2006年11月28日 (21:11)

自己認識方程式とキリスト教会:陽意識としての理性と陰意識の隠蔽としての信仰:聖霊の時代と人類ルネサンス

自己認識方程式とキリスト教会:陽意識としての理性と陰意識の隠蔽としての信仰:聖霊の時代と人類ルネサンス

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

先に、キリスト教会(キリスト教ではなく)が、陰意識をタブー化して、単に信仰にしたと述べたが、この点に関して、精緻に検討したい。
 中世のスコラ哲学の頂点であるトマス・アクィナスの理性と信仰との調和の思想をキリスト教会の代表的思想として、考えよう。この理性とは何だろうか。これは、簡単に言えば、自然界の知性のことであり、超自然界の事象は、理性(自然界の知性)では、理解不可能であり、信仰の対象でしかないということと考えられる。
 陽意識[i→(-i)]は、ほぼ、この理性にあたると言っていいだろう。そして、陰意識[i←(-i)]は、他者の認識であり、超自然的認識をも含むと考えることができるだろう。本当は、単に超自然的認識だけで、他者一般の認識である。「すべての他者はまったき他者である」というデリダの言葉がここで想起されなくてはならない。
 とまれ、神の認識をキリスト教会は、否定しているので、陰意識が否定されているということができるだろう。だから、先に述べた陰意識をタブーにしているというのは、正しかったと言えるのである。
 ここでは、さらに考えてみると、陰意識とは、他者の認識であり、−エネルゲイアで、他者の力動であると言えよう。この他者の力動とは何であろうか。これは、ある意味で、神秘的な力である。宗教的な力と言ってもいいだろう。そう、東方キリスト教会でいう神のエネルゲイアとは、このことを指していると言っていいのではないだろうか。あるいは、三位一体論で言えば、聖霊に当たるように思われるのである。シンボルでは、鳩である。そう、−エネルゲイア、陰意識、他者の認識とは、自我超越的なのである。それは、ほとんど宗教的経験であろう。ルドルフ・オットーのヌミノーゼに相当するだろう。また、神秘主義的経験もこれで説明がつくだろう。そして、一神教の預言者の経験もこれで説明がつくだろう。そして、さらに言えば、イエス・キリストの経験もこれで説明がつくのだろう。神の子とは、この−エネルゲイアを肯定して、差異共振シナジー精神を体現した者のことだろう。つまり、神を−エネルゲイアと考えれれば明快であろう。【しかしながら、今疑問として、イエス・キリストは、−エネルゲイアが過度になり、自己であるiを否定してしまっているのではないだろうか。つまり、 (-i)*(-i)⇒−1になっている向きがあるような感じがするのである。】
 とまれ、キリスト教会は、−エネルゲイアである聖霊を独占することで、西洋人から、陰意識、他者認識を奪い、陽意識・自我認識を強化したのだと言えるだろう。先に述べた、デカルトが、コギト哲学を明晰な合理主義に限定した理由はキリスト教会の陰意識のタブー化に拠るとしたというのは、これで根拠付けられたと言える。
 では、キリスト教会の陰意識の独占化とは何を意味するのか。当然、信者をキリスト教会に従順にさせることを意味するだろう。ありていに言えば、洗脳である。自己認識を喪失させて、他者否定の自我主義を肯定させることでもあるのである。やはり、ここに近代的自我、近代合理主義、近代唯物論の源泉があると言えよう。キリスト教会が、唯物論の源泉なのである。そして、ニーチェの神の死とは、まったく正しいのである。キリスト教会が聖霊を独占したことで、神が死んだのであるからである。
 中世イタリアのフィオーレのヨアキムの聖霊の時代という考え方は、正しいのである。ポスト・キリスト教会として、聖霊の時代が訪れると考えられるのである。それは、他者の時代である。スーパー・ポスト・モダンの時代である。今世界のカオスの中から生まれようとしているのは、明らかに、人類ルネサンスである。万教帰一の時代である。そして、文理帰一・東西帰一の時代である。すごい世界が訪れようとしているのだ。ただし、日本は今のままでは、滅亡するだろう。日本滅亡である。

2006年11月28日 (08:03)

i*(-i)、又は、i⇔(-i)の事象の構造について:二つの認識(対象認識と自己認識)

i*(-i)、又は、i⇔(-i)の事象の構造について:二つの認識(対象認識と自己認識)

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

空も白み始めた、烏の遠鳴きが増しつつあるなか、東京の今の時刻(6時過ぎ)、仕事前の余裕の時間、本件について考察しよう。この問題は、認識論の核心であると考えられる。
 先に私は、陽意識i→(-i)と陰意識i←(-i)に分けた。そして、前者は、他者である(-i)を否定すると考えたのである。即ち、-(-i)であり、結果は、i*-(-i)⇒-1である。この否定-は、何を意味するのか。それは、陽意識のエネルゲイア、+エネルゲイアではないだろうか。これまで、差異1=同一性=差異2という図式で考えたが、より単純に、i*i⇒−1と考えていいのではないだろうか。つまり、陽意識は、他者(-i)を自己自身iとして観るということでいいのではないだろうか。他者(-i)を否定(−)して、-(-i)=iである。
 陽意識の他者否定はどういうことなのであろうか。差異とは、本来、他者への志向性であるのに、陽意識の他者否定は、本筋ではないように思えるのである。思うに、ここには、主観認識の問題があるのである。陽意識の志向性は、i→(-i)であるが、このとき主観iの認識手段は何だろうか。主観iのメディアは何だろうかという問題があるのである。今作業仮説的に言うと、それは、主観i自身が認識手段、認識メディアであるということではないだろうか。つまり、i が他者(-i)の認識手段・メディアであるということである。即ち、主観iは、主観自身をもって、他者-iを認識しようとするという矛盾事態にあるということである。換言すると、自己投影して、他者を認識するのである(、もし、これが他者認識と言えるならば)。
 結局、陽意識・+エネルゲイアは、自己投影して、他者認識するということである。これは、神話的には、ナルシスの神話である。(精神分析は、ここから、発想を借りたのであり、精神分析の独創ではないのである。)そして、この自己投影(ナルシス、反射像)は、正に、同一性、反差異・連続的同一性を形成するのである。即ち、i→(-i)は、i=(-i)であり、自己即他者なのである。
 この陽意識・+エネルゲイアの自己投影・ナルシスは、志向性の問題に当然関係する。つまり、差異の志向性は、自己から他者への志向性であるが、陽意識は、これが、自己投影となり、倒錯となるのである。だから、陽意識の志向性は、差異の志向性ではなく、反差異・連続的同一性の志向性であると言える。
 ここで問題は、言語と陰意識i←(-i)のことがあるが、先に、言語について考察しよう。陽意識・+エネルゲイア・自己投影・ナルシスにおいて、他者は、自己と等価となるが、自己投影像の名付け行為が起こると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の多様な現象に対して、名付けが行なわれるのである。私はある対象Aと同一であるが、この連続的同一性像を他の対象Bの連続的同一性像と区別する必要があるので、対象Aを花と名付け、対象Bを虫と名付けるのである。結局、陽意識・+エネルゲイアは、反差異・連続的同一性言語を形成し、自己形成ではなくて、自我形成すると言えるだろう。
 では、次に、陰意識・−エネルゲイアについて考えよう。これが、自己iにとり、障碍なのである。陽意識によって、自己投影して、反差異・連続的同一性・言語自我表象が出来るが、それに対して、他者(-i)は、陰意識・−エネルゲイアを自己に作用するのであり、いわば、陽意識の反差異・連続的同一性言語表象自我体系を解体するのである。正に、ここに差異が発生するのである。反差異・連続的同一性=自我に対して、他者の差異が発生するのである。連続的同一性の体系にひびが入るのである。だから、ここに陽意識自我の反動態勢が生まれると言えるだろう。つまり、連続的同一性を阻害する陰意識・−エネルゲイアを、いわば、塞き止める、ブロックするのである。陽意識の自己投影は本来、能動的であるが、この陰意識の阻害においては、当然ながら、反動的になるのである。これが、フロイトの説いた「死の本能」の真相であろう。結局、能動的反動がここには生起しているのである。これが、暴力の根源であると言えよう。近代合理主義は、陽意識の同一性の合理性であり、この陰意識の「理性」・「合理性」を否定・排除・隠蔽しているのである。
 結局、陽意識では、陰意識を取り込めないだろう。何故なら、陰意識は、−エネルゲイアであり、正反対であるからである。正に、絶対的他者(デリダ)である。陰意識を形成するには、陽意識は、自己脱却しないといけないのである。ここには、自己革命・革新・変革・変容が必要なのである。結局、この叡知を、仏教が、二千年以上も前から説いてきたのであるし、西洋哲学の少数の大天才たちもこれを説いてきたのである。スピノザ、(カント、)キルケゴール、ニーチェ、ウスペンスキー、フッサール、他である。日本では、鈴木大拙の即非の論理として、結実したのである。
 とまれ、陰意識は、共同体的伝統においては、宗教や習慣や儀礼によって、代理的に形成されてきたのであるが、近代における共同体コードの破壊によって、これが喪失されたというのは、見やすいことである。(日本において、toxandoria氏も神仏分離の「野蛮性」を述べていられるが、近代において、仏教が阻害されて、日本人の自己認識に「故障」・障害が生じたと言えるのではないだろうか。)
 近代とは、既述したように、本来、差異発動・力動・実現等の時代なのであり、近代初期において、ルネサンスや諸哲学が創造されたのである。ルネサンスの問題は置くと、差異の哲学として、デカルト哲学、スピノザ哲学、等が創造されたのである。デカルト哲学は、ほぼ誤解されて、その差異性を無視されている。コギトは、差異である。だから、デカルトには、陰意識があったのである。しかるに、その合理主義は、陽意識の合理主義へと傾斜したように思えるのである。デカルト哲学の革命性と不十分さを確認しないといけない。
 そして、この不十分さを補ったのが、スピノザであると考えられる。スピノザの能動的観念とは、正に、陰意識の合理的取り込みであると考えられるのである。だから、先にも触れたが、デカルト/スピノザ哲学というようにセットで考えて、差異哲学の形成を見るべきであると考えられるのである。
 では、陰意識・−エネルゲイアとは何だろうか。それは、精神・倫理・道徳の問題である。能天気な陽意識にひびを入らせるもので、自己覚醒作用があるのである。差異の発動である。他者からのエネルゲイアの発動なのである。おそらく、これは、本来、自己認識はできないはずである。他者である(-i)は、いわば、物自体であり、完全認識不可能であろう。しかし、その−エネルゲイアは感得できるはずである。これは、感情知覚の問題である。これは、陽意識のもつ明晰な合理性とは異なる、いわば、不明晰な合理性の問題であろう。そう、デカルトは、この不明晰な合理性を排除してしまったと言えるだろう。そして、スピノザが、この不明晰な合理性を能動的観念の手法で自己認識に取り込んだと考えられるのである。この他者の陰意識の取り込みとは、積極的共感的知性の形成であると考えられるのである。つまり、スピノザ哲学において、共感性が生起しているのである。換言すると、スピノザ哲学に、即非の認識論が生起していると考えられるのである。自己と他者との即非の認識哲学である。何故ならば、陽意識的合理主義は、他者を排除してしまうからであり、陰意識的合理主義によって、自己と他者との差異・分離を肯定した上で、新たに、陽意識的合理主義が形成されて、差異的同一性認識【i*(-i)⇒+1】が実現すると考えられるからである。
 ということで、差異哲学は、西洋においては、デカルト/スピノザ哲学において、既に形成されていたと言えるのである。その後、西洋哲学は、混乱して、カントで差異の確認があり、キルケゴールやニーチェで差異が強調され、そして、フッサール現象学でデカルト/スピノザ哲学が継承的に進展したと言えるだろう。その後、いわゆる、生の哲学(ベルクソン)や実存主義(ハイデガー、サルトル)で、連続化し、反動化するのである。そして、構造主義は、カント哲学の再確認であるし、ポスト・モダン、ポスト構造主義は、差異哲学の現代的復興を目指したが、それ以前の反動化の側面を帯びていて、不十分なものであったのであり、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が、連続化・反動化を乗り越えて、差異哲学を創造的に発展させつつあるのである(スーパー・ポスト・モダン理論)。これは、東西文明の超克であり、文理統合的理論の創造を意味すると考えられるのである。
 さて、最後に簡単に触れると、陰意識は、不明晰な合理主義は、共感的感情・精神的感情に関係するのであり、また、心身性無いし身体性に関係するのである。この心身性・身体性について、新たに考察して行きたい。

