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2009年02月11日 (19:23)

理想像と影・敵:妄断衝動:父権的支配意志:漱石の『こころ』のPS理論的分析

以下、2つの検討問題が残っているので、少し考察を行いたい。先に新しい方から検討したい。そう、また、父権的支配意志についての問題も付け加えたい。
 理想像の原型は、実は、-1でなくて、イデア(+i)*(-i)における-iではないだろうか。原自己にとり、原理想は-iではないのか。
 しかしながら、Media Point(以下、MP)における同一性変換(第一1/4回転)によって、原自己は、同一性自己(同一性主義自己)+1になり、影-1が潜在・内在している。同一性自己は「光」であり、影(同一性他者)は「闇」である。
 問題は、「光」=同一性自己と「闇」=同一性他者(影)の関係である。これは、現代的問題である。ほとんどの人間は、前者を意識して、後者に対して「無意識」であり、そのために、後者の「闇」の力に動かされていると言えよう。(思うに、深層心理学において、精神分析は、前者の「無意識」、つまり、同一性の「無意識」を探究したが、ユング心理学は後者の「無意識」を探究し、さらには、後者からMPへと接近したと言えるだろう。この問題はいつか詳論したい。)
 さて、両者の関係であるが、それは、意外に微妙・霊妙である。何故なら、前者と後者とは非対称的関係であり、前者は、いわば、単純であり、後者は複雑であるからである。(換言すると、前者は父権的であり、後者は母権的である。簡単に言うと、前者が男性心理的であり、後者が女性心理的である。これは、一般的であて、個々人においては、異なる。性別とジェンダーは異なるのである。)
 さて、思うに、後者において、確かに、否定的様態がある。この否定は、実は、Media Pointの否定であり、抑圧である。言い換えると、イデア=差異共鳴性の否定・抑圧・排除である。そして、この否定は前者=同一性自己+1によってもたらされているのである。
 だから、後者、「闇」=同一性他者-1とは、数式的には、-1=-[(+i)*(-i)]なのである。即ち、MPを内包した否定相なのである。
 そして、「光」=同一性自己+1の帯びる否定性は、「闇」=同一性他者に反映していると見ることができよう。つまり、「光」=同一性自己+1が形成する他者否定は、端的に、「闇」=同一性他者-1に反映されるということである。そして、この「闇」=同一性他者-1をもって、「光」=同一性自己+1は、外的他者を観察するということになるだろう。
 先に投影と言ったが、正に、「闇」=同一性他者-1を外的他者へ投影すると言えよう。
 これで、影=敵の問題が解決されたとして、次に、理想像について考えよう。先に、理想像と影=敵は同じであり、愛憎一体(両価感情:アンビバレンスambivalence)をもたらすと述べたがどうだろう。
 一体、理想像とは何だろうか。これは、鏡像であると言えるだろう。冒頭において、理想像は、-1ではなくて、-iであろうと述べた。そうすると、端的に、理想像と影=敵は異なるのである。
 しかしながら、MPにおける同一性変換(以下、MP同一性変換又は、MPI変換)において、理想像は、影=敵の位置に変換されると言えよう。
 そう、初期の理想像は、現象において、影=敵となると考えられるのである。マザコンやファザコンは、これで説明ができるのではないだろうか。理想像の「父」が-iから-1へと変換されて、敵の位置を占めるようになると考えられるのである。
 尊敬する対象-iから憎悪・嫌悪する対象-1へと変換するのである。思うに、この同一性「愛憎一体」力学であるが、それは、宗教や恋愛とパラレルと言えよう。
