2007年12月31日 (22:42)

「わたし」とは何か:自我という閉鎖⇒自我崩壊⇒高次元自己

「わたし」とは、同一性主義によって発生する意識である。そこでは、差異・他者が否定されているのである。簡単に言うと、物質的身体と一致するのが、「わたし」となっているのである。
 ところで、私は、もうかなりの年数が立つが、ワープロで文章を打っていて、これは、なにか自分が書いているというよりは、違う存在が私を使って書いているのではないかと訝しがったものである。比喩的に言えば、自動書記とかお筆先である。
 確かに考えているのは、私であるが、その私は日常の私を越えて、自己を測深して考察しているのである。この自己測深が、どうやら私を越える存在を喚起しているのではないだろうか。確かに私が思考するが、同時に、ある他者が思考しているようなのである。そして、その他者に主導権があって書いているようなのである。
 思うに、この他者は、Media Pointなのである。それへと私は測深して、Media Pointのエネルギーが付与されて思考しているように思うのである。
 それはともかく、通常の「わたし」の話にもどすと、それは、同一性中心主義の意識であり、Media Pointを隠蔽させているのである。そう、Media Pointを恐れているのである。しかしながら、「わたし」の源泉はMedia Pointなのであるから、これを隠蔽したままだと「わたし」は枯渇するのである。つまり、何度も既述したが、こういうことだと思う。
 Media Pointから同一性志向性が発生して、「わたし」の意識が形成される。自我である。そのとき、Media Point自体は、否定・排除・隠蔽される。しかしながら、Media Pointのエネルギーは、同一性から差異へと転換すると思われるのである。
 同一性中心主義のままだと、この差異のエネルギーを受容することができず、返って塞き止めてしまう。この塞き止めが心病(精神病)を生むと思えるのである。また、凶悪犯罪も生み出す根因になると思われるのである。(ここで私見を言うと、厄年というのは、この同一性エネルギーから差異エネルギーへの変換の時期を意味するように思えるのである。とまれ、人生のターニングポイントが、40歳前後にあるように思えるのである。ここで、枯渇する同一性に留まると、差異エネルギーを受容できずに、「狂気」になると思うのである。おそらく、健全な人はそれぞれ、差異エネルギー受容をなんらかの形で行うように思うが、できない人は人格障害をもつように思えるのである。また、心病だけでなく、身体の病気も生まれるように思える。)
 さて、自我の問題に戻ると、Media Pointによるエネルギー交替・変換が起こると、自我は差異エネルギーを受け入れるのが正道となるのであるが、これが実に難しいのである。何故なら、自我は同一性中心主義であり、差異を否定しているからである。つまり、差異を認めることは、自我否定に繋がるのである。【先にも触れたが、ユング心理学は、自我と差異(ユングは自己ないしは集合的無意識、普遍的無意識と呼んでいる)との結合を個性化・自己実現として捉えているのであるが、私はそれは不可能であり、二元論のまま留まると言ったのである。】
 Media Pointからの差異エネルギーの発出は、自我同一性の壁に衝突するだろう。自我はどうやってこれを受容するというのだろう。差異エネルギーは心身においては、身体ないしは内部・下部から発動するだろう。いわゆる無意識エネルギーである。この身体エネルギーを自我は取り入れなくてはならないのである。このためには、自我は、測深する意識を形成する必要があるのである。
 つまり、自我は単に知的意識だけではなく、身体的意識を形成する必要があるのである。この身体的意識が差異エネルギーを取り込む媒体となると言えよう。つまり、自我同一性意識の解体が必要なのである。解脱、身心脱落である。ここは実に霊妙なところで、記述が難しい。結局、それは意識の志向性を反転させることであると言えよう。それまで、同一性志向性であった意識を差異・他者への志向性へと転換させることである。自我においては、それは身体・内部・下部への意識の志向性をもつことである。フッサールの現象学的還元やエポケーはこのことに通じるだろう。また、禅等の瞑想も同様であろう。自己認識方程式(+ i)*(-i)⇒+1では、⇒+1であったものから、左辺の感知へと進むことである。
 ということで、差異エネルギーの感知・受容とは、自我同一性意識の解体を伴うということである。(だから、ユング心理学は不成功に終わるのである。自我と自己との二元論のままなのである。個性化は起こらないのである。統合失調症のままである。)
 結局、自我から自己・個・差異への転換である。そして、そこから、同一性を包摂する高次元の自己(同一性と即非的差異の自己が生まれるのである。

2007年12月31日 (16:12)

Media Point差異知性と自我同一性知性:資本主義の限界と差異共振経済共同体

Media Point差異知性と自我同一性知性:資本主義の限界と差異共振経済共同体

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

今日、役人や政治家の堕落・腐敗は、近代的自我によると見ていい。私利私欲・利己主義・自己中心主義によるのである。この根本は哲学的には、自我同一性知性にあると考えられる。存在の本源にあるのは、差異(正しく言えば、差異共振性であるが、簡略的に、差異とする)であるMedia Pointであると考えられ、ここから、この自我同一性知性をもたらす同一性中心主義志向性(構造)によって、差異が否定され、排除・隠蔽・抑圧する事態が生起しているのである(私は精神分析に通じる用語を用いるが、精神分析、さらには、ユング心理学等は、プラトニック・シナジー理論の考え方によってこそ、修正的に発展できると考えている。これについては、いつか述べたい。)。
 今日の世界は、この同一性中心主義による自我同一性知性が中心となっている。そのために、差異は否定されて、諸戦争(戦争で、国家間の戦闘から、日常的な闘争を含める)が起こるのである(ホッブズ:万人の万人に対する戦争)。
 人が通常、「私」(自我)と考えているのは、この自我同一性知性が生み出すと言えよう。この「私」は、他者と戦争し、他者を打ち負かして、「私」に利益をもたらすのである。これが、資本主義の弱肉強食の世界である。
 人間が動物以上に残忍酷薄なのは、同一性中心主義志向性に拠ると言えよう。何故なら、動物の場合は、おそらく、Media Pointの根源から生活していると思えるからである。つまり、差異と同一性が未分化であり、同一性が主導的なときには、闘争するが、差異が主導的なときは、平和共存するのである。ある意味で、自然界において、他者とのそれなりの共存共栄を行っているのである。そう、自然の叡知、Media Pointの叡知と考えられる。
 人間において、Media Pointの叡知が同一性中心主義志向性や自我同一性知性によって翳っているのである。仏教では、これを無明(むみょう)と説いたのである。そして、空の教義によって、Media Pointの叡知へと回帰すべきことを説いているのである。大仏教である。そう、仏教は、トランス・モダン哲学の先駆であると言えよう。動物的な Media Pointの叡知が、太母文化にあったが、その後、父権文化が発生して、同一性中心主義志向性が主導的になった。それに対して、動物的なMedia Pointの叡知の復興として、仏教が興隆したと思われるのである。(だから、現代でも、仏教の教理は有効である。)
 現代において、資本主義の世界において、自我同一性知性が、金融を動かしているのである。量的な知性が動かしているのである。しかしながら、これは、サブプライムローン問題を見ても分かるように、限界があるのである。
 さて、ここで、私は理性を問題にしたいのである。この言葉は混乱している。とまれ、私はMedia Pointの叡知こそ、理性、真の理性であると考えるのである。だから、Media Point理性と呼んでいいだろう。あるいは、Media Point知性でもいいだろう。(本当に、言葉が混乱していたり、不十分なので、的確に表現できないのは困ったことである。)
 Media Point理性に対して、自我同一性知性は、それを否定して隠蔽している。つまり、無明・狂気の様態に現代の人間は存するのである。狂気的人間としての現代の人間である。倒錯・転倒・倒立しているのである。逆さまである。善が悪となり、悪が善となっているのである。(「奇麗は汚い、汚いは奇麗」『マクベス』)
 もっとも、現代、ポスト・モダンにあって、トランス・モダンの志向性が活性化していると考えられる。それは、Media Point理性への回帰の動きである。同一性を包摂した高次元のMedia Point理性(高次元理性ないしは高次元知性とも呼べる)への螺旋的回帰である。
 資本主義世界は、自我同一性知性によって、破壊的に発展してきた。それによって、根源のMedia Point理性が翳り、隠蔽されてきたのである。しかしながら、自然の力・エネルギーとは、一方的なものではなく、太極的であると考えられる。同一性への志向性に対しては、差異への志向性が作用するのである。つまり、言い換えると、心が外界へと志向して、自我同一性知性を形成した。しかるに、心は内界へと回帰する志向をもち、自我同一性知性主義を破壊するのである。ポスト・モダン志向である。この自然の回転運動(太極原理)が、世界を支配するのであり、資本主義にも影響を与えるのである。
 思うに、ネオコンとは、アイロニカルな没入から、反動的な資本主義である。キリスト教原理主義とは、自然の回転運動の内界志向性の反動なのである。
 今日の世界・日本の大暗黒にあっても、自然は回転運動(太極原理)を永続するのであり、内界志向性は強化されるのである。例えば、文学でファンタジーが興隆したのは、これが根因であると考えられるのである。また、精神世界ブームも危険ではあるが、これが根因であると考えられる。
 問題は、ポスト・モダン様態にあって、自我同一性知性主義が反動化されることである。これは、全体主義的になるのである。(例えば、小泉元政権を考えるといいだろう。)また、機械主義的になるのである。人間の心の破壊である。端的には、人間の心の劣化であり、知能の低劣化・退化である。
 資本主義は、情報革命となり、ますます新たな差異を必要とするのであるが、自我同一性知性に支配されているので、パラドックスの事態にあると言えよう。世界を資本主義の枠組みを超えて、前進させるのは、端的に、Media Point理性への回帰である。高次元理性・知性への進展である。トランス自我同一性主義、トランス・キャピタリズムである。差異共振経済である。ここでは、高次元の高度な感性・知性が必要とされるのである。
 そして、政治においてこそ、この差異共振理論が必要とされよう。国家を差異共振性によって、創造的に変容させる必要があるのである。自我同一性知性という私利私欲を目指すものでなく、Media Point理性による差異共振価値を目指す政治が必要なのである。これは、端的に、パラダイム・チェンジである。相転移である。ポスト・モダンからトランス・モダンへの質的転換である。これは、世界御一新である。差異共振共同体、差異共振企業が世界を変容するのである。

2007年12月30日 (23:54)

視覚と物質主義との関係:視覚の同一性化と差異の視覚の否定

視覚と物質主義との関係:視覚の同一性化と差異の視覚の否定
テーマ:差異と同一性
私の経験から言うと、視覚世界に対して、近代科学は、物質界であると説明する。そのため、意識において、視覚現象界は物質界であると刷り込まれる。それに対して、内面においては、想像世界が広がる。視覚現象界は物質界(唯物世界)であり、内面世界は想像世界の二律背反が生起する。これが、近代主義による心の分裂である。
 内面世界を重視した世界観として、ロマン主義等があるが、結局、資本主義の世界は、視覚現象界=物質界ということが基盤となり、近代科学/技術をもって、進展した。結局、物質性=同一性=近代合理主義が中心化された。
 近代合理主義は明らかに、心を硬直・冷暗(暗黒)化するものである。そして、現代日本はこれに徹底的に染められている。
 明らかに、矛盾・分裂の原点は、視覚現象界を物質界と限定したことにあるだろう。(フッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でこれを問題にした。)正確に言うと、物質界が数量化されるものとしたことにある。ここで、物質の数量的同一性が支配的になったのである。そして、視覚の心が数量的同一性化されたのである。
 丁寧に見ると、視覚の心は本来、差異共振性ないしは差異であるが、これが同一性志向性をもち、自己否定的になる。もっとも、差異共振性ないしは差異は潜在している。この視覚の心の同一性志向性と物質数量性が結びつくのである。その結果、視覚現象界は物質主義的世界と見なされるのである。
 排除された差異共振性・差異は、芸術や宗教等に表現されることになるが、物質世界と心的世界は分裂したままである。これは、モダンの矛盾状況であるが、これが、ポスト・モダンの基盤となる。
 とまれ、資本主義の発達とともに、心的世界は阻害されて、物質数量同一性主義(近代合理主義/唯物論/近代的自我)が中心化される。人間の機械化、ロボット化、家畜化である。
 本来の視覚の心の差異の光が翳り、同一性の暗い光が支配するのである。そう、近代を支配しているのは、暗黒の光である。本来の光が抑圧されているのである。
 もっとも、同一性の光から差異の真光を見ると、めくらんで、それが、闇や無に見えてしまうのである。三島の無がそうであると思われるし、D.H.ロレンスの闇もそうであろう。(ハイデガーの無とは、同一性が差異にぶつかったときの壁の無であるから、差異の無ではない。)ここに近代の悲劇があるのである。物質的同一性(近代合理主義/唯物科学)が刷り込まれているので、差異の光、心の光が見えないのである。
 これで、物質界としての視覚現象界の形成が説明できただろう。差異ないしは差異共振性としての視覚現象界が排除されているのである。同一性の光(闇の光)だけを見て、本源である差異(差異共振性)の光、心の光を否定しているのである。同一性主義(同一性霊=アーリマン)が憑依しているのである。日本においては、とりわけ、東京において、アメリカ権力の同一性霊が取り憑いているように思える。また、マスコミに憑依している。マスコミは悪霊が憑依しているのである。除霊するには、心の光を取り戻す必要がある。そして、根本的には、差異共振社会を構築する必要があると言えよう。

p.s. フッサールの生活世界とは、差異共振性を基礎とする共同体のことであろう。差異共振生活共同体である。
 
参照1:

フッサール は実証科学が着々と成果を挙げていることを認めた上で、しかし「学問に対する一般的な評価の転換」が現れたという。それは

「学問の学問性にかかわるものではなく、むしろ学問一般が、人間の生存にとってなにを意味してきたか、またなにを意味することができるか、という点にかかわる」という。

一九世紀の後半には、近代人の世界観全体が、もっぱら実証科学によって徹底的に規定され、また実証科学に負う「繁栄」によって徹底的に眩惑されていたが、その徹底性たるや、真の人間性にとって決定的な意味をもつ問題から無関心に眼をそらさせるほどのものであった。単なる事実学は、単なる事実人をしかつくら ない。このような傾向に対する一般的な評価の転換は、特に〔第一次大〕戦後避けることのできないものとなったが、われわれも知るように、それが若い世代のうちに、次第にこのような傾向に対する敵意に満ちた気分を惹き起こすまでになった。この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれないということを、われわれはよく耳にする。(p20)

事実学の「このような傾向に対する敵意に満ちた気分」は、老フッサール 自身のものではないだろう。彼はそれが「若い世代のうちに」惹起しているのを知った。そして「この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれない」という不満を耳にしたのである。

フッサール は、その気分に同調したり、その不満に直接応えようとしたりするわけではない。ただ、次の点を指摘する。

この学問は、この不幸な時代にあって、運命的な転回にゆだねられている人間にとっての焦眉の問題を原理的に排除してしまうのだ。その問題というのは、この人間の生存に意味があるのか、それともないのかという問いである。

実証科学といえば、まず第一に自然科学 のことだけれども、事情は「歴史性の地平における人間を考察する精神諸科学」、歴史学 に代表される人文諸科学についても同じである。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20071125/1196005590
恐妻家の献立表
参照2:
$1415 フッサールの「諸学の危機」と相対性理論 「今日どんな本をよみましたか? (112700)」
[ 社会と哲学 ]
以前のこのブログ で、フッサールは、彼が現象学を深めた時期に大論争を呼んだ相対性理論について何も言及していない、ということを書きました。本日はまずこの点につきまして、訂正いたします。

実は、西研氏の哲学的思考 を読む限り、危機とされる「諸学」が何であるかという点について判然といたしません。そこで、「ヨーロッパ諸学の危機」を読み返してみました。そうしたら、なんと頭の部分に書いてありますね。つまり、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機」というテーマに取り組んだ契機の一つには、長い間絶対的な真実である信じられてきた、ガリレオ、ニュートンの打ちたてた物理学が、プランクやアインシュタインによって否定されたことがあった、というわけです。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 ですが、最近では中公文庫から出ております、お値段税別1,190円のお買い得なのですが、ここでは手持ちの「世界の名著」から細谷恒夫訳で引用することといたします。

学問一般といえば、その中には、厳密な、そして最も成果ある学問性の模範として、我々が驚嘆してやまない純粋数学や精密自然科学も含まれるわけであるが、それらの学の危機を語ることなどどうしてできようか。たしかにこれらの学も、その理論体系と方法論全体に関して変わりうるものであることが示されている。現にこの点に関しては、古典物理学の名称のもとで硬直しようとしていた様式、いわゆる古典的完成として数千年のあいだ保持されてきた様式が、ごく最近破られることになった。しかし、古典物理学の理想に対抗して勝ちとった勝利や、純粋数学の意味深く純粋な構成形式をめぐる現在進行中の論争は、従来の物理学や数学がまだ学的でなかったとか、また、それらの学がある種の不明確さやあいまいさにつきまとわれていたとはいえ、その研究の領域においては明証的な洞察を得ていなかった、とかいうことを意味するのであろうか。

と、いうわけで「ヨーロッパ諸学の危機」はニュートン力学崩壊の現場に居合わせたフッサールが、自然科学の基礎付けと、古い論理の価値の再確認を目指して行った講演と、それをもとにした著作であった、と考えるのが妥当ではないかと思います。
http://plaza.rakuten.co.jp/neuron/diary/200608130000/
ニューロンとワイヤの狭間から

参照3:
http://209.85.175.104/search?q=cache:7BaGy1AJoGwJ:www.mus-nh.city.osaka.jp/iso/argo/nl11/nl11-17-26.pdf+%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%80%E5%8D%B1%E6%A9%9F&hl=ja&ct=clnk&cd=11&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a

2007年12月30日 (13:09)

偶像崇拝禁止/多神教排除とMedia Point:文明期のサイクルとMedia Point

偶像崇拝禁止/多神教排除とMedia Point:文明期のサイクルとMedia Point

イスラム教をMedia Pointの発現と見るなら、つまり、Cosmic Media Pointの発動と見るなら、偶像崇拝禁止や多神教の排除をどう考えたらいいだろうか。
 私はイスラム教の両者は聖書にあるほど、暴力的ではないように思う。結局、父権的一神教は、偶像崇拝禁止と多神教排除を教義にもつが、私はユダヤ・キリスト教とイスラム教では、唯一神の意味が異なるので、単純に共通のものと見るわけにはいかない。
 とまれ、その教義は、太母宗教の禁止・破壊である。思うに、新しい文明期とは、それまでの文明期を否定して、新しい観念を説くものと考えられよう。しかしながら、新しい文明期を拓くと言っても、結局、そこには、Media Pointの新たな開示(啓示)があるのだと思う。Media Pointによる螺旋的回帰運動があると思うのである。
 つまり、Media Pointにおいて、諸文明期は共通するはずである。ただし、時間が異なるのである。だから、偶像崇拝禁止と多神教排除とは、新たなMedia Pointの開示における破壊ということだと思う。
 しかしながら、父権的一神教の厳格さは、太母宗教には見られないものである。この点を考える必要があるだろう。思うに、ここでは、通時生成消滅的に考える必要があると思う。平明に言えば、文明期のサイクルである。おそらく、最初は、いかなる文明期も、倫理・秩序が厳格にあったと思う。しかしながら、時を経て、本来のエネルギーが衰退して、倫理・秩序が崩壊し、堕落する(デカダンス)。おそらく太母文化の末期において、倫理・秩序の崩壊が発生していたと思う。それは、現代のユダヤ・キリスト教西洋文明における倫理・秩序の崩壊を見ればわかりやすいだろう。
 そのような文明期のサイクルを考えると、偶像崇拝禁止や多神教排除とは、それら自体に意味があるというより、やはり、太母文明期の否定という意味あいが強いと見るべきだろう。つまり、それらは、表層的である。
 さて、付加的に、そのようなことを背景にして、ユダヤ・キリスト教とイスラム教との違いを考えると、一神教という枠組みは共通であっても、本質が異なっていると言えよう。それは先ほど述べた通りである。すなわち、前者は同一性主義の唯一神をもち、後者は差異共振性の唯一神をもつということである。
表層の太母宗教の否定を取り去って見ると、イスラム教とは、端的に、Media Point的宗教であり、神道に通じると思われるのである。
 また、ゾロアスター教を考えると、それも一神教的表層を取ると、Media Point的宗教である。すると、イスラム教や神道と共通することになるのである。そう、新しい世界宗教とは、一神教と多神教の融合であろう。Media Point宗教である。

p.s. 思うに、新しい文明期を発動させるMedia Point、つまり、Cosmic Media Pointの啓け、言わば、「啓明」とは、新たな倫理・秩序の発動である。それは、高次元の倫理・秩序の発動である。そして、今や新しい太母文化とは、高次元の倫理・秩序をもった新文明期であるということである。Media Pointは、差異共振性という心、高次元の心をもっているのであり、それは、倫理・秩序である。
 思うに、カントが説く実践理性とは、実際には、このMedia Pointの新たな発動である差異共振エネルギーによる倫理・秩序志向性を指していたのではないだろうか。カントは後、一歩であったと思う。

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新世界宗教としての新太母教について:トランス一神教/トランス多神教としてのMedia Point宗教:新万教帰一

新世界宗教とは、これまでの諸宗教を包摂する高次元の新太母宗教となると考えられる。ユダヤ・キリスト教が西洋文明において主導的であり、近代合理主義/近代的自我/資本主義を形成する帰結(エンテレケイア)となった。しかしながら、ユダヤ・キリスト教のいわば、超越的同一性エネルギーはもはや枯渇して、倫理・道徳・秩序の構成に役立たずに、返って破壊主義的に、アナーキズム的になっているのである。  
 とまれ、そのユダヤ・キリスト教の成果、すなわち、同一性文化を包摂する新たな太母宗教文化の可能性が今日生まれているのである。理論的には、プラトニック・シナジー理論のMedia Pointにおける超越的エネルギーによって与えられるものである。  
 そして、この新太母宗教は、イスラム教、神道、仏教、ヒンドゥー教、等々を、すなわち、万教を包摂する総合普遍宗教(新万教帰一)と考えられるのである。ユダヤ・キリスト教は否定されることになるが、しかしながら、聖霊をMedia Pointと解することで、この新太母宗教は、ユダヤ・キリスト教をも包摂していると言うことができるのである。

2007年12月30日 (00:11)

