2008年07月31日 (11:25)

「近代日本」の終焉とトランス・モダン日本:官僚体制の脱構築と国民経済の差異共振化

「近代日本」の終焉とトランス・モダン日本:官僚体制の脱構築と国民経済の差異共振化

テーマ:滅びゆく日本と新倫理社会へ

大分県教育委員幹部にも、また、国民にも、「公」の知性空間がないようである。思うに、一神教なら、超越界から超越神が、個人をみそなわしているという意識がはたらきうる。
 問題は、「公共」空間を普遍化することである。このためには、厳しさが必要である。今日、日本のあらゆる領域で、「公共」普遍空間が喪失している。
 これは、近代日本の終末を意味していると言えよう。ポスト・モダンは、端的には、脱構築主義は、たんに流行で終ってしまったようだ。
 脱構築主義を包摂したトランス・モダンが今日要請されていると考えられる。脱構築主義は、官僚体制を脱構築し、国政を差異化する。この国政差異化によって、国民経済の差異化、端的に、差異共振化がプログラムとなるだろう。
 整理すると、近代日本の終焉とは、明治日本がもっていた個の可能性を今日失って、単に「近代的自我主義」になり、普遍意識が喪失したことを意味する。個においてこそ、普遍・「公共」意識が成立するのである。個において、真の共同体が形成されうるのである(言うなら、個的共同体・差異共同体である。差異共振体、差異共鳴体と言ってもいい。)。
 新しい個、それは、旧態の「近代的自我」を脱構築し、Media Pointに覚醒したときに生まれるだろう。
 そう、先に述べたが、小泉構造改革は、ある意味では、旧態の日本社会主義的共同体を脱構築・破壊したのである。そして、国民は、不連続的差異になったのである。この不連続的差異が、否定的には、無差別殺人のような形で発現していると思われる。
 結局、新しい政治・経済(国民経済ないしは国民精神経済)は、この脱構築後の不連続的差異の共鳴(新個的共同体主義:Media Point共同体)を目ざすものにならなくてはならない。


 
<大分教員汚職>70万円で採用なら…口利き依頼の両親告白

7月31日2時32分配信 毎日新聞

 大分県の教員採用汚職事件に絡み、長男を教諭にするために、県教委幹部への口利きを依頼して現金など70万円分を知人に渡したとする両親が毎日新聞の取材に応じた。両親のうち母親(64)は「親とすれば『それぐらいのお金で採用してもらえるならば』と思っていた」と話しつつ「今となっては、人として親として、本当に恥ずかしいことをした」とも述べ、親心と良心のはざまで揺れる心境を吐露した。

 長男は他県の大学を数年前に卒業。在学中から大分県で高校教諭になることを目指していたが、そんな時、母親の知人から「教委上層部と仲のいい人がいる。話をしてあげるが、まずはお金がいる」と持ち掛けられた。

 母親は「いくらでお願いしたらいいか」と尋ねたところ「最低でも20万円」との答えが返ってきた。このため採用試験前に知人へ5万円の商品券を、知人の親族とみられる仲介者には現金20万円をそれぞれ渡した。

 長男は、試験は不合格となったが臨時講師に採用された。その翌年と翌々年にも仲介者にそれぞれ現金20万円を支払ったが、本採用にはなれなかった。4年目にも仲介者に5万円を支払ったが結局本採用は果たせず、教諭になるのをあきらめかけたところ、まったく別のつてで私立高校に本採用となった。

 その後は知人とも疎遠となり、母親は「だまされていたかもしれない」と振り返る。

 母親は「もし300万円で絶対先生にしてくれるというのならば(支払っても)いいと、当時は思っていた。悪いことと分かっていてもね……」と話した。父親(63)も「これが親の本音」と付け加えた。

 金を渡したことは忘れていたが、一連の事件の発覚で、当時の記憶がよみがえったという。「私と同じように口利きを頼んだ親はたくさんいると思います」と述べた。【佐藤敬一】
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080731-00000018-mai-soci


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同一性主義としての国家主義と差異共振主義:国家主義からトランス・モダンへ

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

これは、正に、差異共振(共鳴)の問題である。イスラエル人の妻とイラン人の夫の結婚という差異共振性を、イスラエルやイランは認めないのである。つまり、両者、同一性主義(国家主義)を楯にしているのである。
 思うに、これは、ギリシア悲劇の『アンチゴネー』を想起させる。国家主義者のクレオンとそれに対する神々の文化に仕える「個」としてのアンチゴーの対立。
 付加的に言えば、先にも述べたが、広義のギリシア神話には、相対立する価値の調和への志向が見られるのである。差異共振主義が見られるのである。これについて、後で検討したい。



イスラエル 夫婦引き裂く法の壁 イラン人夫、行き場失う

7月30日1時18分配信 毎日新聞


夫ハッサンさんが長女を抱きかかえ、笑顔で手を振る写真を見つめる妻イラニットさん=テルアビブで前田英司撮影
 【テルアビブ(イスラエル中部)前田英司】イスラエル人女性とイラン人男性の夫婦が、イランなど「敵国」出身者の入国を禁じたイスラエルの法律によって、別居を余儀なくされている。夫は結婚によってイスラエルを敵視する母国にも戻れず、トルコで不法滞在を続ける日々。幼子を抱えイスラエルで暮らす妻は今月、夫の入国と滞在を認めるようイスラエル最高裁に提訴。家族を引き裂いた国家の扉が開く日を待ち望んでいる。

 「こんなに苦しむと分かっていれば結婚しなかった」。テルアビブ近郊の自宅で、妻イラニットさん(36)はこう言って涙ぐんだ。夫ハッサンさん(41)との間には、長女ベルちゃん(1)がいる。父親の顔を忘れないよう、インターネット経由のビデオ電話に向かうのが日課だ。

 「私は兵役にも就いて国に奉仕してきた。それなのに……」。イラニットさんの怒りは収まらない。

 イラニットさんは、両親が60年代にイランからイスラエルに移住したイラン系ユダヤ人。流ちょうなペルシャ語を話す。05年夏、旅先のトルコ・イスタンブールで、イランから働きに来ていたハッサンさんと出会った。ハッサンさんはイスラム教徒だが、「宗教の違いなど関係ない」と意気投合。06年春に同地で結婚した。

 イラニットさんは結婚を前に、イラン人男性との婚姻についてイスラエル内務省に相談していた。必要書類を提出して審査を受ければ滞在許可が下り、4年後には市民権を得られるはずだった。

 ところが、挙式後の申請は却下され、昨年春に再び申請しようとすると、「時間切れ」だと拒否された。再申請の直前に国会で、イスラエルと敵対するイランやレバノン、シリア、イラクの国民にイスラエルへの入国を禁じる新法が可決、成立したからだ。

 「敵国」から妻を迎えたハッサンさんは、治安当局による身柄拘束を恐れ、母国に戻れないでいる。トルコ滞在ビザの失効後もイスタンブールに残り、建設現場で働きながら生活している。

 イラニットさんを支援するテオドール・シュバルツバーグ弁護士は「出身国だけで一律に入国を禁じるのは間違いだ」と指摘。「この夫婦にはイスラエル以外に安心して住める場所はない」と訴え、人道的な観点からも夫の入国を認めるべきだと訴えている。

 【ことば】ユダヤ人

 イスラエルの帰還法は「ユダヤ人の母親から生まれた者、またはユダヤ教に改宗した人」と定義する。世界中に散らばる人口は約1300万人(07年)。イスラエルに約540万人、米国に約530万人がいる。欧州のほかモロッコやイラク、イエメンなどアラブ諸国にも住んでいる。イスラエルは帰還法に基づき各国のユダヤ人を受け入れており、昨年はイランから約200人が移住した。
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080730-00000002-maip-int

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アメリカの覇権的プラグマティズム

テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア

これは、アメリカの通常の外交方法であるが、一見ご都合主義に似ているが、そうではないだろう。アメリカの覇権主義の一環としての、表面的なご都合主義である。思うに、ここには、アメリカ外交のプラグマティズムがあるように思える。そう、覇権のための戦略があり、それに基づいて、「ご都合主義」的に行動していると思う。


米委員会、帰属先「韓国」に戻す=ブッシュ大統領、竹島問題に介入

7月31日8時33分配信 時事通信

 【ワシントン30日時事】米政府機関の地名委員会が竹島(韓国名・独島)の帰属先を「韓国」から「主権未定」に変更した問題で、米国家安全保障会議(NSC)のワイルダー・アジア担当上級部長は30日、「現時点では、変更には正当な根拠がない」として、帰属先を「韓国」に戻す決定が下されたことを明らかにした。
 同部長によると、地名委員会による帰属先変更に関して韓国政府が「極めて高いレベル」で米政府に接触し、見直しを要求。これを受けてブッシュ大統領がライス国務長官に再検討を指示し、帰属変更が覆された。韓国の聯合ニュースによれば、ブッシュ大統領は同ニュースとのインタビューで「すべての紛争は韓国と日本の間で解決されなければならない」と語ったという。
 地名委員会による帰属先変更は韓国で大きな問題となっており、韓国政府は8月6日にソウルで行われる米韓首脳会談で取り上げることも検討していた。ブッシュ大統領は訪韓を前にこの問題に介入、韓国に配慮を示した形だ。 
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080731-00000031-jij-int

2008年07月30日 (17:25)

脱構築主義とプラトニック・シナジー理論:特異性の展開としてのMedia Point

今は余裕がないので、以下、bloghiro-dive氏が述べていることについて、少しコメントしたい。
 bloghiro-dive氏の視点は、私見では、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)を理解しようとするのではなく、彼の理解するデリダの脱構築主義に則り、PS理論を裁断しているものと考えられる。
 つまり、構築する行為は、可能性の縮減であるから、脱構築主義に劣っているというような発想だと思う。
 ここで一点だけ言うと、デリダは同一性システムにおける決定不能性を取り出して、脱構築=解体するわけであるが、実は、決定不能性の根拠は、特異性ないしは特異点である。それは、後期デリダは明確に述べている(『死を与える』)。
 しかしながら、PS理論は、この特異性(単独性)を掘り下げて、超越性と同一性とが交差する点(Media Point)まで、いわば、深化させたのである。ここで、特異性=不連続的差異が、超越的差異共振性であることが仮説されたのである(当然、PS理論は、仮説である)。
 そして、ここから、単に脱構築ではなく、新たな構築が可能になったと考えられるのである。つまり、ポスト脱構築主義である(もっとも、的確に言えば、トランス脱構築主義である。何故なら、新しい構築とは、脱構築主義を包摂していると考えられるからである。脱構築主義が前提になければ、新しい構築は古くさいものであり、偽物、紛い物である。)。
 bloghiro-dive氏は、デリダの脱構築主義を教条主義的に受け取り、それを絶対化(ドグマ化)して、それ以外の可能性を裁断的に否定している考えられるのである。
 最後に一言いうと、bloghiro-dive氏の文体が魔女狩り的になっているのに気づかれないだろうか。これは、哲学を行う人間の文体とは正反対と言わなくてはならないだろう。

p.s. また、以下の引用の最後の方の、仮説を否定したり、可能性を云々したりしている箇所は支離滅裂である。

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「差異を自己理論に担保できていると思い込んでいるが、理論化している時点で抹消される可能性に無頓着なのを考えれば、いかにその理論が自己瓦解しているか理解できるだろう。「これを簡便に取り扱うために、Media Pointという「概念」を構築した。で言う、Mediaとは、「媒体」の本質、つまり、「Aであり、Bである」状態を示し、結局、「即非」状態のことである 」とは、この理論の孕む根本問題を明白している。言わずとも構築しているわけだ。その代償が可能性の縮減化であることはいうまでもない。理論とは構築することで、別の理論の可能性を縮減するのだ。このハーバーマスがデリダと何十年も拘った部分に無頓着なのだ。知らないのであろう。「Media Pointという「概念」を構築した 」と自信気に述べる部分は嘲笑か沈黙のいずれかしか選択できないだろう…。あまりの無知蒙昧と無頓着、分析力に欠く点で。東洋哲学であれ、アフリカ哲学であれそんなものは仮説でしかない。可能性としてあるだけである。デリダが言うように可能性としてのみ妥当性のあるアクチュアリティーが存在する。」
http://ameblo.jp/bloghiro-dive/entry-10121507312.html
差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代

