2007年07月31日 (11:04)

私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。

以下、気になる事柄があるので、引用させていただく。日本左翼の問題点は、それなりに捉えていると思う。しかし、私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。
 私はポスト・モダン哲学の再検討を行い、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学とデリダ哲学とを明確に区別しなくてはならないという考えに傾いている。私見では、ポスト・モダン哲学の本流は、デリダではなく、ドゥルーズ(&ガタリ)にあると思う。何故なら、デリダ哲学(脱構築主義)は、広義のポスト・モダン哲学に必要な超越性を否定していると考えられるからである。つまり、端的に言えば、デリダ哲学(脱構築理論)は、私の考えるポスト・モダン(=トランス・モダン)哲学からは外されるべきである。
 そのように考えて、日本左翼を見ると、確かに、かれらにとっては、ドゥルーズ哲学ないしポスト・モダン哲学よりは、デリダ哲学=脱構築主義の方がわかりやすいのではないだろうか。言葉は悪いが、デリダ哲学は、大御所の哲学に矛盾を見てイチャモンをつけて、それを引きずり下ろすのである。しかしながら、対象となる哲学の矛盾を乗り越えて、その哲学から創造するのではないのである。矛盾を生みだす原因を差延やエクリチュールに見ているのである。これは、自己の考えを対象に押しつけているのである。フッサール現象学に対するデリダの批判がそのようなものである。(私の言葉では、同一性パラドクス様相を差延とデリダは呼んでいると思う。)
 日本左翼は超越性を認めないから、確かに、超越性を否定するデリダ哲学には魅力を感じるだろう。そう、同一性パラドクス様相という近代主義/反近代主義の様相にあるので、スタンス的には合うと言えよう。つまり、日本左翼は、近代主義であったり、反近代主義であったり、都合よく揺れ動いているのである。これは、柄谷行人のスタンスでもある。そう見ると、確かに、脱構築主義は、日本左翼にとって、さらには、左翼にとっては、好都合な理論なのだろう。
 

「日本左翼特有の四畳半フォーク的な虚弱至上主義と無責任主義がある。誤解を恐れず敢えて言えば、日本の左翼は正義が嫌いであり、正義を正面から語り論ずるのが面倒で億劫で苦手である。正義的なもの、正論的なものに対して抗原抗体反応を起こすのが日本左翼の体質であり、そういう正義拒絶の遺伝子を払拭できない。だから本村洋のような正義の英雄が颯爽と登場したときは、本能的に拒絶反応を起こし、石を投げつけ、唾を吐きつけようとするのである。正義排斥の日本左翼は、社会を概念と理論で設計・構築しようとせず、薄暗く陰湿な裏部屋の擬似的共同体を生息環境とし、そこに逼塞して内側に呟きとスローガンを共鳴させる。だからブログ左翼には個性がない。名前と中身を入れ替えてもどれも同じだ。テーマも言葉も文章も全く同じ。正義や倫理、国家や組織、そうした問題に背を向けて、趣味的な小共同体レベルで自己満足に溺る傾向は、全共闘世代以降に支配的となった。それを合理化し補強したのが80年代に安輸入した脱構築主義で、現在の官僚世界(大学・官庁・法曹 )の主流である。」(赤色文字強調はrenshiによる)
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『山口母子殺害事件はなぜ高い関心を集めるのか − 正義と倫理』
世に倦む日日
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2007年07月31日 (01:19)

ドゥルーズとデリダ:類似点と相違点:ポスト・モダンの成就としてのトランス・モダン

今は、簡単に触れるが、差異と同一性の連続態を説いたことで、両者はきわめて類似しているが、問題は、ドゥルーズの説いた内在平面の思想は、超越性がまったくないのかということである。デリダには、超越性はないが、ドゥルーズには、なにかあるような気がしたので、検討したいのである。
 ガタリとの共著『哲学とは何か』で明確に、フッサール現象学の超越性を批判して、内在性を唱えている。内在平面とは、差異(連続的差異=微分)が共立する平面である。これは、連続的平面である。これは、差異と同一性が融合した空間である。一見、差異が主導的であるが、この連続的差異は、同一性に対する否定性をもっているのである。つまり、先に述べた、同一性パラドクス様相の差異の面の強調である。即ち、同一性からみると、ネガである。
 問題は微妙である。今は、論証しないが、直感では、「無限速度」で力が移動する内在平面には、なにか超越性が関与しているように思えるのである。ドゥルーズ&ガタリは否定しているが。なぜなら、彼らは、そこに、共振性を見ているからである。これは、連続性とは異なる。
 生成変化や被知覚態(ペルセプト)・変様態(アフェクト)という概念も、なにか超越性や即非性を感じさせるのである。そうならば、ドゥルーズの差異は単に連続的差異だけでなく、超越的差異と混淆していたことになる。これをどう見たらいいのだろうか。
 そうならば、ドゥルーズはハイデガーの二股性を一つのものとして、混合させていると言えよう。思うに、端的に言えば、超越的共振性と連続性が融合しているのが、ドゥルーズ哲学ではないだろうか。連続性が内在性の基盤となっているのであるが、デリダと異なり、虚軸のM.P.が開口しているのである。つまり、超越性の肯定である。
 思うに、なぜ、ドゥルーズが現象学の超越性を実質的には、取り込んでいるのに、意識では否定した理由は、ハイデガーの現存在的連続性とスピノザの内在性を基礎としているからだろう。
 ということで、先の論を訂正することになったが、「狭義のポスト・モダン」とひとまとめにしたが、ドゥルーズとデリダでは、超越性の有無で異なるのである。デリダではなく、ドゥルーズが、広義のポスト・モダンを継承しているのである。
 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論は、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学の連続概念を超克した真正なポスト・モダン哲学と言えよう。ポスト・モダン哲学の成就である。結局、ポスト・モダン=トランス・モダンである。

2007年07月30日 (12:38)

