2007年05月31日 (22:45)

私の親の世代から思う:彼らの唯物論はどこから生まれたのか。

私の人生は、亡父への嫌悪・憎悪・反発・殺意・怨み、等が原点であったように思う。
 大正の後半の生まれである。家庭の恥を晒すことになるので、詳しく書かず、抽象観念的になるが、何故、このような人間が生きているのか。このような人間が生きている世の中は断罪に値すると若い頃思った。
 とにかく、利己主義、自己中心主義、冷酷無惨な人間であった。精神がなかった。
 また、母を見ると、昭和初期の生まれであるが、子どもの頃は、お国のためと滅私奉公で働いたようだ。
 両親の性格は異なるが、ただ共通しているものがあった。それは、物質主義である。没精神性である。没霊的である。唯物的、金銭中心主義的であった。
 両親ともに、無教養であった。それはそれでいいのであるが、彼らの唯物主義は、いったいどこから生まれたのか、不思議である。
 私が戦後の唯物教育を受けて、染まる下地は、両親の唯物性にあったように思う。
 いったい、大正や昭和初期の唯物論はどこから生まれたのか。没精神性はどこから生まれたのか。
 思うに、思考する習慣が彼らにはないのである。現在の思考停止の国民のように。
 そう、父親は、電気関係や機械の工作が好きな人であり、一見、理科系的ではあるが、思考が狂っていた。
 今、急に思い浮かんだが、やはり、夢野久作の、唯物科学を批判している『ドグラ・マグラ』を読む必要が絶対にあるということである。
 亡父は帳簿は丁寧に記した。字は綺麗であった。しかし、思考は完全に狂っていたのである。そう、一種、パラノイアであったと言えよう。
 どうも、パラノイアということに鍵がありそうだ。これは、正に、近代的自我の狂気である。
 ここで、飛躍的敷延して、日本の戦前の狂気は、パラノイアに拠るのではないだろうか。そして、今日・現代の日本の狂気もそうである。偏執狂である。
 これは、同一性主義の帰結である。だから、思うに、両親の育った昭和の初期の時代には、同一性主義・パラノイア性が社会に蔓延していたのではないだろうか。
 そう、だから、集団的パラノイアである。全体主義と言ってもいい。これは、差異を否定して、同一性が全体化する事態である。つまり、昭和の初期の時代に、差異を否定する事態が起きたのである。
 今、ここで、226事件や515事件等が浮かんだ。また、アナーキズムのことも浮かんだ。思えば、私は一時アナーキズムに傾いた時期があった。しかし、私はアナーキズムの欠点をわかったいたつもりである。それは、他者を否定することである。バクーニンを考えればいいのである。自己の思想のためには、殺害、暴力的破壊を辞さないのである。
 つまり、アナーキズムは自由を求めながら、この点で、同一性主義に陥っているのである。否定反動的でなのである。だから、私は、スピノザ主義的アナーキズムを考えたのである。これは、他者を能動的観念化して、連合化する発想である。そう、不連続的差異論が生まれる前、私の内部に生じた思想は、このスピノザ主義的アナーキズムであった。これは、実は、PS理論に近いのである。ただ、不連続性や超越性が明快にはなっていないのである。
 ということで、昭和初期に同一性主義が生まれたのだろう。これは、ロシア革命を生んだ無神論的唯物論に類似するように思える。つまり、昭和初期の日本とは、ロシア革命前夜に近い同一性・唯物的思潮があったように思えるのである。
 今日は、これ以上書けないが、とにかく、私の両親の唯物主義は、昭和初期の同一性・無神論・唯物思想に影響を受けているのではないだろうか。だから、昭和初期の時代思潮を考えるには、ロシアとの相関を見ないといけないように思えるのである。後で、再考したい。

2007年05月31日 (00:46)

政局詩:日本の指導層並び奴隷層に捧げる

お金とは何ぞ哉
お金は、正に、同一性欲望のメディアである。
お金があると、物質的にうれしい。
でも、本当か、そうではないだろう。
お金があっても、それだけでは、ご飯にはならない。
お金の物質的メディアとしての価値が嬉しさを生むのだろう。
おいしい食べ物を買うことができるし、広い家に住むことができるし、
快楽を満足できる。
快楽とは何ぞ哉。
快楽とは、同一性欲望の快感である。
差異の歓喜ではない。
歓喜と快楽は異なるだろう。
そう、だから、政治家や官僚ややくざは、快楽を求めている。
同一性の奴隷である。
同一性の奴隷の奴隷が国民である。ダブル奴隷である。
問題は、歓喜を生活に取り戻すことである。
快楽は、酔いどれだ。
歓喜は、高潔だ。
安倍首相殿、あなたは、快楽人間なのですね。
集団的自衛権の行使という快楽
愛国心という快楽
戦後レジームからの脱却という快楽
等々
そこには、歓喜はなく、快楽があるのです。
酔い痴れた、酔いどれの快楽の日本
ここには、歓喜の高潔さはない。
いったい何を考えているのか、指導者やその奴隷たちは。
快楽は、同一性欲望であり、物質身体に関係する。
物質身体は滅びる。
しかし、歓喜は、差異であり、それは、滅びない。
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all
Ye know on earth, and all ye need to know.
「美は真であり、真は美である」―これは
  地上にて汝らの知る一切であり、知るべきすべてである。
http://www.kitashirakawa.jp/taro/eigo40.html
A thing of beauty is a joy for ever: (美しいものは、永遠の歓喜である。)
Its loveliness increases; it will never
Pass into nothingness; but still will keep
A bower quiet for us, and a sleep
Full of sweet dreams, and health, and quiet breathing.
http://www.readprint.com/work-889/John-Keats
とイギリス・ロマン派詩人ジョン・キーツが言った。
この国の指導者は、はかない快楽lustを求め、また、この国の奴隷は、快楽を快楽する。快楽二重奴隷である。
安倍首相の求めているのは、醜悪な国である。
醜悪な国造りである。
恐ろしいペテン師である。
どうか、美という言葉を汚さないでほしい。日本語を汚さないでほしい。
安倍首相においては、すべてが転倒しているのだ。
倒錯である。
私は小泉前首相を忌み嫌ったが、
安倍首相に対しては、大嫌悪感を抱く。
あなたはいったい、日本をどうするおつもりか。
日本を反吐の出る国に変えたいようだ。
また、日本の指導層ならびに奴隷層、滅びの快楽に酔い痴れる馬鹿どもよ、
高潔なる歓喜・真理に目覚めるがいい。
差異は、路傍の花である。路傍の草である。
そこに、美があるのである。
小さな差異の世界、そこに真があり、美があるのである。
快楽は、獣的である。
そう、近代とは、獣人化である。
トランス・モダンの差異の歓喜・真善美に生きよ。

2007年05月28日 (21:45)

PS理論の経験論:同一性の志向性と差異の志向性:知識と感識の差異と同一性

風邪を引いて、咳が止まらない状態が続き、難儀であるが、本件に関する理論的考察を続けよう。
 先に、原主体性のiは、差異と同一性が合一しているものではないかと言ったが、ここでも、それを作業仮説にして考察しよう。
 では、原客体性の-iとは何だろうか。それは、当然、差異であり、他者である。同一性はないのか。以前、私は、iと-iの同等の、しかし、正反対の性質を見たことがある。そのときは、iを原知として、-iを原身体として、両者に同一性の志向性を認めたのである。つまり、i→(-i)=-1であり、- i→i=-1であると考えたのである。言い換えると、原知から原身体への同一性志向性と、原身体から原知への同一性志向性を考えてみたのである。
 このように考えるということは、原身体にもなんらかの「知」を認めることになるだろう。すると、前提からおかしくなるだろう。原知の「知」はいいが、原身体の「知」とは何か、となるだろう。思うに、それは、「感」という「知」ではないだろうか。「知」という言葉を使用するのに語弊があるならば、「識」であろう。「感」という「識」があるのである。いっしょにして、感識である。
 すると、知と感識があることになる。知識と感識と言ってもいいかもしれない。
 では、しかし、思うに、原知の差異とは何だろうか。ひょっとして、原知は、同一性しかないのではないだろうか。しかし、それはやはり、おかしい。何故ならば、原知と原身体が即非様相にあるのだから、当然、原知は、同一性だけでなく、差異をもっているはずである。同一性だけなら、即非にはならない。i=- iになってしまうからである。
 ということで、原知は、差異と同一性との合一であるとして、原身体も、同様に、差異と同一性との合一であるとしよう。
 では、後者は「感」における差異と同一性である。これをどう見るのか。「感」における差異とは、直感・直観の差異である。感の特異性である。そして、「感」における同一性とは、対象との合一性であろう。そう、投影性と言ってもいいのかもしれない。否定的な意味での感情がこれに入るのかもしれない。
 とまれ、以上の考察から、原知(差異/同一性)*原感(差異/同一性)という図式が考えられた。簡単に、知識*感識とできよう。
 そうすると、同一性の有り様が、異なるだろう。知識の同一性は、感識に対するもので、知識的同一性を感識に押しつけて、それを否定するのである。即ち、知識→感識=知識同一性である。
 それに対して、感識の同一性は、感識的同一性を知識に押しつけて、それを否定するのである。即ち、感識→知識=感識同一性である。
 また、差異について言えば、知識の差異があり、それは、感識との距離を生む。そして、感識の差異があり、それも、知識との距離を生む。知的差異と感的差異があることになる。
 では、このような四元的な差異/同一性がメディア・ポイントにおいて、現象化するとき、どうなるだろうか。これまでの考えでは、同一性化ないし連続化が発現するのである。
 以上の視点から言うと、知識同一性と感識同一性が作用することになろう。具体的に言えば、対象Xに対して、主体は、知識=言語的同一性である山を当て、そして、感識同一性的には、山に自己投影していると言えるのではないだろうか。主体・自己と客体・対象とが溶け合っているのである。正に、ナルシシズムであろう(神話では、ナルシスは、水面に映る自分の姿を見惚れている)。
 ということで、現象的同一性とは、知識且つ感識的同一性が形成されると考えることができるようだ。そして、これが、自我の原点・基盤であろう。仏教で言えば、色(しき)である。
 しかしながら、同時に、二つの差異が存しているのである。知識の差異と感識の差異である。これらをどう見るのかである。
 知識の差異は感識から距離を置き、感識の差異は知識から距離を置く。つまり、当然ながら、知識の差異と感識の差異とは、両者、知識と感識の溶合的同一性から離れている。思うに、ここで、知識の差異と感識の差異とが、ある種、連携するのではないだろうか。思うに、それは、知識と感識の対極性を形成しているのではないだろうか。とりあえず、作業仮説として、それらは、極性をもつとしよう。否、ひょっとすると、それらは、即非性かもしれない。なぜならば、あるときは、知識の差異が主導的であったり、あるときは、感識の差異が主導的であったりするような、いわば、融通無碍なものであるからである。思うに、この場合は、対極性でも即非性でもいいだろう。
 ここで簡単にまとめると、現象化において、知識と感識との同一性溶合(自我)が生起し、また、同時に、知識と感識との差異的対極・即非性(自己)が生起するということになる。これが、人間の基本的意識の構図であると考えられる。
 さて、ここで、近代化の問題であるが、当然ながら、同一性が差異を否定・排除するのである。
 この近代化の主因であるが、それは、端的に、同一性認識が差異認識に対して、主導的になったことである。簡単に言えば、可視界とその数量的同一性が主導的になったことである。簡単に言えば、五感的同一性と言っていいだろう。
 もっとも、ルネサンスを含めて、プロト・モダンにおいては、差異と同一性の両面が混淆的に作用していたと言えよう。そして、近代主義は、同一性主義によって、差異を否定・無化していったのである。
 この理由は先にも述べたが、物質的欲望へと人間が傾斜したことであろう。つまり、同一性欲望が主導的になり、差異のもつ精神性・心性・霊性を否定していくのである。貨幣経済、商品経済、資本主義の発達が起こったのである。そして、究極的には、唯物論が生まれて、差異を全否定する事態になるのである。近代科学は唯物科学であった。(現代科学は、差異を対象とする科学であり、脱近代科学である。)
 さて、以上のように、差異と同一性の関係を検討したが、最後に簡単に無意識について触れたい。精神分析、ユング心理学等が、無意識について述べているが、思うに、無意識とは、感識のことではないだろうか。私がよく直観と言うが、それは、感識である。普通の人は、同一性知識で考えているから、感識が衰退しているのである。
 無意識とは、実は、意識化できるのであるから、矛盾する言葉である。だから、感識の方が適切だと思うのである。
 また、非合理主義や神秘主義であるが、それは、感識中心になっていると思う。それは、知識を排除する傾向にあるので、反動的なのである。
 とまれ、思うに、プラトニック・シナジー理論で、差異共振化が起こったとき、単に、感識の差異が肯定されるだけでなく、知識の差異も肯定されるということになろう。知識と感識の差異的対極性(即非性)の形成である。これが、正に、自己認識方程式i*(-i)⇒+1を指すだろう。知識の差異がiであり、感識の差異が-iであり、両者が対極性(即非性)を形成して、統一化(⇒+1)しているのである。
 今は、ここで留めたい。