2008年07月28日 (19:28)

言語空間について:その2:同一性主義言語空間とMedia Point言語空間

言語空間という呼び方は、直近の検討問題を除いて、それまでしなかったものであるが、私自身の最近の経験から、そのように呼ぶことができる領域があると思えたので、そのように暫定的に命名して検討したいと考えている。
 プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)から言うと、Media Point Space(以下、MP空間)が端的に存するが、言語空間とは、それに通じるものであるが、それに包括・包摂されるものと思われる。
 しかしながら、言語空間は、それ独自の空間であるように思えるのである。確かに、感性空間があるだろう。美的空間があるだろう。しかし、言語空間は、それに重なる部分があるが、やはり、それとは異なる空間である。この独特と思われる言語空間について、さらに考察を続けたいと思う。
 まず、イデアと言語空間との関係を見るべきであろう。イデアとは、有り体に言えば、精神身体現象であると思う。そこには、言語はあるのだろうか。ここで、ロゴスの問題が関係してくるだろう。PS理論では、イデアは、(+i)*(-i)と表現される。これは、差異と差異との共振・共鳴関係を表現している。ここに言語が入るだろうか。
 今は思考実験的に言うだけであるが、先に述べたように、イデアは、Media Point において、原言語(プロト言語)になると考えられる。そして、それは、欲望となるから、Media Pointの発現によって、言語が形成されることになるのではないだろうか。以下は、まったくの思考実験であることをお断りしたい。
 +iは原同一性である。否、根本的には、一つの差異、自己差異である。そして、-iも一つの差異であるが、他者差異である。両者は極性を形成しているのであり、それがイデアと考えられるのである。このイデアは同一性ではなく、差異極性としてのイデア(造語して、差極イデアとする)である。
 差極イデアは、Media Pointにおいて、同一性(物質や自我)を形成する志向性をもつことになる。【同一性の表記は微妙である。私は先には、-1としたが、+1が同一性になると考えられないことはない。この問題は後で検討したい。】
 この同一性とは、当然、自己差異+iが他者差異-iを否定して形成されるものであり、(+i)*〔-(-i)〕 →-1となると考えている。-1は自我、すなわち、同一性自己である。では、言語は何か。
 思うに、意外に、+iが言語ではないだろうか。他者差異-iに自己差異+iをいわば、投影して、鏡像が生まれ、自我像が生まれるだろう。ならば、自己差異+iが言語であるということになる。思うに、以前から思っていたことであるが、+iは原形相になると思われるのである。ここに、言語というか、原言語が存しているのではないだろうか。
 整理すれば、自己差異+iが原形相=原言語(プロト言語)ということになる。そして、それが、自乗して、-1が生まれ、それが、現象する言語ではないのか。
 もっとも、同一性主義が発生する前は、差異共振性が存していたから、言語-1に対して、精神身体現象の+1が対峙して、それなりの平衡を形成していたと考えられる。
 ここで、同一性主義である近代合理主義について言えば、それは、端的に、-1に閉鎖された言語である。差異共振性=精神身体現象である+1を排除しているのである。この近代合理主義言語空間とは、私が考える「普遍」的言語空間のほんの一面に過ぎない。【そう、ドゥルーズが内在平面と呼んでいたものをここで想起する。しかし、内在平面とは、同一性と差異とが連続化している空間であり、それは、私が想定する「普遍」的言語空間ではない。】
 問題は同一性主義言語空間と「普遍」的言語空間である。後者は、PS理論的には、Media Point 言語空間(以下、MP言語空間)と呼べるように思われるのである。しかしながら、MP空間には包摂されるものとして、MP言語空間があると思われる。
 だから、同一性主義言語空間<MP言語空間<MP空間 と表記できるように考えられるのである【包摂関係を<の記号でとりあえず表記した】。
 ここで、問題の核心に踏み込もう。上記の説明では、言語とは、そもそも同一性である。つまり、差異を否定したものとしての言語なのである。ただし、正確に言えば、自己差異の肯定であり、他者差異の否定ということである。
 しかしながら、MP言語空間(「普遍」的言語空間)はそうではない。ここが微妙な点である。私が直感するMP言語空間とは、他者差異を肯定した言語空間なのである。これをどう考えるべきか。
 端的に言えば、MP言語とは、他者差異を肯定した言語であるのである。これはいったい何なのか。それは、言い換えれば、即非的言語であるということになろう。具体的に説明すれば、例えば、「山」という言葉であるが、それは、同一性主義言語では、辞書が説明するものであるが、MP言語では、「山」は全く異なる。それは、ヴィジョンやイメージ等を含んでいるのである。だから、想像的言語と言ってもいいだろう。だから、文学的言語、とりわけ、詩的言語に似ていると言えよう。あるいは、「あいまいな」言語と言ってもいいだろう。例えば、「山」は、空と接しているとか、川と「会話」しているとか、云々である。つまり、他者との共振が可能な言語なのである。アニミズム的言語(「言霊」)と言ってもいいだろう。
 整理すると、MP言語には、同一性と差異とが共立しているのである。以前述べたように、差異が同一性を包摂していると言えるかもしれない。
 以上まだまだ不明確であるが、MP言語とはそのようなものだと考えている。そう、明確にしておかなくてはならないのは、同一性と差異との共立と言ったとき、そこには、垂直的な差異、超越的な差異も含まれていることであり、デリダの哲学のように超越性を排除していないのである。
 さて、最後に、整合化させないといけない。以上では、言語は、同一性主義から発生すると言い、MP言語は同一性と差異との共立であると言った。それでは、齟齬が生じている。
 これは、この問題の最大の核心ではないだろうか。非常に微妙な難しい問題である。ここでは、示唆に留めたい。
 思うに、以上の議論は、以前の私の言語観とは異なっているのである。私は、差異共振性が言語の原点であるとそれまで言ってきたのである。明らかな矛盾である。
 結局、以上の議論は不十分となるのかもしれない。ここで、簡単に言うと、まず、差異共振映像があり、この映像に対して、自己差異+iは、観念形成を行う。それが、言語となるのではないのか。この差異共振映像とは、いわば、他者差異である。それに対して、自己差異+iはそれを否定するようにして、自乗化して、同一性自己を形成する。このときに、言語も発生すると考えられる。これが、同一性主義言語である。
 だから、言語は発生的には、差異共振映像をなんらかのスプリング・ボードにしているのである。そう、差異共振映像を同一性主義の枠組みを切り取るように思えるのである。そして、切り取った後の残りは、排除するのである。つまり、同一性のスポットを差異共振映像に投影して、その光の部分を取り出して、残りの「影」を排除するように思えるのである。
 整理すると、言語の基盤(前言語)には、差異共振映像があるのである。それを同一性で「合理主義」化して、同一性主義言語を構成すると考えられるのである。
 この視点から見ると、私が言うMP言語空間とは、差異共振映像である、言語の基盤(前言語)を肯定して、同一性言語と共立させた言語空間であるということなるように考えられるのである。換言すると、差異共振映像を同一性主義言語に浸透させたものと言えるかもしれない。
 しかし、正確に言えば、差異共振映像に包括された言語空間ではないだろうか。あるいは、差異共振映像という土台に浮かんだ同一性を包摂した言語空間かもしれない。ここで、ニーチェの用語を借りれば、差異共振映像がディオニュソスであり、同一性主義言語はアポロであり、比喩的言えば、アポロとはディオニュソスの大地ないしは大海に浮かんだ天空のようなものかもしれない。ニーチェのアポロとディオニュソスを二元論的に分離させるのは、誤りであると思う。『悲劇の誕生』をよく読めば、ディオニュソスを源基として、アポロ空間が浮上することがわかり、それらは、一体として見ることができるのである。【ドゥルーズのニーチェの見方は両者を分離させており、この点で凡庸だと思う。】
 今ここで簡単に、暫定的な結論を出しておくと、MP言語空間とは、MP空間を母体とした言語空間である。先に述べたように、それは、言語・且つ・非言語の空間であり、同一性主義の二項対立空間とはまったく異なる言語空間であると言えよう。ニーチェでまとめれば、ディオニュソス的アポロ的言語空間ということになろう。

2008年07月27日 (13:30)

検討問題:1)現象界について:-1と+1の即非様相:物質と差異共鳴精神身体現象

1)現象界について
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-19.html

以上の迷惑コメントがあった記事(「メディア界の連結力学・構造について」)は、不連続的差異論を説いていた頃のもので、約三年前のもの(2005年10月07日付け)であったが、それを読み返して、現象界についての発想が浮かんだので、ここで検討したい。
 問題は、以前にも検討したが、-1と+1との関係である。この問題は実に興味深い、いわば、不思議な問題である。
 -1は同一性主義である。それは、自己同一性主義であり、自我主義であり、物質主義である。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で述べたことと関係する。フッサールが批判する自然的態度は、-1の自我主義的見方であるのではないだろうか。
 +1の見方とは、差異共振・差異共鳴の精神身体認識(精神身体はMedia Point的であるが、思うに、精身を造語したい)であるが、通常は、ないしは、ポスト・モダンは、-1と+1とが混淆して、連続化しているのである。【p.s.  -1と+1との混淆は、ドゥルーズの場合に的確にあてはまる。デリダの場合は、そうではないので、陳謝し、訂正したい。デリダの脱構築主義は、微妙なところがあって、不連続的差異論に近いのであるが、超越性の否定を前提にもって、諸哲学において、-1と+1が共存している様相・様態を確認して、-1の同一性システムに対して、+1の差異が並存している事態を提示して、同一性システムを脱構築するものと考えられるのであり、混淆というよりは、同一性と差異との併存と言わなくてはならない。】
 ここで端的に、構想を言うならば、物質現象とは-1であり、精神身体現象は+1である。しかしながら、現代の見方は、前者中心であり、後者は否定・抑圧・排除・隠蔽されていると考えられる。
 ここで、やや迂回して、量子論について言うと、それは、物質同一性-1の近代科学に対して、+1のトランス・モダン・サイエンスを提起しているのではないだろうか。ただし、量子を物質主義的に捉え、イデアとして捉えていないので、不十分と考えられるのである。イデア(対極イデア:正確に言うと、双極イデアか?。四元的イデアということになるし、Media Pointを加えると、五元的イデアとなるのではないだろうか)の共鳴である量子という考えには達していないのである。【電磁波は、結局、イデアでいいのではないだろうか。一般的には、まだ、物質主義的視点で捉えているだろう。イデアとしての電磁波であろう。】
 ということで、現象とは、一般には、-1の物質現象として考えられている。しかし、心的現象・精神現象があり、これがうまく捉えられていないのである。例えば、「気」をどう捉えるのか、ということもあるし、どのように宗教現象、神秘現象を理解するのかということもある。それらを脳生理学的に捉える傾向があるが、それはやはり、物質主義である。 
 心的現象は、+1と捉える必要があるだろう。フッサールは『危機』で、-1という自然的態度を還元(解体)して、(⇒)+1の超越論的主観性を説いたと考えられる。ただし、既述のように、フッサールは主観的同一性に囚われていたので、差異共鳴(太極イデア)という考えには達しなかったのである。
 端的に言えば、現象の表層は-1の物質現象であり、現象の深層・実相は+1の精神現象(精神身体現象)であるということになる。そして、-1と+1とは即非様相にあるということになろう。先にバッハ音楽について述べたが、バッハ音楽は、-1の聴覚を介して、+1の精神現象(差異共鳴現象)が奇跡的に豊饒に表現されていると言えよう。そして、芸術の感動とは、+1の表現を介して、Media Pointが開いて、イデアに接することにあるのではないだろうか。崇高さとは正にそのように考えられるのである。そう、正に、プラトンの説いた美や善はそのようなものであろう。また、根源的真理はそのようなものだろう。
 さて、ここで、再度、ポスト・モダンについて触れると、超越性(虚軸、イデア性)を否定して、Media Pointを実軸に留めているので、その差異(差延)とは、ゼロに閉塞した+1を意味するのであり、それで、袋小路になっているのである。つまり、虚軸・超越性のもつ開放性がないのである。閉塞された差異と言えるのである。だから、ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界にあると言えるだろう。モダンの縁と言えよう。
 では、構造主義はどう把握できるだろうか。直感では、ほとんど、ポスト・モダンに近いのである。二元対立構造は、言わば、-1の視点から見た+1で説明ができそうである。つまり、物質的二元論(二項対立)の視点から、精神身体現象+1を見ると、二元対立構造が現われると考えられるのである。つまり、即非性のない対立構造である。せいぜい、両義性の構想に留まるのである。【デリダのファルマコンの考えも、これに近いだろう。】
 整理するなら、構造主義は、物質主義-1から差異現象+1を見たものであり、ポスト・モダンはゼロ・ポイント⇒+1の理論と言えようか。そして、不連続的差異論はMedia Pointを捉えた一つのブレークスルーと考えられよう。そして、PS理論は、さらに差異をイデア的共鳴現象と捉えたのである。【p.s. デリダの脱構築理論は、上述したが、不連続的差異論に接近している。ただし、水平軸的特異性としての差異を捉えているので、垂直性が欠落しているために、いわば、三次元にとどまっているのである。】
 

