2006年10月31日 (11:04)

絶対的超越性ないし超越神について

キルケゴールに関連して、超越神ないし絶対的超越性の問題について、検討する必要がある。
 キルケゴールは、『おそれとおののき』の中で、息子イサクを神から犠牲にするように言われて、そうする決意した父アブラハムの信仰に、いわば、絶対的信仰を見ていると言えるだろう。この絶対的信仰が特異性と言えるだろう。ここにあるのは、絶対的垂直性である。絶対的単独性である。これは、不連続的差異と言ってもいいだろう。この点において、おそらく、ニーチェは、共感したのではないだろうか、もし、ニーチェがキルケゴールを知っていたら。そう、ニーチェは、旧約聖書を尊び、新約聖書を貶めていた。
 ところで、この絶対的垂直性、絶対的単独性、絶対的差異性であるが、これを、プラトニック・シナジー理論から見たら、どう位置づけられるのだろうか。あるいは、一神教の絶対的超越性はどこに位置づけられるのだろうか。あるいは、どのように理論化できるのだろうか。
 ここでも、直観から述べよう。絶対的垂直性は、イデア界に存するだろう。イデア差異である。私は、一神教の神は、イデア界に存するように思えてきている(これも、一つの作業仮説ではあるが)。では、多神教とは何かとなる。多神教は、メディア界の宗教である。一神教は、それを破壊する。それも、イデア界からではないのか。しかし、「我在り」という神(ヤハウェ)である。これは、⇒1か=1の神である。つまり、一神教、とりわけ、ユダヤ教の神は、言わば、メディア界を飛ばして、イデア界と現象界を結びつけているのである。共立性を飛ばして、単独性を主張しているのである。
 しかし、イデア界は、不定形のイデア差異の共立があるのではないだろうか。ここは、思うに、フッサールの志向性の始点ではないだろうか。志向性の始点の共立界ではないだろうか。そうならば、一神教の神、絶対超越神は、特に、イデア界からではないだろう。思うに、ヤハウェは、特異性なのである。それも、同一性へ傾斜した特異性である。⇒1か=1の勾配・傾斜をもっているのである。しかしながら、(i)・(-i)ではなくて、(i)・(i)に近いのではないだろうか。つまり、ヤハウェには、他者、(-i)がないのではないだろうか。ならば、病理的な神であるし、私はこれまで、邪神と述べてきているのである。
 そうならば、ヤハウェは、メディア界の極性を喪失した一極主義の神となるだろう。多神教を否定するヤハウェは、差異共振の神ではありえず、二項対立の神である。つまり、これは、やはり、=1の神である。自我神である。確かに、独特の特異性は感じるが、しかし、純粋の特異性ではないのだ。なぜなら、否定すべき、多神教という他者を必要としているからだ。(ほとんど、近代的自我である。)だから、ヤハウェ、超越神の位置は、メディア界と現象界の境界の現象面であろう。この境界が絶対超越性になっているのではないだろうか。そして、現象面ということで、=1ないし同一性である。しかも、連続的同一性である。ということで、ヤハウェ、超越神、絶対超越性の位置が確認できたであろう。これは、これまで、のべてきたこととほぼ同じである。これまでは、メディア界と現象界の境界構造としてのヤハウェと述べてきたのである。今度は、さらに限定されて、境界の現象面ということになったのである。
 すると、キルケゴールの特異性の問題がこれでわかるだろう。キルケゴールの主体性・特異性とは、メディア/現象境界の同一性、構造主義性である。
 では、これとヘーゲルの観念とどう異なるのか。以上の考え方では、両者同一となるのである。キルケゴールは、ヘーゲルの掌中にあることになる。
 後で再検討したい。

p.s. 以上の結論の訂正ということも含めて、考察を進めたい。
 どうも、超越神の考え方を訂正する必要があるようだ。端的に言おう。一神教の超越神は、メディア界と現象界の両面をもっている神である。だから、メディア/現象境界の神とも言えるだろう。ヤハウェは、両面あるのである。キルケゴールの神=特異性は、メディア界を指していると考えられるのである。そして、ヘーゲルの精神・観念は、境界の同一性を指していると考えられるのである。だから、ヘーゲルの観念とキルケゴールの主体性=特異性とはまったく異質なものである。キルケゴールの有限と無限のパラドックスとは、正に、メディア界と現象界との「パラドックス」である。しかし、これは、非対称性、不連続性で説明ができると考えられる。
 ということで、キルケゴールは、メディア界の特異性を志向したのであり、真正にポスト西欧(ポスト・モダンは、ポスト・ウェスタン、ポスト・オクシデントであろう)である。
 また、超越神であるが、それは、(i)・(-i)⇒1であり、結局、=1となったと言えるだろう。デカルト哲学の先駆であると考えられる。ここで、一神教の解体が起こるのである。それは、本来は、(i)・(-i)であるが、(-i)の側面が神になっていると思うのである。本来、神を他者にすれば、プラトニック・シナジー理論となるのである。そう、一神教は、おそらく、(i)を(-i)に比べて、肥大化してしまっているのである。だから、一(いつ)、一神教となるのである。しかし、それに他者・差異である(-i)を取り戻すと、プラトニック・シナジー様相となり、いわば、ポスト一神教=新多神教となると考えられるのである。
 ということで、簡単であるが、キルケゴールは、やはり、ポスト・ヘーゲル=「ポスト・モダン」=ポスト・ウェスタン=ポスト・オクシデントの哲学者である。キルケゴールの神は、実質では、一神教の神ではなく、差異共振シナジーの神であろう。

参考:「逍遥の人 セーレン・キルケゴール」
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/index.html

2006年10月30日 (23:09)

