2007年11月30日 (19:03)

四次元量子論から、PS理論的高次元量子論へ:実軸現象界からガウス平面五次元界へ

以下の量子論の解釈は、量子とは、粒子と波動とが相互変換するものということである。
 しかし、この解釈も奇妙ではないだろうか。そうならば、相互転換する仕組みはどうなのだろうか。やはり、同時二重性を認めるのが、整合的であると思えるのである。
 この問題は解明済みであるが、ミクロの世界に、Media Pointを見ることで解明されるのである。波動=振動とは、Media Pointにおける波動=振動であり、そこでは、いわば、超越波動(虚波動)と物質波動(実波動)とが即非的に併存しているのである。(おそらく、共振していると言うべきであろう。)
 粒子とは、物質波動における生成する同一性物質のことであろう。だから、量子とは、粒子であり、物質波動であり、且つ、超越波動(虚波動)なのである。一種三相共振態である。つまり、超越波動が根源にあり、Media Pointを介して、粒子と物質波動が同時生起するのではないだろうか。
 言い換えると、粒子は同一性であり、波動は二重なのである。思うに、Media Point波動ないしはMedia Point振動と呼べるだろう。すなわち、Media Point Wave(MP Wave)である。略して、MP波動(振動)と言おう。
 このMP波動が水平性と垂直性を共振させているのである。二重スリットの実験では、光子は一個であると同時に、MP波動が作用していると考えられるのである。
 以前にも述べたが、このMP波動(MP波動/粒子)が、いわゆる非局所的長距離相関を合理的に解明すると考えられるのである。すなわち、Media Pointの虚軸の方向に量子が作動しているということである。端的に、量子とは高次元体なのである。量子を単に実軸的四次元世界で考えると、非局所的長距離相関というパラドックスが生まれてしまうのである。
 リサ・ランドールによって、量子論は五次元・高次元へと今や進展したのである。それは、実軸原点という壁をブレークスルーしたと言えよう。トランス・モダン量子力学である。
 とまれ、後で、超越波動と物質波動との共振様相の実相について考察したい。

######以下引用・転載###########

 結論。
 以上のすべてをまとめて言えば、次のようになる。


 従来の学説は、量子を「粒子と波の双方の性質をもつもの」というふうに描写する。その際、基本としては、「量子は粒子である」と立場を取る。
 その結果、「一つの粒子が複数の状態をもつ」(一つの粒子の可能性が広く分布する)(重ね合わせ状態にある)という奇妙な表現を取るようになった。その奇妙さが、さまざまなパラドックスとして現れた。次のように。
  ・ シュレーディンガーの猫は、「生と死」という双方の状態にある。
  ・ 二重スリット実験では、一つの電子が二つのスリットを同時に通る。
 こういう奇妙な結論が出る。その理由は? 話の最初に、「波の性質をもつ粒子」というものを考えたからだ。
 だから、そういう根源的に矛盾した発想を、捨てればよい。かわりに、「粒子と波の相互転換」という発想を取ればよい。そうすれば、すべては整合的に理解される。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/quantum.htm

 量子論/量子力学 
 
        …… その最前線

*******************************

参考:

いま、この力学系には、A(の力学量)が値aを取ればB(の力学量)が値bを取り、A(の力学量)が値bを取ればB(の力学量)が値aを取という相関関係が与えられていたとする。例としては、第五章の「スピンと波動関数」 の項のスピン状態χ+(s, s')またはχ-(s, s')などがある。(簡単のために、これからは断りなしに「の力学量」および「値」という言葉を省略することもある。)この相関関係があるとき「Aがa、Bがb」および「Aがb、Bがa」という運動状態が同時に存在する。したがって、そのおのおのの波動関数を、それぞれ、Ψ1(Aがa、Bがb)とΨ2(Aがb、Bがa)と書くことにすれば、重ね合わせの原理により、この力学系の状態は

Ψ=Ψ1(Aがa、Bがb)+Ψ2(Aがb、Bがa)

でなければならない(Ψはプサイと読む)。この相関関係が成立した後、AとBを十分遠く(たとえば、宇宙の中で星間距離ほど遠く)引き離して、Aがいる場所でAの力学量の測定を行う。その結果、第一の場合として、A(の力学量)が(値)aを取ったことがわかれば、「波動関数の収縮」Ψ→Ψ1(Aがa、Bがb)が起きるはずだ。したがって、ただちにB(の力学量)が(値)bを持っていることを知る。第二の場合として、測定結果がA(の力学量)の値としてbを与えたとすれば、「波動関数の収縮」は、Ψ→Ψ2(Aがb、Bがa)であり、ただちにB(の力学量)が(値)aを取ることを知るわけだ。
 いずれの場合も、宇宙的距離ほど離れたBに情報が瞬時に(光の速度を超える速さで)伝わった! なんとも不思議である。これを非局所的長距離相関という。
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity316.html

●EPRパラドックス --- アインシュタインの嫌う非局所的長距離相関

近未来最先端軍事テクノロジーhttp://www.f5.dion.ne.jp/~mirage/hypams04/quantum_1.html
EPRパラドックスの検証
http://nucl.phys.s.u-tokyo.ac.jp/sakai_g/epr/

コペンハーゲン解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

コペンハーゲン解釈(コペンハーゲンかいしゃく)は、量子力学 の解釈 の一つである。量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ねあわせで表現される。このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈 し、観測すると観測値に対応する状態に変化する(波束 の収束 )と解釈する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88


参照:


+1は何も生まない。-1は豊穣である。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=610782

A-T,C-Gが対となった二重螺旋の意味

http://blog.kaisetsu.org/?eid=610784
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

2007年11月29日 (21:24)

検討問題:ソフィアと四大

1)Media Point、差異共振性の知恵とは、西洋文化においては、ソフィアと呼ばれたのではないのか。東洋では、般若(プラジュニャー)、智慧であろう。私の直感では、愛よりも、もっと深遠なものが、Media Pointだと思っている。計り知れない深みである。
http://www.hannyasingyo.info/yomu/1_2.html
http://homepage2.nifty.com/koizumi-8808/gogen/txt12.html
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/002.html


参考:

般若心経の「般若」というのは、サンスクリット語の「プラジュニャー」あるいは東南アジアに伝わった上座部仏教の聖典語であるパーリ語の「パンニャー」の
音写語だと言われています。

「プラジュニャー」は、「プラ」と「ジュニャー」から成っており、プラはおそらく「最高の・勝れた」という意味の形容詞「パラ」から来た接頭語で、
「前方に、甚だ、大いに、優れた」等を意味し、「ジュニャー」は「知る、察する、認識する」等の意味になります。

ジュニャー」はまさしく「知識」のことですから、「プラジュニャー」つまり「般若」は「大いなる知識」「最高の知識」ということになります。

http://singyou.kaya-475.com/030easoo/post_18.html
般若心経 「般若」:030般若心経 訳



2)Media Point に関連して、四大(地水火風)はどう表記できるのか。+iが火ならば、-iが水である。すると、地や風はどうなのか。思うに、+iを風と考えることもできる。すると、-1が地で、+1が火だろうか。
 後で検討したい。

2007年11月29日 (00:26)

三相共振経済:脱資本主義としての差異共振主義経済:試行錯誤

+iは形相・光、-iは質料・闇と作業仮説しよう。+i主導は同一性知性を生む。そして、-i主導は神秘主義を生む。(思うに、これまで、+iと-iを前提にMedia Pointを発生的に考えたが、逆に、最初に、Media Pointがあって、それから、±iの対が発生すると考えることもできるのではないだろうか。というか、三者が同時存在したと考えられるのではないか。三柱の神々。)
 とまれ、+i主導は形相の光を生む。そして、-i主導は質料の闇を生む。神秘主義は、後者の方向であるが、問題は単純ではない。近代においては、-i主導というのは、実は、先に述べたように、Media Pointが内包されていると考えられるのである。三島由紀夫の神秘主義は、Media Pointが内包されていると考えられるのである。彼の無は無だけではないのである。これは、D.H.ロレンスやシャガール他にもあてはまると考えられる。そう、垂直性、超越性が参入しているのである。
 ここで、再び、一体性を問題にしたい。反動としての-i主導は、確かに、同一性ないしは連続性を帯びている。だから、そのとき、一体性と言ったとき、身体・質料の同一性・連続性は入っているのであり、差異としての形相が喪失されているのである。シャガールの絵画における個別的像の輪郭のぼやけや、像の簡略化にそれが見られるだろう。それは、光の喪失であり、闇の侵入である。
 しかしながら、この反動的様態において、Media Pointが内包され、エネルゲイア化しているのである。同一性と差異が共振するのである。シャガールの絵画(たとえば、『おとずれ』:私はすばらしいと思ったが、絵はがき等はなかった。俗受けする絵のものが売られていた。))で、離れた者が、共振するのである。問題は、この共振性を一体性と呼ぶときのことである。反動的一体性があり、共振的一体性があるのではないのか。
 問題は、シャガールの絵画に感じる共振性の意味である。それは即非様態である。女性がベッドに横たわり、そこへ、花束をもった男性が宙に浮かんでやってくる。その女性と男性の間には共振性があるのであり、中間の色彩の多彩なグラデーションがその共振性の媒体となっている。
 思うに、一体性と呼ばない方がいいように思える。差異共振性である。それが適切であると思う。一体性と差異共振性は区別すべきである。
 一体性は、経済の場合、社会主義になるだろうし、政治では、全体主義になるだろう。
 そう、作家の場合、たとえば、宮沢賢治の場合も、銀河との一体性のようなものがあるだろうが、しかしながら、彼の場合も、差異共振性を見る必要があるのである。近代における良質な神秘主義は、そう考えるべきである。つまり、質料・身体的一体性という反動様態があるが、その中に、差異共振性が内包されているのである。いわば、悪魔の中に天使が存しているのである。
 ということで、一体性と差異共振性を区別できたことから、三相共振経済について考察しよう。
 先に、差異における社会主義を提示したのは、否定されなくてはならない。それは訂正である。社会主義は、反動である。
 やはり、差異、他者に対しては、差異共振化する経済でなくてはならないのである。思うに、たとえば、生産者と消費者との差異共振性があるということではないだろうか。偽装食品では、それはありえない。
 それも一面であるが、私は公共性を問題にしたいのである。公共性も差異共振的でなくてはならないだろう。民主主義的な平等ではなく、差異共振的公共性である。平等に道路やダムや建物を造っても負債漬けである。それは、同一性の発想に拠るのである。
 たとえば、ある農村で必要な差異共振的事業は何かと考えるべきであろう。農業を復興させるためには、村と農家との差異共振性がなくてはならないだろう。そのために、銀行やその他は、資金を提供すべきである。つまり、金融機関も差異共振的金融機関になる必要があるのである。
 資本は差異共振性を物質的に支える手段となるだろう。資本は差異共振性が主であるのに対して、従となるだろう。差異共振価値が主だえり、資本が従である。差異共振主資本従である。差異共振を略して、差共とすれば、差共主資本従である。 
 簡単であるが、この差異共振主義経済が、三相共振経済でないだろうか。つまり、同一性としての差異と他者としての差異が共振する経済であり、このとき、資本は、差異共振価値の金融的手段となるのである。とまれ、三相共振経済=差異共振経済=三相差異共振経済である。