メディア・ポイントM.P.と差異の様相と同一性構造の関係:超越性⇒連続的差異⇒同一性

結局、広義のポスト・モダン哲学(シェリング、キルケゴール、ニーチェ、フッサール)は、メディア・ポイント(以下、M.P.)を震源として起こった哲学であると言えよう。狭義のポスト・モダン哲学(デリダ、ドゥルーズ)は、これを差異として把捉して、同一性中心の近代主義に乗り越えようとしたのである。
 本稿では、微妙な領域であるM.P.の様相をさらに綿密に検討したい。問題は、端的に、現象学の超越性を狭義のポスト・モダン哲学は対象としていたのか、である。両者は、確かに、M.P.に動かされている。しかし、前者は、虚数的M.P.をもっていると考えられるのに対して、後者も同様と言えるのかである。これまでの検討ではそうではないことになっているのである。ここで、再検討したい。
 M.P.で虚数的超越性が実数的同一性に変換する。超越性⇒同一性と表記できる。問題は、このM.P.変換が超越性と同一性とを連続態にすることである。しかしながら、本来、超越性は同一性とは異質なものであり、連続態にはならない。ここにパラドクスがあるのである。これをどう見るのか。
 ここで、(連続的)同一性志向性の力学を見ないといけない。それは、超越性(差異)に対して、既述したように、否定・排除・隠蔽的に作用する。つまり、同一性は、超越性を否定するのである。しかし、この否定態が同時に、連続態でもあるのである。
 言い換えると、超越性(超越的差異)が、それ自体を否定して、同一性に転化するのである。この自己否定(=同一性志向性)は、超越性(超越的差異)を潜在させているのである。この自己否定の力学を明確にしないといけないのである。
 ここで、作業仮説を立てると、同一性化とは、i*(-i)において、iが主導化することであり、-iが否定されることとする。(逆の場合はおいておく。)
 つまり、M.P.変換において、iが優位化して、-iが劣位化する。そして、iは形相的であるので、同一性化が形成される。そして、-iが否定されて、排除・隠蔽され、潜在化する。
 だから、これまで、超越性が否定されると言ったが、的確に言えば、-iが否定されるということになる。これが、潜在的差異ということになる。(思うに、-iは、身体に潜在しているのである。参照:メルロポンティの現象学。)
 確かに、このように考えた方が適切であるようだ。なぜなら、同一性を否定して、この潜在的差異だけを肯定することは、単純に-iを肯定することになり、 iを喪失することになるのであり、逆に、倒錯になるからである。言い換えると、非合理主義、神秘主義、オカルト主義になるだろう。
 そのように考えて、iの自己否定の様相を考察しよう。そう、以前、繰り返し述べたように、この自己否定は、自己矛盾である。なぜなら、本来ある即非様相を否定して同一性様相に変換するからである。つまり、i*(-i)という即非様相という本来的なものを否定して、同一性様相にするからである。だから、自己否定=自己矛盾とは、超越性(超越的差異)の一つの様態と見るのが正しいと思えるのである。わかりやすく言えば、超越性は差異と同一性の両面をもっているとすると、M.P.変換において、同一性の側面が主導的に、優位になり、差異の側面が秘匿されるということである。
 思うに、この同一性変換は、エネルギーが必要である。超越性を同一性として維持するためのエネルギーが必要であり、そして、そのエネルギーが衰滅すると、差異が顕在化して、元の超越性へと復帰するのではないだろうか。生成消滅、生死であり、死は復活、超越界(イデア界)への回帰である。(量子は、そのように生成消滅するのではないか。また、生命もそういうものではないか。)
 このエネルギーを同一性エネルギーと、暫定的に、呼ぼう。そう、物質エネルギーでもあろう。おそらく、E=mc^2に関係する。
 では、同一性エネルギーに対して、差異エネルギーがあるだろう。否定された-iのエネルギーである。しかしながら、これは、iを求めるエネルギーのはずである。だから、超越的エネルギーである。
 ざっとであるが、以上の検討から推察できることは、超越性(超越的差異)の自己否定=自己矛盾とは、同一性エネルギーと超越的エネルギーの二つの様相をもっていることである。
 そして、哲学史的に見ると、広義のポスト・モダン哲学は、超越的エネルギーによって動かされていたと考えられるのである。しかしながら、それを明確に明晰に、把捉していないのである。ポスト・ヘーゲル哲学として、シェリング、キルケゴール、ニーチェ、フッサール(、ウスペンスキー)の斬新な哲学が創造される。彼らは、確かに、超越的エネルギーに触発されていたと考えられる。
 狭義のポスト・モダン哲学(デリダ、ドゥルーズ)もそのように見られるかもしれないが、ここには、微妙な問題がある。分水嶺はハイデガー哲学である。フッサールまでは、超越性主導である。しかし、ハイデガー哲学においては、超越性に駆動されていても、同一性(存在者ないし現存在)が主導的になるのである。あるいは、同一性と結びついた超越性が主導的になるのである。この点で、以前の広義のポスト・モダン哲学と異なるのである。フッサール現象学とは、明らかに、視点が異なる。
 つまり、ハイデガー哲学は、超越性と同一性との連続性の視点を明確に導入したと考えられるのである。(これは、ベルクソンと同様だと思う。)言い換えると、ハイデガーは、M.P.の自己否定=自己矛盾における様相で哲学を行ったということである。この様相をM.P.の超越性(差異)/同一性パラドクス様相とでも呼ぼう。単純に同一性パラドクス様相でもいいだろう。
 同一性中心主義は近代主義である。では、この同一性パラドクス様相とは何だろうか。これは、実は、近代主義の裏面というか。近代主義の副産物であろう。近代主義は、超越性・差異を否定するので、その否定された超越性・差異が、言わば、異議申し立てをするのである。これが、同一性パラドクス様相である。つまり、近代主義から必然的に発生する反近代主義ないしパラ・モダンである。ヘーゲル哲学は、この同一性パラドクス様相を弁証法によって同一性構造へと曲解的に収斂させたと言えよう。
 ということで、ハイデガー哲学は、フッサール現象学の超越性への突破を受けたが、この同一性パラドクス様相に、いわば、逆行したのである。強く言えば、後退・退行とも言える。近代主義の矛盾への後退である。
 整理すると、近代主義は、同一性主義であるが、裏面として、差異を否定しているので、同一性パラドクス様相を帯びることになる。しかし、この差異は超越性であり、本来、同一性とは異質なものである。そして、この超越性の探求に、広義のポスト・モダン哲学は向かったのであり、その明確な成果がフッサール現象学である。しかしながら、それを受けたハイデガーは、超越性を進展させずに、それを受容したまま、同一性パラドクス様相へと後退したのである。
 さて、このように見て、狭義のポスト・モダン哲学(デリダ、ドゥルーズ)を見ると、それは、ハイデガー哲学の後退を前提としていると考えられるのである。同一性パラドクス様相が中心となっていると思われるのである。つまり、差異と同一性の連続性が基盤になっているのである。
 問題は超越性との関係である。ハイデガーはフッサールの超越性を受容していたと考えられるが、同一性パラドクス様相を中心化しているのである。ハイデガーの場合、いわば、二股なのである。一方では、フッサール現象学の超越性を肯定し、他方では、同一性パラドクス様相を主眼にしているのである。前者が存在であり、後者が現存在である。結局、フッサール現象学の同一性パラドクス様相化である。これは、後退である。強く言えば、広義の近代主義へと戻っているのである。
 換言すると、広義のポスト・モダンとは、同一性パラドクス様相からの離脱として超越性を志向していたのであるが、それが、ハイデガーにおいて、逆行してしまったのである。だから、反動と言えるのである。広義のポスト・モダンから広義のモダンへの後退である。
 以上の視点から狭義のポスト・モダン哲学を把捉することができるのである。それは、ハイデガー哲学の広義のモダン(同一性パラドクス様相中心主義ないし差異/同一性連続主義)を基盤にした「差異」の哲学である。だから、「差異」は超越性ではなく、連続的差異でしかないのである。つまり、狭義のポスト・モダン哲学とは、ハイデガー哲学からさらに広義の近代主義へと後退しているのである。
 最後に構造主義について再考しよう。構造主義は、端的に、同一性パラドクス様相を静態的に構築したものだろう。一見、即非の論理に似ているが、そうではない。なぜなら、同一性パラドクス様相とは、差異と同一性の二重性であるからである。統一されていないのである。言わば、差異の論理と同一性の論理が並存しているのである。これでは、即非の論理とは言えないのである。
 結局、構造主義とは、差異の次元を超越論化して、それに同一性の論理を従属させたものだろう。だから、端的に言えば、差異iによる同一性志向性による論理が構造主義であると言えよう。差異iは超越論化する。ここから、超越論的同一性という構造が発生するのである。そして、この同一性は二項対立構造である。だから、構造主義とは、超越論的同一性=二項対立構造の理論であると言えよう。広義の近代主義である。
 補足すると、狭義のポスト・モダン哲学とは、フッサール現象学で発見された超越性(超越的差異ではないから、超越的志向性と言ってもいいだろう)を、ハイデガー哲学を経由して、連続的差異へと切り詰めてしまった哲学である。PS理論で言えば、虚軸のM.P.を否定して、実軸のM.P.を中心とした哲学である。つまり、広義のポスト・モダン哲学が探究した超越性を否定して、連続化した差異、実軸的M.P.的差異を中心化した哲学なのである。
 ハイデガー哲学は、広義のポスト・モダン哲学と狭義のそれとの中間に位置するのであるが、後者をより志向していたのである。

2007年07月29日 (15:10)

日本の衰退という現実を認める:復興は可能か

日本の現状を理論的に言えば、近代主義の末期症状であろう。近代合理主義が物質主義・唯物論を形成して、拝金主義を助長した。経済的唯物論が蔓延した。
 人間主体から言うと、近代的自我主義であり、哲学的に言えば、同一性中心主義である。これは、反個人主義である。自我主義と個人主義は、似て非なるものである。
 この没個人主義を生む日本社会の圧力は何だろうか。私は、学生の頃、最近は見ないが、そして、その後、アクの強さで嫌いになったが、あるピアニストの話しを聴いて、個性が自分に足りないと思い、個性的でありたいと強く思うようになった。とまれ、個が重要であるという思想は、その後、変わらない。
 個は、自我とは正反対である。個は、自己に誠実であるのであって、外界は、言わば、二義的である。自我は、外界中心で、見えの世界、顕示の世界に生きている。人の目を気にして生きている。
 このように書いてくると、日本の衰退の哲学的意味が見えてくるだろう。没個主義で、自我中心主義になってしまったことだろう。
 創造、独創、アイデア等は、個主義から生まれるのである。政治家がわかりやすいだろう。政治家に個がなくなっているのである。世襲議員は、自力で切り開いて来なかったから、単に、自我が肥大しているだけである。
 個とは孤独である(個独)。孤独を恐れ、群れる日本社会には、未来はないだろう。
 そう、日本人全体が虚弱になっているのである。端的に言えば、退化しているのである。文学で言えば、大江健三郎の退化があるだろう。教養主義を模倣しているだけである。音楽、美術も枯渇しているだろう。科学嫌いも多い。
 何度も繰り返すが、これは、近代主義の帰結である。近代主義を乗り越えるはずだったポスト・モダンは、連続性に後退したために、近代主義の同一性構造を乗り越えられなかったのである。
 日本の未来は厳しい。退化する日本は、滅びるのだろう。

2007年07月28日 (19:06)

構造について再考する:メディア・ポイントの差異と同一性構造の関係について

先に、ポスト・モダン哲学(ドゥルーズ、デリダの哲学)を批判して、それが、ポスト構造主義と言われるものではなく(もっとも、彼らは、その用語を使用しなかったが)、構造主義の展開であると述べたのであるが、構造についての考えがややあいまいに思えたので、ここで、再考したい。
 問題は、メディア・ポイント(以下、M.P.)と同一性との関係である。ここで、先に、極性や特異性という言葉を使用したが、明快にするために、差異という用語を中心としたい。
 さて、M.P.において、超越的差異(イデア)・虚軸・超越的エネルギーが、実軸的差異ないし実軸的エネルギーに変換される。(M.P.は変換器、トランスフォーマーと見ることができる。)
 問題は、虚軸・超越的差異と実軸的差異との関係である。垂直から水平へと差異が転換される。そして、この実軸・水平的差異は、他者・対象へと志向する。このとき、実軸・水平的差異は、他者・対象に対して、同一性志向をもつのである。図式化すれば、

《差異1》⇒《差異2》(他者、対象) 

(ただし、《差異》は実軸・水平的差異であり、⇒は同一性志向を意味する。)