2)日本人に個はあるか。昨日の雑踏を見て、また、公的空間でべたべたする男女を見て、日本人は、個として独立しているのかと思う。
 官僚支配唯物社会主義体制下にあって、日本社会において、日本人は個としての営為をもたないように、抑圧されているのではないだろうか。官僚封建主義にあって、官僚中央集権によって、政治、経済、メディア、教育、文化等々が支配されているのであり、個としての自由な営為をもてないように、巧妙に抑圧・拘束されているのではないだろうか。
 一般の日本人は、その被束縛が、もう気がつかなくなっているのではないのか。いつの間にか、差異を抑圧する同一性主義に染まっているのに気づいていないように思えるのである。つまり、日本人は、同一性主義という「精神病」に罹っているのではないか。
 


3)「精神分裂症」について:同一性主義は、「精神分裂症」を生む。
 同一性資本主義は、パラノイアと同時に、「精神分裂症」を生むのではないだろうか。【p.s.  これは、理解しやすい。何故なら、同一性主義は、自己同一性完結主義=パラノイアとなるのであり、同時に、否定・排除・隠蔽した差異他者-iが、他者の人格として、発現すると考えられるからである。これでは、二重人格であるが、Media Pointの多様・多元性を考えれば、多重人格が考えられよう。】


4)言語空間について:言語とMedia Point精神身体現象

2008年07月27日 (03:07)

官僚支配唯物社会主義という亡国主義を超えて:トランス官僚支配国家統制経済としての資本差異共振主義

私は昨日、用事で、神奈川県相模原市に接している町田の駅(小田急とJA横浜線がやや離れて交差している)で乗り越えたが、昨日の暑気の中、印象では、都心より稠密な人ごみ・雑踏に不快感を感じた。
 地方では人が少なく、東京では、人が溢れている。大店法は問題ではあるが、中枢の問題は、農林水産業、食料問題だと思っている。
 先にも述べたが、補助金が農業を金漬け農業にして、だめにして、地方の活気を奪ったと思う。勿論、WTOの問題がある。どうして、食糧自給率が四割を切っている国が自由化しないといけないのか。EU諸国は、食糧自給率が高いのである。自国で生産された食べ物を中心にすべきが本来的である。日本の大地や海で取れたものを中心にすべきである。やはり、官僚の唯物合理主義が亡国的なのである。

p.s. 補助金というより、米価を国家統制的に高く保持したのが、間違いであろう。米作社会主義である。農業経営者と国家との資本共振関係が必要ということだろう。

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2000年6月に施行された大規模小売店舗立地法の影響は、東京
から1500キロ離れた本土最果ての地でも本格化し始めました。

2008年7月26日 土曜日

◆イオンとノスタルジーの関係 2008年1月30日 プレジデント編集部 九法崇雄

さて、年が明けて1カ月が過ぎようとしていますが、みなさま、どのような年末年始を過ごされましたでしょうか? 私は故郷・鹿児島に帰省していました。正月を実家で迎えるのは3年ぶりのこと。しかし、やすらぎは束の間でした。一昨年結婚し、嫁を連れて帰ってきた弟と比較して、「オレが定年で辞める前には、結婚しろよ!」という父。第一子が生まれたばかりの従兄弟には、「早く親孝行してやれよ!」と言われる始末。悪気のない攻撃は、一番ダメージが大きい。両親には、「結婚するまで2度と帰らない!」と捨て台詞を残し、3日の午前中には鹿児島を後にしたのでした。

 それはさておき、久方ぶりに戻った我が故郷・最大のニュースは、ショッピングセンター・イオンの誕生でした。全国どこへ行ってもみかけるこの巨大艦隊が鹿児島に初上陸を果たしたのは、昨年10月。元日のテレビでは、イオンの初売りで福袋を抱え嬉々とする主婦の映像が流れていました。なんと平和な正月の光景であることか!
 正月2日、特にやることもなかった私は、早速ネタづくりにと行って参りました。まずは、その大きさ(敷地面積110,656平方メートル)に唖然。そして、客層に驚愕。中年夫婦はもちろん、来年30の大台に乗る私とほぼ同年代とおぼしき子連れ夫婦、それよりさらに若い女子校生の集団までもが、"巨大艦隊 "のトリコとなっていました。無印良品、ユニクロ、紅虎餃子房など東京でもおなじみの店を中心とした約200の専門店は、大いに魅力的に映るのでしょう。
 2000年6月に施行された大規模小売店舗立地法の影響は、東京から1500キロ離れた本土最果ての地でも本格化し始めました。地元の商店街は戦々恐々としています。「イオン進出を機に地元は結束を固めつつある。県内一の商業集積を誇る天文館地区は、JR鹿児島中央駅のアミュプラザ開業に次ぐ試練を前に『We Love 天文館協議会』を発足させ、まちの活性化に取り組み始めた」(南日本新聞2007年10月4日 社説)とはいうものの、成果はいつになることやら。今や、中心市街地にあった3つの映画館も消えてしまいました。もはや、集客装置は、飲み屋とパチンコ屋しかなくなりつつあります。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080726
株式日記と経済展望

政治・経済
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[農政ウオッチ]重要品目4%/輸入急増し大打撃
掲載日:08-07-26
 日本の農業界を激震が襲った。世界貿易機関(WTO)交渉で農業分野のモダリティー(保護削減の基準)などを交渉している閣僚会合で24日、欧州連合(EU)が、関税の大幅削減の対象から除外できる重要品目の数で「全品目の原則4%」を提案。米国の支持で交渉の軸になってきたからだ。現在の「たたき台」では、重要品目にできなければ関税を約70%削減しなければならない。一方、重要品目になっても米のミニマムアクセス(最低輸入機会=MA)のような低関税輸入枠の大幅な拡大が待ち受ける。このまま合意するようなことになれば、日本農業が壊滅的な打撃を受けるのは必至だ。

■主要農産物守れず

 「衝撃的な数字だ」。自民党農林幹部の一人は、閣僚会合の現状に言葉を詰まらせた。

 農産物を、例えば米をもみや玄米、精米などのように細かく分類した場合の日本の品目数は全部で1332品目。「4%」なら53品目しか重要品目にできない。日本が求めてきた「10%(133品目)以上」と大きくかけ離れている。

 一方、日本の高関税品目は169品目と言われることが多い。多国間による前回の貿易交渉、ウルグアイ・ラウンド合意に基づく主要な関税化品目に砂糖を加えた数だ。

 またWTO閣僚会合の「たたき台」となっているモダリティー議長案の第3次改訂版は、「一般品目」と呼ばれる重要品目以外の品目で関税が75%超の品目に、約70%の関税削減を求めている。関税75%超は日本では134品目。これを基に試算すると、このうち81品目は一般品目として約70%の関税削減が必要だ。

 ただ第3次改訂版は、条件・代償付きで重要品目を2%分増やすことを認めている。これを適用すれば重要品目を27品目増やせるので、70%関税削減の対象は54品目になる。しかし増やした分の27品目は代償として、低関税輸入枠を国内消費量の0.5%追加拡大しなければならない。

 関税を約70%削減するとどうなるのだろうか。米では、MA以外の輸入に課している現行1キロ341円の関税が102円に低下。最近の価格高騰の影響を除くために過去10年間での中国産短粒種の売買同時入札(SBS)最低価格で関税支払い後の価格を試算すると、玄米換算で60キロ9000円程度になる。国産米の価格を下回り、価格だけ見るとMA以外でも輸入が可能になる。ほかの品目で試算しても、小麦、バターなどの乳製品、砂糖、コーンスターチ用トウモロコシを含むでんぷん、雑豆、こんにゃく・・・・・・と、高関税品目は軒並み同様の事態に陥る。

 このため閣僚会合で日本は、最低限として「原則6%、追加を含めて8%」を強く求めている。

■自給率向上に逆風

 食料自給率を50%以上に引き上げるための工程表をつくる――。若林正俊農相が2日、福田康夫首相に説明したこうした計画も、WTO閣僚会合がこのままの流れで決着すれば、見直しを迫られる恐れがある。

 関税の削減とともに、自給率向上の大きな逆風になるのが低関税輸入枠の拡大だ。第3次改訂版は(1)関税削減率が一般品目の「3分の1」(高関税品目だと削減率23%前後)の場合の輸入枠の拡大幅を、国内消費量の「4〜6%」の範囲で決める(2)関税削減率が同「2分の1」(35%前後)の場合は、「3分の1」の場合の拡大幅より0.5ポイント少なくし、「3分の2」(47%前後)の場合は同1ポイント少なくする――ことを提起した。

 24日の閣僚会合でEUが提案したのは、最大値となる「3分の1」の場合に「4%」。最小値となる「3分の2」だと「3%」になる計算だ。

 これを基に米で試算すれば、現行が年間76万7000トンのMA米は、拡大幅「3%」で100万トン強、同「4%」で110万トン強になる。重要品目に指定すれば、小麦などといった自給率向上の戦略作物を含め、他品目も同様の拡大が必要だ。

 農水省幹部が懸念する。「輸入枠が拡大すれば安い輸入品が増えるので、何もしないと国産が減る。(このまま合意すれば)自給率の大きな引き下げ要因を抱えるため、自給率目標も抜本的に考え直さなければいけなくなるかもしれない」

