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2009年02月26日 (21:20)

『同一性自己のライバルへの優越感の発生についての理論的考察:同一性自己志向性の内的他者への優越感が外的他者への優越感に転化する』

『同一性自己のライバルへの優越感の発生についての理論的考察:同一性自己志向性の内的他者への優越感が外的他者への優越感に転化する:同一性自己に因る差異共振性の否定と同一性民主主義批判:トランス民主主義と差異共振的民主主義?』


直近において、鏡面の位置の外的他者がライバルであると言ったが、さらにその力学的意味を考えたい。
 結局、鏡面の位置にない外的他者はライバルにはならないことになる。鏡面の位置とは、同一性自己が差異共振鏡面に投影される位置である。しかし、鏡面の位置とは、端的に、外的世界である。だから、すべて、外的他者はライバルになりうると考えられる。
 平明に言えば、眼前にあるものが外的他者であり、ライバルということになるだろう。だから、きわめて、感覚的なのである。
 結局、鏡像自己には外的他者はすべて合致しないのだから、外的他者はすべてライバル、即ち、敵になるだろう(万人の万人に対する戦争)。言い換えると、鏡像自己は独裁・暴君的である。
 しかし、鏡像自己が外的他者をそのように等価するとは思えない。そこには、「差異」がある。鏡像自己の優位性を貶める外的他者こそ、ライバルであり、敵となると言えよう。そう、ここに優越感/劣等感コンプレックスの問題が生じるのである。
 鏡像自己(同一性自己=自我)は自身が優れたものであると思い込んでいる。この力学は何か。ここが、もっともエッセンシャルなポイントの一つである。
 ここで、迂回的に、発話について考えたい。初期差異共振状態において、例えば、「わたし」と「蝶」とが差異共振状態にあるとすれば、「わたし」は「蝶」であり、且つ、「わたし」は「蝶」ではないという意識になる。神話的意識ないしは詩的意識である。
 次に、同一性志向性が発生すると、初期差異共振状態における内的他者(同一性志向性の外化によって、外的他者となると考えられる)である「蝶」を否定することになると考えられる。即ち、「わたし」は「蝶」ではなく、「わたし」は「わたし」である、ということになるだろう。この「わたし」は何に優越するのだろうか。それは、端的に、「蝶」に対して、優越するのである。これは、単純明快である。結局、同一性志向性とは、内的他者への優越性(優越感)をもつと考えられる。
 ということで、原同一性自己+iとは、その同一性志向性において、内的他者への優越感をもち、それが、鏡面への同一性像の投影による鏡像自己の形成によって、外的他者への優越感へと進展すると考えられる。つまり、同一性自己志向性の内的他者への優越感が外的他者への優越感へと転化すると考えられる。
 ということで、自然発生的に(これは、男子の場合が典型であり、女子の場合は異なると考えられる。女子の場合については、後で検討したい。もっとも、女子の場合は、内的他者への否定はないと考えられる。初期差異共鳴性が、そのまま、実軸化においても展開すると考えられる。つまり、差異共振性をもつ同一性化が女子の場合には生起すると考えられる。)、同一性自己志向性は内的他者への優越感を外的他者への優越感に転換させると考えられる。
 だから、鏡面の位置にある外的他者は、やはり、すべてライバルになりうるが、とりわけ、他者性をもつ対象、つまり、鏡像自己の同一性からとりわけ外れる対象が、いちばんのライバルとなりうるのである。言い換えると、優れたものである外的他者が、ライバルとなり、それに対して、優越感をもとうするのである。つまり、優れた他者に対して、先験的な、言い換えると、実質のない、虚栄的な自己優越性を発現させるために、外的他者に暴力的な言動を行なうと考えられる。これは、いわば、本能的、衝動的でありうるのである。そう、動物的と言ってもいいだろう。人間のもつ獣性である。あるいは、父権主義である。これが、今日の人類文明を支配しているのである。
 端的に言えば、同一性自己志向性にともなう内的他者への優越感が、外的他者への優越暴力を生んでいるのである。

追記:一つ大事なことを述べるのを忘れていた。もっとも、以前指摘したことではあるが。即ち、同一性自己志向性に因る内的他者への優越感とは、同時に、差異共振性(初期差異共鳴性)への否定であるということである。だから、ライバルとは、単に優れた外的他者だけではなく、差異共振性をもっている外的他者もなるということであり、優越感とは、差異共振性をもつ外的他者に対しても発生するということになる。
 だから、まとめると、同一性自己志向性とは、内的他者の否定とそれに対する優越感をもつが、それは、同時に、差異共振性の否定とそれに対する優越感をもつということである。しかしながら、両者の否定と優越感とは同一のものであると言うべきである。つまり、否定と優越感の対象となる外的他者とは、精神的に優越した他者であると言えよう。だから、それは、正に、イアーゴにとってのオセロである。また、『リア王』で言えば、エドマンドにとってのエドガーである。また、『ハムレット』で言えば、兄殺したクローディアスにとっての兄ハムレット(王子ハムレットの父)である。言い換えると、近代文化とは、同一性自己=唯物論的自己の差異共振的自己=精神的自己への嫉妬と破壊なのである。それは、フランス革命に典型的に現われているだろう。だから、民主主義とは、危険なのである。それは、同一性主義的平等主義だからである。差異を否定する政治理念なのである。だから、差異共振主義が正しいのである。トランス民主主義としての差異共振主義である。
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