2007年11月28日 (21:34)

検討問題:三相共振相について:メモ

この問題は、神社の三つ巴とも関係していると思っている。古事記の三柱の神々から発している問題なのであるが、三つ巴の形象が重要であると思っている。それは、ケルト紋様の三つ巴と共通であるからである。ここには、自然・宇宙の根源的な原理が形象化されていると思われるのである。そういう意味合いを含めて、本件について考察したいと思っているのである。
 問題は、-iの意味なのである。私はこれは、身体と考えていいと思っている。とにかく、そう作業仮説して検討したい。瞑想思考(直感思考)では、-iの思考とは、神秘思考ではないかと思えるのである。思うに、人類は、父権的宗教以前において、-iの神秘思考を行なっていたのではないだろうか。整理すると、父権的宗教以前、Media Pointを元神とする宗教、母権宗教があり、そこでは、+iと-iの二神が存していた。これが例えば、イザナミとイザナギの二神であろう。兄弟の神話、双子の神話はこれと関係するだろう。
 つまり、+iにおいては物質的現象を扱い、-iにおいては霊的現象を扱っていたのではないか。そして、両者を統合するものとして、Media Pointの元神(天之御中主神・天照大神)が存していたのではないか。因みに、空海の両界曼荼羅の思想は、これであろう。両界とは、Media Pointであろう。しかしながら、空海自身は明確にMedia Pointを理解していたか不明である。とまれ、空海の言葉である、五大に響きあり、の響きとは、Media Pointにおける虚エネルギーの振動と言えよう。
 思うに、+iは光であり、-iは闇ではないだろうか。白と黒と言ってもいい。闇はすべても結びつけている。そして、光はすべてを明瞭に表している。アポロとディオニュソスである。
 問題は両者が共振したときに、Media Pointが出現することである。どちらかに偏向・傾斜すれば、それは、→-1となるだろう。西欧近代とは、恐ろしい時代である。それは、+iへと傾いたのである。そして、(+i)^1→-1となったのであり、反動として、(-i)^2→-1となったのである。反動はロマン主義、神秘主義、オカルト主義である。
 今、ふと思ったが、+iが父で、-iが母ではないのか。それはそれ正しい。聖書の創世記の神霊は+iで、水が-iであろう。そう、水がポイントである。やはり、-iは闇で一体性ではないのか。言葉に困るのであるが、共感というときの一体性である。そう、原質料である。原質料的一体性である。
 とまれ、+iが火であり、光である。そして、火と水が共振して、Media Pointとなるのである。ダビデの星である。
 問題は、+iを光としたとき、Media Pointの共振による「光」はどうなるのか、である。それは、やはり、超越光であろう。そして、これは、いわば、二重光(光と闇)であるから、色の相補性が生まれるのであろう。
 ここで、三島文学について言うと、彼の神秘主義は、明らかに、-iの志向である。闇である。彼の表現では無である。これは、D.H.ロレンスの闇ないしはdark Godと同じだろう。
 さらに問題はイシスとオシリスである。そう、神話学の問題として、根源のMedia Pointと、+iと-iとが混同されることであろう。イシスは、Media Pointであるだろう。それが、オシリス(太陽)を生む。オシリスとイシスは一体であろう。つまり、イシスがMedia Pointであり、オシリスが現象の太陽だろう。これはそのまま、神道神話にもあてはまるだろう。天照大神がMedia Pointであり、日御子(天皇)が現象太陽である。
 初めの問いにもどろう。私が言いたかったのは、闇の思考があったのではないかということである。身体の思想である。しかし、この思考が中心化すると神秘主義になるのである。これが、三島由紀夫等の思想である。上記したことを訂正すると、+iは物質的ではなく、霊的であり、-iが物質的である。ただしく言えば、質料的である。
 だから、闇の思考とは、質料的思考である。質料的同一性と言ってもいいだろう。結局、霊的同一性と質料的同一性があるのである。近代主義は前者中心であり、反近代主義は後者である。とまれ、両者を光と闇と言っていいだろう。
 問題は近代において、二元論化して、Media Pointを含む三元性が喪失されたことである。同一性が霊性においても、物質性においても中心化しているのである。ポスト・モダンが差異と呼ぶものは、真正の差異というよりは、他の同一性のことであろう。
 私が言いたいのは、差異共振性=Media Pointの思考のことである。真正の差異の思考である。ここで、同一性による一体性と差異による一体性を区別しないといけないと感じている。前者は自我主導的な一体性であり、後者は共振的一体性である。自我主導となったとき、それは、-1になっているはずである。それは、+1ではない。
 共振的一体性とは、三相共振相ではないか。差異と差異が共振するのである。三つ巴であろう。私が言いたいことがじょじょに判明してきた。Media Point的共振一体性が、自我主導において、自我的一体化となるのである。少し飛躍するが、自我的同一性とは、実は、Media Pointにおける共振的一体性から発しているのではないかということである。言い換えると、Media Point自体が自我同一性へと変換しているのではないのか、ということである。
 今はざっと言うことにするが、この自我同一性ないしは自我一体性が、ハイデガーの存在や構造に当たるのではないだろうか。そして、ポスト・モダンは、この自我同一性内部における二元論的な力学に過ぎないのではないか。
 さて、三相共振相を共振的一体性と仮説して、経済のことに話を移すと、つまり、三相共振創造経済であるが、これは、共振的一体性経済と言い換えることができる。自我を包摂する自己があるが、これが他者と共振する様態の経済である。同一性の極があり、差異・他者の極があり、両者は共振的一体性を形成している。
 資本主義においては、共振的一体性が否定されて、もっぱら、同一性(自我)の極が中心化されているのである。つまり、自我同一性・一体性経済である。これは、他者破壊主義(弱肉強食)であるのは誰でもわかることである。
 それでは、共振的一体性経済は何か、ということになるのである。私は同一性は営利性であり、差異は公共性であると思う。そして、共振性は両者の調和である。だから、営利性の極と公共性の極と調和の極があるのである。そして、私見では、公共性は非営利主義にすべきであると考えるのである。つまり、営利と非営利の共振性である。
 これによって、共振的一体性経済が考えられるだろう。ただし、公共性に対して、公共投資ということをすべきではないのである。投資ではなく、事業である。公共事業である。
 今はここで留めたい。以上は試行錯誤であり、不十分である。

2007年11月28日 (21:30)

検討問題:三相共振相について:メモ

この問題は、神社の三つ巴とも関係していると思っている。古事記の三柱の神々から発している問題なのであるが、三つ巴の形象が重要であると思っている。それは、ケルト紋様の三つ巴と共通であるからである。ここには、自然・宇宙の根源的な原理が形象化されていると思われるのである。そういう意味合いを含めて、本件について考察したいと思っているのである。
 問題は、-iの意味なのである。私はこれは、身体と考えていいと思っている。とにかく、そう作業仮説して検討したい。瞑想思考(直感思考)では、-iの思考とは、神秘思考ではないかと思えるのである。思うに、人類は、父権的宗教以前において、-iの神秘思考を行なっていたのではないだろうか。整理すると、父権的宗教以前、Media Pointを元神とする宗教、母権宗教があり、そこでは、+iと-iの二神が存していた。これが例えば、イザナミとイザナギの二神であろう。兄弟の神話、双子の神話はこれと関係するだろう。
 つまり、+iにおいては物質的現象を扱い、-iにおいては霊的現象を扱っていたのではないか。そして、両者を統合するものとして、Media Pointの元神(天之御中主神・天照大神)が存していたのではないか。因みに、空海の両界曼荼羅の思想は、これであろう。両界とは、Media Pointであろう。しかしながら、空海自身は明確にMedia Pointを理解していたか不明である。とまれ、空海の言葉である、五大に響きあり、の響きとは、Media Pointにおける虚エネルギーの振動と言えよう。
 思うに、+iは光であり、-iは闇ではないだろうか。白と黒と言ってもいい。闇はすべても結びつけている。そして、光はすべてを明瞭に表している。アポロとディオニュソスである。
 問題は両者が共振したときに、Media Pointが出現することである。どちらかに偏向・傾斜すれば、それは、→-1となるだろう。西欧近代とは、恐ろしい時代である。それは、+iへと傾いたのである。そして、(+i)^1→-1となったのであり、反動として、(-i)^2→-1となったのである。反動はロマン主義、神秘主義、オカルト主義である。
 今、ふと思ったが、+iが父で、-iが母ではないのか。それはそれ正しい。聖書の創世記の神霊は+iで、水が-iであろう。そう、水がポイントである。やはり、-iは闇で一体性ではないのか。言葉に困るのであるが、共感というときの一体性である。そう、原質料である。原質料的一体性である。
 とまれ、+iが火であり、光である。そして、火と水が共振して、Media Pointとなるのである。ダビデの星である。
 問題は、+iを光としたとき、Media Pointの共振による「光」はどうなるのか、である。それは、やはり、超越光であろう。そして、これは、いわば、二重光(光と闇)であるから、色の相補性が生まれるのであろう。
 ここで、三島文学について言うと、彼の神秘主義は、明らかに、-iの志向である。闇である。彼の表現では無である。これは、D.H.ロレンスの闇ないしはdark Godと同じだろう。
 さらに問題はイシスとオシリスである。そう、神話学の問題として、根源のMedia Pointと、+iと-iとが混同されることであろう。イシスは、Media Pointであるだろう。それが、オシリス(太陽)を生む。オシリスとイシスは一体であろう。つまり、イシスがMedia Pointであり、オシリスが現象の太陽だろう。これはそのまま、神道神話にもあてはまるだろう。天照大神がMedia Pointであり、日御子(天皇)が現象太陽である。
 初めの問いにもどろう。私が言いたかったのは、闇の思考があったのではないかということである。身体の思想である。しかし、この思考が中心化すると神秘主義になるのである。これが、三島由紀夫等の思想である。上記したことを訂正すると、+iは物質的ではなく、霊的であり、-iが物質的である。ただしく言えば、質料的である。
 だから、闇の思考とは、質料的思考である。質料的同一性と言ってもいいだろう。結局、霊的同一性と質料的同一性があるのである。近代主義は前者中心であり、反近代主義は後者である。とまれ、両者を光と闇と言っていいだろう。
 問題は近代において、二元論化して、Media Pointを含む三元性が喪失されたことである。同一性が霊性においても、物質性においても中心化しているのである。ポスト・モダンが差異と呼ぶものは、真正の差異というよりは、他の同一性のことであろう。
 私が言いたいのは、差異共振性=Media Pointの思考のことである。真正の差異の思考である。ここで、同一性による一体性と差異による一体性を区別しないといけないと感じている。前者は自我主導的な一体性であり、後者は共振的一体性である。自我主導となったとき、それは、-1になっているはずである。それは、+1ではない。
 共振的一体性とは、三相共振相ではないか。差異と差異が共振するのである。三つ巴であろう。私が言いたいことがじょじょに判明してきた。Media Point的共振一体性が、自我主導において、自我的一体化となるのである。少し飛躍するが、自我的同一性とは、実は、Media Pointにおける共振的一体性から発しているのではないかということである。言い換えると、Media Point自体が自我同一性へと変換しているのではないのか、ということである。
 今はざっと言うことにするが、この自我同一性ないしは自我一体性が、ハイデガーの存在や構造に当たるのではないだろうか。そして、ポスト・モダンは、この自我同一性内部における二元論的な力学に過ぎないのではないか。
 さて、三相共振相を共振的一体性と仮説して、経済のことに話を移すと、つまり、三相共振創造経済であるが、これは、共振的一体性経済と言い換えることができる。自我を包摂する自己があるが、これが他者と共振する様態の経済である。同一性の極があり、差異・他者の極があり、両者は共振的一体性を形成している。
 資本主義においては、共振的一体性が否定されて、もっぱら、同一性(自我)の極が中心化されているのである。つまり、自我同一性・一体性経済である。これは、他者破壊主義(弱肉強食)であるのは誰でもわかることである。
 それでは、共振的一体性経済は何か、ということになるのである。私は同一性は営利性であり、差異は公共性であると思う。そして、共振性は両者の調和である。だから、営利性の極と公共性の極と調和の極があるのである。そして、私見では、公共性は非営利主義にすべきであると考えるのである。つまり、営利と非営利の共振性である。
 これによって、共振的一体性経済が考えられるだろう。ただし、公共性に対して、公共投資ということをすべきではないのである。投資ではなく、事業である。公共事業である。
 今はここで留めたい。以上は試行錯誤であり、不十分である。