 閣僚会合で日本は、輸入枠の拡大幅の最小値を「2%」に引き下げ、また米についてはさらに圧縮できる仕組みを認めるよう主張している。
http://www.nougyou-shimbun.ne.jp/modules/bulletin/article.php?storyid=1641

<ドーハ・ラウンド>裁定案で日本窮地に 支持する国なく

7月26日22時4分配信 毎日新聞

 世界貿易機関(WTO)の多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の非公式閣僚会合で、ラミー事務局長が25日提示した大枠合意の裁定案は、日本にとって農業分野のさらなる市場開放を迫る厳しい内容になった。特に日本が問題視するのは、例外的に関税削減幅を低く抑えられる重要品目の数。だが、日本の主張を支持する国はほとんどなく、裁定案をくつがえすのは容易ではなさそうだ。

 裁定案は、先進国の重要品目数を全品目の4%とし、低関税の輸入枠を拡大した場合に2%の上乗せが認められる。これに対し、日本は8%を譲れない線としてきた。

 日本の全農産品は1332品目。日本が主張する8%が認められれば、現在200%以上の高関税を課している101品目は少なくとも重要品目として大幅な関税削減は避けられる。だが、6%の場合、対象になるのは約80品目。コメ類だけで17品目あり、これに麦や乳製品類を加えると96品目になり6%のラインを超えてしまう。

 重要品目以外は関税を7割削減しなければならず、現在1706%の高関税を課しているコンニャク芋が重要品目から外れれば、税率は一気に約510%に下がる計算だ。そうなれば中国など低価格のコンニャクの輸入量が急増するのは必至で、国内約4200戸のコンニャク農家には死活問題となる。

 現地で交渉に当たる若林正俊農相は裁定案を「非常に不満だ」とし、今後も8%を強く訴える構えだが、米国や欧州連合(EU)は重要品目数について異論はなく、日本は孤立状態になっている。

 閣僚会合には「(決裂すれば)世界経済に大変な影響を及ぼすので、そういうことがないよう努力していこうとの空気がある」(若林農相)といい、自国の主張だけを押し通すのは難しい状況で、日本は極めて厳しい立場に追い込まれている。【行友弥、平地修】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080726-00000113-mai-bus_all


関税引下げと食料自給率向上を両立させる農政改革

概要

1.改革の必要性
1)WTO・FTA交渉が進められる中、農産物関税引下げ、国内価格引下げが必要。
2)農業の衰退に歯止めがかからない。食料自給率は1960年の79%から2003年には40%まで低下。

2.日本の農業保護の構造と原因
1)国際比較
・日本の農業保護は高くない。農業保護指標であるOECDのPSE(Producer Support Estimate)は、2003年、アメリカ389億ドル(GDP比0.4%)、EU1,214億ドル(同1.2%)、日本447億ドル(同1.0%)。
・しかし、WTO・FTA交渉において(特に関税引下げに抵抗する)農業保護主義的な国という批判があるのは、保護の仕方が間違っているため。それは余りにも高関税に頼りすぎ、直接的に海外からの輸入を防いでいるからだ。しかも、この保護の仕方は二つの面で日本農業の衰退を招くという墓穴を掘っている。一つは、高関税が米など特定の品目に偏っているため農業資源が高関税品目に向かい、需要のある望ましい品目に向かわず自給率が低下すること、二つには、高関税・高価格に依存しているため、農業の生産性や効率が上がらず、競争力の向上を妨げていること。
PSEは高関税・高価格による消費者負担と農業所得を直接補助するなどの納税者負担の二つの部分からなる。PSEに占める消費者負担の部分は、1986/88年から2003年にかけてアメリカ46% →38%、EU85%→57%、ところが日本90%→90%。アメリカ・EUとも価格を下げ財政による農家への直接支払いへ転換。
2)なぜ、関税依存の消費者負担型農政ができ上がったのか。
所得は売上額(価格×生産量)からコストを引いたもの。米のように需要、売上額が伸びない作物でも、農業の規模拡大等の構造改革を行い、コストを減少させれば、農業所得は確保できるはずだった(農業基本法)。
しかし、実際の農政は米価を引き上げ。その結果、
(1)米は過剰となり、30年以上も生産調整を実施。そのため、農業資源は収益の高い米へ向かって他の作物には向かわず、1960年度から2003年度にかけて食料自給率は低下(反対にフランス99%→132%)。
(2)コストの高い農家も高い米を買うより自ら作るほうが安上がりとなるため、零細副業農家が滞留し規模は拡大せず(40年間で0.9ha→1.2ha、フランス17ha→42ha)。国際競争力は低下。

3.改革内容
農業を保護することとどのような手段で保護するかは別の問題。価格支持政策は零細農家を温存する効果を持つ。これに対し、納税者負担による農家所得補助のための直接支払いは、一定の耕作規模以上の農家に対象を限定して行なえば、コストは削減し、国民経済全体の厚生水準を高め、貿易への歪みを少なくし諸外国との貿易摩擦を避ける。
関税引下げ、国内価格引下げによる農家所得の減少に対応するためには、EUのように直接支払いを導入すればよい。しかし、内外価格差のある中で関税割当の拡大は、低関税の輸入を認めるため、国内生産の縮小をもたらす。食料自給率の向上のためには、関税引下げか関税割当拡大のいずれかを求められる場合は、迷わず関税引下げを選び直接支払いを導入すべき。
1)具体案
農業の効率化を促進させる対象者を絞った直接支払いが必要。現在、稲作副業農家の所得801万円>勤労者世帯646万円、うち農業所得はわずか10万円。主業農家所得642万円(うち農業所得は322万円)で、ここへ直接支払いのターゲットを絞る。
2)政策効果のメカニズム
価格維持カルテルである米生産調整や他の農産物の価格支持政策の廃止→価格低下→高コストの零細副業農家は農地を貸出す(米を作るより買ったほうが安い)→ 農地面積当たり直接支払いを一定規模以上の企業的農家に交付→企業的農家の地代支払能力向上→規模拡大による効率化、コスト・ダウン→価格はさらに低下→ 国際価格へ接近。
3)期待される効果
(1)全ての農産物関税ゼロ(現在米490%)の場合でも直接支払い所要額約1.7兆円。(農業予算は3兆円)
(2)農業保護の消費者負担部分(PSEでは4.7兆円)は価格低下で消滅。WTO・FTA交渉にも積極的に対応可能。
(3)食料自給率の向上
ア.生産調整廃止による米生産の拡大及び米と他作物の相対収益性の是正を通じた他作物の生産拡大。
イ.大規模層に農地をさらに集積していくと、耕作放棄、不作付け、捨作りが解消され、水田の利用率が向上。
ウ.価格が低下すれば、米粉等輸入調製品や飼料用米の需要も取り込むことが可能。関連産業との連携により、生分解性プラスティックやエタノール原料用の米生産を行うことも可能。
(4)担い手農家の所得も向上。
(5)週末以外も農業に専念できる主業農家は農薬・化学肥料の投入を減らすので環境にやさしい農業が実現。

http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/05050006.html

2008年07月25日 (23:28)

視聴覚と心覚:同一性感覚と精神覚:視覚のもつ同一性自我感覚への傾斜

視覚は、問題が多いだろう。視覚について考察する前に、私の好きな音楽について、先ず、考えてみよう。
 もっとも、私が好きな音楽は、ほぼバッハに限定される。これまで、それなりに音楽を聴いてきたが、結局、大バッハに収斂するのである。
 では、大バッハの何がいいのか。これは愚問ではあるが、有り体に言えば、バッハ音楽の精神性である。聴覚を通して、確かに、精神性が喚起されるのである。つまり、聴覚という感覚を通して、精神が感得できるということであり、これは、感覚には、いわば、精神覚、心覚があるということになろう。これは、いわば、第六感である。
 そう、聴覚に言えることは、視覚にも言えることである。視覚的にいちばん感動したのは何かと言えば、美術で言えば、セザンヌの静物画である。リンゴではなくて、テーブルに上に陶器を載せた静物画に感動したし、その他、名のない絵画に感動したし、また、田舎の崇高な夕焼けの赤や紫に感動した。
 この場合では、視覚を介して、崇高さ、崇高な精神を感得していると言えよう。だから、視覚を介して、やはり、精神覚・心覚があると考えられるのである。
 これは、これまで、PS理論において、Media Pointによるイデア界と物質界との交差で説明してきたことであるし、それは今でも適切であると考えられるのである。
 つまり、感覚、五感において、Media Pointを介して、イデア性、即ち、精神性が表現されるということである。しかしながら、感覚=精神性ではなくて、感覚に重なるように、精神性が発現しているのである。
 ということで、視覚に関しても、精神覚・心覚が考えられることになる。では、私が感じた視覚への不信感は何だろうか。
 それは、視覚はあまりにも、物質性に囚われやすいことにあると思う。視覚における精神性・心性は、明快であろうか。
 視覚は電磁波の感覚である。思うに、視覚認識は、同一性に深く関係していると思う。だから、視覚においても、精神覚・心覚はあっても、同一性感覚=物質感覚性が強いので、視覚に対する不信感が生じるのではないだろうか。
 視覚は五感の中でも危険な感覚と言えよう。言い換えると、視覚は、幻惑的であるということになる。
 これで、本件の結論を得たことになる。そう、一言で言えば、視覚とは、鏡像を形成し、自我感覚の基盤となるものであるということになる。

2008年07月24日 (18:15)

ナルシシズムと同一性の関係:陽化による自己同一性主義=二項対立の発生と一神教的西洋形而上学

今は簡単に考察するだけであるが(p.s. 詳論となった)、今日の多くの日本人の陥っている自我意識であるが、これは、ナルシシズムが基盤にあると思われるのであり、この力学を明確する必要があると思いついたのである。
 これまで、何度も考察してきたが、今一つ決定力の欠ける考察と言わざるを得ない。そういうことで、精緻に考察を試みたい。
 同一性主義の自我にある自己中心主義エネルギーはどこから来るのか。そこには、尊大な興奮があり、侮蔑・軽蔑・嘲笑・愚弄・見下し・嫌悪・憎悪等があり、高圧・慢心・高慢・傲慢さ等々がある。また、怒りや憤激がある。衝動的であり、独断・専断・独善的である。いわば、病的な同一性心性なのである。
 当然、理論的には、二項対立がある。自我が優越し、他者が劣等である。この自我優位/他者劣位の二項対立性とは、これまで、検討してきたように、同一性による差異(他者)の否定に存すると言えよう。
 端的に、自我による他者の「見下し」の原因は何か。根本から考えると、優越感以前には、劣等感があると考えられるのである。自我は、同一性主義となる以前は、差異に対して、劣等感を感じていたはずである。劣等感ではなくても、少なくとも、「自信喪失」である。
 ここで少し迂回してみよう。女神の神話においては、当然、中心・支配者は女神である。その脇侍のように、女神の子の男性(双子)がいる。【参照:釈迦三尊仏の様式】
 そして、父権神話とは、その補佐であった女神の子が独立することに存する。英雄神話の半面はこれと重なる。
 この女神の子・男性の独立が、同一性形成を導くと考えられる。問題は、何故、女神の支配から独立する必要があるのかである。
 女神の支配とは、原始的な差異共振様相を意味すると私は考えている。だから、原始的差異共振様相から独立する女神の子=「英雄」が存するということである。
 何故、独立するのかと言えば、それは、差異・他者である差異共振様相から分離する要請があるからだろう。つまり、自己同一性(=自我)を形成する要請である。
 そして、いったい、この要請とは何なのかということである。この問題については、既に繰り返し繰り返し検討した。しかし、そこでは、否定的な評価があった。差異共振性における悲・苦が存するので、それを否定・抑圧・排除して、自己同一性(自我)の優位を構築するということことであった。
 しかし、Media Pointにおける太極を考えると、そこには、自然の転変する力学が考えられる。陽極へと志向する力学が生ずるときが考えられる。このときは、当然、陰極を否定する力学となると考えられる。
 PS理論から言えば、陰極-iを否定して、陽極+iへと志向する力学である。暫定的に、陽化と呼んでおこう。当然、同一性化である。理論的には、(+i)*〔-(-i)〕⇒-1と考えられる。平明に言えば、+iの自乗、(+i)^2=-1である。
 しかし、このように考えると、構造主義的である。主観が入らないのである。思うに、自然力学の一環として、構造的に陽化があることは認める必要があるのではないだろうか。
 問題は、陽化が発生して、同一性意識(自我意識、自己同一性意識)が形成されても、否定されたとは言え、陰極-i自体は現存しているのであるから、陰極のもつ「力」ないしは「エネルギー」は隠然として存していると言わなくてはならない。つまり、陽化によって、同一性自己(自我)が形成されても、いわば、無意識においては、陰極-i、差異、他者が存しているのであり、それが、同一性自己(自我)と対立していると考えられるのである。
 即ち、精神現象(正確に言えば、精神身体現象である)において、同一性自己と差異他者の対立が厳然として存在しているということであり、矛盾・葛藤・齟齬の様態にあるということになる。永遠の対立である。
 しかしながら、陽化においては、同一性志向性が優位にあるので、当然、陰極である差異他者は劣位におかれると端的明快に言えるのではないだろうか。これが二項対立の根因・起因であると考えられるのである。だから、同一性自己は他者差異の否定に傾斜する力学をもつのである。ここに、上記の否定感情が入ると言えるだろう。これで、一つの問題、即ち、二項対立の発生原因は解明できたとしよう。【p.s. 一点注意すべきことは、本来、+iと-iは共振様相ないしは極性・対極性様相にあるのであり、他者差異-iの否定は、単に、陰極の否定だけではなく、差異共振(共鳴)性の否定でもあるということである。】
 次は、ナルシシズムである。しかし、この問題はもう以上の考察から自明的であると考えられる。即ち、陽化=同一性化とは、陽極が陽極自体を映すことと言い換えられるのではないだろうか。つまり、「自己」が「自己」を映すということである。そう、鏡像である。つまり、陽極+iが鏡面となり、陽極自体+iを鏡像として映し、それと結合するということである。換言すると、自己鏡像化である。自己が自己を映すのである。自己完結主義である。
 これで、ナルシシズムの説明はつくのではないだろうか。そして、悪の発生もこれで説明できるであろう。同一性自己主義、ここに、ナルシシズムがあり、他者差異否定、つまり、反倫理があるのである。
 さて、最後に、敷衍的に、一神教(ヤハウェ的一神教)について、この視点から見てみよう。
 一神教、つまり、ヤハウェ的一神教であるが、それは、端的に、同一性自己の形而上学と言うことができよう。陽化の形而上学である。多神教・異教・自然宗教を排除するのは、陽化の徹底化と見ることができよう。【イエス教は、本来は多神教、女神教であると考えられる。だから、キリスト教は絶対矛盾的自己同一と言えないことはない。】
 しかし、重要な点は、超越神性ないしは超越性である。それは、多神教にはない点である【p.s.  正確に言うならば、多神教にも、超越性があるのである。でなければ、神性は発生しないだろう。ただし、多神教においては、超越性と自然性とが共鳴する関係にあることが、一神教との決定的差異である。だから、多神教は内在的超越性をもつ考えられるかもしれない。それは、正しいだろう。しかしながら、PS理論は、即非的内在/超越性をもつ言うべきである。】。差異他者を否定したとき、それは、抽象化を意味するのである(抽象芸術と一神教との関係があるだろう)。偶像の禁止である。
 そして、超越性の根源は、イデア界(虚軸)にあると考えられるのである。PS理論から見ると、Media Point が、消失・喪失して、超越性と現象性の絶対的二元論が発生したと考えられるのである。神の世界と現象世界を結ぶものは、何もなくなったのである。ただ、信仰があるだけとなったのである。あるいは、キリスト教で言えば、キリストと聖霊を介すしか、神とのコミュニケーション(語呂合わせすれば、カミュニケーションである。【p.s.  精緻にいうと、一神教においては、神と人間とのコミュニケーションがあるのかどうか難しいところである。プロテスタンティズムを見てわかるように、神からの一方的な恩寵の有無が、救済と関係するのであるから、正確に言えば、コミュニケーション、カミュニケーションがないのである。】)はなくなったのである。
 ここでは、Media Pointの喪失がいちばんのポイントである。【これが、精神文化的に、西洋と東洋を分離するポイントである。】とまれ、ヤハウェ的一神教によって、いわば、超越的同一性自己主義が発生したのである。あるいは、形而上学的自己同一性主義の形成である。そして、これが、西洋文明の支配・主導的精神であり、これが、西洋資本主義を駆動させている精神であると考えることができよう。単に、同一性自己主義ではなくて、超越的ないし形而上学的同一性自己主義であるということである。その帰結が、今日のサブプライムローン問題である。
 根本的に差異共振精神を否定しているので、このような惨禍となるのである。ただし、イエスの精神には、本来、差異共振性があるのであるが、それが、ヤハウェ的一神教性によって、阻害されてしまっていると考えられるのである。

2008年07月23日 (09:49)

覚書:デリダの脱構築主義とMedia Point:MPゼロ度とトランス・ポスト・モダン

覚書:デリダの脱構築主義とMedia Point:MPゼロ度とトランス・ポスト・モダン

テーマ:哲学

かつて、デリダの脱構築主義が独り歩きしていたと言えよう。しかし、今思うに、デリダの哲学は、そのようなキャッチ・コピーでは捉えられないのではないだろうか。
 今、思うところを言えば、問題は、特異性の哲学をどう打ち立てるのかにあったように思える。同一性主義が中心化している西洋文明において、特異性の哲学をどう構築するのかが、哲学者、とりわけ、現代の哲学者に要請されていたことと考えられる。
 私自身について言えば、特異性と同一性の問題が、生きる問題であったのである。私自身は、正に、他の何ものでもない個であるが、日本はオイル・ショック以後、70年代半ば以降、どんどん同一性が流通する社会となり、私は強烈な違和感をもっていたのであるからである。
 とまれ、今簡単にデリダ哲学について言うと、特異性という差異に対して、西洋哲学はこれまで、同一性の哲学を構築してきたのであるが、同一性のシステムを立てても、そこには、特異性という差異が付き纏っているのであるから、同一性のシステムは決定不能性に陥るというものではなかったであろうか。
 それは、不連続的差異論/PS理論から見ると、正しい考え方である。PS理論が明らかにしたように、特異性は実は超越性と現象性との交叉するMedia Pointに存するのであるが、デリダはフッサール批判そしてハイデガー哲学の擁護によって、超越性を排除していたので、差異からMedia Pointへと進展することができなかったと考えられるのである。
 思うに、ハイデガーの存在そしてデリダの特異性とは、PS理論で言えば、これまでの検討の結論を否定して、最初の考察に戻ることになるが、Media Pointの実軸点であると思われるのである。いわば、ゼロ・ポイントである。
 とまれ、デリダ的ポスト・モダンには、トランス・モダンへの契機があったことは確かである。結局、トランス・ポスト・モダンである。

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デリダのジョイス論とトランス・モダン

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

デリダの『ユリシーズ グラモフォン』の訳者の一人の合田正人氏の解説が知的に刺激的である。できれば、後で、検討したいが、そこで、問題になっている哲学的事象は、端的に、Media Pointであると考えられる。デリダは、ドゥルーズ以上にMedia Pointに接近していたのである。しかし、既述したように、ハイデガー哲学の影響によって、デリダは超越性を排除してしまっていたので、明確に Media Pointを捉えることができなかったと考えられるのである。
 思うに、ドゥルーズの差異イデア論とデリダの超越論的差異論ないしは決定不能性論を統合すると、不連続的差異論になる。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は出てこない。何故なら、ポスト・モダンは超越性を排除してしまっているからである。
 だから、未読であるが、レヴィナスをそこに加えるといいのかもしれない。ライプニッツ、スピノザを加えてもいいだろう。また、未読であるが『神的な様々の場』のジャン・リュック・ナンシーを加えてもいいのではないだろうか。
 しかしながら、一番の寄与は、ウスペンスキーの第三の論理学(正しくは、ターシャム・オルガヌム)や、鈴木大拙の即非の論理学、他からもたらされるだろう。矛盾が共鳴・共振する論理が決定的なのである。それが、トランス・モダンであり、トランス西洋文明なのである。
 自然科学では、量子論がその論理をもっている。即ち、粒子と波動の相補性である。

p.s. 因みに以下の翻訳が出版されている。デリダの修論だそうだ。

フッサール哲学における発生の問題 ジャック・デリダ、合田 正人、 荒金 直人 (単行本 - 2007/11/22)
http://www.amazon.co.jp/gp/search?field-keywords=%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C&index=blended&tag=mozillajapan-fx-22&sourceid=Mozilla-search&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&linkCode=qs


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ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス) (単行本)
ジャック デリダ (著), Jacques Derrida (原著), 合田 正人 (翻訳), 中 真生 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E2%80%95%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8-%E5%8F%A2%E6%9B%B8%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%8B%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%82%B9-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80/dp/4588007238

[思想]
2004.6.18 中井 悠
蓄音機の効果 (1/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 およそあらゆるマーク(≒記号)たるもの、それが意味をもち、理解され、使用されうるかぎりは、たとえどんな私的なものであろうと、その担い手たる主体の不在においても反復可能でなければならない。というジャック・デリダが1968年の「署名・出来事・コンテクスト」以来口酸っぱく主張してきた反復可能性の議論は、だがいつもながらこの哲学者の語り口の曖昧さからしていらぬ誤解を招きやすい。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo/daily/content/200406180001/index.html

[思想]
2004.6.24 中井 悠
蓄音機の効果 (2/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 もしボルヘスが物語ったような絶対的な記憶を持つ神のごとき存在、あるいはその逆に、ニーチェが嫉妬したような記憶という重荷と縁のない動物たちが相手であったならば、余計な言葉を費やさずともよかっただろう。だがあいにく語りかけられるべきは、その狭間にいる中途半端に頭の良い/悪い人間たちであり、その多くが対処すべく直面しているのは、忘却の不安(?)を抱えつつも反復はとりあえず成立しているという、いささか厄介な事態である。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo/daily/content/200406240001/index.html

DAILY COMMENTARY ||| JOURNAL SITE

2008年07月20日 (02:48)