問題は、《差異》と超越的差異との関係である。超越的差異は、i*(-i)である。それが、M.P.で変換されて《差異》となる。このとき、i⇒(-i)となるのではないだろうか。
 しかし、問題は、複雑である。M.P.での変換(M.P.変換)は、虚数から実数への変換である。だから、iはiではなくなるのである。つまり、 M.P.変換において、虚数超越的差異が実数的差異へと変換するのだから、⇒は同一性化と見ないといけない。i⇒(-i)とは、虚数の実数化と見なくてはならない。i or -i⇒+1ないし±1である。
 では、この実数的差異とは、どう表記されるのだろうか。これは、かなり微妙な問題である。当然、iないし-iではないし、±1でもない。それは、⇒ではないだろうか。実数・水平的差異とは⇒ではないだろうか。つまり、M.P.変換プロセスにおいて生起するものが、実数・水平的差異ということになる。即ち、i*(-i)⇒+1ないしi⇒-iの⇒が実数的差異ということになる。
 では、上記した《差異1》⇒《差異2》では、《差異》が実数・水平的差異であり、⇒が同一性志向であったが、これをどう見るのか。ここで、訂正しないといけないようだ。《差異1》とはiであり、《差異2》とは-iである。だから、実数・水平的差異とは、やはり、⇒である。そして、実数・水平的差異は、同一性を志向するということであり、両者がいわば、連結しているのである。実数・水平的差異=同一性志向性である。
 さて、問題は、他者・対象のことである。《差異1》⇒《差異2》において、《差異2》を他者・対象としたが、-iの場合は、内的他者・内的対象である。しかし、現象世界においては、当然、《差異2》が外的他者・外的対象となるのである。この違いをどう説明したらいいのだろうか。
 M.P.変換は、換言すると、即非論理から同一性論理への変換を意味する。だから、実数・水平的差異=同一性志向性とは、内的差異を否定し、かつ、外的差異を否定して、同一性化するものと考えられるのである。即ち、M.P.変換において、内的差異であれ、外的差異であれ、両者は等しく否定されて、実数・水平的差異の同一性志向性によって同一性化されると考えられるのである。これで、M.P.変換の差異と同一性の関係について説明されたとしよう。
 それでは、本稿の眼目である構造について検討しよう。以上の解明から、構造とはどう説明できるだろうか。これは、ほとんど自明かもしれない。M.P.変換ないし実数・水平的差異=同一性志向性が構造であると言えよう。ならば、構造主義で中心となる『差異』とは、どう説明されるだろうか。構造主義の『差異』ないし対立とは、端的に、二項対立であると言えよう。言語学で言えば、音韻において、例えば、[t]と[d]が対立する差異となるだろう。無声子音と有声子音の差異である。これは、音韻という同一性から生起する二項対立であると言えよう。
 あるいは、文化人類学において、例えば、『天』と『地』との二元論も、二項対立と見ることができる。もっとも、この二元論の場合、山口昌男がかつて両義性の理論を説いたように、極性をもつのである。とまれ、以上から構造とは、M.P.変換ないし実数・水平的差異=同一性志向性であると確認できたこととしよう。
 さて、極性の事象が出たので、構造と極性とポスト・モダン哲学との関係について、以上の視点から検討したい。
 構造は、基本的には同一性的二項対立の構造である。では、極性はどういうことになるだろうか。極性と言った場合、当然、ダイナミクス、動態性がそこにはあるのである。これは、かなり複雑な問題である。
 構造は、基本的には、静態的である。しかし、動的構造というものがあり、それが、極性を帯びると考えられるのである。静的構造と動的構造をどう見たらいいのだろうか。
 これは、やはり、正に、差異の問題ないしM.P.の問題である。M.P.において、内的差異ないし内的他者、同時に、外的差異ないし外的他者が、同一性志向性によって否定されると述べたが、しかしながら、以前執拗に検討したように、否定された差異は、排除・隠蔽されるのであり、潜在化するのである。
 この否定・排除・隠蔽され、潜在した差異は、実は、超越性を保持しているのである。言い換えると、超越的な即非差異の志向性をもっていると言えるだろう。つまり、イデア(虚軸・垂直・超越的差異)への志向性をこの潜在的差異はもっていると考えられるのである。そして、この潜在的差異は超越エネルギーをデュナミス(可能態)としてもつと言えるように思えるのである。
 そのように考えると、M.P.において、潜在的差異のエネルギーが可能態(ポテンシャル・エネルギー)としてあり、それは、i*(-i)を志向していると言えるのである【p.s. ここで、潜在的差異がi*(-i)を志向すると述べたが、少し違うように思える。志向するというよりは、超越・垂直的差異i*(-i)のエネルギー、即ち、超越的エネルギーが、潜在的差異に作用していると言う方が適切・的確であると思われる。】。この差異の即非性が、潜在的差異において発動するのであり、潜在的差異のエネルギーはなんらかの即非性を帯びると考えられるのである。
 問題は、M.P.にある。ここでは、いわば、顕在的差異の同一性志向性が主導的であり、潜在的差異のエネルギーはポテンシャルの様態にある。しかし、後者が賦活・活性化されると、前者の同一性的二項対立の構造を動態化すると考えられるのである。
 しかしながら、ここでは、同一性的二項対立構造が主導的であるので、潜在的差異の即非的エネルギーは、同一性構造の枠に収斂ないし収められると考えられる。これが、極性ないし対極性(両極・双極・太極・陰陽性)であると考えられるのである。
 端的に、即非性と極性は異なるのである。一見両者は似ている。しかし、前者において二項は不連続であり、後者において二項は連続的であるからである。つまり、M.P.において、潜在的差異の即非的エネルギーは、同一性的二項対立構造を動態化させるが、しかし、同一性的二項対立構造の連続性を帯びるので、即非性は否定されて、構造は極性化(両義性)されるのである。これが、動的構造の意味である。そして、これが、ポスト・モダン哲学(ドゥルーズとデリダ)の本体であると考えられるのである。つまり、それは、東洋思想の太極論に類似しているのである。言い換えると、連続的差異(=微分)の思想なのである。
 これまで、私はポスト・モダン哲学は構造主義の展開、動的構造主義と述べてきたが、その意味は以上でよりよく解明されているだろう。ただし、私は、その動態性を実軸0度におけるものと言ってきたが、それは、不十分であったのが、以上から判明したのである。そうではなくて、端的に、M.P.における動態性であるのである。
 ポスト・モダン哲学は、構造主義の同一性ないし連続的同一性(正確に言えば、否定的連続的同一性)に、言わば、囚われていたので、差異を脱構造化することができなかったのである。言い換えると、差異と同一性を分離できなかったのである。
 確かに、ポスト・モダン哲学には、差異が発現・発動したが、それは、連続的同一性構造の枠内に過ぎなかったのである。PS理論から見ると、モダンとトランス・モダンの狭間にあったが、モダンに束縛されていたと言えよう。直感では、既述したことだが、ポスト・モダン哲学の原型は、ハイデガー哲学である。何故なら、存在と存在者(現存在)との関係は、連続的な潜在と顕在の関係であると考えられるからである。ドゥルーズにしろ、デリダにしろ、ハイデガー哲学の存在論的差異を連続的差異の視点で焼き直しているに過ぎないように思えるのである。フッサール現象学の超越性が看過されているのである。

2007年07月26日 (19:53)

メディア・ポイントMedia Pointを直感で考察する:試論1

最近は、PS理論の反復・復習をしているが、本稿もそれに類するだろう。もっとも、何故、MP(メディア・ポイント)を直感で考察するのかと言えば、MPは、これまでの検討では、虚軸的MPと実軸的MPとが不連続に交替するので、直感では捉えにくいと考えたが、今、直感で捉えられるのではないかと感じたからである。
 さて、不連続化された差異は、MPにおいて、超越性を獲得する。そして、これは、他の差異と即非共振している。i*(-i)の世界である。
 不連続化とは、脱構造化のことである。現象世界の連続的同一性によって「地上」化された差異の構造が解体して、脱現象的な、イデア次元の事象が生起するのである。このイデア次元は、一般的な同一性としてのイデア次元(これは、構造次元である)ではなく、超越的な次元である。
 だから、ここで、実軸MPから虚軸MPへ移動しているのである。あるいは、虚軸MPに接しているのである。仏教の「空」の体験とは、このことではないだろうか。ここでは、実在は、現象的には在ると同時に無いのである。あるいは、虚軸MPの体験が在ると同時に無いものと考えられる。
 問題は、エネルギー事象の空間様相である。オイラーの定理の微分が1/4回転であるという明日野氏の指摘を考えると、この回転によって、垂直な力が発生すると考えられるのである。つまり、ガウス平面に直交する力の発生である。
 これをどう見るのかである。微分によって光が発生するとするなら、磁気ではないだろうか。即ち、虚軸エネルギーを超光として、それが、微分によって光を発生させる。と同時に、垂直に磁気が発生するということである。
 思いつきついでに言うと、「気」とは、この磁気に関係しているのではないだろうか。あるいは、超光/磁気/光に関係するものが「気」ではないだろうか。より正確に言えば、MPにおいて、超光(イデア・霊)と磁気と光(電磁波)が総合的に存在しているのではないのか。この様態は、「量子」的様態と呼べるだろう。しかし、「量子」は、イデアと物質の中間態を記述しているものに過ぎないだろう。
 とまれ、ガウス平面に直交する軸をZ軸とすると、X軸とZ軸で電磁気場を形成するのではないだろうか。しかし、そうならば、力の軸として、第四の軸が考えられないか。それを、U軸とすれば、XZUの三次元空間が発生するだろう。U軸の力を重力と見たらどうだろうか。
 思いつきはここで留めよう。

2007年07月25日 (07:25)

差異(特異性・個)と同一性・自我との連続性に関する補正:差異への否定的連続性をもつ同一性

先に、本件の連続性について述べたが、一つ重要な要素が抜けていたので、ここで補正したい。
 それは、以前は十分に述べたものである。即ち、同一性は差異(特異性・個)を否定するということである。だから、外界同一性認識は、内界差異認識を否定するということになるのである。これを押さえておかないといけない。
 問題はこの否定と連続性との関係である。基本的には、連続性から否定が生じると考えられる。というか、メディア・ポイントにおけるエネルギー発動が差異と同一性を発生させて、それから、同一性の発達が差異を否定することになる。人間の場合、同一性に傾斜しているので、差異が否定されて、連続的同一性(自我、大脳)が発達すると考えられる。
 しかし、差異(特異性・個)は元々、メディア・ポイントとして存在するので、同一性に否定されても、潜在するのである。だから、差異と同一性は否定的関係であれ、並存しているのである。ただし、ここでも、両者の連続性が続いている。
 そして、ある事情によって、差異が主体にとって、大きな存在となると、差異と同一性の矛盾が拡大して、主体は分裂した様態となる。一種の精神症的様態である。
 近代主義は、差異を否定した様態で同一性を進展させたのであり、自我は暴力・病理化するのである。
 さて、差異と同一性の矛盾であるが、これは、差異の不連続化以外に解決の方法はない。もっとも、フッサールの場合、不連続化があり、同時に同一性が強固に存在して、それらが重なってしまった。フッサールの場合、現象学的還元のもつ不連続性を十分に認識していなかった可能性がある。
 とまれ、差異が明確に不連続化されると、同一性と分離して、それ自体の価値をもつことになる。それは、超越的差異と結びつくのである。そして、差異と同一性は連続性ではなく、共立性をもつことになる。
 ここで、構造について再考すると、先に、構造を極性と同一性の関係に見たが、極性(差異)が同一性に対して、先験的であることから、発生するのが構造である。しかし、同一性と連続性をもっている場合ので、超越性ではなく、言わば、超越論的になるのである。
 だから、この視点からフッサール現象学の「超越論性」を見ると、微妙で、構造である超越論性と超越性とが重なっていると考えられる。PS理論から言うと、実軸的MPと虚軸的MPが前者中心に重なっているのである。
 デリダ哲学は、この一種複雑な重なりによる矛盾を捉えて批判してノである。そして、虚軸的MPを無化して、実軸的MPと同一性との差異を差延と呼び、その差延によって、実軸的MPと虚軸的MPとの前者中心の同一性的理論を脱構築することになったのである。《差延は、実軸的MP(差異・極性)と同一性との連続態であるから、ドゥルーズの連続的差異と同質である。》
 結局、デリダ哲学は、虚軸的MPないし超越性(超越的差異)を排除しているので、極めて一面的であると言える。つまり、それが、欠陥である。
 最後に注意点を言うと、デリダがいう超越論性とは、実軸的MPであり、構造性である。虚軸的MPの超越性は全くの別物であることに注意しないといけない。
 ドゥルーズとデリダは、現象内在的な差異に留まり、脱現象的な超越性を否定したのである。彼らの理論は、構造主義内に留まると言えるのである。以前にも述べたが、ハイデガーによる現象学の構造化が、ポスト・モダン哲学に影響を与えた思えるのである。フッサール現象学のもっていた脱構造的超越性を否定して、構造的超越論性(いわば、カントの超越論性)に引き戻したのである。

