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2008年12月28日 (21:06)

同一性主義の心的メカニズムの発生:同一性主義と反同一性主義の「中」の知恵

これまで、本件については、縷々述べてきたが、差異の排除のもつ反感(ルサンチマン:思うに、クリステヴァのアブジェクトという概念の方がいいのかもしれない)のメカニズムの意義を検討したい。
 同一性エネルギーないしは同一性志向性は自己同一性を形成するが、そのとき、一般に、それは、連続化されやすい。この力学はどう説明できるだろうか。
 Media Point から同一性志向性が発生し、自己同一性(自我)が形成されても、本来は、Media Point の差異が存しているのである。しかし、差異と自己同一性(自我ないしは同一性)は並存するが、両者は対立・矛盾する様相にあるのである。人類の精神が必然的に抱える根本的問題である。
 近代以前においては、人類は、差異を形而上学的に捉えてきて、それを中心化して、自己同一性を劣位においてきたと一般には言えよう。つまり、宗教性が優位であり、世俗性が劣位である。中世がそのような精神世界である。
 しかし、西洋においては、南欧のイタリア(南仏説もあるがそれはおいておく)において、ルネサンスが生まれて、そのヒエラルキーが解体して、自己同一性が優位化する世界観が誕生したと言えよう。しかしながら、それは、Media Point の新たな活性化であり、そのときには、差異が賦活されていたのであり、単に、自己同一性が優位化したわけではなかったと考えられる(私は、プロト・モダンと呼んでいる)。
 近代とは、自己同一性エネルギーが活性化した時代であり、これが、一般においては、近代合理主義/近代的自我(自己同一性主義、連続的同一性主義)を形成して、差異を徹底的に排除する結果となったのである。
 ということで、近代とは、賦活されたMedia Point における自己同一性エネルギーの時代と哲学的には言える。これが、差異と同一性の混淆的様態である。しかし、近代主義とは、Media Point や差異を否定・排除・隠蔽したのである。(換言すると、近代主義とは、近代性を否定しているのである。)
 この差異を否定する自己同一性主義(簡単には、同一性主義)の発生について、再考したいのである。
 自己同一性志向性(以下、同一性志向性)とは、本来は、差異共振によって放出されるものであると考えている。即ち、自己と他者との共振・共鳴によって、同一性志向性が発生するのである。しかし、この同一性志向性が源泉の差異共振性を否定・排除・隠蔽する心的事態が、自己同一性主義(同一性主義)である。
 この事態は、同一性志向性が、同一性事態にいわば固定してしまい、源泉を否定することである。同一性事態とは、端的には、物質である。だから、同一性主義とは、同一性志向性が物質の固定してしまった事態であると言える。だから、正に、物質主義、唯物論化である。
 いったい、これは何を意味するのだろうか。同一性が物質に固定・固着・凝固するというのは、思うに、物質的欲望に偏執しているということである。だから、考えられる原因として、物質的欲望が渇望化しているということが考えられる。単純に言えば、飢渇化である。そうなると、精神は、物質的渇望ないしは飢渇に支配されるようになる。だから、これは、物質への同一性化であり、物質的同一性主義化と言えよう。そして、これこそ、唯物論の起因であると考えられる。
 このとき、自己同一性(自我)は物質的自己同一性(物質的自我)となり、絶対的に差異・他者を否定・排除・隠蔽する存在である。それは、端的に言えば、差異・他者を殲滅せんと暴力を振るい攻撃する「悪魔」的存在である。いわば、唯物論的悪霊である。もちろん、狂気でもある。
 ということで、同一性主義化とは、物質的渇望や飢渇によって、自己同一性が物質に固定したことから発生するということである。そう、単なる渇望や飢渇というよりは、それが永続化して、正気を失った様態と考えられる。
 通常、渇望や飢渇があっても人間は耐えるものであるが、忍耐の度を越す、極端な物質的渇望や飢渇が生起すると、同一性主義(唯物論)が発生すると考えられる。
