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2009年02月14日 (12:34)

時間ないしは時間エネルギーとは何か:同一性時間(反復生産)と差異共振時間(創造生産)

テーマ:トランス・モダン経済:差異共振資本経済

以下、スロー人氏が、「無から有を産み出せないとしたら、どこからお金を引っ張ってきたのか。そのうちの多くは未来からであろう、と思うからだ。信用創造とは、未来に属しているお金を現代にもってきたようなものだ。」と述べられているが、これは意味深長である。
 信用創造とは、私見では、同一性価値の鏡像的増幅であり、端的に、同一性主義である。
 とまれ、私が興味をもったのは、時間についてである。未来から信用創造したスロー人氏は述べられているが、この未来は同一性時間としての未来だと考えられる。これは、実にアインシュタインや量子論以前の、古典物理学的時間と言えよう。
 つまり、現代「経済学」は科学としては、完全に時代遅れ、「アンシャン・レジーム」なのである。
 とまれ、哲学的にどこに問題があったのかと言えば、やはり、ハイデガーの時間論であろう。
 19世紀後期から20世紀前期にかけて、時間が問題化されたと言えよう。これは、哲学、物理学だけでなく、芸術の分野でも問題になったのである。
 哲学では、ベルクソンの時間論が典型的である。今は問題提起として、簡単に予見を述べておきたい。
 プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)の視点から言えば、時間とは、直感で言えば、エネルギーである。そして、エネルギーとは、Media Pointにおいて、差異共鳴エネルギー(超越エネルギー、イデア・エネルギー)と同一性エネルギーの2つの対立するエネルギーが即非様相にあると考えられる。これは、量子論的エネルギー様相であるが、後者のエネルギーが反復的に同一性物質を生むものであり、前者が、異質なものを共鳴させて、第3の新しいものを創造するエネルギーと考えられる。
 比喩的に言えば、後者は1+1=2の世界であり、前者は1+1⇒3の世界である。そう、より明快に言えば、前者は、Media共鳴によって、第三のものを創造するのである。
 そして、今日の資本主義において、技術革新や情報革命によって、差異共鳴エネルギーが進展したのであり、そのため、供給が増加したのである。それに対して、利益は同一性価値をもつ貨幣によって表示されているのである。
 利益とは、根本的には、進展した差異共鳴エネルギー(協働も含まれる)に基づくものであり、それは、過剰な供給をもたらすものであり、当然、それに対応する需要が必要である。
 問題は同一性価値である貨幣資本に還元する発想にあるのである。(それが、同一性主義金融資本主義である。)本来、差異共鳴エネルギー(差異共鳴時間)によって創造・生産されたものが、同一性エネルギー(同一性時間)の尺度で計られるというのが、矛盾なのである。言い換えれば、量子を古典物理学で理解するようなものである。PS理論で言えば、トランス・モダンをモダンから理解するという誤謬を犯しているのである。つまり、資本主義とは、トランス・モダンとモダンとの矛盾経済体なのであるが、それを今日の経済学は、一般に、モダンの視点から理解しているに過ぎないのである。その結果が、リーマン崩壊であり、新「世界大恐慌」である。
 だから、必要なことは、トランス・モダンの視点から、資本主義を批判評価することなのである。
 とまれ、まとめれば、差異共鳴エネルギー的創造である資本主義的生産供給に見合う差異共鳴的需要が必要であるということになるだろう。
 端的に、利益とは、差異共鳴的利益なのであり、それは、資本家、株主、経営者だけのものではありえないのである。それは、本来、労働者にも帰属するものである。さらに言えば、社会や自然にも帰属するのである。(だから、差異共鳴共同体の構築が必要になると思われるのである。それは、国家ではない。この問題は検討問題である。)
 とまれ、資本とは、本来、差異共鳴価値資本であると言えよう。これが同一性価値資本としてだけ計算されることが間違いなのである。
 だから、これまで何十回も述べたように、(差異共鳴)利益を差異共鳴価値へとフィードバック・還元する必要があるのである。いわば、自己回帰(再帰)資本システムが必要なのである。螺旋的回帰である。
 そうすると、所有の問題が出てくるのである。思うに、差異共鳴価値法を創るべきである。この差異共鳴価値法は、利益の配分を差異共鳴価値によって規定するものである。
 今はここで留める。後で、哲学的時間論を続けたい。

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今回の世界的な金融危機の発端となった「アメリカ投資銀行株式会社」の錬金術は、レバレッジを効かして、どこからお金を引き出してきたのか?