2007年11月27日 (23:06)

三島文学と差異共振性:トランス・モダンへの萌芽

三島由紀夫文学であるが、彼の文学は、基本的には、-i→+iの文学である。そして、その反近代主義、身体・神秘主義には、差異共振性=Media Pointが内包されていたというのが私の考えである。ハイデガーを超えていたのである。大江健三郎は三島を批判するが、それは狭量である。大江自身に本来差異共振性があったが、それが、戦後民主主義や近代合理主義で、弱化されてしまい、枯渇してしまったと思っている。ほとんどの日本人は、三島文学のもっているトランス・モダン性が理解できていないのである。

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昨日は三島由紀夫没後37周年と言う事で、豊島公会堂で開かれた憂国忌に行って来ました。37年も経つと中年以上の人しか三島由紀夫の生前の姿を知らない。私は三島由紀夫の講演会などで生の姿を知っていますが、まさに文化人のスーパースターであり女性ファンも多かった。

私もミーハー的なファンであり小説には読んでもなじめなかったが、政治的なエッセイなどは読みあさった。戦後の日本は文化人と言えばリベラル左翼の代名詞であり、右翼とか民族派というと暴力団的なイメージが付けられてしまっていた。その中で三島由紀夫と石原慎太郎は異彩を放っていたのですが、現在には彼らのような若手の文化人のスーパースターがいない。

70年安保ぐらいまでは大学でも学生運動が盛んでしたが、現在の大学は政治的学生運動はほとんど無いといっていい。それくらい現代の若者はすっかりノンポリ化してしまって政治的講演会があっても若い学生を見かけることはまれだ。それくらい政治思想には無関心であり、戦後マスコミと教育ですっかりノンポリに洗脳されてしまったのだ。

「株式日記」はその名のごとく経済ブログなのですが、最近では政治ブログ化している。三島由紀夫が生きていたらどんなブログを書いただろうか? 自分で言うのもなんですが三島由紀夫の魂が乗り移って書いているのだろうか? 檄文などを読んでもらえば分かるとおり、60年以上たった現在も実質的にアメリカ軍に占領された状態は続いている。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20071126
株式日記と経済展望

2007年11月26日 (16:20)

-i→+iの意味について:三相共時様態と二元論的連続的混淆様態

差異共振性(Media Point)の発見の体験から、本件について考えたい。+i→-iはよく理解できるのであるが、-i→+iが今一つ不明瞭である。もっとも、先に、神秘主義又は身体的性向であると言ったが。
 結局、共時的三相構造(同一性ーMedia Pointー差異)が作用しているのであるが、同一性に対して、いわば、反動的に、差異が発動する。このときは、神秘主義、又は、身体的になる。しかしながら、同時に、Media Pointが作用しているのである。つまり、同一性(近代的自我、近代合理主義)と差異(神秘主義、身体性)と差異共振性(Media Point、差異共同体)が同時に作用しているが、同一性の支配下では、これらが混濁・混線している。言い換えると、連続化されているのである。ドゥルーズ&ガタリのカオスモス様態であるこの混濁・混線である連続的混淆様態とは、二元論的様態(二項対立様態)と言えよう。この二元性とは、同一性と差異との二元論(二項対立)である。だから、この二元論的様態にあるとき、第三の様態である差異共振性(Media Point)を純粋に認知できないと言えるのである。
 少し整理して簡潔に言うと、二元論的様態を固定したものが構造主義であり、そして、二元論的連続的混淆様態がポスト・モダンであるといえよう。 ドゥルーズの差異、デリダの差延がそれである。【ただし、ドゥルーズの場合、おそらく、差異共振性を二元論的連続的混淆様態に引き込んでしまっているのである。特異性である差異共振性が、不誠実にも、二元論的連続的混淆における連続的差異へと還元されているのである。ドゥルーズの知に対する犯罪的な不誠実さがあるのである。そして、デリダの場合は、超越性を否定して(『声と現象』におけるフッサール批判を参照)、単純な二元論的連続的混淆様態において、対極的ゆらぎの空疎な遊戯を行なっていたのである。】
 結局、実際においては、三相共時様態であるのに、同一性と差異との二元論が主導・支配的であるために、第三の様態の差異共振性が認識できないということであるが、この事態はとりわけ、西洋文化において、当てはまるということになる。東洋文化は、第三の様態である差異共振性を追求・探求してきたのである。ヨガにしろ、禅にしろ、そうであると言えるのである。また、神道は明らかに、第三の様態を根本・中心的神としてきたのである。大神道と言うべきである。本来は、第三の様態が第一の様態・原様態であるが。因みに、鈴木大拙の即非論とは、禅と大神道との融合と言えるかもしれない。東洋・日本文化の結晶である。(もっとも、西洋文化においても例外者がいて、第三の様態を志向した者たちがいる。例えば、ヘルダーリン、ウスペンスキー、D.H.ロレンス、他である。イタリア・ルネサンスは実は、第三の様態から発動していたと私は考えている。そう言うならば、古代ギリシアもそうであるが、父権的一元性との混淆様態である。古代ギリシアの古典主義=線型科学がそれを物語るであろう。)
 結局、私の体験では、第三の様態への飛躍のスプリングボードは、差異の不連続化にあったのである(不連続的差異論の誕生)。確かに、心において、第三の様態は存していたのではあるが、混沌とした様態(カオスモス)にあったそれを明晰に知性化することができなかったのである。それまでは、それをコスモスと呼んだり、根源的自然と呼んだりしたのである。しかし、それらは、先に述べたように、-i→+iの様態が混淆した視点なのである。それは、身体・神秘主義的連続性を帯びているだろう。シャガールの絵画空間がそうである。だから、一体性が生まれるのである。D.H.ロレンスは、「我々はコスモスと一体である」と言ったが、正にそれである。しかし、先にも述べたが、それは、差異共振性から発動していると見るべきなのである。だから、シャガールの最良の絵画には、それが表現されているのである。
 以上の検討から、本件の問題が解明されたであろう。やはり、先に述べたように、-i→+iとは、神秘主義・身体的志向性であるのであるが、「ポスト・モダン」の現代においては、それは、差異共振性=Media Pointの発動と混淆されているということである。だから、アイロニカルな没入が発現するのである。
 ここで視点を変えて、経済のことを考えると、社会主義とは、-i→+iの志向であったと言えよう。これは、全体主義に帰結するのである。+i→-iが資本主義であるとするなら、その逆の過程が社会主義であったのである。それは、身体的物質主義である。中沢新一の霊的唯物論とは、正に、これを意味するのである。思うに、ロシアにおいて、社会主義が発動したのは、ロシア文化のもつ-i→+iの神秘主義・身体的文化が原因ではないだろうか。ロシア文化は、コスモス文化である。それが、欧米文化の唯物論の影響を被り、社会主義革命が起きたと推論できるのである。(参照:ドストエフスキーの『悪霊』)
 最後に簡単に現代日本の政治経済を考えると、差異共振的自由主義=差異共振融合共同体経済(Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」)が方向性として、積極・前進的であると考えられるのである。新自由主義(自民党)と社会主義(民主党)の二元論はポスト・モダン的である。小沢一郎は、差異共振主義が根源にあると私は考えている。この差異共振主義を核として政治経済様態が発現されなくてはならない。大連立はその主要な手段であるが、悪くすると連続的混淆様態に過ぎなくなる。それは、現在の自民党や民主党の様態である。差異共振主義、差異共振共同体主義を旗幟鮮明にすべきであろう。

2007年11月25日 (20:11)