(無意識の)怒りや憤激とは何か:今日における短絡する精神の病理とトランス・モダン精神への進展

今、フェミニズムの古典の本(『自分だけの部屋』)を読んでいて、そこに、女性の劣等性を論ずる男性の精神を分析して、そこに怒り、憤激があると指摘してあった。
 天才的な作家であるから、鋭敏な洞察力をもっている。私は、この怒りや憤激というものが、今日、日本(に限らないが)社会の精神病理を説く鍵ではないかと感じた。
 思えば、オウム真理教の信者たちの中にも、社会への憤激があったと思う。これが、反社会的破壊行動へと駆り立てたと言えるのではないだろうか。ニーチェ哲学で言えば、ルサンチマン(怨恨)である。【p.s. 私見では、中沢新一がグノーシス主義を説いていたが、オウム真理教に肩入れした彼の精神には、ルサンチマンが深く根差していると思う。】
 さらに思えば、小泉構造改革「ファシズム」も、社会にあるルサンチマンにつけ込んだ現象であったのであり、今日でもルサンチマンは重低音として蔓延していると言えよう。これが、短絡的な暴力行為・凶悪な犯罪の根因ではないかと思われるのである。
 ルサンチマンについては、これまで、同一性に傾斜している人間の精神から発生すると述べてきた。差異における反感が発生し、差異自体を肯定的に知性化できずに、暴力的情動であるルサンチマンが発生するというように考えた。
 ここに、怒り・憤激の要素を見ることができるし、そう捉えることで、今日の精神病理やそれに基づく犯罪を説明できるように思えるのである。
 では、怒り・憤激とは何か。つまり、短絡的な怒り・憤激とは何かということである。端的に言えば、ここには、他者の欠落・欠損した、自己同一性中心主義があると言えよう。
 だから、近代的自我・近代合理主義の病理ということができるし、父権主義の病理ということができると思う。それらは、端的に、同一性主義であり、差異・他者を否定・排除するのである。
 つまり、自己同一性主義の欲望中心であり、それに反する・否定する他者・差異を暴力的に否定・排除するといいうことである。
 これは、端的に、近代主義の帰結であると言える。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽する近代同一性主義の帰結であると考えられるのである。
 (この無意識的な)怒り・憤激について、明確に述べよう。それは、自己同一性欲望主義がもつ差異への怒り・憤激ということだろう。それは、我が侭の極致である。独善・独断・専断的な自我主義・利己主義の極致であろう。
 一見、怒りや憤激には一見、倫理性・道徳性があるように見えるかもしれない。しかし、それは、いわば、偽装された倫理・道徳に過ぎず、本体は、究極の自己同一性欲望主義・利己主義であると考えられるのである。
 そう、ハイパー・モダンがここにあるのである。差異の究極的な否定がここに、怒り・憤激として出現していると考えられるのである。
 ポスト・モダンは、差異と同一性との混淆に帰結したが、今日、純粋差異・絶対的差異・特異性を肯定し、共振・共鳴するトランス・モダンの知性へと転換する時点に達していると考えられるのである。

p.s. 付け加えると、今日、差異が賦活されているので、自己同一性欲望中心主義は、反動的に、あるいは、狂気的に、衝動化していると考えられるのである。そう、差異のエネルギーの反動(狂気)がそこには入っていると考えられる。【p.s.  この点は精緻に考察する必要がある。同一性ルサンチマンは、差異エネルギーを排除するので、エネルギーが枯渇するのである。そして、心に真空状態が生じるのである。ここには、余裕、遊び、空間がないために、ショート(短絡)ないしは没入が生起すると考えられるのである。この真空的ショートと反動化された差異エネルギーが結びつくのではないだろうか。】

p.p.s. ルサンチマンによる怒り・憤激は、ファナティシズム(狂信主義)に通じていると考えられる。ブッシュ/ネオコンの発生の根因もここにあるのではないだろうか。(ルサンチマン・ファナチシズム、又は、同一性ルサンチマン・ファナティシズムという言葉を造語していいのではないだろうか。
 後で、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の概念と比較検討してみたい。

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「勉強しろと言われ反感」 埼玉・父刺殺の長女

2008年7月20日 朝刊

 埼玉県川口市のマンションで19日、男性会社員(46)が刺されて死亡した事件で、殺人未遂の現行犯で逮捕された長女(15)が、武南署の調べに「両親から『勉強しろ』と言われることに反感があった」と供述していることが分かった。司法解剖の結果、男性の死因は包丁が肺まで達したことによる出血性ショックと判明した。

 長女は当初、取り乱して意味不明のことを話していたが、次第に落ち着きを取り戻し「父親とは普段からあまり会話はなかった」とも供述、武南署は長女に刑事責任能力があるとみて、さらに詳しい動機を調べる。

 長女が通うさいたま市内の私立中学校では校長らが19日午後、記者会見。長女の成績は3年生で中位で、期末テストで成績が下がった英会話の追試を18日に受ける予定だったが無断で欠席。担任が自宅に電話すると、小学6年の長男(12)が「風邪で寝ている」と答えたという。

 長女は3年生になり6月に1日欠席しただけ。校長は「いじめなどのトラブルはなかった」と戸惑いがちに話した。

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008072002000059.html?ref=rank

長女「父親とはあまり会話なかった」 刺殺事件

2008年7月19日23時43分


 埼玉県川口市のマンションに住む製薬会社員の男性(46)が、中学3年生の長女(15)に包丁で刺され、死亡した事件で、殺人未遂容疑で逮捕された長女が「父親とはあまり会話がなかった」と話していることが分かった。逮捕直後には「お父さんが家族を殺す夢を見た」などと話していたといい、県警は、長女の父親に対する思いと事件との関連を慎重に調べている。

 県警は19日午後、父親を司法解剖し、死因は肺を刺されたことによる出血性ショックと発表した。調べに対し、長女は「寝ているお父さんの上半身を2回刺した。その後のことは、気が動転していて覚えていない」と話したという。父親については「『勉強しろ』と言われて『はい』という、やりとり以外の会話はあまりなかった」といい、「大変なことをしてしまった」と反省している様子だという。動機につながるような話はしていないという。

 一方、長女の母親(49)は「2人は大きなけんかもなく普通の父娘で、動機に思い当たることはない」と話しているという。

 これまでの調べでは、同日午前3時ごろ、別の寝室にいた母親が、長女の「ギャー」という叫び声と父親のうめき声を聞いたため、父親と長男(12)の寝室に駆けつけて部屋の電気をつけると、長女はベッドの上でぼうぜんとし、台所にあったはずの文化包丁(刃渡り20センチ)がベッドに置かれていた。父親は吐血し、母親に「警察と救急車を呼んでくれ」と話し、警察官が駆けつけた時は床でうずくまっていた。長男は二段ベッドの上で寝ていて、母親が部屋の電気をつけるまで気がつかなかったという。

 県警によると、長女と父親は事件前日の18日昼、長男と3人で、自宅近くのファストフード店で昼食をとり、その後、「夕食はカレーにしよう」という話になり、スーパーに立ち寄った。午後5時ごろから、自宅で父親と長女でチキンカレーを作ったという。

 長女が通っていた私立中学校によると、長女は同日、英会話の追試を受ける予定だったが、学校に来なかった。担任が自宅に電話すると、弟が「風邪で寝ている」と答えたという。

http://www.asahi.com/national/update/0719/TKY200807190222.html


川口・父刺殺:前日一緒に買い物 母親「仲よかった」

 埼玉県川口市の私立中学3年の長女(15)が父親(46)を刺殺したとされる事件で、母親(49)は県警武南署の調べに「父親と長女は仲がよかった」と話している。長女と父親は事件前日に一緒に買い物にでかけ、カレーを作っていた。一方で、長女は「両親に勉強しろと言われると、やる気がなくなった」と供述している。学校によると最近は成績が下がり気味だったが、他にトラブルがなかったかを含め動機の解明を慎重に進める。

 調べでは、長女は両親と小6の弟(12)の4人家族。長女は19日午前3時ごろ、寝室で寝ていた父親の胸などを、台所にあった文化包丁で刺して殺害した疑い。3部屋に分かれて寝ていて、父親と弟が同じ寝室だった。司法解剖の結果、傷は胸と額の2カ所。死因は肺を刺されたことによる出血性ショックだった。

 調べに対し、長女は当初、「お父さんが家族を殺す夢を見た」という趣旨の話をしたが、その後は「上半身を2回ぐらい刺したが、後のことは気が動転してよくわからない。大変なことをした」。父親については「普段から会話はあまりなかった」と話している。勉強するよう注意されても言い争ったことはないという。落ち着いた様子で取り調べに応じているが、動機については話していない。

 母親の警察への説明によると、長女と父親の仲はよかった。18日は父親は仕事が休み。昼間に父親と長女、弟で買い物に行き、夜は、父親と長女が作ったカレーライスを家族で食べた。その後、両親と長女はビデオを観賞。弟は勉強していた。【浅野翔太郎、小泉大士、山崎征克】
 ◇将来の夢は薬剤師

 長女が通っていた埼玉県内の私立中学は事件を受けて19日午後2時から校長らが会見した。

 それによると、ほとんど学校を休んだことはなかったが、18日の英会話の追試験を無断欠席したため、担任が自宅に電話すると、弟が「姉は風邪で寝ている」と説明したという。終業式は22日の予定。

 成績は中ぐらい。2年の初めまでバスケット部だった。聞かれたことにははっきり答えるが、自己主張するタイプではない。将来の夢について、入学時や1月にあった担任らとの面談では「薬剤師」と伝えていた。教頭は「製薬会社に勤める父親を尊敬していると思った。かなり勉強しないと難しいぞと言うと、『頑張ります』と答えた」と話した。

 担任は「転校する生徒へのメッセージレター作りを進んで引き受け、優しい心の持ち主」と述べた。

 現場のマンションは川口市北部の住宅街にある。7階建てで約70世帯が入居。小学校が同じで別の中学に通う女子生徒(13)は「先週もマンション内で長女とすれ違うと、笑顔であいさつしてくれた。優しくて頭がよかった」と驚いた様子だった。家族の知人は「18日午後に父親と長女、長男が外出先から帰宅する姿を見かけた。仲がよさそうだったのに」と話した。【稲田佳代、弘田恭子】

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080720k0000m040113000c.html

夕食後にトラブルか=衝動的に父親刺す?−中3少女、供述に揺れ・埼玉県警

7月19日20時30分配信 時事通信

 埼玉県川口市のマンションで、男性会社員(46)が中学3年の長女(15)に殺害された事件で、長女が衝動的に父親を刺した可能性が高いことが19日、埼玉県警の調べで分かった。県警は家族での夕食後に、父娘の間に何らかのトラブルが生じたとみて調べている。
 調べなどによると、長女は18日、学校を休み、父親と長男(12)の3人で買い物に出掛けていた。夕方には父親と長女が仲良く一緒にチキンカレーを作り、午後11時ごろまでは特に変わった様子はなかったという。
 事件後も長女は放心状態で逃走する様子はなく、凶器の文化包丁も自宅の台所にあったものだった。
 このため、県警は18日深夜以降、2人の間にトラブルが起き、長女が衝動的に包丁を持ち出して父親を殺害したとみている。司法解剖の結果、父親の死因は出血性ショック死だった。 

【関連ニュース】
・ 「あきらめないでよかった」=小学卒業文集で中3少女-少女父殺害
・ 中3少女「夢は薬剤師」=3者面談で教諭に-父殺害事件
・ 中3少女、父を殺害=就寝中に刺す?顔と胸-マンション自宅で・埼玉
・ 散歩の親子刺され負傷=殺人未遂で男逮捕-茨城県警
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080719-00000094-jij-soci

2008年07月15日 (01:20)