2007年05月27日 (22:03)

現代のドイツの思潮を知る貴重な内容で、検討資料としたいと思いますので、全文引用させていただきます

現代のドイツの思潮を知る貴重な内容で、検討資料としたいと思いますので、全文引用させていただきます。
 なお、私のコメントは赤文字で書きます。


現代オカルトのビオ思想 [ 文学・思想 ] / 2007-05-24 02:30:08


先週の新聞にバイオダイナミック 農法に関する記事を見つける。ベルリンのカフェー・アインシュタインで、元国務大臣レナーテ・シュミット 女史が女性代議士たちを集めて、これについてお話をしたと言われる。

この新聞記者は、「まあまあ、そこで驚愕もされることもなく、シュタイナーに言及されることとなり、これで、迷い道へと進む怪訝もなくこれがドイツプロテスタント勢力の土台となった」と語る。

この農法は、先頃カッセルの大学でドイツで初めて講座が持たれることになり、そのオランダ人教授をして、そこで農学を教えるのではなくてシュタイナーのアントロポゾフィーのオカルト を教えているだけではないかと強い批判が挙がっている。

しかし、この記事にあるように、我々都会生活者は土いじり等とも縁遠く、農業など知らない者が殆どで、バイオ、バイオと二言目には口に上らせるだけなのである。バイオ商品に高い金を払い、喜んで健康なものと信じて、変わらぬ不健康な生活を続け、経済活動に貢献するのである。

プロテスタント信仰者にとって、反省することも無く、これほど魅力的な逃げ道はないと思うのは私だけだろうか?

その逃げ道の一つとして、陰陽の二元論的世界観もしくはグノーシス的世界観が、罪滅ぼしを願う工業先進国から、または根本的に西洋化出来ない極東のアジア主義者から生まれている。
(★コメント:陰陽二元論とグノーシスの二元論は根本的に意味が異なると私が考えている。前者は、対極性論であり、後者は、二項対立論である。後者は、霊的世界を肯定して、物質的世界を否定するのである。)

特に胡錦濤主席のハーモニー(和谐)社会政策は、我々の知っているマオ思想も、小平の楽天主義も、江沢民の三大主義思想論をも批判せずにすべてを多極化の中で抱擁しようとする思想である。
(★コメント:これらの中国の思想は、道教や老子の対極論から来ていると思われる。対極論・陰陽論は、PS理論に近いと思うが、まだ、連続性と不連続性が不明確だと思う。後で検討したい。)

学而 12
有子曰:“禮之用,和為貴。先王之道斯為美,小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。”

子路 23
子曰:“君子和而不同,小人同而不和。”

そこでは、中庸と言う言葉を使うことなく、ジャコバン派の過激を諌めて、陰陽のバランスの中で調和させようとする思考があるのだろうか。
(★コメント:ジャコバン派の過激とは、弁証法である。否定を否定するのである。)

それとも、このように見てくると、哲学思想文化の世界で進んでいたポストモダニズムの影響が、今頃になって政治社会の主導的な思潮になってきている気配すらある。それが、二元論的なそもそも仮想である二大政党制の衆愚政治でありポピュリズムである。細分化して専門化した近代科学が、または象の鼻に触れて判断を下すような短絡が、こうしたカルト を生みだす温床を育てているだけなのかもしれない。
(★ コメント:少し曖昧な叙述であるが、対極的二元論とポストモダニズムを近づけるのは正しい。しかし、それが、二大政党制のポピュリズムと通じるというのは、ある堕落した形態ではそうだろうが、しかし、思うに、二大政党制とは、西洋哲学の対話論に根差しているのではないだろうか。対極論に近いだろう。
 単純に、対極論・陰陽論をカルトと呼ぶのは誤りだろう。確かに、近代主義への反動からオカルトは生まれる。しかし、対極論・陰陽論には、近代を乗り越えるためのきっかけはあるのである。)


参照:
イエス家の三つ以上の棺  [ マスメディア批評 ] / 2007-03-01
求められる明快な宇宙観  [ マスメディア批評 ] / 2006-05-25
活字文化の東方見聞録  [ マスメディア批評 ] / 2006-05-12
二元論の往きつく所  [ 文学・思想 ] / 2006-04-16

http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/28a8762db77e43a6944b8e14a2c038d3
Wein, Weib und Gesang

コメント



スピリチュアリティーの欠乏? (モモリーネ)
2007-05-24 17:11:46
再び興味深く読ませていただきました。哲学は私の専門でもありませんが、日々西洋社会に生きて、最近は特にこの記事の内容を実感しておりますので、コメントを残したく思いました。
プロテスタント信仰者にとって、これ以上素晴らしい逃げ道はないというご意見には納得します。最近の、教会離れはプロテスタント教会の大きな問題で、先日興味本位にEKDのTextに目を通しましたが、どうも教科書的で本当の問題に焦点を当てていない気がしました。カトリックと違って、プロテスタント教会には、五体の喜びといった感覚に欠け、人間として自然や大地との一体感を実感できるスピリチュアリティーが実感できないものになってしまいました。それを補うがごとく、オカルトやカルトなものが求められていくのでしょうか?マテリアルがここまで満たされると精神性を見失い、更なる真実をこうしてグノーシス主義のようなかたちに求めていってしまうのは、西洋社会でのプロテスタント教会のあり方がもう一度問われていると実感せざるを得ません。
ポストモダニズム時代もそうかも知れませんが、どうも分割(Spaltung)の文化である西洋は「すべてを多極化の中で抱擁しようとする思想」というのをなかなか築けずに、結局二元論的になってしまう宿命にあるのでしょうか?その辺に、手堅い弁証法を使って学問の育つ基盤や政治思想の発達する土台を見たりするのですが、東洋人である私には、西洋人の新しい精神性を求める方向が、何か浅薄な気がしてなりません。そういう意味で、様々な点を象徴的に包括したこの記事は、大変興味深く思いました。
(★ コメント:私はプロテスタンティズムは、ルネサンス的個を隠蔽していると思う。ポスト・プロテスタンティズムとして、新ルネサンス的個の文化が可能だと思う。それは、コスモス的な文化である。グノーシス主義は、きっかけの一つであろう。それよりは、ドイツ哲学のもっている可能性を進展させた方がいいだろう。シェリングには、新しい思想(即非論)のきっかけがあると思う。私は、ハイデガー哲学がドイツ哲学を行き詰まらせたと考えている。)



意外に脆い西洋思想 (pfaelzerwein )
2007-05-25 03:31:02
最近フランスの情報も新聞等に良く出るようになって、それらと比べたりしています。フーバー氏の談話などを聞いていても、そこの肝心のところはある意味、逃げてしまっていますよね。

対立から止揚する形は、例えば政治では異口同音に緩やかな経済成長が政策の基礎となるのですから、求めようがありません。

今述べたフランス新右翼の人気者は、欧州の「寛容と人権」の一押しでは駄目だと主張して、アンチキリスト時代が今始まったとか発言しているようです。これなども、グローバル化の中での旧世界の困難な事情を示しているのではないでしょうか?

上の現代中国の思想問題への深い関心も根は同じなんですね。グローバルな世界で土俵は皆同じなので、イスラム世界を含めて本当に共存出来る方法はあるのか?

今回のエコ思想を考えていて、嘗ての西海岸などの東洋趣味を思い出す反面、全然違う事情をここに見て、ご指摘のように意外に脆い西洋思想に気がつくのです。社会の表にあまり出ない範囲で、大分揺らいでいる世界観のようなものを感じます。

サイエントロジーもどきへの流れを食い止められないような社会構造になっているのが事実ではないでしょうか。
(★コメント:正に、プラトニック・シナジー理論こそが、哲学・思想・理論的袋小路をブレークスルーものとして考えられるのである。)

p.s. シュタイナー批判を今一度、明確にした方がいいと思われる。もっとも、批判とは言え、その誤謬を指摘し、評価すべきを評価するつもりである。ここでは、十分言えないので、簡単に言いたい。
 第一の問題点は、シュタイナーは、霊・スピリットが実体であり、物質は幻影であると考えている。これが誤謬であると思う。物質は、同一性ということで実体があるのである。
 第二の問題点は、既述したが、同一性形式=構造をシュタイナーは、イデアに当てはめていると思う。つまり、物質の形式・構造を、霊に適用しているのである。だから、霊は、物質化されるのである。中沢新一やヌース理論の霊的唯物論と同じである。つまり、霊が差異であることをシュタイナーは認識していないのである。そう、だから、自我というものをシュタイナーは根源においていると考えられるのである。自我は、同一性である。
 第三の問題点は、瞑想の方法の誤りがあると思う。彼の薔薇十字瞑想法は、霊性に、感覚形式を与えてしまい、霊性を連続化させると思う。
 問題点はこれくらいにしよう。
 思うに、シュタイナー主義は、ドイツ観念論、とりわけ、ヘーゲル哲学に似た面があると思う。そう、ヘーゲル哲学と神秘主義との混淆のように思える。確かに、霊性をなんらか感じ取っていたが、それを不連続化できなかったのである。それで、同一性と合一させて、グロテスクな思想を生んでしまったのである。
 ただし、悪魔論であるが、アーリマンを同一性ないし連続的同一性と取ることができるので、それなりに評価できよう。しかし、ルシファーがあいまいである。これは、思うに、反動的なエネルゲイアであろう。シュタイナーは、アーリマン(同一性)とルシファー(反動的エネルギー)を調和的に仲介するものとして、キリストを考えていた。
 このキリストであるが、それは、PS理論から言うと、正に、不連続的共振性ととるべきだと思う。単に、霊的愛のキリストとすると、同一性から脱出できない。おそらく、シュタイナーは漠然ではあるが、差異と同一性との調和させるものを求めていて、それをキリスト衝動と名付けたと思われる。
 しかし、それは、不連続化であり、差異共振化と見ることで、二種類の「悪魔」を天使的に変容できると考えられるのである。
 PS理論は、シュタイナー霊学の超克でもあるのである。
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2007年05月27日 (01:02)