 無から有を産み出せないのだから、無から有を産み出すような今回の手口は、80年代の日本のバブルに似たような信用創造を行ったわけだ。ただアメリカ人のほうが金融工学を駆使している分、日本の手口よりも巧妙であり、それがレバレッジを一層大きなものにした。


 だから、その損失も日本が被った損失どころではない。日本は「失われた10年」(実質はそれ以上の長期だが)を経験したが、同じことを世界が今後経験するかもしれない。


 だから、日本という悪しき経験を生かして、世界の各国はそれに対応しようと決意している。


 仮に彼らの目論見どおり、2年あまりで金融の不安が解消することができても、問題はその後にまで尾を引くことだろう。


 無から有を産み出せないとしたら、どこからお金を引っ張ってきたのか。そのうちの多くは未来からであろう、と思うからだ。信用創造とは、未来に属しているお金を現代にもってきたようなものだ。

http://ameblo.jp/adco/entry-10208142744.html
スロー人ロハスだもす
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参照:
アンリ・ベルクソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
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ノーベル賞 受賞者 ノーベル賞
受賞年: 1927年
受賞部門: ノーベル文学賞
受賞理由:

アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859年 10月18日 - 1941年 1月4日 )は、パリ 生まれのフランス の哲学者 。


『時間と自由』

合格後、リセ 教師となった彼は、教師として教えるかたわら、学位論文の執筆に力を注ぐ。そして1888年 、ソルボンヌに学位論文『意識に直接与えられたものについての試論』(英訳の題名『時間と自由意志』)を提出し、翌年、文学博士号を授与される。この著作の中で彼は、これまで「時間 」と言われてきたものは、分割できないはずのものを空間的な認識を用いて分節化することによって生じたものであるとして批判し、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続 」("durée")と呼び、ベルクソンはこの考えに基づいて、人間の自由意志 の問題について論じた。この「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。

[編集 ] 『物質と記憶』

その後1896年 には、哲学上の大問題である心身問題 を扱った第2の主著、『物質と記憶』を発表。ここでベルクソンは失語症 についての研究を手がかりに、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心身関係という哲学上の大問題と格闘している。

すなわち、ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を持続の緊張と弛緩の両極に位置するものとして捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。

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時間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
曖昧さ回避 この項目では「時間(time)」全般について記述しています。「秒 」や「分 」と同系統の時間の単位「時間(hour)」については時間 (単位) を、授業のコマ割りのための概念の"時間"については単位時間 をご覧ください。
人類の歴史を通して太陽と月の動きは時間を象徴してきた
砂時計 では砂の流れを利用して経過時間を計ることができる。また砂時計は、現在というものが過去と未来の間にあることを象徴している

時間(じかん、time)とは物事の変化 を認識 するための概念 である。芸術 、哲学 、自然科学 、心理学 などの重要なテーマとなっている。それぞれの分野で異なった理解のしかたがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%96%93

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2) フッサールの時間論

フッサール(Edmund Husserl,1859-1938)は現象学の祖として有名であるが,その要点は現在意識が向けられているものを重視する点にある.そして,自己が外部世界を意識するのは知覚を通してであるが,知覚は現在という時間においてなされる.それゆえ,その時間論も「現在」が出発点となる(そしてこの分析は時間そのものというよりも時間意識の分析といったほうが正確である).

しかし,現在は現在という一瞬だけから成り立っているのではない.たとえば,われわれはあるメロディのなかのひとつの音を聴くとき,その音をその音だけで理解するのではなく,その前に流れた音の記憶とそのあとに流れるであろう音の予期を基にして理解する.つまり,意識における現在は現在と過去と未来によって構成されている.

これをフッサールはそれぞれ「現印象」「過去把持 Retention」「未来予持 Protention」と呼ぶ.現印象は次の瞬間に過去になるが,しかしそれは消え去るのではなく過去把持として現在を構成している.そして現在はわれわれが予測している未来によっても構成されているのである.

ところで未来予持はいったいどのようにして可能になるのであろうか.フッサールによると,それは記憶によってである.先ほど例に挙げたメロディーの予測もやはり過去にさまざまなメロディーを聴いた経験からなされているのである.それゆえ未来より過去のほうがより根源的であることになるのだ.

さて,現在を構成している過去の記憶,つまり過去把持は「一次記憶 primäre Erinnerung」といわれるが,しかしやがて現在を構成している要素から抜け落ちる.このように現在から離れていった過去の記憶を「第二次記憶 sekundäre Erinnerung」という.

そして,現在を構成する一次記憶が現在から離れて二次記憶となるのは時間というものの性質によるとフッサールはいう.

ところで,意識は必ず何ものかについての意識である.この何かへと意識が向けられるその働きが「志向性 Intention」と呼ばれる.

結局,時間意識とは,現印象の過去への流れを志向性によって「未来予持→現印象→過去把持」という系列でとらえられたものである.つまり,自我の根底にはある流れがあるのだが,それを志向性によって(未来予持,過去把持というやり方で)とりまとめている.これをフッサールは「流れつつの立ちどまり性」と呼ぶのである.

(3)ベルクソンの時間論

ベルクソン(Henri Bergson,1859-1941)にとって実在的な時間は,知覚され,体験された時間であり,それは「私自身の流れ」あるいは「内的持続」とも呼ばれる.

そして彼はこの内的持続を視覚ではなく聴覚をモデルに考える.なぜなら視覚は空間が見えるという点ですでに時間に対して不純な要素を持ち込むからだ.