2006年11月27日 (02:30)

パースの哲学は、連続的差異論である

先に、アメリカの哲学者パースの『連続性の哲学』(岩波文庫)に言及して、その連続性とは、差異共振シナジーではないかと示唆したが、それは、まったくの誤りであったので、ここで、お詫びかたがた、訂正したい。
 訳の問題があるのかもしれないが、それを考慮に入れずに、コメントすると、パースの記述自体にそもそも問題があると感じた。即ち、きわめて、不明瞭な、不明確な用語使用をしていると考えられるのである。
 それはともあれ、以下の叙述から、パースの哲学が、ベルクソンの連続的差異論と等価であることがわかるだろう。

「・・・次のような個体をメンバーとする特別な集合を考えてみることにしよう。それは、あらゆる種類の非可算的集合をすべて包含するような集合である。
   ・・・
したがって、われわれはここに至って、その数多性があまりにも広大であるために、そうした集合を構成する個体どうしは互いに溶けあい、その個々の同一性を失ってしまうような、そういう特別な多にまで至ったということに気づく。そのような集合こそが連続的なのである。」
(p.113〜114)なお、傍点は、下線に替えた。青色文字は私の強調。

上記の「個々の同一性」は、私が言う差異的同一性のことであり、それを失うということは、反差異・連続的同一性になるということであり、ベルクソン的連続的差異以外のなにものでもないだろう。
 今夏、期待してホワイトヘッドの『過程と実在』を読み出したが、実に、純然たる連続論であり、たいへん失望したが、いくらか期待したパースの『連続性の哲学』であったが、タイトルに偽りなく、連続論であった。また、それだけでなく、パースの叙述表現に大変問題があると感じた。とても、あいまいであり、矛盾していると感じるのである。独りよがりな叙述も散見するのである。どうも際物であるように直観されるのである。ドゥルーズが、ホワイトヘッドやパースを評価していたが、ドゥルーズ自身の哲学が怪しいものなので、類は類は呼ぶというところであろうか。
 もっとも、パースの三元的論理学は、それなりに正しいだろう。第一性、第二性、第三性に分けている(p.86〜p.93)。それを、プラトニック・シナジー理論的に敷延してみる。

第一性:不連続的差異
第二性:差異共振シナジー
第三性:即非性・対極性

としておこう。

2006年11月26日 (01:03)

近代的自我の発生の原因とルネサンス:自己認識方程式の視点から

明日野氏の卓越した一人称自己認識方程式e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1をまず前提として確認しておこう。(これ以前は、(i)*(-i)⇒+1である。)
 私の問題にしたいのは、i-i=0のところである。これは、差零度共振を意味すると考えられる。そして、これは、自己e^iと他者e^(-i)を知る本来の自己認識である。
 私の考えは、e^i⇒e^(-i)の陽意識と逆のe^(-i)⇒e^iの陰意識があるというものである。簡単に言えば、自己⇒他者、他者⇒自己である。そして、前者、陽意識(+エネルゲイア)は、光と関係する。例えば、遠近法がこれに当たるだろう。しかし、後者、陰意識(−エネルゲイア)は、闇と関係する。簡単に言えば、前者は、普通の意識であり、後者は、言わば、無意識である。そう、明意識と暗意識と言ってもいい。
 ここで、e^i⇒e^ (-i)を単純化して、i⇒-iとし、また、e^(-i)⇒e^iを、-i⇒iとして考えることにする。i⇒-iの解釈であるが、これは、他者への志向性でもあるが、ここで、知覚が生じて、何らかの言語を-iに与えると思うのである。(太古においては、言語ではなくて、絵文字のようなもの、音声言語のようなものを与えていたであろう。)思うに、言語を他者に与えて、同一性化するのである。ここで作業仮説として、言語=−1とすれば、i⇒−1・(-i)=i となるのである。つまり、i=iという図式である。思うに、これが自我の数式であろう。つまり、他者である-iを自己iと解釈するのである。(ここで、言語=−1の発生の意味は次の考察の中から考えよう。)
 次に、陰意識・暗意識のことを考えると、これは、他者から自己への志向性なのである。これは、換言すれば、他者の眼、他者の視線と言ってもいいだろう。思うに、原初の自己は、とりわけ、この陰意識・暗意識を恐れたであろうと思われる。これは、他者から自己への志向であるから、自己は基本的には、受動であるしかないのである。陽意識が能動性であるのに対して、陰意識は受動性である。(おそらく、物の怪とか、アニミズム、シャーマニズム等は、後者的表現であろう。)
 思うに、近代以前は、両者の双方向関係から世界観が生まれていたのである。陰意識に「霊」とか、「魂」とか、精霊、等々と名づけたのである。つまり、陽意識と陰意識は、交流して、世界観を形成したのである。いわゆる、コスモスというのも、ここから生まれた宇宙観であろう。しかしながら、正しく言えば、例えば、中世においては、陽意識より陰意識の方が強く、この強い陰意識の上にキリスト教が成立していたと考えられよう。そして、ルネサンスが起こり(中世において、例えば、12世紀ルネサンスがあるが、それは、先駆と見ればいいだろう)、陽意識が活性化されたと考えられるのである。つまり、自己の能動的意識 i⇒-iが賦活されたと考えられるのである。つまり、中世においては、-i⇒iの陰意識(暗意識・闇意識)が優勢であったが、ルネサンスになり、逆転して、i⇒-i の陽意識(明意識・光意識)になったと考えられるのである。これは、正に、革命・革新・進化である。陰から陽へと転換したのである。おそらく、人類史において、このような陰から陽への転換は繰り返されたに違いない。古代ギリシアが代表的なものであろうし、他の古代文明期においても、類したものがあったのであろう。
 とまれ、ルネサンスないし近代(プロト・モダン)にもどると、能動的な陽意識が、おそらく、爆発的に賦活・活性化されたのである。そして、芸術的には、イタリア・ルネサンスという偉業を生み、哲学的には、デカルト哲学を生んだと言えよう。能動的な陽意識がコギトの原点なのである。しかし、注意すべきは、ルネサンスないし近代初期においては、単に陽意識があったのではなくて、それまでの、陰意識を伴っていたと考えられることである。否、正しく言えば、新たな陽意識の賦活とは、新たな陰意識の賦活と見ていいだろう。つまり、陰と陽の両極性が活性化されたと考えられるのである。これが、ルネサンス哲学が、神秘哲学やコスモス哲学になったことの要因であると考えられるのである(参照:マルシリオ・フィチーノのネオプラトニズム)。また、オカルト思想が流行した理由もここにあると考えられるだろう。そして、デカルト哲学(コギト・エルゴ・スム)において、コギトは、能動的陽意識であり、スムは、受動的陰意識であろう。つまり、e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1である。しかし、その後、コギトの陽意識に限定されて、陰意識が否定されていったのである。いわゆる、近代合理主義である近代科学・技術・資本主義の前進である。
 以上のように考えると、アポリア(難問)である、何故、差異が否定されたのかということを考察してみよう。ルネサンスにおいて、陽意識と陰意識の均衡が取れていたはずである。しかし、近代合理主義(近代的自我、近代唯物論)は、前者中心に、後者を否定していったのである。これまで、反差異的同一性を近代合理主義に見てきたのであるが、どうして、この、いわば、怪物が生まれたのかである。先にも述べたが、デカルトが明晰な判明な観念を求めて、あいまいなものを排除したことが起因ではないだろうか。つまり、能動的陽意識に傾斜したのである。この光意識は、+エネルゲイアをもち、-iである他者を+化するように思うのである。つまり、ここに-iに対する−作用があると推察されるのである。つまり、+エネルゲイアとは、反差異的同一性作用であると考えることができるのではないだろうか。(逆に言うと、−エネルゲイアも反差異的同一性作用だろう。つまり、(-i)*(-i)⇒−1である。)そのように考えられるならば、何故、近代的自我のもつ反差異性の発生したのかという理由は自明となる。
 ここで、整理すると、原近代(プロト・モダン)において、陽意識と陰意識の両極性が賦活されたのである。換言すると、コスモスが発動したのである。しかしながら、デカルト哲学は、もともと、原近代を基盤としているが、陽意識・+エネルゲイアに傾斜したため、陰意識・−エネルゲイアを否定してしまったということである。そして、この路線が近代合理主義となったのである。デカルトの後、スピノザが出て、陰意識を取り込んだ哲学を創造したのである。(ライプニッツは、予定調和という観念で、陽意識が強かったと言えよう。)だから、デカルト/スピノザ哲学と、本来理解することで、「ポスト・モダン」となると考えられるのである。そう、デカルト自身は、陽意識を徹底する試論を行ったのであり、その点では問題はないのである。ただ、陰意識の探求が不徹底であったということである。
 近代合理主義の発生は単にデカルト哲学の問題だけでなく、他に発生する原因があると考えられるだろう。有り体に言えば、ルネサンス/プロト・モダンとは、太極性の活性化である。あるいは、東洋文明の新生であると言えるのである。宗教的に言えば、異教の再生であると言えるのである。つまり、実は、ルネサンスは、西洋文明にとって都合の悪いものが発生したことになるのである。キリスト教を否定するものが出現したのである。思うに、キリスト教は、陰意識を信仰の次元に変えていたのであり、陰意識の認識をタブーにしていたのである。中世スコラ哲学の頂点であるトマス・アクィナスの理性と信仰の調和がキリスト教としての基本的枠組みであったと言えよう。理性である陽意識は、確かに認めるが、信仰の対象となる陰意識の合理性・理性をキリスト教会は、絶対タブーとしたのである。(これは、イデオロギーと見るべきだろう。民衆支配のイデオロギーである。そう、二つの合理性・理性があるのである。陽意識の理性と陰意識の理性である。)
 結局、ルネサンスは、キリスト教にとってタブーの陰意識を賦活・活性化したのである。そして、デカルト哲学の明晰性とは、この路線に忠実であったと言えよう。デカルト的合理主義は、陽意識を肯定して、陰意識を排除したのである。つまり、キリスト教会のバイアス・イデオロギーが西洋社会・文化に存在するのであり、それが、脱西洋文明的なルネサンス/プロト・モダンを否定して近代主義へと捩じ曲げたと言えるだろう。プロテスタンティズムも、同様の捩じ曲げであると見なくてはならないだろう。
 これで、これまでの最大の難問であった近代的自我の否定性の発生について、自己認識方程式を活用して、整合的に説明できたのではないだろうか。もう一度整理すれば、ルネサンス/プロト・モダンにおいて、差異が賦活・活性化された。それは、陽意識と陰意識の双方を活動させたのである。だから、e^i*e^ (-i)⇒e^(i-i)=e^0=1が生起したのである。しかるに、近代西欧は、キリスト教会のバイアス・イデオロギーがあるために、本来的に、東洋・異教再生であるルネサンスを認めることができずに、否定・排除・隠蔽的に対処したのである。それが、近代合理主義であり、魔女狩りや植民地主義や帝国主義、オリエンタリズム等を生んだのである。東洋・異教復興であるルネサンスを継承したのは、少数の天才たちであった。(そう、スピノザ哲学、神即自然の思想は、正に、東洋・異教新生であろう。これは、ポスト・ユダヤ・キリスト教である。正しくは、ポスト・キリスト教会であろう。)カントは、両者の中間であった。そして、キルケゴールが超越的特異性を復活させ、シェリングが自然と理性との融合した「メディア」界を示唆し、また、ニーチェが近代合理主義やキリスト教を破壊し、フッサールが決定的に超越論的現象学を打ち立てて、超越論的志向性を突き止めたのである(ただし、+エネルゲイア、陽意識の志向性であったろう)。他の分野・領域でも、キリスト教会的発想、陰意識合理性の否定と東洋・異教再生との闘争が闘われたと考えられるのである。そして、ポスト・モダンは、明確なこの闘争であるが、西欧の陽意識の強固さによって、陰意識を完全に解放できずに、不十分な立場に留まってしまったと考えられるのである。(しかし、後期デリダは、ポスト・モダンを哲学的に徹底したように思える。)
 そして、現代日本において、不連続的差異論が誕生して、停滞・衰退したポスト・モダンを前進させたのであり、それから、プラトニック・シナジー理論へと発展したのである。これで、完全にポスト・モダン理論が形成されたと考えられるのである。つまり、新東洋・異教ルネサンスの理論の誕生である。西洋文明の終焉である。(思うに、西洋文明とは何かということになるだろう。それは、東洋文明の一種展開であったと思うのである。それが、イデオロギー的に東洋文明から、切断したのである。しかし、文明自体は、東洋文明が原点であるから、当然、東洋文明は再帰するのである。そして、時が熟して、内在的に東洋文明が復興したのである。そして、プラトニック・シナジー理論が、日本という東洋文明の終点、そして、西洋文明の最大の輸入国において、東西文明を超克する形で、創造されたのは、意味深長である。おそらく、本来、東洋文明も西洋文明もないのである。ただ、差異共振シナジー的人類文明があるだけである。)
 後で、不連続的差異論とプラトニック・シナジー理論との関係を考察したいと思う。思うに、後者は、前者を修正する形の理論なのである。

p.s. 以上から、何故、近代的自我は狂気なのか、という私の長年の疑問も解決されるだろう。近代合理主義は、能動的陽意識中心で、受動的陰意識を否定・排除しているのである。つまり、陽意識のエネルゲイアだけでなく、陰意識のエネルゲイア、−エネルゲイアの発生があるが、それを、陽意識である近代的自我は、否定・排除・隠蔽するのである。しかし、排除された−エネルゲイアは、陽意識に対して、非合理な衝動として発動するのである。これが、狂気なのである。暴力でもあるのである。
 現代日本の狂気シンドロームは、これで説明できるだろう。エクソ・モダンexomodern、これしかないのである。

2006年11月24日 (00:05)

(i)*(-i)の虚空間について:(i)と(-i)の関係の考察:その2

先の考察で、(i)*(-i)【e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=414738
Theories for the Platonic Synergy Concept. 】を(i)⇔(-i)と表記して、双方向の志向性を考えた。陽の志向性と陰の志向性である。そして、また、牽引と反発を考えた。すると、2×2=4種類の様態があるということになるだろう。とまれ、[(i)⇔(-i)]⇒+1となるだろう。つまり、[(i)⇒(-i)]⇒+1と[(-i)⇒(i)]⇒+1ということであろう。双方向の志向性は、+1なのである。おそらく、正確に言えば、⇔の双方向の均衡において、+1があるのだろう。つまり、双方向とは即非なのだろう。
 さて、問題は、−1の場合である。(i)^2ないし(-i)^2が−1である。原自己の二乗、ないし、原他者の二乗が、−1=自我(近代的自我)である。そして、ここで、私は、感情のことも問題にしたいのである。明らかに、−1=自我は、否定感情ないし反動感情的である(いわゆる、感情的とは、理論的には、否定感情・反動感情的と呼べるだろう)。そして、+1=自己は、肯定感情・能動感情をもっていると言えるだろう。あるいは、零度感情・中立感情をもっているだろう。思うに、知性とは、本来、肯定・能動・零度・中立感情を伴っているだろう。おそらく、共感性とは、この感情と通じているだろう。反感は当然、否定・反動感情である。すると、知性とは、肯定・能動・零度・中立・共感感情をともなうことになるだろう。この感情は、即非関係を維持しようとするものである。否定・反動感情によって、知性が曇らなくなるようにするのである。否定・反動感情は、他者を否定するので、当然、即非を否定することになるのである。それは、(i)*−(-i)⇒−1である。これは、既述済みである。
 問題は、−1と言語の関係である。あるいは、(i)*(-i)ないし(i)⇔(-i)と言語の関係である。あるいは、同一性と言語の関係である。これは、作業仮説であるが、言語は、即非関係から生まれたのではないだろうか。
 問題は、とりわけ、同一性と言語である。即非関係において、例えば、私は山と一如である。私は、山であり、且つ、山ではないという即非事象・現象が発生する。このときの、即非関係の「対象」-iである「山」を主体が志向して、「やま」という音声言語が生じるのであるし、文字化して、「山」となるのではないだろうか。おそらく、音声言語は、エネルゲイアの表出であろう。(i)が(-i)を志向するとき、即非における志向性(双方向の志向性:陽の志向性と陰の志向性)において、対象(-i)が、「やま」ないし「山」と表出されるのである。つまり、即非表出・表現としての言語となるのである。つまり、差異的同一性の表現としての言語である。+1の表現としての言語である。これは、芸術としての、詩としての言語でもある。
 しかし、言語が、近代において変質すると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の言語となると考えられるのである。つまり、−1としての言語である。この変質をどう考えたらいいのか。これは、メディア空間の言語から現象空間の言語への変移とも言えるだろう。つまり、近代以前は、「わたし」即非「山」であるメディア空間言語であったが、近代においては、「わたし」≠「山」の現象言語である。差異共振シナジーが喪失しているのである。詩の喪失、コスモスの喪失である。ここには、即非関係の否定があるのである。マイナスが入ったのである。(i)*-(-i)、あるいは、-(i)*(-i)となったのである。 (i)*(i)ないし(-i)*(-i)の関係である。自尊自大と自虐・卑下である。(ここで、D.H. ロレンスの『死んだ男』の言葉を想起する。贈与は、貪欲の一種であるというような言葉である。)
 これまでの見解では、近代は、差異が原点としているということであるが、差異の新たな活性化としての近代であり、イタリア・ルネサンスにおいて、開花したと考えられるのである。そして、西欧に拡大するのである。差異の活性化としての近代である。そして、哲学として、デカルト哲学が創造されるのである。問題は、明晰性である。デカルトは、明晰な合理性として、即非性を排除して、反差異・連続的同一性を求めたと思えるのである。コギト哲学は、差異の哲学であったが、デカルト合理主義は、反差異の哲学であったと思えるのである。思うに、デカルトは、感情そのものを排除してしまったのである。即非関係は、共感性、一如感情、コスモス感情をもたらすのであるが、即非関係を排除したとき、感情も排除したと言えるだろう。いったい、デカルト合理主義の合理性は何か。それは、反感情的同一性合理性であろう。実は、感情性を排除すること自体が、否定感情的であろう。他者との即非的つながりを切断した同一性は、自尊・自大的同一性である。(これは、遠近法と関係しているだろう。)
 ここで、仮説的に言うと、(i)⇒(-i)の陽の志向性と(i)←(-i)の陰の志向性による双方向志向性があると先に述べたが、デカルト合理主義においては、前者の陽の志向性が中心となり、後者が否定されたのではないだろうか。つまり、陽の志向性に対して、陰の志向性が共立することで、即非関係が生起するが、片方だけでは、即非バランスが崩壊されるだろう。おそらく、両方の志向性の極限として、−1が帰結するのだろう。陽の志向性は、(i)が(-i) となり、陰の志向性においては、(-i)が(i)となるのである。即ち、(-i)*(-i)⇒−1であり、(i)*(i)⇒−1となる。思うに、前者が、近代的自我であり、後者がプロテスタンティズムではないだろうか。
 さて、ここで、言語の問題にもどると、即非言語と反差異的言語であるが、志向性の極限によって、後者が生まれたのである。(i)*(i)と(-i)* (-i)が反差異的同一性の源泉である。だから、問題は、反差異と言語の関係である。ここで、訂正的に考察すると、(i)→(-i)において、(-i) ^2を考えたが、これは、実は、(i)=(-i)という事態(錯誤)であろう。この等号が、反差異的同一性であり、反差異的言語の母体であろう。この反差異的同一性言語を介して、主観は、客観を見ているのである。山は以前は、即非的山であったが、今や、反差異的同一性の山である。
 では、遠近法的距離ないし延長はどう説明できるのだろうか。あるいは、三次元的空間は、どう説明できるのか。確認して考察していくと、即非関係においては、本来、遠近法主義は、生まれない。有限と無限とのパラドクシカルな関係がそこにはある。しかし、反差異的同一性が成立すると、無限が消失する。即非の即がなくなり、非がなくなる。A=A且つA=非Aである即非関係から、A≠非Aとなる。つまり、「わたし」と山は、別々になるということで、もはや、「わたし」と山は、一如になることはないのである。言い換えると、「わたし」と山との間には、反差異的同一性の空間(距離)が発生したということになるだろう。そして、この反差異的同一性空間が、数量化されるわけである。1kmの距離。そして、時間も数量化されるのである。カントの超越論的形式が、この反差異的同一性時空間形式である。ここで、直観で言うと、この同一性は、光速度のことである。なぜならば、あらゆる差異関係において、反差異的同一性が発生するのであるから。例えば、差異1=差異2=差異3=差異4=・・・・・=差異n となり、この等号の同一性空間において、つまり、「わたし」と月との距離における同一性、あるいは、「わたし」とブリュージュとの距離にける同一性、これは、光速しか考えられないだろう。そうすると、−1とは、光速の数ということになるだろう。つまり、1/4回転ならぬ、2/4回転である。(ここで、想起するのは、現象空間は、2回の1/4回転、ないし二種類の1/4回転によって生起すると述べてきたことである。つまり、イデア界から一回の1/4回転で、メディア界が形成されて、第二回目の1/4回転で現象界がされるということである。)
 さて、光速が同一性であるということから、ここで、光の現象に関連して考察する必要があるだろう。有り体に言えば、光とは何かということである。ここでも直観で言えば、光は本来、光でないものである。つまり、光=非光である。そう、即非エネルゲイアの反差異的同一性が光の現象になっているのであるから、本来、差異的同一性の光が存していると考えられるのである。つまり、(i)*(-i)の原光があるはずである。私のこれまでの試論から言うと、これは、宗教的光、例えば、浄土教の光である。阿弥陀如来の光、無量光である。無限の光である。これは、換言すると、陰陽光・太極光であろう。いわば、闇をもった原光と考えられるのである。D.H.ロレンスの黒い太陽、『老子』の玄牝(げんひん)はこれではないだろうか。あるいは、黒い聖母像もこれを指しているのではないだろうか。 ということで、光現象とは、零度差異共振シナジーの原光(玄光?)の同一性現象である。とりわけ、反差異的同一性現象であると言えるように思えるのである。
 では、これを数式化するとどうなるのだろうか。明日野氏の自己認識方程式から考えると、原光=(i)*(-i)⇒+1である。そして、光=(i)* (i)=(-i)*(-i)⇒−1である。ここで、雑駁ではあるが、ダークエネルギーについて言うと、それは、前者に関係するだろう。ただし、正しくは、虚次元・虚空間におけるエネルギー、つまり、虚エネルギーである。つまり、いい足す形になるが、闇があるのである。思うに、(i)⇒(-i)の反差異的同一性が光であり、(-i)⇒(i)の反差異的同一性が闇である。両者は−1で同一となるのである。ただし、方向性が異なるだろう。天から地が光となり、地から天が闇となるのではないだろうか。
 とりあえず、ここで留めたい。

2006年11月21日 (21:17)

検討問題:自己認識方程式のiと-iの意味について

私は、作業仮説ないし思考実験的に、明日野氏の自己認識方程式を一般事象に転用させて使用していることを、お断りして、検討を続けたい。
 明日野氏は、+1が光の方向、−1が闇の方向、そして、iが天の方向、-iを地の方向と提起されている。+1と−1は、いわば、現象空間の実数空間の事象であり、水平方向であり、光と闇の方向というのはわかりやすい。
 問題は、iと-iの空間的意味である。ここでも、直観から考察していきたい。 (i)*(-i)は、直観的に言えば、コスモスである。コスモスは、いわば、不可視的原宇宙であり、地霊的であり、心霊的であり、精神的であり、心身的であり、気的である。いわば、精神的運動性をもつのである。あるいは、精神的力動・エネルゲイアをもつのである。これは、心眼で見えるのである。たとえば、遠くの山の頂を見るとき、心象として、心的力動的に、上昇したり、下降したりしているのである。これは、コスモスの動きと言っていいだろう。
 また、遠くの山並を見つめていると、私が山と一如になったり、あるいは、通常のように分離したりするのである。つまり、私と山が即非関係にあるのである。これらが、 (i)*(-i)の事象であろう。平明に言えば、私は山であり、且つ、山ではないということである。あるいは、山頂は、上昇したり、また、下降しているのである。
 そう、ここで、整理しておくと、+1や−1の実数は、現象空間の事象である。同一性、個体・個物である。しかるに、 (i)*(-i)は、内在超越空間・虚空間・虚次元の事象である。だから、私と山との即非事象は、内在超越空間の事象であり、私=i、山=-i となるだろう。私の感じでは、私と山とが一如になるというのは、私の-iを介してである。つまり、私の内在的な-iを介して、私と山が共振しているのである。そう、私の-iとは、身体の方向であり、下方であると言えよう。だから、明日野氏の説くように、-iを地の方向、大地の方向とするのは、適切であると考えられるだろう。そう、私の身体の-iを介して、私は、コスモスと一如なのである。D. H. ロレンスのコスモスとは、まさに、身体精神的コスモスであり、身体の-iを介していると言えるだろう。ということで、明日野氏の立論が納得できたのである。
 ところで、近代的自我ないし近代合理主義であるが、以上の考えからすれば、-iを否定・排除・隠蔽して、 (i)*(i)の関係になっていると言えるだろう。思うに、 (i)*(i)⇒−1の−1が反差異・連続的同一性であり、物質であろう。カントの時空間形式である。超越論的形式とは、 (i)*(i)のことではないだろうか。それを、近代唯物科学は、無視して、−1という数量形式を物質単位としているように考えられよう。フッサールの生活世界とは、+1の世界である。差異的同一性の世界である。そして、差異共振シナジー的現象空間である。これは、芸術空間でもあろう。
 先にも触れたが、近代とは、+1と−1の二元的に分裂した時代であり、とりわけ、−1が、唯物科学・技術・資本として肥大化したと言えるのである。デカルト哲学は、明らかに、二元的であった。今日、スープラ・モダンsupramodernの時代においては、−1を否定して、+1の世界を形成する必要があるのである。差異共振シナジーの世界を形成する必要があるのである。結局、これは、自己他者である自己身体ないし自己身体精神の発見によるのではないだろうか。仏教的に言えば、瞑想・座禅の必要である。しかし、理論的には、「イデア」を認識することである。現象空間を内在超越(超越論)化した、「イデア」空間・虚空間を認めることである。もっとも「イデア」空間とは、メディア空間のことである。
 ついでに言うと、アメリカの哲学者パースの説く連続性とは、差異共振シナジーに近いのではないかと予感されるのである。

連続性の哲学 (文庫)
C.S. パース (著), 伊藤 邦武 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003368819/sr=11-1/qid=1164109230/ref=sr_11_1/250-0266631-2970646

 さて、後の大きな問題は、イデア界とメディア界との関係である。

2006年11月19日 (03:58)

I saw a new heaven and a new earth: 近代の終焉と虚次元の発見

近代的自我の問題は、もう、結論がついたと言っていい。それは、明日野氏の自己認識方程式(一人称)(i)*(-i)⇒+1において、=+1、そして、+1のみ、となる場合と考えられるのである。(先に、−1としたのは、間違いである。)
 +1、これが、近代的自我であろう。ここには、メディア空間の虚空間はないのである。ただ、光・現象空間だけである。そして、この+1という自我において、根源の(i)*(-i)である虚軸・虚空間を排除・隠蔽しているのである。思うに、ここで、定理を立てるべきであろうが、認識しないエネルゲイア(力)は、衝動・非合理力動となるということである。内在超越次元の(i)*(-i)を認識しないので、(i)*(-i)の根源的エネルゲイアが、衝動・非合理力動になるのである。つまり、暴力・狂気・錯乱、等である。【認識と力の関係を明確化する必要がある。これは、志向性という概念で、説明できるだろう。志向性は、原認識衝動であり、認識エネルゲイアである。知のエネルゲイアである。人間の根源的エネルゲイアである。内在超越次元にある志向性・認識エネルゲイアを、把捉・統覚しなければ、当然、それは、認識外・知性外・理性外にあるものとなり、衝動となるのは、理解しやすいだろう。】
 ここで、近代文化史を見ると、いわゆる、近代主義と反近代主義の相克が見られる。近代合理主義vsロマン主義・神秘主義、唯物論 vs観念論、魂と合理性、等々の変奏が見られる。これは、デカルト哲学が起源・源流である。このアンチノミー・二重性・二元性を、単なる二項対立ではなくて、即非・太極的に理解することが、超克への入口となるだろう。しかし、これは、実は、イギリスロマン主義のコウルリッジによって考えられているのである。何が、最も核心かと言えば、内在超越次元=虚軸に、根源があるという発見である。つまり、「イデア」次元の発見である。(プラトニック・シナジー理論では、零度差異共振シナジー次元=メディア次元=虚次元である。)哲学的には、フッサールの超越論的現象学が、この内在超越性を、確実に把捉していたと考えられるのである。(これを、現象空間的に内在化したのは、ハイデガーであり、ドゥルーズであると考えられる。彼らは、大反動家である。哲学的革命を破壊してしまったのである。彼らは、おそらく、金融資本主義と連動しているだろう。ハイデガーはナチスに関与し、ドゥルーズはパリの知識人であった。)西洋近代哲学史は、デカルトに始まり、フッサールで終焉したと言えるだろう。そして、超西洋ポスト・モダン哲学の時代となったのである。
 結局、近代哲学・思想・文化史は、+1(近代主義)と−1(反近代主義)との二元論の歴史と言えるだろう(アイロニカルな没入も同様の現象である)。結局、内在超越性・虚次元の(i) *(-i)を認識できなかったのである。不連続的差異論そしてプラトニック・シナジー理論は、これをついに発見して、近代史を理論的に永久に終焉させたと言えるのである。(思うに、この次元は、スピノザの神即自然の永遠の相とほぼ等しいだろう。私は、以前にスピノザ哲学とフッサール現象学の近さを指摘した。)
 とまれ、(i)*(-i)次元・内在超越次元・虚次元・「メディア」次元・「イデア」数理(「数哲」)的次元の発見によって、ニュー・ポスト・モダンのエポックになったと言えるのである(後期デリダが、哲学的に達してはいたが、数理的にではない)。
 本件の近代的自我の問題であるが、それは、正に、この超次元を無化・排除しているので、反動暴力・狂気・倒錯・「精神病」化しているのである。破壊に向っているのである。(思うに、フロイトが提起した死の本能であるが、それは、この超次元を認識できないために、否定性へ傾斜しているという事象ではないのか。−1である闇空間へのエネルゲイアが、盲目化して、そうなっているのではないのか。また、自殺衝動であるが、それも、これで、説明できるのではないのか。思うに、アルベール・カミュが、『シーシュポスの神話』で、自殺の問題を取り上げていたが、不条理の人間において、確かに、(i)*(-i)への郷愁を感じるが、それと反差異・連続的同一性現象空間の無秩序・カオスとの分裂に引き裂かれていたが、その郷愁が、自殺衝動となるのではないだろうか。死の本能を還元すれば、(i)*(-i)超次元エネルゲイア・超エネルギーとなるだろう。
 
日本人よ!、若者よ!、目に見える現象空間を超越した「イデア」界は、実在しているのである。現象から目覚めよ。現象は、(i)*(-i)である「イデア」=差異共振シナジーの連続的捩れに過ぎないのである。これこそ、新「神の国」=新仏国土=新浄土=新エルサレムである。

新たな天の岩戸が開けたのである。

新たな天地開闢である。

新たな天地創造である。

近代からエクソダスせよ。

Revelation 21 WEB
1 I saw a new heaven and a new earth: for the first heaven and the first earth have passed away, and the sea is no more.

2 I saw the holy city, New Jerusalem, coming down out of heaven from God, made ready like a bride adorned for her husband.

3 I heard a loud voice out of heaven saying, "Behold, God's dwelling is with people, and he will dwell with them, and they will be his people, and God himself will be with them as their God.

4 He will wipe away from them every tear from their eyes. Death will be no more; neither will there be mourning, nor crying, nor pain, any more. The first things have passed away."

5 He who sits on the throne said, "Behold, I am making all things new." He said, "Write, for these words of God are faithful and true."

6 He said to me, "It is done! I am the Alpha and the Omega, the Beginning and the End. I will give freely to him who is thirsty from the spring of the water of life.

7 He who overcomes, I will give him these things. I will be his God, and he will be my son.

8 But for the cowardly, unbelieving, sinners, abominable, murderers, sexually immoral, sorcerers, idolaters, and all liars, their part is in the lake that burns with fire and sulfur, which is the second death."

9 One of the seven angels who had the seven bowls, who were loaded with the seven last plagues came, and he spoke with me, saying, "Come here. I will show you the wife, the Lamb's bride."

10 He carried me away in the Spirit to a great and high mountain, and showed me the holy city, Jerusalem, coming down out of heaven from God,

11 having the glory of God. Her light was like a most precious stone, as if it was a jasper stone, clear as crystal;

12 having a great and high wall; having twelve gates, and at the gates twelve angels; and names written on them, which are the names of the twelve tribes of the children of Israel.

13 On the east were three gates; and on the north three gates; and on the south three gates; and on the west three gates.

14 The wall of the city had twelve foundations, and on them twelve names of the twelve Apostles of the Lamb.

15 He who spoke with me had for a measure, a golden reed, to measure the city, its gates, and its walls.

16 The city lies foursquare, and its length is as great as its breadth. He measured the city with the reed, Twelve thousand twelve stadia. Its length, breadth, and height are equal.

17 Its wall is one hundred forty-four cubits, by the measure of a man, that is, of an angel.

18 The construction of its wall was jasper. The city was pure gold, like pure glass.

19 The foundations of the city's wall were adorned with all kinds of precious stones. The first foundation was jasper; the second, sapphire; the third, chalcedony; the fourth, emerald;

20 the fifth, sardonyx; the sixth, sardius; the seventh, chrysolite; the eighth, beryl; the ninth, topaz; the tenth, chrysoprasus; the eleventh, jacinth; and the twelfth, amethyst.

21 The twelve gates were twelve pearls. Each one of the gates was made of one pearl. The street of the city was pure gold, like transparent glass.

22 I saw no temple in it, for the Lord God, the Almighty, and the Lamb, are its temple.

23 The city has no need for the sun, neither of the moon, to shine, for the very glory of God illuminated it, and its lamp is the Lamb.

24 The nations will walk in its light. The kings of the earth bring the glory and honor of the nations into it.

25 Its gates will in no way be shut by day (for there will be no night there),

26 and they shall bring the glory and the honor of the nations into it so that they may enter.

27 There will in no way enter into it anything profane, or one who causes an abomination or a lie, but only those who are written in the Lamb's book of life.

http://bible.cc/revelation/21-1.htm

2006年11月17日 (00:21)

反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか

反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか

メディア空間においては、(+i)*(-i)が成立している。零度差異共振シナジー様相ないし事象である。これが、現象化するのであるが、そのとき、同一性化が生起する。いったい、同一性とはどこから発生するのか。もし、(+i)を原自己、(-i)を原他者とするなら、同一性とは、一般には、原自己が原他者を否定するようなものと考えられるかもしれないし、これまで、そのように見てきた。即ち、(+i)*-(-i)としての反差異・連続的同一性である。即ち、−1を帰結するのである。
 その見方は、それで、明快であるが、私の直観では、同一性、即ち、反差異・連続的同一性は、そのような-(-i)とは異なるように思えることである。この点を調べてみよう。原自己の(+i)と原他者の(-i)が共振しているが、共振は、*である。そして、共振から両者が連結様態になるのである。あるいは、両者結合するのである。それが、等号関係である。(+i)*(-i)⇒(+i)=(-i)であろう。そして、この等号が、同一性である。しかし、この様態は、差異的同一性であろう。なぜなら、(+i)と(-i)との不連続的差異が存立しているからである。ならば、反差異・連続的同一性はどのように生起するのか。それは、等号=が、両辺の(+i)と(-i)を否定したときであろう。つまり、おそらく、等号自体が、反差異・連続的同一性となるのである。だから、等号は、(+i)も(-i)も、無化して、すべて反差異・連続的同一性に還元してしまうのである。いわば、絶対的同一性である。ここにおいて、メディア空間は、完全に否定されるのである。ただ、絶対的同一性空間があるだけである。これが、物質空間、唯物空間、近代科学空間であると考えられるのである。そう、絶対的同一性が物質ないし物質の単位である。「アトム」である。「粒子」である。
 では、この等号・絶対的同一性の発生力学は何だろうか。私が、個体とは、特異性であるというとき、それは、差異的同一性ないし差異的同一性個体のことである。例えば、眼前の一個の柿は、非柿でもあるものである。平たく言えば、それを石の換わりに、武器として使用して、敵に投げつけることもできるのである。つまり、眼前の柿は、非柿=武器である。それは、差異的同一性の一例である。とまれ、そこには、潜在したエネルゲイアがあるのである。(内在超越したエネルゲイアであろう。単に内在していると言いたい気もするが、それは、プラトニックな空間において内在しているのであり、現象空間において内在しているのではないから、やはり、内在超越していると言わなくてはならない。)
 さて、この差異的同一性=特異的個体性を否定・無化した反差異・連続的同一性=絶対的同一性であるが、この否定・無化はどこから発生するのだろうか。差異の極性(即非性)を否定・無化する「力」はどこから発生するのか。ここでも、直観から言えば、差異的同一性の同一性現象だけに注目すると、確かに、眼前の一個の柿と隣にある他の一個の柿とは、排他的関係にあるのがわかる。柿Aと柿Bは、いわば、二律背反である。この柿とあの柿とは、現象空間的には、絶対的に排他的関係にあると言えよう。例えば、この柿は腐っているのであるし、あの柿は完熟して、豊潤な味覚なのである。誰が、この柿を欲するだろう。ここで、複数の飢えた人間は、互いにあの柿を求めて、相争うことになるのである。このように考えると、反差異・連続的同一性=絶対的同一性とは、現象空間と相即であることがわかる。つまり、視覚空間、純粋視覚空間としての現象空間が問題となっていると考えられるのである。純粋視覚空間は排他的である。ここに、反差異・連続的同一性=絶対的同一性が形成されていると言える。
 そうすると、問題は、純粋視覚、現象空間とは何か、ということになる。見るとは何かということになる。私の考えるヴィジョンとは、当然、内界的な映像である。それは、(+i)*(-i) ないし(+i)⇒(-i)のヴィジョンである。しかし、同一性へと転化するときには、それは、薄れていくだろう。差異的同一性は、(+i)*(-i)⇒+1である。しかし、反差異・連続的同一性は、(+i)*(-i)=+1の+1ないし1ではないのか。あるいは、絶対値の1、|1|かもしれない。これが、純粋視覚空間の同一性ではないのか。そう、左辺が無化されているのである。単に、実数の世界である。1と2とは排他的関係、1≠2である。(微分とは、不連続的差異を無視しているのであり、絶対的同一性の虚構であろう。)
 すると、先にも述べたが、⇒+1と=+1の違いが大きいと思う。前者は、エネルゲイアがあるが、後者はエンテレイケイアのみである。この違いの原因は何か。ここで想起するのは、明日野氏が、+1は、光の方向、視線の方向であると述べていたことである。つまり、現象空間形成の方向である。そして、近代とは、この方向のエネルゲイアをもっていたと考えられよう。西欧近代における遠近法の発達とは、正に、これを証するだろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが、西欧近代の方程式であろう。正確に言えば、(+i)*(-i)=+1である。これが、西欧近代主義の方程式であろう。+1という実数の世界であり、これが、相互に排他的なのである。社会・政治空間的には、ホッブズの万人に対する万人の戦争である。
 さて、問題は、この現象空間化が+エネルゲイアに拠るならば、当然、−エネルゲイアが生起するのである、というか、同時生起である。±エネルゲイアがメディア空間に存立・共立・並存生起するからである。では、当然、−エネルゲイアの事象が生起しているはずである。つまり、−1の世界、反世界である。反現象世界である。そう、「ダーク・エネルギー」の世界である。黒い太陽の世界である。つまり、近代において、+1の現象空間だけでなく、−1の反現象空間・闇黒空間が生起しているはずである。光と闇の対発生である。しかるに、西欧近代は、光しか見ようとしないのである。デカルト哲学の合理主義は、この面があると思う。デカルトがあいまいなものを排斥して、明晰判明な観念を真理として、その他を誤謬としたが、このあいまいなものが、闇であったであろう。−1、闇の世界を、西欧近代は、排除しているのである。これは、不正義である。不正である。不公正である。一種邪悪である。初期近代ないし近世において、光と闇が同時生起したのであるが、西欧近代は、闇を無化したのである。魔女狩りとか、はその一つの発現と考えられる。そう、プロテスタンティズム自体がそのようなものでもあろう。神秘思想家のヤコブ・ベーメやエックハルトの闇が否定されたのである。近代科学は、この闇否定から生まれたと言える。
 では、何故、西欧近代は、光と同時生起した闇を否定・無化したのか。現象空間=光空間だけを肯定して、非(反)現象空間=闇空間を否定・無化したのか。今の私の直観では、それは、男性の恐怖があるのだと思う。つまり、男性は、光空間への傾斜があり、闇空間を本質的に恐怖するのではないのか。つまり、+エネルゲイアへの傾斜を男性はもっているならば、当然、−エネルゲイアへは反発するはずである。−エネルゲイアを否定し、抑圧し、排除・排斥し、隠蔽し、無化するはずである。おそらく、これである。男性の恐怖、とりわけ、アーリア民族男性の恐怖が、近代初期において生起した闇空間を否定・無化したのである。そうすると、これまで、反復してきた、近代的自我の発生の問題であるが、それは、これで解明されるだろう。何故、差異を否定するのか、と言えば、それは、男性、とりわけ、アーリア民族の男性が本来、+エネルゲイア、反差異・連続的同一性への傾斜・志向性がもっているからであるということになるのである。だからこそ、魔女狩りが起きた説明がつくだろうし、近代科学が発生したのも判明するだろう。近代科学は、他者否定的で、暴力的である。つまり、近代科学は、絶対的同一性=物質を絶対的基礎としているのであり、それ以外のものを排除・排斥するのである。
 ということで、近代的自我の成立とは、アーリア民族男性の+エネルゲイアへの傾斜・志向性に根拠があるということになったのである。そして、私が頻繁に悪魔と呼ぶものは、正に、このことに他ならない。つまり、近代初期に生起した光と闇の対空間発生に対する、アーリア民族男性の+エネルゲイアによる恐怖的反動、これが、悪魔の正体なのである。

p.s. 思えば、近代科学の創始者たちは、いわゆる、オカルトにもたいへん興味をもったのである。ニュートンの錬金術、ケプラーの占星術、これは、近代が、本来、光と闇の対発生であることの証左の一つであろう。

p.p.s.  また、この対発生を考えると、どうして、ルネサンス において、神秘思想 ・魔術・ネオ プラトニズムが興隆・流行したのかもわかるだろう。フィチーノの魔術思想 、ピコデラミランドラ の神秘思想 、ジョン・ディー の魔術思想 、シェイクスピア の魔術思想、等々。
 また、文学 のモダニズムにおいて、どうして、宗教 ・神話 や神秘思想 が導入されたのかも、理解できるだろう

2006年11月13日 (21:08)

合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:デカルトとポスト・モダン

合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:例えば、近代合理主義の近代合理性とは、何であり、どこから発したのか。あるいは、知性とは何なのか。どこから、知性が発するのか。
 近代的自我は、(i)*-(-i)⇒-1 であるが、やはり、最初のマイナスの発生が問題である。具体的に確認していこう。眼前に、カップがある。同一性(同一性体)である。しかし、眼前のカップは、実際は、差異的同一性であるが、物質的知覚は、それを、反差異・連続的同一性として捉える。ヘーゲルの個別性である。差異的同一性(=特異性)が捨象されているのである。あるいは、差異が排斥されているのである。
 近代的自我とは、この差異を消去した認識、反差異・連続的同一性認識をもつものと言えよう。もし、差異的同一性=自己であれば、自己と他者であるカップの間に、なんらかの共振性が生起するのであるから、カップは、差異的同一性として認識されるだろう。しかし、反差異・連続的同一性=近代的自我であれば、自我と他者を絶対的に二元論的に区別して、カップは、カップであり、それ以外の何ものでもないと判断するだろう。A=Aであり、A≠非Aである。そして、このカップは、他のカップと同様に、カップとして、連続的同一性である。これが、ヘーゲル的個別性=一般性の考え方であるが、これは、とりもなおさず、言語観念形式の考えた方であろう。名詞のカップは、反差異的同一性として、観念体系の中で、一般性をもっているのであるから。つまり、言語観念形式は、反差異的同一性形式をもっているということになるだろう。【ここで、ヨハネの福音書の冒頭「初めに、ロゴスありき」を、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と訳した(誤訳した)ことを想起するのである。】
 近代的自我=反差異・連続的同一性=言語観念形式という図式がほぼ形成されるだろう。そして、これを数量化して、近代合理主義が成立する。つまり、物質の誕生である。差異を排除した同一性の徹底化である。そして、この数量化された反差異・連続的同一性、即ち、物質的合理性が、近代合理性であり、その知が近代知性である。ここには、差異に対する絶対的否定性が作動しているのである。-(-i)の最初のマイナスである。
 とまれ、これで、近代合理性について解明できたといえるが、一般に合理性とは、なんらかの同一性の論理であると言えるのではないか。例えば、即非の合理性とは、差異的同一性の論理であると言えるのである。
 これで当初の問題をクリアしたが、やはり、否定の期限の問題が残っている。これまで、キリスト教的二元論に否定性の起源を見てきたのではあったが。しかしながら、キリスト教文化をもたない場所においても、否定性が出現するのであるから、この説は普遍的説得力をもたない。
 やはり、その説以前に述べた、不安・恐怖説の方が的確ではないだろうか。差異は、本来、単独性・特異性であり、孤独である。これが、近代初頭に出現したのである。ルネサンスがそうであるし、それ以後、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、パスカル等にあったものである。でも、何故、差異は不安なのか。その理由は、人間は、受動性をもっているので、差異の様相にあるときに、支えが無くなるから不安になるということと考えられる。つまり、単独性・特異性に、自己がさらされるのであり、受動的自己は、どこにも、支えを見つけられないのである。つまり、ここにおいて、外在的な支えはすべて崩壊したと言っていいのである。デカルトのコギト哲学とは、正に、単独性の自己の哲学であり、単独性に自己確認を見出したものである。しかし、この単独性から、デカルトは、明晰な観念=合理性を求めていくのである。しかし、この合理性が、反差異・連続的同一性、近代合理主義につながったと考えられるのである。というのは、デカルトは、あいまいなものを能動的に排除して行ったのである。そして、このあいまいなものに、感覚性が入ったのである。この結果、身体が排除されることになったと考えられるのである。あいまいなものを排除するという合理主義は知性としては、正統的であるが、その中に感覚性を入れたことが、近代的合理主義の誕生となったと言えるのである。心身二元論である。思惟と延長との二元論である。
 思うに、感覚ないし身体と観念・知性との関係の中に、差異があるのである。私は、精神とは心身であると考えている。単に、心だけでは、単に、身体だけでは、精神はないと考えられるのである。そう、差異の発現としての、心身であるからである。差異の発現として、心があり、身体があるのであり、どちらか一方ということではないのである。正に、心と身体とは、一如である。心身一如である。だから、感覚・身体を排除したデカルト合理主義とは、当然、否定性を帯びて、反差異的合理主義になったと言えるのである。単独性から出発していながら、デカルトは、正反対の近代合理主義に帰結したのである。デカルト哲学は、絶対的矛盾を内包していると言えるのである。(このデカルトの矛盾をほぼ解決したのが、スピノザであるが、これについては、既述である。)
 では、デカルトの感覚・身体否定は、どこから発しているのか。何を意味しているのか。思うに、ここには、感覚・身体に対する観念・知性側の切断があるだろう。この切断には、不連続性には、意味があるのである。これは、おそらく、超越性、内在超越性の意味があるのである。現象的感覚・身体性を捨象うするということは、超越性を志向していると考えられるのである。極言すれば、「イデア」性を志向しているのである。宗教的に言うと、一神教とパラレルと考えられる。神=「イデア」の次元とすれば、ほぼ等価である。
 だから、デカルト合理主義の合理性とは、超越次元にあると考えられるのである。故に、近代合理主義の合理性も超越的であるということになるのである。つまり、近代合理主義とは観念的なのである。そして、これをカントは、超越論的形式と呼んだと考えられるのである。デカルトとカントは、当然ながら、直結しているのである。さらに言えば、近代合理主義の合理性とは、構造であるということである。構造主義は、デカルト/カントから発していると言っていいだろう。
 だから、近代主義とは構造主義なのである。近代科学は構造主義なのである。問題は、脱構造主義である。ポスト・近代主義である。なぜなら、近代主義は、差異を内包しているから、当然、差異の進展が帰結するからである。つまり、脱構造主義、ポスト・モダンは必然なのである。
 では、差異の内包について考察しよう。コギト哲学は、単独性・差異哲学であるから、当然、差異が前提にあるのである。これが、近代合理主義によって、隠蔽されているのである。ちょうど、ルネサンスが、プロテスタンティズムによって隠蔽されているように。問題は感覚・身体否定にある。そして、知性の問題である。そして、観念の問題である。そして、言語の問題である。また、数学の問題である。おそらく、明晰な思考とは、言語観念形式や数学を必要とするのである。言語観念形式や数学がなければ、思考は、不分明なままである。あるいは、ヴィジョンのままである。直観のままである。おそらく、ここに人間の知性形式の問題があるのである。なんらかの観念形式によって認識するのである。観念媒体と言ってもいい。おそらく、デカルトは、明晰な観念を求めて、感覚・身体を否定したのである。これが、近代の否定性である。
 ここで図式化してみると、(i)*(-i)は、(i)⇒(-i)であり、これが、単独性・特異性である。しかし、この ⇒は、+エネルゲイアと考えられるから、反転して、−エネルゲイアと発生させるのである。つまり、反作用である。だから、(i)←(-i)であり、結局、 (i)*(i)⇒−1である。これは、意味のある反転・反動である。
 しかし、問題点は、原点を喪失することである。超越性、超越論性、内在超越性という原点・次元の喪失・忘失である。構造主義とは、この意識化であろう。つまり、構造主義とは近代主義そのものの意識化・理論化である。そして、それに対して、キルケゴール、ニーチェ、フッサールが脱構造の志向を提起したのである。これは何を意味するのか。当然、ポスト近代主義であるが、これは、どういうことなのか。近代主義のもつ超越次元喪失に対する批判である。あるいは、反差異的同一性へと帰結した近代主義運動への批判である。
 メディア空間の差異共振は、いわば、永久運動であるから、閉じられることはないのである。しかし、近代主義運動は、反差異的同一性に閉じられてしまっているのである。これは、フッサールの自然的態度と言っていいだろう。これは、反差異的同一性という物質や貨幣が、経済的現実を支配していることに起因があるように思える。つまり、生存の恐怖から、反差異的同一性の態度を反動的に保持すると考えられるのである。ということは、高貴な精神をもっている人格において、当然、一般に隠蔽された差異が活動しているのである。ニーチェが言った「貴族」的精神をもった人間が、現実にある差異を肯定するのである。デカルト哲学の未熟性・不十分性を克服すべく、スピノザ、カント、キルケゴール、ニーチェ、フッサールと西洋哲学の天才たちが、差異の哲学、ポスト近代主義の哲学を開拓していったのである。しかし、これに対する近代主義的折衷が生まれる。つまり、連続論的哲学である。ライプニッツのモナド哲学、ベルクソンの持続論、ホワイトヘッドの有機体論、ハイデガーの存在論、ドゥルーズの連続的差異論等である。そして、フランス・ポスト・モダンは、初期は、そのようなものであったが、後期デリダにおいて、正統なる差異哲学/ポスト・モダン哲学が、復帰したのである。
 ということで、近代とは、必然的に、ポスト・モダンなのである。出発点が、差異であるからである。これが、怯懦によって、近代主義となったのである。近代は、構造主義であり、且つ、脱構造主義なのである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が、このポスト・モダンの問題を解明したことになるだろう。そして、それは、内在超越次元であるメディア空間の発見である。

2006年11月12日 (23:28)

2つの資本(主義):反差異・連続的同一性資本と差異共振シナジー資本

これについては、ある意味で、既述したが、イメージ(ヴィジョン)が湧いたので、記しておこう。
 プラトニック・シナジー理論における零度差異共振シナジー・メディア空間(以下、メディア空間、シナジー・メディア空間、等と簡略する)であるが、それは、精緻に言えば、永遠普遍空間・超時空間(四次元ないし五次元)であるが、これが、いわば、「現実」界・現象界に浸透している、染み込んでいるのである。しかしながら、メディア空間は、全体は、潜在している、それも、デュナミスとして潜在して、いわば、休火山である。メディア空間の極く一部が「現実」界・現象界に顕在化しているに過ぎない。「物質」であるが、それは、メディア空間の差異共振の反差異・連続的同一性体であると考えられる。つまり、「物質」とは、簡単に言えば、差異的同一性体の差異ないし差異共振シナジー性を捨象した側面である。あるいは、差異的同一性空間が、反差異・連続的同一性空間に投影された影像が、「物質」であると言えるのではないだろう。つまり、「物質」とは、差異的同一性の、反差異・連続的同一性空間への投影像と考えられるのである。反差異・連続的同一性空間が「物質」空間であり、近代においては、これが、「現実」空間と考えられたのであり、今日でも、唯物科学によって、これが現実だと考えられているのである。
 しかしながら、「物質」とは、あくまで、差異的同一性の被捨象像に過ぎないのである。差異の連続面のみを観察・観測しているのに過ぎないのであり、つまり、差異の表層・表面を現実としているんどえあり、差異の深層・本体・実相を無視しているのである。簡単に言えば、差異のエネルギーの、連続面の反映・投影像を見ているだけである。だから、「物質」のエネルギーとは、差異のエネルギーの反映に過ぎないのである。【例えば、電力の100ワットとは、「物質」エネルギー量であるが、しかし、これは、差異エネルギーを無視しているのある。つまり、差異共振シナジー・エネルギーを無視しているのである。これは、とりあえず、(i)*(-i)で表現できるだろう。(先に、Kaisetsu氏の仮説があるが、それが参考になるだろう。)それに対して、反差異・連続的同一性体である「物質」とは、それを否定して、(i)*(-i)⇒+1の結果の+1を見ているだけである。だから、100ワットとは、(10i)*(-10i)⇒+100ワットであるが、左辺を捨象しているのである。(おそらく、(i)*(-i)は、プロト量子空間であろう。量子とは、この「物質」像である。)】
 本論に戻ると、近代資本主義とは、反差異・連続的同一性=物質に基づく資本主義である。人間も、物質に還元されるのである。そして、これに交換価値がつけられるのである。商品としての人間である。物質主義・唯物論では、差異共振性が無視されるので、人間は、「疎外」されるのである。しかし、物質主義・唯物論の誤りは、以上の説明で明々瞭々である。零度差異共振シナジー空間・メディア空間の連続的同一性空間として物質空間・唯物空間があるのである。本体のメディア空間を無視しているのである。否、正確に言えば、メディア空間の現象態である心・思惟・意識・知性・精神と、物質空間・唯物空間との二元論に陥っているのが、近代空間なのである。思惟と延長の二元論である。近代派、前者のメディア空間が内在超越空間(内超空間)であるからことが認識できないので、両者を同列にして、さらに、後者の物質空間から前者を認識しようとしているのである。脳科学とは正に、そのようなものである。だから、例えば、「気」の現象の説明が物質空間科学ではできないのである。「気」は、差異共振シナジー空間・メディア空間を考えれれば、簡単に説明が出来るのである。
 結局、近代資本主義は、物質と精神の二元論ないし心身二元論であるが、物質中心主義・唯物論資本主義になっているのである。当然、メディア空間側からの異議申し立てが出るのである。(そして、ネオコンの場合は、アイロニカルな没入で、−1の倒錯になっているのである。)
 そして、時代的には、近代主義を超克するものとして、ポスト・モダンが生まれるのである。これは、反差異・連続的同一性を超克する差異理論を意味するのである。これは、哲学的には、ポスト・ヘーゲルである。キルケゴール、シェリング、ニーチェ、フッサール、他が、真正な先駆者である。そして、ポスト・モダンの系譜は、ハイデガーで、反動化し、連続論化するのである。そして、フランス・ポスト・モダン運動であるが、これは、ドゥルーズの場合、反動的な、ベルクソン/ハイデガー的連続論を継続して、失敗したのであるが、後期デリダにおいて、ポスト・モダンが継承されたと言えるのであり、日本において、鈴木大拙、西田幾多郎によって、ポスト・モダンが進展した。その後、不連続的差異論、そして、プラトニック・シナジー理論が創造されたのである。
 さて、問題は、反差異・連続的同一性が、もたらす心・主観性への影響である。反差異・連続的同一性現象としての物質を近代は発見する。そうすると、心・主観性・意識は、本来は、メディア空間であるから、差異を内包しているのであるが、逆に差異を否定・排除・排斥・隠蔽するようになるのである。この点では、近代科学による物質の発見は大きな影響をもっただろう。反差異・連続的同一性体としての物質という観点、つまり、唯物論は、心・主観性・意識を唯物化し、心にある差異を否定したのである。【思うに、これが、−(−i)の最初の−の発生の根因ではないのか。】つまり、物質のもつ反差異・連続的同一性の論理によって、メディア空間・心のもつ差異の論理(対極性・即非性の論理、あるいは、「ターシャム・オルガヌム」)が排除されたのである。二項対立の論理が、おそらく、物質の論理から形成されて、メディア空間の論理・差異の論理が否定されたのである。もっとも、アリストテレスの論理学は、古代からあるから、それに付加して、物質の発見があって、唯物論が生起して、二項対立論理が徹底したと言えよう。
 そして、これは、フッサール現象学の問題である。フッサールは、近代唯物科学、近代主義の反差異・連続的同一性科学を批判して、心・主観性・意識、即ち、メディア空間の科学を取り出したのである。これは、差異科学、メディア空間科学と呼べるであろう。
 ということで、19世紀後半から20世紀前半にかけて、近代主義批判と超克理論が創造されたのである。一方、近代科学と近代資本主義が前進して、産業が発達するようになるのである。しかし、近代科学は、相対性理論や量子力学で、反差異・連続的同一性の前提が破綻したと言えるだろう。これが、現代科学である。
 しかしながら、世界大戦等を繰り返すなど、世界は、暴力・狂気的様相を増したのである。近代主義と脱近代主義の争闘は続いているのであり、20世紀後半において、フランス・ポスト・モダン運動が勃興する。しかし、資本主義は、冷戦後、グローバリゼーションを迎える。アメリカのネオコンは、しかしながら、近代主義というよりは、反動である。資本主義は、いわゆる、情報資本主義へと転換していく。情報とは、実は、メディア空間の知的事象であり、情報化は、多元的知性を解放したのであり、知性の脱領域化が生じて、知は多元的様相となる。
 情報化と差異理論とが融合して現代的ポスト・モダン理論となるのであるが、これは、メディア空間の解放を意味すると言えるだろう。差異情報空間と言ってもいいだろう。そして、この現代ポスト・モダン状況において、資本主義が、ポスト・モダン的資本主義の究極態である差異共振シナジー的資本主義に変容する可能性をもっているのである。これは、内在超越するメディア空間を活用した資本主義であり、メディア空間・差異共振シナジー資本主義と呼べるであろう。資本は、差異共振シナジー資本、メディア空間資本、《メディア》資本となるのである。
 そして、この《メディア》資本を環流させる社会の血液として《メディア》貨幣が必要となるのである。それが、差異貨幣であり、反差異・連続的同一性資本の貨幣とは異なるものでなくてはならないのである。それは、Kaisetsu氏が提唱されているように、銀本位制によって実現される可能性があるのである。メディア空間的社会のメディア貨幣としての銀本位制の貨幣である。
 とまれ、以上のように、ポスト・モダン資本主義としての、差異共振シナジー資本主義、メディア空間資本主義が提起されるのである。

2006年11月11日 (22:07)

ネオコン/共和党の支配の終焉:ニュー・ポスト・モダンとプラトニック・シナジー理論

以下の論評で、ポール・クルーグマンは次のように述べている。
"But I do hope and believe that this election marks the beginning of the end for the conservative movement that has taken over the Republican Party."
「保守的運動」とは、当然、新保守主義、ネオコンのことである。つまり、保守主義のアイロニカルな没入であったネオコンの終焉がここでは説かれているのである。自己認識方程式から言うと、ネオコンは、(-i)*(-i)⇒−1である。つまり、(-i)がキリスト教であり、ダブルになって、原理主義になっているのである。−1は、「闇」である。
 また、次のように述べている。
"The election wasn’t just the end of the road for Mr. Bush’s reign of error. It was also the end of the 12-year Republican dominance of Congress."
即ち、12年間の共和党の支配の終焉でもあると述べている。つまり、1994年からの共和党支配の終焉。これは、ほぼ、グローバリゼーションの時期と重なっているだろう。
 すると、ネオコン/共和党の支配の終焉とは、何を意味するのか。おそらく、田中宇氏の慧眼が早くから認識していた世界多極化路線が、全面に顕現することが考えられるのである。これは、哲学的には、後期デリダを包摂した「ニュー・ポスト・モダン」の世界の出現であろう。従来のポスト・モダンの連続的同一性を批判し、ポスト・モダンの核である不連続性や特異性を進展させた理論であるプラトニック・シナジー理論が、真に活眼的に有効となる世界の顕現であろう。
 今思うに、ネオコンと旧いポスト・モダンは関係があるのではないだろうか。つまり、ネオコンと新自由主義が結託した政治・経済観念は、ネオコン/新自由主義は、(-i)*(-i)⇒−1であり、旧ポスト・モダンは(i)*(i)⇒−1なのである。両者、アイロニカルな没入に陥ったと考えられるのである。
 とまれ、今回の米中間選挙結果は、この状況の終焉を考えさせるのである。つまり、アイロニカルな没入の時代が終焉したということである。つまり、新ポスト・モダンの時代に突入したと考えられるのである。つまり、真正ポスト・モダン/真正ポスト・構造主義である。これは、正に、プラトニック・シナジー理論(後期デリダ哲学も包摂した)の時代であろう。
 つまり、これは、アメリカ国民の連続性の縛りが消滅したことを意味するだろう。つまり、連続的同一性、反差異的同一性=近代的自我が消滅したことを意味するだろう。メディア空間が、現象空間とは別に、出現(内現)したのではないだろうか。個と国家とは不連続であるという、アメリカ本来の視点が復活したのではないだろうか。アメリカ文化・文明の特徴は、キリスト教のもつメディア空間性であろう。そして、ネオコンの場合は、キリスト教が原理主義化して、国家と一体化していたのである。原理主義とは、連続的同一性・反差異的同一性・近代的自我である。
 おそらく、アメリカは第二のルネサンスを迎えるかもしれない。19世紀に、文学的に「アメリカ・ルネサンス」があったが、今回は、南部と北部の因縁の対立を超えて、国民ルネサンスになる可能性があるだろう。アメリカ民主主義の復興があるように思えるのである。そう、差異共立共振シナジーのメディア空間のアメリカである。
 いったい、何がこの変革の根因なのだろうか。当然、様々な要因がある。とにかく、国民の《空気》が変化したのだ。《空気》とは何か。これは、正に、精神のオーラである。精神のエネルゲイアであろう。つまり、《力》のことである。メディア空間のエネルゲイア・《力》である。
 これは、世界全体に影響しないはずがないだろう。「泰平の眠り」に現を抜かす、食蓮人(lotus-eaterロトパゴス)の日本人は、愡け茄子状態で、どうするのだろう。
 後でさらに考えたい。

参考:
「今後、ブッシュ政権は、保守本流の道を歩み、合理的で現実主義な政策を打ち出す。

日本の多くの新聞、マスコミ、似非評論家の言うように、レイムダックなどしない。ブッシュ政権は、ようやく冷静さを取り戻し、ライス氏を中心とした、合理的で現実主義な政策実行に舵を取り、安定感のある政権になる。
・・・」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=477080
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 『New Platonic Synergy Theory』   
Conservativeの源流へ!

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The Great Revulsion

By PAUL KRUGMAN
Published: November 10, 2006


I’m not feeling giddy as much as greatly relieved. O.K., maybe a little giddy. Give ’em hell, Harry and Nancy!
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Paul Krugman.

Here’s what I wrote more than three years ago, in the introduction to my column collection “The Great Unraveling”: “I have a vision ― maybe just a hope ― of a great revulsion: a moment in which the American people look at what is happening, realize how their good will and patriotism have been abused, and put a stop to this drive to destroy much of what is best in our country.”

http://select.nytimes.com/2006/11/10/opinion/10krugman.html?em&ex=1163307600&en=7b7e899c66684330&ei=5087%0A

2006年11月11日 (00:47)

自我と近代的自我:他者否定の構造について

先に、反差異的同一性=自我という定義を提出したが、近代的自我を考えると、それは、当然、自我の近代的形態である。では、近代的形態とは何かと言えば、それは、反差異的同一性に、合理性を与えた形態だと言えるだろう。例えば、中世的自我と近代的自我の区別があるが、前者においては、反差異的同一性とは、悪徳さらには悪魔であったろうが、後者では、言わば、善、真理である。中世においては、差異は神と結びついていたのであり、差異=神と反差異的同一性=自我=悪徳・悪魔であると考えられる。つまり、中世においては、メディア界=差異=神が存在しているのであるが、反差異的同一性であることは、神への反逆という意味があったのである。つまり、中世においては、差異が神という観念で存在していたのであり、反差異的同一性=自我であることは、容易なことではなかったのである。即ち、(i)*(-i)という差異の様相が、存していたのであり、近代的自我のように、(i)*-(- i)であるということではなかったと考えられるのである。これで、近代的自我が(i)*-(-i)であると定義していいことが根拠付けられたと言えよう。
 さて、ここから、明確に、近代的自我の他者否定の原因、即ち、(i)*-(-i)の最初の-について、考察することができるのである。あらためて問おう。何故、近代的自我は、他者である(-i)を否定するのか、と。これは、思うに、中世的自我と比較することで、了解されるのかもしれない。つまり、近代的自我においては、(i)*(-i)の(i)が強化されたと考えられるのである。おそらく、中世においては、(-i)が強いのである。そう、神が、(- i)と言っていいだろう。自己が(i)である。つまり、中世においては、自己(原自己)(i)→他者・神(-i)なのである。しかし、近代においては、→ が反転しているのである。→の反転が、マイナスを意味しているだろう。即ち、近代的自我の原因である。
 ならば、この反転の発生原因は何なのか。ここで、いくつか原因を考えることができるが、今、ここでは、次のように考えよう。即ち、→である志向性に+志向性と−志向性の極性があり、−志向性が反転であり、−(−i)を発生させるのである、と。だから、+志向性とは、(i)→(-i)、即ち、(i)*(- i)を意味するのであり、−志向性とは、(i)←(-i)、即ち、(i)*-(-i)を意味するのである、ということになる。ここで、+志向性を+エネルゲイアとすれば、−志向性は−エネルゲイアと考えることができるのではないのか。とりあえず、これを作業仮説として議論を進めよう。
 そうすると、+エネルゲイアのときは、(i)*(-i)⇒+1となり、−エネルゲイアのときは、(i)*-(-i)⇒−1となるのである。ならば、近代的自我の他者否定とは、−エネルゲイアが原因である、ということになるのである。ここで、問題は微妙な事柄となるのである。+エネルゲイアと−エネルゲイアの発生の力学は何か、ということになるのである。+エネルゲイアは、他者を肯定するのであるから、即非エネルギーと呼べるだろう。それに対して、−エネルゲイアは、他者を否定するのであるから、自己(原自己)同一性エネルギーと呼べるのではないだろうか。換言すると、再帰エネルギー、ないし即自エネルギーである。即非エネルギーは他者へのエネルギーであるから、対自エネルギーと呼ぶこともできよう。(注:ここでは、明日野氏の用語には沿っていない。後で、整合性を考えたい。)
 さらに思考を進めると、+エネルゲイア=即非エネルギーとは、闇のエネルギーであり、−エネルゲイア=即自エネルギーとは、光のエネルギーではないのか。このように考えると、近代において、遠近法が発達した理由が説明できるだろうし、また、外界への自己投影である客観主義、近代科学、そして、唯物論が発達した理由がわかるのではないだろうか。闇のエネルギーの喪失としての近代主義を考えることができるであろう。(参考:ダーク・エネルギーは、これで説明できないのか。また、D. H.ロレンスの黒い太陽dark sunもこれで説明できるのではないか。また、『老子』の玄牝(げんひん)であるが、これとの関係があるのではないのか。また、神秘主義一般であるが、それは、これで説明がつかないのか。ヤコブ・ベーメ等の闇ないし無はこれで説明がつくのではないのか、等々。)
 では、この+と−の交替の力学は何であるのか。これは、メディア空間、即ち、超越空間(内超・降超空間)では、永遠であり、非時間的事象であると考えられよう。+と−は同時生起である。しかし、+エネルゲイアは、1/4回転ではないのか。零度差異共振シナジーの発生ではないのか。そして、これは、垂直の捩れを発生させるのであり、これが、時間現象、時空四次元現象となるのではないのか。そして、それに遅延して、−エネルゲイアが作用するのではないのか。それは、現象の消滅ではないのか。生成と消滅、生と死、エロスとタナトス、平和と戦争、創造と破壊、コスモスとカオス、世界と反世界、等々ではないのか。
 もし、この作業仮説が正しいのならば、近代的自我とは、−エネルゲイアともつので、破壊の様相である。ならば、これが、極まると、ゼロ・エネルゲイアとなり、新たな創造が開始することとなるだろう。新たな+エネルゲイアが発生するのである。螺旋的回帰である、何故なら、1/4回転によって垂直に捩れているからである。新しい差異共振シナジーの生成である。新しい神の誕生である。西洋も東洋も超克されて、新コスモスとなる。新コスモス文明の誕生である。

2006年11月09日 (16:31)

後期デリダ哲学とプラトニック・シナジー理論:2つのフランス・ポストモダン:ドゥルーズとデリダ

私はデリダに関しては、初期のものをいくらか読んで、後期のものは、読んでいないが、高橋哲哉氏の解説書『現代思想の冒険者たち 第28巻 デリダ 脱構築』(講談社)http://www.amazon.co.jp/gp/product/406265928X/sr=8-8/qid=1163044753/ref=sr_1_8/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books
を拾い読みして、後期デリダ(ないし晩年デリダ)哲学が、プラトニック・シナジー理論と共通する思想になっているのを発見した。推察するに、後期デリダは、ドゥルーズ哲学のキータームの特異性singularityの真正な観念を、自己の脱構築理論に組み入れて、フランス・ポスト・モダン思想に、不連続性の観念(キルケゴール/ニーチェ/フッサール)を明確に定置したと考えられるのである。ドゥルーズの場合、特異性が、ほぼ名ばかりで、差異=微分に吸収同化されたのに対して、デリダは、真正な特異性(単独性)の概念をキルケゴール哲学から回復していて、ポスト・ドゥルーズ的ポスト・モダンを成し遂げたようである。とまれ、以下、高橋氏の著書から抜粋する。
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《引用開始》
デリダはまず、キルケゴールとともに、アブラハムの「秘密」に注目する。アブラハムは神の命令に応じるという自分の決定を、妻サラにも明かさない。・・・

  アブラハムは、決定の瞬間にはつねにたった一人で、自分自身の単独性(=特異性[singularité])に引きこもっていなければならないという責任を引き受ける。私の代わりに死ぬことが誰にもできないように、私の代わりに決定をすること、決定と呼ばれているものをすることはだれにもできない。ところが、話すやいなや、人は単独性を失う。・・・(『死を与える』) pp.229-230

      ・・・・・

すべての他者はまったき他者だ
 キルケゴールの『おそれとおののき』の議論は、倫理的なものの犠牲による宗教的なものへの超越、キリスト者としての信仰への飛躍を証しするものである。デリダは、この倫理的なものの犠牲というモチーフを深く受けとめながらも、しかし「絶対的責任」を、キリスト教のような特定の宗教ー・・・ーの文脈に収めることをしない。彼にとってイサク奉献の物語は、アブラハムをなんらかの形で信仰の始祖の一人とする「アブラハム的宗教」(三大一神教)の引力圏を超えて、「責任についての最も日常的で最も一般的な経験」にかかわっている。そしてこの解釈の梃子(てこ)になるのが、Tout autre est tout autre. というフランス語の表現だ。・・・、ここでは、「すべての他者はまったき他者だ」という定式として問題になる。
 デリダによれば、アブラハムの「神」とは、「他者であり唯一者であるかぎりでの絶対他者の名」である。しかし、他者であり唯一者であるような絶対他者は、アブラハムの神だけではない。アブラハムにとってはイサクやサラやエレアザールのような他者も、それぞれに「他者」にして「唯一者」であり、他の他者とは交換不可能な特異な他者、他から切り(ab-)離された(-solu)絶対的(absolu)な他者である。すべての他者は他者として、私に対して根源的には現前せず、未知にして到達不可能、秘密にして超越的、無限に他者でありつづける他者なのだ。わたしの家族や隣人でさえ「ヤハヴェと同じく」まったき他者だ、とデリダはいう。「すべての他者はまったき他者だ」。     pp. 234-235

《引用終了》
注:イタリックはデリダの引用文である。_______________________________


以上の高橋氏によるデリダの他者論は、私が先にキルケゴールの主体性=特異性について述べたことと共通である。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10019160104.html
即ち、キルケゴールの『おそれとおののき』の主体性=特異性=他者論を、私は、プラトニック・シナジー理論のメディア空間の自己⇒他者の超越的倫理として把捉したのである。この超越的倫理は、当然、超越神との関係だけでなく、他者一般との関係に一般化されるのである。そこで、私はポスト一神教としての新多神教と説いたのである。これは、超越的新多神教と言うべきで、一神教と多神教との統一である。これは、一神教でもないし、これまでの多神教でもない。一神教の超越性と多神教の多元性を結合したものである。
 とまれ、デリダのアブラハム/キルケゴール的他者論は、正に、超越的新多神教と合致すると言えよう。デリダは、後期・晩年において、それまでのポスト・モダンを乗り越えて、プラトニック・シナジー理論と共通の倫理の高みに達していたと言えよう。後期デリダ哲学は、プラトニック・シナジー理論の先駆の一つにあげることができるように思える。キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ウスペンスキー、フッサール、鈴木大拙、西田幾多郎、後期デリダ、というプラトニック・シナジー理論の哲学的先駆者をあげることができる。

2006年11月07日 (06:35)

なぜ、「自己」は、差異を否定した自我であろうとするのか。

自己→他者というのが自己の差異の様相である。換言すると、志向性である。しかるに、自己は、他者を否定して、自己同一性即ち、自我 であろうとするのである。本来、自己即非 他者であるにもかかわらず。つまり、自己と他者との差異共振 シナジー様相であるにもかかわらず、これを否定して、反差異的同一性である自我 であろうとするのである。これで、独立した個人と考えるのである(倒錯)。

 ここには、自己内界の他者の否定があるので、自我 は、いわば、自己否定 の様態にあるのである。ヘーゲル 的に言えば、自己疎外の様態にあるのが自我 、とりわけ、近代的自我 である。自我 とは、倒錯であり、自己独立を錯覚 しているのである。一人称 自己認識 方程式を使用すれば、(i)*(-i)⇒+1に対して、(i)*-(-i)⇒−1が自我 倒錯の数式である。自己同一性とは、この場合、(i)のことではないだろうか。-iである他者を否定して、自己同一を形成し、自我 、自我 倒錯となるのである。以上は、これまで確認されてきたことである。では、本稿のテーマ である差異否定の原因・理由・起源 について、あらためて、考察 しよう。

 (i)*(-i)であるが、これは、メディア 空間である。内在超越的なメディア 空間(差異・共振 ・シナジー空間)である。これは、現象的には、身心空間である。あるいは、精神 空間である。精神 内には、「魂」ないし「心魂」があるのである。これは、感受性、共感性 と呼ぶことができるだろう。いわゆる、心とは、ほぼこれを指すと言ってもいいだろう。あるいは、ロマン主義 の説く想像 力の源泉と考えることもできる。【思うに、耽美 主義は、特に、フランス耽美 主義は、一種アイロニカルな没入によって、自我 主義、反差異的同一性に陥っているのである。世俗のブルジョワ 的俗物 性を憎み美的 世界に耽溺するのであるが、しかし、それは、同時に他者を喪失 するので、(i)*-(-i)⇒−1になっているのである。正に、デカダン の倒錯の世界に陥っていると考えられるのである。ユイスマンス の『さかしま』は、タイトル から象徴的である。】即ち、(i)*(-i)とは、感受性、精神 的感受性を意味 すると考えられるのである。これは、実に霊妙であり、また精妙なものであり、いわば、宗教 、芸術 、詩、等の根源というべき源泉である。当然、これは、繊細であり、傷つき易いものである。受苦性、ヴァルナラビリティである。しかし、忘れられているが、力の源泉である。活力・活動・「エネルギー 」の源泉であると考えられるのである。特異性、単独性、不連続的差異 性である。自己特異性と呼べるものである。

 つまり、(i)*(-i)とは、ニーチェ がディオニュソス 的なものと呼んだものの源泉であると考えられるのである。端的に言えば、ディオニュソス である。(ニーチェ の『悲劇の誕生 』をなぞれば、ディオニュソス 的な古代ギリシア 人は、(i)*(-i)の精神 をもっていたと言える。)受苦と力の源泉としての(i)*(-i)である。

 しかるに、人間 は一般に受苦を恐れるから、これをガードして、いわば、蓋をするのである。隠すのである。隠すとは、無いこととすることであり、否定である。即ち、他者を否定することであるから、(i)*-(-i)⇒−1である。(i)*-(-i)= (i)*(i)という自己同一性ないし自己二重性が形成されるのである。これは、他者の位置に自己を置いているのであるから、二重人格 となっているだろう。ジキルとハイドである。つまり、最初の(i)がジキル博士 (善人の仮面 であろう)で、後者 の(i)がハイド氏(悪人)である。なぜなら、-iという倒立像を隠蔽しているからである。倒立像を隠蔽して、自己像を投影 しているのである。

 この自己同一性=自我 の徹底化が、近代的自我 であり、ここから、近代的合理主義や唯物論 が発生するのではないだろうか。そう、これが、近代主義の原型である。結局、差異否定、自己同一性の志向性の原因とは、受苦への反感・反発・反動 にあったのである。そして、他者を否定する反動 ・暴力 ・倒錯・欺瞞的な自我 になったのである。反差異同一性=自我 =近代的画一性=全体主義 が支配するのである。他者を否定すること、これは、非合理主義、非「科学 」主義である。つまり、不思議 なことに、近代科学 は非合理主義、非「科学 」主義なのである。反差異同一性量=「物質」を対象としているからである。あるいは、反差異(連続 )同一性量=「物質」的科学 と言えるだろう。このように見ると、ニーチェ が近代科学 を忌み嫌った理由がわかるだろう。つまり、受苦=力=ディオニュソス を回避した科学 であるからである。有り体に言えば、弱者 (「賤民」)の科学 なのである。また、フッサール が『ヨーロッパ 諸学(諸科学 )と超越論的現象学 』で、近代科学 を批判したのも理解できるのである。他者を否定した科学 がここにあるのである。「卑怯者」の科学 である。また、カント の『純粋理性批判 』が、理性のアンチノミー を説くのもわかるのである。理性は、正に、差異ないし(i)*(-i)の理性であり、即非 理性なのであるからである。そして、後に、ウスペンスキー がカント 哲学 を発展させる形で書いた、アカデミズム からは黙殺されている『ターシャム・オルガヌム 』も理解できるのである。

 さて、このように見ると、「物質」とは何か、という問題への解答が出るだろう。以上は、人間 の志向性を考えたものだが、それを他の現象にも適用できると仮定すれば、「物質」とは、反差異的同一性とその数量化である。現象の差異を否定した現象同一性の数量化されたものである。あるいは、現象の質を否定された数量的同一性である。つまり、「物質」とは、現象の反差異的同一性数量面に過ぎないのである。現象の差異的同一性=質性を捨象した抽象である。そう、受苦=力=差異を否定した連続 的同一性、これが悪魔 なのである。そう、劣弱さである。劣弱さが、悪魔 なのである。怯惰である。

 視点を換えれば、無知 である。無明である。智慧・叡智の喪失 である。智慧なき状態である。もし、差異共振 シナジーの智慧やその社会 があれば、精神 の弱者 も、それなりに悟ることができるだろう。思うに、大乗仏教 の衆生 の救済とは、そのような意味 があったのだろう。また、イエス の活動も本来それであたのだろう。神の国 とは、差異共振 シナジー空間のことと考えられるからである。また、スピノザ 哲学 の意味 もこれである。他者を能動的把捉すること、これで、(i)*(-i)⇒+1が形成されるのである。

2006年11月06日 (00:02)

−(-i)の最初の−はどこから発したのか:同一性自己=自我の発生構造について

詳しくは後で論じたいが、この−(マイナス)の原因が分かれば、人間の問題は、ほぼ解決したと言えるだろう。この−のために、人は苦しんでいるのである。そう、この−は、《悪魔》と呼んでいいのであるが、どこから、この《悪魔》が人類の精神にやってきたのかである。

 先の考察は、「メディア界」からの能動的な1/4回転で、⇒−1(近代的自我)が生起すると考え、そして、反転による差異の活性化によって、近代的自我(同一性自己)と差異(的自己)とが分裂すると考えたのである。この考え方の問題点は、能動的な1/4回転を理論化できないことである。

 だから、ここで、再び、直観考察(直観推理)しよう。問題は、⇒+1である。即ち、(+i)*(-i)⇒+1の⇒ +1である。ここでは、自己と他者とが共立することで、差異としての自己となっている。これは、また、特異性の自己と言ってもいいだろう。ルネサンスの個とは、この数式があてはまるのである。デカルトだけでなく、スピノザ哲学もこれで説明できるだろう。というのは、(-i)に能動的観念を含むことができるからである。

 問題は、同一性の現象化である。主観の同一性化である。ここで精緻・厳密になるために、用語を確定しないといけない。「メディア界」の極性は、不連続的差異の極(イデア極)と同一性の極(現象極)がある。そして、同一性への展開として、現象化が出現するのであるが、これを同一性現象化と呼ぶと、ルネサンス的個という同一性現象化は、(+i)*(-i)⇒+1の+1で記述されると考えられる。⇒+1とは、だから、差異的同一性ないし特異性的同一性を意味しているのである。

 しかるに、近代的自我のもつ同一性は、当然、これではなくて、先に述べたように、(+i)*-(-i)⇒−1と考えられるのである。つまり、内的差異である(-i)を否定した、無差異的同一性である。ここで明快しておけば、数値の1が同一性である。そして、+1が、差異的同一性ないし自己である。次に、 −1が、反差異的同一性ないし自我である。これで、用語は整理された。

 では、本テーマを考えよう。どうして、−(-i)の最初の−が発生したのか。この問題は、以前からのアポリア(難問)になっているのである。これまでは、結局、優秀な差異と低劣な差異の二種類の差異があるということで説明してきたのである。優秀な差異とは、(+i) *+(-i)を維持する自己である。低劣な差異とは、それを維持できず、+を−に替えてしまうということになるのである。

 この+(-i)の+とは何だろうか。スピノザ的に言えば、当然、能動的観念に関係する能動性であろう。思うに、−(-i)となるような状況に対して、優秀な差異(優秀な自己と言った方がいいだろう)は、+(-i)を保持する能動性をもつのである。つまり、差異共振シナジー性を保持しようとするのである。

 「− (-i)となるような状況」とは何だろうか。これは、内的他者の否定である。内的他者を否定する状況とは何だろうか。これは、端的に言えば、殺すことではないだろうか。生きるため、生き物を殺さなくてはならないのである。ここで、内的他者を否定する必要があるのである。あるいは、隣人や、外部の者の所有物を盗む、奪う必要がある状況である。例えば、飢渇の状況にあるとき、「わたし」は、生物を殺したり、隣人や外部の人間の食物を奪ったりするだろう。「−(-i)となるような状況」であろう。言わば、極限状況における生存のための暴力行使である。人食い(カニバリズム)も、当然、ここから発生するだろう。無情・残忍・冷酷・無惨、等々の生存意志である。(参照