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2007年05月31日 (22:45)

私の親の世代から思う:彼らの唯物論はどこから生まれたのか。

私の人生は、亡父への嫌悪・憎悪・反発・殺意・怨み、等が原点であったように思う。
 大正の後半の生まれである。家庭の恥を晒すことになるので、詳しく書かず、抽象観念的になるが、何故、このような人間が生きているのか。このような人間が生きている世の中は断罪に値すると若い頃思った。
 とにかく、利己主義、自己中心主義、冷酷無惨な人間であった。精神がなかった。
 また、母を見ると、昭和初期の生まれであるが、子どもの頃は、お国のためと滅私奉公で働いたようだ。
 両親の性格は異なるが、ただ共通しているものがあった。それは、物質主義である。没精神性である。没霊的である。唯物的、金銭中心主義的であった。
 両親ともに、無教養であった。それはそれでいいのであるが、彼らの唯物主義は、いったいどこから生まれたのか、不思議である。
 私が戦後の唯物教育を受けて、染まる下地は、両親の唯物性にあったように思う。
 いったい、大正や昭和初期の唯物論はどこから生まれたのか。没精神性はどこから生まれたのか。
 思うに、思考する習慣が彼らにはないのである。現在の思考停止の国民のように。
 そう、父親は、電気関係や機械の工作が好きな人であり、一見、理科系的ではあるが、思考が狂っていた。
 今、急に思い浮かんだが、やはり、夢野久作の、唯物科学を批判している『ドグラ・マグラ』を読む必要が絶対にあるということである。
 亡父は帳簿は丁寧に記した。字は綺麗であった。しかし、思考は完全に狂っていたのである。そう、一種、パラノイアであったと言えよう。
 どうも、パラノイアということに鍵がありそうだ。これは、正に、近代的自我の狂気である。
 ここで、飛躍的敷延して、日本の戦前の狂気は、パラノイアに拠るのではないだろうか。そして、今日・現代の日本の狂気もそうである。偏執狂である。
 これは、同一性主義の帰結である。だから、思うに、両親の育った昭和の初期の時代には、同一性主義・パラノイア性が社会に蔓延していたのではないだろうか。
 そう、だから、集団的パラノイアである。全体主義と言ってもいい。これは、差異を否定して、同一性が全体化する事態である。つまり、昭和の初期の時代に、差異を否定する事態が起きたのである。
 今、ここで、226事件や515事件等が浮かんだ。また、アナーキズムのことも浮かんだ。思えば、私は一時アナーキズムに傾いた時期があった。しかし、私はアナーキズムの欠点をわかったいたつもりである。それは、他者を否定することである。バクーニンを考えればいいのである。自己の思想のためには、殺害、暴力的破壊を辞さないのである。
 つまり、アナーキズムは自由を求めながら、この点で、同一性主義に陥っているのである。否定反動的でなのである。だから、私は、スピノザ主義的アナーキズムを考えたのである。これは、他者を能動的観念化して、連合化する発想である。そう、不連続的差異論が生まれる前、私の内部に生じた思想は、このスピノザ主義的アナーキズムであった。これは、実は、PS理論に近いのである。ただ、不連続性や超越性が明快にはなっていないのである。
 ということで、昭和初期に同一性主義が生まれたのだろう。これは、ロシア革命を生んだ無神論的唯物論に類似するように思える。つまり、昭和初期の日本とは、ロシア革命前夜に近い同一性・唯物的思潮があったように思えるのである。
 今日は、これ以上書けないが、とにかく、私の両親の唯物主義は、昭和初期の同一性・無神論・唯物思想に影響を受けているのではないだろうか。だから、昭和初期の時代思潮を考えるには、ロシアとの相関を見ないといけないように思えるのである。後で、再考したい。
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