神秘学のエーテル体やアストラル体とは何か:M・Pのエネルギー変換とTwilightのイデア空間

私は、ルドルフ・シュタイナーの著書をかなり読んだ。今は、彼の霊学の考え方には批判的であるが、しかし、彼の著書を、批判的に読めば、得るところが大きいだろう。信者になってはいけないのである。とまれ、仏教の影響を強く受けている『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』は薦めたい。極言すれば、薦めるのは、この書一冊だけである。


http://www.amazon.co.jp/%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%A6%E8%B6%85%E6%84%9F%E8%A6%9A%E7%9A%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%82%92%E7%8D%B2%E5%BE%97%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8B-%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/4480086641
 
 プラトニック・シナジー理論が新霊性論でもあることが判明してきて、なにか、シュタイナーの霊学の基礎概念であるエーテル体とアストラル体について、検討したくなったのである。
 シュタイナーは簡単に言えば、人間を構成している4つの体を説いている。

1)自我(エゴ)⇒自己にすべきである。
2)アストラル体(星気体)⇒霊的差異共振エネルギー様態
3)エーテル体(生命体)⇒遺伝子情報的差異共振エネルギー様態
4)物質体(肉体)
 
である。
 私は自我に問題があると思っている。PS理論から言うと、根源的主体性である。これは、iであり、且つ、i*(-i)である。つまり、即非的主体性である。自我というと、同一性が強く意味されるのである。少なくとも、自己と呼ぶ必要があろう。
 次に、アストラル体であるが、これは、簡単に言えば、人間の感情・心情・魂、等である。私は、これは、差異共振エネルギー様態で説明できるのではないかと思う。
 エーテル体であるが、これは、簡単に言えば、「気」、「プラーナ」である。思うに、アストラル体が、霊的差異共振エネルギーならば、エーテル体は、物質的差異共振エネルギーではないだろうか。電磁波に近いのである。しかしながら、単純に電磁波ではないだろう。思うに、人体形態形成的電磁波ではないだろうか。人体を形成する情報をもった電磁波である。わかりやすく、あえて言えば、遺伝子情報をもった電磁波である。
 次に、物質体であるが、これは、鉱物的人体とも言っていたように思う。物質的人体のことである。物質科学がこの物質体のレベルで人体を研究していると言えよう。東洋医学は、アストラル体やエーテル体のレベルで人体を探求していると言えよう。
 とまれ、以上で簡単ながら、アストラル体とエーテル体について説明したが、では、両者の関係はどうなのだろうか。これは、メディア・ポイント(以下、M・P)を考えればわかりやすいだろう。
 即ち、アストラル体とは、虚数超越的エネルギー(霊的エネルゲイア)であり、エーテル体とは、その実数化におけるエネルギー(実数的エネルゲイア)であろう。
 i*(-i)⇒+1で言えば、⇒がアストラル体であり、⇒の先端ないし終点がエーテル体であろう。また、考えられるのは、エーテル体とは、実数超越エネルギーではないかとということである。
 とまれ、以上で、簡単ながら、アストラル体とエーテル体の関係を見たことになる。極論すれば、M・Pのもつ虚数/実数エネルギー様相と言えるのではないだろうか。
 以上の見方が肯定されるならば、霊的情報というものが、自己に存していることになるだろう。プラトンで言えば、想起される記憶である。イデアとしての霊的情報、霊的記憶である。
 i*(-i)が根源的霊的情報・霊的記憶ではないだろうか。そして、これが、エネルゲイア化⇒すると、アストラル体化して、さらに現象化においてエーテル体化する。そして、完全な現象化において、物質的人体を形成するということになろう。
 私は、これまで、虚数的超越性を超越光と、そして、実数化を現象光化と考えてきたがどうだろうか。つまり、光がメディア領域に関係するなら、イデア界と光の関係は何だろうかということである。
 もし、i*(-i)を超越光とするなら、⇒は何になるのか。⇒の先端が現象光ならば、⇒自体は何なのか。しかし、これまでの考えでは、⇒が超越光ではないだろうか。
 超越性は二種類あるので、混乱するので、ここでは、霊的光と言おう。問題はイデア空間とメディア場である。思うに、イデア空間は、i*(-i)のゆらぎ空間ではないだろうか。しかし、それが、虚数軸M・Pという特異点において、エネルゲイア化すると考えられる。
 では、霊的光はどこに存するのか。創世記の「光あれ」とは、この特異点のことではないのか。霊的光の創造である。ならば、霊的光の場は、虚数軸M・Pとなる。そして、現象光の場は、だいたい、実数軸M・Pとではないだろうか。
 では、イデア空間には何があるのか。確かに、虚数軸M・Pには、霊的光が発生する。では、それ以外のイデア空間には何かがあるのか。
 ここで、『創世記』の神の霊が水の上を吹いていたというような描写を想起するのである。神の霊はiであり、水が-iでないだろうか。つまり、霊的光発生以前の神霊と「霊水」との「離接」様態がイデア空間ではないだろうか。
 光でも闇でもない様態である。D.H.ロレンス的に言えば、Twilightの様態である。薄明様態である。どうも、これが適切なようだ。初めに、薄明Twilightありき。そして、霊光が創造され、現象光が発生した、となるのではないだろうか。
 今はここで留めたい。
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2007年05月26日 (12:26)

霊的平和へ向けて:新霊性の時代:トランス・モダン・スピリチュアリティ

昨日の考察から引き続き考えたいが、結局、PS理論は、差異と同一性との理事無碍のあり方を涵養する。そして、差異は、虚数的超越性は、霊性となる。
 私は、このトランス・モダン的霊性が近代主義のもたらした暴力の世界を解消していくのではないかと思ったのである。暴力とは、端的に、差異の否定、同一性中心主義から発するのである。しかし、それだけでは、説明は不十分である。
 差異の否定とは、PS理論から言えば、差異共振性の否定である。即ち、他者との共振したあり方、平和的共存のあり方が否定されているのである。さらに、差異の否定は、精神的エネルギーの否定様態であり、反動様態となる。
 つまり、差異共振性の否定とは、共振エネルギーを反動様態に変えるのである。即ち、差異と他者に対する攻撃的エネルギー=暴力エネルギーに変容すると考えられるのである。
 以前述べたが、天使が悪魔になっているのである。しかし、端的に言えば、神が悪霊となっているのである。つまり、現代の諸暴力、とりわけ、戦争とは、神が悪霊となって生じているのである。つまり、人間が、神を悪霊に変えているのである。とりわけ、アメリカは神を悪霊に変えている国であり、日本は、それに憑依されているのである。
 そう、資本主義というものも、物質主義、交換価値中心である限り、神を悪霊に変えているのである。
 ここで、D.H.ロレンスが『チャタレイ卿夫人の恋人』で述べていたことを想起する。即ち、知性(これは、近代合理主義、近代主義)は、憎悪を基にしているということである。
 この知性の基盤にある憎悪(ニーチェで言えば、ルサンチマンである)とは、正に、差異共振性の否定のことである。スピノザで言えば、哀しみの感情である。
 結局、差異共振性=霊性を否定して、現代人は生きているので、憎悪に満ちて攻撃・暴力的なのである。結果は、破壊である。そう、近代主義とは、端的に、悪魔主義である。近代合理主義とは悪魔合理主義である。かつてあった霊性を否定して形成された物質的合理主義であるからである。
 しかし、近代主義が末期的になると、否定されていた差異共振性が蠢きだすのである。新霊性の目覚め・芽生えである。
 しかしながら、近代主義を形成している連続性を解体しない限り、新霊性は混濁したままであり、また、反動性を帯びると言えよう。神、宗教は、悪魔的暴力となるのである。
 ここに、不連続的差異論を包摂したプラトニック・シナジー理論PS理論の画期的な意義の一つがあるのである。即ち、連続性を切断して、差異を解放するのである。そして、それが、超越的差異共振性=新霊性であることを明らかにするのである。この新霊性が新平和の礎である。
 この新霊性においては、国家主義を超えて、戦争の犠牲者に対する倫理が発生している。いわば、永遠の法がここには、支配しているのである。
 そして、資本主義に関すると、これまでの近代的資本主義、同一性資本主義に換わって、霊的資本主義が考えられるのである。新霊性資本主義、トランス・モダン霊性資本主義である。
 民主主義も、この新霊性に基づくことになろう。新霊性民主主義である。そう、新しい神の時代、新コスモスの時代とも言えよう。
 そう、政治にいちばんこれが必要となってくるだろう。新霊性に基づく政治である。近代主義は、金儲け一辺倒で、不正義をもたらしたのである。
 価値観のパラダイム・チェンジである。可視的な価値から不可視の価値へと転換するのである。
 環境問題、温暖化問題も、結局、この新霊性に基づかなくては、解決しないだろう。何故なら、物質経済中心主義である限り、環境は破壊される方向にあるからである。新霊性に立つことによって、物質経済を乗り越えることができるのである。また、温暖化も同様である。
 また、今日の新自由主義的経済であるが、これは、アメリカのグローバリゼーションの策謀の一つであると言えよう。確かに、小さな政府や民営化はそれなりに必要なものである。また、規制緩和して、企業を活発にするというのも理解できる。
 しかしながら、物質主義経済に立つ限り、それは、悪魔主義であり、格差社会が拡大するのである。人間狼を増大させているのである。
 思うに、新霊性教育が必要である。これによって、新霊性人間が増えることになり、彼らは、霊的社会・文化のために何が必要が考え、実行するだろう。
 また、大企業が儲かるだけでなく、中小企業との共振化が図られるにようになるだろう。また、中央と地域との共振化も図られよう。
 差異共振性という新霊性が基盤となって、国家且つトランス国家共振体的相転移が発生すると言えよう。

p.s. 少し補足したい。差異を否定することから、神を悪霊(悪魔)に変えていると言ったが、この言い方では、神全体が悪霊になっている意味になってしまう。
 例えば、アメリカ人の一人が差異を否定したら、神全体が悪霊になってしまうということになってしまう。これは、あきらかに誤りである。
 ここは理論的に重要である。個にとっての差異共振性とイデア界との関係が問題になっているのである。単純に考えて、個が差異を否定したとき、差異共振性は否定されて、悪霊化する。
 問題は、個において、差異共振性とは何か、である。直観で考えよう。不連続化された差異は、共振する。それは、虚数的超越性をもつ。(実数的超越性はおいておこう。)思うに、それは、虚数的超越性と共振しているのである。イデア界的共振と呼ぼう。
 しかし、これが否定されたとき、反動エネルギーが生起する。これを悪霊と呼んだのである。しかしながら、個における差異共振エネルギー=イデア界的共振エネルギーとは、イデア界全体のエネルギー(ポテンシャル・エネルギーを含めて)ではありえないだろう。
 だから、悪霊化とは、メディアとしての差異共振性の否定と見るべきであろう。イデア界から現象化へと志向する。このとき、連続的同一性化が作用して、差異を否定する。これは、イデア界の形成するメディア・エネルギー=差異共振エネルギーを否定する形になっている。
 だから、悪霊化とは、イデア界全体の否定ではありえない。ただ、メディア・エネルギーとしての「神」の否定としての悪霊化である。エネルゲイアの悪霊化である。
 とまれ、このエネルゲイアの悪霊化とは、他者の否定につながることは言うまでもない。そう、確かに、神の否定と言っていいのであるが、この場合の否定は、排除・隠蔽である。神を否定して、神を閉ざしているのである。
 つまり、近代においては、個々において、神は閉ざされているのである。神に蓋をして、同一性=悪魔の枠に生きているのである。
 トランス・モダンは、神の復活でもある。
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2007年05月25日 (23:44)

