2008年05月31日 (01:22)

利益とは何か:差異共振価値と同一性価値の齟齬としての資本主義と差異共振共同体資本主義

利益とは何か。
今日、想像していたが、資本主義とは、生産に関しては、差異共振主義であるから、当然、一人一人が生産するよりは、余剰に生産できるのである。つまり、資本主義的生産とは、余剰生産なのである。つまり、価値が増加する経済である。差異共振経済である。物質的にも、精神的にも、即自的には発展する経済である。
 問題は、誰もがわかるように、出口、売買・商業の問題である。ここで、生産物は、市場を介して、売買されるわけであるが、このとき、差異共振価値である商品が同一性価値=貨幣価値に還元されるのである。ここが、資本主義のネックだと考える。即ち、差異価値、ないしは、差異共振価値を同一性価値に還元する倒錯を資本主義社会はもっていることである。
 このために、同一性価値が差異共振価値を凌駕するマネーゲームが生じるのである。
 思うに、同一性価値とは、近代民主主義に即応するだろう。差異がすべて同一性に還元され、それが貨幣価値化されるのである。これは、それとして、近代の価値である。封建主義的ヒエラルキーは消滅している。
 これは、これまでの検討から、ユダヤ・キリスト教が古代ギリシアの知性を取り込むような様態で主導的であったから形成されたと考えられる。ユダヤ・キリスト教が同一性価値を肯定しているのである。
 では、資本主義とは何であるのか、という疑問が浮かぶ。これは、実は、先に提示した自己極性方程式で表現されると思う。簡略的に記せば、⇒±1である。この±1の矛盾が資本主義に内在していると考えられるのである。同一性価値とは、当然、-1 であり、差異共振価値とは、+1である。
 結局、この齟齬が現代世界を混沌とさせているのである。問題は、同一性価値の-1にあるのは、誰でも理解できよう。資本主義の差異共振価値=富=+1を、-1が否定してしまうと考えられるのである。
 金融資本とは、-1のことであり、これが、+1の富を横取りしてしまうのである。もっとも、一般的に言っているのであるが。
 問題は、国家がこの-1に深く関与していることである。このために、+1が抑圧されるのである。(トランス国家主義が必要である。)
 結局、これまで、繰り返したように、差異共振価値+1をそれとして、評価する金融システムが必要であるということである。【ここで、Kaisetsu氏の銀本位制の発想が生まれるのである。】
 直感で言えば、得た収益・利益は誰のものあるのか、がいちばんの問題ではないだろうか。プルードンは社会集合力を述べたが、確かに、利益は、企業の総合性に属すると言えよう。つまり、差異共振力に利益は属すると言えよう。そして、この利益を差異共振的に還元しないならば、その企業は、同一性価値に従属することになるだろう。
 だから、私的企業とは、社会的企業でなくてはならないと考えられるのである。そして、この社会的還元を自主的に行うべきである。
 国家が介入すると、利権が生じて、いわば、マージンが取られることになると考えられる。だから、思うに、企業の社会化=共同体化が必要であると考えられるのである。
 このためには、政治家や国家・地方公務員は必要が少なくなってくるだろう。ただし、私はアナーキズムまでは考えない。国家・政府は、やはり、法形成機関としてあるべきである。
 結局、企業自体の差異共振化がなくてはならないということになる。ここでは、企業とは、自営業も含むものである。
 思うに、このためには、差異共振課税が必要になるだろう。自主的に、差異共振投資をするならば控除するが、そうでなければ、課税するのである。
 
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2008/05/30-19:08 12社中10社が減益=不払いで新契約低迷−主要生保の08年3月期  生命保険主要12社の2008年3月期決算が30日、出そろった。各社とも営業より保険金不払い問題の調査を優先したため新契約がほとんどの社で減少。本業のもうけを示す基礎利益は10社で減り、12社合計では11.6%の減益だった。
 新契約から受け取る保険料を1年分にならした年換算保険料は、アメリカンファミリー生命保険を除く11社がマイナス。医療保険などの第3分野も伸びが鈍化した。また、最大手の日本生命保険は新契約の死亡保障の合計額で3位に転落。不払い問題への対応に「営業を止めるぐらいの態勢で取り組んだ」(日生の筒井義信常務)ことに加え、死亡保障から医療保障へ顧客ニーズが変化したことも影響した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=ind_30&k=2008053000923

2008年05月29日 (22:22)

1/4回転とイデアと現象:Media Pointの様相について:共振様相と否定様相

先に、1/4回転によって、差異が否定されると言った。問題は、境界面の問題である。Media Pointと+1の境界の問題である。
 ここで、思考実験するが、イデア極性があり、牽引と反発が存するのではないだろうか。牽引の場合が、(+i)*(-i)⇒+1であり、反発の場合が(+ i)*-(-i)⇒-1ではないだろうか。だから、(-*)という反発を意味する記号を作って、(+i)(-*)(-i)⇒-1としたらどうだろうか。
 牽引の場合が、差異共鳴であり、ここにおいては、絶対的な二元論はなく、イデア界と現象界とが、Media Pointを介して、交信しているだろう。
 それに対して、反発の場合、差異共鳴が否定されて、同一性主義が生まれる。これが、超越神の場合だと思われる。
 思うに、本来、牽引と反発の対称性があり、母権文化は、そのバランスを保持すると思われるが、父権文化となると、これが、崩壊すると思われる。即ち、反発が牽引よりも、主導的になるのであり、-1が強化されると思われる。
 ここで、大局的に見ると、1/4回転をどうみるのか、にかかっている。私は、超越神的現象を1/4回転として、母権的現象をゼロ回転と見た。私の直観は、1/4回転で、差異が否定・排除されると考えたことにある。
 ここがポイントである。果たして、1/4回転で、差異が否定・排除されるのか、否か、である。
 これは、ある意味で愚問である。即非様相なのであるから、差異は肯定されつつ、否定されるのである。だから、1/4回転は、超越神的現象ではありえないだろう。では、超越神的現象とは何だろうか。それは、即非を二元論・二項対立に変換することである。
 果たして、1/4回転によってそうなるだろうか。私は先にはそう直観したが。そして、ゼロ回転は差異共鳴性を保持すると考えた。もう少し、先の直観に従うならば、ゼロ回転における差異共鳴性が、母権的多神教性(多元性・多様性)を形成するのである。
 しかしながら、このゼロ回転という考え方は、間違っているのではないだろうか。私のイメージは、即非性であるから、やはり1/4回転はなくてはならないのであり、それが多神教性を形成するのである。
 何が言いたいのかと言えば、差異を排除・抑圧しない1/4回転がありうるのであり、それが、母権多神教等の場合である、ということである。
 もしそうならば、超越神の場合は、それとは異ならないといけない。しかし、先の私の直観は、太母が根源であり、超越神は、その一つの変態であるというものであった。太母が超越神に変換するのである。
 整理すると、問題点は、差異を排除・抑圧しない母権多神教と、差異を排除・抑圧する超越神宗教との二つを、1/4回転に関係させてどう説明するのか、ということになる。言い換えると、差異を排除・抑圧しない1/4回転と差異を排除・抑圧する1/4回転というものがあるのだろうか、ということになるだろう。
 しかし、前者はあると仮定しているのであるから、問題は、後者の場合である。果たして、差異を排除・抑圧する1/4回転はあるのか、ということである。
 直観では、実に明瞭であるが、理論化がうまくできないのである。例えば、イシスとは、イデア共鳴であり、オシリスは⇒+1で説明でき、イシス⇒オシリスである。太光から現象光が生まれるのである。これは、原神道でも同様と考えられる。
 そして、それに対して、オシリスを殺害するセトは、差異を排除・抑圧すると考えて、⇒-1である。そして、超越神はこちらに関係すると思われるのである。
 古代エジプト神話(宗教)では、オシリス+1とセト-1の極性があり、周期・回帰があったと考えられるが、超越神宗教では、多神教を否定して、-1だけになると考えられる。
 この差異の排除・抑圧とはいったいどういう力学に拠るのであろうか。先に私は、+1と-1は、イデア極性(牽引と反発)にリズムに拠ると示唆したが、そう作業仮説すると、牽引の極限において、+1があり、反発の極限において、-1があるということになる。しかし、この二重性は回帰する二重性である。端的に極性であり、神話・宗教的には、永遠回帰(女神の神話)であろう。
 ここには、絶対的な差異の排除・抑圧はないのである。だから、超越神宗教が生じるには、反発(斥力)が過剰になる必要があると考えられる。そう、上に述べたように、反発の極限において、超越神が発生すると言えよう。これをどう見るのか、である。
 本来、牽引と反発は対称的である。しかるに、反発が過剰となり、いわば、特異点が発生するときが、超越神の発生を意味するのではないだろうか。次のように考えたらどうだろうか。
 牽引の場合、+iは-iと共振して、⇒+1を発生させる。思うに、+iが1/4右回転して、-iが1/4左回転して、そうなるのではないだろうか。しかるに、反発の場合は、+iと-iとが、それぞれ自乗して、⇒-1となるのではないだろうか。あるいは、+iが1/4左回転して、-iが1/4右回転して、 ⇒-1になると考えていいのではないだろうか。
 そして、差異共振の場合が、母権多神教であり、差異反発の場合が、父権超越神宗教ではないだろうか。
 とは言え、両者は極端の場合である。本来は、イデア極性の周期に即する+1と-1との対極性が生起しているだろう。だから、自己認識方程式を変形させて、

(+i)☯(-i)⇒±1 or (+i)☯(-i)⇒|1|

が考えられるのである。これは、いわば、自己極性方程式であろう。
 以上のように考えると、1/4回転は、様相が三種類あることになるだろう。+1の純粋な差異共振性と-1の純粋な差異反発性とイデア極性による±1の差異共振性である。
 これで、ゼロ回転の問題は解決されたと言えよう。ゼロ回転ではなく、1/4回転における母権多神教性ということがあるということである。
 さて、しかしながら、+1と±1との関係を問う問題が現われたと言えよう。言うならば、純粋差異共振性と差異極性との関係ではないだろうか。前者は純粋な母権制ではないだろうか。アニミズム、シャーマニズムを含むだろう。先住民文化である。
 それに対して、差異極性の場合は、同一性=物質が明確に発現していると思われる。排除・抑圧の原理が現われている。しかし、極性の一端としてである。古代エジプト神話(宗教)はここに相当するのではないだろうか。そうすると、母権多神教もここに入ると見た方が適切なように思われる。
 さて、大局的に見ると、イデア極性(イデア太極)の周期・回帰を仮定して見ると、西洋文明とは、差異反発-1のヤハウェが主導的であるが、反面、差異極性ないしは差異共振性があると考えられる。思うに、差異反発とは、イデア極性の陰ではないだろうか。だから、月である。それに対して、差異共振はイデア極性では陽ではないだろうか。だから、太陽である。端的に、-1は月であり、+1が太陽である。反影であり、光である。一神教は月であり、多神教は日である。
 思うに、今日、イデア極性であるが、差異反発-1の様相から脱して、差異共振+1へと新たに変換していると思われるのである。超越神的エネルギー発動が終焉して、差異共振エネルギーが発動しているのではないだろうか。
 つまり、陰から陽へ、月から日へと転換しているのではないだろうか。これは、文明大転換、大進化ではないだろうか。超越神のもつ差異反発=同一性主義のエネルギーが枯渇して、差異共振エネルギーが賦活されていると考えられるのである。
 ここで、宗教・神話をさらに問題にすると、超越神は、 (+i)☯(-i)⇒-1で表現されると思われるが、ならば、太母はどうなるだろうか。太母は、左辺であろう。太母から超越神が生まれるのである。では、⇒+1とは何の神となるのだろうか。
 これまでの考え方では、オシリスに相当するのである。「日御子」である。そうならば、ギリシア神話のゼウスはどのように表現されるのだろうか。当然、ゼウスも太母の一変形だと考えられるが、どうような様相なのか。-1が超越神だから、ゼウスは-1ではない。そうかと言え、+1ではありえない。それでは、イシスが中心となるからである。すると、太母に近いと言えよう。太母はイデア極性であり、イデア振動をもち、多様性を形成する。これにゼウスは近いと思われるのであるが、太母自体ではありえない。何故なら、男神であるからである。
 ゼウスの多情多感性・好色性、これらは何だろうか。私は、ゼロ度と言いたい感じがあるのである。+1でもないし、-1でもないし、イデア極性的多様性に近いものをもつのである。
 そうすると、Media Pointに近いのである。しかしながら、Media Pointは、イデア極性の中心点(臍)であるから、Media Pointでもない。だから、ゼロがいちばん適切なのではないだろうか。そうならば、構造である。ゼウスは、構造主義となる。確かに、倫理感がなく、いい加減である。しかし、主神である。+1ならば、差異共振倫理があるし、-1ならば、超越神倫理があるのである。両者の和としてのゼロではないだろうか。そうすると、母権多神教とは別に父権多神教があり、これは、ゼロということになるのではないだろうか。
 すると、構造主義/ドゥルーズ哲学は、ゼウス=ゼロの哲学であり、ハイデガー/デリダ哲学は、ゼロと±1の哲学ではないだろうか。フッサール哲学は、⇒+1の哲学である。
 ここで、留めることにする。

2008年05月29日 (11:44)