(i)・(-i)というプラトニック・シナジー界の内包する意味:イデア界の位置づけと二つの同一性

先にKaisetsu氏が提起された自己認識方程式、即ち、(i)・(-i)⇒1は、オイラーの等式や黄金律、等に匹敵する、否、それ以上の根源的方程式・公式のように思える(p.s. 即ち、大発見である)。とりわけ、(i)・ (-i)の部分である。これは、不連続的差異論のメディア界を指すが、プラトニック・シナジー理論では、零度差異共振シナジー界、即ち、プラトニック・シナジー界を意味する数式であると考えられる。換言すると、ここに、プラトニック・シナジー理論のエッセンスが凝縮されていると言っても言い過ぎではない。
 私は、ここから、不連続的差異論のイデア界との関係、あるいは、空間、時空間の問題を考察したいと思っている。イデア界との関係は、用語の問題が少しある。プラトンのイデアとは、ほぼ、プラトニック・シナジー界の「イデア」であると思えるのである。だから、区別するために、「メディア」という用語を使うべきかもしれないが、これも、混乱させる恐れがあるのである。
 とまれ、たとえば、プラトン的に、花のイデアとは、プラトニック・シナジー界に存すると言えるのである。花のイデアとは、デュナミスであり、また、エネルゲイアである。(ちなみに、アリストテレス哲学の問題は、超越次元を無視しているところである。プラトンの超越次元を、プラトニック・シナジー理論では、虚軸を、無視しているのである。)そして、花のイデアのあるプラトニック・シナジー界とは、プラトンのコーラ(形態形成場と考えられる)に相当するし、西田哲学の場所も、ここに相当するだろう。また、当然、鈴木大拙の即非論理学の位置(トポス)もここである。(思うに、ドゥルーズ&ガタリは、離接という概念を提起したが、それは、とりもなおさず、即非の論理のことである。しかし、彼らの不十分さは、離接を内在平面に置いていることである。内在平面とは、プラトニック・シナジー理論から言うと、プラトニック・シナジー空間、即ち、メディア空間の連続・同一性平面である。差異=微分空間である。これは、即非空間ではないのである。ところで、今思ったのは、同一性と連続的差異とは異なるのではないかということである。これについては、後ほど検討したい。)
 では、イデア界とは、プラトニック・シナジー理論から見たら、どう位置づけられるのだろうか。Kaisetsu氏のガウス平面的プラトニック・シナジー理論から見ると、虚軸が、プラトニック・シナジー界であり、実軸が現象界(「現実」界)であり、現象界を空間三次元とすると、虚軸が時間軸であり、それで、時空四次元が形成される。いわば、プラトニック・シナジー四次元時空間である。
 では、イデア界を付け加えるには、どう考えたらいいのだろうか。これまでの考え方では、イデア界のX軸の1/4回転で、メディア界のY軸が形成されると考えてきた。しかし、今では、X軸実軸は、現象界のことになっているのである。私は、先に二種類の1/4回転があるだろうと述べた。第一番目の1/4回転が、イデア界からメディア界を形成し、第二番目の1/4回転が、現象界を形成するという考え方である。そうすると、第五次元以上を考えることになる。作業仮説的に、プロトX軸、原X軸を考えれば、それが、イデア界になるだろう。あるいは、X軸をイデア界、Y軸をプラトニック・シナジー界、Z軸を現象界として考えることができるのではないだろうか。そうすると、プラトニック・シナジー界(メディア界)と現象界は、Y軸とZ軸との関係になると考えられる。
 ならば、イデア界は、X軸であり、XY平面とYZ平面の二つのガウス平面が生起するのではないだろうか。用語・概念の問題であるが、プラトニック・シナジー平面(メディア平面)は、YZ平面であり、イデア平面はXY平面になるのではないだろうか。
 とまれ、この空間視点から、上記した同一性と差異=微分の問題を考えると、思うに、同一性ないし連続・同一性とは、Z軸上の実数であろう。しかし、差異=微分の考え方とは、虚軸Y軸の即非論理を認識せずに、虚軸Y軸に連続的差異を想定していると言えるだろう。つまり、虚軸Y軸と実軸・現象軸・Z軸との直交関係を否定して、両者を一様のものとしているのである。つまり、虚軸と実軸の不連続性ないし内在超越性を認識せずに、連続・内在性を見ているのである。つまり、連続的差異の展開としての同一性である。連続的差異とは、内在平面に存すると、ドゥルーズは考えているのである。だから、この視点の同一性とは、連続的差異的同一性である。
 しかるに、プラトニック・シナジー理論における同一性とは、(i)・(-i)の即非的極性における同一性であるから、不連続的差異的同一性なのである。私が眼前に見るリンゴは、不連続的差異的同一性、あるいは、特異性的同一性のリンゴなのである。これを連続的差異的同一性のリンゴと見たら、唯物論である。唯物科学・量子論的リンゴとなるだろう。両同一性は、似て非なるものである。簡単に表記すれば、連続的同一性と不連続的同一性である。これは、まったく別のものである。どうも西洋哲学ないし哲学一般は、両者を区別して来なかったように思える。唯名論と実念論の問題、即ち、個物と観念の問題、あるいは、アリストテレス哲学とプラトン哲学の問題、唯物論と観念論の問題、等々。この問題は、現象界と超現象界の問題に還元することができるだろう。つまり、二項対立、二元論なのである、現象界主義か超現象界主義か、の問題にされてしまったのである。個物かイデアか、ということになるのである。ヘーゲルは、これを統一しようとして、弁証法を構築する。しかし、それは、連続的差異=観念の統一仮説であり、一般形式理論なのである。ヘーゲルは、個物は、同一性であるとして、この同一性観念から統一を志向するのである。しかし、この同一性は、不連続的同一性ではなくて、連続的同一性である。特異性が喪失されているのである。(特異性は、キルケゴールが宗教批判として展開することになった。)
 連続的差異論とは、言い換えると、アトム論である。現象の個体・個物の根源要素として「アトム」を考え、これが、連続して個体・個物が形成されるという考えである。単位の連続的集合としての個体・個物である。そして、この連続論においては、唯物論も観念論も同形である。連続的形式が共通なのである。つまり、唯物論とは、個物の連続的形式として物質を考えるのであり、観念論とは、個物の超次元としての連続的形式としての観念を想定するのである。つまり、西洋哲学は、特異性ないし単独性を看過しているのであり、これに対する批判が、キルケゴール、ニーチェ、フッサールによってなされたと言える。東洋からの批判者としては、鈴木大拙や西田幾多郎がいるのである。また、ロシア(ロシアは、ユーラシアと見ないといけないだろう)からは、ウスペンスキーが出たのである(『地下生活者の日記』のドストエフスキーも、これに近いだろうが、ドストエフスキーの発想は、シュティルナーの唯一者と共通すると考えられるのである。つまり、一見単独者であるが、それは、エゴイストである。つまり、(i)・(i)=−1と思われる。後で検討。)
 そして、フランス・ポストモダン(このように言えば、ポスト・モダンの用語はプラトニック・シナジー理論の発見の後でも、使用できる)は、これを発展するはずであった。とりわけ、ジル・ドゥルーズは、特異性singularityに注目して、差異哲学の創造を目指したのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論の成立の経緯からわかるように、ドゥルーズの差異理論は、たいへんな誤謬を犯していたのである。ポスト・ヘーゲル、即ち、ポスト・モダンという思想環境にありながらも、ドゥルーズは、連続的差異、即ち、ヘーゲルに戻るという反動行為を犯してしまったのである。そう、ドゥルーズ理論は、大反動であり、際物理論である。非常にたちが悪いのである。なぜなら、特異性singularityと言いながらも、連続的差異(差異=微分)を主張しているからである。これは、虚偽的誤謬である。ペテンである。
 さて、本論にもどると、結局、西洋哲学は、連続的形式に拘束されていたが、ポスト・ヘーゲル=ポスト・モダンとして、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、鈴木大拙、西田幾多郎、ウスペンスキーらが出現して、不連続論を提出し、ポスト・モダン環境を構築したのである。しかし、これは、フランス・ポスト・モダンという大反動によって、目隠しされてしまったのである。日本においては、フランス・ポスト・モダンを信奉する唯物論的知識人たちによって、ポスト・モダン環境が排除・隠蔽されてしまったのである。(私見では、真正なポスト・モダンに近づいたのは、柄谷行人であろう。しかし、彼は、唯物論者で、差異・「イデア」を把捉・理解できなかったのである。また、中沢新一であるが、彼は、ドゥルーズ主義者であり、似非理論家である。)そう、ポスト・モダンは、フランス知識人によって、葬られてしまったのである。似非ポスト・モダンであったのである。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダンの本流を復活させて、進展させたのであり、これは、連続的差異論を批判・否定して、不連続的差異である特異性のイデア論の創造的発見である。だから、本論にもどると、二つの同一性があるのであり、これを区別しないといけないのである。不連続的同一性と連続的同一性である。数式化すると、(i)・(-i)⇒1という同一性と(i)・(-i)=1という同一性である。このように考えて、先の私の考察の複雑さ、微妙さがわかるのである。具体的に言えば、眼前の柿一個であるが、これは、正しくは、不連続的同一性である現象、(i)・(-i)⇒1である。これに対して、それを連続的同一性である現象、(i)・(-i)=1と見れば、仮象である。
 さて、このよう現象同一性を見ると、プラトンのイデア論はどうなるのだろうか。現象界はイデア界の仮象であると考えているのである。(i)・(-i)から見れば、確かに1という同一性は仮象になるだろう。しかし、(i)・ (-i)⇒1から見たときは、どうだろうか。⇒1は、仮象なのだろうか。1は仮象ではなく現象である。本象であろう。思うに、ここには、プラトンのイデア論とプラトニック・シナジー理論の差異があるのではないだろうか。前者は、現象仮象論であるのに対して、後者は現象本象論である。眼前のリンゴ一個の同一性は否定すべくもないのである。これを仮象としたら、生活は成り立たないのである。この点についは、後でさらに検討したい。

2006年10月29日 (22:22)

メディア界(プラトニック・シナジー界)と自己について:(i)・(−i) →1

Kaisetsu氏が提示した自己認識 方程式ないし自己公式は、シンプル で、含蓄が深いようだ。

【 「(i)・(-i)=1」(iは虚数 単位 )

は、

「我思う故に我あり」の状況を表す式となる。

 プラトニック ・シナジーの理論 では、同値 関係は観念的同時の概念 から認められないので、この式は、正確には、

(i)・(-i)⇒1

と表される。】

http://theory.platonicsynergy.org/?eid=394342

この方程式ないし公式を、私がこれまで、何百回となく批判してきたほぼ結論 のでた近代的自我 批判(批判的解明)に適用してみよう。

 メディア 界(プラトニック ・シナジー界と呼べるだろう)において極性をこれまで考えてきた。プラスの志向性が連続 ・同一性の志向性で、同一性自己=自我 (近代的自我 )を形成する。それに対して、マイナス の志向性があり、これが、差異を志向するのである。Kaisetsu氏の方程式・公式をここで使用すると、(i)が同一性であり、(-i) が差異となるだろう。そして、同一性と差異とが共立して、1=自己(自己/自我 と表記すべきかもしれない)となる。

 また、この(i)・(-i)は含蓄に富んでいて、これは、正に、差異共振 シナジーの方程式・公式であると考えられる。これは、プラス1/4回転であり、マイナス 1/4回転である。つまり、共立させて、回帰 を意味 するのである。

 とまれ、(i) を同一性自己=自我 とすれば、半面として、(-i)である差異が存しているのである。しかし、近代的自我 =1は、これを否定・排除・隠蔽しているのである。つまり、実数だけしか認めず、虚数 を否定・排除しているのである。これは、内在超越性の否定・排除・隠蔽である。あるいは、神の次元 の否定・排除・隠蔽である。

 言い換えると、近代的自我 =1のメディア 界には、(i)・(-i)というエネル ゲイ アがあるが、これを、同一性=1としか見ようとしないのである。本来、(i)・(-i)の極性があるのに関わらず。だから、これは、不合理・非合理、即ち、狂気なのである。これまで、私が骨折 って証明しようとした近代的自我 =狂気はこれで簡単に説明できるのである。(数学 の抽象合理性はすごい。)

 Kaisetsu氏が説いているように、自己とは本来、即非なのであるが、それを、近代的自我 =同一性自己は、実数1と言い張っているのである。これが「自己中心主義」・エゴイズム であり、最近 の流行 りの自己愛性人格障害 シンドローム である。これは、実にシンプル で明快である。

 そう、問題は、正に、(i)・(-i)→1の→を(i)・(-i)=1の=にしてしまった点に、コギト哲学 の誤解が始まったと言えるかもしれない。Kaisetsu氏とほぼ同時に(共時性 ・シンクロニシティ 的に?)、私が考えた特異性と同一性の問題と確かに共通する問題である。私が言うみかんやリンゴ の特異性とは、正に、(i)・ (-i)であるし、同一性は、1である。正確に言うと、→1と=1である。私が微妙 に拘ったのは正に、この→と=の点である。→は差異・「イデア 」の現象としての同一性を意味 し、=は単なる現象界のみの仮象 の同一性を意味 するのである。つまり、=1は、唯物論 なのである。結局、近代は、→と=の区別ができなかったのである。コギト哲学 を唯物論 化して、近代合理主義が生まれて、近代の大惨事 が生まれたと言っても言い過ぎではない。

 さて、これで、Kaisetsu氏の卓抜な・卓越した自己認識 方程式・公式を適用して、私のこれまでの近代的自我 批判が解明できたと言えるのである。

 次に、さらなる応用ができるかもしれないと漠然と思っているので、少し思考実験 してみよう。

 私が想像 しているのは、(i)・(-i)とはコスモス であり、多様な様相を表現しているのではないのかということである。(i)・ (-i)は即非の論理 表現なのだから、メディア 界=差異共振 シナジー界=プラトニック ・シナジー界を当然、表わしている。だから、コスモス を意味 していると考えて間違いないのである。iの替わりに、差異1,差異2,差異3,・・・を入れれば、多様な様態=多様な「イデア 」が形成されるのである。つまり、いわば、形態形成場=コーラ の公式でもあるだろう。また、生命の起源 もここにあると直感できるのである。(遺伝子 の起源 もここであろう。当然、気の起源 もここである。)

 つまり、こう考えると、一挙に神秘思想 ・神秘学・東洋思想 が解明されると言えよう。ウパニシャッド 哲学 の「汝はそれなり」の「それ」とは、正に、(i)・(-i)=コスモス =ブラフマン である。梵我一如である。アートマン 即ブラフマン である。ただし、この即は、やはり、即非が正しいだろう。エネル ゲイ アとしての(i)・(-i)であるからだ。実に微妙 である。=であったり、→であったりするのであるから。