視(聴)覚と同一性と自我:近代的三位一体とMedia Pointの三元性(三柱の神々):神道復興

これらの構造、すなわち、同一性構造を解体する必要がある。資本主義は、この構造と一如(いちにょ)であると考えられる。
 欲望は、この構造に支配されているのである。たとえば、投機であるが、この同一性構造のもたらすものである。これは、自我拡大を意味する。同一性貨幣と自我が一体化していて、同一性貨幣の増加は、自我の欲望の拡大であり、自我強化につながる。これが投資欲望の意味である。
 ここには、差異が欠落しているのである。ただ、同一性中心主義があり、自我中心主義があるだけである。これは、精神の健康から言うと、病理的な様態である。私は狂気と呼ぶのであるが、狂気が近代/現代世界を支配しているのである。悪魔・悪霊と言ってもいい。つまり、今日の世界は地獄であるということである。悪魔・狂人が支配しているのであるから。さらには、愚人(痴愚者)がいるのである。だから、悪魔・狂人・愚人の地獄世界である。仏教で言えば、六道(ろくどう、りくどう)の三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)である。仏教は叡知学(ソフィオロジー)である。【この同一性中心主義ないしは同一性三位一体であるが、直感では、キリスト教三位一体から生まれたもののように思える。父が同一性の志向性(同一性エネルゲイア)であり、子はその物質的帰結(エンテレケイア)であり、聖霊は同一性感情・欲望ではないだろうか。】
 私が問題にしたいのは、同一性と感覚、とりわけ視覚ないしは視聴覚との関係の問題である。また、投資欲望が客観的にどういう事態を意味しているのかという問題である。
 一番目の問題を考察しよう。基本的には、同一性三位一体であるのだから、同一性と感覚は一体なのであるが、その構成の発生の仕組みを見たいのである。たとえば、花を見るとしよう。主体は+iであり、客体は-iである。「わたし」は「花」を見る。この場合、+iは知覚・認識機能であり、他者-i「花」を見るのであるが、-i「花」自体は見えないのである。+iの同一性知覚・認識作用によって、他者-i「花」を知覚・認識するのである。これは、(+i)* [-(-i)]である。つまり、(+i)^2=-1の同一性知覚・認識である。だから、知覚・認識された「花」とは、客体に存するというよりは、主体に存するのである。つまり、+iにおいて、「花」が存すると言えよう。
 ここでフッサール現象学を想起するのが妥当であろう。(あるいは、ソシュール言語学である。)+iはノエシスであり、(+i)^2=-1はノエマであろう。ここでは、他者-iを把捉・理解していはいないのである。ただ、他者に当たり、自己反射・自己投影しているのである。つまり、他者が鏡面になっているのである。言い換えると、己(おのれ)の影・映像・影像・射影を見ていると言えるだろう。「花」は己の内にあり、それを他者に投影しているということになるだろう。真の他者-iは無理解のままである。思うに、「花」であり、ノエマである(+i)^2=-1が感覚、この場合は視覚と言えるだろう。そして、これは、主体から発しているのであり、自我と一体である。というか、この視覚像と平行して、自我が形成されると言うのが正確だろう。結局、(+i)^2=- 1の累積・反復が同一性三位一体を形成すると言えよう。これは、また、パラノイアの形成でもあるのだが(私は近代的自我を狂気であると考えている)。
 この連続的同一性三位一体であるが、同一性欲望(聖霊)をもっている。ノエシス自体が同一性欲望であるとも言えよう。(思うに、ハイデガーの本来的存在とは、このノエシスのことではないのか。つまり、ノエシスを存在と言い換えただけではないのか。)そして、これは、食欲や性欲や物欲、さらには金銭欲と一致するだろう。【創世記で、アダムがイヴを知ったとあるが、この「知る」は性交するということである。これは、同一性の知を形成したということではないのか。アダムやイヴが互いを同一性欲望の対象としたということではないのか。知恵の木の実の知恵とは、同一性の知であり、差異の知ではないのではないのか。確かに、善悪二元論は同一性の知によるのである。権力的道徳は、同一性的知によると考えられるからである。とまれ、アダムとイブの形成した知恵とは同一性の知=同一性欲望であると言えよう。差異の知恵とは、永遠の生命の知恵であり、これを神はアダムとイブに禁じて、エデンの園から追放したのである。そして、永遠の生命へのわずかな手段として、イエス・キリストと聖霊を神は人間にもたらしたということになる。これは、人間の家畜化である。東洋思想は、永遠の生命へと達する方法を身体技法として開発したのである。たとえば、ヨガであり、瞑想である。これは、東方キリスト教のヘカシズムには残っていると言えよう。テオーシス・神化の思想である。考えると、神の行為は奇妙である。もし、人間が同一性の知を得たならば、それを補正するものとして、差異の知恵を形成する自主的方法を伝えるべきである。ただ、イエス・キリストと聖霊によるしかないというのは、洗脳以外のなにものでもないのではないか。この件は後で検討。】
 この同一性の志向性=同一性欲望は反復するとしよう。これは、(+i)^2kで表わせるだろう。同一性三位一体の反復である。以上は同一性と視覚の関係について考察したが、同一性と聴覚はどう関係するのか。これは、視覚とほぼ同様に説明できるだろう。ある客体である音を、同一性化するのであり、それを言語として、同一性の知とするのである。この問題はできれば後で詳述したい。
 さて、次に、投資欲望の意味について考察したい。これは、同一性価値である貨幣=金融資本を介しての、同一性価値の増殖意欲を意味する。同一性価値とは同一性欲望である。あるいは、同一性三位一体性である。同一性の主体(自我)にとって、これは、同一性の強度を拡大するものであり、当然、肯定されるのである。ここでは、他者-iは同一性権力のために利用・搾取される対象である。
 さて、このように考えてきて、私は、同一性三位一体が聖書ないしはユダヤ/キリスト教の本質と等価ではないかと思えてきたのである。キルケゴールのようにエイブラハムとイサクの話に特異性を見ることも可能であるが、全体としては、同一性中心主義の宗教・神話であると思うのである。思うに、私は以前、キリストと貨幣は同一であると考えたことがあるが、それは間違っていないのではないだろうか。同一性価値の物質化が貨幣であり、同一性衝動である父の物質化がイエス・キリストであるから、一致すると見ておかしくないだろう。この問題は後で再検討したい。
 ということで、投資欲望とは同一性三位一体のエネルギーによるものであり、これは、他者を結局破壊することになる。エントロピーの増加であり、熱死へと向かう。これは、自然が生んだ、いわば、鬼っ子である。悪魔である。
 しかしながら、自然は他方、差異共振性をも志向しているのである。これをどう考えるのか。自然は一方では、同一性へと志向する。これは、三次元空間ないしは四次元時空間の意味する。他方、差異共振性へと志向する。これは、四次元空間ないしは五次元時空間である。高次元空間である。そう、前者はマーヤー(幻象)であり、後者は本質・本体・本性である。
 西洋文明、正しくは、聖書文明は、前者に傾斜しているのであり、後者を否定・排除するのである。そして、ここに現代人類の超悲惨・超危機・超苦悩があるのである。現代人類は聖書西洋文明に洗脳されているので、差異共振性を忘却・亡失していているのである。あるいは、それを夢想・空想・幻想と思っているのである。
 ここで、自然のもつ差異共振性への発動について考えよう。近代合理主義が世界に広がったことからわかるように、それはある種の普遍性がある。しかるに、それは、本質の一面、表面、仮面である。(安部公房の『他人の顔』はそのパロディーであろう。)
 この差異の力学は端的にどういうものだろうか。Media Pointから同一性が現象するが、自然において、Media Pointは開いていると言えよう。ただし、同一性の感覚・知覚・認識によっては、Media Pointは把握できない。つまり、同一性認識にとっては、盲点となっているのである。思うに、前近代においては、人間は、Media Pointをなんらかの形で、直感していたと考えられる。民俗文化とはそういうものだろう。宗教・神話もそういうものだろう。
 しかし、近代化が進展すると、そういうMedia Pointの形象が失われる。それは、Media Point自体の差異共振エネルギーが弱化するからではないだろうか。同一性化へとエネルギーが向かうのである。自我・近代的自我・近代合理主義の形成の方向である。
 しかしながら、Media Point自体は無化されることはない。それが根源・源泉であるからである。ここで思考実験すると、Media Pointにおいて、双極的超越的差異が衝突する。そのとき、両者が反転する形が同一性の形成につながると言えよう。⇒-1である。しかし、両者が共振する形も当然あるのである。それが、⇒+1である。自然は、⇒±1を形成するのではないだろうか。しかし、聖書西洋文明は、⇒-1に傾斜して、⇒+1を徹底的に排除すると考えられる。これは、+iの同一性志向性に傾斜しているからである。
 思考実験を続けると、自然は、+iに傾斜したのであれば、当然、反作用として、-iに傾斜するはずである。同一性に対して、差異が賦活されると考えられるのである。しかしながら、単純に考えると、(-i)^2=-1となるのである。おそらく、これが、神秘主義、ロマン主義、オカルティズム、新興宗教、ポスト・モダン、ネオコン、ファンタジーの発生を意味するのではないだろうか。反近代合理主義である。身体主義でもある。思うに、これが現代の危機の一面でもあるだろう。つまり、反動化である。先に、私は同一性と差異との中間において、差異共振性が発生すると言ったが、正に、それは的確であると考えられる。
 では、差異共振性とは、発生力学としては、何を意味しているのか。ここで少し考え直そう。私は+iの傾斜があり、次に、-iの傾斜があると言ったが、そのような通時的な発想は間違いではないだろうか。双極的超越的差異の衝突があり、それは反転と共振の二つの様相、言わば、対様相をもつと考える方が的確なのではないだろうか。+iと-iの反転と共振の二種類の対であるから、双対性と言ってもいいのかもしれない。
 そうであれば、通時的な様相があるのではなく、共時・同時的な様相があることになる。つまり、同一性と差異と差異共振性の三相があることになる。これが正しいのではないだろうか。しかしながら、聖書西洋文明は、同一性に傾斜しているので、他者である差異、差異共振性を否定・排除・隠匿してしまうと考えられるのである。どうもこれが正しいようである。本来、人間の自己・魂・精神において、三相があるのであるが、聖書西洋文明の同一性中心主義によって、人類の基本的な三相バランスが破壊されて、精神病理状態になっていると考えられる。
 そして、ポスト・モダン理論は、同一性中心主義(デリダのロゴス中心主義)に対して、差異を提唱したのであるが、それは、反動であり、連続化された差異であったのである。フッサール現象学は、超越性までは達したが、同一性の方向しか捉えられなかったのである。(ハイデガー哲学は、超越性を否定して、同一性の志向性を存在と言い換えたのである。)
 ということで、Media Pointにおける共時・同時的三相形成を作業仮説として取ることにする。これは、思うに、古事記の三柱の神々を想起するのである。同一性が高御産巣日神(たかみむすひのかみ、高皇産霊神)、差異が神産巣日神(かみむすひのかみ、神産霊神)、差異共振性が天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)に相当するのではないだろうか。先に私は、いちおう、+iが高皇産霊神、-iを神産霊神、(+i)*(-i)を天之御中主神と考えたが、そう考えても、ほぼ同じであろう。この三柱の神々という観念こそ、至高の、もっとも崇高な観念であると言えよう。この三元的宗教・神話こそ、もっとも根本的であると言えよう。一神教とは、この三元的宗教・多神教から派生したものと考えることができよう。ヤハウェ(エホバ)とは、+iないしは同一性の神であると言えよう。この同一性の神が肥大化して、根源的三元神性を阻害していると言えよう。だから、三位一体とは誤りである。以前、述べたことがあるが、三位三体が正しい。
 神道がよみがえる必要がある。天照大神とは、天之御中主神に相当し、また、プラトニック・シナジー理論では、Media Pointの差異共振性に相当すると考えられるのである。思うに、女神、大女神(私は大母神ないしは原母神と呼びたい)は、ジェンダー的に、女性となっているが、これは、処女神と考えられる。これは、処女生殖との関係するだろう。そして、これは、森羅万象の根源・源泉を意味すると考えられるのである。そう、自然の根源・源泉、自然の穴である。天岩戸である。これは、火と水である。陰と陽である。ダビデの星である。おそらく、女性器とは、これを示唆しているのである。思うに、雌雄分離とは、Media Pointの三元性から二元性が分離したものではないだろうか。+と-の分離である。
 最後に、父権神話を考えよう。それは何であるのか。それは、同一性神話と言っていいだろう。あるいは、隠れ差異神話である。そして、同一性神話と差異神話とは反対で一致しているのである(1/2回転?)。これは二元論である。対極性である。しかし、本来的神話は、差異共振神話、三元論的神話である。古事記が正統なのである。古事記は超偉大な書物、超聖書、第三の聖書である。超福音書である。
 ということで、聖書西洋文明の乗り越えが必然なのである。新東洋文明の夜明けである。新たな太陽が昇るのである。今日は満月である。赤みを帯びたレモン色の真ん丸い月が東の空に上がっていた。
 

