2006年09月27日 (22:04)

イデア叡知光と阿弥陀如来

イデア 叡知光と阿弥陀 如来

テーマ :PLATONIC SOPHIENCE

先に、イデア 叡知光の問題を考察 し、差異面の光と同一性面の光の2つの光の極性があり、併せてイデア 叡知光と考えた。この問題は、実に本質的で、核心的である。

 ここで、基本から考えよう。1/4回転によって、零度差異共振 シナジーが形成される。これは、メディア 界=メディア 平面である。零度差異共振 シナジーは、「発光」していると考えられる。これを、私は、イデア 叡知光と呼んでいるのである。

 しかし、メディア 界=メディア 平面は、主に二つの面をもつ。即ち、不連続 ・差異面(以下、差異面)と連続 ・同一性面(以下、同一性面)をもつ。そして、イデア 叡知光は、この両面性をもつと言えよう。差異面光(以下、差異光)と同一性面光(以下、同一性光)をもつ。つまり、イデア 叡知光は、差異光と同一性光の全く異なる2つの光を帯びることになるのである。そして、差異光は、おそらく、ロレンス 等が言う暗い太陽 dark sun に関係するのではないだろうか。そして、同一性光は、当然ながら、原太陽 光ないし現象光となるだろう。ついでに、ダークエネルギー のことに触れると、それは、差異光ないしイデア 叡知光の物質的エネルギー を問題にしていると言えるのではないだろうか。

 まとめると、イデア 叡知光とは、零度差異共振 シナジーの光であり、それは、差異光と同一性光の両極・対極・極性をもつのである。

 さて、ここで思考 を進展させると、差異面は差異極に、同一性面は同一性極になるのではないだろうか。つまり、ここでは、正に、太極 の極性が形成されているのではないだろうか。(もっとも、これまで、ずっとメディア 界・メディア 平面を陰陽極性で考えてきたのではあるが。)そうならば、メディア 平面は太極 図のようであり、差異光と同一性光との両極の光を発していることになるだろう。つまり、メディア 平面光=イデア 叡知光とは、差異と同一性の対極光であるということになる。(ここで、注意すべきは、同一性とは、疑似同一性であり、本来、連続 性と考えた方が正しいのである。連続 ・同一性志向性である。)つまり、差異/同一性の二重光であるということである。おそらく、この二重性は、混じってはいないのである。つまり、差異光と同一性光とは、混じり合ってはいないのである。あくまで、対極光である。比喩的に言えば、闇と光との対極性がここにはあるのである。黒い光と白い光の対極光である。暗い太陽 と明るい太陽 との二重太陽 なのである。もっとも、太陽 や光は、ここでは、原・プロト の意味 である。現象界や物質のそれと見てはいけない。(何度も言うと、ヌース理論 の根本 的誤謬は、メディア 平面光=イデア 叡知光と光子 というメディア /現象境界=超越同一性構造における「光」=量子とを混同して、同一視している点にある。半田氏がドゥルーズ の差異=微分 を基本にするのもむべなるかな。)

 以上のように考察 すると、イデア 叡知光とは、実に不思議 な光であることがわかる。本体は、零度差異共振 シナジーの光であるが、それは、対極光でもあるのである。一つの光であると同時に、「二つ」の光でもある。しかし、「二つ」とは、いわば、ヴェンダーンタ哲学 の不二一元論の「二つ」である。あるいは、即非の論理 の「二つ」である。二即一である。あるいは、差異即同一性である。

f:id:sophiologist:20051104180951j:image

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Waterland0_002.jpg

 さて、このようにイデア 叡知光を再検討してみると、これは、実に、阿弥陀 如来 の光、とくに、阿弥陀 三尊の様態に関係するように考えられるのである。後者 において、脇侍(きょうじ)として、観音菩薩 、勢至菩薩 をもつが、これは、イデア 叡知光の対極と見ることができるのではないだろうか。両者、「見る」や光に関係するのである。つまり、阿弥陀 如来 とは、イデア 叡知光そのものであり、脇侍の観音菩薩 と勢至菩薩 はその対極光をなしていると見ることができるように推察できるのである。

 さらに思考 を展開すると、古事記 の三柱の神、即ち、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神産霊神(かみむすひのかみ)とパラレル になりそうである。天之御中主神が、当然、イデア 叡知光である阿弥陀 如来 である。そして、後の二者が陰陽光になる観音菩薩 ・勢至菩薩 に対応すると推察できるのである。つまり、日本の神話 と仏教 思想 とは、イデア 叡知光という共通の根源の光を見ていたことになると考えられるのである。ただ、表現が異なるだけである。万教帰一である。

 そうならば、神仏習合 とは、実に論理 的な宗教 的展開であると言えよう。そして、折口信夫 が、『死者の書』で、山越阿弥陀 の伝統 的な宗教 思想 を復活させたのは、折口自身が、イデア 叡知光を見ていたからであると考えられるのである。

 また、さらに付加すると、空海 の両界曼荼羅 であるが、思うに、大日如来 が、イデア 叡知光であり、金剛界曼荼羅 と胎蔵曼荼羅 が、対極世界を表現しているように思うのである。

 ここには、ゾロアスター教 、仏教 、神道 が一致しているのである。

 ここで、ユダヤ教 やキリスト教 の「光」の問題に触れると、ヤハウェの光ないしキリスト の光はイデア 叡知光の一面、一極の光、即ち、同一性の光に過ぎなかったと思うのである。旧約聖書 の神名は、ヤハウェとエロ ーヒム(神の複数形)の二つがあるのである。これは、推測 するに、イデア 叡知光の対極であると思うのである。ヤハウェが同一性光であり、エロ ーヒムが差異光であると思われるのである。そうすると、ユダヤ ・キリスト教 には、根源のイデア 叡知光が明示ないし顕示されていないように思えるのである。箴言等は、イデア 叡知光の智慧を表現していると思うのである。「光あれ」の光とは、同一性光、即ち、現象光だと思うのである。どうも、ユダヤ ・キリスト教 には、イデア 叡知光が、隠れてしまっているように思えるのである。イデア 叡知光の神が、隠れ、忘却されてしまったように思えるのである。ここで、想起するのは、ハーマン・メルヴィル の名作『モービー・ディック(白鯨 )』である。その中で、パラノイア 的なエイハブ 船長が、セント ・エルモ の火に対して述べる言葉 に、根源的な母なる神が示唆されているのである。父なる神を超えた神である。これこそ、失われたイデア 叡知光の神と考えられるのである。

 やはり、ポスト ・ユダヤ /キリスト教 である。真に正統的な宗教 の復活である。偏頗な宗教 の時代は終焉したのである。そう、メルヴィル において示唆されるゾロアスター教 の光、そして、ニーチェ におけるツァラトゥストラ と永遠回帰 を考えると、結局、

ポスト ・キリスト教 であり、

イデア 叡知光回帰 なのである。

ゾロアスター教 、仏教 、神道 、プラトン 哲学 の復活である。

西洋は滅びたのである。西洋は死んだのである、永遠 に!

p.s. ついでに、伝統 的な三女神(三美神も含めて)であるが、これも、ここでの考え方が適用できるように考えられるのである。例えば、古代ギリシア のエレウシス の秘儀であるが、デーメーテールとは、イデア 叡知光ではないだろうか。そして、復活する娘のコレーとは、対極光(死と生の対極性)を指すと考えられよう。コレーとペルセポネ(冥界の神)は一体である。そう、ペルセポネ(死)とコレー(生)が対極的に一如であろう。

 また、イシス ・オシリス神話 であるが、これも同様に考えられよう。オシリスが死んで、復活するのであるが、オシリスが生死の対極性であり、イシス がイデア 叡知光であろう。

 また、さらに、ユダヤ 神秘思想 のカバラ であるが、その三元的構成は、ここでの考え方で説明できるだろう。中央に対して、両極の柱があるが、それが、対極性であり、中央がイデア 叡知光と考えられよう。

 また、D.H.ロレンス の「王冠」の思想 であるが、父と子の二元 論と、聖霊 による一致であるが、父と子とが対極性であり、聖霊 がイデア 叡知光を指すと考えられるのである。

 結局、すべては、太極 哲学 に表現されているのである。そう、老子 とは何哉(なんぞや)。中国とは何哉。アジア・東洋とは何哉ということになるだろう。

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参考:

阿弥陀 如来

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』

(阿弥陀 仏 から転送)

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来迎印の阿弥陀 如来 像(牛久大仏 )

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来迎印の阿弥陀 如来 像(牛久大仏 )

定印の阿弥陀 如来 像(鎌倉大仏 )

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定印の阿弥陀 如来 像(鎌倉大仏 )

鎌倉大仏 の印相

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鎌倉大仏 の印相

阿弥陀 如来 (あみ だにょらい、amitaabha )は、大乗仏教 の如来 の一。阿弥陀 仏・弥陀仏などともいう。

目次

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* 1 概論

* 2 垂迹 神

* 3 日本における主な作例

* 4 関連仏典

* 5 関連宗派

* 6 関連僧侶

* 7 関連項目

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概論

「阿弥陀 」はサンスクリット の「アミターユス(amitaayus)」=「無限 の寿命 をもつもの」、アミターバ(amitaabha)」=「無限 の光をもつもの」音写したもの。意訳して、無量寿仏/無量光仏とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。西方にある極楽浄土 という仏国土を持つ。造形化された時は施無畏印・与願印・定印・来迎印を結ぶ。阿弥陀 三尊 として祀られるときは、脇侍に観音菩薩 ・勢至菩薩 を持つ。密教 においては、五仏(五智如来 )の一如来 として尊崇される。

無量寿経 によるとインド 王族の出身だったが、世自在王仏 に出会い 出家 。法蔵 と名乗り、非常に長期間衆生 の救済の思索をめぐらし(五劫 思惟(ごこうしゆい))、浄土 への往生 の手立てを見出し たことにより仏 となった報身 仏。衆生 救済に関して48の願い(四十八願 )を立て、特に浄土教 において第十八願 を「本願 」と呼んで重要 視する。また、現在 も説法をしていると信じられている。

これを語源 とする他力本願 と云う言葉 は、本来の宗教 的な意味 合いを離れて、「ムシのいい、他人への依存 」「無責任 」という意味 でも広く用いられるが、本来は自分自身(自力)の力「のみならず」仏の力,他の人の力(他力)、すなわち縁の力も互いに借りて皆がより良く生きるという意味 である。浄土真宗 においては、煩悩 具足の凡夫は阿弥陀 仏の本願、すなわち他力本願 によって「のみ」往生を遂げることができるとし(絶対他力)、自力は否定されるが、この場合でも「他人依存 」「無責任 」は、言うまでもなく他力本願 とは相容れない概念 である。

チベット仏教 における副法王 パンチェン・ラマ は阿弥陀 如来 の化身とされる。

大乗仏教 で登場した仏尊であり、その起源 はゾロアスター教 に遡り、光明 の最高神アフラ ・マズダー が無量光如来 、無限 時間の神ズルワーン が無量寿如来 として仏教 化されたとする学説もある。また西方極楽浄土は、ゾロアスター教 の起源 であるペルシャ 地方、もしくは肥沃で繁栄した古代 バビロニア 地方が背景になっていると考える少数派の意見 もある。

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垂迹 神

* 熊野権現

* 八幡神

ほか

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日本における主な作例

国宝

* 中尊寺 像 (岩手県西磐井郡平泉町)(金色堂 安置諸仏のうち)

* 高徳院 像 (神奈川県鎌倉市)(鎌倉大仏 )

* 浄土寺 像 (兵庫県小野市)(阿弥陀 三尊像のうち、快慶 作、浄土堂安置)

* 平等院 像 (京都府宇治 市)(定朝 作、鳳凰堂安置)

* 広隆寺 像 (京都市)(講堂安置)

* 仁和寺 像 (京都市)(阿弥陀 三尊像のうち、金堂安置)

* 法界寺 像 (京都市)(阿弥陀 堂安置)

* 三千院 像 (京都市左京区)(阿弥陀 三尊像のうち、往生極楽院安置)

* 法隆寺 像 (奈良県生駒郡斑鳩町)(阿弥陀 三尊像のうち、橘夫人厨子安 置)

重要文化財 (国指定)

* 太山寺 像 (神戸市)(阿弥陀 堂安置)

* 圓教寺 像 (兵庫県姫路市)(常行堂安置)

* 知恩院 像 (京都市)(阿弥陀 堂安置)

* 孝恩寺 像 (大阪府貝塚市)

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関連仏典

* 無量寿経

* 観無量寿経

* 阿弥陀 経

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関連宗派

* 融通念仏宗

* 浄土宗

* 浄土真宗

* 時宗

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関連僧侶

* 曇鸞

* 善導

* 良忍

* 法然

* 親鸞

* 蓮如

* 一遍

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関連項目

* 大日如来

* 阿弥陀 信仰

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5 " より作成

カテゴリ : 如来 | 浄土系仏教


注:以上は以下の転載です。

http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060928


2006年09月27日 (01:32)

Idea-sophia light and Proto-sunlight

What is the difference between Idea-sophia light and Proto-sunlight? I think this is an essential problem and one of the most difficult ones. Idea-sophia light is Proto-light of zero-degree resonant synergy of difference. Then what is Proto-sunlight?
Well, let me consider metaphorically. Let us assume that Proto-light is Dionysus and Proto-sunlight is Apollo. In my imagination, vision or intuition, the former is the Media Plane itself and the latter Proto-sun.
Well, let me tentatively assume that there are two kinds of Proto-lights in the Media Plane, that is, Proto-light of Difference-side and Proto-light of Identity-side. And the totality of both means Pro-light itself. And the former is Dionysus and the latter Apollo or Proto-sun. Therefore, what I call Idea-sophia light should be total Proto-light.
From this viewpoint, what is called 'Dark Energy' of physics is concerned with Difference-side Proto-light or Dionysus. But exactly speaking, Dark Energy is the shadow of Difference-side Proto-light. We should pay the highest attention to this distinction.
To put these thoughts together, there is Difference-side Proto-light, Dionysus, as it were, Dark Light and Identity-side Proto-light, Apollo, Proto-sunlight. So what we see as light of the phenomena is shadow of the latter. And what I call Idea-sophia light is the totality of both Proto-lights.
So I think Nietzschean idea of Dionysus and Apollo really hit the nail on the head. In other words, ancient Greeks saw the Idea-sophia light of the Media Plane or chora. They were Orientals. I think Jewish and Christian ideas destroyed the Idea-sophia light of the Media Plane of the Orient.

