2006年08月30日 (03:06)

連続・同一性自我は、何故、全体主義的になるのか:自我絶対的暴力とは内在超越的暴力・狂気である。

これについては、ある意味では、検討済みではあるが、ここで、明確にしたい。
 連続・同一性自我・近代的自我は、差異・他者を否定・排除する。この否定・排除の暴力の度合いが問題なのである。狂気の暴力である。凶暴性があるのであるが、これは、全体主義的なのである。つまり、自我絶対的なのである。そう、これを問題にしたいのである。自我絶対的な暴力が、ここにはあるのである。この自我絶対的暴力の絶対性がどこから発しているのかである。父権暴力と言ってもいい。アメリカ国家暴力と言ってもいい。
 これは、根本から考えなくてはならない。即ち、極性エネルギーにおいて、プラス・エネルギーが連続・同一性志向性となると、これまで、考えてきた(仮説)。プラス・エネルギーが連続・同一性自我、換言すると、近代的自我を形成すると言える。すると、同一性自我・近代的自我とは、本来、超越的であるのがわかる。つまり、超越次元、コスモス次元から発動しているのであるから。この典型が、ヤハウェである。ヤハウェが、プラス・エネルギーによる連続・同一性自我の典型的表現だと考えられよう。超越神となるのは、正しいのである。不連続的差異論で言うメディア界という内在超越(超越論)界から発しているからである。そう、同一性自我暴力とは、言わば、内在超越的暴力であり、神的暴力なのである。私は、近代的自我を狂気と呼んできたが、ここから見ると、その狂気とは、内在超越的暴力であると解明できるのである。

ancient days

 これで、ようやく、この問題に、究極的に結論が出たような感じがある。近代的自我・近代合理主義について、これまで、おそらく、何百回と議論してきて、それなりに解明を試みてきた。これまでの、結論は、複合的なもので、粗差異とプラス・エネルギーの複合と見てきたのである。これは、これなりに正しいのであるが、ここでの究明によって、これが、内在超越次元の暴力狂気であることが明確になったのである。神的狂気、一神教的狂気、ヤハウェ的狂気ということになったのである。
 近代的自我の暴力・狂気とは、内在超越的・父権一神教的・ヤハウェ的狂気なのである。形而上学的暴力・狂気なのである。近代主義とは、明確に、形而上学的なのである。そう、だから、近代的自我の問題は、通常の理性・知性では解決しないのである。形而上学的事象なので、形而上学的解決が必要なのである。そう、結局、近代主義を形而上学的に解明する必要があるのである。そして、これは、新イデア論である不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論によってこそ、なされ得るのである。なぜなら、現代において、形而上学ないし哲学は、ほぼ壊滅状態であり、近代主義・近代的自我・近代合理主義を、批判的超克ができないからである。

p.s. これで、小泉首相の「狂気」も完璧に説明できるだろう。

p.p.s. 資本主義批判も、この根底から為され得るだろう。交換価値=貨幣経済とは、やはり、この形而上学・内在超越構造(ほぼ、カントの超越論的形式、あるいは、構造主義の構造に相当する)から発しているのであり、この構造を解体しない限り、暴力を振るうと言えよう。結局、資本主義は、この内在超越的暴力・狂気と結びついているのである。この内在超越的連続・同一性構造の脱構造化・解体・「脱構築」が必須である。これによって、差異共振シナジー経済・ポスト資本主義が可能となると考えられるのである。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が、この革命をもたらすだろう。内在超越論的連続・同一性自我=近代的自我の解体なくして、人類の未来はないだろう。ポスト近代的自我としての差異共振シナジー自我への変容が必須である。人類進化の黎明が、これで、もたらされるだろう。

注:画像The Ancient of Days by William Blakeは、以下からのものです。
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/blake/
WebMuseum
Blake, William
© 14 Oct 2002, Nicolas Pioch - Top - Up - Info

2006年08月28日 (21:07)

「ターシャム・オルガヌム(第三の論理学)」は「プロト・オルガヌム(原論理学)」と呼べよう

2006/08/28のBlog
「ターシャム・オルガヌム(第三の論理学)」は「プロト・オルガヌム(原論理学)」と呼べよう
[ 20:54 ] [ P.D.ウスペンスキー ]
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《私はこの高次の論理学の体系を「ターシャム・オルガヌム(第三の思考規範Tertium Organum」と呼んだ。なぜならそれは我々にとって、アリストテレスとベーコンの後に続く第三の道具あるいは第三の思考原則であるから。最初のものは「オルガノン(論理学)」であり、二番目のものは「ノヴム・オルガヌム(新しい論理学)」であった。しかし第三のものは最初のものよりも以前から存在していた。》 『ターシャム・オルガヌム』 p.318〜p.319

ということのなので、ターシャム・オルガヌムは、プロト・オルガヌムとも呼べよう。

 少し先走って述べているが、ターシャム・オルガヌムとは、鈴木大拙の即非の論理と一致すると推測される。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論では、メディア界の論理/差異共振の論理である。
[ 更新日時:2006/08/28 20:54 ]
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日本語訳『ターシャム・オルガヌム』の誤植
[ 19:58 ] [ P.D.ウスペンスキー ]
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「第20章 無限」であるが、p.303の終わりから四行目の∞の∞乗は、∞の誤植であろう。また、次のp.304の初めから9行目の「立方体」は、「正方形」の誤植であろう。
 以下、英訳を貼り付けるので、確認されたい。

The mathematics of transfinite numbers, so called, may serve as an example of "real mathematics," violating the fundamental axioms of our mathematics (and logic).

By transfinite numbers, as their name implies, is meant numbers beyond infinity.

Infinity, as represented by the sign ∞ is the mathematical expression with which, as such, it is possible to perform all operations: divide, multiply, raise to powers. It is possible to raise infinity to the power of infinity--it will be ∞∞. This magnitude is an infinite number of times greater than simple infinity. And at the same time they are both equal: ∞ = ∞∞. And this is the most remarkable property of transfinite numbers. You may perform with them any operations whatsoever, they will change in a corresponding manner, remaining at the same time equal. This violates the fundamental laws of mathematics accepted for finite numbers. After a

p. 250

change, the finite number cannot be equal to itself. But here we see how, changing, the transfinite number remains equal to itself.

After all, transfinite numbers are entirely real. We can find examples corresponding to the expression ∞ and even ∞∞ and ∞∞∞ in our world.

Let us take a line--any segment of a line. We know that the number of points on this line is equal to infinity, for a point has no dimension. If our segment is equal to one inch, and beside it we shall imagine a segment a mile long, then in the little segment each point will correspond to a point in the large one. The number of points in a segment one inch long is infinite. The number of points in a segment one mile long is also infinite. We get ∞ = ∞.

Let us now imagine a square, one side of which is a given segment, a. The number of lines in a square is infinite. The number of points in each line is infinite. Consequently, the number of points in a square is equal to infinity multiplied by itself an infinite number of times ∞∞. This magnitude is undoubtedly infinitely greater than the first one: ∞, and at the same time they are equal, as all infinite magnitudes are equal, because, if there be an infinity, then it is one, and cannot change.

Upon the square a2, let us construct a cube. This cube consists of an infinite number of squares, just as a square consists of an infinite number of lines, and a line of an infinite number of points. Consequently, the number of points in the cube, a3 is equal to ∞∞∞, this expression is equal to the expression ∞∞ and ∞, i.e., this means that an infinity continues to grow, remaining at the same time unchanged.

http://www.sacred-texts.com/eso/to/to23.htm
[ 更新日時:2006/08/28 20:05 ]
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検討問題:画像の風景と実際の風景の違い:視覚的仮象と特異性の感覚
[ 16:20 ] [ 検討問題 ]
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スクリーンセーヴァーに、風景の画像を流しているが、デジカメの画像は、なかなか、鮮明であるが、よく見ると、実際の風景のもつ特異性の感覚が欠落していると直観した。この点について、後で検討したい。
[ 更新日時:2006/08/28 16:24 ]
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ポストモダン理論が衰退した理由は、それが、真に構造主義を超克・克服していなかったからである
[ 15:08 ] [ ポスト・ポストモダニズム ]
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ポストモダン理論が衰退した理由は、それが、真に構造主義を超克・克服していなかったことである。ポスト構造主義と呼ばれた理論は、「ポスト」を指向したが、「ポスト」になれなかったのである。デリダの脱構築理論を見ると如実である。「ロゴス中心主義」を解体しておきながら、この解体も解体してしまうのであるから。中途半端な解体であったのである。不連続的差異論から見ると、脱構築理論は、メディア界と現象界の境界に位置していて、一方では、メディア界的極性があり、同一性を否定するが、他方では、現象界の同一性(「ロゴス」)に関与しているので、差異と同一性の併存となり、不整合な二元論になったと考えられるのである。
 ドゥルーズ哲学について、言及すると、それは、特異性である差異を連続性(連続的差異=微分)として捉えていて、メディア界と現象界を連続化させている点が特徴(欠陥・誤謬でもある)であり、デリダ哲学のような二元論性はないのである。しかしながら、特異性と連続的差異を混同するという、致命的な誤謬を犯していると考えられるのである。今、大局的に見ると、デリダ哲学の方が、ドゥルーズ哲学よりも、同一性の批判という点では、優れていたが、しかし、イデア論を提起した点では、ドゥルーズ哲学の方が優れていたと、考えられるのである。
 結局、両哲学とも、差異の絶対的不連続化による、連続・同一性構造からの脱却を為しえなかったため、真に純粋なメディア界・差異共振界(又は、イデア/メディア境界)に到達することができなかったのである。

注:以上は、「近代主義・唯物科学とは、精神・コスモス・イデア界の否定である」
http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913/2620682#2620682
の後記p.p.s.を独立させたものです。

p.s. 構造主義の構造とは、メディア界と現象界の境界、メディア/現象境界であり、連続・同一性構造である。ほぼ、カントの超越論的形式に当たるだろう。
[ 更新日時:2006/08/28 19:11 ]
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『ターシャム・オルガヌム』の「第18章 生命と知識」も、至高の叡智の章である。
[ 08:34 ] [ P.D.ウスペンスキー ]
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なんと至高の叡智に満ち満ちた章であろうか!道徳論がすばらしい。


《人生の意味は「知識(知ること)」の中にある。すべての人生、あらゆる出来事、事故、興奮、誘引などは人を常に何らかの知識へと導くものである。あらゆる人生体験は知識である。人間の中にある最も強力な感情は、未知なものへの欲求である。愛でさえ(・・・)、未知のものへの誘引、新しいものへの好奇心なのである。》 p.260


《道徳、あるいはここで述べたような道徳的美学は、我々にとって必要不可欠なものである。それなしには、我々は非常に容易く、言葉は最終的には行為と関わっているのだということを忘れてしまうからである。・・・我々は二つの世界に生きている。その一方では自己を過度に制限し、それについて意見を言う前にあらゆる考えを注意深く分析する。逆に、他方の世界では、あらゆる類の妥協を容易に許し、見たくないものからすぐ目を背ける。そして我々はこの分離に折り合いをつけているのである。それはあたかも高邁な理念を実行に移す必要はないかのようであり、「現実」と「霊性」の間の分離という原則をつくりだしたかのようである。その結果が現代世界のあらゆる奇怪さ--人生における無数の虚偽--出版、芸術、演劇、科学、政治における虚偽である。》 p.276


《「人間」には道徳が必要である。道徳という観点からのみ、人間の仕事と猿の活動を躊躇なく見分けることができる。同時に、道徳の領域ほど容易に錯覚が沸き上がるところはない。「自分の」道徳と道徳的説教に没頭することで、人は道徳的完成という目的を忘れ、目的は知識にあるということを忘れてしまう。彼は道徳自体の中に目的を見始める。そして、「良い感情」と「悪い感情」、「道徳」と「不道徳」というア・プリオリな区別が起こる。同時に、感情の目的と意義についての正しい理解は失われる。「良くあること」に没頭している人は、他のすべての人にも自分と同じであること、または自分の設定した遠い理想に適うことを求める。
 ・・・
道徳の暴君ほど残酷な暴君はない。
 ・・・
 しかし、人間には道徳が必要である。しかし、それは異なった種類の道徳--高次の知識の真のデータに基づく道徳でなければならない。人類は熱心にそれを求めており、おそらくそれを見出すであろう。》 p.277〜p.278


《科学、哲学、宗教、芸術は知識の形式である。科学の方法は観察、計測、経験である。哲学の方法は推理である。宗教と芸術の方法は道徳的または美学的な「感情的」示唆である。しかし、科学、哲学、宗教、芸術が本当に真の知識に仕え始めるのは、それらが直観を顕示し始めるとき、すなわち事物の内的な特質を感じ、見出したときである。》 p.279〜p.280


《・・・科学、哲学、宗教、芸術という区分そのものが不完全だということである。完全な宗教は、宗教、芸術、哲学、科学をその中に含んでいる。完全な芸術は、芸術、哲学、科学、宗教をその中に含む。完全な科学、完全な哲学は宗教と芸術を包含する。科学と矛盾する宗教、宗教と矛盾する科学は等しく誤りである。》 
p.280
[ 更新日時:2006/08/28 14:41 ]
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Charles Howard Hinton
[ 04:59 ] [ 高次元 ]
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From Wikipedia, the free encyclopedia
(Redirected from Charles H. Hinton )
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Charles Howard Hinton (1853 1907 ) was a British mathematician and writer of science fiction works titled Scientific Romances. He was interested in higher dimensions, and is known for coining the word tesseract and for his work on methods of visualising the geometry of higher dimensions. He also had a strong interest in theosophy .