PS理論の経験論:実数的Media共鳴と虚数的Media 共鳴

不連続化によって、差異と同一性が分離される。もし、不連続化がないポスト・モダン様態を考えると、内部的には、差異共振志向があっても、外部的には、連続的同一性があるので、内部的他者もやはり、否定様態を免れないのである。
 不連続化を起こると、i*(-i)は、肯定される。メディア・ポイントにおいて、純粋虚数的超越性が生起するのである。霊性の発生である。
 一方、分離した同一性はどうなるのか。それまでは、連続的同一性であったが、連続性が切断されたのである。主体は、同一性を保持する。これは必然である。対象XをAと呼ぶことを主体は止めないからである。ただし、連続的同一性ではない。では、それは何か。それは、差異的同一性、他者的同一性であろう。
 もはや、連続的志向性が消えたので、主体の同一性志向は、客体との関係を不連続なものとして見る。つまり、客体Xは、差異・他者となったのである。
 ここで図式化しよう。

不連続化以前:
主体=同一性=客体:差異は否定される

不連続化以後:
主体(同一性)≠客体・差異

主体は同一性を客体への向けるが、客体が差異・他者・特異性であると認識する。だから、同一性は、客体の一様態に過ぎないことを知る。
 もう少し丁寧に言うと、主体自身は、差異であり、同一性をもつ。というか、主体自身は、差異的同一性である。
 問題は、主体にとっての同一性の意味である。Kaisetsu氏は、理事無碍と呼んだが、正に、理としての差異と事としての同一性との無碍調和様態が主体にはある。
 ここで明確にしておけば、理としての差異とは、虚数的超越的差異のことであり、事としての同一性とは差異的同一性ないし不連続的差異的同一性である。
 主体においては、両者が均衡をもって共立しているだろう。どちらが優位、劣位ということはないだろう。差異と同一性の、言わば、二重並列視点があるだろう。
 問題は、主体の同一性の意義である。主体は、対象Xを山を呼ぶ。これは、連続性においても、不連続性においても同じである。
 しかし、主体にとって、対象Xは単に山ではない。他者である。そう、主体自身、他者であり、同時に、同一性である。結局、主体の同一性において、対象Xは、同一性を付与されるが、他者性を保持している。カントの物自体である。
 問題は、他者としての主体と他者としての対象・客体Xとの関係である。いわば、物自体としての主体と物自体としての客体との関係である。
 思うに、ここで光認識(直観)の問題が生じるのである。主体の視覚は、対象・客体の光を感受する。しかしながら、主体内部にも、光のヴィジョンはある。とりあえず、超越光/現象光としておこう。
 主体の内的現象光と客体の外的現象光は一致して、同一性認識を形成するだろう。対象は、山である。しかし、主体の内規超越光と客体の外的超越光とが一致して、超越的認識を形成するだろう。
 問題は、この超越光の超越性である。これは、内的超越光とは、単純に見て、虚数的超越性に思える。しかし、外的超越光とは何か。やはり、虚数的超越性ではないのか。作業仮説的にそうしておこう。即ち、現象光における同一性は、実数的超越性が作用し、超越光における超越的認識は、虚数的超越性が作用するとしておこう。
 問題は、Kaisetsu氏が説くMedia共鳴である。現象光において、Media共鳴があるだろう。しかしながら、超越光においても、なんらかのMedia共鳴があるように思えるのである。
 とりあえず、実数的Media共鳴と虚数的Media共鳴と呼んでおこう。何故、このようなことを言うのかというと、私自身の経験からである。例えば、私は目前の山を見ているとしよう。それは、同一性としての山である。しかし、他方、それは、私の心身と共鳴・共振しているのである。極端に言えば、私は山なのである。つまり、多くの芸術家がもっているコスモス的意識を問題にしたいのである。私と山、あるいは、私と星空、との共振的一致である。私は、これが、虚数的Media共鳴と考えたいのである。つまり、そうなると、山にも霊性を認めることになるだろう。(古来、特定の山は御神体である。)
 とまれ、以上から、本稿の問題を説明したとしよう。即ち、現象界のおいて、同一性認識が発生と同時に、虚数的超越性によるMedia共鳴が発生するのであるということである。そして、後者をコスモスと呼ぶのである。
 近代以前までは、民衆の生活世界は、コスモスを感知していたと考えられる。近代主義により、同一性中心主義となり、コスモスが否定されたのである。よく、ガリレオやコペルニクススの宇宙論をコスモスの崩壊と考えるが、それは、ここで述べた意味にとっても正しいし、実際のところ、そう考えた方が的確であると考えられる。
 以上のように考えると、現象界とは、実は、霊的世界(コスモスL)が重なっている世界であると言えるのではないだろうか。しかしながら、両者は、理事無碍的平行を保持しているのである。
 今日はここで留めたい。後で再検討したい。

2007年05月24日 (23:22)

虚数的超越性と実数的超越性:「気」の理事無碍論と原理事即非論

以下、Kaisetsu氏の極めて透徹した、「理事無碍、事事無碍」の説明であると思う。理事無碍の方は、霊性と感性/知性の無碍ということで明快であるが、事々無碍の説明は、実に、鋭敏であると思う。私は、事々無碍とは、単純に、物質的事象と物質的事象との共振作用と考えていただけであったからである。実数軸上の不連続な差異と同一性との共振と考えるというのは、すばらしい。事実である。
 今日は、簡単に触れるだけだが、実数軸上の超越性と虚数軸上の超越性との関係の問題である。つまり、虚数的超越性と実数的超越性である。これは、そのままの違いとして考えればいいのかもしれない。
 しかし、私のこれまでのイメージでは、例えば、「気」のようなものは、虚数的超越性が実数的超越性に転化したものと思われるのである。超越性の垂直から水平への転化をこんど考えたいと思っている。
 もっとも、メディア・ポイントにおける虚数性から実数性への転換で既に説明はされているのかもしれない。
 少し具体的に考えてみよう。気功師が、「気」を患者に送ったとする。それは、虚数的超越性から実数的超越性(電磁波)の転換として考えられる。患者の身体には、後者が作用するのである。これは、物質的である。しかしながら、虚数的超越性(本来の「気」)は、どうなったのであろうか。
 これは、患者の身体(物質的身体)ではなくて、患者の精神・心に作用していると思うのである。だから、「気」の作用とは、二重であると考えられる。身体へは実数的超越性が作用し、心へは虚数的超越性が作用するというように考えられるのである。この平行・併存性をどう理解したらいいのであろうか。
 これこそ、正に、Kaisetsu氏の説明した理事無碍論で説明できよう。理としての「気」と事としての「気」との調和で説明できよう。ついでに、朱子学、理気学であるが、これは、理事無碍論で明晰に説明ができるだろう。これまでは、精神としての「気」と物質としての「気」とが混同・混淆・混濁されていたと思うのである。
 つまり、虚数的超越性としての「気」は、心・精神に作用し、実数的超越性としての「気」(電磁波)は、身体に作用するということになる。理事無碍としての「気」である。
 そう、この理事無碍論は強力である。これまで、PS理論の経験論的説明をしようと思って、今一つであったが、理事無碍論が、それである。霊事無碍論でもいいだろう。この点は、後でさらに検討したい。
 最後に、理事無碍論をさらに進展させると、根源的理事即非論があるのではないだろうか。つまり、理(霊)において、根源的に、事(同一性)が配属されているように思えるのである。このまま思考実験すると、言わば、原理事があり、これが、現象化するときに、理と事とに分離して、事は同一性、とりわけ、連続的同一性へと転化する。そして、理が否定される傾向にあるのである。
 しかしながら、知的・精神的訓練によって、理と事とが結びつけられて、⇒+1のような様態が生まれると考えられるのである。
 ということで、同一性とは、単に、現象化において、出現するというよりは、イデア界において、根源的に、原同一性=原事として存しているのではないだろうか。そして、根源的な理、原・理と即非的に合一しているのではないだろうか。原理事即非論である。つまり、差異と同一性が根源的に即非合一しているのではないのかということである。これがイデアの本質ではないのか。

____________________________________

この筆者は、この鈴木大拙氏の引用テーマとして、「事事無碍法界」としているが、先に引用した鈴木大拙氏の言葉は、将に、「理事無碍」の様相を説明したものである。つまり、Renshi氏の語る「内在と同時に、非内在なのである。これは不思議な事象である。存在するようでいて、存在しないのである。」の部分である。
この近代的合理性では説明できない状況を『霊性的直覚』で丸ごと認めること、さらには、この「理事無碍」こそが「真実」「実在」である認識することが「境地」であって、また、鈴木大拙氏は、むしろ、この「境地」に至ることで心の平安を取り戻すと言っておられると解釈できると思う。
 不連続的差異論から存在論に向かった方向性は非常に賢明であったと今から推測できる。もし、鈴木大拙氏が「Media Point」(ここのMediaの意味はPS理論上定義されたもの)という概念を知っておられれば、おそらく、Media Pointという言葉を使われたと思うのは僭越であろうか。
 少なくとも鈴木大拙氏は、虚数的ゼロと実数的ゼロの差異共振ポイントの存在を認め、これを肯定し、積極的に説明しておられ、此れを『理事無碍』の状態と考えておられる。」と海舌は確信する。
 この確信が生まれたことで、これを数学的に表すことが可能であろう。検討したい。

(補注:鈴木大拙氏が感性と知性の世界を「事」の側に入れるのは現象と捉えているのであり、電磁波や光などと同じく、実数軸上のものと捉えていると解すると理解しやすいと思う。実数軸が不連続である、実数も超越的な存在であることは別に解明されたことである。電磁波や光と言った超越的現状と生活世界の現象とが不連続的であり、差異共振していることを「事事無碍」と言っていると思われる。)
「理事無碍、事事無碍」
注:赤色文字はrenshiによる。
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

http://blog.kaisetsu.org/?eid=553259

2007年05月24日 (02:00)

不連続な、超越的差異共振性とは何か:超越性はどこにあるのか

今日は余裕がないので、簡単に触れるが、端的に、超越性とは、経験論的には、どこに存するのかという問題である。これは、以前少し述べたことがあるが、あらためて考えてみよう。
 超越性とは、メディア・ポイントを介して、経験論的に存しうると言えるのではないだろうか。私は以前、内在的超越性ということを言ったが、それは、連続論なので、使えないのである。
 これは、実は微妙な問題である。連続性は、複素平面の実数軸上にあると言えよう。構造主義ないしポスト構造主義は、超越性を実数軸上に留めてしまっていると言えるだろう。つまり、実数軸のゼロ点・原点に超越性を留めている。だから、超越性を連続化してしまっているのである。
 つまり、メディア・ポイントと実数軸上の同一性を連続化させているのである。この連続性において、内在的超越性という考え方が生まれると考えられるのである。
 しかし、不連続化が為されると、メディア・ポイントと同一性が分離するのである。この分離を経験論的に説明したいのである。
 思うに、これは、それまで、連続化によって、同一性と結びついていた、超越性が純粋化することである。この超越性の純粋化とは何か。
 これは、実数軸上のゼロ点が、虚数軸上のゼロ点へと転化することだと思う。では、実数軸上のゼロ点・原点とは、何なのだろうか。
 実数軸上のゼロ点とは、常に同一性的志向が作用する場である。しかし、不連続化して、同一性から切断すると、超越性が純粋化する。ということで、実数軸上のゼロ点とは、超越性と同一性との二元性の存する領域であるということである。しかし、より正確に言えば、連続的同一性への志向性があるので、超越性と同一性とが連続化している二元的領域ということになる。
 さて、そう考えると、不連続化による超越性の純粋化の意味が明確になるだろう。それは、上で述べたように、実数軸上のゼロ点が虚数軸のゼロ点へと転換することである。というか、実数軸上のゼロ点とは分離した、虚数軸上のゼロ点が生起するということである。つまり、実数軸のゼロ点と虚数軸のゼロ点の不連続な併存がここに生起したことになるだろう。
 問題は、実数軸上のゼロ点(実ゼロ点)と虚数軸上のゼロ点(虚ゼロ点)との関係である。これも既に述べたように、即非関係である。つまり、内在と同時に、非内在なのである。これは不思議な事象である。存在するようでいて、存在しないのである。思うに、デリダが痕跡という概念で意味したのは、この即非事象ではないだろうか。
 では、本稿の眼目である超越性の経験性について考えよう。不連続化によって、超越性が純粋化される。そして、この純粋超越性は、なんらか、感じられるものである。つまり、心身において、純粋超越性を感受しているものがあるのである。
 内的身体性と言ってもいい。チャクラと言ってもいいだろう。つまり、超越性を感受する領域が、心身性・内的身体にあるということである。
 つまり、人間とは、単に現象界に存するというよりは、超越界にも存しているのである。イデア界が存するのである。しかし、即非的にである。
 この即非的イデア界があるから、外的な現象界において、超越界・イデア界を、あるとき、特異なときに、直覚することがあるのではないだろうか。思うに、神秘主義の経験とは、実は、なんらかの原因で、超越界・イデア界が流入したときの経験ではないだろうか。ネオ・プラトニズムの流出という概念も同じことだと思う。それらが問題なのは、連続化していることである。
 ここで、本稿を終えることにする。

p.s. 簡単に補足すると、虚数軸とは、超越的精神界(霊界・神界・仏界)であり、超越性とは、霊性・神性・仏性ではないだろうか。おそらく、実数軸は、現象軸・物質軸であり、身体軸である。つまり、虚数軸=精神軸と実数軸=身体軸との交点であるメディア・ポイントにおいて、心身性(又は、チャクラ)が生起する。心と言った場合、確かに、メディア・ポイントを意味するだろうが、しかしながら、身体性に引かれるので、連続化するのである。自我心となるのである。
 とまれ、霊性と身体性との交叉があり、ここを通常は意識と呼んでいるのだろう。しかし、近代意識は、霊性を否定しているのである。つまり、近代合理主義は、同一性という枠組みで、現象を仕切る、支配するのである。それは、現象性における同一性志向性の傾斜に拠るのである。そして、それ以外の霊性を完全否定するのである。
 そう、身体性や物質性に傾斜しているのである。不思議なのは、存在する霊性を否定することである。だから、二重人格的である。霊的人格と身体的人格である。人間が、宗教に縋るのは、個において、霊的人格を処理できないからだろう。
 とまれ、霊性を認めるとどうなるのか。思うに、現象界・現実が、霊界という基盤・「インフラ」の上に成立したものであることがわかるだろう。そう、意識とは、霊性と同一性との交叉点であり、前者に、プライオリティがあるのであるから、霊性の変容としての同一性認識があることがわかるのではないだろうか。つまり、現象認識とは、霊界認識の一変容である。霊的認識が基盤であり、それが、現象認識しているのである。つまり、端的に、有り体に言えば、われわれの意識とは、霊性そのものではないのか。霊性が曇ったもの、混濁したものではないのか。
 あるいは、霊的層と身体層があるのであり、近代では、身体層から見ていて、霊的層が埋もれているのである。身体層は早晩無くなることになる。そして、霊的層が残るのである。これが死である。しかし、霊的層は、身体的層を介した記憶をもっているだろう。だから、この経験記憶を、霊界の理念と比較するだろう。そして、その歪みを修正するのではないのか。
 とまれ、死とは身体の消滅であり、意識は永遠である。永遠意識と呼ぼう。これが、霊的意識である。後で、緻密に検討したい。

2007年05月21日 (21:57)

同一性欲望の発生の原因について:西洋文明の同一性中心主義とトランス・モダン

現代世界を満たしている、あるいは、近代になってからの悲惨な戦争の原因は、人間のもつ同一性欲望(悪魔)に拠ることは間違いない。
 では、どうして、これが、とりわけ、近代において強大化したのか。私の直観では、キリスト教に問題があるのである。というか、理性主義にあるのである。
 否、精緻に言おう。理性同一性主義にあるのである。デリダがロゴス中心主義と言ったものに相当する。理性に問題があるのでなく、理性同一性主義、同一性主義に問題があるのである。デリダが現前と言ったものは、同一性主義であろう。 
 これは、自己認識方程式i*(-i)⇒+1で言えば、iの肥大化なのである。iが他者-iに対して、自己投影して、他者を同一性化するのである。
 iである原主体ないし主体は、同一性を求めるのである。同一性認識を求めるのである。言語認識である。Xは何か。Xは山である。これである。iは、同一性・言語認識を求めるのである。
 しかし、光認識は、他者を認めている。Xがある。Xが存する。これは、差異的直観である。i*(-i)の直観である。このi*(-i)がイデアである。これが、現象化してXとなっているのである。直観は、i*(-i)⇒Xを直覚するのだろう。
 結局、言語認識は、直観認識とは別に、同一性所有認識なのである。自我所有認識なのである。貪欲である。「自己」を他者に付与するのである。「自己」を押しつけるのである。Xは山である。Xに山を押しつけているのである。
 これを連続的同一性欲望と呼ぼう。同一性形式を他者に投影するのである。ということは、元々、iには、同一性形式(一般形式と読んでもいいだろう。チョムスキーのいう普遍文法は、これと関係しそうである。)が内在しているということになるのではないだろうか。
 つまり、直観においては、主体は、他者を他者として認識する。光認識である。しかるに、主体に内在する同一性・一般形式認識は、それを否定するようにして、他者に同一性の枠組みを押しつけ、主体的自我を肯定するのである。即ち、二項対立がここに形成されるのである。
 そのように考えると、主体iには、元来、差異共振志向性と差異否定的同一性志向性の矛盾した二重の志向性があるということになるのではないだろうか。問題は、後者をどう説明するのかである。否定的同一性とはどういう事態なのか。直観で言えば、それは、内なる他者を覆う(凌駕する)ようにして一体化するということではないのか。この覆うであるが、それは、否定であるが、同時に、一体化である。言い換えると、全体化である。ヘーゲルの理性である。
 これが、否定的同一性志向性である。このとき、主体は言語形成によって、同一性を完成させるのである。他者Xは、山である。しかしながら、どうして、外的他者を言語化するのか。それは、同一性的衝動があるからである。他者を否定して、主体に同一性化する衝動があるからであろう。山と呼び、他者Xを主体的同一性化するのである。そして、このとき、差異共振的直観は、疎外される。
 とまれ、ここで、主体的同一性形式と差異共振直観が併存している事象が生じている。カントは前者を超越的(先験的)形式にして、また、後者を物自体にしたと言えよう。
 では、本稿の主題である同一性主義の発生を考察しよう。思うに、西洋文明は、主体的同一性形式への志向に傾斜している文明と言えよう。それを、デリダはロゴスと呼んだのである。
 問題は、主体的同一性形式と差異共振直観が共存せずに、前者が後者を駆逐するような事態の発生にあると言えよう。フッサールの『危機』の問題意識がこれである。そう、近代主義とは、正に、そういうものなのである。何故、前者が中心化したのか。
 これはいくつか原因が考えられるが、思うに、西洋語のもつ主語+述語形式が一つの要因だと思われる。つまり、主体主義的偏重があるのである。
 また、キリスト教がロゴス化されていたことも大きいだろう。ロゴスの受肉としてのイエス・キリストである。言語、宗教的に、同一性主義に傾斜していたと言えよう。また、哲学・論理学が、同一性主義であった。アリストテレス論理学がそうである。
 結局、少なくとも、言語、宗教、哲学によって、同一性主義の傾斜が西洋文明にはあったのであり、それが、近代において、物質経済、印刷術、近代科学の発達とともに、一挙に、全面化したと言えよう。これで、本稿の問題を解明したこととしよう。
 肥大化した同一性中心主義を乗り越えることが、トランス・モダンの役割である。これは、否定された他者の肯定であり、差異共振性の復帰である。ポスト・モダンは、これを目指したものであった。
 ここで実に不思議なことに、差異、他者、身体を肯定するとは、物質を超えて、イデア界を肯定することになることなのである。超越界の肯定となるのである。主体のもつ同一性は、これとは背反的である。相容れないものである。
 結局、主体的同一性が差異を否定するのは、当然と言えよう。同一性には、差異は理解できないからである。しかしながら、主体は、差異共振直観をもつので、ここから、差異、他者、身体へと転ずるのである。主体は、同一性を脇に置き、差異を測深し探求するのである。
 ここで、同一性と差異との関係が問題になるのである。ここに不連続化の意味があるのである。同一性から差異を不連続化すること、これによって、一挙に、問題の核心に達するのである。差異と同一性との分離が為されるのである。
 これまでは、同一性と差異とを連続化させていたので、この関係が不明確であった。しかし、不連続化によって、差異が差異として独立したのである。
 そして、主体の差異と他者の差異との共振作用が確認されるのである。そして、この共振様態には、超越性が関与しているのがわかったのである。
 差異と同一性の関係は、結局、鈴木大拙の即非の論理に結晶していたのであった。これは、また、超越界の論理である。
 結局、プラトニック・シナジー理論によって、西洋哲学は、同一性中心主義の宿痾から超脱し、また、東洋思想・哲学は、差異の哲学として、進展したと言えよう。

p.s. D.H.ロレンスが、『無意識の幻想曲』で述べていたが、無意識は、四元的だが、基本にあるのは、共感性と自立性であった。これを上述の視点から見ると、共感性とは、差異共振直観であり、自立性とは、連続的同一性である。また、ロレンス一流の神学に拠れば、「父」が自立性であり、「子」が共感性であり、「聖霊」が両者の均衡である。
 ここで、不連続的差異論の初期段階で、私は差異における垂直性と水平性を述べたが、それは、発展しなかった。今考えると、垂直性とは同一性であり、水平性が差異性である。用語としては、ミスリーディングであるが、真相はそうだろう。つまり、私が考えた垂直性とは自立・独立性なのであり、また、水平性とは、他者との共感的関係を意味したのであるから。
 思うに、差異のもつ即非極性と呼べよう。そう、ヘミングウェイの短篇に、この即非極性を表現しているものがあった。タイトルが思い出せない。「男女」であったか?

2007年05月21日 (17:45)

モダンからトランス・モダンへ:アンシャン・レジームの近代からトランス・モダン・コミュニティへ

「 ◆個々の心の「光」が超越性を持っていて、それが現実世界を経て、共通の認識となっていく様子をプラトニック・シナジー理論は次のように表現する。
◆(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)・・
矢印は次元の異なることを示している。」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=552060#sequel
「内なる光の構造」『海舌』

Kaisetsu氏が、toxandoria氏のモネの記事に関連させて、モネの絵に喚起される「光」を上のように、たいへん興味深く、数式化している。トランス・モダン・エラとは、そのような精神社会意識をもつ時代と考えられよう。
 それに対して、ポスト・モダンの意識様態を数式化するなら、
★(+i)*±(-i)⇒±1⇒(+i)*±(-i)⇒±1⇒(+i)*±(-i)⇒±1⇒(+i)*±(-i)・・
と表記できるのではないだろうか。
 ポイントは、当然、±1である。内なる他者であれ、外なる他者であれ、主体は、肯定と否定の両義性を帯びていて、いわば、中途半端な様態にあるのである。初期デリダの脱構築主義がこの両義性を用いていたし、ドゥルーズは、両義性に共通する連続的差異の考え方を提示した。思うに、構造主義のゼロ度とは、 ±1=0に関係するだろう。ならば、
★(+i)*±(-i)⇒0⇒(+i)*±(-i)⇒0⇒(+i)*±(-i)⇒0⇒(+i)*±(-i)・・
となり、±が対立構造であり、それがゼロ度ということではないのか。
 ついでに言えば、モダン様態の数式は、
★(+i)*-(-i)⇒-1⇒(+i)*-(-i)⇒-1⇒(+i)*-(-i)⇒-1⇒(+i)*-(-i)・・
となろう。これは、他者の否定であり、連続的同一性(=近代的合理性・物質主義)の数式化でもある。思うに、他者に対するマイナス、負号は、物質主義を意味すると見ることができよう。同一性としての1である。+1は、共振性をもっていて、現代物理学、量子論的になる。因みに、他者に対するマイナスは、否定・暴力であり、近代主義が暴力が主導的であることがわかる。
 以上の数式を言葉で書き換えると、+iが主体的同一性(以下、同一性)、-iが他者的差異(以下、差異)となろう。すると、トランス・モダンは、
同一性*差異⇒差異的同一性⇒同一性*差異⇒差異的同一性⇒・・・
となり、ポスト・モダンは、
同一性*±差異⇒差異・同一性⇒同一性*±差異⇒差異・同一性⇒・・・
となり、モダンは、
同一性*-差異⇒同一性⇒同一性*-差異⇒同一性⇒同一性*-差異⇒・・・
となろう。
 現代日本は、モダンのままであり、例えば、アメリカという差異に対しては、同一性を投影して、一体化(隷属)しているのである。因み、安倍首相が戦後レジームからの脱却を言うが、それは、当然、モダンの否定であり、差異を肯定することである。つまり、差異としてのアメリカを肯定することである。しかるに、集団的自衛権という発想は、モダンそのものである。差異共振シナジー化へと転換するのが正しいのである。
 ここで、飛躍的に述べるが、トランス・モダンとは、差異への転回である。それも絶対的差異へのそれである。近代主義が否定・排除してきた差異が全面的に回帰することになる。物理学で言えば、量子論的世界の進展である。そして、医学的には、東洋医学への眼差しである。
 では、経済的には、どうなのか。同一性=量=交換価値の経済から、差異=質=特異性価値の経済への変換ではないだろうか。言い換えると、差異共振シナジー価値の経済への転換である。これまでは、同一性数量価値の経済であった。
 差異と差異を共振させたときに、創造的な価値が生まれるのである。これが、新しい経済価値であろう。上図式で言うと、同一性と差異との共振ということになるが、同じことである。このためには、近代的同一性構造の壁を解体しないといけない。脱構造化である。
 これは、カントに倣えば、第二のコペルニクス的転回である。そして、この用語は適切である。カントが近代主義の先験構造を剔抉したのであり、差異共振化とは、この近代的先験構造を超える超近代様態を意味しているからである。
 このトランス・モダン・エボリューションが意味するものは、近代主義にとれば、驚天動地である。すべての近代主義的なものは解体崩壊するからである。これは逆コペルニクス的転回とも言えよう。
 思うに、近代主義教育を受けてきた者は、この「進化」を理解できず、化石化する。おそらく、新しい子供たちが理解できるはずである。何故ならば、彼らには、基本的には、近代主義の枠組みが形骸化しているからである。潜在している差異が彼らにおいて共振的に作用するはずである。プラトニック・シナジー理論は、子供たちに、未来の世代に理解されるはずである。
 しかし、日本の問題は、近代主義があまりに強固であり、アンシャン・レジームになっていることである。とまれ、少なくとも、トランス・モダン・ネットワークを構築していくことが必要である。それは、トランス・モダン・コミュニティTMCである。
 先ず、モダン・ポリティクスを破砕しないといけない。トランス・モダン・ポリティクスを構築して、日本をトランス・モダン化しないといけない。トランス・モダン・クリエーションである。

2007年05月20日 (13:59)

同一性と投影:何が投影されて一体性を形成するのか

同一性と投影:何が投影されて一体性を形成するのか


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、自己認識に関しては、高度に進展して、ほぼ完成の状態にあると思うが、ここでは、私が素朴に疑問に思っている本件のテーマを検討して、補足したいと思う。
 iを原認識主体、-iを原他者・客体としよう。iが-iを認識するとはどういうことなのか。他者を認識するとはどういうことなのか。
 これまでの検討から、同一性自我欲望から、他者が否定されて、同一性化が生じるということになった。本来は、差異共振性が現象化においても存しているのであるが、同一性欲望のために、他者が否定されるのである。
 さて、同一性欲望と投影がどう関係するのかである。思うに、同一性欲望とは、食欲や性欲や所有欲や暴力欲と一如ではないだろうか。
 空腹である。そのとき、眼前に、おいしそうな焼き肉があるとしよう。そう、飢餓的に空腹であるとしよう。そうすると、理性なく、その焼き肉を奪い取り、食べるだろう。このとき、焼き肉に対して、投影があるのだろうか。あまり明瞭ではないようだが、一種投影があるのではないだろうか。あるいは、一体感があるのではないだろうか。私は焼き肉と一体である。そして、貪り食うのである。
(ところで、猟奇犯罪であるが、それは、基本的には人間の野蛮な本能と関係していると思われるのである。参照:『羊たちの沈黙』)
 そう、これは、食人(カニバリズム)と通じるのであるが、思えば、キリスト教は、最後の晩餐で、キリストの肉と血を、パンとワインに変えて、信者に飲食させるのである。これは、明らかに、同一性欲望を活用した参入方法である。(やはり、この点でも、キリスト教は問題があるだろう。隣人愛とは、同一性欲望なのではないのか。イラクを愛するから、イラクを民主化するのである、云々となるのではないのか。)
 同一性欲望の投影とはどういう力学なのか。あるいは、欲望とは何か。欲望とは、暴力である。
 とまれ、同一性欲望投影であるが、それは、感覚された対象への欲望があるが、感覚像に対して欲望が生じる。そのとき、感覚像と癒着するのである。同一性化するのである。これが、同一性欲望投影の原因ではないのか。
 即ち、感覚像への欲望癒着があり、この欲望化された感覚像において、既に、同一性投影が発生していると言えると思う。つまり、同一性投影とは、欲望癒着のことなのである。欲望的一体化が同一性投影の原因である。
 そう、ここで思うのは、この同一性投影とは、恋愛の視線と同じである。所有欲望の視線なのである。そして、女性は、男性の所有欲望である恋愛視線にだまされるということになるのであり、また、男性は、女性の所有欲望である恋愛視線にだまされるわけである。
 もっとも、だまされると言ったが、正確に言えば、自己盲目化である。知性を否定して、感覚像に入れ込むのであるから。恋愛とは、欲望・暴力の変形である。これを、大作家は洞察表現している。
 結局、同一性投影において、投影されるのは、欲望であると言えよう。自我欲望である。i*i又はi*-(-i)⇒-1である。
 これで本件の考察は終ったが、最後についでながら言うと、連続化とは、この同一性欲望投影と結びついていると言えよう。
 だから、エポケーや不連続化は口で言うほど易しくはないのである。感覚像と欲望を切断する必要があるのである。色即是空にしないといけないのである。解脱である。
 近代主義は、正反対で、同一性欲望投影を積極的に肯定して、欲望自我を肥大化させたのである。
 今の欲望中心主義の腐敗堕落した日本社会を見ると、仏教への回帰が必然になっていると思われる。精神性への回帰と言ってもいい。
 これは、万民坊主になれというのではない。同一性欲望投影の回路を切断して、精神性へと回帰することで、差異の知が見えてくるのである。差異はまた倫理である。差異共振的創造が始動するようになるのである。
 社会・政治・経済的には、埋もれている差異を救い出して、経済創造に役立てるだろう。精神性への回帰とは差異や差異共振性への回帰であり、このときに、差異的資本創造という視点が生まれるのである。差異、差異共振によって新たな経済創造が生まれるのである。この点は後で検討したい。

2007年05月19日 (21:48)

酸素と超酸素(「気」):O{i*(-i)}+O{i*(-i)}⇒O2{i*(-i)}

O+O⇒O2
ここで、思考実験で、O{i*(-i)}+O{i*(-i)}⇒O2{i*(-i)}としよう。簡略化して、i*(-i)をIと表記しよう。OI+OI⇒O2Iとなる。
 思うに、「気」というものは、このO2Iを指しているのではないだろうか(p.s. 狭義においては、「気」はIである)。物質科学では、O2を検証できるが、O2Iを検証できない。何故なら、超越界を想定していないからである。
 Iは、物質、この場合は、酸素のメディア・ポイントに存しているだろう。ここに、「気」(プラーナ)が共振しているのである。
 夜明けの大気が気持ちがいいのは、光(超越光を含む)によって、酸素が超越化して、「気」を増加させるからではないだろうか。
 また、光合成であるが、これも、やはり、単に、酸素を発散させているというよりは、「気」のある酸素を生みだして、植物のある周囲の空気を精神的清浄化しているのではないだろうか。
 たいへん興味深い問題であるが、今は、とりあえず、簡単に提示するに留めておく。

p.s. 結局、この「酸素」の問題は生命の問題に深く関わる。血液は、ヘモグロビンが、酸素を運ぶ。
 問題は、超越性、超越エネルギー、超越波動であるi*(-i)の問題である。超越光/光の問題でもある。
 今は、思考実験で言うだけだが、端的に、生命とは、i*(-i)ないしic*(-ic)のことではないだろうか。宗教的には、お水取りにあるように、火*水である。
 とまれ、直観では、i*(-i)が、生命の種子・卵・胚のように感じられる。そう、情報と言ってもいい。生命は、天の情報の現象化のことかもしれない。超越情報の現象が生命ではないのか。
 だから、物質にも、なんらかの生命性が存しているのである。

2007年05月17日 (20:39)