2006年09月24日 (18:39)

イデア叡知文明とプラトニック・シナジー文明について、その他 編集

イデア叡知文明とプラトニック・シナジー文明について、その他 編集

イデア叡知文明とプラトニック・シナジー文明について

テーマ:PLATONIC SYNERGY

私は、先に、かつて、プラトニック・シナジー文明があったと述べた。例えば、プラトンの『ティマイオス』で言及されている「アトランティス」の文明がそうではないかと示唆した。

 では、もしそうならば、どうして、それは、滅亡したのだろうか。イデア叡知の文明ならば、滅亡を避けられたのではないだろうか。それとも、避けられない偶然の天災(大洪水伝説:ノアの箱船:『ギルガメシュ叙事詩』のウトナピシュティム(賢者)の語る大洪水、等)によって、「大陸」が沈没したのだろうか。

 後で検討したいが、問題は、本当に、かつてプラトニック・シナジー文明があったのか、ということである。それは、違うように考えられるのである。不連続的差異論&プラトニック・シナジー理論の独創性の中心の一つは、連続・同一性超越構造を解体して、完全に脱却する視点にあると言えよう。平明に言えば、利己主義、自己中心主義から脱却する明晰な論理を提示したことである。仏教やフッサール現象学に存する、自我からの脱却の志向を、差異論として、簡潔に提示できたことである。そう、さらに、差異共振シナジー事象を提示することで、差異と差異との共振的創造(共創造)性を発見した。これらの意味は、もはや、自己中心主義、エゴイズムはあり得ないということである。

 推測であるが、もし、アトランティス文明やその他の高度古代文明があったとしても、おそらく、プラトニック・シナジー理論が達したポスト・利己主義、ポスト自己中心主義に達していなかったのではないかと思われるのである。この点は、実に、最高度に重要な点の一つであろう。これは、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の観念にも通じるのであるが、また、ポストモダンの問題にも関係するが、現象界、自我ないし近代的自我から、メディア界へと移動するときに、超越構造(ほぼ、カントの超越論的形式)を介することになる。しかし、この構造は、差異と同一性の両面をもつ構造であるから、メディア界に達したと考えても、実は、構造からは脱却していないという事態が生起する、ないし、生起したのである。ポスト構造主義の問題は、ここにあったのである。脱構造化すべきであったのに、構造に囚われていたのである。ドゥルーズの差異=微分論や、デリダの脱構築理論における同一性(「ロゴス」)の保持に明らかなように。

 私見では、脱自我、ポスト自我の思想は、これまで、仏教、プラトン哲学、フッサール現象学、他において存したが、十分ではなく、初めて、DDPS理論が明確に解明したと考えられるのである。つまり、プラトニック・シナジー理論以前には、プラトニック・シナジー文明はなかったと考えられるのである。おそらく、イデア叡知文明はあったろうが、プラトニック・シナジー文明はなかったと考えられるのである。

 ここで、推察するに、イデア叡知文明として、アトランティス文明があったと作業仮説して言えば、それが、滅びたのは、構造、超越連続・同一性構造から脱却できず、利己主義、自己中心主義が蔓延したからではないだろうか、ちょうど、現代西洋文明のように。つまり、アトランティス文明は、イデア叡知を知覚していたが、構造の敷居から、知覚したのではないだろうか。連続・同一性の窓から、イデア叡知光を視覚していたのではないだろうか。

 ということで、プラトニック・シナジー文明とは、21世紀以降において、創造されると考えられるのである。

参考:

アトランティス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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この項目では伝説の大陸について説明しています。

スペースシャトル ・オービタ についてはアトランティス (オービタ) をご覧ください。

アトランティス

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アトランティス

アトランティス(Ατλαντις)とは、かつて大西洋 に存在し、神の怒りによって海中に沈められたと伝えられる島 もしくは大陸 のことである。アトランティスとは「アトラスの島」の意。

古代ギリシア の哲学者 、プラトン の著書『クリティアス 』と『ティマイオス 』の中に登場することで広く知られている。 19世紀、アメリカ の作家イグネイシャス・ダンリーが著書『アトランティス』を発表したとき、謎の大陸伝説として一大ブームとなった。

近年の研究によって、地中海 にあるサントリーニ島 の火山噴火 によって、紀元前1400年 ごろに突然滅んだミノア王国 がアトランティス伝説のもとになったとする説が浮上してきた。また、ヘラクレスの柱をダーダネルス海峡とし、トロイア 文明と重ねる人もいる。しかし、大西洋のどこかにアトランティスがあると信じる人も未だ存在する。

なお、アトランティスの直接的モデルとなるような事件そのものが存在しないという説も有力である点に注意されたい。

目次

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* 1 伝説によるアトランティス

o 1.1 プラトンの『クリティアス』

* 2 代表的な諸説

o 2.1 地中海説

o 2.2 大西洋説

* 3 科学的研究

* 4 エジプト文明との関係の指摘

* 5 フィクションへの影響

* 6 参考文献

* 7 関連項目

* 8 外部リンク

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伝説によるアトランティス

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プラトンの『クリティアス』

紀元前6世紀 のギリシア の政治家 ソロン が、エジプト の神官 から伝え聞いた話(伝説 )を、友人のドロピデスに伝え、その息子のクリティアスが引継ぎ、同名の息子クリティアスが編纂したものとされているが、実際にはプラトンが編纂したものである。

アトランティスの消滅は、ソロンの時代を遡る事約9000年前、つまり紀元前9560年頃の出来事であると『クリティアス』には記述されている。また、その位置をヘラクレスの柱の向こう側としている。ヘラクレス の柱とは普通、地中海と大西洋をつなぐジブラルタル海峡 の2つの山のことを指すため、アトランティスは大西洋にあると考えられてきた。

プラトンの書き記した伝説(ミュートス)は次のとおりである。

豊かな資源を背後に強大な力を誇ったとされ、その支配は地中海全域に及んでいた。ポセイドン が自分の持ち前として受け取った土地で、ポセイドンを先祖とする十人の王によって収められていた。国土の中心には守護神としてポセイドンを祀り、環状の運河をめぐらした首都があった。首都中央のアクロポリス の中には金 ・銀 ・象牙 で飾り付けられた神殿 があったとされる。非常に富み栄えていたが、次第に堕落した。ギリシアを攻めたがアテナイを中心とするギリシア人に抵抗され潰えたとされる。堕落が頂点に達したため、ゼウス によって海中に沈められた。

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代表的な諸説

アトランティスの研究においては、「ヘラクレスの柱」解釈をめぐる位置問題とアトランティスを滅ぼしたとされる「洪水」の年代問題を考証することで議論がおこなわれている。

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地中海説

サントリーニ島 の火山噴火説が現在有力。サントリーニ島は阿蘇山 のような巨大なカルデラ の島であり、サントリーニ島の爆発による津波 によって滅んだミノア王国(クレタ文明 )をアトランティスとする。年代、及び位置についてはプラトンの誇張としている。

誇張説とは、プラトンの記録が単位について全て1桁多く誤って記述しているとするもので、エジプトの司祭が100をあらわす象形文字と1000をあらわす象形文字を誤って記録したためという。年代は、プラトンの9000年前でなく900年前ならほぼ一致するし、アトランティスの大きさも記録の10 分の1であれば納得できるとされている。

ガラノプロスはアトランティス伝説に登場する「ヘラクレスの柱」が、この場合ジブラルタル海峡を指すのではなく、現在のギリシャ南部にあるマタパン岬--当時の言葉で言えばマレアスとテナロンだとされ、地形上の特性にかなっているという--であると見ている。ガラノプロスはプラトンがアトランティスを青銅器文明だと述べているといい、クレタ文明が青銅器文明であることに合致するという。

また、周辺の海底に文明の痕跡が沈んでいるのが発見されているマルタ島 の巨石文明をアトランティスとする説も唱えられている。この説では、暦の違いを把握していなかったプラトンが年代を大きく見積もりすぎたとしており、その点を修正すると、島内の神殿遺跡などと同じ5000年前あたりになるとする。

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大西洋説

プラトンの叙述をそのまま適用すると大西洋にアトランティスがある。大西洋説では、アイルランド の地形が伝説と似ているため、アイルランドが津波で沈んだように見えたのではと言う説が近年発表されている。アイルランドにはケルト人 の伝承として、イスの海没の伝説 がある。しかし関連性は指摘されていない。

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科学的研究

* 1939年 - ギリシア の考古学者 マリナトスが、クレタ島 の北岸に位置するアムニソス にある宮殿を調査。宮殿の崩壊が津波 によるものであることを発見。同時に火山灰 が厚く堆積していることも確認した。

* 1956年 - アテネ 大学の地震学者 ガラノプロスがサントリーニ島を調査。炭素14法 で、島の噴火が紀元前1400年ごろであることが分かった。

* 1967年 - マリナトスがサントリーニ島の南端に位置するアクロテリ で火山灰の中から宮殿を発見。クレタ島とサントリーニ島が、あわせてミノア王国であったとするフレスコ画 を発見。

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エジプト文明との関係の指摘

『エメラルド・タブレット 』は「エジプト のギザ の大ピラミッド の中から発見されたとの伝説をもつが、これには歴史的に伝承されたものと近年モーリス・ドリール により発見された「世界最古の書籍 」である原本と称するものがあり、その原本には、その著者はアトランティスの祭司王トート であり、タブレット気諒呼にて『われアトランティス人トート は、諸神秘の精通者、諸記録の管理者、力ある王、正魔術師にして世々代々生き続ける者なるが…』と書かれているといわれている。

またグラハム・ハンコック の『神々の指紋』によれば、原本にはギザ のピラミッド はトート が造ったとも記載されていることからエジプト 文明の源流がアトランティスにあることも推測ができるとしている。

* ただし原本のエメラルド・タブレットは、原史料 の公開もなく他に写本 もないことから学者からはその正確性を疑問視されている。

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フィクションへの影響

* 『指輪物語 』- 作品中のヌーメノール はトールキン によるアトランティス伝説の変形である。

* 光瀬龍 『百億の昼と千億の夜』アトランティスは惑星開発委員会による人為的開発であり、高度な科学文明を有していた。海中に沈んだ後はエジプトに過去の文明を伝えながら遺民が生活している。プラトンが登場し、アトランティスの文明について調査旅行を行う。

* 『海底二万リーグ 』-ジュール・ヴェルヌ の古典的SF 小説。潜水艦 小説のはしりでもある。作中でアトランティスの海底遺跡が登場。

* 『ふしぎの海のナディア 』(The Secret of Blue Water)はガイナックス によるSFアニメ。主人公ナディアはアトランティス人の生き残りであり、アトランティス復活を狙う秘密結社ネオアトランティスに追われている。『海底二万リーグ』『神秘の島』に影響を受けている。

* 『アトランティス 失われた帝国 』(Atlantis: The Lost Empire)− ディズニー によるアニメ映画。ヴェルヌ作品の影響下にあるが、同時に上記作品の盗作 疑惑がある。

* 『風の大陸 』 - 竹河聖 のファンタジー小説。一万年以上前のまだアトランティスが沈んでいなかった時代を描いた仮想歴史小説。『巡検使カルナー 』など時代を違えたシリーズ作品も複数ある。

* 『ドラえもん のび太の海底鬼岩城 』-大西洋にある海底の国としてムー (太平洋)とともに登場する。

* 平成『ガメラ 』− アトランティス人が生み出した巨大生命体とされている。

* 『イリヤッド〜入矢堂見聞録〜』 -東周斎雅楽 原作、魚戸おさむ 画の本格考古学アドベンチャー・ロマン漫画。アトランティス伝説の謎へ挑む考古学者に、秘密結社“山の老人”の影が忍び寄る。2002年よりビッグコミックオリジナル に連載。