鏡像を破砕せよ:同一性形象が現象を構成している

今日は余裕がないので、詳論できないが、簡単に触れると、同一性という現象形式は、視覚において、鏡像を基盤にしていると考えられる。
 では、鏡像とはどういう力学から発生するのだろうか。これまで、何度か検討してきたが、今一つ明瞭ではない。
 これは、直感では、Media Pointにおける力学である。+iが-iに関係するときに、鏡像が発生するのではないだろうか。そう、先の考察から言えば、差異・同一性形式(差同形式)において発生するのではないだろうか。即ち、差異+iと差異-iとの関係において、同一性が発生する。この同一性の基盤が鏡像であると考えられる。
 思うに、差異+iが差異(他者)-iに関係するとき、自己像を投影すると考えられる。即ち、+iを-iへ投影するのである。だから、(+i)*-(-i)⇒-1になると考えられる。
 しかし、問題はそれほど単純ではない。なぜなら、Media Pointにおいて、差異共振的同一性(+1)が形成されると考えられるからである。思うに、この同一性が鏡像ではないのか、あるいは、少なくとも、鏡像に関係しているのではないのか。
 そう、Media Pointにおいて、差異があると同時に、同一性が生起するという即非様相が発生しているのである。差異共振性とは正に、その即非様相を意味するのである。
 差異であり、且つ、同一性であるという即非様相があることを十分確認しないといけない。
 そして、この同一性の基盤が鏡像であると思われるのである。そう、端的に言えば、Media Point において、鏡像が形成されると同時に、差異が存在しているのである。しかしながら、同一性志向性=自我は、差異を否定して、鏡像=同一性に没入=感情移入すると考えられるのである。
 つまり、+iの「自己」が同一性に没入して、他者であり-iを否定するということではないだろうか。同一性=鏡像という影像が発生するが、それに同一性化するのが、+iの同一性志向性ではないだろうか。
 一つの差異である+iが+1へと没入するのである。これは、他者-iの否定であると同時に、自己+iの否定と言えるのではないだろうか。
 そう、ラカン的に言えば、鏡像段階とは、差異・他者の否定であり、同一性=鏡像への没入段階と言えるのではないだろうか。
 この事態・事象は、+iの自乗ないしは、-iの自乗で、-1となると言えるように思う。つまり、Media Pointが「鏡像段階」であり、ここで、+1が-1へと転換されると考えられるのである。これが、正に、自我=自己同一性の発生である。
 問題は、この鏡像自我形成からの脱却である。これは、端的に、最高度に難しい。何故なら、生起した同一性像=鏡像は、固定した物質像=現象像であるからである。
 例えば、眼前にあるコップを疑うことはできないのである。コップはコップとしての同一性をもっているのであるからである。般若経で言えば、「色(しき)」である。問題は、この同一性像=鏡像に没入することである。ここにおいて、差異が否定されるのである。
 ここにおいて、仏教・大乗仏教の哲学的意義があるのである。PS理論が明らかにしたように、差異はイデア的な差異共振性であり、同一性からは、離脱したものなのである。
 差異は端的に、イデアである。これを取り戻さないといけないである。ここに瞑想の大きな意義があるのである。あるいは、精神文化の意義があるのである。【思うに、今日、これが欠落しているので、批判知性が形成されないのではないだろうか。瞑想性があれば、外的対象への距離が生まれて、批判的観察ができると考えられるのである。】
 そう、難しいのは、差異は同一性を形成しつつも、同時に、差異自体であるという即非事態が生起することである。【不連続的差異論の大きな意義がこれを発見したことである。そして、ポスト・モダンは、差異と同一性を峻別できずに、連続化させたままであったのである。】
 ということで、鏡像の発生とは、正に、同一性の形成と見ていいことが確認された。思うに、この鏡像への関係は、男性文化(父権文化)の場合、正に、同一性主義的になり、女性文化(母権文化)の場合、同一性に対して、距離、すなわち、差異を保持すると思われるのである。
 ということで、これまで説いてきたように、脱父権文化としての新母権文化の創造が今日、必然であると考えられるのである。

2008年07月13日 (15:01)

次元について:三次元空間、四次元時空間、五次元超時空間

次元については、これまでの検討では、+1が四次元時空間であり、虚軸が高次元、即ち、五次元であると考えた。しかし、先の簡単な応用では、実軸を空間、虚軸を時間としたが、そうすると、齟齬が生じるので、ここで、さらに検討をしたい。
 問題は、時間とは何か、ということになる。アインシュタインのエネルギー公式、E=mc^2から言うと、光速に時間が含まれている。つまり、PS理論で言うと、実軸の1に、時間が含まれていると考えられる。だから、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺に時間が表現されていると考えられるだろう。
 イデア・エネルギー(トランス・エネルギー)を考えるならば、

Trans-Energy=m(+ic)*(-ic)⇒E=mc^2

である。
 そう考えると、虚軸(イデア界)において、いわば、超光があると考えられる。それが、±icで表現されちると考えられる。
 だから、虚軸は、思うに、超時間・超空間、即ち、超時空間のように思われるのである。つまり、高次元=五次元とは、五次元時空間にように思えるのである。
 虚軸に想定される超時空間(イデア界)であるが、それは、超光が形成する世界であり、いわば、超光界である。これは、諸宗教で表現された天国・極楽・浄土等々であると考えられる。
 では、想定された超時空間とは何か。思うに、超時間、超空間と分けられるだろうか。直感では分けられるのである。この問題はおいておこう。
 とまれ、結局、今の時点では、実軸において、-1が三次元空間であり、+1が四次元時空間であり、虚軸が五次元超時空間ということになる。
 因みに、Media Pointがエネルギー・ポイント(エネルギー変換点、エネルギー・トランスフォーマー)であり、推測するに、重力の中心ではないだろうか。ここで思考実験であるが、-1の方向が重力とするなら、+1が反重力の方向ではないだろうか。ダークエネルギーの方向ではないのか。
 +1とは、イデア・エネルギーがもたらすものであるから、ダーク・エネルギーの真相とは、イデア・エネルギー=トランス・エネルギーということになるのではないだろうか。
 では、問題は、-1と+1の関係である。思うに、表現の仕方に問題があるのではないだろうか。
 考えるに、+1とは、実質的に、⇒+1のことであり、Media Pointが開かれて、イデア界が浸透しているのであるのに対して、-1とは、実質的に、+1のことであり、Media Pointが閉じられて、イデア界が浸透していないのである。つまり、単純に物質世界である。
 この視点から考えると、ダークエネルギーとは、イデア・エネルギー=トランス・エネルギーということになるだろう。だから、現代の宇宙科学は、ダークエネルギーを、唯物科学の延長で捉えようとしているのであり、それは、結局、不毛な作業になると思われるのである。ダークエネルギーは、Media Pointを介したイデア界=高次元に求めるべきであると考えられるのである。今は、ここで留める。

p.s. もう少し、整理してみよう。よりシンプルな言い方をすると、自己認識方程式は、差異(+i)/同一性(+1)/差異(-i)という形式(この形式を差異・同一性形式と仮に呼びたい)を意味しよう。
 この差異・同一性形式(簡略して、差同形式)から、差異を否定すると、同一性主義(-1)が出現する。これが、物質主義となるのである。そして、これが、今日の唯物科学を生み出しているのである。
 問題は、差同形式と同一性主義の関係である。物質主義は差異を否定しているので、同一性は+1から-1に転換すると思われるのである。
 つまり、同一性の+1とは、極性差異±iがあって、形成されるものと考えられのであり、極性差異が否定された同一性は、-1となると考えられるのである。
 物質科学は、差異(イデア)を否定しているので、同一性は-1であると考えられるのである。しかしながら、現象とは、差同形式をもつので、+1である。これが、現象の真相である。つまり、いわば、差同現象が真相であると考えられるのである。
 だから、物質エネルギーは-1の同一性(マイナス同一性)であり、差同エネルギーは+1の同一性(プラス同一性)と考えられる。そして、今日の宇宙科学は、前者中心なので、後者を看過しているということではないだろうか。そして、後者が、ダークエネルギーの本体ではないだろうか。マイナスとプラスで正反対となる。
 そうすると、またまた考えが変化して、ダークエネルギーは+1であるが、それは、イデア・エネルギー=トランス・エネルギーとは、異なるものであるということになる。
 ということで、今の段階での暫定的考えは、-1が物質エネルギーであり、+1がダークエネルギーであり、(+i)*(-i)がイデア・エネルギー=トランス・エネルギーであるということになる。
 さらに検討を続けたい。

2008年07月13日 (12:59)

同一性価値中心主義の資本主義の終焉とトランス・モダン資本主義

以下、田中宇(さかい)氏は、現在の「世界恐慌」は、多極化による新しい大均衡をもたらすだろうと予想している。
 私見・管見では、というか、プラトニック・シナジー理論のトランス・モダン理論から見ると、同一性価値主義(同一性中心主義)=西洋文明が終焉したということだと考えられる。サブプライムローン等のレバレッジは、同一性価値主義の極北であると考えられるからである。同一性価値資本主義(正しくは、金融資本主義)は行くところまで行ったということだと思う。
 結局、資本主義に内在している他面である差異共振主義を今日、十全に解放する必然性があるということだと私は考える。言い換えると、同一性価値主義が、差異共振価値を阻害しているのが、現代の資本主義なのである。だから、内在している積極的要素である差異共振価値を引き出す必要があるのである。その点では、トランス資本主義である。
 これまで述べているように、同一性価値資本から差異共振価値資本へと転換するのが必然であると考えられるのである。それは、言い換えると、自由共同体資本主義である。自由共同体資本が主導化する必要があるのではないだろうか。それは、自由共同体主義という理念が中核になると考えられる。そして、そのためには、利子をゼロにするかマイナスにすべきではないかと考えているのである。
 そのためには、政治が自由共同体主義という政策を取る必要があると今の段階では思われるのである。つまり、市場原理主義ではない。もっとも、市場制度は肯定する。
 市場制度と自由共同体政治理念の結合が必要なのではないだろうか。また、自由共同体政治を形成するには、今日の大衆民主主義では、無理ではないかと考えている。差異共振精神に関わる資格試験を設けて、それに合格した者に選挙権・被選挙権を付与すべきと考えられるのである。だから、トランス民主主義である。
 一言でいえば、トランス・モダン・エヴォリューションである。

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▼世界恐慌の後、国際政治の拡大均衡

 信用格付けの信頼が失墜し、ジャンク債のリスクを下げていたはずのCDSがねずみ講とみなされ、レバレッジ型金融の終焉が宣言された。大儲けしていたアメリカの投資銀行は、消えていく可能性が増している。

 異様に巨額の給料をもらい、豪邸に住んでいた欧米銀行の幹部社員が失業するのは、市民感覚で見ると「ざまあみろ」だろう。しかし、喜ぶのは早い。レバレッジ型金融の消失は、世界のあらゆる企業の全体にとって、安い資金調達の手法が失われ、資金調達コストが上がり、減収減益の要因である。世の中の金回りが悪くなり、失業増や消費市場の不振になる。今後、3−5年ぐらいは、世界的な不況感が続くだろう。

 しかし同時に、国際金融界で激変があるときは、世界的な政治体制の変動も起きる。政治変動の前兆として金融変動が起こる。1929年の金融恐慌は、1945年のアメリカ覇権の始まりへの地平を開いたし(日本は敗戦で破綻したが)、1980年代の米英金融革命の始まりは、1989年の冷戦終結の準備だった。

 2007年からの米英金融危機は、おそらく国際政治の多極的な新しい大均衡状態を作る。世界の政治体制は、従来の欧米中心の「小均衡」から、BRICなど非欧米諸国を加えた「大均衡」に発展する。今回の金融危機は、日本が対米従属という戦後の拘束から解放される転機にもなる。金融破綻や世界不況やインフレが何年か続いても、それは「終わりへの道」ではなく「構造転換」であり、新たなことを始める好機と考えることができる。

【注:赤色文字等の強調はrenshiによる】

http://tanakanews.com/080712bank.htm
アメリカ型金融の破綻
2008年7月12日  田中 宇

2008年07月12日 (12:37)