差異と同一性について再考:メディア・ポイント的共振エネルギー身体と同一性自我所有欲望

これまで、現象化において、他者的差異を否定し、同一性化することを前提して考察してきた。虚数軸では、i*(-i)がポテンシャル・エネルギーとして、存している。ここでは、原主体iは、原他者-iと共振している。
 現象化において、先に、⇒±1の混合様態になると考えた。そして、これは、(+1)×(-1)=-1の自我になるものと考えられる。+1が共振エネルギーと、-1が反動エネルギーと相関している。だから、連続的現象化方程式は、i*(-i)⇒i*±(-i)=+1・(-1)=-1である。
 これはいいとして、連続的現象化における他者的差異の否定とは、端的に、どういうことなのか。例えば、知が身体を否定するとはどういうことなのか。これまで、単純に身体を否定すると言ってきただけであった。ないしは、他者を否定して同一性化するとしか言わなかった。
 しかしながら、実際考えてみれば、近代合理主義は、身体感覚を介して、同一性の観念を否定した他者に当てはめているのであり、単に身体を否定しているわけではないのである。視覚身体は否定していないのである。
 では、どんな身体を否定しているのか。他者的身体である。視覚身体は、言語的同一性に合うように、差異をそぎ落とされやすい。そう、差異的身体が否定されるのである。では、差異的身体とは何かである。それは、同一性の光に抗するものである。(ここで、同一性の光と言ったが、それでいいのか検証する必要がある。)
 おそらく、正しく言えば、言語的同一性に幽閉された視覚があるのであり、本来の差異的視覚、視覚身体が否定されているのである。
 問題は、差異的身体の否定である。差異的身体は、多種多様なエネルギー体である。不連続な多種多様な共振的エネルギー体である。一言で言うと、渦であろうか。(参照:女媧、チャクラ)それとも、迷宮であろうか。(先取りすれば、母権文化は、これを表現しているのである。ケルトの渦巻紋様がそういうものと考えられる。)
 差異的身体(他者的身体)は、実は、メディア・ポイントを含んだ身体のことと言えよう。おそらく、純粋な原身体-i自体は、やはり、同一性志向性をもつと思えるのである。おそらく、-i(原身体)*-(i)⇒-1の数式が成立すると考えられるのである。
 だから、まとめると、言語的同一性主体が否定する身体は、身体自体というよりは、メディア・ポイント的身体であると言えよう。
 つまり、現象化において、メディア・ポイント(以下、MP)において、差異共振的エネルギーないし多種多様な共振エネルギーが発現しているのである。
 しかるに、連続性へと傾斜する言語的知性は、それを否定して、外界に対して、連続的同一性を形成するのである。
 この連続的言語的知性であるが、それは、自我所有欲望に駆動されているのである。仏教でいう色である。この同一性所有欲望のため、MPの差異共振的多種多様なエネルギーは否定・排除・隠蔽されるのである。ここで、実例をあげれば、子どもの描く絵は、斬新であり、新鮮である。それは、子どもが、大人のもつ同一性自我所有欲望が未発達で、MPの差異共振的多種多様なエネルギーに即して表現するからと考えられる。当然ながら、同一性欲望を獲得した大人は、もう子どもには、戻れない。しかしながら、PS理論によって、MPのエネルギーを復活させることはできるのである。しかしながら、もはや、子どもの様態ではなく、より洗練された子どもの様態である。ラクダ⇒獅子⇒子どもという人生の三変容を説いたニーチェを想起する。
 本件の結論は既述済のように思えるが、もう少し展開させてみよう。即ち、生体・人体・生命体の問題である。生きている身体とは何なのであろうか。これは、原知と原身体とのメディア共振によって生命体が生起すると考えられる。この知・身体メディア共振的生命体であるが、このとき、物質的生命体はどういうものなのであろうか。
 先ず、知-身体メディア共振エネルギーが、生命体の根源的エネルギーである。これは、いわば、精神的エネルギーないし気的エネルギーである。
 この進展として、知性・精神や物質的身体の形成を考えることができよう。即ち、知-身体メディア共振エネルギー(以下、メディア共振エネルギー)は、一方では、思惟と生み、他方では、延長的身体を生むのである。簡単に言えば、心と身体である。(これは、デカルト/スピノザ哲学の問題であるが、記述済なので、ここでは述べない。)
 私は、メディア共振エネルギーと物質的身体との関係を考察したいのである。メディア共振エネルギーは、それ自身は、差異であるが、同時に、同一性(物質)を構成する。即ち、差異ー同一性ー差異ー同一性ー・・・の差異的同一性体(簡略化して、差同配列体とでも呼ぼう)を構成すると考えられる。
 つまり、メディア共振エネルギー(さらに簡略化して、メディア・エネルギーないしメネルゲイアないしメネルギーとしよう)は、差同配列体を構成するのであるが、その差同配列体の同一性の部分が物質的身体となると考えられる。差異がメネルギーの部分である。だから、物質・メネルギー・物質・メネルギー・物質・・・・が差同配列体であり、物質・物質・物質・・・・が物質的身体となる。
 しかしながら、物質的生命科学においても、エネルギーは当然扱われているのであるから、物質・エネルギー・物質・エネルギー・物質・・・・が物質的身体の構成であると言えるだろう。
 そう、エネルギーが物質的生命科学とイデア的生命科学との接点となるだろう。イデア的生命科学あるいは、PS理論的生命科学は、エネルギーをメディア共振エネルギーと見て、そこに、本体としての超越(イデア)的エネルギーを見ているからである。
 今日、西洋医学と東洋医学の統合として、東西医学が探求されているが、PS理論は、正に、東西医学の原理を提供できると言えよう。「気」、「プラーナ」というものは、メディア共振エネルギーに包摂することができるのであり、また、物質エネルギーはそれの現象化エネルギーとして考えることができるのである。また、ツボというものは、メネルギーの局所として説明できるだろう。
 現代、ストレス社会であるが、ストレスとは、メネルギーを阻害するものと言えよう。心への阻害とは、正に、メディア共振エネルギーの阻害であり、結果、物質的エネルギーを阻害して、物質的身体を阻害するのである。
 結局、メディア共振エネルギーの阻害が不健康を作ると言えよう。これを、正常化する必要があるのである。思うに、やはり、瞑想や禅がいいのかもしれない。「無」になるとは、同一性へのエネルギー消費を止めることであり、メディア共振エネルギーを自己へと呼び込むことだと思われる。

2007年05月17日 (02:25)

知・天と身体・知との極性:身体と大地にあるメディア・ポイント=チャクラ

直前の論考は混乱してしまったので、もう一度考え直したい。
 私が思ったのは、知=天=iであり、身体=地=-iではないかということである。これを解明しようと思ったのである。
 しかし、近代的合理主義においては、身体=地=-iが否定されているのである。そう、この反動が、-(i)*-i⇒-1のロマン主義であろう。知を否定するのである。感性・感情を肯定するのである。
 私が問題にしたいことの一つはエネルギーの様態の問題である。エネルギーは、局所的には、何処に発動するのか。⇒の志向性がエネルギー様態ではないだろうか。そうすると、共振エネルギーと反動エネルギーの二種類があるだろう。いちおう、そういうことにしておこう。
 とまれ、現象化において、連続化が生じる。このとき、共振エネルギーと反動エネルギーが混濁・混淆・混同していると考えられよう。
 そう、i=天=知と-i=地=身体との極性はあるが、それが、±1の混淆様態となっているのではないだろうか。そして、ベルクソン/ドゥルーズの差異論は、そのようなものであった。
 結局、+1に共振エネルギーが発動しているのである。そして、これは、コスモスと共振・「連結」していると言えよう。しかしながら、連続混濁様態にあるので、これが、-1の反動エネルギー=同一性と癒着しているのである。
 だから、本来、純粋な共振エネルギーも、反動エネルギーによって支配されるのである。なぜ、後者によって、支配されるかと言うと、後者は、自惚れ・慢心・傲慢を促進するからである。宗教において、本来、純粋なものが、権力化するのは、これによると考えられる。(だから、宗教のPS理論化が必要なのである。)
 そう、PS理論によって、共振エネルギーを独立させたとき、⇒+1が完成すると言えよう。このときは、反動エネルギーはほとんど消失しているであろう。そして、また、i=天=知と-i=地=身体との極性が発現するだろう。
 では、この純粋化、超越化によって、エネルギー様態の局所性はどうなるのか。ここには、共振エネルギーが作用しているだけである。
 なぜ、こんなことを言うのかというと、私には、エネルギーは-i=地=身体に
感じられるからである。しかしながら、理論的には、メディア・ポイント(以下、Mepo)に存するはずである。
 このズレをどう説明したらいいだろうか。思うに、理論の方が正しいのである。私の直観の言語化が不十分なのであろう。
 私が感じるエネルギーは、チャクラにおいて感じるのだと思う。そして、チャクラはMepoである。ヨガによれば、七つのチャクラがあるから、七つのMepoが心身にあることになる。
 つまり、身体と知との接点としてのMepo=チャクラであり、ここでエネルギーを感じるのである。そして、チャクラは、身体の局所性をもつので、身体にエネルギーを感じるということになってしまうのだろう。これで、解明できた。
 では、これを天地に当てはめるならば、天地のMepo=「チャクラ」があるはずである。人間の場合を適用すると、地球にMepoがあることになるのではないだろうか。地球の「チャクラ」?
 しかし、天を太陽とすれば、Mepoは、惑星になるのではないだろうか。あるいは、太陽と地球で考えると、月がMepoになるのではないだろうか。
 とまれ、ここでは、最初の考え、地球にMepoがあるとして考えよう。地底にあるとしよう。
 地核とは、基底のMepo(チャクラでは、ムーラーダーラ・チャクラ)ではないだろうか。そして、山岳であるが、それは、チャクラで言えば、天頂のサハスラーラ・チャクラに相当するのではないだろうか。
 道教で、山岳に龍脈を見るが、それも、Mepoではないだろうか。とまれ、ここでは、地球・大地にエネルギーの局所であるMepoがあるということにしておこう。
 そう、こう考えると、D.H.ロレンスや古代人が言った地霊spirit of place, genius lociの意味がよくわかるようになるだろう。それは、天地の共振エネルギーのことなのである。超越エネルギーのことなのである。そう、大地にある精神エネルギーであるから、地霊と呼ぶのは適切である。
 この問題は、ここで留めたい。

p.s. どうも、余裕のないときは、思考が散漫になる。一つ述べるのを忘失していたが、それは、i=天=知と-i=地=身体との極性に、父と母を加えて、
i=天=父=知*(-i)=地=母=身体⇒+1することができるだろうということである。
 この図式から言うと、一神教は、i=天=父=知
中心的で、多神教は (-i)=地=母=身体中心的ではないのか。否、どうも違うようだ。思うに、女神教という言葉を作れば、女神教は、本来、両極性をもつ。そう、原初的+1があったと思うのである。しかしながら、一神教が生まれると、女神・母神たちは、(-i)=地=母=身体へと移されるのである。大地母神・地母神の誕生である。一神教が、二項対立を生んだのであり、それは、i=天=父=知
中心主義なのである。
 だから、一神教と多神教を対立させるのは、賢くないのである。それは、同形である。そう、一神教と多神教は同形である。
 結局、新しい天地教が必要なのであろう。新天地教(PS 教)である。これは、一神教、多神教を超越している。そう、新しい神の誕生である。新女神と言ってもいいのかもしれない。だから、新女神教である。新天照教である。新イシス教である。新マリア教である。新女媧教である。新キュベレー教である。もっとも、人格化する必要はないのかもしれない。そう、一神=多神であろう。
 では、多神教の発生の原因は何だろうか。直観では、共振において、多神化すると思われるのである。そう、共振振動数の違いと言えるのではないだろうか。ここで、クラドニのパターンを想起する。共振周波数の差異が、多神教を生むのである。共振事象は、一義的であるが、その様相・様態は多数である。

2007年05月16日 (01:05)

原知と原身体との共振と現象化の問題:差異的同一性と所有欲・言語・近代認識とトランス・モダン

これまで述べてきたことを反復する形になるが、簡単に整理を兼ねて考察しよう。
 私は、iを原知、-iを原身体と見た。もっとも、iを原主体、-iを原他者と見ることもできるが、いちおうそうとして考えよう。
 原知と原身体が超越界即ち、虚数軸で、均衡している。この場合、静態と動態があるだろう。デュナミスとエネルゲイアとしよう。ここでは、後者から考えよう。
 現象化において、明らかに、主体の外部が形成される。それまで、主体は、言わば、即自的に、他者と共振していた。しかし、外部の他者が新たに出現し、主体は、新たな対応を取る。
 ここで作業仮説的に考察しよう。主体は、超越光をもっている。しかるに、現象化においては、この超越光が光に変換するのではないだろうか。主体内部の光である。
 では、外部はどうなのか。外部も基本的には、光を発出しているだろう。しかしながら、外部のメディア・ポイント(以下、MP)も存するだろうから。外部も超越光を秘めているのではないだろうか。即ち、主体内部には、主体MPにおける超越光があり、外部には、外部MPにおける超越光があると考えて、思考実験を続けよう。
 とまれ、現象界においては、光が本来的であり、超越光とは、存在するが、それは、MPで、ミクロ的に揺らいでいるのではないだろうか。マクロ的には、無視できるのである。
 言い換えると、それは、花は花である。菖蒲は菖蒲であるという同一性として現象が生じるだろう。これを否定したら、生存はできない。もっとも、近代主義者は妄想家であり、事実を捩じ曲げるのである。従軍慰安婦の強制はないと言うのである。
 そう、科学や知の原点は、このA=Aを認めるところから始まるだろう。その点では、アリストテレス論理学の功績は大である。そう、これを光の論理ないし光論理と言ってもいいだろう。
 このA=Aは連続的同一性なのであろうか。否、違うだろう。個物、個体としての菖蒲は菖蒲であるということであり、差異としての同一性であると考えられよう。つまり、本来、光論理ないし光認識は、主体と客体は連続していない。不連続的であり、距離があるのである。外部の他者として菖蒲を菖蒲として認識するのである。差異的同一性である。これは、i*(-i)⇒+1の一つの様相であろう。そして、この認識は美的認識であると思う。他者を他者として認識することは、美的認識だと思う。
 この差異的同一性を何が、連続的同一性に変容させるのであろうか。思うに、言語認識に関係するだろう。視覚において、菖蒲を認識する。紫色や黄色が美しい。美的現象である。しかし、原知は、それを、言語として認識することを欲するのである。
 そう、視覚認識とは、光認識であり、それは、原知と原身体との共振的認識である。しかし、原知は、言語認識へと展開することを欲するのである。
 そう、言語認識とは何であろうか。思うに、それは、所有欲的認識ではないのか。他者を己のものする認識ではないのか。攻撃的・獰猛な認識である。他者を否定し、己と同一性化する認識である。
 では、これは数式ではどうなるのか。やはり、i*-(-i)⇒-1であろう。言語認識とは、倒錯的ということになるだろう。もし、それだけを取りだすならば。先に述べたが、私は、自己の特異性の感覚意識と言語の一般性の矛盾に、まるで、ハムレットのように悩んだものである。とりわけ、70年代後半における、交換価値的日本語の蔓延には、奇怪なものを感じ、誤謬を感じたのである。
 私にとり、言語とは、異質なものであった。音楽や自然の鑑賞の方が、しっくりしたのである。確かに、特異性から見ると、言語は、いかがわしいのである。しかし、特異性を押さえておけば、言語は、すばらしい認識コミュニケーションの手段になる。
 つまり、言語は、それだけが遊離すると、いかがわしいのである、現代日本の政治・社会がいかがわしいように。『ハムレット』のデンマークがいかがわしいように。
 つまり、言語認識は、倒錯的であり、それは、光認識の⇒+1を阻害してしまうと考えられるのである。だから、言語認識に対しては、光認識を基礎として置く必要があるのである。光認識が優位であり、言語認識は劣位である。この位階を保持する必要がある。
 この視点から、近代主義を説明することができよう。それは、光認識ではなく、言語認識を優位にしたのである。ヨハネの福音書の冒頭を「初めにロゴスありき」から「初めに言葉ありき」にしたのが、近代なのである。脳論で言えば、左脳を優位脳にし、右脳を劣位脳にしたのである。(もっとも、この二分方は問題があると思う。)
 この逆転の原因は何なのだろう。ここで、少し角度をずらすと、私は遠近法は怪しいと思っている。それは、一見、光認識風であるが、それは、実際は言語認識的ではないだろうか。
 直観で言えば、光認識は、現象をコスモスと結びつけると思うのである。個々では、差異的同一性であるが、それらが共振して、コスモスとなると思われるのである。つまり、ミクロのMPが作用して、共振化させて、コスモスを形成すると思うのである。例えば、宮崎駿の作画は、コスモス的である。また、多くの芸術家が、コスモスを直覚したのは、正しいと思うのである。
 しかるに、現象を遠近法化するのは、ミクロのMPを排除して、ただ、連続的同一性の所有欲的視覚によって図画することだと思われるのである。だから、その点で、ルネサンスは、確かに、近代の入口である。日本の美術の方が、ミクロのMPに正直であり、コスモスを表現していると思うのである。(ここで、想起するのは、D.H.ロレンスが、ルネサンスの巨匠たちの絵をけなして、エトルリアの素人臭い美術品を評価したことである。それは、つまり、古代人は、ミクロのMPの視覚をもっていたからではないだろうか。) 
 では、なぜ、言語認識が優位になったのか。それは、端的に、商品経済が発達したからではないだろうか。物質経済が成長したからではないだろうか。ここでは、個体は、所有物である。他者ではない、己の所有物である。どうもこの辺に解答がありそうである。歴史的にぴったりあてはまるのである。
 言い換えると、利己主義、自我所有欲が増大したのである。これが、言語認識を優位にしたと言えよう。そして、原始、古代、中世と連綿として存在した差異共振性を否定したのである。そう、この事態は、シェイクスピア悲劇に見事に描かれている。『リア王』は、共振世界と近代世界との衝突である。
 今日は、余裕がないので、ここらで終りにするが、この連続的同一性-1=言語認識優位=遠近法=近代主義からの脱却であるが、それは、正に、フッサールが説いたように、切断的エポケーが必要である。不連続化である。倒錯した認識をさらに逆転する必要があるのである。
 しかしながら、所有欲望が強いために、他者=差異を他者=差異として認識することがこれまで困難であったのである。他者=差異を否定して、同一性化させてしまうのである。それが、ドゥルーズまで続いたのである。
 しかし、デリダは、差異と同一性の亀裂を指摘して、同一性を脱構築した。これは、第一歩であった。そして、後期デリダは、すべての差異がまったき差異であり、特異性であることを指摘して、決定不能性を中心に据えたのである。そう、ここにおいて、ポスト・ポスト・モダン=トランス・モダン哲学の第一歩が踏まれたと言えよう。
 純粋差異が出現したのである。絶対的差異が出現したのである。ある意味でこれは、原初的認識の復活であるが、しかしながら、物質的所有意識を経ているので、単純な回帰ではない。螺旋的回帰である。
 今は、簡単に示唆するだけだが、この差異認識と物質所有意識との均衡が目されなくてはならないということである。プラトンで言えば、白い馬と黒い馬のバランスである。精神的資本主義があり得るだろう。思うに、差異的創造のために、同一性的資本が投入されるようになるべきではないのだろうか。差異共振創造資本主義である。

2007年05月15日 (01:31)

現代日本政治カルト状況と日本的近代主義による同一性=全体主義:日本的差異=霊性の復活へ向けて

toxandoria氏の激烈な現代政治のカルト批判
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514/p1
を読むと、日本の病巣がはっきり浮かんでくる。そして、それについては私なりにさんざん述べてきたので、ここでは、詳論しない。
 今は、簡単に触れるだけだが、現代日本の政治・社会的カルト状況は、実は、近代主義の帰結なのである。近代主義的同一性は、結局、連続化して、ただ、唯一の同一性へと帰結するのである。そう、オーウェルの描いたビッグ・ブラザーである。ただし、日本の場合のビッグ・ブラザーは、一人の総統が中心というよりは、同一性共同体が中心である。これは、ある意味で、村落共同体的である。
 結局、問題は、近代主義は、封建主義を打破して形成されたものであるが、この否定が、実は、同一性による二項対立という差別をもたらしたのである。封建主義はあきらかに差別主義であるが、それを否定した近代主義も差別主義なのである。
 そう、ここには民主主義の問題があると言えよう。「人間は、平等にequal創られた」とアメリカの独立宣言にある。同一性とは、実は、差異の否定・排除・隠蔽であり、この点で明らかに差別主義なのである。同一性が優位であり、差異が劣位である。(そう、高野連の魔女狩りは、この同一性主義によると言えよう。)
 図式化すれば、優位/劣位=同一性/差異である。つまり、平等思想を徹底すると、同一性主義となり、差異が否定されるのである。というか、根本的に、平等思想は、差異を否定するので、全体主義が帰結されるのである。これは、ヘーゲル哲学に顕現していることである。(これらは、既述済みである。)
 民主主義は、確かに、封建主義を打倒する重要な観念であるが、しかし、やはり、限界があるのである。つまり、民主主義は、同一性主義=全体主義へと展開する必然性をもつのである。
 だから、以前から述べているが、差異的民主主義、超越的民主主義が必要なのである。平等ではなくて、差異が基礎となるのである。あるいは、特異性と言ってもいい。
 現代日本の全体主義・魔女狩り・原理主義的潮流を見ると、これは、確かに、民主主義の帰結と言えるだろう。あるいは、近代的民主主義の帰結である。
 また、それだけでなく、日本における父権主義がこれに関係しているのである。父権主義は、封建主義であるが、これが、色濃く現代日本に残っているのである。欧米ないし西欧の民主主義は、個的民主主義である(ルネサンスは、個の活性化であり、私見では、プロテスタンティズムはこの個を取り入れているのである)。しかるに、日本の場合は、父権的民主主義である。これが、なおさら、民主主義を同一性主義=全体主義化させていると考えられるのである。
 この点をもう少し詳しく見よう。同一性主義は、差異を否定する。そして、父権主義は、父権的二項対立性をもち、その点で、同一性主義と結びつきうるのである。
 端的に言うならば、父権主義と近代的自我は同形である。父権主義は、母権という差異を否定して、父権的自我中心主義である。つまり、母権の否定・排除・隠蔽があるのであり、ここに父権的同一性二項対立が成立するのであるから、近代的自我と同形なのである。
 ということで、ルネサンスを経由していない日本は、近代化において、近代的自我と父権主義とを結びつけたと考えられるのである。だから、同一性主義=全体主義が必然的に帰結する傾向にあると言えよう。そして、それが、現代日本なのである。
 欧米の近代化とは、ルネサンスを経ているので、個=差異が基盤になっているのである。そして、ここから近代主義が発生するのである。つまり、差異と同一性との緊張関係が欧米には本来あるのである。
 イギリス人は、経験的個人主義であるから、全体主義を忌み嫌うのである。因みに、ブレアの失敗の一つの要因はここにもあるだろう。
 そう、差異と同一性との緊張関係が、いわゆるポスト・モダン思想を生んだと考えられるのである。つまり、欧米の基盤にある差異の発動なのである。流行としてのポスト・モダンは終ったが、しかしながら、後期デリダに見られるように、差異主義は生きていると見るべきである。
 この観点から見ると、現代日本の政治・社会的カルト状況は、欧米にある個=差異の視点の欠落にあるということになるだろう。日本では、日本なりの個の文化があったが、それが、近代化において、排除されてきたと思うのである。
 今は、簡単に言うだけだが、個=差異と霊性=精神性は、結びついているということである。欧米は、宗教性を脱色化したとは言え、精神のベースにキリスト教は今でもあるのである。欧州の都市には、教会がはっきり目に付くのであり、それが、共同体精神の焦点を構成していると思えるのである。
 これはそれほど突飛な考えではなく、ルネサンスにおける宗教性を見ればすぐわかることである。今、