胎生・へその緒とMedia Point:太母と超越神:トランス資本主義と差異的共進化

胎生とは、哺乳類を想起させる。直感では、ここには、生命の本質の「秘密」がある。そう、へその緒がポイントである。英語では、
臍の緒 a navel string; an umbilical cord
である。辞書では、

um・bil・i・cus
1 【解剖】 臍(へそ) (navel).
2 (問題などの)中心点, 核心 (core, heart).
3 【動物】 (巻貝の)へそ穴.
4 【植物】 臍(さい) 《種子の胎座に付着する部分; hilum ともいう》.
5 【数学】 臍点(せいてん) (umbilic, umbilical point).
6 【考古】 (巻物の)軸玉《軸の両端につけられた飾り》.
#《1615》 L umbilicus ← UMBO: cf. Gk omphalos
[株式会社研究社 新英和大辞典第6版]

である。ギリシア語だと、オンファロス(臍)である。
直感では、臍とは、Media Pointである。ならば、へその緒とは何だろうか。神話で言えば、イシス・オシリス神話に関係するし、キリスト教では、聖母子に関係する。
 へその緒とは、臍と同様に、Media Pointの物質・身体的「表現」ではないだろうか。イデアから現象へと展開する際の、要(かなめ)、蝶番であろう。【p.s. へその緒は、Media Resonanceメディア共鳴の物質的表現というべきだろう。】
 ここで、考察を進展させるならば、「母」の本体とはイデア・エネルギー(超越エネルギー)である。イデアと言ってもいい。そして、Media Pointを介して、「子」とつながる。これが、アニミズム、シャーマニズム、母権多神教の様相であろう。
 それに対して、父権一神教(超越神宗教:この方が適切ではないだろうか)は、これを、一端、切断するようであり、切断する主体が、超越神である。Media PointにおけるMedia Resonance(メディア共鳴)を排除的に否定するのである。
 以前述べたが、超越神とは、太母の変形ではないだろうか。太母の変形として、有り体に言えば、太母の1/4回転として、超越神が存するのではないだろうか。つまり、原宗教(母権宗教)は、本来、ゼロ回転ではないだろうか。それが、1/4回転して、父権宗教が生まれたのではないだろうか。この問題はおいておく。
 この1/4回転の力学が、Media Pointの切断を意味するのではないだろうか。そして、それが、また、生物的には、出生ではないのか。
 そう、キリスト教的には、楽園追放である。エデンの園からの人間の追放である。これは、精神・生物的事実ではないだろうか。1/4回転で、Media Pointが閉ざされるのである。⇒+1の結果の+1である。(だから、これまで、-1として見たものは、+1で表現できていると言えよう。後で、整合化したい。)
 結局、言い換えると、太母が原型であり、超越神は一つの様相ということである。そして、後者の場合、Media Pointは隠蔽されて、壁になるのである。構造主義やポスト・モダンは、ここを問題にしたのである。【そう、また、小説家ハーマン・メルヴィルもここを問題にし、ほとんど、トランス・モダンに近い発想に到達しているだろう(『白鯨』)。】
 超越神では、Media Pointが壁となり、二元論が発生する。超越性と現象性である。お馴染の、西洋の絶対的二元論である。そして、西欧近代は、超越性を否定して、内在的知性を形成してきた。【ほとんど、唯一の例外がフッサールである。カントは先駆的な役割をしたとは言える。】
 結局、東洋文化では、基盤であるMedia Pointに、西洋は接近していたとは言える。西洋哲学が東洋文化に近づいたのである。そして、東洋文化、日本文化は、逆に西洋哲学に接近して、 Media Pointを哲学化する努力がなされたのである。鈴木大拙の即非の論理、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、等は、その成果である。
 問題は、超越神文化において生じた絶対的二元論を新たに乗り越えることなのである。これが、ポスト近代の思潮・趨向である。
 そう、イデア・エネルギーの発現方法が問題なのである。以前の私の作業仮説に戻るが、イデアの回転が本来的にあると思われるのである。ある1/4回転に対して、さらなる1/4回転が生起する。これで、新たにMedia Pointが開くと考えられるのである。
 結局、人間の心身(精神的身体)は、Media Pointを基礎に形成されていると考えられるのである。そして、1/4回転に対して、マイナス1/4回転の反作用がはたらき、回帰するのではないだろうか。つまり、絶対的二元論と差異共振性が交互に生起するのではないだろうか。言い換えると、同一性と差異との交互変換である。
 すると、同一性エネルギーが主導のときと、差異エネルギーが主導のときが存するのである。西洋文明は、ユダヤ・キリスト教文明なので、前者が主導的なのであるが、二重性の文化であり、無意識においては、差異エネルギーが存しているのである。同一性主導であるが、同一性と差異の二重性・分裂性をもっているのである。
 私見では、今日、マイナス1/4回転が発動しているのであり、差異エネルギーが賦活されているのである。しかしながら、人間の意識は、同一性に留まっているので、賦活された差異エネルギーを受容することができずに、排除・隠蔽しているのである。そのために、無意識のエネルギーとなり、非合理主義的なエネルギーとなって、いわば、今日現代の人間・人類を襲っているのである(戦争、犯罪、病気、等)。
 つまり、新たに、Media Pointは開いているが、人間の意識は、近代合理主義/近代的自我の二元論に留まり、開いたMedia Pointから発動する差異エネルギー(差異共鳴エネルギー=イデア・エネルギー=超越エネルギー)の現前・現象に対して、無力なのである。排除したり、隠蔽したりするが、存在するものを排除したり、隠蔽するというのは、無理なことであるので、病理的なのである。
 そう、今日・現代、差異エネルギー=差異共鳴エネルギー=イデア・エネルギー=超越エネルギーは賦活され、発現しているのである(聖霊の時代)。
 これに対する反動が起きているのである。とりわけ、現代日本がそうである。国家主義経済の反動であり、近代主義の反動である。この反動は、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」で説明できよう。【同一性意識と差異無意識の分裂があるが、後者が主導的になっているので、その過剰性から、ショートを起すのである。つまり、同一性による連続性があるので、両者はショートしてしまうのである。】
 グローバリゼーションは、この差異エネルギーの能動と反動の両側面があるのかもしれない。だから、新しい経済とは、差異エネルギーを能動積極的に取り入れる経済と言えよう。これは、同一性主義を乗り越えるので、脱資本主義になると思われるのである。つまり、同一性資本ではなくて、差異資本が発生するのである。差異資本を積極的に発展すべきなのである。【これまでの資本主義が同一性に拘束されていたとするならば、新しい経済は、差異資本主義としての脱資本主義である。差異資本とは、物質資本、貨幣資本を包摂した精神資本、精神的身体資本と言えるだろう。Media資本ないしはMedia Point資本と言えるのではないだろうか。ならば、Media 資本主義、Media Point資本主義である。】
 これは、経済だけでなく、政治もそうならなくてならない。差異共振政治である。結局、今日現代、人類は、差異共振進化のエポックを迎えていると言えよう。大進化の時代である。あるいは、新たな大洪水の時代である。黙示録的時代である。

化石:3億8000万年前のへその緒、最古の胎生化石 豪の研究チーム、新種の魚発見

 約3億8000万年前の地層から、人間のように赤ちゃんを産んでいた新種の魚の化石を、豪ビクトリア博物館などの研究チームが発見し、29日付の英科学誌ネイチャーに発表した。さい帯(へその緒)とつながった胚(はい)(受精卵)が初めて確認され、脊椎(せきつい)動物で交尾−出産が行われた最古の記録となる。

 発見された化石は2種類で、初めてあごに骨を持った魚類の仲間「板皮(ばんぴ)類」に分類される。約3億年前に絶滅したとされているが、このうち1種類は新種だった。

 研究チームは、西オーストラリア州のデボン紀(4億1600万〜3億5920万年前)の地層で発見されたこの化石を調べた。顕微鏡で精査すると、新種の魚の子宮内から胚とさい帯、卵黄の痕跡が見つかった。もう一方の既知の魚の体内からも3個の胚を確認した。

 交尾によりメスの体内で卵子と精子が受精し、成長後に赤ちゃんとして体外に出る繁殖は胎生(たいせい)と呼ばれる。従来の最古の胎生化石は中生代の爬虫(はちゅう)類で、研究チームは記録は約2億年さかのぼったと分析する。【田中泰義】

毎日新聞 2008年5月29日 東京朝刊

http://mainichi.jp/select/science/news/20080529ddm041040101000c.html


ギョギョ!?へその緒残る古代魚化石 「胎生」起源、2億年遡及
2008.5.29 07:55
発見された化石を元に作成された、魚の出産の想像図(ビクトリア博物館提供) 発見された化石を元に作成された、魚の出産の想像図(ビクトリア博物館提供)

 へその緒(臍(さい)帯(たい))で母子がつながった約3億8000万年前の古代魚の化石が、オーストラリア西部で見つかった。母体内である程度まで子供を成長させてから出産する「胎生」が確認された最古の脊椎(せきつい)動物となる。同国のビクトリア博物館の研究者らが、29日発行の英科学誌「ネイチャー」に発表した。

 見つかった化石は、板(ばん)皮(ぴ)類と呼ばれる絶滅した魚類の1種で、全長約25センチ。発見場所はオーストラリア西部の古生代・デボン紀後期の地層。

 化石は保存状態が良く、体内に臍帯とつながった胎仔(たいし)、栄養をためる卵黄嚢(のう)が石化した痕跡などが残っていた。現代のサメやエイの一部と同様に、母体から胎仔に直接栄養を供給する「胎生」の生殖機能を備えていることが分かった。

 今回の発見で、脊椎動物の胎生の起源は、これまでよりも2億年ほどさかのぼることになる。
このニュースの写真
発見された化石を元に作成された、魚の出産の想像図(ビクトリア博物館提供)
オーストラリアの約3億8000万年前の地層から見つかった魚の化石の一部。へその緒や子の骨が見られる(ビクトリア博物館提供)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080529/acd0805290758002-n1.htm

2008年05月28日 (01:52)

資本主義の同一性価値蓄積衝動を超える経済を目指して:脱資本主義と先住民族文化(アニミズム)

先に資本主義の衝動は資本蓄積衝動であると言ったが、言い換えると、同一性貨幣価値蓄積衝動である。同一性価値である貨幣資本を増殖させる衝動である。
 有り体に言って、これは、一体何なのだろうか。私はこれをヤハウェ衝動と呼んでいる。数理化すれば、+1⇒-1となるのではないだろうか。否、むしろ、 (+i)*-(-i)⇒-1ではないだろうか。なぜなら、+1の場合は、デリダ的に言えば、痕跡ないしは差延があるから、同一性主義は相対化されると考えられるからである。
 だから、問題は排除的否定が発生して、貨幣資本を増殖させる同一性主義となることにある。それは、他者=差異をすべて同一性価値に還元する志向性である。いわば、触れるものがすべて黄金に化するミダス王のようなものである。
 正に、父権・男性的衝動である。ルサンチマン衝動でもある。この同一性衝動を脱構造化するトランス資本主義はどうやって形成されるのだろうか。
 ゲゼルの消滅通貨の考え方は一つのトランス資本主義の考え方であろう。同一性が増殖せずに、消滅するという通貨は、確かに、鋭いアンチテーゼである。
 確かに、利子の問題が大きいだろう。また、土地の資産化も問題である。ここでは、想起することを述べるが、利子の発想とは、思うに、農耕や牧畜の発想と近いのではないだろうか。たとえば、稲は、一粒の種が死して、多くの実をつけるのである。何倍だろうか。千倍くらいだろうか。あるいは、羊や牛を殖やすことは、富となるだろう。
 ここにあるのは、量的な発想である。いわば、数量還元主義である。質の考慮が欠落しているのである。
 思うに、いわゆる、先住民族、アイヌやインディアン等のアニミズムの方が、「環境」との関係において、生活文化を考えるので、脱資本主義のアイデアはそちらに見出せるのではないだろうか。私は、こちらの方が、ゲゼルの思想よりもラディカルのように思えるのである。
 自然環境と結びつけて経済を考える、いわば、自然経済学があってもいいだろう。当然、これは、社会環境との結びつきも考慮するのである。だから、自然社会経済学である。
 これについては以前、総論的に考えたことがある。簡単に言えば、自然・社会にフィードバックさせる循環経済、還流経済である。
 自然/社会の基盤から富を得るならば、それは、自然/社会へと還元しないといけないのである。つまり、自然/社会に共振・共鳴するように、富を還元する必要があるのである。つまり、自然創造資本や社会創造資本という形で、還元すべきなのである。
 つまり、経済の目的が、自然/社会創造になるのである。金儲けではなくて、自然/社会創造が経済目的なのである。もちろん、ここには、文化も入るから、自然/社会/文化創造的経済である。自由主義は、差異共振的自由主義へと変換するのである。
 つまり、同一性価値主義から差異共振価値主義へとパラダイム転換するのである。同一性資本から差異共振資本へと転換するのである。貨幣で言えば、同一性価値貨幣が差異共振価値貨幣へと変換することである。
 これは一体どういうことなのであろうか。差異共鳴価値貨幣とは何なのだろうか。それは、差異共鳴価値資本である。それは、差異共鳴価値的商品を売買するものになるのではないだろうか。
 ということは、差異共振価値商品の市場がなくてはならないだろう。ある差異共振価値企業があり、差異共振価値商品を販売する。それを、差異共振貨幣で購入すればいいのではないだろうか。
 これは、人と人、人と自然を共振化していく経済である。共振的相乗効果をもつような経済であろう。思うに、人や自然を救うことが、いわば、儲けになる経済である。
 差異共振精神と結びついた差異共振経済である。精神と物質の結びついた差異共鳴価値経済である。後で、さらに検討したい。