参考1:

最初の三柱の神々は記紀(古事記と日本書紀)では有名ですが、日本で広く信仰されている神様であるとは思わなかったからです。

しかし、最近になって、この三柱の神々に共通点があることに気が付きました。
それは、三柱とも、互いに解け合わない異世界との境界にたつ神なのです。

http://orchestra.musicinfo.co.jp/~kcpo/info/butterfly/J-God.html


参考2:
日本の伝説 神話記

 古来より神話に語られた伝説は古い日本語でした。語部(かたりべ:口話を伝える人)から語部に言い伝えられた言葉でしたが後世に中国から漢字が伝わり其の漢字を仮名文字で書き綴られて今日に伝えられて来たのです。
 古い話し方に字が当てられたので現代人には想像もつかぬ読み方が多くありますから読み仮名をつけておきましょう。
一、天地(あめつち)の創始

 吾々が住んで居る世界の始まりは何(ど)んな状態(ありさま)であったかと言うと、天地(あめつち)が未だ剖(わか)れる先ですから油の浮いた様に、又は鶏(とり)の卵の様に濁(にご)り混ぢったどろりどろりとした球(たま)の様な物なのです。それ等は宇宙の彼方此方(あなたこなた)の浮遊物やガスや塵(ちり)や埃が集まって出来かけた地球に成る卵の時代が長く続いた事です。

 その中に自然に萬物が出来る様な萌芽(めばえ)期に至り軽くて清い物は上に棚引いて大氣圏を造り重くて濁った物等は大球の中心点近くに滞(とどこお)って大地と成ったので有ります。軽い物は濁液球の上に浮き易く重い諸物は後に残るから天が先に出来、地が後から固まったのである。

 これが天地の創造で神話時代の神様や人間が出来たのはその後口では数え切れない程後の事なのです。
二、造化の三神

 天と地が出来様との宇宙活動と共に大自然と言う三つの神様が御発生(おでき)になったのです。

 第一番の神として 天津中主命(あめのみなかぬしのみこと)

 第二番の神は   高皇産靈命(たかみむすびのみこと)

 第三番の神は   神皇産靈命(かすみむすびのみこと)

 この三柱(みはしら)の神様は父もなく母もなく獨りで御発生になって今もずっと此の世に有らせられるが色もなく形もなく永遠にお姿を見る事の出来ない獨化(どくか)の三神と申し上げます。

 天津中主命はその御名の通りに天の眞中に唯一柱の大神(ひとはしらのおおかみ)で此の世界国土(地球天地・ちきゅうてんち)の創造神であらさられ、八百萬(やおよろず)の神々の一番最初の神様です。此の大神を輔(たす)けて萬物を作られたのが高皇産靈命、神皇産靈命です。

 この産靈(むすび)と言うは結ぶと言う事で、物と物が化合して新しい物質が産まれる事や何物と言えども一定の法則を持ち結合別離の法則に基づき引き合ったり反撥(はんぱつ)し合う天理(てんり・大自然のエネルギーとその法則) を神と唱えたのです。神その物は見えないがその働きの結果は誰にでも解かるのです。従って結ぶと言うことで物を作成すエネルギー生産性を意味するのです。

 其には殺伐とか残忍とかの何物も含まれない只慈悲深くて限りなき神と申す大自然の御徳(みとく)を広大無辺なるを仰ぐばかりで我等が日本はもとより全世界が永遠に発展を続ける眞理を即ち神と唱えた古代人の魂の現れです。

 此の三柱の神々を造化の三神と申し上げるのです。

http://www.kma.jp/kosino/omake/jindai1.html



参考3:
三貴子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

三貴子(みはしらのうずのみこ)とは記紀神話 で黄泉の国 から帰ってきたイザナギ が黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことである。三貴神(さんきし・さんきしん)とも呼ばれる。

* アマテラス - イザナギの左目から生まれたとされる女神。太陽神。
* ツクヨミ - イザナギの右目から生まれたとされる男神(女神とする説もある)。夜を統べる月神。
* スサノオ - イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B2%B4%E5%AD%90

2007年11月25日 (12:44)

小沢一郎の政治的知性の基盤はMedia Pointにあり、差異と同一性の両極性があるだろう

小沢一郎の政治的知性の基盤はMedia Pointにあり、差異と同一性の両極性があるだろう

テーマ:小沢一郎/民主党と日本の政治

小沢一郎は、その言動が読みにくい政治家と考えられているが、私はこれまで、二面性を説いてきたし、また最近、差異共振的自由主義(Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」)を志向している政治家ではないかと考えている。
 つまり、差異と同一性の関係だが、ポスト・モダンのように、差異が連続的差異ではなくて、差異共振性だと思われるのである。だから、小沢一郎の政治的知性は、基盤としてMedia Pointにあり、一方では、同一性に振れるし、他方では、差異に振れると思われるのである。前者は、二大政党制であるし、後者は大連立である。ただし、前者の場合は、近代合理主義が関与している。つまり、小沢一郎の内部で、明確に、Media Pointが意識されていないと思われるのである。同一性を差異共振性が包摂するというのではなく、連続化した同一性になっていると思われるのである。つまり、差異共振性と連続的同一性の矛盾が露呈することになると思われるのである。
 思うに、差異共振的政治理念が明確にならなくてはならない。差異共振制である。略して、差共主義である。


民主・小沢代表が謝罪行脚へ、辞任騒動の余波残る地方に

 自民党との連立政権構想を巡る辞任騒動で全国行脚を中断していた民主党の小沢代表が、25日から地方訪問を再開する。 (11月23日 22:01)[全文へ]

自民党との連立政権構想を巡る辞任騒動で全国行脚を中断していた民主党の小沢代表が、25日から地方訪問を再開する。

 早期の衆院解散・総選挙に備え、選挙態勢を整えるのが狙いだ。ただ、地方には辞任騒動の余波が残っており、当面は県連や連合など関係者への「謝罪行脚」を余儀なくされそうだ。

 小沢氏は25日に滋賀県、26日に長崎県を訪れ、それぞれの民主党県連のパーティーに出席する。滋賀では子育て中の女性のグループとの車座集会にも参加し、ひざ詰めで意見交換する予定だ。月末には新たな衆院選候補擁立のめどが立った愛媛県に入るほか、鹿児島、熊本、宮崎の各県など、民主党の支持基盤が弱いと言われ、候補者擁立が滞っていた地域に出向くことも検討している。

 12月15日の会期末をにらみ、国会の再延長をめぐる与野党の駆け引きが緊迫している中、小沢氏があえて地方行脚を再開する背景には、大連立構想に対する連合の動揺がある。小沢氏は19日夜、自動車総連の幹部と都内で会談し、辞任騒動を陳謝し、次期衆院選での協力を改めて要請したが、地方訪問でも同様に、労組関係者と直接会い、小沢氏への不信感を払しょくしたい考えがあるようだ。

 実際、小沢氏が大連立を模索したことに対し、連合の組織内からは「大連立のための2大政党を作ろうとして民主党の選挙を支えてきたわけではない」(幹部)と強い反発の声が上がった。20日の連合の三役会でも、高木剛会長が「大連立の話を聞き、反射的に『それはない』と思った。大連立には反対だ」と改めて強調、余波の大きさを印象づけた。

 小沢氏としても、連合は衆院選を戦う上で「欠くべからざる最大の戦力」(周辺)と位置づけており、早急に関係を修復する必要があると考えたと見られる。
(2007年11月23日22時1分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe8400/news/20071123ia21.htm

2007年11月25日 (12:30)

海藻みたいでも脳がある動物:生命とは何か:メディア平面とMedia Point

生命とは何か。これは、やはり、自己認識方程式で説明できるだろう。では、植物と動物、そして、人間の区別はどう説明できるのか。
 後で検討としたい。とまれ、ひとこと言うと、万能細胞のことを考慮すると、そして、気のことを考えると、生命情報、生命情報エネルギーがあると考えられる。以前、メディア平面ということを言ったが、それは、差異と同一性が結合している平面であるが、裏面が差異であり、表面が同一性である。これは、 Media Pointではなく、同一性構造に近いものである。あるいは、同一性構造そのものかもしれない。
 思うに、メディア平面の表面において、差異と差異の間に同一性が形成されて行く。そして、この同一性がメディア平面の裏面の差異のエネルギーによって賦活されているのではないだろうか。つまり、差異エネルギーが生命のエネルギーであり、同一性は物質であり、それは、物質の生成消滅のあり方をもつだろう。つまり、メディア平面の同一性の展開を支配しているのが、裏面の差異エネルギー、差異情報エネルギーであると思われる。
 そして、思うに、メディア平面の裏面の差異情報エネルギーとは、Media Pointにもつ振動が構成しているのではないだろうか。作業仮説として、Media Pointの振動は差異の回転によって、複雑化するとしよう。直感で言えば、螺旋的差異情報である。差異+iと差異-iとの共振の螺旋的回転によって、もたらされる情報である。
 とまれ、直感で言うと、+i→-iが知性であり、-i→+iが感情である。そして、自己認識方程式において、知性/感情が生起するのである。そして、これが人間の原型であると考えられる。植物の場合は、この自己認識方程式は隠れてしまっているのだろう。そして、メディア平面だけの存在となっている。
 人間を除いた動物の場合であるが、思うに、Media Pointの活動が固定してしまっているのではないだろうか。ある固定したMedia Pointが動物の原型であり、創造が為されないのである。ただ、反復が中心なのである。
 では、Media Pointの固定化とは何だろうか。それは、志向性の固定化であろう。言い換えると、志向性の停止である。思うに、ある段階で志向性が停止しているのである。それに対して、人間の場合は、志向性がつねに生成していると考えられるのである。言い換えると、Media Pointの振動が発生しているのである。
 結局、動物の場合は、Media Pointが固定化して、ある同一性の膜のようなものがMedia Pointを覆う。しかるに、人間の場合は、同一性の膜を破壊するものがあるのである。あるいは、差異がむき出しなのである。つまり、差異強度が動物に比べてはるかに強いと言えよう。
 とまれ、メディア平面とMedia Pointの関係はどうなるのか。あるいは、遺伝子との関係は。思うに、生命の層、生命の多層性があるのではないだろうか。Media Pointが根源的遺伝子層であり、そして、そこから、同一性が発動するのであるが、そのとき、メディア平面が形成される。それは、生命物質平面とでも言えるのではないだろうか。植物的な層である。
 まとめると、Media Pointが魂である。そこには、知性と感情が平行している。そして、同一性化が始まり、メディア平面が形成される。メディア平面が生命物質であり、植物的層である。そう、メディア平面の裏面とはMedia Pointであろう。そして、表面が物質体であると考えられる。
 気というのは、Media Pointからメディア平面に関わるエネルギー情報の一種ではないだろうか。それは、メディア平面の裏面の差異であろう。だから、素粒子空間に近いと言えると思う。
 思考実験であり、今は、ここで留める。後で、精緻に再考したい。

p.s. ちなみに、メディア平面が同一性の構造であり、同一性の壁である。ハイデガーの存在は、この壁である。閉塞しているのである。三島由紀夫の無であるが、それも壁であるが、壁を越えたMedia Pointを示唆しているだろう。大江健三郎を壁を越えて、Media Pointを示唆しているだろう。ポスト・モダンも、この壁にぶつかっているのである。そして、差異も裏面に限定されて、Media Pointへの超越化を否定しているのである。 
 

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海藻みたいでも脳がある動物=「ニッポンウミシダ」を継続飼育−東大臨海実験所
 赤っぽい海藻に見えるが、脳に当たる中枢神経節があり、身体を複雑に動かして移動できる「ニッポンウミシダ」を代々継続して飼育することに、三浦半島・三崎の東京大臨海実験所が24日までに世界で初めて成功し、国内外の研究者への提供体制を整えた。既に米国やオーストラリアの研究者から提供を求められており、動物の進化過程や身体再生メカニズムの解明に幅広く利用が期待される。 (時事通信)
海藻みたいでも脳がある動物

# ニッポンウミシダ - 海響館

[写真]海藻のように見える棘皮(きょくひ)動物のニッポンウミシダ。根元部分に脳があり、身体を複雑に動かして移動する。東大臨海実験所が世界で初めて継続飼育に成功した(7日、神奈川県三浦市の東大臨海実験所)(時事通信社)
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/animals_and_pets/

海藻のように見える棘皮(きょくひ)動物のニッポンウミシダ。根元部分に脳があり、身体を複雑に動かして移動する。東大臨海実験所が世界で初めて継続飼育に成功した(7日、神奈川県三浦市の東大臨海実験所)【時事通信社】
http://news.livedoor.com/article/image_detail/3402135/

ウミシダ

2007年11月24日 (13:29)

+iと-iの意味について:差異共振性=Media Pointによるトランス・モダン的虚界顕現

私の作業仮説では、+iはますます同一性の志向性を意味するようになっている。問題は、-iである。私は身体と作業仮説的に考えている。
 思うに、+iの志向性は、言語を形成して、差異を否定して、それを喪失する。自我ないしは近代的自我の形成を意味する。
 ここでも直感で考えよう。知覚において、少なくとも二つの極がある。同一性の知覚であり、差異の知覚である。すると、前者を+i、後者を-iと考えていいのだろうか。
 問題は、一般に同一性の知覚において、差異は不連続化せずに、連続化していることである。つまり、同一性と連続化した差異が生じることである。これは、同一性が主であり、差異が従であると言ってもいいだろう。
 また、問題は、そのような連続的差異も肯定せずに、単に同一性を肯定して、差異を否定する自我の有りようである。この場合は、明らかに、+i→-iである。(とりあえず、→を同一性志向性の記号とする)これは、(+i)*[-(-i)]である。即非を否定(-)する関係する同一性の志向性である。そして、これが徹底したのが、近代的自我である。そして、ポスト・モダンの現代において、否定・排除された差異が賦活(励起)されているので、それが、同一性自我へ反作用して、狂気作用を起していると私は想定している。現代の日本人はこのタイプであると考えている。
 この問題は復習であるが、続けよう。この近代的自我(近代合理主義)は、資本主義経済社会が形成する自己/魂の様態である。同一性中心的自己/魂である。本来の自己/魂が阻害されているのである。
 しかしながら、この近代的自我(近代合理主義)の様態に反発して、自己の内面の差異を志向した場合、上述したように、それは、連続化された差異になるのである。ポスト・モダン的差異である。
 しかし、この連続化された差異であるが、それは、単に連続化された差異というよりは、そこには、不連続な差異も含まれていると考えることができるだろう。
 換言すると、差異即非様相(+i)*(-i)がそこには発動していると考えられるのである。しかしながら、同一性の知覚(自我)は、その差異即非様相を連続的差異として捉えてしまうことになるのである。さらに、差異即非様相(差異共振相)を否定・排除することにもなるのである(ポスト・モダン:ドゥルーズとデリダ)。これが、ポスト・モダンの袋小路である。思うに、最初は駆動していた差異即非様相が帰結的には、排除されてしまうのである。だから、ここでは理論より、直感・経験の方が正しい水先案内人である。
 現代をポスト・モダンと捉えているが、本当は、トランス・モダンなのである。しかしながら、近代主義の縛りが強いために、ポスト・モダンへ転化してしまうと言えよう(参照:アイロニカルな没入)。
 ここで少し視点を変えて、-iについて考えたい。+iの同一性志向性に対して、-iの差異の志向性が有りえるだろう。その場合、+iが否定されることになるだろう。即ち、[-(+i)]*(-i)⇒-1となるだろう。以前、これを神秘主義や身体中心主義と考えた。それは正しいだろう。
 ここでは、同一性は否定されて差異が中心化されるが、同一性がないために、個別・個体化が否定されることになる。(今、思ったのであるが、シャガールの絵画にある空間は、この同一性否定差異融合空間ではないだろう。)これは、反近代主義、ロマン主義、オカルト主義等の方向である。
 この-i中心主義であるが、これは、連続的差異とは異なる。連続的差異とは、同一性から独立できない差異の様態であるからだ。
 とまれ、事態は複雑である。少し整理しよう。

1)+i→-i(同一性):近代的自我、近代合理主義
2)-i→+i(反同一性的差異中心主義):神秘主義、ロマン主義
3)差異共振性の賦活:Media Pointの活性化(トランス・モダン)
4)連続的差異の段階(ポスト・モダン)
5)脱連続的差異の段階(不連続的差異論)
6)差異即非・共振性へのらせん的回帰(プラトニック・シナジー理論)

1と2は、作用・反作用であろう。近代は同時に反近代を生起させたと言えよう。これは、与党と野党の関係に似ているだろう。相補性である。相互補完である。あるいは、人類の精神生活は、基本的には、この二重性をもつと言えるのではないだろうか。
 とまれ、問題は、差異共振性が賦活されたとき、そのとき、2の反近代主義の要素も入ってくるということである。ファンタジーとはこの様相であるのかもしれない。それよりも、端的に、宗教の再活性化がこれを意味するだろう。新興宗教の勃興である。当然、反動的である。
 しかしながら、誠実であれば、同一性と差異との中間態に自己が存することになるのがわかる。1と2との中間態である。ここで誠実であるとは、差異共振性、Media Pointに忠実であるということである。つまり、差異共振性、Media Pointが意識されていなくても、その意識的発現様態が同一性と差異との中間態であるということからそう言えるのである。
 問題は意識が連続的同一性であるために、差異が無意識に連続化されていることである。ここでも直感で考えよう。私がコスモスと言ったとき、それは何だろうか。それは、肚で、身体で感じられるある世界である。それは、一体的な世界である。思うに、シャガールの絵画の融合空間とはコスモスと言えよう。これは、ある意味で、現象的個別性を無視するだろう。というか、超越するのである。ただし、肚、身体中心で捉えられる限りでは、それは、2の要素を帯びるので、神秘主義的様態を帯びていると言えよう。つまり、反動性を帯びるのである。反同一性を帯びるのである。(だから、シャガールの絵画の個別性は簡略化されているし、輪郭が消失する部分があるのだろう。また、思うに、やはり、ドゥルーズとデリダの違いもここら辺にあるだろう。ドゥルーズはコスモスを肯定するが、デリダはそれを否定するだろう。だから、知識人には、デリダの方が、受け入れやすかったと言えよう。)
 結局、Media Point、差異共振性が活性化するとき(トランス・モダン・プレゼンス)、差異(-i)への志向性でもあるので、そのとき、2の要素が入ると言えよう。そのために、コスモス化が生起すると考えられる。しかしながら、真相・真実・真理は、差異の即非共振(+i)*(-i)である。問題は、同一性主義i^2 と差異主義(-i)^2の中間に潜在している差異共振性(+i)*(-i)を理解することである。そして、コスモスという概念は、差異共振性から駆動されている反動様態であると言えよう。
 ここで、不連続的差異論が生まれる直前における私の意識様態について考えるのが適切であろう。私は根源的自然と交流・交信しているという直感をもった。しかし、根源的自然はコスモスではないのである。なぜなら、私の同一性意識は否定されてはいずに、ただ、別に置かれていたからである。同一性は排除されていなかったのである。
 つまり、差異共振性(ないしはその原型)をその時点で、無意識のうちに形成していたと言えよう。とまれ、コスモスを積極的に評価すべきであろう。反動的様態であるとは言え、そこには積極的な差異共振性が潜在生動しているからである。(だから、シャガールの絵画も、その融合空間=コスモスに、差異共振性= Media Pointの潜在生動性を感得すべきなのだろう。これがシャガール絵画のトランス・モダン的評価である。)コスモスは差異共振性への始点であると言えよう。差異共振性への進展への方法は、コスモスにおいて、同一性的発想を放棄しないことがポイントであろう。同一性の極を保持しつつ、コスモスを内的に意識すると、コスモスが純粋差異共振性=Media Pointへと発展すると思われるのである。(コスモスから差異共振性=Media Pointへの進展において、哲学が重要な役割を果たすであろう。哲学的知的鍛練は、同一性と差異とを明快に区別するだろうからである。もっとも、ドゥルーズ哲学の問題は、差異共振性のエネルギーがいわゆるコスモスの作家よりも弱かったことにあるように思われる。コスモスと言っても、D.H.ロレンスとドゥルーズでは、正に、強度が違うのである。前者のコスモスの強度は熾烈・激烈・壮烈・苛烈であり、正に、差異共振的エネルギー、垂直・超越・虚/高次元的エネルギーをもっていたと考えられるのである。それに比べて、ドゥルーズの場合は、樫村晴香氏がニーチェ哲学と対比して指摘したように微温的である。http://www.k-hosaka.com/kashimura/jiru.html )
 以上から、トランス・モダン転換期(転相期とでも呼びたい)において、神秘主義のコスモス様態が初期に入ること(例えば、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性がそのようなものであろう)が明快になり、それを乗り越えるためには、同一性の極の保持が必要であることが判明した。同一性の極(知の極)と差異の極(身体の極)の中間において、差異共振相=Media Pointが啓けてくるのである(因みに、D.H.ロレンスの王冠論であるが、獅子が同一性の極、一角獣が差異の極、そして、聖霊が両極の中間の差異共振性に大局的には相当すると言えよう)。再確認すると、ポスト・モダンとは、同一性の極が差異の極よりも優位にある西洋文明における、差異共振性の賦活における特殊な発現様態であったようにも思われるのである。もっとも、世界一般において、西欧近代主義の影響を受けているので、単純に西洋文明の特殊性で済ますことはできない。つまり、この特殊性が一般化しているのである。
 ここで結論を簡単に言うと、同一性+iと差異-iとの争闘の深層において、差異共振性=Media Pointが蠢いているのである。そして、深層とは、虚次元・高次元・超越次元なのである。虚界からのエネルギーが今や全世界に作用しているのである。「聖なる侵入」である。
 そして、世界は、途方もない、言葉を絶した産みの苦しみを経て、差異共振融合社会(差異共振共同体)へと進展することになるだろう。耳の有る者は聴くがいい。

2007年11月23日 (19:20)

シャガールの絵画と差異共振性とエロス的同一性

今日は、祝日で時間があったので、上野の森の美術館で開催されているシャガール展を見に行った。
http://special.enjoytokyo.jp/TK/070901chagall.html
 千円では、安かったと言えよう。「おとずれ」、「秘密」等々の油彩画がよかった。「おとずれ」は、部屋の中のベッドに寝ている女性に、花束をもった浮遊した男性が訪れる場面である。左上には、黄色い月(太陽?)があり、右上には、ドアがある。
 残念ながら、この絵の葉書やコピーはなかった。
シャガールは、一般には、親しみやすい、甘美なムードの、俗っぽい軽い、凡庸と思える作品が多いが、中には、優れた作品がある。
 輪郭を不明確にした、簡略化した造形が、融合的な空間に溶け込んでいる。この空間がシャガールの一つの特徴である。ここでは、多様なものが融合しているのである。
 おそらく、この空間を、差異共振融合空間と言えるように思う。しかしながら、なにか保留したくなる面もある。とまれ、浮遊した像や渦巻くような造形等は、明らかに、垂直次元を表現していると思う。明らかに、夢の次元に似ているのである。Media Pointから表現していると考えていいように思う。しかし、シャガールの問題は、差異共振が男女のエロスの方向に傾斜している、ないしは中心化していることである。このために、世界が狭められるのである。
 思うに、エロスは差異共振性というよりは、差異的同一性なのである。これが、基盤にある差異共振性を覆っているように思えるのである。言い換えると、基層にある差異共振性と表層にある差異的同一性の二重性がシャガールの絵のように思える。
 
p.s. インターネットの画像で見ると、漫画みたいになってしまうし、また、俗受けする作品が多く出ている。

マルク・シャガール
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シャガール(1941年撮影)
シャガール(1941年撮影)

マルク・シャガール(Marc Chagall、イディッシュ語 :מאַרק שאַגאַל‎‎、1887年 7月7日 - 1985年 3月28日 )は、20世紀 のロシア (現・ベラルーシ )出身のフランス の画家 。

帝政ロシア領ヴィテブスク (現ベラルーシ ・ヴィツェプスク 、Vycebsk またはWitebsk、Vitebsk )にモイシェ・セガル(Moishe Segal、משה סג"ל)として生まれた。ロシア名マルク・ザハロヴィチ・シャガル Марк Захарович Шага́л、ベラルーシ名モイシャ・ザハラヴィチ・シャガラウ Мойша Захаравіч Шагалаў。故郷ヴィテブスクは人口の大部分をユダヤ人 が占めているシュテットル で、シャガール自身もユダヤ人 である。

1907年 、当時の首都ペテルブルグ の美術学校に入るが、同校のアカデミックな教育に満足しなかったシャガールはやがてレオン・バクスト の美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団 の衣装デザインなどを担当していた人物である。

シャガールは1910年 パリ に赴き、5年間の滞在の後、故郷へ戻る。この最初のパリ時代の作品にはキュビスム の影響が見られる。1915年 に結婚。10月革命 (1917年 )後のロシアでしばらく生活するが、1922年 、故郷に見切りをつけ、ベルリン を経由して1923年 にはふたたびパリへ戻る。

1941年 、第二次大戦 の勃発を受け、ナチス の迫害を避けてアメリカ へ亡命 した。なお、同郷人で最初の妻ベラ・ローゼンフェルトはアメリカで病死した。

1947年 パリへ戻ったシャガールは、1950年 から南仏 に永住することを決意し、フランス国籍を取得している。1952年 、当時60歳台のシャガールはユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキー と再婚した。1960年 、エラスムス賞 受賞。同年、当時のフランス共和国文科大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルロー はパリ、オペラ座 の天井画をシャガールに依頼。これは1964年 に完成している。1966年 、シャガールは17点から連作『聖書のメッセージ』をフランス国家に寄贈した。マルローはこの連作を含むシャガールの作品を展示するための国立美術館の建設を推進し、ニース 市が土地を提供する形で1973年 、画家の86歳の誕生日にニース市のシャガール美術館が開館した。

また、毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはシニカルな態度を示していた。特にピカソ に対しては極めて辛辣な評価を下している。しかし、だからといってピカソと仲が悪かったわけではなく、むしろ、ピカソにしては珍しく、けんかをしないほど仲がよかったともいわれる。

[編集 ] 代表作

* Online complete catalogue of the printed graphic work
* 「I and the Village」(1911年) ニューヨーク近代美術館
* 「七本指の自画像」(1912年-1913年)アムステルダム市立美術館
* 「誕生日」(1915年) ニューヨーク近代美術館
* 「Green Violinist」(1923年) グッゲンハイム美術館
* 「青いサーカス」(1950年) ポンピドゥー・センター
* 「イカルスの墜落」(1974年) ポンピドゥー・センター
* 「America Windows」(1977年) シカゴ美術館
* 「バレエ『アレコ』」(1942年)舞台背景画 第1、2、4幕 青森県立美術館
* 「バレエ『アレコ』」(1942年)舞台背景画 第3幕 フィラデルフィア美術館
* 「イスラエル十二部族」

[編集 ] 関連項目

* エコール・ド・パリ
* 高知県立美術館 - シャガールの世界的コレクションで知られる

[編集 ] 外部リンク

* Marc Chagall at Famous Artists Gallery

2007年11月23日 (12:48)

差異とMedia Point:超越性と同一性

以下の話はおもしろい。ドゥルーズは、超越性を否定して、すべて内在性(連続性)で説明したいのである。
 また、esseとessentiaの事柄であるが、これは、ハイデガーの存在論とも関係するが、PS理論からいうと、esse以前、Media Pointがあるのである。esseとは、Media Pointが同一性の志向性を開始した始点ではないだろうか。そうならば、内在性の哲学となり、超越性は否定されるのである。後で再考したい。

*******************************

上巻の最初のほうで、「存在の一義性」をめぐってスコトゥスの話が出てくる。トマス派の「存在の類比」(神と人間の存在の間に絶対的な溝があるというもの)は表象=再現前化の側にあるとされ、それに対してスコトゥスのいう「一義性」こそが、逆説的ながらヒエラルキーの一種「無効」を宣言している点で、一種アナーキーだというわけだ。山内志朗氏がこの点に異を唱えていたわけだけれど、それによると、その下敷きになっているスコトゥス像は、エティエンヌ・ジルソンにあるらしい。実際、『存在と本質』(Gilson, "L'être et l'essence", Vrin, 1948-2000 )などでは、スコトゥスはesseとessentiaの区別をそもそも認めず、essentiaはesseの様態の一つにすぎないとして、まさにesseの汎用論のようなことを提唱したのだ、と主張するスコトゥスへの注釈者の言が紹介されている。esseは、アヴィセンナをベースにトマスが論じるような、後からessentiaに加わるもの(そうして個別が存在するようになる)ではなく、むしろessentiaに先行し、その個別のessentiaを esseの現実態が規定する、というような話になっている。これはまた、個別化(個体化)が、種差などよりもはるかに一義的であるという話にもなるわけだ。このあたりを敷衍(というか換骨奪胎というか)すると、ドゥルーズのいう個体化の先行性・根源性という話につながっていく。で、『差異と反復』では、後半(第5章:文庫版では下巻 )にいたって、シモンドンの個体化論を引き受けてさらに一般化されていく。
http://www.medieviste.org/mediolog/archives/2007_11.html#001029
MedioLOG - MedioEvoLog - journal de réflexion
メディオ(+エヴォ)ログ −− 媒介学&中世関連の省察の部屋

2007年11月23日 (11:39)

検討問題:自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1と言語

検討問題:自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1と言語

テーマ:検討問題

英語の文法は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で説明できるのではないかとふと思ったので、少し触れておきたい。
 例えば、She eats dinner. という文を考えよう。これは、She does eat dinner. に変形できるとしよう。(もっとも、これでは、She really eats dinner. の意味になるが。)即ち、does*eat⇒eatsではないだろうか、ということである。
 そして、疑問文、否定文のときは、左辺が分離して、Does she eat dinner? She does not eat dinner. となるのではないだろうか。
 言い換えると、言語生成(形成)において、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1 の左辺の様態が心(Media Point)にあって、そこから、文法に即して、構成要素が組み立てられるのではないだろうか。
 これは、敷延すると、例えば、I see a cloud. という文を考えると、Iを+iに、a cloudを-iとすると、やはり、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で説明できるのではないだろうか。つまり、
I*(a cloud)⇒(I see a cloud.)ではないだろうか。
 今はここで留めておきたい。後で検討を続けたい。

p.s. 結局、志向性という、それも、差異共振的志向性ということで説明できるのではないか。

p.p.s. 以前、述べたが、日本語の場合、差異共振性が強く、英語のように、I(私)とa cloud(雲)が明確に分離せず、単に「雲を見る」となると思われるのである。これは、共振性が強いということであろう。英語や欧州語等は、同一性が強く、+iと-iが明確に同一性化、分離して、Iとa cloudになるのではないのか。

***********************

宗教・神話学的には、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は何を意味するのか、他

テーマ:検討問題

1)自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1と宗教・神話

2)万能細胞と自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1

3)脱資本主義へと向かう経済:差異共振的創造経済

4)トランス・モダン・ポリティクスとは何か:二元論的政治はモダンであり、ポスト・モダンである。二大政党制とは、二元論であり、モダン/ポスト・モダンである。

5)マチスについて:差異共振的絵画空間:カンディンスキーやモンドリアン等が精神主義へと傾斜したのに対して、垂直性と水平性との共振融合を表現しているのではないか。おそらく、これは、フェルメールについても言えるのではないだろうか。
 さらに言うと、日本画も伝統的には、このような差異共振融合絵画空間を創造表現しているのではないか。