Media Pointから同一性への転換の様相について:太母文化と父権文化との連続態と不連続化:新一・多神教の誕生に向けて

この問題については、既述したが、確認のために、ここで再考したい。 
 自我は、Media Pointの差異(差異共振性・心)を否定するように、同一性から発生すると考えられる。問題はMedia Pointが開いたままであっても、同一性は生起しうるということである。
 つまり、同一性の発生については、二通りのあり方があるのである。一つは、父権文化的であり、それは前者のタイプであり、もう一つは、太母文化的であり、それは後者のタイプである。 
 前者において、Media Pointが隠れて、自我が中心化されるのである。二元論・二項対立の様態である。後者においては、自我は、いわば、未分化であり、半差異/半同一性の様態にあるのではないだろうか。 
 近代合理主義とは、前者が特化された様態である。そして、資本主義は、この意識様態(近代的自我)と結びついている。すべては、物質/貨幣的同一性量的価値に基礎付けられている。 
 西欧近代の問題は、この二つの同一性の混在にあると思われる。前者はプロテスタンティズム、後者はルネサンスと関係する。私はこれまで、プロテスタンティズムは、ルネサンスを内在させていると言ったが、これも、この混在の有り様である。西欧近代とは、二つの同一性の様態(太母文化と父権文化)の混在、換言すると、ルネサンスとプロテスタンティズムの混在と見ることができる。そして、民主主義も同様に思われる。占星術的に言えば、双魚宮様態であり、二匹の異なる魚が連続していることである。そう、占星術は鋭敏である。二匹の魚が尾で繋がっているのである図像をもつのである。正に、西欧近代は、双魚宮様態である。つまり、差異と同一性が連続化しているのである。この連続性のポイントが、ゼロ度である。これが、双魚宮の二匹の尾に当たると言えよう。ここが、肝心要(かんじんかなめ)のポイントである。 
 もし、太母文化様態であったら、どうだろうか。それは、端的に、太極様態であろう。陰陽様態である。差異の極と同一性の極の両極の揺れ動きをもっていたであろう。しかし、西欧近代様相においては、一方で、同一性主義があり、差異は徹底的に排除されるのである。だから、ここでは、弁証法が作用しているのである(これが、ヘーゲル弁証法に帰結したと言えよう)。結局、西欧近代は、矛盾しつつも、連続性が中心化しているのである。 
 本件のテーマに返ると、結局、二種類の同一性様相があり、近代主義とは、父権文化的様態であると言える。問題は、この二種類の同一性様相の発生の意味である。  
 これは、結局、父権文化的勾配と太母文化的勾配の二様を考えれば、いいのではないだろうか。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で言えば、+1が父権文化であり、X⇒+1が太母文化であろう。このXが心である。+1が形式的知(頭)であり、父権文化は頭中心なのである。それに対して、太母文化は、頭と心を並存させていると考えられるのである。 ここで、整理すると、父権文化とは、+iに傾斜した文化であり、-iという差異を同一性化してしまうのである。それに対して、太母文化とは、+iと-iとの平衡が取れた文化であるということである。ここで確認しておくと、+iの傾斜に対して、反動的に、-iの傾斜に向かうと、何度も既述したように、神秘主義、オカルト主義になると考えられる。そして、西欧では、この傾向が、19世紀後半から起こり、20世紀前半くらいまで、続いたと言えよう。また、60年代以降、カウンター・カルチャーとして、それが復興してきたと言えよう。いわゆる、精神世界文化の活動である。 
 もっとも、モームの『月と六ペンス』で触れたように、あるいは、シャガールの絵画に関して述べたように、神秘主義ないしは身体的神秘主義は、反動的ながらも、そこに、差異共振性を内在させていることが多いと考えられるのであり、短絡的に、神秘主義・オカルト主義を否定することは反知性的である。ここで、ついでに、この神秘主義・オカルト主義の反動性について解明しておくことは意味があるだろう。+iの傾斜という父権文化に対する反動は、-iの傾斜であるが、それは、身体性や神秘性の傾斜である。これは、逆さまの同一性と言うべきものであり、この逆さまの同一性は、精神というものを同一性化して捉えると思われるのである。そのために、霊的唯物論というような発想が生まれると思われるのである。同一性知性を、身体・神秘的同一性化してしまうのであり、ここにおいて、身体・神秘的同一性が「霊」や「魂」となり、中心化されると思われるのである。これが、神智学・人智学的発想であると考えられるのである。 
 だから、霊や魂という用語はミスリーディングで危険である。私としては、同一性を包摂したMedia Pointを心と呼びたいと思っている。それがおそらく伝統的な用語である。そして、Media Pointを特化すれば、霊、魂、霊魂という言葉が使えるだろう。だから、心を心魂ないしは心霊と呼ぶこともできるかもしれない。もっとも、日常生活では、同一性に傾斜しているので、心魂というよりは、心と言った方が適切である。 
 ということで、結局、既述の考察を再確認することになった。しかしながら、本考察で明らかになった点がある。それは、父権文化は同一性傾斜文化であるが、太母文化は、差異傾斜文化と言ってもいいのであるが、正確に言えば、同一性と差異の平衡文化であるということである。あるいは、差異共振文化である。簡略に、差共文化と言えるだろう。結局、神道やケルト文化の三つ巴に帰るのである。三相性である。 
 ここで、最後に、この三つ巴の三相性とキリスト教の三位一体について考察して、本稿を終えたい。 
 父を同一性、子を差異、そして、聖霊を差異共振性と見ることができるならば、三位一体とは、ある意味で成立するのである。しかしながら、問題点は、この三位一体の一元論の一元の意味である。もし、その一元を聖霊=差異共振性とするならば、成立すると考えられる。しかしながら、キリスト教において、三位一体の一元とは、基本的には父を意味するのである。つまり、同一性である。ここに問題点があり、だから、キリスト教三位一体は否定されるべきなのである。私はこれまで、三位三体論が正しいと言っている。とまれ、聖霊=差異共振性を中心化するなら、三位一元論は成立するのである。 
 では、ここまで来ると、イスラム教の唯一神性について簡単に触れたい。イスラム教は多神教を排除している。しかしながら、イスラム教にはタウヒード(一性いつせい)という考え方がある。この一性が、当然、唯一神の様相のことであるが、この一性とは、同一性(父)ではなく、聖霊=差異共振性であると思われるのである。そうならば、イスラム教とは、隠れ多神教、あるいは、隠れ神道であると考えられるのである。理論的にはそうなるのである。 
 つまり、聖霊=差異共振性としてのタウヒード(一性)とは、プラトニック・シナジー理論から見ると、+iと-iとの差異共振性をもっているので、三相性があり、つまり、三柱の神と言えるのである。私はコーランをよく知らないので、確定できないが、おそらく、アッラーフ(アラー)は、神道の神と似ているところがあるはずである。そう、直感では、アッラーフとは、太陽神であり、ゾロアスター教のアフラ・マズダである。そして、これは、天照大御神に通じるのである。そう、アッラーフは父ではなく、聖霊である。Media Pointである。
 しかしながら、ユダヤ・キリスト教において、太陽神は、いわば、翳っているのである。イエス・キリストに存する太陽神は、太母である。これが、ヤハウェによって、翳っていて、同一性化を被っているのである。 
 結局、トランス・ユダヤ・キリスト教を考えると、つまり、イエス・キリストをユダヤ・キリスト教から解放すると、太母としての太陽神があり、同時に、太母の子のイエスが復活するのである。 
 では、太陽神=太母の子のイエスの復活とは何を意味するのか。それは、ケルト神話のトゥアッハ・デ・ダナン(ダナンの息子たち)を考えると、あるいは、聖書の神の息子たちを考えると、一人ではなく、多数となるのである。多数のイエスである。多元・複数的イエスである。これは、結局、新一・多神教の誕生を意味するのではないだろうか。 

2007年12月28日 (16:31)

元教頭の少女売春と少女たちの拝金・物質主義:畜生・鬼畜未満の日本人と心的高次元政治

元教頭の少女売春と少女たちの拝金・物質主義:畜生・鬼畜未満の日本人と心的高次元政治

テーマ:滅びゆく日本と新倫理社会へ

「あの店には援助交際を求める少女がたくさん集まっていた……」という元教頭の細田被告の言葉に注意すべきだろう。
 要は、金欲しさで少女売春を行なうのである。しかも、実直にアルバイトをして金を得たくはないのである。細田被告は性的倒錯者であるが、それとは別に、この少女たちの意識・考え方に問題があると言わざるを得ないだろう。敗戦後の日本の拝金主義・物質主義の帰結とは言える。つまり、現代日本が、心を喪失した家庭・社会・教育になっているということである。連合国占領軍に支配され、日本人の心の源泉である神道・仏教・アニミズム等を奪われて、アメリカに洗脳されて(実は、アメリカの策謀によって日本人をコントロールしているのだろう。確かに、陰謀があると思う。)、ひたすら近代合理主義/近代的自我の道を邁進した日本の末路である。
 これは、日本人全体の問題である。外国では、馬鹿にされているのである。このような動物のようになってしまった日本人を復活させる、つまれ、生まれ変わらせるにはどうしたらいいのか。(正しく言えば、動物未満であるが。)
 一言いうなら、唯物論を廃止して、心主物従論をもつべきである。

p.s. 私の考えでは、民主主義も、もう役割を終えて、トランス・デモクラシーの政治へと転換すべきである。同一性形式は認めるが、それを包摂した高次の心的政治制が必要になっていると思うのである。心・知の優れたものが政治を行なうべきなのである。プラトンが『国家』を書いたのも、そこらへんにポイントがあると考えられる。心的高次元政治である。あるいは、父権統合型新太母文化政治である。

p.p.s. 同一性形式と民主主義の関係はどうなのか考察する必要があるだろう。一人一人は、同一性形式をもつが、土台・基盤・根源は差異である。差異は心である。結局、同一性中心主義と民主主義が結びついていたのである。しかし、差異を基盤にすると、もう民主主義は否定されるだろう。何度も述べているように、差異共振主義になるのである。高次元差異共振主義である。心的高次元差異共振制である。

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仕事後に連日通った「出会い喫茶」 少女買春の元教頭

2007年12月28日12時33分

 「あの店には援助交際を求める少女がたくさん集まっていた……」

 札幌市立小学校元教頭の細田孝幸被告(55)は、取り調べに対し、こう話したという。

 あの店――「出会い喫茶」。数年前に現れ、東京や大阪、名古屋といった大都市で静かに広がっている新しい形態の店だ。細田被告の行動も、1年半前、札幌の歓楽街・ススキノに出会い喫茶がオープンしてから拍車がかかったという。

 小学校の仕事を終えたその足で連日通い詰めたというその店を、記者も訪ねてみた。中は、普通の喫茶店とはほど遠い。来店した女性は「18歳以上」と「18歳未満」に分かれた部屋に入り、お菓子やジュース、マンガをただで楽しめるようになっている。一方、男性は入会金5000円、1時間あたり1000円を払う。マジックミラー越しに女性を指名し、交渉次第で一緒に外に出ることができるという仕組みだ。

 髪も染めていない。服装が乱れているわけでもない。待機部屋でスナック菓子をほお張る少女たちは、どこにでもいる「普通の子」だった。

 女子高生(17)は「暇つぶしになるし、外で一緒に食事とかしてあげればお小遣いももらえる。でも『ウリ』はしませんよ」と話した。高校を中退したという少女(15)は「私は援助交際している」「だいたい1回2万円。相手は40歳くらいの人が多いかな」。親がくれる小遣いは月に3000円。「働くのは面倒くさいけど、ここには来たい時だけ来ればいいから楽」なのだという。

 テレクラ、伝言ダイヤル、ツーショットダイヤル……。この手の商法はこれまでも数多くあったが、出会い喫茶は実際に容姿を見ることができる点がアピールしているという。一皮むけば売買春の温床。それでも「自由意思による出会い」をうたっている以上、現在の法令で店を摘発するのは難しいという。

 危うい空間から犯罪も生まれている。

 少女買春は言うに及ばない。今年4月には、出会い喫茶で知り合った女性をホテルに連れ込み金を奪った容疑で、新潟県上越市の男が逮捕された。職業は細田被告と同じく小学校の教諭だった。

http://www.asahi.com/national/update/1228/TKY200712280150.html

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 アダルト雑誌に多くのエロ画像を投稿した業界の有名人。

 札幌市立星置東小学校教頭の職にありながら、「アスピリンスノー」なるペンネームで女性の裸体写真を雑誌に多数投稿、さらには未成年と知りながら6人の少女に現金を渡し、わいせつな行為をした細田孝幸被告(55)。

 細田被告は、今年10月1日に札幌中央署に逮捕され、直後の10日に、札幌市教育委員会から「信用失墜行為」よる懲戒免職処分を受けた。

 児童買春・児童ポルノ禁止法違反(児童買春・児童ポルノ製造)の罪に問われた細田孝幸被告の判決公判が28日午前10時から、札幌地裁(中川綾子裁判官)で開かれた。

 今月14日に札幌地裁で開かれた初公判(中川綾子裁判官)の冒頭陳述で、細田被告が今年5〜9月までに、札幌市内のホテル、カラオケ店、自家用車内、自宅で、16〜17歳の少女6人に6,000円前後の現金を渡して性交類似行為を行い、うち5人に対しては乳房を露出した性交類似行為の姿態を取らせた写真を撮影・保存したことなどが明らかになった。

 さらに細田被告は初公判で、「雑誌社から高校生と18歳以下はいけないと言われた。自分でも処罰の対象になると思った。18歳以上は(投稿する)モデルの対象で、18歳以下の児童はイチャイチャする対象、性的な興味になると思います」と性的嗜好を吐露した。

 検察官は、「金にモノを言わせ、自身のあり余る性欲を満たす目的で行った卑劣かつハレンチな犯行。被告の規範意識は欠落しており、再犯の恐れも極めて高い」と断罪、懲役3年を求刑した。

 腰縄と手錠をされた細田被告は28日の判決公判に、坊主頭、黒のジャージで入廷。

 中川裁判官は、懲役3年、執行猶予5年、札幌検察庁が保管する裸体画像を保存したSDカード2枚とCD1枚の没収を命じる判決を言い渡し、量刑の理由を述べてこう諭した。

 「小学校教頭という高い倫理性を求められる立場にあったにもかかわらず、発覚しなかったことを良いことに欲望のおもむくまま犯行を繰り返し、酌量の余地はないハレンチ極まりない犯行で、社会的影響も大きい犯罪ではあるが、十数年間にわたって多数の女性のわいせつな写真を雑誌に投稿していたことも罪に問われないとはいえ、道義的に芳しくない。実刑も十分に考えられるが、自業自得とはいえ、事件発覚によって職を失い、妻と離婚することは避けられない状況となり、事件がマスコミに大きく取り上げられたことにより、社会的制裁も受けていると言える。総合的に考慮し、被告人の社会での更生を期待することにした。今回の刑の執行は猶予する。5年の執行猶予期間は一番長いものです。犯罪とは無縁の生活を送ってください」