2008年05月24日 (00:32)

ハイデガーの本来的存在について:+1と-1とゼロとMedia Point:トランス・モダン

今は余裕がないので、簡単に触れると、ハイデガーの現存在は、+1の共一性における同一性を意味するのではないだろうか。問題は、本来的存在(以下、本存在)である。それは、Media Pointと+1の境界に位置するように思える。Media Pointにおいて、超越性から同一性への展開するが、そのとき、Media Point の超越性の扉が閉じていて、その閉じた扉から同一性(現存在)が発現すると考えられるので、本存在とは、その閉じた扉である。いわば、原同一性である。⇒ の先端ではないだろうか。やはり、ゼロなのではないだろうか。このゼロ、±ゼロが本存在ではないだろうか。超越性・虚数なきゼロ、±ゼロ。簡単にするため、ゼロで考えよう。
 ゼロから+1が生起するのではないのか。しかし、私は、先に、+1は共一性であると言った。自己=他者=同一性ではないだろうか。そして、これが、現存在ではないだろうか。そうすると、先に述べたように、ハイデガー存在論は、ゼロ(本存在)⇒+1(現存在)となるだろう。今は、ここで留める。
 
(続き)
 『存在と時間』では、ハイデガーは時間性を、現存在を超越するものと捉えている。だから、本存在は、+1ではありえない。とは言え、本存在は、 Media Pointではない。だから、やはり、考えられるのは、Media Pointと共一性+1との中間ないしは境界ということである。
 そうすると、やはり、⇒の先端ということになるのではないだろうか。それがどうも適当なように思える。フッサール現象学は、Media Pointである⇒を取り出したのであるが、ハイデガーはMedia Pointである⇒の先端を本存在として取り出したと思われるのである。
 思うに、この⇒の先端は奇妙な性質をもつだろう。ゼロないしは無から発現するようにして、原同一性、原自我が存するように思われるのである。一種の即非性がここにあるように思われるのである。即ち、ゼロでありつつ、+1であるということである。当然、+1が現存在ないしは世界内存在である。
 ハイデガーが時間性を超越的というのは、ゼロが+1を超越しているということを意味しているのではないだろうか。一種の超越的内包点としてのゼロをハイデガーは考えていたのではないだろうか。
 このゼロを本存在ないしは存在と考えるのは、理解できることである。なぜなら、+1が自己同一性認識と考えられるからである。自己同一性認識以前のものとして、存在を説いたと考えられるのである。確かに、認識を同一性に限定すれば、ゼロは前認識となるだろう。そして、それを存在と名付けるのは、それなりに理解できることである。
 しかしながら、既述したように、ハイデガーは真の超越性を否定しているので、つまり、(超越的)差異共振性(差異共鳴性)を否定しているので、超越的認識があるのを理解できなかったと考えられるのである。
 以上の試論的考察から、ハイデガー存在論は、数理的には、ゼロ⇒+1と表記するのがやはり適切であるように考えられるのである。繰り返すが、ゼロが本存在(本来的存在)であり、+1が現存在(頽落した存在)ないしは世界内存在である。そして、ゼロと+1は確かに、亀裂があり、不連続である。それを確かに、ハイデガーは指摘している。
 ということから、ここで、(一応、あらためて、)ポスト・モダン哲学について考察してみたい。
 その前に、前提として、-1と+1について整理しておきたい。+1は共一性ないしは同一性である。それに対して、-1は同一性主義ないしはロゴス中心主義である。近代で言えば、近代合理主義・近代的自我に当たる。
 ドゥルーズ哲学について言うと、それは、-1の同一性主義(「プラトニズム」)に対して、連続的差異の思想を提示した。それは、直感では、ゼロの思想である。ハイデガーの場合は、ゼロと+1との亀裂があったが、ドゥルーズの場合は、+1を排除して、差異をゼロに収斂させている。そうすると、実は、同一性がなくなるのであり、その結果、一種のオカルト主義になるのである。神秘主義になるのである。現象の同一性を排除してしまっているからである。だから、ドゥルーズは、ハイデガーから後退しているのである。
 それに対して、(初期)デリダについて言うと、私見では、ほぼ、ハイデガーを踏襲しているように思われるのである。とまれ、ロゴス中心主義とは、-1の同一性主義のことである。それに対して、差延とは、同一性である+1に関わるゼロの痕跡のことではないだろうか。同一性+1に対して、ゼロという「原点」が、言わば、つきまとうのである。このゼロのつきまといが、差延ではないだろうか。言い換えると、脱構築とは、ロゴス中心主義=同一性主義(-1)に対して、ゼロ⇒+1というゼロと同一性の亀裂を差延ないしは痕跡というアンチテーゼとして提示した理論のように思えるのである。つまり、ハイデガーがゼロ(本来的存在)と同一性(現存在)との亀裂というものを、(初期)デリダは、差延ないしは痕跡として提示しただけのように思えるのである。つまり、(初期)デリダはハイデガー存在論のエピゴーネンではないだろうか。
 以上、簡単に、ドゥルーズと(初期)デリダについて見た。ここで、後期デリダに簡単に触れると、彼は、ゼロを脱して、ニーチェやキルケゴールの特異性、絶対的差異について、ハイデガー=初期デリダを乗り越えたと思われるのである。つまり、後期デリダは、既述したように、トランス・モダンになったと考えられるのである。
 そのように系譜的に考察すると、不連続的差異論は、後期デリダ(とジャン=リュック・ナンシー)のトランス・モダンを、鈴木大拙の即非の論理を基盤にして、発展させた理論であり、プラトニック・シナジー理論は、それに超越的共振性を与え、且つ、それを数理化した理論であると言えよう。

2008年05月21日 (00:02)

-1と+1について:同一性と差異について:共一性+1と同一性主義-1とトランス・モダン

先に、差異極性ないしは差異対極性という考え方から、+1や-1について考察したが、まだ不十分な点が感じられるので、ここで検討したい。
 問題は、Media Pointにおける即非様相のことである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、差異が即非的に、同一性になるのであるが、果たして、そう考えていいのだろうか。先に、差異の他者への志向性について述べたが、先には、他者へ近づくが、他者とは一致しないもので、極限的には、他者と一致するものとしたが、果たして、それでいいのだろうか。
 思うに、他者への志向性とは、やはり、他者と一致するのであり、同時に、他者とは異なるということと取るのだが妥当ではないだろうか。言い換えると、他者と一体であるが、同時に、他者とは異なるということではないか。そうならば、正に、即非様相であり、問題はない。
 では、+1ないしは⇒+1とは何だろうか。先には、同一性と取ったが、どうだろうか。思うに、即非性ないしは差異共鳴性と取るべきではないだろうか。先に、共一性という用語を使用したが、それは、差異と他者との即非的一致を意味するものであるが、それは、ここに当てはまると言えるのではないだろうか。
 ということで、共一性という用語を復活させたい。すると、-1が同一性となるのである。
 -1=同一性について検討する前に、ハイデガーの本来的存在やデリダの差延について触れたい。直近では、それらは、Media Pointを実軸に圧縮したものではないかと述べたが、どうだろうか。考えてみると、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、結局、+1になることではないだろうか。⇒+1は、フッサール現象学を意味するが、ハイデガー存在論やデリダ哲学は、+1を意味するのではないだろうか。⇒がないというのは、超越性がないということである。Media Pointがないということである。つまり、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、+1であるということだと考えられる。
 これは、共一性であるが、ここにおいては、思うに、自己と他者との異であったり、同であったり、永遠に揺れ動いているのではないだろうか。正に、差延というのにふさわしい領域ではないだろうか。そう、ここも不思議な領域だろう。即自的であるが、そして、閉鎖的であるが、永遠に揺れ動いているのである。(想起するのは、夢のような様態である。超時空間的である。)
 ならば、Media Pointと+1はどう異なるのかということになろう。これは、当然、決定的に、絶対的に、異なるのである。ほとんど言うまでもないが、Media Pointには、超越性が、虚数が顕現しているのであるが、+1には、もはや、超越性、虚数は顕現していないのである。ただ、現象内の事象に過ぎなくなるのである。ちなみに、これで、ハイデガーの本来的存在には、差異共振性がないと言ったことが説明できるだろう。差異共振性とは、本来の他者との即非共振性のことであり、+1の共一性においては、端的に、同一性内部の即非様相が考えられるのである。他者なき、自己内共振性である。同一性に閉じた、即ち、即自的な、自己二元性ないしは鏡像性である。ここにあるのは、他者のシミュラクルである。擬似差異である。確かに、即非性があるが、同一性内部の即非性であり、本来的な即非性ではない。有体に言えば、一が二になったり、二が一になったりする様相である。即ち、二である一であり、一である二である。正に、鏡面・鏡像の様態であろう。また、デリダの差延も、そのようなものと思われるのである。というのは、同一性に、差異が付属するからである。一が同一性であり、二が差異であり、両者の関係が差延であろう。
 さて、本題の同一性=-1について検討しよう。これは、直感では、+1の共一性(差延・本来的存在・鏡像)を基盤とした、差異・他者の否定、即ち、排除的否定であると考えられるのである。
 共一性はいわば、ナルシシズムであるが、これに対して、本来の他者・差異が発現するのであり、それに対して、共一性はそれを排除的に否定(以下、排除否定)するのである。なぜなら、本来の他者・差異は、共一性(ナルシシズム)の快感を破壊するからである。同一性主義の基盤は、この共一性にあると思われる。結局、+1が土台となり、自己+iと他者-iを排除否定すると、-1が形成されると考えられる。
 整理すると、共一性は端的に言えば、自己同一性である。それは、自己差異+iと自己他者-iを同時排除否定しているのである。そして、他者・差異が発現すると、共一性=自己同一性は、それを排除否定して、-1を発現するのである。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1ないしは-(+i)*(-i)⇒-1となる。これが、真の同一性主義、自己中心主義、利己主義である。近代においては、近代合理主義・近代的自我である。
 思うに、自己差異の否定と同時に、自己他者の否定が起こる場合は、逆に、+1を保持することになる。これはどういうことななのだろうか。それは、単純に中和ではないだろうか。
 以上のような試論から見ると、構造主義やドゥルーズ哲学はどうなるだろうか。構造主義は、やはり、共一性+1と関係すると思われる。というのは、構造主義の対立とは、共一性の同一性における二項対立を意味すると考えられるからである。そこでは、一即二、二即一である。いわば、二位一体構造をもつ。言い換えると、弁証法構造である。
 では、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、差異を連続的に同一性化するものである。だから、それも、共一性+1ではないだろうか。つまり、差異を共一性に還元してしまうのである。
 ならば、構造主義のゼロ記号とは何か。先に、それは、+1+(-1)=0としたが、どうだろうか。ゼロ記号とは、共一性の矛盾を指し示す記号ではないだろうか。つまり、ゼロから共一性が形成される考えるのではないだろうか。それは、無と同じことになるだろう。ならば、キリスト教の無からの創造と同じになるのではないだろうか。もし、そうならば、構造主義やポスト・モダンは、キリスト教の帰結となるだろう。
 とまれ、以上の思考実験から見ると、ポスト・モダンは決して新しい理論ではないことになる。ハイデガー哲学や構造主義の展開である。問題は、それらが、キルケゴールやニーチェの特異性やフッサールの超越性を捉え損なっていることである。思うに、20世紀になって、日本の哲学者等が捉えたように思えるのである。鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造等(Media Pointは、岡倉天心が直感的に捉えていたと言えよう)である。また、ロシアの神秘主義者であるウスペンスキーである。
 とまれ、今言えることは、20世紀初期における哲学・理論の革新が、正確に継承されずに、20世紀後半において哲学・理論領域は混沌とした状態となり、知の混乱があるということである。プラトニック・シナジー理論は、哲学・理論の混乱を乗り越える正統本道の哲学・理論であると考えられるのである。
 グローバリゼーションも、この知の混乱の所産と言えないことはない。特異性の哲学・理論、Media Pointの哲学・理論が早期に発見されていたら、世界は差異共鳴的秩序・調和を志向していただろう。

2008年05月18日 (17:01)

