2007年02月28日 (12:33)

空想的試論:PS理論と量子論

先の試論において、うまく当てはまらないのは、PS理論と量子論とを一致させようとしているからである。それは、無理があるだろう。

 あくまでPS理論の発想に即して、量子論的展開をすべきなのだと思う。観測問題に関しては、PS理論は言うべきことをもっている。だから、この辺りから、さらに展開するといいように思う。
 
 すなわち、差異即非様相としてのイデアがある。これを単純化して、i*(-i)としよう。思うに、iを元粒子とすれば、-iが元反粒子となるだろう。そして、*が共振元波動を意味しうるだろう。メディア・ポイント(以下、MP)を介して、同一性化する。現象化である。

 注意すべきは、MPにおいて、元粒子と元波動とが即非一如であることである。先に、排他的二重性ではなく、即非的二重性と考えた。

 この即非二重様相を、イデアはもち、現象化において、同一性となる。量子(例えば、光子)は、即非粒子/波動様相であり、それが、現象化において、粒子、又は、波動として観測されると先に考えたのである。(参考:「だから、原波動・即非・原粒子というイデアと、波動と粒子という物質の両面を帯びていると考えられるのである。そして、観測によって、素粒子は、物質化されて、波動か粒子のどちらかに分化すると考えられるだろう。http://ameblo.jp/renshi/theme-10000232278.html 」)

 さて、粒子と反粒子であるが、ここでは、iを元粒子、-iを元反粒子と言ったのが、問題は、i*(-i)の差異即非をどう見るのかである。先には、iないし-iが元粒子性、*が元波動性と見たのである。

 ならば、iと-iはどうなるのか。元粒子と元反粒子でいいのだろうか。少なくとも、ここには、即非的関係のイデア性をみないといけない。イデア自体が、即非様相であることを確認しないといけない。もし、イデアを元個と考えると、この元個は、元自己と元他者との即非性の構造をもっているのである。

 粒子のことで言えば、元粒子と元反粒子の即非様相としてイデアがあると考えられるように思うのである。

 すると、イデアの現象化として、粒子と反粒子が対生成すると考えられよう。作業仮説として、+1を粒子、-1を反粒子としよう。

 しかしながら、MPにおいて、i*(-i)ないしi^2ないし(-i)^2が潜在していると考えよう。

 ここで、思考実験ないし空想であるが、i*(-i)のイデアを元原子核と考えよう。そして、現象化において、それが、収束して、原子核ないし原子になるとしよう。このとき、例えば、mic・(-ic)⇒mc^2=Eとなるとしよう。エネルギーが発生するのである。(思うに、これが、原太陽ではないだろうか。)

 とまれ、i*(-i)を元原子核ないし元原子としよう。ここには、元波動があるし、また、元エネルギーもある。

 今、私が考えているのは、電子のことである。原子核を周回する電子のことである。ここでは、強引ではあるが、+1と-1を電荷と考えようか。つまり、イデア=元原子核の現象化によって、+1と-1に分化すると考えるのである。分極化である。これを、電荷として見ていいのではないだろうか。原子核ないし原子とは、この分極化と連続的な事象である。思うに、MPにおける、差異即非のイデアの連続態を原子核ないし原子と見たい。そして、±の分極化を電子と見るのである。

 そうならば、原子とは、MPにおける、差異即非イデアの連続化と言えるのではないだろうか。

 さらに、分子とは何かと言えば、それは、この原子のさらなる連続化で説明がつくのではないだろうか。

 強い力と弱い力とは、思うに、イデアの差異即非エネルギーの極性力に関係するのではないだろうか。そして、重力や電磁力であるが、それらは、連続性の極性力ではないのか。

 つまり、言い換えると、強い力と弱い力は、イデア的エネルギー極性を連続性からみているのである、重力と電磁力とは、現象化したエネルギーの極性ではないのだろうか。そして、この現象エネルギーの背後には、イデア・エネルギーがあるのである。

 ここで、飛躍するが、意識、認識の問題に触れたい。

 物質も本来は、イデアなのであるから、元意識や元認識があるはずである。元知・即非・元身体であるからである。以上の見方で言えば、原子には、原意識があると思うのである。なぜなら、それは、イデアを内在し、また、連続性ないし同一性をもつのだから。

 すなわち、強い力と弱い力が、潜在意識であり、重力と電磁力が、顕在意識ではないだろうか。(オカルト理論的になってきたが、空想的試論を今少し続けよう。)

 ならば、物質の意識と人間の意識の違いは何か。思うに、差異共振性の有無ではないだろうか。思うに、物質の意識とは完全な連続的同一性ではないだろうか。-1である。それに対して、人間は、根元的に+1を強くもっているのである。

 しかし、近代意識は、物質の意識と同じだと思う。他者を否定するのであるから。正に、Materialismではないか。

 機械の意識と言ってもいい。連続的同一性の意識である。それは、悪魔の意識でもある。そして、現代日本人は、これに感染しているのである。

 ここで、留めたい。後で、再検討したい。

2007年02月27日 (23:34)

物質とイデア:物質をイデアから記述する:メディア・ポイントにおける虚数軸事相と実数軸事相の複相性

文系にもわかる量子論 (新書) 森田 正人 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E7%B3%BB%E3%81%AB%E3%82%82%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E9%87%8F%E5%AD%90%E8%AB%96-%E6%A3%AE%E7%94%B0-%E6%AD%A3%E4%BA%BA/dp/4061496190/sr=8-1/qid=1172574051/ref=sr_1_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=books
を2/3ほど読んだが、簡潔に説明されている入門書であるが、教科書風で、淡々として、やや無機的な記述であり、喚起されるものが、残念ながら乏しい。素人の感想は、量子論は、複雑になり過ぎている、ということである。素粒子論になると、なにか、複雑怪奇の印象である。もっと、理論的に簡潔な視点はないのだろうか、などと思ってしまう。【個人的には、観測問題を扱った『量子力学入門』(並木美喜雄著)が、スリリングで、また、明快で、入門書としては、優れていると思う。】

 とまれ、ここでは、本件について、簡単にスケッチしてみたい。というか、きままなエッセイである。

 これまでの考え方では、イデアがi*(-i)ないしic*(-ic)等として、差異即非様相にあるというものである。そして、これが、メディア・ポイントを介して、⇒+1ないし⇒±1に転化するのが、現象化であると考えてきた。

 そして、物質とは、この現象化における-1ではないかと考えてきた。なぜなら、+1は、精神であると考えられるのである。

 ここまでが、これまでの私見(作業仮説)である。

 問題は、エネルギーである。イデア・エネルギーは、虚数エネルギーであると考えている。すなわち、m(ic)*(-ic)である。今、思いついたのであるが、(im^1/2)(ic)*(-im^1/2)(-ic)⇒+1mc^2としたらどうだろうか。より簡潔にすれば、(icm^1/2)*(- icm^1/2)⇒+1mc^2である。左辺の前項が元光の陽で、後項が元光の陰ではないのか。そして、右辺が、光のエネルギーである。

 元光の陽を元陽として、元光の陰を元陰としよう。すると、元光=元陽*元陰⇒光となる。元陽の元質量がim^1/2で、元陰の元質量が-im^1/2なのだろうか。

 思うに、元陽と元陰との即非・太極的元波動が、⇒hνとなるのではないだろうか。すると、元陽と元陰は、元粒子、元素粒子ではないだろうか。(そう、虚陽と虚陰で虚光を形成しているとも言えよう。)

 量子論、素粒子論は、どうも、この基本的原理を捉えていないのではないだろうか。

 とまれ、元陽*元陰⇒+1・光としよう。では、物質は、-1・光となるだろう。すなわち、(icm^1/2)*-(-icm^1/2)⇒-1・mc^2 又は、-(icm^1/2)*(-icm^1/2)⇒-1・mc^2 である。

 +1・光と-1・光とは、何だろうか。共振的光と連一的光ではないか。知覚的に見てみよう。肉眼で朝の陽光を知覚するとしよう。これは、朝の爽やかさをともない、晴れ晴れしい光である。これは、主観では、共振的光である。

 では、連一的光とは何か、知覚的に。-1・光とは何か。思うに、光は、光である。だから、-1の意味がここでは、真相的には問題なのだろう。それは、即ち、物質として、光を見るということだと思うのである。光は、本来、イデア的には、超越的共振シナジー様相である。それが共振的現象となるのが、+1・光であろう。この共振的現象としての光を物質と見るのが、-1・光ではないのか。

 エネルギーをmc^2と見るのは、物質としての光のエネルギーのように思えるのである。共振的光現象とは、超越的身体であり、(icm^1/2)*(-icm^1/2)⇒+1mc^2 の左辺を内包(如来蔵)していると思うのである。そう、光において、イデア界がある意味で剥き出しになっているように思えるのである。(参考:相対性理論)

 以上のように仮定すると、物質とは、連続的同一性化した光のエネルギーであり、超越的身体性を喪失しているのである。しかし、現象としては、本来、個体は、超越的共振身体性を帯びていると思うのである。

 ならば、現象的個体には、イデア・エネルギーが内包されているはずである。それが(icm^1/2)*(-icm^1/2)⇒+1mc^2の左辺であろう。即非・太極的虚数エネルギーである。

 思うに、量子論は、このイデア・エネルギーを看過していると思うのである。ただ、mc^2の連続的同一性の物質エネルギーを計算しているだけのように思えるのである。

 dark energyをhidden energyと読めば、このイデア・エネルギーがdark energyではないだろうか。dark matterは、+1mc^2自体ではないだろうか。

 ついでに言えば、D.H.ロレンスのdark sungやunknown Godは、このイデア・エネルギーの根元であるイデア界を指しているのではないだろうか。カトリック信仰における黒い聖母の「黒い」もdarkにとれば、やはり、イデア界を指すであろう。あまりにも輝かしくて、肉眼では眩んで(暗んで)、「黒い」となるのではないだろうか。東方キリスト教の神学者グレゴリオス・パラマスは、そのように言っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%82%B9
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%81%A8%E5%85%89%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E2%80%95%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%82%B9%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E5%A4%A7%E6%A3%AE-%E6%AD%A3%E6%A8%B9/dp/4423171228/sr=8-1/qid=1172582592/ref=sr_1_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=books

 どうも、物質形式は、絶対値mc^2(|mc^2|)にあるように思えるのである。この物質形式に、量子論や現代物理学は束縛されているように思えるのである。⇒+1・mc^2とすることで、途轍も無い地平が出現すると考えられるのである。端的に、超越界の地平である。ここで、文理融合・統一が実現するのである。

 ところで、素粒子とは、何だろうか。素人目には、ひどく煩雑な構造をもっていると思えるのである。クォークやレプトン、等々。四つの力の考え方も、すっきりとはしていないと思う。

 思うに、虚数軸(イデア界)での極性があり、実数軸での極性があり、それらが、二値と二値で、四元となるように思えるのである。ここでは、メディア・ポイントが、虚数的極性と実数的極性の要(かなめ)である。これを、量子論は、区別せずに、混淆しているのではないだろうか。