 公判が終了した直後、細田被告は「ありがとうございました」と小さく呟いた。
http://www.bnn-s.com/news/07/12/071228133530.html

児童買春、エロ画像を投稿、小学校元教頭初公判 懲役3年を求刑
http://www.bnn-s.com/news/07/12/071214141517.html

2007年12月28日 (13:58)

Joseph Campbell:1

神話に関しては、私は、ジョーゼフ・キャンベルの圧倒的な影響の下にある。彼の神話学をユング心理学の適用と一般には考えられているが、彼の本を読めばわかるように、ユング心理学(元型心理学)の応用というよりは、比較神話学であり、普遍的神話学を構築していると見ることができる。
 彼の博覧強記の、しかも、整合性のある著書は、確実に視野が広くなるものである。とりわけ、女神中心主義は、私の神話観を変えてしまった。これは大変な驚きであり続けている。
 かなり翻訳も出たが、しかしながら、彼の主著の『神の仮面』(全四作)は、一巻しか翻訳されていない。それでも、山室静氏の翻訳があるのは、幸運である。
 そう、もう十年くらい前になるのか、彼の本を読んでいたときの至福感を思い出した。また、神話ブームになるかもしれない。何故なら、新太母文化が目前であるからである。というか、実質、もう入っていると言えよう。

追記:最近、私の勘は冴えている。ジョージ・ハリスンはケルト系ではないかと感じたが、それが先日確認できた。そして、神話学者のジョーゼフ・キャンベルもケルト系ではないかと思い、検索したら、キャンベルは、スコットランド(ケルト文化圏)の部族の名前であった。端的に、見事に、ケルト系である。

参照1:
Clan Campbell and Clan MacDonald - The Great Feud

Memories run long in the highlands of Scotland and, we've heard tell, the bitterness between Clans Campbell and MacDonald continues to this day.

The clash between these two ancient Celtic houses, which has lasted for hundreds of years, is not just about lands, religion, Jacobitism, or even betrayal. Rather, it is about power.

・・・・・

Clan Campbell is as ancient a Celtic family as the MacDonalds, though their historical records are inaccessible before their rise to prominence. The Campbells trace their ancestry through Sir Colin Mor Campbell of Lochow, killed in 1294. In English, their name is Clan Dairmid. The surname Campbell is attributed to the gaelic nickname for one of their chiefs, cam-beul, meaning a wry or twisted mouth (perhaps called that by the MacDonalds!).

・・・・・

Some famous Campbells:

Sir Colin Campbell (1792-1863) - Commanded the Highland Brigade at Balaclava and was Commander-in-Chief during the Indian Mutiny (he took the Campbell name from his mother; he was born a MacLiver)
Joseph Campbell - Cofounder of Campbell Soup Company
Sir Henry Campbell-Bannerman (1836-1908) - British Prime Minister
Joseph Campbell (1904-1987) - world famous mythologist and author

http://www.heartoscotland.com/Categories/CampbellsandMacDonalds.htm

参照2:
ここに一つの言葉を引用しておきたい。
 これは、神話学者のジョセフ・キャンベルがグレイトフル・デッドのドラマーであるミッキー・ハートに語った言葉である。ジョセフ・キャンベルは、人類が自らの神話を再創造する時が近付いていると確信していた。 「もうすぐ新しい神話が現れる。それも地球規模のものだ、ミッキー。どのようなかたちで現れるのかはわからないが、これまでの神話の構造と関係があるということははっきりしている。神話の象徴的パターンというのは、結局は脳自身のエネルギーパターンの反映だからね」
                         (『ドラム・マジック リズム宇宙への旅』ミッキー・ハート著)
http://www.ame-ambient.com/Nagaya/innerworld/shinwa/part01.html
対談『新しい神話の創造に向けて』by 龍村仁氏、名嘉睦稔氏 and 長屋和哉 〜 はじめに
Joseph Campbell
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For other uses, see Joseph Campbell (disambiguation) .
Joseph Campbell

Joseph Campbell circa 1984
Born March 26 , 1904 (1904-03-26)
White Plains, New York
Died October 30 , 1987 (aged 83)
Flag of Hawaii Honolulu , Hawaii
Occupation Scholar
Nationality American
Influences Friedrich Nietzsche , Oswald Spengler , Sigmund Freud , Carl Jung , Heinrich Zimmer , James Joyce , Thomas Mann , Arthur Schopenhauer , Leo Frobenius

Joseph John Campbell (March 26 , 1904 – October 30 , 1987 ) was an American mythology professor , writer , and orator best known for his work in the fields of comparative mythology and comparative religion .
Life

[edit ] Childhood and education

Joseph Campbell was born and raised in White Plains , New York [1] in an upper middle class Roman Catholic family. As a child, Campbell became fascinated with Native American culture after his father took him to see the American Museum of Natural History in New York where he saw on display featured collections of Native American artifacts. He soon became versed in numerous aspects of Native American society, primarily in Native American mythology . This led to Campbell's lifelong passion for myth and to his study of and mapping of the cohesive threads in mythology that appeared to exist among even disparate human cultures. He graduated from the Canterbury School (Connecticut) in 1921. While at Dartmouth College he studied biology and mathematics, but decided that he preferred the humanities. He transferred to Columbia University where he received his B.A. in English literature in 1925 and M.A. in Medieval literature in 1927. Campbell was also an accomplished athlete, receiving awards in track and field events.

[edit ] Europe

In 1927, Campbell received a fellowship provided by Columbia to study in Europe. Campbell studied Old French and Sanskrit at the University of Paris in France and the University of Munich in Germany . He quickly learned to read and speak both French and German , mastering them after only a few months of rigorous study. He remained fluent in both languages for the remainder of his life.

He was highly influenced while in Europe by the period of the Lost Generation , a time of enormous intellectual and artistic innovation. Campbell commented on this influence, particularly that of James Joyce , in The Hero's Journey: Joseph Campbell on His Life and Work (1990, first edition:28):

CAMPBELL: And then the fact that James Joyce grabbed me. You know that wonderful living in a realm of significant fantasy, which is Irish, is there in the Arthurian romances; it's in Joyce; and it's in my life.
COUSINEAU: Did you find that you identified with Stephen Daedalus ...in Joyce's A Portrait of the Artist as a Young Man ?
CAMPBELL: His problem was my problem, exactly...Joyce helped release me into an understanding of the universal sense of these symbols...Joyce disengaged himself and left the labyrinth, you might say, of Irish politics and the church to go to London , where he became one of the very important members of this marvelous movement that Paris represented in the period when I was there, in the '20s.

It was in this climate that Campbell was also introduced to the work of Thomas Mann , who was to prove equally influential upon his life and ideas. Also while in Europe, Campbell was introduced to modern art, becoming particularly enthusiastic about the work of Paul Klee and Pablo Picasso . A new world of exciting ideas opened up to Campbell while studying in Europe. Here he also discovered the works and writings of Sigmund Freud and Carl Jung . It was also during this time, as well, that he met and became friends with the young Jiddu Krishnamurti , a friendship which began his lifelong interest in Hindu philosophy and mythology. In addition, after the death of Indologist Heinrich Zimmer , Campbell was given the task to edit and posthumously publish Zimmer's papers.

[edit ] Return to the United States and the Great Depression

On his return from Europe in 1929, Campbell announced to his faculty at Columbia that his time in Europe had broadened his interests and that he wanted to study Sanskrit and Modern art in addition to Medieval literature . When his advisors did not support this, Campbell decided not to go forward with his plans to earn a doctorate and never returned to a conventional graduate program (The Hero's Journey: Joseph Campbell on His Life and Work , 1990, first edition: 54).

A few weeks later, the Great Depression began. Campbell would spend the next five years (1929-1934) trying to figure out what to do with his life (Larsen and Larsen, 2002:160) and he engaged in a period of intensive and rigorous independent study. Campbell discussed this period in The Hero's Journey: Joseph Campbell on His Life and Work (1990, first edition:52-3). Campbell states that he "would divide the day into four four-hour periods, of which I would be reading in three of the four hour periods, and free one of them...I would get nine hours of sheer reading done a day. And this went on for five years straight."

He also traveled to California for a year (1931-32), continuing his independent studies and becoming close friends with the budding writer John Steinbeck and his wife Carol (Larsen and Larsen, 2002, chapters 8 and 9). Campbell also maintained his independent reading while teaching for a year in 1933 at the Canterbury School during which time he also attempted to publish works of fiction (Larsen and Larsen, 2002:214) [2] .

Campbell's independent studies led to his greater exploration of the ideas of the Swiss psychiatrist Carl Jung , a contemporary and estranged colleague of Sigmund Freud . Campbell edited the first Eranos conference papers and helped to found Princeton University Press ' Bollingen Press. Another dissident member of Freud's circle to influence Campbell was Wilhelm Stekel (1868 - 1939). Stekel pioneered the application of Freud's conceptions of dreams, fantasies of the human mind , and the unconscious to such fields as anthropology and literature .

[edit ] Sarah Lawrence College

In 1934, Campbell was offered a position as professor at Sarah Lawrence College (through the efforts of his former Columbia advisor W.W. Laurence). Campbell married one of his former students, dancer and dance instructor Jean Erdman , in 1938. He retired from Sarah Lawrence College in 1972, after having taught there for 38 years.

[edit ] Death

Joseph Campbell died at the age of 83 on October 30, 1987, at his home in Honolulu , Hawaii, from complications due to esophageal cancer [1] shortly after completing filming of The Power of Myth with Bill Moyers .

[edit ] Select works

[edit ] James Joyce and early works

As noted above, James Joyce was an important influence on Campbell. Campbell's first important book (with Henry Morton Robinson ), A Skeleton Key to Finnegans Wake [3] (1944), is a critical analysis of Joyce's final text Finnegans Wake . In addition, Campbell's seminal work, The Hero with a Thousand Faces , discusses what Campbell termed the monomyth -- the cycle of the journey of the hero , an idea which he directly attributes to Joyce's Finnegans Wake (Campbell, 1949:30).

[edit ] The Masks of God

His massive four-volume work The Masks of God covers mythology from around the world, from ancient to modern. Where The Hero with a Thousand Faces focused on the commonality of mythology (the “elementary ideas”), the Masks of God books focus upon historical and cultural variations the monomyth takes on (the “folk ideas”). In other words, where The Hero with a Thousand Faces draws perhaps more from psychology, the Masks of God books draw more from anthropology and history. The four volumes of Masks of God are as follows: Primitive Mythology, Oriental Mythology, Occidental Mythology, and Creative Mythology.

[edit ] The Historical Atlas of World Mythology

At the time of his death, Campbell was in the midst of working upon a large-format, lavishly illustrated series entitled The Historical Atlas of World Mythology. This series was to build on Campbell’s idea, first presented in The Hero with a Thousand Faces, that myth evolves over time through four stages:

• The Way of the Animal Powers -- the myths of Paleolithic hunter-gatherers which focus on shamanism and animal totems.

• The Way of the Seeded Earth -- the myths of Neolithic, agrarian cultures which focus upon a mother goddess and associated fertility rites.

• The Way of the Celestial Lights -- the myths of Bronze Age city-states with pantheons of gods up ruling from the heavens, led by a masculine god-king.

• The Way of Man -- religion and philosophy as it developed after the Axial Age (c. 6th century BCE), in which the mythic imagery of previous eras was made consciously metaphorical, reinterpreted as referring to psycho-spiritual, not literal-historical, matters. This transition is evidenced in the East by Buddhism , Vedanta , and philosophical Taoism ; and in the West by the Mystery Cults , Platonism and Gnosticism .

Only the first two volumes were completed at the time of Campbell's death. Both are now out-of-print.

[edit ] The Power of Myth

Campbell's widest popular recognition followed his collaboration with Bill Moyers on the PBS series The Power of Myth , which was first broadcast in 1988, the year following Campbell's death. The series exposed his ideas concerning mythological, religious, and psychological archetypes to a wide audience, and captured the imagination of millions of viewers. It remains a staple of PBS television membership drives to this day. A companion book, The Power of Myth, containing expanded transcripts of their conversations, was released shortly after the original broadcast, and became a best seller.

