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2009年01月01日 (15:51)

物質的同一性と言語的同一性の相違について:言語構造特異性という「物質」:付録:ヤハウェ神とイエスというMedia Pointの大悟者:キリスト教の解体

本件については、以前検討したことがあるが、同一性=物質という視点から見ると、どうなるのか考察を行ないたい。
 同一性=物質という視点から言うと、言語的同一性も物質であるということになる。それでいいのだろうか。
 例えば、「木」を例にとって考えよう。物質としての木、例えば、今ガラス窓を通して見える日に照らされた眼前の杉の木であるが、それは同一性=物質である。そして、差異論的には、特異性でもあるのである。
 それに対して、言語の「木」であるが、それは端的に同一性であり、私見というか、直感では、それはなんらかの物質性をもっている。そう、「脳髄」的な物質性と言おうか。思うに、それは、構造的な物質性である。超越論的形式(カント)の物質性である。
 では、その言語的物質性には、特異性があるのだろうか。ここは微妙な点であるが、直感では、それは特異性があるのである。いわば、構造的な特異性である。それを言語構造特異性と仮に呼んでおこう。
 思うに、言語構造特異性(=超越論的一般形式:アリストテレスの形相もこれであろう)があるから、同一性主義が一般に形成されるのだろう。即ち、自我や貨幣を実体・実相と見る一種妄念・妄執が生じると考えられるのである。
 解体した投資銀行の様式である同一性主義金融資本主義というものも、哲学的には、この言語構造的特異性に基づくと考えられる。(当然、近代合理主義・近代的自我も、ここに基づくことになる。)
 では、この言語構造特異性という物質と通常の、例えば、現象の「木」の同一性=物質との違いは何だろうか。それは、後者の場合、精神⇒物質の図式から見ると、⇒、即ち、Media Point が内包されているのに対して、前者の場合は、Media Point は否定・排除・隠蔽されていると考えられる。
 だから、言語構造特異性=物質とは、通常の同一性=物質という自然現象とは、異質なものであり、「特異」である。これは、シュタイナーがアーリマンと呼んだ悪魔に相当する心的力学の主要な機能の一つであると考えられる。因みに、ルシファーに相当する心的力学と言えば、反動的になったMedia Point のエネルギーではないだろうか。つまり、言語構造特異性=物質に排除された⇒であるということだろう。だから、それは、反転して、+1⇒(+i)*(- i)へと志向するのではないだろうか。だから、言語構造特異性(アーリマン)とルシファーは乖離・分離・分裂すると言えよう。ルシファーを哲学的に呼ぶとどうなるだろうか。反動化した差異共振性と言えるだろう。だから、能動・積極的差異共振性を天使と呼べるならば、反動・否定的な差異共振性は堕天使(ルシファー)と呼ぶにふさわしいだろう。
 ということで、言語構造特異性=物質とは、言い換えると、正に、物質主義、唯物論の物質と等価であると言えよう。
 では、これまでの試論では、この言語構造特異性=物質=アーリマン=唯物論は、ヤハウェ神と一致することになるのだが、確認・検討しよう。
 問題はヤハウェ神が超越神であることである。アーリマンは超越性というよりは、超越論性である。超越性はルシファーにふさわしい。だから、先に、ヤハウェ=アーリマンとしたのは訂正されなくてならない。思うに、ヤハウェはルシファーとアーリマンが合体ものではないか。両悪魔の合体としてのヤハウェ神である。超越的利己的物質主義としてのヤハウェ神である。これは、仮説であるが。
 宗教的問題を展開すると、イエス・キリストとはどういう意味をもつだろうか。私はこれまで、イエスとはMedia Point の叡知を大悟した「秘儀参入者」であると考えてきた。つまり、能動・積極的なMedia Point の叡知を体得した人物である(参考:『トマスの福音書』)。
 以上の視点における「子」のイエスと「父」のヤハウェ(アーリマン&ルシファー)はどう関係するのだろうか。端的に言えば、直感で言えば、「子」は、「父」を変容させて救済したのである。「子」イエスは、「父」ヤハウェに核心に入り、ヤハウェを積極・肯定的なものに変容させたのである。
 否定的なアーリマンと反動的なルシファーを肯定・能動的なものに変容させたのである。すなわち、積極的なMedia Point によって、唯物論(アーリマン)を物質=同一性の視点に変容し、また、超越的利己主義【ルシファー(堕天使)】を能動的な差異共振性へと変換したのである。
 だから、イエスの出現によって、「父」ヤハウェはもはや「父」ヤハウェではなく、いわば、原母「ヤハウェ」へと変容したのである。いわば、鬼子母神である。復讐の女神が祝福する女神へと変容したようなものである。即ち、ヤハウェは脱ヤハウェとなったのである。思うに、これは、女神化・母権化なのである。エジプト神話で言えば、新イシス化である。
 だから、聖母マリア信仰とは、その意味で正鵠を射ているのである。ヤハウェが聖母マリアへと転換したのである。もう「父」は消えて、新原母が誕生したのである。
 そうならば、「父」ヤハウェは本来、淘汰されるべきものである。それは、父権社会の「神」なのであり、それがキリスト教において、残ってしまったと言える。イエスの出現とは、本来、新母権文化社会を意味するが、キリスト教は、父権文化社会の視点へとイエスの母権的叡知を取り込んでしまい、イエス的「進化」を制約・規制しているのである。つまり、キリスト教とは、イエス的新母権宗教とヤハウェ的旧父権宗教との折衷宗教であるということである。私は、キリスト教は「分裂症」であると述べたが、それは正に、この点に存すると言える。
 では、イエスが重視した「聖霊」とは何だろうか。それは、正に、端的に、Media Point の能動的エネルギーのことだろう。つまり、新母権文化社会を創造する能動的差異共振エネルギー(エネルゲイア)と言えよう。
 だから、今日・現代を見ると、同一性主義金融資本が解体したのであるし、当然、キリスト教も解体するのである。イエス教が生まれるだろう。
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