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2007年07月31日 (11:04)

私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。

以下、気になる事柄があるので、引用させていただく。日本左翼の問題点は、それなりに捉えていると思う。しかし、私が興味をもったのは、そのような左翼を支持する理論となったのが脱構築主義であるという点である。
 私はポスト・モダン哲学の再検討を行い、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学とデリダ哲学とを明確に区別しなくてはならないという考えに傾いている。私見では、ポスト・モダン哲学の本流は、デリダではなく、ドゥルーズ(&ガタリ)にあると思う。何故なら、デリダ哲学(脱構築主義)は、広義のポスト・モダン哲学に必要な超越性を否定していると考えられるからである。つまり、端的に言えば、デリダ哲学(脱構築理論)は、私の考えるポスト・モダン(=トランス・モダン)哲学からは外されるべきである。
 そのように考えて、日本左翼を見ると、確かに、かれらにとっては、ドゥルーズ哲学ないしポスト・モダン哲学よりは、デリダ哲学=脱構築主義の方がわかりやすいのではないだろうか。言葉は悪いが、デリダ哲学は、大御所の哲学に矛盾を見てイチャモンをつけて、それを引きずり下ろすのである。しかしながら、対象となる哲学の矛盾を乗り越えて、その哲学から創造するのではないのである。矛盾を生みだす原因を差延やエクリチュールに見ているのである。これは、自己の考えを対象に押しつけているのである。フッサール現象学に対するデリダの批判がそのようなものである。(私の言葉では、同一性パラドクス様相を差延とデリダは呼んでいると思う。)
 日本左翼は超越性を認めないから、確かに、超越性を否定するデリダ哲学には魅力を感じるだろう。そう、同一性パラドクス様相という近代主義/反近代主義の様相にあるので、スタンス的には合うと言えよう。つまり、日本左翼は、近代主義であったり、反近代主義であったり、都合よく揺れ動いているのである。これは、柄谷行人のスタンスでもある。そう見ると、確かに、脱構築主義は、日本左翼にとって、さらには、左翼にとっては、好都合な理論なのだろう。
 

「日本左翼特有の四畳半フォーク的な虚弱至上主義と無責任主義がある。誤解を恐れず敢えて言えば、日本の左翼は正義が嫌いであり、正義を正面から語り論ずるのが面倒で億劫で苦手である。正義的なもの、正論的なものに対して抗原抗体反応を起こすのが日本左翼の体質であり、そういう正義拒絶の遺伝子を払拭できない。だから本村洋のような正義の英雄が颯爽と登場したときは、本能的に拒絶反応を起こし、石を投げつけ、唾を吐きつけようとするのである。正義排斥の日本左翼は、社会を概念と理論で設計・構築しようとせず、薄暗く陰湿な裏部屋の擬似的共同体を生息環境とし、そこに逼塞して内側に呟きとスローガンを共鳴させる。だからブログ左翼には個性がない。名前と中身を入れ替えてもどれも同じだ。テーマも言葉も文章も全く同じ。正義や倫理、国家や組織、そうした問題に背を向けて、趣味的な小共同体レベルで自己満足に溺る傾向は、全共闘世代以降に支配的となった。それを合理化し補強したのが80年代に安輸入した脱構築主義で、現在の官僚世界(大学・官庁・法曹 )の主流である。」(赤色文字強調はrenshiによる)
http://critic3.exblog.jp/7040710#7040710_1
『山口母子殺害事件はなぜ高い関心を集めるのか - 正義と倫理』
世に倦む日日
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