 ここで精緻に考えてみよう。「汝はそれなり」の「汝」は何か。=1の自己・同一性自己ではなくて、→1の自己・差異であろう。ここは実に微妙 である。もし、これを=1の自己即ち自我 (近代的自我 )にすると、度し難い自己中心主義・エゴイズム ・自己愛性人格障害 ・近代的自我 狂気症になるだろう。いわば、魔界である。おそらく、デカルト 哲学 がそうであったように、これも誤解されたと思えるのである。アートマン は、自我 ・同一性自己ではなくて、差異的自己と見ないといけないのである。そうすれば、 (i)・(-i)→1を意味 することになるのである。この自己認識 方程式はたいへんな公式だと思う。ウパニシャッド 哲学 とデカルト 哲学 を一つにしてしまうのである。さらに、多くの哲学 ・宗教 ・神秘思想 を集約するだろう。オイラーの公式 や等式に近い、玉座の公式ではないだろうか。

 とまれ、(i)・(-i)にもどると、これは、具体的にはどういうことなのだろうか。iが自己なら、-iは差異・他者である。自己と他者との共立で、自己が形成されるということではないだろうか。自己を=1と見ると、虚数 である他者や自己自身を否定して、エゴイスト となってしまうということだろう。つまり、神=「イデア 」の次元 のない人間 は、エゴイスト である。ただし、神=「イデア 」は、内在超越性であることを忘れてはいけない。これは、ドゥルーズ のように内在性でもないし、また、ユダヤ ・キリスト教 のように絶対超越でもない。即非の神である。

 では、最後に絶対超越性とは何だろうか。これが解明されないと、真にポスト ・西洋文明 とはならない。これは、(i)・(-i)=1且つ1→(i)・(-i)への不可能性を意味 しているのではないだろうか。つまり、まったき、同一性自己=自我 の文明を意味 しているのではないだろうか。とりわけ、ユダヤ教 である。自我 =1はある。しかし、根源の(i)・(-i)に回帰 するすべはないということではないのか。つまり、(i)・(-i)が絶対超越性になっているのである。しかし、所謂、東洋文明のように、(i)・ (-i)への回帰 性があるなら、そうはならないのである。つまり、メディア 界=差異共振 シナジー界が賦活されているか否かである。東洋はメディア 界が賦活されているのである。=1が絶対超越性を生むのである。(現代日本も現在 これである。)=1即ち、同一性自己=自我 は、どこから派生 するのか。これは、身体なき精神 、身体なき観念から生まれるだろう。身体なき言語 と言ってもいいだろう。こうなると、以前のアポリア にもどるだろう。劣った差異と優れた差異の相違の問題に。

 先に私の結論 から言えば、身体なき精神 ・観念・言語 とは、心の闇から来ているのである。スピノザ 的にいえば、悲しみである。ルサンチマン である。そう、自然 は、光もあれば、影もあるのである。自然 のもつ翳・闇から、これが生まれたのだろう。やはり、弱さである。劣弱な差異から生まれたのである。

f:id:sophiologist:20031231094447j:image

http://it.wikipedia.org/wiki/Immagine:EtnaAvi%C3%B3.JPG

ここで、D.H.ロレンス が、イタリアの太陽 のゆたかさと西欧の太陽 の乏しさを述べていたことを想起するのである。ゆたかな太陽 ・光のあるところに、高貴な差異が生まれ、乏しい太陽 、即ち、闇のあるところに、劣弱な差異が生まれるのだろう、一般的に。思うに、アーリア民族 は、後者 なのである。差異が劣弱なのである。

p.s. Tat tvam asi(「汝はそれなり」)

http://green.ap.teacup.com/applet/april/msgcate7/archive


注:はてなダイアリーから
http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20061029

2006年10月22日 (21:41)

現代日本の亡神的エゴイズムとプラトニック・シナジー理論

先の考察から、現代日本の狂気が、亡神によることが判明した。これは、一つのブレイクスルーに近い考え方であろう。戦後日本、天皇が人間宣言をして、現人神は消滅した。と同時に、日本の神が喪失されたと言えよう。戦後、日本人が、アメリカの物質主義文明の洗礼を受けて、唯物科学・技術・資本主義を発達させたのである。象徴天皇制になり、神のシンボルが消えたのである。あるいは、神のアレゴリーが消えたのである。人間は不可視のものに対しては、鈍感である。可視的ならば、信じるのである。神のシンボル・アレゴリーの喪失とアメリカ物質文明とが、相俟って、戦後日本、今日の日本が形成されたと言えよう。
 思うに、戦後は折口信夫を例外として、神の精神を喪失していったと言えよう。私見では、初期〜中期の大江健三郎には、神の精神が作動していたと思う。(三島由紀夫は反動である。戦後日本への反動である。)結局、近代合理主義/唯物科学・技術/戦後民主主義が戦後近代主義を形成したのであり、それは、日本人の神の精神の喪失のもたらしたのである。現代の日本人の精神の荒廃は、この帰結である。精神の悪魔化である。
 この点について、理論的に考察しよう。端的に問おう。何故、神を避けるのか、排除するのか、排斥するのか、等々。戦前、戦中は、現人神/天照大神を信仰していたのに。棄神がある。折口信夫は、敗戦に際して、日本の神敗れたりと、無念の極みにあった。神道の神が、キリスト教の神に敗れたと考えたのである。しかし、不思議なことに、日本人は、アメリカ物質文明を貪欲に取り入れたが、キリスト教は取り入れなかった。これは、韓国において、クリスチャンが多いのに比すと、なおさら、不思議である。とは言え、積極的に日本人が神の信仰を表わしたわけではないのである。
 思うに、日本の神は、隠れたのではないだろうか。一種「お隠れ」である。だからこそ、潜在的に作動しているのである。そのため、邪教が蔓延り、人々に被害をもたらしていると言えよう。政治とつるんだ宗教団体、霊感商法、カルト、等々、淫祠邪教が蔓延っているのである。
 日本人の不幸は、隠れた日本の神のエネルゲイアがありながら、それを知性・理論・合理・科学化できないことにあったのではないだろうか。戦後の公教育の基本はいわば唯物科学教育であり、神の精神教育は喪失されているのである。これは、戦前の反動である。つまり、日本人の神のエネルゲイアはありながらも、戦後の唯物教育のために、日本人はそれを意識・認識・知性化できなかったのではないだろうか。仏教はともあれ(私は葬式仏教を廃止すべきと考えているが)、神道アレルギーがあるだろう。そうかと言え、キリスト教に改宗する気持ちは少ないだろう。否、キリスト教に改宗しても、日本的宗教としてのキリスト教になるだろう。
 結局、戦後から現代、日本人の神のエネルゲイアは潜在してきたが、これを意識・知性に取り込むことができずに、唯物科学・技術・産業を進展させてきたと言えよう。戦後の日本の発展は、根源には、この日本の神のエネルゲイアが駆動していたと考えられるのである。しかしながら、政治家、官僚、知識人等は、これを利己的に利用したのである。日本人の神のエネルゲイアを国民に意識化させない方向で、導いたのである。(おそらく、ここには、北米合州国の意向もあったろう。)そう、国民自身も、神のエネルゲイアを差別して、排除してきたと思うのである。アイヌや沖縄、在日人への差別は、これと関係するだろう。連続・同一性共同体信仰によって、差異を差別排除したのである。しかし、差異こそ、神のエネルゲイアの発現である。
 私見では、オイル・ショック以後、日本は、USAと「連帯」化して、現代のような神無し砂漠となってしまったのである。亡国である。
 議論が逸れてしまったが、ここで、神のエネルゲイアと唯物無神論の関係をまとめると、戦後米国的近代主義によって、神のエネルゲイアを排除・排斥するようにして、唯物論/近代的自我・合理主義が日本人の精神に定着するようになったのである。神のエネルゲイアとは、プラトニック・シナジー理論では、差異共振シナジー・「エネルギー」(=メディア界)のことである。(このエネルゲイアを物質的エネルギーと取ってはいけない。心身・精神的エネルギーである。)このエネルゲイアの排除・排斥が、今日、日本の常態になってしまっているのである。とりわけ、東京である。これは、利己主義であり、自我中心主義である。他者の喪失である。悪魔化である。差異の排除が、精神の構造になってしまっているのである。差異否定・排除・差別の連続・同一性=二項対立精神構造が形成されているのである。この悪魔的否定精神が、日本人にいわば、憑依しているのである。ニーチェ的に、ルサンチマンと言ってもいいだろうし、現代風に、自己愛性人格障害と言ってもいいだろう。偏執狂・パラノイア・分裂症である。近代主義狂気である。
 この神のエネルゲイアの排除構造を突破しないといけない。このためには、ポスト近代主義/ポスト唯物論しかないのである。これは、ポスト西洋文明である。アジア的神の新文明が生まれなくてはならないし、理論的には、プラトニック・シナジー理論によって、誕生しているのであるが。
 最後に、何故、神のエネルゲイアを否定・差別・排除・排斥・隠蔽するのか。恐怖であろう。それは、戦後日本、近代日本を破壊するからである。近代主義のアイデンティティを破壊するからである。そう、単独・孤独となることを恐れるからである。しかし、そのために、未来は閉ざされるのである。怯懦な日本人であり、未来を喪失しているのである。とまれ、もう一度問うと、何故、差異を恐れるのか。これが、疑問である。同一性自我陶酔がそこにはあるだろう。差異を否定して同一性自己である近代的自我を形成しているのである。そう、差異とは、特異性、単独性、不連続的差異に他ならない。他者とは、まったく異なる自己が差異である。だから、差異を意識したとき、自己と他者との距離ができるのである。不連続性があるのである。しかしながら、この不連続性・不連続的差異性を、人は恐れるのである。そう他人の目である。あるいは、世間の目である。それを恐れて、自己の差異・不連続的差異を否定・排除・隠蔽するのである。これである。つまり、差異が劣弱なのである。もし、差異が強ければ、他人の目・世間の目を恐れずに、差異を肯定して積極的に思考し、実践するだろう。差異の弱さである。
 思うに、差異を肯定するには、差異の理論が必要なのである。差異の思想・哲学・科学が必要なのである。差異の文化である。差異の言語である。差異の論理である。差異の芸術である。近代主義は、連続・同一性主義であるから、差異の理論は見つかりにくいのである。また、差異は、内在超越性であるから、近代的内在主義では、見出せないのである、もっとも、きっかけは、そこにあるとしても。
 とまれ、神のシンボルの喪失、近代的自我・近代合理主義・近代資本主義、差異理論の稀少さ、連続・同一性共同体の存在、等々によって、日本人は、差異である神のエネルゲイアを排除して、近代唯物的連続・同一性=集団狂気化したと考えられるのである。この差異=日本の神のエネルゲイアの否定・排除・隠蔽とは、暴力・傲慢・狂気・不毛である。

2006年10月22日 (15:45)