 有り体に言えば、強い力と弱い力は、虚数軸の極性であり、光と重力は、実数軸の極性ではないのか。

 素粒子であるが、今日のように多種多様になるのは、以上述べたような、異なるレベルの事相を混淆しているからではないのか。
http://belle.kek.jp/~uehara/pdic/item.html#part
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90

http://www.kek.jp/kids/jiten/particle/particle.html#part

 虚数軸/イデア界の事相があり、また、メディア・ポイントを介しての、実数軸/現象界の事相があるのである。これらは、区別されなくてはならないだろう。

 ここで、作業仮説的に言えば、素粒子は、主に、虚数軸/イデア界レベルの事相であり、原子や分子は、主に、実数軸/現象界レベルの問題ではないだろうか。

 例えば、原子ではなく、原子核の問題は、虚数軸レベルの問題で、陽子と中性子と中間子の関係であるが、中間子がメディア・ポイントとなるのではないだろうか。そして、陽子は、例えば、m^1/2icであり、中性子は-m^1/2icに関係するのではないのか。つまり、虚数軸/イデア界の即非事相が、メディア・ポイントを介して、現象事相と重なるのであり、そのとき、即非事相レベルが強ければ、素粒子様相が発生し、現象事相が強ければ、原子・分子事相が発生するのではないだろうか。

 この、メディア・ポイントを介しての、虚数軸事相と実数軸事相との、重なりであるが、新たに明確に命名する必要があるだろう。とりあえず、重相化とでもしておこうか。あるいは、複相化である。そう、複相化としよう。

 だから、メディア・ポイントM・Pを介して、虚数軸事相と実数軸事相との複相化が形成されて、そのとき、物質的観測・計測では、両者が混淆されて、あのように複雑な素粒子様態が発現するのではないのだろうか。

 おそらく、クォークやレプトンにしろ、主要な本体(本相・実体・実相)は、虚数軸/イデア界の即非事相の極性を示唆しているのではないだろうか。基本粒子ということであるが、そうではなくて、基本イデアとして、虚数軸/イデア界の差異即非極性事相を見るべきだと思われるのである。
 
 端的に言えば、元クォークはm^1/2icであり、元レプトンは、-m^1/2icではないだろうか。元陽と元陰が元素粒子対ではないのか。

 思うに、量子論は、PS理論から、見直されるべきではないだろうか。唯物論が超克されて、イデア論から物質・素粒子を位置づけるべきだと思うのである。

 とまれ、以上のように、メディア・ポイントM・Pを介して、2つのレベル、虚数軸/イデア界(超越界)と実数軸/現象界が複相化される事相・事象を把捉・認識することが出発点になると考えられるのである。


参考:
http://www.ryoushi-rikigaku.com/
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%CC%BB%D2%CE%CF%B3%D8
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90
http://homepage2.nifty.com/eman/quantum/contents.html
http://www.shokabo.co.jp/mybooks/ISBN4-7853-8776-9.htm

2007年02月27日 (03:41)

Archaeologists, scholars dispute Jesus documentary

Archaeologists, scholars dispute Jesus documentary
POSTED: 1:16 p.m. EST, February 26, 2007
Story Highlights
• Documentary claims to have found bones of Jesus' family
• Film suggests Jesus may have had son
• Archaeologists, religious scholars skeptical
• Oscar-winner James Cameron directed film

More on CNN TV: Director James Cameron tells Larry why he believes the tomb found is that of Jesus. Watch tonight, 9 ET.
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JERUSALEM (AP) -- Archaeologists and clergymen in the Holy Land derided claims in a new documentary produced by the Oscar-winning director James Cameron that contradict major Christian tenets.

"The Lost Tomb of Christ," which the Discovery Channel will run on March 4, argues that 10 ancient ossuaries -- small caskets used to store bones -- discovered in a suburb of Jerusalem in 1980 may have contained the bones of Jesus and his family, according to a press release issued by the Discovery Channel.
http://www.cnn.com/2007/TECH/science/02/26/jesus.sburial.ap/index.html

2007年02月27日 (02:16)

メルロ=ポンティの身体論:連続的身体と超越的身体

『メルロ=ポンティ 可逆性』を拾い読みしているが、ここで、乱暴だが、直観で、メルロ=ポンティの思想を考えてみたい。

 リヴァーシブルな「襞」や両義性という用語が、裏表紙に書かれている。これは、PS理論から見ると、実にわかりやすいことである。

 これは、i*(-i)の即非事相を、メディア・ポイントの連続面で捉えた観念用語であろう。

 メルロ=ポンティの身体とは、メディア・ポイントの連続的身体面であるように思える。ここでは、対立であり、且つ、一如(いちにょ)であるという事相が発生する。しかし、力点は、後者の一如・一体性にあるように思える。だから、メディア・ポイントの連続面の思考であると思えるのである。

 問題は、身体性である。なぜ、身体論なのか。それは、思うに、先に、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と言ったことと関係するように思えるのである。

 近代合理主義は、元知中心主義であり、個体において、元身体を排除しているのである。この排除は、単に、元身体の排除だけでなく、元知・即非・元身体という超越的差異共振性(霊性)を排除しているのである。そして、近代主義が飽和状態になると、否定された元身体が反動して発動するが、それと同時に、超越的差異共振性も発動するようになると考えられるのである。

 この観点から見ると、メルロ=ポンティの身体論は、身体的連続的同一性と超越的差異共振性との混淆であるように思えるのである。そう、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性と同質であると思えるのである。

 ここには、身体的連続的同一性と超越的即非性との未分化的混淆があると考えられるのである。身体的連続性は感覚的であり、超越的即非性は思想・観念的である。思うに、前者が文学的レトリックとなり、後者が理論的考察となり、混淆して、あのような文体を生んでいるように思えるのである。

 だから、ポスト・モダン的なのである、メルロ=ポンティは。そう、作家に近い表現であると言えよう。

 私の言葉で言えば、内身体性や大地性なのである。ここに、超越性が内在(内蔵)するのである(参照:如来蔵)。思うに、メルロ=ポンティは、明確に、内身体性=大地性を捉えていない。外在的身体と未分化である。外在的身体は連続性を発生させるのである。内身体性と外在的身体性との未分化混淆様態において、メルロ=ポンティは、思考しているのである。

 内身体性は、不連続なのである。だから、思うに、メルロ=ポンティは、超越的即非性に達するまで、後一歩であったと思うのである。

 フッサールは大天才だから、初めから、超越性(イデア)に達していた。しかし、一般には、身体において、超越性は始動すると考えられるのである。そのとき、連続性と不連続性の混淆様態になるのである。この様態にメルロ=ポンティは留まったように思えるのである。

 思うに、身体とは何だろうか。大乗仏教、とりわけ、『大乗起信論』は鋭敏である。それは、阿頼耶識(あらやしき)と如来蔵(にょらいぞう)である。しかし、前者は連続態と不連続態の中間混淆態である。後者が、超越的身体であると思う。

 ついでながら、差異共振シナジー通貨制度としての銀本位制であるが、現代の通貨制度が完全に連続性であるのに対して、不連続性の通貨制度であると思うのである。なぜなら、銀という個物は、特異性であるからである。特異性は、不連続性であるからである。また、それは、超越的身体である。超越的身体の通貨制度としての銀本位制である。

参考:
モーリス・メルロー=ポンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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メルロー=ポンティ
メルロー=ポンティ

モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908年3月14日 - 1961年5月4日)は、フランスの哲学者。現象学を学び、その発展に尽くした。

彼の哲学は「両義性の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己のの概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。 例えば、「枯れ木」があるとします。子供の頃(最初に見た時)は、「枯れ木」という存在を眼で見て、「枯れ木」は<名前のない現象として>知っていますが、「枯れ木」という言葉(記号)を知って初めて、恒常的に認識出来るのですね。そして、「枯れ木」という現象が「枯れ木」というものの(同一言語下で)共通した認識を得るのですね。

≪それは、「枯れ木」を含む場景を見て知っていたが、「枯れ木」という言葉を知らなかったので、「枯れ木」を知らなかった。≫という言葉に理解を求めたい。

また、精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である。」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは、<どちらともいえない>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が、<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察なのですね。それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術、看護学などに大きな影響を与えた。

また、そういう知覚の優位性からの、新しい存在論の試みが『見えるもの見えないもの』で見られる。しかし、彼の絶筆が『見えるもの見えないもの』であるので、志途中での彼の死は、惜しまれるものである。しかしながら、後世の哲学者による彼の思考の継承は、誤謬の修正から真理の起源まで幅広く影響を与えるものである。

[編集] 邦訳主要著作

・『知覚の現象学』 中島盛夫訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『意味と無意味』 永戸多喜雄訳 国文社

・『ヒューマニズムとテロル』改訂版 森本和夫訳 現代思潮社

・『知覚の本性−初期論文集』 加賀野井秀一編訳 (叢書ウニベルシタス) 法政大学出版局

・『見えるものと見えざるもの』 クロード・ルフォール編/中島盛夫監訳(叢書ウニベルシタス)法政大学出版局

・『行動の構造』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1964)

・『眼と精神』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1966)

・『知覚の現象学1』 竹内芳郎・小木貞孝共訳 みすず書房 (1967)

・『知覚の現象学2』 竹内芳郎・木田元・宮本忠雄共訳 みすず書房 (1974)

・『シーニュ1』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1969)

・『シーニュ2』 竹内芳郎監訳 みすず書房 (1970)

・『弁証法の冒険』 滝浦静雄・木田元・田島節夫・市川浩共訳 みすず書房 (1972)

・『言語と自然』−コレージュ・ド・フランス講義要録− 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『世界の散文』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1979)

・『見えるものと見えないもの』 滝浦静雄・木田元共訳 みすず書房 (1989)

・『メルローポンティの研究ノート』−新しい存在論の輪郭− 菊川忠夫編訳 御茶の水書房(1981)

[編集] 関連図書

・『現象学』 ジャン・フランソワ・リオタール著 高橋允昭訳 文庫クセジュ 白水社 (1965)

・『現代フランスの哲学』−実存主義・現象学・構造主義− ピエール・トロティニョン著 田島節夫訳 文庫クセジュ 白水社 (1969)  

・『現象学』 木田元著 岩波新書 (1970)

・『現象学』 新田義弘著 岩波全書 (1978)

・『メルローポンティの哲学と現代社会』(上・下) L・スパーリング著 菊川忠夫訳 御茶の水書房 (1981-1982)

・『知の最前線』 現代フランスの哲学 ヴァンサン・デコンブ著 高橋允昭訳 TBSブリタニカ(1983)

・『メルローポンティの思想』 木田元著 岩波書店 (1984)

・『現象学の射程』 −フッサールとメルローポンティー 水野和久著 勁草書房 (1992)

・『「自分」と「他人」をどうみるか』 滝浦静雄著 NHKブックス (1992)

・『メルローポンティ』 −可逆性− 鷲田清一著 講談社 (1997)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3" より作成

カテゴリ: フランスの哲学者 | 現象学 | 身体論 | 1908年生 | 1961年没
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2007年02月25日 (23:04)