p.s. 何故、差異(特異性・個)が同一性との否定的連続性によって構造化されるのかという点について補足すると、同一性が現象界に限定されているため、本来、超越性をもっている差異が、現象界内部に留められるからだと考えられる。つまり、同一性認識が物質的認識なので、本来超越性をもつ差異を物質的同一性形式に限定するということである。これは、正に、カントの時間・空間の超越論的形式に等しいと言えよう。構造主義は、カント哲学に発していると言える。

2007年07月24日 (21:45)

連続性はどこから発生するのか:特異性(差異)と同一性との関連

本稿は復習になるかもしれないが、特異性(差異)と同一性との現象世界における連続性の様相について検討したい。
 特異性・差異・個のエネルギーが同一性自我と連続化しているのが、現象世界一般の様態だと考えられる。何故、個と自我とが連続化するのか。それは、同一性が原因である。
 主体は、主に視覚を介して、外界を知覚・認識する。(勿論、五感全体であるが。)この外界認識が同一性認識なのである。自我同一性を外的対象に投影して、外界を認識するのである。この投影が、連続化の原因と考えられるのである。主体自体の同一性が外的対象に投影されるのだから、主体と外的対象は連続していると言うことができる。よって、それを連続的同一性認識と呼ぶことができる。
 結局、連続性は外界認識から必然的に発生するのである。そして、主体における特異性・差異・個であるが、それは、内界において存するものであるが、内界認識(反省・内省・省察)が十分発達していないと外界認識の連続性に内界性である特異性・差異・個が巻き込まれると考えれるのである。
 そして、近代主義は、外界認識中心であり、内界認識を疎かにしているので、特異性・差異・個の連続化はほぼ必然的に生起すると考えられるのである。
 プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、特異性・差異・個を主体のメディア・ポイント(以下、MP)と見ている。そして、これは、エネルゲイア・エネルギー放出点と考えている。言い換えると、主体の動態性・ダイナミクスが発生する点である。
 また、このダイナミクスをもった内界はプラス・エネルギーとマイナス・エネルギーに展開して、極性構造をもつと考えられるのである。思うに、対極性とはここに発生するのだろう。
 そして、この極性(対極性)構造と同一性構造とが連続化したものが構造主義の構造と言えるのではないだろうか。同一性構造に傾斜すれば、静態的であり、極性構造に傾斜すれば、動態的になると考えられる。
 さて、ここで、これまで述べてきたポスト・モダン哲学について、再論すると、ドゥルーズ哲学に関しては、正に、構造主義的差異論と考えられるのである。何故なら、ドゥルーズの説く差異とは、連続的差異であるからである。極性構造と同一性構造の連続化によって、差異が連続化されると考えられるのである。(極性構造と差異との関係については、後で考察する。)
 デリダ哲学の場合、同一性構造を批判して、同一性が差延と結びついていることを述べるのであるが、同一性と結びついた差延(差異)とは、正に、極性構造と同一性構造との連続性に関係すると考えられるのである。だから、既述したように、デリダの差延(差異)とは、ドゥルーズの差異と同質であると考えられるのである。
 さて、ここで、極性構造と差異について考察しよう。これは、ほとんど自明である。何故なら、MPである特異性・差異・個において、エネルゲイア・エネルギーが放出されるのであり、そこにおいて、極性(対極性)が発生すると考えたのであるから、極性構造と差異は等価であると言える。
 しかしながら、精緻に見ると、特異性・差異・個とは、MPであり、超越(虚数)的差異(イデア)に接している、ないし、接しうると考えられる。ここに、不連続的差異論の意義があるのであるが、極性と同一性の連続性を切断すると、極性が不連続化して、超越的差異(イデア)と関係すると考えられるのである。
 不連続化された極性であるが、それは、イデアと現象との中間態になると考えられる(参考:素粒子や量子)。極性と言うよりは、エネルゲイア・エネルギー自体になると言えよう。あるいは、超量子/量子状態ないし超光/光の様態になると言えよう。
 ここで、フッサール現象学を考えると、それは、不連続化された極性(特異性・差異・個)と同一性との連続態ではなかったかと思えるのである。現象学的還元が、不連続化をもたらした考えられるのである。しかしながら、フッサールの強固な同一性志向によって、その不連続化された極性が純粋に差異化されずに、同一性の様相を帯びてしまったように思えるのである。
 そう、ハイデガーやデリダはフッサールの不連続化された極性、言い換えると、不連続化された超越論性を看過したと考えられるのである。

2007年07月23日 (22:14)

直感/直観から、メディア・ポイントMedia Pointの様相やPS理論を説明する

整理するつもりで、本件を書きたい。

イデア界からメディア・ポイント(以降、MP)を介して、エネルギーが発出して、特異性と同一性の混淆である自我が生まれる。特異性は個である。つまり、自我は、本来、個と同一性的自我の二重性をもっている。そして、特異性(個)と同一性は、連続的である。
 連続性であるが、それは、特異性がエネルギーないし力をもっていて、それが同一性を支えるからである。特異性のエネルギーが同一性形成に作用するのである。
 しかし、特異性のエネルギーが同一性へと向かわずに、それ自体において静まる場合がある。このとき、特異性と同一性はいわば分離ないし共立する。
 つまり、特異性と同一性において、連続化するときと、平行化するときがあるのである。プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、後者に不連続態として特化して、特異性と同一性を分離するのである(正確に言えば、不連続的差異論の様態である)。
 このとき、不連続化された特異性(ドゥルーズの説く特異性は、連続化されているもので、誤った観念になっている)は、イデアに通じる回路を形成したと考えられる。
 ここで、簡単に、PS理論におけるイデアについて説明すると、それは、周知の同一性のイデアではない。同一性のイデアは構造と等価と考えられる。それは、静的であり、形相に近い。
 因みに、PS理論において、イデアは、相矛盾するものが即非の様相となっているのである。A≠〜Aであり、且つ、A=〜Aである。鈴木大拙の即非の論理をイデアに見ているのである。だから、即非イデアないし差異即非イデアと言うこともできよう。イデア論を創造的に深化させたと言えよう。
 さて、不連続化させた特異性であるが、それは、PS理論においては、実軸的原点を離脱して、虚軸的原点に達していると考えるのである。(PS理論は、数学化して、ガウス平面をもってイデア界と現象世界を考えている。)そして、原点は、メディア・ポイントMedia Point(以下、MP)と呼ばれる、イデア界と現象世界を交叉させる重要なポイントである。
 問題は、虚軸的MPに達した特異性である。特異性は、イデアに触れているのであるが、他方、同一性があるが、これも不連続化した同一性であり、同一性が言わば、特異化するのである。例えば、連続性において、山とは、個別性であり、一般性であるが、不連続化した山は、特異性となり、他の山と比較できないものとなるのである。
 思うに、これは、ヒューム哲学に少し似ているだろう。山は、一般的観念から分離して、特異性となり、個々の山はすべて特異性となるのであるから。これは、同一性の特異性化と言えよう(以前は、差異的同一性と呼んだ)。
 結局、イデアに触れた自己特異性と同一性の特異性(現象)の「共立」する世界が生起するだろう。そして、結局、特異性の世界となる。イデアに触れた自己特異性は、即非性をもっている。これが、理念である。差異共振性である。この理念と特異性化された現象の関係を見ると、現象において、特異性と特異性との共振化をもたらす志向が発動すると言えよう。
 この現象世界における特異性の共振化であるが、思うに、イデアの即非共振エネルギーや知が作用しているだろう。イデア界が現象界に作用しているのである。以上が、PS理論がもたらす世界の様相である。
 現象世界における共振化のためには、MPが開かれている必要があるが、実際のところ、一方の側からのMPからはたらきかけとなるだろう。これが、創造的営為である。
 ここで、やや飛躍して、イエスのことを言うと、「神の国」とは、イデア界であり、「聖霊」が即非共振エネルギーのことだろう。「愛」も同じだろう。イエスは、連続的同一性による利己主義が蔓延る世界において、悲劇的に、イデア界の教えを説いて、世俗権力世界と衝突したと考えられる。
 イエスのイデア界=神の国の教えは、キリスト教会によって捩じ曲げられてしまったと言えよう。プラトニスト・イエスの叡知は、歪曲されてしまったのである。
 さて、簡単に注意点を言うと、虚軸的MPとは、不連続点であり、実軸的MPは連続点である。そして、連続性とは、虚軸と実軸との連続性でもあるだろう。この時、イデア・エネルギーは、同一性化して、反動エネルギーになるのである。暴力的エネルギーになるのである。いわば、神の悪魔化である。
 最後に、ポスト・モダン哲学についてであるが、既に、何度も述べたが、ドゥルーズ哲学の差異理論が連続的差異に基づくことは不連続的差異論の形成のときに論じたが、つまり、実軸的MPを構造にしているのであり、これは、エネルギーがあるので、同時に、動的構造であり、この動的構造の発生させる力を「差異」としているのである。だから、ドゥルーズ哲学は、構造主義の展開に過ぎない。
 また、デリダ哲学であるが、やはり、差延(差異)という考え方は、実軸的MPを基礎としていると考えられる。つまり、実軸的MPの動的構造のエネルギーが同一性に対して、プラスアルファ的にズレをもたらし、差延を発生させると考えられるからである。換言すると、同一性+エネルギーである。これが、この+エネルギー分が同一性に対するズレ(差延)をもたらすということである。