《神》について:《神》は《存在》するが、近代主義は殺神を行った:《神》の復活

初めに、コトバありき、とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭言。しかし、原語のギリシア語では、コトバではなく、ロゴスであった。私見では、ロゴスとは、正に、《理》である。ダルマ(法)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29
そして、プラトニック・シナジー理論(簡略して、シナジー理論)では、これは、差異共振シナジー・フィールドないしメディア・スペース(コスモス)である。そして、これが、主観的には、《神》となるのである。結局、正に、「初めに、《神》ありき」である。そして、この《神》を多様多元的に表象してきたと言えるのである。《神》も、一つの表象ではあるが。
 しかるに、西欧近代は、神殺しを行ったのである。西欧近代において、どうして神殺し、殺神を行ったのか。これは、経緯が複雑であるが、結局、これまで、論考してきたように、西洋文明、ユダヤ・キリスト教文明自体が、神殺しに帰結にしたと言えるだろう。つまり、ユダヤ・キリスト教は、連続・同一性の視点の傾斜をもっているので、それが、古代ギリシアの理性主義と結びついて、神殺しに帰結したと言えよう。ニーチェの「神は死んだ」は、ニーチェが神を殺したのではなくて、西欧、近代西欧が神を殺したということを意味しよう。
 ポスト近代主義とは、だから、神の復活なのである。D.H.ロレンスは、「知られざる神」unknown Godに言及した。これは、西洋という文脈で見ないといけない。「知られざる神」とは、東洋では、「知られた神」だと私は考える。ロゴス=ダルマの神である。それは、差異共振シナジー・フィールド=メディア・スペースの神である。アジアの神である。ヒンドゥー教の神であり、ゾロアスター教の神であり、仏教の空であり、道教のタオであり、朱子学の神であり、神道の神(「カムイ」)であり、(アメリカ大陸をユーラシアの延長と見て、)ネイティブ・アメリカンのグレート・スピリットであり、・・・、思うに、ヤハウェの母体の神でもある。神話学者のジョセフ・キャンベルが説いた「神の仮面」の神である。カントの物自体と言ってもいいだろう。スピノザの神(即自然)でもある。
 現代日本を見ると、近代西欧を模倣して、禁神である。亡神である。

今や、差異共振シナジー神がやってきたのだ。

普遍神の復活である。

唯物論は滅びたのである。
当然、唯物科学も滅びたのである。

ポスト西洋文明である。

新アジア・世界文明の時代である。

2006年10月16日 (15:42)

不連続的差異イデアと「心」と唯物分子生物学:差異共振シナジー様相としての自己・人間種

以下の本は、toxandoria氏のサイトの一つ(『レンブラントの眼』
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/ ?)に紹介されていたもので、未読であるが、プラトニック・シナジー理論から「心」や心身や分子生物学(唯物生物学)を考察する上で、指針の一つになりそうである。
 プラトニック・シナジー理論(プラ・シナ理論、PS理論)では、当然ながら、差異、不連続的差異、絶対的差異、特異性、単独性を根源に見ている。これは、イデア界においてそうであるし、また、メディア界の共振シナジー界においては、共振シナジーの根源素である。だから、これと、「心」や心身や分子生物学の関係を構築しないといけない。
 今、ふと想起したのは、「心」とは、現象であり、フッサール現象学が説くように、その直接態(直接様態)のままでは、問題があるだろう。「心」は、自然的態度のままでは、ほとんど自我になるだろう。つまり、同一性的自己=自我になると思うのである。利己主義である。今日・現代の社会風潮は、利己主義・自我中心主義であるが。
 これまで、差異と同一性との関係で、自己/自我の問題、心身の問題を扱ってきた。ここでの問題は、差異と「物質」、即ち、分子、DNA、ゲノム等との関係である。ここで、問題を簡潔なものにするために、生命とは、なんらかの差異共振シナジー様相形態(差異シナジー形態)としよう。これは、エネルゲイアであり、プラスの時が、生命発生志向であり、マイナスの時が生命消滅を志向すると考えよう。つまり、生命とは、差異シナジー・エネルゲイアとなる。これは、明瞭・明晰・明確である。そして、思うに、これが、原ゲノムないしゲノム・イデアではないだろうか。つまり、生命の原設計図、イデア設計図である。
 では、そのように作業仮説して、「心」とは何か、ということになる。これまで、プラトニック・シナジー理論では、差異=志向性(フッサール)と考えてきた。当然、「心」も、そのようなものと考えられるのである。そうならば、差異=志向性=「心」と、原ゲノムはどう関係するのだろうか、ということになる。
 ここで、簡単に、感覚・知覚・意識身体(心身)から考えよう。常識的に、五感があり、それらを統合するようにして「心」がある。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚である。精緻に言えば、さらにあるだろう。とにかく、多元的感覚があり、それを介して統合的な「心」・意識・精神が存している。整理すると、諸感覚の「調和」、「統合」、「統一」ということになるが、思うに、諸感覚の共立様相ではないだろうか。つまり、諸感覚の共立シナジー様相ではないだろうか。感覚共立シナジーが「心」・意識・精神ではないだろうか。一(いつ)ではなく、一如(いちにょ)である。
 もしそうならば、差異についても、再考が必要になるだろう。私は、これまでは、一つの差異が自己意識を形成していると仮定してきたのであるから。感覚共立シナジー=差異的自己論が成立するならば、差異的自己は、多元的差異シナジーとしての存するのである。あるいは、多種多様な差異の共振シナジーとしての差異的自己=特異性=単独性=不連続的差異である。(ここで、用語を整合化しよう。差異的自己は、とりあえず、「差異」的自己と表記して、差異という術語を、根源的差異、不連続的差異に限定しよう。すると、「差異」的自己=特異性=単独性=「不連続的差異」という表記になる。)
 この問題は、以前、ずいぶん悩んだ問題で、自己を一つの差異イデアと見ることで、解決しておいた問題であるが、ここで、また、問題化したと言えよう。以前の問題を振り返ると、「わたし」・自己は、「全体」としてある特異性=不連続的差異であると思われた。図式化すれば、

差異1/差異2/差異3/・・・/差異n

を全体すれば、「わたし」=自己は、この中の差異kである。そして、差異総体の共振シナジー様相においては、「わたし」=自己は、

「全体」(差異1☯差異2☯差異3☯・・・☯差異n)

を共振シナジー(☯様態)感じると考えてきたのである。しかし、新たに、感覚共立シナジー・多種多様差異共振シナジーとしての「差異」的自己を考えると、この図式的思考を修正する必要が出てくるだろう。つまり、これまで、「差異」的自己は差異kであったが、ここでの考え方からすると、「差異」的自己は、差異共振シナジー全体になるのである。これは、大変な転換になるだろう。
 そうすると、一番の問題は、これまで、自己としてきた差異ないし不連続的差異はどういうことになるのだろうか。今考えられることを言えば、差異共振シナジー様態自体が、「差異」であり、「不連続的差異」であるということである。つまり、同一性・自我に対して、差異共振シナジー様相は、「差異」ないし「不連続的差異」であるということである。
 どうも、このように考えた方が、私の直観にまったく適合するように思える。自己の「差異」ないし特異性・単独性=「不連続的差異」とは、差異共振シナジー様相と考えると明晰だと考えられるのである。
 では、そうならば、他者との共振的倫理はどういう仕組みなのだろうか。思うに、差異は志向性なのだから、差異共振シナジーも総体として、志向性をもっていると言えるだろう。なぜなら、多元的差異共振シナジー様相は、多元的志向性が一如化した志向性をもつと考えられるからである。つまり、差異共振シナジーとしての自己の総体的志向性も、共振的志向性をもち、共振的倫理をもつと言えるだろう。
 ということで、まだ検討が必要であるが、以上のように修正してみて、基本的には、これまでの差異、不連続的差異の考え方は、間違っていないことになる。ただ、単位的なものから、共立的なものに変化したと言えるのである。共立差異、共立不連続的差異としての自己なのである。
 では、ここで、さらに議論を展開すると、人間と他の生物との関係はどうなのかということになる。ゲノム的には、人間と類人猿とはそれほど違わないのである。唯物生物学は、この点で、限界があると言えよう。プラトニック・シナジー理論(簡略して、シネルゲイア理論と呼べるだろう)は、人間と類人猿の違いの発生を説明できるだろう。あるいは、人間と他の生物との違いを説明できるだろう。思うに、人間は、差異共振シナジー性が賦活・活性化しているのである。それに対して、他の生物は、差異共振シナジーの同一性化が確定して、それが本能となり反復するだけになっているのである。差異同一性化システムが本能システムとなり、同一性反復になっているのである。それに対して、人間は、差異共振シナジー様態が賦活されているので、同一性反復を破壊・超克して、新しい差異共立連結を創造するのである。これが、人間と他の生物との決定・切断的な相違点であると考えられる。ただし、人間には、他の生物と共通な同一性構造があるので、常に、同一性反復=保守反動の危険があり、劣化・低劣化・劣弱化・退化の危険があるのである。(現代が正にそうである。)
 この視点から、近代主義の問題点が明らかになる。近代合理主義は、「物質」という同一性構造を発見して、唯物科学・技術・産業を発達させたのである。しかし、これは、人間本性である差異共振シナジー性を否定・排除・隠蔽しているのである。つまり、人間本質否定としての近代主義、近代合理主義なのである。問題は、結局、近代とは何かになるのである。原近代・プロトモダンは、イタリア・ルネサンスから始まったと考えている。しかるに、その反動として、宗教改革・プロテスタンティズムが生起したと考えている(実際は、複雑であるが、単純化して考えている)。これと、デカルト哲学/科学が近代主義を決定するのである。しかし、原近代・プロトモダンは、差異共振シナジー様相の新たな賦活であると考えられるのである。だから、「近代」とは、基礎に差異共振シナジー様相があるのである。しかし、近代主義的反動によって、同一性構造的反動が支配的になり、原近代・プロトモダンを抑圧するのである。「近代」は捩れがあるのである。このような経緯で、近代主義、近代合理主義は、人間本性否定になったのである。現代日本は、この同一性反動の極致とも言える状況になっている。とりわけ、東京がそうである。悪魔的首都東京である。伏魔殿東京である。悪魔的知事が鎮座している。
 後でさらに検討したい。
_____________________________________

心の起源―生物学からの挑戦 (新書)
木下 清一郎 (著)

心の起源

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121016599/sr=8-3/qid=1160969862/ref=sr_1_3/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books
|この

2006年10月14日 (09:30)

イエス・キリストについて:プラトニスト・イエスと聖パウロのキリスト教:ポスト・キリスト教の新世界

イエス・キリストについて:プラトニスト・イエスと聖パウロのキリスト教:ポスト・キリスト教の新世界
テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明
ここで、「神」をプラトニック・シナジー理論から理論化しておくと、イデア界の神とメディア界の神の二種類があると以前述べたが、前者はカオスに、後者はコスモスに相当するだろう。しかし、このカオスはコスモスを生む秩序性をもっているのである。いわば、カオスからコスモスへである。カオスとしての神は、コスモスとしての神を発現するので、また、後者が、直接、人間に関係すると考えられるので、ここでは、メディア界の神に限定したい。つまり、差異共振シナジー様態全体としての神である。そして、このエネルゲイアの神を、これまで、多様に表現してきたのである。多神教であれ、一神教であれ、汎神論であれ、アニミズムであれ、・・・。すべて、神の仮面である。万教帰一である。
 では、この観点から、即ち、相対的多元論の観点から、イエス・キリストを見るとどうなのだろうか。やはり、キリストも、神の一面に過ぎないのである。では、どういう一面なのだろうか。私の直観では、イエスは、差異共振シナジーをそれなりに体現していた人物である。共振シナジー叡知を体現していた人物である。つまり、プラトニストである。しかし、純粋なプラトニストではないように思えるのである。混濁したプラトニストのように思えるのである。どういうことかと言えば、イエスには、連続・同一性の構造が残存していたと思えるのである。つまり、自我の構造がイエスにはあったと思うのである。つまり、差異と同一性の矛盾がイエスには、あったと思うのである。だから、意外に、デカルトに似た人物であったように思えるのである。
 同一性・自我があったからこそ、「汝(自我)自身の如く、隣人を愛せよ」になるのだと思う。純正なプラトニストならば、純粋な差異共振シナジーを体現する人物ならば、「愛」を説教せずに、自己認識の必要を説くだろう、仏教のように。どうも、俗物性があったように思えるのである。イエスには、虚栄心があったように思えるのである。そう、おそらく、イエスは、善と悪との混淆である。メディア/現象境界の両義神である。おそらく、分裂症的な人格をもっていたと思う。一方では、差異共振シナジー的エネルゲイアをもっていたが、それが、連続・同一性志向性によって捩じ曲げられていると思う。本来は、差異共振シナジー的共感性を説くべきであるのに、自我的隣人愛を説いているのであるから。やはり、聖霊教の方が、はるかに、イエス教よりも、優れていると思うのである。イエス・キリストは、神の連続・同一性の仮面をもっていたと言えると思う。

p.s. 以上述べことを、別の角度から見ると、「イエス」を少なくとも二人に分けて見るべきと考えられるのである。これまで、私は、キリスト教のイエスとグノーシス主義のイエスの二人に分けてきたのである。イエス二分説を、以上の視点から、展開すると、一人はプラトニストとしてのイエスであり、一人はキリスト教のイエスということになる。換言すると、叡知論のイエスとユダヤ/キリスト教のイエスである。
 プラトニズムないし叡知主義のイエスは、上記した差異共振シナジーを体現した人物であり、『トマスの福音書』のイエス(グノーシス主義のイエス)に近い。それに対して、キリスト教のイエスは、連続・同一性を帯びた教祖である。これは、悪魔的である。
 だから、イエス像は、根本的に異なる二人の人物の像が重なっていることになるように思えるのである。これをどう見るのか、である。聖パウロの問題がある。ニーチェが指摘したように、聖パウロがキリスト教のプロデューサーであろう。そして、ギリシア教父たちは、その路線にはあるとは言え、ロゴスの受肉としてイエス・キリストを捉えたことを考えると、彼らは、プラトニストとして、叡知主義者として、考えていたように思えるのである。信仰の対象としてのイエス像を形成したのは、聖パウロであろう。思うに、聖パウロは自身の宗教体験によって、イエス・キリスト像を形成して、教祖に仕立て上げたのだろう。聖パウロには、ニーチェが批判するように、「賎民」の本能、信仰という本能があったのだろう。そのために、プラトニスト、叡知主義者のイエスを、全く異質な、キリスト教の創始者に捩じ曲げてしまったと思えるのである。聖パウロの創作としてのキリスト教である。
 このようにニーチェの大天才的な洞察も、上述のイエス二分説の一つの有力な根拠になるだろう。そのように考えると、西洋史/世界史は、超錯誤の上に形成されたと言わざるを得ないだろう。ニーチェが神の死を説いたとされるのは、正しいのである。神、ユダヤ・キリスト教の神とは何であったのか。プラトニスト・叡知主義者のイエスは、おそらく、宗教を廃棄したはずである。ユダヤ教を廃棄して、イデア叡知を説いたはずである。プラトニズムの継承者としてのイエスである。しかるに、反動が起こったのである。ユダヤ教的反動として、聖パウロが、言わば、立ち上がったのである。(思うに、これは、イタリア・ルネサンスに対する、プロテスタンティズムの反動に、類似するだろう。)この聖パウロの反動によって、プラトニスト・イエスの叡知は、かき消されたのである。ここに、証拠隠滅、焚書、魔女狩り等の超恐怖のキリスト教の歴史が始まったのである。真のイエスは、抹殺されたのである。そして、救世主イエスが誕生したのである。大捏造としてのキリスト教と言えるだろう。だから、イエスの復活とは、プラトニスト・イエスの復活でなくてはならない。ここで、想起するのは、D.H.ロレンスが『死んだ男』で表わした復活したイエスである。それは、キリスト教の教えを否定する「死んだ男」・「救世主」である。それは、復活した「オシリス」である。そして、その作品には、コスモスの不可視の薔薇が描かれている。それは、正に、差異共振シナジー界である。だから、復活した「オシリス」・「死んだ男」とは、プラトニストのイエスである。そう、だから、ニーチェを継ぐD.H.ロレンスは、真のイエスを復活させていたと言えるのである。

D. H. Lawrence: Dying Game 1922-1930

ニーチェ/ロレンスこそ、真のイエス/プラトニスト・イエスを復活させたのである。ここで、超虚偽・超欺瞞のキリスト教的西洋史は終焉するのである。ポスト・キリスト教、ポスト・ユダヤ/キリスト教としての新しい世界史が始まるのである。そう、プラトニズムの新世界史、新人類史、新地球史、新宇宙史、新コスモス史が始まるのである。

p.p.s. 以上において、信仰・宗教と叡知・認識との二項対立的に区別しているが、私が否定しているのは、非合理主義としての信仰・宗教である。イデア叡知とは、ロゴスである。(もっとも、即非としてのロゴスであるが。)イデア叡知に基づいた信仰・宗教は肯定するし、それは、真正・正統である。しかし、単なる信仰主義・宗教主義は、否定されなくてはならないのである。不合理ゆえに我信ずという立場があるが、神は不合理ではないのである。即非という特異な合理性をもっているのである。

3p.s. 端的に言えば、有り体に言えば、キリスト教信仰は、自我信仰であるから、私は否定するのである。しかし、聖霊教・地味な野の花教・風の友愛教は、自我ではなくて、差異共振シナジー様相を信仰しているので、これは、肯定できるのである。これは、合理性の有無とも関係するのである。

2006年10月12日 (16:07)

検討問題:イエス・キリストとは、何か

可視的なものと、認識が結びついている(ヴィジョンvideoと観念ideaが語源的に一致する)ので、叡知=永遠の真理を可視的にする方法が、常に、人類にとって必要なのであり、それは、秘教・密教・神秘学、哲学、神話、宗教他に伝承されてきたと考えられるのである。プラトンのイデア論は、叡知の世界を知的に説いた、驚異的な理論である。また、仏教も、これに近いのである。人間は、現象界の知覚・認識を基盤とするために、この永遠の叡知を喪失しやすいのである。
 このような観点から、イエス・キリストを見ると、それは、叡知の世界を体現した人物と見ることができるように思える。しかし、その叡知的デモンストレーションが、キリスト教として、ドグマ・教条的に固定されてしまい、叡知性を喪失したと言えるのである。イエス・キリストとは、叡知の体現であると言えるのであり、それは、プラトンのイデア論と同じ真理を伝えていると考えられるのである。だから、キリスト教ではなくて、イエス・キリスト叡知実践論となるべきである。そして、それは、当然、イスラム教とも共通するものであり、万教帰一である。
 ニーチェのキリスト教批判は、宗教・教会としてのキリスト批判であり、イエス・キリスト自身は肯定しているのである。ニーチェが体現したと考えられる差異・特異性・不連続的差異・絶対的差異とは、基本的には、叡知とほぼ等価と言っていいものであり、イエス・キリストとニーチェは、同じ叡知を体現していると極論できるのである。
 私は聖霊教(あるいは、地味な野の花教、風の友愛教)を説いているが、これも、結局、叡知のエネルゲイアを説く宗教に過ぎないのであり、叡知普遍教そのものである。結局、ポスト・キリスト教であり、叡知論、プラトニック・シナジー理論の視点に基づき、イエス・キリストをキリスト教から救済することになるのである。イエスも、仏陀も、ゾロアスターも、ムハンマドも、モーゼも、老子も、朱熹も、卑弥呼も、一如である。

p.s. 思うに、イエス・キリストは、叡知の実践・デモンストレーションであると述べたが、しかし、絶対的なそれではありえないだろう。時代の制約があるのである。だから、イエス・キリストの叡知実践は、一つの実践例として見るべきである。

2006年10月12日 (02:18)

検討課題:貨幣と差異

Kaisetsu氏が説くように、貨幣の起源を、王権的なもの、つまり、王権の観念・概念像として、考察を始めよう。思うに、ここには、普遍性、一般性、特異性が現れている。普遍性は、王権的観念・概念である。それは、ある意味で、イデア的と言えるのである。換言すると、メディア・シナジー・エネルギーをもつものである。
 一般性は、これと関係するが、数的価値である。そして、特異性は、その貨幣自体の希少価値性である。貴金属性である。普遍性と特異性は差異と、一般性は同一性と関係するだろう。しかし、ここでは、正確に検討しないといけない。
 王権的普遍性とは、差異且つ同一性である。ここには、矛盾両立があるのである。貨幣自体の特異性は、この王権的差異と関係するだろう。つまり、金貨や銀貨は、王権的差異と一如である。そして、貨幣の数的価値=一般性は、当然、同一性であり、これも王権的普遍性と関係する。図式化しよう。
     
