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2008年12月30日 (15:36)

同一性と物質:その3:再考:内的視覚と外的視覚の関係:前者のイデア的記憶・記録性とアカシャ年代記

先に、「Media Point とは物質であり、且つ、物質ではない。内的視覚であり、且つ、外的視覚であるが、それらは即非関係であるということになる。」と述べたが、そうすると、内的視覚(ヴィジョン)と外的視覚(イメージ)との関係が不明瞭になるので、再検討したい。かなり複雑な問題なので、単刀直入、直感思考でいきたい。
 内的視覚が外的視覚を形成するとしよう。内的視覚は同一性志向性をもち、それが、外的視覚(同一性=視覚器官=物質)となるのである。しかし、同時に、内的視覚とは、Media Point を起点(基点)にしているので、そこには、超越性の視覚(超越的視覚)があると考えられる。即ち、陽光は、超越的光とも感知・知覚されるのである(だから、太古の太陽崇拝や神道とは、トランス・モダン科学的な要素があると言えよう)。
 さらに、内的視覚には、造形力(想像力)があると言えよう。例えば、小説を読んでいると、言葉を介して、情景が想起・喚起されるが、その情景形成力が造形力である。それは、内的視覚によると考えられるのである。それは、私見では、夢の造形力と一致すると思われる。この内的視覚の造形力も、同一性志向性と共通すると考えられる。(それは、ひと言で言えば、ファンタジー力であろう。)
 とまれ、そうすると、内的視覚(ファンタジー力)が外的視覚(イメージ力)を形成するのであるが、この関係は先に述べたように、即非関係であるということになる。連続性(同一性)と不連続性(差異・特異性・差異共振性)の即非関係である。
 この即非関係を、同一性=物質を含めて見るとどうなるだろうか。すると、内的視覚は同一性=物質であり、且つ、非同一性=非物質ということになるだろう。言い換えると、内的視覚は身体であり、かつ、身体ではないということである。(思うに、メルロ=ポンティの視覚的身体論は、この内的視覚の視点から見ると、明晰になるだろう。私見では、メルロ=ポンティは、内的視覚と外的視覚を混淆していて、その点で不分明なのである。)
 結局、この点がこれまでの身体論で不明晰であったと思う。広義のポスト・モダン哲学は、身体論ないしは身体性に注目したが、それは、内観と外観が混淆していたと考えられる。換言すると、精神と物質が混淆していたのである。例えば、ドゥルーズが説くスピノザ哲学の身体性であるが、それは、精神性と結びついた身体性であるから、物質と精神が混淆していると言えるのである。【追記:スピノザ哲学、いわゆる、心身並行論であるが、それは矛盾していると考えられる。記憶があいまいであり、誤解(勘違い)を恐れずに言えば、スピノザの身体には、精神が入っているのであり、精神と身体が融合しているのである。しかしながら、心身二元論を前提にしているのであるから、それは、前提と矛盾することになるのである。とまれ、PS理論から見ると、スピノザの心身並行論とは、精神主/身体従の即非論によって、発展的に吸収されると考えられる。即ち、PS理論では、精神⇒身体であり、精神・即・身体であり、且つ、精神・非・身体、換言すると、精神・即非・身体なので、精神が身体へと影響することが、明瞭に理解されるのであり、また、精神と身体(物質的身体)とは不連続なので、精神が身体を完全に支配するということはなく、言わば、身体の相対的な物質的自立性があるのである。
 援用して言えば、この不連続性があるために、いわゆる、霊的治療とは胡散臭いのである。物質的身体の相対的自立性があるのだから、物質的身体の治療が必要なのである(西洋医学)。しかしながら、そうとは言え、身体(物質的身体)は、精神の終端なのであるから、精神的治療も必要となるのである(東洋医学)。だから、西洋医学と東洋医学の相互補完的な医学、いわば、中洋・両洋医学が必要である。】
 だから、PS理論的には、身体は同一性=物質に限定するのが明確なのであり、精神と混淆すべきではないのである。ただし、精神が身体と化し、且つ、身体とは不連続であるという即非性においてである(だから、精神が物質となるのであり、また、物質とは不連続であるということである。これが、PS理論的イデア論である。)。(追記:PS理論的身体論については、言い足りないので、後で補足したい。)
 では、さらに考察を展開すると、外的視覚=同一性=物質は常に解体して行くのであるが、その知覚の記憶・記録はどこに保管・保存されるのだろうか。
 視覚に限定すれば、外光が外的視覚を刺激するが、その刺激(エネルギー)は、当然、内的視覚においても感受・感知されると考えられる。内的視覚に感受・感知されるとはどういうことだろうか。
 この問題は精緻に検討する必要があるが、ここでは予見を述べておくに留めたい。おそらく、内的視覚の構造は変わらないが、内的視覚の構成が変化するのではないだろうか。外的視覚に対応して、内的視覚の構造内の構成が変化して、感受・感知するのではないだろうか。そうして、内的視覚は外的視覚を記憶・記録するのではないだろうか。
 そうすると、内的視覚とは精神・イデアであるから、外的視覚とは、精神・イデアに記憶・記録されるということになる。そうならば、現象界(現実世界)は、イデア界に記憶・記録されることになるだろう。精神波動(イデア波動)として、記憶・記録されることになると考えられる。そうすると、シュタイナーのような神秘学者が説くアカシャ年代記のその部分においては、説得力のあるものとなるだろう。また、精神・イデアは過去だけでなく、未来にも通じるのであるから、アカシャ年代記の未来予知性も説得力をもつことになろう。ただし、精神・イデアないしは精神界・イデア界を読解するというのは、リスクがたいへん大きいだろう。
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