物質とは何か:現象について:自己認識方程式と同一性-1の再確認

爽やかそよ風が窓から入ってきて、やや薄い雲がかかっているが、穏やかな晴天の東京である。
 さて、先に、ヴィクトル・シャウベルガーの自然理論からPS理論に関して、説明が修正されることになったが、まだ、不十分なので、再考したい。±1が現象における極性となったので(この点も確定したわけではないので、さらに検討が必要ではある)、これまで、物質を-1と捉えてきたことに対する大きな変更であり、十分な検討が必要である。
 結局、差異の問題がここにある。差異の共鳴、これは、本質では、(+i)*(-i)と表記される。例えば、+iが一つの差異であり、-iが他者ないしは他者としての差異である。差異+iは、他者-iを志向する。これを引きつけられる力と見ていいだろう。しかし、同時に、差異+iは、他者-iではありえない自己存在を固持する。他者-iであろうと志向しつつ、自己であることを固持するのが、差異+iである。
 そして、この差異の様態が極性であると考えることができたのである。また、これは、PS理論では、即非様相と見ているのである。
 差異のこの内在的即非志向性は、(+i)*(-i)で表現されるだろう。問題は、現象様態である。他者-iへの志向性は、言い換えると、共振・共鳴性である。引きあう力である。これを、先には、+1として考えたのである。しかし、正確に言うと、⇒+1である。他者への志向性であり、他者との一致ではないのである。だから、そう考えると、差異の独立性、ないしは、不連続性は、⇒+1においても、内包されていることになるだろう。⇒が決定的なポイントである。これは、即非記号、他者志向性記号と言ってもいいだろう。
 そうならば、⇒-1はどうなるのだろうか。先には、それは、差異の独立性に基づく反発・斥力を意味すると述べたのである。⇒+1を引きあう力(吸引力)とすると、それは、同時に、反発する力(斥力)になるだろう。だから、⇒-1を斥力と見る必要はなくなるのである。
 だから、端的に、自己認識方程式は、差異現象方程式と見てもいいのである。だから、±1ではなく、+1で済むのである。この点は、さらなる訂正であり、元に戻ったのである。
 では、新たに、物質とは何か、又、⇒-1とは何か、となるだろう。直感で言えば、物質とは、+1自体である。差異志向性の帰結・エンテレケイアである。そう、同一性も+1ということになるだろう。自我も+1である。ならば、⇒-1ないしは-1とは何だろうか(e^iπ=-1と関係するのか)。
 -1とは、これまでの考え方では、(+i)*-(-i)⇒-1ということから考えられたのであり、これは、他者の否定・抑圧・排除によって発生すると考えたのである。差異志向性においては、他者への志向性と同時に、差異自体であるという事象があるのであり、後者の差異自体であるという不連続性は、確かに、一種の他者の否定ではあるが、-1を生み出す、否定・抑圧・排除ではない。
 つまり、ここには、少なくとも二つの否定があるのである。差異志向性の否定は、いわば、相対的否定であり、同一性の否定は絶対的否定である。この点をどう明確化するのかが、一つのポイントである。
 思うに、差異自体ということは、本来、他者を否定していないのである。ただ、他者とは別に差異自体が存するということである。しかしながら、差異は他者とは対立しているのである。ここで、ある人の意見を借りて、差異と他者の関係を反対と捉えると明快になるかもしれない。AとBとは反対であるとは、確かに、AとBは対立するが、AはBを排除していないのである。だから、これは、端的に、対極性と呼ぶのが、明快・明晰ではないだろうか。
 Aの極はBの極とは対立しているが、A極はB極を排除はしていない。ここで、否定という用語の問題がある。対極的否定と排除的否定があるだろう。私が同一性における否定に見るのは、当然、後者である。
 ここで整理すると、差異志向性は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で必要十分に表現されている。左辺は差異志向性であり、差異対極性と言っていいものである。そして、⇒は即非性を意味するのである。
 そして、同一性を意味する⇒-1ないしは-1であるが、それは、他者の排除的否定と、他者の排除的肯定(自己差異を排除的に否定する)に拠ると考えられる。他者の排除的否定を考えると、それは、どういう条件・事態・前提から発生するのだろうか。
 これまでの考えは、ルサンチマンから発生するということであり、他者-iにおける苦・悲に対するルサンチマンから他者の排除が生起すると考えたのである。これは、先天的な、ないしは、男性的な傾斜・勾配によると考えられる。即ち、(+i)*(-i)という差異志向性・差異共鳴性・差異対極性に関していうと、先天的に、ないしは、男性において、+iに対して、-iが脆弱にできているのである。即ち、過剰な+iに対して、-iが脆弱なのである。+iを原知とすると、-iが原身体である。このような先天的傾斜ないしは男性的傾斜があると考えられるのである。
 この結果、出生後、幼児において、ルサンチマンから他者を排除的に否定する結果、-1の同一性が発生すると考えられるのである。本来、差異共鳴性があるが、そのような傾斜から同一性の-1が発生すると思われるのである。
 言い換えると、人間の精神において、差異志向性と同一性志向性の二つの傾向が混淆しているのであり、先行しているのは、前者であるが、父権主義においては、後者が優位となり、本来的な様相が劣位となる倒錯した状態になっていると言えるのである。
 文化史的に見ると、ユダヤ・キリスト教的一神教が、同一性志向性に貫かれていると考えられる。もっとも、イエス・キリストの教えには、差異志向性は含まれるが、ヤハウェ的一神教のために、それがきわめて抑圧されていると考えられるのである。
 まだ、近代合理主義・近代的自我であるが、これは、父権的な同一性主義の延長にあると考えられるのである。同一性としての合理性・物質性・自己を中心価値においているのである。端的に言えば、差異志向性を抑圧した同一性合理主義である。これが、近代欧米の世界観の基盤にあるものと考えられるのである。ただし、何度も言うが、ルネサンス(正しくは、中世)に根差した差異志向性が欧米人の無意識には存すると言える。言い換えると、差異と同一性の混同が欧米人の精神には存しているのである。以上のように考えると、端的に、元に戻ったことになる。
 さて、最後に、光の現象について考察したい。以上の検討から、光現象は、当然、⇒+1である。それを+1と見るのが、物質科学である。⇒+1とは、光をエネルギー現象と見るのであり、+1とは物質現象と見るのである。今日、電磁波ということで、エネルギー現象として正しく確認されている。
 問題は、光の知覚にある。光の視覚はできるのか、という問題もある。太陽を直視することはできない。つまり、光は直視できないと思う。光が反射したものを視覚することができるのだと思う。これが一点である。思うに、光は、⇒+1であり、この左辺が超越的であり、それで、直視できないということなのではないだろうか。
 では、光の反射した現象をどう知覚するのだろうか。ここでは直感で言おう。視覚は、反射した光(以下、単純に光と表記する)と共振・共鳴すると思う。これは、自己認識方程式でも表記できるし、また、Media Resonance(メディア共鳴)でも表記できると思われる。
 問題は、例えば、「わたし」が、遠くに位置するビルを見たとき、そのビルの視覚とは何か、ということである。思うに、無意識の背景、基礎として、差異共振(差異共鳴)が存していると考えられるが、現象としては、個体・個物としてのビルを視覚するのである。即ち、同一性としてのビルを視覚するのである。三次元空間ないしは四次元時空間におけるビルとして視覚するのである。
 同一性としてのビルとはどう数理(数知)化されるのか。+1なのか、-1なのか。同一性主義の視覚ならば、-1としてのビルとなるだろう。そして、差異志向性における視覚ならば、+1としてのビルではないだろうか。しかしながら、+1の視覚とは、仮象に過ぎないだろう。⇒+1と見たときに、現象となると言えるのではないだろうか。⇒+1においては、差異共振(共鳴)性が存するのであり、こちらが本来的であると考えられるのである。+1とは、同一性仮象(同一性シミュラクル)である。
 では、-1のビルとは何なのだろうか。+1のそれとどう異なるのか。同一性仮象と同一性主義との違いということになるだろう。思うに、それは、知覚の相違ではないだろうか。同一性仮象+1とは純粋視覚の現象であり、同一性主義-1とは視覚現象の言語化ではないだろうか。つまり、視覚する対象はビルという言語が適用されるものであり、言語視覚としてのビルということではないだろうか。
 だから、ある意味で、+1と-1は似ているのである。しかしながら、カントは、+1を直観ないしは物自体、-1を純粋理性としたのではないだろうか。言い換えると、+1はリアリズム(写実主義)である。そして、-1は、近代合理主義である。
 さらに展開すると、ロマン主義はどうなるのだろうか。それは、同一性主義・近代合理主義によって否定された-iの復権を意味するのではないだろうか。少なくとも、それは、差異共振(共鳴)性を取り戻す志向性をもっていたと言えよう。同一性主義の(+i)*-(-i)に対して、(+i)*-〔-(-i)〕ではないだろうか。排除された他者-iを肯定する行為ではないだろうか。しかしながら、逆に言うと、他者の強調が過剰となり、逆に、自己の差異である+i を否定する傾斜さえもったのではないだろうか。すると、-(+i)*(-i)⇒-1となったように思えるのである。だから、反動性ももっていたことになるのである。他者を強調するあまり、逆に同一性主義に陥ったと考えられるのである。
 とまれ、少なくとも、ロマン主義において、差異共振性が生動化したことは画期的であったことを評価すべきであろう。精神的には、歓喜が発現したのである(参照:シラー/ベートーヴェンの「歓喜の歌」)。文化史的には、ルネサンスの再発動に近いものがあると思われるのである。そう、他者が賦活され、差異共振性が活性化したと言えよう。しかしながら、それが過剰であっために、反動化したことも事実なのである。精神過剰主義である。【だから、ここから、世紀末や唯美主義等は延長であることは見やすいであろうし、また、20世紀になっても、後期ロマン主義や表現主義として継続したと見ることができるだろう。因みに、モダニズムは、ロマン主義と写実主義(広義の近代主義)、言い換えると、差異と同一性との衝突であり、両者の妥協点・調和点を求めた志向であったと言えよう。だから、モダにイズムは、差異に傾斜した様態と同一性に傾斜した様態と中間的様態があるのである。英米文学で言うと、差異に傾斜したのが、D. H. ロレンスであり、同一性に傾斜したのが、T. S. エリオットやエズラ・パウンドであり、中間的様態が、W. B. イェイツやジェイムズ・ジョイスであろう。】
 最後については、後で整理したい。

p.s. 初期デリダの脱構築主義であるが、差延を先には、-1と+1との差異として捉えたが、以上の考えから見ると、それはやや説明が足りないように思える。問題は、+1である。これをまたハイデガーの本来的存在と見たのであるが、どうだろうか。
 確かに、+1という様態は不安定というか不明確なものがある。同一性仮象である。例えば、波打ち際にたって、打ち寄せる波を見ていると、波と知覚が揺れ動くのがわかるだろう。「わたし」が波となったり、しかしながら、「わたし」と波とは別々の存在であるというような知覚現象が発生するだろう。同一性仮象は、差異共鳴性を内包していると考えられるのである。そう、コスモスを内包しているといいだろう。【神話とは、ここから表現されたものだろう。】
 だから、純粋な+1があるかどうかは問題ではないだろうか。しかしながら、現実的には、同一性仮象を実在として捉えて生活しているのである。眼前にあるデスクは同一性仮象ではあるが、物質現象として捉えて生活しているのである。
 現実的な生活においては、同一性仮象を物質現象として把捉しているのであるから、+1は生活においては、仮象ではあるが、存在すると言えよう。だから、 +1に揺らぎが生起するのは、現実的生活を離れたときと言えよう。単独で居るときに、同一性仮象が揺らぎ、差異共鳴現象が生起すると考えられるのである。
 ここから、初期デリダの差延を考えるとどうだろうか。例えば、現在という事象に対して、過去や未来という事象が潜在しているのである。思うに、差延は明快に説明できるだろう。つまり、他者を排除的に否定する同一性主義と排除的に否定された他者との関係が差延であると言えるのではないだろうか。例えば、現在とは、同一性主義の同一性であり、それに対して、他者は過去であり、未来である。つまり、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴によって、本来、時間が生起しているが、同一性主義だと、過去ないしは未来を排除的に否定しているので、現在と過去ないしは未来とが二項対立になっている。しかるに、本来的には、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴があるのであり、差異共鳴性の回帰を差延として初期デリダは捉えたのではないだろうか。
 ならば、初期デリダの脱構築主義も、本来的には、差異共振主義である。ただし、初期デリダは、超越性を否定しているので、虚数世界、イデア界に達することができずに、水平的な差異共鳴性の提示に終始したように思えるのである。
 思うに、水平的な差異共鳴性とは、実軸に圧縮された差異共鳴性であり、実軸上のMedia Pointであると考えられるのである。思うに、ハイデガーの本来的存在は、+1ではなく、この実軸に圧縮されたMedia Pointであるように思えるのである。
 思うに、構造主義のゼロ記号も、この実軸に圧縮されたMedia Pointではないだろうか。そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、差異を他者と連続化しているのであり、差異を同一性化して、差異を微分にしているのであり、初期デリダの脱構築主義よりも後退していると言えるのである。なお、後期デリダは、差異の不連続性、即ち、特異性に注視して、純粋な Media Pointに近づいたと考えられる。

2008年05月18日 (03:14)