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参考文献

* 『地球物理学者 竹内均の旧約聖書』 竹内均 著 ISBN 4810380017

* 『スタイビング教授の超古代文明謎解き講座』 ウィリアム・H・スタイビング著 福岡洋一訳 ISBN 4872334825

* 『プラトンのアトランティス』 L・スプレイグ・ディ=キャンプ 著 小泉源太郎訳 ISBN 4894563657

大陸書房刊 『幻想大陸』 の改題再刊

* 『トンデモ超常現象99の真相』 と学会 著(山本弘 志水一夫 皆神龍太郎 ) ISBN 4896912519 ISBN 4796618007

* 『神々の指紋』グラハム・ハンコック 著、大地瞬訳

* 『アトランティス物語 失われた帝国の全貌』エドガー・エバンス・ケイシー 著、林 陽訳

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関連項目

* 架空の国一覧

* 伝説上の大陸

* 超古代文明

* エメラルド・タブレット

* オリハルコン

* 西インド諸島

* ニューアトランティス

* エイジ・オブ・ミソロジー (実際ゼウス などギリシャ神話に登場する英雄などが登場する)

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外部リンク

* Perseus Digital Library (プラトンの作品を始めとするギリシア・ローマの古典が原文で読める。)

* Atlantis (スペイン語/英語)

* Gmter

* エメラルド・タブレット

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9 " より作成

英語版:

http://en.wikipedia.org/wiki/Atlantis

カテゴリ : 伝説の歴史 | 超古代文明 | プラトン | 神話・伝説の土地

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プラトニック・シナジー理論(はてな)

テーマ:PLATONIC SYNERGY

プラトニック・シナジー理論 ぷらとにっくしなじーりろん

正式名:NEW PLATONIC SYNERGY THEORY

不連続的差異論 の進展として、本理論 が形成された。

不連続的差異論 が、不連続的差異 としてのイデア ないし差異の創造

によって、ポストモダン ないしポスト 構造主義 の欠点 を克服した、

脱構造主義 としての差異論 であると考えられる。

 それに対して、本理論 は、不連続的差異 ・イデア の零度共振 シナジーの

様相に着目した点で、さらに進展したものと考えられるのである。

不連続的差異 の零度共振 シナジー様相は不連続的差異 の共立する

ダイナミックな様相であり、本質的に創造的ないし共創造的な領域である。

 鈴木 大拙 氏の即非の論理 がもっとも明快・明確に、差異共振 シナジー様相を

説明するものと考えられる。なお、ウスペンス キーの『ターシャム ・オルガヌム 』

の「第三の論理 学」も、これを説明するものと考えられる。

簡単に図式化すると、

    ★不連続的差異論 ★

1.イデア 界/2.メディア 界/3.現象界

        ↓

        ↓  

    ★プラトニック・シナジー理論 ★

1.不連続的差異 の共立(根源)/2.不連続的差異 の零度共振 シナジー/3.同一性現象界

尚、詳細については、以下のブログ を参照されたい。

http://main.platonicsynergy.org/

http://theory.platonicsynergy.org/

http://blog.kaisetsu.org/

http://ameblo.jp/renshi/theme-10002391554.html

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913?TYPE=1&genreid=142990

参考

『新編 東洋 的な見方』 (岩波文庫 )

鈴木 大拙 (著), 上田 閑照 (編集 )

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003332326/sr=8-1/qid=1158998392/ref=sr_1_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=gateway

『ターシャム ・オルガヌム (第三の思考 規範 )―世界の謎への鍵 』

P.D. ウスペンス キー (著), P.D. コスモス ライブラリー 、高橋 弘泰 (翻訳 ), 小森 健太朗

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4795223793/ref=sr_11_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8

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メディア平面における連続・同一性視点中心主義の原因について

テーマ:ソフィエンスsophience

「同一性面による差異面の否定力学解明へ向けて;同一性共同体権力と差異の否定・排除・隠蔽」

http://ameblo.jp/renshi/entry-10017402117.html#cbox

以上の論考は、かなり、差異/同一性の対極性の問題を明確にしたと考えられるが、なお、不十分な部分があるので、ここで検討したい。

 いちおう、これまでの議論を整理すると、不連続的差異の零度共振シナジーであるメディア平面(メディア空間)において、不連続的差異・イデアによる両極的志向性、即ち、連続・同一性志向性と不連続・差異志向性の両志向性が並存している。即ち、不連続的差異・イデア・シナジーは、連続・同一性面視点と不連続・差異面視点の、両視点を並存させていると考えられるのである。

 しかし、ここで、作業仮説すると、視点のユラギが存在して、連続・同一性視点へ傾斜したり、不連続・差異視点へと傾斜すると考えられるのである。この視点のユラギであるが、これは、正に、永遠のユラギというべきものであろう。これは、時間的ではなくて、無時間的である。永遠におけるユラギである。

 そして、連続・同一性視点へ傾斜するとき、そこでは、父権制、一神教、西洋文明が発生すると考えられるし、反対に、不連続・差異視点への傾斜すると、母権制、多神教、東洋文明が発生すると考えられるだろう。この両面的視点のユラギにおいて、一神教も多神教も一つ、一如である。(この点から、先に述べたが、イシス・オシリス神話の投影としてのヤハウェ/キリスト教が考えられよう。)

 問題は、どうして、近代的自我におけるように、連続・同一性が中心となり、差異が否定・排除・隠蔽されたままであるのか、というような点にある。両視点のユラギから見ると、不連続・差異視点も並存しているのであるから、連続・同一性視点中心のままであるのは、ありえないことであると考えられるのである。

 この点に関しては、父権的同一性共同体が発生して、その権力を帯びる為に、差異視点が否定・排除・隠蔽されたままであると述べた。そうならば、同一性共同体権力が、同一性視点を固着させているということになるだろう。つまり、暴力・恫喝・攻撃が、同一性視点中心主義を維持させていることになる。恐れ、恐怖、怯懦が、同一性視点中心主義を保持させているのである。しかし、これは、外的な力の問題である。

 しかしながら、不連続・差異視点は、内面に並存しているので、顕在化しているのである。つまり、同一性視点中心主義であっても、そこには、不連続・差異視点が並存しているのである。つまり、近代的自我においても、不連続・差異視点ないし不連続・差異面が並存しているのである。

 では、何処に、それが、並存しているのか。この点に関しては、カント哲学を考えるといいだろう。つまり、物自体が不連続・差異視点ないしその面なのである。物自体は、カント哲学では、理論化できなかったが、物自体が存在していることは確かなことなのである。超越論的形式が、連続・同一性と言えよう。また、純粋理性であるが、それは、思うに、メディア/現象境界におけるメディア面であろう。つまり、超越構造のメディア面である。だから、メディア界の現象面と言ってもいいだろう。【ここで、メディア平面の連続・同一性面と、純粋理性の関係の問題が生じていると言えよう。これは、微妙な問題である。連続・同一性面ないしその視点とは、的確に言えば、連続・同一性志向性である。それに対して、純粋理性とは、ほぼ、メディア平面自体に等しいと言えるのかもしれない。ここで、カントが、純粋理性のアンチノミー(矛盾命題の並存・共立性)を述べていることを想起したい。これを考えると、純粋理性とは、やはり、ほぼメディア平面自体を意味していると考えるのが妥当であろう。ただし、アンチノミーという発想は、基本的に同一性論理学、アリステレス論理学に基づいているのである。だから、純粋理性は完全には、メディア空間の知ではないと言えよう。だから、それは、超越論的形式という超越連続・同一性構造からメディア空間を思考・考察しているものと言える。この微妙な点に、注意深くしないといけない。カントには、即非の論理がなかったのである。即非の論理(鈴木大拙)ないし「ターシャム・オルガヌム」(ウスペンスキー)に、カントは達することができなかったと言えよう。でも、ほとんど、メディア空間の知の近くまでは達していたのである。思うに、デリダの差延論が、純粋理性のアンチノミーの考え方に近いと言えるのではないだろうか。前者はほぼ対極性の思想であるが、同一性・「ロゴス」を残しているのである。つまり、カントに似て、デリダは、同一性構造(連続・同一性構造)から、メディア空間を思考しようとしているのである。ほぼ、両者、同じような思想をもっている。しかしながら、結果が違う。カントは、批判によって、限界づけたのに対して、デリダは、差延等によって、一気に、同一性構造や理性を解体するのである。しかし、同時に、自身の理論も解体するのである。ここには、批判と解体があるが、これは、限界づけと破壊の違いがあるだろう。ここで、付加すると、デリダの脱構築理論は、仏教の定立否定、反定立否定、そして、それらの否定、等々いうような、否定的非定立性をもっていると言えるだろう。禅に近いと言えよう。】

 さて、本論に戻ると、結局、近代的自我においても、不連続・差異視点は、物自体において顕在していると言えるのである。ただし、連続・同一性視点は、カントが説くように、物自体を認識できないのである。しかし、物自体においては、不連続・差異視点があるので、そのエネルギーが主観に感じられるのである。物自体のエネルギー、即ち、不連続・差異視点エネルギーが顕在発動しているのである。だから、ここでは、この視点を意識化することが必要なだけである。しかし、男性の場合は、連続・同一性への傾斜が生得的にあると考えられるのである。困難なのである。つまり、男性の場合、一般に、連続・同一性主義なので、不連続・差異視点を回避し、排除してしまう傾向にあると言えるのである。つまり、男性の場合、先天的に、連続・同一性傾斜があるので、不連続・差異視点を否定・排除・隠蔽すると言えるのである。

 これに対して、女性は、一般に逆なので、連続・同一性中心思考が苦手なのである。つまり、生来、女性は、不連続・差異視点をもつのであり、そこから、同一性現象界を見ているのである。ただし、女性は、この点に無意識であるから、男性の存在・思考と衝突するのである。女男の「異文化」性は、ここに根差しているのと言えるのである。しかしながら、脳理論的には、女性は、両面的思考が男性よりもしやすいとは、考えられるのである。

 ということで、結局、本件の問題の解答が出たようである。つまり、先には、同一性共同体権力力学を問題にしたが、結局は、男性の生来の連続・同一性視点への傾斜によって、不連続・差異視点・面を否定・排除・隠蔽してしまうということである。ただし、先に述べたように、不連続・差異視点エネルギーは存しているのだから、男性は、これを意識的に取り入れる作業をしないと、「分裂症」や「自己愛性人格障害」になると言えるのである。

 ここで、ユング心理学について言うと、それは、本質的には、フロイトの精神分析よりも優れていると言えよう。また、ラカンは、いわば、ユング心理学に近づいたと言えよう。ユングの普遍的無意識、集合的無意識とは、正に、メディア平面を指していると考えられるのである。ただし、問題点は、やはり、連続・同一性構造の残存にあると思うのである。ユング心理学の個性化とは、自我と自己との統合を意味するのであり、自己とは、メディア平面である。しかし、自我とは、連続・同一性の個体のことである。だから、両者の融合は不可能なのである。言い換えると、即非論理と同一性論理を結合せよ、ユング心理学を説いているのである。これは、無謀である。ポスト自我としての差異、不連続的差異へ回帰して、メディア平面をもつ「自己」が生起されうると考えられるのである。だから、ユング心理学の不連続化が必要なのである。ポスト・ユング心理学である。

2006年09月23日 (20:49)