In an 1880 article entitled "What is the Fourth Dimension?", Hinton proposed that the fourth dimension is time. This is one of the earliest expressions of this idea, later embraced by Einstein 's theory of relativity . Hinton later introduced a system of coloured cubes by the study of which, he claimed, it was possible to learn to visualise four-dimensional space (Casting out the Self, 1904). Rumours subsequently arose that these cubes had driven more than one hopeful person insane.

Hinton taught at Cheltenham Ladies College while he studied at Oxford , where he obtained his B.A. in 1877. From 1880 to 1886 , he taught at the Uppingham School in Uppingham , Rutland , where Howard Candler , a friend of Edwin Abbott Abbott 's also taught. [1] Hinton also received his M.A. from Oxford in 1886.

Hinton created several new words to describe elements in the fourth dimension. According to OED , he first used the word tesseract in 1888 in his book A New Era of Thought . He also invented the words "kata" (from the Greek "down") and "ana" (from the Greek "up") to describe the two opposing fourth-dimensional directions the 4-D equivalents of left and right, forwards and backwards, and up and down.

Hinton's Scientific Romances, including "What is the Fourth Dimension?" and "A Plane World" were published as a series of nine pamphlets by Swan Sonnenschein & Co. during 18841886. In the introduction to "A Plane World", Hinton referred to Abbott's recent Flatland as having similar design but different intent. Abbot used the stories as "a setting wherein to place his satire and his lessons. But we wish in the first place to know the physical facts." Hinton's world existed on the surface of a sphere rather than a flat plane. He extended the connection to Abbott's work with An Episode on Flatland: Or How a Plain Folk Discovered the Third Dimension (1907 ).

Hinton was convicted of bigamy for marrying both Mary Ellen (daughter of Mary Everest Boole and George Boole , the founder of mathematical logic) and Maud Wheldon. He served a single day in prison sentence, then moved with Mary Ellen first to Japan (1886 ) and later to Princeton University in 1893 as an instructor in mathematics.

In 1897 , he designed a gunpowder-powered baseball pitching machine for the Princeton baseball team's batting practice.[2] According to one source it caused several injuries, and may have been in part responsible for Hinton's dismissal from Princeton that year.[3] However, the machine was versatile, capable of variable speeds with an adjustable breech size, and firing curve balls by the use of two rubber coated steel fingers at the muzzle of the pitcher. [4] He successfully introduced the machine to the University of Minnesota where Hinton worked as an assistant professor until 1900, when he resigned to move to the U.S. Naval Observatory in Washington, DC .

At the end of his life, Hinton worked as an examiner of chemical patents for the United States Patent Office . He died unexpectedly of a cerebral hemorrhage on April 30 , 1907 . [5] [6]


Contents
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* 1 Influence
* 2 See also
* 3 Notes
* 4 Books
* 5 External links

Influence

Hinton was one of the many abstruse thinkers who circulated in Jorge Luis Borges 's pantheon of writers. Hinton is mentioned in Borges's short story, El milagro secreto (The secret miracle):

"The Vindication of Eternity he judged to be perhaps less deficient; the first volume recounts the diverse eternities that men have devised, from the motionless Parmenidean One to Hinton’s modifiable past; the second denied (with Francis Bradley ) that all the deeds of the universe integrate a temporal series."

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See also

* Spissitude

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Notes

1. ^ British Society for the History of Mathematics Gazeteer
2. ^ Hinton, Charles, "A Mechanical Pitcher", Harper's Weekly , March 20 , 1897 , p. 301302
3. ^ Archived Internet reference
4. ^ Hinton, Charles, "The Motion of a Baseball", The Yearbook of the Minneapolis Society of Engineers, May, 1908, p. 1828
5. ^ "Scientist Drops Dead", Washington Post , May 1 , 1907 .
6. ^ Several of these references are cited in the introduction to the book Speculations on the Fourth Dimension, edited by Rudolf Rucker.

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Books

* Scientific Romances: First and Second Series, orig. 1884 and 1885, reprinted 1976 with an introduction by James Webb, Arno Press, ISBN 0405079540
* The Fourth Dimension, orig. 1904, 1912 by Ayer Co., Kessinger Press reprint, ISBN 0405079532
* Speculations on the Fourth Dimension: Selected Writings of Charles H. Hinton, edited by Rudolf Rucker , 1980, Dover Publications, ISBN 0-486-23916-0 (includes selections from Scientific Romances, The Fourth Dimension, "The Recognition of the Fourth Dimension" from the 1902 Bulletin of the Philosophical Society of Washington, and excerpts from An Episode on Flatland)

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External links

* Hinton's writings at ibiblio.org
* Description of Hinton's system of cubes for "visualizing the fourth dimension" (pdf)

Retrieved from "http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Howard_Hinton "

Categories : 1853 births | 1907 deaths | British mathematicians | British science fiction writers
[ 更新日時:2006/08/28 05:06 ]
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ウスペンスキー掲示板過去ログ
[ 04:40 ] [ P.D.ウスペンスキー ]
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最初を少し読んだだけだが、ウスペンスキー紹介として、わかりやすいと思う。
http://homepage1.nifty.com/pdo/linkBBS.htm

http://homepage1.nifty.com/pdo/
から

p.s. 本ブログにリンクをはった。
[ 更新日時:2006/08/28 06:59 ]
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2006/08/27のBlog
近代主義・唯物科学とは、精神・コスモス・イデア界の否定である
[ 20:05 ] [ ポスト西洋文明 ]
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近代主義の牢獄・地獄は、まさに、ここに存するのである。近代合理主義狂気である。

p.s. また、高次元も否定しているのである。思うに、ロレンスのコスモスとウスペンスキーの高次元を一体化して、高次元コスモスないしコスモス高次元空間を提起できるだろう。

p.p.s.  当然、差異も、否定するのである。ここで、付言すると、ポストモダン理論が衰退した理由は、それが、真に構造主義を超克・克服していなかったことである。ポスト構造主義と呼ばれた理論は、「ポスト」を指向したが、「ポスト」になれなかったのである。デリダの脱構築理論を見ると如実である。「ロゴス中心主義」を解体しておきながら、この解体も解体してしまうのであるから。中途半端な解体であったのである。不連続的差異論から見ると、脱構築理論は、メディア界と現象界の境界に位置していて、一方では、メディア界的極性があり、同一性を否定するが、他方では、現象界の同一性(「ロゴス」)に関与しているので、差異と同一性の併存となり、不整合な二元論になったと考えられるのである。
 ドゥルーズ哲学について、言及すると、それは、特異性である差異を連続性(連続的差異=微分)として捉えていて、メディア界と現象界を連続化させている点が特徴(欠陥・誤謬でもある)であり、デリダ哲学のような二元論性はないのである。しかしながら、特異性と連続的差異を混同するという、致命的な誤謬を犯していると考えられるのである。今、大局的に見ると、デリダ哲学の方が、ドゥルーズ哲学よりも、同一性の批判という点では、優れていたが、しかし、イデア論を提起した点では、ドゥルーズ哲学の方が優れていたと、考えられるのである。
 結局、両哲学とも、差異の絶対的不連続化による、連続・同一性構造からの脱却を為しえなかったため、真に純粋なメディア界・差異共振界(又は、イデア/メディア境界)に到達することができなかったのである。
[ 更新日時:2006/08/28 19:12 ]
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ユダヤ・キリスト教的西洋文明は超悪魔的文明である:連続・同一性志向性の差異絶対否定の原動力がある
[ 19:11 ] [ ポスト・ユダヤ/キリスト教文明 ]
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以下は、次の論考の後記を独立させたものです。「連続・同一性の指向性(+エネルギー)は身体的成長力ではないのか:極性エネルギーの反転と近代的反動」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016312701.html
_______________________________

より根源的に考えると、唯物科学を生んだものは何であったのかという問題がある。直感では、デカルトの合理主義に問題があるのである。あいまいなものを否定し、排除するその合理主義力学に根因があるように思えるのである。精神性とは、唯物知性から見たら「あいまい」である。「あやふや」に思える。「いい加減」に思える。近代科学は、周知のように、確固たる、反復検証できる物質的証明を根拠として発展したのである。このデカルト合理主義(デカルトのコギトとは別の問題である)が、原因のように思えるのである。
 では、デカルトのこの合理主義の意志とは何なのだろうか。確かに、絶対的明晰さへの意志である。そう、これは、簡単に言えば、連続・同一性=プラス・エネルギーの指向性そのものだろう。連続・同一性の意志である。差異に対する否定である。そう、連続・同一性自我・近代的自我の意志である。
 どうも、ここに、途轍も無い事態があると思う。このデカルト的意志によって、世界は、唯物科学・技術主義となったのであるから。そう、ここには、真理への意志がある。誤謬に対する徹底的排除の意志がある。真理への自我意志と言ってもいい。これは、換言すると、ある事柄・事物は、Aであり、〜Aではない。つまり、ある事は、Aであるか、あるいは、非Aであるかのどちらかということである。排中律、アリストテレス論理学である。これは、現象形式論理学である。これが、思うに、デカルト的合理主義を裏付けていると考えられる。
 つまり、唯物科学の根因は、アリストテレス論理学・現象形式論理学であるということになるのである。この、いわば、形式論理学イデオロギーが近代科学・技術、唯物科学・技術の根底にあるということになる。
 では、さらに疑問を突き詰めると、何故、このイデオロギーに染まるのかである。それは、やはり、真理への意志である。知への意志である。ならば、なぜ、真理を意志するのか。換言すると、認識衝動である。ファウスト衝動と文学・思想の世界では言っているが。これは、結局、連続・同一性指向性のことであろう。ある現象に対して、連続・同一性指向性は、それを、当然、連続・同一性化するのである。それが、認識衝動である。結局、連続・同一性認識指向性が、この場合の、真理への意志と言えよう。プラス・エネルギーである連続・同一性指向性の認識衝動が、デカルト的合理主義の基盤・土台・根底にあるということになった。考えれば、連続・同一性志向性は、当然、二項対立の志向性であり、差異を徹底的に否定・排除・隠蔽するのである。「魔女狩り」である。「異端審問」である。西洋文明とは、ユダヤ・キリスト教文明とは、連続・同一性志向性の、超悪魔的文明なのである。

p.s. ■デカルト哲学と不安あるいは自己アイデンティティの問題

後で、検討したいが、デカルト的合理主義は、不安とアイデンティティ形成の問題から生まれたのではないかと言う思いがある。
 知を形成しないと、自己は不安なままである。自己確立のための合理主義だと思うのである。では、この不安とは何か。後で、考察しよう。
[ 更新日時:2006/08/28 02:07 ]
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連続・同一性指向性(プラス・エネルギー)は身体的成長力ではないか:極性エネルギーの反転と反動
[ 17:54 ] [ 現代日本精神病理/唯物科学の陥穽 ]
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連続・同一性指向性=プラス・エネルギーは、身体的成長力で、不連続的差異指向性=マイナス・エネルギーは、身体的老化力ではないだろうか。そして、精神とは、後者がもたらすものではないだろか。
 しかしながら、メディア界のエネルギー(これは、極性エネルギーであり、物資エネルギーではない。これについて、後で検討。)の変動に対して、自我が、反動的であると、なんらかの病気になるだろう。即ち、極性エネルギー(メディア・エネルギーと呼ぼうか)が、プラスからマイナスに転じたにもかかわらず、ある自我が、プラス様態、つまり、連続・同一性様態に固執するなら、それは、精神病理になると考えられるのである。また、その自我は、創造力が枯渇し、知的精神的に衰退するのでもあると考えられる。(これは、ユングが中年の危機と呼んだことと、関係するだろう。p.s. 私見では、厄年は、これが合理的な原因ではないかと推測している。)
 マイナス・エネルギーの賦活化に対して、現代の唯物科学では、まったく、為す術が無いのは、ここに起因するだろう。
 このマイナス・エネルギー=不連続的差異指向性(イデア界への回帰指向性)に対する反動精神病理について、ここで、繰り返すと、賦活されたマイナス・エネルギーを否定・排除・隠蔽しようとするのであるが、その抑圧自体が、マイナス・エネルギーの反作用を受けているのであるが、その反作用が、非合理な衝動、即ち、狂気・暴力になると考えられるのである。存在しているマイナス・エネルギー(イデア界への回帰指向性)を否定しようとすれば、その反作用・反動は、非合理主義となるしかないだろう。なぜなら、存在しているマイナス・エネルギーを、合理的に、知的に、意識的に、理解しようとはせずに、連続・同一性合理主義に則さないことで、否定するからである。無理解の、傲慢な衝動がここには生じるのである。 
 ここの心的問題については、既述済みだが、ここで、修正的に言うと、この反動暴力・狂気が発生の原因については、差異の質の相違、即ち、粗差異か微差異かの相違が第一の根因であると述べたが、先に述べたように複合的原因を考えた方が適切のように思える。即ち、

1)粗差異であること
2)近代的自我・近代合理主義・唯物科学による、微差異教養文化(精神文化・精神知性)の死滅

この二者が主原因であると思えるのである(もっとも、他にも、副原因があるが)。この二つの原因が複合化して、差異に対する反動暴力・狂気が発動していると考えられるのである。


p.s.  より根源的に考えると、唯物科学を生んだものは何であったのかという問題がある。直感では、デカルトの合理主義に問題があるのである。あいまいなものを否定し、排除するその合理主義力学に根因があるように思えるのである。精神性とは、唯物知性から見たら「あいまい」である。「あやふや」に思える。「いい加減」に思える。近代科学は、周知のように、確固たる、反復検証できる物質的証明を根拠として発展したのである。このデカルト合理主義(デカルトのコギトとは別の問題である)が、原因のように思えるのである。
 では、デカルトのこの合理主義の意志とは何なのだろうか。確かに、絶対的明晰さへの意志である。そう、これは、簡単に言えば、連続・同一性=プラス・エネルギーの指向性そのものだろう。連続・同一性の意志である。差異に対する否定である。そう、連続・同一性自我・近代的自我の意志である。
 どうも、ここに、途轍も無い事態があると思う。このデカルト的意志によって、世界は、唯物科学・技術主義となったのであるから。そう、ここには、真理への意志がある。誤謬に対する徹底的排除の意志がある。真理への自我意志と言ってもいい。これは、換言すると、ある事柄・事物は、Aであり、〜Aではない。つまり、ある事は、Aであるか、あるいは、非Aであるかのどちらかということである。排中律、アリストテレス論理学である。これは、現象形式論理学である。これが、思うに、デカルト的合理主義を裏付けていると考えられる。
 つまり、唯物科学の根因は、アリストテレス論理学・現象形式論理学であるということになるのである。この、いわば、形式論理学イデオロギーが近代科学・技術、唯物科学・技術の根底にあるということになる。
 では、さらに疑問を突き詰めると、何故、このイデオロギーに染まるのかである。それは、やはり、真理への意志である。知への意志である。ならば、なぜ、真理を意志するのか。換言すると、認識衝動である。ファウスト衝動と文学・思想の世界では言っているが。これは、結局、連続・同一性指向性のことであろう。ある現象に対して、連続・同一性指向性は、それを、当然、連続・同一性化するのである。それが、認識衝動である。結局、連続・同一性認識指向性が、この場合の、真理への意志と言えよう。プラス・エネルギーである連続・同一性指向性の認識衝動が、デカルト的合理主義の基盤・土台・根底にあるということになった。考えれば、連続・同一性志向性は、当然、二項対立の志向性であり、差異を徹底的に否定・排除・隠蔽するのである。「魔女狩り」である。「異端審問」である。西洋文明とは、ユダヤ・キリスト教文明とは、連続・同一性志向性の、超悪魔的文明なのである。
[ 更新日時:2006/08/28 06:34 ]
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粗差異人間と微差異人間:アメリカン・グローバリズムと脱グローバリズム
[ 03:33 ] [ ポスト近代的自由主義 ]
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後で検討したいが、一言述べると、アメリカ型個人主義は、近代的自我主義であり、差異主義/差異共振主義ではない。前者は粗差異的であり、後者は微差異的である。

p.s. アメリカ型個人主義は、おおよそ、近代的自我主義でいいのだが、差異を内在させてはいる。つまり、差異を同一性で、言わば、目眩ししているのである。
[ 更新日時:2006/08/27 04:47 ]
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2006/08/26のBlog
批評:ウスペンスキー著『ターシャム・オルガヌム』
[ 22:21 ] [ P.D.ウスペンスキー ]
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批評:ウスペンスキー著『ターシャム・オルガヌム』
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/ouspen.html
[ 更新日時:2006/08/26 22:21 ]
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粗雑な差異(弱差異)と微細な差異(強差異):ポスト資本主義としての差異共振シナジー経済
[ 21:42 ] [ 同一性と差異 ]
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これまで、弱差異(劣弱な差異)と強差異(高貴な差異)と区分してきたが、これは、問題になっているものは、単に強弱ではなくて、質の相違の問題である。だから、粗雑な差異と微細な差異と呼び分けた方が、より適切であるように思える。
 考えてみれば、粗雑な差異は、連続・同一性(略して、連同性と呼びたい)化したとき、確かに、粗雑なために、同一性に一致したままで、疑問・疑念が生じないだろう。それに対して、微細な差異は、連続・同一性化を被っても、同一性化されない微細な差異が存しているのを直感しているだろう。だから、同一性に対して批判的になれるのである。
 結局、人間種は、少なくとも、粗雑な差異型と微細な差異型の二種類のタイプが存するということになる。弱差異と強差異というよりは、この方が明敏であろう。だから、粗差異と微差異と言おう。
 現代の問題は、粗差異な人間が、グローバリズムで支配していることである。粗差異人間による人間・地球・自然破壊が行われているのである。
 もし、粗差異人間と資本主義が対応しているなら、微差異人間と対応する経済システムとは何か。それは、資本主義ではありえないだろう。差異共振シナジー経済となるのではないだろうか。これこそ、ポスト資本主義である。

p.s. 微差異は、妙差異でもいいだろう。


参照:

★「アメリカの裏庭」と言われた中南米、ラテンアメリカでいま続々と左派政権が誕生し、アメリカが主導する南北アメリカの政治・経済の統合にノーを突きつけ始めた。

アメリカはこれまで軍事力でラテンアメリカの政権を転覆し、IMF(世界通貨基金)や世界銀行などを通じて経済の構造改革を求めてきた。しかし、そうしたアメリカの対策が、独裁政権を生みだし、貧困と格差をもたらしたことに民衆が目覚め、当のアメリカに対して異議申し立てを始めたのである。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/060721.html
8月26日(土)【日曜午前】 0時50分1時39分
21世紀の潮流 ラテンアメリカの挑戦(2回シリーズ)
第1回「脱アメリカ宣言 ベネズエラ 7年目のチャベス革命」


★ 世界最悪の「格差社会」、ラテンアメリカで今、新たな挑戦が始まっている。「平等な社会」を目指そうとする左派政権が、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ベネズエラ、ボリビアで相次いで誕生したのである。これらの国々は、経済再建のため、早くからアメリカ主導の、「規制緩和」「民営化」「外資の導入」といった新自由主義経済を受け入れてきた。しかし、それは逆に「格差」の拡大を生み出し、人々は不満を募らせていった。

ブラジルを始め、左派政権の国々が去年団結して反対したのが、アメリカが進めてきたFTAA(米州自由貿易圏)の構想だった。FTAA構想は、関税を撤廃し、多国籍企業により大きな自由を与えることで経済を活性化させようとするものであった。これに対し、左派政権の国々は、新たな市場を中国、インドなどに求めようとする、いわば「脱アメリカ」に動き始めたのだ。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/060804.html
8月26日(土)【日曜午前】 1時40分2時29分
21世紀の潮流 ラテンアメリカの挑戦(2回シリーズ)
第2回「格差からの脱出 ブラジル・チリ」
[ 更新日時:2006/08/27 04:27 ]
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ウスペンスキーはプラトン的精神哲学者である。
[ 20:03 ] [ P.D.ウスペンスキー ]
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ウスペンスキーは、神秘思想家と紹介されているが、それは、語弊がある。イデア論的ないしプラトン的精神思想家ないし哲学者と呼ぶべきであろう。叡知学者である。

p.s. プラトニック高次元哲学者ないしプラトニック高次元叡知学者である。

______________________________

P.D.Ouspensky(1878-1947)
 ピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキーは1878年3月5日、モスクワに生まれる。五歳のときにはツルゲーネフやレールモントフを愛読し始める。学校教育にはなじめず、高等学校を中途退学。20代後半から、ジャーナリストとしての仕事の傍ら、『第四次元』『超人論』『ヨーガとは何か』『タロットのシンボリズム』といったオカルト的著作を発表。1912年に刊行された『ターシャム・オルガヌム』で神秘思想家としての地位を確立。
http://homepage1.nifty.com/pdo/linkPD.htm


『P.D.ウスペンスキーの世界』
http://homepage1.nifty.com/pdo/
[ 更新日時:2006/08/27 03:38 ]
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『ターシャム・オルガヌム』第16章は感動的にすばらしいが、「霊と物質」は「精神と物質」に訂正せよ
[ 18:15 ] [ P.D.ウスペンスキー ]
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ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』の第16章は、驚異的にすばらしい。後でできれば、引用したい。しかし、問題は、日本語訳の見出し「霊と物質」である。以下の英語訳では、見出しはついていない。内容からは、「霊」ではなくて、「精神」とするのが、正しい。「霊」とは、先に論述したように、「精神」の唯物論・物質化であり、カテゴリー・エラーを犯している不正な観念なのである。「霊と物質」とは、有り体に言えば、誤訳であるから、見出しをつけるなら、「精神と物質」としなくてならない。

p.s. 各章のタイトルは、訳者が、読者の便宜を図ってつけたということであった。英訳本そして原書には、もともとついていなかったのである。確かに、見出しで明瞭になるが、このような、ミスリーディングな見出しは問題である。とまれ、全体に読みやすい明快な訳ではあると思う。

__________________________

p. 176
CHAPTER XVI

The phenomenal and the noumenal side of man. "Man-in-himself." How do we know the inner side of man? Can we know of the existence of consciousness in conditions of space not analogous to ours? Brain and consciousness. Unity of the world. Logical impossibility of the simultaneous existence of spirit and matter. Either all spirit or all matter. Rational and irrational actions in nature and in the life of man. Can rational actions exist alongside irrational? The world as an accidentally self-created mechanical toy. The impossibility of reason in a mechanical universe. The irreconcilability of mechanicalness with the existence of reason. Kant concerning "hosts." Spinoza on the knowledge of the invisible world. Necessity for the intellectual definition of that which can be, and that which cannot be, in the world of the hidden.

WE know what man is only imperfectly; our conceptions regarding him are extremely fallacious and easily create new illusions. First of all, we are inclined to regard man as a certain unity, and to regard the different parts and functions of man as being bound together, and dependent upon one another. Moreover, in the physical apparatus, in man visible, we see the cause of all his properties and actions. In reality, man is a very complicated something, and complicated in various meanings of the word. Many sides of the life of a man are not bound together among themselves at all, or are bound only by the fact that they belong to one man; but the life of man goes on simultaneously on different planes, as it were, while the phenomena of one plane only at times and partially touch those of another, and may not themselves touch at all. And the relations of the same man to the various sides of himself and to other men are entirely dissimilar.

Man includes within himself all three of the above-mentioned orders of phenomena, i.e., he represents in himself the combination of physical phenomena with those of life and psychic phenomena. And the mutual relations between these three orders of phenomena are infinitely more complex than we are accustomed to think. Psychic phenomena we feel, sense and are conscious of in ourselves;


http://www.sacred-texts.com/eso/to/to19.htm
[ 更新日時:2006/08/27 15:52 ]
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同一性自我狂気の分析:弱差異同一性自我西洋文明と強差異自我コスモス新文明の「ハルマゲドン」
[ 14:37 ] [ 現代日本精神病理/唯物科学の陥穽 ]
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先に、「ある狂人の分析:現代日本の機械・メカニズム/同一性自我狂気は、どこから発生したのか 」http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913
を提出したが、ここで、整理してみたい。
 先の考察のポイントを箇条書きしよう。

1)機械・メカニズム/同一性自我狂気シンドローム:近代合理主義の帰結なのである。唯物論的科学主義の帰結
2)彼の差異はもともと劣弱な差異、弱差異であった
3)同一性感情・欲望の異常な嫉妬心が、怪奇性を生んでいる
4)連続・同一性指向性=プラス・エネルギーが否定・排除・暴力的である:二項対立
5)同一性自我の一般的否定相と、反動的否定相が重なっている

補足して、整理すると、


A)弱差異であること:過剰な同一性:異常な嫉妬心

B)連続・同一性の二項対立

C)戦後日本の唯物科学思想環境:差異的教養・精神文化の死滅

D)「ポストモダン」状況による、差異の賦活化に対する、同一性自我の反動化:狂気化・精神病化


少なくとも、以上の四点の複合型(複合型同一性狂気)として、「ある狂人」の同一性的狂暴・凶暴性を分析・解明できるだろう。
 ここで、内因である弱差異について、少し補足しよう。この原因は、自然・宇宙の必然性と言うしかないだろう。根源的「差別」・「不平等」があるのである。シェイクスピアのリア王の三姉妹の長女と次女(ゴネリルとリーガン)の冷酷無惨さと末娘(コーディリア)のやさしさについて、劇中で、どうして、このような違いが生まれたのかという哲学的問いを発していた。これは、エドガーとエドマンドの差異と言ってもいい。二つの自然の問題である。
 シェイクスピアは鋭敏に、差異の優劣の存在を認識していたのである。それも、近代の発生期において。近代は、連続・同一性自我が発生する時期であり、弱差異の人間にとっては好都合であったのである。ニーチェ流に言えば、「賎民」の時代なのである。あるいは、末人の時代である。何かの終わりである。
 近代の問題点は、ルネサンスは差異の発生でありながら、宗教改革は反動的な同一性の強化であったことである。このルネサンス/プロテスタンティズムの二重性を認識しないといけない。そして、差異の優劣の違いによって、この二重性が、能動化するのか、反動化するのか、分かれるのである。弱差異の人間は反動化し、強差異の人間は能動化するのである。社会・政治的に言えば、戦争か平和である。しかしながら、近代は、弱差異の人間・精神的劣者が主導的であったのである。
 この問題に関して、ニーチェは、永遠回帰の思想を提起した。ニーチェは、超越的次元の問題、イデア論の問題を提起したのである。そして、ロレンスはコスモスを、ウスペンスキーは、高次元思想を説いたのであった。
 現代は、「黙示録」的終末論的時代である。ポスト西洋文明のエポックである。西洋近代において、否定・排除・隠蔽された、差異・コスモス・超越高次元の知が、近代主義を超克するエポックである。「黙示録」的戦争が行われているのである、現在。弱差異同一性自我機械文明と強差異特異性自我コスモス新文明との戦争である。

p.s. 「ある狂人」の主観構造について、もう一点付け加えると、弱差異であり、同一性自我が、差異エネルギーを否定して、反動差異エネルギー/同一性自我という様態となっているのであるが、転換の契機は、「ある狂人」が、自身の主観性を測深・省察して、否定反動化されている差異エネルギーを認知し、能動的観念(スピノザ)に変容することである。弱差異ではあっても、差異エネルギーが潜在しているのであり、それを意識・能動化しないことから、怪奇的な同一性狂気・暴力が反復脅迫化されているのである。一言で言えば、自己認識の欠落・欠損である。唯物科学は、この自己認識を欠落・欠損させているのである。何故なら、主観性・知性とは、物質的客観性の認識であり、自己認識ではないからである。そう、唯物科学は、自我の精神的認識、精神的知性を否定しているのである。この点、致命的である。悪魔の科学である。
[ 更新日時:2006/08/27 23:51 ]
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2006/08/25のBlog
ある狂人の分析:現代日本の機械・メカニズム/同一性自我狂気は、どこから発生したのか
[ 23:07 ] [ 現代日本精神病理・狂気分析 ]
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私は、ある狂人を念頭において、分析しようとしている。傲岸不遜で無礼ではあるが、彼は、言葉の形容では足りない、言葉では言い尽くせない異常性・狂気をもっている。それを、なんとか、概念・観念化しようとしているのである。
 普通の人は、自我感情・欲望を制御して、日常生活を送るが、彼の場合、それが、いわば、むき出しである。他者への精神的感情、共感性、倫理観が、無である。だから、通常の言葉では、形容し切れないのである。言葉は確かに、同一性ではあるが、これは、差異と差異との関係を表現する指向があるだろう。つまり、他者関係表現の側面をもつ。しかるに、彼には、他者は存在しないのである。差異は完全に同一性化されているのである(細かく言えば、実は、差異は無意識化されているのであるが)。そう、世界は、同一性の世界である。彼の連続・同一性自我が中心となっているのである。同一性一色の世界なのである。ここでは、言葉は、いわば、無力化するのである。完全な同一性暴力があるのである。絶対主義・独裁主義・全体主義と呼ぶこともできよう。しかし、政治権力をもっているわけではないから、そう呼ぶのは、大袈裟である。
 とまれ、彼に対しては、言葉は無力となり、いわば、沈黙を余儀なくされるのである。邪道・悪道・外道ではある。
 そこで、私は、ここで、なんとか分析を展開しようとしているのだが、思ったのは、機械・メカニズム的狂気と呼ぶのが的確なのではないかということである。完全な同一性、二項対立、0と1、正誤二元論、等の世界なのであるから。アリストテレス的論理の徹底である。ここには、差異が完全排除されているのである。精神の排除である。機械的知性だけである。そう、同一性狂気と呼ぶこともできよう。
 困るのは、彼には、差異・他者が存在しないので、対話ができないことである。思い込み、決めつけ、独断・独善・妄想の世界なのである。パラノイアあるいは、妄想的人格障害だろうか。
 私は、これは、彼だけの狂気ではなくて、現代日本の社会・精神病理症候群ではないかと思うのである。おそらく、彼に極端に発現してはいるとは思う。考えれば、小泉首相も同一性狂気の類型に属する。ここには、他者・差異・精神・倫理・仁義の侮蔑・蹂躙・無視がある。悪魔的とも言える(後で、悪魔について議論したい)。
 具体的に言えば、嘲り・憎しみ・反感・嫌悪感等が剥き出しになっているのである。幼児的精神ではある。スピノザ的に言えば、歓喜ではなくて、悲哀の感情が基盤になっているのである。ともかく、否定的感情が基盤になっているのである。社会的精神が完全欠落しているのである。非道・無道な自我である。
 この機械・メカニズム/同一性自我狂気シンドロームであるが、これは、哲学的には、西欧近代主義の帰結と言えるだろう。つまり、近代合理主義の帰結なのである。唯物論的科学主義の帰結なのである。悪魔たちを生んだのである。
 最後に、私が問題にしたいのは、精神は、共感性は、歓喜は、仁義はどこに行ってしまったのかということである。これは、彼を見ていると、強く思うのである。
 強い憎悪・侮蔑・傲慢・妄想(自己優越)・攻撃性があるが、これは、ある意味で、競争心の歪みである。常に、ライバルと自我を比べて、勝ち誇りたいという歪んだ競争心があるのだ。とまれ、やはり、一言で言えば、同一性欲望である。個・差異・特異性としての自我の完全喪失なのである。
 では、精神・共感性・歓喜・仁義・個・差異はどこに行ったのかという問題に答えてみよう。一番簡単な答えは、彼の差異はもともと劣弱な差異、弱差異であったのであり、もともと、それらの心的能力はなかったということである。この点は否定できないが、しかし、社会学的な解答ではない。
 社会学的解答・解明は、以前既述したことに存すると思うのである。即ち、戦後唯物論・拝金・実用主義的近代合理主義である。これは、精神的主観性の独立・自律性を否定・侮蔑する思想である。簡単に言えば、精神の侮蔑である。唯物主義、唯物科学主義、物質的合理主義である。これが、彼の主観性を占めていると思うのである。この戦後日本の唯物思想という知的環境に、彼は染まってしまって(マインド・コントロール)、精神性を完全に否定・排除・隠蔽して、精神のブラックホール状態になっているということだと思うのである。
 結局、機械・メカニズム/同一性自我狂気の原因は、彼の内因もあるが、社会的要因は、戦後日本社会の唯物科学思想環境にあるということである。

p.s. ■内的差異を否定する同一性狂気

付け加えると、内的他者である差異自我の否定の問題がある。つまり、自己否定がここにはあるのである。一種、自殺的行為でもある。差異にこそ、真の自我があるからである。
 なにか、ここには、とても異様な事態がある。そう、怪奇というべき事態である。そう、彼に感じるのは、怪奇な傲慢さである。単に、傲慢狂気ではなくて、怪奇な傲慢さなのである。あるいは、怪奇な、異常な、病的な競争心・闘争心・攻撃性である。この怪奇というのが、ポイントだと思う。まぁ、狂気とも言えるのであるが。そう、異常な嫉みでもあるのである。そう、嫉妬心である。我慢できない嫉妬心が、怪奇な傲慢な闘争心になっているのである。だから、女性的な感性でもあるのである。そう、彼には、女性性を感じるのである。非常に父権的闘争心の陰には、女性的嫉妬心があるのである。だから、一種性的同一性障害に入るのかもしれない。
 とまれ、怪奇を生んでいるものがこれで判明したようだ。同一性感情・欲望の異常な嫉妬心が、怪奇性を生んでいると思う。つまり、嫉妬心が狂気化しているのである。狂気の嫉妬心である。

p.p.s. ■差異と同一性の分離、そして、反動化する同一性

同一性による差異の排除は、自他への暴力である。この差異排除の否定的行為に、憎悪・嫌悪、侮蔑、等が存しているだろう。
問題は、この差異自我と同一性自我との関係である。ここで、不連続的差異論から見ると、メディア界では、差異が共振している。しかし、極性があって、プラス化したり、マイナス化したりする。即ち、連続・同一性の志向をもったり、不連続性の志向をもったりする。つまり、メディア界においては、自我は、差異と同一性(仮象)の二重性をもっていると言える。しかし、これは、共立している二重性であり、分化してはいない。
 しかし、プラス・エネルギーによって、連続・同一性の志向が主導的になると、差異は同一性の指向性に否定されて、差異と同一性が分離するようになる。つまり、自我が、差異自我と同一性自我とに分裂するようになると言えよう。そして、前者は、潜在化(無意識化)すると言えよう。そう、この連続・同一性指向性=プラス・エネルギーが否定・排除的である。つまり、連続・同一性志向性とは、暴力的なものであるということになる。二項対立的自我を形成すると言えよう。
 ある狂人にあるのは、この力である。普通、成長し経験を積むと、差異を肯定するようになるのであるが、彼は、差異を否定したままである。つまり、幼児性があると言えよう。また、さらに、成人であるから、マイナス・エネルギーが発動していて、差異が賦活されていると考えられるのである。それにもかかわらず、彼は、差異を強く否定しているのである。つまり、ここでは、同一性が反動的に、差異を否定しているのがわかるのである。そう、だから、彼の場合、同一性自我の一般的否定相と、反動的否定相が重なっていると考えられるのである。これが、怪奇・狂気を生んでいると考えられるのである。
 ここのポイントは、この賦活された差異を否定する同一性の狂気にある。この点は、先に十分に述べたので、ここでは説明しないが、彼の徹底した差異の排除は、差異の劣弱さにあると思うのである。もともと、優れた差異があれば、否定されても、意識に顕在する力をもっていると考えられるのである。

2006年08月25日 (14:58)

「第14章 石の声」(『ターシャム・オルガヌム』)は至高の章である

毎夏、おそらく、十年以上は、至福・至上の歓喜とともに、新たな視野・地平・視点・思考・認識・知をもたらしてくれた書物に出会っている。今夏は、ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』にとどめを刺す。まだ、半分弱しか読んでいないが、今読んだ「第14章 石の声」は、至高の思想をもっている。不連続的差異論的内容も含んでいる。少し引用しよう。

《船乗り、死刑執行人、聖者を、異なった「働き」という観点から調べてみれば、影だけ見れば同じに見えるにしても、実際には彼らはまったく違った人間であり、お互いに何の共通点もないことが分かる。彼らは異なった存在であり、異なったカテゴリーに属し、お互いに何のつながりもない世界に生きている。・・・》 
p.185

《詩人は船のマスト、絞首台、十字架が「違った木」でできていることを知っている。彼は教会の壁の石と刑務所の壁の石との違いを理解している。彼は「石の声」を聞き、古い壁の言葉や、葬式の塑像、廃墟、森、川、平原の言葉を聞く。彼は「沈黙の声」を聞き、沈黙の心理的な違いを聞き分けることができ、異なった沈黙があることをしっている。》 p.188

《虚偽であることが明らかにされねばならない概念の一つは、人間の「同一性」と「平等性」という概念である。実際には、「死刑執行人」と「船乗り」と「聖者」の間の違いは、・・・、橋渡し不可能な深淵によって隔てられているのである。それは、「殺人」、「労働」、「祈り」のような行為がまったく異なった世界に属するのと同じである。
 ・・・
 実際に、すべての芸術の役割は、このつかみどころのない違いを理解し、表現することにある。画家にとっての色、音楽家にとっての音のように、芸術家にとって物質世界は単なる素材でしかない。それは本質世界を理解し、それを表現するための手段に過ぎないのである。・・・生命の神秘は、「ヌーメノン(本質)」、すなわち物の隠れた意味と働きが「フェノメノン(現象)」の中に反映されているという事実にある。「現象」は我々の領域における「本質」の反映なのである。一言で言えば、「フェノメノン(現象)はヌーメノン(本質)のイメージである。」 ・・・ 「現象」の中に反映した「本質」は「芸術家の魂」と呼ばれる精妙な器官によってのみ感じられ、理解されうるからである。》 
p.189〜p.190


参照:
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016163589.html
『ターシャム・オルガヌム』(P.D.ウスペンスキー著)を、強く推薦する
テーマ:P.D.ウスペンスキー 400ページ以上もある本書を、100ページ足らずしか読んでいないが、これは、天才的著書である。是非、読書されることを、お奨めしたい。
 内容は高度な高次元理論であるが、叙述は、平易明快なものなので、一般の方でも十分読解することができるものであると確信する。
 引用したい箇所が多くあるが、余裕がないので、割愛する。


リンク:『ターシャム・オルガヌム』
http://homepage1.nifty.com/pdo/TERTIUMORGANUM.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~aeon-ms/booksalon/bs_17.htm
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4795223793/250-8960880-5103431?v=glance&n=465392
http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%A5%BF%A1%BC%A5%B7%A5%E3%A5%E0%A1%A6%A5%AA%A5%EB%A5%AC%A5%CC%A5%E0&fr=moz2&rls=org.mozilla:ja-JP:official
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%8C%E3%83%A0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

『P.D.ウスペンスキーの世界』
http://homepage1.nifty.com/pdo/

その他
http://www.amazon.co.jp/gp/richpub/listmania/fullview/R38YX9LQP61Q67
http://en.wikipedia.org/wiki/P._D._Ouspensky

2006年08月24日 (13:08)

複合型反動精神社会症候群:特異性自我はどのようにして、連続・同一性自我・近代的自我となるのか

本件の問題に関しては、私は、ある種の人を念頭において考えている。つまり、自らの特異性・差異を排除・隠蔽して、連続・同一性へと同化している自我、即ち、近代的自我をもつ人たちである。
 本来、差異と同一性の二重性が、自我にはあるが、近代主義は、前者を否定して、後者中心の近代的自我を形成したと言えよう。そして、これが、今日の世界・社会の「狂気」を生んでいると考えられる。
 これまで、執拗に本件について検討を重ねてきたが、そして、それなりに、解明はしてきたが、本質洞察がいまだに形成されていないと思われるので、ここで、議論したい。
 問題の核心の一つは、自我意識の位置である。「わたし」の意識である。不連続的差異論の視点から見ると、メディア界においてプラス・エネルギーが発生して、それが、連続・同一性自我志向性と形成する。本来、メディア界的自我、差異自我があるのだが、それが、連続・同一性作用によって、差異自我が否定・排除・隠蔽されるのである。適切に言えば、差異自我が、同一性自我に覆われてしまうということだろう。
 本来、差異として存する自我意識が、連続・同一性化されて、連続・同一性自我意識となり、本来の差異を排除・隠蔽するのであり、この排除・隠蔽が、暴力、即ち、自我内部、自我外部への差異・他者への攻撃・暴力欲望となっているのである。
 この差異自我意識の、連続・同一性自我意識への変容は、仮象・自己欺瞞・虚構・虚偽であると言える。つまり、連続・同一性自我意識とは、不誠実なものであるのである。差異自我意識の糊塗なのである。プラス・エネルギーはそのような自我意識の自己欺瞞をもたらすのである。
 しかしながら、これまで述べたように、マイナス・エネルギーによって、この連続・同一性自我意識とは別に、新たに、本来の差異自我意識が発生すると考えられるのである。このとき、連続・同一性自我意識と差異自我意識は分裂・衝突・葛藤するのである。しかし、問題は、連続・同一性構造の超越論形式(カント)によって、この差異自我意識を純粋化できないのである。反動化してしまうのである。結局、差異自我意識は、連続・同一性自我意識によって、取り込まれてしまうのである(参照:大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」)。
 あるいは、そのようでない場合、即ち、連続・同一性自我が、イデオロギー的に、差異自我意識を否定・排除する場合があるのである。そう、私が、ここで、問題にしたいのは、この場合である。つまり、連続・同一性構造の拘束というよりは、連続・同一性自我意識の反動の場合である。正しく言えば、どちらも反動であるが、前者は無意識的であり、後者は意識的である。
 後者は近代主義イデオロギー的であるが、また、なにか「遺伝子」ないし気質・性格に関係するように思えるのである。即ち、個人的内在的要因である。ここで、先に述べた、弱い差異「遺伝子」(以下、遺伝子)が関係すると考えられるのである。弱差異遺伝子は、差異自我意識のエネルギーが弱いので、連続・同一性自我意識が、差異自我意識の否定・排除・隠蔽を継続すると考えられるのである。
 だから、問題はかなり複雑である。「ポストモダン」状況においては、マイナス・エネルギーが賦活されて、差異自我意識が発生する。しかし、連続・同一性構造のために、それが、反動化する傾向がある。これが一般状況である。しかし、それだけでなく、差異遺伝子の強弱の個人的相違があるので、弱差異遺伝子の個人の場合、連続・同一性自我意識が強力に作用して、差異自我意識を否定・排除・隠蔽し続けるのである。連続・同一性中心自我意識と言ってもいいだろう。
 だから、結局、「ポストモダン」状況において、「アイロニカルな没入」と弱差異遺伝子による連続・同一性中心自我意識の両者が重なって、精神病的な連続・同一性自我意識が発生すると言えるのである。これが、現代社会、日本や世界の近代的自我狂気の本体であると言えるだろう。弱差異遺伝子と「ポストモダン」的反動が結合した、精神・社会病理現象なのである。これは、人類(サル人類)、西洋文明の終末現象と言うのが正確な診断であろう。

p.s. 補足すれば、純粋な差異自我意識、特異性・単独性をもつ差異自我意識を形成(ビルドゥング;「教養」と訳されてきた)する文化、いわば、差異文化(芸術や宗教や哲学等)が、現代において、軽視・軽蔑・無視等されていること(例えば、石原都知事による都立大学ツブシ、等)も、この社会・精神病理の一つの要因だと考えられるのである。これは、拝金主義=金融中心資本主義が生んでいるヴァンダリズム(文化破壊主義)である。
 整理すると、

1)連続・同一性構造の無意識的反動
2)弱差異遺伝子の反動
3)拝金資本主義的ヴァンダリズム的反動

となる。少なくとも、この三要素が複合化したものが、現代日本・世界の精神・社会病理現象の原因と診断されるのである。複合型反動精神社会病理シンドロームである。

2006年08月22日 (13:26)

強い差異と弱い差異とは、零度エネルギーの強弱から生まれる

以下は、「強い差異と弱い差異」の後記を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016108918.html
______________________________

1)零度差異の質の相違について
2)女性と男性の差異の相違について

1)について検討すると、私の直観では、強い差異とは、連続・同一性化しても、零度差異が残っているのであり、弱い差異とは、連続・同一性化によって、零度差異が否定・排除・隠蔽されるようなイメージなのである。この点をどう説明するのだろうか。
 つまり、イメージでは、強い差異は、その一部が、連続・同一性化されるのであり、他の部分は、零度のまま残るのである。そして、弱い差異は、ほぼ全体か全体、連続・同一性化するのである。
 ここで、基本から考えると、零度エネルギーとは極性エネルギーだから、プラスとマイナス両極をもちうるのである。そして、プラス・エネルギー化したときは、当然、反作用として、マイナス・エネルギーが発動するのである。これが、自然作用である。
 しかし、弱い差異は、イメージでは、この反作用であるマイナス・エネルギー化が連続・同一性による反動を被るのである。つまり、プラス・エネルギーによる連続・同一性構造が、マイナス・エネルギーの賦活・差異エネルギーの賦活に反動的作用をもたらすのである。このイメージと上述した差異の連結の多様性はつながるのだろうか。
 次のように考えたらどうだろうか。零度エネルギーとは、常時の生成変化・生成消滅作用である。だから、プラス・エネルギーによる連続・同一性化も、零度エネルギーによって、常に解体化を被るのである。思うに、零度エネルギーの強弱が、ここで、重要な点のように思える。強い零度エネルギーならば、強い生成変化・生成消滅作用を発生させるのであり、弱い零度エネルギーならば、弱い生成変化・生成消滅作用をもたらすと、単純に考えられるだろう。
 ということで、強い差異とは強い零度エネルギーであり、それは、強い生成変化・生成消滅作用をもっているのに対して、弱い差異とは弱い零度エネルギーであり、弱い生成変化・生成消滅作用をもっていると考えられる。そして、プラス・エネルギーによる連続・同一性自我構造に対して、強い差異は、零度差異共振性を維持するのに対して、弱い差異の連続・同一性自我構造は、おそらく、その慣性から、それ自体の弱い零度エネルギーを否定・抑圧・隠蔽する反動作用をもつのではないかと考えられるのである。
 そうならば、上述した多様な連結性の有無は、直接は関係ないことになるだろう。それは、結果に過ぎない。だから、ここで、訂正する。強い差異と弱い差異の相違は、差異の多様な連結の有無に起因するのではなくて、零度差異共振エネルギーの強弱・大小に拠るということになる。
 ということで、強い差異と弱い差異とは、零度エネルギー=差異エネルギーの強弱に拠ると言うことができるのである。これを現段階での結論としたい。

______________________________

p.s. 本文の通りならば、強差異遺伝子と弱差異遺伝子があることになり、西欧近代主義とは、後者による世界支配であると言えよう。結局、これは、人類の劣化ないし退化ではないだろうか。イタリア・ルネサンスは、前者であったが、プロテスタンティズムが後者であり、前者を否定していったと言えよう。
 問題は、既述したが、弱差異遺伝子の発現の意味は何であるのかである。それが、現代、人類を絶滅の危機に陥れているのであるから。
 それは、一言で言えば、唯物科学・技術の発達ではないだろうか。そう、これがなければ、コンピュータは存在しないだろう。「科学・技術」、これである。また、「民主主義」。結局、先に触れたが、同一性の知をもたらしたことだろう。同一性的一般性をもたらしたのである。同一性原理の完成、これが、弱差異遺伝子の発現の意義だろう。

______________________________

p.p.s. 現代世界は転倒している:精神弱者が世界を支配して、人類を滅亡の危機に陥れている

ニーチェは、まったく正しい。
弱差異遺伝子の「賎民」が世界を支配しているのである。
西洋文明は、弱差異遺伝子と強差異遺伝子との混合であるが、近代は、前者が後者を否定してしまったのである。西洋文明の末期、ポスト西洋文明の時代、新コスモス文明の時代である。

______________________________

3p.s. 以上の考えから、女性の差異と男性の差異との相違点は、もはや明らかだろう。前者は、本来、強差異遺伝子をもち、後者は弱差異遺伝子をもっているのである。つまり、おそらく、イデア界がもたらすメディア界の変化によって、プラス・エネルギーが賦活される事態が発生して、それにより、男性の弱差異遺伝子が活動の機会を得て、女性の強差異遺伝子の文化・文明、例えば、女神の文明(シュメール文明、クレタ文明、前ケルト文明、縄文文明、等)を破滅させたのである。そして、女性的宗教が、魔術・魔道として、扱われたのであり、女性司祭が魔女となったのである。【この点については、ジョセフ・キャンベルの『神の仮面』(白水社)を参照されたい。】
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791753917/sr=8-1/qid=1156214854/ref=sr_1_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791753925/ref=pd_sim_gw_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8
http://www.amazon.co.jp/gp/product/014019441X/ref=pd_sim_b_4/250-8960880-5103431?ie=UTF8




 しかし、今や、弱差異遺伝子・男性社会・父権主義・西洋文明は終末期・末期現象となっている。新しい強差異遺伝子の地球/コスモス・エポックが始まるのである。占星術では、水瓶座・宝瓶宮の時代と言っている。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論では、差異共振シナジー・エネルギーのエポックである。



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■現代世界は転倒している:精神弱者が世界を支配して、人類を滅亡の危機に陥れている

ニーチェは、まったく正しい。
弱差異遺伝子の「賎民」が世界を支配しているのである。
西洋文明は、弱差異遺伝子と強差異遺伝子との混合であるが、近代は、前者が後者を否定してしまったのである。西洋文明の末期、ポスト西洋文明の時代、新コスモス文明の時代である。

2006年08月21日 (13:13)

民主主義批判と差異共振共立政治へ向けて:劣弱差異と優強差異:サル人類とコスモス人類

民主主義は、国是であるし、国際的な世界的価値観なので、批判しにくいが、あえて、試みたい。
  民主主義は、成人の国民に、平等に、直接ないし間接の選挙権を与えること、そして、過半数選別の原理が基盤であると言えよう。実効的な、国民平等の原理がここにあるのである。つまり、ここには、同一性の原理がはたらいているのである。国民は、一人一人平等=同一性ということである。
 しかし、不連続的差異論によれば、個とは、差異・特異性・不連続的差異であり、絶対的不平等である。原理として、不平等原理である。差異原理である。(p.s. プラトニック・シナジー理論は、差異共振シナジーを提唱するので、単純な差異原理ではない。差異共振原理である。)
 ここからして、民主主義批判が生じる。これは、政治学・社会学の問題であるが、私は、差異の視点から考察したい。
 やはり、ニーチェが、ラディカルな問いを発している。それは、『道徳の系譜』である。ここで、ニーチェは、人間の優劣を位階性をはっきり主張している。私は、これを、二年前には、劣弱な差異と高貴な差異というように区分した。そして、なんとか、一元論的に説明しようとしたが、うまくいかなかった。最近も、極性エネルギー論で考えて、近代主義批判として、整合化できたが、しかしながら、何故、ある人は、差異主義であり、ある人(サル人類)は、同一性主義なのか、その説明がつかないのである。
 これは、結局、根本的に、少なくとも二種類の人間がいると考えた方が、合理・整合的なのである。すなわち、 劣った弱い主観性の持ち主と勝れた強い主観性の持ち主がいるということである。こう考えると、すべては、整合的に説明がつくのである。そして、今日、世界・日本は、狂気が支配しているが、結局、考えると、前者の人間が支配者の位置についていることからきているのだし、それを民主主義で選挙した同類の国民がいることからきているのであるし、それを煽っている同類の(、もっとも、より邪悪ではあるが、)マスコミがいることから来ているのである。つまり、今日、前者の人間が支配して、狂気・破滅主義の世界を作っているのである。結局、民主主義は、これに対して、ブラインドなのである。首相のセリフ「個人の自由」になるのである。(また、「個人」という言葉であるが、この場合は、あいまいであり、同一性自我でもあるし、個(差異)でもありえる。とまれ、首相の言葉はあまりに軽々し過ぎると言わざるをえない。)
 結局、私の、現段階の結論は、ポスト民主主義として、差異位階主義・差異ヒエラルキーが必要であるということで、まさしくニーチェ主義である。ニーチェがナチスに利用されたと言われるが、ナチズムは、民主主義から生まれたのである。
 差異位階主義は、較差主義ではない。新イデア論である。根源的なイデア界を認めることが、正気の世界をもたらすと考えられるのである。ポスト民主主義としての新イデア論、イデア論的政治である。だから、イデア論的政治家、イデア論的国民を形成していかないといけない。イデア論的差異政治主義である。

p.s. 補訂すると、成人の国民に平等に選挙権を与えるというのは、同一性の原理、すなわち、近代主義の原理そのものである。おそらく、これは、最低線と見るべきなのだろう。これは、認めるべきだろう。だから、私が言いたいのは、このベースを基にして、差異主義へと転換しなくてはならないということである。民主主義の超越包摂(以下、超包)としての差異政治主義を唱えているのである。超包民主主義である。あるいは、差異民主主義である。
 思うに、近代主義は、民主主義、近代合理主義(近代科学・唯物科学)、近代的自我(同一性自我)を生み出したと言えよう。新イデア論的差異主義とは、これを超克することを説いているのである。つまり、近代主義は、今や、限界を通り越して、狂気となっているのである。超包近代主義である。

p.p.s. 以上を少し整理すると、民主主義は、同一性の政治原理であり、ここには、差異の視点は、原理的には欠落している。ここで、民主主義批判が成立しよう。しかし、民主主義は、いわば、経済で言えば、貨幣経済のようなものであり、貨幣制度は、廃止できない。つまり、同一性原理は、社会の基盤として認めざるをえない。
 というように考えると、近代主義は、同一性原理の完成であると言える。これは、社会の基盤を保証する原理であると言えよう。これは認める。しかし、差異の視点がないために、今日、反動・狂気化しているのである。だから、同一性主義・近代主義を乗り越える思想・理論・原理が必要になっているのである。即ち、超越包摂近代主義・民主主義=新イデア論的差異主義が考えられるのである。


参考:『道徳の系譜』

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003363949/sr=8-1/qid=1156121950/ref=sr_1_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480080813/sr=8-2/qid=1156121950/ref=sr_1_2/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway



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■精神的弱者と精神的強者

簡単に言えば、こうなるのである。前者は、抜け目ないから、支配するのである。狡猾なのである。悪魔の狡猾さである。悪賢さとずる賢さである。
renshi (2006-08-21 10:54:17)

■小泉首相は、劣弱な主観性の持ち主か?

この点で、私の考察は、難点を呈するようだ。小泉首相は、決して弱い主観性の持ち主ではない。異常な主観性の持ち主ではある。どう見たらいいのかと言えば、いちおう中間的な人間とは言えるが、主導的なのは、劣弱な主観性であると言えよう。
renshi (2006-08-21 12:07:13)

■劣弱な差異・主観性だから、反動・狂気化するのだろう。

小泉首相の場合、基盤は、劣弱な差異・主観性である。だから、反動・狂気化すると考えられるのである。
 もし、優強な差異・主観性があれば、反動性を帯びても、それに距離をもつ精神性が生じるのである。反動性への懐疑が生じるのである。
 だから、小泉首相の場合は、劣弱な差異・主観性の持ち主であるというのが正しいのである。
renshi (2006-08-21 12:17:01)

■小泉首相は、劣弱な差異・主観性の裏返しの蛮勇である。本文無し

本文無し。
renshi (2006-08-21 12:18:48)

■しかし、劣弱な差異と優強な差異は平行線ではないか:次元が異なるのであるから

とは言え、劣弱な差異には、優強な差異は認識できないという一種不可知論があるのである。
 だから、単純に差異民主主義にはなりえない。二つの人類の存在。二つの差異の人類という超根源的な問題がある。ニーチェは超天才である。生物学的には、人間類であるが、差異・質的には、異なる二種類の人類が併存しているのである。
 サル人類とコスモス人類である。質的に異なる個体に、同一性の原理(民主主義)を適用できるのか。喩えて言えば、火星人に民主主義が適用できるのか。
 民主主義は理想主義的である。差異共振共立主義が必要だろう。差異共振政治である。差異共振精神において、差異は、共振し、共立するのである。やはり、ポスト民主主義として、差異共振共立政治、差異共振共立主義、簡単に、共振共立主義である。
renshi (2006-08-21 12:56:01)

2006年08月18日 (16:12)

狂人は、自分が狂人であることを認識できない:いかに狂気を乗り越えるのか

後で検討したいが、大江健三郎のエッセイで、『我らの狂気を生き延びる道を教えよ』
http://www.ops.dti.ne.jp/~kunio-i/personal/oe/oebook.html#wareranokyouki
があったが、私が思っているのは、「我らの狂気」ではなくて、近代主義の狂気をどう乗り越えるかである。
  私は何年も前から、近代的自我は、狂気であるという論を証明しようと努力してきたが、今や、それは、正しいことが証明されたのであるが、では、実際、どうやったら、この狂気の現実を乗り越えることができるのかが問題である。とは言え、近代化とは、無意味であったのかと言えば、そんことはないだろう。でも、なんという犠牲を生んだことだろう。
 近代化を評価するなら、それは、何と言っても、個を形成したことだろう。デカルトである。コギトである。単独的自我の形成である。しかし、すぐに、これが、近代合理主義・唯物科学へと転換されてしまい、狂気を生んだのである。この二重性を直視しないといけない。単独的自我の形成、これこそ、近代のエッセンスである。そして、近代合理主義・唯物科学という狂気に道を拓いてしまったのである。悲劇的近代としか言いようがないだろう。
 しかし、デカルト以前、イタリア・ルネサンスの原動力は、実は、単独的自我だと思われるのである。いわば、デカルトが定式化したように思うのである。そう、デカルトは、いわば、ルネサンス/プロテスタンティズムの二重性を代表していると言えよう。
 とまれ、単独的自我を近代合理主義へと転化せずに、進展させることが至難であったのである。これは、主に、詩人、哲学者の担ったのである。デカルトからの最初の進展は、スピノザであり、その次は、カントであった。決定的進展は、ニーチェであった。そして、フッサールであった。そして、文学者では、ヘルダーリンやD.H.ロレンスであった。結局、20世紀前半で頓挫してしまった形である。フランス・ポストモダンの流行現象は、反復ではあったが、未熟であった。
 結局、その間、政治・経済の現象界は、近代合理主義という狂気が発展したのであり、今も、グローバル資本主義という狂気の経済が駆動しているのである。ブッシュ/小泉狂謀コンビが登場したのである。マスコミは、当然、狂気のマスコミである。狂気が世界を支配しているのである。
 しかし、2004年、Kaisetsu氏との遭遇により、いわば、奇蹟的な理論、不連続的差異論が生まれたのである。これこそ、失われた単独的自我の真の近代の理論の創造的発展であったと考えられるのである。
 結局、この理論そして進展形態であるプラトニック・シナジー理論によって、狂気の近代主義を乗り越える地平が開けたと言えるのである。
 しかし、この理論を理解している人が、どれほどいるのか。この理論をさらに発展させ、普及することが、狂気の近代主義・唯物科学を乗り越える実践的方法であるということだろう。そう、この理論は、近代主義的理論をほぼ全滅させるだろう。近代主義の書物を反故にするだろう。これは、超知的革命なのである。超ニーチェ的理論なのである。超破壊的超創造的理論である。この理論を理解した人は、至福、至上の歓喜を得よう。超至高・超最勝の理論である。

2006年08月18日 (10:40)

資本主義の問題点:投資中心主義批判:投資-復資極性経済:双極資本主義へ向けて

炊事をしているが、誰でもやる人は分かると思うが、後片づけ、汚れた食器を洗う作業が面倒でたいへんなのである。これは、単に物理的な負担だけでなく、精神的負担もある。
 そんなことをいつも感じているのだが、ふと、これは、経済、資本主義に適用できる視点ではないかと思ったのである。つまり、資本主義は、創造的投資を行い、利益を拡大する指向をもつ。これは、いわば、創造的破壊である。そう、投資で、創造するのである。新しい製品、産業、施設、建物、等々を生み出す。しかし、これは、炊事で言えば、おかずを作る、料理するの産出側面であるが、しかしながら、後片づけの側面が欠落しているのである。そう、さまざまなゴミも出るのである。
 これを理論化すると、前者は排他的形成であり、当然、排除されたものがあるのである。つまり、産物と非産物の二元論がここには生じているのである。そして、前者に関心が集中して、後者は無視されるのである。しかし、ゴミが出るし、食器は汚れるのであるから、ゴミを捨てないといけないし、食器を洗い、テーブルをきれいに拭かないといけないし、等の、回帰の側面が必要なのである。これは、「生産」ではなくて、いわば、再構築の側面である。だから、炊事に関して言えば、構築/再構築の極性力学があるのである。極性ダイナミクスである。
 これは、少し考えれば、自然の律動的営為である。つまり、生死の循環である。そう、循環・回帰運動である。サイクルである。私の言いたいことは、リサイクルなのかと言えば、理念的にはそうである。しかし、いわゆる、リサイクルではないことはお分かりになるだろう。通常のリサイクルは、ゴミ、他に限定されるからである。
 私の考えているリサイクルは、経済全体におけるそれである。生産と消費が対にされて論じられるが、それは、私がここで言う極性にはあてはまらない。炊事の視点から見ると、生産と消費は同じ極に属するのである。つまり、生産・消費には、再構築の極・視点が欠落しているのである。生産・消費は構築極なのである。すると、当然、破壊が生じているのである。極性論から言うと、それに見合う再構築・再創造の営為が必要なのである。だから、生産・消費という破壊的創造の経済に対して、再構築・再創造の経済が必要であるということである。
 ここで、資本主義を考えると、それは、自明的に前者である。いわゆる、リサイクルは、前者の枠組みのものに限定されていると言えるだろう。
 ということで、炊事の視点・極性力学から見ると、対資本主義経済が必要である。資本主義をプラス経済とすると、マイナス経済が必要なのである。そして、結局、根本的には、極性経済が必要であるということになるのである。これは、ポスト資本主義であろう。
 では、どうすれば、いいのだろうか。思うに、現在の構築資本を、再構築資本を含む極性資本にすれば、いいのではないだろうか。投資に対する再構築資本が必要とされよう。これは、投資ではなくて、戻資(れいし)、返資(へんし)、復資(ふくし)、元資(げんし)、等である。とりあえず、復資と呼ぶ。結局、投資と復資の極性をもつ経済が必要であると言うことである。極性経済であるが、投資と復資の極性を考えて、極性資本主義ないし双極資本主義と呼べよう。
 後でさらに検討したい。

2006年08月15日 (12:05)

コスモス史という新歴史観の仮説

コスモス史という新歴史観の仮説
テーマ:ID(インテリジェント・デザイン)理論
先に、差異共振シナジー界(メディア界)の極性エネルギーの変化による、コスモスの「歴史」ないし「進化」について示唆したが、ここで、少しそれを考えてみたい。
 先に、次のように述べた。《コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。》http://ameblo.jp/renshi/entry-10015795855.html
結局、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーの交替の織り成す運動体としてのコスモス史の仮説である。以前に、イデア界史という観念を立てたが、それに類似しているとは言えるが、差異共振極性エネルギーの力学という点では、明確に異なっている。
 結局、このコスモス史は構造的にきわめて単純明快である。振り子運動とらせん運動を形成するということであるからだ。だから、問題は、この構造の展開をどう形式化するかにあるだろう。
 不連続的差異論のガウス平面における1/4回転が基本力学であるが、これと極性力学とをどう結びつけるかが重要である。(おそらく、インテリジェント・デザイン理論・ID理論とも、この点で関係してくるだろう。)
 ここで、思考実験しよう。最初の1/4回転によって、零度差異共振性が形成される。それが、垂直に捩れるのであるが、これが、プラス・エネルギーでるあるとしよう。つまり、垂直の力は、プラス・エネルギーによるものとしよう。
 次に、二番目の1/4回転、即ち、2/4回転が発生するとする。それは、零度差異共振性を解除するのである。これは、マイナスの不連続的差異共立のイデア界への回帰としよう。そして、これが、マイナス・エネルギーを発生させるとしよう。この考えを、同様に適用すればいいことになるのである。奇数回の1/4回転は、プラス・エネルギーを発生させ、偶数回の1/4回転は、マイナス・エネルギーを発生させるとする仮説するのである。(2n−1回が、+エネルギー、2n回が、−エネルギーである。)
 問題は、エネルギーの次元と現象の次元である。ガウス平面をXY座標として、エネルギー軸をXY座標に直交するZ軸としよう。だから、奇数回の1/4回転は、Z軸の+の方向のエネルギーが発生することになるだろう。そして、偶数回の1/4回転は、Z軸の−の方向のエネルギーが発生すると言うことになるだろう。そうならば、Z軸において、プラスとマイナスの往復運動が生起されると言えよう。このエネルギーの極性運動は、対称的である。例えば、これは、Z軸では、+、−、+、−、・・・の反復となる。だから、連続・同一性志向性は+Z軸の方向、差異・差異共振志向性は−Z軸の方向と見ることができるのではないだろうか。
 とまれ、そう見るなら、エネルギー軸であるZ軸は、メディア界に存すると言えよう。より的確に言えば、メディア/現象境界に存すると言えよう。そして、ここから現象界へと展開するのであるから、ここで、現象軸として、P(PHENOMENA)軸を作業仮説しよう。+エネルギーの場合、連続・同一性志向であるから、それを+P軸とし、−エネルギーの場合、差異・差異共振性志向であるから、それを−P軸としよう。思うに、現象界において、+P軸を見ているのだろう。これが、空間三次元・時空四次元なのではないだろうか。−P軸とは、−現象であり、おそらく反世界であろう。反物質の世界であろう。しかし、それは、正しくは、差異共振・共立界ではないだろうか。つまり、日常の現象界においては、+P軸を感覚しているだけで、−P軸は「不可視」・無感覚なのである。
 では、コスモス史を考えるとどうなるだろうか。最初の1/4回転で、Y→Z→Pと三段階をもつ。次の1/4回転でも、符号が反対になるが、同様であろう。すると、1/4回転で3位相をもつから、ガウス平面の一回転は、3×4=12位相となる。ここで、作業仮説として、この12位相が、占星術の12星座(正しくは、12宮)に転移されたとしよう。つまり、ガウス平面的イデア論的コスモスが、天界に投影されて、占星術の12宮(黄道十二宮)を生んだとしよう。
 さて、問題は、太陽とこの12位相の関係である。結局、太陽とは何なのかということになるだろう。あるいは、地球は何なのかということになるだろう。ここでも、思考実験ないし作業仮説であるが、ガウス平面の原点(0,0)を原太陽として、不連続的差異・イデアを原惑星・原地球としよう。そうすると、12の位相において、原太陽と原惑星・原地球との関係が形成されると考えられよう。  
 どういうことかと言えば、ガウス平面における原点と不連続的差異・イデアとの関係が、原コスモス・原宇宙関係であるということである(作業仮説)。この原点/差異という原コスモス・原宇宙関係が、12位相を形成すると言うことである。原コスモス・原宇宙を原太陽/原惑星の原太陽系とすると、それは、12位相をもつ原太陽系となるだろう。即ち、原太陽系12位相ないし12位相原太陽系である。これが、占星術の12宮あるいは黄道十二宮の原型ではないのだろうか。
 さらに緻密に言えば、原太陽系を拡大して、原銀河系、原全宇宙というように展開できるだろう。つまり、原太陽系12位相は、原銀河系/原全宇宙に適用できるということになるだろう。つまり、簡単に言えば、原太陽系12位相と、原銀河系/原全宇宙とは相似形であると言えるのではないだろうか。つまり、原太陽系12位相と原銀河系/原全宇宙は照応しているということではないだろうか。これが、ミクロコスモス=マクロコスモスの観念の広い意味ではないだろうか。
 もし、そうならば、原太陽系12位相は、根源的な力学構造を意味していることになるだろう。つまり、原太陽=原点は、単なる恒星ではなくて、イデア界における根源的な意味をもっているものである。おそらく、「原神」と呼んでいいものではないだろうか。そして、原惑星は、「原天使」ではないだろうか。思うに、ここには、一神-多神教ないし一元-多元性とでも言うべきこれまで、ほとんど知られていない世界があると言えよう。
 さらに、思考実験すると、原太陽系12位相において、原点と不連続的差異・イデア、原太陽と原惑星は、基本的には、ペンタグラム・五芒星を形成するらしいということである。基本数5である。これを今の思考実験として、差異5=原惑星5=基本数5としたい。原点・原太陽1+差異5・原惑星5=計基本数6となる。
 さらに思考実験であるが、これは、1/4回転において、YZ平面上で、零度差異共振シナジーによ手、正多角形を形成するとしよう。すると、YZ平面で正五角形、即ち、ペンタグラム・五芒星が形成されることになる。
 また、さらに思考実験すると、原太陽系12位相であるから、正五角形×12位相=60準位相(差異位相)が形成されるとしよう。これが、思うに、原コスモス・原宇宙の基本単位数ではないだろうか。ホワイトヘッド的に言えば、コスモロジーないし「有機体」の基本単位数となるだろう。
 後の問題は、プラトン年の数、25920(=432×60)をどう考えるかである。432=3×144=3×12^2=12×3×12=12×36である(。さらに展開すれば、3×4×3×3×4=3^3×4^2=2^4×3^3である)。だから、プラトン年25920=12×36×60である。そして、1位相は、36×60=2160である。そして、これを差異数・原惑星数5で割ると、2160÷5=432という数となる。つまり、1差異、1原惑星当たり、432という数である。そして、正五角形において、一頂点と隣り合う一頂点の作る内角は、72度であるから、432÷72度=6年/度である。だから、1位相正五角形において、1度当たり6年となる(6×360度=2160年)。
 とまれ、1差異・1原惑星当たり432年とは何を意味するのだろうか。(もし、6差異で考えると、2160÷6=360である。1差異当たり、360年である。)
 ここで、思考実験して、5差異・5原惑星と原太陽の関係を考えると、原太陽と一つの差異・一つの原惑星と関係すると仮定すると、1原太陽/原惑星として、432年が出てくる。(p.s. そこに姿を表すパルテノン神殿は、紀元前432年、優秀な建築家や工芸家が集められて造られたものです。http: //via.z1.bbzone.net/ath.htm)これを、仮に、1原惑星原太陽年(以下、1惑星太陽年)と呼ぼう。そう、先に、準位相60を見たから。1準位相432年とも言えよう。ここで、さらに思考実験すると、432年をコスモス史の画期として、プラトン(Πλ?των (Platon), 紀元前427年 - 紀元前347年)を紀元前432年の代表と見ると、プラトンの次は、当然、イエス・キリストである。

次の432年は、何だろうか。
431年 - エフェソス公会議でネストリウス派(のちの景教)が異端宣告される。
「西暦432年、聖パトリック氏は、アイルランドにキリスト教を広めました。『セントパトリックスディ』は、彼の追悼の日になります。この日は、世界中でパレードが行なわれます。また、アイルランドの国花が『三つ葉のクローバー』!三つ葉のクローバー』または『緑色の服』や『緑色のもの』を身に付けることで、祝う習慣があるようです。アメリカ、シカゴでは川を緑色に染めてしまう程、お祭りをお祝いします。」
http://amoretto.cocolog-nifty.com/amoretto/2006/03/index.html
「2005年03月18日

今日は St. Patrick's Day!

アイルランドの守護聖人と言われているセント・パトリックは、432年にアイルランドに伝道に赴いてキリスト教を広めた人です。それまでアイルランドは、ケルト人が古くから信じる、ドルイド教が主流だったのです。」
http://www.itoh.com/2005/03/_st_patricks_day.html
434年 - アッティラがフン族の王となる。

その次は何か? 432×2=864年である。

* 862年 - 伝説ではノルマン人 ルス族のリューリク がノブゴロド公国 を建国する。ロシア 国家のはじまり。
* 863年 - 東ローマ帝国 のメトディオス 、キュリロス (コンスタンティノス)兄弟がスラヴ人 に対してキリスト教 伝道を開始する。
* 864年 - 富士山 貞観 噴火
* 864年ごろ - ブルガリア王国 のボリス1世 がキリスト教に改宗する。
* 866年 - 応天門の変 がおこる。応天門放火の罪で大納言 伴善男 が流罪となる。
* 867年 - 東ローマ帝国 でバシレイオス1世 がクーデターで皇帝に即位。マケドニア王朝 を開く。
* 867年 - イラン にサッファール朝 が興る
* 868年 - エジプト にトゥルーン朝 が興る



ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri、1265年 1321年 9月14日)は、第三の準位相(432×3=1296年)か。

* 1295年 - マルコ・ポーロ 、ヴェネツィア に帰国する。
* 1296年 - イングランド 王エドワード1世 、スコットランド よりスクーンの石 を奪う。
* 1297年 - 鎌倉幕府 が、永仁の徳政令 を出す。
* 1298年 - 伏見天皇が譲位し、第92代後伏見天皇 が即位。
* 1299年 - オスマン帝国 成立。


* 中世
* インカ帝国 の成立。
* オスマン帝国 の成立。



第四の準位相は、1728年だ。イマヌエル・カント (*1724年 - 1804年 )だろうか。第五は、当然、2160年である。

* エドマンド・バーク
* イマヌエル・カント (*1724年 - 1804年 )
* カール・フォン・リンネ (*1707年 5月23日 − +1778年 1月10日 )
* フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ (*1743年 1月25日 - +1819年 3月10日 )
* ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
* フリードリヒ・フォン・シラー
* コシチューシコ(コシューシコ )
* ジョージ・ワシントン



 とまれ、432年で止まってしまった。後で、再考したい。

参考1:歳差運動
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%B7%AE%E9%81%8B%E5%8B%95
http://homepage2.nifty.com/eman/dynamics/precession.html
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%AD%B3%E5%B7%AE%E9%81%8B%E5%8B%95&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

参考2:432
http://www.geocities.com/jirimruzek/osirnum.htm
http://www.greatdreams.com/432.htm
http://www.halexandria.org/dward092.htm
http://www.mtvdance.com/philoscience/432page.html
http://www.trivortex.com/Key.htm
http://www.metafilter.com/mefi/26791
http://members.aol.com/johnkeely/scale.html
http://www.poee.org/living/GetPage.aspx?ID=124
http://www.google.co.jp/search?q=%EF%BC%94%EF%BC%93%EF%BC%92%E3%80%80%EF%BC%92%EF%BC%95%EF%BC%99%EF%BC%92%EF%BC%90&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&hl=ja&client=firefox&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial


 
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■歳差運動と捩れ

歳差運動によって、プラトン年が発生している考えられている。どうも、差異の1/4回転による垂直の捩れと関係がありそうな気がする。後で検討したい。

2006年08月13日 (23:46)

ルネサンスとプロテスタンティズムの構造力学:差異と同一性の対立構造力学

ルネサンスとプロテスタンティズムの構造力学:差異と同一性の対立構造力学
テーマ:差異と同一性
以下は、次の論考の後記を独立させたものです。
「同一性・イデオロギー自我の利己的欲望の構造について:同一性自我と差異自我」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015772189.html

_________________________

 補足説明をして、以上の問題を明快なものにしたい。
 プラス・エネルギーが発生するときは、確かに、差異共振性が否定される連続・同一性志向性が発動し、現象自我が形成されると見ていいだろう。これの帰結が父権神話、超越一神教である。
 それに対して、マイナス・エネルギーが、均衡力学的に発生すると、今度は、差異共振性へと様相が転換する。いわば、相転移となる。
 だから、コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。そして、父権神話や聖書は、いわば、純粋なマイナス・エネルギー作用の様態を表現していると考えられる。
 では、プロテスタンティズムの場合はどうかと言えば、それは、純粋ではない。これは、以前から述べていることだが、ルネサンスの反動としてプロテスタンティズムがあるということである。ルネサンスが、プロトモダン、すなわち、差異・不連続的差異の発動であったとするなら、それは、マイナス・エネルギーの発動を意味する。だから、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーに対する反動なのである。即ち、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーの事象を受けているということであり、前提として、差異・不連続的差異があるのである。
 ということで、近代主義、近代的自我、近代合理主義とは、差異への連続・同一性の反動と見ることが正しいのであり、以上に述べた、同一性と差異との絶対的二元論は生起していないとみるのが正しいのであるから、ここで、訂正する次第である。だから、これまで述べてきたように、差異・差異共振性に対する反動として、連続・同一性現象自我(主義)を把捉するのが正しいことになる。
 だから、なぜ、連続・同一性現象自我は、差異・差異共振性(=物自体)を脅威と見て、否定・抑圧・攻撃・破壊・隠蔽等するのかという理由は、父権的連続・同一性自我が、必然的に、差異・差異共振性を否定する構造をもっているということになる。つまり、ユダヤ・キリスト教において、決定的に成立した父権的連続・同一性自我をもつ西洋文明は、新たに発生したマイナス・エネルギーによる差異・差異共振性の自我文化・社会に対して、論理的に否定的な作用をもつということなのである。換言すると、父権的連続・同一性構造を西洋文明はもっているので、イタリア・ルネサンスの差異・差異共振自我文化に否定的に反応して、反動として、宗教改革を発動させたということになるのである。
 では、さらに、論を詰めると、差異主義であるルネサンスに対する、父権的連続・同一性構造の反動の様態はどのようなものであったのかという問題が生じる。ルネサンス後の反動はそれとして理解できるが、ルネサンスが発生したとき、それは、父権的連続・同一性構造にとってどういう関係にあったのかということである。結局、ルネサンスとは単にイタリアに限定された「思想」ではなくて、これは、いわば、コスモス的事件であったと考えられるのである。即ち、マイナス・エネルギーが、新たに発動して、人間の主体のエネルギー力学が変容したと考えられるのである。つまり、内在的に、即自的に、主体の変容が生じたのである。だから、この内在・即自的な、自我のマイナス・エネルギー化に対して、父権的連続・同一性自我構造は、反動化したということではないだろうか。自我主体エネルギー構造力学の問題なのである。換言すると、内在的に発生した差異・差異共振性に対して、父権的連続・同一性自我構造は、否定・抑圧・隠蔽するということなのである。そして、この歴史的結果が、プロテスタンティズムであり、近代的自我・近代合理主義であったと考えられるのである。つまり、これまで、述べてきた通り、近代的自我とは、反動であり、極言すれば、邪道・外道なのである。だから、近代科学も唯物論も、反動知性なのである。反動権力的知性なのである。
 以上で、本件の補足説明としたい。

2006年08月12日 (02:59)

連続・同一性現象自我と差異の排除

連続・同一性現象自我と差異の排除
テーマ:自我/個
この問題も、何度も既述した問題で、解明されているのであるが、現象自我において、差異を排除することは、端的に何であるか、気になるのである。
 私自身の経験によれば、差異共振性が現象自我の成立を拒んでいた面がある。現象自我とは、この場合、言語的自我である。確かに、言語的自我(言語同一性自我)の形成は、初め、差異との結びつきを断ち切って、為されるように思える。そう、それは、正しいだろう。そして、普通は、そのまま、言語同一性自我のままであり、差異を排除したことに無意識である。ここに、言語同一性自我の本性の秘密があるだろう。差異を排除したことに無意識の現象自我。
 ここで、+エネルギーである連続・同一性力動の視点を入れよう。零度差異共振状態にある極性強度をもったメディア界において、+強度・+エネルギーが発生する。それが、連続・同一性力動となり、現象自我が形成されるのである。これは、零度差異共振シナジーが+強度にエネルゲイア化していると言えよう。即ち、+強度になったとき、メディア界は、差異共振性を喪失しているのである。そして、連続・同一性現象自我を形成するのである。つまり、+強度においては、差異共振性は無になるのである。これは、実に、危険な様態であろう。ここには、自我の力動だけがあるのである。他者は、否定の対象である。これは、ヤハウェに様態に相当するだろう。だから、ヤハウェ様態と呼ぶこともできよう。そして、現代、日本人やアメリカ人、他は、このヤハウェ状態になっていると思うのである。差異完全無の様態である。小泉首相が典型であろう。冷酷と言っても、機械のような無感情の冷酷さである。無機的な冷酷さなのである。これが、現代の精神病理の代表であろう。+強度の世界なのである。
 しかし、先に述べたように、メディア界は極性強度の世界であるから、当然、反作用で、−強度が作動するのである。これは、何かと言うと、不連続的差異共立の志向性である。つまり、+強度の連続・同一性現象自我がまったく解体されて、自我は、不連続的差異へと転換されるのである。もっとも、現象性自体が解体されるのではなくて、現象自我中心主義が解体されるのである。連続・同一性現象に没入していた自我が、解き放たれて、不連続的差異を志向するのである。しかしながら、連続・同一性現象自我の、言わば、慣性があるので、不連続的差異を志向する自我を、明晰に認識できないのである。というか、連続・同一性の構造があるので、不連続的差異への志向性は、反動化しやすいのである(参照:大澤真幸氏のアイロニカルな没入)。
 ここが一番のネックである。換言すると、構造主義の問題である。連続・同一性という構造主義の問題である。これは、言わば、無意識の構造であるから、ここから、超脱することは、きわめて、困難である。ここからの超脱を目指したポスト構造主義は、結局、孫悟空がお釈迦様の掌から逃れられなかったように、構造から逃れられなかったのである。デリダやドゥルーズを見れば明らかである。構造に囚われていたのである。
 問題は、−強度が発して、自我は不連続的差異を志向しているのに、意識自我は構造に囚われたままであり、そのために、反動が強烈になるのである。現代の精神の様相がこれであると考えられる。精神分裂症が現代病理である。うつ病も基本的には似ていると思う。これは、一種悲劇的様相である。結局、差異を否定・排除・隠蔽する形をとるのである。最初の+強度は、純粋な連続・同一性であるから、差異は問題にならない。しかし、−強度になると、差異が主体となるので、分裂するのである。
 しかしながら、この分裂様態を突破できなくとも、誠実に生きることはできる。発生した不連続的差異ないし差異共振性に誠実であることはできるのである。これは、単独的個ないし単独的自我に忠実であることである。そう、ミクロコスモスである。
 他方、差異を反動的に否定・排除・隠蔽する近代的自我が多く存すると考えられる。これは何を意味しているのだろうか。私は、なにか、ここに不誠実、虚偽の精神を感じるのである。あるいは、不合理主義である。あるいは、弱さである。怯懦である。劣弱さである。
 もう少し、丁寧に考えよう。メディア界=差異共振界において、初めに、零度差異共振状態が生起する。ここにおいては、不連続的差異が共振して、共立しているのである。(直観では、ここが、前一神教の宗教の位置である。アニミズム、シャーマニズム、自然宗教、多神教、等である。「縄文」文化は、正に、メディア界文化であり、日本語の母体がここにあると思うのである。主客一体型の日本語は、メディア界を考えるとわかりやすいのではないだろうか。日本文化、古神道とは、差異共振シナジー文化であろう。〈かつて、〉沖縄やアイヌに残っているのだろうし、地方・辺境にも残っているのだろう。)だから、極性エネルギーが発生する原点には、差異共振性があった。だから、連続・同一性志向性においても、差異は無ではなくて、存しているのである。だから、+強度においても、差異共振性が存しているのであるから、連続・同一性志向性において、本来、差異と同一性の闘争があるはずである。一種弁証法的である。換言すると、おそらく、母権主義と父権主義の闘争である、ギリシア悲劇に表現されたような。利己主義とは、この闘争を避けて形成された同一性中心の自我の性質だろう。(日本人には何と多いことか。)
 だから、やはり、ここにおいて、虚偽、欺瞞、偽装が発生するのである。差異を否定して、同一性を取るということである。これは、見栄、虚栄心でもある。この狡さの根因は何だろうか。やはり、弱さではないだろうか。以前に劣弱な差異と高貴な差異の区別を説き、男性が前者で、女性は後者であると述べた。おそらく、これは、生物的なものではないだろうか。男性の方が、女性よりも生命力が弱いのである。生命力というよりは、忍耐力、吟味力、熟慮性、精神性、等の性質だろう。忍苦能力である。そう、差異とは、差異共振性とは、いわば、共感性であり、感受性である。これが、弱いと、苦痛に対して、すぐ反動的反応を取るだろう。反射的反応である。反動性である。確かに機敏な行動を取るには、向いているだろう。しかし、これは、差異共振性を裏切っているのである。根源・原点にある差異共振性を裏切る行為である。そう卑劣さである。この反射的行為が反復されると、差異の否定が当然のことになっていく。そして、それに連続・同一性志向性が結びつくと、差異否定・排除・隠蔽が決定的になる。虚偽的な性格が形成されるのである。
 やはり、根因として、劣弱な差異性があると言えよう。差異共振性が劣弱であり、苦痛反射反応をするのである。ある意味で幼児である。特に男児ではないだろうか。
 とまれ、虚偽、邪悪さがあると思う、ここには。差異共振性を否定・排除するのが、当然であるという傲慢さがあるのである。この力学は何だろうか。反感性が基盤であろう。差異共振感性が基盤にある。しかし、共振感性は同時に、苦痛を受けやすい。だから、反感が生じやすい。この反感と連続・同一性が結びついて、差異を否定・排除する同一性自我が形成されると言えよう。
 とは言え、反感があっても、共感性があるはずである。それが、否定されるのはなぜか。どうも以前述べたように、トラウマ、心的外傷を考えないといけないようだ。共感性の冷暗化というようなことを以前述べたのである。トラウマ経験のために、差異共振性が冷暗化されたと考えられよう。それが、精神病理の根因であろう。
 では、それを引き起こす暴力は何なのか。根源の心的暴力とは何かである。フロイトなら、子が、父に母を奪われることと言うだろう。それは、一見もっともらしいが、私は、精神分析を批判しているので、それを取らない。これには、憎しみがある。ルサンチマンがあると思う。
 ここで作業仮説であるが、それは、差異零度共振様態において、+強度が発生する時に生起する、差異共振性に対する反感ではないだろうか。つまり、初めに、差異共振シナジーという歓喜がある。しかるに、+強度は、連続・同一性志向であり、差異共振シナジーを否定するのである。この否定作用において、憎しみ・ルサンチマンが、いわば、自然発生するのではないだろうか。だから、これは、自動無意識的な反応ではないだろうか。機械的、無機的ではないだろうか。+強度において、差異共振性に対して自然発生する反感が憎悪・ルサンチマンではないのか。そうならば、きわめて厄介である。自然過程であるから。だからこそ、人間は、戦争を止めないのだろう。
 とまれ、この自然憎悪・ルサンチマンがあるとして、やはり、根源の差異共振性は消えていないはずである。だから、いくら憎悪があっても、それに対する制御が本来利くはずである。しかしながら、憎悪・ルサンチマンが中心となる。これはどういうことなのか。それは、思うに、イデオロギーがあるのである。憎悪・ルサンチマン的現象自我を肯定するイデオロギーがあると思うのである。そのために、根源の差異共振性が作動しないのと考えられるのである。例えば、それは、宗教である。ナショナリズムである。政治イデオロギーである。例えば、イラクの民主化のためというイデオロギーがあれば、差異共振性は麻痺して、憎悪・ルサンチマン的現象自我が肯定されることになるだろう。そう、これだと思う。イデオロギーである、これが、差異共振性を麻痺させて、憎しみのある暴力・攻撃的な現象自我人間を生むのである。現代日本で言えば、近代主義イデオロギーである。唯物論イデオロギーである。これが、傲慢・暴力的な自我を生んでいるのである。あるいは、宗教イデオロギーである。オウム真理教事件があったし、最近では、「摂理」である。アメリカでは、民主主義イデオロギーだし、キリスト教イデオロギーである。
 では、なぜ、イデオロギーに染まるのか、囚われるのか。あるいは、なぜ、イデオロギーを必要とするのか。思うに、これは、連続・同一性志向性にとっての、対象ではないだろうか。観念対象ではないだろうか。つまり、連続・同一性志向性にとって、同一化する対象が必要である。それがないと不安である。なぜなら、連続・同一性志向性であるのだから、なんらかの、同一性対象が必要なのである。それによって、差異共振性という他者から逃れて、自我同一性を確立できるのである。これは、明らかに、一種の目眩しである。差異をブラインドにして、同一性の対象に一致するのであるから。現代日本は、同一性社会である。差異を否定・排除・隠蔽するのである。また、一般に西洋文明はそういうところがあるだろう。連続・同一性志向性をイデオロギー志向性と換言できるだろう。
 結局、連続・同一性志向性の+強度に基づいて、「異物」である差異、