V. シャウベルガーの自然理論とプラトニック・シナジー理論:ガウス平面とPS立体

購入したヴィクトル・シャウベルガー(1885〜1958)の自然理論を解説する『自然は脈動する』(アリック・バーソロミュー著)
http://www.kyobunsha.co.jp/shopping/books/ISBN978-4-531-08164-6.html
の1/4弱読んだが、直感した通り、否、それ以上に、シャウベルガーの自然理論が、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)と共通性をもっていることを察知した。そして、前者の考えを活用して、PS理論が発展できたと考えている。(もっとも、シャウベルガーの理論には、Media Pointの概念はない。この点が相違点である。)以下、今は余裕がないので、簡単に記したい。
 とても、重要な自然理論が説かれていて、簡単には説明できないので、私が思いついたことを述べたい。
 それは、ガウス平面に直交する軸を考えて、三次元空間を考えることである。そして、その垂直軸を天地軸を考えるのである。+iと-iとが引き合うとき(牽引力)は、共鳴して、+1となる。しかし、これは、同時に、天地軸の天へと上昇(浮揚)すると考えるのである。それに対して、+iと-iが反発するとき(斥力)、-1となり、これは、天地軸の地へと下降すると考えるのである。
 そうすると、以上から、上昇らせんと下降らせんが生起すると思われるのである。また、(+i)*(-i)と(-i)*(+i)の順列を考えると、らせんは二本になると考えられる。即ち、二重らせんになると考えられるのである。これが、宇宙・自然の原型となるだろう。
 興味深いのは、シャウベルガーが重力とは対蹠にある浮揚力を考えていることである。これは、樹木などが空へと上昇する力であり、反重力的な力なのである。この点を借用・活用して、天地軸を導入したのである。
 その他、とても明快で、目から鱗であったのは、極性が引き合う力と反発する力をもつと指摘している点である。差異共振性とは、単に、引き合う力だけではなく、対立する力があるのだから、当然、反発する力をもっているのである。この点は、最近、やや不明確になっていたので、助かった。考えてみれば、差異のもつ力とは、他者への接近と同時に、絶対的には一致しないというものである。即非性と表現しているものである。即ち、AはBへの限りなく接近するが、決して、Bにはならないのである。A→Bであるが、A≠Bである。
 もっとも、厳密に考えると、この差異の力と即非性は少し違うようにも思えるのである。差異の力は、限りなく、AはBに近づくが、決して、Bにはならないのである。これを以前、他者への志向性と呼んだ。結局、Aは独立性を保つのである。だから、Aという差異には、垂直性と水平性があるのである。
 この点は、哲学的に微妙なものがあるので、少し考察しよう。Aという差異は、垂直的独立性と水平的共感性がある。後者において、AはBに接近するのである。ほとんど一致するのである。あくまで、Aは単独性・特異性であり、独立した個のままである。しかるに、Bへと接近するのである。
 問題は、Aの独立性である。これは、同一性なのだろうか。否、当然、差異である。ただし、独立性から反発性となるときが、同一性である。つまり、他者であるBに反発し、排除するとき、Aは同一性となるのである。つまり、Aの独立性とは、共感性と一如(いちにょ)なのである。これが、差異である。つまり、差異とは、垂直性と水平性の平行性である。
 ここで、シャウベルガーの自然理論に関係して言うと、Media Pointにおいて、差異は共鳴して、引き合って、⇒+1となり、反発して、⇒-1となるのではないだろうか。これまでは、最初に、⇒+1となり、その後、内的否定により、⇒-1となると考えたのである。もっとも、それ以前には、両者、同時生起すると述べたのではあったが。
 とまれ、Media Pointにおける差異共鳴とは、引き合いが+1となり、反発が-1という両極に展開するということになった。この両者は共立しているということではないだろうか。言い換えると、+1であると同時に、-1であるということであり、又、同時に、+1と-1とは当然、異なるということで、+1と-1は即非関係にあるということではないだろうか。
 そして、+1は差異牽引性=差異であり、-1は差異反発性=同一性ということではないだろうか。つまり、差異と同一性は同時生起ということである。
 では、物質とはどういうことになるだろうか。これまで、同一性-1を物質として考えてきたのであるが、どうなるだろうか。思うに、現象は、±1である。だから、物質というものも、±1ではないだろうか。しかしながら、物質ないしは現象の実質・実体は、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、イデア共振ないしはイデア共鳴である(超越共振・超越共鳴)。そして、これが、「精神」である。つまり、物質ないし現象の本体とは、「精神」ないしはイデア(イデア共鳴)である。
 このように考えると、ポスト・モダンや構造主義の数理も変えないといけなくなるだろう。構造主義は、+1と-1の対立構造で説明がつくのではないだろうか。そして、ゼロ記号であるが、それは、やはり、両者の和である。それは、連続的原点であり、不正確な原点である。そう、構造点と言ってもいいだろう。
 では、ポスト・モダンであるが、それは、やはり、同一性の-1に対して、差異の+1を対峙させているということではないだろうか。デリダの差延とは、正に、この-1と+1との極性を提示しているのではないだろうか。そして、ドゥルーズは、思うに、-1に対して、+1を積極的に説いているが、しかし、-1 を否定して、+1を積極的に説くことは、逆に(アイロニカルに)同一性になることだと思われるのである。つまり、A→Bにおいて、AをBと一致させることだと思われるのである。つまり、差異一致である。極限値である。limitA→Bである。だから、差異はゼロとなり、微分が形成されると考えられるのである。差異は同一性に転化してしまうのである。
 そして、ハイデガー存在論であるが、先には、+1が本来的存在であり、-1が頽落した現存在であると言ったが、どうだろうか。思うに、それは、正しいのではないだろうか。本来的存在は、他者がなく、自己同一性に閉じているのである。つまり、ドゥルーズの差異と同じ、極限値なのである。A→Bなのである。だから、差異共振性がないのである。
 フッサール現象学は⇒+1ないしは⇒±1であろう。
 ここで、特異性のことを言うと、それは、端的に、Media Pointのことを意味するだろう。キルケゴール、ニーチェがそれを示唆したと言えよう。そして、ウスペンスキー、鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周三が、論理的にこれを捉えていたと考えられるのである。不連続的差異論は、これを、明確・明晰に説いた理論と考えられるのである。
 ここで、近代合理主義・近代的自我について触れると、それは、やはり、-1である。+1を否定・抑圧しているのである。しかしながら、正しくは、-iを否定しているのである。
 思うに、ここで、用語を整理した方がいいだろう。-1は同一性であり、+1は差異であるが、共一性としての差異である。そして、(+i)*(-i)が差異共振性ないしは差異共鳴性である。
 以上のように訂正すると、光と影の二重性はどうなるだろうか。端的に、光はどうなるのだろうか。肉眼で見る光とは一般には、やはり、±1の極性現象であろう。そして、思うに、-1が粒子であり、+1が波動ではないだろうか。電磁波の本体は、端的に、差異共振性ないしは差異共鳴性である。虚数的超越共振性である。換言すると、本体が、虚数超越的差異共振性であり、それが、Media Pointにおいて、実数的極性になっているのである。そして、極性の相補性や長距離相関という点で、Media Pointに接近していると言えよう。
 光と影の問題に返ると、-1が影であり、+1が光であろう。では、宗教的な光はどうなるのだろうか。それは、端的に、差異共振性である。超越エネルギーである。それは、Media Pointを介して、「感知」できるだけである。おそらく、dark sunである(darkは不可視ととる)。
 では、さらに、イシス・オシリス神話を考えるとどうなるだろうか。オシリス=ホルスは+1ではないだろうか。イシスとオシリスは、本来、差異共振性を意味するだろう。そして、セトが-1ではないだろうか。
 こう考えると、多神教と一神教の関係が明快になるように思える。多神教において、±1が生起するのである。そして、一神教は、+1を否定・排除・隠蔽して、-1を唯一神とするのである。エロヒームを+1、ヤハウェを-1とすることができよう。そして、前者を否定したものが、ユダヤ教やキリスト教である。聖書はそうではない。【イスラム教であるが、これまで、差異共振性をタウヒード(一性)としていると考えたが、どうやら、+1をアッラーとしているように思えている。つまり、エロヒームとしてのアッラーとなる。だから、ヤハウェとは、逆となる。アッラーを月と表現するなら、ヤハウェは何だろうか。やはり、太陽ではないだろうか。しかし、太陽は二つあると思う。差異共振性の太陽と、同一性の太陽である。ヤハウェは後者である。そして、前者が太光である。アマテラスは何だろうか。太光だと思う。問題は、差異共振性の太光と同一性の光(影)を同一視してしまうことである。この同一視が例えば、日本の国家神道において起ったと言えよう。私は、この一因は国学にあると考えている。
 思うに、アマテラスとツクヨミを極性として見ることが可能である。そうすると、アマテラスは同一性の太陽になるのである。
 どうも、太陽の表象は混乱を招くものである。本来、差異共振性の太光であるが、それが、現象化において、同一性の太陽に同化されやすいのである。この点は後で再考したい。】
 とまれ、以上から見て、PS理論は奇蹟的である。シャウベルガーの説く自然の精妙なエネルギーは、差異共鳴エネルギー=超越エネルギー=イデア・エネルギーで簡単に説明できると考えられるのである。とまれ、『自然は脈動する』をさらに読んで、検討を続けたい。

2008年05月14日 (23:36)

自然VS人間:パエトーンとイカルス:ポスト・ヤハウェ教文明とMP太光新地球文明

自然VS人間:パエトーンとイカルス:ポスト・ヤハウェ教文明とMP太光新地球文明
テーマ:トランス・モダン・コスモス
東京はここ数日、寒い日が続き、冬のブルゾンを着たが、こんなのは初めてである。これは妙である。なにかある。
 人間の傲りを矯めるのは、やはり、自然の力なのか。知は無力なのか。ギリシア神話に限らず、多くの神話、民話、その他の伝承は、人間の傲りを戒めてきた。しかし、それが、破られたのである。
 思うに、人類は、新たな神話時代(「大洪水神話」時代)に突入したのだろう。一番の問題はやはり、ユダヤ・キリスト教のヤハウェである。ヤハウェ教(狂)である。
 これは、⇒-1の悪霊のようなものである。悪霊を崇拝する宗教(邪宗)が人類を狂わせたことは確かである。そう、自我・物質神なのである。確かに、物質科学・技術は発達したが、精神が退化してしまった。ポスト・ヤハウェ教文明の、「黙示録」的時代になったのだろう。
 Media Pointから発する太光の叡知に基づく新地球文明を創造するときになったのだろう。

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検討問題:同一性=物質化とは何か
テーマ:検討問題
考えると、同一性=物質化とはとても不思議なものに思えるのである。先に地震の予兆になる動物の反応のことを述べたが、動物は地震に関係する電磁波=超越エネルギーを「感覚」していると考えられる。超光が動物には「視える」のだろう。
 しかしながら、そのエネルギーは確かに、物質を形成しているのである。これをどう考えたらいいのだろうか。つまり、自然のもっている同一性現象とはどういう力学から発生するのか、である。アインシュタインのエネルギー公式のPS理論版を見るとわかりやすいだろう。

E=m(+ic)(-ic)⇒mc^2

である。両辺をmで割ると、

(+ic)(-ic)⇒c^2

となる。さらにcで割ると自己認識方程式となる。
 とまれ、思うに、右辺が物質形式でもあると見るべきではないだろうか。つまり、同一性である。すると、-1=同一性と齟齬を来たすことになる。これをどう考えたらいいのか。ここには、現象の実に不思議さ、霊妙さ、玄妙さがあるのではないだろうか。
 思うに、右辺は物質形式ではなくて、エネルギー形式と見るのが適切であろう。そして、物質形式はそのマイナスではないのか。つまり、-mc^2が、物質形式ではないだろうか。
 そうならば、マイナスに大きな意味があるのである。思うに、マイナスとはネガの世界であり、プラスがポジの世界である。ネガの世界は、影の世界である。もっとも、影は現象界では光である。
 ここは実に不思議である。ここでの思考実験から考えると、物質現象とエネルギー現象の二つがあるのであり、両者はマイナスとプラスの関係である。一種鏡像関係と言えるのではないだろうか。
 とまれ、物質とは何か、である。そう、エネルギーが共振から生まれたとすると、物質は共振を否定して生まれているのではないだろうか。どういうことかと言えば、自然は、二重様相であり、一方では、エネルギー現象であり、他方では、物質現象ではないのか、ということである。
 そして、近代科学・技術は、物質現象のみを扱い、本来のエネルギー現象を捉えていなかったことになる。しかし、20世紀になり、相対性理論や量子論によって、物質現象からエネルギー現象へと対象が変換したと考えられるのである。つまり、物理学は、光科学=「精神」科学になったのである。
 思うに、19世紀末から20世紀初期ないしは前半において、哲学であれ、科学であり、芸術であれ、この変換が起こったと思われるのである。
 しかし、物質主義=唯物論に縛られているために、この変換の意味を十分に把捉していないと考えられるのである。哲学で言えば、フッサール現象学のブレークスルーを、ハイデガーは取り逃がしてしまったと思えるのである。先の考察からすれば、ハイデガーの言う本来的存在はエネルギー現象に、頽落した現存在は物質現象に相当すると考えられるのである。
 ここで、ハイデガーの本来的存在について考察すると、それは、まことに不思議である。ここの視点からは、エネルギー現象であるが、本来的存在は暗いのである。なぜなら、差異共振性がないからである。つまり、正に、右辺(mc^2)のみということになると思われるのである。
 これは、比喩的に言えば、暗い光、暗い超光ではないだろうか。(参照:D. H. ロレンスのdark sun) 本来、エネルギーは超光現象であり、「光」のはずである。しかしながら、本来的存在は暗いのである。
 この説明であるが、超光とは、思えば、差異共振の結果であり、自己と他者との一体となり、差異共振性がもはやないということを意味しているのではないだろうか。つまり、エンテレケイアである。
 だから、闇としての超光が考えられるのである。(参照:ダークエネルギー)ハイデガーの本来的存在=「光」現象とはそのような意味になると思う。すると、闇としての超光(エネルギー現象)と影としての光(物質現象)があるということになる。思うに、阿弥陀如来の無量光とは、イデア界の差異共振光=原超光を意味するだろう。
 そう、たとえば、天照大神であるが、それは、Media Pointが開いて、イデア界の原超光を得たものであろう。だから、天の岩戸とは、Media Pointではないだろうか。(また、プラトンの善のイデアは、当然、イデア界の原超光である。)だから、エネルギー現象はイデア界の原超光を反映・反照するとき、発光するということになるだろう。闇の超光と光の超光である。というか、暗い超光と明るい超光である。
 以上のように見ると、ハイデガーの本来的存在は、神秘主義の闇と通じるように思われる。黒い太陽ではないだろうか。
 しかし、これでは、まだ、奥の院には、当然、達していないのである。Media Pointが開いていないのである。(後期ハイデガーは、なんとか、Media Pointに達しようとしたのかもしれない。しかしながら、そのときは、水平性を喪失して、垂直性だけになっているように思える。)
 《光》をもたらさなくてはならないのである。物理学で言えば、相対性理論に量子論的背景を与えることを意味するのではないだろうか。つまり、量子論的相対性理論となるときに、真に《光》の理論になると思われる。
 神話で言えば、イシス・オシリス神話で言うと、オシリスだけでは、暗い太陽であろう。つまり、+1である。しかし、イシスとオシリスの極性があるときに、原超光、即ち、イデア界の《光》、《太光》になるのではないだろうか。ならば、イシスなくして、オシリスの光はないということになるのである。イエスの光は、イシスなくしてないということになるのである。ここにプロテスタンティズムの問題があるだろう。
 さらに展開すると、なぜ、太母は、月をシンボルとするのだろうか。かぐや姫は月の女神、いわば、アルテミスに当たるといえよう。これは何だろうか。
 おそらく、これは、やはり、+1ではないだろうか。ここは、処女神を意味するのではないだろうか。いわば、単性生殖(処女生殖)である。すると、+1は太陽ではなくて、月である。そして、イデア界が太陽であろう。そして、Media Pointは、穴(ブラックホール?)である。では、-1は何だろうか。物質現象とはどういうシンボルをもつのだろうか。意外に天、天空ではないだろうか。つまり、+1が月や海や大地であり、-1が天空ではないだろうか。ギリシア神話で言えば、オリュンポスの神々ではないだろうか。
 そうならば、二つの天があるだろう。イデア界の天と現象物質界の天である。(創世記の冒頭は現象物質界の天の創造を述べているのだろう。)
 途中。