目を閉じて,ただそれだけを考えながらわれわれが聴くメロディーは,われわれの内的生の流動性そのものであるところのその時間にきわめて近い.…われわれが意識的生の最初の瞬間から最後の瞬間まで眺められる,われわれの内的持続は,このメロディーのようなものあるものである.…もし私が一枚の紙の上で,紙を見ることなしに,指をあちこち動かすならば,私の行う,内側から知覚された運動は意識の連続であり,私自身のあるもの,結局持続のあるものである.いま目を開けば,私はその紙の上に自分の指がひとつの線を描いているのを見る.その線は保存され,そこではすべてが並在であって,継起ではない.(『持続と同時性』,1922)

このように,ベルグソンは時間の空間化を徹底的に排除することによって「真の」時間を探求しようとした.

(実在的な時間である)まったく純粋な持続とは自我が生きることに身を任せ,現在の状態とそれに先行する諸状態とのあいだに境界を設けることをさしひかえる場合に,意識の諸状態がとる形態である.

そしてそのような純粋持続は,

質的変化の継起以外のものではありえないはずであり,それらの変化は,はっきりした輪郭ももたず,お互いに対して外在化する傾向ももたず,数とのあいだにいかなる血のつながりももたずに,融合し合い,浸透し合っている.それは純粋の異質性であろう.

しかし空間の観念に取り付かれているわれわれは,

純粋の継起を思い浮かべる際に空間を導入してしまう.…(そのように空間を導入してしまうことによって)継起とはわれわれにとって,各部分が相互に浸透することなしに隣接しているような,持続した線とか鎖の形をもつものとなる.…継起のうちに順序が定められるのは,継起が同時性となり,空間内に投影されるからである.(以上,『時間と自由―意識に直接与えられているものについての試論』,1889)

とベルグソンは言う.つまり,物理学的時間だけでなく,普段われわれが時計から読み取っているような時間も「真の」時間ではないということになる.

さてでは,このようなわれわれ個人に固有の「内的持続」と万人に共通な時計で測られるような「量的な(空間的な)時間」とはどのようにして結び付けられるのであろうか.ここでベルグソンは「同時性」という概念を導入する.

「同時性」には「流れの同時性」「流れにおける瞬間の同時性」「外的運動同士の瞬間の同時性」の3つがあり,この順で「内的持続」から遠くなっていく,つまり,本来的形態から派生的形態になる.

はじめの「流れの同時性」とは「私自身の流れ」それ自体のうちにある多様な流れのあいだの同時性である.たとえば,川の岸に座っているときに,水の流れが聞こえたり,鳥のはばたく音が聞こえたり,また,われわれ自身の心臓や呼吸の音なども聞こえる.そういったもの,どれも明確な輪郭と区切りをもたず,前後が相互に浸透し合う流れであるようなもの同士が「同時である」と把握することが「流れの同時性」である.

そして,この「流れ」を空間的な線分と対応させることによって,線分が点によって区切られるのと類比的に,「持続の端」を区切る瞬間があるとみなされ,それによって複数の「持続の端」同士の「同時性」がいわれるようなる.これが「流れにおける瞬間の同時性」である.ここにおいて,「流れ」や「動き」といった「持続」を「線」や「長さ」のような静止的なものに変えることによって空間的な「量」をわれわれは導入するのである.

そして,最後の「外的運動同士の瞬間の同時性」とはたとえば,走者のゴールと時計の針の位置のふたつを同一視野に収めるようなことをいう.

ベルグソンによると,われわれはこのような3つの「同時性」を介して,本来は個人的で各人に固有の「私自身の流れ」を見失い,万人に共通で一律な「時計の時間」「唯一の時間」のもとにあるという幻想へと追いやられるという.

ここで,木村敏の『時間と自己』における「こと」と「もの」の区別も参考のために見ておこう.木村敏は,時間とは「こと」的であると言う.それを「もの」的なものととらえると時間は時計で計測できるようなものになってしまう(たとえばアリストテレスや物理学的な時間は典型的な「もの」的時間だといえよう).

ところで,「こと」というのは私自身のうちにおいて「同時に」あることが可能である.「音楽を聴いているということ」「時間についての解説文を書いているということ」「空腹であるということ」などは互いに排除し合うことなく私のうちにある「こと」である.

それに対して,「もの」はそうではない.私が時間についての解説文を書いているパソコンと音楽を聴いているCDプレイヤーは同じ場所を占めることはできない.それと同様に,「音楽を聴くということ」を意識の中心にもってくると,それは「もの」化し(「表象」となり),その意識の中心部に「時間についての解説文を書くということ」をもってくることはできない.

つまり,いま見た「ことの同時性」とは「流れの同時性」であり,それを意識化,つまりそこに「志向性」を持ち込むことでそれは空間化し,「流れにおける瞬間の同時性」となるのである.

http://www.geocities.jp/enten_eller1120/thema/time.html

第2章 時間論

勝手に哲学史入門
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