 そして、私の直感では、これが、一神教の形成を促したのである。狂気の同一性主義(唯物論)が発生すると、そのとき、人間は、渇望と飢渇の充足を希求する神を必要とするだろう。そのとき、同一性志向性は一神教化されると思われるのである。つまり、一神教の神とは、悪魔・悪霊であるということになるだろう。あるいは、唯物論の神である。Material Godである。ヤハウェとは、そのような神だと思われるのである。利己主義、暴力・狂気、悪魔・悪霊、唯物論の神ということになる。端的に、邪神、魔神である。(グノーシス主義が、創造神デミウルゴスを邪神と呼んだことを考慮すべきである。)
 また、父権主義もここに関係すると考えられるのであるが、それはおいておく。
 さて、先に述べた悪魔論をここで考えてみたい。同一性志向性が物質へと固定したときが同一性主義であり、この「悪魔」がアーリマンとなる。では、先に反同一性主義である述べたルシファーはどうなるだろうか。
 これは、同一性主義を破壊する「悪魔」である。物質化を否定する「力」である。(今、想起したのは、三島由紀夫である。彼の精神は、ルシファーではなかっただろうか。自分自身の肉体を破壊したのである。三島由紀夫の精神の力学とは、アーリマンVSルシファーではなかっただろうか。彼に欠けていたのは、真正なMedia Point であろう。また、思うに、グノーシス主義もその面がある。この世を否定する志向をもっているからだ。)
 物質を否定する精神であるが、その力学は如何に。ここにはなにか貴族的なものがある。物質という「卑賎さ」を否定する力学がある。プライドがあるだろう。仏陀の精神にも、なにか、ここに通じるものがあるだろう。また、観念論に通じるものがあるだろう。
 いったい、それは何か。今の直感で言えば、原Media Point 性である。あるいは、イデア性である。同一性志向性へと展開する以前のMedia Point 性である。ある意味、非常に原始的な精神である。「神」=イデアに近い精神である。
 そのために、同一性志向性は弱く、身体・物質性に対して、反発・反感をおぼえるのではないだろうか。端的に言えば、イデア的であるために、物質に反感をもつ精神である。そう、プラトンにもこの精神があるだろう。神秘主義の精神と言ってもいいだろう(ウィリアム・ブレイクの神秘主義はそのようなものである。反唯物論である。)。ある意味で東洋精神である。
 しかしながら、反同一性主義=ルシファーは、それ以外の否定性があるだろう。思うに、物質主義的現実に対する反感(ルサンチマン)があるのではないだろうか。物質主義的な醜悪な現実に対するラディカルな嫌悪感があるのではないだろうか。現世からのエクソダスを願うだろう。
 以上のように考えると、同一性主義(アーリマン)と反同一性主義(ルシファー)は正反対の「悪魔」と言えよう。もっとも、これは、心性様態である。
 さらに展開すると、両者の極端なあり方を避けて、「中」の様態が希求されるべきものとなるだろう。思うに、大乗仏教はこの「中」的様態の知恵を探究したと言えるだろう。有名な般若心経であるが、色が色主義(同一性主義=アーリマン)にならないように、それは、空であると言う。しかし、空に囚われると、空主義(反同一性主義=ルシファー)となるから、反転して、空は色であると説くのである。色と空との「中」が般若であると考えられる。だから、般若心経とは、空の教えではないと言えよう。「中」の教えである。(そして、これが、即非の論理に帰結すると言えよう。)

追記:同一性主義のもつ極端な排除性には、強烈な感覚的排除があると最初思っていて、その原因を考えようとしていたのであるが、それには言及できなかったが、その理由は簡単である。同一性主義は、物質・身体へと偏執的に固定化するのであるから、感覚欲望中心主義となり、感覚の快・不快の二元論が強固であり、この点で、感覚に基づく差別性を、同一性主義は強くもっていると言えよう。
 思うに、印欧語族の同一性主義であるが、カースト等の階級制度を強固に形成するが、それは、この感覚の快・不快の同一性主義=二元論に拠ると考えられるのである。
 その点、オバマ次期米国大統領の出現はエポック・メイキングである。やはり、トランス・モダン・エポック=差異共振文明の黎明である。もっとも、厳しく、恐ろしい黎明ではあるが。
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