トランス日本大崩壊と新たな建国?:多元差異共鳴社会としてのトランス・モダン共同体の創造

世界経済の落ち込みとともに、日本経済も鋭く落ち込み、また、財政上の大借金もあり、さらにその他諸々の問題があり、日本大崩壊は避けられないようである。私は、70年代初期から憂国の思いが強かったので、ある意味で、大手術は必要であると考えている。
 言葉で言って通じない場合は荒療治が必要なのである。有無を言わさずに、身体に直截に響く打開方法が必要なのである。
 というわけで、ポスト日本大崩壊を考えたい。おそらく、もうこれまで享受した物質的豊かさは望めなくなるだろう。もっとも、常温核融合等のエネルギー革新が起れば、話しは別であるが。
 小さな政府ならぬ、小さな生活になるだろう。つまり、旧に復すことになるのではないだろうか。身の丈にあった生活になるのではないだろうか。
 とまれ、一言で言えば、トランス・モダン化が必須であるということである。哲学では、プラトニック・シナジー理論が、その方向を提示しているが、それは、近代合理主義=唯物科学・技術の超克である。イデア界=高次元界が認める必要があるということになる。これは、精神革新である。
 次に、経済であるが、モダン経済とは、同一性価値=貨幣価値の拡大を主導的であった。これが、今日では、諸バブルを引き起こし、世界経済を混乱させているのである。
 私は、無利子経済ないしはマイナス利子経済の導入が必要であると感じている。これは、同一性価値=貨幣価値の増殖(利殖)を否定して、経済の差異価値を肯定評価するものである。実質経済になるのである。量的経済から質的経済になりうると考えられる。
 そう、端的に、物質主義的経済から、差異共振経済になるということである。だから、基本的な物質的インフラの整備が充実が必要くらいで、後は、精神的価値の進展が主導的になると考えられるのである。
 次に、食料の保持のことである。これは、自然・宇宙との関係が重要になる。私は、以前、何度も述べたが、自然へと経済価値を還流させることが必要であると考えている。今日の都市文明は明らかに、自然を破壊して、自滅するのが目に見えている。
 思うに、ここに、共同体の働きが重要になると考えられる。産業と共同体が連携して、富を食料・自然保持のために消費する必要があると思う。食料自然共同体資本消費である。
 つまり、食料自然共同体のための資本、簡単に言えば、自然共同体資本とその銀行が必要であると思われるのである。差異共振銀行である。
 ということで、簡単であるが、以上の三つのことが必須である。三大革新である。「三位一体」である。繰り返すと、

1)トランス・モダン精神進化
2)物質主義経済から差異価値経済への転移
3)食料自然共同体資本=差異共振資本の創造

となる。

2008年07月08日 (22:22)

PS理論的ガウス平面の応用:垂直性(虚軸)と水平性(実軸)の即非交差性とトランス・モダン

           |+i
           |
           |
           |
           | 
           |
           |
           |
           |
__________個・MP__________
-1          |          +1
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |-i

(尚、MPはMedia Pointである。)

プラトニック・シナジー理論におけるガウス平面の簡単な応用を述べたい。
 例えば、美術では言えば、垂直軸(虚軸)を抽象、水平軸(実軸)を具象と考えることができよう。あるいは、シュルレアリスムも同様に、垂直軸は、「超現実」と見ることができよう。
 あるいは、哲学では、垂直軸は差異であり、水平軸は同一性である。物理学では、垂直軸は時間であるし、水平軸は空間であろう。
 また、 原点(Media Point)を個と考えることもできよう。そして、経済では、垂直軸が共同体志向であり、水平軸が市場志向であろう。だから、政治的には、民主主義は、垂直軸であり、自由主義は、水平軸である。もっとも、肝腎要は、両者が即非相であるということである。
 また、現代日本にかけているのは、垂直軸である。戦後は、垂直性を否定したのである。宗教は当然、垂直軸であり、神道が否定されたために、戦後はそうなったのである。これは、連合国と官僚の覇権主義によると言えよう。戦後、同一性自己(自我)はあるが、差異自己はないのである。
 最後に、現代芸術について述べておきたい。今日、芸術が不調なのは、モダニズム期において、発現したトランス・モダン志向を、つまり、Media Point様相を否定して、もっぱら、水平志向・水平主義に堕している点にあると考えられる。
 この元凶は哲学ではハイデガー哲学にあると考えられる。そして、それが、ポスト・モダン哲学に影響を及ぼしているのである。垂直性の否定である。
 そう、結局、構造主義的限界に留まっていること、ここに問題があるのである。垂直的対立が水平的対立に還元されると考えられる。
 この垂直性の否定は、ドゥルーズやデリダに顕著に見られることである。そして、この根因はハイデガー哲学にあると考える。ハイデガー哲学の闇、これは何なのだろうか。
 垂直性を水平性にねじ伏せることの哲学は、何なのか。これは、端的に、近代合理主義の発想と同根と思われるのである。トランス・ハイデガー哲学を明確にしないといけない。

2008年07月06日 (22:22)

多元共振点(多元共鳴点)としてのMedia Point:英雄神話のもつ即非性

神話、例えば、ギリシア神話で出てくる怪物や怪獣であるが、それは、Media Pointにおいて、発現する多元共鳴エネルギーを表現していると考えられるのである。
 Media Point Multi-Resonanceは、太母文明の特徴であると思う。例えば、日本神話の八岐大蛇もそれを表現しているものだと思う。
 しかしながら、同一性主義(二項対立主義)である父権文化にとっては、それは克服されるべき他者(差異、特異点・特異性)である。ここで、英雄神話が生まれたと考えられるのである。
 しかし、問題は、単純ではなく、この英雄神話には、肯定的要素があると考えられるのである。今は、予見的に言うが、英雄によって、知性ないしは自己は、感覚・感性から切断されるのである。しかし、複雑なのは、同時に、英雄は、切断して感覚・感性を何らか帯びるのである。山口昌男の神話学で言えば、両義性を英雄は帯びるのである。即ち、知性であると同時、感覚・感性性である。つまり、プラトニック・シナジー理論から言えば、即非性を獲得すると推測されるのである。
 だから、英雄神話は人類史における大きな転換点である。問題は、この即非性である。一方では、同一性志向性があり、他方では、差異志向性があるのである。しかしながら、意識においては、前者であり、後者は無意識的である。だから、知性の志向において、差異が否定されることになると考えられるのであり、これが西洋文明ないしは父権文明に起こったことだと考えられるのである。そう、英雄神話は分岐点・分水嶺である。
 知的志向において、差異は否定されて、無意識に追い遣られる。しかしながら、本来的には、差異は本源・根源的である。故に、人類の父権知性の病的な抑圧・排除・暴力が生じるのである。そして、それが、今日の人類を大破局的事態に陥れていると考えられる。
 故に、螺旋回帰的に、Media Pointの多元共鳴融合性を知性は確認すべき時になっていると考えられるのである。つまり、同一性知性から差異知性、多元差異共鳴知性への転換が求められていると言えよう。
 経済で言えば、同一性資本主義から多元差異共鳴資本主義への転換が切迫しているということである。国家も多元差異共鳴体として機能すべきなのだろう。民主主義も同様である。差異多元共鳴民主主義である。だから、今日の、大企業・大資本中心主義の資本主義・民主主義は、超克されなければならない。

2008年07月05日 (13:45)

同一性主義は、何故、否定感情的なのか:新イデア文明としての新太母文化:新超母・新超女文明の誕生へ

これは、既に答えが出ている疑問かもしれないが、再考したい。
 思うに、差異を否定するときに、否定感情が発動するということではないだろうか。差異を肯定するならば、肯定感情になり、共感(共鳴)的になると言えよう。
 思うに、差異は、異質であり、いわば、異文化的なので、不快感をもたらすであろう。ここにも、否定感情がある。
 ところで、白人が有色人種に感じる不快感の原因は何だろうか。それは、視覚印象から来ているのではないだろうか。もし、心眼があれば、不快感はなくなるだろう。思うに、差異への不快感とは、同一性形象がいわば、原型となり、それを基盤として、視覚の快・不快が形成されると考えられる。そう、同一性視覚形象がモデルとなり、それにそぐわないものが排除されるという力学になるのだろう。
 思うに、白人の場合、この同一性視覚形象モデル主義が根強くあるのである。そして、これが同一性主義の基盤にあるものではないかと思われるのである。そこに欠落しているのは、心眼である。共感性である。端的に、差異共振性という知恵である。他者への配慮である。
 キリスト教は本来、これをもっていたが、一神教性によって阻害されると考えられる。イエスの教えは、本来、差異共鳴性である。
 そう、ここであえて言えば、イエスの原型とはディオニュソスである。ディオニュソスは、端的に、イデア・エネルギーであり、それは、太母・大女神文化的である。イエスにとって、母・妻・恋人の女神が本来必要なのである。
 父を+iとするなら、母-iが必要である。だから、キリスト教には、母が欠けているのである。これが、白人文明の欠陥であると考えられる。
 では、太母と「父」と「母」という対イデアとの関係はどうなるのだろうか。私は、直感では、対イデアを太母と考えてきたのであるが、「父」と「母」との対イデアを考えると、「母」が太母なのかもしれない。
 しかしながら、直感は、対イデア自体が太母である。この齟齬をどうみるのか。私は、太母文明は、差異共振文明であるとこれまで述べてきた。それは、「父」と「母」との共鳴文明でなければならない。思うに、文明史・文化史的に、太母と「母」とで混乱が起きたのではないだろうか。
 思うに、大地母神と呼ばれるものは、本来、太母であり、「父」と「母」との共鳴エネルギーではなかったか。それが、「母」に同定されていると考えられるのである。つまり、これは、対イデアである太母が、父権主義=同一性主義によって、「母」へと、いわば、貶められた結果ではないのか。
 即ち、父権主義の「父」は、+iであり、劣位に置かれた「母」とは、-iである。そして、後者が太母のように考えられたのである。
 ギリシア神話で言えば、デーメーテールが大地母神である。しかし、本来は、太母であり、対イデア(イデア共鳴体)と考えられる。
 この勘違い・錯誤は、「父」が対イデア(イデア共鳴体)を支配してしまうことに発すると言えるのではないだろうか。
 そう、端的に、一神教の神(ヤハウェ)の、いわば、簒奪である。ギリシア神話では、ゼウスの簒奪である。オリュンポスの神々とは、思うに、父権神話と母権神話の、前者中心の混淆ではないだろうか。言い換えると、父権化された母権神話である。
 おそらく、これは、多くの神話において生じた混乱ではなかっただろうか。太母が「母」とされたのである。思うに、ギリシア神話では、太母は、アルテミスのような処女神ではないだろうか。アフロディーテ(ヴィーナス)となると、「母」になるのではないだろうか。
 とまれ、問題は、母権文化と言ったとき、太母文化なのか、「母」文化なのか、である。一般に混同されていると考えられるのである。ジェンダーによる混乱である。
 私が唱える新母権文化とは、新太母文化であり、新イデア(イデア共鳴体)文化である。新ディオニュソス文化と言ってもいいだろう。
 例えば、イシス・オシリス神話で言うと、オシリスはディオニュソスになるのであるが、イシスとは何かである。イシスは、イデア共鳴体でなくてはならない。「母」ではなく、太母である。
 では、イシスの内包する+iと-iとは何だろうか。それは、天と地である。(そうすると、先に述べた天の柱であるが、それは、虚軸であろう。)天と地との共鳴としてのイシスであり、その現象光としてのオシリスではないだろうか。正に、自己認識方程式が表現するものではないだろうか。
 今はここで留めるが、結局、太母と「母」を絶対的に峻別する必要があるということになる。イシスは太母であり、「母」=地ではない。
 ここには言葉の問題がある。思うに、超母という言葉を造語して、太母の替わりに使用するのがいいのかもしれない。あるいは、超女であろうか。