである。より平明に言えば、差異調和という事象によって、全宇宙が成り立っているという事実を見逃しているということである。差異のハーモニーによって、全宇宙は成立しているという事象事実の見落としである。これが、全宇宙の真実・真相・真理である。(華厳経は正しいのである。また、欧州の古代・中世の知の伝統における、コズミック・ハーモニーの思想(宇宙的調和観)は、正しいのである。)
 これは何を意味しているのか。差異共振調和を否定する現代の人類の社会は、宇宙の根本的法則を踏みにじっている、違反している、否定しているということである。そう、今や、地球世界は全宇宙のガン細胞となっていると言えよう。全宇宙・コスモスの調和を乱す地球・人類の存在は、全宇宙にとり、ゆゆしきものであろう。宇宙・コスモスの真理に違反して、宇宙・コスモスを阻害していると言えよう。
 もう少し、詳しく見ると、差異共振エネルギーが本体としてあり、それが現象しているのであるから、現象の本体・真実在は、差異共振エネルギーないし差異共振シナジー・エネルギーである。しかし、今日・現代の地球・人類の意識・生活様態は、差異共振シナジー・エネルギーを否定・排除・排出・隠蔽するものである。すなわち、自然破壊のような外的な破壊以外に、内的な破壊が行われているのである。内的エネルギーの枯渇が、人類に起こっているのである。当然、精神・肉体の病気になるだろうし、また、創造も枯渇するのであるし、戦争が、常態となるだろう。つまり、人類壊死である。古木に栄養が行き渡らなくなるような事態になっているのである。栄養源に対して自閉しているのである。そう、地球人類衰退・滅亡の過程になっていると言えるのである。そして、差異共振シナジー・エネルギーを新たに導入するポスト人類・超人類が、出現しつつあると思えるのである。
 そして、経済的には、ポスト資本主義として、差異共振シナジー経済が生まれるだろう。差異共振シナジー宇宙・コスモスに接続するスーパー・エポックとなったと言えよう。人類史の終焉・終末である。
新アポカリプスである。新コスモスの超時代である。スピノザ/カント/ヘルダーリン/フッサール/D. H. ロレンスの時代である。ポスト・キリスト教/大乗仏教&コスモス・ルネサンスである。差異共振シナジー・コスモスのエネルギーが参入する超時代である。大宇宙・超宇宙ルネサンスである。差異共振シナジー宇宙が、今や、顕現するのである。
超宇宙神の時代である。

2006年07月24日 (23:11)

思考実験:四次元、五次元、五芒星、そして、ピラミッド

思考実験:四次元、五次元、五芒星、そして、ピラミッド
テーマ:思考実験
+X軸から1/4回転して、+Y軸へ、そして、それが、垂直化して、+Z軸へと転化する。さらに、1/4回転であるが、最初、第四軸として、F軸を考えたが、先に、−Y軸をF軸にした。
 そして、−Y軸を垂直に下方化して、−Z軸とする。そして、この−Z軸が、+Y軸と転化する。これで、主観は、+Y軸・差異共振軸を見ていることになる。すなわち、コスモスを知覚していることになる。
 では、コスモス現象は、何次元になるのだろうか。−Y軸が第四次元ならば、そして、−Z軸を第五次元とするならば、+Y軸は、第六次元ではないだろうか。しかし、+Y軸は既に形成しているから、全体では、五次元空間(時空間)ではないだろうか。コスモス(差異共振シナジー宇宙)とは、五次元宇宙ということになる。
 とまれ、私が問題にしたいのは、この五である。五芒星(ペンタクル、ペンタグラム)と関係がありそうであるし、また、単純に、YZ直交軸の正方形の四つの頂点と、X軸の点に結んで、ピラミッドが二個できることに注目したい。同様に、XY直交軸の正方形の四つの頂点と、Z軸の点でも、ピラミッドが二個できる。さらに、XZ直交軸とY軸の点で、ピラミッドが二個できる。だから、2×3=6個のピラミッドができる。
 今は、勘で言うしかないないが、コスモス(共振宇宙)とピラミッドが深く関係している。エジプトのピラミッドは、いわば、ピラミッド・コスモスを意味しているのはないだろうか。そして、五次元と五芒星が関係している。類推すれば、プラトン立体もここと関係するように思える。また、自然の形象・原型もこれに関係しそうである。雪の結晶、花の形、等々。当然、恒星や惑星の球体も関係しよう。そして、対性や五本の指等も説明できるだろう。(因みに、英語では、指fingersは四本で、親指は thumbで、fingerではない。)そう、人体であるが、ダヴィンチの人体図を想起する。円に内接する人体図である。これも、五芒星(ペンタクル、ペンタグラム)だ。こうなると、隠秘学(オカルティズム)が、馬鹿にできなくなる。もっとも、それは、正しくは、イデア科学である。イデア・サイエンスという分野が生まれなくてはならないだろう。プラトン・シナジー理論は、そのようなものを目指していると言えよう。
 今日のところは、ここでとどめたい。

2006年07月24日 (15:09)

思考実験:次元と軸空間 1

この問題は、おそらく、最も難解なものだろう。だから、思考実験を、反復することになるのである。いろいろなアイデアが浮かんでくるので、それを、記していきたい。

1)共振軸・Y軸の問題であるが、現代の共振性が隠蔽された意識を考えると、マイナスY軸が、物質軸ではないかと思ったりする。つまり、F軸(第四軸)が、マイナスY軸ではないかと。そうすると、X軸→+Y軸(共振軸)→Z軸(連続軸)→F軸=−Y軸(物質軸)となるが。簡単に言うと、
XZ−Y三次元空間(四次元時空間)である。でも、これはおかしいだろう。

p.s. おかしいと述べたが、展開の可能性はないことはない。−Y軸の−方向を前方とし、Z軸を上下方向、X軸を左右方向と考えられないことはないだろう。ここで、ヌース理論を想起する。他者と背中合わせになっていると説いている。確かに、+Y軸方向を共振軸とすれば、振り向けば、他者との共振シナジー・コスモスの方向になるだろう。180度回転、1/2回転である。+Y軸が光の方向とすれば、−Y軸は、原光の方向である。黒い太陽の方向である。
 私は、上下と前後は交換可能であると言ったが、それを適用すれば、下方・−Z軸方向は、+Y軸と通じることになるだろう。つまり、共振軸とは、現象界において、下方・−Z軸方向にあるということになるだろう。つまり、人間個体で言えば、身体に共振軸があるということになろうし、空間で言えば、地、地球、大地の方向、鉛直線方向に、共振軸があることになるだろう。(このまま、発想を展開することにする。)
 ここで、ケルト神話の世界空間構造を想起する。ケルト神話では、他界・あの世(女人の島)は、海の彼方にあり、同時に、地下にあるのである。そう、ここで、また、ルイス・キャロルのアリスの物語を想起するのである。『不思議の国のアリスの冒険』は、ウサギの穴に落ちて、展開する地下の国の物語であるし、『鏡の国のアリス』は、鏡の向こう側の話である。鏡の方向をY軸とすれば、鏡の向こう側とは、−Y軸となろう。因みに、ルイス・キャロルには、ケルトの血が流れてないことはない。祖先は、北アイルランドの出身であったはずである。(ついでに言えば、イギリス文学ないし英文学と呼ばれているものは、私見では、ケルト・ブリテン文学と呼ぶべきだと思っている。一流の作家は、たいがい、ケルトの血が関係しているのである。)
 ということで、このアイデアは生かしておきたい。しかし、ヌース理論で言う、自己と他者との背中合わせという概念は、批判したい。両者には、差異があるのである。境界があると思うのである。単純に言えば、原点(0,0,0)が、境界になっていると考えられるのである。
 とまれ、結局、共振軸を発見するには、現象界的には、下方・−Z軸方向・身体・大地・鉛直線の方向に、視線・意識・知覚・認識・知性・思考を向けなくてはならない。東洋身体論の臍下丹田論は、その点、きわめて本質的なものであると言えよう。東方キリスト教で、臍を見る瞑想法(p.s.
ヘシュカスムである。
http://www.mesogeia.net/orthodox/hesychasm.html
)があったと思うが、それは、正しいだろう。そう、ヨガも基本的には正しいだろう。道教も正しいことになるだろう。知的に測深することで、共振軸を発見するのである。
 ヌース理論は、双対性という概念を説いているが、確かに、そのような感じがある。しかし、対極性ないし太極性という用語で、十分ではないだろうか。Y軸・虚軸の太極・対極・陰陽相補性があるのである。簡単に言えば、+Y軸が、差異共振軸で、−Y軸が同一性軸である。(Z軸を連続軸としよう。)
 整理すると、