6)現象空間とは何か:幻象としての現象と美術空間:三次元空間ないしは四次元時空間とは幻象であり、差異共振空間=精神空間が潜んでいるのではないか。アーティストは、後者の空間を前者の空間と融合させた空間を表現するのではないのか。これは、5で述べたように、差異共振融合空間となるだろう。これは、敷延すれば、差異共振融合経済ないしは政治経済になるだろう。

2007年11月22日 (22:07)

大連立は、アメリカの力が入るが、それ以上に、売国・亡国徒党の力を弱化できると思えるのである

最近の森田氏の考えとは、正反対の考えを私はもっている。森田氏の考えは、表面的に、いわば、字義的に物事を見ている。
 確かに、大連立は、アメリカの力が入るが、それ以上に、売国・亡国徒党の力を弱化できると思えるのである。自民党、民主党に、売国/亡国徒党はいるのである。

2007.11.21
森田実の言わねばならぬ[744]
平和・自立・調和の日本をつくるために【532】
小沢民主党代表インタビュー(朝日新聞2007年11月16日付朝刊)へのコメント[その5]
福田首相と小沢代表の密室談合による「解釈改憲」(憲法解釈の180度転換)を許してはならない
「無手の者よく打つ」(日本の諺)
[技巧に走らない者のほうが、かえって物事はうまくいく]

2007.11.20(その2)
森田実の言わねばならぬ[743]
平和・自立・調和の日本をつくるために【531】
小沢民主党代表インタビュー(朝日新聞2007年11月16日付朝刊)へのコメント[その4]
「僕は権力をとれば簡単にできることを知っている」発言に見る小沢氏の錯覚と自信過剰
「高慢は常に破滅の一歩手前であらわれる。高慢になる人はもう勝負に負けている」(ヒルティ)

2007.11.20(その1)
森田実の言わねばならぬ[742]
平和・自立・調和の日本をつくるために【530】
民主党内に広がる「大連立」批判の正論――民主党は小沢代表を超えるべき時がきた
「水は舟を載せ、亦、舟を覆す」(荀子)
[水は国民大衆。舟は為政者。民主党は小沢代表の体制を覆すべき時がやってきた]

2007年11月21日 (23:42)

量子論は、高次元・虚次元・超越次元・精神/霊的次元科学である

光についてであるが、復習になるが、(+i)*(-i)⇒+1において、左辺が波動ないしは振動であり、右辺は粒子であろう。この両者の「差異」に注意しないといけない。不確定性の原理であるが、それは、左辺が特異点であるMedia Pointに関係していることから発すると考えられるだろう。つまり、そこでは、波動は垂直に、また、超越的、虚軸的に、振動するのであり、実軸的には、不確定となると考えられるのである。
 思うに、素粒子ないしは量子は、複素数的存在と言っていいだろう。だから、単なる物質ではないのである。だから、量子論は、物質科学からエクソダスする必要がある。それは、イデア的科学である。虚次元・高次元的科学である。精神・霊的科学である。

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Disambiguation この項目では電磁波 の一種について記述しています。その他の光についてはひかり をご覧ください。

光(ひかり)は、電磁波 の一種。おもに可視光線 のことだが、赤外線 ・紫外線 を含めていうことも多い。 光は波動 と粒子 の二重性をもち、波動であることを強調する場合は光波 、粒子であることを強調する場合は光子 と呼ばれる。 光源 や観測者の速度 にかかわらず「相対速度 が変化しない」という特徴を持つ。
プリズムによる分光

光の波動性

波動としての光を光波と呼び、反射 ・屈折 ・回折 などの現象を起こす。ヤング の干渉実験により光の波動説 として証明され、その後マクスウェル らにより光は電磁波 であることが示された。厳密にはマクスウェルの方程式 で記述されるベクトル 波であり偏光 を持つが、波動光学 では簡略化のためにスカラー 波として扱うことが多い。

(光のエネルギーは電場 の振幅 の2乗に比例する) (光の運動量はポインティング・ベクトル に比例する)

[編集 ] 光の粒子性

粒子(量子 )としての光を光子 (光量子)という。光子は電磁場 の量子化 によって現れる量子の1つで、電磁相互作用 を媒介する。ニュートン の光の粒子説 によって唱えられた。現在の光子 の概念はアインシュタイン によって提唱された。

E = hν (光のエネルギーは振動数 νに比例する)
E = pc (光のエネルギーは運動量 p に比例する)

[編集 ] 粒子説と波動説

「光は粒子か波か?」

この問題は、かつてよく議論された。何故なら、光が波でなければ説明がつかない現象(たとえば光の干渉 、分光 など)と、光が粒子でなければ説明のつかない現象(光電効果 など)が、どちらも明確に確認できたからである。

この問題は、20世紀前半から後半にかけて「量子力学 」という学問分野が確立していく中で、「光は粒子 でもあり波 でもある。粒子と波の両方の性質を併せ持つ、量子 というものである」という事が確かめられ、決着がついた。この量子の持つ特異な性質のことを指して、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」と表現することがある(量子の詳しい性質については記事:量子 を参照)。

現在では呼び方として、光の粒子性に重点を置く場合は「光子」、波動性に重点を置く場合には「光波」、光が粒子と波の二面性を持った量子である、という点に重点をおく場合は光量子 と言う。

[編集 ] 光の性質

性質としては上記の通り粒子性と波動性があり屈折・(全)反射・干渉(ホログラフィ)・回折・偏光 (LPL・CPL) などの

* 光は、通常、直進する。(エウクレイデスの光の直進の法則)
* 凸凹の無い平面鏡に当たった光は、鏡に当たったときと同じ角度で反射する。 (エウクレイデスの光の反射の法則)
* 屈折率の異なる物質の境界面で光の速度が変化する。その結果、境界面への入射角が直角でない場合には、光の進路が変化する。(屈折 )
* 光の屈折の際は、スネルの法則 が成立する。
* 光の強さは、光源からの距離に逆2乗する。 (ケプラーの光の逆2乗の法則 )

主な物質との関係ではフォトニクスと呼ばれ大別してPhoto(光化学、光物理などの分子場理論)とOpto(光学などの放射場理論)と呼び方が異なり、光物理機能としては励起エネルギー移動や化学発光、電界発光 (EL) 等、光化学機能としてはフォトレジストや光触媒、光エネルギー変換等、光波機能としては、光ファイバーや近接場光学、コヒーレント分光などがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89

2007年11月21日 (22:49)

格差問題:唯物論という悪魔主義と戦後アメリカ奴隷からの解放宣言!

格差問題は、どうも、目隠しされている。
たとえば、ホームレスであるが、かつて新宿駅に段ボールのホームレスのホームがあったが、今はない。これは、排除したからである。ホームレスは見えないところに追いやられているのである。そして、自殺者であるが、これは、明らかに、戦争である。貧富戦争である。
 グルメ、美食番組のテレビ、くだらない記事の新聞、等々、何ぞや。結局、同一性主義に拠るのである。利己主義、自己中心主義に満ちた日本、悪魔に憑かれた日本人、鬼になった日本人。これらは一体何を意味しているのか。
 私は現象は幻象という。視覚は危険であると私は思っている。というか感覚自体が危険である。なぜなら、感覚は同一性知覚に支配されるからである。自我と結びついているからである。
 悪魔のアメリカ主義に洗脳されていることにも拠る。日本の中枢が洗脳されているのである。日本の精神の破壊が行われているのである。
 問題は、格差問題は何を意味しているのか。そう、ある首相が格差があって何がいけないのですか、と言っていた。このような首相を支持したのが、国民であるのだから、自業自得ではある。
 そう、国民が馬鹿であったのが、一番の原因である。近代的自我を形成したのが、誤りである。義務教育とは、成人を教育すべきである。
 私は70年代半ばに日本が変節したと思っている。生きるために魂を悪魔に売ったのである。だから、30年は日本は悪魔化して、何も生まなかったのである。亡国である。結局、唯物論である。唯物論が日本を滅ぼしたのである。これは、アメリカによる精神破壊ウィルスである。戦後の近代合理主義に拠るのである。
 戦後を超克せよ。アメリカ奴隷から脱せよ!

2007年11月21日 (00:01)

《「交差」から生まれるマジック》という概念は、正に、プラトニック・シナジー理論の核心部分である

以下の《「交差」から生まれるマジック》という概念は、正に、プラトニック・シナジー理論の核心部分である。差異と差異とのが即非(これがポイントである)共振共鳴して、新たな創造⇒+1が生まれるのである。最近ブームのクラシカル・クロスオーバーであるが、これも同様の考え方である。しかしながら、フュージョンというのは、違うと思う。フュージョンとは、差異と差異をあるものに同一性化してしまうものだと思う。たとえば、ジャズとクラシックのフュージョンとは、ジャズないしはクラシックに同一性化してしまうものだと思う。これは、袋小路である。

追記:
思い出せば、あるカフェで、コントラバスとダンスと詩のリーディングの「トリオ」の共演があったが、そのとき、その、いわば、不調和の調和に激しく感銘を受けたことを思い出す。今から、5,6年前であり、不連続的差異論が生まれる2,3年前である。その「トリオ」の意義を理論的に説明できなかった。ただ、一種のフュージョンとか思ってはいたのである。
 今では、簡単に説明できる。正に、《「交差」から生まれるマジック》、クロッシング、クロスオーバーであるが、PS理論から言うと、差異共振様態である。差異1と差異2と差異3が共振して、エネルギーが放出されているのである。この差異共振エネルギーが激しい感銘を生んだのである。不連続的差異共振エネルギー様態とも言えるだろう。
 思えば、不連続的差異論の形成期においても、私は音楽に関して、差異共振様相について、考察していた。たとえば、シューベルトの未完成交響曲の冒頭は、差異1と差異2の共立であると当時は述べていた。バッハやルネサンスやバロックのポリフォニーもこれで説明できるだろう。また、バルトークの音楽であるが、垂直性と水平性の不連続的共振性があるだろう。Kaisetsu氏は、当時、マルグリット等の絵画で説明していた。
 後で整理したい。
 
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「交差」から生まれるマジック☆
テーマ:アート、デザイン

六本木クロッシング
お月様 最近、イルミネーションがキレイな六本木ヒルズですが、

その53階の森美術館では、「六本木クロッシング2007」 キラキラ

という企画展も開催されていまして、、

先日、私もチェックしてみました^^

「六本木クロッシング」 の「クロッシング」とは「交差」のことで、

様々な作品が「交差」することによって、

予想外の新しい文化が生まれることに焦点が当てられています。

http://ameblo.jp/pilot/entry-10056063645.html
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