      差異・特異性・・・貨幣自体
      ↗
王権的普遍性→メディア・エネルゲイア
      ↘
      一般性・同一性・・・貨幣の数的価値


 では、王権的普遍性とは、プラトニック・シナジー理論から見ると何だろうか。これは、先にも述べたが、父権的一神教的エネルゲイアと等価であろう。ヤハウェに等価である。ここで、想起するのは、イエスが、「カエサルのものは、カエサルへ」と言ったことであるが、しかし、貨幣は、神的なのであるから、単にカエサルのものではないのであるから、イエスの言葉は誤謬である。さらに、想起するのは、貨幣とキリストが等価であると、以前述べたことである。ロゴスの受肉としてのイエス・キリストを考えると、貨幣としてのキリストということがよくわかるだろう。ロゴスが神的普遍性であり、それが、物質化されたものが、キリストになるのだから。
 ここで、解答すると、貨幣=王権的普遍性とは、メディア・シナジー・エネルゲイアの同一性構造である、ということである。不連続的差異論的に言えば、メディア界のエネルゲイアをもつメディア/現象境界同一性構造性である。しかも、貴金属として、特異性化されているので、個体的なものである。だから、やや極論的になるが、メディア界=メディア平面そのもの、差異共振シナジー様相そのものと言えそうである。そう、正に、メディアである。貨幣は。理想的な媒体と言えるのである。
 問題は、連続・同一性構造である。メディア・エネルゲイアは、この場合は、王権・権力であるが、それが、貨幣の連続・同一性の数的構造を実効的に保障しているのである。(信用とは、王権・権力であろう。)そして、この連続・同一性構造への傾斜が、差異や特異性の否定・排除・隠蔽へとつながるのであり、金融・拝金資本主義においては、まさに、そうなっているのである。
 ここで、ルネサンス(イギリス・ルネサンスのエリザベス朝時代も含む)を想起するのである。それは、差異の発現・顕現の時代である。差異共振シナジーの発現・発動・作用の時代と考えられるのである。だから、貨幣・資本は、そのようなものとして、存したと考えられるのである。つまり、王権的普遍性をもつ貨幣・資本が、差異共振シナジー化したと考えられるのである。貨幣のメディア・エネルゲイアが、差異共振シナジー・エネルゲイアになったということである。しかし、近代合理主義、唯物科学が発展すると、メディア・エネルゲイアが失せてくるのである。それは、連続・同一性中心主義に取って代わられるのである。これは、エンテレケイア化と言ってもいいかもしれない。貨幣が本来のメディアから、エンテレケイア・終極態=目的になったのである。これは、貨幣の堕落である。つまり、貨幣の連続・同一性化である。ここでは、メディア・エネルゲイアが排除されているのである。思うに、ここには、不兌換制度が原因としてあるように思えるのである。貨幣の特異性としての貴金属性を喪失したとき、それは、同一性の傾斜へと流動すると考えられるからである。(ここで、直観を言うと、貨幣の貴金属性、兌換制とは、貨幣の身体性である。貨幣の「精神」・「魂」・「霊魂」とは、貨幣の心身であり、身体且つ思惟である。不兌換通貨制とは、いわば、身体のない思惟、つまり、幽霊状態である。身体(延長)と思惟(意識)がそろって、「精神」・「魂」・「霊魂」が顕現するのである。
 後で、再検討したい。

2006年10月09日 (11:27)

<りそなインサイダー疑惑について追求しようとしたら、言論の自由を奪われた植草

<りそなインサイダー疑惑について追求しようとしたら、言論の自由を奪われた植草
テーマ:ニッポン亡国の凶相

<りそなインサイダー疑惑について追求しようとしたら、言論の自由を奪われた植草



一秀氏>



りそな銀行処理にまつわるインサイダー取引を追及していた植草一秀氏は



現在、いまだに拘留中である。言論の自由は絶たれている。







<今回がきっかけで知る、りそな処理の暗黒の闇>



実は、私は今回の植草氏の事件が起きるまでは、りそな銀行処理にまつわるインサイ



ダー取引疑惑というのは、はっきりとは認識していなかった。







<なぜ植草氏は痴漢にされる必要があったのか?>



http://blog.mag2.com/m/log/0000154606/107761176.html




_____________________________________



因みに、私は以下のブログ

http://ameblo.jp/renshi/entry-10017893057.html


を書いている。その時は、この小野寺光一氏の記事を読んでいなかったのであった。





Wed, October 04, 2006 23:21:42
誰が、植草氏を葬りたいのか。
テーマ:ニッポン亡国の凶相 この問題は、根が深い。安倍首相には、植草氏が、かつて経済を教授したと言う。誰が、植草氏が犯罪者になった場合、得するのか。
 私が今、ここで、想起したのは、竹中前大臣である。両者、経済の専門家であるが、植草氏は、日陰の状態であり、竹中氏は、スポットライトを浴びた人物である。私は、竹中氏が得をすると言っているのではない。コントラストがあるということである。
 植草氏の経済学があると困る人たちがいるのだ。日本を立ち直らせようとする経済学を否定しようとする人たちがいるのだ。つまり、亡国経済学者たちが得をするということだろう。悪魔たちは、新たに攻めてきたようだ。
________________________________

<痴漢>植草元教授を起訴「人違いでは」と否認

 電車内で女子高校生に痴漢行為をしたとして、東京地検は4日、元大学院客員教授、植草一秀容疑者(45)=東京都港区白金台=を東京都迷惑防止条例違反で起訴した。植草被告は「酒に酔っていたので記憶が断片的だが、痴漢はしていないと思う。人違いか(被害者の)勘違いではないか」と起訴事実を否認しているという。
(毎日新聞) - 10月4日20時23分更新

関連トピックス: Yahoo!トピックス 性犯罪
フレッシュアイNewsWatchフレッシュアイNewsWatch でも、植草教授を痴漢で逮捕に関連するニュース やブログ を読む
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061004-00000112-mai-soci

2006年10月01日 (20:41)

通貨・貨幣の問題:同一性通貨と差異共振シナジー通貨

通貨・貨幣の問題:同一性通貨と差異共振シナジー通貨

テーマ:差異資本論

『海舌』氏は、以下のように述べている。

「日本・中国・韓国は早急に銀本位制を検討するべきだ。

日本・中国・韓国は早急に銀本位制を検討するべきだ。
基本的にアジアの通貨の原点に回帰するべきである。」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=456534

そして、当記事のTBを私が以前書いた「貨幣と欲望と差異:他者の構造とポストモダン」http://ameblo.jp/renshi/entry-10009721808.html#t10013102309
に送っていただいた。

『海舌』氏の言明と私の論考を併せて見ると、私の論考を補足して、あらためて通貨・貨幣問題を、ここで考察する必要があると感じたので、簡単ではあるが、再検討したい。
 私の先の論考は、貨幣は、同一性構造と結合して、金融資本主義を形成しているのであり、ポストモダンを進展させるには、不連続的差異・特異性・単独性へと前進する必要があるというようなものであった。結局、プラトニック・シナジー理論の差異共振シナジー様相へと、「資本主義」を進展させることを示唆していたと言えるのである。そのときの契機が、不連続的差異・特異性・単独性の選択である。これは、概念・観念的には、その通りなのであるが、私は、それと、実経済とを結びつけられずに述べただけであったのである。頭では、不連続的差異性を選択して、同一性構造資本主義からの脱却を説いたのであるが、その、不連続的差異論的「資本主義」における通貨・貨幣については、言及できずにいたのである。
 その理由は、『海舌』氏が銀本位制ということに言及していることから、今理解できるのである。つまり、私は、通貨・貨幣を同一性構造のみのものとして考えていたので、不連続的差異・特異性・単独性としての通貨・貨幣を考えつかなかったからである。(思えば、地域通貨やゲゼルの消滅貨幣は、そのような資格があるとは思うが、それは、補完通貨としてであり、基軸通貨としてではないのである。)
 私が上記の論考で考えたのは、不連続的差異の共立する「資本主義」経済である。そして、それは、今、プラトニック・シナジー理論で言うと、差異共振シナジー的「資本主義」経済ということになる。そして、これは、あくまで、観念・理念的なものに留まっているのである。ただ、資本家の「精神」的様態が要求されるという当為に終わっていたのである。いわば、実践理性主義に留まっていたのである。
 しかし、『海舌』氏の東アジアにおける銀本位制という発想は、この壁を突破するものである。私が通貨・貨幣を同一性構造と考えたのは、交換価値の同一性構造からである。これは、マルクスの価値形態論である。あるいは、ヘーゲル哲学の理性論である。あるいは、カントの超越論的形式論である。ここには、差異、不連続的差異、特異性、単独性がないのである。そして、貨幣・通貨は本質的にそのようなものと思い込んでいたのである。
 しかし、「東アジア共同体」の銀本位制という概念を見ると、銀本位制という貨幣・通貨制が、同一性構造を突破していると言えるのである。何故なら、銀という量があるが、その量は特異性となるからである。つまり、特異性によって規定された通貨・貨幣であるということになるのである。そして、「東アジア共同体」ということで、これは、不連続的差異の共立する「資本主義」経済、ないし、差異共振シナジー的「資本主義」経済になりうるのである。銀本位制という特異性=不連続的差異が共振する「資本主義」経済のデュナミス(可能態)がここには発現していると見ることができそうである。後で、さらに検討したい。



参考:
銀本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

銀本位制(ぎんほんいせい)とは、ある国の貨幣制度の基礎となる貨幣 、すなわち本位貨幣を銀貨 とし、その自由鋳造、自由融解、強制通用力を認める制度を指す。

この場合、ある国の通貨は一定量の銀 の量で表すことができ、商品の価格も銀の価値を標準として表示される。

実際には、銀のみを法的に本位貨幣とする純粋な銀本位制の例は、歴史上あまり多くない。日本の江戸時代においても、東日本で主に金貨 、西日本で主に銀貨、そして補助貨幣として銭 という制度が施行されていた。このように、銀貨と金貨を共に本位貨幣とする制度を金銀複本位制という。

しかし、この金銀複本位制が形骸化して銀貨のみが流通し、事実上の銀本位制度となる場合が少なからず見られる。一例として、19世紀 、ヨーロッパ諸国の多くも金銀複本位制を採っていたが、銀産出高の増加などにより銀の市場価格が下落、金貨との法定比価との間に開きができた。この場合、銀貨を流通させて金貨を退蔵した方が有利な為(グレシャムの法則 )、なし崩し的に事実上の銀本位制となった。