[edit ] Thou Art That: Transforming Religious Metaphor

A recent compilation of many of his ideas is titled Thou Art That: Transforming Religious Metaphor. In it Campbell writes:"...Mythology is often thought of as other people's religions, and religion can be defined as mis-interpreted mythology." In other words, Campbell did not read religious symbols literally as historical facts, but instead he saw them as symbols or as metaphors for greater philosophical ideas.

Campbell had previously discussed this idea with Bill Moyers in The Power of Myth:

CAMPBELL: That would be a mistake in the reading of the symbol. That is reading the words in terms of prose instead of in terms of poetry, reading the metaphor in terms of the denotation instead of the connotation.

MOYERS: And poetry gets to the unseen reality.

CAMPBELL: That which is beyond even the concept of reality, that which transcends all thought. The myth puts you there all the time, gives you a line to connect with that mystery which you are (Campbell, 1988:57).

2007年12月27日 (21:59)

螺旋的人類文化史:1.太母文化⇒2.太母統合型父権文化⇒3.父権主義文化⇒4.父権統合型新太母文化

テーマ:プラトニック・シナジー理論

螺旋的人類文化史:1.太母文化⇒2.太母統合型父権文化⇒3.父権主義文化⇒4.父権統合型新太母文化

1は、Media Pointが全的に啓いている文化である。超越界と現象界との直交する文化であり、前者は霊界であり、後者は物質界である。両者が交差していた文化である。生死が循環する文化、永遠回帰の文化である。輪廻転生が当然と考えられた文化、祖先崇拝が当然と考えられた文化である。(p.s.  ここで想起することは、プラトンの『国家』における魂の輪廻転生についてである。また、そこから、さらに想起するのは、ジョセフ・キャンベルの『神の仮面:西洋神話の構造』において説明されている女神の神話における輪廻転生の図像と観念である。思うに、プラトンの魂の不死や輪廻転生は女神の文化、即ち、太母文化から受け継いだものではないだろうか。私見では、プラトンのイデアというものは、太母のもつエネルゲイアを哲学化したものと考えてきたのである。これは、また、D.H.ロレンスのコスモスの思想とプラトンのイデア論との一致という私説にも通じることになるのである。きわめて、枢要な論点である。)
 その文化に父権的遊牧民文化が、侵入し、2を形成する。その後、父権的宗教が発生し、ユダヤ教に帰結する。それは、3の文化である。しかし、キリスト教が発生し、1の要素が3に入る。だから、形式的には、2となる。しかしながら、西欧文化においては、3の要素が徹底して、西欧近代文化が形成される。他方、3によって否定された要素である1が西欧近代文化に台頭する。それが、19世紀後半からの、トランス・モダンの潮流である。そして、20世紀60年代以降、ポスト・モダンの思想の勃興があるが、それは、20世紀末において、消滅したと考えられる。それは、せいぜい、2のタイプに達したと考えられる。
 トランス・モダンとは、4を志向した文明・文化的大潮流であると考えられるのである。そして、その理論的基盤は、ポスト・モダン理論の欠陥を超克したプラトニック・シナジー理論によって与えられていると考えられる。3である西欧近代文化の物質主義文化を乗り越えた、物質を包摂した霊性の新文化・新文明を予想しているのである。
 1からいわば、螺旋的に一回転して、包摂的に回帰するのである。哲学的には、ヘーゲル哲学の正反対の様相にあると言えよう。即ち、ヘーゲル哲学は、同一性によって差異を統合する形式であるが、プラトニック・シナジー理論は、差異によって同一性を統合する形式をもっているのである。弁証法ではなく、言わば、即非法である。


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アメリカ英語について:語尾の抜かれた連音化と連続的同一性:間(ま)と差異共振性

テーマ:差異と同一性

アメリカ英語は日本人の耳には、違和感がある。何かが足りないのである。端的には、なぜ、語尾を端折って連音的に発音するのか。
 意味がストレス・アクセントで提示されるのであるが、なにか排除されるものがあるのではないのか。音声的には、当然、語尾なのであるが、なにか心的に排除されるものがあるように思えるのである。日本文化的に言えば、《間》(ま)が排除されているのである。
 《間》は、私見では、日本・東洋文化にとって本質的なものである。それこそ、日本・東洋文化の肝である。それは、差異共振性である。一つの音声の差異と次の音声の差異とを共振させるのが、《間》であると思われるのである。
 ここで少し飛躍するが、私がバッハの演奏で最高のものと考えるグスタフ・レオンハルトのハープシコード(私は慣れで、チェンバロというより、この語を好む)による『フーガの技法』のことであるが、そこでは、《間》が十分に取られていて、ほとんど、幽玄、わびさびの世界を醸し出しているのである。
 即ち、《間》が東洋文化にとって本質なのである。しかし、アメリカ英語の発音に、この《間》が消滅して、音声が連続化されている事態は、差異と差異共振性の喪失を意味していると考えられるのである。あるいは、音声が同一性化されているのである。これが、私がアメリカ英語の音声に感じる違和感の根因であると思われるのである。《間》のない(間抜け?)アメリカ英語、差異、差異共振性のないアメリカ英語、それは、近代合理主義/近代的自我のアメリカ文化と符号するものである。狂気のアメリカである。


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私は国学を問題視している。これは、一神教の様式をもっているのである。

テーマ:一神教/多神教

私は国学を問題視している。これは、一神教の様式をもっているのである。平田篤胤にはキリスト教の影響があると考えられている。神道を一神教化したと思われる。本来神道は多神教であり、三柱の神々の宗教である。もっとも、一即多と考えることもできる。多一神教である。
 儒教や仏教的な思想を否定して、古代日本文化に回帰するということであるが、これは、単純な二元論ではないだろうか。確かに、儒教は父権主義あり、仏教は権威主義となっていただろう。しかし、儒教や仏教の神髄は、神道と通じるものがあるのである。Media Pointが共通すると考えられるのである。太母文化である。
 思うに、神道の本質を見ていくと、差異共振性に達するだろう。そうすると、儒教や仏教は、否定されるというよりは、刷新されることになると思われる。あるいは、太母文化に即した、批判的解明が可能になると思うのである。この場合、否定は、二元論であり、一神教的である。
 

国学
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曖昧さ回避 この項目では学問の国学について記述しています。律令制で、国ごとに設置された教育機関については国学 (律令制の教育機関) をご覧ください。

国学(こくがく)は、日本 の江戸時代 中期に勃興した学問 である。蘭学 と並び江戸時代を代表する学問の1つである。和学・皇朝学・古学(古道 学)などの別名がある。

それまでの「四書五経 」をはじめとする儒教 の古典や仏典 の研究を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化 ・思想 、精神世界を日本の古典や古代 史のなかに見出していこうとする学問である。

国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎 の古義学や荻生徂徠 の古文辞学の方法から大きな影響を受けている。儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを否定し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。

江戸時代に形骸化した中世 歌学 を批判するかたちで現れた。木下勝俊 ・戸田茂睡 らに始まるこうした批判は、下河辺長流 ・契沖 の『万葉集 』研究に引き継がれた。特に後者の実証主義 的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めた事で高く評価されている。続いて伏見稲荷 の神官であった荷田春満 が神道 や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱えた。一部において矛盾すら含んだ契沖と荷田春満の国学を体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵 である。真淵は儒教的な考えを否定して『万葉集』に古い時代の日本人の精神が含まれていると考えてその研究に生涯を捧げた。

真淵の門人である本居宣長 は『古事記 』を研究して、古い時代の日本人は神と繋がっていたと主張して「もののあはれ 」の文学論を唱える一方で『古事記伝 』を完成させた。

その後宣長門人の平田篤胤 に至って宣長の持つ「古道論」を新たな神道である「復古神道 」に発展させた。彼の思想は江戸時代後期の尊皇攘夷 思想にも影響し、日本固有の文化を求めるため、日本の優越性を主張する国粋主義 や皇国史観 にも影響を与えた。平田篤胤の弟子である経世家 の佐藤信淵 の著作『垂統秘録 』や『混同秘策 』等にはその傾向がよく現れている。

だが、真淵の門人であった村田春海 らのように契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派もあり、その内情は複雑であった。実証主義的な国学は明治期 の小中村清矩 らの手によって近代 以降の日本文学 研究や国語学 、民俗学 の基礎となった。

[編集 ] 主な国学者

* 契沖
o 今井似閑
o 安藤為章
o 海北若沖
* 賀茂真淵
* 本居宣長
* 萩原広道
* 平田篤胤
o 矢野玄道
o 平田鐵胤
o 常世長胤
* 塙保己一
* 富士谷御杖
* 本居大平
* 五十嵐篤好
* 拝郷蓮茵

[編集 ] 関連項目

* 神仏分離
* 復古神道
* 古道
* 和方医学
* 蘭学
* 漢学
* 中国学

[編集 ] 外部リンク
(百科事典)「The Kokugaku (Native Studies) School」 - スタンフォード哲学百科事典 にある「国学」についての項目。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6

2007年12月27日 (17:09)

孔子復権は、中国の太母文化の復興の表われと思われる。

これは、中国の太母文化の復興の表われと思われる。しかし、『論語』、孔子であるところから、父権制に利用されることになる。
 私は、いわば、タイムリーながら、数十年前読んだ『論語』を読み直している。簡潔な文体で、解説がないと当然わからないが、読んで惹きつけられる。父権・君主的位階(ヒエラルキー)とその共同体による秩序を説いた思想であるが、基盤には、太母文化があると直感できる。
 ニーチェの『悲劇の誕生』で言うと、ディオニュソス(太母文化)を基盤としたアポロ(父権制)の秩序を説いていると言えよう。思うに、孔子の時代とギリシア悲劇等はほぼ同時代である。先に私は、古代ギリシアと古代中国の太母文化基盤とそれを統制した父権文化が共通であると述べた。
 思うに、この太母統御的父権文化とは、古代日本でも生じたと思う。縄文時代から飛鳥時代、奈良時代までにおいて、成立したであろう。天皇制とは何かがこれでわかるだろう。
 そう、この文化習合であるが、太母統合的父権制と呼ぶのがわかりやすいのではないだろうか。この文化習合が、世界的に生起したと考えられる。古代ギリシア、古代中国、古代日本、古代ローマ、古代インド、古代メソポタミア、古代パレスチナ、等々。
 そして、ユダヤ・キリスト教によって、父権主義が強化されて、西洋文明が発生して、世界制覇したのである。そのため、基盤の太母文化は、そのエネルギーが枯渇していき、西洋文明は衰退し、新たに、螺旋回帰的に、新太母文明、即ち、新東洋文明が形成されると考えられる。これは、差異共振主義文明ということである。

参考:
『太母文化と父権文化との主従性:太母文化⇒父権文化⇒新太母文化:ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明』http://ameblo.jp/renshi/entry-10062274329.html

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孔子 復権 心の豊かさ求め伝統文化に脚光『論語』ベストセラー

2007年12月26日 朝刊

北京の孔子廟内にある国学館で、漢服を着て儒教を学ぶ子どもたち
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 中国で儒教や古典などの伝統文化復権の動きが強まっている。胡錦濤政権も伝統文化を重視し、孔子の思想を指導理論に取り入れた。経済発展により、人々が心の豊かさを求めるようになったことも背景にある。二十七日から訪中する福田康夫首相も孔子の故郷を訪れ、儒教を通じた日中共通の価値観に触れる。  (北京・鈴木孝昌)
 ■国学ブーム

 「借人物、及時還−!」(物を借りた時には、約束通りに返さなければならない)

 北京中心部にある孔子を祭った孔子廟(びょう)。築後七百年の歴史を刻む境内に、儒教の基本「弟子規」を朗読する子どもたちの声が響く。

 五年前、孔子廟内に設けられた成賢国学館では、三−十二歳の子ども約六百人が儒教などの国学を学んできた。孔子の弟子と同じように、伝統的衣装である漢服を着て、座卓で講義を受ける。「論語」や「大学」のほか、唐詩や書道、漢方薬、切り絵、京劇も学ぶ。

 七歳の劉涵〓君は、孔子が孝の道を説いた「孝経」の多くを暗唱できる。「国学が大好きで、毎晩寝る前に録音を聞いています」。王逸倫君(11)は「孔子は中国人の誇りであり、後世に伝えたい」と話す。