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地震前兆現象と電磁波:超越エネルギーと神々
テーマ:自然災害・人災:台風・地震・津波・温暖化
以前触れたことがあるが、地震は、震源となるところが、前もって電磁波を出すので、予知は可能であると思われるのであり、それの調査研究を十分行っていないのは、問題があると思われることである。
 これは、実に科学的であり、どうして行わないのか、不思議である。また、動物の前兆行動であるが、やはり、電磁波に反応して、動物が超常的な行動をとるということは十分考えられることである。この点でも、研究が足りないと思われるのである。
 プラトニック・シナジー理論から見ると、電磁波は超越エネルギーなので、それは、Media Pointの開いていると考えられる動物はキャッチすると考えられるのである。人間は同一性-1に傾斜しているので、超越エネルギーを把握できないと思われるのである。中には、Media Pointが開いていて、敏感・過敏に感じる人がいるだろう。
 ついでに言えば、超常現象や霊的現象とは、超越エネルギー現象の視点から検証されるべきだと思われるのである。これは、当然、イデア・エネルギー、魂のエネルギーの問題でもある。私は、どうも、ある種の運命というものがあるように感じている。そう、古代人ならば、神々と表現したが、確かに、神々は存していると思うのである。
 では、神々を科学的に説明するとどうなるのだろうか。私は魂があるとほぼ確信している。それは、虚数の対極性である。陰陽が魂である。いわば、陰陽魂、陰陽イデア、陰陽イデア魂である。この陰陽イデア魂(略して、イデア魂)は、振動していると考えられる。思うに、出生するとき、陰陽イデア魂は、陰陽に分裂して、陰イデア魂と陽イデア魂に分離して、それぞれ、人格になるのではないだろうか。前者は女性魂であり、後者は男性魂である。しかしながら、これは、生物的性とは必ずしも一致しない。つまり、精神的性と肉体的性は必ずしも一致しないということである。
 とまれ、いかにも、プラトンの『饗宴』の発想であるが、陰イデア魂と陽イデア魂がイデア界ないしは、Media Pointにおいて、ひきつけあうのではないだろうか。これが、本来のエロースではないだろうか。正に、イデア界的共振性としての引力である。
 しかしながら、このイデア魂の強度が強いと、現象界よりは、直接、イデア界にひきつけられるのではないだろうか。詩人のヘルダーリンは、正に、そのような精神の持ち主であったのではないだろうか。ロマン主義や神秘主義等もそのような傾斜があると思うのである。
 ここで、暫定的に仮説すると、イデア・コスモス(イデア・コスモロジー)があり、それは、ポリフォニックな音楽宇宙であろう。そこに、現象の原型ないしはプログラムがあるのではないだろうか。イデア・プログラムである。オカルト主義が言うアカシャ年代記はそこにあるのではないだろうか。わたしは今は運命論的である。

p.s. 後半、神々から魂の話になってしまった。確かに、神々と魂は関係している。極言すれば、魂とは神々である。ならば、神々は数はどれくらいなのだろうか。問題は、イデアとMedia Pointとの関係にあると思う。イデアのMedia Point変換があるだろう。これは、個化と言っていいだろう。魂というのも、この産物かもしれない。おそらく、イデア界はシンプルだと思う。Media Point界(略して、MP界)があると思うのである。今は、思いつくまま書くだけだが、プラトンが『国家』で述べている死者の国(p.s. 彼岸であったか)のことであるが、それは、どうやら、MP界のことではないだろうか。それが、カトリックで言う煉獄ではないだろうか。地獄もそこになるのではないだろうか。ちょうど、天上界と地上界の中間界として、MP界があるのではないだろうか。シンボル的には、山頂がそれに当たるのではないだろうか。須弥山、オリュンポス山、高天原、とうとう。
 とまれ、究極的に言うと、森羅万象は、神々の仮面であろう。神々の多様体であろう。Media Pointに、個別の情報があるように思われる。つまり、イデア情報アーカイブである。イデア図書館である。遺伝子の情報もここにあるのではないだろうか。後で、精緻に検討したい。

大地震をカエルが予知?=数十万匹が大移動−中国四川省
 【香港13日時事】香港紙・リンゴ日報などは13日、中国四川省で12日起きた大地震の前に、同省の綿竹市で数十万匹のヒキガエルが一斉に移動するという異常現象があったと報じた。地元住民は「何かの凶兆ではないか」と不安を感じていたという。(時事通信)

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西洋文明と-1:同一性傾斜をもつ西洋一神教文明とMedia Pointを内包する東洋文明
テーマ:検討問題
後で検討したいが、西洋文明ないしは文化の-1=同一性の傾斜であるが、これが、現代文明・文化を行き詰まらせていると考えられる。資本主義も内的には、差異共振性をもつが、同一性価値の支配によって、非合理主義的に(悪魔的に)破壊的になっているのである。思うに、私見では、西洋言語の人称性にも問題がありそうである。
 とまれ、-1=同一性の傾斜のために、西洋文明は東洋文明・文化が本来的にもっているMedia Pointを抑圧しているのである。だから、トランス西洋文明としての新東洋文明が考えられなくてはならない。西洋文明を包摂した高次の新東洋文明である。

p.s. -1=同一性への傾斜(ユダヤ・キリスト教一神教性=ルサンチマン)があるために、たとえば、イタリア・ルネサンスで生起した差異ないしは Media Pointの活性化が、同一性主義(近代合理主義・近代的自我)に抑圧されてしまったと考えられる。既述したように、この差異と同一性の矛盾的二重性が、西欧近代文化・文明の実体であると考えられる。言い換えると、二重人格(ジキルとハイド)としての近代西欧文化・文明なのである。悪魔の様相と天使の様相をもっているのであるが、前者が後者の影に隠れて、主導的なのである。天使の仮面をつけた悪魔としての近代西洋文化・文明である。
 私見では、一人称は自我人称、即ち、同一性人称ではないだろうか。これが主導的になって、差異を否定すると思われるのである。そう、「わたし」の問題である。結局、自我・同一性の「わたし」と自己・共一性の「わたし」がある。これが、西洋言語では、連続化していると思うのである。日本語は本来、自己・共一性言語であり、「わたし」は、他者と共振しているのであり、そのために、とりわけ、「わたし」という語を使用しないと考えられるのである。
 結局、この同一性主導性が今日、非合理主義性をもたらしているのであり、差異主導性が必要とされているのである。差異主導により、同一性傾斜は制御されて、差異共振性における、ないしは、基づく、同一性となると考えられるのである。言い換えると、差異主導によって、差異と同一性とのバランスを取れるのである。しかしながら、差異と同一性の発展的な対立と言ってもいいだろう。この対立が必要である。自由主義は、この中において肯定されるべきであろう。そして、民主主義は、差異共振性となるだろう。資本主義も差異共振資本主義になるだろう。差異共振資本自由主義となるだろう。

p.p.s. 近代西洋文化の偽善性であるが、それは理論的にどう説明できるだろうか。同一性=自我はどうして、偽善的になるのか。そう、同一性=自我の優越性の発生の力学は何か。同一性価値を優位に、差異価値を劣位にする力学であるが、それは、いわば、鏡像的価値に拠ると考えられる。
 鏡像を優位とする価値観の発生が問題とされなくてはならない。ここで、作業仮説ないしは思考実験であるが、幼児の身体的脆弱性・虚弱性があり、そのため、差異における苦・悲に対して、身体的に積極的に対応することができない。つまり、身体的に劣位にあるのである。それに対して、差異共振エネルギーは過剰である。
 思うに、この過剰な差異共振エネルギーを同一性へと転換させるのが仕組みがあるのではないだろうか。精神の過剰と身体の劣弱さがあり、そこにで、後者を乗り越えるために、前者は、後者を否定して、同一性価値を仮構(虚構)するのではないだろうか。フィクションである。一種、幻想、妄想である。ファンタジーである。
 身体=差異の劣位を乗り越えるために、同一性価値の優位というフィクションを人間は形成するのではないだろうか。それが、-(-i)=i^2=-1ではないだろうか。差異=他者である-iを否定して、同一性化するのである。他者=差異の否定行為が、他者=差異の場所に鏡像を映現させて、それを代償として、自己同一性化するのではないだろうか。ここでは、共振ではなくて、否定的同一化があるのである。鏡像と同一性との融合があるのである。これは、当然、ショートである。つまり、自己同一性=自我とは、同一性のショートなのである。「自己中心主義」的な盲目である。自我狂気である。
 とまれ、この否定が自我意志となっているのである。では、この否定はどこから生まれるのだろうか。それは、差異共振性のアンバランスからではないだろうか。つまり、+iと-iがあるが、両者がアンバランスで、-iが+iより劣弱なのである。この傾斜がデュナミスではないだろうか。この本源的不均衡が、現象において、否定の力学を発生させるのではないだろうか。整理すると、確かに、差異共振性があるとは言え、不均衡性があるために、成長において、否定性が発生して、同一性に傾斜するということではないだろうか。
 そして、この否定性=暴力に対しては、根源の差異共振性を取り戻す必要があると言えよう。ここで、知恵・叡智が問題となるのである。イデア界の叡智が必要なのである。そう、思うに、本来、女性の方が、男性よりも、こちらに近づいていたと考えられる。ソフィア(叡智)は、本来、女性的である。
 だから、正確に言えば、否定性=暴力性は父権文化、父権一神教文化のものである。本来、母権文化、母権多神教文化は、この否定性=暴力性を差異共振叡智によって制御していたと考えられるのである。
 後で、もう少し丁寧に整理したい。

3p.s. まだ、同一性=自我の優越主義が十分に説明されていないので、後で再考したい。

4p.s. 同一性=自我の優越志向性は既に説明されている。精神の過剰性と身体の劣弱性との非対称性・不均衡性があり、身体の劣位を「意識」上、乗り越えて、「意識」を優位化する力学で説明できるのである。