同一性面による差異面の否定力学解明へ向けて;同一性共同体権力と差異の否定・排除・隠蔽

メディア平面において、同一性面は、差異面を否定することになる。おそらく、視点はエネルギーをもつので、同一性の視点エネルギーは、差異面を否定するのだろう。つまり、同一性の視点にとって、差異面とは、他者であり、まったく異質なものなので、否定することになると言えよう。ユダヤ・キリスト教西洋文明は、このような同一性力学がもっていたと考えられる。
 では、差異面の視点は、このような同一性の視点ないし同一性面に対して、どのような関係をもつのだろうか。人間の主観ないし主体的意識の基盤・母体は、メディア平面と考えられる。つまり、差異面と同一性面とが即非の論理ないし対極性の様態にある空間であると考えられる。だから、人間には、基本的には、差異視点と同一性視点が並存していることになる。しかし、近代的自我/近代合理主義は、後者を中心価値として、前者を否定・排除・隠蔽して成立したのである。つまり、近代主義とは、主観性の極端化であり、一種の病理である。この半面主義病理の病巣力学を考えたい。
 同一性面ないし同一性視点が、差異面ないし差異視点を否定したとしても、後者は存在するのであるから、無化することはできないのである。だから、排除・隠蔽すると言えよう。
 では、新たに問うが、なぜ、同一性面が差異面を支配して、差異面が排除されるのか。どうして、差異面が同一性面に対して、反論しないのか。
 思うに、同一性面と差異面は、非対称性の関係に
あるのではないだろうか。フッサールの志向性を考えると、ノエシスからノエマへと意識が展開するが、これは、簡約すると、差異から同一性への展開である。ここで、二通りの考え方ができる。即ち、一つは、同一性から差異への回帰運動はないというものであり、一つは、それは発生するというものである。これまでは、後者を考え方をとってきた。しかし、ここでの両面の視点の考え方からすれば、同一性の視点と差異のそれは、並存しているのであるから、回帰運動というよりは、並存力学として存すると言えよう。だから、差異→同一性、即、同一性→差異である。つまり、差異⇔同一性である。
 ならば、どうして、同一性が差異を否定・排除・隠蔽したままなのかである。今、考えているのは、個体の集団・共同体化である。明確にするため、個体の共同体化としよう。共同体化とは、正に、個の差異を否定して、共同体の同一性に同一化することであろう。そう、共同体が、同一性の権力を形成するのである。だから、この共同体に個が属するときに、一般に、共同体的同一性を観念として受容すると言えよう。この共同体同一性権力が、個において、内在化して、差異面・差異視点を否定・排除・隠蔽し続ける反動・暴力となるのではないだろうか。
 どうも、このように見ると、整合的に説明できるようだ。つまり、本来、個体において、同一性面と差異面との共立が存するはずであり、同一性と差異との対極性が成立するはずであるが、近代において、同一性が中心化されて、差異が否定・排除・隠蔽される事態になったのである。内在力学から言うと、これは、ありえない事態なのである。しかしならが、同一性共同体を考えると、この同一性中心化の説明ができるのである。もし、この仮説が正しいならば、同一性中心主義化した個体は、分裂症になるはずである。個体自身において、差異面・差異視点が存しているのだから、それを、同一性共同体の暴力・反動力によって、抑圧していることになるからである。どうやら、これでいいようだ。
 私が念頭に浮かぶ人物は、まさに、この考え方で説明できる。内在する差異面・差異視点を排除して、同一性の二項対立暴力を発動させるのである。しかし、前者は排除しきれないから、それが反動的に衝動化するのである。つまり、非合理的衝動、狂気が発生するのである。暴発である。結局、同一性共同体権力による同一性中心主義的二項対立暴力と被抑圧的差異の反動衝動・狂気との二重性をもつ、分裂症が生起していると言えよう。
 そう、この視点から、いわゆる、自己愛性人格障害、私の言葉では、同一性自我狂気症が、合理・整合的に説明できると考えられるのである。また、さらに、現代日本の狂気全体も説明できるだろう。とりわけ、日本のマスコミ・マスメディアの問題点が、この視点から説明できるだろう。同一性共同体権力が、現代日本を支配しているのだ。そして、この同一性共同体とは、的確に言えば、父権的同一性共同体である。私が以前、父権的部族主義あるいは、豪族主義と呼んだものは、これで、理論的に説明できるだろう。父権的同一性共同体とは、端的に言えば、父権制である。古代バビロニア神話にあるような父権神話の力学から発しているのである。
 では、ここで、この問題に疑問を提起すると、何故、父権主義が発生したのかとなる。これは、先ほどの問題と似ている。本来、両面あるのに、どうして、同一性父権主義が支配したのか。これは、今答えれば、視点の移動があったからと言うしかないだろう。視点が差異から同一性へと転移したのである。その結果が父権制である。そして、それが、現代の文明となったのである。ならば、当然、視点の移動から、同一性から差異への転移するのである。
 では、さらに問うと、なぜ、視点の移動が発生するのか、である。私は、これまで、極性力学で説明してきた。これは、言わば、機械的である。
 ここでも、直観で考えよう。つまり、有り体に言えば、志向性とは、本来、差異自体の志向性なのである。メディア面の差異面と同一性面とこれまで、述べてきたが、実は、メディア面とは、差異の共立する面であり、不連続面と同一性面の両面があると言う方が正確かもしれない。つまり、差異のもつ志向性が、同一性と不連続性の両方を志向すると言えるだろう。つまり、差異の志向性とは、本質的に、両極同時的、両極並存的なのである。だから、時間的に、同一性の後で、差異への回帰するというのではなくて、本来、両者ヘの志向性が並存しているのである。だから、結局、視点の移動というよりは、視点の両極の同時並存があったと言うのが、的確であると考えられるのである。これで、説明ができたこととしよう。

p.s. 結局、やはり、差異の質的相違があるのである。差異が劣悪だと、同一性主義となりやすいと言えよう。差異が優秀だと、不連続性、差異共立性も志向するのである。

p.p.s. メディア平面に、同一性面と不連続面の両面ではなく、連続面と不連続面の両面を見た方がいいのかもしれない。その方が明快であり、明確ではないだろうか。もっとも、同一性と連続性は、ほぼ同一の意味をここではもつのではないだろうか。つまり、同一性だから、連続性をもつのであり、連続性だから、同一性をもつと言えるだろう。だから、連続・同一性面と呼ぶのがベストだろう。
 では、不連続面はどうだろうか。これは、不連続・差異面となるだろう。

2006年09月23日 (15:08)

プラトニック・シナジー音楽としてのビートルズ音楽:プラトニック・シナジー文明の創造

f:id:sophiologist:20060923145123j:image

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Liverpool_2008_Flag.jpg

今、ある目的から、ビートルズを聴き返しているが、今更感じるのは、その多様性である。一つ一つの歌が、個性が強いのである。これは、特異性と言うべきである。また、各メンバーの特異性とそのシナジーに拠るし、また、特異性が賦活された時代環境にも拠ると言えよう。

 歌自体が、不連続的差異 であり、また、メンバーの不連続的差異 の(零度)シナジーでもある。整理して言うと、不連続的差異 である各メンバーのシナジーとしてのビートルズというグループがある。そして、このプラトニック・シナジー様相から、不連続的差異 である歌が創造される。しかし、この不連続的差異 である歌とは、実は、シナジー様相におけるそれである。つまり、ビートルズ音楽とは、正に、プラトニック・シナジー音楽であるということである。

p.s. 私説では、イギリス文化とは、基層にケルト 文化をもっている。これは、単に、ケルト 民族的(アイルランド、スコットランド、等々)というよりは、ブリテン文化全体の基層・古層・基盤としての意味においてである。

f:id:sophiologist:20060923145324j:image

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:KellsFol034rChiRhoMonogram.jpg



 ケルズの書等における組み紐紋の流動的に絡まるケルト 紋様は、有名であるが、これは、メディア 平面ないしプラトニック・シナジー空間的であると考えられよう。私の仮説は、ケルト 文化とは、プラトニック・シナジー文化であることである。(参考:

ケルズの書:

http://www.shajisitu.or.tv/c2l2.htm

http://www.boudicca.gr.jp/shop/celtic_design/celtic-design4.html )

 この仮説から、ビートルズ音楽は、正に、イギリス文化の基層(「地霊」)であるケルト 文化の20世紀的発出であると言えよう。つまり、プラトニック・シナジー文化の一つの様相であるケルト 文化の20世紀的発現としてのビートルズ音楽ということになるのである。

 21世紀は、プラトニック・シナジー文明・文化が超創出されるだろう。

p.p.s. ケルズの書を見て、失われた文明という観念が浮かんできたのである(p.s.  D.H.ロレンスの、自然美が満ち溢れた処女作 『白孔雀』の中で、花スノードロップに失われた叡知が示唆されていたことを想起する。因みに、D.H.ロレンスは、プラトニック・シナジー文化であるケルト ・ブリテン文化の文学・哲学 的な超噴火を意味すると考えられる。今日、ロレンスが忘却されていることは、大問題である。モダニズム志向が、抹殺したと言えよう。

f:id:sophiologist:20050327134524j:image

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Galanthus_nivalis.jpg

参考:スノードロップ

http://www6.ocn.ne.jp/~pruitt/snow/index.html )。プラトニック・シナジー文明ないし文化がかつてあったと思うのである。それが、現代の狂気的文明によって破壊されてしまったと思うのである。現代の狂気的文明とは、当然、ユダヤ ・キリスト教 的資本主義 西洋文明である。プラトニック・シナジーの叡知が、やはり、これまで述べてきたことから理解されるように、ユダヤ ・キリスト教 によって、破壊され、排除されたのである。

 プラトン 哲学 ・イデア 論哲学 とは、この、失われた叡知であるプラトニック・シナジー理論の積極的な発現である。(思うに、プラトン 哲学 が、野蛮・狂気のユダヤ ・キリスト教 西洋文明によって焚書されずに、遺産相続されたのは、奇蹟的である。この点に関しては、後で検討したい。)

 問題は、イデア 叡知が、超越的・超次元的普遍知・叡知・智慧・般若 であるならば、この喪失とは何を意味するのかである。普遍的叡知の喪失とは何なのだろうか。換言すると、ユダヤ ・キリスト教 とは何か。一神教 とは、宗教 とは、神話 とは、何か、である。あるいは、神秘思想やオカルティズムとは何か、である。あるいは、東洋思想とは何か、である、等々。

 思うに、かつて、イデア 叡知体を見ること(ヴィジョン:ギリシア語 、ラテン語 のvideo見ること、ideo観念には、この名残があるだろう)ができたのではないだろうか。オカルティズムで、「霊視」や「透視」が言われるが、それは、イデア 光の視覚ではないだろうか。つまり、イデア 光視である。これが、なんらかの理由・原因で、かき曇って、不可視になったのだろう。現象知覚が中心となり、イデア 知覚が失われたのだろう。(ここから見ると、プラトン 哲学 は、喪失されつつあったイデア 叡知知覚を、遺産相続すべく、言語化したものだろう。また、この点から見ると、「イエス・キリスト 」も、このイデア 叡知を、なんらかの形で、現象界に伝えようとした試みと言えるように考えられる。私は、グノーシス 主義のイエス が本来の形であろうと述べているが、グノーシス 主義とは、イデア 叡知の一つの様態であると考えられるので、やはり、「イエス 」は、イデア 叡知の伝達者であると考えられるのである。それが、ユダヤ ・キリスト教 という信仰 に、歪曲されてしまったと考えられるのである。)

 イデア 叡知の喪失、現象化とは、連続・同一性化である。「物質」化である。これは、メディア 平面の同一性面の事象と考えられるだろう。つまり、メディア 界を同一性面の視点から見ると、連続・同一性=現象化が出現して、メディア 界の本体である「イデア 」、プラトニック・シナジーが不可視になると言えるだろう。そうならば、ユダヤ教 化とは、父権的一神教 化とは、メディア 界の極性が同一性極・陽極に傾いた事象と言えるだろう。あるいは、視点の同一性への傾斜と言えよう。そして、この究極的帰結が、ユダヤ ・キリスト教 的資本主義 西洋文明であり、今日、衰退・衰滅・衰亡しつつあるのである。

 結局、ユダヤ ・キリスト教 的西洋文明とは、古代ギリシア やイタリア・ルネサンス等を内包していることを考えると、メディア 平面の同一性視点の文明であり、差異、即ち、メディア 界・差異共振 シナジーを基盤として、内包した、その連続・同一性視点の文明であると言えるだろう。簡単に言えば、差異の同一性視点である。換言すると、差異を同一性視点から観察しているのである。差異は、カント 哲学 で言えば、物自体である。同一性が、超越論的形式である。そう、近代的自我、近代合理主義、近代主義とは、同一性の帰結である。同一性中心主義ないし同一性絶対主義である。これは、唯物科学・技術となり、また、グローバル資本主義 となったと言えよう。ついでに言えば、いわゆる、自己愛性人格障害、私の言葉では、近代的自我同一性狂気症が、この帰結の病理であると考えられる。同一性自我の極点である。

 さて、次に問題にしたいのは(別稿の予定であったが、ここで述べた方がいいだろう)、プラトニック・シナジー理論(プラシナ理論)の創造、イデア 叡知の復活・ルネサンスの意味である。これをどう見るのかである。これまで、メディア 面の極性力学を説いてきた。つまり、差異面・陰極と同一性面・陽極の極性力学である。これまでの考え方から見ると、父権一神教 以前は、差異面・陰極の文明・文化であったことになり、ポスト同一性文明とは、これに回帰するように見えることになるのである。

 しかしながら、先に指摘したように、イシス /オシリス神話 からヤハウェ/キリスト教 が投影されたように見えるのであるから、前者への回帰とは、結局、前進にならないだろう。

 ここで指摘すべき点は、極性力学自体は、間違っていないのであり、左右的交互的変化の考え方が間違いであるということである。つまり、ポスト同一性文明とは、確かに、差異面への回帰であるが、これは、正しくは、螺旋的回帰と見るべきであるということである。1/4回転による垂直方向への捩れというイデア 界の力学を考えると、螺旋的回帰運動は、当然である。つまり、ポスト同一性文明とは、差異面への螺旋的回帰を意味するということである。こう考えると、先の疑問も解決すると言えよう。即ち、ポスト・ヤハウェ/キリスト教 文明とは、一見、イシス /オシリス神話 への回帰に見えるが、そうではなくて、新たな差異面の文明の創造ということになるのである。私がイデア 光と呼ぶ零度差異共振 シナジーの発する「光」も、この新たな差異面の文明に関係すると言えよう。