X軸・実軸=不連続的差異軸・原軸・玄軸・イデア軸・・・左右方向

+Y軸・虚軸=差異共振シナジー軸(共振軸)・零度軸・メディア軸・・・後方

−Y軸・虚軸=同一性中心軸(言語形式軸)・物質軸・・・前方

Z軸・虚軸=連続軸・現象軸・・・上下方向

となる。但し、上下と前後は、入れ換え可能である。鏡を見るとは、極めて、象徴的な行為と言えよう。鏡がご神体というのもわかる。鏡は、共振軸・他者・差異を映す手段・道具である。文学で、鏡(リアリズム)とランプ(ロマン主義)が問題になったが、思うに、両者は、同一である。鏡は、ランプを映すのである。
 さらにつけ加えると、日本の笑劇的悲劇の原因は、+Y軸のまったき喪失に拠ると言えよう。また、近代主義は、一般に共振軸の喪失であるが。

 身体大地に回帰せよ!
 身体地下に潜入せよ!
 身体共振軸へ向かえ!
 エデンの楽園・常世・女人の国はそこにある。
 楽園回帰!
 パラダイス回帰!
 浄土回帰!
 仏国土回帰!
 神の国は、地下身体にある!
 差異身体、差異共振身体への回帰!


参考:
「図説 ケルトの歴史」鶴岡 真弓,村松 一男 河出書房新社
keruto.jpgこれは私がいままで読んだ本の中で一番バランス良く、且つ網羅的に書かれたケルトの本でした。もっとも私の場合は、ケルト自体をメインにした本ってあまり読んだことがなく、他の本を読んでいてその解説の過程でケルト神話にも触れられているという場合がほとんどだったという理由もあるんですけどね。とにかくこの本を読んで表面的であるにせよ、ケルトの事(ケルトの魅力)が少し分かったような気がします。漠然と妖精とか聖杯、アーサー王、ドルイド教などに関心がある方、まずはこの本を読む事をお薦めします。ケルト十字やケルズの書、ブランの航海とかの名称にピンと来た方にも読んでおいて無駄にならない本です。
http://library666.seesaa.net/article/11476090.html#trackback
叡智の禁書図書館
2)先に、イデア軸・メディア軸・現象軸・物質軸の四次元を考えた。X軸・Y軸・Z軸・F軸四次元空間である。

3)共振軸を排除・隠蔽している現代、この反動が、狂気となって、現代人を襲っていると言えるのではないだろうか。この点は、前に、何度も述べた。一種精神病である。近代主義狂気である。小泉首相が一つの典型であろう。
p.s. 共振軸を排除・隠蔽するとは、具体的にどういうことだろうか。後で、検討。

4)軸空間に、方向性を与えようとすると、わからなくなる。即ち、前後、左右、上下の方向性である。
 ここで、経験を言うと、夜、車で走行すると、前方が、下方のような感じがする。穴に落ちていくような感じである。これを基にすれば、上下と前後は、交換できるのである。左右は、また独特だと思う。
 とまれ、例えば、Z軸を上下方向と仮定すると、前後方向は、何軸なのか。また、左右方向は? 左右方向は、X軸か、Y軸だろう。とりあえず、X軸を左右方向としよう。Z軸が上下ならば、前後は、Y軸か、F軸である。しかし、上下と前後が交換できることを考えると、Y軸ではないだろう。F軸ではないだろうか。すると、

X軸:左右
Z軸:上下
F軸:前後
Y軸:?

Y軸は何になるのだろうか。これは、これまでの考えによれば、共振軸・コスモス軸・メディア軸である。これは、いわば、左右・上下・前後を融合している軸だろう。点、円、球面、等になったりするのではないだろうか。
 思うに、Y軸が、超越軸(正確に言えば、超越論軸)のように思える。Y軸が、X軸・Z軸・F軸と連関して、YX平面、YZ平面、YF平面において、円が形成されるのではないだろか。三つの円(三つ輪)である。そして、三つの円から、超球体ができるのではないだろうか。つまり、四次元球体である。言わば、無限時空体ではないだろうか。これは、イデア界よりも、「実体」的な、永遠回帰的無限時空体ではないだろうか。正に、無限速度で、原光が、発出されているのではないだろうか。三つ輪、三つ巴の無限空間だろうか? この点については、後で検討したい。
 Y軸の問題に戻ろう。差異共振シナジー軸ということで、X軸、Z軸、F軸を、超越的に統合する、いわば、超越的統合軸(超越論的統合軸)とも考えられよう。また、不可視軸・コスモス軸である。思うに、これが、宇宙・自然・地球・人間を動かす隠れた軸ではないだろうか。隠軸ないし陰軸である。あるいは、玄軸である。隠元軸とでも呼ぼう。アリストテレスが説いた原動天・至高天とは、ここにあるのではないだろうか。コスモスである。月と太陽が調和するコスモスは、ここにあるのではないだろうか。古代宇宙論とは、ここが源泉ではないだろうか。ピュタゴラス学派のシンボルの五芒星であるが、それは、4+1から来ているのではないだろうか。即ち、四次元+統一ではないだろうか。あるいは、四大+空=五大であろうか。

2006年07月23日 (19:30)

思考実験:虚軸と空間次元の問題:イデア軸ーメディア軸ー現象軸ー物質軸四次元空間・時空間の成立

作業仮説として、軸上に、無数の不連続的差異(=イデア:以下、差異)があり、それらが、1/4回転を行なうことで、私たちが見る現象界を発現させているとしよう。そこで、前提として、ガウス平面=複素平面(X軸・実軸とY軸・虚軸の直交する平面)をイデア界とする。
 X軸は、差異(=原イデア)が境界を隔てて、共立している。そして、1/4回転して、Y軸・虚軸に移行すると、X軸から見ると、差異は、ゼロ度上に存するのであり、これが、零度差異共振シナジーを発生されると考える。そして、このときに、原エネルギーが発生して、垂直に捩れると考える。即ち、XY平面に直交するZ軸を考える。Z軸も虚軸である。思うに、1/4回転した差異は、どこに存するのかと考えると、それは、原点をO(オー)とすると、例えば、差異1(x1、0,0)は、零度差異1(0,y1、z1)の位置にあるのではないだろうか。(差異1をD1,零度差異1をφD1と表記する。)零度差異1は、Y軸・虚軸とZ軸・虚軸の成分、即ち、y1とz1をそれぞれもっている。零度差異1は、一方では、Y軸の視点、他方では、Z軸の視点をもつと言えよう。
 ここで、重要な作業仮説を述べると、軸視点が、重層化されるというものである。つまり、例えば、零度差異1は、X軸、Y軸、Z軸の三つの軸視点を重層化した三重視点をもつということになる。ここで、X軸を不連続軸(又は、イデア軸、原軸)、Y軸を共振軸(又は、メディア軸、シナジー軸)、Z軸を連続軸(又は、連続・同一性軸、現象軸)と、そして、Y軸とZ軸の平面をメディア平面ないし差異共振シナジー平面と呼ぶことにする。
 零度差異1(φD1)は、メディア平面、差異共振シナジー平面に存すると言える。そして、Y軸視点からは、零度差異1は、連続・同一性的差異に見えるはずである。即ち、現象として見えるはずである。これが、自我ならば、現象の個体として見えるはずであるし、零度差異2を見るならば、例えば、コーヒーカップの現象、山の現象が見えるはずである。しかし、これは、Z軸・虚軸の視点現象である。
 しかし、零度差異は、メディア平面、差異共振シナジー平面に存するので、単なる現象以上のものとして、知覚されうるのである。例えば、私が、先に述べたが山と私との共振コスモス現象であるが、それは、Y軸・虚軸から見た零度差異であると言えるだろう。あるいは、Y軸・虚軸を含めたZ軸・虚軸の視点から見た場合である。つまり、メディア平面・差異共振シナジー平面上にある零度差異を観照しているということである。
 問題は、次元である。ここでも作業仮説であるが、軸・視点を次元とカウントするということである。すると、零度差異は、三次元空間ないし三次元時空間になるだろう。(時間の問題であるが、それは、今は、時間と空間は一如であると考えることにする。)
 しかし、Y軸・虚軸・共振軸は、X軸・実軸・不連続軸やZ軸・虚軸・連続軸(現象軸)に比べて、不可視になりやすいと考えられるので、この現象は、二次元空間(時空間)になりやすいのではないだろうか。つまり、共振コスモス空間(時空間)が、見えにくくなると考えられるのである。なぜならば、X軸は実軸であるから、実体が明快だと思われるし、また、Z軸は、現象軸なので、幻像が明確に生起しているに対して、Y軸・虚軸では、不連続性と連続性とが、即非様相で、揺らいでいて、中間的過程で、明確な形象をとっていないと考えられるからである。
 以上で、三次元空間(時空間)を説明できたが、では、四次元空間(時空間)はどうやって説明できるだろうか。これは、これまで、述べてきた、言語観念化による連続・同一性中心主義を考慮することで、説明できるように思える。この連続・同一性中心主義の軸・F軸(THE FOURTH AXIS)を作業仮説しよう。これを二項対立軸、主客分離軸、近代主義軸、物質軸と呼ぶことができるだろう。簡単に物質軸と呼ぶとわかりやすいだろう。F軸・物質軸において、現象は、物質化されると言える。だから、この軸の次元を入れると、四次元空間(時空間)が成立することになる。但し、上述したように、Y軸・虚軸・共振軸が不可視になりやすいので、この空間は、三次元空間(時空間)に見えやすいと言える。とりわけ、物質軸が成立すると、それのもつ同一性中心主義は、差異共振シナジー領域を否定・排除する傾向があるので、なおさら、三次元空間(時空間)に見えると言えるだろう。
 これで、本稿の論考を終えたこととする。