 紀捷晶館長は「北京五輪を控え、中国の良い文化を学び、海外からのお客さんに見せたいという市民の意識が強まっている」という。

 中国政府は二〇〇六年から始まった第十一次五カ年計画の「文化発展綱要」で、伝統文化教育を重視する方針を打ち出した。学校教育課程にも国学が取り入れられ、「論語」や「三国志」に関する書籍が相次ぎベストセラーに。中秋節や清明節など伝統的節句も国家の祝日となった。来夏の北京五輪開幕式では、中国映画の巨匠・張芸謀監督の指揮のもと、中国武術や古典楽器を総動員した演出が行われる。
 ■文革の傷跡

 孔子の故郷、山東省曲阜には、儒教の総本山である孔子廟がある。

 孔子の没した翌年(紀元前四七八年)に建てられたが、文化大革命の後期、伝統文化や儒教・孔子を批判した「批林批孔」運動では破壊活動の標的となった。暴徒は孔子廟に乱入し、歴代皇帝が参拝時に建てた石碑をたたき割り、重機で引き倒した。現存する石碑の大半はセメントでつなぎ合わせて修復されたもの。「革命無罪」の落書きなど、生々しい文革の傷跡を残す。

 曲阜は全人口六十三万人のうち四人に一人が孔姓という一族の町。当時は子孫らが町に引きずり出され、三角帽子を載せられて怒声を浴びた。孔子廟にあった孔子の石像も引き回しにされ、壊された。孔子本人や子孫の墓も掘り返し、棺おけに残っていた子孫の遺体を取り出してさらすなど、徹底的に孔子をおとしめた。

 孔子の復権が加速したのは二〇〇二年に胡錦濤政権が発足してから。胡氏が育った江蘇省泰州は屈指の教育先進地で、胡氏も儒教を深く学んで育った。孔子の七十六代目子孫、孔令周さん(66)は「胡主席が提唱する和諧(調和)社会や人間本位は、孔子の唱えた“仁”や“和”の思想に基づく。中央が儒教を重視している表れだ」と指摘する。

 孔一族が毎年九月に開いていた孔子の誕生祭は、〇四年から政府主催の国際的行事に格上げされ、曲阜は年間六百万人が訪れる大観光都市になった。孔さんは「つらい過去が終わり、中国は新しい時代に入った」と実感している。

 批林批孔 文化大革命の後期、1973−75年に展開された林彪元党副主席と孔子を結びつけて批判する運動。孔子は封建主義の象徴とされ、毛沢東暗殺を謀った林彪は「孔孟の道」に従う反動派だったとして、全国で批判大会が開かれた。四人組が主導し、実際には孔子を利用して周恩来首相の打倒を狙っていた。

※〓は金へんにりっとう

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2007122602075145.html

中国のイデオロギー  Ideology in China
孔子が戻ってきた  Confucius makes a comeback  (2007年5月17日 北京)

立派な賢者を、沈んだままにはできない

「過去に学び、未来を知れ」(温故知新)と孔子は言った。今では彼自身が、学ばれる対象になっている。

孔子は中国で2000年以上にわたって、尊敬――いや、崇拝――された。しかし、共産党も20世紀自体も、この賢者に優しくなかった。近代中国になって、彼が着想した君主国の公務員試験・科挙は廃止され、君主制自体が廃止され、彼がそれを使って書いた古典的中国語も否定された。もっとひどいことに、文化大革命の間、彼と彼の信奉者は、「新中国」を熱望した毛沢東によってあざけられ、屈辱を味わわされた。

今では、北京の人民大学のずけずけモノを言う康暁光教授は、儒教は中国の国家宗教であるべきだ、と論じている。こうした提案が、孔子の復権を公開のものにしている。それはまた、共産主義への熱情がとっくに衰え、当局者や社会批評家が「金銭万能になってしまった」と嘆く国にあって、共産党支配の替わりのイデオロギー的基盤を求める中国内部の闘争のもう1つの徴候である。

孔子の復権は、遅々たるものだった。彼への表立った攻撃は、毛沢東が死去した1976年に終わったが、彼の人気がほんとに上がり始めたのは、やっと今なのだ。政治哲学から個人の道徳までの話題について、孔子の古い考えが、新しく広まりつつある。

http://www.eis-world.com/iza/070519.html

2007年12月27日 (01:23)

太母文化と父権文化との主従性:太母文化⇒父権文化⇒新太母文化:ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明

検討問題(今回は、同時に、いくつものテーマを論じているという事態になっている。聖徳太子には適わないが。なにか、ポリフォニー的な思考を行なっている感じである。言語学的言うと、シンタグマではなく、パラディグマ的である。垂直的である。)

1)視覚と心の関係について:同一性の感覚・知覚の能動性と、差異の受動性との意志的統合

2)現象とは何か:可視界としての現象界:1の問題とも関係するが、

3)天使、精霊、神々、その他について:
先に、鈴木氏の考えでは、高振動があり、それが、霊や魂等ということになるが、この高振動という考え方を使用すれば、天使等々も説明できよう。

4)心のMedia Pointは、身体とどう結びついているのか:「結ぶ」という言葉・概念は重要である。

5)性愛とは何か:性とは何か:性欲とは何か:性愛と心との関係

6)感覚欲望とは何か

7)(以下は、だいぶ込み入っているというか、錯綜しているので、後で、明快に整理したい。)

『論語』について:思想構造は、父権制・君主制であるが、思うに、二重化されていると思う。即ち、上下ヒエラルキーは父権制・君主制であるが、それとは別に、差異共振性があると思う。ただし、それが、父権制・君主制によって統括されている様態になっていると思える。つまり、父権制という枠組みが第一義的にあり、それに差異共振性が組み込まれている形である。父権制が主であり、差異共振性が副となっている。この形式はある意味で、キリスト教と同じであるが、キリスト教のもつ超共同体性はなく、完全に血縁・父権的共同体主義である。
 儒教がこの思想構造をもつなら、組み込まれている差異共振性は、同一性の発達とともに、弱化・劣化するだろう。つまり、形式主義的な父権主義・ヒエラルキー構造が中心・支配的になるだろう。これが、東アジアにおいて、硬直した封建的政治・社会体制を生み出したものではないだろうか。
 私の考えでは、差異共振性は母権制である。太母文化である。つまり、古代中国においても、古代ギリシアと似たような太母文化が父権文化に吸収的に統合された事態が生起したように思えるのである。この太母文化を基盤にもちながら、それを支配統合する父権制の形態を理論化して、概念用語を明確にすべきであるが、管見では、見つからないのである。文化人類学・社会学等では、文化習合であるが、それでは、ヒエラルキーを説明していないのである。
 これは、実は、ポスト・モダンの形式と同じなのである。同一性主義が差異共振性を内在化しているという形式である。(分かってしまえば、実に簡単なことであるが、人類は、これを数千年間把握できずに、戦争を起こしてきたのである。)この形式自体は、簡単なことだが、適切な概念・用語が見つからないのである。内在的支配、内在的中心化、差異内在的同一性主義、差異内属同一性主義、太母従属父権主義、天主地従主義、太母⇒父権化、・・・。結局、自己認識方程式でいいのかもしれない。結局、差異同一性化である。だから、差異同一性父権文化でいいのかもしれない。
 結局、『論語』に感じられる思想様式は差異⇒同一性的父権制、ないしは、差異同一性父権共同体制である。
 今、ふと思ったことだが、西洋と東洋で起こったことの決定的違いは、先に述べたように、ユダヤ・キリスト教による同一性中心主義であり、それによって、太母を完全に否定したことであるが、東洋では、太母を基盤としつつも、それを父権主義が統括するような政治社会システムを取ったことである。その結果、西洋においては、西欧近代文化、近代合理主義・近代的自我が生まれ、その帰結がアメリカ合衆国である。しかしながら、東洋においては、硬直した父権制が残って、個・自己・差異の自由の活動が制限されたのは、否めない事実であろう。
 西洋文明において、太母文化から切りはされた(分離した)ことで、「自由」な自我の活動が可能になった。しかしながら、太母文化が影(シャドウ)となったのである。【そこで、ユング心理学他のものが生まれたのである。しかし、ユング心理学も折衷の知ではないだろうか。何故なら、太母から分離した自我と太母に基づく自己とを結合するのが個化であるとユングは述べ、それを陰陽的な錬金術のイメージで説明しているが、それは連続性の観念によると考えられるからである。結局、それでは、連続的結合に過ぎず、誤謬であろう。即非・差異共振にまで達しないと、自我(同一性)と自己(差異ないしは差異共振性)とは、統一しないのである。ユング心理学については、後で検討するので、ここで一応留める。p.s. 以下、9で論じることにする。】ついでに言えば、西洋文化は常にこの見えない影に脅かされることになる。ホラーが流行るのもこれによるだろうし、ファンタジーも同様であろう。
 問題が複雑なのは、西洋における自由は、ルネサンス的自由とプロテスタント的自由があるからである。前者は、太母性をもった自由であり、後者は当然ながら、太母性を否定した自由である。前者は自我の自由であり、後者は個の自由である。とまれ、両者が混淆しているのが、西洋の自由概念であると思われる。
 しかしながら、アメリカの近代合理主義/近代的自我の自由を中心に考えると、それは、現象世界・可視界の自由である。心の自由ではないのである。この点でアメリカ的自由の問題がある。
 さて、元の、古代東アジアの差異同一性の父権主義に返ると、そこでは、太母文化が基盤にあった、しかし、そのため、自我=同一性の自由が欠落して、硬直した父権制・専制が生まれたと思われるのである。(もっとも、これは、利己主義を防いでいる。)(p.s.  ここの説明は間違っている。太母文化基盤があったが、父権主義が強いために、自我=同一性の自由が欠落したと考えられる。西洋文明は、ユダヤ・キリスト教によって、自我=同一性の自由=プロテスタンティズム自由を獲得したのである。確かに、ユダヤ・キリスト教は父権主義であるが、脱共同体的父権主義であり、自己中心主義である。ロビンソン・クルーソーである。つまり、古代中国の場合は、父権的共同体主義【儒教】であり、西洋の場合は、父権的自己中心主義であった。p.p.s. p.s.の「太母文化基盤があったが、父権主義が強いために、自我=同一性の自由が欠落したと考えられる。」という説明はおかしい。父権的共同体主義が強いために、自己・個・差異が押さえられたと考えられる。共同体主義は、太母的差異共振性から発しているが、それが、父権制によってヒエラルキー化されていて、太母的差異共振から発する自己・個・差異の発展が抑圧されたと考えられるということだと思う。)
 ここで、理論的に整理して考えよう。私の考えでは、太母文化、つまり、太母子の文化に差異共振性があると見ている。これが基盤にあり、且つ、主導的であれば、同一性は太母文化の枠に留まるはずである。しかしながら、人類史は、そう展開せずに、父権文化を進展させたのである。そのため、太母文化が基盤にあっても、父権文化に従属したものとなったのである(差異同一性父権制)。結局、同一性主義主導の文化、物質主義主導の文化、国家権力主義の文化等となったのであり、好戦的人類となったのである。これは人類史のアイロニーであろう。
 私は先のイエス・キリスト問題に対する私の仮説から見て、イエスにおいて、太母文化のMedia Pointが発動している考えた。思うに、イタリア・ルネサンスの自由はイエス・キリストに原型があるのかもしれない。私は、個・自己・差異の原点は太母文化にあると思っている。しかるに、自我・同一性の原点は父権文化にあると考えられる。そして、プロテスタンティズムは、後者を進展させたのである。
 問題は、どうして、古代中国において、太母文化が基盤としてあったが、そして、その上に父権制が形成されたが、西洋のように、自由が進展しなかったのかということである。
 太母文化こそ、個・自己・差異の源泉であるからである。イエス・キリストは、父権的共同体を破壊し、普遍的共同体の志向を説いたと考えられる。この点が孔子とは決定的に異なるのである。もし、孔子が老子のようなコスモス・宇宙的発想をしていたら、事態はたいへん異なったことだろう。イエス・キリストとは、孔子に老子を掛けたような存在であろう。そう、孔子は老子的な真に太母文化を弱化させてしまったと思えるのである。しかしながら、朱子学は、老子的な太極的宇宙論を取り入れたではないか。
 問題は実に難しいものとなっている。結局、やはり、イエス・キリストの意味に関係するのである。そして、父の意義に関係すると思う。結局、超越性の問題である。私は父は超越的同一性であると考えた。これは、自然を超越した同一性である。ここがポイントであろう。東アジアにおいては、常に自然が基盤である。超自然という発想は基本的にはないだろう。イエス・キリストにおいて、超自然的な差異共振性が発動したということでないだろうか。ここにおいて、自己が自然の絆から解放されたのではないだろうか。しかし、これは、悪魔的な自由でもあろう。
 今の私の知識では、推測でしかないが、直感では、やはり、孔子のもつ父権的同一性主義がその後の中国文化を規定したように思えるのである。これは、当然、東アジア全体に関係することである。老子的な太極コスモスは朱子学に取り入れられたが、それでも、孔子的父権的同一性主義が強固であったように思えるのである。
 この父権的ヒエラルキーはどこから来ているのだろうか。直感では、インド・ヨーロッパ語族と類似する、父権的遊牧民族文化から来ているのではないだろうか。中国はたびたび、遊牧民族によって支配されてきたのである。いまのところは、そのように仮定しよう。つまり、中国の太母文化は、父権的遊牧民文化によって、利用されつつ、おそらく苛烈・酷烈に抑圧されてきたということである。言い換えると、老子的文化が孔子的文化に抑圧されてきたということである。
 これはある意味で西洋文化と同じである。しかしながら、西洋文化においては、イタリア・ルネサンスのように太母文化が爆発して、個・自己・差異の文化が誕生して、いわば、プロト・モダンを形成したのである。これは、南欧の地中海太母文化が基盤である。女神文化である。D.H.ロレンスの発想から言うと、イタリア先住民のエトルリア文化が基盤である。
 では、中国の太母文化(風水はこの一部である)はどうして、復興しなかったのか、である。欧州のようにルネサンスを迎えなかったのかである。思うに、これは、西洋による植民地主義が一つの原因ではないだろうか。しかしながら、やはり、精神文化的には、老子的文化の孔子的文化による抑圧が根因のように思えるのである。父権的遊牧民文化の力ではないのか。
 とまれ、これから、老子的文化がさらに興隆するはずである。つまり、中国の太母文化が復興するはずである。そして、これがトランス西洋文明の基盤となるはずである。西洋文明はユダヤ・キリスト教の可能性をもう尽くしてしまい、心的エネルギーが枯渇していると考えられる。
 