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ゼロとは何か:+1と-1と±0:ポスト・モダンとハイデガーとトランス・モダン
テーマ:プラトニック・シナジー理論
既述であるが、ポスト・モダン哲学は、+1(共一性)という差異を追求したが、結局、-1(同一性)との連続性を立ち切ることができずに、両者の連続性ないしは混淆に留まったと考えられる。そして、+1と-1との関係を和として考えて、+1+(-1)⇒±0が帰結されて、この±0とは、構造主義を意味し、結局、構造主義から真に脱却できなかったと考えたのである。
 問題点は、果たして、実軸の計算は和でいいのか、ということと、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学の先駆と考えて、-1と±0との存在論的差異を説いていると見たがそれでいいのか、ということである。
 後者を再検討すると、先に述べたように、ハイデガーの本来的存在を±0(実際は単に、0として見たが、±0とした方がより的確であると思われる)と見て、頽落した現存在を-1と考えて、±0と-1が存在論的差異を形成すると見たのである。実際、ハイデガーの本来的存在はわかりにくいのである。個のようであるが、差異共振性がまったく欠落しているのである。これを±0で捉えていいのだろうか。
 0は本来、構造主義の位置である。だから、ぴったりとはあてはまらないのである。今思いついたのは、+1⇒-1ではないだろうか。これならば、差異共振性のない+1があり、それから、同一性志向性によって、-1になることを意味できるのである。
 どうもその方がよさそうである。だから、ハイデガーの本来的存在は+1であり、頽落した現存在は-1であるということになる。
 そうすると、これは、+1を共一性と言ってきたことを訂正しないといけない。+1ではなく、共一性とは、端的に、自己認識方程式である。そして、⇒+1はフッサール現象学を意味するだろう。
 とまれ、そう訂正することから、ハイデガーの存在論的差異は、+1と-1との差異であることになった。そうすると、ポスト・モダン哲学はどうなるかと言えば、端的に、ハイデガー哲学を踏襲していることになるのではないだろうか。初期デリダの場合、ほとんどそうなると思われる。ただ、ポスト・モダンの場合、構造主義の側面がかなり強いと考えられる点が異なると言えよう。
 そう、ここで第一の問題点と重なるのであるが、ハイデガー哲学の場合、+1と- 1との亀裂を説いている。つまり、ハイデガー哲学には、それなりに、不連続性があるのである。しかし、ポスト・モダンになると、+1と-1との連続性ないしは混淆性が存すると考えられるのである。+1と-1とのポスト・モダン的様態は、やはり、和でいいのではないだろうか。即ち、(+1)+(-1)⇒±0 である。重要な点は⇒にあると考えられる。±0は端的に、構造主義を意味するだろう。何故なら、±0は、ゼロ記号であるからである。そして、左辺の(+ 1)+(-1)はポスト・モダン哲学を意味するのではないだろうか。+1と-1との連続的な揺らぎがポスト・モダン哲学ではないだろうか。初期デリダの差延とは正に、そのようなものと考えられる。また、ドゥルーズの差異であるが、思うに、ゼロ記号を使って、差異を連続化しているのである。つまり、やはり、和である。即ち、(+1)+(-1)=±0(ゼロ記号)が生起して、ここで、差異と同一性が一致することになると考えられる。即ち、差異=同一性である。そして、これこそ、連続的差異=微分ではないだろうか。初期デリダの場合は、差異と同一性との混淆的揺らぎがあったが、ドゥルーズの場合は、両者が一体化されてしまい、構造主義ないしはヘーゲル哲学に退行していると思われるのである。
 結局、和とは、連続性ないしは混淆性を意味すると言えるのではないだろうか。ならば、ハイデガーの場合は、和以前の様相にある。とりあえず、それを、+1/-1と表記する。つまり、/は亀裂ないしは境界を意味することになる。とまれ、後で再考したい。

2008年05月13日 (02:55)

+1と-1と±0に関して:ハイデガー哲学と構造主義とポスト・モダン

既述であるが、ポスト・モダン哲学は、+1(共一性)という差異を追求したが、結局、-1(同一性)との連続性を立ち切ることができずに、両者の連続性ないしは混淆に留まったと考えられる。そして、+1と-1との関係を和として考えて、+1+(-1)⇒±0が帰結されて、この±0とは、構造主義を意味し、結局、構造主義から真に脱却できなかったと考えたのである。
 問題点は、果たして、実軸の計算は和でいいのか、ということと、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学の先駆と考えて、-1と±0との存在論的差異を説いていると見たがそれでいいのか、ということである。
 後者を再検討すると、先に述べたように、ハイデガーの本来的存在を±0(実際は単に、0として見たが、±0とした方がより的確であると思われる)と見て、頽落した現存在を-1と考えて、±0と-1が存在論的差異を形成すると見たのである。実際、ハイデガーの本来的存在はわかりにくいのである。個のようであるが、差異共振性がまったく欠落しているのである。これを±0で捉えていいのだろうか。
 0は本来、構造主義の位置である。だから、ぴったりとはあてはまらないのである。今思いついたのは、+1⇒-1ではないだろうか。これならば、差異共振性のない+1があり、それから、同一性志向性によって、-1になることを意味できるのである。
 どうもその方がよさそうである。だから、ハイデガーの本来的存在は+1であり、頽落した現存在は-1であるということになる。
 そうすると、これは、+1を共一性と言ってきたことを訂正しないといけない。+1ではなく、共一性とは、端的に、自己認識方程式である。そして、⇒+1はフッサール現象学を意味するだろう。
 とまれ、そう訂正することから、ハイデガーの存在論的差異は、+1と-1との差異であることになった。そうすると、ポスト・モダン哲学はどうなるかと言えば、端的に、ハイデガー哲学を踏襲していることになるのではないだろうか。初期デリダの場合、ほとんどそうなると思われる。ただ、ポスト・モダンの場合、構造主義の側面がかなり強いと考えられる点が異なると言えよう。
 そう、ここで第一の問題点と重なるのであるが、ハイデガー哲学の場合、+1と-1との亀裂を説いている。つまり、ハイデガー哲学には、それなりに、不連続性があるのである。しかし、ポスト・モダンになると、+1と-1との連続性ないしは混淆性が存すると考えられるのである。+1と-1とのポスト・モダン的様態は、やはり、和でいいのではないだろうか。即ち、(+1)+(-1)⇒±0である。重要な点は⇒にあると考えられる。±0は端的に、構造主義を意味するだろう。何故なら、±0は、ゼロ記号であるからである。そして、左辺の(+1)+(-1)はポスト・モダン哲学を意味するのではないだろうか。+1と-1との連続的な揺らぎがポスト・モダン哲学ではないだろうか。初期デリダの差延とは正に、そのようなものと考えられる。また、ドゥルーズの差異であるが、思うに、ゼロ記号を使って、差異を連続化しているのである。つまり、やはり、和である。即ち、(+1)+(-1)=±0(ゼロ記号)が生起して、ここで、差異と同一性が一致することになると考えられる。即ち、差異=同一性である。そして、これこそ、連続的差異=微分ではないだろうか。初期デリダの場合は、差異と同一性との混淆的揺らぎがあったが、ドゥルーズの場合は、両者が一体化されてしまい、構造主義ないしはヘーゲル哲学に退行していると思われるのである。
 結局、和とは、連続性ないしは混淆性を意味すると言えるのではないだろうか。ならば、ハイデガーの場合は、和以前の様相にある。とりあえず、それを、+1/-1と表記する。つまり、/は亀裂ないしは境界を意味することになる。
 

2008年05月10日 (14:39)

+1(共一性又は差異)と-1(同一性):MPにおける垂直三元性と水平三元性:原超光と超光と光

先の検討から、-1がないと発展がないのがわかった。これは、悪魔的であるが、人類の発展のためには、正に必要悪なのである。
 問題は、近代合理主義・近代的自我において、同一性=-1が中心化されたことである。本来、近代は、Media Pointの発動であり、差異と同一性が発動したのである。しかし、同一性のもつ連続性によって、差異と同一性が混淆されて、同一性主義のために、差異が抑圧される結果となっているのである。(現代日本人は、これが顕著であると考える。)
 とまれ、発生論的には力学のベースは、+1が主であり、-1が従であると考えられる。ここで、差異と同一性の非対称性があると考えられる。「光学」で言えば、光が主であり、影が従である。もっとも、光とは、超現象光であり、影とは現象光である。
 この点で、言語表現上の問題がある。この点をここで検討することにする。通常見る光とは、影なのであり、本来の光は純粋には見えていないのである。また、理論的には、超越的差異共振の光も考えられるので、複雑になるのである。ここで暫定的に用語を整理すると、虚軸の差異共振の光を原超光、+1を超光、そして、-1を光(影)とする。
 そして、Media Pointにおいては、実に複雑な様相があると考えられる。即ち、ここで、原超光と超光と光(影)の三相が交叉していると考えられる。
 ここで、キリスト教から考えると、原超光がエローヒームで、超光がイエスで、光がヤハウェではないだろうか。超光であるイエスとは、大女神の息子であり、両者は共一性であると考えられる。エジプト神話で言えば、イシスとオシリスの共一性である。
 ここで、PS理論に基づくトランス・キリスト教の視点でさらに検討すると、父(ヤハウェ)とは、-1の同一性である。そして、母と子(聖母子)が+1の共一性である。そして、聖霊は、Media Pointにおけるイデア・エネルギー=超越エネルギー=差異共振エネルギーではないだろうか。【だから、今日は、本来的には、聖霊の時代、ヨアキム主義の時代であると考えられる。】
 だから、整理すると、Media Pointにおいて、垂直的三元性(+i)*(-i)と、水平的三元性(+1)+(-1)の二つの三元性があると考えられる。
 母権多神教においては、水平的三元性の非対称性は、+1(差異又は共一性)が主であり、-1(同一性)が従であると思われる。それに対して、父権一神教では、水平的三元性の非対称性は、逆になると考えられる。一般に、東洋文化は前者であり、西洋文化は後者であると言えよう。【もっとも、東洋文化においても、父権主義はあるのであり、これが、主導化されている。しかし、ユダヤ・キリスト教的な一神教性はない。】
 ここで、時代について整理すると、プロト・モダン(原近代)は、Media Pointの発動であり、+1と-1が喚起された。しかし、プロテスタンティズムや近代合理主義によって、-1へと傾斜した。
 それに対して、ポスト・モダンは、一種のプロト・モダン回帰であるが、賦活された+1(差異)は、-1と連続化されていたので、両者は和となり、ゼロ度の構造を形成した(構造主義)と考えられるのである。つまり、ポスト・モダンは差異という視点は前進的であったが、結局、構造主義を乗り越えられなかったと考えられる。言い換えると、構造主義の壁にぶつかったのである。【以前述べたように、ハイデガーはポスト・モダンの元祖であると考えられよう。ハイデガーの存在論的差異の思想に差異が出現しているのである。ただし、存在論的差異とは、-1とゼロ度との差異だと思われるのである。私は、ハイデガーの存在は、+1の差異ないしは共一性には達していないと考えている。フッサールは共一性に達していたと思われる。だから、正しくは、フッサールがポスト・モダンの元祖であり、ハイデガーはポスト・モダンの疑似元祖である。この点で、ポスト・モダン哲学に混乱があるように思われるのである。ハイデガーに依拠すると、ゼロ度があるので、構造主義から脱却できないと考えられるのである。フッサールから出発すれば、脱構造主義の視点が生まれると考えられるのである。整理すると、トランス・モダンとは、フッサール現象学が現代的出発点であると考えられる。また、キルケゴールやニーチェの哲学も先駆である。どうも、ポスト・モダン哲学は、ハイデガー哲学に躓いてしまったと考えられるのである。フッサールとハイデガーの絶対的な亀裂を認識する必要があるということである。両者を現象学として括るのは、重大な誤謬を生んだと考えられるのである。】
 以上、差異(共一性)と同一性について、錯綜気味ではあるが、再確認することができた。次に、PS理論、トランス・モダンが空間・時間的に意味することを理論的にさらに検討したい。(以下は思考実験である。)
 ここで、作業仮説として、脳について言うと、左脳が同一性-1、右脳が共一性+1に関係すると考えたい(p.s. 以下、左脳・右脳については特に述べなかったが、両者の結合が空間認識を形成していると考えられる。)。そして、空間認識であるが、三次元空間認識であるが、それは、一見、同一性-1に拠ると考えられるが、差異の認識があって、三次元空間認識が生まれるのではないだろうか。つまり、共一性認識がベースにあって、同一性を形成するときに、三次元認識が発生するのではないだろうか。言い換えると、共一性認識(差異認識)は原三次元認識であり、それを同一性が三次元として明確化するのではないだろうか。ルネサンスで遠近法が発達したのは、この点から説明ができると考えられるのではないだろうか。つまり、三次元的奥行きの基盤は差異+1に存するということである。
 ここで、時間次元を入れると、四次元時空間の基盤も、この差異=共一性+1にあるということになると考えられるのである。つまり、原時間の源泉も共一性 +1に存すると思われるのである。つまり、原時間とは、エネルゲイアであり、時間も同一性エネルギーで説明がつくように思われるのである。
 空間と時間の問題を整理すると、正に、相対性理論が指摘するように、両者は不可分である。空間形成自体が時間的事象であると思われるのである。換言すると、両者、エネルギー事象であるということである。
 では、問題は、どうして、現象界は、三次元ないしは四次元になるのか、ということである。【イデア界を入れると、四次元ないし五次元となる。Media Pointを入れると、五次元ないしは六次元となる。】
 ここでは、思考実験的に、直感で言うと、Media Pointにおいて、+iと-iと+1と-1とが交差するが、太極の主導原意識は、+iと-iであり、両者が共振交差するとき、共振次元+1が発生し、それが、空間的には、三次元を形成すると思われるのである。
 言い換えると、+iと-iとは、それぞれ、平面的であると思われるのである。その平面と平面の共振によって、第三次元+1が発生すると思われるのである。
 ここで作業仮説した+iと-iとの平面とは何であろうか。単純に考えれば、+iと-iは直線、一次元である。しかしながら、Media Pointにおいて、共振するとき、同時に、それは、+1と-1を同時形成(同時生起)すると考えられるのである。つまり、Media Pointにおいて、平面化するのではないだろうか。
 もっとも、それでは、矛盾することになるので、Media Pointを考慮すべきである。ここにおいて、+1と-1が生まれるのであり、現象の直近の原点である。だから、Media Pointは、原+1であり、原-1である。言い換えると、Media Pointは、原平面であり、且つ、原立体であると言えるのではないだろうか。 思うに、原平面と原立体は同時生起であろう。原平面であることは、同時に、原立体であることになると考えられるからである。言い換えると、Media Pointにおいて、原平面と原立体が揺らぐ、いわば、不思議な空間が生起していると考えられよう。
 本来、一次元であるのに、二次元と三次元の構成要素が同時生起して、揺らいでいるのである。だから、Media Pointは原三次元ないしは原四次元と言っていいだろう。そして、共一性+1と同一性-1とが、発現して、三次元空間ないし四次元時空間が形成されると考えられる。
 もし、そうならば、イデア界という高次元はどう説明されるだろうか。それは、端的に、三次元空間/四次元時空間を超越的に包摂した四次元空間/五次元時空間となるのではないだろうか。
 では、Media Point自体を空間的には、どう把握すべきであろうか。これは、端的に、イデア界と現象界の境界である。それは、不連続的差異論的に言えば、メディア界である。あるいは、次元変換点である。だから、Media Pointは、次元に数えないことが適切なように思われる。
 最後に、宇宙物理学の問題を考えると、ビッグバンがあるならば、その特異点は、Media Pointであると言えよう。そして、どうも、直線的ではなく、螺旋的運動をするように思われる。【マヤ神話では、今の世界は第四番目の世界であり、今度、第五番目の世界になるという。】
 そして、ブラックホール等であるが、ブラックホールは、差異共振的発光を起させない現象と考えると、それは、-1のマイナスではないだろうか。ホワイトホールは、マイナスのマイナスであるプラスではないだろうか。
 また、ダークマターやダークエネルギーはこれまで述べたように、自己認識方程式自体にそれらが表現されているのではないだろうか。即ち、端的に、自己認識方程式が自体がダークエネルギーを表現していると思う。そして、そこから、仮説される物質がダークマターであろう。しかしながら、ダークネルギーは存在するが、ダークマターは存在しないのではないだろうか。
 今は、ここで留めておく。
  

2008年05月06日 (15:03)

+1の光と-1の影の関係について:ルサンチマンと同一性=物質の発生の必然性

+1の光と-1の影の関係について:ルサンチマンと同一性=物質の発生の必然性

テーマ:一神教/多神教

今日は、正に、五月晴れの東京である。新宿副都心の高層ビル群が見える。公園等の新緑の森も灰色のビルの海に島のように見える。

 さて、先に、古代エジプト神話(宗教)から霊的太陽+1と物質的太陽-1を分離させて検討したが、まだ不明瞭、あいまいなところが感じられるので、さらに検討したい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10094204738.html
 端的に言えば、+1と-1との関係である。これまでの言い方だと、霊的太陽と物資的太陽が別々の存在であり、二元論的である。
 今日の五月晴れのような明るい爽やかな空を満たす光は、端的に、物質的太陽と同時に、霊的太陽を感じさせるのである。つまり、一如的な太陽である。
 この問題は、これまで、超越光と光との即非様態で説明してきた。しかしながら、+1の光、-1の影という考え方は、それと少しズレるようであるので、再検討である。結局、光が影を生むことの問題である。そう、光は光であり、超越光を示唆するのである。爽やかな光は、超越光を示唆する光ということである。
 問題は、影、物質的太陽とは何かである。目にする太陽の光とは何か。心地よい、五月晴れの光とは何か。そう、影であると同時に、霊的太陽なのではないだろうか。影であると同時に、光である。-1であると同時に、+1であるということではないだろうか。【p.s.  ここは微妙なところである。おそらく、本来的な人間の視覚においては、+1の太陽と-1の太陽が揺らいでいるのである。しかしながら、今日の近代主義化された人間は、-1の影の太陽しか見えないだろう。もっとも、無意識においては、+1の光の太陽を感知しているだろうが、中心化されているのは、影の太陽である。トランス・モダナイゼーションとは、+1の光の太陽を取り戻すことにもなるのである。】
 問題は端的に、同一性の発生力学の意味である。これまでは、同一性主義の発生として、ルサンチマンに基づくものとして捉えてきたが、純粋に自然においてはどうなのだろうか。自然にもルサンチマンがあるのだろうか。
 同一性=物質として捉えてきたが、そうならば、自然には、同一性力学がなくてはならないだろう。つまり、単に共振力学だけではなく、否定力学がなくてはならないということである。マイナス力学である。
 これは、ある意味で不思議なことである。極性は本来、牽引するのであり、反発はしないからである。+iが-iにどうして反発するのか、である。それは、-iが「苦・悲」化したからである。-iの「苦・悲」化とは何か。
 どうも、同一性=物質という図式を訂正しないといけないのかもしれない。否、視点の転換が必要なようだ。自然は、(+i)*(-i)⇒+1である。太陽の光は端的に、+1である。今日の五月晴れの光は、+1である。
 しかし、それを-1の影、即ち、物質的太陽として捉えるのが、近代的自我・近代合理主義(近代科学)である。(もっとも、核融合とは、物質的ではなく、イデア的である。)つまり、光+1を影-1(同一性=物質)として捉えるのである。
 光を影にしているのは、人間の自我である。近代主義とは、だから、本来、+1である光を-1の影として捉える倒錯性なのだと言えよう。
 では、自我において、光+1はどうなるのか。影-1しか見ていないのか。端的に、自我は、影-1しか見ていないだろう。今日の五月晴れの清爽な光は見えないのである。つまり、光+1が感覚に入ってきても、自我はそれを影-1として知覚するということだろう。(光は暗いという私の言葉は、この意味で取るべきかもしれない。)
 ということである。だから、結局、超越光(+i)*(-i)と光+1と影-1の3種類の「光」(三重光)があることになるだろう。そして、以前、述べた超越光と光との即非性はそのまま肯定されるのである。ジョージ・ハリスンの見た光は正に、超越光・即非・光と言えよう。【p.s.  補足すると、人間だけが、影-1(物質の光)を見ると言えよう。動物はただ超越光・即非・光を見ているのだろう。逆に言うと、この影が人間を創ったと言えよう。悪魔が人間を創造したと言えよう。だから、賛えられるべきは、悪魔であろう。では、どうして、人間において、影が発生するのかということになるだろう。それは、出生する身体が他の動物に比べて、虚弱であることから来るのではないだろうか。馬の子どもは生まれるとすぐ立てるのである。】
 では、補足的に、キリスト教の光とは何か。これは、有体に言えば、光+1と影-1の混淆である。ヤハウェ=自我神の影が、イエス=共一性の光に入っているのである。光の中に闇が入っているのである。この闇が悪魔的破壊主義なのである。【ヤハウェは悪魔=物質神である。もっとも、この「おかげで」、物質科学・技術が生まれたと言えよう。一種、プロメテウスである。同一性ロゴスとしてのヤハウェである。】実際、この二重性はどういうことなのだろうか。
 明らかに、分裂性である。ジキルとハイドである。これが西洋人の精神性であろう。問題はこの分裂様態の力学構造である。
 おそらく、基盤は自我=影である。つまり、-1である。その基盤の上に、イエス教が乗っていると考えられるのである。だから、妙な言い方になるが、自我中心的イエス教がキリスト教である。つまり、イエス教の光が自我教の影によって規制されているのである。この枠組みを抑えておく必要が絶対にあるのである。イエス教が自我教(ヤハウェ教)に規制・制限されているということである。
 この自我の第一義性が、西洋人の「自己中心主義」、「自民族中心主義」、オリエンタリズム等を生んでいるのである。だから、ブッシュや中国人権問題等でわかるように、民主主義の下には、鎧の西洋中心主義がほとんどあらわに存在しているのである。この西洋文明の偽善性の構造を剔抉する必要があるのであり、これは、ニーチェがえぐり出したと言えよう。
 だから、今日の問題は、トランス一神教である。トランス・モダン化である。一神教的性格をもっているグローバリゼーションに対して、トランス・グローバリゼーションである。
 以上のように考えると、逆に、一神教は偉大であるとことがわかる。その悪魔的主導性がなければ、近代科学・技術は生まれなかったであろうし、インターネットもなかったからである。また、キリスト教がなければ、近代民主主義もなかったと言えよう(古代ギリシアのは、周知のように、貴族的民主主義である)。
 結局、脱近代主義である。脱西洋主義である。当然、日本の場合は、脱封建主義・脱父権主義でもある。【ここで一言、神道について言うと、神道の本質は、母権多神教(古代レヴァントの女神宗教と類似すると思われる)だと考えられるが、古事記では、明らかに、父権化の作用が入っている。つまり、聖書に似た作業が入っていると考えられる。記紀神話の「脱構築」・脱父権的解明によって、いわば、原神道(古神道)が明確になるだろう。折口信夫の捉えていた神道は明らかに、原神道(古神道)と考えられる。母権神道である。】 

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検討問題:宇宙・世界・自然を創っているもの:数理世界と哲学世界と芸術世界:複素数イデアの根源界

テーマ:検討問題

イデア、神々(神ではない)、エネルギー、等々の本質とは何か。また、明らかに、数理と結びついている。一体、これらは、何であるのか。
 先に、神々とは超越エネルギーであると言った。それは、正しいだろう。それが、現象化して、自然や人間を創っているのであり、人間の意識、自我・自己もその結果である。
 正しくは、超越意識エネルギーがあると言うべきだろう。意識とは、知性と感性との結合であろう。超越意識エネルギーとは、イデア・エネルギーである。デュナミスでは、イデアである。
 では、それが数理と一体であるとはどういうことなのか。それは、数理とは、超越意識であるということではないだろうか。逆に言えば、超越意識とは数理であるということだろう。だから、文科とは理科であるし、理科とは文科であるということである。
 結局、数理が神々=超越意識エネルギーであるということである。だから、数理的世界は哲学的世界ということであろう。つまり、数理世界を、言語表現したのが、哲学世界であるということになろうし、それを芸術表現したのが、芸術世界であろう。結局、数理哲学世界があるということになるだろう。
 とまれ、後で精察したい。

追記:
ガウス平面、そして、オイラーの公式は、数学の結晶のような数理空間を意味するが、オイラーの公式の角度の意味を検討したいと思う。
 直感で言うと、それは、振動にならないのか。イデア振動によって、角度が変化するのではないのか。そうならば、振動による円運動が考えられないだろうか。

p.s. この問題は意外に簡単ではないだろうか。つまり、エネルギー事象とは、極性から成立っているのである。いわば、エネルギー極性があるのであり、これが、数理的に表現できる(p.s. 正しくは、エネルギー極性が数理的ということであろう)ということではないだろうか。
 では、エネルギー極性と数理との関係は何かとなるだろう。おそらく、数理とは、エネルギー極性の力学の原理を表現しているということではないのか。つまり、自然の力学の基本原理を表現しているのではないのか。自然力学原理の普遍言語ではないだろうか。そう、正に、ユニヴァーサル言語であろう。ここでロゴスの問題が出てくる。
 思うに、差異のロゴスと同一性のロゴスがあるのではないだろうか。デリダのロゴス中心主義批判、ドゥルーズのプラトニズム批判は、後者への批判であり、前者には当てはまらないのではないのか。
 思えば、実軸数理は、同一性ロゴスであり、線型である。しかし、虚軸数理ないしは複素数数理は、差異ロゴスであり、非線形であろう。

p.p.s. もっと徹底して言うことができるだろう。つまり、数理とは、イデアであり、エネルギーを包摂しているということではないか。そう、数理イデアないしは数イデアである。これが根源だろう。数イデアが根源にあり、それが、現象世界を発現しているのだろう。
 数イデアと言っても、ピタゴラス派のようではない。それは有理数を意味していたからである。複素数イデアと言うべきであろう。

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検討問題:宇宙・世界・自然を創っているもの:数理世界と哲学世界と芸術世界:複素数イデアの根源界

テーマ:検討問題

イデア、神々(神ではない)、エネルギー、等々の本質とは何か。また、明らかに、数理と結びついている。一体、これらは、何であるのか。
 先に、神々とは超越エネルギーであると言った。それは、正しいだろう。それが、現象化して、自然や人間を創っているのであり、人間の意識、自我・自己もその結果である。
 正しくは、超越意識エネルギーがあると言うべきだろう。意識とは、知性と感性との結合であろう。超越意識エネルギーとは、イデア・エネルギーである。デュナミスでは、イデアである。
 では、それが数理と一体であるとはどういうことなのか。それは、数理とは、超越意識であるということではないだろうか。逆に言えば、超越意識とは数理であるということだろう。だから、文科とは理科であるし、理科とは文科であるということである。
 結局、数理が神々=超越意識エネルギーであるということである。だから、数理的世界は哲学的世界ということであろう。つまり、数理世界を、言語表現したのが、哲学世界であるということになろうし、それを芸術表現したのが、芸術世界であろう。結局、数理哲学世界があるということになるだろう。
 とまれ、後で精察したい。

追記:
ガウス平面、そして、オイラーの公式は、数学の結晶のような数理空間を意味するが、オイラーの公式の角度の意味を検討したいと思う。
 直感で言うと、それは、振動にならないのか。イデア振動によって、角度が変化するのではないのか。そうならば、振動による円運動が考えられないだろうか。

p.s. この問題は意外に簡単ではないだろうか。つまり、エネルギー事象とは、極性から成立っているのである。いわば、エネルギー極性があるのであり、これが、数理的に表現できる(p.s. 正しくは、エネルギー極性が数理的ということであろう)ということではないだろうか。
 では、エネルギー極性と数理との関係は何かとなるだろう。おそらく、数理とは