2006年07月22日 (19:46)

思考実験:プロトモダン現象知覚と近代科学的現象知覚

この問題は、今一番の問題である。否、すべてのことの核心の問題かもしれない。とまれ、ゆっくり、丁寧に考えたい。
 ここでも、直観を導きの糸として、考察して行こう。山を眺めると、山と私が共振する身体的視覚が生じる。あるいは、青空でもいい。紺碧の空(最近は少なくなったが)を仰いだときも、そうなる。もっとも、あらゆるときにそうなるというのではなく、気象や私のコンディション等によって、異なるだろう。共振しやすい時間、空間、心身状態等があるのである。これは、共振コスモスの「顕現」と言えよう。
 共振コスモス、ないし、共振シナジー・コスモスを理論的に考えることで、多くの、いわゆる、神秘的事象が合理的に説明できるようになったと言えよう。小学生の頃、トタン屋根に寝そべり、青空を眺めて、いわば、青空に溶け込んだような、「エクスタシー」的経験をよくしたものだが、それは、青空と私の心身との共振シナジー経験、共振シナジー・コスモスの形成と言えるのである。また、中学生の頃、田舎の道を、自転車通学していたが、その時、田んぼの稲の緑の「海」と私の心身との溶け合い・融合を頻繁に経験したが、それも、これで、説明できる。決して、神秘的経験ではなくて、差異共振という合理的な経験なのである。芸術のロマン主義も、これで、合理的に説明できるのである。宗教もオカルティズムも、これで、合理的に説明できるのである。だから、ポスト・神秘主義、ポスト・宗教、ポスト・オカルト主義等である。
 この差異共振シナジー経験を、近代合理主義は、否定・排除しているのであり、空間を時空四次元で説明しているのである。しかし、この差異共振シナジー経験を対象にしないといけないのである。差異共振シナジー・コスモスのもつ一体感・一如感を空間的に説明しないといけないのである。
 根本から考えると、知覚・意識・認識とは、不連続的差異・原イデアにもともと存している。いわば、原知覚・原意識・原認識である。それが、1/4回転によって、零度差異共振化すると考えるのである。わかりやすくするために、図式化しよう。

イデア界:差異1/差異2/・・・/差異n

(尚、差異とは、不連続的差異であり、原イデアである。/は境界を表わす。)
これを、意識の問題にすると、

イデア界:原知覚1/原知覚2/・・・/原知覚n


となる。そして、これが1/4回転して、零度差異共振シナジーを形成するのである。即ち、


メディア界:原知覚1☯原知覚2☯・・・☯原知覚n

(尚、
☯は差異共振、対極性、即非の記号である。)

このメディア界=差異共振界において、差異共振シナジー経験、即ち、差異共振コスモス経験が生じると言えよう。つまり、この時、「わたし」は、虚軸を直観しているのではないだろうか。あるいは、少なくとも、虚軸的経験をしていると言えよう。ここでは、遠近法的視覚、三次元的空間視覚が役立たないのである。対象と「わたし」が、一体となっているのであるから。即ち、距離が消滅しているのえあるから。しかしながら、完全消滅ではなくて、即非的な一体感的距離消滅ではないだろうか。それが、正しいと考えられる。「わたし」は、例えば、原知覚1であり、対象「山」の原知覚2と即非的一体(差異共振)となるのである。【ここで、注意すべきは、対象「山」にも原知覚があることである。これは、アフォーダンス理論を説明するものではないだろうか。また、対象が見ているという感じを説明できるだろうし、また、「地霊」spirit of place又はgenius lociを説明できるだろう。対象は、原知覚をもっているからである。また、道元の「山は流れ、川は止まっている」という言も説明できるだろう。つまり、山と川との一体となるため、山は川を映し、川は山を映す、即ち、相互反照が成立することを意味していよう。】
 では、通常の距離空間は、距離次元はどこにあるのだろうか。差異共振コスモスが虚軸(ないしメディア平面:これは、Y軸とZ軸に直交平面である)にあるとすれば、「わたし」と対象「山」との遠近法の空間はどこにあるのだろうか。虚軸(Y軸)は、零度の軸ではあるが、不可視の軸であり、これは、通常の視覚空間にはない。距離が発生している軸や空間はどこなのか。それは、現象の軸や空間である。思うに、差異共振シナジー・コスモスは、三次元現象空間ないし四次元現象時空間においては、どこでも発生するだろうから、三次元ないし四次元に対して、直交していると見ることが出来るだろう。
 では、X軸、Z軸、F軸(第四の直交軸)が三次元空間なのだろうか。先に、第五軸を入れて、五次元空間を考えたが、しかし、Z軸を連続軸にすれば、第五軸は要らないのかもしれない。つまり、Z軸は、連続・同一性が発生する現象軸なのである。しかし、この現象は、差異共振シナジーの半面に過ぎないのである。換言すると、Y軸・虚軸が、差異共振シナジーのイデア/メディア境界(これまで、イデア面と言ったが、不正確であった)であり、Z軸が、メディア/現象境界である。そうすると、「わたし」は、日常において、Z軸上で、「山」を見ているのである。Z軸を現象軸と呼べば(Y軸は、メディア軸と、X軸は、イデア軸と呼べよう)、現象軸において、「わたし」と「山」が距離をもって現象していることになろう。図式化すると、

Z軸・現象軸:

原知覚1(「私」)−原知覚2(「山」)ー・・・

であり、ー(ダッシュ)が、同一性であり、原知覚1と原知覚2において、距離を形成するものである。そして、このとき、原知覚は、連続化されているので、原知覚2は、対象=客体「山」となっているのである。ー(ダッシュ)は、光速度の一定に原理をもつ距離となるだろう。相対性理論は、ー(ダッシュ)を理論化したものであると言えよう。
 これは、Z軸・現象軸上の事態である。しかるに、差異共振シナジー・コスモス事象において、「私」と「山」とは、Y軸・虚軸上に存していると言えよう。つまり、差異共振シナジー・コスモス経験において、「私」と「山」とは、直交的に深化して、Y軸・虚軸に移動しているということであろう。あるいは、ZY平面に移動していると言えよう。これは、現象界の光速度cではなくて、差異共振界の光速度c/iを帯びるのだろう。
 しかしながら、正確に言えば、言語同一性中心軸が必要であろう。これが、F軸(第四軸)と考えられよう。いわゆる、物理的距離は、F軸がなくては、生じないのでないだろうか。だから、「私」と「山」の物理的距離とは、本当は、F軸上にあると言えるだろう。F軸が連続・同一性中心軸であり、今日、これが、視覚の次元となっていると言えるだろう。図式化すると、