8)美と醜について:外見美と外見醜と内面美と内面醜

9)ユング心理学の解明:自我と自己と個の問題:
上の7の一部で、ユング心理学に言及し、とても興味深い問題をもっているので、ここで考察を行ないたい。
 
10)7において、言及した人類史のアイロニーについて:何故、太母文化が進展しないで、父権文化が発展して、同一性・唯物論・国家権力主義的世界が形成されたのか。
 ここでは、簡単に言うに留めるが、結局、基本・基盤・マトリックスは、Media Point、即ち、太母文化なのである。父権文化とは、実は、太母文化の一種の変容のように考えられるのである。これは生物学的に、オスはメスの変容と言えるのと同じだと思う。
 即ち、Media Pointが同一性へと転換する事態である。太母文化は、端的には、差異共振文化である。超越性と同一性が平衡・バランスをもっていた文化である。エデンの園、エリジウム(ベートーヴェンの第9に出てくる)、女人の島(ケルト神話)、常世等は、その神話的名残と考えられる。シュメール文化も太母文化であり、また、クレタ文明もそうである。
 私の想像では、太母文化がそのまま進展すれば、差異共振文化が発達して、平和の文化が継続したはずである。個・自己・差異も発展したはずである。何故、父権化する必要があったのか。
 簡単に言えば、自我・同一性の形成のために父権文化が必要であったということだと思う。あるいは、物質文化の必要である。太母文化は、超越性と結びついているので、純粋な物質文化は発生しなかっただろう。
 やはり、自我・同一性・物質の発達のためには、父権文化、とりわけ、ユダヤ・キリスト教文化が必要であったということになるだろう。言い換えると、太母の同一性を特化したのが、父権文化である。太極で言えば、陰陽において、陽を特化したのが、父権文化である。それは陰を否定しているのである。
 では、自由はどうなのか。私は太母文化にこそ、真の自由の基盤があると考えている。これは、個・自己・差異の自由である。思うに、太母文化の様態では、差異と同一性が未分化的ではないのか。確かに、差異があるし、同一性もあるが、それは、陰陽の如くである。差異と同一性の太極である。だから、純粋な自我はない。いったい、「わたし」、ichとは何か。
 ここでも直感で言おう。同一性の意識と同時に差異の意識が発生するのである。少なくとも、これが私の心的経験である。同一性の意識とは自我である。そして、差異の意識とは自己であり、両者を同時に指して、個であると思われるのである。
 この問題は、9のユング心理学の解明の問題に通じるが、ここで、解明しよう。だから、やはり、太母文化においては、同一性と差異とは未分化であり、純粋な同一性や差異は形成されないのだろう。
 やはり、父権文化によって、とりわけ、ユダヤ・キリスト教西洋文化によって、特化的に同一性が肥大化して、そのために、差異が純粋化されて直感されるようになったのではないのか。言い換えると、西欧近代主義によってこそ、差異が意識されることとなったのではないのか。それが、ポスト・モダンである。パラドクシカルであるが、事実であろう。易で言えば、正に、陽極まれば、陰に転ずである。
 理論的には、どうやら、これで筋が通るようである。言うならば、太母が一端、父になって、そして、その後、太母であることを自覚するということだろうか。太母の自己意識の形成である。梵我一如である。プラトニック・シナジー理論から言えば、Media Pointの自己意識化である。あるいは、正に、螺旋的回帰である。
 ところで、ここで西洋文明について考えよう、というか、ユング心理学の問題を考えて、終わりにしたい。ユダヤ・キリスト教は父権中心主義である。即ち、太母を殺害した文化である。しかしながら、イエス・キリストにおいては、否定された太母文化が取り込まれている。絶対矛盾がイエス・キリストに生起しているが、キリスト教会は、父権中心主義的にイエス・キリストをいわば、利用しているのである。民衆支配するために、イエス・キリストを利用しているのである。(思うに、民主主義はイエス・キリストから発しているだろう。だから、本源は太母文化である。これから、太母文化が復活するが、そうすると、民主主義は淘汰されるだろう。差異共振主義が取って代わると考えられる。)
 問題は、太母を殺した父権的同一性中心主義(ロゴス中心主義)、近代合理主義/近代的自我であるが、これは、どうなるのか、である。ユング心理学は、これを自我として、これに無意識の自己を統合させて個を形成することを眼目にした。ユングは、錬金術の陰陽のイメージを用いて、その結合を説明していた。しかしながら、私の直感では、それは、結合しないのである。連続性のままであり、分裂したままである。
 何故かと言えば、端的に、自我は自己を否定するからであり、その絶対矛盾が、陰陽の考えでは、結合できないと考えられるからである。いかに、自己の世界に沈潜しても、元型的世界に沈潜しても、それは、陰の世界であり、それだけでは、陽と結合しえないのである。(因に、元型とは、Media Pointにおける超越的振動の形相であろう。)端的には、両者を即非様相にしないと「結合」は不可能なのである。 
 では、西欧近代的自我の運命はどうだろうか。それは、今言ったことが当てはまるのである。単に神秘主義やオカルト主義では、分裂したままである。精神世界主義は、それだけでは、分裂したままである。統合失調症である。ここで東洋身体的思想が決定的に重要になるだろう。つまり、身体という陰と頭脳という陽を調和させる心的技術をもっているのである。禅はそのようなものであり、ヨガもそのようなものである。また、気功もそのようなものである。
 直感では、《心》を形成するのである。ユングは東洋思想を活用したが、この第三の《心》までは達せずに、二元論に留まったと思えるのである。対極的二元論までは行ったが、太極には達しなかったと思うのである。
 結局、西洋のichは分裂しているので、新しい太母文化、差異共振文化には、達しないように思えるのである。つまり、西洋はユダヤ・キリスト教文化を超克しない限り、新太母文化・差異共振文化には、到達できないということである。だから、必然的に、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明になるのである。

2007年12月25日 (22:36)

二人のイエスではなく、一人のイエス・キリストの場合:仮説2:一人のイエスにおける父と太母の両極性

もし、二人のイエスではなく、一人のイエスの場合は(、通念であるが)、私の基本的なアイデアはどうなるだろうか。
 基本的なアイデアとは、これまでの考察からわかるように、同一性主義の極と差異共振主義の極という両極性である。先には、それぞれの極を、異なる人間であるイエスに振り分けた形になったのであるが、理論的に、同一人物に見ることは可能である。だから、基本的なアイデア自体は変化ないが、視線が変わることになるのである。
 一人のイエスに同一性主義の極(父の子)と差異共振主義の極(太母の子)を見た場合、そのダイナミクスの発生をどう考えたらいいだろうか。思うに、そのイエスは、ヤハウェ神学の影響下にあり、同一性主義を教えを受けていた(おそらく、エッセネ派の「義の教師」の下で学んだのではないだろうか。『死海文書』から)。言い換えると、超越的同一性主義の教義の下にあった。
 しかるに、イエスは、当時のヘレニズムの諸宗教混淆状況にあって、レヴァント(東地中海)やメソポタミアの太母の宗教(大女神の宗教)、(大乗)仏教、ゾロアスター教、古代ギリシアの秘儀、グノーシス派、ミトラス教、等々の多様な宗教知を学んでいたとしよう。とは言え、後者は、共通の思想を含んでいたと言えるのである。即ち、それは、端的に言えば、Media Pointの思想である。あるいは、太母のコスモスの思想と言ってもいいかもしれない。顕示的にそうではなくても、その思想を内在か潜在させていたと考えられるのである。
 だから、イエスは、ヘレニズム的イエスであるということである。当時は西洋は発展途上(ローマ帝国)あるいは未開であったから、東洋の諸宗混淆状態のイエスということになる。そして、Media Pointの思想ないしは太母のコスモスの思想をもっていたイエスは、当然、コスモス超越エネルギーと共鳴共振しやすいのである。
 問題は、ヤハウェ神学の下にあったイエスの心(霊)が、Cosmic Media Pointが啓いて発出したコスモス超越エネルギー(神霊エネルギー)と即非共振したときどういう心的様態になっただろうかということである。明らかに、絶対矛盾する要素が併存する様態となるのである。おそらく、激烈な亀裂的な衝動・爆発がイエスの心(霊)に発生したはずである。パトス、パッション(パッションには、受難の意味がある)である。当然、両極に分裂するはずである。ヤハウェの極では、父の子であるという意識が発生し、太母の極では、太母の子であるという意識が勃発したはずである。これが、新約聖書に認識できるイエスの分裂性の起因ではないだろうか。(p.s.  この説明では、おかしい。何故なら、イエスは太母の子という意識はなかったからである。だから、訂正して、太母の子というのは、父の子という意識の下に潜在していた。つまり、無意識であったとすればいいのである。イエスの無意識において、太母の子というエネルギー作動していたとすればいいのである。これが、隣人愛や罪の赦しの思想になって表われたと考えられるのである。尚、贖罪の思想であるが、それは、父の子の意識であると言えよう。)
 これで、一人のイエスの仮説を説明したことなるが、後の枢要な問題はイエスが説いた神の国、そして、格別殊更に説いた聖霊とは何かである。
 順序を逆にして、聖霊から説明を試みよう。これは、ある意味で簡単に説明できる。Media Pointの極、太母の極をもっているので、差異共振性があり、この差異共振性によって喚起されるコスモス的超越エネルギーが聖霊であると言えよう。これはおそらく、風や天使で表現されるだろう(p.s. 鳳凰や不死鳥などは、やはり、聖霊の表現の一つではないだろうか。天女もそうかもしれない。結局、天使もそうであろう。多様な聖霊・精霊である。後で、大地の精霊について検討したい。)。つまり、正確に言えば、コスモス的超越エネルギーの伝達される様態を聖霊と呼んだものと思われる。キリスト教では、神霊を鳩で表現するが、鳩も聖霊であろう。ついでに、東方キリスト教でいう神のエネルゲイアであるが、もう自明であるが、コスモス的超越エネルギー、Cosmic Media Pointエネルギーのことと考えられる。東方キリスト教、即ち、ギリシア正教等は、太母的コスモスを西方より強く残していたので、このような思想がキリスト教に入ったと考えられる。
 さて、神の国であるが、これももう解明は容易ではないだろうか。それは、端的には、心のMedia Pointのことである。これは、同時に、Cosmos Media Pointであるし、同時に、いわば、Supercosmos Media Pointでもある。高次元である。超越界、神霊界、永遠界である。仏国土である。心の高天ケ原である。