 「神」や「恋人」は-iであるが、それが、MP同一性変換によって、憎悪の対象-1となるのである。だから、無神論(唯物論)やストーカー等はMP同一性変換愛憎一体力学に拠ると言えるのではないだろうか。
 最後に、ルネ・ジラールの模倣欲望=暴力論について分析してみよう。
 これは、以上のMP同一性変換で説明できているのではないだろうか。ライバルは、本来、尊敬の対象-iであるが、それが、MP同一性変換で、ライバル=敵となるのである。そう、ドストエフスキーの『永遠の夫』の夫である主人公は、妻を奪うライバルたちに愛憎感情をもつのであるが、そう、「愛」の方は、理想像-iから発していて、憎悪は、同一性他者-1=影・敵から発していると言えよう。
 ここで、漱石の名作『こころ』を考えるのが適切である。「先生」の親友Kは、「奥さん」のライバルである。しかし、「先生」は、-1の無意識において、 Kを理想像にしているのである。しかしながら、「先生」の同一性自己意識+1は、同一性他者-1を憎悪し、「暴力」的言動を行うのである。それは、明確な同一性主義暴力であり、ジラールの模倣欲望である。そう、端的に、近代的自我の悲劇である。(追記:「先生」のKへの仕打ちは、カインのアベル殺しと同質であろう。本来、「先生」とKは、「双子」つまり、差異共鳴関係にあると考えられる。)
 「先生」の告白と自殺であるが、それは、乃木大将の殉死と関係するが、正に、乃木大将が「先生」の理想像であったと言えよう。
 そう、『こころ』で漱石は、明治時代の、近代的自我形成を志向した日本人の精神風景を洞察描写したと言えよう。それは、Media Pointの両義性の表現とも言えよう。
 一方では、「宗教」的な理想意識(父権的になってはいる)があるが、他方では、MP同一性自己意識(自我意識)が生起しているのである。
 最後に、『こころ』における父権的理想意識と父権的支配意志について検討を行いたい。
 「先生」の乃木大将への尊崇は、明治日本人のもつ宗教性を意味していよう。それは、イデア的なものであるが、父権的志向である。これをどう考えるのか、である。
 それは、きわめて、一神教的な発想に近いのではないだろうか。「父」に当たるのが乃木大将であるからである。そして、「奥さん」は「母」であり、母権的なもの=「女神」的なものである。
 だから、これは、正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1が当てはまると考えられる。イデアが同一性+1を志向するからであり、ここでは、母権性=女神性への再帰志向の+1⇒(+i)*(-i)が発生していないからである。
 このとき、-iは、「父」であり、乃木大将になるのである。さらに言えば、明治天皇である。そして、同一性志向性によって、イデア=女神「奥さん」を否定するのである。つまり、これは、実は、母権的神道の否定であり、国家神道の肯定と言えるのではないだろうか。言い換えると、Kの否定は、同時に、「奥さん」(日本母権文化)の否定を意味すると考えられるのである。
 また、さらに言えば、-1である影・敵の力学は、アジアや欧米へと向けられることになったと言えるだろう。アジアの差別、欧米への敵対へと向かったと言えるのではないだろうか。
 そうすると、漱石の傑作『こころ』は明治時代の日本人の父権的な近代的自我・近代合理主義形成を恐ろしく剔抉した文学作品と言えよう。
 今日、トランス・モダンの曙光の時代にあって、これを反転する時代なのである。K や「奥さん」の肯定の時代なのである。端的に、差異共鳴主義の新時代なのである。それは、新母権主義=新東洋文明の時代なのである。

追記1:「妄断衝動」についての検討が抜けているが、これは、もはや、ほとんど自明であろう。
 既述の通りに、自己回帰・再帰エネルギーとしての虚軸界のエネルギー(超越エネルギー=差異共鳴エネルギー)が主導化しているが、それが、まったくコントロールできないために、自動的に、非理性的に、同一性自己意識=同一性主義暴力が暴発する形になっているのである。
 言い換えると、超越エネルギーが賦活されているが、それを正当に受容できないので、それが、盲目な衝動となって暴発し、その結果、没真理・没理性の同一性主義の二項対立の形式的枠組み(フレーム)のみの優劣的暴力が発現するのである。これが、「妄断衝動」である。

追記2:父権的支配意志についても抜けたが、これはより自明である。これは、同一性志向性による同一性自己主義と言えよう。
 これは、暴力であるが、しかしながら、利点があることに注目しないといけない。つまり、能動性である。(もっとも、パターナリズムとしての能動性ではあるが。)
 この能動性とは、潜在している理想像としての他者を含んでいると思う。つまり、-iが潜在していると思われる。
 問題は、この能動性の暴力性を抜くことである。つまり、差異共鳴エネルギーと伴った能動性にすることである。そうすると、自己回帰・再帰エネルギーとは、以前述べたように、同一性を包摂した差異共鳴エネルギーということである。父権性を包摂した新母権性であるということである。宗教的には、ヤハウェを包摂した女神ガイア、イシス、アマテラスであることである。

追記3:以上の分析から、欲望的愛と共鳴的愛との違いがよく理解されるだろう。『こころ』の「先生」は欲望的愛に囚われていたのであり、世俗的なほとんどの「愛」も欲望的愛と言えよう。
 共鳴的愛とは、差異共鳴愛であり、知的距離と共感とのバランスを保持するものである。それは、言い換えると、プラトンのエロースである。欲望的愛とは同一性主義であり、共鳴的愛とは差異共振主義である。
 宗教も本来、後者を説くものであるが、それが、前者と混淆されて、世俗権力的なものに堕落するのである。イエスの愛の福音も、欲望的愛に転化されて、教会権力が生じたのではないだろうか。(因み、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』はこの問題を扱っていると言えよう。欲望愛と共鳴愛の根本的相違である。それは、父権主義と新母権主義の違いでもある。)
 日本では、仏教界が正にこれである。悟りが欲望愛となり、生臭坊主が大量発生したのである。とまれ、2つの「愛」があるのである。
 そうすると、プラトンのエロースとイエスの愛は等価となろうし、仏教の空とも等価である。本質は、差異共鳴精神なのである。

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理想像と影と敵:愛憎感情・両価感情(アンビヴァレンス)について

テーマ:検討問題

以下の理想像と影・敵の問題を後で検討したい。

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追記3:結局、同一性自己+1にとって、影-1が鏡像になると言えるのではないだろうか。それは、同化する理想像であり、かつ、反発する敵である。つまり、理想と敵は一致するのである。愛憎一体(両価感情)というものも、これで説明できるのではないだろうか。
 そう、ルネ・ジラールが説いた模倣欲望であるが、それも、以上から説明できるだろう。模倣欲望とは、同化欲望(自己否定)であろう。そして、それは、反転して、他者を否定する攻撃的感情となるのである。統合失調症的である。
 ジラールが例示していたドストエフスキーの『永遠の夫』の主人公は正に、この同化と敵対の両面感情を帯びていると言えよう。

追記4:追記3で述べたことに関連して言うと、フロイトの有名なエディプス・コンプレックス(マザコン)であるが、それも、-1の理想=影=敵で解明されるだろう。問題は、両親ではなくて、自己における-1の鏡像であると考えられる。
 (訂正する形になるが、)例えば、「父」であるが、それは、他者であるから、本来、-iである。しかるに、同一性は-1と見るのである。このとき、理想像は影=敵となるのである。
 この点は、精緻に分析する必要がある。結局、未分化・連続的な Media Point力学を考えるべきではないか。つまり、二重化様態の発現である。だから、「父」は子にとり、-iと-1との未分化・連続的対象である。この混淆が、理想像且つ影=敵を発生させるのではないのか。(この問題はかなり複雑なので後でさらに検討したい。)
 先に、Media Pointの壁と言ったが、これは、未分化・連続性と言い換えられるのかもしれない。例えば、未分化・連続性に囚われていると、同一性主義になり、そのため、差異が同一性へ引き寄せられて、差異自体の価値が同一性に覆われることになるのではないのか。この覆いが壁ではないのか。まだ、途中であるが、今はここで留めて、あらためて検討したい。
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1036.html


妄断の原因について:独善・独断・妄想の原因について

テーマ:検討問題

後で検討したい。
 自分が判断することは正しいと思い込むその心因は何だろうか。盲信・妄信・狂信の原因は何か。
 当然、そこには、差異・他者の排除があるが、その心的メカニズムは何か。動機は何か。
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