F軸:同一性中心軸
同一性1(「私」)ー同一性2(「山」)ー・・・ー同一性n

である。このF軸が近代合理主義、近代自我の軸である。直観の軸は、Z軸である。そして、これは、Y軸・虚軸とつながっているのである。即ち、F軸とZ軸とのズレが存しているのであり、カントは、前者の超越論的形式としてZ軸を理論化したと言えよう。しかし、その後、近代科学は、Z軸を忘失して、Z軸による理論をF軸の理論と幻想しているのである。
 ここで、思考実験すると、FZ平面が、近代主義平面であり、ZY平面が、フッサールの生活世界ではないだろうか。根源的な芸術家や哲学者や民衆は、この平面に生きているのである。そして、思考停止した国民は、F軸に生きていると言えるだろう。小泉政権は、KAISETSU氏の考えを借りれば、Z軸(=超越論的形式=構造主義)に存していると言えるのだろう。
 では、現象三次元空間や現象四次元時空間をどのように見たらいいのだろうか。ここで、作業仮説的に、F軸を時空軸としよう。即ち、連続・同一性中心主義的時空軸である。これが、近代知覚であるが、これが、三次元ないし四次元を構築・仮構すると考えられるのである。ここで、また、作業仮説すると、F軸はいわば、主観軸であり、これが、投影されて、三次元ないし四次元を仮構・仮象・幻像するではないだろうか。だから、F軸は空間軸に入れないのである。いわば、視点軸である。これが、思うに、XYZ直交軸に投影されて、三次元ないし四次元を仮構するというのは、考えられないことではないだろう。左右・前後・上下は、F軸から自由に設定できるだろう。宇宙空間を考えればいいだろう。X軸が、左右でも、前後でも、上下でもかまわないだろう。後、同様である。
 問題は、重力軸である。地球上では、一義的に決定される。これが、Z軸ではないのか。ここで、アナロジー的に考えると、X軸が無軸で、Y軸が光軸で、Z軸が重力軸で、F軸が幻像(マーヤー)軸となるのかもしれない。
 さて、ここで、相対性理論や量子力学に簡単に触れると、相対性理論は、Y軸のZ軸への、いわば、写像を理論化しているのではないのか。量子力学は、Y軸の事象とZ軸の形式との、無理なつじつま合わせをしているのではないのか。無理というのは、即非事象を連続形式で説明しようとしていることである。不連続なガウス平面から形成される事象を、連続形式で把捉しようとしているのではないのか。複素数事象を、実数事象で把捉しようとしているのではないのか。本来、量子力学が対象にしている事象は、不連続的差異の存するガウス平面事象であるが、それを、連続・同一性事象として捉えようとしていると思うのである。ここには、カテゴリー・エラーがあるだろう。
 ついでに、ダークエネルギー等の問題に触れると、それも、同様であり、不連続的差異の複素平面上のエネルギー事象を、連続・同一性事象のエネルギーから把捉しようとしているので、前者を、ダークエネルギーと考えようとしているのであると言えよう。発想を転換しなくては、現代物理学は行き詰まりを打開できないだろう。自然科学の不連続的イデア論化が、唯物論からのパラダイム・シフトとなるだろう。ポスト唯物論である。新イデア論的自然科学の誕生となる。不連続的イデアとは、原知的生命体と言えるだろう。哲学・科学的に、多神教、アニミズム、シャーマニズム、汎神論が甦るだろう。ポスト西洋文明・新東洋のエポックとなるだろう。

2006年07月22日 (10:18)

日本の知性の問題:連続・同一性中心主義の知識が、支配し、差異の合理性が無視される精神風土の問題

私事を言わせていただくと、私は、生前の亡父に悩まされた。具体的なことは言うまい。ただ、人の話を無視する自己中心主義者であり、多くの人に物心ともに多大な迷惑をかけたことだけは言っておきたい。
 なぜ、こんなことをいうのかと言うと、その亡父の父権主義には、今日の日本を絶望的にしているものに通じるものがあると思われるからである。
 そう、簡単に言えば、差異共振性をまったく否定・無視・阻害・排除した連続・同一性中心主義が両者共通だと思うのである。この狂信的な頑なさが、日本を、どん底に落としているのである。おそらく、この類型は、日本の多くの場所で、見られると思うのである。官僚・役人を初め、マスコミ人、知識人・文化人、その他、このタイプである。
 この日本的父権主義を超克しない限り、日本は、没落するだろう。この恐ろしく傲慢な、狂信的な、連続・同一性中心主義・父権主義は、いったい、どこから、生まれたのだろうか。太平洋戦争の狂気も、ここから発しているだろう。私は、以前、これを、父権的部族主義と呼んだ。
 私なりに、洞察してみよう。この恐ろしい傲慢さ・狂信さには、ルサンチマンがある。陰惨冷酷さがある。深い闇がある。つまり、差異共振シナジーの原光がないのである。一切が闇である。やさしさのかけらもない。酷烈無惨である。そう、D.H.ロレンスが、『黙示録論』の最初の方で述べている自己栄光化の衝動につながるのである。ニーチェが執念深く剔抉した、キリスト教的陰惨な奴隷根性に結びつくだろう。「賎民」の欲望である。この日本的「賎民」が父権主義と結びつき、日本社会を、暗黒にしているのである。そう、精神の虚弱さ、劣弱性である。
 原因は、以前考えたが、暗い精神的環境ではないだろうか。勿論、暗い貧しい環境も一つの要因かもしれないが、それ以上に、暗い精神的環境が根因ではないかと思われるのである。
 そう、彼らは、本当の光に触れたことがないのだろう。闇しか見てこなかったのではないだろうか。だから、闇しか知らないのである。即自的差異共振性、可能的差異共振性に対して、差異共振シナジー・エネルギーが与えられなかったと考えられる。そう、叡知が与えられなかったのだろう。真の教養の欠落があるのではないだろうか。精神の教養に触れていないと思われるのである。だから、成長後、精神教養を忌避するのだろう。俗物である。俗物と言うのも的確だ。
 俗物・没精神教養人・「賎民」、彼らが、父権的部族主義を形成している。一言で言えば、精神の伝統文化の切断・断絶(比較参照:三島由紀夫の「断絃の時」)があったのだろう。私の直観では、これは、意外に明治維新に起こったと思う。西郷隆盛らを見捨てた、明治維新。伊藤博文、山県有朋、福沢諭吉らの明治。ここに、日本精神文化の断絶が起こったのではないだろうか。二つの明治維新があるのではないか。
 独断、偏見、誤解を恐れずに言えば、国学が胡散臭く、怪しいのである。本居宣長が胡散臭いのである。彼の大和心は、実は、漢心である。即ち、二項対立なのである。つまり、日本近代主義の原点がそこにあると思うのである。この二項対立が、日本の根源的な精神文化・差異共振文化(日本母権的多神教精神文化)を否定・排除したと考えられるのである。国学の一神教文化が、明治天皇制を生み、差異共振文化である神仏習合を破壊したと思うのである。国学的日本一神教が、日本の精神文化の破壊をもたらしたと思うのである。小泉首相の靖国参拝は、国学の国粋主義に通じるだろう。そう、やはり、ここである、日本の癌の病巣は。

p.s. もう一点つけ加えると、この連続・同一性中心主義であるが、上述からわかるように、実は、差異共振性がないことはないのである。即ち、即自的差異共振性、可能的差異共振性(=精神の種子・卵)は、本来、誰にでも先天的に備わっていると考えられるのであるが、この精神の種子・卵のための光の教養・知的養分が与えられなかったために、連続・同一性中心主義になったと考えられるのである。だから、ネガティブとなり、自己肯定的になれず、絶対的闇となり、他者を否定する連続・同一性中心主義になったと考えられるのである。自己の絶対的暗黒が、他者への暴力になるのだろう。小泉異常気象首相であるが、やはり、幼いころに、精神の養分を与えられなかったのであろう。精神の闇を抱えてしまったのである。その悲しみが、ルサンチマンとなり、自己中心主義化して、冷酷無残になると言えよう。

p.p.s. 追記から、即自的差異共振性=精神の種子・卵の見方から、光の教養とは、一種、光の精子になるのではないかと思った。即ち、即自的差異共振性=精神の種子・卵は、未受精であり、それが、精神光の精子によって受精して、即自且つ対自的差異共振シナジーになると思うのである。未受精の暗黒精神、これが、日本の闇の真相であろう。

2006年07月20日 (11:56)

連続・同一性中心主義自我の他者否定志向について:差異共振言語・社会と同一性中心主義言語・社会

同一性自我の言語化によって、差異共振性から切断されると言った。
 では、言語化とは何か。例えば、私の目の前のテーブルの上に、コーヒーカップがある。私の現象視覚において、コーヒーカップは、連続・同一性である。しかし、これが、コーヒーカップという言葉によって、いわば、連続・同一性・言語化されると、それは、連続・同一性中心化するだろう。そう、物となるのである。現象視覚におけるコーヒーカップは、連続・同一性でありつつも、私との差異共振性をもちうるものである。即ち、私とコーヒーカップとのコスモスの形成がありうるのである。これは、イデア・シナジーであり、量子力学的には、量子の場である。しかし、イデア・シナジーと量子は全く異なる次元の事柄である。(ヌース理論は、これを、一致させてしまっているのだ。)
 問題は、言語化の意味である。ここでは、差異共振性を排除する、同一性中心言語がある。差異共振性を否定し、排除する言語の意志とは何かということでもある。(フロイトは死の欲動と言ったが、それは、わかったようで、わからない説明だろう。なにか、神秘めかした概念だろう。)言語化とは、簡単に言えば、観念化ということである。現象視覚における個体は、連続・同一性現象ではあっても、観念ではない。言語化によって、観念化されると言えよう。そして、この言語観念化が、現象視覚対象の物体化・物質化をもたらすのだろう。つまり、観念論と唯物論は、等価なのである。あるいは、オカルト主義と唯物論は、等価なのである。カントの超越論的形式も、言語観念論=唯物論の形式を意味するだろう。
 この言語観念形式化とは、何なのだろうか。これは、連続・同一性中心主義の完成である。差異共振性を否定・排除・隠蔽した様態である。ここには、連続・同一性中心主義の優位性という発想がなくてはならないだろう。ここには、連続・同一性の言語観念への同化・同一性化があるように思える。つまり、現象視覚において、連続・同一性である、例えば、コーヒーカップがある。しかし、この連続・同一性が、言語観念へと同一化するという事象が、連続・同一性中心主義の発生であろう。現象事象から、言語観念への、いわば、相転移が発生していると思われるのである。これは、思うに、エネルギー変換・転換であろう。差異共振シナジー・エネルギーから、連続・同一性言語観念へのエネルギー変換・転換であろう。思うに、ここには、微分・積分という仮想力ではなくて、ある明確な力が作動しているのではないかと思われる。それは、差異共振を否定する同一性中心主義の力である。言語観念の力である。言語観念の暴力だと思う。差異共振エネルギーが、同一性観念暴力に相転移したのだと思う。つまり、同一性中心性になるには、差異共振性を否定・排除する必要があるのである。これが、差異共振エネルギーから変態した言語観念暴力だと思う。フロイトが、孫の糸巻き遊びから考えついた、死の欲動という概念であるが、それは、いわば、比喩的概念と考えられる。母親代わりの糸巻きに対する死の欲動ということであるのだが、ここでの考えによれば、それは、母親やその代用の否定ではなくて、差異共振性を否定する同一性中心主義のための暴力である。
 問題は、何故、言語観念暴力へと転換するのかということである。それは、先に簡単に触れたが、幻想・ファンタジー能力のためのように思える。あるいは、代行・代償・代理能力のためである。言語観念化によって、差異共振的現象性から分離して、連続・同一性中心主義という一種の観念表象(幻想)を得るためである。それによって、現象性に対して、表象幻想的優位に立つのである。人間の根源的狂気とは、ここに存しているだろう。
 しかし、問題は、この言語観念表象の質である。言語観念表象が、差異共振的現象的連続・同一性へ向かうならば、それは、正しい知性となるだろうし、それが、自己に留まるならば、否定的知性となるだろう。能動的観念か、反動的観念かということになるだろう。つまり、差異共振的観念か、連続・同一性中心的観念かである。真の知性とするのか、暴力的知性にするのかである。そして、近代合理主義とは、後者であり、今日、末期的症状となっているのである。言語観念形式と数量が結合した、近代唯物論に陥っているのである。
 ということで、本件を解決したこととしよう。つまり、エネルギーから力(暴力・威力)への変換である。《平和》から《戦争》への相転移である。共生エネルギーから快楽暴力への変換である。(現代日本社会は、正に、小泉政府を筆頭に後者的になっていると言えよう。快楽暴力社会なのである。)
 ここで、不連続的差異論について言えば、それは、この言語観念形式を、絶対的に突き破り、差異共振シナジーの領域に進入したことを意味する。ポスト・カント主義(本当は、これこそ、真のポスト近代主義、ポスト構造主義であったろう。脱近代主義、脱構造主義である。)である。


p.s. できれば、以上の考察を整理したい。以上の考察は、言語観念の基本を幻想力と見ているが、思うに、個体主義的発想であり、社会・集合体的発想が欠落している。言語観念の形成が、単に個人主義的なものであるとは到底言えないだろう。他者との関係においての形成を考えなくてはならないだろう。
 おそらく、ノエシス/ノエマの指し示しを、他者と共有するために、言語が形成されたであろう。そして、文字言語・表音文字化は、自我主義的傾向を生んだと言えるだろう。
 思うに、文字言語・表音文字化は、自我所有・権力主義傾向と平行しているのだろう。おおまかに言って、象形文字や音声言語の世界は、前父権的社会と、表音文字言語の世界は、父権的社会と平行しているのではないだろうか。後者において、差異共振シナジーが否定されて、連続・同一性中心主義自我=父権的一神教の原基が生まれたと考えられる。ならば、前者においては、差異共振的社会=母権社会があり、後者においては、権力社会が成立したと言えるのではないだろうか。
 思うに、言語の意味が、両者では全く異質なものになっていると言えよう。差異共振志向性言語と同一性自我志向性言語である。そして、後者においては、主人と奴隷との権力社会となっていよう。前者は、コスモス的共生社会となっていよう。ただし、ここでは、自我は未成熟である。結局、二つの言語=社会である。差異共振志向性言語=社会と同一性中心主義自我志向性言語=社会である。
 ということで、きわめて粗雑ではあるが、言語と社会との関係を見たとしよう。

p.p.s. 次元・幾何学の問題で言うならば、言語観念化とは、どういうことなのだろうか。ここで、思考実験となるが、X軸ーY軸・虚軸ーZ軸ーF軸ー第5軸(言語観念軸)となるのではないだろうか。そして、Y軸・虚軸が、消去されるのではないだろうか。すると、X・Z・F・第5軸の四次元となる。後で、検討しよう。

3p.s. 次元・幾何学の問題は、これまでの思考実験に拠れば、Y軸が不可視となり、XZFの三次元が形成されるということであった。そして、Y軸が、時間軸である。こちらの方が、明快ではあろう。第5軸を考えると、時間軸が、Z軸となり、XF第5軸で空間三次元となる。しかし、この五次元時空間の考えは、最初の四次元時空間の展開と見ることができよう。ただ、言語観念軸として、第5軸を入れて、整合化しただけである。そして、Z軸・時間軸は、零度軸であるので、やはり、不可視であると言えないだろうか。なお、Y軸・虚軸は、イデア/メディア境界軸であり、零度軸ではあるが、元零度軸である。Y軸とZ軸で、差異共振シナジー平面=メディア平面=超越論平面が形成されているだろう。(内在平面というドゥルーズ&ガタリの術語は、超越論性を内包していない連続主義の概念なので、使用しない。)
 以上のような五次元時空間を考えると、X軸を中心にして、XYZ空間とXF第5軸空間の対称性が生起しているだろう。後者が、現象空間ないし現象時空間であり、前者が、いわば、反世界ではないだろうか。ダーク・ワールドである。玄世界である。あるいは、虚世界と実世界である。しかし、虚世界が実世界の真実在である。これは、宗教的には、他界と現世となるのではないだろうか。あの世とこの世である。彼岸と此岸である。
 では、差異共振シナジー・コスモスとはどこにあるのだろうか。あるいは、差異共振シナジー界とは。それは、当然、YZ平面である。YZ平面に差異共振コスモスがあるだろう。そして、XY平面=イデア平面=ガウス平面とは、超・神の世界だろう。原イデア・祖イデアの世界。玄牝の世界だろう。無・真無の世界である。絶対無の世界である。差異共振シナジー平面が、極性の世界・陰陽世界・イシス/オシリスの世界ならば、イデア平面は、太極世界・玄牝世界・玄世界であろう。絶対的差異の世界。即自的差異の世界。思うに、ここには、窓・「天窓」がないのか。これは、微妙である。1/4回転による零度化で、即非の窓・「天窓」が生じるが、ここではいかに。玄イデアは、モナドなのか。思うに、モナドという概念は、一神教的個体観だと思う。多数の絶縁的個体があり、超越的世界に神があり、それが、それらを予定調和させている。これは、カルヴァン主義ではないが、一種プロテスタンティズムだろう。ここには、現象界と超越界の絶対的二元論の世界がある。
 しかし、玄イデアは、そのような二元論はない。これは、原ミクロ=マクロ・コスモスの世界だろう。原即自且つ対自・コスモスの世界だろう。一つ一つの絶対的差異・祖イデアには、全世界の可能性・潜在性が秘められているのではないだろうか。即ち、絶対的無限性があるのではないだろうか。つまり、一つの祖イデアとは、一つの絶対的無限であり、これらが、無数共立しているのが、イデア界ではないのか。無数の絶対的無限・絶対的差異・祖イデアの共立界としてのイデア界・イデア平面・複素平面ではないのか。

2006年07月17日 (14:14)

現代日本における、差異共振意識の病的な、恐怖の排除とは何か:差異共振意識の「アブジェクション」

現代日本における、差異共振意識の病的な、恐怖の排除とは何か:差異共振意識の「アブジェクション」

「■差異共振意識の病的な排除

私の周辺を見て、差異共振意識を病的に排除している、連続・同一性中心主義自我の集団ではないかと思うのである。悪魔たちである。

 私は、日本の知識人・文化人が、この点の元凶の一つであると感じている。これは、以前、父権的部族主義と呼んだものとなんらか通じていると思う。

 また、モダニズムが、このような精神社会病理の原因の一つと考えられるのである。モダニズムは、差異共振意識を排除する傾向がある。特に、英米モダニズム右派は、差異共振意識であるロマン主義を異端審問的に、排除したのである。T. S. エリオットが「異端審問官」であった。

」とコメントに書いた。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10014762048.html#cbox

 これは、最近はほとんど忘却されているクリステヴァの用語で言えば、差異共振意識の「アブジェクション」である。(参照:

http://www.google.co.jp/search?hs=wlJ&hl=ja&client=firefox&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&q=%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%80%80%E3%82%A2%E3%83%96%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja



正に、差異共振意識を恐怖して病的に排除していると思えるのである。これは、何を意味するのか。玄光への恐怖であり、排除である。それは、母権文化への恐怖であり、排除である。ロマン主義への恐怖であり、排除である。コスモス・自然・宇宙への恐怖であり、排除である。モダニズムのプロトモダンへの恐怖であり、排除である。西欧米の南欧や東洋への恐怖であり、排除である。オリエンタリズムである。

 私は、これが、現代日本において、ハイパーになっていると感じている。だから、病理的なのである。西洋文明の末期症状とは言えるのであるが。しかし、何故、現代日本においてなのか。真の光・玄光・原光に恐怖して、排除しているのだ。現代日本自体が、一種精神病状態なのである。この原因は何か。何を意味しているのか。

 基本的に理論的には解明されているのであるが、原因を特定化・特異化したいのである。明らかに精神の虚弱さが、ここにはある。真理・真実を見たくないという精神の虚弱さがある。自己を知ることの恐怖感がある。仕事等に自己を滅却させているのである。正に、連続・同一性自我主義である。個・差異・特異性を、意識的に、見ないようにしているのである。戦前・戦中に通ずるファシズム・全体主義の精神ではあるが、この意味を知りたいのである。

 世間から孤立することの恐怖があるだろう。しかし、世間が狂っているならば、孤立する方が、正しいのである。知的独立の問題でもある。そう、孤独・孤立化への病的な恐怖、これが、確かに、原因の一つと言えようが、しかし、それでも、まだ、言い尽くしていないと感じられる。

 これは、ニーチェやロレンスが説いた人格の位階の問題である。高貴な人格(魂)と劣弱な人格(魂)の問題に通じるだろう。つまり、精神の高低の問題があるのである。精神の高貴さを恐怖し、排除しているのである。これだ! 戦後民主主義で、卑しい人格(魂)も、選挙権が与えられ、精神の卑賎な人物が、我が物顔で振る舞えるようになったのである。精神の卑賎な人物が、権力の中枢を占めるようになり、彼らが、卑賎な民主主義を作ったのである。それが、現代日本である。ここには、卑賎な精神の、高貴な精神に対する憎しみ・ルサンチマン・嫌悪、等々があるのである。そう、ニーチェ/ロレンスの民主主義批判とは、これに尽きる。ここにこそ、差異共振意識への恐怖と排除の真因があると考えられるのである。

 結局、不連続的差異論/プラトン的シナジー理論は、新たな人格論でもあるのだ。新倫理学・新エチカでもあるのである。新しい位階・倫理的位階を設けようとしているのである。精神貴族的民主主義を主唱するのである。現代の卑俗民主主義に取って代わる、精神的民主主義である。

 現代日本に対する嫌悪感の基はここにあったのである。卑しさ、卑賎さ、卑俗さが、支配しているのである。小泉政権が典型的である。母権制とは、精神貴族文化社会であったのである。高貴な女神たちの文化社会であったのである。古代エジプト文化の崇高高貴な女神像は、それを物語っていると考えられる。父権文化社会になって、連続・同一性自我中心主義で、社会は卑しくなったのである。思うに、イエス・キリストは、本来、母権文化社会の魂のようなものであろう。つまり、差異共振意識(=叡知・ソフィア)の象徴だと思うのである。それが、捩じ曲げられて、キリスト教の創始者にされたのである。思うに、宝瓶宮♒(水瓶座)の時代とは、新たな差異共振のコスモス・エポック、新母権文化社会であると考えられる。

p.s. 卑しい、卑賤な、劣弱な人格(悪魔)たちは、高貴な人格(魂)を憎悪するのである。現代日本は、悪魔たちが支配しているので、この憎悪的暴力が、高貴な人格たちに向けられるのである。それで、精神を病む者が多いと思うのである。つまり、悪魔たちの暴力の被害を受けている高貴な人格が多いと考えられるのである。高貴なる魂の日本人よ、自己認識と勇気をもって、立ち上がり、この卑賤な悪魔たちの支配した日本を破壊して、新しい高貴な精神の日本を創造せよ!!!

2006年07月16日 (23:27)

光の利己的欲望:差異共振という玄光を否定・排除した連続・同一性中心主義という光悪魔

今は簡単に触れるが、どうして、連続・同一性主義自我は、他者を否定して、自尊感情を高める快感をもつのか。問題は、この自尊快感の発生の原因である。これは、攻撃的快感でもある。感情が、観念と癒着・融合している状態である。自己陶酔ではあるのだが。
 先に、連続・同一性が、言語と結びつき、差異共振の闇を排除するという一神教/父権制/近代自我の構造を提示した。これを光の欲望を呼んだ。これは、視覚的同一性中心主義自我意識と、無意識となった身体との分離とも言えよう。西欧近代は、前者中心の世界観であり、後者が忌避・排除されたのである。現代日本は、この究極的な帰結のようなところがあるのである。欧米は、前者的ではあるが、後者を何らかの形で保持しているように思えるのである。とまれ、この2項対立構造については、既述済みであるが、再度検討して、確認を新たにしよう。
 もともとは、差異共振と連続・同一性は、メディア界においては、いわば、メダルの両面である。だから、2項対立していはいないのである。闇と光の両面である。しかし、光が言語と結びついて、とりわけ、文字言語・表音言語と結びついて、2項対立が発生すると考えられるのである。その理由は、言語と結びついた連続・同一性は、差異共振性から切断されるからと考えられる。即ち、言語と結びついたときに、それは、いわば、モナド化されると思うのである。例えば、現象視覚において、山を知覚していたとき、山という連続・同一性は、他者と差異共振するコスモス・自然・宇宙の一部であったと考えられるのである。(これは、多くの詩人が表現することである。)これは、母権文化の知覚であると考えられる。陰陽対極性は、この文化哲学であると考えられよう。
 しかしながら、象形・表意文字の「山」、表音文字の「やま」が使用されると、それは、差異共振のコスモスから切断されるのである。「山」は、まだ、現象視覚性が残存しているので、差異共振コスモスとの結びつきが比較的残りやすいと言えようが、「やま」ないしyamaになると、結びつきから離れて、独立する傾向をもつと言えるだろう。つまり、連続・同一性が差異共振性から分離・切断されて、抽象文字的連続・同一性となったと言えよう。この分離・切断の意味するものを考察しないといけない。ここには、差異共振性に対する否定があり、連続・同一性の独立化、言わば、独立自我化が生起しているといえるだろう。そう、原コギトの成立と言えるかもしれない。この差異共振性の否定と独立自我化が、連続・同一性を連続・同一性中心主義へと相転移するものと言えよう。これが、原一神教・原父権制・原近代自我の発生であろう。(現代文明とは、この抽象文字人類革命の帰結であると言えよう。差異共振性というコスモス・自然宇宙から切り離されて、グローバル資本主義・科学技術文明を、性懲りもなく、自殺自滅的に、「発展」し続けているのである。これは、もはや、発展ではなくて、滅亡過程と言うべきであろう。終局相であろう。)
 とまれ、これで、本稿の問題を解いたこととしよう。私が既述したように、連続・同一性中心主義とは、連続・同一性と言語、とりわけて、表音文字との結合によって生まれたのである。それは、自我・悪魔性の誕生である。光である悪魔であり、ここで、真の光である差異共振性が闇=悪魔にされたのである。価値転倒・倒錯が発生したのである。これは、キリスト教に完全に顕在したものである。光が闇とされ、闇が光とされたのである。キリスト教の光は、反復するが、悪魔の光であり、闇である。かつて、10代の学生の頃、私は、「光は暗く、闇は明るい」と言ったのである。
 現代日本の闇は、正に、この連続・同一性中心主義という光の闇である。これは、光悪魔である。たいへん、危険なものである。しかしながら、不連続的差異論/プラトン的シナジー理論によって、この光悪魔の闇が暴れて、真の光への方向が啓かれたといえよう。初めに玄光あり、そして、それは、光であった。

2006年07月15日 (19:56)

オカルティズム批判:オカルティズムは、連続・同一性=ファシズム・全体主義思想の一つである

ルドルフ・シュタイナーは、シュタイナー学校の創始者として有名であるが、しかし、プラトン・シナジー新論から見ると、たいへん、危険である。それは、新興宗教と同じである。霊感商法的になるだろう。なぜなら、霊主体従だからである。精神ではなくて、霊を主体にしているからである。精神とは、心身・魂の知性のことである。霊は、精神を連続・同一性の観念から見たものである。つまり、唯物論と同型である。換言すると、唯物論と相補性をなすものである。現象を唯物論で見たとき、メディア界が神秘主義的に発現するのである。この神秘主義性に、観念の枠を与えて、霊・スピリットが想定するのである。ここには、精神の弱さがあるのである。唯物論の反動としてのオカルティズムがあるのである。カント以前である。
 もう少し説明すると、近代合理主義によって、心身性が排除されて、潜在意識となる。即ち、近代合理主義/潜在意識という二元論が近代主義において生じるのである。例えば、近代合理主義とロマン主義の対立というような形をとるのである。(近代とは、プロトモダンが本来なのであり、近代主義とは、反動態である。)この潜在意識を、オカルティズムは、霊・スピリットとして現象化するのである。ここがポイントである。潜在意識の現象化である。即ち、潜在意識に、現象界の視点である連続・同一性の枠・構造を与えるのである。ここには、倒錯があるのである。連続・同一性の形式とは物質形式・唯物論形式である。これを、潜在意識(心身意識)に当てはめるのは、当然、カテゴリー・エラーであるし、虚偽、本当の狂気である。これは、近代合理主義信仰の倒錯である。近代合理主義を、潜在意識にまで、適用するという、ハイパー近代合理主義なのである。これが、正に、ルドルフ・シュタイナーの霊学・人智学である。また、半田広宣氏のヌース理論も、同様である。ハイパー近代合理主義信仰・崇拝である。(こう考えると、ヌース理論が、量子力学等を偏重する理由が了解できるだろう。)即ち、近代合理主義・唯物論化された潜在意識・心身意識が霊・スピリットなのである。これは、似非実在である。妄念・妄想・邪念・狂気である。だから、当然、邪悪なのであるから、社会に対する害悪である。哲学的には、差異が、連続・同一性化されているのであり、ファシズム・全体主義的である。(近代合理主義もファシズム・全体主義的であるが、西洋の場合、基礎に個・差異があるので、ファシズム・全体主義への根強い批判がありうる。)
 とまれ、ポスト・オカルティズム、ポスト・霊学ということで、差異、それも、純粋差異、不連続的差異、特異性差異、単独的差異、絶対的差異を取り戻さないといけない。これは、実に、イデアの純粋世界・真世界なのである。イデアと霊・スピリットとはまったく似て非なるものである。霊・スピリットとは、唯物論的神秘主義(参照:中沢新一の霊的唯物論)であり、イデアの唯物論的大曲解・ねじ曲げ・歪曲化である。ロゴスに対する、いわば、大犯罪である。極悪である。極刑に値するのである。
 イデアを正視しないといけない。イデアのロゴスを取りださないといけない。イデア・ロゴス・ソフィアである。イデア・レゾナンス・シナジー・コスモスが、原現象である。プラトンで言えば、コーラである。コーラ・コスモスである。
 とまれ、イデア・シナジーが心身・潜在意識を形成しているのである。そして、いわゆる、意識とは、作業仮説として、イデア・シナジーの意識ではないだろうか。そして、身体とは、イデア・シナジーの身体ではないだろうか。フッサール理論を用いると、ノエシス/ノエマというイデアのシナジーが、心身である。つまり、ノエイス/ノエマの共振多層重層シナジーが、心身ではないだろうか。そして、ここから、ノエシスが特化して、意識・思惟・知性・認識・知覚となり、また、ノエマが特化して身体・延長・存在となっているのではないだろうか。本来、イデア・シナジーにおいては、ノエシス/ノエマ=心身=潜在意識である。しかし、これが、現象界においては、二元論的に分離するように発現するのである。ここでは、視覚的知性が、二元論分離仮象の契機である。光が契機である。しかしながら、光は微妙な現象である。光は、イデア・シナジーそのものであると言えるのであるからである。原光・純光である。この原光・純光が、光現象となっているのである。そして、二元論分離を発現するのである。光現象・二元論分離現象とは、連続・同一性的仮象であり、原光・純光の仮象としての光が現象していると言えるだろう。つまり、光とは、太陽光とは、仮象スクリーン・マーヤーである。その真実在は、原光・純光なのである。つまり、「阿弥陀如来」である原光・純光を光と見ていることになる。(因みに、光子とは、原光・純光を仮象物質スクリーンを介して仮想したものである。)
 問題は、いわゆる近代自我と光との関係である。あるいは、原光と光との関係である。この問題に関しては、まだ結論が出ていない。即ち、単純に、流出的に、原光から光が仮現するのか、それとも、否定・排除的(内的抑圧隠蔽的)に、原光から光が発現するのか。(この問題は後で、再検討したい。)
 本論に戻ると、ノエシスとノエマが二元論的に分離して、心身二元論、思惟と延長の二元論が発生するのであある。しかし、イデア・シナジー界においては、ノエシス即ノエマであろう。即非でもないだろう。思惟即延長である。知即存在である。即非は、差異と差異との関係で発生するものである。
 結局、知性となったノエシスと身体となったノエマとを再統一する必要があるのである。それは、知性の身体化であり、身体の知性化である。しかしながら、ポイントは、知性であろう。なぜならば、基本的には、ノエシス/ノエマとは、知的存在であり、知主存在従であるからである。知が先行していて、結果、存在が帰結するのであるから。ノエシス→ノエマ、知→存在なのである。だから、知性の身体化/身体の知性化において、主体は、知性に置くべきなのである。これによって、イデア・シナジー=心身性を意識化できるようになるのである。超知性化と言ってもいいだろう。そう、超越内在(超内)論的知性形成である。これが、イデア・シナジー知性である。あるいは、イデア知性である。あるいは、プロトモダン知性である。プロトモダン合理主義である。これは、身体ともにある知性であり、知性とともにある身体である。そして、超知性がそれを包摂するのである。
 ここで、自我を考えると、それは何か。近代合理主義においては、近代自我=連続・同一性自我によって所有された身体があるが、この近代自我を不連続的差異化することで、イデア・シナジー的特異性意識になるのでないだろうか。思うに、自我は、知存在になるのである。知身体と言ってもいいだろう。自我が知身体へと変容するのである。
 さて、最後に、途中で置いておいた問題、原光と光の変換力学について考察しよう。これは、カントの超越論的形式に関わる問題である。あるいは、アインシュタインの相対性理論に関わる問題である。数学の問題でもある。近代合理主義は、現象を、連続・同一性の数量に変換したのである。そして、近代科学・技術・資本主義が発達するのである。この連続・同一性がカントの超越論的形式に相当しよう。これは、差異=微分→積分と等価である。
 ここでも、直観に基づいて述べよう。連続・同一性=数量が物質の単位である。つまり、現象対象に対して、近代合理主義・近代自我は、連続・同一性=数量を適用して、現象世界を「合理」化するのである。そして、この近代科学の合理主義に対して、フッサールは、危機を覚えて、現象学を創造するのである。
 問題は、現象世界である。近代合理主義自我は、現象世界を、連続・同一性=数量形式の体系・システムと見る。それは、また、連続・同一性=数量=近代自我の世界である。ここでは、特異性は消されている。(そう、ここは、近代合理主義というファシズム=全体主義の世界である。小泉政権がこれである。)特異性・不連続的差異・絶対的差異・単独的差異の抹消された、同質性・画一性・一般形式の世界である。ここには、明らかに、反動暴力があるのである。特異性を抹消・隠滅している暴力があるのである。(ここで、私は、ジョージ・オーウェルの『1984年』の情報隠滅・捏造作業等を想起している。)
 即ち、連続・同一性には、特異性に対する暴力が如実に存在しているのである。では、現象世界について考察しよう。現象世界の連続・同一性数量・数式を適用するのが、近代合理主義・近代自我・近代科学技術・近代資本主義である。そして、現象世界を連続・同一性のシステムに変換するのである。これが、近代的世界観である。ということは、現象世界自体は、連続・同一性ではないということになるだろう。連続・同一性の構造を現象世界は、いわば、人間から付与されたのである。この主観的形式が、カントの超越論的形式だと考えられるのである。そして、これは、言語形式と深く結びついているだろう。なぜなら、言語形式は、現象を連続・同一性である一般観念形式へと記号化されたものだからである。貨幣も同様である。
 ここで、明確に言えば、現象世界とは、本来、特異性の世界なのである。(私自身は、常に、現象個体は特異性であると考えているのである。)そして、フッサールの説く生活世界とは、この特異性の現象世界のことであろう。つまり、イデア・シナジーの世界である。ということは、現象界は本来、イデア・シナジーの世界であるが、それを近代自我は、連続・同一性システムの世界に変換しているのである。ということは、差異共振界の直截的発露、流出としての現象界が本来あるということである。共振の終点としての現象である。
 しかし、それに対して、連続・同一性的「現象界」があるのである。それは、近代自我の「現象界」である。一体、この連続・同一性はどこから発したのだろうか。イデア・シナジー、差異共振の流出としての現象は、連続・同一性をもたない。そう、連続性はあるが、それは、特異性の連続性である。差異共振の連続性である。
 結局、同一性はどこから生まれたのだろうか。それは、形相から生まれと思われる。形相自体は、不連続的差異論でいうメディア界の現象面にある連続様態、即ち、超越論的原型から生まれたと考えられるのである。即ち、超越論的形式から現象的形式としての形相=同一性が生まれたと言えよう。そして、近代主義とは、この同一性の数量化を意味するのである。つまり、連続・同一性とは、既に、アリストテレス哲学に存在していたのである。だから、近代合理主義が生まれるには、これを数量化する必要があったのである。つまり、アリストテレス哲学と数学の結合、これが、近代主義を生んだと言えよう。そして、これが、物理学を初め、近代自然科学として展開するのである。また、同時に、実験を提示しなくては不十分である。実験が、連続・同一性の物質主義を確証していったと言えるのであるから。
 とまれ、形相と数量と実験の結合、これが、連続・同一性の数量=物質を生んだのである。
 さて、ここで、形相について言及すると、それは、超越論的形式から現象化したものである。根源は、超越論界、不連続的差異論のメディア界に存する。しかし、これは、メディア界の連続面・現象面にある。だから、ここにおいては、それは、イデア面と分離していないのである。即ち、イデア・シナジー性をもつ原型である。そして、これが、このまま、現象化して、特異性の現象となるのである。
 では、超越論的原型がどうして連続・同一性の形相へと変換されるのか。ここに、もっとも重大な転換の一つがあると言えよう。形式の、超越論界から現象界への転換である。超越論界(=イデア・シナジー界=メディア界)には、差異共振性がある。そして、超越論界の形式を形相化するには、この差異共振性を否定・排除する必要があるのである。ここが、一番のポイントである。思うに、問題は、連続・同一性ではないのかもしれない。問題は、連続・同一性中心主義だと考えられるよう。例えば、私の使用するコーヒーカップは、特異性でありつつも、コーヒーカップという連続・同一性である。ここでは、特異性と連続・同一性が矛盾せずに、併存しているのである。特異性→連続・同一性である。
 しかるに、連続・同一性中心主義になると、特異性を排除するのである。これは、いったい、どういう事態なのだろうか。何故、特異性・不連続的差異性を否定・排除するのか。
 思うに、作業仮説であるが、光と関係する。差異共振シナジーにおいて原光が生まれる。そして、それが、連続化するときに、原型が生まれる。これは、ほぼ現象界の光をもつ連続・同一性である。つまり、このときに、視覚が生まれているのである。視覚と連続・同一性との相互関係があるのである。しかし、差異共振シナジー界=メディア界においては、闇と光が不可分一体である。つまり、原光=闇と光とが一如である。しかし、視覚/連続・同一性が言語習得と結びつくと、視覚/連続・同一性/言語=光は、闇と分離する傾向をもつだろう。つまり、光の欲望が発生して、それが、闇を排斥するようになるのだろう。これが、連続・同一性中心主義の発生、一神教の発生、父権主義の発生であろう。差異共振シナジーの闇は忌み嫌われて、否定・排除されるのである。これが、西欧近代自我合理主義である。換言すると、原光→ 光が、「断絃」されて、原光と光が分離されるのである。闇と光の分離である。ゾロアスター教の発生である。そして、ここから、ユダヤ教、キリスト教と続くのである。イスラム教は、差異共振性への揺り戻しを含むと思うが、基盤は、やはり、分離である。
 結局、不連続的差異論/プラトン・シナジー理論は、この闇と光の分離を、イデア・レゾナンス・シナジー・フィールドの発見によって、解消して、新たに、結合・融合・一体化したと言えよう。新東洋哲学である。ル・ルネサンス=プロトモダンの新生である。そう、ここでは、闇と光が一体となっている。闇から光が生まれのである。原光=闇から光が生まれるのである。そして、闇は光であり、光は闇である。これは、私の直観にぴったりである。キリスト教の闇を照らす光という二元論とはまったく別である。キリスト教の光とは、闇から分離した光であり、連続・同一性中心主義の光、悪魔の光なのである。
 初めに闇ありき、そして、光が生まれた。また、闇の前に原闇があった。それは、無である。 

2006年07月13日 (22:43)

イデア・シナジーと量子力学:メディア平面と現象界時空四次元

以下は、「デリダの理論について」の論考の一部を抜き出したものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10014656318.html
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量子力学における粒子と波動の相補性について、簡単に考察してみたい。先ず最初に、粒子も波動も、唯物論自然科学の視点から、もたらされたものであることを、確認したい。物質主義的現象という実験・観測からもたらされた考え方である。唯物科学のパースペクティブから、差異共振シナジー様相という自然を捉えようとしているのが、量子力学である。換言すると、イデア・シナジー事象を、同一性主義唯物科学から仮説的に記述しているのが、量子力学だと考えられるのである。簡単に言うと、イデアを物質として捉えようとしているのである。【ヌース理論の誤りは、イデア=物質としている錯誤にある。これは、極めて、たちが悪い倒錯理論であろう。量子論は、唯物論によって徹底されているが、ヌース理論は、イデア論的物理学を唯物科学にし、また、同時に、唯物科学をイデア論的物理学にしているからである。はっきり言って、ペテン・詐欺・誤魔化し理論である。これは、イデア科学(プラトン・サイエンス)と唯物科学を混同した、お遊び理論・仮説ゲームである。】
 では、粒子や波動とは、プラトン・シナジー・サイエンスでは、どうなるだろうか。素粒子は、共振シナジー場における不連続的差異・原イデアではないだろうか。そして、波動とは、共振シナジー場における差異共振波動ではないだろうか。共振シナジー場において、粒子と波動とは正に、相補性をなしていると考えられるのである。あるいは、粒子即非波動である。
 そして、いわゆる非局所性についてであるが、不連続的イデア・共振シナジー・フィールドとは、当然、物質界ではなくて、シナジー化されたイデア界(メディア界=イデア・シナジー界)であるから、物質現象界の局所性の概念が不成立であるから、また、非局所性の概念も不適切であると考えられる。物質界の時空間はここでは成立していないのである。いわば、超時空間である。思うに、無限速度で、共振シナジー・「エネルギー」が移動していると考えられる。ここは、きわめて微妙な領域である。慎重に考えないといけない。次のように考えるといいだろう。イデア・レゾナンス(共振)・シナジーは、いわば、実現されたイデア界である。イデアのエネルゲイア化である。(だから、イデア界を、やはり、イデアのデュナミスと呼ぶのは当を得ているだろう。)そして、このイデア・エネルゲイアを、物質現象界のスクリーンに映しているのが、量子力学であるだろう。量子力学という物質主義スクリーンないし幕である。このスクリーン(洞窟のスクリーン)は、イデア・シナジーやイデア・エネルゲイアを素粒子や波動として、映し出しているのである。そして、ここは、時空間の局所性が支配すると仮説されているので、量子の非局所的な動きは、パラドックスとなるのである。もともと、超時空間の実在を、時空間のスクリーンに映し出しているので、このようなパラドックス