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2009年11月29日 (14:32)

検討問題:言語と知覚・認識:精神的フィルターにおける言語的視覚と光現象の重ね合わせ

おそらく、言語が対象を生み出していると言ってもいいくらいだろう。
 「山」という言葉が山という対象を生み出している。だから、対象を見ているつもりでも、実は、言語を仲介して見ているのだ。言語を-1とすると、これによって、⇒+1ないしは+1を見ていることになるだろう。思うに、言語的対象的世界とは、-1の世界ではないのか。現象は本来、⇒+1である。近代的物質的世界とは、-1ではないのか。
 後でさらに検討したい。

追記:この問題は当然、構造主義と関係するし、また、カントの超越論的形式と関係する。
 先の考察から言えば、精神的フィルターにおける言語的同一性が客観的対象を作り出しているということになる。
 これまでの考察から言うと、即非・差異共振現象において、人間は発話する。例えば、鳥を見たとき、人間は鳥と即非様態となり、そこから、鳥という言葉が生まれる。思うに、原初的発話とは、差異的発話であり、同一性はなかったと思われる。つまり、発話は差異的であった。 
 では、どうして同一性を形成したのか。それは即非・差異共振エネルギーが衰退するにつれて、実数性が強化されるからではないだろうか。つまり、原初的発話は(+i)*(-i)⇒+1であった。つまり、その発話は⇒+1である。
 しかしながら、エネルギーが衰退して、+1が分離される。そして、+iの傾斜が-1を産む。思うに、+1と-1との結びつきが、言語的同一性を形成するのではないだろうか。原初的発話は差異共振的でありながらも、過程的に同一性へと帰結するのではないだろうか。
 では、+1と-1との結びつきとは何だろうか。結びつきというより、構造と見たが方がいいかもしれない。精神的フィルターにおける同一性構造として、±1が生起するということではないのだろうか。
 ここで作業仮説ないし思考実験として、-1と+1の積を想定しよう。つまり、結果は-1である。つまり、+1を言語-1は、-1に変えてしまうのではないか。そして、+1を喪失するのではないのか。
 これは、ルシファー/アンラ・マンユ化と言えよう。そう、現象(⇒+1)を-1の同一性ないしは「物質」に転換させてしまうのではないだろうか。唯物論化である。
 少し違う角度で言えば、-1の視覚(フレーム)で、+1ないしは⇒+1を見ているのである。光現象、差異共振現象、即非現象を-1の言語的視覚で見ているのであり、その結果、現象は物質化されるということではないだろうか。
 -1の言語的視覚はルシファー/アンラ・マンユに拠るものと考えられる。これは、冷暗な視覚である。冷酷な視覚である。斬る視覚である。当然、憎悪の視覚である。利己的な視覚である。
 結局、-1を脱構造化する必要があるのである。そのためには、強い+iによって否定された絶対的他者である-iを取り戻す必要があるのである。
 そう、-iは身体内に抑圧されるのである。だから、身体を「発掘」する必要があるのである。身体の基層を再発見する必要があるのである。身体に他者が存するのである。光は身体内に存するのである。
 後でさらに検討したい。
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