フッサールとハイデガー:超越論性と存在について:メディア・ポイント*は即非点(ポイント)である

ポイントだけ触れると、先にも述べたが、ハイデガーはフッサールの超越論性を理解していないということが言えるだろう。

 フッサールは、日常の自然的態度(主客分離)をいったん停止して(エポケー)、純粋意識を捉え、それを志向性と呼んだのである。これは、超越論的意識ないし元意識である。超越論的空間をフッサールは提起したのである。

 それに対して、ハイデガーは、存在者(つまり、通常、生活している人)は、存在によって規定されていると考えているのである。存在とは、いわば、存在者の原型・構造である。つまり、構造としての存在をハイデガーは説いたと考えられるのである。

 確かに、そう見ると、存在とは、一種、超越論性をもっていると言えるだろう。しかし、ハイデガーのいう「関心」(志向性に相当する)は、存在⇒存在者である。(これは、PS理論から言うと、メディア・ポイントから連続性への展開・転化である。)

 これは、フッサールの超越論性=志向性とはまったく異なると言えよう。なぜなら、フッサールは、超越論性内部における志向性を説いているのであって、連続性以前、現象化以前の様相を問題にしていると考えられるからである。

フッサール:志向性(元意識)*⇒自然的態度(連続性)

ハイデガー:*存在⇒存在者 (*をメディア・ポイントとする。)

つまり、メディア・ポイント*から見ると、フッサールには、切断(不連続性)があるが、ハイデガーには、切断がなく、連続性のまままである。あるいは、メディア・ポイントにおける内在的構造性の連続的展開において、存在⇒存在者の生成を考えているということになると思われる。

 ここで、構造について説明すると、それは、メディア・ポイントにおける連続的同一性形式のことであろう。超越界(イデア界)における差異即非事相が連続的同一性に切り替わるメディア・ポイントの形式が構造であろう。

 ここは、確かに、ゼロ度の様相であるが、このゼロとは、超越的・虚数的不連続性と内在的・実数的連続性との交差点である。いわば、空と色の相互変換点である。A≠Bであり、A=Bである。Aでもあり、Bでもあり、且つ、Aでもなく、Bでもない。

 そのような視点から、本件の問題を見ると、フッサールは、メディア・ポイントにおける、超越的不連続性と内在的連続性との切断を、超越論的現象学で論じたと言える。

 それに対して、ハイデガーは、超越的不連続性を無視して、メディア・ポイントにおける、形式構造・内在性(=存在)からの、連続的同一性(=存在者)への転化を論じたと考えられるのである。

 つまり、超越性=虚数軸を無視した、連続性=実数軸上のメディア・ポイントの構造(=内在的同一性形式=存在)からの連続的同一性(=存在者)への転化を説いたと思えるのである。

 存在論において、ハイデガーは、知や認識を否定しているので、当然、存在論ないし存在者論は、身体的連続的同一性論になると考えられるのである。この身体的連続的同一性論は、いわば、非合理な感情・欲望論となるだろう。それが、関心であろう。そして、また、同時にそれは、先にも触れたように、連続的同一性の全体主義志向をもつので、ファシズム・全体主義の原型的思考と言えるだろう。

 連続的同一性の全体主義的志向性について説明すると、それは、連続的同一性は、他者を否定して、主体と同一性化させる志向性をもっているのであるが、この他者否定的連続的同一性自我とは、正に、全一的であり、独裁的であるのである。
 
 つまり、連続的同一性志向性とは、もともと、元知という一者に、他者を帰せしめんとする欲望である。一者であり、全体なのである。これは、一神教・父権制の欲望と言っていいものである。この連続的同一性志向性は、単に、元知の場合だけでなく、元身体の場合にも可能である。元知の連続的同一性=全体主義が、ヘーゲル哲学に帰結し、元身体の連続的同一性=全体主義が、ハイデガー哲学に帰結したと言えるだろう。

 フッサール哲学は、プラトン、デカルト、カントを継承しているのである。そして、ハイデガー哲学は、裏返しに、ヘーゲルを継承して、また、存在を、物質的生産力ととれば、マルクス主義を継承していると思えるのである。ハイデガーが、ナチス=国家社会主義に関与したというのは、この点で整合性があるように思われる。そう、マルクス主義の唯物史観であるが、それは、存在=物質的生産力の歴史的進展論と考えることができるのではないだろうか。つまり、存在は、身体的連続的同一性構造であり、それが、物質構造と同形であるのである。

 さらに論を展開すると、近代日本のマルクス主義ないし国家社会主義(国家統制経済:岸信介の政治経済思想)の思想的起源が理解できるのではないだろうか。

 すなわち、日本語のもつ主語の貧弱さないし不在性から、元知的連続的同一性ではなく、元身体的連続的同一性が支配するのである。これが、存在であり、物質的生産力である。ここから、唯物史観が発生すると言えよう。そして、知識人の柄谷行人がマルクス主義を、中沢新一が霊的唯物論を説くのも、同一根拠によると考えられるだろう。柄谷行人の他者とは、存在なのである。だから、唯物論なのである。そして、中沢新一の場合、霊(「もの」)は、存在なのである。だから、霊的唯物論なのである。両者、同形である。

 存在が神秘性をもつのは、それが、メディア・ポイントに置かれているからだろう。もっとも、実数軸・連続性における構造としてのメディア・ポイントである。存在は連続性ではあるが、メディア・ポイントは、ゼロ=無でありつつ、有であるということなので、連続性の世界=現象界においては、超越性を示唆すると言えるだろう。

 そう、メディア・ポイント*であるが、ここは、超越的不連続性・即非性と内在的連続性・同一性が交差する空間ではあるが、端的に言えば、即非ポイントと言えるのではないだろうか。

 即ち、不連続性・即非・連続性という意味での即非ポイント・即非点である。だから、存在においても、即非ポイント・即非点が存するので、現象界においても、超越界・イデア界を示唆するので、神秘性を帯びるということではないだろうか。しかし、だからこそ、超越界・イデア界・差異即非界を、内在的に連続化してしまう大錯誤を多くの哲学者は犯してきたと言えるだろう。典型が、ドゥルーズである。特異性=超越性を差異=微分と等価にしてしまったのである。

 さて、ここで、現代世界を考えると、明らかに、近代化という連続的同一性主義は終焉したのであり、即非点であるメディア・ポイントを介して、脱連続的同一性志向性、即ち、差異共振的同一性志向性が発動していると考えられるのである。

 i*(-i)⇒+1の様相になっているのである。差異共振シナジー様相になっているのである。これは、情報空間的には、フラット化である。連続的同一性という近代合理主義=唯物論=国家主義は解体し出しているのである。理事無碍から事々無碍へと展開しているのである。

 これをエネルギー論的に考えるとどうなるのだろうか。連続的同一性は、i^2 or (-i)^2⇒-1である。-1の物質エネルギーが支配的である。それに対して、現代、トランス・モダンは、i*(-i)⇒+1のエネルギーが発動しているはずである。差異共振シナジー・エネルギーが主導的になっているはずである。この連一性エネルギー-1と差異一性エネルギー+1は、実際のところ、どう異なるのだろうか。

 端的に言えば、前者は、保守反動のエネルギーであり、後者は創造的エネルギーである。自滅・自壊エネルギーと共生共創的エネルギーである。死のエネルギーと再生のエネルギーである。エントロピーとネゲントロピーである。

 両者、エネルギーであるが、質的に異なるだろう。Kaisetsu氏に倣うと、m*ic*(-ic)⇒+1・mc^2⇒+1・E であり、即非ポイントが、異なると言えるだろう。つまり、即非ポイントの有無が質の違いである。

 つまり、即非的エネルギーと連一的エネルギーである。つまり、超越的エネルギーか、否かであろう。

 この違いは、現象的にはどう出るのだろうか。あるいは、物質的にはどう出るのだろうか。

 経済から見ると、それは、生産等の創造性の違いに現れるのではないだろうか。もし、即非エネルギーのある会社ならば、新しい要素との共振化に、リスクをともないつつ、踏み切るだろう。それは、イノヴェーションがあるかどうかであるわかるだろう。保守反動化した企業は、不二家のように、没落するのである。

 だから、即非エネルギーの有無は、現象・物質的には、可視的には、そのような異質な要素との共振融合というイノヴェーションとして発現すると言えよう。

 そう、ここでは、単に物質だけはなく、人と企業との共振態ということで見なくてはならないということである。「資本」とは、単に、貨幣で計られるのではなく、物質的資本を含めて、即非エネルギー量で計られるのではないだろうか。それは、差異共振シナジー資本経済である。

 そして、このためには、差異共振シナジー通貨や銀行が必要なのである。

p.s. エネルギーに関する問題だが、私は、これまで、m(ci)^2ないしm(-i)^2⇒-1・Eを物質エネルギーと想定してきたが、ここでの+1・Eとは、符号がことなるのである。これをどうみたらいいのかが、検討課題である。

 思うに、同一性=絶対値1(|1|)で考えればいいのかもしれない。連続的同一性にしろ、差異的同一性にしろ、同一性は、絶対値1となる見ればいいのではないのか。そうすると、|-1|=|+1|=|1|=同一性となり、⇒Eとなるだろう。

 疑問だが、虚数エネルギーは、実際のところ、観測・計測できないのか。これは、精神エネルギーでもある。いわゆる、オーラというのが、虚数エネルギーを指すだろう。それは、知覚はできるが、計測できるのか。オーラ計測器である。後で検討したい。
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2007年02月24日 (20:02)

超越論的主観性と超越論的主客(主他)即非性(=イデア性)

少し、フッサールの『デカルト的省察』を拾い読みしたが、これまで超越論的主観性に対して考えていたことが、妥当することが確かめられたと思う。

 すなわち、私は超越論的主観性は、実は、客観性に通じている。端的に言えば、PS理論の主客即非論に通じるものと考えていたのである。本書で、フッサールは、いみじくも、「超越論的な存在」(p. 50)。、「超越論的主観性の存在」(p. 50)と述べているから、超越論的主観性は、超越論的主・客即非性に通じると考えられよう。

 つまり、フッサールは、デカルトのコギト・エルゴ・スム(我思う。故に、我在り。)という思考即存在を基盤にしているのであり、これは、ほぼ主観即客観と言えるのである。もっとも、正確に言えば、主観即存在であるが、この存在が、客観に転化するので、こう言ってもいいと考えられるのである。これまでの、言い方をするなら、知即存在である。

 だから、フッサールの超越論的主観性とは、同時に、超越論的存在論ないし超越論的主客即非論と言っていいものと言えるのである。だから、既に、フッサールは、存在論を述べているのである。

 ここから、ハイデガーの存在論の厚かましさと二番煎じ性がわかるし、また、さらに言えば、誤謬もわかるのである。つまり、ハイデガーは、世界・内・存在と言う。しかし、内とは、内部・内在ということであり、超越論性ではないのである。以前も述べたが、ハイデガーが現代哲学の進展を阻害し、後退させた、人物である。ドゥルーズが、内在論に留まった原因の一端は、ここにあると思えるのである。

 ここで、用語の整理をすると、超越論的主観性は、超越論的主客即非性ないし超越論的主他即非性と読むべきだと考えるのである。つまり、志向性のイデアをそこで説いているのである。

 そして、昨日記したフッサールへの疑念であるが、超越論的主観性から間主観性へと転化することを見ると、その主観性の志向性は、連続的同一性志向ではなくて、差異共振志向性であることがわかるのである。昨日の私の批判を取り下げたい。

 そうすると、フッサールは、以前から述べているように、PS理論のもっとも近い先駆者の一人であると思えるのである。ただし、即非性という思想は、鈴木大拙の天才性に拠らなくては考えられなかったものであろう。もっとも、ウスペンスキーが『ターシャム・オルガヌム』でほぼ同じことを述べていたが、即非と端的には理論化してはいない。ついで言うと、ドゥルーズ&ガタリの離接という概念であるが、それも、即非に近いが、空間的概念で、即非の論理のように、純粋な論理学的概念には達していなかったと言えよう。

 最後に付け加えると、「超越論性」という概念であるが、これは、端的に言えば、内在的超越性である。しかし、この用語も、完全には、明確ではないのである。複素平面における原点がメディア・ポイントとなるが、これは、虚数軸の不連続性と実数軸の連続性が交差するポイントである。実に微妙な変換・転換ポイントなのである。正に、大乗仏教の空性をもつのである。この点に関しては、不連続的差異論とPS理論のみが明確に解明しうると言えよう。とりわけ、PS理論の独壇場と言えよう。思うに、「超越論性」とは、内在・即非・超越性と言うのが正しいと思うのである。内・即非・超越性である。フッサールは、大乗仏教の伝統を欠いていたので、不器用な命名しかできず、あいまいさをもたらしたと言えるように思うのである。





デカルト的省察 (文庫)
フッサール (著), 浜渦 辰二
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E7%9A%84%E7%9C%81%E5%AF%9F-%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/4003364333/sr=8-1/qid=1172311277/ref=pd_bbs_sr_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=books
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2007年02月24日 (13:44)

光の変換について:イデア界→メディア・ポイント(MP)→現象界:二つの《光》:物質の光と精神の光

以下、図がうまく出ないので、次のブログを参照されたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10026464929.html
________________________________________

どうも、本件の問題は、直感ではわかるようでいながら、記述表現しようとすると、説得力のないものになってしまうようだ。

 ここ数日問題にしているのは、連続的同一性による認識と差異的同一性による認識の相違を理論化することである。

 具体的に言えば、《光》を知覚・認識するとは何か、ということである。そして、イデア界の《光》と現象界の《光》はどういう関係にあるのか、ということである。

 先に書いた座標を参考にしよう。


           虚数軸

            |
            |
            |
            |+i=原知性
            |
            |
            |
            |     
  連続的同一性          差異的同一性
_-1__________________原点______+1____実数軸
            | 
            |
            |
            |
            |
             -i=原身体
            |
            |
            |
            |


 これにさらに説明をつけると、


           虚数軸

            |
            |
            |
            |+i=原知性・ロゴス
            |
            |
  男         | 女
  連続・無明・物質  | 不連続・明・精神 
  連一性          差一性
_-1__________________原点______+1____実数軸
            | 
            |
            |
            |
            |
             -i=原身体・パトス
            |
            |
            |
            |

問題は、イデア界の《光》のエネルギーをm*(ci)*(-ci)とすると、それが、現象界では、m*(ci)*(-ci)=mc^2⇒Eとなるのであるが、知覚は、連一性に囚われるので、-1から、上図の実数軸のマイナスから《光》を捉えることである。

 端的に言えば、《光》を物質として捉えるということである。しかし、i*(-i)⇒+1の即非・共振の観点から見ると、《光》は、共振性をもっているのである。つまり、ci*(-ci)の共振性を《光》は帯びているはずである。

 それが、物質としての《光》では消失しているのである。粒子と波動の相補性の概念は、《光》の共振性を、物質的波動として見ているだけのように考えられる。

 つまり、量子力学は、《光》の超越的差異・即非・共振性の次元・虚数次元を欠落させているということである。

 有り体に言えば、量子力学は、実数軸においてのみ、《光》を理論化していることになるだろう。正確に言えば、メディア・ポイント(原点)に接しつつ、実数軸中心で理論化しているということだろう。

 問題は、単に実数軸中心だけではなくて、実数軸のマイナス領域(-1)で、《光》を捉えていることである。つまり、唯物論で把捉していることであり、実数軸のプラス領域(+1)では、捉えていないことである。

 実数軸のプラス領域(+1)とは、精神の領域であると思えるのであり、それは、これまで、宗教、哲学、芸術が捉えてきた領域であるように思えるのである。宗教の《光》は、この領域に属すると思えるのである。

 ここが、本件の問題のポイントの一つである。即ち、イデア界の《光》、即ち、元光が現象界の《光》になると思われるが、そのとき、±1の《光》として、現象化すると思えることである。これが、本件での思考実験の一番の問題点である。

 この±1の《光》、これは複雑で、一見、二重に考えられるが、実際は、メディア・ポイント(原点)を含むので、三重・三相ではないだろうか。

 とまれ、⇒+1を考えると、それは、共振性、メディア・ポイントを介して、超越性を含んでいると言えよう。それに対して、⇒-1は、メディア・ポイントを介するものの、連続化するので、超越性を否定・排除していると言えよう。

 +1と-1は、そうすると、非対称性をもっていると言えよう。(なお、ポスト・モダン、ポスト構造主義とは、このメディア・ポイントを混濁して理解していたのである。つまり、それらは、明晰・明確に、虚数軸・超越性を理解していず、実数軸・連続性と虚数軸・不連続性を未分化的に混同していたのである。)

 さて、問題は、±1の《光》(二相ないし三相の《光》)を、単に物質的光と見るとはどういうことなのだろうか。具体的に言えば、《光》のエネルギーの計測はどうなるのだろうか、ということである。

 m*(ic)*(-ic)⇒m・(+1)・c^2⇒+1・E

であるが、これは、+1であるから、共振性をもった《光》のエネルギー量ではないのかと思えるのである。

 物質の《光》ならば、-1であるから、⇒-1・Eではないのだろうか。これが、大きな疑問点なのである。これが、問題点の核である。

 この+1・Eと-1・Eの相違をどう見るのか、である。ここで、作業仮説であるが、相対性理論とは、共振する《光》、即ち、+1の《光》の理論であり、それは、-1の《光》を排除しているのではないだろうか。つまり、端的に言えば、現代物理学は、錯誤を犯しているのではないのかということである。なぜなら、物質としての《光》は、-1であるのに、相対性理論の《光》は、+1であるからである。すなわち、-1と+1を混淆させているということである。

 そう、《光》の認識にズレがあると考えれるということである。物質の《光》と精神の《光》のズレと言えるのではないだろうか。アインシュタインの《光》は、精神の《光》の理論であると思えるということである。

 これは、思いつきであるが、物質の-1の《光》と精神の+1の《光》のズレが、ダーク・マターやダーク・エネルギーの問題として出ているのではないのか。

 ダーク・マターとは、-1の《光》に関係するのではないのか。また、ダーク・エネルギーは、ダーク・マターのエネルギーに、イデア界の元エネルギーm*ic*(-ic)を加えたものと関係するのではないのか。

 とまれ、本件の問題にもどると、連続的認識と不連続・共振的認識のズレが、知覚・認識の問題として生じていると思えるのである。

 そう、これは、人間の基本的認識の混乱と言ってもいいだろう。言い換えると、近代的認識の問題である。二つの《光》があるのに、近代的合理主義(近代科学的唯物論、近代的自我)は、一つの《光》、すなわち、-1の《光》、物質の《光》に限定してしまったと考えられるということである。

 だから、問題は、自然科学の発展は、この近代的認識の枠組みを超えたところに達しているのに、自然科学の認識の枠組みは、旧態依然の唯物論なのであるということではないか。

 相対性理論や量子論は、メディア・ポイントを介しての、超越的現象事象を対象にしているのに、その認識のフレームワーク(パラダイム)は、未だに、近代的物質主義であると考えられるということである。この理論的進展と思考・認識的反動の矛盾・齟齬が大問題であると思えるのである。

 このズレは何ももたらすのか。それは、明らかに、狂気(暴力・破壊)である。二つの《光》を一つの《光》に限定するのであるから、他の一つの《光》を否定・排除・隠蔽するので、それが反動(バックラッシュ)化して、狂気となって、心を襲うはずである。

 近代的自我は、精神の《光》、アインシュタインの《光》を排除しているので、それが、狂気となってバックラッシュすると考えられるのである。現代日本人の狂気がこれであると考えられるのである。

 宗教上の《光》は正しいのである。それを、アインシュタインは科学的に理論化したと考えられるのである。そう、哲学認識の遅れがあり、それが、人類の超大惨状・超大危機をもたらしていると言えよう。問題を逃避して、刹那的に世俗に愚劣に酔い痴れているので、とりわけ、日本人が危ういのである。

 結局のところ、物質的認識(近代的自我認識)と精神的認識(トランス・エゴ認識)の未分化的混乱・混濁・混淆があるのである。そして、現代は、後者がさらに進展しているのである。差異共振シナジーが、フラット化等で、進展しているのであり、ますます、近代的合理主義という旧パラダイムとのズレが拡大しているのである。この点でも現代日本は、危ういのである。

 そう、ここでの検討の結果、あるいは、PS理論は、文科系的真理と理科系的真理が一致することを説いているのである。本件で言えば、宗教上の《光》と相対性理論の《光》は一致するということである。文理融合、文理統一、文理一体化は、現代の真理であるのである。

 だから、人間の認識の超革新が現代必要なのである。現代は、コペルニクスの時代と等しく、パラダイムの転換のエポックなのである。この転換をPS理論は説くものである。

 近代的自我を乗り越えて、トランス・モダンの自己に変容・進展・進化する必要があるのである。とりわけ、大乗仏教はこのことを述べてきたと言えよう。とまれ、PS理論が明晰に知的にこの乗り越えを説明できると言えよう。不連続性と差異即非共振性、ここにすべてがあると言っても過言でない。

 別稿で、更に検討を続けたい。

2007年02月24日 (02:07)

超越空間と超越論的主観性:PS理論とフッサール現象学

昨日のメモは、かなり長いものなので、ここでは、ポイントを整理して述べたい。

1)イデア界の元光と現象界の光の関係を問題にした。最初に、メディア・ポイントにおける、不連続的差異から連続性への変換を考えた。これは、いわば、騙し(マーヤー)、偽造の回路である。図式化すると、

即非イデア超越空間→メディア・ポイント→連続空間

となる。メディア・ポイントは、垂直から水平への変換点である。ここで、注意すべきは、差異=微分ないし連続的差異のことである。これは、連続的同一性から、最小限を虚構して考えられたものであろう。それは、連続的同一性からの演繹である。

2)元光から光の形成の問題:メモはかなり思考実験的なので、簡単に触れると、超越空間においては、A即非Bであるが、それが現象化すると、A≠Bとなり、ここに距離が発生するというようなことを述べている。この問題は思いつきの段階なので、ここでは書かない。

 ⇒-1が、光・連続・現象空間であると考えた。現象化は、±1と考えた。そして、元光は、メディア・ポイントを経由して、-1の光と+1の光に生成すると考えた。前者が連続空間の光である。ならば、後者の空間は何か。現象即非空間ではないかと述べている。

 メディア・ポイント(MP)を経由して、イデアは、同一性化するのである。連続的同一性(-1)と差異的同一性(+1)となる。連続空間と差異空間であるが、両者、現象空間である。一般に、人間は、前者に傾斜しているので、後者を認識できない(無明)。

 ここで、フッサール現象学について考えた。超越論的主観性とは、メディア・ポイントMPにおける、+1の認識のこと考えられる。しかし、問題は、フッサールが主観性と述べたことである。それは、主観性・即・客観性、思惟・即・延長、心・即・身体である。

 フッサールのノエシス/ノエマは、正しくは、そのようなものと考えられる。すなわち、主客即非空間を問題にしているのに、フッサールは主観性に限定した。なぜ、そうしたのかと考えたのであるが、それは、ノエシスという概念が他者・他者的差異に達していないからではないかというものであった。

 すなわち、ノエシスは差異的他者への志向性ではなくて、連続的同一性の志向性ではなかったのかと思ったのである。つまり、フッサールの超越論性は、i*(-i)を示唆しているが、連続的同一性を志向したと思えるのである。フッサールの矛盾があったのではないだろうか。

 この原因は、フッサールが、超越性が即非性であることを理解していなかったからでないかと考えた。

3)メモの第三のポイントは、連続的同一性である近代合理主義、つまり、唯物科学の認識と、差異的同一性の認識の違いの意味である。今、極く簡単に述べると、連続的同一性は、⇒-1となり、差異的同一性は、⇒+1となる。

 この違いは何かと考えたのである。それは、-1には、超越即非性が欠落していることである。そして、m*(ic)*(-ic)が超越エネルギーであり、これを、唯物論科学は、見ていないのではないかというようなことを言った。

 今、思ったことであるが、m*(ic)*{-(-i)}⇒-mc^2である。そして、m*(ic)*(-ic)⇒+mc^2である。思うに、前者をエネルギーとすれば、後者は反エネルギーではないのか。これが、ダークエネルギーに関係しているのではないのか。

 一昨日のメモは、分量は多いが、内容はほとんど思いつき程度である。後で、新たに論点を検討したい。どうも、一昨日のメモは不出来であったようだ。

2007年02月22日 (21:48)

エウレカ!、吾人、バッハの東洋性の起源を見出せり!:バッハの祖先はハンガリー人である。

先に私は、以下にあるように、「また、バッハだが、これも勝手な想像だが、やはり、どこかで東洋文化に接しているように思うのである。」と述べたのである。そして、検索して、バッハと東洋を結びつけるものはないかと調べた見つからなかった。
 ところが、今日、渋谷のタワーレコードで、『バッハ―生涯と作品』 (文庫)
ヴェルナー フェーリクス (著), Werner Felix (原著), 杉山 好 (翻訳)



http://www.amazon.co.jp/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E2%80%95%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%81%A8%E4%BD%9C%E5%93%81-%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC-%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/406159401X
を見たら、冒頭に次のようにあったので、寒気がした。

【そして一七三五年という時点で、音楽にたずさわったバッハ一族の成員に関する浩瀚(こうかん)な系図の作成のために自ら筆を起こし、こうして尋常ならざる伝統の存在を指摘したのは、当時ライプツィヒ在住のヨーハン・ゼバスティアン・バッハその人であった。『音楽に生きるバッハ一族の起源』と題したこの家系図で、ヨーハン・ゼバスティアンは「もとハンガリーで製パン業を営んだヴィートゥス(ファイト)・バッハ」が「十六世紀にルター派(プロテスタント)信仰のゆえにハンガリーから退去せざるをえなかった」次第から説き起こして、バッハ一族に連なる五十三名の人物についての記録を残した。】p.17(強調は、renshiによる)

ハンガリーが祖先の生地である。多民族の国なので、バッハ家がいわゆるマジャール人かどうかはわからない。ドイツ系の可能性が高い。ハンガリーはよくしられたようにアジア系のマジャール人の国である。だから、大バッハは、アジアの血が入っていたか、あるいは、アジアの血に接していたのである。私がバッハ音楽に感じる東洋性の由来はこのどちらかにあると考えられるのである。
 とまれ、バッハ音楽の東洋性の起源はこれで、ほぼ確証されたであろう。

p.s. バッハの祖先がロマ(ジプシー)ならば、もっと面白い。
参照:ロマ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E


参考1:

音楽の捧げもの
テーマ:クラシックCD オランダは、古楽器復興の中心地だけあり、古楽器の名演奏家が多い。

タワーレコードで、このCDに「不滅の名演」とおおげさなコピーがついていたが、少し聴いただけだが、これまで、聴いた中で、いちばんいい演奏だと思う。何か、ジャズに似たような雰囲気がある。チェンバロのRobert Kohnenが、余韻があり、かつての、レオンハルトを想起させる。フルート・トラベルソのBarthold Kuijkenが、幽玄でいい。そう、この演奏は幽玄を感じるのだ。東洋的である。私は、オランダは、ヨーロッパの東洋と思っているが、正に、その感がある。そう、わび・さびの世界である。これをどう見るのか。バッハ自体がとても東洋的だと思う。私の勝手な想像だが、戦国時代や徳川時代を通して、オランダは、日本文化を輸入して、その影響があるのではないのか。また、バッハだが、これも勝手な想像だが、やはり、どこかで東洋文化に接しているように思うのである。

参考:
「その音楽は川のせせらぎに似て、始まりもなければ、終わりもクライマックスもない。一定の時間内にドラマが起き、完成するという西洋風の思考に対し、バッハの音楽は時間の流れ、その場その場の音の世界をひたすら生み出したもの、と山田雅夫さんは「渦と水の都市学」に書かれています。時間はある目標を完成させるための手段ではなく、ただひたすらに経験すれば良いという視点は、西洋というより東洋的な感じがし、興味を持ちました。」
http://www.arcmedia.co.jp/rasen/kato/hk0008.htm
クライマックスのないバッハ
 加藤 宏之(建築家、国立音楽大学デザイン学科講師)

http://ameblo.jp/renshi/theme-10000285114.html


参考2
ハンガリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国名

正式名称はハンガリー語で Magyar Köztársaság(マジャル・ケスタールシャシャーグ)。通称 Magyarország(マジャルオルサーグ)。

公式の英語表記は Republic of Hungary、通称 Hungary。

日本語の表記は ハンガリー共和国、通称 ハンガリー。

ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指すMagyar は日本では「マジャール」と表記されることが多いが、これはおそらく英語の発音に基いた表記である。

ハンガリー語は母音の長短をはっきり区別する特性をもち、Magyar の語は全て短母音なので、ハンガリー語の発音に倣うならば「マジャル」という表記がもっとも近くなる。

歴史上では、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人 」という表現が用いられることがある。

国際的に用いられる、「ハンガリー」「ウンガルン」と言った呼称は、ラテン語 で「フン人 のガリア 」を意味したという説と、ハンガリー人の故地であるウラル山脈 方面で活動しハンガリー人にも文化的影響を与えた遊牧民オノグル の名が訛ったという説があり、後者の説が有力視されている。文献によっては、前者の説を誤りと断定している。

[編集 ] 歴史

詳細はハンガリーの歴史 を参照。

ハンガリーの国土はハンガリー平原 と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。

古代にはパンノニア と呼ばれたこの地域は、ローマ の属州イリュリクム、ローマ帝国 の属州パンノニアを経てゲルマン人 の激しい侵入を受け、5世紀 にはフン 、6世紀 にはアヴァール が東方からやってきて定着した。8世紀 にはアヴァールを倒したフランク王国 の支配下に移るが、9世紀 には東方から新たにやってきた遊牧民ハンガリー人に征服された。

10世紀 末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世 は、西暦1000年 にキリスト教 に改宗し、西ヨーロッパ カトリック 諸王国の一員であるハンガリー王国 を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア 、ヴォイヴォディナ 、クロアチア 、ダルマチア などを広く支配する大国に発展する。13世紀 にはモンゴル帝国 軍の襲来を受け大きな被害を受けたが、その後の14世紀 から15世紀 頃には特に周辺の諸王国とも同君連合 を結んで中央ヨーロッパ の の強国となった。

しかし、15世紀後半からオスマン帝国 の強い圧力を受けるようになり、1526年 にモハーチの戦い に敗れて国王ラヨシュ2世 が戦死した。1541年 にブダ が陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国、北西部の3分の1をハプスブルク家 のオーストリア によって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった。

オスマン帝国の軍事的後退とともに1699年 のカルロヴィッツ条約 でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲されたが、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。1848年 の3月革命 においてコッシュート・ラヨシュ が指導した独立運動こそロシア帝国 軍の介入により失敗したが、オーストリア側は民族独立運動を抑えるためにハンガリー人との妥協を決断し、1867年 にアウスグライヒ (和協)が結ばれた。これによりハプスブルク家がオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨し、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア・ハンガリー帝国 となった。
トリアノン条約前のハンガリーの国土(1920年) 黒枠が現在のハンガリー。国内の民族分布を色彩で表した。マジャル人(赤)、ドイツ人(黄色)、ルーマニア人(青)、セルビア人(薄緑)、クロアチア人(緑)、スロヴェニア人(紫)、スロヴァキア人(橙)、ウクライナ人(茶)
トリアノン条約前のハンガリーの国土(1920年) 黒枠が現在のハンガリー。国内の民族分布を色彩で表した。マジャル人(赤)、ドイツ人(黄色)、ルーマニア人(青)、セルビア人(薄緑)、クロアチア人(緑)、スロヴェニア人(紫)、スロヴァキア人(橙)、ウクライナ人(茶)

オーストリア・ハンガリーのもとハンガリーでは資本主義 経済が発展し、ナショナリズム が高揚したが、第一次世界大戦 で敗戦国となり、オーストリアと分離された。戦後の1920年 に結ばれたトリアノン条約 によりハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうちの面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。

戦間期のハンガリー王国では、ハプスブルク家に代わる国王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュ が摂政 として君臨したが、領土を失った反動から次第に右傾化した。第二次世界大戦 では失地回復を目指して枢軸国 側について敗戦、ソビエト連邦 に占領された。

戦後のハンガリーはソ連の影響下のもと共産主義国 ハンガリー人民共和国として再出発し、冷戦 体制の中で東側の共産圏に属した。しかしソ連に対する反発も根強く、1956年 にはハンガリー動乱 が起こるが、ソ連に鎮圧されてしまった。

1980年代 末になると冷戦終結の機運とともに共産党(社会主義者労働党 )独裁の限界が明らかとなり、1989年 にハンガリーは一党独裁を放棄して平和裏に体制を転換、憲法 を改正して国名をハンガリー共和国とし、ハンガリーの民主化 鉄のカーテン 」を撤去し、国境を開放した。これによりハンガリー国内に西ドイツ への亡命を求める東ドイツ 市民がハンガリー国内に殺到、汎ヨーロッパ・ピクニック を引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。 が進められた。同年5月、ハンガリーは西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網「

1990年代 のハンガリーはヨーロッパ 社会の復帰を目指して改革開放を進め、1999年 に北大西洋条約機構 (NATO)、2004年 に欧州連合 (EU)に加盟した。
国会議事堂(ブダペスト)
国会議事堂(ブダペスト)


国民

ハンガリーとその周辺は、独特の豊かな文化 をもった様々な民族 が居住していることが19世紀 以来よく知られている。

ハンガリー共和国の国民の95%以上はハンガリー人である。ハンガリー人はフィン・ウゴル語族 のハンガリー語 を母語 ウラル山脈 の方面から移ってきた歴史 をもつため、「アジア系民族 」と紹介されることもある。その文法構造のため、ハンガリー国民の人名は正式に表記した際に姓 が名の前につく、ヨーロッパ で唯一の国民である。 とし、

ハンガリー人は旧ハンガリー王国 領に広まって居住していたため、セルビア のヴォイヴォディナ 、クロアチア 北部、スロバキア 南部、ルーマニア のトランシルヴァニア などにもかなりのハンガリー人人口 が残る。また、ハンガリー人の中にはモルダヴィア のチャーンゴー 、トランシルヴァニアのセーケイ や、ハンガリー共和国領内のヤース 、マチョー 、クン 、パローツ などの個性的な文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人がアラン人 の末裔、クン人がクマン人 の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。

その他の民族では、ロマ (ジプシー)とドイツ人 がある程度の数が知られる。ハンガリーのロマは個性的な民族文化で知られる。また、ドイツ人は東方植民地運動 の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、トランシルヴァニア のサース人(ザクセン人 )やスロヴァキア のツィプス・ドイツ人 のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。

その他の民族では、ルテニア人 (ウクライナ人 )、チェコ人 、クロアチア人 、ルーマニア人 などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦 以前には、ユダヤ人 人口もかなりの数にのぼったが、アメリカ合衆国 やイスラエル に移住していった人が多い。

言語 的には、ハンガリー語 が優勢で、少数民族 のほとんどもハンガリー語を話し、ハンガリー語人口は98%にのぼる。

宗教 はカトリック (67.5%)が多数を占め、カルヴァン派 もかなりの数にのぼる (20%)。その他ルター派 (5%)やユダヤ教 (0.2%) も少数ながら存在する。

[編集 ] 文化

ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化で有名で、特にハンガリー人の地域ごとの各民族集団 (有名なものとしてはロマ)を担い手とする民族音楽は有名である(詳細はハンガリーの音楽 を参照)。

また、リスト・フェレンツ (フランツ・リスト)、コダーイ・ゾルターン 、バルトーク・ベーラ など多数の著名なクラシック音楽 の作曲家 も輩出した。彼らの中には多様な民族音楽 にインスピレーションを受けて作曲を行った音楽家も多い。

また、ハンガリー国内にはユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産が6件ある。さらにオーストリアとにまたがって1件の文化遺産が、スロバキアとにまたがって1件の自然遺産が登録されている。詳細は、ハンガリーの世界遺産 を参照。



参考3

マジャル人

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AB%E4%BA%BA


2007年02月21日 (12:11)

以下、Kaisetsu氏によるPS理論的量子論である。これを、量子論と呼んでいいのだろうか。とま

以下、Kaisetsu氏によるPS理論的量子論である。これを、量子論と呼んでいいのだろうか。とまれ、コペンハーゲン解釈は崩壊したのである。
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第3の『現在』
Theories for the Platonic Synergy Concept.

第3の『現在』

* 2007.02.21 Wednesday
* 超越性の哲学
* 02:22
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* by 明日野甘頓


現在を指し示す方法は、まず、過去からの指し示しである。
つまり、歴史による『意味付け』である。
因果の法則である。
つまり、「過去⇒現在」である。
これを第1の「現在」と呼ぶことにする。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=518676

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カシミール効果のPS理論的解法

カシミール効果

カシミール効果とは、次の現象だ。
 「真空中において、二枚の金属板を、ごく狭い距離で隔てて立てると、二枚の金属板はたがいに引き合うこと」



Kaisetsuの説明

◆空間の連続性を否定。空間に虚数次元の組み込みを仮定。虚数次元の組み込み点はメディア・ポイントである。
◆真空中において、二枚の金属板を、ごく狭い距離まで近づけていくと、PS理論上の「空間のメディア・ポイント」の次元に迫る。実数(現象状態)は、虚数次元では認識されないので、二枚の金属板は距離を保つことが出来ず(距離を保った状態は現象化できず)、融合しようとする。(ように見える)⇒二枚の金属板はたがいに引き合う



(参照)

+i*(-i)⇒+1
http://blog.kaisetsu.org/?eid=518682

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二重スリット実験のPS理論的解法
http://blog.kaisetsu.org/?eid=518687

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シュレーディンガーの猫」のPS理論的解法   

 シュレーディンガーの猫の核心  

      by  南堂久史

【 エピソード1 】

 男が女に求婚した。
 「きみが好きだ。結婚してくれ」
 しかし女は迷った。
 「困ったなあ。あなたのこと、半分だけ好きなの。半分だけなら、結婚してもいいわ」
 「半分結婚なんて、ありえないよ。結婚するか、結婚しないか、どっちかだ。どっちにするか、とにかく決めてくれ」
 「そんなこと言っても、半分好きなんだから、しょうがないでしょ。決められないわよ」

 白黒で決められないものを、白と黒のどちらかに無理に決めようとすると、ジレンマが起こる。……これが実は、「シュレーディンガーの猫」の本質だ。

説明

 前項のこと(表で示したこと)を、文章で書くと、次のようになる。
 「ミクロの世界で、○ と ● が同時に成立する」(重ね合わせ状態)
 と仮定しよう。そのあと、ミクロをマクロの世界に結びつける。すると、
 「マクロの世界で、○ と ● が同時に成立する」(重ね合わせ状態)
 というふうになるはずだ。
 しかしながら、マクロの世界では、そんなことはありえない。(重ね合わせ状態はありえない。)── このことを、「猫は、生きていて、かつ、死んでいるのは、おかしい」というふうに表現できる。
 これが、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスだ。

 問題の本質

 この問題の本質は、どこにあるか? 実は、次のことにある。
 「量子を粒子と見なすこと」
 量子を粒子と見なすと、量子は自然数の値(0または1)しか取れない。しかるに、波動関数で決まる値は、確率として定まるので、中間的な値(たとえば 0.5 )という値を取る。── この双方が成立しないことに、問題の本質がある。

 そこで、成立しそうにないことを強引に成立させるために、「重ね合わせ」という解釈が生まれた。
 つまり、個々の量子は「0または1」という値しか取れないとしても、「0の量子と1の量子が同時に存在する」と解釈すれば、両者の平均として「 0.5 という中間的な値を取ることになる」というわけだ。

 しかしこれは、一種の文学的な解釈である。とうてい科学的とは言えない。もちろん、ほころびが出る。そのほころびが、「シュレーディンガーの猫」というパラドックスだ。



海舌の解法

◆空間の不連続性を仮定する。
◆生活世界(マクロ世界)では、瞬きする間の誤差や不存在は認識されない。(比喩である。)
◆量子論的世界では、空間の連続性が否定される部分の問題が重要な認識レベルに達する。空間の不連続部分は、鈴木大拙氏の所謂「即非」構造を為しており、PS理論では「メディア・ポイント」と呼ぶ。

◆次の「論理学からの解決」に当たる。但し、中間値として存在したり(中間値は連続概念である)、確率論的に存在するのではなく(神はサイコロを振らない)、メデイア・ポイントとして、次元の異なる世界(宇宙)が存在するだけである。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=518693

2007年02月20日 (21:09)

非局所的長距離相関をどう見るのか:自己認識方程式と量子:原波即非粒としてのイデアと連続的同一性

夕飯時だというのに、人の少ないドトゥールで、ミラノサンドAとブレンドを注文して、夕飯代わりにしたが、引き込まれている『量子力学入門』を取り出して、最後の方を読んで、素粒子の波動と粒子性の排他的二重性を確認して、先の私の考察(思いつき)では、波動が説明できていないことがわかったので、また、考え直すため、シャーペンを取り出して、本の余白に書き込んだ。メモはそのままにして、内容を簡潔に記そう。

 すなわち、自己認識方程式i*(-i)⇒+1において、iを原波動、-iを原粒子と考えてみた。すると、方程式は、

原波動-即非-原粒子⇒光

となるだろう。簡単にするため、原波動を原波、原粒子を原粒としよう。即ち、

原波-即非-原粒⇒光

となる。光は光子であり、電磁波であるから、粒子であり、波動である。しかし、これは、排他的二重性である。
  
 電子の場合でも、当然、かまわない。電子波動と電子粒子である。

 さて、問題は、観測である。波動関数が収縮するという問題である。つまり、波動が粒子に変換する問題である。(この収縮であるが、なにか、クザーヌスの無限の縮限としての有限・現象の考えを想起した。おそらく、通じるだろう。)

 ここで、原点(メディア・ポイント)を考えたのである。素粒子(この場合、光子)は、原波・即非・原粒⇒光である。つまり、原点(メディア界ないしメディア・フィールドないしメディア場)において、素粒子(正しくは、原素粒子)は、原波・即非・原粒様相である。つまり、簡単に言えば、波動と粒子との二重矛盾様態にあるということである。しかし、正確に言えば、前波動と前粒子の二重矛盾様態である。ここは微妙である。

 とまれ、私が想像したのは、この原点の素粒子を観測するとき、i*i⇒-1、(-i)*(-i)⇒-1となると考えたのである。即ち、前者が、波動であり、後者が粒子である。粒子として観測すれば、粒子となり、波動と観測すれば、波動となるということである。
 
 もう少し正確に述べよう。原点の素粒子とは何か。それは、イデア/現象境界の素粒子ということである。メディア場の素粒子ということである。ここは、イデア界と現象界の境界である。即ち、原波動/原粒子が作用しているのである。原二重性が作用しているのである。これが、観測によって、現象・物質化して、波動なり、粒子なりと実測されると考えられよう。

 素粒子は、これまで述べてきたように、イデア/現象境界、すなわち、メディア界(メディア場、メディア・フィールド)の「存在」であり、中間・両義的である。
 
 だから、原波動・即非・原粒子というイデアと、波動と粒子という物質の両面を帯びていると考えられるのである。そして、観測によって、素粒子は、物質化されて、波動か粒子のどちらかに分化すると考えられるだろう。

 ここから、本件の非局所的長距離相関という仮説を考えると、量子力学は根本的に書き換えられなくてはならないように考えられるのである。
 
 すなわち、素粒子は、粒子と波動との相補性というよりは、原粒子と原波動との即非様相(事相)にあると見るべきなのである。つまり、非局所性は成立しないのである。なぜなら、粒子でも波動でもなく、ただ、原粒子・即非・原波動の二重矛盾様態(「絶対矛盾的自己同一」)にあるのであるから。イデア空間は、即非空間であり、純粋な粒子性はないからである。

 ならば、量子力学は書き換えられて、PS素粒子論(PS量子論)ないしイデア素粒子論(イデア量子論)ないし即非素粒子論(即非量子論)にならなくてはならないだろう。

2007年02月20日 (15:12)

検討問題:即非イデアと素粒子:波動関数の収束と虚軸・虚界・イデア界

今、少し時間があるので、本件について、今思っていることに触れたい。

 今、『量子力学入門』(並木美喜雄著、岩波新書)
http://www.amazon.co.jp/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80%E2%80%95%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC-%E4%B8%A6%E6%9C%A8-%E7%BE%8E%E5%96%9C%E9%9B%84/dp/4004302102/sr=8-1/qid=1171947972/ref=sr_1_1/249-8662877-2461937?ie=UTF8&s=books
を読んでいるが、非局所的長距離相関という、光速を超えると考えられる事象のことが気になるのである。

 直観では、虚軸の差異即非相(造語して、虚相・虚界)と実軸の同一性相(造語して、実相・実界)の関係を見るべきなのである。

 すなわち、波動関数の収束であるが、波動のときは、粒子は、虚軸・虚相・虚界に、いわば、潜在(虚在)し、収束するときは、実軸・実相・実界に発現・顕現するのではないだろうか。

 つまり、虚軸の粒子は、虚粒子であり、イデア粒子であるということであり、それが、波動関数となっているのではないのか。それが、収束して、実軸の実粒子になるということではないのか。

 i*(-i)は、波動関数ではないのか。そして、→+1で、粒子になるのではないのか。

 だから、超光速というよりは、虚数の光速ic又は-icと見るべきではないのか。これは、実空間(現象空間)ではなく、虚空間(イデア空間)を移動しているのである。この虚空間(イデア空間)は、現象界から見たら、どういう具合なのだろうか。

 確かに、現象軸に直交した軸にあるということになる。第四次元である。内在超越空間ないし超越空間である。

 これは、神秘的な作家には、コスモスの空間ということになるのではないだろうか。

 とまれ、以上のように考えると、素粒子は、波動としては、イデア空間にあるということになるだろう。つまり、差異即非ないし即非イデアが素粒子の根源であるということになるのではないだろうか。すなわち、i*(-i)が即非イデアあるいは元素粒子である。

 これは、原点を介して、イデア界から現象界へと転化すると言えるだろう。

 思うに、量子力学で場と呼んでいるのは、原点(ゼロ・ポイント)のことではないだろうか。あるいは、真空と呼んでいるものは。しかし、それでは、虚軸・虚界・虚相を捉えていないだろう。
つまり、量子力学は、差異即非イデアを、原点と実軸でしか捉えていないのではないだろうか。だから、非局所的長距離相関という仮説をとらざるを得ないのではないだろうか。しかし、虚軸・虚界・虚相・イデア界を考えれば、そのような超光速の事象を考える必要がなくなるだろう。

 元素粒子は、イデア界に存していると見ればいいと思うのである。

 さて、これまで、フッサール現象学の超越論性は、虚軸において考えたが、ハイデガーの存在はどうなるだろうか。私は、それは、フッサールの志向性の概念を、内在的存在に変更したものではないかと思えるのである。これは、哲学としては、後退だと思うのである。志向性は、知即存在と考えるべきである。

 ついでながら、思いつきで言えば、クォークは、当然、差異即非イデアi*(-i)を指しているのではないだろうか。

 また、スピンであるが、それは、左回転、右回転で説明がつくのではないだろうか。

 では、最後に、問題として、以上のように考えると、差異即非イデア=元素粒子には、元意識があるということになるのではないだろうか。

 そう、元素粒子=イデアは、志向性であるから、確かに、元意識と呼んでいいように思える。元意識子である。あるいは、簡単にして、意識子としての元素粒子である。

 ならば、(これが本当の最後であるが、)人間の意識と元素粒子=元意識子の関係はどうなるのだろうか。おそらく、等価と見ていいのではないだろうか。というか、元意識が元素粒子=元意識子と等価である。そして、それは、光というか、元光である。神である。元光=神=元意識=元素粒子となるのではないだろうか。

 元光は、現象化して、光となるだろう。今はここで留めたい。

2007年02月19日 (00:24)

波動と粒子:その2:ic*(-ic)という即非対子(イデア対子)と元相補性

先に、イデア界の様相が波動で、現象界のそれが粒子と言ったが、それは、端的には間違いなので修正したい。

 干渉縞の実験から、素粒子が波動であることは、周知のことである。つまり、現象においても、波動であるということである。では、私が述べたイデア界での波動性はどういう風に考えたらいいだろうか。

 ここでも直観であるが、イデア界でのイデア波動(思うに、イデア子を考えてもいいのではないだろうか)が、現象化して、量子波動となると思われるのである。

 すなわち、イデア界でのイデア波動(イデア子波動)と、現象界での量子波動があるということである。しかし、これまで、量子とは、イデア/現象境界の事相であると考えてきたので、量子波動を単に現象界の波動と見るのは正しくないと言えよう。

 つまり、端的に言えば、量子波動とは、イデア波動(イデア子波動)の影であるということである。ならば、イデア波動(イデア子波動)と粒子の関係はどうなるのだろうか。

 粒子もイデア(イデア子)の影ではないのか。

 イデアないしイデア子とは、(ic)*(-ic)であると言えよう。これは、即非子(対極子、太極子、双極子)と呼べるものであろう。

 これは虚数エネルギーであり、ポテンシャル・エネルギー(デュナミス)である。ここには、hν⇒Eがあるだろう。

 つまり、この即非子は、虚数波動であり、これが、イデア/現象境界、つまり、量子論的空間においては、量子波動として検出されるということではないだろうか。

 電子にしろ、光子にしろ、それは、量子空間(=メディア空間)における波動である。そう、問題は、現象空間である。現象空間とは、イデア空間に浸透されているのではあるが、それは、メディア空間を介してである。そして、メディア空間が量子空間なのである。(相対性理論をどう見るのか。それも、メディア空間の理論であると言えると思う。)つまり、素粒子が波動でもあるというのは、イデア波動の影ということになる。

 では、問題は、イデア波動と粒子との関係である。あるいは、イデア子(即非子)と粒子の関係である。あるいは、イデア波動とイデア子(即非子)の関係である。

 イデア波動とは、イデア子=即非子の波動である。それは、即非共振シナジーの波動である。m(ic)(-ic)=hν⇒E とすれば、ν=(ic)(-ic)・m/h である。これが、イデア子=即非子の波動の振動数である。そして、イデア子の粒子性であるが、それは、Kaisetsu氏のm*{(+ic)*(- ic)}⇒+1*Eにおける右辺の+1に表現されているのではないだろうか。

 では、問題は、icや-icは何であるのかである。これは、イデア子(即非子)の構成要素である。思うに、即非対子(イデア対子)とでも呼べるだろう。即非対子がイデア子=即非子を構成していることになる。

 即非対子は、粒子なのだろうか。粒子を物質とするなら、それは、粒子ではない。それは、原粒子ないし前粒子である。そう、即非対子は、対極性を形成しているから、正に、相補性を形成していると言えよう。確かに、即非対子ないし即非子(イデア子)において、「波動」と「粒子」の相補性が形成されていると言えよう。

 結局、粒子とは何かの問題になるだろう。即非対子においては、「粒子」性と「波動」性は不可分一体である。「粒子」即「波動」である。これが、思うに、量子論における相補性とは異なる点ではないかと思う。量子論の相補性とは、イデア/現象境界、すなわち、メディア界における相補性であるからである。即非対子の相補性は、イデア界における相補性なのである。これを、元相補性と呼ぶことができよう。

 今は、ここで留めたい。

2007年02月18日 (03:22)

女性と男性について:『嵐が丘』における悲劇から喜劇への転換について:PS理論の視点から

どうも、左回転、右回転という考えを持ち込んだら、混乱してしまったので、それは、置いておきたい。

 混乱の原因は、⇒+1と⇒-1の考え方にある。私は、虚数軸が実数軸へ転換することを考えていたが、それが誤りだと思う。そうではなくて、虚数軸のiと -iとは、差異共振様相のときは、+1へと転化し、連続的同一性様相のときは、-1へ転化すると、単純に見ればいいと思うのである。つまり、軸の変換ではなくて、実数軸上の転換と見るべきなのである。

 では、それに基づいて考え直してみよう。すると、男性は、知性による連続的同一性、即ち、i*-(-i)⇒-1の傾斜があるとなるだろう。そして、女性は身体による連続的同一性化、即ち、-i*(-i)⇒-1の傾斜があるとしよう。

 -1は、差異的同一性の否定であるから、差異共振シナジー・エネルギーが抑圧されていると言えよう。とまれ、以上の作業仮説によれば、男性は身体を否定し、女性は知性を否定することになるだろう。少し異論もあるが、この線で考えよう。

 そう、問題は意識と無意識である。男性はiに傾斜して、女性は-iに傾斜しているとしよう。つまり、男性の意識はiに傾斜し、女性の意識は-iに傾斜していると考えるのである。

 そうすると、男性は-i=身体に無意識であり、女性はi=知性に無意識であるということになろう。

 そういうこととして、先の考察、すなわち、『嵐が丘』のキャサリンの考察をやり直そう。

 ヒースクリフとキャサリンは、男性と女性の典型かもしれない。ヒースクリフは、キャサリンを自我的に独占化する。キャサリンは、身体的に、ヒースクリフを同一性化する(「私はヒースクリフ」)。しかし、キャサリンは、やはり、身体的に、金持ちのエドガーと同一性化するのではないのか。否、違うだろう。エドガーに対しては、無意識的な知性が反応しているのではないだろうか。貧乏人のヒースクリフと結婚したら、一生貧乏のままであると、キャサリンの無意識の知性が考えているのではないのか。キャサリンの自我は、無意識的であり、同一性が欠落していると言えるのではないのか。無意識的な自我である。というか、非同一性的自我である。多元的非自我である。しかし、自我というよりは、半自我ではないだろうか。だから、非同一性的半自我ないし多元的半自我ではないのか。

 つまり、キャサリンの「自我」は未発達であり、いわば、多元分裂的である。ここには、差異はあるが、同一性はないのである。⇒+1がないのである。

 キャサリンの半自我について、明晰に理論化する必要があるだろう。それは、何か。男性の場合は、連続的同一性自我が形成される。女性の場合は、連続的同一性身体が形成される。では、女性の「自我」はどうなるのか。

 思うに、それは、とりあえず、半自我でいいのかもしれない。男性のような連続的同一性自我にはならない。やはり、多元分裂的自我ではないだろうか。連続的同一性身体が女性においては主導的であり、「自我」は、従的なのである。身体が主で、知性が従である。

 では、この従的知性ないし従的自我は何なのか。同一性ではないだろう。同一性は身体であるから。ならば、差異なのか。おそらく、差異の可能性はあるだろう。女性の知性は差異である可能性はあるのである。ただ、身体的同一性によって曇らされると言えよう。