 結局、永遠普遍的なイデア 叡知のイデア 光を知覚することになると考えられる新たな文明とは、何を意味するのか。思うに、これまで、地球上に、様々な文明が生成消滅してきたのであり、新たな文明とは、始点においては、この永遠普遍のイデア 叡知光を見ていたと思うのである。それが、文明の展開によって、かき曇らせられ、不可視になり、当文明が、堕落 腐敗して、終末をむかえ、終焉すると思うのである。だから、ユダヤ ・キリスト教 的西洋文明も始発点においては、イデア 叡知光を見ていたはずである。しかし、同一性の展開によって、それが、濁り、不可視になってしまったと言えるだろう。現象光だけになってしまったのである。そう、ヤハウェとは、本来、イデア 叡知光の一様態(同一性の一様態:「我在り」・スム)であったろう。そう、イデア 叡知光の一様態の展開から、キリスト教 的西洋文明が発現して、近代的文明が帰結したのであり、これが、USAグローバリズム と最終帰結したと言えるだろう。おそらく、この同一性化とは、つまり、螺旋的極性力学、的確に言えば、対極性力学は永遠に反復されるのかもしれない。そうだ、正に、ニーチェ の永遠回帰 ・永劫回帰 である。

 しかし、そうなのだろうか。ポスト・永遠回帰 ではないだろうか。イデア 叡知光を可視する新たな文明とは、同一性の悲劇を体現した文明であり、もはや、同一性へ回帰しないはずである。それとも、愚行を繰り返すというのだろうか。理論的に考えよう。螺旋的回帰運動を考えると、確かに、永遠回帰 となり、愚行は繰り返されるだろう。本当にそうなのだろうか。

 新たな文明においても、同一性化が発生するのだろうか。確かに、メディア 平面における同一性面があるから、その極性はあるのである。だから、同一性化は生起するだろう。しかし、今や、デジタル情報化の時代である。これは、知識がかつてのようには消失しない。焚書できないということである。情報・知識の公開が前提なのである。これが、これまでの情報・知識が権力的少数者に支配された時代と決定的に異なる点である。このように考えると、もはや、同一性の全体化は生じないと思うのである。情報・知識、即ち、イデア 叡知の独占・寡占の時代は、永遠に過ぎ去ったのである。つまり、極性力学はあっても、もはや、それは、ほとんど意味をなさなくなったと言えるだろう。

 ということで、新たなイデア 叡知の文明は、決定的に、過去の文明とは異なることになるのである。そう、ポスト人類の地球エポックと言っていいだろう。同一性的自然からの解放と言えるだろう。そうならば、これは、逆に、永遠回帰 と言えるだろう。

 最後に、イデア 叡知光の可視化を意味を考えてみよう。これは、永遠普遍のイデア 叡知光の可視ということであり、いわば、精神感覚として、第6感覚となるだろう。これに基づく新文明が創造されるということである。これは、イデア 叡知光ないしイデア 叡知に基づく新文明の創出ということでもある。プラトン の哲人政治 が実現することになるのである。そう、ポスト同一性国家としての新国家である。これは、プラトニック・シナジー国家・連邦 となるだろう。いわば、世界連邦 ないし地球連邦 となるだろう。

 では、理論的に考えると、このイデア 叡知光の文明とイシス ・オシリス神話 との関係はどうなのだろうか。イシス ・オシリス神話 とは何か、である。また、神話 とは何か、である。簡単に言えば、神話 とは、イデア 叡知の文学化である。そして、民話は、その地方・地域的変異であろう。そうならば、イシス ・オシリス神話 は、イデア 叡知の神話 ・文学であると言えるだろう。プラトニック・シナジー理論の神話 である。(この点は、アメリカの神話 学者 ジョゼフ・キャンベルの主著を読めば理解されるだろう。『神の仮面』)

 では、宗教 は何であるのか。これも、当然、イデア 叡知ないしイデア 叡知光を志向する何らかの表現である。ただし、信仰 や情緒の作用が主導的になるので、盲目になる危険が常にあると言えよう。推察するに、イデア 叡知光を見た人、たとえば、仏陀 やモーゼ やイエス やマホメット (ムハンマド )が、その神々しい姿にひれ伏して(cf. イスラーム )、信仰 が生起したのではないだろうか。だから、宗教 は美的なのである。芸術よりも、美的な反応であろう。

 そう、では、叡知学とは何か。それは、不合理な形式で、神秘学、オカルティズム、秘教・密教 に伝えられたと言えよう。しかし、プラトン 哲学 においては、純正な形を保持していると言えよう。そう、仏教 哲学 にも、叡知学が保持されてきたと言えるだろう。そして、鈴木大拙 の即非の論理 学として、結晶したと言えるだろう。そして、神秘学的には、ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」に発現したと言える。

 また、哲学 philo-sophia(愛好・叡知)であるが、これも、その名前から、叡知学の一部であったと言えよう。しかし、西洋哲学 は、同一性への傾斜を強くもっていたのである。叡知のロゴス (論理 ・合理)が、言語に帰結したと言えよう(近代主義)。

 最後についでに、今日、流行している文学形態のファンタジー であるが、この源流であるトールキンの指摘から、ファンタジー とは、正に、ヴィジョンであり、イデア 光ないしイデア 叡知光に通じるものであると考えられるのである。つまり、ファンタジー =ヴィジョン=イデア 叡知光文学である。

以上、http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/
から

2006年09月20日 (13:21)

ヴィジョン、美、光に関して

今日、電車の車内で、思った。
美とは、私の内奥にあるのだ。それを、外的他者に投影しているのだ、と。そして、帰途の道路を渡りつつ、光は、やはり、内なる光の、いわば、表皮として、存すると。

やはり、プラトンの考えは正しいのだ。イデア界があるのである。しかし、このイデア界は、DDPS理論では、メディア界・差異共振界の「イデア」である。形容すれば、宝石のような「イデア」である。あるいは、零度共振シナジーとしてのイデアである。ここで、明快に区別した方がいいだろう。イデア界のイデアは、プロト・イデアであり、メディア界・差異共振界のイデアは、シナジー・イデアないしメディア・イデアである。より分かりやすくするために、後者を単にイデアと呼び、前者をプロト・イデア、祖イデア、原イデア、等を呼ぼう。そうすると、プラトンのイデアと、一致する。これは、光り輝くイデアである。阿弥陀如来の光と共通しよう。
 しかし、この光は、当然ながら、現象の光ではないのだ。このイデアの光を、人間は、肉眼では、現象の光と知覚すると思うのである。(ここでは、理論的というよりは、直観で述べたい、というか、私の直観経験から述べたいと思う。)
 思うに、人間、主体の内面に、イデアの光があるのである。イデアの光線があるのである。そして、これは、また、コスモスの光でもある。ダンテの天上の光は、これであろう。
 問題は、このイデアの光と現象界の光の関係である。わかりやすくするため、イデアと現象光と呼び分けよう。直観で言えば、イデア光が現象光に終極化しているのであるが、イデア光すべてが、現象光に変じているのではない。思うに、イデア光を感じない鈍重な人は、すべてが現象光であると認識するだろう。しかし、繊細な感覚の人は、内面のイデア光が現象光に投影しているのがわかるはずだ。これは、正に、プラトンの洞窟の比喩に相当するだろう。そう、洞窟外の善のイデアである太陽とは、イデア光のことだろう。では、洞窟内の火や人形は何だろうか。思うに、それが、超越境界である構造である。超越論的同一性構造であると思う。これが、洞窟のスクリーンに投影されて、仮象を「幻燈」させているのである。
 そう考えると、プラトンは、今からおよそ二千五百年前に、脱構造主義を説いていたことになるだろう。不連続的差異論の真正の先駆者としてのプラトンであろう。あるいは、プラトン哲学の真正の継承としてのDDPS理論である。つまり、整理すると、


洞窟の比喩2


《プラトンの洞窟の比喩》

1.善のイデア(洞窟外の太陽)/2.洞窟内の火と人形/3.洞窟のスクリーン上の影像(仮象)


洞窟の比喩3


《DD/PS理論(不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論)》

1.イデア光(零度差異共振シナジー)/2.超越境界同一性構造/3.現象界


洞窟の比喩


両者の1〜3は対応するのであり、さらに、不連続的差異論の構成にあてはめると、1はメディア界であり、2はメディア/現象境界であり、3は現象界である。
 ここで、思うに、1の領域は、倫理の領域であると同時に、美の領域であり、また、真の領域である。正に、真善美の領域である。(思うに、ヌース理論の半田氏がヴィジョンで見たものは、1であろう。しかし、半田氏は、1と2との混同して、1の善のイデア=イデア光を、量子力学の光子ないし素粒子として、唯物論化しているのである。目覚めよ、半田氏! 換言すると、半田氏はドゥルージアンであり、差異=微分の連続・同一性の仮象を、真実在と幻想しているのである。「ポストモダン」なのである。)
 1の領域は、何度も既述したように、仏教の光と重なると言えよう。そして、私見では、ゾロアスター教の光と重なるのである。しかし、これも、既述だが、キリスト教の光は、これではないと思う。これは、2か3と思うのである。
 さて、最初の問題に戻ると、私が車内で、構内で、美しい女性を見たとしよう。この美は、実は、その女性の美というよりは、私の内面のイデア光が照らし出した美なのであり、本来の美は、私の内面のイデア光にあるのである。その女性の美とは、仮象に過ぎないのである。その美しい女性は、イデア界の美を示唆していると言えよう。いわば、イデア界の象徴である。ここで、ついでに言えば、ネオ・プラトニズムで、天上のヴィーナスと地上のヴィーナスの区別をするが、これは、私が今述べたことと重なるだろう。車内、構内の美しい女性は、地上のヴィーナスであるが、真実在は、天上のヴィーナスなのである。つまり、言い換えると、後者の投影としての前者、つまり、天上のヴィーナスの投影としての地上のヴィーナスということである。(参考:
http://lib.seisen-u.ac.jp/library/collection/c_venus.htm
http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/text/yomi/1220014_1.htm
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~ssuzuki/ClassLecture/Matriachy_Myth_Hyuga_Transformation_Venus.htm
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/botticelli_venere.html
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/060225.htm
http://72.14.235.104/search?q=cache:Et6XbFPlgrIJ:src-home.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no12/02_mochizuki.pdf+%E5%A4%A9%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=13&lr=lang_ja&client=firefox
http://d.hatena.ne.jp/antares/20051203



ヴィーナスの誕生
http://es.wikipedia.org/wiki/Imagen:La_naissance_de_V%C3%A9nus.jpg


http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Primaver.JPG

【私は、ここで、アレゴリー論を少し展開したい。私の中で、アレゴリーと象徴が混淆しているのである。イデア論から見ると、車内・構内の地上のヴィーナスとは、イデア光のヴィーナスの投影である。ここで、地上のヴィーナスにウェイトを置けば、それは、天上のヴィーナスを指し示すものであり、象徴・シンボルである。しかし、天上のヴィーナスにウェイトを置けば、地上のヴィーナスは、アレゴリーになるだろう。そうならば、アレゴリーと象徴・シンボルの相違は、視点によるだけであり、一致すると言えるのではないだろうか。】
 では、イデア光とは、何であろうか。これと現象光の関係は何だろうか。これも、既述したが、同一性形式を経て、イデア光が現象光になるのだと思う。この同一性形式が、アインシュタインの光速度一定を意味するのではないだろうか。すると、イデア光は、当然、無限速度であろう。図式化すると、

イデア光→同一性形式→現象光

である。零度差異共振シナジーの同一性形式が相対性理論ではないのか。思うに、同一性形式とは、カントの超越論的形式と一致するのではないだろうか。とまれ、これが、超越構造形式あるいは構造物質形式と言えよう。そう、この同一性が光子なのではないだろうか。E=mc^2 である。すると、イデア光はどうなるのか。それは、数式化できるのか。イデア光は、零度差異共振シナジーであり、無限の原エネルギーである。とまれ、今は、作業仮説的に、イデア・エネルギーと呼んでおこう。イデア・エネルギーが、同一性化して、現象光エネルギーEになると言えるだろう。作業仮説的に、イデア光のメディア平面から垂直の方向に、同一性化があるとして、イデア光のエネルギーをSとすると、Si=E となる。即ち、S=E/i である。
 さて、では、イデア光と太陽はどう関係するのだろうか。推察するに、イデア光の原点ないし中心の現象化が太陽ではないだろうか。あるいは、Z軸、ないし、Y軸虚軸の現象化が太陽ではないだろうか。後で検討したい。

2006年09月20日 (11:49)