p.s. 以上の考察から、ウスペンスキーの四次元論を考えたらどうなるだろうか。
 万象の特異性化がポイントではないだろうか。つまり、万象にMPを見ることになるだろう。MPは虚軸が交叉しているので、いわば、四次元が発生していると言えるのではないだろうか。結局、PS理論は、四次元論である。それは、量子論を超えて、超量子論である。超光をイデア界に見ているのである。
 結局、現象世界を四次元的に把捉するのが、PS理論と言えるのではないだろうか。そして、四次元的視点で、物質同一性化した現象世界に、差異共振性をもたらし、現象世界に調和・和解・バランスをもたらすと言えるだろう。やはり、水瓶座的である。

2007年07月22日 (21:32)

ウスペンスキーの「四次元」『新しい宇宙像(上)』所収

ウスペンスキーの『新しい宇宙像』の最重要な論は、第2章「四次元」と第10章「新しい宇宙像」であろう。どちらも、高次元の問題を扱っている。「四次元」は、『ターシャム・オルガヌム』に通じる内容である。「新しい宇宙像」は、先にも述べたが、六次元の考え方を述べている。
 より明確なのは、四次元の考え方である。例えば、立体は、四次元体の投影ではないかという考え方をしているのである。六次元の考え方は、それを、発展したものとしてあるようだが、論証が不足している。単に、提起としてある。
 四次元の考え方でわかりにくいのは、ミクロの世界を四次元と捉えている点である。もっとも、これを量子の世界と見れば、PS理論に近い発想になるだろう。
 PS理論はメディア・ポイントMPをイデアと物質との交叉点と見ていて、また、ここに量子像を見ていると言えよう。(もっとも、イデアと量子は区別しないといけない。)だから、量子的ミクロの世界を、確かに、四次元とすることは考えられないことではない。
 しかし、やはり、量子的世界はMPと見るべきであり、イデア界を四次元と見るべきであろう。ウスペンスキーは、三次元に対する垂線を四次元としているが、PS理論ならば、虚軸がそれに当たると言えよう。
 単純素朴に、何故、現象世界において、四次元空間が不可能なのか。第四の直交する軸を作れないのか。
 これは、時間の問題に関係するのだろう。相対性理論では、時間が第四の軸になっている。しかし、ウスペンスキーが『ターシャム・オルガヌム』で述べたように、時間空間軸と考えた方がいい。あるいは、時間エネルギー軸と考えた方がいいだろう。つまり、時間とは、未知の四次元の空間の、三次元空間におけるエネルギー的投影のようなものとして見た方がいいだろう。
 だから、三次元空間においては、時間や運動において、四次元の影があると言えよう。内的時間は、過去、未来、現在が同時的である。これが、四次元空間と関係するだろう。そして、内的時間は超越性と関係するのである。
 思うに、メディア・ポイントMPにおける物質現象世界という結果(三次元空間)から、四次元を見ようとするので、困難にぶつかると思える。
 つまり、差異共振的イデアの現象化(三次元化)においては、差異イデアが喪失されて、時間ないし量子的ミクロ世界ないしエネルギーに変換されているのである。だから、四次元空間が物質・物理的に不可能なのでる。
 しかしながら、現象化以前の世界、あるいは、メディア・ポイントMPの虚軸の世界、即ち、イデア界が存在すると考えられるので、これを四次元空間とすることができると考えられる。
 では、問題は、イデア界⇒MP⇒物質現象世界の変換・変容において、要と言えるMPの変換様相はどういうものであるのかである。
 当然、虚数から実数への変換である。しかし、空間的にはどうなのかである。1/4回転であろう。つまり、空間の捩れが生じると思うのである。つまり、現象世界とは捩れ後の世界、三次元空間ということになるのではないだろうか。
 ここで、喩えだが、朝顔の蕾をイデア界、開花した朝顔を現象世界とすると、捩れた蕾が四次元となるだろう。虚軸である。そう、三次元空間が捩れた蕾に内包されている様相である。折り畳まれた三次元空間である。あるいは、原三次元空間である。
 換言すると、原三次元を内包したイデア界・虚軸ということである。即ち、イデア界は、原時空四次元であるということである。
 それが、MPを介して、三次元空間+一次元時間に変換すると考えられる。

2007年07月22日 (11:05)

生成消滅のサイクルという法則と宗教:根源界と現象界の乖離と新たな関係

以前にも述べたが、ニュースを見ると、世界あちこちで、戦争があったり、いざこざ、争い、問題が蔓延している。人類の末期症状と言えるのではないだろうか。
 ここには、平和の知恵・意志・志向がないのであるが、問題は、利己主義に囚われていることがいちばんの問題である。利己主義からの脱却を説く叡知は多いが、それが機能しなくなっていると言えよう。結局、世俗問題、物質的同一性が大きな問題となり、それらからの脱却を説いていた宗教的叡知は無視されていると言えよう。
 端的に言えば、欲望の問題である。これに対して、これまでの知恵が役に立たなくなっていると言えよう。
 仏教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、今ある形では有効ではないだろうし、逆に、利己主義に仕えていると言えよう。アンチになっているのである。
 プラトニック・シナジー理論(PS理論)から見ると、根源であるイデア界と同一性・欲望の現象界とが、一般においては、無関係になっているのである。というか、一般においては、根源であるイデア界が完全に喪失されているのである。
 ただ、同一性・欲望の物質・現象界と小さな良心があるだけの世界だろう。近代主義の帰結であり、ポスト・モダン化である。
 私が言いたいのは、正に、ヘラクレイトスの万物は流転するということである。生成流転である。あるいは、生成消滅である。これが、森羅万象に当てはまる大法則であると思うのである。
 だから、宗教は例外ではない。今日の宗教も消滅するし、それが正しいと思うのである。ただし、新たに生成ないし創造される叡知があると思うのである。
 モダンないしポスト・モダンは、人類史における特異な時代と考えられる。それは、根源との知的・意識的結びつきを人類が断った時代であるからである。物質的現象に同一性化した時代である。そう、根源界と現象界との乖離がこの時代の特徴である。この点に関する問題点は、不連続的差異論の時期に、解明したので、ここでは縷々述べないが、簡単に言えば、差異と同一性との不連続性が原則として確認されなければならないということである。
 ポスト・モダンは、両者の連続性に立脚していたために、モダン的同一性を脱却できなかったのである。というか、連続的差異の理論である(ポスト)構造主義に留まったのである。
 不連続的差異、さらには、超越的即非的差異(PS理論)へと飛翔することで、構造主義的閉塞から脱出できるのである。
 これを宗教に当てはめれば、「神」、「仏」と「自我」との連続性から、ないし、構造化された「神」や「仏」からの脱却が実現するのである。おそらく、脱宗教=新叡知へのエクソダスと言えるだろう。
 宗教を否定するのではなくて、宗教をその連続性や構造性から解放して、純粋化するのである。そこでは、プラトンのイデア界と諸宗教の神仏の世界が一致するのである。また、科学の世界もそこに根源を見いだすことになるのである。芸術も当然である。
 それは、差異共振の世界である。根源的調和・平和・共存の世界である。これを取り戻さなくてはならないのである。これが見失われているために、世界は、戦争・争いこと・犯罪・事故に満ち満ちているのである。
 人類が根源界へと脱皮する時期になったと言えよう。一回転、一サイクルが過ぎたと思うのである。古いサイクルが終焉して、新しいサイクルが始まると思うのである。

p.s. モダンの同一性主義とポスト・モダンの連続的差異主義(「ポスト構造主義」)の相違が明確ではないかもしれないので、簡単に説明したい。
 モダン、即ち、近代主義、近代合理主義は、物質的量的合理性=同一性を基礎としている考え方である。それは、主体では、自我的同一性に基礎を置いている。
 それに対して、ポスト・モダンは、「差異」を提唱したのである。それは、モダンないし西洋文明の同一性主義の乗り越えを意図したものであった。しかし、理論的中心と考えられたドゥルーズにしろ、デリダにしろ、彼らの説く「差異」とは、連続的差異であったのである。ドゥルーズの場合は明瞭であるが、デリダの場合はわかりにくいので、少し説明しよう。
 デリダ哲学は、フッサール現象学批判から、始まったと言えよう。そこでは、フッサールの超越性が、同一性と混淆していることが提示されて、フッサール現象学を、言わば、脱構築しているのである。(脱構築とは、批判であり、批判対象の変容のことである。)
 つまり、フッサール現象学が、超越性と同一性との混淆態として説かれているのである。その結果、フッサール現象学の超越性が同一性のレベルに落ちているのである。また、デリダは、混淆態における超越性と同一性の差異を差延と呼んでいるのである。
 結局、本来、フッサール現象学の超越性が、ハイデガーにおいてそうであったように、無視されて、同一性のレベルに落とされて、別物にされているのである。
 同一性のレベルとは、端的に、現象界のレベルである。問題は微妙である。超越性は本来、同一性と混淆しない。しかし、デリダにより、両者の混淆が説かれているのである。混淆が生じるには、両者が同レベルになくてはならない。これを同一性のレベルと言ったのである。言い換えると、構造性のレベルである。
 構造性から同一性、とりわけ、連続的同一性が発生する。つまり、換言すると、《力》の問題である。同一性ないし連続的同一性は《力》の問題である。それは、他者を同一性化する力動をもっているからである。力学である。同一性力学である。
 この《力》は、構造性から発するのである。つまり、構造力学から発するのである。(一般に、構造は静的なものと考えられているが、そうではなくて、構造は、実軸のゼロ度の極性から生まれると考えられる。ゼロから正負の極性が生まれるのであり、このゼロ・ポイントに《力》があるのである。)だから、構造的同一性力学である。
 ということで、この視点からデリダの説く超越性と同一性の混淆態を考えると、フッサールの超越性が、構造性に還元されているのがわかるのである。つまり、フッサールの超越性は、ゼロ度の構造に転換されてしまっていて、誤読されているのである。
 結局、構造と同一性の混淆がデリダの説く脱構築主義、差延主義なのである。だから、これは、ドゥルーズの連続的差異の理論と同質なのである。なぜなら、構造ないしゼロ度の実軸は、連続的差異を発生させるからである。
 さて、最後に、構造性と同一性の連続性について説明すると、それは、上記からでも理解できるが、構造力学が同一性力学に連続しているということである。
 そして、両者を不連続化すると、構造力学は解体して、超越性へと還元されるのである。フッサール現象学の超越性と言ってもいいかもしれない。しかし、PS理論では、さらに、これを即非的差異というイデアとして考えているのである。
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2007年07月18日 (11:11)