この時期の銀の市場価格の変動は大きくまた下落傾向が顕著であった為、そして、その当時世界経済の主導的地位を占めていたイギリス が既に金本位制 に転じていた為、銀本位制諸国は深刻な影響をうけ、19世紀の終りにはほとんどの国が金本位制に転じた。

日本においては1871年 5 月に「新貨条例」を制定し、形式上は金本位制が採用された。しかし、当時は東洋市場においては銀貨による対外支払いが一般的であった為、1円銀貨(量目は 416グレイン)ならびに、当時のメキシコドルに相当する420グレインの量目の貿易銀を発行し、貿易などの対外支払用貨幣として使用した。

1878年 には1円銀貨の国内一般通用が認められ、事実上の金銀複本位制となったが、金貨の流出と政府不換紙幣の大量発行によって、金貨はほとんど流通しなくなった。さらに松方デフレ 後の1886年 には、初の日本銀行券 (大黒図案の100円、10円、5円、1円の兌換銀券)による銀兌換が開始され、1897年 に正式に金本位制を採用するまで、事実上の銀本位制が継続した。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%9C%AC%E4%BD%8D%E5%88%B6 " より作成

カテゴリ : 通貨制度 | 経済史





銀貨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
2004年にアメリカで発行された銀貨
拡大
2004年にアメリカで発行された銀貨

銀貨 (ぎんか)とは、銀 を素材として作られた貨幣 をいう。 古来、金貨 ・銅貨 とともに世界各地で流通した。

銀本位制 下では銀貨は本位貨幣として、自由鋳造、自由融解が認められた無制限法貨であった。その代表的な物に、アメリカ の1ドル銀貨、香港 の1ドル銀貨、フランス の5フラン銀貨、メキシコ の8レアル銀貨などがある。日本でも、明治時代には諸外国との貿易決済用に一円銀貨 が発行されていた。

現在でもフランス語 では、お金 を指して「銀」(アルジャン、argent)と言い、日本語でも銀行 、路銀などの言葉で、「銀」にお金の意味を持たせている。

日本では、飛鳥時代 に無文銀銭 と呼ばれる貨幣の形態をした銀地金が貨幣の代わりに流通したと言われており、日本最古の通貨 と言われている「和同開珎 」も銅銭 よりも先に銀銭 が発行されている。これ以降250年の間に、律令国家は、12種類の銅銭と2種の銀銭と1種の金銭を発行した。江戸時代 に丁銀 、豆板銀 といった秤量銀貨が、主に西日本で流通した。だが、南鐐二朱銀 の発行以後、額面表記銀貨への移行が進み、江戸時代末期には、五匁銀 、二朱銀 、一分銀 など、額面表記銀貨も発行された。

現代社会において、銀貨は最早流通用の物ではなく、ほとんどが収集家向けに特殊な仕上げ(プルーフ加工)をしたり、ケースに入れたりして販売されている。また、一部に地金型の銀貨も存在する。日本では、平成の時代に入ってからは、1,000円、5,000円の記念銀貨が収集家向けに発行されている。また、2005年には初めての記念500円銀貨も発行された。

銀貨の品位(純度)は、古来より様々であり、日本では明治時代の50銭から5銭の補助通貨が80%、一円と貿易銀の本位銀貨が90%であった。また戦後発行された100円銀貨は60%であった。外国には、オランダの1グルデン銀貨(1917年まで、品位94.5%)などの高品位銀貨が存在したが、一般的に本位銀貨は90%(SV900)を使用するケースが多く、コインシルバーと呼ぶ。また、英国の銀貨は伝統的に92.5%(SV925)の品位で作られており、これをスターリングシルバー と呼ぶ。
ウィキメディア・コモンズ に、銀貨 に関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E8%B2%A8 " より作成

カテゴリ : 硬貨 | 貨幣学





http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Coin_cn_1996_panda_p_r.jpg
Silver coin
From Wikipedia, the free encyclopedia
Jump to: navigation , search

Silver coins are possibly the oldest mass form of coinage .
Contents
[hide ]

* 1 Collector coins
* 2 Bullion coins
* 3 Silver rounds
* 4 See also
* 5 External links

[edit ]

Collector coins

Many factors determine the value of a silver coin, such as its rarity, age, condition and the number originally minted. Silver coins coveted by collectors include the Denarius and Miliarense .
[edit ]

Bullion coins

Other than collector's silver coins, silver bullion coins are popular among people who desire a "hedge" against currency inflation or store of value . Silver has an international currency symbol of XAG under ISO 4217 .

American Silver Eagle


Canadian Silver Maple Leaf


Chinese Silver Panda


British Silver Britannia

Major silver bullion coins include (major in terms of the number in circulation):

* American Silver Eagle (from 1986)
* Canadian Silver Maple Leaf (from 1988)
* Australian Silver Kookaburra (minted by the Perth Mint from 1990)
* Australian Silver Kangaroo (minted by the Royal Australian Mint from 1993)
* British Silver Britannia (from 1997, proof version only. Public issue from 1998)
* Chinese Silver Panda (from 1983)
* Mexican Silver Libertad (from 1982)

Minor silver bullion coins, or commemorative coins , include:

* New Zealand Silver Kiwi (from 2004)
* Isle of Man Silver Cats (from 1988)
* Zambia Silver Elephant (from 1999 - 2003)
* Gibraltar Silver Dogs (from 1991 - 1997)
* Russian Sable

[edit ]

Silver rounds

Privately minted silver coins are known as silver "rounds" and silver "bars", which usually have a set weight of 1 troy ounce of silver (31.105 grams of 99.9% silver). These carry all sorts of designs, from assayer/mine backed bullion to engravable gifts, automobiles, firearms, adult-oriented, armed forces commemorative, holidays, etc.
[edit ]

See also

* Gold coin
* Millesimal fineness
* Silver as an investment
* Store of value
* Precious metal

[edit ]

External links

* Silver Coin Pictures

Retrieved from "http://en.wikipedia.org/wiki/Silver_coin "

Categories : Bullion coins | Coins | Silver coins


2006年10月01日 (20:39)

深層心理学・心理学・オカルティズム批判:精神分析批判・ユング心理学批判・心理学一般批判、他

今は、簡単に触れるに留めるが、精神分析批判とユング心理学批判を主に行いたい。もっとも、心理学全般批判もあるし、シュタイナーの人智学、その他のオカルティズム批判もある。
 とりあえず、深層心理学批判に限定すると、フロイトもラカンもユングも、自我と無意識との融合を目指しているのであるが、自我とは、同一性・自我=近代的自我であり、これは、悪・悪魔・狂気であるから、解体するのがメタ・モダンとして正義なのであるが、それを、それらは温存してしまっているからである。思うに、深層心理学は、一時は、病者を癒すかもしれないが、結局は、悪化させると考えられるのである。ポスト深層心理学である。同一性・自我=近代的自我の解体が必要なのである。そして、「無意識」を解放するのである。「無意識」とは、差異共振シナジー様相である。そう、不連続的差異論のメディア界と言っては間違いになるだろう。メディア界とは、まだ、現象界と未分化状態にあるのである。つまり、連続・同一性構造(構造主義の構造、即ち、メディア/現象境界)の根があるので、自我と結びついているのである。これが、ポストモダン、ポスト構造主義を、中途半端なものにさせ、頓挫させたものである。
 そして、心理学一般も、自我を残す限り、批判され解体されなくてはならない。また、シュタイナーの人智学も、自我(エゴ)をベースにしているので、批判され解体されなくてはならないし、ヌース理論も、連続・同一性の理論なので、批判され解体されなくてはならない。また、精神世界論であるが、私は読んでないので、確定できないが、クリシュナムルティの思想は、優れているように思えるが、一般に、自我を無くすという考え方は、危険である。自我は批判され解体されなくてはならないのであって、単純に、自我を無くすということではないのである。自我を解体した後に、差異共振シナジー様態としての差異的個・自己が生まれる。このとき、疑似的自我、疑似的同一性は残っているのである。この問題は、とても微妙な点であり、後で検討したいが、今言えるのは、自我・近代的自我が解体して、差異的自己・差異共振的自己が誕生するということである。

p.s. コフートの自己心理学(参考:『〈自己愛〉の構造 「他者」を失った若者たち』和田秀樹著 講談社選書メチエ)が注目されているようだが、この理論は、プラトニック・シナジー理論に共通する面があると思う。つまり、共感性の面においてである。しかし、予測では、不連続的差異としての個・自己をベースにする点で、コフートの自己心理学と異なるように思えるのである。プラトニック・シナジー理論は、差異共振シナジー様相における共感性を説くが、しかし、この共感性は、不連続的差異性という特異性・単独性がベースになっているのである。つまり、個人主義の極限としてのプラトニック・シナジー理論であり、そこから、差異共振性を説くのである。この共振性は、共感性と呼んでいいと思うが、しかし、論理的には、即非の論理なので、不連続的差異の共振としての共感性であることに注意されることを述べておきたい。



参考:

1)クリシュナムルティとは(はてな)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%EA%A5%B7%A5%E5%A5%CA%A5%E0%A5%EB%A5%C6%A5%A3

2)google検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

ジッドゥ・クリシュナムルティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti 1895年 3月11日 - 1986年 2月17日 )はインド 生まれの思想家 。

一般的な分類としては宗教家・神秘思想家になるが、彼の思想は宗教団体的なものとは真逆の方向性を持っている。二十世紀最高の宗教的覚者の一人であるとする声もある。
[編集 ]

クリシュナムルティの生涯

クリシュナムルティは1895年、南インドに貧しいバラモン の家の子として生まれた。母親は神智学協会 の会員であったため、この協会の幹部チャールズ・リードビーターの目に触れる機会に巡り合う。リードビーターは人間のオーラを観る眼、霊視能力の持ち主であったという。リードビーターの目に留まったとき少年クリシュナムルティは泥と垢にまみれたみすぼらしい身なりをしていたが、彼の目には少年が内から発する神々しいオーラが映った。そのあまりのすばらしさに思わず恍惚となったリードビーターは、この少年をひきとろうと言い出す。

神智学協会の教義によればキリスト以来の救世主が現代に現れて人々を導くということになっていた。リードビーターにはクリシュナムルティこそ捜し求めていた救世主となるべき人物であるように思えた。クリシュナムルティはヨ−ロッパの神智学協会に連れて行かれ、「救世主」としての英才教育をうけることになる。

1911年、神智学協会会長アニー・ベザント女史はクリシュナムルティを救世主として星の教団という団体を設立した。クリシュナムルティはまわりの神智学信徒からとてつもなく大きな期待を注がれることになった。霊的修行として眠りについたときアストラル体 となってリードビーターとともにヒマラヤ山中に飛び、クートフーミー大師なる霊的指導者から教えを受けたりもした。翌朝、リードビーターと教えを復唱すると、二人の言葉は不思議と合致したという。このように不思議な体験のこともあって、会員たちはクリシュナムルティを通して語られる霊的教義に関心を集中させる。

しかし崇拝者に囲まれたクリシュナムルティはその状態を喜んでいなかった。彼の本音は神智学の体系的な教説と反対に、「真理は権威を持つものではなく、まして集団に属するものではありえない」というものであった。はじめのうちこそ押し付けられた救世主という役を演じていたクリシュナムルティだったが、徐々に反抗を示し始め、神智学の教義を信じていないとはっきり言うに到る。その後も神智学の信徒を裏切り続け、ついに1929年8月2日、3,000 人あまりの団員がいた星の教団を解散するに到る。この解散にあたりクリシュナムルティは「宗教やセクトによって真理に到達することは不可能である。自分は追随者は望まない。永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な人間がいてくれれば充分である」という旨の宣言を行っている。

教団の崇拝者を失ったクリシュナムルティは「フリーの宗教家」としてインドやアメリカをはじめとする世界各地を回り、公開講話、各界著名人との討論会などを行う。講演は大きな反響を呼び、彼は以前にも増す名声をとどろかせる。もともと宗教的指導者であった人物が宗教の組織を真っ向から否定し、宗教から、そして神からも自由であれと言うのはインパクトが大きかった。教団の解散以後、56年間に渡って彼は説き続けた。

クリシュナムルティの最期については、死期を察して一人で静かに息を引き取った等の伝説があるが、「クリシュナムルティ・開かれた扉」によれば、真相はこうである。 1985年の暮れより、体調不良(発熱、体重減少)が続き、なかなか原因が判明しなかったが、翌1986年1月23日、精密な検査の結果、末期の膵臓癌が発見され、死期が迫っていることが明らかになった(これは、本人の予感していた死期よりも、かなり早いものであったらしいことが同書に記されている)。このころ以降、苦痛が耐えがたくなることがしばしばあり、栄養以外にモルヒネや睡眠薬の点滴(時には輸血も)を受けるようになった。しかし、それにも負けず、死ぬまでに整理しておくべき課題(クリシュナムルティ学校や出版の死後の体制等)を議論し、解決していった。そして遺言も済ませ、必要と思われることをなし終えた後、衰弱が著しい中、2月16日午後7時に睡眠薬を通常通り服用、(最初は、苦痛のためなかなか眠れなかったが)徐々に苦痛が減退するにつれ、意識を失いはじめ、2人の(友人でもある)医師と3人の友人が見守る中、1986年2月17日の午前0時10分に死去した。伝説とは違い、特別な最期ではないが、これは彼の思想や言葉の価値を何ら減するものではない。
[編集 ]

クリシュナムルティの思想

クリシュナムルティの思想の中心となる主題はあるがままの受容である。クリシュナムルティにとって「あるがまま」とは、実在、真理、神、愛、自由、無限、永遠、創造などと同義語である。その対極として闘争、矛盾、恐怖、欲望、習慣、努力、自我、観念などが挙げられる。後者が前者(真理)と対極になるのは、それらがあるべきものを求める精神の働きであり、あるがままのものからの逃避であるからにほかならない。人は物事を比較したり批判したりあるいは同一視して理解しようとするが、このような精神活動は観念を生み出すばかりである。

クリシュナムルティは観念は真理を捉えることができないと言う。真理を知ることができるのは直接の経験だけである。観念は正しい理解をもたらさないばかりか、争いをもたらす。政治的イデオロギーや民族のアイデンティティー、宗教的信条の対立は世界中で争いの源になっている。「神を信じる者は神を発見することはできない」とクリシュナムルティは明言している。神とか悟りを開いた人にすがろうとするのは不安から逃れようとする精神の働きであるという。

自分が矮小な存在であることに耐えきれない精神(自我)はより大きな存在、民族や国家や神と自分を同一視しようとする。そして他人も自分と同じ信念を持つように強いる。しかしこのような大きな存在の正体は自我が投影した幻影に過ぎないため、人を結合させるどころか分離させるばかりである。クリシュナムルティは行為が観念のしもべとなることを激しく糾弾する。

世界に争いをもたらす観念の正体とは何か。それは記憶と欲望だとクリシュナムルティはいう。過去の結果としての記憶、そして記憶に基づいて未来へ投影される欲望である。クリシュナムルティは時間を物理的時間と心理的時間に分け、心理的時間を否定する。物理的時間は事実であるため否定できない。事実は否定できないが、事実についての見解は否定できる。精神がつくりだす過去や未来といった時間の観念(心理的時間)は実在である今を犠牲にしようとする。過去の残り滓である記憶は物事に対する固定的な反応パターンを形成し、現在を新鮮に捉える妨げとなる。不安や恐怖も反応パターンの虜になっている精神が生み出したものだという。恐怖とは「未知なるものへの恐れ」というより「既知なるものを失うことへの恐れ」だとクリシュナムルティは指摘する。時間を媒介として物事を見ることは破壊的作用をもたらす。死が恐いのは生を失うのが恐いからである。孤独も屈辱も自分が愛着しているもの、記憶として価値ありと思っているものを失うことへの恐れである。

精神は失うことへの恐れから内部にも外部にも様々なものを蓄積しようとする。ところが蓄積したものはそれを失う恐怖を生む。かくして精神の活動は悪循環におちいる。新しい型を作ったり、古い型を強化したりしても型にはまっていることは変わらない。精神活動内での時間観念を拒否するクリシュナムルティは未来への希望や努力すら裁断する。未来はあるべきものという観念にすぎず、あるがままのものではないからだ。時間を当てにするかぎり、つまり「いつかは」こうなってやろうと思うかぎりあるがままのものと向かい合うことはできない。未来において何かになろうとする欲望は現実との矛盾で闘争となる。悟りを開きたいとか神の意志に従いたいというのも一つの欲望である。

時間から離れ、真理を理解するにはどうしたらよいのか。精神の活動が静まり、努力の産物でない静寂があるときに永遠のものが出現するとクリシュナムルティは言う。愛があるときに観念が終焉するとも言う。あるがままのものは常に動いており、神や真理は一瞬ごとに生じる。逆説的だが精神活動が終わったときに限りない創造が生まれ、自我が終わったとき絶対の自由が生まれる。常に新しい実在を知るには記憶、信念などの条件づけは邪魔な足かせである。クリシュナムルティは真理に到るための訓練方法は説いていないが、彼の方法に近いものが完全に受動的な自己凝視である。精神によって凝視するのではなく、精神を凝視すること。観念に目を向けず、観念を生み出す思考の過程そのものを理解することが彼の言う自己凝視である。精神の働きの全体を見つめることで自我を支配しているものを理解するのである。ただし自我を支配したり終わらせたりする実体があると考えてはならない。根源的自我とか神を想定するのもまた、自我のよりいっそう強い働きだと彼は言っている。

クリシュナムルティは自己を理解することは関係を理解することだという。人は単独では生きられない。生きることは関係の連続である。関係の理解が人と生の問題を解決する。クリシュナムルティにとって真の関係とは愛の関係である。ここで言う愛は「嫌い」の反対の「好き」とは違っている。好き嫌いや損得の関係は孤立なのだという。そのような感情に基づいて関係を求めれば、対象が得られなかったり飽きたりしたときには関係を変えてしまう。(私)の感情、(私)の利益からはなれ、ひたすら自分の全体を委ねる愛のことをクリシュナムルティは言っている。愛こそ人と生の問題を解決できる。思考によっては解決できない。

思考は今まで人の問題を解決しなかったし、これからも解決できないだろうとクリシュナムルティは極言する。思考は部分しか見ないので、思考すればするほど問題は細分化され、複雑になる。理論を探求するのではなく事実を見つめること、部分ではなく全体を見つめることで問題が解決されるという。特定の問題の枠組の中では思考や努力や知識や諸々の精神活動がうまく働くことはあるが、クリシュナムルティが提示しているのは個々の問題の解決方法ではない。問題を生み出している枠組そのものを変える、本質的な生の変容の方法をクリシュナムルティは提示しようとしているのである。
[編集 ]

参考文献

* 『自我の終焉』J.クリシュナムーティ 根本宏、山口圭三郎訳 (篠崎書林)
* 『自己の変容』クリシュナムルティ 松本恵一訳 (めるくまーる)
* 『クリシュナムルティ・人と教え』クリシュナムルティセンター編 (めるくまーる)
* 『20世紀の神秘思想家たち』アン・バン・クロフト 吉福伸逸訳 (平河出版)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3 " より作成

カテゴリ : 神秘思想 | 思想家 | インドの宗教家 | インド哲学 | 1895年生 | 1986年没

2006年10月01日 (11:43)

俳句&川柳

目を瞑り

海鳴を聞く

砂の浜


川土手の

風心地よき

鎮守の杜


玉の音に

蛙の混じる

窓辺なり


人間の

イデアは一つか

個のイデア


田舎なり

大きな蜘蛛の

壁を這い


プレハブの

海の家なく

サーファーの影


少女あり

カラスや千鳥

海景色


海釣りの

孤影の堤防

波砕く


白き鳥

ゆうゆうと翔ぶ

川面かな


土手道を

犬引きつれぬ

女たち


横這いの


蟹どもあらわる


川の道



蟹どもの

横這い隠る

川辺道


直売店

冬瓜まるまる

百五十円


運動に

疲れしからだ

俳句詠む


愚かなり

勝ち誇る我の

虚栄心


ゴミ浜に

兵どもが

棄て散らし

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno20.htm#ku


モダン去り

兵どもの

荒地かな


コスモスや

曼珠沙華咲く

路傍かな


飛び魚の

銀に耀く

水の音


囚人や

我は忍耐

介護する


浅ましき

コトバ溢れぬ

巷なり


近代の

理想・理性は

闇なりぬ


金儲け

人をだまして

死人かな


美味し蕎麦

日々精進に

自炊せり


末世なり

ノアの方舟

世は忘れ


末世かな

タマシイ抜けし

ことばかり


哀れなり

愚人悪人

世に溢れ
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー