2007年03月31日 (17:06)

MePoは連続性と不連続性との即非的一性点である:MePoは、上点と底点に分ける必要はないだろう

先に、底点MePoということで、試行錯誤したが、端的に言って、上点MePoと底点MePoに殊更分ける必要はないだろう。

端的に、MePoは、連続性=現象界と不連続性=超越界との即非的一性点と定義すればいいのである。

2007年03月31日 (12:48)

メディア・ポイントの実数軸の構造について:顕在的連続的超越点と潜在的差異点の複相性

思うに、メディア・ポイント(以下、MePo)の底点の構造が、もっとも重要な点の一つだと思える。

先に、連続的極性と切断・不連続化という点で検討したが、さらに精緻化したい。

ここは、核心的であるから、複雑である。

思うに、MePo底点は、無意識ないし純粋意識ないし原意識と考えるといいかもしれない。あるいは、祖意識である。

現象化の原点でもある。

フッサール現象学で言えば、ノエマとゼロ度の外的対象の二重構造ではないだろうか。

内的対象としてのノエマがあり、外的対象であるが、まだ、個別化されていない、ゼロ度ないし空(くう)の外的対象がある領域ではないだろうか。

そう、やはり、実数軸のゼロ度と見た方がいいと思う。しかし、虚数軸のゼロ度との即非的に重なっていると言えると思う。

つまり、MePo上点は、主体としては、虚数軸のゼロ度で、志向性の終点としては、実数軸のゼロ度、即ち、MePo底点をもつだろう。

しかし、MePo底点は、主体は、実数軸のゼロ度であり、エネルゲイアとしては、MePo上点あるいは虚数軸を示唆ないし暗示していると思う。

この示唆ないし暗示が微妙であると思う。これをもっと明晰にする必要がある。デリダの用語で言えば、痕跡である。そう、ロマン主義的に言えば、憧憬のようなものではないのか。地上にあって、故知らず、漠然となにか遥かなものに憧れる心性である。

しかし、どうしてこのような心性が生起するのか。分かり易く言えば、「魂」である。思うに、この底点MePoは、揺れ動く、あるいは、いわば、点滅するような心性のポイントではないだろうか。

即ち、基本は、実数軸上のゼロ度の点であるが、同時に、そこに虚数軸のゼロ度のエネルゲイアが作用するのである。私がこれまで、内在的超越性という用語を用いてきたが、ちょうど、それに当たるようなポイントではないだろうか。

つまり、実数軸上のゼロ度とは、正に、現象内在性を意味するだろう。そして、これが、同時に、虚数軸のゼロ度であるというのは、超越性である。だから、内在的超越性である。

しかし、ここには問題がある。内在的超越性という観念では、虚数軸の超越性を正しく記述していない。端的に言えば、内在性という観念が基礎にあり、それは、あくまで、現象界が基盤であり、超越界は、正確には、記述されていない。

だから、ここで、内在的超越性という用語をこれまで使ったことは誤りであったので訂正したい。内在的超越性とは、実は、ドゥルーズやデリダの思想に当てはまる考え方だと思う。あるいは、ハイデガーの思想にである。

これは、端的に言えば、構造主義である。即ち、内在的超越性=構造主義の構造性である。

ここでのポイントは何かと言えば、連続性である。

即ち、実数軸上の現象界における内在性から、現象界と超越界を連続化してしまうのである。つまり、超越性を正しく超越性ではなく、現象界内部の事象として捉えてしまうのである。ドゥルーズがいう超越論性や内在性とは正にこのことであり、ハイデガーの存在も同じだと考えられるのである。

言い換えると、実数軸上のゼロ度は、連続性の傾斜をもつので、超越性を内在的に連続化してしまうということである。

実存主義も結局、同じである。フッサールの切り開いた画期的な地平を現象内在的に閉ざしてしまったのである。内在的超越性という現象内在的構造観念が、結局、ポスト・モダンまで影響しているのである。実存主義も構造主義も現象内在性という点では等価である。

ということで、まとめると、底点MePoとは、内在的超越性の点、即ち、内在的超越点である。それは、また、言わば、現象内在的連続的構造点である。

確かに、超越性のエネルゲイアは顕現するが、それが、連続性へと偏向されるのである。超越性の連続化という歪曲がそこにはあるのである。だから、現象界から見れば、本来、不連続である超越性を連続化しているので、そこには、不合理・非合理な様相がある。だから、超越的エネルゲイアは、不合理・非合理なエネルゲイアになると考えられる。

そして、この不合理なエネルゲイアが、連続的同一性(近代主義)に結合することになるのである。これが、ブッシュのようなネオコン路線であろう。そして、それに対して、ポスト・モダンとは、連続的同一性を否定するが、それは、内在的超越点のエネルゲイアから発現したものであり、当然、不合理・非合理なものなのである。

両者はアイロニカルな没入となる。

結局、底点MePoは、内在的超越点、連続的超越点、現象連続的構造点、又は、連続内在的超越構造点である。

西洋哲学史から見ると、退行しているのである。19世紀、キルケゴール、シェリング、ニーチェ、そして、20世紀初頭、フッサール、そして、ウスペンスキーと、超越性を指摘した哲学・思想が出現しながら、それを埋没させて、連続内在的超越構造点に退行したからである。(しかし、東洋、日本では、超越性の哲学が創造されたのであった。)

思うに、哲学者が西洋において、劣化・退化したと言えるのだろう。また、日本においては、戦後、西洋かぶれの研究者が多いので、特異で普遍的な思考をできる者がいなくなったということであろう。知的隷属があるのである。(私見であるが、やはり、太平洋戦争で、日本の優れた若者が多く戦死したことが響いていると思うのである。戦争は才能を枯渇させもするのである。戦後日本がアメリカに隷属したのは、単に、アメリカの支配力だけでなく、日本自体の知的劣化・退化も要因ではないかと思う。)

さて、もう少し展開すると、メディア・ポイントは、確かに、連続化へ傾斜しているが、しかしながら、同時に、⇒+1への地平も開かれているのである。

端的に、言えば、底点MePoは、連続化への傾斜と同時に、差異化への潜在性ないし可能性もあるのである。もっとも、明らかに、連続性へと傾斜しているのであり、差異へとは傾斜していない。

この差異化への潜在性・可能性を発展させることができるのである。それは、フッサール現象学等の目指すものであるが。

だから、底点MePoをより十全に解明するならば、それは、連続的超越点であるが、同時に、差異的潜在性をもつと言わなくてはならない。

言い換えると、底点MePoは、連続的超越点が顕在化しているが、差異化への潜在性をもっている。即ち、 顕在的連続的超越点且つ潜在的差異点であるということになる。このような複雑性、複相性をもっていると考えられる。

フッサールは現象学的還元、スピノザは能動的観念によって、潜在的差異を志向したと言えよう。(フッサールは内省がそのための指導的な心的作用と述べているが、内省で正しいのであるが、意味が伝わりにくいので、私は、内照・内的照明と呼びたい。)

とまれ、以上で本件を終了したとしたい。

p.s. 思うに、底点MePoの構造をより明快に言うならば、顕在的連続的差異点と潜在的超越的差異点の複相性ではないだろうか。

より整合的に言うならば、内在的超越点に於ける連続化される超越的エネルギーとは、本来、潜在的差異点に存しているだろう。

言い換えると、底点MePoには、差異の連続化への傾斜(⇒-1)と差異の共振化への潜在性(⇒+1)の二重性があるのであり、超越的エネルギーは、両者に存すると言えると思う。

しかしながら、さらに複雑なのは、連続性への傾斜があるので、即ち、連続性への顕在性をもつので、底点MePoは、連続的空間に傾斜しているということであり、そのために、形成される連続的同一性に対抗する差異の志向性が、純粋に共振化ないし超越化せずに、連続化への傾斜をもつということである。

つまり、潜在している差異共振性(⇒+1)が、純粋に発現できずに、連続的差異化する傾斜があるということである。

換言すると、底点MePoにおける連続的傾斜のために、潜在的差異=差異共振性=特異性が、連続化される傾斜をもつということである。

だから、とても複雑である。

さらに言い換えると、底点MePoには、超越的エネルギーが発現するが、それは、実数軸上なので、差異は現象化=同一性化する。それは、連続性と不連続性の二重性をもつ。しかし、連続性に傾斜しているので、差異は連続的同一性(⇒-1)へ傾斜する。

しかしながら、差異の現象化=同一性化における不連続性(差異の共振性)が潜在している。これは、⇒+1である。これは、差異の不連続的同一性を意味する。しかし、これは、あくまで、潜在性として存する。

ここまで整理すると、底点MePoにおいて、超越的エネルギーは、差異の連続的同一性傾斜と差異の不連続的同一性潜在性に分化する。

しかし、底点MePoは、連続性に傾斜している。だから、連続傾斜点と呼べる。

そして、差異の連続的同一性が形成されるが、それに対して、差異の不連続的同一性潜在性は、いわば、違和感を覚え、反抗・抵抗・反逆する。つまり、否定しようとするのである。

しかしながら、問題は、不連続的同一性潜在性は、自身の特異性・異質性を理解せずに、否定的に反動化するのである。

連続的同一性への否定であるが、それは、同時に連続的な反動性である。

ここでは、相剋様態があるのである。そして、この相剋様態の極限が、末期近代事象であり、そこでは、連続的同一性の近代主義と反連続的同一性のポスト・モダンが相剋するのである。ともに、連続的空間にあるのである。

ドゥルーズやデリダの思想は、この後者である。それは、本来は、不連続的同一性であるものを反動的に連続化しているのである。

底点MePoにおいて、不連続的同一性を連続化させて、対抗しているのである。

底点MePoは、構造と言っていいだろう。だから、構造主義的反動なのである。

しかしながら、現象化である連続的同一性を否定するので、それは、現象化自体を否定して、それ自身無力・無能となるのである。ポスト・モダンの自壊・自滅である。

このポスト・モダンの自壊・自滅が、90年代に生起したと言えよう。そして、過剰な連続的同一性がネオコンとして発動したと言えよう。

そして、イラク戦争である。

そして、今や、トランス・モダンの潮流が発現しているのである。

それは、潜在的であった不連続的同一性が顕在化してきたことである。そして、これを正当に理論化するのが、この潮流から生まれたプラトニック・シナジー理論であると断言する。

未だ、無意識的に、不連続的同一性(⇒+1)が発現していると考えられるが、これをPS理論によって自覚的に認識することで、エネルギーが爆発的発動すると言える。

さて、試行錯誤したが、結局、底点MePoは、構造主義の構造であり、それは、連続的同一性の現象化(⇒-1)と不連続的同一性の潜在化(⇒+1)を併存させているが、連続性の傾斜のために、両者は連続的空間を形成して、両者が反動的に相剋様態となる。しかし、ここで、この連続的空間を切断することで、不連続的同一性が顕在化し、トランス・モダンが進展的に発動することになる。

だから、ポイントは、底点MePoの構造連続空間にあるのである。これを、切断することで、近代主義は乗り越えられ、トランス・モダンへと転換するのである。

p.p.s.
底点MePoであるが、ここにおいて、また、神剣が生起するのである。これをどう考えたらいいのか。

以上の考えでは、底点は、構造連続空間である。しかし、神剣は、直観的に、超越的である。これは、矛盾する。

端的に言えば、神剣は、超越界のシンボルである。

しかし、底点メディア・ポイントでは、超越性が連続性によって隠蔽されるのである。この齟齬をどう見るのか。

ここで、潜在的不連続的同一性のことを考えたい。これは、連続構造空間ないし連続構造点においては、確かに、潜在したままであるり、反動化したりする。

しかし、なんらかの状態において、潜在性が賦活されるときが考えられる。

禅や瞑想は、そのような心的状態をもたら方法であろう。

また、自然に単独的に触れるのもそのような状態をもたらすことがあるかもしれないし、また、優れた書物や芸術に触れてそのようになるだろう。

だから、底点メディア・ポイントにあっても、超越性の「訪れ」はあるのである。

思うに、神剣は、連続性の切断の意味もあると思う。

イエスの剣も本来、そうではなかったのか。連続的共同体を切断する剣ではなかったのか。

直観的に考えよう。

端的に、神剣は、超越界の現象界への介入の証・徴だろう。(P.K.ディックの『聖なる侵入』)

これは、一神教的だと思う。

思うに、多神教のクリシェー化・陳腐化があるのだと思う。

多神教は本来、差異共振性をもつ。しかし、これが、底点メディア・ポイントを介して、連続化し、堕落する傾向はあるだろう。

どうもこれが一神教的革新の意味ではないだろうか。

多神教の連続的堕落化があり、それに対して、一神教的革新が発現したと思うのである。結局、過程的に宗教を見る必要があるだろう。

一神教は、連続的同一性化への傾斜をもつが、起源は超越界である。

一神教的超越界の現象界への介入のシンボルが神剣ではないだろうか。

これは、また、結界的な意味もあるだろう。

私は、以前、天皇教に批判的であったが、しかし、天皇教的一神教は意味があったと考えられる。それは、多神教的古日本を震撼させたと思う。

そして、多神教が活性化されたと思うのである。

それが、古代日本の悲劇的歴史の意味するものではなかったのか。

また、そこへ、仏教等が導入されて、さらに活性化されたと思うのである。

飛躍するが、アメリカの力は一神教の力でもある。折口信夫は日本の神がアメリカの神に敗れたと考えた。

結局、明治近代で、いわば、天皇制的一神教的革新を日本は行ったが、それは、思うに、多神教を活性化するようには向かわなかった。日本の多神教的魂が眠ったままだったと言えるか。

もし、多神教が活性化していたなら、太平洋戦争はあり得なかったであろう。

そして、現代、安倍内閣は、戦前的な一神教的日本を復古させようとしている傾向が見られる。

それが、多神教ヤポネシアを復興させるのか。

反動的である。

やはり、端的な超越界の介入・侵入・参入が必要である。プラトニック・シナジー理論はそういうものである。

新たな超越界の介入としてのプラトニック・シナジー理論である。

新たな神剣として。

結局、底点メディア・ポイントは、連続性傾斜空間であり、堕落するポイントでもあるのである。新たな結界、新たな神剣が、求められるようになるのである。

2007年03月30日 (16:10)

夢:続き:断片:海での水泳と学会:アメノウズメと盤座(イワクラ)

今朝も夢を見たので記しておこう。しかし、記憶はあやふやであるので、順序は無視して、思い出せる断片を箇条書きする。

1)海ないし海流に、エクスタシー的に浸っていた感じがある。これは、はっきりとしない記憶である。

2)地図で、女性たちの島を指す。それは、沖縄と台湾とフィリピンの中間辺りである。いわば、竜宮城である。これは、沖縄近海の沈んだ古代王国を想起させる。大洪水の神話を参照。

3)船でその島に行く直行便はない。オーストラリアの方へ行ってしまう。

4)港であろうか、待合室で、島の女性達と話していたようだ。

5)私の地元の海岸で泳いでいる。回りの人と同じような水着を着ていると思ったら、たんに、ランニングとパンツだけである。とにかく、気持ちよく泳いでいる。そう、それは、河口付近の浅瀬であるが、それ以前に、海原で気持ちよく泳いでいたと思う。

6)知りあいの部屋で、稀覯本の辞書を見せてもらう。それ以前に古本屋にいたような感じである。

7)後半になるが、バスの中で、黒人の少年がいて、パイプようなタバコ等を私のポケットに入れる。また、小さなお守り袋のようなものも入れる。バスの席には、小さなテレビがついてる。それは、有料のもので、コインを入れないといけない。少年は、コインを入れるように私にせがむが終着駅が近いので、拒否する。 

その後、鉄道の駅について、駅員に、少年は不良であると教えられ、少年がポケットに入れたものを指し出すが、お守り袋が見つからない。

8)これは、7の続きだと思うが、私はタクシーに運転手に、ある場所を頼むが、地図を見せて近くだと言う。それは、駅の中を通って、地図の上方へ行った地点である。(解読するに、上方は、超越的上方だと思う。つまり、私がバスから降りて向かう学会は、超越界だと思われる。)

9)8の続きであるが、今度は、待合室で、外国の学会に参加する人たちの10数人ほどいる。私はかなり自信をもっている。参加する人たちも、立派に見える。ここいらで目が覚めた。

10)今、思い出したが、それ以前に日本の学会がある。なにかハンドアウトがあったが、思い出せない。それと先ほどの稀覯本の辞書と関係しそうである。

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解明:

今は簡単に言うが、琉球の神話とアイルランド神話は他界の観念等において、よく似ているのである。また、琉球の神話は、コスモロジーをもっていて、普遍的な特徴があると思う。

思うに、海にエクスタシー的に浸っていたというのは、ニルヴァーナ=超越界に存していることを意味しよう。現象的に言えば、子宮内存在であろう。海は現象的には、羊水である。

だから、やはり、アメ(天)=アマ(海)である。

大地や岩(盤座[イワクラ])は、メディア・ポイントであろう。これは、中間領域である。

巨石文化であるが、これは、ストーンヘンジ等から見て、太陽信仰と関係する。これは、普遍的である。

岩と渦が関係するだろう。

思うに、メディア・ポイントを底点から見たときが、岩や大地であり、上点(頂点)から見たときが、アメノウズメではないのか。

上層が海で、下層が大地ではないのか。

大海と大地である。

つまり、女性性器と男性性器である。

太陰と太陽である。

これは実に興味深い。

超越界には、超越的太陽があるが、それが太陰であるというのは。

太陽=太陰となる。

用語が混同するので、太極性において、太陰を原陰、太陽を原陽としよう。

つまり、大海=天上界は原陰であり、大地=地上界は原陽となる。

すると、超越的太陽=天照大神とは、原陰である。そして、大地は、男根・ファロス、陽石である。

とまれ、原陰と超越的太陽が一致するのである。海と天が一致するのである。正に、アマ=アメである。

水と光が一致するのである。つまり、超越的即非事象とは、水即光である。

これは正に、お水取りではないか。

光水である。

即非の一(いつ)の側面では水であり、非の面では、光ではないだろうか。

融合と差異である。

水は融合であり、光は差異である。

これが、原陰=超越的太陽=天照大神であろう。

そして、これが、メディア・ポイント(天鈿女命)介して、現象化するのである。メディア・ポイントの基底が猿田彦であろう。これが、盤座であり、岩であり、オンファロスであろう。即ち、男根・ファロスである。

つまり、天鈿女命と猿田彦とはメディア・ポイントして一体である。上点が天の岩戸(子宮や女性性器)であり、底点が盤座であり、オンファロス(ファロス・男性性器)であろう。

しかし、これは、同じものである。天照大神(高天原)が、天鈿女命/猿田彦(=メディア・ポイント:イザナミとイザナギの回った柱)を介して、大地へと天降るのである(天照大神のエネルゲイア)。そこに、日御子が生じるのである(女神の子)。

それは、同時に、八岐大蛇であり、スサノオである。

つまり、もともと、月=日なのである。原陰=超越的太陽=海即非太陽=月即非日なのである。

天照と月読みは一体である。(太陰太陽暦は鋭いのである。)

これが、太母であろう。処女生殖である。竹取物語である。

つまり、太母は、月即非日であり、同時に、子(ファロス)である。つまり、太母は、正に、両性具有なのである。

ただし、生命の進展において、雌雄の分離が発生した。これは、同一性の発生であろう。本来は、差異共振性であるからだ。

そして、文化・社会史的には、父権制・一神教の発生である。

即ち、先に述べたように、超越界と現象界との絶対的分離・乖離が発生してしまうのである(楽園追放)。

「原始、女性は太陽であった」とは、ここから見ると半面の真理である。女性は、水光・月日、女男(めお)・夫婦(めおと)であったのである。正に、太極である。これを玄牝というのは、誤解を呼ぶだろう。玄を黒と理解してしまうからである。原女・原母とは、原女・男である。

ここで古代ギリシアのエレウシスの秘儀で考えると、母デーメーテールと娘コレーとの関係は、メディア・ポイントを介して、超越界と現象界の関係であろう。大地母神とは、超越的太陽である。

そして、ケレーニイが述べる根源的な三柱の女神(デーメーテール/コレー/ヘカティー[月の女神])であるが、超越的起源から言うと、デーメーテールとヘカティーが根源的対である。日と月の即非的対である。日月即非一性である。

だから、「原始、女性は日即非月であった」のである。金銀である。

これが、プラトニック・シナジー理論的トランス・モダン・ジェンダー論となるだろう。

女性は、根源的玉座に復位するだろう。

新母権制である。

男性は、女性の従者になるだろう。

両性の平等にはならないのではないだろうか。

ここで、マゾッホの小説を想起する。

また、エジプト神話を想起する。天上は女性であり、地上は男性である。これは、実に正統な配位であろう。

女神が大地母神となっているのは、転倒なのである。それは、父権的二項対立によって、貶められた価値観である。女神は、メディア・ポイントを介して、天であり、且つ、地なのである。

思うに、易経は、根源的女神教であろう。それは、女媧の理であろう。(女媧の媧であるが、ウズである。これは、女性性器であろう。当然、天鈿女命が関係する。)

いろいろ書きたいことはあるが、今はここで留めておこう。

2007年03月29日 (19:33)

連続的同一性化と差異的同一性化との力学:差異と同一性の連続的混沌と超越的差異即非共振性

先に少し言及したが、途中なので、ここで検討を行う。

これまで、⇒-1と⇒+1とはメディア・ポイントMePoの実数軸において、構造(構造主義の構造)を形成し、そこに極性があると想定してきた。

つまり、-1の極と+1の極があり、近代主義とは、前者へ傾斜した場合と考えたのである。

ここで作業仮説だが、MePoの超越的上層(上部)において、差異即非様相をデュナミス=ポテンシャル・エネルギーとしよう。そして、そこから、エネルゲイアが発動して、MePoの下層(底部)へと螺旋回転するとしよう。

このMePoの下層(底部)が、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの中間であると言えよう。つまり、ここでも、即非的一性としてのエネルゲイアがあるのである。

だから、MePoの下層部は、現象化の始点であり、実数エネルゲイア即ち、物質エネルギーの原点である。

しかし、思うに、MePoの底部は、あくまで、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの即非的交点であるから、ここは即非的エネルゲイアないし即非的エネルギー又は虚・実即非エネルギーが存すると見ることができよう。

(さて、現象化であるが、明快にするために、MePoの底部を底部MePoないしSub-MePo, Bottom-MePoとしよう。そして、上部を上層MePoないしSupra-MePo, Top-MePoとしようか。正確に言えば、底部は底点であり、上部は上点であるが。)

この底点MePoは、虚数・実数即非エネルゲイア(エネルギー)をもっているというように記述できる。

さて、現象化であるが、それは、この底点MePoの即非エネルギーの発動による。それは、思うに、不思議なエネルギーの発動であり、発現である。

なぜなら、一方では、超越エネルギーであり、他方では、物質エネルギーであるからである。

超越エネルギーを差異、物質エネルギーを同一性と見ることができよう。

差異(超越エネルギー)-同一性(物質エネルギー)-差異(超越エネルギー)-・・・

である。差異をD、同一性をI、超越エネルギーをTE(Transcendental Energy)、物質エネルギーをME(Material Energy)と表記しよう。

すると、

D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-・・・

となるだろう。

もっとも-の記号は即非性であるから、☯を使用するといいだろう。

すると、

D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯・・・

となる。

明瞭にするため、

D-I-D-I-D-I-D-I-・・・

を使用する。

DとIとの即非様態が現象界である。

そして、これは、明確には、i*(-i)⇒+1ないしm(ic)*(-ic)⇒m・(+1)・Eで記述される。

問題は、これを、同一性の連続空間と見る近代主義である。

それは、I⇒I⇒I⇒I⇒・・・

である。即ち、⇒-1である。

これは、現象界を単に物質・機械的世界と見ることである。

現象界の底点MePoに於ける差異性ないし超越性を否定・排除するものである。

この否定・排除の力学を解明したいのである。

私はこれまで、一神教・父権主義における連続性への傾斜を述べてきた。

これは、差異と同一性との関係で言えば、同一性への傾斜と言うことができる。

では、傾斜とは何か。

これは、フッサール現象学で言えば、ノエマと外的対象を同一化することではないだろうか。ノエマという自己内観念を、外的対象へと投影して、一体化することではないだろうか。

これは、先に触れた、遠近法や奥行きや第3次元空間の問題と関係しよう。

ノエマと外的対象とを同一化したものが、同一性である。ノエシス-ノエマの差異と外的対象の差異が否定されるのである。

ここには、明らかに、錯誤・倒錯・狂気があると言えよう。

これは、また、ヘーゲル哲学の問題である。

ヘーゲルの理性は、「全存在であるという確信」である。この全体性が僭越なのである。この全体性は何処から来るのだろうか。

これは、端的に、言えば、内的他者・ノエマの否定からだと思う。本来は、超越性があるのである。ノエシス-ノエマは超越性であると思うのである(超越論的主観性)。しかし、この超越性を否定して、全体性を形成すると考えられるのである。

内的他者との共振を否定して、主体が全体化するのである。

そう、ここには反動があるのである。思うに、現象界において、なんらかの苦の経験をする。それに対して、主体は身構えるのである。これが、内的他者との共振性の否定ではないだろうか。

外的対象に対して、主体は身構える。攻撃態勢と取るのである。それは、内的他者を否定して、形成される態度だろう。

つまり、外的対象への反感・反動が、共振的超越性の否定であり、全体性を発現させると思われる。

これが、連続的同一性の起源であろう。

即ち、i*-(-i)⇒-1である。

この反感・反動であるが、これは、どこで形成されるのだろうか。それは、思うに、原-身体と思われる-iが苦を感じて、それに対して、原-主体であるiが反感・反動化するというように考えられるならば、それは、-iとiとの相互作用であるが、反感・反動の主体は、iであると言えよう。

有り体に言えば、苦に対する否定として、連続的同一性が発生すると言えよう。-iの苦の様態の否定としての連続的同一性である。

否定様態としての連続的同一性である。

即ち、マイナスの《力》である。即非共振の力学を太極力学と言うならば、これは、太極力学におけるマイナスの《力》である。この場合は、iを陽、-iを陰とすれば、陽*陽⇒-1である。

結局、本来、陽*陰⇒+1であるが、陰を否定した様相になっている。

当然、否定された陰が潜在することになる。これは、いわば、潜在エネルギーである。そして、これは、本来、陽*陰のエネルギーであると考えられる。

そして、この、いわば、塞き止められた陰・陽エネルギーは、連続的同一性に対して、反作用するだろう。しかしながら、連続的同一性(自我)が強固である場合、それは、分裂性という様態を取るだろう。連続的同一性と陰・陽エネルギーの分裂である。そして、後者が前者に対して、非合理主義的な情動・衝動となって発動するだろう。これが、私が以前執拗に理論化しようとしてきた近代的自我の狂気ということであろう。パラノイアであり、「精神分裂症」である。

近代主義の問題を考えると、この連続的同一性が近代合理主義、唯物論となったのである。それは、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの反作用を非合理主義としてもっているのである。

しかし、連続的同一性を単純に否定して、陰・陽エネルギー、超越エネルギーだけを肯定するならば、それは、ポスト・モダンとなるだろう。ドゥルーズやデリダとなるだろう。

なぜなら、それは、iという原-主体性を否定することになるからだろう。ドゥルーズが超越論性ないし特異性とは非人称的且つ前-個体的なものと述べたように、主体性の基盤が消失してしまうだろう。

端的に言えば、連続的同一性の単純な否定は、同一性自体を否定することになるのである。そうすると、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの現象化である、本来の差異的同一性i*(-i)⇒+1が消失するのである。

つまり、連続的同一性の単純な否定は、底点MePoにおけるエネルギーの肯定ではあっても、現象化を否定することになると考えられる。何故なら、現象化、自己現象化とは、主体の能動性が必要だからである。即ち、i*(-i)の共振エネルギーは底点MePoにあるだろう。しかし、これは、原主体iの能動性があって、自己現象化が真に発現するのである。

即ち、⇒+1の形成には、原主体iの能動性が必要なのである。それが、連続的同一性にはあると考えられる。だから、連続的同一性を乗り越えて、差異共振化を能動的に認識して、差異的同一性という自己認識現象が生起すると考えられるのである。

だから、トランス・モダンとは、実に的確な命名である。モダンの行き着いたところを乗り越える(トランス)ということであるからである。

これは、現象学的還元であり、また、スピノザの能動的観念と関係するだろう。

以上から、整理すると、連続的同一性という反動的能動性に対して、超越エネルギーの反作用が生起する。

即ち、連続的同一性⇔超越エネルギー

である。これが、末期近代主義の様態である。

そして、この混沌した様態において、連続的同一性を不連続的超越性によって切断することで、連続化が解体して、同一性と超越性とが調和するのである。即ち、差異的同一性i*(-i)⇒+1が形成されるのである。

言い換えると、末期近代において、連続的同一性と超越エネルギー(差異エネルギー)の混淆様態が発現する。これは、混沌・混乱である。

しかし、連続的同一性の連続性を切断すること、即ち、同一性と差異性を不連続化することで、両者の調和への一歩が形成されるのである(不連続的差異論の段階)。そして、切断されて生起した、不連続的差異を即非・共振化することが、次のステップである(プラトニック・シナジー理論の第一歩)。そして、さらに、共振化した差異を超越性・虚数として認識することが到達点とほぼ言えよう(プラトニック・シナジー理論の成就)。

結局、以上から、末期近代において、一種、同一性と差異との連続的混淆様態における極性が生起すると言えよう。そう、連続的極性である。しかし、ここから、超越的差異へと飛翔するのは、必然的ではない。言わば、偶然的である。

確かに、そこには、可能性はある。そして、経験的にそのような心性を無意識的に形成するかもしれない。しかしながら、近代主義の枠組み・パラダイムにある限り、その経験的無意識的な心性は、独立できないだろう。

ここにプラトニック・シナジー理論のトランス・モダン哲学・理論としての創造的・画期的・ブレークスルー的意義があるのである。

この理論を契機にして、近代主義の悪魔の牢獄世界から脱出することができるのである。

この理論は、二千数百年の叡知の眠りから人類を覚醒させることになる。

p.s. 連続的同一性と超越的エネルギーの、いわば、相剋様態である末期近代の混淆・混沌様態であるが、ここにおいて、否定と切断の意味・意義を全く明確にする必要がある。相剋様態なので、ポスト・モダンのように連続的同一性の否定する傾向にあるとは言える。しかし、これは、反動である。つまり、両者の相剋様態とは、上述したように、連続様態なのである。即ち、連続的相剋様態なのである。だから、この連続様態を切断することが、この混沌からの脱出の第一歩なのである。これが、不連続化である。

つまり、否定は反動であり、アイロニカルな没入となるのである。そして、切断がこれからの乗り越え、脱出を意味するのである。

即ち、否定は反動であり、切断は超出である。

2007年03月29日 (15:48)

夢:続き:箇条書き:ブラームス、銀色のピアノ、海:天鈿女(アメノウズメ)

今朝も夢を見たが、とても断片的なので、箇条書きにする。夢の事象の順番は無視する。

1)ピアノが、都会の歩道に置いてある。その歩道とは反対の通りに私はいて、ブラームスの演奏が聞え、そのメロディーに魅かれる。ピアノ協奏曲第1番だろうか。プロのピアニストである。その前に、誰かが演奏していたようだが、忘れている。雨が降ってくるので、ピアノをビルの入り口の天井のあるところに移動させる。そこには、銀色のピアノが置いてあったが、それは、誰も演奏しない。

それ以前に、昔の同級生が、音楽をかけ、元気を出すようにさせるが、その音楽には興味が湧かない。それは、朝の音楽なのかと聞いたりする。

2)オフィスのデスクで、アルバイトをするが、ずるく、1時間ほどでそこにおいてあった文庫本を読んでしまう。なにか、昔の日本の話のような感じである。谷崎潤一郎風である。(p.s. 因みに、『細雪』は、三人姉妹の話である。そう、谷崎には、表面に現われた以外のものがあると思う。日本伝統母権文化を体現しているところがあると思う。)

3)その本の中の話だろうか、車輪のついた船があり、船の移動とともに、二人の人魚のような人物がらくらく泳いでいく。船よりも速く泳げるのである。私が船に乗って帰ると言うよりは、別の人が二人乗って帰るような感じであったか、不明瞭である。

この当たり、海に関係しているが、詳細は忘れている。

4)船で運ばれてきた、男女であろうか。押し込まれて疲れている感じである。楽にするために、海中に放り込まれる。何人もの女性が、逆さになり、股を広げて、性器を剥き出しにして、海に浮かんでいる。

5)あるアルバイトの女性と話をしている。私の異性関係について話をしている。私は、見栄を張り、何人も結婚の相手がいると嘘を言った。私は、なにか、ムーサイ(詩神)のことを考えて、そう答えた。

6)血液検査のような場面があった。採血の場面。また、血がこぼれた場面があった。

7)なにか、職場での共同の仕事があるが、よく憶えていないが、ピアノを置いてある入り口からビルに入り、上司らしきに仕事のことを聞かれるが、うまく仕事が捗っていることを簡単に説明する。
______________________________

目新しいものは、ブラームスの音楽、白銀色のピアノ、海である。音楽は、天河弁財天社の続きだろう。海が何を意味するのだろうか。海岸の場面があったと思うが、そこの記憶がない。

思うに、海は、天上と関係すると思う。そう、メディア・ポイントであろう。海岸や港もメディア・ポイントであろう。(p.s. 海は、聖母マリアとも関係するように、太母と関係するだろう。船が向かう先は、天上界・超越界であろう。)

どうも、私の夢の旅が終わりをむかえたようである。

人魚(天女?、天使?)たちが、「竜宮城」(超越界)へ帰還する感じである。

因みに、ブラームスの音楽であるが、交響曲第1番の第1楽章とピアノ協奏曲第1番が好きである。それ以外は、特に聴かない。前者の野性的なリズムは、むかし信州の戸隠神社の奥社で聴いた太鼓の響きを想起させる。荘重であり、崇高性がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://www.togakushi-jinja.jp/top.htm

p.s. 以下からわかるように、ブラームスもハンガリーやジプシーと関係がある。バッハとも関係がある。正に、重々しい大地を想起する彼の音楽であるが、ノマッドと関係するのか。

私は、交響曲第1番第1楽章に地霊を感じる。大地と宇宙との垂直的対話、とくに、大地から宇宙へと太々しい柱のように立ち上がるイメージを感じる。ティンパニーが、ドンドンドン・・・と和太鼓のように、泥臭く、リズムを刻み、それに弦楽器が高音でユニゾン的に移動する感じが、独特である。あの響きは、他のどこにも無いものである。特異性である。超越界を表現しているのかもしれない。

p.p.s. 考えたら、交響曲第1番第1楽章のイメージは、山岳が地底から天上へと盛り上がるエネルギーである。(p.s. また、これは、巨木が大地から天へとそびえ立つイメージである。これは、戸隠神社の参道の巨木の杉並木を連奏する。
http://www.dynax.co.jp/sinsen//photo/v/g_sugi.html )

3p.s. 逆さになり、股を広げ、性器を剥き出しにして海面に浮かぶ女性たちは、天上のエロースを意味すると思うが、戸隠神社関連からいうと、アメノウズメと関係しそうである。

4p.s. アメノウズメ天鈿女に興味を持った。これは、卑弥呼と通じるだろう。「ウズ」は、渦であり、メディア・ポイントの螺旋回転を想起する。そう、天鈿女命は、メディア・ポイントを意味している神道の重要な女神であろう。天照大神は、超越界の太陽である。天の岩戸は、メディア・ポイントの頂上の「門」であろう。日本のヴィーナスであるが、また、天上のエロースの表現であろう。後で、調べたい。

5p.s. 「アメ」は「アマ」と通じる。アマは、海人、海女で、海に関係する。天と海とが結びつく。だから、アメノウズメは、海の渦とも関係しよう。渦流である。やはり、メディア・ポイントである。

6p.s. 女性性器とメディア・ポイントあるいは、天の岩戸は関係がありそうだ。古代ギリシアの大地の臍(岩)に股がって、神懸かりになり神託を伝えたデルフォイのアポロン神殿の巫女たちを連想する。子宮は、超越界の比喩ではないだろうか。これらに関して、別稿で検討したい。

アメノウズメ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話 に登場する女神 。「岩戸隠れ」のくだりなどに登場する芸能の女神であり、日本 最古の踊り子と言える。古事記 では天宇受賣命、日本書紀 では天鈿女命と表記する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%A1


《vol.16 縄文の巫女

 前号(vol.15.土偶は本当に女神か )で土偶を女性と短絡することに疑問を投げかけた。またもし「仮面の女神」を、オホゲツヒメ神話のイメージから呼称しているとしたら適当ではない。むしろ土偶は巫覡(ふげき・シャーマン)像ではないかと私は思う。
 今一度茅野市中ツ原遺跡の「仮面土偶」を見てみる。上半身の文様は入れ墨や身体塗彩のようにも見えるが、乳房表現が無いことから何らかの衣服を着ているのだろう。とすれば、体の前面の襷(たすき)状の模様は袷(あわせ)を表現している。いわゆる右前の着物なのだろう。ただし、へそと陰部がはっきりと表現されているので、そこだけは切り抜いている。さらに、下半身を見ると陰部のまわりにはまったく遮蔽するものはないので、褌(ふんどし)やパンツのようなものははいていないことがわかる。同様の仮面土偶は辰野町泉水遺跡や山梨県後田遺跡に例がある。いずれも陰部を露出している。
 仮面土偶を考える上で比較すべき考古資料としては、時代は下るが古墳時代の陰部を露出した人物埴輪をとりあげたい(愛知県太夫塚古墳・大阪府豊中市釘貫など)。これらには巫女を特徴づける意須比(おすひ・襲衣)の表現が見られることから、辰巳和弘氏は巫女を象ったものだと推測する(『埴輪と絵画の古代学』白水社)。埴輪と土偶は一見関係なさそうなのだが、でも私は土偶の意味を解くヒントがあると思っている。
 なぜなら、縄文時代と古墳時代の間をつなぐ弥生時代には土偶や埴輪のような「土人形」的な造形はあまり発達しないのだが、かわりに土器などに線刻された「絵画」がある。「弥生の絵画」には、陰部が描かれた人物(奈良県唐古・鍵遺跡の壷形土器)。嘴をもつ鳥の頭に表現された(鳥の仮面をかぶった?)人物(岡山県新庄尾上遺跡)がある。
 縄文仮面土偶の特徴である仮面と陰部露出は、弥生時代の鳥装の仮面をするシャーマンに受け継がれ、さらに陰部露出は古墳時代の埴輪の巫女にまで継承されたと考える。
 辰巳氏は陰部を露出する巫女の描写が日本神話にあると指摘する。弟スサノヲの横暴に怒ったアマテラスは天の岩戸に引きこもった。アメノウズメは神がかりして胸の乳を露出させ、裳(も)の紐を陰部までおし垂らした。八百万(よおろず)の神がどっと笑った。不審に思ったアマテラスが少し覗いたところをタヂカラヲが間髪入れず天の岩戸をこじ開けたので、アマテラスは再び姿を現すことになる(『古事記』)。アメノウズメ神話は古代の巫女の所業を描写したものだろう。
 よって「仮面土偶」は巫女の系譜にのるものであり、これを「縄文の巫女」といってはどうか。(ただ、アメノウズメも「女神」でありますので、結局「縄文の女神」でもかまわないのかもしれませんが…)。
茅野市尖石縄文考古館

2002年12月20日
信州発考古学最前線 vol.14〜25

http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H14win.html 》

《第4信

 さて、「俳優」という言葉は、『日本書紀』(720年編纂)神代巻上の中に初出します。猿女の君の遠祖アメノウズメノミコが手に矛を持ち、天の岩窟戸の前に立って、「巧みに作俳優(わざをぎ)す」とあるのがそれです。そのすぐ後には、舞台の原型になる「槽」の上で「顕神明之憑談(かむがかり)」すると出てきます。

 ということは、「俳優」の元祖はアメノウズメノミコトで、それはもともと、体中に榊の葉を付着させて、植物の霊力を身に纏い、その力を借りて神懸りすることを意味したのです。「俳優」を「ワザヲギ」と読ませているわけですが、その意味は、神霊を招き寄せる(ヲグ)技術ないし作法(ワザ)ということです。あちら側からこの世界に不可思議な力を、次元を超えて取り入れ、四次元的な立体交差点を作り出すこと。「俳優=ワザヲギ」とはそのような超越的な交通の技術であると言えます。

 これが『古事記』(712年編纂)では、アメノウズメは手に矛ではなく、天の香具山の「小竹葉(ささば)」を持ち、「槽」を踏み轟かして、「神懸りして、胸乳(むなち)をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れ」たと記されています。笹は正月に門松として竹を飾るように、神霊を招き入れる依り代です。いわば、神霊を受信するアンテナ。

 ここで、興味深いのは、「神懸り」したアメノウズメがトランス状態に入って思わず胸をはだけ、陰部(女陰)を露出したことです。これはストリップの始まりだとされるところですが、その意味はとてつもなく深く、生命の秘密や神秘にまでつながっていきます。

 そもそも、この「俳優=ワザヲギ」が行なわれるに至った原因は、スサノヲノミコトが乱暴狼藉をはたらいたために、それを嘆き哀しみ怒った天照大神が天の岩戸にさし篭って隠れてしまい、高天原も世界も真っ暗になってしまったことにあります。この暗黒の世界を打開し、再び光ある世界に戻そうと神々が集結して論議し、祭りを行うことになりました。斎部氏の祖先の天太玉命(あめのふとだまのみこと)が鏡の付いた榊を捧げ持ち、中臣氏の祖先の天児屋命(あめのこやねのみこと)が祝詞を奏上し、アメノウズメノミコトが「神懸り」して、それによって天照大神を洞窟の中から再びこちら側に引き戻すことができたのです。そして、天が晴れて光が戻り、世界の災いが解き放たれたというわけです。

 『古語拾遺』という斎部氏の伝承を書いた本には、この時、神々が大いに喜び踊り、口々に「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」と囃したと記されています。「あはれ」とは「天晴れ」、すなわち天が晴れて光がサーッと差し込むこと。この世界が明るくなることを意味します。そして、「あなおもしろ」とは「ああ、面白い」、すなわちその戻った神の光に照らされて「面が白く」なり、喜びに包まれて光り輝くこと。「あなたのし」とは「ああ、手伸し」、すなわち喜び勇んで自然に「手が伸び」、歓喜勇躍、踊り出すこと。「あなさやけ」とは草木も一緒にその喜びに靡きスイングすること。「おけ」もまた、草木や植物とともに、そよぎ、靡き、揺れることを意味します。

 これは「鎮魂」や「神楽」の起源を語る神話とされていますが、それは光の再生、太陽の死と復活、生命力の更新を象徴しています。このところは、『古事記』では、「高天原動みて、八百万の神共に咲ひき」と記されています。つまり、アメノウズメのトランス・ダンスによって高天原も激しく揺すぶられ、八百万の神々がみなともに笑ったというのです。

 この笑いを「咲く」という字を宛てて、「咲ふ(わらふ)」と読ませているところは、とても美しい表現だと思わずにはいられません。和泉流狂言の秘伝書には、翁のもどき芸である「三番叟」を舞う時は、演者は翁をアメノウズメノミコトだと思って舞うように、と指示されていると萬斎さんは言っていました。ということは、翁は訪れてくる神霊ですから、その神霊を引き出す者の役をアメノウズメと思って舞い、神霊と巫女との霊的合一を実現するということになるのでしょうか。

 ともあれ、「狂言」という言葉もその所作=ワザも大変面白いですね。「正名」でも「真言」でもなく、「狂言」。それこそが世界を笑いと新生に導く方法論だというわけです。なによりも笑いの大切さ。


http://homepage2.nifty.com/moon21/tonysletter04.html

参考:
ヨハネス・ブラームス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生涯

ブラームスは、ハンブルク で生まれた。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、コントラバス 奏者であった。ピアノの早熟な才能をあらわし、10歳で作曲家でピアニストのエドゥアルド・マルクスゼンに師事。レストラン や居酒屋 でピアノを演奏することによって家計を補った。

彼自身はピアニストとして確かな腕を持っていたが、同時代の名手と比べると地味な存在であった。演奏活動は行っていたが後に作曲専業になることを決意して、放棄した。しかしながら、1859年 と1881年 には、ピアノ協奏曲第1番 とピアノ協奏曲第2番 の初演を自ら行っている。この2曲のピアノ・パートは共に難度が高く、これを自分で弾きこなしたブラームスのピアノ演奏技術は高いものであったのではないかと思われる。

その後、演奏よりも創作活動に興味を持つようになって作曲を始めたが、1851年 になるとすでに自己批判から作品を廃棄し始めていた(19歳以前の作品は記録が残るのみでまったく現存しない)。1853年 にハンガリーのヴァイオリニスト・レメーニイと演奏旅行に行き、彼からジプシー 音楽を教えてもらったことが彼の創作活動に大きな影響を及ぼした。この演奏旅行中に J. ヨアヒム 、フランツ・リスト とロベルト・シューマン に会って作品を見てもらった。シューマンは、「新しい道」と題する評論を「新音楽時報 」誌に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスは、14才年上のシューマンの妻クララ を知り、1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡ってクララと親しく交流を続けることになった。恋愛に近い関係になった時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった。

1862年 からウィーン に永住したブラームスは以降、作曲に集中し始めた。『ドイツ・レクィエム 』などの作品で高い評価を確立し、偉大な作曲家の一人として注目を集める存在となった。この事は、彼の第1交響曲 を書き上げるための自信になったと考えられる。ウィーン永住からおよそ10年の後、19年の歳月をかけて交響曲第1番は1876年 に完成した。この作品は後に指揮者のビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲の様だ」と語らしめた。彼の他の3つの交響曲は、それから比較的短い間隔で書き上げられ、第1番から間もない1877年 には第2番 が、1883年 に第3番 が、そして1885年 に最後の第4番 が、それぞれ発表された。

ブラームスはしばしば春のイタリア を訪問し、気持ちの良い地方の場所を捜して夏の間に作曲した。1889年 12月2日 、ブラームスはトーマス・エジソン の代理人の依頼で「ハンガリー舞曲 第1番」を蓄音機 に録音した。(テンポは相当速い)このとき、初めて自身の老いを自覚したと言われている。翌1890年 、57才になり意欲の衰えを感じ、作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めた。
ブラームスに対する影響

大部分のロマン派の作曲家と同様に、ブラームスはベートーヴェンを崇拝していた。彼の作品には交響曲第9番 と『ハンマークラヴィア・ソナタ 』を含むベートーヴェン作品の明白な模倣も含まれる。

また古典派の作曲家モーツァルト とハイドン を敬愛していた。彼らの作品の第一版と自筆稿を集め、そのうえ演奏用の版を編集した。古典派への愛情はジャンルの選択においても現れている。彼の手によるソナタ、交響曲と協奏曲では古典的な形式を採用し、ソナタ形式の楽章を作曲した。一般に、ブラームスは全てのロマン派の作曲家の中ではもっとも古典派に近いと考えられており、「新古典派」という呼称で呼ばれることもある。

しかし、シェーンベルク のようにブラームスの音楽に革新的要素を見出す人もいる[1] 。特に晩年の『4つの厳粛な歌』で見られる一つのモチーフの徹底的な展開、声とピアノによるカノン的書法などの対位法をシェーンベルクは「発展的変奏」(英語:developping variation)と呼び、自らの作品において展開することになる。

さらにブラームスはそれ以前のバロック音楽 にも多大な関心を払っていた。とりわけ大バッハ に心酔しており、当時刊行中だったバッハ作品の全集を購読して熱心に研究した。その成果として最も有名なものが第4交響曲の終楽章に置かれた「パッサカリア 」である。そのテーマはバッハのカンタータ第150番の主題を応用したものである。

ブラームスに対する全く異なる影響は 民族音楽 であった。ピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いており、彼の歌曲の多くは民族的な主題を反映するか、地方の生活場面を表現したものである。また、『ハンガリー舞曲集』で分かるように、レメーニイから教わったジプシー音楽(当時はハンガリーの民俗音楽だと思われていた)の影響も受け、「ピアノ四重奏曲第1番 」などにその語法を取り込んでいる。


参考2:
ハンガリー舞曲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
《ハンガリー舞曲集(独語 :Ungarische Tänze)》WoO.1 は、ヨハネス・ブラームス がハンガリー のジプシー音楽 に基づいて編曲した舞曲集。もとは4手用のピアノ曲 として書かれた。全部で21曲あり、それぞれの長さは1分程度のものから4分程度のものまでとまちまちである。中でも、管弦楽用に別人によって再編曲された《第5番》がとりわけ有名である。

作曲の経緯

ブラームスは1850年代 の前半に、エドゥアルト・レメーニ の伴奏者としてドイツ の各地で演奏旅行を行い、その時にレメーニからロマ の民族音楽 を教えられて魅了された。それ以来ブラームスはそれをハンガリー の民族舞曲と信じて採譜を続け、1867年 に出版社のジムロック に最初の6曲を送って拒否されている。結局それらが1869年 に出版されると大好評となり、1880年 に第2集が刊行された。

参考3:
kon.2  ヨハネス・ブラームス「ハンガリー舞曲集」
                           Johannes Brahms「UNGARISCHE TANZE」 



ピアノの名手であったブラームスが、ピアノ4手(連弾)用に作った曲集。

1853年、エドゥアルト・レメーニィ(ハンガリー生まれでジプシーの血を引くヴァイオリニスト)の演奏旅行に、ブラームスは伴奏者(ピアノ)としてついて行った。

ジプシースタイルを取り入れた独特の演奏で知られていたレメーニィは、この時ブラームスにハンガリーの民謡の旋律などを教えた。

それをきっかけにブラームスは独自にハンガリーの旋律の採集を始め、その中からまず1869年にピアノ連弾用ハンガリー舞曲集として、10曲を2集に分け

出版。それが大人気だったので、1880年には更に11曲が2集に分けて出版された。

しかしこの曲集が大人気となってしまった為、レメーニィが気を悪くしブラームスに文句を言って訴訟を起こしたが、ブラームスは出版の際に「作曲・ブラームス」

ではなく、「編曲・ブラームス」としていたので、ブラームスが勝った。
http://web.thn.jp/heartful-i/music/ungarische%20tanze.html

2007年03月28日 (20:23)

生命の樹と蛇について:メディア・ポイントの螺旋回転:連続性から差異共振性へ

聖書では、エデンの園に「命の木」と「善悪の知識の木」を生えさせたと記述している。

しかし、類似した、聖書より古い時代(古代メソポタミアないしシュメール時代、あるいは、エーゲ文明?)の図像では、一本の木である。私は一本の木が正しいと思う。二本の木としたのは、正に、二元論である。この問題はここで留めておく。

先にも述べたが、このエデンの園の生命の木=知識の知とは、メディア・ポイントを指している。そして、言わば、超越極が生命の木であり、同一性極が知識の知である。これらは、PS理論では、即非的一性である。

次に、イブを誘惑した蛇であるが、これは、正に、生命の木=知識の木と一体であると思う。蛇は螺旋を象徴するから、メディア・ポイントの螺旋回転を象徴していると思う。生命の木=知識の木を、明快にして、コスモス樹としよう。だから、メディア・ポイント=コスモス樹=螺旋回転=蛇である。

ユダヤ神秘思想のカバラにおけるセフィロトの木Sephirothic treeも同じである。(セフィロトは大天使セラフィム[ケルビム]と関係するのではないだろうか。)

プラトニック・シナジー理論的太母根源論から見ると、イブは、本来、女神であり、太母である。大女神である。創造神も太母=イブである。

イブとアダムは、イシスとオシリスに相当すると考えられる。

保留した、生命の木と知識の木の分離であるが、これは、ユダヤ=キリスト教的一神教のもつ連続的同一性から見れば、当然の思想である。他者-iを否定して、唯一神を形成するからである。つまり、先に述べた、メディア・ポイントにおける左方傾斜、左辺傾斜性-1であり、それは、+1である他者と共振する自己を否定するのである。

言い換えると、メディア・ポイントの螺旋回転における底部における左辺傾斜の様相・様態が唯一神であり、それは、iと-iを分離して、二元論を形成するのである。つまり、メディア・ポイントは頂上部においては、超越的差異共振性であるが、下降して、現象的同一性を形成するが、そのとき、同一性の最極端として、左辺傾斜様相を発現して、それが、唯一神となると言えよう。差異を否定するので、当然、差異共振性である生命の木とは分離されると言えよう。

つまり、連続的同一性(知識の木)の形成によって、差異共振性(生命の木)とは切断されるということである。そう、聖書が的確なのは、分離切断した生命の木をエデンの園に保持している点である。それを大天使ケルビムが防衛しているというのは、メディア・ポイントの超越性が、それを保持しているということを意味しよう。

分かり易く言えば、聖書は、メディア・ポイントを二元論的に切断したということを述べているのである。天上界・神界と地上界・人間界を絶対的に分離切断したということである。これが、一神教の核心である。絶対的な切断が生じたのである。ユダヤ=キリスト教文化の悲劇性を意味する。ここからは、プロテスタンティズムが見える。

もっとも、単純に二元論と見てはいけない。これは、二項対立の英語であるhierarchical binary、即ち、位階的二元論なのである。神界と人間界との絶対的二元論なのでる。ここには、イエス・キリストや聖霊あるいは神の恩寵以外には、救済はないという、いわば、神的運命論が発生しているのである。

とまれ、PS理論から見れば、先に述べたように、メディア・ポイントの同一性化の最極端の様相としての一神教の様態としての二元論を考えることができよう。一神教的二元論、これが、ユダヤ=キリスト教的西洋文明の宿命である。これは、鈴木大拙が大慧眼にも説いたことであり、東洋文化は、即非の一元性をもっていると説いたのである。私の言葉では、即非的一性である。

以上から見ると、西洋文明・文化は捩れがあるのである。ヘブライズムとヘレニズムの捩れによる絶対矛盾的分裂性があるのである。

とまれ、本稿をまとめると、結局、知恵の木=生命の木=蛇=コスモスの樹=メディア・ポイントMedia Pointである。

そして、エデンの園はほぼ超越界である(また、メディア・ポイントの頂点とも言えそうである)。また、思うに、大天使ケルビム(火の天使)が防衛しているので、どうやら、超越的太陽に最も近いと思える。エデンの園は東の方にあるのである。(超越界と超越的太陽の関係であるが、おそらく等しいだろう。後で検討。)

さて、現代世界を見るに、ユダヤ=キリスト教的西洋文明の悲劇的様相が極まったと言えよう。連続的同一性、父権的一神教、唯物論の世界、即ち、近代主義の世界が極まり、今や、トランス・モダンへと変転・転換し出したと言えよう。

メディア・ポイントの螺旋回転の左辺傾斜へのエネルギーが消滅して、右辺傾斜へのエネルギーへと転換しているのではないだろうか。

単純に見て、左辺傾斜エネルギーに対して、右辺傾斜エネルギーが発動するのではないだろうか。

緻密に考えよう。

初めに、差異共振シナジーが発動して、メディア・ポイントにおいて、現象界への下降が生起する。

これは、太極的エネルギーだと考えられる。

これは、易経からわかるように、生成変容する。

メディア・ポイントの下降した底部、即ち、実数軸のゼロ度(構造)において、-1と+1の構造主義的対立が発生する。

これは、ドゥルーズのような妄想的展開ではなくて、実質的な事象である。このゼロ度において、エネルギー論的に、-1の連続的同一性主義的エネルギーと+1の差異的同一性エネルギーに分岐すると考えられる。近代主義は、当然、前者である。つまり、実数軸のゼロ度において、西欧近代は、左辺傾斜=連続的同一性主義へと、いわば、負のエネルギーへと展開したものと言えよう。しかし、ここで、エネルギー保存則を適用すれば、負のエネルギーに対して、正のエネルギーが当然発現すると考えられる。

これがトランス・モダンの必然性だと考えられる。

差異を否定して、同一性を連続化したのが、近代主義である。しかし、その連続的エネルギーも消滅する。つまり、同一性の連続化によって放出されるエネルギーが消滅するということだろう。すると、思うに、メディア・ポイントにおいて、基礎的な差異共振シナジー・エネルギーが発現すると思われるのである。これは、祖エネルギー、原エネルギーと呼んでもいいだろう。

ここで、精緻に見ると、エネルギーの変容(現象化)であるが、左辺傾斜の連続化と右辺傾斜の差異化があると考えられる。連続的エネルギーと差異的エネルギーである。

現象化・同一性化において、両者が発現していると考えられるが、ユダヤ=キリスト教文明においては、前者が、後者を否定して、帰結したのである。

比喩的に言うと、悪魔主義と天使主義があるが、悪魔主義が勝利したのである。

問題は、前者の勝利の意味である。これは、後者を否定するので、それが、排除され、隠蔽され、潜在すると考えられるのである。おそらく、両者ともに、生成消滅するエネルギーである。しかし、前者が勝利する場合、前者はその顕在化によって消滅するはずである。それに対して、否定・排除・隠蔽された後者は、ポテンシャル・エネルギーとなり、発動すべき様相になっていると考えられるのである。

そして、差異的エネルギーの顕在化がトランス・モダンであると考えられる。

連続的エネルギーは衰滅したのである。そして、差異的エネルギーが発動したのである。しかし、当初、連続化の慣性によって、差異的エネルギーが、反動的に連続化されたのである。これが、ポスト・モダンである。「ポスト・構造主義」の倒錯・錯誤である。

しかし、今や、ポスト・モダンは無様に頓挫し終焉して、世界は、時代は、トランス・モダンへと進展しているのである。つまり、差異的エネルギーのさらなる発現が進行しているのである。

プラトニック・シナジー理論は、このような時代・世界の進展にともない、創造されたと言えよう。これは、端的に、差異的エネルギーの理論と言えよう。

現代は、近代主義が閉塞した超越的エネルギーが発現しているのである。これは、差異共振シナジー・エネルギーである。

経済的には資本主義の大変容である。

唯物論的資本主義が終焉したのである。

そう、差異共振的資本主義である。これは、近代的資本主義から見れば、ポスト・資本主義である。

PS理論から言えば、メディア・ポイント資本主義である。MePo-Capitalismである。

これは、物質と精神の調和的資本主義と言えよう。調和資本主義である。

もっとも、政治が、差異的エネルギー化する必要がある。物質と精神を調和させる政治が必要なのである。超越的差異共振政治である。

民主主義は、超越的民主主義にならなくてはならないだろう。

この政治・経済・社会について後で検討したい。


参考:

GEN02:08
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
GEN02:09
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
GEN02:10
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
GEN02:11
第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
GEN02:12
その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
GEN02:13
第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
GEN02:14
第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
GEN02:15
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
GEN02:16
主なる神は人に命じて言われた。 「園のすべての木から取って食べなさい。
GEN02:17
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
http://www.is.seisen-u.ac.jp/~zkohta/bible/old_t/1/gen.html#gen02

知恵の樹
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知恵の樹:ルーカス・クラナッハ画
知恵の樹:ルーカス・クラナッハ 画

知恵の樹 (ちえのき, Tree of Knowledge) は、旧約聖書 の『創世記 』(2章9節以降)に登場する木。善悪の知識の木とも呼ばれる。

エデンの園 の中央部にあった2本の木のうちの一つ。もう一つは生命の樹 。 『創世記』によれば、日本語では主なる神と訳されるヤハウェ ・エロヒム(エール の複数形)により食べることを禁じられており、蛇にそそのかされてその実を食べた罰により、アダムとイヴ はエデンの園を追放される。すなわち、罪は不服従の罪である。この出来事を「失楽園 」という。

この出来事が原因で蛇は永遠に地を這いずることとなったとされている。

キリスト教徒 によれば、この罪は原罪 とされるが、ユダヤ教徒 には「原罪」というものは存在しない。


タロットカード では、大アルカナのVI「恋人 」(The Lovers)にこの場面の図柄が描かれている。知恵の実を食べて知恵のついたアダムが柏の葉で股間を覆っている。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%B5%E3%81%AE%E6%A8%B9 " より作成

カテゴリ : 創世記 | カバラ



セフィロトの樹

セフィロトの木は、神秘思想 のカバラにおいてさまざまな解釈がなされている。

10個のセフィラと22個の小径(パス)を体系化した図も同じく「生命の樹」と呼ばれる。

[編集 ] アインとアイン・ソフとアイン・ソフ・アウル

アインは無と訳され、0で表される。 アイン・ソフは無限と訳され、00で表される。アイン・ソフ・アウルは無限光と訳され、000で表される。アイン・ソフ・オウルと表記されることもある。アインからアイン・ソフが生じ、アイン・ソフからアイン・ソフ・アウルが生じた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%A8%B9


Tree of Life (Judeo-Christian)
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The tree of life as represented in Kabbalah, containing the Sephiroth.
The tree of life as represented in Kabbalah , containing the Sephiroth .

See also Tree of life for other cultural interpretations of the term, and Tree of life (disambiguation) for other meanings of the term.

The Tree of Life (Heb. עץ החיים Etz haChayim), in the Book of Genesis is a tree in the Garden of Eden whose fruit gives everlasting life, i.e. immortality . After eating from the Tree of Knowledge of Good and Evil , the biblical account states that Adam and Eve were exiled from the Garden of Eden to prevent them from eating of the Tree of Life. The passage reads that God set Cherubim to guard the entrance to the Garden, so that mankind would not eat of the tree and "Be Like Us".
“ And the Lord God said, "The man has now become like one of us, knowing good and evil. He must not be allowed to reach out his hand and take also from the tree of life and eat, and live forever." (Genesis 3:22) ”

The wisest animal, the serpent , tempts the unwise Eve into partaking of the Fruit of Knowledge of Good and Evil by suggesting that she would become as wise as God. God then fears that they will eat of the Tree of Life and thus banishes them from the Garden. The Genesis narrative of the banishment from the garden of Eden is balanced in the New Testament by the planting of the Tree of Life on mankind's side of the divide.

In the Book of Revelation , a Koine Greek phrase xylon zoës (ξύλον ζωής) is mentioned 3 times. This phrase, which literally means "wood of life" is translated in nearly every English bible version as "tree of life", see Revelation 2:7 , 22:2 , and 22:19 .

The Tree of Life is represented in several examples of sacred geometry , and is central in particular to Kabbalah (the mystic study of the Torah ) where it is represented as diagram of ten points . It is also a recurrent theme in many other religions.
http://en.wikipedia.org/wiki/Tree_of_Life

2007年03月28日 (13:09)

夢:続き:老賢者と太母:高校生のときの同級生男女のブルーの服

今日は、田舎は、晴れて暖かく、鴬の囀りが増え、雲雀の囀り、その他の鳥の鳴き声が聞える。

今朝も不思議な夢を見た。これまでになく錯綜している。箇条書きにする。

1)私は一人の外国の老爺と会っていた。しかし、この辺が判然とせず、おぼろになっている。なにか親しく話した印象がある。

2)旅館のような場所である。1階と思われる廊下ないしホールから2階や2階への階段が見える。 

3)2と同じ場所だと思うが、わたし(ユング)は、他の老人とともに、部屋に入る。その老人は、書架の2冊の本を指摘する。それらは、わたし(ユング)の書いた本より優れたものであるということを強調したようである。わたし(ユング)は、困り、自分の本を取り、トイレに行くと言って部屋を出るが、そのまま、逃げ出すことにするが、入り口の下駄箱のようなところには、自分の靴が見つからない。わたしは、1階の美容室のような部屋に入り、トイレを借りる。その美容室の店長は、女性で、先に知り合いになっていた。なにか、もう一人女性がいたようである。

4)外国の老爺が、日本に来ている。私は彼を見て、ドトール・コーヒーの店が目の前にあるのを教える。というのは、「外国」で、私は、その老爺にコーヒーを入れてもらったからである。老爺は、ドトールがピントこないようであった。「外国」での、彼と話ことなどを忘れている。(p.s. 今想起したが、なにか、コミュニケーション、コミュニオンcommunionという言葉がキーワードになっていた。即ち、老爺との会話において、私は喜ばしくその言葉を発したと思う。)

5)なにか、学生にビデオを見せたようである。なにか官能的な映画であった。途中で終わりにした。それは、老夫婦となにか若い女性のヌードが関係し、面白みのない映画であった。つまり、老夫婦の話とヌードが噛み合っていないのである。

そのビデオは、確かに、猥褻なものであった。女性の性器が見えるのである。

その後、映画館の場面で、猥褻なような映画が三本(一つはスカトロという言葉がタイトルになっていた)上映されている。二本まともな映画は上映されていない。

6)亡父が生きているときのことになっている。弟が半年ばかり、不眠症気味であると言った。私は、なにか、精神的なものが足りないようなことを言った。

某所から、料金の請求に来て、亡父が払った。

7)これは最後の方の夢であるが、先にメールで大事なことを伝えた同僚の者が、私の高校生のときの同級生を指して、彼は、ロングテールの発見で賞を取ると言った。同級生は、それは、もう一人の同級生が、自堕落な生活をしているのを見て、ロングテールを考えたというようなことを言った。彼は、ほとんど若いときのままである。

電車がホームに入ってくるが、短い車両で、電車はホームの先の方で止まったので、そちらへ走って行った。

学校の会議の場面で、同級生が議長となっている。そして、もう一人の女性の同級生が座っている。ふたりとも、鮮やかなブルーの服を着ているのが印象的であった。

____________________________

解明:これも、これまでの老賢者/太母のテーマの夢であろう。ただし、ユング心理学のこの概念も、真理には、達していないことを示唆しているだろう。

二冊の本とは何だろう。

また、思うに、ここには、超越界のエロース、天上のエロースが表象されていると思う。チベット仏教、タントラ仏教のエロースだと思う。そう、密教のエロースである。

つまり、先にも述べたが、ユング心理学は、個性化として、対立物の統合を説くが、それは、不正確であるということだろう。超越的差異即非性ないし即非的一が本来的なのであるということだろう。コミュニケーションとかコミュニオンとかも同様だろう。

今朝の夢の特徴の一つは、高校生の同級生の青い服であるし、また、ロングテールである。ロングテールは唐突の感がある。これは、特異性を示唆するのではないだろうか。

では、青い服は何か。それは、昨夜検索して読んだ臨死体験と関係しているのかもしれない。そのとき臨死体験した者は、青い空や青い地球を見たという。

それにしても、青という色は何であろうか。シュタイナーは青は、闇が光を通して来るときの色であると言った。赤が光が闇を通してくるときの色であると言った。

そうならば、青と赤は、メディア・ポイントの両極の色であろう。iから-iを見たときが青であり、-iからiを見たときが赤であろう。

でも、そうだとしても、青はもっと意味があるように思う。赤は端的に太陽の色である。青は、やはり、太陽と対になる色だろう。月の色だろうか。青白い月。やはり、-iの原闇、原陰と関係するのかもしれない。しかし、問題は、同級生の男女二人とも青い服を纏っていたことである。

これは、文脈から見ると、老賢者と太母の対が青い服を着ていたということである。

最初は、丹で赤色であった。もっとも、水銀である。

青は端的に言って、天上を意味するだろう。つまり、超越界である。つまり、超越的差異即非性を意味しているだろう。では、何故、高校生のときの同級生なのか。

それは、若さを意味しているだろう。不老不死ではないのか。若返りの草である。そう、生命の木である。扶桑であり、徐福である。(p.s. 徐福という音がなにかに似ていると感じたが、それは、女媧[じょか]と伏儀[ふくぎ]の中国の神話の女神と男神のペアの頭文字をいっしょにすると女伏、徐福となる。これは、日本語における単なる偶然の一致、語呂合わせであろう。)
http://blog.so-net.ne.jp/toyo-no-miyakenikki/2007-02-20
煉丹術である。そう、ユングで言えば、錬金術である。そう考えると、最初の丹=水銀・・・空海・天河神社等を結びつく。
http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/china2.html

結局、これは、聖書で言うと、エデンの園の生命の木のことである。アダムとイブは、知恵の実を食べたことで楽園追放となった。これは、端的に、同一性の知を得て、差異の知を否定したことを意味しよう。そして、差異の知は、生命の木なのである。これは、超越的差異共振性=超越性である。そして、聖書によれば、これを炎の剣をもって天使ケルビムが守護しているのである。(p.s. ウリエルでもある。以下参照。熾天使(してんし)又は、ケルビムは、天使の第1位に属する。光の天使である。これは、ほぼ、超越界の太陽に近いということだろう。また、四大天使があるが、これは、思うに、メディア・ポイントの四元性を指しているのでないか。即ち、iの大天使、-iの大天使、そして、+1の大天使、そして、-1の大天使である。おそらく、悪魔となった大天使ルシファー(光をもたらすもの)は、-1の大天使ではないか。後で検討。さらについでに言えば、占星術の牡牛座、獅子座、蠍座、水瓶座は、西洋の伝統文化では、この四大天使に結びつけられるが、そうすると、占星術コスモロジーとは、本来、メディア・ポイント・コスモスを探求する叡知であったように思える。東寺の両界曼荼羅における火羅図を参照。)

思うに、ケルビムは、老賢者ではないか。そして、生命の木が太母ではないのか。

そして、それは、不老不死、永遠の生命である。イエスが永遠の生命を説いたのは、この意味であろう。即ち、イエスとは、秘儀参入者なのであり、プラトニストである。(ついでに言うと、先に、父の子と母の子を言ったが、秘儀参入者・プラトニストとは、母の子である。だから、母の子としてのイエスがいるはずである。それに対して、父の子としてのイエスがいるはずである。どうも、新約聖書は、両者が混合されていると思う。私がイエスに感じる分裂性は、ここに原因があると思う。つまり、比喩的に言えば、天使と悪魔がイエスにおいて合体しているのである。おそらく、これが、キリスト教の最奥の秘密ではないだろうか。だから、今日、父の子としてのイエスと母の子としてのイエスを分別して、後者を救い出し、聖母子として復活させるべきである。しかしながら、母の子としてのイエスとは、超越的差異共振性のイエスである。それは、聖霊を説くイエスである。D.H.ロレンスが『死んだ男』で説いた復活したイエスは、そのような超越性のイエスである。だから、ユダヤ=キリスト教の乗り越えとは、否定ではなくて、進展ではないだろうか。+1のイエスは母の子である。父の子は-1のイエスで悪魔的である。そして、母とは超越界・叡知界・イデア界である。超越的太陽である。天照である。太母である。すると、太母的キリスト教となるだろう。そして、イスラム教であるが、それは、アッラーが、太母となるだろう。太母は唯一神であるが、多神である。八百万の神々である。すると、折口信夫が提唱したように、新神道が考えられよう。だから、新神道的万教帰一が考えられよう。もっとも、神々は、超越性と知的にみなくてはならない。)

結局、ブルーの服を着た男女の高校生のときの同級生が会議に居ると言うのは、端的に、超越界の差異即非事象を表象しているだろう。会議とは、八百万の神々の集まりである。これは、高天原である。エデンの園である。桃源郷である。弥山・須弥山は蓬莱山である。シャンバラである。丹=水銀は、煉丹術・錬金術、不老不死の霊薬であり、生命の木、世界・宇宙樹であり、扶桑である。これは、不死山=富士山(参照:アララト山)である。吉田の火祭りである。

思えば、本夢のシリーズの発端で、目の大きい老爺(老賢者)が行くとう山々は、これらの山であり、太母であり、超越界のことであったと言えよう。西洋文化的には、老爺は大天使ケルビム(ウリエル、セラフィム)であろう。そして、太母は、高天原・エデンの園・桃源郷である。


参考1:

徐福(じょふく)は、徐市(じょふつ)とも言い司馬遷の「史記」に描かれた
伝説上の人物です。(紀元前278年〜紀元前208年といわれる)
富士山に不老不死の薬を求めにやって来たと言われる徐福ですが、一方では始皇帝の圧政から計画的に、大集団で移民をくわだてて秦を逃げ出し新しい国を作ったと言う説もあります。実際のところは不明ですが私は非常に面白い説だと思います。
このページでは東方に理想郷を求めた中国人の世界観と思想を掘り下げて調べてみました。また、実際に古代中国などからの移民が無ければ、有り得なかった古代の日本の歴史の変化についても、いくつか実例をあげて紹介したいと思います。邪馬台国の大和説・九州説のように諸説分かれるところだと思いますが、あらゆる可能性をあげて歴史に近づきたいと考えています。
徐福渡来伝説

http://homepage1.nifty.com/aburae-nyuumon/jyohuku2.htm

徐福
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Disambiguation この項目では秦の始皇帝に仕えた方士について説明しています。後漢・三国時代の人については徐庶 をご覧ください。
徐福像(新宮市徐福公園内)
徐福像(新宮市徐福公園 内)

徐福(じょふく)は、中国 秦代 の方士 (学者)。斉 国の琅邪 の出身。別名、徐市(じょふつ)。

司馬遷 の『史記 』によると、秦の始皇帝 に、「東方の三神山に不老不死 の霊薬がある」と具申し、始皇帝 の命を受け、財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出した。到着した土地で、徐福は「平原広沢」の王となり中国には戻らなかったといわれている。

「平原広沢」は日本であるともいわれており、日本各地に徐福の一行が上陸したという徐福伝説が伝えられている。たとえば、和歌山県 の那智勝浦町 や新宮市 には古くから徐福伝説が残っているなど、各地に徐福伝説が残っているのである。

また、この徐福伝説は中国 にも伝わっており、北宋 の政治家・詩人 である欧陽脩 が日本刀 について歌った『日本刀歌 』の中にも、「その先祖徐福は秦を偽って薬を取りに行くと言い若い男女と共にその土地で老いた」と言う内容のフレーズが出てくる。

子に福永 ・福万 ・徐仙 ・福寿 がいるという。

[編集 ] 関連文献

* 史記
* 富士古文献
* 宮下文書

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F " より作成

http://syamashita.bne.jp/johuku/hujiyosida-higasimikawa.htm


参考2:
ウリエル
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ウリエル(Uriel, אוּרִיאֵל 「我が光は神(el )」, ティベリア式ヘブライ語 Ûrîʾēl;ウーリーエール)は旧約聖書 や新約聖書 の外典 ・偽典 である『エノク書 』や『ペトロの黙示録 』などに登場する天使 で、アウリエルとも呼ばれる。

ウリエルはミカエル 、ラファエル 、ガブリエル 等とともに四大天使に数えられ、最も有力な天使であった。名の意味は「神 の光」で、これは「神の炎・火」に由来する。
ウリエルの持つ様々な役割

ウリエルも他の天使達と同様、様々な役割を担っているが、それら全てを司る訳ではなく、神学者 や後に書かれた外典、宗派 などによって、様々なウリエル像が生まれたと考えるのが妥当だろう。

[編集 ] タルタロス(地獄)の支配者

『ペトロの黙示録』ではウリエルは懺悔の天使で罪人(この場合、神に背いた者を示す)を永久の業火で焼き、不敬者を舌で吊り上げて火にかけると言われ、法に厳しい無慈悲・無情な存在で、地獄 の罪人達を散々苦しめていると言う。 また、最後の審判 の時には、地獄の門の閂を折り、地上に投げつけて陰府 (よみ)の門を開き、すべての魂を審判の席に座らせる役目も持っているという。このように地獄の支配者という面から、火山に結び付けられ、炎の属性を持ちながら、地の属性を与えられた(下記参照)といわれる。また、上記のように、極めて厳格な性格を持つため雷と恐怖を司る天使と同一視されることもある。

[編集 ] 智天使(ケルビム・Cherubim)としてのウリエル

ウリエルは熾天使 (セラフィム・Seraphim)とも智天使 ともいわれるが、智天使としてのウリエルは、焔の剣をもってエデンの園 の門を守る天使とされる。ウリエルの象徴として「焔の剣・盾」が挙げられる(下記参照)のはそのためだろう。

[編集 ] 熾天使(セラフィム・Seraphim)としてのウリエル

ウリエルは熾天使指揮官の1人であるともいわれる。

[編集 ] 大天使(アークエンジェル・Archangel)としてのウリエル

[編集 ] =一般的な大天使ウリエル=

大天使はキリスト教・イスラム教で7人とされているが、そのうち3人は異なっている。 しかし、残りのミカエル(ミカール)、ラファエル(アズリエル)、ガブリエル(ジブリール)、ウリエル(イスラフィール)の4人は一致している。 彼等は天使の9階級 の中で8番目の軍団でありながら、最も大きな権威と権力を持つ。 これは、より高位で神に近い天使ほど、より霊的で非物質的な存在になり、低位な天使であれば、物質世界に近づくことが出来るという、ユダヤ における、宇宙の階層性に基づいたものだといえる。 つまり、より人間達に関わる機会の多い天使はより物質世界に近づくため低位な階級を持っているのである。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB " より作成

カテゴリ : 天使




参考3:
熾天使
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熾天使(してんし)は、天使 の位階のひとつ。 ヘブライ語 で単数形はשרף (Seraph、セラフ)、複数形はשרפים (Seraphim、セラフィム)となる。

旧約聖書 のイザヤ書 で言及されている。

偽ディオニシウス・アレオパギタ が定めた天使の九階級のうち最上とされている。三対六枚の翼を持ち、二つで頭を、二つで体を隠し、残り二つの翼ではばたく。神への愛と情熱で体が燃えているため、熾(燃える、などの意)天使といわれる。

ラファエル 、ウリエル 、ミカエル 、ガブリエル の四大天使がこれに該当する。 ルシファー やベルゼブブ は、堕天する前は熾天使であったとされる。


* 天使の一覧



参考4:
アララト山
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大アララト山(中央)と小アララト山(左) - NASAランドサット
大アララト山(中央)と小アララト山(左) - NASA ランドサット
眼下の視界
眼下の視界
アララト山
アララト山

アララト山(アララトさん)は、トルコ共和国 の東端にある標高5,137mの山 (成層火山 )。アルメニア語 表記はԱրարատ、ペルシア語 表記はآرارات、クルド語 表記はÇiyayê Araratで、トルコ語 ではアール山(Ağrı Dağı)と呼ぶ。主峰の東南にあたる標高3,896mの頂上を小アララト山(Küçük Ağrı Dağı)と呼んでおり、それに対して標高5,137mの主峰は公式には大アララト山(Büyük Ağrı Dağı)という。アルメニア との国境から32km、イラン との国境から16kmである。

旧約聖書 にでてくるノアの箱舟 が大洪水の後、流れ着いたとされる山として有名である。頂上から古い時代の木の化石が見つかったり、航空写真から方形の船の跡らしいものが見出だせたりしたことから、それをノアの箱舟 の痕跡だとし、それでノアの箱舟伝説が実証されたと主張する人もいる。また、同じく成層火山である日本の富士山 と外見が似ていることから、しばしば日猶同祖論 の根拠のひとつになっている。

アララト山は古くからアルメニア人 の多く居住してきた地域(大アルメニア )の中心にあたり、アルメニア民族のシンボルとされる。オスマン帝国 がこの地域を支配した時代まではアララト山の麓にはクルド人 やトルコ人 と入り混じりながらも数百万人のアルメニア人が暮らしてきたが、オスマン帝国末期、とくに第一次世界大戦 中の強制移住によりトルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまった。このとき、相当の数のアルメニア人の人命が失われ、アルメニア人虐殺として国際的非難を浴びたが、トルコ政府は虐殺の事実を否認しており、長らく論争となっている(アルメニア人虐殺問題 )。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%88%E5%B1%B1

2007年03月27日 (17:40)

夢:続きと補足:小高い山と列車:超越的差異共振シナジー(即非・太極)的1/4回転下降螺旋志向性

今朝の夢なのか、それとも、以前の夢なのか、わからなくなってしまったが、思うに、今朝の夢なのだろう。

1)そうハイキングかなにかしていて、山を下っている。そして、丘のような小高い頂上に来る。しかし、私はまるで、高いところから、高所恐怖を催しながら、はるか下のその小高い頂上を見て、下降するイメージである。その頂上からはなにかケーブルカーのようなものが出ているのかもしれない。しかし、なにか、段階があって、下っていく感じである。(p.s. 小高い丘を高所恐怖を感じながら、高いところから、小さく見ている場面であるが、『不思議の国のアリス』のアリスの首が伸びて、足が見えなくなってしまった場面の感じに少し似ていると思う。)

そのあとは、列車に乗っている場面だったと思う。

2)学会で、隣の人がシェイクスピアについて何か言う。


★以上のような夢で、抜けている部分がかなりあると思うが、説明すると、超越界は、上下高低の空間で、現象界は、水平空間であるということである。これは、PS理論にぴったりあてはまる。

上記の小高い山がメディア・ポイントであろう。そして、列車が、現象界であろう。

学会は、やはり、叡知界であろう。

そう、隣の人が男性であり、年配の人であった、老賢者に当たるのかもしれない。

p.s. この夢ではないが、先に見た夢を補足すると、男性の後ろ姿を見て、それは、知りあいの男性だと思ったが、正面を見ると違っていた。また、彼の後ろ姿を見たのは、券売カウンターのようなところであった。やはり、駅のイメージである。駅の券売の場所であるが、デパートの案内のカウンターのように、女性の係が居たと思う。思えば、彼も、老賢者かもしれない。

また、京都駅内の何階かある居酒屋かスナックの複雑な空間、即ち、なかなか出口がわからない空間であるが、それは、空海の両界曼荼羅と関係して、メディア・ポイントの複雑を象徴しているのではないのかと思った。

思うに、そのような建物は今まで何度か、夢で経験したことがあるように思える。今想起すると、窓側にテーブルの席があり、すぐ、右曲がりに下っていく階段がある。それは、螺旋階段のようである。あるいは、右曲がりに上っていく階段かもしれない。

さて、京都駅の場面であるが、その居酒屋ないしスナックには、ホステス(女給)と女主人がいる。その外側から私は見ている。それは、思うに、駅のホームに通じるように思える。先の券売所につながるのかもしれない。すると、やはり、その螺旋階段のあるように思える居酒屋・スナックがメディア・ポイントではないだろうか。そして、券売所から駅のホームとは、実数軸・水平・現象空間への回帰を意味するのではないか。

さらに連想すると、ずいぶん昔に、そう子どもの頃やまた何年も前に見た夢であるが、中庭に木があるが、同時に、その木は、家の中にもあり、それは、2階と1階をつないでいる階段のような感じであった。木の幹に螺旋的に捩じるようにして、上り下りするのである。この木がメディア・ポイントではないだろうか。

p.p.s. エッシャーの垂直空間と水平空間が融合・結合したイメージを想起する。エッシャーはメディア・ポイントを描こうとしているのではないか。


★★
ここで、先に課題としておいたメディア・ポイントの位階性と即非一性との結合について考察しよう。

メディア・ポイント(以下、MP)において、虚数軸=超越次元は、高低上下の次元(垂直次元)であり、実数軸=現象次元は左右の次元(水平次元:思うに、前後もここに入れていいのかもしれない)であるが、虚数軸は、実数軸に対して、高次元であると思うのである。この高次元性が、即非的一性において、位階性を形成していると思えるのである。つまり、虚数軸次元は、第4次元であり、空間三次元(現象界)に対して高次元にあるということである。

空間現象三次元に対して、超次元と言ってもいい。

だから、MPの即非的一性は、次元変換ないし高次元変換性をもっていると言えよう。直感では、どうも、それは、螺旋性と関係しそうだ。

つまり、螺旋階段を降りていき、実数軸・水平次元に達するように思えるのである。

ここでは、直感で述べよう。どうも、虚数垂直性が螺旋的に、MPを介して、実数水平性に転換すると思われるのである。

言わば、渦を巻くように、垂直性が水平性へと降下するのである。渦がMPであろう。

少し整理すると、高次元の天界(超越界)があり、地界(現象界)がある。その中点にMPがある。

問題はやはり、MPの構成である。次元変換的即非的一性までは述べた。次元変換を明晰にする必要がある。

(+i)→MP←(-i)

これが、次元変換の様相ではないか。

+iと-iとの「太極」極性が、MPにおいて、「融合」、「結合」する。

そのとき、捩じれるのである。渦を巻くのである。いわば、一体となるのである。しかし、正確には、即非的一である。それは、螺旋、螺旋階段ではないだろうか。ここは、なにか、迷路・迷宮のような感じである。そう、迷路・迷宮というのは正しい。先に、説明で、腸のようなイメージと言おうとした。(腸で連想するのは、『ギルガメシュ叙事詩』の森の怪獣フンババのグロテスクなイメージである。それは、腸をイメージしているということである。)迷路・迷宮で言うと、ギリシア神話のミノタウロスの神話を想起する。ダイダロスの神話である。あるいは、カフカの『城』である。あるいは、ジョイスの『ユリシーズ』の雰囲気である。ミノタウロスで言うと、ピカソを想起する。これは、前アーリア民族文化である。(先に、イギリス人のDNAは、バスク人のDNAが多いという情報があったが、どうなのか。バスク民族は、前アーリア民族である。)

思うに、iと-iとの結合は、エネルギーを放出するのではないのか。iと-iとのポテンシャル・エネルギー(デュナミス)がある。それがゼロ度で共振シナジー化して、エネルギー(エネルゲイア)を放出するということではないのか。つまり、原-核融合がここにはあるのではないか。

とまれ、この超越的共振シナジー化によって、原エネルギーが放出されるとしよう。そして、これが、捩じれるように、螺旋的に、発動・発現するのではないだろうか。これを作業仮説として、螺旋エネルギー、ないし下降螺旋エネルギーと呼ぼう。

そう、いわば、逆竜巻のようなイメージを想起すればいいだろう。地上から天空へと巻き上げるのではなく、天上から地上へと、「巻き下げる」のである。

そう、端的に言うと、このとき、1/4回転が生じるのではないだろうか。即ち、天上から地上へと螺旋的に下降するが、その時、1/4回転して、実数軸・水平性が形成されるのではないだろうか。

即ち、垂直下降的1/4回転である。下降螺旋的1/4回転である。1/4回転下降に捩れて、水平化が発現するのではないのか。

この超越的差異共振シナジー的1/4回転下降螺旋(捩れ)は、イメージ的には、蕾であろう。朝顔の花の蕾をイメージするといいだろう。

これが、位階的即非的一性であるメディア・ポイントのより緻密な構成ではないだろうか。即ち、メディア・ポイントの位階的即非的一性の構成とは、超越的差異共振シナジー(即非・太極)的1/4回転下降螺旋志向性(ベクトル)ではないだろうか。これは、また、エネルギーの放出をもたらすのである。

このメディア・ポイントの志向性は超越且つ現象的即非的一性的志向性であり、最高度に、霊妙・不思議な特異性である。

これは、m(ic)*(-ic)⇒+1・E における*⇒として表記できるだろう。できれば、*⇒に螺旋的意味を付与したい。rotが使えるのだろうか。
使えるなら、*rot⇒が、メディア・ポイントの記号となるのではないだろうか。

即ち、自己認識方程式で言えば、

i*(-i)⇒+1において、メディア・ポイント*⇒は、*rot⇒と表記できる。

もっとも、螺旋の記号が適切なのである。代用として、太極の記号を使って、*☯⇒としようか。

思うに、垂直下降の1/4回転の捩れ・螺旋的志向性があるので、現象界においては、超越的次元が不可視になるのである。

だから、逆に、現象界から垂直上昇的に1/4回転すれば、超越界に達するように考えられるのである。しかし、これは、不可能であろう。⇒のもつ不可逆性があると思うのである。

ただし、夢等において、原意識ないし純粋意識(又は、「魂」)は、メディア・ポイントに達して、螺旋階梯を上昇するように思えるのである。

ということは、夢とは純粋意識=「魂」が、現象的身体を離脱して(「幽体離脱」)、メディア・ポイントに達して、そのヴィジョンを視覚すると思えるのである。つまり、夢とは、メディア・ポイントのヴィジョンなのである。メディア・ポイントの螺旋階梯のヴィジョンなのである。(参照:ヤコブの階段:
http://www.nimbi.com/william_blake_jacobs_ladder.html
http://www.artofeurope.com/blake/bla10.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Jacob%27s_Ladder_%28Bible%29
http://www.humanitiesweb.org/human.php?s=g&p=c&a=p&ID=2008
http://www.bridgemanartondemand.com/index.cfm?event=catalogue.product&productID=103384
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96_(%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8)
http://www.j-e-s-u-s.org/nozomi/040822.txt

七夕 と 天の川銀河
http://yumis.net/tanabata/mwg-2.htm )

だから、正確には、純粋意識=「魂」は、超越界に移動したとは言えないのではないだろうか。純粋意識=「魂」は、メディア・ポイントの位階的即非的一性のヴィジョンを見ているに過ぎないのである。しかしながら、夢以外においては、純粋意識=「魂」は、超越界に移動しているのではないのかという考えが浮かぶ。

以上のような仮説から、宗教、神話、民話等の様々な事象が説明できるように思える。例えば、エデンの園であるが、それは、超越界である。リンゴの樹の知恵の実であるが、それは、メディア・ポイントの実数軸の知を意味するのではないだろうか。そして、生命の樹は、リンゴの樹と同じであり、それは、メディア・ポイントの虚数軸の知を意味するのではないだろうか。

あるいは、北欧神話の世界樹も、メディア・ポイントの螺旋階梯ベクトルで説明できるのでないだろうか。

また、例えば、民話のジャックと豆の木も、メディア・ポイントの螺旋階梯で説明できると思う。

そう、ウィリアム・ブレイクの『ヤコブの階段』の絵は実に意義深い。下部にヤコブが寝ていて夢を見ている、螺旋階段の頂上に太陽がある。この太陽は、正に、超越界の太陽、超越太陽、プラトンの善に相当しよう。

また、七夕の民俗であるが、これも、わかりやすい。これは、天河神社の祭礼とも関係するが、基本は、女神の神話である。織姫と牽牛の出会いであるが、これは、織姫は女神(牡牛)であり、牽牛は、女神の子・夫・恋人である。イシスとオシリスの神話と同じである。

思うに、この出会いは、メディア・ポイントを介しての、超越的共振を意味しよう。

その他、これまで、空想や幻想と考えられてきた、いろいろな事象が解明されると思う。

今はここで留めておく。

p.s. 時間であるが、それは、メディア・ポイントの下降螺旋志向性から生まれると言っていいだろう。それは、光とともに生まれると言っていいだろう。そう、三次元空間も同様であろう。下降螺旋志向性が時空4次元を形成するのだろう。思うに、同一性と同一性との間の差異が時空間であろう。

カントの時空間形式は、同一性のことと言えよう。そして、物自体とは、差異=特異性であり、メディア・ポイントであると言えよう。

フッサールは、下降螺旋志向性をほぼ捉えていたと言えよう。ただし、Kaisetsu氏が述べたように、⇒の起点を明確にはしていないのだろう。それは、超越性そのもの、超越的差異共振性そのものである。

p.p.s. どうやら、超越的差異即非的コスモスがあるようである。これは、いわば、デュナミス=ポテンシャル・エネルギーである。しかし、超越的差異共振シナジー化によって、エネルゲイア=超越的エネルギーが発動して、下降螺旋志向性によって、宇宙創造・天地創造がなされるように思える。



参考:

「迷宮」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%B7%E5%AE%AE
http://en.wikipedia.org/wiki/Labyrinth

ミノタウロス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%82%B9

バスク人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AF%E4%BA%BA
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/basque.html

The Origins of the British
A Genetic Detective Story by Stephen Oppenheimer
As a child, I sometimes wondered why people told jokes about Englishmen, Irishmen, Welshmen and Scotsmen. Why should our origins and differences matter? Part of growing up was realizing that they do matter and trying to understand why.

"This book challenges some of our longest held assumptions about the differences between Anglo-Saxons and Celts – perceived differences that have informed our collective sense of identity.Orthodox history has long taught that the Romans found a uniformly Celtic population throughout the British Isles, but that the peoples of the English heartland fell victim to genocide by the Anglo-Saxon hordes during the fifth and sixth centuries.
http://www.bradshawfoundation.com/stephenoppenheimer/origins_of_the_british.html


ヤコブの階段(創世記)
GEN28:10
ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
GEN28:11
とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
GEN28:12
すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
GEN28:13
見よ、主が傍らに立って言われた。 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
GEN28:14
あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
GEN28:15
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
GEN28:16
ヤコブは眠りから覚めて言った。 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
GEN28:17
そして、恐れおののいて言った。 「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
GEN28:18
ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、
GEN28:19
その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
GEN28:20
ヤコブはまた、誓願を立てて言った。 「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
GEN28:21
無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
GEN28:22
わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
http://www.is.seisen-u.ac.jp/~zkohta/bible/old_t/1/gen.html#gen28

2007年03月26日 (16:51)

両界曼荼羅とメディア・ポイント:ユダヤ=キリスト教の乗り越えと本格正統超越界の曙光

直観を言うと、金剛界曼荼羅がメディア・ポイントにおける超越性で、金剛界曼荼羅がメディア・ポイントにおける現象性であり、両界曼荼羅は、メディア・ポイントの即非的一性を表現しているのである。

大日如来は、超越界の「光」である。超越光である。これは、当然、阿弥陀如来(無量光)とほぼ等しい。また、大日如来は、メディア・ポイント自体と考えていいだろう。

超越光であり、現象光である。

また、金剛界の抽象性は、超越界の抽象性であり、胎蔵界の具象性は現象界の具象性に関係しよう。

後者の神々が、前者の円や正方形に相応する。

これは、多神教であり、多元論である。

正確に言えば、即非一性的多神教=多元論であると言えよう。これが、偉大な、天才空海の両界曼荼羅の奥義であろう。

説明によると、金剛界が智であり、胎蔵界が理である。確かに、金剛界は叡知界であり、胎蔵界は、現象界の⇒+1の差異的同一性の「理性」界であろう。

ここで想起するのは、古事記の三柱の神である。天之御中主神が、大日如来、即ち、即非一性であろう。そして、高皇産霊神が金剛界で、神産霊神が胎蔵界であろう。思うに、空海は、古日本の神道に通じていたのだろう。それを基盤として、天才的な両界曼荼羅の思想を創造したのだろう。

火羅図が興味深いが、これは、今で言えば、ホロスコープである。占星術の図である。《空海の「宿曜経」は密教占星術の宿曜道として一枚の図にまとめられたものが京都・東寺に伝えられる「火羅図」で、火羅とはインドの「ホーラー」の音訳であり、この言葉はギリシャまで遡るものだそうですから驚きです。》
http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka29.html
ホーラーとは、時間である。ホロスコープのホロであろう。とまれ、興味深いのは、火羅の「カラ」という音である。これは、朝鮮を想起する。また、火羅図において女性、天女、女神中心の図像となっていることである。
http://www.tonkatsuichiban.com/map/Toji1/Touji-17.html
もっと大きな画像を見たいところである。

思えば、曼荼羅とは、端的に、コスモスのことである。それは、メディア・ポイント・コスモスMedia Point Cosmosと言うべきものに相当するだろう。

通俗な占いに堕しているが、占星術とは、本来、メディア・ポイント・コスモスを探求する智であったろう。コスモスの問題は後で検討したい。

密教であるが、これは、古代ギリシア文化で言えば、秘儀や密儀に相当すると言えよう。神秘主義、オカルティズムはこれが堕落したものである。つまり、即非的一性(秘儀性)を喪失して、虚数軸=超越界に、実数軸=現象界の同一性(=物質性)を投影したものだと考えられる。先に批判したが、ルドルフ・シュタイナーの人智学がそういうものである。

思えば、仏陀とプラトンの生存した時期は比較的近い。思うに、当時、共通普遍の超越界が感得される時代であったのだろう。伝統的に言えば、超越性の秘儀が純粋に残っていたのだろう。

古代ギリシアでは、エレウシスの秘儀であり、エジプトでは、イシスの秘儀、等々である。

空海は、思うに、古代日本に残っていた超越性の秘儀を体得して、それに大乗仏教を重ねるようにして、独創的な両界曼荼羅という思想を創造したのだと思う。

ここで、20世紀の文学・思想的天才であるD.H.ロレンスの考え方で言えば、西洋文明が生まれる以前の、東方の女神的コスモス文化の名残と重なるだろう。

コスモス、女神、超越性、秘儀である。

これらが結びついているのである。これを、西洋文明一般は喪失したのである。超越性の喪失である。

最大の問題は、超越界とキリスト教との関係、超越界と近代科学の誕生の問題である。

先にも述べたが、ユダヤ=キリスト教は即非=太極的メディア・ポイントにおける両極端を表現しているのである。それは、超越界の極限的表象である。それが、一神教、唯一神の誕生である。

ここは微妙である。唯一神は、確かに、超越界に通じている。だから、超越性を西洋文明が喪失したというのは、言い過ぎであるが、しかし、ここは実に微妙である。端的に言えば、ユダヤ=キリスト教は、超越界に通じているが、同時に、本来の超越界を喪失しているのである。

即ち、超越的差異即非共振・太極様相という本来の超越界の様相をユダヤ=キリスト教は喪失しているのである。

ヤハウェ=イエス・キリストは、超越的であり、同時に、非超越的である。

そして、ユダヤ=キリスト教は、連続的同一性に傾斜しているので、なおさら、差異共振性としての超越性を否定しているのである。

これは、本当に、悪魔的事象である。【聖書は倒錯しているのである。ウィリアム・ブレイクが、「父」のことを、ノウボダディNobodaddy(誰でもない父)と呼んだのは、天才的である。しかし、イエスを肯定したのは、誤りである。「父」と「子」とは一体である。イエスではない、「母」の「子」がいるのである。「母の子」である。それが、聖霊教、天使教、女神教の「日御子」である。「父の子」は悪魔であり、「母の子」が天使である。「母の子」がオシリスであり、「父の子」がセトである。この問題や聖書の問題は後で検討したい。】

(近代主義の根源はユダヤ=キリスト教にあると言っていいだろう。古代ギリシアの叡知は、それに利用されたと言っていいだろう。セカンド・ルネサンスが必要である。)

さて、超越性とユダヤ=キリスト教の関係であるが、極限的超越性と連続的同一性(父権主義)が結びついたものである。即ち、超越的連続的同一性が、端的に、唯一神(=大悪魔)を表わす。

ここで、近代主義の発生の問題を検討するが、先ず、基本的に、西洋中世のキリスト教とは、この超越的連続的同一性と地中海的異教性(聖母マリア崇拝等)が妥協したものであるということである。

Kaisetsu氏の言葉では、後者はヘレニズムである。

そして、ルネサンスとは、ヘレニズムの復興であると言えよう。表面的には、キリスト教的であるが、実質はヘレニズム的である。イタリア・ルネサンスは、古代ギリシアの復興であるのは当然ながら、イタリアの先住民のエトルリア人(母権・東洋的民族と言っていいだろう。参照:D.H.ロレンスの『エトルリアの故地』)の地域、即ち、トスカーナ地方他から、発しているのである。

そして、近代であるが、これは、西欧近代である。ここにおいて、プロテスタンティズムが勃興するのである。これは、端的に、超越的連続的同一性=唯一神の復興と言っていいだろう。即ち、西洋近代とは、正に、ヘレニズムとヘブライズムとの分裂状態から発したのであり、結局は、後者が中心となったのである。しかし、前者も継承されているのであり、西欧の諸文化を形成したと言えよう。民主主義の問題は後で検討したい。

ここで、近代科学の発現を考えたい。近代科学革命については、多く語られてきたが、PS理論/MPの視点から見ると、超越的連続的同一性観念とヘレニズム的コスモスの観念と数量的数学が結びついて、近代的自然科学が発生したと思えるのである。ケプラーで言えば、惑星の動きは、ヘブライズムの超越的連続的同一性とヘレニズムのコスモスの観念の混合態における数量的数学の公式の発見である。

そして、数量的数学と唯物論が結びつき、近代科学が生まれたのである。

超越的連続的同一性と数量が結びついて、物質概念が生まれたと言えよう。だから、つまり、超越神的同一性「理性」が数量化されたのが物質概念である。つまり、「理性」=物質なのである。これが、近代科学の本質である。カントが、超越論的形式として、この「理性」を「批判」したと言えよう。

超越的連続的同一性の数量化=「理性」=自我=物質という公式がここにあると言えよう。ヘレニズムのコスモスは共振的宇宙であったが、ヘブライズムの超越的連続的同一性主義によって、それが否定されたと言えよう。つまり、差異共振的宇宙観(ヘレニズム)が否定され、近代科学が成立したと言えよう。

言い換えると、ルネサンスが否定されて、ヘブライズム中心に近代主義が形成されたということである。これが、近代的自我(=悪魔)を形成したのである。植民地主義、帝国主義、唯物資本主義等々は、ここから発したのである。

イラク戦争もこの延長にある。

思うに、今日、トランス・モダン・エラ(時代)にあって、超越的連続的同一性主義、一神教的様相が解体し出しているのである。

ユダヤ=キリスト教的パラダイムが崩壊して、新しい超越的差異共振性のパラダイム、言わば、新ヘレニズムのパラダイムが生起しているのである。トランス・モダン・エヴォリューションである。

思うに、⇒-1へと傾斜したエネルギーが、⇒+1へと転換しているのである。

言い換えると、⇒-1とは、同一性の反復であるが、⇒+1とは、メディア・ポイントにおける超越的差異共振性の発現を意味しよう。

即ち、超越的エネルギーの認識である。

超越光・即非・現象光の認識である。

超越光Transcendental Light ⇒現象光Phenomenal Light

あるいは、

超越エネルギーTranscendenatl Energy⇒現象エネルギーPhenomenal Energy

である。これは、m(ic)*(-ic)⇒mc^2

のことを意味しよう。

仏教や神道や東洋思想はこれを初めから認識していた。

西洋においては、ヘレニズムがこれを認識していた。また、東方キリスト教は、神のエネルゲイアという概念で、これを認識していた。

プラトニック・シナジー理論によって、今や、ユダヤ=キリスト教的西洋文明の乗り越えが理論的に実現したと言えよう。

ヘレニズム・ルネサンス、即ち、本来の超越界の新生である。



参考:
両界曼荼羅
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仏教
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三法印 、四法印
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両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、密教 の中心となる仏である大日如来 の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅 である。大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」と称する。個々の「仏」の像を絵画で表わしたもののほか、1つの仏を1文字の梵字(サンスクリット を表記するための文字のひとつ)で象徴的に表わしたものもある。

[編集 ] 両界曼荼羅の起源と日本伝来

大悲胎蔵生曼荼羅は「大日経 」、金剛界曼荼羅は「金剛頂経 」という密教経典をもとに描かれている。大日経は7世紀 の中頃、インド で成立したものと言われ、インド出身の僧・善無畏 (ぜんむい、637年 − 735年)が弟子の一行(いちぎょう、683年 − 727年)とともに8世紀 前半の725年 (開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。一方の金剛頂経は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、大日経が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧・金剛智 (671 年 − 741年)と弟子の不空(705年−774年)によって漢訳されている。なお、金剛頂経は、十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18のさまざまな機会に説いた説法を集大成した膨大なものであるが、金剛智と不空が訳したのは、そのうちの初会(しょえ)のみである。この初会のことを「真実摂経」(しんじつしょうぎょう)とも言う。

いずれにしても、「大日経」と「金剛頂経」は同じ大日如来を主尊としながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2つの経の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海 の師である唐僧・恵果 (746年 − 805年)であると推定されている。恵果は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、唐の絵師に命じて両界曼荼羅を描かせ、空海に与えた。空海は唐での留学を終えて806年 (大同 元年)帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。

空海が持ち帰った曼荼羅の原本は失われたが、原本に近いとされる模写が、京都・神護寺 所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)である。なお、神護寺の曼荼羅は着色本ではなく、紫色の綾に金銀泥で描かれている。

通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について両部・両界また胎蔵界曼荼羅・胎蔵曼荼羅と併用して呼ばれているが、密教の碩学・頼富本宏氏に拠れば 「曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として」に於いて「曼荼羅の典拠となった大日経と金剛頂経のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語のみを用いている」即ち金剛頂経には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、大日経では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵生曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵界曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いておられる。また氏は円仁・円珍・安然など天台密教(台密)が興隆すると修法のテキストにあたる次第類の中に胎蔵界と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅が使われる様になったと言はれる。

[編集 ] 胎蔵曼荼羅の構成

胎蔵曼荼羅は、詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅といい、原語には「世界」に当たる言葉が入っていないが、金剛界曼荼羅に合わせて、古くから「胎蔵界曼荼羅」という言い方もされている。曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。大日如来の周囲には4体の如来(宝幢−ほうどう、開敷華王−かいふけおう、無量寿 −むりょうじゅ、天鼓雷音−てんくらいおん)と4体の菩薩(普賢菩薩 、文殊師利菩薩 、観自在菩薩 、慈氏菩薩 )、計8体が表わされる。
胎蔵曼荼羅
胎蔵曼荼羅
外金剛部院
文殊院



釈迦院







院 遍知院 金




中台
八葉院
持明院
虚空蔵院
蘇悉地院

中台八葉院の周囲には、遍知院、持明院、釈迦院、虚空蔵院、文殊院、蘇悉地(そしつじ)院、蓮華部院、地蔵院、金剛手院、除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぶ)院、またの名は最外(さいげ)院が位置する。これは、内側から外側へ向かう動きを暗示し、大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという。

さらに、胎蔵曼荼羅は、中央・右・左の3つのブロックに分けて考えることが必要である。図の中央部は大日如来の悟りの世界を表わし、向かって左(方位では南)には聖観自在菩薩(観音菩薩)を主尊とする蓮華部院(観音院)、向かって右(方位では北)には金剛薩埵(こんごうさった)を主尊とする金剛手院(金剛部院。薩埵院)がある。蓮華部院は如来の「慈悲」を、金剛手院は如来の「智慧」を表わすものとされている。

[編集 ] 金剛界曼荼羅の構成

胎蔵曼荼羅の各ブロックを「院」と称したのに対し、金剛界曼荼羅では「会」(え)という語が使われ、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成る。これは9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅の集合体と考えるべきである。
金剛界曼荼羅
金剛界曼荼羅




四印会

一印会

理趣会


供養会

成身会

降三世会


微細会

三昧耶会
降三世
三昧耶会

中心になる成身会の中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。大日如来の東・南・西・北には阿閦 (あしゅく)・宝生如来 ・阿弥陀如来 ・不空成就如来 の4如来が位置する(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来 という)。各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。

三昧耶会、微細会、供養会は中央の成身会とほぼ同様の構成をもっており、四印会はそれをやや簡略化したもの、一印会は他の諸仏を省いて大日如来一尊で表わしたものと考えて大過ない。曼荼羅画面向かって右の理趣会、降三世会、降三世三昧耶会のそれぞれの中尊は大日如来ではなく、理趣会は金剛薩埵、あとの2つは降三世明王が中尊である。菩薩の一員である金剛薩埵や恐ろしい形相をした降三世明王も、すべては大日如来の悟りが形を変えて現われたものであり、すべては大日如来一尊に由来するということを表現したものと思われる。

胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられる。  
"http://ja.wiki