デリダ哲学ないし「ポスト構造主義」批判:「差異」と同一性の動態構造としての「ポスト構造主義」

構造主義について、差異と同一性の点から整理したい。既述事項ではあるが、所謂、ポスト構造主義に対して疑義を強くもっているからである。
 構造主義は、私見では、と言うか、プラトニック・シナジー理論(PS理論)から見ると、実数軸のメディア・ポイントMedia Point(MP)を中心とする思考である。ここにおいて、±ゼロ度の対立原理と同一性原理が発生すると考えられる。
 同一性原理について言うと、ある個体と他の個体との関係において、例えば、前者が主体化されて、他の個体を同一性化するという原理である。ここでは、前者が優位となり、後者は劣位となる。二項対立の原理と言ってもいいだろう。
 ±ゼロ度の対立原理であるが、それは、ある極性原理であり、+の様態の度の同等の−の様態の度が発生し、量的に加算すると、ゼロ度になる関係である。+100ボルトに−100ボルトである。
 さて、構造主義であるが、それは、これら二つの原理の結合したものと考えられるのである。対になる項があるが、それらは、対立し、差異を形成する。しかし、一つの項が優位になって、他の項が劣位になる。しかし、同時に、逆の事態も考えられるのである。相剋の状態にある対立項と言えよう。一般に構造主義は静的な差異の体系と考えられるが、実は、その静的様態は、動的様態を潜在させていると考えられるのである。
 以上、簡単であるが、これを基盤として、ポスト構造主義批判をすると、それは、構造主義の動的様態に過ぎないと考えられるのである。例えば、デリダのフッサール現象学批判とは、以上の構造主義的動態性を根拠にすれば、フッサール現象学に、「差異」(超越性)と同一性との混淆を見て、その同一性からフッサール現象学の不整合性、一貫性のなさを批判する(脱構築)するのである。
 つまり、デリダの批判とは、「差異」と同一性の連続体である動態的構造をベースにして、それをフッサール現象学にも見て、その、言わば、不純性を批判するのである。そして、それを脱構築をすると呼ぶのである。つまり、デリダの脱構築理論、「ポスト構造主義」とは、動態的構造主義であり、その視点を他の哲学・理論に反映させて、それらの理論の不整合性を暴き、批判するのであり、結局、当然ながら、自身の動態的構造主義が肯定されるのである。
 この方法をどう判断したらいいだろうか。それは、方法論として、不正確なものである。何故なら、動態的構造主義が前提となり、それを他の哲学・理論に投影して、批判するのであるからである。それでは、他の哲学・理論のもつ特異性が喪失されざるをえない。実際、フッサール現象学に対するデリダの批判は、フッサール現象学のもつ超越性を喪失しているのである。
 そう、デリダは、確かに、超越論的差異について言及しているが、その超越論性は、フッサールの超越性を喪失しているのであり、実際は、動態的構造主義の「差異」を説いていると考えられるのである。
 

2007年07月16日 (19:41)

イデア的差異即非性と極性/同一性構造

先に、イデアの現象化として、極性と同一性(構造)との連続態を考えたが、そこでは、差異と極性との区別があいまいであったので、ここで、整理したい。
 差異とは、ここでは、即非共振性ないし即非性である。だから、即非性と極性とをどう区別するのかということになる。磁気のN極とS極との極性があるが、 NとSは即非性があるのだろうか。即非性があるのなら、NはNであり、同時に、Sであるということになるだろう。N=Sは強弁になるだろう。だから、両者は区別される。
 極性は、対極・両極性でもある。これは、対(つい)になるものと一体となっているということである。確かに、NとSとは、磁場において、一体ではある。しかし、即非ではない。
 だから、メディア・ポイントMedia Point(以降、MP)における差異即非イデアの変換として、極性と同一性構造の連続体が発生するということではないだろうか。
 極性と同一性構造の連続体とは、正に、現象体であり、人間の除いた生命体では、極性が優位で、同一性が劣位であるが、人間においては、逆転していると考えられる。
 言い換えると、人間以外の現象生命体は、基本的に、自我がなく、無意識である。そして、人間は、自我があり、有意識である。
 先に述べたことだが、自我、有意識の苦悩・苦痛から逃れようとして、動物や植物的極性に戻ろうとするのは、反動である。極性が優位、同一性が劣位の生活には、戻れないのである。それをするなら、白痴や狂気になるだろう。
 以上を整理すると、MPにおけるイデア的差異即非から、極性/同一性構造という現象連続体への不可逆的な転換があると言えよう。換言すると、イデアから心身二元論への不可逆的転換である。ここで生命体について言えば、極性/同一性構造が生命体であると考えられる。
 問題は人間の場合であり、差異の存在である。現象的連続体が形成されるが、では、差異は、そのときどうなるのか。
 その前に、差異と極性の関係を解明しないといけない。ここでは、作業仮説的に、差異(イデア)が、実数的MP即ち、実数的ゼロにおいて、極性に変換すると考えたい。つまり、不連続性から連続性の変換がイデアから極性への変容に生じているのである。(ついでながら、弁証法とは、極性と同一性構造との折衷的統合であると考えられる。)
 では、問題は差異(イデア)と極性/同一性構造との関係である。これは、MPの様相の問題である。これまで、私は、同一性が差異を否定・排除・隠蔽して、同一性自我を形成すると説いてきたが、そうすると、差異(イデア)が、現象性においても存するということになるのではないだろうか。これをどう考えるのか。
 確かに、MPにおいて、差異(イデア)は存するのである。ただし、虚数的MP、虚数軸においてである。
 先に、明日野氏によるオイラーの定理の微分が反時計回り1/4回転になるという発見について言及したが、そのとき、実数軸的MPと虚数軸的MPとが交替するのではと述べた。
 この交替説を取るならば、差異(イデア)が超越的に発動するときがあるだろう。そう、イデアとしての差異がMPにおいて、共鳴するのである(「聖霊」的エネルゲイア)。
 そして、この差異(イデア)の発動を同一性や連続性は否定すると言えよう。
 近代主義、近代合理主義とは、この差異(イデア)、「聖霊」的エネルゲイアの否定であったと言えよう。
 そうすると、人間も他の生命体の場合も、差異(イデア)が発動するのではないだろうか。そう、動物や植物は、連続性があっても、同一性は劣位であるから、人間のように、差異(イデア)を否定しないだろう。つまり、動物や植物はイデア界に触れていると言えるのではないだろうか。イデア界の波動をもっているのではないだろうか。
 人間の場合、連続性や同一性から、差異(イデア)を否定するのである。ここに人間の悪(自我=悪魔・悪霊)が生じるのである。
 人間は、差異(イデア)を否定したいのである。しかしながら、差異(イデア)は反復するので、正直な人は、差異(イデア)を肯定するようになると考えられるのである。もっとも、極性/同一性構造との調和に苦しむことになると考えられるのであるが。
 宗教の創始者は、差異(イデア)を「神」、「神霊」として捉えたと考えられる。
 ということで、MPの視点から、差異と極性/同一性構造との関係の説明を試みた。

2007年07月16日 (09:00)

極性と構造:極性と同一性構造の併存としての現象界とPS理論的脱連続現象化

PS理論的生命論の構築のためには、当然、基礎論が重要である。今の予想では、メディア・ポイントMedia Point(以降、MP)の様相に基礎があると考えられるのである。
 今、簡単に問題点をあげると、極性と同一性構造との関係である。生命現象であれ、物質現象であれ、極性が支配していると言えよう。磁気はN極とS極の極性があり、電子は+と−の極性がある。(重力をどう見たらをいいのだろうか。思うに、作用と反作用との極性があると見ることができるのではないだろうか。)
 PS理論において、イデア界は差異即非共振性をもっている。これは、広義において、極性と言えるだろう。
 では、問題は、同一性構造である。ないし、二項対立構造である。(弁証法とは、極性と同一性構造との折衷理論と考えられる。)
 まとめると、極性と同一性構造との関係の様相が根本的に重要と考えられるのである。これは、端的に、MPの様態の問題と換言できよう。
 つまり、極性現象と同一性現象との併存が現象化には生起しているとということではないだろうか。前者は⇒+1で、後者が⇒-1ではないだろうか。
 つまり、MPは、現象化において、極性と同一性とを発現させるということである。これは、ガウス平面での虚数軸の様相と実数軸の様相(実際は、無理数があるので、複雑であるが、ここでは、簡易化する)として、把捉できるように思う。
 つまり、MPは、虚数軸性=極性性と実数軸性=同一性性とを並存的に、現象化させるということになろう。言い換えると、差異と同一性との併存現象である。さらに言い換えると、即非論理と同一性論理の併存であろう。
 ここで、生命論を考えると、生命も、両者の併存現象と言えるだろう。しかしながら、人間の除いて、一般に生命は、前者が主であり、後者が従であるのではないだろうか。具体的に言えば、食という行為は、明らかに、同一性論理であり、他者を否定して、自己の食料とするのである。つまり、他者の殺戮がここにはあるのである。しかしながら、人間の除いた生物、特に、動物は、食が満たされれば、共存的になる。もっとも、サルのようにヒエラルキーを形成する場合もあるが。端的に、人間ほど、残忍で殺戮的ではない。
 人間の場合、明らかに、同一性論理、同一性構造論理が強化されているのである。大脳の発達と関係しているだろう。自我の発達である。これは、他の動物には、ほとんど見られないと言えよう。
 つまり、人間の場合、極性/差異論理を否定して、同一性構造論理を中心化しているということである。これは、アリストテレス哲学に発現していると言えよう。同一性合理主義(同一性ロゴス主義ないし、同一性理性主義)と言ってもいいだろう。
 生命論に戻ると、結局、生命現象も、本来は、極性優位で、同一性は劣位であったが、人間の場合は、逆転していると考えられる。
 結局、これは、知(叡知)と認識に関わると言えよう。他者を主体が同一性化することは、主体的知の第一歩であろう。例えば、眼前に動く対象は、猪であり、それは、食料にできるという認識である。あるいは、この穀物は、実をつけ、食料化できるのであり、それを、対象化して、穀物の栽培という農業へと展開できるのである。
 これは、数化や言語化と関係していると言えよう。これが、同一性構造論理化と言えよう。数/言語化と呼んでおこう(もっとも、数と言語の関係は別に検討する必要があるが、ここで、知化の基礎として、同列化しておく)。
 とまれ、極性(差異)と同一性の併存とその優劣については、これで充分だろう。
 生命論から言うと、細胞膜や液体や個体性が重要である。つまり、単体性の問題である。勿論、集合性ないし社会性の問題も関係するが、先ず、単体・個体がなければならないだろう。主体と客体との境界がなければならないのである。
 境界とは、PS理論では、メディア領域である。これは、思うに、生命体(生体)は、メディア領域を、取り込み、また、同時に、境界(例えば、細胞膜や皮膚)とすると思われるのである。
 メディア領域とは、例えば、差異と同一性との境界であり、差異と差異との境界、同一性と同一性との境界等と考えられよう。
 ここで、整理しよう。イデア即非差異があり、それが、MPの回転によって、極性と同一性の併存的現象化を生起させるとしよう。
 ならば、極性と同一性の併存的現象と境界や個体との関係が問題である。ここでは、作業仮説的に、形相としてのiが形態を発生させるとしよう。そして、質料としての-iは、個体化すると言えよう。これで、個体化の説明はつくが、問題は、境界性である。細胞膜は、細胞という個体を閉じるものであるが、同時に、体液等を浸透させる境界である。これは、差異ないし極性から来ていると思える。
 だから、まとめると、極性と同一性との結合として、個体が発生すると言えよう。これで、生命のアウトラインができた。そして、人間と他の生命体の違いは、上記した通りである。
 ここで、PS理論ないし即非論理を考えると、これは、同一性論理を超越した論理であり、それは、同一性論理を超えて、極性へと回帰していると言えよう。しかしながら、単純な極性論理でなく、同一性論理を経ているので、いわば、螺旋的回帰である。この点を見間違わないようにしないといけない。
 だから、対極性(太極)と即非論理は一見に似ているが、異なるのである。確かに、即非論理は、一種先祖返りであるが、それは、同一性を超越した点で「先祖」とは異なっているのである。とまれ、PS理論は、新東洋原理と言えるだろう。
 ここで、以上の検討の視点から現代を見ると、近代主義によって、同一性へと恐ろしく傾斜した社会、世界となっている。しかし、単に、極性(対極性)への回帰では反動である。つまり、極性と同一性の連続性という現象性から脱却していないのである。問題は、不連続化によって、差異を同一性から分離することで、イデアを掬い上げることである。
 極性と同一性との連続的混淆が、ポスト・モダンであったと言えるだろう。問題は、差異へ、超越的差異へと超越・超出することなのである。即ち、トランス・モダン化である。
 格差社会というものも、資本の同一性からの結果である。資本の差異化、差異共振化によって、格差主義が解消されるだろう。差異共振化の知によって、資本は同一性による排他性から脱却できるのである。

2007年07月14日 (15:32)

PS理論から生命体を考える:試論1:精神と物質

以下は、ゲノムについて簡単に図解してある。

さて、思うに、PS理論から見ると、メディア・ポイントMedia Pointにおける「生命」(=心物)の生成の形式が考えられる。それは、i*(-i)が根源情報であり、それが、現象化によって、思うに、±1化する。つまり、i*(-i)⇒±1である。
 丁寧に考えよう。-1は、純粋同一性化であり、差異が排除・隠蔽されている。確かに、単純な生命体は、これで説明できるかもしれない。物質化とは、(-i)^2で説明できるかもしれない。
 そして、+1が、人間生命体のエンテレケイアを意味するように思える。ここで、差異は、顕在しているのである。差異を認識した同一性である。
 ここで、物質的生命体を考えると、差異がゲノムないし遺伝情報ではないだろうか。これが、潜在ないし顕在する様態で、物質化がなされ、この物質体が、ゲノムないし遺伝情報を核内に内包すると考えられる。つまり、差異がゲノムないし遺伝情報として、物質的に内包されているのである。換言すると、イデア即ち i*(-i)が内包されるのである。
 この点は、微妙である。イデア的情報と物質的情報との対応がなければならないだろう。
 イデア的情報は、即非共振情報である。これを物質化するとき、A, G, C, Tの4つの塩基による対結合という極性を活用しているのではないのか。
 つまり、即非性が二元性に転換されているのである。つまり、イデア的即非論理から、物質的構造論理へと転換されているということではないだろうか。これは、物質的生命体については、考えられるだろう。
 問題は、差異ないしイデア的情報が、どう、知的生命体に内包されるのかである。言い換えると、知的生命体における心や知の問題である。
 i*-(-i)の場合は、同一性知が生まれる。これは、物質的生命体的にどういうことなのだろうか。これは、物質的生命体の同一性感覚・知覚ではないだろうか。そして、単純な生命体は、このレベルである。
 では、差異的同一性である+1の場合は、物質的生命体的には、どうなのか。自己と他者とが即非的に共振しているのである。これは、物質的生命体的には何か。
 端的に、これは、物質的生命体的には、『無』に近いのではないだろうか。というのは、精神がここでは、現象しているのであるから。つまり、虚数的超越性が、感知されているのである。「神」の発生と言ってもいいだろう。「叡知」の発生とも言えよう。いわば、超物質的認識ないし霊的認識の発生があるのである。
 物質的生命体は、実数的MPの構造で決定されるとすると、差異的同一性とは、この構造を超えたものである。虚数的MPに関係しているのである。そう、超構造的なのである。
 では、この精神の超構造性と物質(心身)の構造性はどう関係するのか。
 直観で言えば、精神的超構造性は、イデアに関わるので、創造的であり、知恵を生みだす。つまり、生き延びる可能性が強いのである。
 また、精神の超構造性とは、根源的エネルギーであるから、心身を強化する可能性が強いと思うのである。スピノザ哲学的な能動的観念である。
 つまり、進化する可能性を、精神的超構造性はもっていることになろう。それに対して、物質的構造性は、同一性の反復に終始して、退化的である。
 今は、ここで留めたい。
 
ゲノムって何?生きものの基本情報
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~kato/atgenome/cont02/index.html



2007年07月13日 (12:42)

メディア・ポイントMedia Pointの様相について

明日野氏が、オイラーの定理の微分が、時計と反対回りの1/4回転を意味することを発見したことの意味は大きい。
 私は、以前から、メディア・ポイントMedia Point(以下、MP)の回転が、現象界を形成すると予想してきたからである。
 例えば、ヨガ理論で、クンダリニー(エネルギー)が三回転半を意味するというのが、このことと関係していると推察できるのである。ここでは、今、簡単に予見を書いてみたい。
 とまれ、作業仮説として、MPの回転が現象化を意味するとしよう。おそらく、この回転、つまり1/4回転の倍数が、不連続な様相をもたらすのではないだろうか。だからこそ、MPを直観的に捉えようとすると、困難さに囚われるのではないだろうか。
 ここで、一回微分=1/4回転(反時計回り)を考えよう。これは、端的に、物質化だと考えられる。このときは、MPは、実数軸的であり、-1へと展開しているとしよう。
 このとき、虚数性は喪失されているのである。だから、MPにおいて、虚数的超越性は閉鎖されているのではないだろうか。だから、ここでは、イデア界を認識することは不可能である。物質的現象界に閉塞されているのである(参考:近代)。
 しかしながら、ここでは、推量であるが、さらに、1/4回転すると(2/4回転)、虚数軸へと回帰するのである。
 つまり、MPが虚数性を帯びるのである。ということで、推測するに、実数的MPと虚数的MPが両端となり、実数的物質界と虚数的イデア界とが、交替するのかもしれない。
 問題は、その中間の、複素数的世界があるのかということである。数学的には、当然存在しているが、実際はどうなのかである。
 思うに、回転から見ると、複素数的世界があるように思えるのである。その両端が虚数的MPと実数的MPであるように思えるのである。
 この複素数的世界が、虚数と実数との即非的融合の世界ではないだろうか。
 この複素数的世界の回転が、世界、宇宙を動かしているようにも思える。世界や宇宙には、サイクルがあるのだと思う。この点については、後で検討したい。
 ところで、私は、ここでは詳述しないが、キリスト教に象徴される世界サイクルがあり、それが、今や、終焉に近づいたと思えるのである。そう、占星術的時代サイクルの考え方は、ある意味で正しいと思われるのである。【水瓶座(宝瓶宮Aquarius)♒とは、調和の時代を意味している。波動共振を意味しているのである。また、キリスト教の時代は、魚座(双魚宮)♓の時代であり、二元論である。】