 女性の勘が鋭いとはこのことではないだろうか。女性の知性は差異であり、自我観念同一性によっては曇らされてはいないということになるだろう。

 ここで、キャサリンを考えると確かに、キャサリンの思考には、鋭敏さを認めざるを得ないだろう。ヒースクリフと結婚したら、一生貧乏のままである。そして、エドガーと結婚することで、二人とも貧乏から脱することができる。倫理的ではない(他者がない)が、ここには、ある明晰さがある。

 しかしながら、キャサリンの知性は差異的同一性(+1)ではなく、差異的多元性ないし差異的分裂性である。これは、⇒∞であろうか。否、やはり、⇒-1 であろう。これは、連続的同一性身体を意味するのだから。そして、連続的同一性とは、半面で、多元的分裂性を帯びるのではないだろうか。キャサリンの場合は、知性的多元分裂であった。男性の場合は、身体的多元分裂ではないだろうか。

 身体的多元分裂とは何だろうか。感覚分裂ではないのか。感覚細部への偏執ではないのか。この細部感覚が多元分裂するということではないのか。パラノイアである。パラノイア的多元分裂である。

 ジェンダーについては、ここで留めるが、最後に、『嵐が丘』の結末を考えたい。ヒースクリフは、キャサリンの亡霊を見ることで、精神的に和解することになるのであるが、これは何を意味するのか。

 ヒースクリフの憎悪(ルサンチマン)が消えて、赦しの精神が現われるのである。これは、一見、ヒースクリフの連一性自我の肯定のように思われるかもしれないが、これは、亡霊との関係であるから、差異共振性ではないだろうか。差異的同一性ではないのか。生者ヒースクリフと亡霊キャサリンとの間には距離があるから、連続的同一性にはなり得ないのであるから、差異的同一性であると考えられるのである。

 そうすると、『嵐が丘』という凄絶なジェンダー的連一性悲劇が解体して、差異的同一性というある種の喜劇がここに発生したと言えるだろう。(ここで、喜劇は、ジャンル的に捉えないといけない。『神曲』が原題では、『神聖喜劇』であるが、この意味においてである。)

 結局、ヒースクリフが他者を確認したことになるだろう。キャサリンの亡霊が他者である。いわば、亡霊ということで、超越性がここにあり、その距離をもって、同一性を確認しているのである。だから、差異的同一性なのである。

 だから、『嵐が丘』は、喜劇に入るのである。近代的自我喜劇である。では、この悲劇から喜劇への転換のポイントは何か。

 そう、一種恩寵のような意味をもつ亡霊の出現であろう。やはり、超越性の出現である。i*(-i)の出現である。これが、⇒+1となったと思われるのである。超越界・叡知界・イデア界の出現である。これは、トランス・モダンの小説ということになるのかもしれない。

2007年02月16日 (20:37)

予知夢と老賢者

今朝、不思議な夢を見た。私の夢は正夢というか、言わば、予知夢になるので、検討したい。

 何か、バスの中で、あるいは、会場で、私の前に座っていた老人がこちらを向いて話してきたのである。目が大きく光っている印象である。そう、遮光土器の目のような感じもあるが、大きな、丸い目であった(フクロウの目と言うべきか)。彼は、(そう、バスの中である)福島出身で、なにか農業をしていて、今や、退職して、ドイツの詩人のヘルダーリンを研究するようなことを言った。そう、バスは、山を上って、ドイツの高山に向かっているようなであった。
 その後、場面は学会になって、誰かが、誰かの著書を見せて、ここには、間違いあるようなことを辛辣に指摘した。その後、何か、口論のような感じがあったが、目が覚めたのである。

 ある意味では他愛のない夢であるが、どうも、福島出身の、ヘルダーリン研究するという、ドイツの高山に向かう老人(と言っても、元気がある老人である)は、ユングが説いた老賢者に相当するのはないかと思ったからである。夢の中で、私は、老賢者に智慧を学んでいたのだろうか。

 大きな丸い、暗く光る目、なにか眼鏡をかけている目が印象的であった。フクロウのような目、これは、ミネルヴァの梟(ふくろう)=智慧の女神アテネ=ソフィア(叡知)に相当するのではないだろうか。つまり、哲学を示唆しているのではないだろうか。では、なぜ、ヘルダーリンなのだろうか。なぜ、ドイツなのだろうか。ユングは、スイス人である。とまれ、山岳ということで、アルプスであろう。アルプスならば、スイスもドイツも一連なりである。なぜ、ヘルダーリンなのか。そう、ヘルダーリンは、古代ギリシアを志向した大詩人である。ここでは、やはり、哲学を意味していると言えよう。端的に言えば、イデア界=叡知界であろう。

 思えば、不連続的差異論が誕生する二日前にも、夢を見て、美しい女の子が生まれるたのである。それは、ソフィア(叡知)ではないかと思ったのである。
 
 とまれ、彼が老賢者ならば、これも、叡知・哲学を意味しよう。そう、太母と老賢者は一体であると言えよう。太母の中に、老賢者がいると言ってもいいだろう。

 後、夢や眠りについて述べたいが、後で考察することとして、簡単に言うと、以前述べたように、眠りや夢は、「心」がイデア界に回帰しているのではにかと思えるのである。そこで、差異共振シナジー・エネルギー=元気を補給されるのではないかと思えるのである。そう、それは、シュタイナー的に言えば、霊界であり、死者もいるのである。

 なぜ、予知夢となるのかと言えば、それは、イデア界の原事象を知るからではないのか。体のことで言えば、それは、身体の細部を理解しているのである。身体のイデア/物質事象を認識しているからではないのか。誰が認識しているのか。それは、「心」ではないだろうか。個化された「心」が認識しているのではないのか。

 では、個化された「心」とは何か。これは、特異性の「心」であろう。では、イデア界と「心」はどう関係するのか。「わたし」の「心」と他者の「心」はどう違うのか。イデア界の特異性化とは何か。これらは、後で検討しよう。

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参考:

太母と老賢者 − 太母は、自己元型の主要な半面で、すべてを受容し包容する大地の母 としての生命的原理を表し、他方、老賢者は太母と対比的で、同様に自己元型の主要な半面で、理性的な智慧 の原理 を表す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%9E%8B

* 老賢者(Alte Weise) : 自己の主要な一面としての父権的な選択的精神 原理 (ロゴス )として、老賢者の元型が作用する。太母 の対語。
* 太母(Magna Mater) : 自己の主要な一面としての母権的な受容的生命 原理 (エロス )として、太母の元型が作用する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6

Wise old man
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A wise old man: "The Scholar in Mediation" by Rembrandt
A wise old man: "The Scholar in Mediation" by Rembrandt

The wise old man (or "Senex ") is an archetype as described by Carl Jung . It is also a classic literary figure, and may be seen as a stock character .[1]

This kind of character is typically represented as a kind and wise, older father-type figure who uses personal knowledge of people and the world to help tell stories and offer guidance that, in a mystical way, may impress upon his audience a sense of who they are and who they might become, thereby acting as a mentor . He may occasionally appear as an absent-minded professor , losing track of his surroundings because of his thoughts.

The wise old man is often seen to be in some way "foreign", that is, from a different culture, nation, or occasionally, even a different time, than those he advises. In extreme cases, he may be a liminal being , such as Merlin , who was only half human.

In medieval chivalric romance and modern fantasy , he often appears as a wizard .[2] In the same works, he can also feature as a hermit , who often explained to the knights -- particularly those searching for the Holy Grail -- the significiance of their encounters.[3]
Contents
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* 1 Terminology
* 2 Examples
o 2.1 Historical
o 2.2 Mythology
o 2.3 Literature
+ 2.3.1 Fantasy literature
+ 2.3.2 Comics
o 2.4 Television and film
+ 2.4.1 Science fiction
+ 2.4.2 Animation
o 2.5 Computer and video games
* 3 References
* 4 See also
* 5 External link

[edit ] Terminology

Jung dubbed this character as a senex . This is Latin for old man in general, and in fact, two stock characters of the stage are the senex iratus , an old man who irrationally objects to the love of the younger characters, and the senex amans , an old man foolishly in love with a woman too young for him. This senex, unlike these characters, has grown old graciously. His wisdom is not only in his increased knowledge and judgment, but his knowing that younger people have taken on the role of hero, and that his position has changed to one of mentor.

Merlin fell from the role of senex to senex amans when he fell in love with Nimue ; this lapse from judgment is what led to his being enchanted and imprisoned.

http://en.wikipedia.org/wiki/Wise_old_man

2007年02月16日 (17:48)

差異共振シナジー・エネルギーの発現の仕方:その3:地人類史における-1の事象と+1の事象の相補性

差異共振シナジー・エネルギー、すなわち、イデア・エネルギーについてさらに考察を続けると、これは、デュナミス=ポテンシャル・エネルギー=可能態ないし潜在態である。これは、垂直的エネルギーである。

 これが、水平化するのが現象化である。思うに、±1の両極に現象化するのではないだろうか。そう、一般に生命体はそのようなものではと思う。おそらく、 -1が♂で、+1が♀である。しかし、これは、単極的ではなくて、双極性における傾斜である。すなわち、雌は、双極性における+1で、雄は、双極性における-1である。そして、双極性の力学は、+1と-1は牽引力が働くということだろう。これが、性的力であろう。これは、人類でも同じであろう。男性は、- 1から+1を志向する。つまり、イデア界を志向するのであり、女性は、+1から-1の現象界を志向するのである。これで、女性が外見にだまされやすいのがわかるだろう。女性は本来イデア界的存在なのであり、それが、現象化へと志向するのである。だから、自然現象的である(p.s.  思うに、女性の性的志向性は、二重であろう。外見と内面の両方向に魅かれる、あるいは、引き裂かれるはずである。外見の恋人と内面の恋人の二人を志向するのではないだろうか。性に関する達人であったD.H.ロレンスの『てんとう虫』を参照。そこでは、女性(ダフネ)の二人の恋人が出て来るのである。昼の恋人(夫)・バジルと夜の恋人・ディオニスである。)。それに対して、男性は本来現象界的であり、それでイデア界を志向するのである。しかし、連一性のために、世俗権力を志向してしまうのである(と思う)。

 さて、本論にもどると、垂直的超越エネルギーが水平的現象エネルギーに転化するのであるが、これは、本来、両極・双極・対極的であり、i*(-i)⇒± 1であると思われるのである。-1が物質であり、+1が精神である。だから、動物にも精神があるのである。人間の場合は、エネルギーの強度が他の動物よりもはるかに強いと思われるのである。そして、連一性(連続的同一性)に傾斜していると考えられるのである。だから、言語を作り出したと言えよう。
 
 即ち、人類は、エネルギーの現象的発出が-1に傾斜して、非対称的となっていると考えられるのである。だからこそ、智慧・叡知が必要なのである。これを賢者は太古から説いてきたのである。しかしながら、一神教的西洋文明は、-1の物質主義文明を構築して、ほぼ智慧・叡知を排除してしまったと考えられるのである。(現代日本はこの帰結を呈しているのである。欧米文明は、確かに、-1が強いものの+1を内包しているのである。個人主義の個がそうである。個主義と言おう。)

 思うに、人類の場合、自然の均衡秩序性から見て、相補性となるエネルギーが流入すると思われるのである。-1のエネルギーに傾斜してい