イデア光と太陽光について:イシス・オシリス神話と父権的太陽神:ポスト・一神教

ここでも、直観から話していこう。
 イデア光とは、内在する精神の光、コスモスの光である。それが、現象光へと展開している。(今日は好天で、青空には、光が満ちている。)現象光の、現象的起源は、太陽である。しかし、現象光の真因は、精神界、メディア界、差異共振シナジー界である。ここが、現象光の母体であり、ここに、イデア光が存するのである。
 問題は、先にも触れたが、イデア光と現象光ないし太陽との関係である。ここで、前者の領域について考察しよう。
 イデア光は、メディア界・差異共振シナジー全体において、発生しているだろう。差異の零度共振様態が、イデア光である。だから、この差異共振様態全体が、原太陽と言えるだろう。あるいは、原宇宙・コスモスと呼べよう。この原太陽の現象化が、単純に考えて、太陽となる。イデア光が現象光となることは、連続・同一性化で説明ができる。ならば、問題は、原太陽と太陽との関係である。
 シナジー様態全体が原太陽ならば、それは、また、メディア平面ないし超平面である。それが、太陽を投影することになると言えよう。そう、あるいは、銀河や諸星雲等々を投影すると言うこともできよう。ここでは、太陽に限定しよう。
 メディア平面・超平面に原太陽があるなら、それは、当然、平面的である。ここにおける原点を中心とする円を考えると、現象界(これも、二次元ではないのか、本来。つまり、現象平面ではないのか。)に投影されて、太陽になるとしよう。つまり、メディア平面・超平面の円を、現象界に太陽として投影するということである。そうならば、イデア光とは、このメディア平面・超平面の円に関係すると言えよう。しかし、イデア光=円ではないだろう。なぜなら、イデア光は、原太陽を内包している全体・コスモスであるからである。つまり、原太陽はメディア・円であるが、イデア光全体ではない、という関係になるだろう。
 このように考えると、直観にそぐうと言えよう。即ち、イデア光の直観は、現象光や太陽を内包したものである。そう考えてみると、シュタイナーのキリスト論に対する、以前の疑問が解明されるだろう。キリストを太陽霊と呼んでいるが、太陽霊は正しくは、原太陽である。それは、メディア円である。しかし、これは、イデア光の一部に過ぎないのである。つまり、私見では、グノーシス的イエスは、イデア光の叡知を説いていたのに、シュタイナーは、それは、原太陽に限定してしまったのである。つまり、いわば、太陽系ないし原太陽系に限定してしまったのである。これは、グノーシスのイエスの叡知を貶めるものである。
 また、キリスト教本来であるが、先にも言及したが、キリスト教の光は、メディア/現象境界、超越境界、即ち、構造の光であると思うのである。これは、ヤハウェとも一致するのである。だから、キリスト教の光とは、悪魔の「光」である。つまり、闇である。
 ここで、イシス・オシリス神話を考えると、イシス・オシリスの対(つい)で、メディア界・共振シナジー界である。そして、オシリスがイデア光を本来表わしているのではないだろうか。そうならば、イシスとは、何かとなろう。オシリスがイデア光ならば、イシスはその基盤である。ここは、微妙な事柄である。思うに、零度差異共振事象がイシスであり、零度差異共振シナジー様態がオシリスではないだろうか。以前の私の考えは、差異共振事象全体が闇であり、その一部光として発現すると考えたのである。前者がイシスであり、後者がオシリスである。つまり、オシリスはイシスに内包されるということであった。
 そう、ここで、やはり、事象と様態を区別すべきだろう。あるいは、理的事象と理的様態である。後者は、一種エネルギー態である。エネルゲイアである。イデア光という原エネルギー=エネルゲイアを発出しているのである。ここは、実に微妙・霊妙な領域である。
 零度差異共振シナジーという事象があり、この事象において、原エネルギー=エネルゲイアが発生する。前者がイシスであり、後者がオシリスとなるだろう。換言すると、真言宗で言うと、金剛界曼荼羅が前者で、胎蔵界曼荼羅が後者にほぼ、相応するのではないだろうか。とまれ、簡単に言い直すと、イシスのエネルギー態がオシリスであり、イデア光であるということになるかもしれない。
 しかし、私の直観は異なるのである。直観では、イデア光はイシスである。あるいは、イシス・オシリスである。ここで、作業仮説すると、オシリスは、原太陽ではないだろうか。原太陽の基盤がコスモスでイシスである。だんだん、複雑ないし複雑怪奇になってきた。
 ここでは、二つの仮説が出ている。一つは、イシス・オシリスは、メディア事象と様態を指すというものであり、一つは、イシスは、メディア界総体・イデア光であり、オシリスは、原太陽であるというものである。これまでは、後者に近い考え方をしてきたのである。思うに、文化史的に、後者の方が適切なように考えられるのである。もし、後者が適切ならば、イデア光=イシスの一部としての原太陽ないし原太陽光=オシリスとなる。イシスはオシリスを内包しているということになる。そして、このメディア平面のイシス・オシリスが、現象界へと投影されて、全宇宙となるのである。だから、現象光は複雑である。それは、確かに、原太陽=オシリスの投影であると同時に、イデア光=イシスの投影に含まれるということになるのである。換言すると、現象光は、オシリスの光(原太陽の光)の投影だけでなく、イシスの光(イデア光)の投影であるということである。これが、イシス・オシリスの神話の意味だろう。
 ここで聖母子信仰のことを考えると、これは、キリスト教ではないと言えよう。これは、根源的宗教の一部であると言うべきである。カトリックは、キリスト教ではないものを含んでいるのである。
 さて、ここで、オシリスとキリスト教ないし父権神話について考えてみよう。父権神話は、いわば、メディア界を同一性によって分裂させてものである。いわば、イシスとオシリスを分化させて、オシリスを太陽神として、優越化させ、イシスを異教神として、否定・排除するのである。しかしながら、オシリスはあくまで、イシスとともにある存在であり、この新たな太陽神とは似て非なるものである。ギルガメシュ叙事詩から、この太陽神をシャマシュと呼ぼう。これまでの検討から、シャマシュは、同一性構造であることがわかるのである。あるいは、連続・同一性構造である。ユダヤ・キリスト教、ヘーゲルの理性、近代主義等々と共通するのである。(ここで、D.H.ロレンスが、『死んだ男』で、イエスを復活させるが、オシリスとして復活させることに最高度に留意すべきである。これは、ここでの議論から見ると、実に的確なのである。なぜなら、イエス・キリストとは、同一性の神、父権的神であり、オシリスとして復活することは、差異の神になり、メディア界の神になるということを意味するのである。)
 エジプト神話では、オシリスは兄弟のセトに殺されるのであるが、セトは、おそらく、シャマシュ、父権的太陽神に通じるだろう。つまり、オシリスは、同一性の神に殺されるのである。そして、イシスが、イデア光がオシリスを復活させるのである。これが、差異共振シナジー(コスモス)の形成を意味すると考えられるのである。そう、だから、オシリスの復活とは、当然、イシスの復活でもある。セト・シャマシュ・太陽神に、イシス・オシリスが殺害された言えるのだから。
 以上のように見ると、キリスト教とは、正に、支配的なユダヤ教的父権宗教と被抑圧的なイシス・オシリス的母権宗教との混淆であることがわかるのである。ギリシア正教、カトリック教会、プロテスタンティズムにおいて、強弱はあるにしろ、これらの混淆を見ることができるだろう。もっとも、プロテスタンティズムは、後者をできるだけ排除したとは言えるが。
 現代の脱構造のエポックにおいて、同一性構造は、すべて崩壊して行くのである。ユダヤ教的同一性構造は、瓦解するのである。つまり、一神教の解体である。
 以上のように議論してきて、イデア光の問題が浮かび上がってきたと言えよう。後で、検討したい。

2006年09月18日 (10:38)

世界の変化について:世界革新の問題:ポスト唯物論・ポスト西洋と超次元的世界観

世界の変化について:世界革新の問題:ポスト唯物論・ポスト西洋と超次元的世界観
テーマ:メタ・モダン進化meta-modernブッシュのタカ派的政策の行き詰まり、それへの批判が、USA国内で、高まり、また、ブッシュに同調したブレアが退陣することになり、また、アメリカ主義者の小泉首相も退くことになり、その他、中東問題(ヒズボラの勝利、イランの躍動、他)、ラテン・アメリカの跳ね返し(チャベス、他)等を見て、世界は、いわゆる、多極化へと向かっていると言えるだろう。
 しかし、呑気に、評論家のように言ってはいられないのである。私見では、これは、西洋中心主義の終焉なのである。つまり、西洋文明の終焉なのである。この意味することを、注意深く考察しないといけないのである。
 ここに来て、ポスト構造主義ないしポストモダンが問題にしたことが、真に問題となっていると言えるのである。これは、言い換えると、キリスト教ないしユダヤ・キリスト教的西洋文明の終焉である。これは、近代物質主義を生み出し、現代の狂気的な破局を帰結させているのである。
 これまで、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論(以下、DD/PS理論ないしDDPS理論:a discontinuous difference/platonic synergy theoryの略である)の視点から、メディア/現象境界である超越境界、いわゆる、構造主義の厳然たる構造(超越論的同一性構造)が、西洋文明の土台・根幹・基底であることが判明したのである。ポスト構造主義は、この構造の超克を意図したが、ポストモダン流行時期の優れた思想家であったデリダもドゥルーズも、結局、この構造から、真に脱却できなかったのである。これは、ポストモダン流行以前の、ニーチェ哲学とフッサール現象学を、発展的に継承できなかったことを意味すると考えられるのである。【この問題に関して、ハイデガーの思想が、最高度に有害・害悪であったと考えられるのである。フッサール現象学の画期的独創性(超越論的不連続性)を、ハイデガーの思想は内在的連続性の観念によって、隠蔽してしまったと考えられるのである。このハイデガーの思想が、後のポストモダンの限界を生み出したと言っても過言ではないだろう。】
 結局、政治・経済・社会的世界が、理論の行き詰まりを超えて、大変化しているのが現状であろう。いったい何が起きているのか。それは、構造主義の構造、超越論的同一性構造が、意味をもたない時代に世界が入ったということだろう。つまり、差異が、諸差異が、換言すると、特異性・単独性、即ち、諸不連続的差異が賦活された世界になったということである。これまで、西洋文明、とりわけ、USA中心の構造が支配しているのであるが、この構造主義を打ち破る動きが世界に発生しているのである。政治・経済・社会的実在が、構造主義を超克したのである。そう、多極化とは、理論的には、DDPS化である。そう、近代の同一性中心主義(唯物論、近代的合理主義、近代的自我、プロテスタンティズム)の崩壊・終焉・破滅がここには生起しているのである。ユダヤ・キリスト教的西洋文明の終焉が、今は、実在となったのである。この意味することは、途轍も無い。
 USAに隷従してきた日本は、大破局の危機にあると言わざるを得ないのである。今度の安倍政権は、予想通り、短命であろうが、ポスト安倍が今や核心的問題である。ベスト・チョイスは、小沢政権であろう。それしか、考えられない。そして、おそらく、そう歩むだろう。今や、大陣痛の時代である。日本国民は、大覚醒しないといけない。近代主義の幻想・妄想・狂躁に酔っぱらっていてはいけない。
 とまれ、今や、DDPS理論の時代になったと言えよう。ポスト西洋文明のコスモス文明の時代になったと言えよう。近代主義のドラッグ時代から、いちはやく、衆生はエクソダスしないといけない。

 西洋は死んだ!

参考:「安倍政権が誕生した場合の、その性格予測 ◆これは、日本の正統な保守陣営の再集合政権である。つまり、反小泉であり、アジア主義である。」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=447759
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu of ODA Watchers  『New Platonic Synergy Theory』 

2006年09月16日 (16:06)

「アイデンティティ」又は、自己基盤の問題:デカルト哲学と「スム」の不連続化というブレークスルー

「アイデンティティ」とは何だろうか。これは、有り体に言えば、自己優越性のことではないだろうか。逆に言えば、自己劣等感である。もう少し、丁寧に見てみよう。
 これは、知の問題である。知ることで、「アイデンティティ」を形成しようとする。知ろうとする起源に、「心」の不安、頼りなさがあるのだと思う。これは、意識の志向性(ノエシス・ノエマ)に拠るように思える。つまり、人間の精神とは、根本的に知ろうとする志向性があるのであり、これが、充足されないと不安に感じるのである。デカルトのコギトは、正に、これを意味するだろう。つまり、志向性とコギトとは、根源的に、同一であると言えよう。つまり、「アイデンティティ」とは、思考のことである。コギトの思考である。差異の思考である。これで、「アイデンティティ」の問題を解明したとしよう。
 問題は、コギトが、近代的自我と結びついたことである。つまり、根源の不連続的差異の知的志向性=認識志向性が、同一性自我と結びついたことの意味である。これは、連続・同一性構造に拠ると言えるだろう。メディア界から現象界へと移行するとき、連続・同一性構造を経るのであるから、不連続的差異が、同一性自我、言い換えると、近代的自我へと変転・変換するのである。これが、コギトの意味ではないだろうか。自然の過程である連続・同一性の結果としてのコギトである。そして、近代的科学が生まれる。
 しかるに、コギトは、根本は、不連続的差異であるから、イデア界やメディア界を内包しているのである。これが、同一性自我に対して、「揺らぎ」ないし「間(ま)」を生起させる。この「揺らぎ」や「間」が、カントの物自体であろう。そして、コギト・エルゴ・スムとは、同一性自我と物自体とを一致させようという意志、欲望、当為のようなものであろう。
 こう見ると、カントは、コギトとスムを分離させたものと言えるだろう。ここで、想起するのは、ドゥルーズが、カント哲学について述べていたことで、超越論的形式と物自体の間に、反復としての差異があるというようなことを述べていたと思う。これは、とりもなおさず、「コギト」と「スム」との差異であろう。しかしながら、これは、正に、「ポスト・モダン」の様態である。差異と同一性との中間態である。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論から言えば、メディア/現象境界の構造力学である。そして、これは、デリダの脱構築理論とほぼ等価である。
 結局、「スム」を不連続化することが、ポイントだったのである。これを、実質的に、為し得たのが、ニーチェとフッサールであるが、それを、充分に理論化できたと考えられるのが、不連続的差異論である。「スム(我在り)」の不連続化とは、「スム」の、純粋意識化・純粋主観/主体化・純粋認識化・志向性化であったと言えよう。つまり、「スム」に、フッサールの志向性(ノエシス・ノエマ)を発見したことであり、あるいは、「スム」に、ニーチェの永遠回帰を見たのである。これは、また、ウスペンスキーの四次元や五次元に通じるものである(p.s.  ウスペンスキーの四次元は、メディア界=差異共振シナジー次元を指し、その五次元はイデア界を指すのかもしれない。そう、時空四次元における時間、現象界の時間とは、メディア/現象境界構造エネルギーと結びついているだろう。とまれ、もし、四次元がメディア平面ならば、それは、正確には、五次元でなくてはならないだろう。そして、イデア界がガウス平面ならば、七次元となるのではないだろうか。しかし、ここは、微妙である。イデア界とメディア界で、三次元立体空間が形成される。だから、やはり、三次元現象空間とメディア平面二次元空間とイデア空間一次元の計六次元であろう。)。そう、「スム」がイデアであること、そして、ここから、共振的「スム」、間主観性、そして、差異共振シナジーが生まれることが、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論から判明したのである。

p.s. 以上の視点から、近代的自我の狂気について見ると、それは、正に、コギト・エルゴ・スムというイデオロギーによるものではないのか。本当は、コギトとスムの間には、「差異」があるのであるから。言い換えると、コギトによって、スムという本来の差異を覆い隠そう、隠蔽しようとする意識行為に狂気があると言えよう。この隠蔽行為が、他者への暴力となるのである。
 思うに、デカルトにおいては、コギトとスムとが分裂していたはずであるが、それを、一致させて、精神の分裂を無くそうとして、近代的自我を生んだと言えよう。
 そう、コギトとスムとの分裂、これが、「アイデンティティ」の不安を生んだと言えよう。スムという「闇」の力、これに近代人は耐えられずに、近代合理主義で、目隠し・目眩ししたのである。そう、スムは特異性、単独性であり、これは、絶対的孤独(=無ないし絶対無)なのである。これに、凡人は耐えられずに、連続・同一性的合理化をするのである。これが、近代的自我の狂気・暴力となるのである。
 しかし、なぜ、スムをそんなに恐れるのか。確かに、絶対的孤独である。無である。しかし、無限の無である。そう、スムは、言語同一性自我を解体するから、恐れるのだろう。成長過程において、形成される言語同一性自我を解体するので、恐怖なのだろう。やはり、近代化と言語同一性自我化とは結びついている(「初めに、言葉ありき」)。言語同一性自我化以前は、スムが基盤であったと思う。スムの生活世界があったと思われるのである。

p.p.s. 考えると、ヤハウェは、「我在り」という神である(創世記)。つまり、ヤハウェは、スムである。これは、どういうことだろうか。即ち、ヤハウェとは、「揺らぎ」ないし「間」の神である。
 問題は、ヤハウェ/エローヒム(神の複数)のことにつながるだろう。こう見ると、ヤハウェは、不思議な神である。無からの創造を、キリスト教では説かれる。無は、イデア界である。そして、「光あれ」とは、メディア界の事象であり、同時に、メディア/現象境界構造事象である。つまり、メディア界の原光と「光子」の両方を指しているように考えられるのである。
 とまれ、「我在り」・スムとしてのヤハウェの問題である。やはり、これは、デカルト哲学の先駆であるように思えるのである。メディア界の形成とその連続・同一性志向を意味しているように思えるのである。しかし、イデア界→ヤハウェ→イエス・キリスト→デカルトの系譜と見ないといけない。だから、ヤハウェは、端的に言えば、メディア界なのである。それも、メディア/現象境界に傾いたメディア界である。ここは、微妙である。理論の問題がある。
 精緻に考察しよう。ヤハウェは、メディア界ではなくて、メディア/現象境界構造の神である。そして、この境界が「我在り」・スムである。つまり、ヤハウェとは、「ポスト・モダン」の先駆である。ヤハウェは、エローヒム(神の複数)と結びつくのである。
 そうならば、コギトはどうなるのかである。コギトは、ヤハウェの、言わば、本体であろう。思うに、極言すると、コギトは、イデア界への回帰を志向しているのである。だから、コギト・エルゴ・スム(=ヤハウェ)なのであろう。
 そうならば、不連続的差異論とは、ヤハウェの不連続化であり、ヤハウェを、イデア界へと回帰させたことになるのではないだろうか。つまり、不連続的差異論とは、正に、ポスト・ユダヤ/キリスト教なのである。ポスト西洋文明なのである。

3p.s. イスラム教は、どう位置づけられるだろうか。私は、これまで、イスラム教は、確かに、一神教であるが、ユダヤ・キリスト教とは異質であると説いてきた。つまり、ユダヤ・キリスト教が同一性を基盤にしているのに対して、イスラム教は差異を基盤としている宗教である。イスラム教のタウヒード(同一性)とは、いわば、差異の共立を意味していると考えられるのである。つまり、イスラム教とは、メディア界の宗教であると考えられるのである。ただし、一神教の枠をもっているので、完全なメディア界の宗教ではないだろう。一神教の枠とは、連続・同一性構造のことである。換言すると、イスラム教とは、「ポスト・モダン」から一歩、不連続的差異論に近づいた宗教であると考えられるだろう。
 では、イスラム教とデカルト哲学はどのような関係があるだろうか。デカルト哲学が、イデア界への回帰への志向(コギト)をもっていたが、メディア/現象境界構造(スム)に帰結したの対して、イスラム教は、メディア/現象境界構造(スム)からの脱却を志向していたと考えられるのである。つまり、よりコギトの方向をもっていたと言えるのではないだろうか。デカルト哲学よりも、イスラム教は、イデア界の志向が強かったために、メディア界への志向が生起したように思えるのである。イスラム教の共同体は、差異共振シナジーの社会・生活世界を示唆しているように思うのである。
 ならば、端的に相違点は何なのだろうか。両者、イデア界への志向をもつ点では、共通であるが、環境がまったく異なっていた点にあるだろう。デカルト哲学の環境は、西欧の同一性言語構造環境であり、イスラム教の環境は、形而上学的環境である。形而上学と言っても、メディア/現象境界のそれではなく、メディア界のそれであると思う。やはり、「初めに、言葉ありき」の誤訳が効いていると思う。
 形而上学という言葉であるが、これは、今や、あいまいだから、できるだけ避けた方がいいだろう。問題は、メディア/現象境界の超越論的形式構造である。これは、確かに、形而上学に含めることができるのであるが、完全な内在超越界ではない。思うに、とりあえず、超越境界ないし超越構造界と呼ぶことができるだろう。そして、内在超越界ないし超越界と区別することができる。
 そうすると、デカルト哲学の環境は、超越境界(超越構造界)の環境であり、イスラム教は内在超越界(超越界)の環境にあったと言える。

4p.s. それでは、西田哲学や鈴木大拙の仏教思想は、どういう位置づけができるのだろうか。思うに、前者の絶対矛盾的自己同一の思想と後者の即非の論理学も、同一の思想・理論と見ることが出来ると思われる。AはAであり、且つ、非Aである、という論理学である。ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」と同一である。第三の論理学ないし原論理学である。この論理学は、対極性の論理学とも言えるのである。しかし、西洋哲学は、これを、弁証法と混同してきたのである。弁証法とは、正に、超越境界の論理なのである。しかるに、東洋の論理学とは、超越界の論理なのである。
 当然、「ポスト・モダン」は、両者を混同しているのである。西欧における超越境界ないし超越構造界の強固さ、これが、メディア界の論理学の認識を阻害しているのである。
 では、何故、西欧ないし欧米において、超越境界・超越構造界・言語同一性形式が強固であるのか。それは、ニーチェが指摘していた、印欧語の言語形式に存すると考えられよう。主語+述語(動詞)の言語形式、この主語・述語論理が、超越境界・超越構造界・言語同一性形式であると思われる。つまり、主語は、自我ないし同一性自我となるのであり、それが、述語=メディア界的能動性を規定して、構造化すると考えられるのである。
 因みに、日本語は、主体と客体の共振言語であると思う。例えば、「虫の音が聞える」という場合、「わたし」と「虫の音」とが、共振して、一如になっているのである。つまり、日本語は、本来、メディア界の言語なのである。差異共振シナジー言語なのである。

2006年09月14日 (18:33)

正気教へ向けて:キリスト教が、現代の狂気の原因である

現代日本の狂気は、また、世界の狂気は、はっきり言って、キリスト教が原因であると私は考える。キリスト狂である。あるいは、ユダヤ・キリスト狂である。なぜなら、これは、自我狂であるからである。古代の叡知は、プラトンや仏教を含めて、自我からの脱却を説いているのである。しかるに、ユダヤ・キリスト狂は、自我狂なのである。このために、日本や世界は、狂っているのである。狂気の神である、ヤハウェは。グノーシス主義は、世界の神は、邪悪な神としたが、世界の神ではなくて、ユダヤ・キリスト狂の神は、狂気の神だと思う。狂気神が、ユダヤ・キリスト狂の神である。
 狂気の神が、世界を動かしているのである。正気の神はいないのか。ポスト・ユダヤ・キリスト狂としての正気教が必要だ。
 
狂気の神からの脱出。
出狂気神である。

問題は、なぜ、狂気の神が信仰されるようになったのかである。邪教信仰である。あるいは、何故、狂気が必要とされるのかである。それは、欲望のためだろう。自我欲望の満足のために、狂気が必要となったのだと思う。仏教は、これからの脱却を説いたのである。また、プラトン哲学も、共通しているだろう。しかるに、ユダヤ・キリスト狂は、自我狂である。そう、イデアの反転としてのヤハウェ狂気神があるだろう。
 どうも、はやり、ニーチェのキリスト教批判は正しいように思う。賎民の宗教である。賎民の反乱である。賎民たちの反乱としての、狂気神信仰であろう。ならば、ユダヤ・キリスト狂とは、退化の宗教ではないのか。人類の退化を意味する宗教ではないのか。そうすると、この二千何百年と、人類は退化しているということになるだろう。
 ジョージ・ハリスンが、クリシュナ神に祈ったのは、正しいのだ。今や、進化のための宗教が必要であろう。進化のための叡知が必要であろう。正気の進化のために。

2006年09月11日 (10:49)

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象

テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義

自己愛性人格障害という名称は、生ぬるいと思う。自我狂気病(同一性自我狂気症)と呼ぶのが適切・的確だと思う。現代、この自我狂気病ないし自我精神病が蔓延している。この自我精神病について、再考したい。
 先に、「揺らぎのない芸術は情操を高めない」というタイトルで、記事を引用したが、自我狂気病は、確かに、「揺らぎ」がない。「揺らぎ」とは、本来、メディア界がもたらすものである。だから、これまで、差異(メディア界)を否定・排除・隠蔽する同一性中心自我の様態にぴったりとあてはまると言えよう。
 これまで理論的解明をしてきたが、やはり、この絶対的否定の原因が、よくわからないという思いがするのである。というか、不思議な感じがするのである。
 とまれ、具体的な事象で考えよう。揺らぎの有無が出たので、考えると、現在、流行しているような若者の歌には、揺らぎが欠落している。そう、若者だけでなく、いわゆる、演歌歌手の歌にも、揺らぎが欠けている。いわば、頭だけで歌っているのである。頭とは、この場合、近代的自我の頭と考えられるのである。差異・メディア界の揺らぎがないのである。これは、音楽で言えば、直接的に、響きの質の問題である。響きの質に揺らぎがないということである。共振シナジー相が排除されているということである。
 どうも、何か洗脳されている向きがあるのである。本当の歌を、生産せずに、同一性の似非歌を生産しているのである。これは、当然、同一性の自我を発生させることになる。
 ここには、観念の問題がある。言語観念である。思うに、観念は、二つはある。メディア界的観念と言語観念である。(イデアとは、本来、前者である。これは、ヴィジョンに近い観念と言えよう。また、私が先に、ウィーンフィルとベルリンフィルの相違について述べたが、ここの問題と一致する。)言い換えると、差異観念と同一性観念の違いである。結局、歌の観念が、現代、後者、同一性観念になっているということである。歌の声が、同一性観念になっているということである。これは、結局、貨幣と同じである。
 
ナルシス
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Narcissus.jpg

 同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。ここで、留意すべきは、陰が否定されたのではなくて、差異が否定されたことである。対極性が否定されたことである。天と地との二元論は、天を優位にしても、地を優位にしても、同形である。ここにあるのは、差異、差異共振、差異極性の否定である。
 しかし、これまで、述べたように、マイナス・エネルギーが作用すると、再び、差異が発動するようになるのである。これは、超越論的領域に起こるのである。つまり、超越論的同一性形式の場に、差異が発生するのである。つまり、それまで、同一性の構造であった場(超越場、内在超越場)に差異の構造が発現するのである。これは、たいへんの事態である。つまり、それまで、アリストテレス的形式論理学の「帝国」に、対極性・即非の論理学・ターシャム・オルガヌムが出現するからである。これは、大事件である。正に、革命的事件である。この差異再発の事件こそ、ポスト近代の事象であると考えられるだろう。当然、自我は、混乱するのである。自我に差異という怪物が急襲したのである。これが、本当のポスト・モダンの意味である。いわゆる、ポストモダンは、真正のポスト・モダンの応急処置のようなものではなかったか。真正ポスト・モダン(ディープ・ポストモダン)とは、ニーチェ哲学のような事態であり、フッサール現象学の探求に存する。
 とまれ、超越論的構造における差異の再出現という大事件によって、近代的自我は混乱、カオスの状態に陥るのである。私見では、これが、「自己愛性人格障害」の本体ではないかと思えるのである。近代的自我、同一性中心自我にとって、在り得ない、不可能な事態が発現したのである。差異の力動、エネルギーが再発動・駆動したのである。この差異の発動が、近代的自我・同一自我に否定されて、反動狂気となっているのである。つまり、差異を否定しようとする憎悪・暴力・攻撃がここにあるのであるし、また、この、正に、反動暴力が、狂気凶暴な傲慢さを発生させていると考えられるのである。即ち、高位・優位の同一性自我は、差異を否定することで、成立・確立するのだが、しかし、ポストモダン事象によって、差異が再発動して、この前提が危うくされているのである。つまり、同一性を否定する差異の事象が再発現したのである。当然、同一性は、この差異を激しく否定する。蛇蝎のごとく、忌み嫌うように憎悪するのである。つまり、ポストモダン事象において、近代的自我は、分裂症、二重人格になるのである。高位・優位の同一性自我と同列の、対等の差異自我が発生するのであるが、前者が後者を否定・排除・隠蔽しようとするのである。そう、抑圧するのである。しかし、自己に存在し、また、進展するものを抑圧するので、当然、病理的になるのである。この差異への抑圧が反動病理になるのであり、これが、「自己愛性人格障害」として発症しているのだと考えられるのである。そして、唯物論的資本主義は、差異知性・差異教養・差異理性を排除しているので(ヴァンダリズム、石原都知事の都立大破壊)、この近代的自我狂気病は、治癒方法を喪失して、蔓延するのである。
 結局、近代的自我が否定した差異を肯定することが治癒につながるのである。そう、先に流行したポストモダンではだめである。DD/PS(DDPS)理論こそ、これを完遂できる理論と考えられるのである。つまり、流行したポストモダンは、DD/PS理論から見ると、メディア界に達したが、イデア界を捉えていないのであり、そのため、同一性構造から真に脱却できなかったのである。いったん、イデア界に達することから、純粋なメディア界に達することができるからである。不連続的差異の共立するイデア界に回帰して、純粋メディア界が生起するのである。これが、純粋ポストモダン、純粋ポスト構造主義である。

p.s. 同一性自我について、新たに考えると、これは、本来、差異自我が、同一性自我へと、いわば、転移ないし投影しているのである。同一性自我の投影像である。神話のナルシスであるが、水面に映る自我像とは、正に、同一性自我像であり、差異自我自身が自身をこれに投影しているのである。つまり、これは、まったく幻想・幻像なのである。差異自我自身が、同一性自我の仮面(パーソナリティ)をつけている、かぶっているからである。差異でありながら、同一性であると過信、盲信、妄信しているのである。つまり、同一性自我は、もともと、幻影・虚偽・虚構・欺瞞・虚栄的なのである。
 プラス・エネルギーの時は、これが、能動的であるからいいが、ポストモダン事象においては、仮面の具合が悪くなるのである。仮面の下の、真相が剥き出しになろうとするのである。仮面破壊が生起するのである。これに対して、同一性自我は、反動的に抑圧するために、病理・狂気的になるのである。「自己愛性人格障害」を哲学するとこうなるだろう。

p.p.s. 極性構造のエネルギーは、言い換えると、欲動・情動・衝動と言えるのではないだろうか。思うに、欲動・欲望とした呼んだ方がいいのかもしれないが。とまれ、作業仮説的に、欲望と呼んでおこう。プラス・エネルギーの場合は、同一性自我欲望である。食欲や性欲や所有欲においても、同一性自我の欲望が入るだろう。例えば、ブランド製品を欲望すると言った場合であるし、高級レストランで食事をするとか、外観の優れた者を性欲の対象にするとかである。そう、資本主義は、この同一性自我欲望と結んでいると言えよう。そのため、同一性欲望を刺激する宣伝に満ちることになるのである。
 とまれ、この同一性自我欲望がプラス・エネルギーであり、暴力である。即ち、

プラス・エネルギー=同一性自我欲望=暴力

となる。これは、また、差異への否定暴力でもある。
 しかし、問題は、マイナス・エネルギーが賦活されたポストモダン事象となる場合である。差異のエネルギーが生成して、同一性自我暴力を解体する方向にはたらくのである。この差異という他者に対して、同一性自我は、反動狂気化するのである。そう、マイナス・エネルギーとは、思うに、差異の欲望であろう。差異であることの欲望である。(ここで、ユング心理学の個性化の概念を想起する。)ここでは、差異への欲動と呼んでもいいように思える。とまれ、ポストモダン事象において、同一性自我欲望と差異自我欲望が衝突することになるのである。しかし、この事象は、超越論的構造、超越論的極性構造で生起しているので、単なる自我意識によっては、どうすることもできないのである。つまり、同一性自我は、ポストモダン事象において、いわば、ほぼ未知の経験をすることになるのである。つまり、同一性自我なので、差異に対する認識が欠落しているということである。このため、差異の欲望に対して、同一性自我は反動的な抑圧的態度をとるのである。というか、衝動的にそうなるのである。差異の欲望エネルギーが発動する。それを肯定的に受容できないので、それを抑圧するが、その抑圧が差異欲望エネルギーを反動化させて、狂気傲慢暴力攻撃衝動とするのである。つまり、同一性自我は、その差異欲望エネルギーを抑圧する態度のために、反動狂気衝動を引き起こすと考えられるのである。この差異欲望エネルギーの抑圧が、同一性自我の狂気的傲慢さを生むと考えられるのである。

3p.s. 以上のように考えると、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病の原因は、子供の時期の親から見捨てられる経験というトラウマ云々よりは、差異認識の欠落・欠如・欠損によるのではないのかと思えてきたのである。付け加えると、豊かな自然体験のそれである。この場合、自然とは、勿論、農村・漁村・山村等々における自然を含めて、いいのであるし、野趣の残る自然でもいいのである。
 すると、結局、なんらかの差異経験・体験の欠落が考えられるのである。「揺らぎがない」状態とは、正に、このことから発したと考えられるのである。子供たちに、同一性教育をして、差異教育していないのである。狂育である、正に。やはり、戦後唯物科学中心教育の帰結であろう。
 そう、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病とは、トラウマというよりは、唯物科学教育の産物と見た方がいい。唯物科学とは、正に、同一性自我形式をもつのである。だから、
同一性自我/唯物科学教育が真因である。私は、近代的自我は、現代において、狂気になっていると執拗に論じたが、それは、正鵠を射ていたと言わなくてはならない。

4p.s. 言及するのを忘れていたが、オウム真理教事件であるが、正に、理系出身の青年たちが、多く関与していたことを想起するのである。同一性自我/唯物科学教育(狂育)を彼らは受けてきて、差異教育を受け来なかったため、差異が狂気反動化してしまったと考えられるのである。唯物科学は、悪魔の科学である。これを、明確に、認識しないといけない。真にイデア論に基づく科学が、天使の科学であろう。

DD/PS理論が、ポスト唯物悪魔科学としてのイデア論的天使科学を創造できるだろう。

2006年09月11日 (08:34)

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象

自己愛性人格障害という名称は、生ぬるいと思う。自我狂気病と見るのが正しいと思う。現代、この自我狂気病ないし自我精神病が蔓延している。この自我精神病について、再考したい。
 先に、「揺らぎのない芸術は情操を高めない」というタイトルで、記事を引用したが、自我狂気病は、確かに、「揺らぎ」がない。「揺らぎ」とは、本来、メディア界がもたらすものである。だから、これまで、差異(メディア界)を否定・排除・隠蔽する同一性中心自我の様態にぴったりとあてはまると言えよう。
 これまで理論的解明をしてきたが、やはり、この絶対的否定の原因が、よくわからないという思いがするのである。というか、不思議な感じがするのである。
 とまれ、具体的な事象で考えよう。揺らぎの有無が出たので、考えると、現在、流行しているような若者の歌には、揺らぎが欠落している。そう、若者だけでなく、いわゆる、演歌歌手の歌にも、揺らぎが欠けている。いわば、頭だけで歌っているのである。頭とは、この場合、近代的自我の頭と考えられるのである。差異・メディア界の揺らぎがないのである。これは、音楽で言えば、直接的に、響きの質の問題である。響きの質に揺らぎがないということである。共振シナジー相が排除されているということである。
 どうも、何か洗脳されている向きがあるのである。本当の歌を、生産せずに、同一性の似非歌を生産しているのである。これは、当然、同一性の自我を発生させることになる。
 ここには、観念の問題がある。言語観念である。思うに、観念は、二つはある。メディア界的観念と言語観念である。(イデアとは、本来、前者である。これは、ヴィジョンに近い観念と言えよう。また、私が先に、ウィーンフィルとベルリンフィルの相違について述べたが、ここの問題と一致する。)言い換えると、差異観念と同一性観念の違いである。結局、歌の観念が、現代、後者、同一性観念になっているということである。歌の声が、同一性観念になっているということである。これは、結局、貨幣と同じである。
 
ナルシス
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Narcissus.jpg

 同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。ここで、留意すべきは、陰が否定されたのではなくて、差異が否定されたことである。対極性が否定されたことである。天と地との二元論は、天を優位にしても、地を優位にしても、同形である。ここにあるのは、差異、差異共振、差異極性の否定である。
 しかし、これまで、述べたように、マイナス・エネルギーが作用すると、再び、差異が発動するようになるのである。これは、超越論的領域に起こるのである。つまり、超越論的同一性形式の場に、差異が発生するのである。つまり、それまで、同一性の構造であった場(超越場、内在超越場)に差異の構造が発現するのである。これは、たいへんの事態である。つまり、それまで、アリストテレス的形式論理学の「帝国」に、対極性・即非の論理学・ターシャム・オルガヌムが出現するからである。これは、大事件である。正に、革命的事件である。この差異再発の事件こそ、ポスト近代の事象であると考えられるだろう。当然、自我は、混乱するのである。自我に差異という怪物が急襲したのである。これが、本当のポスト・モダンの意味である。いわゆる、ポストモダンは、真正のポスト・モダンの応急処置のようなものではなかったか。真正ポスト・モダン(ディープ・ポストモダン)とは、ニーチェ哲学のような事態であり、フッサール現象学の探求に存する。
 とまれ、超越論的構造における差異の再出現という大事件によって、近代的自我は混乱、カオスの状態に陥るのである。私見では、これが、「自己愛性人格障害」の本体ではないかと思えるのである。近代的自我、同一性中心自我にとって、在り得ない、不可能な事態が発現したのである。差異の力動、エネルギーが再発動・駆動したのである。この差異の発動が、近代的自我・同一自我に否定されて、反動狂気となっているのである。つまり、差異を否定しようとする憎悪・暴力・攻撃がここにあるのであるし、また、この、正に、反動暴力が、狂気凶暴な傲慢さを発生させていると考えられるのである。即ち、高位・優位の同一性自我は、差異を否定することで、成立・確立するのだが、しかし、ポストモダン事象によって、差異が再発動して、この前提が危うくされているのである。つまり、同一性を否定する差異の事象が再発現したのである。当然、同一性は、この差異を激しく否定する。蛇蝎のごとく、忌み嫌うように憎悪するのである。つまり、ポストモダン事象において、近代的自我は、分裂症、二重人格になるのである。高位・優位の同一性自我と同列の、対等の差異自我が発生するのであるが、前者が後者を否定・排除・隠蔽しようとするのである。そう、抑圧するのである。しかし、自己に存在し、また、進展するものを抑圧するので、当然、病理的になるのである。この差異への抑圧が反動病理になるのであり、これが、「自己愛性人格障害」として発症しているのだと