2007年07月13日 (09:34)

性sexとは何か:視覚と共振性と触覚:視触覚としての性

性とは何か、考えたい。
 これは、根源的には、イデアの差異に拠ると思われる。iが男性ならば、-iが女性である。このような二元性は、もう済んでいることである。
 私が問題にしたいのは、経験論的な性である。iが視覚なら、-iは触覚であり、後者が単純に見ると、性になるだろう。しかし、それは、単純過ぎよう。
 性には、明らかに、差異が必要である。同性愛の問題があるが、私見では、同性愛も異性愛の変異であるので、ここでは、異性愛を見ると、明らかに、差異がなければ、異性愛は成立しない。もっとも、ここでは、異性愛というより、性を問題にしているのではあるが。
 とは言え、やはり、性は、単に、触覚の問題ではないと思う。ここで、谷崎の名作『春琴抄』を想起するが、しかし、盲目であっても、盲目の世界の中で、他者(性的他者)を、触覚的に認識しているのではないのか。つまり、触覚的視覚(触視覚としよう)があるのではないだろうか。
 触視覚こそ、性の基盤ではないだろうか。というか、触視覚が性へとある意味で特化されていると思う。だから、性とは、触視覚と言えそうである。そうだからこそ、性は、差異であり、同一性化することはないのである。他者と同一性化したとき、そこには、性はない。
 エロティシズムは、だから、差異であると言えよう。だから、倫理に似ているのである。カント哲学は、最高度にエロティックであると言えよう。プラトン哲学のエロースは、正に、天使的エロティシズムである。
 ここで、官能性とエロティシズムを区別しないといけない。官能性は、肉体の生殖のための構造から来ているのではないかと思う。若い女性の裸体を見て、性欲をそそられるのは、それは、まったく生殖構造から来ていると思う。
 エロティシズムとは、本来、異なるのである。今日、両者が混同されているだろう。
 そう、バタイユが、エロチシズムとは、死に至るまでの生の歓喜であると言ったが、それはどうだろう。それは、性欲的発想だろう。それは、エロティズムではないと思う。
 視触覚的差異、これが性であり、エロティシズムであると思う。
 では、タイトルに出した共振性との関係はどうなるのだろうか。もう、簡単である。共振性が性であり、エロティズムである。
 そう、エネルギーを共振性とするなら、自然は、実に、性的であり、エロティシズムに満ちたものである。そして、相対性理論や量子力学も性的であり、エロティズム的である。
 思えば、性という字は、自然性を意味しているのだ。自然(じねん)でもあり、古代ギリシアのフュシスに近いだろう。弁証法は、反エロティズムである。対極性、即非性は、エロティズムである。仏教や東洋思想がエロティズム的なのは、必然的である。

2007年07月13日 (09:26)

日本人を抑止している近代主義ないし構造主義:ポスト・モダンは構造主義の展開に過ぎなかった

ほとんど既述のことであるが、近代主義ないし構造主義から脱しないといけない。ポスト・モダン、とりわけ、「ポスト構造主義」は、構造主義の展開に過ぎなかった。デリダやドゥルーズ哲学とは、完全な構造主義哲学である。
 プラトニック・シナジー理論は、構造主義の閉塞からの脱却を説いているのである。
 現代日本人の意識は、近代主義ないし構造主義的である。実数的超越性にしろ、虚数的超越性にしろ、超越性を喪失しているのである。微分的思考に留まっているのである。脱微分的思考が必要である。おそらく、日本文化のもつ内在性が、縛りになっているのである。
 超越性の思考をもたないといけない。ハイデガーやドゥルーズ/デリダの構造的哲学から脱却しないといけない。彼らは、近代主義の罠である。近代主義の悪魔的理論である。ニーチェやフッサールの開いた超越性への出口(「門」)を閉ざしてしまったのである。
 さて、超越的差異論であるが、それは、天使論に通じると思われる。問題は、身体性である。天使に身体があるのか。言い換えると、超越的差異に身体性はあるのか、である。
 肉体はないのは、当然であるが、身体性の有無である。結局、メディア・ポイントMPの問題である。MPに、身体性があるのか、どうかである。MPは、言わば、霊と知の交叉するポイントである。
 では、身体性との関係はどうなのか。これは、心身問題でもある。結局、身体をどう考えるのかであろう。i*(-i)⇒+1の左辺は、形相と質料の即非と見ることができる。だから、MPにも、一種身体性はあると言えよう。しかし、それは、原身体性と言うべきものだろう。
 ということで、天使には、原身体性があると言えよう。『光』の身体性とも言えよう。
 今は、ここで、留めたい。

2007年07月12日 (14:50)

この国のパラサイトな権力層の悪人の「知」の分析

先に、パラサイトな権力層の心理分析したが、なぜ、彼らは、一種読心術・透視術をもっているのか、あるいは、どうして、人を騙せるのか、考えたい。
 思うに、彼らは、一種二重人格なのである。表面的には、善人ぶっているジキルであり、また、本人も、そうだと思い込み、自惚れているだろう。
 しかし、そのジキルと、言わば、一如(いちにょ)となったハイドが存しているのである。これは、本来、ジキルの同一性から否定された差異であるべきものであるが、否定態となっているために、影・シャドウになっているのである。
 そう、これこそが、本来の善が生まれる基盤であるが、それが、否定態となり、悪となっているのである。
 つまり、パラサイトな悪人どもは、単に、同一性に優れているだけでなく、本来、差異をもっていたが、それが、育ちや環境等を通して、歪み、否定態となってしまっているのである。
 一種、トラウマによって、差異が差異として、発展させずに、否定態として、彼らには、存しているのである。ここに、彼らの、悪の根源があると言えよう。
 この否定態の差異は、否定態ではあっても、もともと、差異であるから、自己と他者を切り離して、他者を観察するのである。これが、彼らの読心術・透視術の根拠ではないだろうか。やはり、堕天使・悪魔ルシファーである。差異が、歪み、捩れて、悪用されるのである。
 だから、彼らは、平々凡々の国民よりは、一種、優れているのである。とても、危険な存在である。普通の国民は知的には、かなわないだろう。
 だから、国民には、知的守護神が必要である。本来、知識人がその役割をすべきなのであるが、知識人自身が、悪魔の手先になっているのである。
 とまれ、以上から、パラサイトな悪人の「知」をこれで分析したこととしよう。先の心理分析よりも、よくなっているのだろう。

2007年07月11日 (16:18)

日本国のパラサイト群=癌細胞である政官財の悪徳権力家の心理について:または、権力亡者心理分析

日本国を食い物にしているパラサイトな権力亡者たち。
参考:『きっこの日記』:「国による大犯罪の告発!」
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20070711
私は、彼らは、同質の心理ないし性格をもっていると感じるのである。というか、悪人特有の心理があると思うのである。ということで、それを分析したい。権力的悪人心理分析。
 端的に、彼らは、腹黒いのである。表面を飾るのが巧みである。そう、彼らは、一種すぐれた読心術や透視能力をもっている。人心を読むのが巧みなのである。お人よしの日本国民はいいカモである。これは、支配者の能力である。西洋人が、非西洋人を、過去、現在、支配してきたのは、この能力があるからである。
 神話でいうと、堕天使ルシファーであろう。神に近いものでありながら、傲慢で天から落とされて、悪魔になったのである。
 そう、彼らは、人心を読み、騙して、略奪することにたけているのである。つまり、国民のためを装って、自らの物質的権力欲望の満たすため、国民を騙すのである。
 そう、彼らは、「エリート」である。国民より、自分たちの方が、優秀だと思っているのであり、自分たちが、権力によって、私利私欲を満足させるのは当然と思っているのである。だから、年金にしろ、政治資金にしろ、偽装問題にしろ出て来るのである。
 傲慢さがあるのは、当然であるし、また、私がこれまで、解明してきた近代的自我をもった人間どもである。ニーチェで言えば、ルサンチマン(怨恨)をもった者どもである。自分は、才能があるのに、その対価を得ていないという不満をもっているのである。
 そう、同一性能力に秀でているのであり、これは、認めるべきである。ただ、彼らには、非凡なものとなるための差異が根本的に欠落しているのである。だから、優秀な凡人的悪人なのである。
 日本国民は、一般に、騙されやすいタイプである。人を疑うことをあまりしない、というか、物事を深く考えないタイプである。批判的知性が欠落した国民である。だから、パラサイトな悪人どもは、易々と、騙せるのである。国民が物事を皮相に捉えるので、権力亡者どもは、皮相を取り繕うのである。
 国民が、批判知性の訓練を受けていないから、易々と、表面的に誤魔化せるのである。個として、差異として、特異性として、自己を捉える人ならば、権力亡者どもは、直観的にわかるものである。この隙をパラサイトな権力的悪人は、利用するのである。ある意味で、国民自身のツケ、自業自得性はあるが、しかし、知にたずさわる者が、批判知性を欠落させているので、国民だけを責めるわけにはいかない。
 彼らの同一性的悪賢さとまた、執念深さを忘れてはいけない。嫉み深いのである。隙あらば、人を、常に、貶めようとしているのである。憎悪の塊である。
 同一性に長けているので、言葉がうまいのである。騙しの才能の天性をもっているのである。羽賀研二のようなものである。
 結局、彼らを、権力の座から、外すためには、国民の英断が必要である。鬼は外である。

2007年07月10日 (19:20)

トランス・モダンの知と高度情報差異共振資本経済

なにか書こうという思いがあるが、それが、まとまらない。こういう状態は珍しい。普通、私は、イメージが浮かぶとそれに即して書くのであるが。
 下手な考え休むに似たりか。
私は、トランス・モダンの知のあり方を述べたいのであるが、それが、まとまらないのである。
 直観で言えば、トランス・モダンの知とは、差異共振性が作用した合理的な知性である。モダンの知とは、物質的合理