2007年12月25日 (18:06)

ユダヤ・キリスト教の父なる神ヤハウェは太母を排斥した:最勝超至高プラトニック・シナジー理論

後で詳述する予定だが、創世記に書かれているヤハウェが排斥したバアル崇拝やアシェラ崇拝は、古代中近東の「異教」・女神信仰・太母宗教であったのであるが、その排斥は他の東洋の宗教、世界の土着的な宗教を否定することになったのである。ここにオリエンタリズム等の西洋中心主義の土台が築かれたと言えよう。ここに西洋文明の諸悪の根源があると言わざるをえないだろう。これは、西洋神話の聖ジョージの龍殺しと通じるのである。龍とは端的に、太母・大女神である。東洋はこれを肯定してきたのである。正反対の文明が生じたわけである。
 これまで、考察したように、キリスト教は、ユダヤ教が否定した太母・大女神宗教の一部を取り入れた、それをユダヤ教的父の神の支配においたのである。太母の息子の一人のイエスは、父の独り子とされたのである。カトリックはいわば、この進展であるが、父のヒエラルキーを残したままの折衷宗教である。
 結局、ユダヤ・キリスト教は世界普遍的な太母・大女神宗教を抹殺していったと言えるのである。それはとりもなおさず、西洋文明の世界支配を意味するのである。そして、今日、超貧富格差の世界固定化、自然の破局的破壊、心の破壊等を行なっているのである。
 しかしながら、今や、ユダヤ・キリスト教を形成した同一性エネルギーが枯渇して、差異エネルギーが賦活されていると考えられるのである。それは、排斥された太母・大女神宗教の復活を意味すると考えられるのである。ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明、すなわち、新「東洋」文明の黎明をむかえていると考えられる。
 プラトニック・シナジー理論が新しい文明を主導する理論となるだろう。

参考1:西洋文明が太母文明を抹殺する狂気・暴力については、D.H.ロレンスの名著の一つ『アメリカ古典文学研究』における、メルヴィルの『白鯨』におけるエイハブ船長が白鯨を偏執狂的に追跡する事態の解明に説明されていると言えよう。「白鯨」が太母文明であり、エイハブ船長が西洋文明である。エイハブ船長はアメリカ合衆国国家の象徴である。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-D-H-%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9/dp/4061976826/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=books&qid=1198593615&sr=8-1

参考2:

「やや要約的な言い方になりますが、アメリカに来てからも彼は、すべてを大脳の管理下に置き、「意識化」することを善であるとするヨーロッパ文明の人間中心主義、ヨーロッパ独善主義を徹底的に批判し続けたのです。その批判の代表的な一例として、『アメリカ古典文学研究』におけるメルヴィルの『白鯨』の解釈があります。強固な大脳意識と強烈な支配欲に取り憑かれた白い人種の代表、エイハブ船長は黒い人種、黄色い人種、赤色の人種などを引き連れて「白鯨」を追いかけますが、彼らの船ピークォド号は「白鯨」によって打ち砕かれるのです。この「白鯨」を、ロレンスは、われわれ人間の「深奥にある血の本質」であると言っています。「血」とは、万物の中を流れる「命」であると考えれば分かりやすいかもしれません。そして最後にこの小説はすべての「命」をあくまで破壊し尽くし自分たちの意志の下に組み敷こうとする白い人種の終焉を予言する物語だと結論づけています。」
http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/23/special.html

アメリカと D. H. ロレンス

                   吉 村 宏 一

2007年12月25日 (17:28)

シュタイナーのキリスト論と太母の子の一人イエス:ユダヤ・キリスト教の死滅と本源的太母子神道の復活

『イエスを語る』(シュタイナー・コレクション)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95-%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/4480790756/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1198563039&sr=8-1
を拾い読みしたが、私の太母の息子の一人のイエスの思想と比較すると、重要な相違が浮かぶなどして実に興味深い。(私の二人のイエスの仮説は、シュタイナーの本から来ているのである。)今は、簡単に問題点をあげると、それは、《自我》の問題である。

 今、日本語で自我と訳されている原語(ドイツ語)は何かと思って検索したら、なんとichであった。これを自我と訳していたのである! これは、完全に誤訳である。少なくとも、自己ないしは個、あるいは、ポスト・モダン風に差異と訳す必要があるのである。
 日本語に訳されたシュタイナーの文献は、この点で完全な誤りに陥っている。これは、犯罪的な、悪魔的な誤訳である。
 私は日本語の翻訳や英訳を通して、シュタイナーを読んだが、邦訳にある自我に疑問をもってきて、シュタイナーの霊学に疑問をもったものである。(思えば、フロイトの精神分析のichも自我と訳しているだろう。これも、誤りだろう。そう、これにも、違和感を覚えていた、確かに。)
 しかし、今、『イエスを語る』を読み、自我が出てきて、どうも疑問に思ったのである。キリストが自我に関係するという点が、おかしいと思ったのである。ichと自我は全く異なる概念である。
 キリストがichに関わるというなら、プラトニック・シナジー理論からも納得できるのである。何故なら、自己認識方程式は、ichの方程式であるからである。そして、ichと他者との即非関係を数理化したものであり、これは、太母の子のイエスを表すと考えられるのであるから。というのは、端的に、太母の子のイエス【異教的キリスト;もっとも、今現在では、太母の子たち、と複数形で考えたい。この複数形はエローヒーム(神の複数)と関係するのではないだろうか。神々である。ここから、ヤハウェがいったい何であるかが示唆されるだろう。この点に関しては、後で考察したい。】は、根元的なich(+i)と他者 (-i)との差異共振様態(+i)*(-i)であると考えられるからである。【ここで述べた「根元的なich(+i)と他者(-i)との差異共振様態(+ i)*(-i)」であるが、これは、ウパニシャッド哲学の梵我一如(ぼんがいちにょ)の梵、すなわち、ブラフマンに当たるだろう。そして、この我は、正に、太母の子に相当するだろう。つまり、ichである。そう考えると、自己認識方程式は、ウパニシャッド哲学の核心をも表わしていることになるだろう。思うに、根元的なichと他者とは、大ichと大他者と表わすこともできよう。巨視的に視ると、ウパニシャッド哲学もヒンドゥー教と同質であり、いわば、太母の哲学と言えよう。そう、太母子の哲学と言ってもいいのではないだろうか。当然、プラトニック・シナジー理論も太母子の哲学理論である。】
 さて、以上のように、シュタイナーの霊学(人知学)におけるichを、自己・個・差異と読み直して、シュタイナーのキリスト論と私の異教的キリスト教説を比較するとどうだろうか。
 シュタイナーはヤハウェをおそらくich原則と説いているはずである。何故なら、日本語訳では、自我原則になっているからである。そして、キリストとは、このich原則を意味して、それが、イエスに「降臨」したことになる。愚説の異教的キリスト教論では、Cosmic Media Pointと共振した太母の子としてのイエスが存するが、それは、当然、ich原則をもっているし、また、当然、差異共振法理を「帯電」しているのである。だから、シュタイナーのキリスト論と愚説の異教的キリスト教論は共通すると言えよう。
 しかしながら、シュタイナーのキリスト論、霊学的キリスト論は、父を肯定していることで、愚説とは異なるのである。問題はシュタイナーがヤハウェを ich原則と考えていることである。私見では、ヤハウェは、ich原則ではなく、自我原則、いわば、ego原則である。ヤハウェは、自我原則だからこそ、異教を暴力的に排除したと考えられるのである。イスラエルの民衆が、偶像崇拝(バール神崇拝、アシェラ崇拝、これは、明らかに、異教であり、太母信仰である。)しているのを憎悪したのである。だから、ここで、シュタイナーは根本的な誤謬を犯していると考えられるのである。ヤハウェは自我原則であり、ich 原則(自己・個・差異原則)ではないのである。
 ich原則は太母から発するのであり、ヤハウェからは自我原則が発するのである。この混同のために、シュタイナーのキリスト論は、私は批判するユダヤ・キリスト教的残滓を留めることになったのである。そう、言い換えると、ヤハウェの自我原則とは、同一性原則である。これが、イエス・キリストに侵入しているのである。そして、これが、現代の途轍も無い諸々の災厄の根源なのである。
 ということで、ichの視点から、シュタイナーのキリスト論を批判して、愚説の異教的キリスト教論を説くことになった。思うに、キリストという名称を避けるべきである。異教的太母子教である。また、異教という名称も廃止すべきである。原教、本教、真教、根源教、本源教である。本源的太母子教である。

p.s. さらに、教も廃止して、道とすべきかもしれない。本源的太母子道である。それとも、本源的太母子法はどうだろうか。
 

参考:
アントロポゾフィー指導原理 (11)
11.
《私》(自我)として統合される自己意識は、意識のなかから浮かび上がってくる。この意識が発生するのは、物質体とエーテル体の諸力によって、物質体とエーテル体自身が解体(分解)され、精神的なものが人間のなかに入り込むときである。物質体とエーテル体の解体のなかで、意識生活が展開されるための土台がつくられるのである。しかし、生体そのものが破壊されないためには、この物質体とエーテル体の解体の後に、その再構築が続かなければならない。それゆえ、意識体験のために解体作用が生じたなら、まさにそこで解体されたものを再び構築しなければならない。この構築作用を知覚するとき、そこに自己意識が体験される。人は、内的直観のなかで、この過程を跡づけることができる。単に意識されたにすぎないものに対して、自分自身の内から、その模像をつくりだす。すると、それによって意識が自己意識へ移行するのを感じることができる。単に意識されたにすぎないものは、その像を、生体のなかの、いわば解体作用によって空虚になった部分に持っている。その空虚さが、内面から再び満たされたとき、その意識は自己意識のなかへ引き込まれるのである。この「満たす」能力をもった本性が
《私》(自我)として体験される。(訳・入間カイ)

11.
Das Selbstbewußtsein, das im «Ich» sich zusammenfaßt,
steigt aus dem Bewußtsein auf.
Dieses entsteht, wenn das Geistige in den Menschen dadurch eintritt,
daß die Kräfte des physischen und des ätherischen Leibes diese abbauen.
Im Abbau dieser Leiber wird der Boden geschaffen,
auf dem das Bewußtsein sein Leben entfaltet.
Dem Abbau muß aber, wenn die Organisation nicht zerstört werden soll,
ein Wiederaufbau folgen.
So wird, wenn für ein Erleben des Bewußtseins ein Abbau erfolgt ist,
genau das Abgebaute wieder aufgebaut werden.
In der Wahrnehmung dieses Aufbaues liegt das Erleben des Selbstbewußtseins.
Man kann in innerer Anschauung diesen Vorgang verfolgen.
Man kann empfinden,
wie das Bewußte in das Selbstbewußte dadurch übergeführt wird,
daß man aus sich ein Nachbild des bloß Bewußten schafft.
Das bloß Bewußte hat sein Bild
in dem durch den Abbau gewissermaßen leer gewordenen des Organismus.
Es ist in das Selbstbewußtsein eingezogen,
wenn die Leerheit von innen wieder erfüllt worden ist.
Das Wesenhafte, das zu dieser Erfüllung fähig ist, wird als «Ich» erlebt.
(Rudolf Steiner)
http://blog.goo.ne.jp/iruma-kai/m/200709

入間カイのアントロポゾフィー研究所


参照1:
アシェラ

Asherat
Ašerat,Asherat,Ashrah,Aţrt,Ba'alat,アシェラ,アシェラト,アシェラ=ヤム,アシラ,アシラト,バアラト
地域 イラク・メソポタミア
伝承 フェニキア神話
概要 フェニキアの大地母神。エルの妻,バアルの母。
参考文献(書籍)

1. 健部伸明 『幻想世界の住人たち II』 (新紀元社, 1989) - p. 252
2. 山北篤 『西洋神名事典』 (新紀元社, 1999) - p. 19,271,273

関連レコード

1. エル
(イラク・メソポタミア)   フェニキアの天空神,至高神。アシェラの夫..
2. バアル
(イラク・メソポタミア)   フェニキアの主神。「主」。エルとアシェ..

http://myrmecoleon.sytes.net/iib/view/ASR002.html
西洋神名事典

参照2: